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統合幕僚学校・高級幹部課程講義案 「『昭和の戦争』について」 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長) 第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない 第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない第一節 「抗日民族統一戦線結成の提唱」=一九三五=昭和十年 第二節 華北分離工作への支那の抵抗――民族統一戦線結成工作の進展とその背景 第三節 西安事件――東アジア情勢の重大な曲がり角 第四節 盧溝橋事件の突発――日支激突の挑発者は誰か? 第五節 盧溝橋事件の総括――支那民族の特性が見事に現れているこの十年間及び三週間 第一節 「抗日民族統一戦線結成の提唱」=一九三五=昭和十年 満州事変の終結からニ年経った一九三五=昭和十年七月、モスクワで開催のコミンテルン第七回大会は、「反ファシズム統一戦線・人民戦線路線」を採択した(公安庁『国際共産主義の沿革と現状』、カワカミ五九―六〇頁)。それは、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本帝国、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツ帝国を撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ(ドイツとの不可侵条約《一九三九年》並びに日本との中立条約《一九四一年》)、日本を支那と米英、ドイツを英仏と戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略を建てたのである。日米は支那大陸でその権益を巡り、長い間冷戦(静かな戦争)を展開していたから、ズバリの戦略と言えよう(コミンテルン資料)。 コミンテルン決議を受けて支那共産党中央は、同三五年八月一日に「抗日民族統一戦線結成」=八・一宣言を支那全土に発した。東京でゾルゲと尾崎秀実が、日支を激突させ、最終的には支那を支援する米英と日本を激突させる謀略工作を開始したのは、前年昭和九年の初夏であった。この年十月七日、広田弘毅外相(岡田内閣=同内閣は翌年二月の事件に遭遇)は、蒋作賓駐日支那大使と会談、日華提携の前提条件(1)排日運動の停止、(2)満州国の黙認、(3)共同防共=赤化防止政府を提示(広田三原則)したところ、支那大使は概ね同意した。しかるに蒋介石は戦後の回顧録『秘録』(十一巻、七〇―七二頁)で、広田三原則に同意した覚えは無い、広田が勝手に「支那も賛同した」と公表したのだ、我々は否定していた、と述べた。だが、「東京裁判」で日本を悪者に仕立てるために辻褄を合わせる虚偽の証言である。支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく、南京大虐殺三十万人なぞは平気の平左の嘘八百である。 第二節 華北分離工作への支那の抵抗――民族統一戦線結成工作の進展とその背景 三五=昭和十年十月下旬、毛沢東の紅軍主力は、陝西省北部に到着した。(支那共産党史は、「英雄的大長征」と言っているが要するに逃避行であり、その間に凄惨なる内ゲバが続いて毛沢東がヘゲモニーを掌握)。この敗残集団である共産党を一挙殲滅せんと蒋介石は、西北剿共総司令部を西安に設置、自らが総司令、副指令に張学良を任命した。だが、張学良は乗り気でなく、寧ろ親の敵、満州掠奪の敵と恨みを重ねていて、「抗日救国」を提唱する共産党との連携を密かに進めていた。いや、寧ろ共産党側が張学良を丸め込んだのである。張学良にはコミンテルンから指令が出ていて軍資金と兵器の供与を受けていた。 さて、満洲建国以後、支那の反発は益々強まり、日支間に小競り合いが絶えない。そこで、我邦は支那本部と満洲の間(華北)に緩衝地帯を形成しようと本腰を入れた(注・冀察政務委員会成立=委員長宋哲元。宋は華北省主席を兼ねた。また三六=昭和十一年四月一七日には華北治安維持に支那駐屯軍《通称、天津軍》を現在の千七百から五千七百に増強している)。これは「華北分離工作」と言われた(注・「華北処理要綱」という華北五省の自治強化政策案を政府が作成したのは一九三六=昭和十一年一月十三日)。満洲に支那の内戦が直接波及するのを防止するのが、我邦の意図であった。 しかるに、国民党や支那共産党筋は、日本帝国主義は満洲掠奪だけでは飽き足らず、華北侵略・支那本部侵略を目指している証拠だと騒ぎ立て、それを受けて十二月九日(十二・九運動)、北平の学生らが「抗日救国」「華北分離工作反対」の大々的な示威運動を実行、運動は全国各都市に波及した。十二月十九日、支那共産党中央は「抗日民族統一戦線結成策」を決定した。年が明けて三六=昭和十一年正月、蒋介石は、「未だ外交的手段による失権回復は絶望的ではないが、時が来たれば抗日に立ち上がる事も有り得る」と演説した。 このように情勢が目まぐるしく変転する中、二月から三月にかけて山西省方面の軍閥と戦闘中で劣勢だった毛沢東は、五月五日、周囲の状況を読んで突如今まで掲げていた「反蒋」のスローガンを「連蒋」に切り替えた(五・五通電)。八月二十五日、支那共産党中央は、公式に「反蒋・反国民党」の看板を下ろして、「共同抗日・建設民主共和国・回復国共合作」を表明したのである(八月書簡)。蒋介石の共産党掃滅作戦を思い止まらせようとの戦術転換だった。支那の激しい反日運動を米国の民主党系メディアも熱心に支援した。 第三節 西安事件――東アジア情勢の重大な曲がり角 歴史というものは実に複雑怪奇なものである。大陸政策のギクシャクに激しい危機感を持った日本内地の陸軍青年将校の政府転覆のクーデタ未遂事件=(一九三六=昭和十一年)二・二六事件が起こった。これが支那の強硬な対日姿勢を一層促す作用を果たしたのは当然である。日本に敵対する諸勢力は、日本の政治状況の極度な不安定、内部分裂の兆候であると読んだのであろうし、それが「抗日運動」を超えて「抗日戦争」へとその意欲を高めた筈である。ソ連・コミンテルンそして支那共産党は間違いなく「抗日戦争」の確信犯であった。これに対し、蒋介石は未だに「抗日戦争」には半信半疑ながらも、共産党殲滅作戦をまず完遂しようとの決意は動いていなかった。 共産党側が盛んに国共合作復活のサインを出し続けたのに対し、蒋介石は、この年の晩秋、北西剿共軍副指令張学良に全面攻撃を指令、十二月四日、督戦のため西安に乗り込み、副指令張学良および揚虎城らに共産軍攻撃を強化して三ヶ月以内に共産党を殲滅せよと厳命した。張学良が剿共作戦に不熱心だったからである。これが、再度のしかも共産党主導の国共合作への流れを促したのである。既に指摘したように張学良は、ソ連・コミンテルンや支那共産党と通謀していた。剿共作戦を中止して国共合作を回復し、「抗日戦争」に立ち上がろうと決意していた。ここに張学良の一世一代の大芝居が突発する。西安事件である。この事件は東アジア情勢の大転換点だ。事態の推移を時系列で確認しよう。 (1)一九三六(昭和十一)年十二月四日、総司令蒋介石、督戦に飛行機で西安に到着。この日から、張学良は剿共作戦を停止して国共合作を復活し「共同抗日」に立ち上がろうと蒋を説得し続けた。だが、蒋は頑なにそれを拒否して剿共作戦の即時強力実行を命令する。十二日、張学良は叛乱に踏み切る。陝西綏西司令揚虎城と共謀し、蒋を軟禁した。 (2)その日、示し合わせたように延安から周恩来が西安に飛来。蒋との折衝にかかる。毛沢東指導の延安共産党本部は、「蒋介石誅殺」を決議した。 (3)時を移さず、モスクワからスターリンの支那共産党宛電報が達した。「蒋介石を即時釈放せよ、さもなくんば貴党とは関係を断絶する」と言う厳命だった。蒋介石を人民裁判にかけて死刑に処し、西北抗日防衛政府を樹立する積りでいた毛沢東は、当時の力関係と従来の支配=服従関係からスターリンの命令に屈服せざるを得なかった。この時、延安は勿論西安でも「蒋介石処刑論」が圧倒的だったと言う。毛沢東はスターリンの厳命に接して地団太を踏んで悔しがったと言う。 (4)監禁された蒋介石と周恩来=中共からおよそ六項目の条件を呑まされた(田中正明『朝日・中国の嘘』一一一頁)。監禁二週間目の二十五日、蒋は釈放され、無事南京に帰還した。年が明けて一九三七=昭和十二年正月六日、蒋介石は剿共作戦を中止して西北剿共司令部を廃止した。二七年四月の蒋介石の反共クーデタ以来約十年の国共内戦は停止された。これでスターリンの東アジア戦略=日本帝国主義と蒋介石を激突させる戦略は軌道に乗ったと共に、支那共産党は殲滅の危機から脱出したのである。そして、西安事件の次に遣って来たのが盧溝橋事件である。 第四節 盧溝橋事件の突発――日支激突の挑発者は誰か? 一九三七(昭和十二)年正月二一日、帝国議会の施政方針演説で広田弘毅首相は、「所謂コミンテルンの危険性は近来益々増大の兆候あり」と述べた。だが、政変となり、二月二日 林銑十郎内閣が成立。二月十日、支那共産党は、国共合作・共産革命の武装蜂起停止・土地革命停止、そして紅軍の国民革命軍への合流を国民党に提案したのである。 六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。 七月七日、北京郊外の盧溝橋で日支両軍衝突事件が突発した。二十二時四十分、支那側から発砲。この事件そのものは今までも多発していた日支両軍の小競り合いだったので、日本政府は、現地解決そして不拡大方針で臨んだ(今井武夫『支那事変の回想』一頁。臼井『日中戦争』三十三―三十六頁)。 だが、日本の姿勢とは逆に、八日、中共中央委員会「徹底抗日」通電した。 九日、蒋介石政府は、大掛かりな動員令を発令した(カワカミ『シナ大陸の真相』一四三、一四八頁)。 十日、埼玉大和田海軍受信所、北京米国海軍武官からワシントン海軍作戦司令部宛暗号電報を傍受した。それは「第二九軍宗哲元麾下の一部不穏分子は現地協定にあきたらず今夜七時を期し日本軍に対し攻撃を開始することあるべし」とあった(初代海軍軍令部直属攻撃受信所所長和智恒蔵少佐(後、大佐)の東京裁判での宣誓口供書)。 十一日「午後八時、特務機関長松井太九郎大佐と張自忠との間に二九軍代表の遺憾の意表明、支那軍の盧溝橋からの撤退、抗日団体の取締徹底を期待した現地協定(松井―秦徳純)」が成立した。東京ではこの日午前の五相会議において、支那軍の謝罪、将来の保障を求めるための威力顕示のための派兵も已むなしと陸軍三個師団の動員を内定した。しかし、支那駐屯軍から現地停戦協定が成立した旨の報告が入ったので、軍部は一応盧溝橋事件の解決と認め、内地師団に対する動員下令計画を見合わせた。丁度この頃、支那共産党宛コミンテルン指令の骨子「日支全面戦争に導け」。 支那共産党が、国共合作宣言を公表したのは七月十五日、蘆溝橋事件の一週間後のことだ。 十七日、蒋介石と周恩来の廬山談話(四原則の声明)があり、蒋介石「対日抗戦準備」「最後の関頭に立向かう」応戦声明を発表した。 十九日までに、蒋介石軍は三十個師団(約二十万)も北支に集結、内約八万を北京周辺に配備。この日、南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めない、東京は南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通報してきた。つまり、現地協定拒否の表明である。 二十日、支那第三十七師の部隊は、盧溝橋付近で日本軍に対する攻撃を再開。 二十一日、蒋介石総統は南京で戦争会議開催、日本に対して戦争の手段に訴えると公式採択したのである。 第五節 盧溝橋事件の総括――支那民族の特性が見事に現れているこの十年間及び三週間 (1)日本は戦争を望んでいなかった。 (2)東京裁判で中華民国側は、華北に日本軍が侵略したのが原因だと言い張ったが、北平に駐屯していた通称天津軍は一九〇一=明治三四年七月、列国一一ヵ国が支那政府と締結した「北京議定書」に基づき、支那の首都の治安維持のための条約に基づく駐屯だった。 (3)様々な史料で明らかなように、日支両軍衝突を挑発したのは支那側で有り、それは支那共産党の謀略部隊による挑発であった。 (4)盧溝橋事件以後の三週間、日本側は、四度停戦協定を結んだが、支那軍は悉くこの停戦協定を破った。 (5)この三週間、日本側は動員令を出すのを控えたが、蒋介石(南京)政府は即座に動員令を発した。 (6)この三週間に支那軍は二十五万の兵員を北支に結集したが、日本は事件の平和的交渉を通じて解決しようと必死に努力した。 我邦は明らかに和平を強く希望していた。しかし、支那の応答は、七月二五日の廊坊(天津―北平間に所在)事件、七月二六日の広安門事件、そして七月二十九日の通州事件であった。特に通州では冀東政府保安隊が日本人民間人およそ二百人を大虐殺する惨酷な事件だ。次いで一万人の日本民間人が居住している天津日本租界が襲撃された。打ち続く残虐な事件の後を追って、八月九日、上海国際租界で日本海軍士官大山中尉・水兵殺害事件突発。ついで起こったのが、八月十三日の第二次上海事変である。 上海事変に関して指摘すべきは、蒋介石軍は第一次上海事変の後に国際間で取り結ばれた協定=上海停戦協定を踏み躙る軍事行動だった。しかも、英・米・仏は国際法を踏み躙る蒋介石に好意的だった。九月二日、日本政府は、『北支事変』を『支那事変』と改称し日支軍事衝突のこれ以上の拡大を防ごうとした。だが、九月二十二日、南京政府と支那共産党は同時に『国共合作』・『民族統一戦線結成』を宣言して、徹底抗戦の構えを見せたのである。上海の支那軍の妄動を制圧すべく、中支那軍は南京を制圧したのである。参謀本部と現地軍との間に作戦を巡る見解の相違が生じたこと、中支方面軍司令官松井石根が有る意味で最大の貧乏くじを引かされたことをもっと明らかにする必要がある。 日本軍国主義が昭和初年に立てた大陸侵略、世界征服の「共同謀議」から必然的に発展した侵略戦争が支那事変だったと『東京裁判』は断案した。しかし、この判決が、如何に歴史の事実を無視した、歪曲された「昭和の戦争」論であるかを大凡示すことが出来たと考える。カール・カワカミは言う「日本人の忍耐力は実に驚嘆に値する」と(一五四頁)。 統合幕僚学校・高級幹部課程講義案
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編集/ 簡易編集 No. 名称ランク 区分 戦場時間 敵軍総大将 報酬金 勝利条件敗北条件特殊目標 勝利報酬特殊報酬 入手素材 箱 雑兵・兵器 武将 1 街の開放 依頼 河内30分 董卓軍牛輔 300G 牛輔の撃破プレイヤー死亡3回山賊の全滅 木綿布月光石 ★ 備考 2 黄巾の残党 依頼 華北30分 黄巾賊- 300G 敵拠点の全制圧プレイヤー死亡3回妖蝶の撃破 竹材琥珀 ★ 備考 3 紫の津波 依頼 華北30分 董卓軍胡軫 400G 董卓軍の全滅プレイヤー死亡3回無傷で10人撃破 猛獣の魂白炭 ★☆ 備考 4 隠れた侵入者 依頼 長安30分 董卓軍徐栄 400G 徐栄の撃破プレイヤー死亡3回伏兵を一度で看破する 小霊石霊水 ★☆ 備考 5 汜水関の戦い 合戦 汜水関30分 董卓軍華雄 300G 汜水関の突破プレイヤー死亡3回7分以内に華雄を撃破李儒の計略の阻止 孔雀石牛のなめし革活力の札 ★ 備考 6 虎牢関の戦い 合戦 虎牢関30分 董卓軍呂布 500G 虎牢関の突破プレイヤー死亡3回呂布の撃破 純白の札生命石 ★☆ 備考 7 洛陽の戦い 合戦 虎牢関30分 董卓軍董卓 500G 董卓の撃破プレイヤー死亡3回5分以内にクリア計略兵の全滅 熱砂の紅玉孔雀の羽黒真珠 ★☆ 備考 8 郿城の戦い 合戦 長安30分 董卓軍董卓 600G 董卓の撃破プレイヤー死亡3回天禄の撃破 匠の書翡翠 ★★ 備考 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
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興亜院(こうあいん)は、昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関の一つ。中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えた為、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた。長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された。現地に連絡機関として華北・蒙彊・華中・厦門に「連絡部」が設けられた。華北連絡部には出張所が置かれ、後に大東亜省に改編されたときには青島総領事館となった。占領地では軍政を行う為興亜院の幹部も主に陸海軍の将校で占められた。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。 後に内閣総理大臣となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務していたことがある。大平内閣の閣僚でもあった大来佐武郎、伊東正義もまた官僚時代、興亜院勤務で大陸に渡っていた。 興亜院の人事 ※「(心)」は心得を表す。 総務長官 柳川平助 陸軍中将:昭和13年12月16日 - 昭和15年12月21日 (心)鈴木貞一 陸軍中将:昭和15年12月23日 - 昭和16年4月4日 (心)及川源七 陸軍中将:昭和16年4月7日 - 昭和17年11月1日(政務部長を兼ねる) 政務部長 鈴木貞一 陸軍少将:昭和13年12月16日 - 昭和16年4月4日 及川源七 陸軍中将:昭和16年4月7日 - 昭和17年11月1日 政務部第1課長 白石万隆 海軍大佐:昭和13年12月16日 - 昭和14年11月15日 石川信吾 海軍大佐:昭和14年11月15日 - 昭和15年11月1日 大西敬一 海軍大佐:昭和15年11月1日 - 昭和16年10月15日 田中穣 海軍大佐:昭和16年10月15日 - 昭和17年11月1日 政務部第2課長 塩沢清宣 陸軍大佐:昭和13年12月16日 - 昭和15年3月9日 吉野弘之 陸軍大佐:昭和15年3月9日 - 昭和15年12月23日 真方勲 陸軍中佐:昭和15年12月23日 - 昭和17年11月1日 華北連絡部長官 喜多誠一 陸軍中将:昭和14年3月10日 - 昭和15年3月1日 森岡皐 陸軍少将:昭和15年3月9日 - 昭和16年3月1日 (心)塩沢清宣 陸軍少将:昭和16年3月1日 - 昭和17年11月1日 華北連絡部次長 根本博 陸軍少将:昭和14年3月10日 - 昭和14年8月1日 森岡皐 陸軍少将:昭和14年8月1日 - 昭和15年3月9日 塩沢清宣 陸軍少将:昭和15年4月11日 - 昭和17年11月1日 青島出張所長 柴田弥一郎 海軍大佐:昭和14年3月10日 - 昭和15年8月8日 多田武雄 海軍大佐:昭和15年8月8日 - 昭和16年8月20日 緒方真記 海軍大佐:昭和16年8月20日 - 昭和17年11月1日 蒙彊連絡部長官 酒井隆 陸軍少将:昭和14年3月10日 - 昭和15年3月9日 竹下義晴 陸軍少将:昭和15年3月9日 - 昭和16年12月8日 岩崎民男 陸軍少将:昭和16年12月8日 - 昭和17年11月1日 華中連絡部長官 津田静枝 海軍予備中将:昭和14年3月10日 - 昭和16年5月7日 太田泰治 海軍中将:昭和16年5月7日 - 昭和17年11月1日 華中連絡部次長 楠本実隆 陸軍少将:昭和14年3月10日 - 昭和15年4月10日 (心)及川源七 陸軍少将:昭和15年4月10日 - 昭和16年4月7日 井上靖 陸軍少将:昭和16年4月7日 - 昭和16年6月7日 落合甚九郎 陸軍少将:昭和16年6月7日 - 昭和17年11月1日 厦門連絡部長官 水戸泰造 海軍少将:昭和14年3月10日 - 昭和15年7月1日 太田泰治 海軍少将:昭和15年7月1日 - 昭和16年5月7日 福田良三 海軍少将:昭和16年5月7日 - 昭和17年8月1日 原田清一 海軍少将:昭和17年8月1日 - 昭和17年11月1日 厦門連絡部政務部長 原 忠一 海軍大佐:昭和14年3月10日 - 昭和14年11月15日 中堂観恵 海軍大佐:昭和14年11月15日 - 昭和15年8月27日 庄司芳吉 陸軍大佐:昭和15年9月27日 - 昭和16年9月20日 外部リンク 中野文庫:興亜院官制(昭和13年勅令第758号) 中野文庫:興亜院連絡部官制(昭和13年勅令第759号) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月8日 (日) 15 04。
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セコニックホールディングス 本店:東京都練馬区大泉学園町七丁目24番14号 【商号履歴】 株式会社セコニックホールディングス(2012年4月2日~) 株式会社セコニック(1960年8月~2012年4月2日) 成光電機工業株式会社(1951年6月16日~1960年8月) 【株式上場履歴】 <東証2部>1963年5月17日~ 【合併履歴】 1960年6月 日 華北電機工業株式会社 1960年6月 日 セコニック部品株式会社 【沿革】 昭和26年6月 元取締役社長三谷隆一が東京都豊島区に成光電機工業株式会社を設立し、露出計の製造販売を開始 昭和33年4月 本店を東京都千代田区神田旭町14に移転 昭和35年6月 華北電機工業㈱、セコニック部品㈱を吸収合併し、東京工場として発足 昭和35年8月 商号を㈱セコニックに変更 昭和37年2月 本店を現在地の東京都練馬区大泉学園町7-24-14に移転 昭和37年11月 池田工場(現 安曇野事業所)を開設(長野県北安曇郡池田町) 昭和38年5月 東京証券取引所の市場第二部に株式を上場 昭和45年3月 子会社の㈱福島セコニックを設立(現連結子会社) 昭和46年5月 コニカ㈱の乾式電子写真複写機の製造を受託 昭和47年9月 子会社の㈱江川製作所(㈱会津セコニックに商号変更)を設立 昭和49年10月 工業計測記録計の製造販売を開始 昭和59年6月 光学式マーク読取装置の製造販売を開始 昭和60年6月 子会社の㈱エリックス(現㈱函館セコニック)を設立(現連結子会社) 平成4年10月 電子式温湿度記録計の製造販売を開始 平成5年4月 光学式文字読取装置の製造販売を開始 平成12年4月 コニカ㈱の複写機本体国内生産分の製造を全面的に受託 平成12年10月 子会社の㈱福島セコニックと㈱会津セコニックが合併(存続会社㈱福島セコニック) 平成14年10月 子会社の㈱福島セコニックでCCD監視カメラの製造販売を開始 平成16年11月 子会社のセコニック電子(常熟)有限公司(中国江蘇省常熟市)を設立(現連結子会社) 平成16年12月 子会社のセコニック(香港)有限公司を設立(現連結子会社)
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ソース: 千田夏光「 高校生徹底質問!! 従軍慰安婦とは何か 」汐文社1992年5月 2-05 慰安婦の逃亡はなかったのか… 2-05 慰安婦の逃亡はなかったのか…コメント欄 いま話した"満州"の孫呉の場合は「子連れの慰安婦がいては軍紀の維持上好ましくない」と慰安所から放逐(ほうちく)つまり追い払われたわけだが、そこには"満州"に同じ朝鮮人の多く住んでいたという事情もあったのだろう。身を寄せる場所があるだろうという判断だ。また故郷にも近いからということもあったのだろう。しかし当時の日本内地の遊廓で働かされていた売春婦も同じだが、売春婦になった、もしくはならされた女性はまず故郷にも生家にも帰れなかった。したがって従軍慰安婦で逃亡した例はまずなかったといわれている。 なにより"満州"のような土地は別にし、まわりはすべて敵という所では、逃げても生命の保証などないし軍の監視が厳しいから不可能に近かった。ただし華北戦線の警備地域、つまりこちらから積極的攻勢にでないことになっている地域では、何ヵ月ものあいだ同じ土地に滞在するものだから従軍慰安婦と恋愛関係になる兵隊が出て手をとりあい逃亡した例が何件かあったようだ、 前にふれたビルマや東南アジア地域、とくに太平洋の島々ではたとえ逃げようと思っても不可能だった。このことは戦場に送られた兵隊たちも同じで、華北地区では戦闘中に八路(パーロ)32)とよばれた中共軍の俘虜(ふりょ)になりそこから逃げ出してきた者すら銃殺とされた事例が少なくなかったりしたから、逃亡はまず考えられなかった。 32) 八路=八路軍(ぱーろぐん) 中国国民革命軍第八路軍の略称。日中戦争における中国共産党軍の主力部隊。 FAQ目次 コメント欄 名前 コメント すべてのコメントを見る
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南北朝 確定者(10名) 劉裕 363年-422年 檀道済 ?-436年 韋叡 陳慶之 484年-539年 拓跋燾(トウ) 408年-452年 明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳で父が崩じて即位。 はじめ宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。 北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。 また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。 劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。 なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。 北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。 東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、五胡十六国時代の終焉させた。 ~3スレ目 208より~ 蘭欽 字は休明。 大通元年(527)、北伐して擬山城 まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。 同年、魏の太守・ 柴集らの連合軍を破る。 彭城城主・楊目がその子楊孝?を派遣、蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。 ついでに?州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。 楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はたやすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。 桂陽、陽山、始興の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、羅渓で厳容を打ち破った。 ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の侵攻を撃退する。 假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・元子礼を破る。 魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、漢中を平定。改めて持節を授かる。 魏の都督・董紹、張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。 凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。 為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。 散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられる。 ~3スレ目 204より~ 斛律光 525年-572年 高洋 529年-559年 侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。 また西魏と争って江陵を奪った。 北伐して契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退し、その宇文泰に戦闘の才を讃えられる。 また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。 酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で『資治通鑑』には、「高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。 ~3スレ目 262より~ 韋叔裕 高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。 淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。 ~3スレ目 214より~ 段韶 候補者(0名)
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北華国 国歌 「華北の覇者」 公用語 中国語(北京語) 首都及び最大の都市 東都(北京) 政治 首相 曹計(自由民権党) 国土 総計 2,033,358.99km2 通貨(法定) 北華円 通貨(国際決済) CD 時間帯 UTC +8 ISO 3166-1 HK ccTLD .hk 国際電話番号 86 概要 北華国とは中国大陸北西部に位置する民主主義国家である。
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赤壁の戦い~前哨戦~(呉) [発生武将] 周瑜 「」 [序章] 華北を制した曹操は次の目標を南方へと定めた。 呉の領土にまで及ぶ曹操の侵略に対し呉の国内では交戦・降伏の両論が交錯する。 そんな中、劉備の軍師となった諸葛亮が呉へと出向き孫権に共闘を持ちかける。 さまざまな思惑が交錯する中、孫権は兄孫策の義兄弟である周瑜の後押しもあり、開戦を決意する。 [終章]