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釜山(プサン)・蓮堤(ヨンジェ)警察は、些細な夫婦喧嘩から家に火を 付けた疑いで、キム某容疑者(49歳)を捕らえて書類送検した。 キム容疑者は7日の午後12時30分頃、自宅の玄関でテーブルと下駄箱 などの家財道具に火を付けて家の一部を焼失させ、この過程で自分も 煙火で窒息して病院に運ばれた。 警察では外部からの侵入痕が無い上に、鍵が内側から掛かった状態で 玄関入口から火災が起きた点を疑ってキム容疑者を問い詰めた結果、 キム容疑者自らが火を付けて自殺を試みた事を確認した。 キム容疑者は事件前日の6日、キム容疑者の妻が妻の実家から テーブルを持って来ると、「家が狭いのに家具を持ち込んだ」と夫婦喧嘩 をして、酒の勢いで今回の事件を起こした事が分かった。 ソース:NAVER/CBSノーカットニュース(韓国語) http //news.naver.com/news/read.php?mode=LSD office_id=079 article_id=0000165211 国際社会からの韓国政府のイメージは、国民や企業のイメージよりも低いという 調査結果が出た。 KOTRAが産業政策研究院に依頼して、昨年の11月から今年の1月まで21ヶ国、 2,809を対象に『韓国の国家イメージ(国家ブランドマップの一環)』を調査した結果、 韓国政府に対する選好度は5点を基準に平均3.31点で、国民(3.62点)や企業 (3.55点)よりも低かった。 韓国に対する全般の好感度は3.67点で、国民・政府・企業に分けた時よりは高く 表れた。 政府イメージの相対的な低評価に対し、KOTRAのイ・チョンヒョン国家ブランド 管理官は、「北朝鮮の核、分断国家、デモとストライキなどが外国メディアでよく 報道されていて、韓国政府のイメージが低く表れたと思われる」と分析した。 これはKOTRAが2005年の9月発表した、『国家イメージの現況及び指摘(70ヶ国・ 5,287人対象)』の分類で、政治的安定部門が49点(100点基準)、外国・外国人に 対する開放性が49.1点と低く出た事に重なる。 外国人の目からは、韓国の政治状況が不安定で韓国政府が閉鎖的に映っている。 注目すべき点は、台湾、マレーシア、ベトナム、香港、オーストラリア、インドネシア、 フィリピンなど、最近韓国旅行客が急増している国からの韓国の選好度が低く、 急速に成長しているBRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)国家からは、韓国の 選好度が高かった。 台湾の場合、韓国政府の選好度は2.98点、韓国国民の選好度は2.84点と一番 低い事が調査されて、韓国の対台湾断交措置や親中国外交に対する背信感が まだ深く位置していることが確認された。ただ韓国・台湾間の経済交流や貿易 からの企業選好度(3.25点)は相対的に高く表れた。 マレーシア、ベトナム、香港、フィリピンなどで韓国の選好度が低く出たのは、 現地ゴルフ場でのキャディー暴行事件、セックス観光、傲慢な行動など、海外 メディアに報道されている『アグリーコリアン』と無関係では無いと思われる。 (画像) http //photo.hankooki.com/newsphoto/2007/06/08/llljs78200706081753540.jpg
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竹村(1994)が提案した、“状況に依存して注意の焦点化が変化すると考える数理モデル”である。 フレーミング効果が意思決定者の注意に依存することを仮定している。 このモデルでは、注目を受けた属性のウェイトが高まることを仮定しており、 意思決定者が注目する属性が言語表現によって変わると仮定する。 ■状況依存的焦点モデルの基本仮定 このモデルでは、フレーミング効果が現れるのは必ずしも参照点が変化するためではなく、 結果の価値と不確実性への当て方が状況によって変わるために生じると考える。 そして、ポジティブ・フレーム条件では「可能な結果の価値」よりも、 「確実性」に相対的な重みをかけるためにリスク回避になり、 ネガティブ・フレーム条件では「不確実性の減少」よりも、 「可能な結果の価値」に相対的な重みをかけるためにリスク志向になると考える。 ■状況依存的焦点モデルの数理的表現(編集中) 状況依存的焦点モデルの前提 状態集合Θ={θ1,θ2,θ3,・・・,θi,・・・} 結果集合X={x1,x2,x3,・・・,xj,・・・} 確率の集合P={p1,p2,p3,・・・,pj・・・} 選択肢集合A={a1,a2,a3,・・・,aj,・・・} A⊂X×P 状況依存的焦点モデルでは, ポジティブ・フレーム条件での価値を ネガティブ・フレーム条件での価値を で表現する。(竹村1994) つぎに、弱順序性を満たす選好関係とを、それぞれ、 ポジティブ・フレーム条件における選好関係、ネガティブ・フレーム条件における選好関係とする。 ここで、各フレーム条件において、すべての属性の値について、 一方の属性の値が他の属性の固定された値と独立であることを仮定する。 すなわち、任意のに関して、 ただし、である。 以上の仮定と選好関係の弱順序性、X×Pの同値類が順序稠密な加算部分集合を持つという仮定により、X、およびRe×Re上で定義される以下のような関係を示す関数が存在することが導かれ、さらに、これらの仮定は以下の関数の存在の必要十分条件であることがわかる(Krantz et al.1971)。 すなわち、任意のに関して、 、 ただし、は、その各引数の単調増加関数である。 上式は、フレーミング効果を説明する状況依存的焦点モデルの一般形である。
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選好の順序のみを保存するような効用のこと。単調増大変換を施しても本質的な意味を失わない。順序尺度に相当する。 銘柄a≳銘柄b⇔u(銘柄a)≥u(銘柄b) 形式的に表現すると、集合A上の選好構造が弱順序であるならば、かつその時に限り、A上の実数値関数u A→Reが存在して、 ∀x,y∈A,x≳y⇔u(x)≥u(y) となる。
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政治的党派性とマクロ経済政策Ⅱ ヒッブスの党派性理論 政党政治のイデオロギー側面を重視し、資本主義イデオロギーにおけるマクロ経済政策の戦後パターンと、左派政権/右派政権の実績を検討した。ヒッブスによれば政党は自らの中核的支持者に好まれるような政策を選択するため、 経済政策が政権交代と関連した政治的要素を持つ。 ①政府は、金融・財政政策的な操作によって、インフレ率と失業率に影響を与える。 ②インフレ率と失業率の違いが国民所得の分配に階級と関連した重要な影響を与える。 ↓ 政府が自らの中核的支持階級の客観的経済利益と主観的選好に、おおむね対応したマクロ経済政策を追求すると検証 ◇経済目標に関する諸政党の選好を 伝統的左派・右派スペクトラム(範囲)に沿って序列化 ↓ 西欧と北米各国のインフレと失業の集積データを政権との関連に於いて分析 ■その結果 左派政権--------高インフレであって「低失業」を重視 中道・右派政権---高失業率であっても「低インフレ」を重視 ex. アメリカとイギリスの時系列分析 共和党と民主党、保守党と労働党 ◎ヒッブスの分析結果 ---低中所得層の主観的選好→「低失業・高インフレ政策」で充足 ↓ 左派政権の国家で多く観察できる。 ---高所得層の利益・選好→→「高失業・低インフレ政策」で充足 ↓ 中道および右派政権の国家で多く観察できる。 しかしインフレと失業率の多国間分析においては、長期的政策形成における左派の歴史的役割の検討と制度的調整の検討の双方が重要。 ヒッブスの古典的党派性理論:政権党の違いからマクロ経済政策の違いを予測 ●左派政権 ケインズ主義的マクロ経済戦略、低失業率、所得平準化 指向 ○右派政権 インフレ対策と均衡予算による民間企業への安定的な経済枠組み提供 ↓ 党派性理論の政治的分配的な基礎枠組みは、1970年代半ばの合理的期待論の出現によって修正を迫られる。 ↓ 政府の経済政策の有効性を問う議論も出現した。新しい枠組みとして合理的期待論が登場。選挙によって予期しなかった政権が誕生し、新政権が人々の期待とは逆の政策を実施することによって、予期せぬ出来事が重なる。 ↓ インフレ・サプライズ:予測されざる政策こそが生産や雇用といった実質経済を動かす。
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倫理学の問題 道徳的な価値 筆者の見解 (『倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦―』を参考にまとめた。) 倫理学の問題 そもそも「倫理学の問題」を考えるとき、基礎的なこと把握することは大切である。しかし、これの把握が意外にむずかしい。たとえば「何故人を殺してはいけないのか」は倫理学における一般的な問題であり、これにはさまざまな意見対立が考えられる。しかし、これが倫理学的に解かれる場面ばかりではないことがほとんどで、大体は感情的な問題だったり、あるいは問いそのものに答えない遠まわしなものだったりする。ネットの掲示板などで見られる議論は、この類のことに陥っていることが多い。 道徳的な価値 しかし、数多くの倫理学説においても、当然の条件とされている事柄がある。まず、道徳的に悪いことは、自分にとっては善いことでも、他の多くの人にとっては悪いことである。同時に、道徳的に善いことは、自分にとっては悪いことで、他の多くの人にとっては善いことである。この関係を押える上でのポイントは、善悪は価値評価だからその価値を享受する主体と切り離せない、ということだ。それゆえ、ある行為によって、「誰が利益を受け、誰が害悪を受けるのか」の『誰にとって』を曖昧にしてはいけない。 他の価値判断と違って、道徳的な価値判断は、自分にとっての善し悪しと、他の多くの人にとっての善し悪しをはっきりと区別している。傍から見ると時間の無駄であったり、お金の無駄であったりと、自分にとって損なことであり、しかし周りの人間にとっては大いに助かる、そんな行為が、道徳的に善いとされる。そしてその原則はいつも変わらない。逆に言えば、何かをするときに、それが道徳的に善いか悪いかしか考えなくなってしまえば、道徳的行為をされたとしても、前提からしてそれが自分にとって「ためになる」「利益がある」ことが分からなくなる。すべての人が道徳的に善いか悪いかしか考えない世界においては、本来の価値判断のあり方からかけ離れたものとなるため、そもそも道徳的に善いとされることがどんなことなのか分からなくなる恐れがあるため、理想的とはいいがたい。このように、道徳的な価値判断に固執することは、自己破壊的なことなのだ。 筆者の見解 道徳的な善悪判断は、単に「これが好き、これが嫌い」という選好の問題ではない。選好が問題にされる場面があるとすれば、それは選好それ自体は感情的なものだが、その選好の程度に従って価値の序列が定まっているときに限るだろう。基本的に、好き嫌いといった感情的な問題は、善悪の判断とは切り離されて別に考えられるべきだ。だが逆に、強い感情が道徳の原則になることはもちろんある。 好きな行為、嫌いな行為が、道徳的に見て善いかどうかを判断するとき、まず、その好き嫌いに従って行為することによって、「自分にとってよい」という点が満たされているかどうかについて、十分考慮される必要がある。次に、その行為によって、周囲の人間や他の多くの人にどんな影響を与えるかを考え、それに従って道徳的に判断する。どちらにせよ、道徳的な価値評価は、自分にとっての善し悪しと他人にとっての善し悪しが必ず逆転しているのを押さえなければならない。
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選択肢を採択したことによる結果が既知の確率で生じる状況での意思決定。 選択肢集合Aの要素のうち、どれを選択するかというリスク化の意思決定問題は、X上の確率分布p1=[p11,p12,…,pl],p2=[p21,p22,…,p2m],…,pl=[pl1,pl2,…plm]のどれを選ぶかという問題に置き換えることができる。このことは、X上の確率の集合P={p1,p2,…,pl}の上に選好関係Rを入れた選好構造(P,R)でリスク化の意思決定を表現できることを意味している。 具体例: 雨が降るかどうかが確率で表現され、その確率を知った上で、傘を持っていくか行かないかどうかの意思決定。
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JAVA tax 01 Mirrlees(1971)の追試 02 最適線形 03 初期点の作成 04 最適非線形 05 夫婦の選好 06 夫婦の選好 07 夫婦の最適線形 08 効用関数 09 予算関数 10厚生 11 初期点の配分 12 失敗 13 最適線形 14 順番 15 練習 17 最適線形 21 練習 22 途中 23 途中 24 失敗 25 要修正 26 まずまず 27 暫定 28 練習 29 練習 31 どうにかなるでしょう 32 成功 41 失敗 42 夫婦の線形 43 初期点の作成 44 グループ 52 途中 53 54 55 もう少し 56 ほぼ成功 61 たての準備 62 誘因 65 ほぼ成功 66 成功 67 印刷あり 68 fail 79 dounika 80 yuii 81 ほぼ完成 101 103 1次元 110 夫婦の最適線形 111 練習 112 113 原因不明 115 201 最適線形 202 準備 203 準備(2) 204 準備 205 準備 206 失敗 211 成功です
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発行団体と縁故関係のある特定の者が引受ける都道府県、市町村などが発行する地方債のことをいいます。 銀行や保険会社等を対象とした銀行等縁故債、および地方共済組合等を対象とした共済等縁故債などがあります。 また証券による形式と証書借り入れによる形式、二つの発行方式がありますが、最近では、金融機関側が、期末の時価評価を不要とするため、証書形式を選好しているので、証券による形式で発行される割合は、低下傾向にあります。 これは、時価会計制度の導入により、保有する金融機関側が、期末の時価評価を不要とするために、証書形式を選好しているためと考えられています。 【参照】 http //kabuyougo.blog15.fc2.com/blog-entry-690.html http //www.nomura.co.jp/terms/japan/e/enko_tiho.html 【担当】 高井
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編集(管理者のみ) ベンサム 功利主義… 第一段階…自然は人類を快と苦という二つの主権者の支配のもとに置いた。われわれが何をしなければならないかを指示し、われわれが何をするであろうかを決定するのは、快と苦だけである。 第二段階…功利性原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、……すべての行為を是認したり否認したりする原理を意味する。 ミル 第二段階…行為は幸福の促進に役立つのに比例して正しく、幸福に反することを生み出すのに比例して悪である。 功利性原理の証明 第一段階…幸福はそれ自体として望ましいものであり、それ自体として望ましい唯一のものである。(つまり、幸福以外のものがそれ自体として望ましいことはない) 第二段階…幸福がそれ自体として望ましい唯一のものであるならば、全体の幸福は行為の道徳的に正しい目的である。 第一段階前半…ある対象が見えるということは唯一の証拠は人々が実際にそれを見るということである。ある音が聞こえることの唯一の証拠は人々がそれを聞くということである。われわれの経験の他の源泉についても同様である。同様に、何かが望ましいということを示す証拠は、人々がそれを望んでいるということしかない、と私は思う。……なぜ全体の幸福が望ましいかについては、達成できると信じるかぎり、事実、だれもが自分自身の幸福を望んでいるということ以外にいかなる理由もあげることはできない。ところが、それは事実なのだから、幸福が善であること、つまり、各人の幸福はその人にとって善であり、従って全体の幸福はすべての人の総体にとって善であることについて、われわれは事情が許す限りですべての証拠をもつばかりか、要求しうるすべての証拠をも手にしたのである。 第一段階後半…人々は実際に幸福だけをそれ自体として望んでいる。 第二段階…各人の幸福はその人にとって善であり、したがって全体の幸福はすべての総体にとって善であること。一人の人間の幸福は他人の人の幸福と正確に等しく数えられるのでなければならない。それを感じるのが同じ人であるか別の人であるかにかかわりなく、等しい量の幸福は等しく望ましい。 選好充足…とりあえず今の満足。 自然主義… ムーア 直観主義…何が望ましいかは直感によって知るしかない。 問題点1…功利主義には配分原理がない。平等、自由、真理。 問題点2…別の状況に置かれた別の人間について、どちらがどれだけ幸福かを測定できない。測定方法。 問題点3…ある人の不幸や苦を別の人の幸福や快で埋め合わせられるか。社会の総量に意味があるか。 修正案1…消極的功利主義。幸福を増やすことより、不幸を減らすことが優先される。 修正案2…規則功利主義。功利性原理を行為でなく、規則に適用する。 修正案3…権利論。個人的選好と外的選好を区別する。 個人的選好…自分の欲求。 外的選好…他者が不利益を蒙ることへの自分の欲求。 帰結主義… 第一…結果的に正しい行為。 第二…客観的に正しい行為。 第三…主観的に正しい行為。帰結-主観的に正しい行為。意図-主観的に正しい行為。 アインジヒトたちの考察 私の考察 ① ② 行為に価値があるのか、それでもたらされた結果に価値があるのか。どうもこういう議論は空論を語っているだけにしか思えない。私はこう考える。基本的には結果に価値がある。しかし、行為をせずに結果があるなんてことがあるか? 結果に価値があるなら、行為にも価値がある。善なる行為をやってみたけど、結果は得られなかった。そのときは、やろうとした意気込みには、結果が得られたときの五分の一ぐらいの価値はあるんじゃないか。じゃあ、五回挑戦すれば結果が得られたと同じなのか? そんなわけはない。本当に五分の一か? そんなものはケースバイケースとしか云いようがない。悪行ならどうか。悪行は、天災など誰かの行為がなくても悪い結果だけが起きることはある。しかし、殺人者が人を一人殺すことと、天災で人が一人死ぬことを比べることがナンセンスとしか云いようがない。どっちもどっちだ。どっちもどっちとは、同じぐらいということではない。考えようによって、どちらが多いようにも解釈できるということ。天災を防ぐ手立てを考えることは善行である。 通り魔殺人で人が一人殺された場合と、怨恨で人が一人殺されたとき、通り魔殺人で殺されたときの方が悪の量が多いと私は考える。量刑が多いということ。通り魔殺人の場合には、被害者が私であった可能性が加味されるからだ。 では、通り魔殺人で私が一人殺されてしまうのは、天災で私が一人死ぬのと同じようなものなのか? しかし、天災で私が一人死ぬってどういう状況なんだ? 雷に打たれたとか? ⑤ 哲学の主張を言葉で証明しようと試みるのに意味があるのだろうか。そんなことができるのは数学しかないと思うのだが如何に。主張は主張にすぎない。自分の意見を強弁しようとしているだけだ。 ⑥ 幸福という言葉がの意味が、欲求が満たされるということならばそうなのだろう。既に価値転倒は起こってしまっている世の中なのだし、他人が幸福になることで自分も幸福感を感じる人はいるのだから、ミルも自信を持っても好さそうなものだが。 ⑨ この辺りのことをそんなに厳密に論議しなければならないのか、私は違和感を感じる。少なくとも私は引っ掛からない。私が本物の哲学者でないからなのかもしれないが、実際問題として、私たちは既に社会契約を結んでしまっている訳だし。 現実的な妥当性の問題として納得しては駄目なのだろうか。 つまり、私の意見はこうだ。 ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮ ⑯ 23 私は啓蒙などしない。と思っていたが…。 編集(管理者のみ) 永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫) .
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14 ニューケインジアン (1)モデル (2)アルゴリズム (3)プログラム プログラム131 プログラム134 プログラム136 選好の不確実性 プログラム138 (4)作業記録 4月14日 このページ作成 4月28日 プログラム138の追加 (5)リンク