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D DAIGO T THE V Vanguard J JAM Project
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. ピリオド。文末に用いられる。 , コンマ。対等な文同士を等位接続詞でつなぐ時、等位接続詞の前後に1つずつ付加する。また、接続詞などを語頭などに付加するときにも用いる。 アポストロフィ。動詞の接尾辞、名詞の格変化語尾を付加する場合に用いる。 - ハイフン。主語接頭辞を付加するとき、単語マーカーを使う時、数詞を使う時に用いる。
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あ行 🔺 ちんこのこと 頭が綿でできている ぴんくりが言葉に詰まったときに発する言葉 アニメ・ボクらの故郷 リスナーに妄想しているとコメントされた話題。後半シーズンは『ボクらの故郷^』 ∧ かぶるくんやその他ハムちゃんずの男の子のちんこを表す記号 ∩ ベイ助のちんこを表す記号 イェーモー 中国人 うんこ動物園 Steamのゲームをしたり画面共有したりする用途のDiscordグループDM うん告 トイレへ行くことを告知する事 うんこの友 トイレへ持ち込む道具 絵文字のコマンド一覧 かぶるくん枠での絵文字の組み合わせによる用語集 エロ三人組 SHINOBI、HIROMI、TSUYOMIの三人組 大雨の竜 WebサイトDRAGON OF HEAVY RAINを運営しているグラフィックデザイナー 押してください 隙間に挟まったぴんくりが頭を押すように言うときの言葉 おみせ U字型のクッション か行 Gartic Phone オンラインでプレイ可能な伝言ゲーム かくれんぼ 昔から行われている遊び かぶるくん フェルミウム湾や満腹なこうしくんの友達のハムスター、とっとこハム太郎のキャラクター かぶるくんが制作したニコ生ゲームシリーズ かぶるくんが投稿しているニコ生ゲームのシリーズ かぶるくん(ぬいぐるみ) 布でできたかぶるくんのぬいぐるみ かぶるくんのかくれんぼワールドだぞ! かぶるくんのコミュニティ かぶるくんの不憫エピソード かぶるくんにおけるさまざまな不憫・不遇エピソードについて かぶるくんのぼうし かぶるくんがかぶっている緑色のぼうし かぶるくん枠で使える効果音の一覧 かぶるくん枠で使用できる効果音の一覧ページ かわうそ かわうそのぬいぐるみ きつね きつねのぬいぐるみ クー太 キーア族の少年、族長アルウの弟 ぐんまちゃん ぐんまちゃんをツムツム形式にしたぬいぐるみ ゲームボーイアドバンス 任天堂が発売した携帯ゲーム機 さ行 THE BOY 満腹なこうしくんが言っているネタの1つ SHINOBI エロ三人組の一員 好きなALLハムちゃんず かぶるくんのかくれんぼワールドだぞ!などで使用できるコマンドの一つ 好きなハムちゃんず かぶるくんのかくれんぼワールドだぞ!などで使用できるコマンドの一つ すっぽんぽん 一切服を身に着けていない、全裸の姿のこと セーフティ・エリア フェルミウム湾が企画、作成したRPGの名称 総長(キャラクター) 総本部総長のキャラクター 総本部総長 主にSteam関係で活動している人物 た行 第六揮発油庫 かつて運営されていたローカルなwiki 体論 代数学上の一つの分野であり、主に体について研究するもの TAKEDA TANITSUとともに漫才活動を行う人物 だぞ かぶるくんの語尾 TANITSU TAKEDAとともに漫才活動を行う人物 TANITSU資料館 ローカルな内容を持ち合わせて記載するwiki TANITSU動物園 かつて運営されていた画像投稿および百科事典運営サイト 地下ハウス(掲示板) かつてフェルミウム湾が運営していたteacup掲示板 ちんこ 男の子の足の間、下腹部あたりについている∧や∩っぽい形のもの TSUYOMI エロ三人組の一員 展覧会 かぶるくんによるお題でお絵かきの絵をスライドショー形式にまとめた動画 トテモン メタモンのぬいぐるみ な行 ニャッキ ニャッキのぬいぐるみ ニャッ嫌い? ニャッキがいきなり言ってくる言葉 ぬいぐるみ 布で出来たキャラクターなどのこと は行 パーマン アニメ ハイバーハ ベイ助たちが住んでいる惑星の名称 ハイバーハ民 惑星ハイバーハに住んでいる色々な生き物の総称 8月6日 ハム太郎とかぶるくんの誕生日 ハム太郎 とっとこハム太郎の主人公 ハムちゃんず とっとこハム太郎に登場するハムスターのグループ名 HIROMI エロ三人組の一員 ぴんくり 謎のきのこ ぴんくりの大冒険2000 大雨の竜が作成したアクションゲームの名称 ぴんくりは冒険できません。2面で雪に濡れて重くなってしまうからです。 掲示板に度々貼られる投稿 First Challenger フェルミウム湾が作成していたアクションゲーム フェル フェルミウム湾のキャラクターの名称、フェルミウム湾自体の呼び方 フェル通 フェルミウム湾がかつて作成していたゲーム雑誌 フェルミウム 元素記号Fm、アクチノイドの1つで原子番号100 フェルミウム湾 PC版RPGツクールユーザー フンフン!納得納得! ニャッキが納得したときに発するセリフ ベイ助 レイユ族の少年で、父テュラと母ユルアの息子 ベイ助のミニゲームシリーズ フェルミウム湾が2022年からゲームアツマールにて公開しているベイ助が主人公のミニゲームシリーズ ベイちゃんず ベイ助の仲間たちを総称した呼び方 棒読みちゃん ニコ生配信で利用するコメントを読み上げるソフト ボーイ 男の子の事 ま行 マシュマロ クッションのこと 満腹なこうしくん フェルミウム湾や満腹なこうしくんの友達のハムスター、とっとこハム太郎のキャラクター ミニモニ。 ハロー!プロジェクトに所属していた女性歌手グループ ミルクパン かぶるくんがかぶっている赤い鍋 未練糞 大便の出方の一種 迷路 大雨の竜が制作したアクションゲームのシリーズ名、又はゲーム名 迷路3 大雨の竜が制作したアクションゲーム モーニング娘。 ハロー!プロジェクトに所属する女性アイドルグループ もくもく会 各々が各々の作業を黙々とする集まりのこと もくもく会広場 フェルミウム湾が運営しているニコニコミュニティの名称 や行 ら行 レイモンド・レイ・ファルコーネ アメリア合衆国(USA)の軍人 レイユ族 ベイ助を初めとするハイバーハ民 レイユ暦 ハイバーハでレイユ族が使用している暦 レインレール防衛隊 ウルフ討伐部隊から改称する。ボクらの故郷のパーティメンバーとほぼ同義 わ行
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UCC上島珈琲 北関東工場(埼玉県熊谷市)レギュラーコーヒー 富士工場(静岡県富士市)レギュラーコーヒー 名古屋工場(愛知県海部郡)レギュラーコーヒー 大阪工場(大阪府高槻市)インスタントコーヒー 六甲アイランド工場(兵庫県神戸市)レギュラーコーヒー 兵庫工場(兵庫県たつの市)レギュラーコーヒー、インスタントコーヒー 兵庫飲料工場(兵庫県たつの市)缶コーヒー EJ11 山形県の工場 インスタントコーヒー「職人のコーヒー」 N 大阪工場 JF 千葉工場(千葉県長生郡) HS 滋賀工場(滋賀県東近江市) レギュラーコーヒー(粉) RF 六甲アイランド工場(兵庫県神戸市) FF 富士工場(静岡県富士市) 缶コーヒー UCCブラック無糖 UCC8 兵庫県たつの市 UCCブラック無糖 プラチナアロマ UCC6 静岡県 UCC5 静岡県 インスタントコーヒー「ザ・ブレンド114/117 瓶90g」 UCCOF 大阪府の工場 製造所記号は社名の右 (代理登録:2012/12/17) セブンイレブンの挽きたてコーヒー FUG 群馬県 SGF UCC滋賀工場 (529-1331 滋賀県愛知郡愛荘町愛知川1343 ) (セブンイレブン 挽きたてコーヒー(900ml、アイスコーヒー) 代理登録依頼掲示板ログ4より(2014/10/22))
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(効果一覧…/ あ / か / さ / た / な / は / ま / やらわ / 英数字・記号 /) cgi本体のキーワード一覧がホコリをかぶってるので、新たにこちらを作ってみました。 筆者の使ったことない効果もあるんで、変なとこあったら指摘お願いします( ちなみに、一部デュエル・マスターズwikiの用語集から引用しました。 目次 英数字 Evoチャージャー G・L・ゲート G・ゼロ G・ブレイカー G・リンク L・ゲート Mデッキ進化 O・ドライブ Q・ブレイカー S・トリガー S・トリガーX S・バック T・ブレイカー V覚醒リンク W・シールド・プラス W・ブレイカー その他記号 ∞ソウルシフト ∞パワーアタッカー ∞ ブレイカー 英数字 Evoチャージャー 『この呪文を唱えた後、墓地に置くかわりに自分のマナゾーンに置く。その後、クリーチャーを1体、自分のマナゾーンからバトルゾーンにある自分の進化クリーチャー1体の下に重ねて置いてもよい』 「チャージャー」の上位能力。 G・L・ゲート 『このクリーチャーが破壊される時、墓地に置くかわりに、好きな数の(指定種族)を、自分の墓地から手札に戻してもよい。そうした場合、このクリーチャーを山札の一番下に置く』 手札に戻す行為をせずにこのクリーチャーを山札の下に送ることもできる。 現在《超神星ブラックホール・サナトス》のみが持つ能力。 G・ゼロ 『(何らかの条件を満たした時、)このクリーチャーをコストを支払わずに召喚してもよい』 G・ゼロが使えるタイミングは普通にクリーチャーを召喚したり呪文を唱えたり等々をするときだけ。相手ターン中やバトル中に出すことは条件を満たしていたとしてもできない。 G・ブレイカー 『このクリーチャーは、相手のシールドをすべてブレイクし、その攻撃の後、自分のシールドをすべてブレイクする』 G・ブレイカーがブロックされた場合、自分のシールドはブレイクされない。 シールドブレイクにおいて「シールド・セイバー」などでブレイクできなかったシールドを、再び選択してブレイクすることはできず、他のシールドをブレイクする処理を行う。 G・リンク 『バトルゾーンに自分の指定ゴッドがあれば、このカードをリンクしてもよい。リンクしたゴッドは、各ゴッドの特性(パワーや能力)を持つ1体のクリーチャーとなる。バトルゾーンを離れる時はどちらか1枚を選ぶ』 ルールがいろいろと面倒(主に書くのが)なので詳しくはこっちを参照。 L・ゲート 『このクリーチャーが破壊される時、墓地に置くかわりに、(指定種族)を1体、自分の墓地から手札に戻してもよい。そうした場合、このクリーチャーを山札の一番下に置く』 「L・ゲート:(種族A)と(種族B)」と書かれていた場合は、どちらか一方を1体、もしくは両方1体ずつを手札に戻すことができる。が、「L・ゲート:(種族A)、(種族B)」と書かれていた場合はどちらか一方を1体しか戻せない。 この能力で選べる選択肢は「(種族)を回収して山札の一番下に置く」か「置換せずに破壊する」のどちらかである。回収して墓地に置くことはできない。 Mデッキ進化 『自分の山札の上から3枚を表向きにする。その中からクリーチャーを1体選び、このクリーチャーをその上に重ねつつバトルゾーンに出す。表向きにした残りのカードを自分の墓地に置く。表向きにしたカードの中にクリーチャーが1枚もない場合、このクリーチャーを手札に戻し、表向きにしたカードをすべて墓地に置く』 現在《邪神M・ロマノフ》のみが持つ能力だが、プレミアム殿堂入りしているので通常のデュエマで見かけることは多分ない。 O・ドライブ 『このクリーチャーを召喚する時、自分のマナゾーンで(文明)のカードをさらに1枚タップしてもよい。そうした場合、このクリーチャーは次の能力を得る』 「光×1と水×1」とあった場合、それで1つの追加コストを指すが、「光×1・火×1」とあった場合はそれぞれ別のコストを意味する。 マナコストは要求しないので、5色レインボーをタップしても効果は発動できる。 Q・ブレイカー 『このクリーチャーはシールドを4枚ブレイクする』 シールドブレイクにおいて、選択したシールドが「シールド・セイバー」によってブレイクできなかったとき、まだブレイクの処理回数が残っているときは再び選択することができる。 S・トリガー 『この(クリーチャーor呪文)をシールドゾーンから手札に加える時、コストを支払わずにすぐ(召喚してもor唱えても)よい』 いろいろルールがあってメンドクサイ(おい)ので各々こっちを確認しておくこと。 S・トリガーX 『このクロスギアをシールドゾーンから手札に加える時、コストを支払わずにすぐジェネレートしてもよい。また、自分のクリーチャーがバトルゾーンにいる場合、コストを支払わずにそのクリーチャーにクロスさせてもよい』 《星龍の記憶》などで何もないクロスギアにS・トリガーを付与することは可能だが、S・トリガーXではないのでジェネレートはできてもノーコストでクロスさせることはできない。 S・バック 『(指定文明)のカードを自分のシールドゾーンから手札に加える時、そのカードを捨ててもよい。そうした場合、コストを支払わずにこの呪文を唱える』 シールドから手札に加える前に(つまるところシールドで)処理を行うので捨てたカードがマッドネスだったとしても場に出せない。 T・ブレイカー 『このクリーチャーはシールドを3枚ブレイクする』 シールドブレイクにおいて、選択したシールドが「シールド・セイバー」によってブレイクできなかったとき、まだブレイクの処理回数が残っているときは再び選択することができる。 V覚醒リンク 『バトルゾーンに自分の(カード名)がある時、そのクリーチャーとこのクリーチャーを裏返しリンクさせる』 覚醒リンクとは違い、揃ったその場で覚醒する。その他は覚醒リンクと同じ。 W・シールド・プラス 『(何らかの条件を満たした時、)自分の山札の上から2枚まで、裏向きのまま、自分のシールドいずれか1枚の下に加えてもよい』 「シールド・プラス」の上位効果であり、「ウルトラシールド・プラス」の下位能力である。 W・ブレイカー 『このクリーチャーはシールドを2枚ブレイクする』 シールドブレイクにおいて、選択したシールドが「シールド・セイバー」によってブレイクできなかったとき、まだブレイクの処理回数が残っているときは再び選択することができる。 その他記号 ∞ソウルシフト 『このクリーチャーを召喚する時、このクリーチャーの進化元クリーチャーを好きな数選ぶ。このクリーチャーのコストは、その選んだクリーチャーのコストの合計分少なくなる。ただし、このクリーチャーのコストは1より少なくならない』 現在《勝利皇帝Guy-R》のみが持つ能力。 ∞パワーアタッカー 『攻撃中、このクリーチャーのパワーは無限大になる』 「すべてのバトルに勝つ」クリーチャーには負ける。 この能力の適用中にパンプアップやパワー低下を受けた場合でも、パワーは無限大のままになる。 現在《武闘将軍 カツキング》のみが持つ能力。 ∞ ブレイカー 『このクリーチャーは相手のシールドを好きな数ブレイクする』 好きな数なので0枚でも1枚でも100枚でも10000000000000000枚でもいい。ただ普通はデッキの枚数である40枚で十分。 「ワールド・ブレイカー」ではできなかった、「シールド・セイバー」で守られたシールドでも再度ブレイクすることが可能になる。 以上。記入漏れや意見などございましたらコメントをお願いします。 名前 コメント すべてのコメントを見る
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XXXSS投稿掲示板 記号・英数字・あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ タイトル 投稿者 ~正しい魔法の使い方~ じゅらるみん ~夢見る学園へようこそ!~(MC、催眠、独占、倒錯、明るいエロ他)【オリジナル】 スーモン ♯98 SILENT VOICE (スクールランブル) 浅倉安雄 18禁SS投稿掲示板 舞@管理人 2012年、日本は異星人の占領下に置かれた イース 2100年のときメモ がっかりまん 【ネタ】3年A組女子淫魔最後の日【超短編→短編】 ねぼ AAA品物の専門の商店 ボンバーマン AV女優 青山桜 トマト 【オリジナル】BRO-ブレイブレイパー鬼塚-【完結】 ファフニール Busty Christmas Angel Heart DADDYFACE 異伝録 mojp Dotage ~妄愛~ (ラブひな) <完結> Pixy DQ外典-漆黒の勇者- 追憶期 黎明 FORTUNE ARTERIAL~赤い絆~ 珠津島広報 G.T.T. カイ Kanon × 月姫 Toya Kick his ass!(エヴァンゲリオンの二次創作小説) Torah Lolita Capriccio 【Muv-Luv】 ライアン Muv-Luv Lovers DDD Muv-Luv -愛欲の狭間- samurai NARUTO 【狐は夜毎、微笑む】 銭湯洗面器 [東方二次創作]Patisserie Un reve 『最新作:肢』 Grace R-15【習作】【ネタ】【壊れ】リリカルなのは・夜のトリッパー A's編 完 ちゅん Re Take~終わる日常、始まる日々(TS転生) 愛果 ROエロ人生記。 燕条 SEED DESTINY THE H uojuk She notice her feelings とある妖怪の... SHUFFLE! SS ~見つかっちゃった~ ウブィリ Slave Collection Dice Dragon Slave-茜-(改訂) 凶夜ひゆり SSS/RPW(RPG系ファンタジーもの オリジナル) 箱庭廻 sTOp LOVEる 【一発ネタ】 ネクラ The Seven Witches 雲曜 This is my Life ~お前のま○こマダツボミ~緊急速報 ボンバーマン XXXSS投稿掲示板 記号・英数字・あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ
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----+----+----+----+----+----+----+--.ロボ一覧.--+----+----+----+----+----+----+---- 地 域 別 サイズ別 五十音順(ア行~ナ行) 五十音順(ハ行~ワ行、記号) ポーンジャーMt パーツ レビュー コメント ポーンジャーMt 画像とコメント文 全身画像 COMMENT: なし ロボステータス タイプ サイズ 陸戦 M + ステータス詳細 タイプ 陸戦 サイズ M 潜在能力 S SS ? ? レベル ---1--- ---30--- ---50--- ---70--- ---90--- 必要経験値 0 ? ? コスト 745 2490 6735 HP 1725 2620 3880 EN 1530 2620 4140 EN回復量 (補正後) 109 (164) 133 (201) ? (?) 176 (266) ? (?) 歩行重量制限 133.5t 137.5t - 140.0t - 飛行重量制限 137.5t 141.5t - 144.0t - 総重量 88.0t - - - - 射撃能力 60 90 130 格闘能力 100 131 173 歩行速度 105 131 168 飛行速度 84 116 158 ジャンプ力 105 124 147 物理防御 90 111 140 ビーム防御 50 73 105 火炎防御 65 86 115 電撃防御 100 130 170 安定性 110 147 198 スロウ耐性 0% 0% % 0% % フリーズ耐性 0% 0% % 0% % 安定性能 110% - - - - 防御性能 100% - - - - 移動速度 105% - - - - 重量制限 100% - - - - EN回復量 151% - - - - 攻撃性能 100% - - - - タイプ補正 陸戦(大) 販売状況 ロボ販売は行われていません パーツ 名前をクリックすると詳細ページへ移動します。 パーツ名 個数 ポーンジャーMtHD ×1 ポーンジャーMtBD ×1 ポーンジャーMtAM ×2 ポーンジャーMtBS ×1 ポーンジャーMtLG ×1 レビュー 2017/5/18に初開催された「ポーンジャーMtゲットキャンペーン」で実装された、ポーンジャー系の上位ロボ。 元はコズミックコマンダーに登場したポーンジャー系最上位種で、コズミックブレイクを挟んで逆輸入された(デザインはCB版)。 ポーンジャーとは外見がかなり異なっており、特にBSの刺繍入りマントが目立つ。 イベント期間中の各曜日ダンジョンで各パーツがドロップする他、クエスト報酬にもなっている。 なお、HDには上位版としてAURA機能を持つHD2が存在する。こちらはレアドロップ。 HDに高さがあるので表記がMサイズになっているものの、実質Sサイズ。 無課金入手可能なSサイズ機としてはかなり高性能。射撃格闘値はポーンジャーに比べて格闘寄りになっている。 最大の特徴は非常に高いショック耐性で、なんと1パーツにつき50もある。 また、どのパーツもスタック強化率が6%になっており、スタックするとHPとENが飛躍的に上昇する。 2017/5/25のアップデートで、BSとLGの積載が大幅に上方修正された。 2021/5/20のアップデートで強化版の★付きが実装された。 なお、「Mt」の読み方は不明(情報求)。C21公式では読み方に触れられたことは無い。 課金通貨であるメタルと同じ表記ではあるが、恐らく偶然。 余談だが、CCにおけるポーンジャー系上位種は後ろに英字が付くのが特徴で、通常→Cr→Ar→Sc→Mtとグレードアップしていた。 この内ポーンジャーScは、MtのBSとLGを普通のポーンジャーにすれば再現可能。 CCにおけるポーンジャー系の純正カラーリングはこちらを参照(Onlinegamerの記事への外部リンク。ポーンジャーCrの画像有り)。 長所 サイズの割にHPとENが多く、スタックすればさらに大きく増やせる。 格闘値や電撃防御、安定性がかなり高い。 積載量がこのサイズにしては多いので、ある程度の重装備が可能。Lvが上がるとさらに増える。 キャップ解放後はさらにステータスが伸び、やや低めの機動力も改善される。 ショック耐性が非常に高く、純正では完全無効になる。 パーツとして組み込めば高ショック耐性のロボを簡単に作れる。 総じて純正・パーツ共に使いやすいロボと言える。 HD2以外はドロップ率がかなり高く、数周すればすぐ一式揃う。数を集めるのも楽。 イベントクエストをこなすだけでも一式分貰える(HD2除く)。 短所 射撃値が低めで、解放後もあまり伸びない。 ビームと火炎防御がやや低い。 Lv30まではポーンジャーより機動力が少し低い。 レベルアップに必要な経験値が多い。 イベント限定品かつトレード不可なので、機会を逃した場合は次のイベント開催を待つ必要がある。 コメント ページ作成しました。 -- 名無しさん (2020-02-11 19 08 35) Mtの読みについてですが、マイトネリウムではないかと思います。 末尾の英字は、2文字目が小文字であることから元素記号ではないか、という予想からです。 それぞれ Cr クロム Ar アルゴン Sc スカンジウム Mt マイトネリウム となります。 -- 名無しさん (2021-07-04 03 04 27) 名前 コメント 誤りの指摘、追加情報など、このページの内容に関するコメントのみお願いします。 上記以外については質問雑談用ページの方でお願いします。
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2007/??/??(?) ベローチェ八王子店p.046-072 一八八七年から一八八一年までの幾つかの発作のあとでニーチェがひたった幸福感は、彼の生体組織の動揺を通して発言ブロノスする力のかずかずに、次第に深くニーチェの探求の目を向けさせていった。自分のメモ帳にたち戻っているあいだのニーチェは、それらの力を自由に踊らせ、それらを自分の語彙のもとにおこうと-屈服させようとする:一つの論理的連関が{一つのアスペクト、融合、アマルガムが}形成される。歴史の様相のあれこれや、学者や思想家や芸術家たちの議論のあれこれや、政治家の身ぶりのあれこれは、それぞれに違った水準で、受動的に、あるいは能動的に、それらの力を証言しているように思われるのだが、そうしたさまざまなものたちに対する省察に一つのまとまりが生まれてくる。そこ{歴史や議論、身ぶり}に存在するのはいつも同じである。それらがニーチェの頭脳とニーチェの生体組織に一時の休息を与えてくれたのだ。(ありきたりの言葉によってすでに意味を定められた動機や状況のからまりあいのなかに生まれてくる、)*{それは}例えば怒りであり、優しさであり、苛立ちであり、安らぎである。言葉やイメージや論理や反論の形に翻訳されたこれらの力の、圧迫とその緩和、満潮と干潮は、まだここでは表面的な{言葉でできた}出口をしか持っていない。しかし、それらの力が互いに混じりあい、互いの中に浸透しあい、互いを不透明なものにしあう時がやってくる。それらの力は一つの目的から遠くそらされ、隔てられていた。歴史も科学も学問的研究も、芸術の諸形態さえも、その目的にむかって収斂することはない。執筆は中断される。言葉は消える。そして新たな、身の毛もよだつ攻撃が、ニーチェの頭脳に襲いかかるのだ。 次々に書かれたニーチェのテクストのそれぞれを、まるで言葉に裏返された「頭痛」であるかのようにして提示することは、あるいはばかげたことのように思われるかもしれない。しかし、ニーチェが自分に意識的状態のさまざまな段階の記述を強いたそのやり方は、こうした裏返しのメカニスムを必然的に想定させずにはいられないように思えるのだ。 ずっと以前から、『人間的な、あまりに人間的な』(1878)の実証主義批判のはるか以前から、ニーチェはそれ自体として理解可能なるものとは手を切っていた。{つまり、カント的意味の理性から離れていた。}しかし彼は、それを意識主体のなかで攻撃することはできずにいるし、非-言葉non paroleの名において語ることもできないでいる。{なにかの名において語ることは、神さまのやり方だから。}彼が悲劇的ギリシャ{つまり、ロゴス以前}のヴィジョンを出発点とする文化の諸問題に長いあいだかかずらっていたのは、そのためである。「悲劇の誕生」(音楽の精神からの)は、彼の秘められたファンタスムのギリシャ好みの側面を{×アポロン ○ディオニュソス}、見事に鮮明に浮かび上がらせている。そのファンタスムとは、つまり非-言葉の力に見合うような「文化」の探求である。このファンタスム{亡霊-現象-妄想}を彼は、こうした探求に含まれる曖昧さのすべてをもってさまざまな精神espritに働きかけるためにも使うし、無気力-居眠りのさまざまな力{さまざまな他動詞的な慣性力}から身を守るためにも使うのである。 周囲の人間達との議論においては、彼の「古代ギリシャ国家」のヴイジョンはワーグナーを怯えさせた。ニーチェにおける非神秘化の傾向を助長したのは、覚めた精神の持ち主であるレー** との出会いである。しかし間もなく、病の激しい攻撃によって、彼は孤立の時代に入ることになるだろう。その時代のなかで瞑想状態は深められ、彼は以前にもまして魂の音調トナリテ・ダームに大きく身を委ねることになるだろう。ジルス・マリーアにおいて「永劫回帰」の恍惚が彼を襲ったのは、一八八一年八月、こうした時期のあいだのことだった。 ……(手紙は省略)…… ニーチェの頭痛の原因が何であったにせよ――(ニーチェ自身がしばしばそう信じていたような遺伝性のものであれ、あるいは、後年の証言のさまざまな突き合わせによってほとんど証明されたかに見える偶発的な梅毒性のものであれ――そこからヤスパースはニーチェの錯乱が全身的な麻痺によるものだと結論をくだすのだが)――まず第一に、ニーチェの脳を定期的に痛みが襲ったという事実にはかわりない。 ニーチェは徒歩で長い散歩をする。さまざまな思考が一歩ごとに彼の頭に浮かぶ。そしてニーチェは家に帰り、外で鉛筆書きしたメモを展開しはじめる。頭痛がはじまるのはそのときだ。頭痛はときには眼まで及ぶ。時期によっては、ニーチェは自分の書いたものを読み返すことができず、その仕事を何人かの友人の手に委ねることもある。ガストが、ニーチェの読みづらい筆跡を解読する習慣を身につけたのは、このようにしてだった。ニーチェはしばしば、読むことも書くことも、思考することも、すべてを中断することを余儀なくされる。彼は治療を受け、食餌療法を実行する。彼は転地療養をこころみる。もっとも彼は既成の治療法を信用はしない。彼は自分自身の考えにしたがって、次第に一つの治療法を作りあげていく。自分の能力を取り戻すやいなや、彼は思考のその宙吊り状態{-中断 suspend}を記述しようとする。他のさまざまな身体機能との比較において頭脳の機能について反省し、自分自身の頭脳を警戒しようとする。 ものを考える行為は苦しむことと同義になり、苦しむことは考えることと同義になる。このようにして、ニーチェは思考と苦しみの一致を語り出し、苦しみのない思考とはどのようなものであるかを語りだす。次に、苦しみを思考すること、過ぎ去った苦しみについて反省すること――思考することの不可能性として――が最高の-高度な快楽jouissanceのように感じられてくる。しかし、苦しみを再現しようとして、苦しみなしにみずからを実現できる喜びを感じているのは、本当に思考なのだろうか。みずからを実現できることができずに苦しんでいたのは思考だったのだろうか。苦しむ者は、そして喜びを感じるのは、いったい誰なのか。それは頭脳なのか。頭脳器官は、自分がその一機能であるところの肉体korpsの、その苦しみに喜びを感じることがあるのだろうか。肉体は、自分のなかの最高機関の苦しみを、喜びとして受けとめることがあるのだろうか。 {korpsとは肉体、死体、物体、さらには破片などを指す言葉で、精神的なものを含まない。だから、「わたしは肉体である」とは言わない。生体組織、くらいの意味合い。} の()内の文章は原文にはなし。 パウル・レー(Paul Rée、1849 - 1901) p.62 もし肉体がわれわれのもっとも直接的な力、そして{力の関わっている}起源からしてもっとも遠い力に関わっているのであるならば、肉体が語る-述べる-告げることのすべては――その心地よさや不快感は――われわれの宿命について{くりかえし問い合わせるため}のもっともよい情報源となるだろう。{宿命とは、古代ギリシャの主題である。理性ではない理(ことわり)。}だからニーチェは直接的なるものを理解するために、彼の内なるもっとも遠いもののほうに遡行しようとするのである。 {一般に}「人はどのようにしてその人になるのか」を記述するまえに、彼はまず自分-現にあるものがなんであるかを疑問に付す。彼はほとんどいつものように、自分の著作のあるものが自分の健康のある状態のときに書かれたと、たとえばもっとも低いと彼が感じる状態のときに書かれたと語るのである。 ちょうど思考を中断させる攻撃のようにして彼を定期的に襲う激しい頭痛、それは外部からの攻撃ではない。苦痛の根は彼のなかに、彼の生体組織のなかにある。彼自身の生理的自己こそが、ある解体からみずからを守るために攻撃に転じているのである。しかし解体をもたらそうとしているのは何なのか。ニーチェ自身の頭脳{×思考 ×理性}である。頭脳のくびきから解放されているあいだ、ニーチェは休息状態を使ってその解体を生きようとする。しかし解体が解体として判断されるのは、ただ頭脳によってだけ、それにとっては生理的自己と精神的自己が一見したところ一致しているによってだけなのだ。肉体そのもののなかにはまったく異なったもう一つの遠近法-パースペクティブが存在する。すなわち、うごめく力のかずかずが、生体組織の機能であり、したがって何かに隷属した機能である限りにおいて、その隷属性をうちやぶろうとしているのである。力が隷属性を打ち破るためには、その{隷属性を打ち破ろうとする}意志が頭脳を経由する必要がある。ところが頭脳はその意志を、解体をもたらす力への自分の隷属としてしか感じない。思考することの不可能性は解体の悪しき徴候なのである。 肉体的な力と精神的な力とのこの解体{つまり、頭脳と思考の乖離}へと至る競合を、ニーチェは長々と味わい、受苦的{←キリストを意識している}に観察する。肉体に耳を傾ければ傾けるほど、彼は肉体によって支えられた人格というものに不信を抱く。おそろしい頭痛から決して癒えることがないかもしれないという絶望のなかで、自殺の強迫観念がまい戻り、肉体のなかで衰弱させられた人格の名において、その肉体を否認することも確かにあった。しかし相変わらず自分の仕事を終えてはいないという考えが、肉体の側に立つ力を彼に与えてくれるのだった。この肉体がこんなにも苦しげなのは、頭脳がもはや苦痛の信号しか送りつけてこないのは、理性を犠牲にしてみずからを伝えようとする言語活動{意志が語る言語。シニフィアン。}がここでは問題だからに他ならない。自分自身の意識的で理性的な人格personに対する疑惑や憎悪や怒りがそこから生じる。ニーチェが守ろうとしているのはその人格ではない――それは一つの家庭環境のただなかで、一つの時代の意のままに作りあげられたものであり、そうした時代や家庭環境をニーチェはますます嫌悪するようになっている。それはまさに、ニーチェが自分に備わっていることを知っており、同時それを誇りにしている神経組織、その神経組織への愛ゆえにニーチェが破壊しようとするものなのだ。その神経組織の諸反応を研究するあまり、ニーチェは自分自身を、これまでのように知られていた彼とは別のものautreとして、おそらくはこれからも決して知られることがないようなものとして考えるようになる。彼はこうして、唯一生理的な基準にだけ依拠するような一つの知性を練り上げるのだ。{ニーチェが生理的な基準にのみ依拠する一方でドゥルーズは社会的なものをよしとする。}苦痛、それを彼は単にエネルギーとして解釈するばかりでなく、{←フロイト批判。}そのもの自体として欲するのだ。生理的な苦痛は、それが快楽-愉悦jouissanceと密接に結びつくかぎりにおいて、そのかぎりにおいてはじめて生存にたえうるものとなる。苦痛はあらゆる思考の火を消すか、それとも思考の錯乱に到達するか、そのどちらかなのである。{p.113と対応} しかし平安さそのもののなかに、彼はあらたな罠をかぎつける。あらゆる生理的な圧迫から解放されているような思考は、はたして現実的なものだろうか。否、そこでは他の諸々の衝動が喜びを味わっている最中なのである。しかもこうした種類の喜びは、おうおうにして、苦痛が表面的には克服されていまは不在であることの確認にすぎず、したがって、それら{複数の}苦痛の{一つの代理された}再現表象ruprésentationにすぎないのだ! 平安さとは、和解しあえぬ諸衝動間の一種の休戦状態にすぎないのだ。 苦痛の現象を生体組織は自分の内部に居すわってしまった外部の力からの攻撃として感じ取るのだが、そうした苦痛の現象と、頭脳の形成にいたる生物学的プロセスとのあいだには、密接な関係があるように思われる。★4 頭脳は、すべての反射を攻撃にむかって集中させることによって、外から課せられた苦痛というものを、苦痛と快楽のあいだを揺れる興奮のさまざまな度合として表象することができるようになる。頭脳が表象を持つにいたるのは、苦痛の危険や快楽のチャンス――つまり、カタルシスであるにせよ、そうでないにせよ――をまえにしたときの、最初の基本的な興奮のかずかずを繊細化しえたときである。{繊細なカテゴリに分け終えたときである。}ただし苦痛をともなう興奮もある種の満足を形成することがある。生体組織が一時的に獲得した平衡状態を、生体組織が最初は快楽として感じることができた平衡状態を、乱すかぎりにおいてのみ苦痛として感じられるような満足である。この興奮状態に先立つ満足は頭脳のなかに強度の痕跡トレースを残し、頭脳はこれ以降、その痕跡を再表象するという行為によって、それを(再-興奮の)快楽として再現実化することができる。しかしこの場合、再現実化された苦痛をともなう興奮が働きかけるのは他の「自己」に対してだと、頭脳は想像するのである。 肉体は、ある種の言語を介してみずからを理解させようと望むのだが、その言語の諸記号を意識は誤って解読する。意識は、肉体を通して語りかけるものを裏返し、歪曲し、濾過するところの記号コードをつくりあげる。{記号学で言うところのコードであり、ゲーデルコードではない。ドレスコード、規則のようなもの} 意識そのものは、諸衝動から伝達されメッセージの暗号への組み替え以外のなにものでもない。解読は、それ自体として、個人が獲得したメッセージの裏返しの技法である。{諸衝動は完全に身体に還元されるわけではない。身体からすれば、もう一つの暗号を作っているにすぎない。}というのもすべては「頭部」(立った姿勢)に収斂するからだ。メッセージが解読されるのは、その「垂直の」姿勢{つまり一点に集中する姿勢}を維持するためなのだ。もしもこの姿勢が正常なものでなく、人間に固有なものでなかったら、{例えば粘菌のような群体であったらなら、}メッセージと呼ぶべきメッセージは存在しなかっただろう。意味-方向サンスは直立の姿勢から出発して、上、下、前、後といった基準にしたがって形成されるのである。☆4 ニーチェは理性によって確立された肉体の「衛生学」のために語るのではない。彼が語るのは肉体の諸状態のため、意識が個人的な意識としてあるためには隠蔽せざるをえない真正なる予見としての、肉体の諸状態のためなのだ。こうした観点は、純粋に「生理学的な」生の概念をはるかに超え出るものである。肉体とは偶然の所産である。それは諸衝動の全体の出会いの場所にほかならず、それらの衝動は人の人間の生の期間は{一人の生きた人間を構成している期間においては}個人化されているとはいうものの、ひたすらに非個人化されることを渇望しているのである。「こうした諸衝動の偶然の結合からは、それらが状況にあわせて作りあげる個人とともに、眠りから段階的に遠ざかる頭脳活動という、非常にひとを欺きやすい原理が誕生する意識はあたかもまどろみと不眠のあいだをたえず揺れているかのようであり、覚醒状態と呼ばれるものは、この両者の比較、まるで鏡の戯れのような、両者相互の反映でしかないのである。」しかし裏箔{-肉体の状態}のない鏡は存在しない。「理性」の規定をなすのはその裏箔なのである。忘却が可能なのは、諸衝動の不透明さのおかげである。忘却なしに意識はない。しかし意識が裏箔を「掻き削る」やいなや、意識はその透明さそのもののなかにおいて、衝動の寄せては返す波と混同される。 肉体は、意識によって捉えられている限りにおいて、衝動から切り離される。肉体を横切る諸衝動、肉体を偶然に形成したうえに、おなじように偶然的なやり方で肉体を維持しつづける諸衝動からである――ただし、衝動がこうして肉体の「上の-優れたsupérieure」極点に発達させた器官は、こうした偶然の、表面的な均衡状態が、みずからの保存のために必要であると考える。肉体の「頭脳的」活動が選別するさまざまな力は、これ以降、この活動においてしか肉体を保存しない、というよりむしろ、この活動こそが肉体であるとみなすのだ。肉体は、この頭脳活動のみのために肉体を維持するような反射のかずかずを身にまとい、同様にして頭脳活動は、これ以降はみずからの産出物としての肉体を身にまとうのである。ニーチェを理解するためには、ここで、肉体組織がどのような倒立現象に行き着くかを見てとる必要がある。つまり、肉体組織の終着点は、それが発達させたもののなかでもっとも脆い器官であり、そして、言ってみればその脆さfragileの故にそれを保つためにこそ肉体を支配する器官なのである。 人間の肉体は頭脳活動のおかげで直立姿勢をとることになったのだが、その活動は最後には肉体の現前を一種の自動運動オートマティスムに還元してしまう。「肉体」と言われるところの肉体はもはや自分自身の同義語ではない。それは意識の道具であり、そのかぎりにおいて、「人格personne」の同形異義語そのものと化すのである。頭脳の活動が低下すると、そこには肉体だけが現前する。しかしそれはもはや実際には誰personneに属するものでもなくなっており、確かに一つの、そして同じである人物personneを再構成することもできるような反射のすべてが保持してはいるものの、そこには「人格」が不在なのである。肉体的なものの純粋な発現が強まれば強まるほど、それだけ「人格」の回帰は遅れるように思われる。「人格」は眠り、夢み、笑い、ふるえるが、それを現すmanifesteのは肉体のほうである。人格にできるのは、肉体的解釈にすぎないようなさまざまな動機の喚起-召還によって、自分が笑ったり、ふるえたり、苦しんだり、快感を感じているということを表象することなのだ。 「人格」は、自分自身や他者との対話のなかで、これらの徴候-症候を自分のものだと主張するのだが、そうすることができるのは、徴候-症候が生み出される前か後のことでしかない。「人格」は、自分が意識的にそれらの主体であったことを否定することができるし、また、自分の正常な状態だと考えるもの――つまり、肉体の直立姿勢や、あるいは自分自身の「決意」{笑いの反射に身をまかせること}や表象作用によってとられる他のあらゆる姿勢に適合するすべてのもの――に合致するように見える場合にだけ、それらの徴候-症候を自分のものとみなすことに同意する。人格は笑うことを、あるいは笑いの反射に身をまかせることを決意することができる。それは苦痛や疲労の反射の場合も同じである。しかしいかなる場合でも、こうした決意は、意識されたまたは刺激可能な状態から生まれるにすぎず、したがって、刺激に先行するどころかその後に来るのである。強い苦痛や喜びのなかで、とりわけ官能的-性的な快楽のなかで、「人格」は一瞬消滅する。そしてそのとき、残っている意識は肉体的徴候というきわめて狭い範囲に限定されるので、構造それ自体が逆転する。無意識状態inconscienceの概念はここでは忘却の一つのイメージにすぎない。つまり直立状態に起源をおくものの忘却である。 あらゆる人間は横たわることができる。しかし彼らが横たわるのは、いつでもまた立ちあがることができる、あるいは姿勢を変えることができるという確信を持っているからに他ならない。つまり彼は、いつでも自分自身の肉体のなかにいると信じているのである。しかしこの固有の肉体というものは、互いに矛盾しあい、一時的に和解しあった諸衝動の偶然の出会いでしかない。 〈わたし〉はわたしに属さない肉体のなかで病んでいる。〈わたしの〉苦しみは、諸機能のあいだの闘いの、つまりは肉体組織に隷属させられて、互いに敵対することになった諸衝動――わたしに属する衝動とわたしが把握できない衝動――のあいだの闘いの、解釈でしかないのである。逆に、わたし自身の物質的基体シュポのほうは、おのれの統一性をもはや保証してくれるようなわたしの思考を排除するように思われる。{p.66 参照}物質的基体が要求するものとは異なった、あるいはそれに対立する状態から生まれてくるような思考を、である。もっとも、その物質的基体とはわたし自身と同一のものではあるのだが。 しかし自我moiの同一性とはいったい何か。それは一見、肉体の不可逆的歴史に、すなわち諸々の原因・結果の連鎖に帰属するように思われる。だが、この連鎖はたんなる見かけでしかない。肉体は唯一にして同じ相貌-顔つきを形成することにおいてみずからを変化させるのだ。人格が固定され、「性格」が固まるのは、肉体の更新能力が乏しくなるときなのだ。 しかし肉体のさまざまな年齢は、次々に継起する、それぞれに異なった状態である。そして肉体が同一の肉体でありつづけるのは、ある同一の自我が、多様な変化をみせる肉体とみずからを混同することができ、またそうすることを望むからである。つまり、肉体の統一性は自我の統一性なのだ。肉体はこの自我を作り出し、そうすることによってみずからの統一性を作りだすのである。しかし肉体は、自分自身にとっては、幾度も死に、幾度もよみがえる。その無数の死と再生を通じても、{違う配列になっても、}自我はみずからの見せかけだけの統一性において生きつづけると主張するのだが。肉体のさまざまな年齢とは、実は、その肉体を形づくり、変形し、次にそれを見捨てようとする衝動の運動のことである。しかし衝動はまず第一に肉体にとっての原動力であるのと同様に、肉体の統一性に対する脅威でもある。{肉体自身も“肉体”を取り違える。}自我の同一性に奉仕するという点で純粋に機能的なものである肉体の統一性は、この意味で不可逆的な過程である。自我のさまざまな年齢は、その統一性の年齢である。つまり、この自我が肉体のなかで、肉体とともに、歳を重ねれば重ねるほど、それだけますます自我は統一性を渇望し、同時にみずからの出発点にたち戻ろうと――したがって自分の道のりを回顧しようと――するのである。{何千回解体されても同じ。}生理的解体への不安によって、固有の統一性に対する回顧的ヴィジョンがもたらされる。こうして、肉体から生み出されたものである自我は、その肉体を自分のものとして所有するのであり、他の{いまあるのではない}肉体を作りだすことはできないのだから、その自我もまたみずからの不可逆的歴史を持つ{「いま、こうであるから他のものではありえない」と言うこと}ことになるのである。 自我の同一性は、「固有の肉体」の同一性とともに、人間の生の不可逆的な流れが作りだす{数列のような}一つの方向-意味サンスと分かちがたく結びついている。こうして方向-意味は、自我の同一性の最終形態として、その同一性のあとまで生き残るのである。だから一度限り決定的に定められた方向-意味は永遠のものなのだ。 ニーチェには宿命ファタリテの最初の概念とでもいうべきものがあり、それは自我がどうしてもそこから逃れられないようなものとしての、この不可逆的な流れのイメージをふくんでいる。そして、一見したところ、ニーチェの最初の要請をなすものも、この運命fatumへの、したがって不可逆的なるものへの愛であるように思われる。 ところが、一度限り決定的に定められた不可逆性の破壊として表現される〈永劫回帰〉、その体験から出発して運命の新しいヴァージョンも発達する。それがすなわち悪循環cercle vicieuxのヴァージョン。はじまりと終わりがいつも一つに交じり合い、それゆえまさに目標も方向も廃棄されてしまうようなヴァージョンである。{いま・かつてという時間系から離れる。}{線ではなく、面で1があるイメージ。} これ以降、考慮の対象になるのはもはや自我の所有物としての肉体ではなく、諸々の衝動の場所としての、それらの遭遇の場所としての肉体である。衝動の生産物としの肉体は偶然的なものとなる。それは不可逆的でもなければ、可逆的でもない。というのも、その肉体は、衝動の歴史以外の歴史というものを持たないからだ。衝動とはまさに寄せては返し、返してはまた寄せるもの。{波のリズム。一度も同じ波がこない。}それが描きだす円形の運動は、気分の諸状態のみならず思考のなかにも、魂の音調のみならず肉体的な抑鬱状態のなかにも――後者が精神的なものとなるのは、自我のさまざまな言表や判断が、それ自体としては不安定にゆれ動く、したがって実体のない一つの特性を、言表のなかで再創造するときだけなのだが*――はっきりと自分を告知しているのである。{偶然をつみかさねて、ふりかえって「偶然」と言ってはいけない。} 2007/??/??(?) ベローチェ八王子店p.072-083 とはいうものの、ニーチェは必ずしも一貫性を放棄するわけではない。波は寄せては返す諸衝動と闘い、同時に、彼の思考における新しい一貫性のために具体化-有形化corporanteする思考としての肉体とも戦う。その闘いは、彼がしばしば肉体の導きの糸と名づけるものをたどって行われる。つまり彼は、彼の病的状態の周期的変化にしたがって諸衝動が描きだす迷路のなかで、そのアリアドネの糸をつかまえようとするのである。{アリアドネの糸:一貫性は外在性に順応するのではない} 病的状態からの回復は、「思考するわたしニーチェ」{←デカルトを意識している}に対する「肉体」の――{衝動の場として}思考しなおされた肉体の――新たな攻撃の合図である。こうして病の再発が準備される。ニーチェにとっては、最後の再発の日まで、こうした再発のたびごとに、まず最初に衝動の世界への新たな探査と新たな備給が行われ、そのたびごとに、それらの探査と備給の報いとして病は次第にひどくなっていく。そのたびごとに、肉体はそれ自身の基体から少しずつ解放されていき、{肉体は攻撃をはじめるので、}そのたびごとにその基体は衰弱の度を深めていく。つまり、頭脳のなかにおける自我の覚醒が次第にゆっくりとおこなわれるようになるにつれて、頭脳は肉体的な力から自分を隔てる境界線に次第に近づいていくのである。もっとも自我の覚醒とはいっても、それがおこなわれるとき、機能的なメカニスムを牛耳るのは無数の力のほうである。そのとき自我は、より大きな、そしてより短い明晰さのなかに砕けていく。諸機能のあいだの均衡はやぶられる。言葉のなかで、記号の不変性-固定性のなかで、自我は眠る。そして諸力は、それが沈黙の度を深めるだけ、それだけますます強く覚醒する。{←すでに準備された記憶、ナポレオンなどが現れる。}記憶はついに頭脳的な自我から身を解き放ち、自らからもっともへだたったモチーフに従ってしかももはや自分を強く示さないようになる。 肉体はいかにして、自我と呼ばれるものの影響下から頭脳活動を奪い取ることができるだろう。そしてそれよりもまず、自我が頭脳によってふたたび確立されるのはどのようにしてだろう。それはひとえに境界線によって、覚醒状態のなかで、覚醒状態によって、たえず引きなおされる境界線*によってである。しかし覚醒状態はいつも何秒間かしかつづかない。頭脳にはたえずさまざまな強度の刺激が流れ込んでおり、受容限度をこえた分はたえず濾過されなければならないのだ。たとえば新しい刺激は、選択的同化システムによってのみ、つまり「慣れ親しんだ」ものと異質なものとの比較によってのみ、古い刺激と一致することができるのだ。だから、その結果として、境界の線は消えざるをえない。何秒かあとには、頭脳のかなりの部分が{記号のなかで}眠りはじめる。あらゆる決意、ある行為を実行するためにその行為をもう考えまいとするあらゆる決断、そうしたもの{眠ること}がおこなわれるためには、古い刺激の痕跡だけが容認され、自我の同一性の永遠が保証される必要がある。肉体が沈黙してくれているおかげで、われわれは肉体を所有してそれを直立に保つことができるのであり、それから、われわれが思考や行動のなかで追求する意味-方向や目的のイメージを、つまりわれわれがそう思っているものと同じでありつづけるという目的のイメージを、作りあげることができるのである。 境界線は比率の差としてある? 「体を為す」力に(衝動に)思考を返すこと。それはとりもなおさず基体から、自我からその所有権を奪うことに他ならなかった。{衝動と基体が逆転する。}しかしながら、ニーチェがその所有権の奪取と返還をおこなうのは、彼の頭脳の力を借りてのことである。彼はこうしてみずからの明晰さを闇の世界の探求のために行使するのである。しかし明晰さの中心、すなわち自我を破壊してしまったら、ひとはどうして明晰でいられるだろう。基体を持たないその意識はどのようなものになるだろう。もはや自我ではないあらゆるものに帰着せざるをえないとなったら、記憶はいかにして存続しうるだろう。自分自身以外のすべてのことを記憶しているような人間であることをやめながら、しかしなお記憶しつづけているということにでもなるのだろうか。{p.73の記憶(あらかじめ、外に準備された記憶 ナポレオン)とは異なる記憶は可能なのか?} ニーチェにおける生理学的・生物学的探求は二重の関心に答えている。第一に、自分自身の病的状態に対して取るべき態度、人間ならざる生物や非生物の世界にも通じるようなそうした態度を見出すこと。第二に、その態度から出発して、固有の自我の彼方の場所に自己を再創造するための、ふさわしい論理と方法を見出すこと。だからニーチェが理解するような生理学とは、ある諸力を解き放つような捉え方の諸前提を提供してくれるものでなければならないのだ。つまり、彼固有の条件に、そして彼が時代の社会的文脈のなかで生きたさまざまな状況に、内在しているのではないかと彼が恐れる諸々の力を解き放つような考え方。科学を研究対象にするときのニーチェの眼差しは、芸術や過去の同時代の政治上にそそがれる眼差しと同一のものである。だからこそ彼は用語法*を利用するのだし、それらの用語法に次第に多義的な表現を与えていくのである。というのも、さまざまな学問分野から用語を借りながら、彼はそこに自分自身のアクセントを加えていくのであり、そのアクセントは、本来的に体験に根ざしているがゆえにそれらの学問分野を逸脱し、あらゆる「客観的」考察を逸脱するような一つのヴィジョンを追求するものだからである。 同音異義語、あるいは掛詞のようなものか? 肉体は「自己Soi★5」である。「自己」は肉体のただなかに住まっており、肉体によってみずからを表現する。――これはすでにニーチェにとっての中心的な立場である。頭脳が彼に拒否するすべてのものは、肉体生活のなかに、知性の座[=脳]よりもはるかに大きな知性である肉体生活のなかに隠れている-含まれている。あらゆる痛み、あらゆる苦痛は、さまざまにゆれ動く無数の衝動をかかえた肉体の複数性と、頭脳的感覚の解釈の執拗さとのあいだの争いの結果である。想像的な力が、価値評価が噴出するのは、肉体からであり、自己からである。自由意志を持った自我とか「自己を滅した」精神とかをはじめとして、{困ったことに}死すべき亡霊のかずかず*が生まれるのは、それらの力の頭脳による転倒の結果である。同様にして、他者とか隣人とかいうものは、精神による転倒を通して投影された「自己」の影でしかない。「自我(わたし)」も「他我(きみ)」も、単なる「自己」の変形としてしか現実性を持たない。最後に、肉体のなかにある「自己」というものは「カオス」の延長された先端でしかなく――個人化された有機的形態での衝動というものは、「カオス」から委任を受けて派遣されたものでしかない。この派遣団がニーチェの対話者となる。頭脳の城塞の高みから、つまり、包囲から、この派遣団は狂気と呼ばれるようになる。{p.14 「あらゆる瞬間にカオス{-隙間}はわれわれの精神のなかでその仕事をつづけている。……」参照} 「父との亡霊との対話」? 肉体が、(隷属させられ、組織され、ヒエラルキーに組み込まれた)諸衝動の産物{←この条件を満たさなければ、肉体にならない!}として認知されるやいなや、自我との統一性は偶然的なものとなる。諸衝動は新しい肉体に仕えることもできるのだし、そのための新たな条件も探しているとみなされる。諸衝動から出発して、ニーチェは(頭脳の)知性の彼方に、われわれの意識と混同されるような知性よりも無限に広大な一つの知性があるのではないかと考えるのである。 「精神{ガイスト ×インテリジェンス}のあらゆる発達過程において問題なのは、あるいは肉体以外のなにものでもないかもしれない。{創造creationの有無:有→西欧 無→仏教。}それはより優れた肉体が形成されるということの、あからさまな歴史である。生物はより優れた段階に移行する。われわれが自然を認識することに捧げる熱意は、肉体がみずからを完全なものにしようとするための手段である。あるいはむしろこう言ったほうがいいだろう。つまり、肉体を生き、肉体に住むやり方や食事のやり方を変えるために、何十万という単位でさまざまな実験が行われているのだと。{実験と内部観測。}肉体のなかでは、意識や価値評価、あらゆる種類の快感と不快感は、こうした変更や実験のかずかずの指標である。つまり、人間などはいささかも問題になってはいないのだ。人間は乗り越えられなければならないのだ。」 「内的世界moiを空にせよ!{眠っちゃってる自我moiを考えないようにしよう!}そこにはいまだに多くの偽りの存在がある! 感覚と思考だけでわたしには充分だ。第三の現実としての「意志」は想像的なものである。そもそもあらゆる衝動、欲望、嫌悪等は、「単位{←ひとまとまりのもの}」ではなくて、目にみえる「単なる状態」にすぎないのだ。{ラカンは「単位{←象徴界}」がないと「状態」が出てこないと言う。}飢え。それは一つの不快の感情であり、それを消し去る方法についての一つの知識である。さらに言えば、知識をまったく持たなくとも、飢えを消し去ることを目的とする一連の生体組織の運動が発達しえた。このメカニスムへの刺激は、飢えと同時に感覚されるのだ。」 「たとえば表皮から神経組織や脳髄が発達するように、ただ一つ{←西欧の考え方}の器官から多様なやり方で複数の器官が発達することがある。それと同様に、感じること、表象すること、思考することのすべては起源においては一つであったはずではなかろうか{一ページにまとめられる真理。永劫回帰のために必要なファクター。}したがって感覚とは、後からできた孤立した現象であるということになる。この一なるものは非生物のなかに存在していなければならない。というのも生物は分離によってはじまるからである。非生物と生物の相互作用の研究は残っている――それはいつも遠くからの作用(長期間にわたる)であり、したがって反応を返すためにはいつもあらかじめ「知ること」が必要である。*つまり、遠くのものが知覚されなければならないのだ。筋肉的な触覚にはその等価物があるはずである。」{ウィトゲンシュタインは数学をやりたかった。数学をやりたい人の言語観} 不明 「二つの半球{←脳}の表面に位置づけられた意識。一つ一つの「体験」は停止することなくつづく機械的・科学的な出来事であるが、しかしそれは生きている出来事である。ただしわれわれはそれについて何も知ることはないのだが。」 「生命のあるところ、そこにわれわれは「精神」を想定する。しかしわれわれが知っている精神は、いかなることを実行するにも完全に無力である。意識のイメージのすべてはなんと悲惨であることか! それはおそらくそれ自体、次にまた一つの変更(作用)を引き起こすような一つの変更の効果でしかないのだろう。実際、われわれが「意志する」作用のそれぞれは、われわれが現象のみかけSchein der Erscheinungとして考えるもの以外の何ものでもないのである。{眠っているところが、みかけ-仮象Schein。}意識のすべて、それは偉大なる知性の《マージナルな{←周縁の}》表現にすぎない(!)。われわれが意識するところのものは、いかなるものの原因をも明らかにすることができないだろう。 単に消化{←理解-同化}と、それについてわれわれが感じることを比較すればよい!」 「われわれの知性が知的統合運動の多様さを把握しようとするときには、必ず、その統合運動の一つ、たとえば消化のプロセスを例示することになる。これは複数の知性の統合運動だ! わたしが生命を見出すところには、どこにでもこの統合運動が見出される。そしてこの無限の知性のなかに一人の支配者もいるのである!――しかし、われわれが、いくつかの知性の立ち会いのもとで実行されるものとして生体組織の作用を考えようとすると、そうした作用は完全に理解不能なものになってしまう。むしろわれわれは、知性のほうがこの生体組織作用の最終的な結果であると考えるべきではないだろうか。」 「遺伝の本質はわれわれにはまったく知られていない。どうして一つの行動が二度目には前より「容易に」なるのだろうか。そしてそれが容易になったことを感じるのは「誰」なのだろうか。さらにその(容易さの)感覚は、二度目には行動が同じやり方でおこなわれるということと、なんらかの共通点をもっているのだろうか。もしそうならば、可能なさまざまな行動の感覚が実際に行動に移る前に表象されているということになるのだろうか。」 「生体組織オルガニックの強力な原理は、まさにそれが無機的物質を自分のなかに摂取する{←食べる}時の容易さによって、わたしに強い印象を与える。この目的性が単に(自分の)強化ということでどうして説明できるのか、わたしにはわからない。むしろ永遠に生物的オルガニックであるような存在があると思いたい気がする。」 「これがわれわれの不平等のあり方だ。あなたの精神は自己をもたない――それに対して、わたしの精神は逆に全体が「自己」であり、そうであるかぎりにおいてしか精神ではない。{p.76 「自我(わたし)」も「他我(きみ)」も、単なる「自己」の変形としてしか現実性を持たない。} だからわたしはかつてこう言った。感覚サンスと精神は道具であり玩具である、その背後にはまだ「自我」がある、と。 しかしわたしがあなたがたの精神の背後になんらかの「自己」を探そうとしたときに、わたしは単に「自己」を欠いた精神があるということを知っただけだった!*……」 ドイツ観念論の理性崇拝と体系志向への批判? 「おおツァラトゥストラよ、わたしの話を少し聞いていただきたい――ある弟子の一人がそう言った――何かがわたしの頭のなかで回っています。というよりも、わたしの頭が何かのまわりをまわっている、つまり延を描いているように思われてしかたがないのです。 わわれわれの同朋とはいったい何でしょう。われわれのなかにある何か、われわれの諸変容の意識化されたもの。つまり、一つのイメージ。これがわれわれの同朋の正体です。 ではわれわれ自身はいったい何でしょう。われわれ自身も同様にしてイメージにすぎないのでしないでしょうか。われわれのなかにある何か、われわれの諸変容の意識化されたものではないでしょうか。 われわれが意識しているわれわれの「自己moi」。それもまたイメージにすぎないのではないでしょうか。われわれの一つの外部、外側に、外にある何かにすぎないのでは。{サルトル「対象化された自分しか補足できない。私は無だ」『存在と無』。} われわれが、われわれ自身の同朋に対して異質であったり、われわれ自身に近かったりするのは、われわれの同朋と同程度のことではないでしょうか。 実際、われわれは人間についての一つのイメージを持っています――われわれが、われわれ自身から出発して作りあげたイメージを。しかし、それをわれわれ自身に適応してみるとどうでしょう。――自分自身を理解するために! そうです、理解するためにです! そうすると、われわれの自己理解はどんどんおかしなものになっていくのです! われわれが持つ感情の、感情としてのかぎりでもっとも強いもの、それは何か外面的なもの、外部に、イメージに属するものです。類似、これがその正体なのです。 そしてわれわれが習慣的に内部世界と名づけているもの。その部分は、ああ、なんと貧しく、偽りに満ち、虚ろで、作り話めいたものなのでしょう。」
https://w.atwiki.jp/seizousho/pages/249.html
キューピーのベビー用品 キューピーのベビーフード ※代理登録依頼掲示板にいただいた情報により、賞味期限などの詳細情報が追加されました(2011.5.01) QPG:五霞(茨城県猿島郡) QPK:挙母(愛知県豊田市) QPI:伊丹(兵庫県伊丹市) QPT:鳥栖(佐賀県鳥栖市) QPF:富士吉田(山梨県富士吉田市) QPZ:大阪 製造固有記号は上記と同じです。販売者のところに記載があります。 ほとんどが佐賀工場(製造番号T)で作られていて、おやつ類の一部は大阪工場。 賞味期限の下部にあるアルファベットと数字はラインなどの表記だそうです。 製造日は、にこにこボックス・・・賞味期限より18ヶ月前 瓶入り70g・・・賞味期限の24ヶ月前 瓶入り100g・・・賞味期限の30ヶ月前 箱入りレトルト・・・18ヶ月 (チキンのまろやかクリーム煮、チキンのクリームシチュー、豆とコーンのグリーンカレーは12ヶ月) グルメ赤ちゃんシリーズレトルト・・・18ヶ月 おやつ類よいこになあれシリーズ・・・18ヶ月 おやつ類その他・・・12ヶ月 電話にて問い合わせました。(2011/9/13) 【よいこになあれ こーんぼーる】 とうもろこしの産地は北海道 【よいこになあれ おさつちっぷ】 さつまいもの産地は、北海道と宮崎