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173 :107の続き [sage] :2006/06/25(日) 02 32 12 ID +sD7Pgg/ ヤマネは――笑っていた。 どうしようもないほどに、どうにもならないほどに、満面の笑顔でヤマネは笑う。 その笑顔の向こうを幹也は見る。それ以外は見ようともしない。 血に沈んだ家族も。壊れて散乱した家具も。割れた窓も。 穏やかで、退屈だった日常の残骸を幹也は見ようともしない。 血に濡れた笑顔だけを見つめている。 「ただいま、ヤマネ。どうしてここに?」 幹也は問う。 どうしてこんなことをしたのか、ではなく。 どうしてここにいるのか、と。 その問いに、ヤマネは笑ったまま答えた。 「だって、ヤマネはお兄ちゃんの妹だもんっ!」 言って、ヤマネは包丁を放りなげてすりよってくる。 手から離れた包丁が宙を回り、中ほどまで床に突き刺さった。 血をぱちゃぱちゃと踏み鳴らしながら、ヤマネは幹也へと抱きついた。 すぐ真下にある髪からは、いつもと変わらない少女の臭いと、真新しい血の臭いがした。 その血の臭いも、部屋に満ちているそれと混ざり合い、すぐに分からなくなる。 「ヤマネねっ、お兄ちゃんのために頑張ったんだよ? お兄ちゃんを閉じ込める、ニセモノの家族を倒してあげたの! ね、褒めて、褒めてっ!」 傍から聞けば、錯乱しているとしか思えないヤマネの言葉。 けれど、この場には『傍』に立つものは誰もいなかった。 血に濡れた部屋に立っているのは、ヤマネと幹也の二人だけだ。 力の限り抱きついてくる少女を、幹也はそっと抱き返して言う。 「そう。――がんばったね、ヤマネ」 答える幹也の顔は、邪悪に笑って――などいなかった。 笑ってもいない。 怒ってもいない。 いつもと変わらぬ、退屈そうな表情のまま、幹也はヤマネを抱きしめていた。 177 :173の続き [sage] :2006/06/25(日) 02 49 15 ID +sD7Pgg/ 腕の中、ヤマネが猫のように喉を鳴らし、頬を摺りつけてくる。 ふと、幹也はその細い首に手をかける。 キスをしたい。そう思う反面、このまま首を絞めてしまいたくもなった。 そうすれば、少しは暇ではなくなるだろうから。退屈が紛れるだろうから。 この異常な状況においてなお――幹也は、どこまでも平常だった。 けれども、幹也が何をするよりも、ヤマネの動きの方が早かった。 「お兄ちゃん、そろそろ行こっ!」 幹也から離れ、首に添えられた手を握り、縦にぶんぶんと振ってヤマネが言う。 上下に振られた手を追いながら、幹也は呟くように答えた。 「行くって――どこに?」 当然といえば当然の言葉に、ヤマネは「決まってるよっ!」と前置き、 「こんなところ、もういらないよね? ね、ヤマネと一緒にいこっ!」 ――こんなところ。 その言葉を聞いて、幹也は部屋の中を見回してみる。 二人分の死体と、一人の死に掛けと、血と死と破壊で満ちた家。 すでに終わってしまった場所。 成る程、もうここは要らないな、と幹也は内心で納得する。 退屈な家から離れて、殺人鬼の少女と退屈な逃避行。 それも暇つぶしだ、とすら思った。 「そうだね。行こうかヤマネ」 ヤマネの手を握り返し、幹也は言う。 その言葉を聞いて、ヤマネは、これ以上ないくらい嬉しそうに笑った。 「うんっ! ここも、喫茶店もヤマネいらない! お兄ちゃんがいればそれでいいよっ!」 ヤマネは手を繋いだままぴょんと跳ね、幹也の隣に並ぶ。 繋いだ手の温もりと、血に濡れる感触を感じながら、幹也は踵を返す。 視界の端に、重症の中まだ動いている――最後の生き残った家族が見えた。 もはや家族ではなくなった少女に向かって、幹也は言う。 「――ばいばい」 それが、別れの挨拶だった。 幹也も、ヤマネも、振り返ることはなく。 「雨に――唄えば――」 「唄え――ば――」 二人仲良く歌いながら、家の外へ、夜の街へと消えていった。
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唐書巻一百六十五 列伝第九十 鄭余慶 澣 処誨 従讜 鄭珣瑜 覃 裔綽 朗 高郢 定 鄭絪 顥 権徳輿 璩 崔群 鄭余慶は、字は居業で、鄭州滎陽県の人であり、三代にわたって全員が顕官となった。鄭余慶は若い頃から文章をよくし、進士に及第した。厳震が山南西道節度使となると、奏上して幕府に置いた。貞元年間(785-805)初頭、朝廷に戻り、庫部郎中に抜擢され、翰林学士となり、工部侍郎知吏部選となった。僧侶の法湊が罪科によって民によって朝廷に訴えられ、御史中丞の宇文邈・刑部侍郎の張彧・大理卿の鄭雲逵に詔して三司とし、功徳判官の諸葛述とともに取り調べさせた。諸葛述は、もとは御史であったから、鄭余慶は諸葛述が卑賎の身でありながら、三司とともに職務にあたることはよくないと弾劾し、世間はその発言に同意した。 貞元十四年(798)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。奏上するたびに、多くは経書の義に付会した。普段から度支使の于䪹と親しく、概ね陳述することがあれば、必ず賛同したが、于䪹は事件によって罪とされて左遷された。またある年飢饉となり、朝廷は禁衛十軍に振給させることを朝議したが、中書省の史のために情報が漏洩した。二つの罪が積み重なったから、郴州司馬に貶された。 順宗は尚書左丞として召還し、憲宗が即位すると、そこで官を復して同中書門下平章事(宰相)を拝命した。当時、主書の滑渙が宦官の劉光琦とともに互いに助け合いながら悪事をしており、宰相が議して劉光琦の意向と異なることがあれば、滑渙が必ず派遣され、これによって四方の財貨が贈られ、弟の滑泳の官は刺史となった。杜佑・鄭絪は宰相であったが、その場しのぎで、杜佑は常に同僚のように行動して名声を落とした。鄭余慶が議すると、滑渙は傲然と諸宰相の前で指さしたから、鄭余慶は叱って去らせた。しばらくもしないうちに、宰相を罷免されて太子賓客となった。後に滑渙が収賄で失脚すると、帝は次第に叱って去らせていた事を聞いて、これをよしとした。国子祭酒に改められ、吏部尚書に遷った。 官医の崔環なる者が、淮南小将から黄州司馬に任命されたが、鄭余慶は執奏「諸道散将で功なく五品の正員を受けるのは、僥幸の道を開くことになり、よくありません」と奏上したから、権力者は喜ばず、太子少傅、兼判太常卿事に改められた。朱泚の乱から、都から天子がたびたび離れたから、太常寺では楽の練習に鼓を用いるのを禁止していた。鄭余慶は当時長らく平和であったから、旧制に戻すよう奏上した。京師から出されて山南西道節度使となった。京師に入って太子少師を拝命し、老年によって辞退を願ったが、許されなかった。 当時しばしば恩赦や叙任があり、官位は多くなっていた。また帝が親郊すると、祭祀に陪従する者に三品・五品を授け、数えられないほどであった。節度使・都督符・諸蕃の役人が、軍功によって朱紫の衣とそれに相当する官位を賜う者は十人のうち八人に及び、近臣が任官された時の謝日や、郎官が使者として派遣される際に、多くの者が賜与された。朝会ごとに、朱紫の者が朝廷に満ち溢れ、緑を着る者は少なかった。官位・服制は非常に乱れ、このような状態だったから人々は官位・服制を貴いものだとは思わず、帝もまた嫌ったから、始めて鄭余慶に詔して改定案を列挙・奏上させた。尚書左僕射に遷った。僕射はその頃は任命される者がおらず、鄭余慶が宿老であるから任命されたが、世間の論調はゆったりとして帰服した。帝は法典が乱れているのを心配し、鄭余慶は昔の事に精通しているからと言い、そこで詔して詳定使となり、参酌・訂正させた。鄭余慶は韓愈・李程を引き立てて詳定副使とし、崔郾・陳佩・楊嗣復・庾敬休を判官とし、概ね礼典の増減を、詳衷と号したのである。 にわかに鳳翔尹を拝命し、鳳翔節度使となった。再び太子少師となり、滎陽郡公に封ぜられ、判国子祭酒事を兼任した。建言して「戦争勃発してから、学校は廃止され、諸生は離散しました。今、天下は泰平です。臣は願わくば、文吏の月俸を百分の一をとって、学校修復の資財にあてたいと思っています」と述べ、詔して裁可された。穆宗が即位すると、検校司徒を加えられた。卒した時、年七十五歳であった。太保を追贈され、諡を貞という。帝は鄭余慶の家が貧しかったから、特に一月分の俸給を給付して香典とした。 鄭余慶は若い頃から勉学に研鑽し、行いは清らかであった。四朝に仕え、俸禄はすべて親しい者に施し、ある時は人の危機を助けて、自らは貧困に甘んじた。官位が昇進しても開けっ広げであり、常に人に「禄が親友に及ばないのに下僕や妾が裕福なのは、私は卑しいと思う」と語った。大抵、内外の者が婚姻するとき、その礼献はすべて自ら見ていた。弟子が謁見を願い出ると、必ず引見し、経義をよくわかるように繰り返し教えさとし、儒学を成就させた。至徳年間(756-758)以後、方鎮に任命された者は、必ず宦官を派遣して幢節を持たせて邸宅に赴かせ、宦官がやって来ると多くの金帛を贈り、それによって天子に媚び、ただ贈り物が厚くないのを恐れ、そのため一使者は数百万緡を納めるに至ったのである。憲宗は鄭余慶に命じるごとに、必ず使者を戒めて「この家は貧しいから、むやみに求め取ってはならんぞ」と言った。議する者は自分の立場を考えず名誉を求めるものであるとしたが、鄭余慶はそうする値打ちがないとした。奏上・議論などの際には古語を用い、「給付を県官に仰ぐ」・「馬万蹄」のようなものは、役人には全く何を言っているのかわからず、人々はその不適切さを避難した。従父の鄭絪とともに家は昭国坊にあり、鄭絪の邸宅はその南にあり、鄭余慶の邸宅は北にあったから、世間では「南鄭相」・「北鄭相」と言ったという。子に鄭澣がいる。 鄭澣は、本名は鄭涵で、文宗の旧名を避けて改名した。進士に及第し、累進して右補闕に遷った。直諌して遠慮がなかったから、憲宗は鄭余慶に向かって「鄭涵は、卿の令息であるが、朕の直臣でもある。さらにめでたいことだな」と言った。起居舎人・考功員外郎に遷った。当時、刺史はあるいは吏下に迫って功愛を記録し、鄭涵は観察使がその詐称を隠蔽していいるのを責めることを願った。鄭余慶が僕射となると、避けるために国子博士・史館修撰に任命された。 文宗が即位すると、翰林に入って侍講学士となった。帝は経史を蒐集させて要録とし、その博学かつ精密であることを愛され、試しに諸条をあげて質問を投げかけると、質問にしたがって直ちに返答し、答えはとどまることなかったから、そこで金紫服を賜った。尚書左丞に累進し、京師から出されて山南西道節度使となった。それより以前、鄭余慶は興元府にあって学校をつくり、鄭澣は継いで完成させ、生徒を教え、風化は大いに行われた。戸部尚書に任命されて召喚されたが、まだ就任する前に卒した。年六十四歳。尚書右僕射を追贈され、諡を宣という。 四子がおり、鄭処誨・鄭従讜が最も名を知られた。 鄭処誨は、字は廷美で、文章に抜きんでて秀でていた。仕えて刑部侍郎・浙東観察使・宣武節度使となって卒した。これより以前、李徳裕が『次柳氏旧聞』を著したたが、鄭処誨は詳しくないと言って、さらに『明皇雑録』を撰述し、そのため当時盛んに伝えられた。 鄭従讜は、字は正求である。進士に及第し、校書郎に補任され、左補闕に遷った。令狐綯・魏扶は皆父鄭澣の門下生で、そのためしばしば引き立てられて昇進し、中書舎人に遷った。咸通年間(860-874)、吏部侍郎となり、官吏の選抜任用は厳正であった。京師から出されて河東節度使となり、宣武軍節度使に遷り、その善政は最も評判がよかった。嶺南東道節度使に改められた。これより以前、林邑蛮が侵入し、天下の兵を召集して援軍を派遣しようとしたが、たまたま龐勛の乱がおき、また援軍が派遣されなかったが、北の兵は寡弱であった。鄭従讜は土豪を募り、その酋を右職に任じ、結束させて互いに防御させたから、交州・広州は安定した。 僖宗が即位すると、召喚されて刑部尚書となった。しばらくして、同中書門下平章事(宰相)に抜擢され、門下侍郎に昇進した。沙陀都督の李国昌が辺境にて多くの災難を引き起こし、侵入して振武・雲朔等の州によって、南は太谷を攻略した。河東節度使の康伝圭は大将の伊釗・張彦球・蘇弘軫を派遣して兵を率いて防御したが、戦いはしばしば負け、康伝圭は蘇弘軫を斬って全軍に布告した。張彦球は部族を率いて背き、康伝圭を攻めて殺し、府庫を掠奪して乱をおこした。朝廷は憂いとし、帝は大臣に職務権限を与え、そこで鄭従讜を検校司徒とし、宰相の秩によって再び河東節度使、兼行営招討使となり、詔して自ら補佐を選ばせた。鄭従讜はそこで上表して長安県令の王調を自身の副官とし、兵部員外郎の劉崇亀・司勲員外郎の趙崇を節度観察府判官とし、前進士の劉崇魯を推官とし、左拾遺の李渥を掌書記とし、長安県の尉の崔沢を支使とし、全員一挙に選ばれた。京師の士人は太原を小朝廷に比して、才能ある人物を多く得たと言っていた。当時、軍乱をうけ、掠奪は日に日に激しくなっていった。鄭従讜が職務にあたると、悪者は隠れようとする思いを失い、そこで反賊を逮捕し、その首謀者を誅殺した。張彦球は普段から善人であり、また才能は任命すべきものがあったから、釈放して罪を問わず、軍を付属させ、明らかに他の疑いはなかったから、そのためその死力を得ることになった。彼の凶族の大悪はあえて暴かず、暴いてもまたたちまち従わせたから、士は皆恐れて平伏した。 たまたま黄巣が京師を占領し、帝は梁・漢に留まり、鄭従讜に詔して配下の軍を北面招討副使の諸葛爽の指揮下として討伐させた。鄭従讜は団士(民兵)五千で、将の論安を派遣して諸葛爽に従わせた。しかし李克用は太原の隙に乗ずるべきだと言って、沙陀の兵を突然その地に入らせ、汾州の東に立て籠もり、賊を討伐すると釈明し、何度も煩わしく催促した。鄭従讜は酒食で軍をねぎらい、李克用は遠くから「自分はまさに南に向かおうとしているが、願わくは貴君に一言申し上げたい」と言うと、鄭従讜は城壁の上に登り、感慨深そうにして、功を立てて天子の厚恩に報いさせようと言うと、李克用は言葉につまり、再拝して去った。しかし密かにその部下を放ってほしいままに掠奪させ、そのため人心は怨みに思った。鄭従讜は論安に追撃させ、将の王蟾・高弁らとともに最後尾を攻撃させ、また振武軍の契苾通が到着して合流し、沙陀と戦い、沙陀は大敗して引き返した。そこで論安らを派遣して北百井鎮に駐屯させたが、論安は勝手に帰還したから、鄭従讜は諸将と合わせて、論安を連れてくるよう命じて、これを鞠場で斬った。中和二年(882)、朝廷は沙陀を赦し、賊を撃たせて自ら贖わせることとなったが、兵はあえて太原を通過せず、嵐州・石州より河に沿って南下し、ただ李克用のみは数百騎を従えて通過し、城下で挨拶し、鄭従讜に名馬・器幣を贈って去った。翌年、賊が平定されると、李克用に詔して鄭従讜に代わって河東節度使を領することとなった。李克用の使者がやって来て「親がいる雁門によってから赴任するから、公はゆっくりと行かれるがよい」と述べたが、鄭従讜は即日、監軍の周従寓を知兵馬留後とし、掌書記の劉崇魯を知観察留後とし、李克用が到着すると、帳簿を確認して実証し、その後鄭従讜は行った。 黄巣軍が兵糧が少なくなって掠奪を行っており、鄭従讜は間道から絳州に走ったが、並走する道は塞がって不通となっており、数か月して、召喚されて司空を拝命し、再び宰相となり、太傅兼侍中に昇進した。帝に従って興元府に到着したが、病によって骸骨(辞職)を乞い、太子太保を拝命したが、邸宅に戻って卒した。諡を文忠という。 鄭従讜はいつも礼法があり、性格は自慢したり傲慢であったりするようなことなく、冷静沈着で策謀に秀でた。汴州にいる時、兄の鄭処誨が在任中に没したが、任期が終わるまで節度使軍中で音楽を演奏しなかった。陸扆を知って弟子とし、しばしば褒め称えたが、陸扆は後に宰相の位についた。張彦球は、誠実でうまく処置し、何度も敵を破って功績があり、奏上して行軍司馬とし、後に金吾将軍に任じられた。それより以前、盗賊が中原に流れ、沙陀は強く剽悍であったが、しかしついに用いるようになったのは、思うに鄭従讜が太原の重鎮となったからであろう。当時、鄭畋は宰相の地位のまま鳳翔節度使となり、檄文を発して賊を討ち、両人の忠義は相並び、賊は最も憚り、「二鄭」と名付けたという。 鄭珣瑜は、字は元伯で、鄭州滎沢県の人である。若くして父を失い、天宝年間(742-756)の安史の乱に遭い、隠れ住んで陸渾山で耕し、母を養い、州の政務に関わらなかった。転運使の劉晏が奏上して寧陵県・宋城県の尉に補任され、山南節度使の張献誠が上表して南鄭県の丞としたが、すべて謝して応じなかった。大暦年間(766-779)、諷諌主文科を優秀な成績で及第し、大理評事を授けられ、陽翟県の丞に任じられ、抜萃科に及第して万年県の尉に任命された。崔祐甫が宰相となると、左補闕に抜擢され、京師から出されて涇原帥府判官となった。京師に入って侍御史・刑部員外郎を拝命したが、母の喪によって解職した。喪があけると、吏部に遷った。貞元年間(785-805)初頭、詔して十省の郎を選んで畿内・赤県を治めさせることとなり、鄭珣瑜は検校の本官で奉先県令を兼任した。翌年、饒州刺史に昇進した。京師に入って諌議大夫となり、四遷して吏部侍郎となった。 河南尹となった。まだ境に入って赴任する以前に、徳宗の降誕日となり、河南尹では馬を献上しようとし、吏は赴任前に河南尹の印を使い、鄭珣瑜に許可を得てから実行し、なおかつ宮廷に献上しようとした。鄭珣瑜はおもむろに「まだその官となる前ににわかに献上するようなことは、礼だといえるだろうか」と言って聴さなかった。性格は厳重で言葉は少なく、今まで私事で他人を利用したことはなく、また他人もまたあえて鄭珣瑜に面会して私事をしようとしなかった。河南に到着すると、安静となって下々への恵みとなり、価格が安いときに暴落を防ぐために買って保存しておき、価格が高くなったときに、高騰しすぎないように保存しておいたものを売ることによって物価の安定を図って民の便とした。まさにこの時、韓全義が兵を率いて蔡州を討伐し、河南は主に兵站を担い、鄭珣瑜は密かに陽翟県に蓄えをし、官軍に給付し、百姓は運送の労役を味わうはめにならなかった。おおむね勅使を送迎するのに、いつも決まった場所があり、吏は密かにその馬が数歩も用いたことがないのを知っていた。韓全義は監軍とともに別に檄文して馬を使おうとしたが、詔ではないから、鄭珣瑜は檄文を壁に掛けて馬を使わせなかった。討伐が中止になるまで、およそ数百にも及んだ。ある者が諌めて、「軍は当然機会は急を要するものであるのに、公は回答すべきではなかったのではないか」と言ったが、鄭珣瑜は、「武士は軍を率いており、多くそのことを恃んで強制してきた。いやしくもこれを罪とするであれば、尹がこれを罪とすべきである。万人をして禍いを産むことをなさないのである」と言い、そのため部下は恨み言を言う事はなかった。当時、河南尹としての治世は張延賞に匹敵すると評され、重厚堅正さについてはそれに勝るとされた。 再び吏部侍郎の職をもって召喚され、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に昇進した。李実が京兆尹となり、収奪して進奉につとめたから、鄭珣瑜は表立って詰め寄って「留府の緡帛の入りは最初からあるもので、ほかは度支が担当すべきものである。今の進奉というのは、一体どういったところから出てきたものなのか」と言い、詳細にそのように奏上した。李実は当時帝の寵幸を得ていたが、どっちつかずとなり罷免された。 順宗が即位すると、そこで吏部尚書に遷った。王叔文が州吏から翰林学士・塩鉄副使となり、宮中では宦官と交わり、政務を乱した。韋執誼が宰相となり、宮中の外にあって奉行した。王叔文はある日中書省にやって来て韋執誼と面会しようとしたが、担当の吏が「宰相は会食の最中で、百官は面会できない」と言ったから、王叔文は怒り、吏を叱りつけ、吏は走って入って申し上げると、韋執誼は立ち上がり、閣にて王叔文とともに語った。鄭珣瑜と杜佑・高郢は食事を止めて待っていた。しばらくして吏が「二公は一緒に食事している」と言ったから、鄭珣瑜は歎いて「私はまたここにいるべきなのか」と言い、左右に命じて馬で帰り、家の臥って七日間出て来ず、罷免されて吏部尚書となった。またその時病となって、数か月で卒した。年六十八歳。尚書左僕射を贈位された。太常博士の徐復が諡を文献としたが、兵部侍郎の李巽が「文は、天地を治めることである。二字の諡は、『春秋』の正ではない。改めて議論することを願う」と言い、徐復は「二字の諡は、周・漢以来存在する。威烈・慎静は周代のものである。文終・文成は漢代のものである。ましてや鄭珣瑜は名臣で、二字の諡を嫌がることはなかろう」と言った。李巽は「諡は一字なのが正しいので、堯・舜がそれである。二字の諡は古の制度ではなく、法では載せられていない」と言ったが、詔して徐復の議に従った。子に鄭覃がいる。 鄭覃は、父の蔭位によって弘文校書郎に補任され、諌議大夫に抜擢された。憲宗が五人の宦官を和糴使とすると、鄭覃は上奏して罷めさせた。 穆宗は即位すると、国政を心配せずに、しばしば遊興に耽った。吐蕃が強勢となった。鄭覃と崔郾らと朝廷で「陛下が新たに即位されてから、身を入れて政務に勤められるべきですが、しかし宮中では宴に耽って喜ばれており、外では遊戯・狩猟を楽しまれています。今吐蕃が辺境にあって、中国の隙を狙っており、緊急であってもそうでなくても、臣下は陛下の所在を知らず、なにかあって敗れないことがありましょうか。金や絹の出処は、もとより民の血と汗であり、俳優がこれといった功績がないのに、むやみに賜わるようなことをすべきでしょうか。願わくば節度をもって用いられ、余剰分は辺境の防備の資とし、役人に重ねて百姓から取り立てさせるようなことがなければ、天下の幸いなのです」と言ったから、帝は喜ばず、宰相の蕭俛を振り返って、「こいつらは何者か」と尋ねると、蕭俛は「諌官です」と答え、帝は思いを理解し、そこで「朕の欠点を、下の者がよくすべて正すのは、忠である」と言い、鄭覃に勅して「宮中でとくに忠誠がなく、後で私のためであるというような者があれば、ただちに卿と延英殿で引見させよ」と言い、当時宮中での奏上は久しくなくなっていたが、ここに至って士は互いに喜びあった。 王承元が鄭滑節度使に任じられるも、現任の鎮の人たちは固く留めて出さなかった。王承元は朝廷の重臣にその軍を慰労させることを要請し、鄭覃に詔して宣諭使として、起居舎人の王璠を副使とした。それより以前、鎮の人は非常に傲慢であったが、鄭覃が詔を伝えると、大義につとめることに開眼し、軍はついに鎮まり、王承元はそこで去ることができた。 宝暦年間(825-827)初頭、京兆尹に抜擢された。文宗は召喚して翰林侍講学士とし、工部侍郎に昇進した。鄭覃は経術に該博であり、人情があつく篤実で正道を守り、帝は最も重んじた。李宗閔・牛僧孺が宰相となると、鄭覃が李徳裕と親交があり、その親近の者が助力することを嫌い、表向きは工部尚書に昇進させながら、侍講を罷免して、遠ざけようとした。帝は常に向学の人で、大変鄭覃を慕い、再び召寄せて侍講学士とした。李徳裕が宰相となると、鄭覃を御史大夫とした。帝はかつて殷侑がよく経を述べるから、その人となりを鄭覃に匹敵すると述べていた。李宗閔はみだりに「二人は本当に経に通じていますが、その議論はとるに足りません」というと、李徳裕は「鄭覃・殷侑の言うことは、他の人は聞きたいとは思わないでしょうが、ただ陛下は聞くべきなのです」と言った。にわかに李徳裕が罷免されると、李宗閔は再び用いられ、鄭覃を戸部尚書より秘書監に左遷した。李宗閔が罪を得ると、刑部尚書に遷り、尚書右僕射、判国子祭酒に昇進した。李訓が誅されると、帝は鄭覃を召寄せて詔して禁中を視させ、遂に同中書門下平章事(宰相)となり、滎陽郡公に封ぜられた。 文章を好まず、進士の浮ついた虚構を嫌い、進士科の廃止を建言した。「南北朝が収まらなかった理由は、文章の才能というのが人間の質朴さや誠実というのを上回ったからです。士が才能を用いるのに、どうして必ず文章によらなければならないのでしょうか」と述べ、また「文人の多くは軽薄です」と述べた。帝は「純情であったり酷薄であったりするのは、生まれ持った才能によるのであって、どうして進士に限ったことであろうか。またこの進士科を設置してから二百年になるが、どうして改めるべきなのか」と言うと、そこで沙汰止みとなった。帝はかつて百官が一日も怠けるべきではないと言って、そこで香炉机を指さして「これははじめ精美であったが、長らく使っているうちに輝きを失っている。磨かなければ、どうして最初のように戻ろうか」と言ったが、鄭覃は「世の中の弊害を救うにはまず根本を責めることにあります。近頃皆職務にあたらず、王夷甫(西晋の王衍)を慕うようになり、馬鹿にして職務にあたらないのです。これが治世が平和で人々が無事でのんきでいられる理由なのです」と言ったから、帝は「君に法令に慎ませる必要があるだけだな」といい、門下侍郎・弘文館大学士に昇進した。 帝は延英殿に御座して詩の良し悪しを論じ、鄭覃は「孔子が抜粋したのは、三百篇で、それが常に正しくなければ、どうして天子の道となすに足りましょうか。「国風」や「大雅」「小雅」は、すべて下の者が上の変事を風刺するもので、上が下の者を教化するためのものではありません。そのため王者は詩の内容をつかみとり、これによって風俗の得失を考えたのです。陳の後主や隋の煬帝のように、特に詩の章句をよくしましたのに、王者の治術を知らないようなものは、そのためついに反乱がおこることになったのです。詩編を少しばかりできるなどとは、願わくば陛下がご採用されませんように」と述べた。 帝は事あるごとに「順宗の事績は詳細ではないが、史臣の韓愈はどうして当時人に屈していたのだろうか。昔、漢の司馬遷は「任安に与える書」で、文章は多く怨みで答えており、そのため「武帝本紀」に多く実を失ったのだ」と言っていたらが、鄭覃は「武帝の治世中、大いに軍事を辺境でおこし、生ける者は消耗し、府庫は枯渇したので、司馬遷が述べるところは過言ではありません」と言い、李石は「鄭覃が申したところは、武帝に因んで諌めたもので、陛下には終に盛徳を究められますように」と言った。帝は「本当にそうだな。事のし始めは盛大であっても、その勢いを持続して完遂できる人は少ない」と言い、鄭覃は「陛下は書を読むのを楽しまれますが、しかし根本の意義は一・二しか理解されていません。陛下が仰せになったことはこれなのです。寝食にわたってこれを行わなければなりません」と言った。 鄭覃はすでに名儒として知られ、そのため宰相が国子祭酒を兼領した。鄭覃は太学に五経博士を置き、禄は王府の官に準じて給付することを願い出た。再び太子太師に遷った。開成三年(838)、旱魃となり、帝は多くの宮人を宮中から出したから、李珏が祝辞を述べて、「漢の制度では、八月に人を選び、晋の武帝は呉を平定すると、採用者を多くしました。仲尼(孔子)が「いまだ徳を好む(こと色を好むが如くなる)者を見みざるなり」と言いましたように、陛下は益がないものを追放しましたが、これは盛徳です」と言い、鄭覃もまた褒め称えて後押しし「晋は採用の失敗のため、天下をあげて夷狄の習俗に陥るはめになりました。陛下はこれを鑑とすべきです」と言い、帝は美点を助けるのを善とした。病によって宰相の位から去ることを願い出て、詔して太子太師のみ解任され、五日に一度中書省に入ることを聴され、政務に推し量らせた。にわかに宰相を罷免されて尚書左僕射となった。武宗が即位した当初、李徳裕が再び宰相に任用されると、鄭覃の助けを得て共に政務に当たりたいと望まれたが、固辞し、そこで司空を授けられ、致仕し、卒した。 鄭覃は清く正しく、倹約家かつ謙譲な人物であり、人に取り入ったことはなかった。位は宰相となったが、邸宅は加飾せず、内には妾や側室がいなかった。娘孫が崔皋と結婚したが、崔皋の官は九品衛佐程度で、帝は権家と婚姻しなかったことを重んじた。鄭覃が侍講となると、通常の礼節・習慣に厚く、ご機嫌取りを斥けるよう再三天子のために申し上げ、そのためについに宰相となった。しかし悪を憎んで受け入れられないことが多く、世間は大変な欠点だと思って憚った。当初、鄭覃は経籍が損壊して錯簡があるのに、博士の知識や考えが浅く狭くて正しくすることができないから、建言して、「願わくば、学識が該博な人と共に力をあわせて公刊し、漢の旧事に準じて石を削って太学に設置し、万世の法として示したく思います」と述べ、詔して裁可された。鄭覃はそこで周墀・崔球・張次宗・孔温業らと上表してその文を正し、石に刻んだ。子に鄭裔綽がいる。 鄭裔綽は、高くそびえ立っては父の風があり、一門の蔭位によって昇進し、李徳裕の知遇を得て、渭南県の尉に抜擢された。直弘文館となり、諌議大夫に遷った。宣宗の即位当初、劉潼が鄭州刺史から桂管観察使を授けられたが、鄭裔綽は「劉潼は責められてからまだ長いことたっておらず、観察使とすべきではありません」と論陣を張り、帝はすでに使者を派遣して詔を行き渡らせようとしていたが、追って取り止めとした。給事中に遷った。楊漢公は荊南節度使となると、貪欲さを罪とされて秘書監に貶されたが、ついで同州刺史を拝命した、鄭裔綽は鄭公輿とともに制書を封還した。帝は即位してから、諌臣からの規正を納れなかったことはなかった。ここに至って、楊漢公の赴任地は、遂に変えられなかった。たまたま宴を禁中で賜い、天子は撃球して、門下省にやって来たが、二人に向かって、「近ごろ楊漢公の事を論じたのは、朋党に類する者だ」と言うと、鄭裔綽は、「同州は、太宗が王地を興しました。陛下はその人の子孫となって、任命を慎重にしなければなりません。また楊漢公は罪とされて官を貶されたのに、どうして重要な地を私にするのでしょうか」と言うと、帝は顔色が変った。翌日、商州刺史に貶された。当時、衣服は緑色であったが、そこで詔して緋魚を賜った。後に秘書監から浙東観察使に遷り、太子少保で終わった。鄭覃の弟に鄭朗がいる。 鄭朗は、字は有融で、始め柳公綽の山南東道節度使の幕下に任じられ、京師に入って右拾遺に遷った。開成年間(836-840)、起居郎に抜擢された。文宗は宰相と政治を議論しており、その時鄭朗に史臣として議事録をとっていたが、鄭朗に向かって「もしかして議論の内容を記録しているのか。朕に見せてくれ」と言ったが、鄭朗は、「臣が筆をとって書いているものは史です。故事では天子は史を見ないことになっており、昔太宗が見ようとしましたが、朱子奢が、「史は善を隠さず、悪を忌むことはありません。凡庸な君主より下であれば、あるいは非を飾って失敗から自らを守ろうとして見るなら、そうすれば史官は自ら守るすべがないので、またあえて直筆しないでしょう」と言い、褚遂良もまた「史には天子の言動を記録し、非法であっても必ず書くのは、自ら戒めとされることを願うからです」と言っています」と述べたから、帝は喜び、宰相に向かって「鄭朗は故事を援用して、朕に起居註を見させなかったが、よく職を守る者というべきである。しかし人君の行いは、善も悪も必ず記し、朕は平日の言動が治礼にかなっていないために、将来の恥となるのを恐れるのである。一見したいと願うのは、自ら改めることができると思うからである」と述べたから、鄭朗は遂に史を見せた。 諌議大夫に累進し、侍講学士となった。華州刺史によって、京師に入って御史中丞・戸部侍郎を拝命した。鄂岳観察使・浙西観察使となり、義武軍節度使・宣武軍節度使の二節度使に昇進した。工部尚書判度支・御史大夫を経て、再び工部尚書・同中書門下平章事(宰相)となった。宦官の李敬寔が、鄭朗が騎乗していたのを避けずに馳せ去り、鄭朗はその事を上奏した。宣宗が李敬寔を詰問すると、自ら供奉官であるから道を避けなかったと弁明したが、帝は「我が命を伝えるのに道を閉ざして行くのが許されるというのなら、私的に出たときも、宰相を避けないのか」と言い、ただちに李敬寔を追放した。右拾遺の鄭言なる者は、もとは幕府にいたが、鄭朗は鄭言が諌臣であるから宰相らと得失を議論させようとしたが、鄭言は議論しなかったからその職を廃し、奏上して他の官に遷した。しばらくして、病によって自らの免職を願い出て、太子少師となった。卒して、司空を追贈された。 それより以前、鄭朗が進士に推挙されると、人相見が「君は貴くなるだろう。しかし進士科に及第しては駄目だ」と言ったが、にわかに役人が鄭朗を第一位に抜擢したが、再審議が行われて試験資格を失うと、人相見は「これでよし」と祝った。その後果たして宰相となった。 高郢は、字は公楚で、その先祖は渤海より衛州に移り、遂に衛州の人となった。九歳にして『春秋』に通暁し、文章を巧みにし、「語黙賦」を著し、諸儒はこれを称賛した。父の高伯祥は好畤県の尉となり、安禄山が京師を陥落させ、殺されるところであったが、高郢は幼い身で衣を脱いで身代わりとなることを願うと、賊はこれを義とし、二人とも許された。 宝応年間(762-763)初頭、進士に及第した。代宗が太后のために章敬寺を造営すると、高郢は白衣の身でありながら上書して諌めた。以下に述べる。 「陛下の大孝は心によって、天とともに極まることなく、諸々の思いは、これ以上ではありません。臣が思いますに、力を尽くして菩提を弔うことは、本当に有益なことではありますが、時を妨げて人からかすめとることは、損なわせることになってしまうのです。舎人が寺に行ったところで、何の福なぞありましょうか。昔、魯の荘公が桓公の廟を丹塗りして垂木に彫刻を施したのを、『春秋』はこれを書いて非礼としました。漢の孝恵帝・孝景帝・孝宣帝は郡国の諸侯に高祖・文帝・武帝の廟を建立させましたが、元帝の時代になると、博士・議郎とともに古礼を考察して、すべてやめさせました。廟であってもなお礼を越えて建立せず、ましてや寺は宗廟が安んじる場所ではなく、神霊がお住まいになるところでしょうか。万人の力を尽くし、一切の報いを求めても、それはできないことは明白なのです。 近頃、戦乱は非常に盛んで、生ける者をおかし、百姓は恐れおののいて、毎日心配しない日はありません。将軍を派遣して迎え撃たせましたが、尺寸の功績すら潰え、隴外の田地は、悪人どもの手に委ねられたのです。太宗が起された艱難の業は、陛下に伝えられましたが、すべては得られず、尺土は侵され、偉業がなされても、なお欠があることを恐れるのです。ましてや武力が用いられてから十三年、負傷者は救護されず、死者は収容されず、兵を補充して軍に送り込んでいるにも関わらず、今でも終わりがありません。軍をおこすこと十万、毎日の戦費は千金となり、十三年にもなり、百万人を動員しても、資材や糧食、必要消耗品は、人に満足に行き渡って、疲労を回復できるのは、十人中に一人にも満たないのです。父子兄弟は、互いに気が晴れないのを見て、口やかましく渇望して、王命に従うのです。たとえ宮中から出費して寡婦に給付することができないのでしたら、疲弊からようやく休ませて慰撫しなければなりません。敵がまだ平定されておらず、侵略された土地はいまだに回復しておらず、金革の甲冑はいまだにしまい込めず、人を疲れさせているのにいまだ慰撫せず、太倉には一年中の儲えがなく、大農家には榷酤(酒専売)の弊害があるのに、どうしてこの時に寺院造営の力役をおこそうとするのでしょうか。この頃、八月に雨は満足に降らず、豆と麦の収穫の機会を失い、老農夫は気にして、心配で満足に食べられません。もし給付されないようなことがあったならば、どうやって救えましょうか。寺がなくても問題ありませんが、人がいなくなっても問題ないといえましょうか。しかしながら土木の勤めや、役立つための費用は、府庫を消耗させていますが、どうして寺院造営を行うべきでしょうか。府庫はすでに枯渇していますが、そのためまた苛斂誅求した場合、もし人が命に耐えられなければ、盗賊が互いに支援しあって勃興し、戎狄は隙に乗じるので戦乱となりますが、陛下が深く心配せずにおれましょうか。 臣は次のように聞いております。聖人は天命を受けるや、人を主とし、いやしくも天を救う勲功によって、天と人とが協和し、そこで宗廟は福を受け、子孫は恩恵をこうむるのです。『伝(孝経)』に「徳教を民草に施し、則として背くこと無し。これを天子の孝という」とあり、また、「なんじが祖先に思いを馳せ、その徳を修むべし」「上帝の福禄を受けるや、子孫にまで及ぶ」とあり、これによって王者の孝は、天地に遵奉し、父祖を天に配して祀り、徳教に慎み、それによって万民に臨むということを知るのです。四海の内をして、喜んで祭祀に助力させ、王朝の生命を引き伸ばし、永遠にしてつきることがないようにさせるのです。仏寺を崇めて建立し、金や玉を飾り立てるのが孝行者であるとは聞いたことがありません。夏の禹王は宮殿をいやしんで、力を尽くして水利事業に勤しんだから、人々は今に至っても称賛するのです。梁の武帝は土木に尽くして、塔や廟を飾りましたが、人々からの称賛はありませんでした。陛下は費用を節減して人を愛され、夏后(夏)と名声を等しくされるべきであって、どうして必ず人を労して多くの人を動かし、梁の武帝の遺風を継ぐことがありましょうか。また建立したばかりなので、費用はまだ知れており、人々は力を図るのを貴ぶのであって、必しも完成を貴ばず、事は時と相応することを貴び、必ず成し遂げることを貴ぶということはありません。陛下がもし思慮をめぐらせ、人心に従うのなら、聖徳にして孝思ぶりは天地にいたり、千や万の幸福は前後に受けるのです。かつてこれが一寺を建立する功徳と較べられることがあったでしょうか。」 奏上してまだ返答がある前に、再び上言した。 「王者が何かをし、何か行動に出ようとする時は、必ず多くの人々の意見を聞いて人々に従うものですが、そうすれば自然の福は、求めなくてもやって来るもので、未然の禍いは、避けなくても絶えるのです。臣は以下のように聞いております。神人には功績がないというのは、功績があることを功績とはしないからであり、聖人には名誉がないというのは、名誉があるというのを名誉とはしないからです。功績があるのに功績としないのは、そのため功績は大きくはなく、名誉があるのに名誉としないのは、そのため名誉は多くはないのです。古の明王は善行を積んで福を招き、財を費やさずに福を求め、徳を修めて禍を鎮め、人に労役させずに禍を祓うのです。陛下の造営は、臣は密かに戸惑うばかりです。もし功績を以てすれば、天は万物を覆い、地は万物を載せ、陰気が散って陽気が展開し、いまだかつてできたことはありません。もし名誉を以てすれば、この上ない徳行と最も大切な道徳によって、天下を従え、いまだかつてなかったことです。もし福を招くを以てすれば、神明に通じ、四海に輝き、財産を費やすことはありません。もし禍を祓うを以てすれば、まさにその徳につとめ、天災はおこらず、人に労役させることはありません。今、造営事業は催促され、人夫は召集されて、土木事業は並行して進められ、日々一万もの工夫を動員し、食事休憩する暇もなく、笞によって痛みを訴える声が道路に充満しているのです。これによって福を望んでいるというのは、臣には恐れながらそうではないと思うのです。陛下は多難を平定され、政務に励まれ、行いは寬仁に勤められておりますことは、天下にとって幸いであると存じます。今はもとより群衆の心とは異なっており、左右の者の間違った計画にしたがっておられるのが、臣は密かに陛下のために残念に思うことです。」 受け入れられなかった。 茂才異行科に好成績で及第し、咸陽県の尉に任じられた。郭子儀が採用して朔方掌書記となった。郭子儀は判官の張曇に怒り、死にあたると奏上したが、高郢は救命に尽力したから、郭子儀の意にそむき、左遷されて猗氏県の丞に遷された。李懐光は引き立てて邠寧府を補佐させた。李懐光は河中に帰ろうとした際、高郢は乗輿を西に迎えるのにこしたことはないと勧めたが、李懐光は背いていたから怒り、許さなかった。既に李懐光はまた全軍を西に進軍させた。当時、渾瑊が孤立した軍を率いて賊に抵抗していたが、諸将は集まっていなかった。高郢は李懐光に乗じられることを恐れ、李鄘とともに固く止めた。たまたま李懐光の子の李琟に高郢は近侍していたが、高郢はそこで「あなたは天宝年間(742-756)以来、軍事行動をしてきた者を見てきたでしょうが、今誰がまた残っているでしょうか。また国家にはもとより天命があり、人間の力では預かり知れぬものです。今もし軍にたよって事を動せば、自らの行いによって天に見放されることになります。各家々のような小さな単位であっても、必ず忠や信を得られます。どうして三軍が潰走しないとでもいうのでしょうか」と脅すと、李琟は大いに恐れ、汗が流れて話すことができなかった。高郢はそこでその将軍の呂鳴岳・張延英とともに間道から帰国しようと謀ったが、事は発覚し、李懐光はまず二将を斬り、その後高郢を引っ立てて詰問したが、高郢は言われたことに逆らって恥じたり隠れたりすることなかったから、見ていた者は涙を流した。李懐光は恥じて、高郢を許した。孔巣父が殺害されると、高郢は死体を撫でてて泣いた。李懐光が誅されてから、李晟はその忠誠を上表し、馬燧は書記に任ずるよう上奏した。召喚されて主客員外郎を拝命し、中書舎人に遷った。しばらくして、礼部侍郎に昇進した。当時、四方の士は私党を結び、さらに互いに褒めて推薦しあい、これによって役人を動かし、名に従ってその実はなかった。高郢はこれを嫌い、そこで面会を求める者を謝絶し、自らの徳行を専らにした。貢部を司ることおよそ三年、孤独の中に見極め、浮ついたことを抑えたから、流行に流されるような世の中は衰えていった。太常卿に遷った。 貞元年間(785-805)末、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に抜擢された。順宗が即位したが、病によって政治を行うことができず、王叔文の党派は朝廷を根拠とし、帝は始め皇太子に詔して監国としたが、高郢は刑部尚書に改められ宰相を罷免された。翌年、華州刺史となり、政治は真心があって鎮静した。それより以前、駱元光が華州から軍を引き連れて良原を防衛した。駱元光が卒すると、軍は神策軍に編入されたが、華州は毎年その食料を送付しており、民は輸送に困窮していたが、歴代の刺史は憚って敢えて申上する者がいなかった。高郢は奏上してこれを止めさせた。再び京師に召喚されて太常卿となり、御史大夫に任命された。数か月して兵部尚書に改められたが、固く骸骨を乞うた(辞職を求めた)から、尚書右僕射となって致仕した。卒した時、年七十二歳で、太子太保を追贈され、貞と諡された。 高郢は慎み深く、人とは交わらなかった。常に制誥を司り、家に原稿を留めることはなく、ある人がどうして前任者たちのように起草した制を文集としないのかと勧めると、「王言は私家集に納めるべきではない」と答えた。普段より家産経営を行わず、経営を勧める者がいると、「禄受けて、薄給であったとはいえ私にはあまりあるものだ。田荘をどうして取るのか」と答えた。高郢が宰相となったのは、鄭珣瑜と同時に拝命した。王叔文が専制すると、鄭珣瑜は非常に憂いて、議論したが同意を得ることができず、そこで病と称して出仕しなかったが、高郢は建白することはなく、突然鄭珣瑜とともに罷免され、そのため議論する者は鄭珣瑜が賢者であるとし、高郢を責めた。子に高定がいる。 賛にいわく、王叔文は宮中の内では女官や宦官を連れ立って、外では悪者どもを頼りとし、こうやって天子の権力を奪った。しかし当時太子はすでに成長しており、朝廷で逆らう者はいなかったから、もし鄭珣瑜・高郢と杜佑らが毅然として東宮を引き入れて監国とすれば、王叔文のような輩たちを退かせるのは、その力では難しいことではなかった。安寧を懐かしく思って目の前の安楽のために黙ってしまい、だから世間の人はどうして彼らを宰相として用いたのかと言ったのであった。鄭珣瑜は一度怒ると邸宅で不貞寝し、高郢と杜佑は宰相の位に留まったままで、二人もまた宰相としての程度を論評するほどでもなかったということである。 高定は、聡明で弁舌に優れ、七歳にして『尚書』を読み、「湯誓」の場面に到ると、跪いて高郢に「どうして臣が君を伐つのですか」と尋ね、高郢は「天の命に応じ人の願いにしたがったのだ。どうして伐つなんていうのか」と答えると、「命令に正しく従ったならば、先祖の位牌の前で恩賞を与えよう。命令に従わなければ、土地神の形代の前で死刑に処すだろう(『尚書』夏書甘誓)といいますが、これは人の願いにしたがったというのでしょうか」と言ったから、高郢は優れていると思った。小字を董二といい、世間ではその神童ぶりを重んじられ、字によって世間に通行した。成長すると王弼注『易』に長じ、図をつくって八卦を描き、上は円で、下は方形、合せると重なり、転易を演易とし、七転で六十四卦となり、六甲・八節は備っていた。仕えて京兆府参軍の地位まで到った。 鄭絪は、字は文明で、鄭余慶の従父である。幼くして文章に秀で、文章をよくつくり、交際した人たちは全員、天下の名士であった。進士・博学宏辞科を優秀な成績でk及第した。張延賞が剣南節度使となると、上奏して掌書記に任じられた。京師に入って起居郎・翰林学士となり、累進して中書舎人に遷った。 徳宗が興元府から帰還すると、六軍統軍を置いて六尚書にみさせ、これによって功臣を処遇し、除制用白麻付外。又廢宣武軍、益左右神策、以監軍為中尉。竇文場恃功、陰諷宰相進擬如統軍比。任命の制に白麻の詔書を用いて員外とした。また宣威軍を廃止し、左右神策軍に振り分け、監軍を中尉とした。竇文場は功績をたのんで、密かに宰相にほのめかして統軍と同じようにしようとした。鄭絪は制書を作成しようと奏上して、「天子が封建するときや、また宰相を任用するときに、白麻の制書で任命し、中書省・門下省に付することになっていますが、これによって中尉を任命されるのでしたら、知らずと陛下は特に竇文場を寵遇しているからでしょうか。遂には後々までの法令として著すのでしょうか」と言うと、帝は悟り、竇文場に向かって「武徳・貞観年間(618-649)の時、宦官の任用は内侍・諸衛将軍同正止まりであって、緋服を賜る者はほとんどいなかった。魚朝恩の時からは旧制に復することはなかった。朕が今お前を用いるのは私心がないとはいえないから、もし白麻の制書で宣告すれば、天下はお前が朕を脅してやったとみなすだろう」と言うと、竇文場は叩頭して謝罪した。さらに中書省に命じて詔をつくり、あわせて統軍が白麻の制書で任命することを廃止した。翌日、帝は鄭絪に引見して「宰相は宦官を拒まなかったが、卿の発言のお陰で悟ることができた」と言った。 順宗が病気となって、話すことができず、王叔文は牛美人とともに政務を行い、権力を内外に振ったが、広陵王(後の憲宗)が勇敢で聡明であるのを憚って、危害を加えようとした。帝は鄭絪を召寄せて立太子の詔を起草させたが、鄭絪は内容を聞く前にたちまちに「嫡を立てるに長を以てす」と書き、跪いて申し上げたから、帝は頷いて定まった。 憲宗が即位すると、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、門下侍郎に遷った。それより以前、盧従史は密かに王承宗と親交を持って、詔によって潞州に帰ろうとしたが、盧従史は挨拶するとき、潞州は兵糧が乏しいから軍を山東に留めることを願った。李吉甫は密かに鄭絪が盧従史に漏らしたと誣告したから、帝は怒り、浴堂殿に座して学士の李絳を召寄せてその理由を語り、「どうしたらよいか」と言ったから、李絳は「本当にそうなのでしたら、罪は一族に及ぶでしょう。しかし誰が陛下にそのように言ったのですか」と言うと、「李吉甫が私に言ったのだ」と言い、李絳は「鄭絪は宰相に任じられてから、名節で知られ、犬畜生のように奸臣と一緒に外に通じたりはしないでしょう。恐らくは李吉甫が宰相たちの間で軋轢があって嫌い、悪口を言って陛下を怒らせようと捏造したのです」と言ったから、帝はしばらくして「危うく私は誤るところであった」と言った。 これより以前、杜黄裳は帝のために節度使を削減して王室を強化しようとし、建議して裁可されたが、決定に鄭絪を預からせず、鄭絪に黙々としていた。宰相にあること四年、罷免されて太子賓客となった。しばらくして検校礼部尚書となり、京師から出されて嶺南節度使となり、後に河中節度使に遷った。京師に入って御史大夫、検校尚書左僕射、兼太子少保となった。文宗の大和年間(827-835)、年により骸骨(辞職)を乞い、太子太傅によって致仕した。卒した時、年七十八歳で、司空を追贈され、諡を宣という。 鄭絪はもとより儒学によって昇進し、道を守って寡欲で、宰相にあっても赫々たる功績はなかったが、篤実さによって称えられた。名は学を修めることによってよく知られ、世間からは耆徳によって推された。 孫の鄭顥は、進士に推挙され、起居郎となって万寿公主を娶り、駙馬都尉を拝命した。識者たる器があった。宣宗の時、恩寵は比類する者がなかった。検校礼部尚書・河南尹で終わった。 権徳輿は、字は載之である。父の権皐は「卓行伝」にみえる。権徳輿は七歳にして父を喪い、哭法や作法が成人のようであった。加冠する前から、文章によって諸儒の間で称えられた。韓洄が河南で黜陟使となると、任命されて幕府に置かれた。また江西監察使の李兼の幕府に従って判官となり、杜佑・裴胄も交って任命された。徳宗がその逸材ぶりを聞いて、召喚して太常博士とし、左補闕に改められた。 貞元八年(792)、関東・淮南・浙西の州県で大洪水となり、家屋を破壊し、人々が溺死した。権徳輿は建言して、「江・淮の田は一たびよく実れば、それは数道もの助けになり、だから天下の大計は東南に仰ぐのです。今長雨が二ヶ月におよび、農田は開くことがなく、庸が来ずに京師への運搬が途絶えることは日に日に多くなっています。群臣で博識で通じているものを選び、持節させて慰問させ、人々が苦しんでいるところを尋ね、その租税の入りを明らかにし、軍の指揮官と連携して善後策を追求するべきです。賦税を人々から取るには、人々の根本を固めてからおさめるにこしたことはありません」と述べ、帝はそこで奚陟ら四人を派遣して慰撫に巡査させた。裴延齢は猟官に巧みであったから判度支となったが、権徳輿は上疏して過失を責め、「裴延齢は常の規定の賦税・費用で取り尽くしていないものを羨利とし、これを自分の功績として誇っています。官銭を用いて常平の雑物を売り、またその値を取り、「別貯の羨銭」と号し、そこで天子を欺き、辺境の軍は軍糧に乏しく、兵糧を受けられず、辺境に禍いを招くので、このことは些末なことではありません。陛下が流言のために疑われることがありますが、どうして新たな利益によって裴延齢をお召しになるのに、核心は本末転倒で、朝臣から選んで辺境の兵糧を査察させないのでしょうか。もし言っていることに誤りがないようでしたら、つまり国家の務めは、その人に委ねるのはよろしくありません」と上疏したが、採用されなかった。 起居舎人に遷任した。その年のうちに知制誥を兼任し、中書舎人に昇進した。当時、帝は親ら各種政務を御覧になられ、補任を重ね、だいたい朝廷で命じて、すべて掣肘下におかれた。それより以前、権徳輿は知制誥で、徐岱は給事中、高郢は舎人であった。数年を経て、徐岱は卒し、高郢は礼部をつかさどり、権徳輿は一人両省にあたった。数十日一度家に帰り、そこで上書し、「門下・中書の両省は、天子の誥命をうけたまわり、詳細に議論して調べ上げ、それぞれの所司にあたります。旧制では、両方の定員は十名で、互いに自由に行動させないよう防いでいます。大抵の事は防ぐところがありますが、そこで官吏は非常となるのです。四方で聞く者は、ある者は朝廷では士が乏しいと思うでしょう。重要な役所ですから、しばらく廃止するべきではありません」と述べた。帝は「卿の労を知らなかったわけではない。ただ卿のような者を選ぼうと思っても、いまだにそのような人を得られないだけなのだ」と言い、しばらくして礼部の貢挙の責任者となり、礼部侍郎に任命された。およそ三年して、はっきり詳細に見分けて、採用された人物は相継いで公卿・宰相となった。明経科の定員を撤廃した。 貞元十九年(803)、大旱魃となり、権徳輿はこれによって朝政の手落ちを上陳した。「陛下は昼時には心を配って膳を減らされ、百姓を思い憐れまれ、宗廟に告げて、諸天地をまつり、一つの物事でも祈るべきであれば、必ずその礼を行い、一人の士の願いがあれば、必ずその言葉を聴かれ、憂人の心はすでに至っているというべきです。臣はこのように聞いています。天災を消し去るには政術をおさめ、人心を感じる者は恵沢を流し、和気が広くゆきわたれば、つまりは祥応が至るのだと。畿内ではだいたい禿げあがった土地で望むべきこともなく、流浪の人は道路に倒れ、麦を種蒔く時期に配慮しようにも、種を蒔くことすらできないのです。経用の物の一部を留め、種を民に貸し、今この租税・賦税および税法上の債務を一切免除すべきです。施策を行っても免除しなければ、また納税の道理がなくなるので、まずこの事をはかるのにこしたことはなく、そうすれば恩沢はお上に帰するのです。貞元十四年(798)夏の旱魃では、官吏は常の賦税の通りに徴収しようとし、県令にいたっては民を殴り辱めていましたから、察すべきものがあるでしょう」また次のように述べた。「漕運はもとより関中をたすけ、もしくは東都に転じて西の道沿いの倉庫の物をことごとく京師に入らせ、江・淮から運ばれた物を率いて常数を備え、その後およそ太倉一年分の計上となります。その余りを除籍して民間に売却すれば、穀物相場は跳ね上がらずに備蓄を放出できるのです」また次のように述べた「大暦年間(766-779)、一枚の絹布の値段は銭四千であったが、今八百どまりとなっており、税の入りはもとのようであっても、民が出すものは当初の五倍になってしまっています。全国の献上はすばやく、国のために恨みを招き、軍需品の求めを広くし、兵は実態がなく帳簿上のみの者もおり、多くを剥ぎ取り、計算の才能があって精密に行えたとしても、よく功利を商うから、目先の利益を得ようとしてかえって損をし、人々を等しく困窮させることになるのです。」また次のように述べた。「この頃追放された者は、自ら無期限に拭い消されたといい、連座して匪賊となり、これによって和気を騒がすのです。しかも冬薦の官は三年を超えて任命されなければ、衣食はすでになくなるから忽然として斃れることになり、これはまた人が窮乏する一因なのです。近頃陛下は罷免・追放された者を赦免し、ある者は起用して二千石とし、その徒はさらに励み、同じような者を引き連れてまた望みとなるでしょう。思うにこれによって広めるのでしたら、人々は忠誠を尽くすでしょう」帝は大いにこれを採用した。 憲宗の元和年間(806-820)初頭、兵部侍郎に任じられたが、係累に連座して、太子賓客に遷り、すぐに前官に戻された。当時、沢潞軍(昭義軍)節度使の盧従史が詐称かつ尊大になり、次第に朝廷に従わなくなり、その父盧虔が京師で卒すると、成徳軍節度使の王承宗の父も死んで襲封を求めたが、権徳輿は諌めて、「山東を変えようとするならば、まず昭義軍の総帥を選びます。盧従史が自身の軍の将校を抜擢するのは、傲慢かつ不法で、今その喪によって、守臣を選んでこれに代えるべきです。成徳軍の習俗はすでに長い間のものであり、掣肘化に置くのは漸次すべきであるので、成徳軍の要請はただちに裁可したとしても、昭義軍も許すというのはいけないことです」と上奏したが、帝は聴さなかった。王承宗が叛くと、盧従史も策略によって王師を痛めつけ、兵は老いて功績があがらなかった。権徳輿はまた王承宗の赦免、盧従史の移動を要請した。後はすべてほぼ権徳輿が謀った通りとなった。 当時、裴垍が病となり、権徳輿は太常卿より礼部尚書・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。王鍔が河中より入朝し、宰相を兼任することを求めたが、[[李藩]は不可を奏上し、権徳輿もまた「方鎮に並んで宰相を帯びさせるのは、必ず大忠あれば功績があるようになりますが、そうでなければ強者が従わなくなるので、やむを得ず与えてきたのです。今王鍔には功績がなく、また一時逃れをしなければならない時でもないので、一人に宰相に任命するならば、以後の人にその道を開くことになるのです。いけません」と奏上し、帝はそこで中止した。 董渓・于皋謨が運糧使の地位によって軍銭を横領し、嶺南に配流されたが、帝はその刑罰が軽かったことを悔い、中使に詔して道の半ばで殺させた。権徳輿が「董溪らは山東にて兵を用い、庫財を横領したことは、死んでも責任は償いきれません。陛下は配流が刑罰として大変軽いとして、まさに臣らの過ちを責め、詳細にその罪をただし、明らかになれば詔書を下すべきであって、衆とともに同じく棄てるようであれば、それは人々が法を恐れるのです。臣はすんでしまったことは争わないことを知っていますが、しかしながら他の時にあるいはこのようなことがあれば、是非とも役人が罪罰を議論する必要があり、罰が一つごとに勧善を百とすれば、どうしてやむにやまれぬ思いがおこりましょうか」と諌めた。帝は深くそうだと思った。かつて帝は政治の寛容さと猛々しさはどちらを優先すべきか尋ねたことがあり、「唐の王朝は隋の苛政暴虐を受けて、仁厚を優先しました。太宗皇帝は「明堂図」を見て、始めて背中に鞭打つことを禁止し、列聖はこれに従うところで、皆徳教を尊びました。ですから天宝の時に大盗賊(安史の乱)が起こっても、すぐに敵は滅んだのです。思うに本朝の教化が、人心の深きところに感じさせるところがあったからでしょう」と答えた。帝は「本当に公の言う通りだな」と言った。 権徳輿は弁論をよくし、古今の根源を開陳し、天子に悟らせた。宰相となると、寛容で細かいところまで口出しすることはなかった。李吉甫が再び宰相となると、帝はまた自ら李絳を用いて朝廷に参与させた。当時、帝は治世に切実であったから、事は巨細にことごとく宰相を責めた。李吉甫・李絳は議論しても異論を受け入れられず、帝の前で突然弁論をはじめる有様であったから、権徳輿は従容として敢えて良し悪しを言う事はなかったが、これに連座して宰相を罷免されて本官のみとなり、検校吏部尚書、留守東都となり、扶風郡公に進封された。于頔が子が殺人を犯したため、自ら蟄居閉門し、親戚もあえて門を過ぎる者はおらず、朝廷でも弁護する者がいなかった。権徳輿は転任する時に、帝に言上して、「于頔の罪は赦免されることになっておりますのにそうなっておりません。ついでの際に寛大にとりはからう詔勅を賜られますように」と言い、帝は「そうだな。卿は私のために行き過ぎを諭してくれる」と言った。また太常卿を拝命し、刑部尚書に遷任した。 それより以前、許孟容・蒋乂に詔して『元和刪定制勅』を編纂させたが、完成して上梓されたにも関わらず禁中に留め置かれていた。権徳輿はその書を出すことを願い出て、侍郎の劉伯芻とともに再度研究して、三十篇(元和格勅)を定めて奏上した。再び検校吏部尚書となり、京師から出て山南西道節度使となった。二年後、病となって帰還を願い、帰還の途上に卒した。年六十歳。尚書左僕射を贈られ、諡を文という。 権徳輿はわずか三歳にして言葉に四声の変化があることを知り、四歳にして詩を賦するのをよくし、経術に思いを重ね、把握しないものはなかった。学問をはじめてから老年に至るまで、一日たりとも書を見なかったことはなかった。かつて論を著し、漢の滅んだ理由を弁じ、西京は張禹が、東京は胡広が世を補った旨のことを書いた。その文章は雅正かつ繁密で、当時の公卿王侯で突出した者の功績・徳業の銘紀を撰したが、その数は十人中、常に七・八人にも達した。動作や静止があっても外面を飾ることはなく、風雅瀟灑で、自然を慕った。貞元・元和年間(785-820)に高貴な人々の模範となった。 子の権璩は、字は大圭で、元和年間(806-820)初頭、進士に及第した。監察御史を歴て、その美しさを称えられた。宰相の李宗閔は父の門下生で、そのため推薦されて中書舎人となった。当時、李訓が寵遇され、周易博士として翰林におり、権璩と舎人の高元裕・給事中の鄭粛・韓佽らが連名で李訓が険呑かつ覆滅しようとしていると弾劾し、また国を乱しているから、禁中に出入りさせるべきではないとしたが、聴されなかった。李宗閔が左遷されると、権璩はしばしば弁解の上表をしたが、かえって閬州刺史に左遷された。文宗はその母の病を憐れみ、鄭州に移した。李訓が誅殺されると、当時の人の多くは、権璩が禍福の大局に明るく、よくその家を伝えたとした。 崔群は、字は敦詩で、貝州武城県の人である。まだ成人となる前、進士に推挙され、陸贄は貢挙を司り、梁粛は宰相たる才能があると推薦し、甲科に選ばれ、賢良方正科に推挙され、秘書省校書郎を授けられた。累進して右補闕・翰林学士・中書舎人に遷った。しばしば直言を述べ、憲宗は喜んで受け入れ、そこで学士に詔して「概ね奏議する場合は、崔群の署名を得てから進上しなさい」と述べたが、崔群は「禁中で密奏する言を、人々が自ら述べるべきであるのは、すべて故事によっており、後にある者が悪を憎んだ正直者であったなら、他の学士は上言できなくなります」と言い、固辞したため聴された。恵昭太子が薨じると、この時、遂王(後の穆宗)が嫡子であったが、澧王が年長で、宮中の支援が多かった。帝は東宮を立てようと、崔群に詔して澧王に譲らせようとした。崔群は「おおよそ目的を果たそうとして譲らせようとしても、目的を果たすことはできません。どうして譲ることがありましょうか。今遂王は嫡子ですから、太子とすべきです」と奏上したから、帝はその建議にしたがった。魏博の田季安が五千縑を仏寺創建の助財として送ってきたが、崔群は名目のない献上であるから受けるべきではないと上奏した。そのため詔して返却した。戸部侍郎に昇進した。 元和十二年(817)、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)となった。李師道が誅殺されると、李師古ら妻子は掖廷に入れられたが、帝は疑っており、そこで崔群に尋ねると、崔群は釈放するよう願ったから、あわせてその奴婢と財産を返還した。塩鉄院官の権長孺が収賄のため罪状は死罪に相当したが、その母が老いて、子に養わせることを願った。帝は怒りながらも赦そうとし、これについて宰相に尋ねた。崔群は「陛下は幸いにもその老人を憐れまれたのですから、ただちに使者を派遣して諭旨すべきで、正式な勅を出すのを待っていては手遅れになります」と答え、ここに死を免れた。崔群が大体奏上するようなことは、平穏で慈悲深いことはこのようであった。帝はかつて宰相に「聞いたり受けたりするのは、また難しいことではないか。この頃、詔学士が前代の世事を集めて、『弁謗略』をつくり、これによって自らの勧戒としている。その内容はどのようなものか」と語ると、崔群は「無情とは、理に合うか合わないかを論ずるのが簡単なことをいい、有情とは、欺きを審らかにすることは難しいことをいいます。そのため孔子は大勢の人が嫌う人や大勢の人が好む人についてや、次第に染み込んでいく告げ口を説いて、それが論ずるのが難しいとしたのです。もし陛下が賢者を選んで任じ、これを待つのに誠心によってし、これを糾すのに法によれば、そうすれば人は自ら正に帰して、敢えて欺むくことはありません」と答えたから、帝はその発言に同意した。 処州刺史の苗積は羨銭七百万を進上したが、崔群はこれを受けることは天下の信を失うことになるとして、返還を願ったから、処州に賜って下戸の賦税の代用とした。この時、皇甫鎛は利益について申し上げて帝の寵遇を得て、密かに左右をたのみにして宰相の地位を求めたが、崔群はしばしばその邪で人に取り入る人物であるから用いるべきではないと申し上げた。宮中に奏上すると、開元・天宝の事に及び、崔群はそこでその極を論じた。「安らかなるも危きになるも法令が出されることにあり、存亡は任命によるところにあります。昔、玄宗は若くして危機にあって、さらに民間の辛苦を味わったので、そのため姚崇・宋璟・盧懐慎の輔政を得て道徳をもってし、蘇頲・李元紘は勤勉に正を守ったので、そこで開元の治となったのです。その後に逸楽に甘んじて、正しき士を遠ざけ、小人と昵懇になり、そのため宇文融が利益によって言上し、李林甫・楊国忠が寵遇をたのんで朋党を組み、そこで天宝の乱となったのです。願わくば陛下、開元を法とし、天宝を戒めとされれば、社稷の福となるでしょう」 また述べた。「世間では安禄山が叛いたことが治乱の時代区分であると言っていますが、臣は張九齢を罷免して李林甫を宰相とした時が、治乱のもとより分岐点であったと思います」 左右の者は感動した。崔群はこれによって帝にほのめかして、そこで皇甫鎛を含意させた。帝はついに自ら皇甫鎛を宰相とした。たまたま群臣が帝号を奉り、皇甫鎛は「孝徳」を兼用して帝号にしようとしたが、崔群は一人上奏して「睿聖」とし、そこで「孝徳」と併称した。帝は聞いて喜ばなかった。当時、度支が辺境の兵士に臨時の賜与を行ったが、物は多くて弊害があり、李光顔は非常に心配して、佩刀を引き寄せて自決をはかったから、内外は皆恐れた。皇甫鎛は奏上して、「辺境は無事ですが、そこで崔群が煽動して、賄賂によって勝訴を得ようとしたから、天子を恨むに到ったのです」と述べたから、ここに宰相を罷免されて湖南観察使となった。 穆宗が即位すると、吏部侍郎によって召喚された。労われて「私が太子となったのは、卿の力だ」と言い、崔群は「これは先帝の意思です。臣に何の力なぞありましょうか。また陛下は淮西節度使となられ、臣が制書の起草し、その文言に「よく南陽の手紙を読めば、本当に東海の貴にかなう」とありますが、先帝はその通りであるとし、そこで伝達されてから久しかったのです」と言い、にわかに御史大夫を拝命した。しばらくもしないうちに検校兵部尚書となり、武寧節度使となった。崔群はその副使の王智興が兵士の心を掴んでおり、仮に節度使とするのにこしたことはないとしたが、返答はなかった。王智興が幽州・鎮州を討伐して帰還すると、兵はそれにかこつけて崔群を追放し、崔群は節度使の地位を失い、秘書監、分司東都に左遷された。華州刺史に改められ、宣歙池観察使を経て、兵部尚書に昇進し、京師から出されて荊南節度使となり、京師に召喚されて吏部尚書を拝命した。卒した時、年六十一歳で、司空を追贈された。 賛にいわく、聖人は多難を恐れず、無難を恐れる。なぜなのか。多難の世は、人々は長く心配して深謀遠慮となり、毎日心の中で恐れて、なお未だしと思うのである。「私は滅亡まで暇がないというのに、またどうして安心していられようか」と言い、そのためよく天下を挙げてこれを興隆させようとし、これを恐れるのである。禍難が平定されてしまうと、上は安らいで下は喜び、いそいそとするのがいつも通りとなり、「賢者は得がたいが、賢者はいなかったとしても、それでも治まるだろう。悪者は去るべきだが、悪者がいたとしても、乱とはならないだろう」と言い、悪者を見逃して賢者を取り逃して、たちまち傾いて支える者がなくても、安らかに自らを慰めて「私は何か失ったのか」と言い、そこでよく天下を挙げてこれを滅亡させようとすることになり、恐れないのである。常人が恐れるところは、聖人は簡単なことだとし、常人が恐れないところは、聖人は難しいとするのである。孝明皇帝をみるに、もとより中主で、変に遭遇して初めて謀をしようとし、業がなると終りを共にしようとした。崔群は李林甫が宰相となったのが治乱の時代区分であると奏上したのは、その言は信にたるのである。これは扁鵲が病を放置した桓侯をそしった理由である。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十四 列伝第八十九 『新唐書』巻一百六十五 列伝第九十 巻一百六十六 列伝第九十一
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唐書巻一百六十六 列伝第九十一 賈耽 杜佑 子式方 従郁 孫悰 慆 牧 顗 曾孫裔休 令狐楚 子緒 綯 孫滈 渙 渢 弟定 賈耽は、字は敦詩で、滄州南皮県の人である。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、臨清県の尉に補任された。論事を上書して、太平県に移された。河東節度使の王思礼に任命されて度支判官となった。汾州刺史に累進し、治めることおよそ七年、政務で優秀な成績を修めた。召還されて鴻臚卿、兼左右威遠営使となった。にわかに山南西道節度使となった。梁崇義が東道に叛くと、賈耽は屯谷城に進撃して、均州を奪取した。建中三年(782)、山南東道節度使に遷った。徳宗が梁州に移ると、賈耽は行軍司馬の樊沢に奏上を行わせた。樊沢が帰還すると、賈耽は大宴会を開いて諸将と酌み交わした。にわかに突然詔があって、樊沢を賈耽に代らせることとなり、召還されて工部尚書に任命されることとなった。賈耽は詔を懐に入れて、もとのままに飲んでいた。罷免されるとき、樊沢を呼び寄せて「詔によって君に代らせることとなった。私もただちに命令を遵守しよう」と言った。将や吏を集めて樊沢と合わせた。大将の張献甫は、「天子が巡幸されているとき、行軍(樊沢)は公の命によって行在に天子に拝謁に行き、そこで軍を指揮しようとはかって、公の土地を自分の利にかなうようにしました。これは人に仕えて不忠というべきです。軍中は納得しませんから、公のために行軍を殺させてください」と言ったが、賈耽は「何を言っているのか。朝廷の命があったから、節度使となったのだ。私は今から行在に拝謁しに行くが、君と一緒に行こう」と言って、張献甫とともに行ったから、軍中は平穏となった。 しばらくして東都留守となった。慣例では、東都留守となった者は洛陽に居住し、守って城から出ないこととなっていたが、賈耽は弓をよくしたから、特別に詔があって近郊で狩猟することを許された。義成軍節度使に遷った。淄青節度使の李納は偽王号を取り去ったとはいえ、密かに陰謀を含み、怨みを晴らしたいと思っていた。李納の兵数千は行営より帰還するため、滑州を経由したから、賈耽に向かってある者は野外に宿営させるべきだと言った。賈耽は「私と道を隣り合っているのに、どうして疑おうか。野外で野ざらしにでもさせるというのか」と言い、命じて城中に泊まらせ、役所で宴会を開き、李納や士は皆心服した。賈耽は狩猟をするごとに、数百騎を従え、たびたび李納を境内に入れた。李納は大いに喜んだが、しかし賈耽の徳を恐れて、あえて謀をしなかった。 貞元九年(793)、尚書右僕射同中書門下平章事(宰相)となり、魏国公に封ぜられた。常に節度使の将帥となるべきものが不足しており、賈耽は天子に向かって自らを節度使に任じるべきであると言ったが、もし賈耽が軍中から謀れば、下の者は後ろ向きとなってしまうから、人々に不穏な動きが出るとした。帝はそうでと思い、賈耽の案を用いなかった。順宗が即位すると、検校司空・左僕射に昇進した。当時、王叔文らが実権の握り、賈耽はこれを憎み、しばしば病と称して辞職を求めたが、許されなかった。卒し、年七十六歳であった。太傅を贈られ、諡を元靖という。 賈耽は書物を読むのを嗜み、老いてもますます勤勉で、最も地理に詳しかった。四方に使節に行った人や夷狄の使者を見かけると、必ず風俗を尋ね求め、そのため天下の土地・区域・産物・山川・険阻の地は、必ず究明して知ったのである。吐蕃が盛強になると、隴西に侵入してきたが、以前は州県の遠近を役人に伝えられていなかった。賈耽はそこで布に隴右・山南・九州を描き、かつ河が流れを図に描いて載せ、また洮州・湟州・甘州・涼州の屯鎮や人口・道や里の広狭、山の険阻や水源を『別録』六篇、『河西戎之録』四篇として進上した。詔して宝物・馬・珍器を賜った。また『海内華夷』を描き、広さ三丈、縦三丈三尺にもなり、縮尺は一寸を百里とした。あわせて『古今郡国県道四夷述』を撰し、その中国の基本は「禹貢」で、外夷の基本は班固の『漢書』で、古の郡国を墨で題し、今の州県は朱で題し、漏れ落ちたところは、多く改正した。帝はこれをよしとし、下賜物がさらに加えられた。あるいは図を指してその国の人に尋ねると、すべてその通りであった。また『貞元十道録』を著し、貞観年間(623-649)の天下の十道使、景雲年間(710-712)の按察使、開元年間(713-741)の采訪使、設置・廃止や行き来が備わっていた。陰陽・雑数も通じていないものはなかった。 賈耽の度量は広く、思うに長者であったのであろう。人物のよしあしを批判することを喜ばなかった。宰相となること十三年、安全や危険といった緊急の大事に際して対策を披露することはできなかったとはいえ、身を引き締めて決められたことを実行するのは、自ら得意とするところであった。邸宅に帰るごとに、賓客と面会しても少しも倦むところをみせず、家人や近習は、喜怒をみたことはなかった。世間ではいつも道理に従った人だといっていた。 杜佑は、字は君卿で、京兆万年県の人である。父の杜希望は、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、交際があった者は全員僅かな間に英傑となった。安陵県令となり、都督の宋慶礼はその優れた政務能力を上表した。些細な罪のため連座して官を去った。開元年間(713-741)、交河公主が突騎施(テュルギシュ)に嫁ぐことになると、杜希望に詔して和親判官とした。信安郡王李漪が上表して霊州別駕・関内道度支判官に任命した。代州都督に任じられ、召還されて京師に戻り、辺境の問題について奏上し、玄宗はその才能を優れたものとした。吐蕃が勃律(ギルギット)を攻撃し、勃律は帰順を願ったから、右相の李林甫は隴西節度使となっており、そのため杜希望を鄯州都督に任命し、隴西節度留後とした。駅伝で急ぎ隴州に向かい、烏莽部の軍を破り、千人あまりの首級をあげ、進撃して新城を陥落させ、軍を凱旋させて帰還した。鴻臚卿に抜擢された。これより鎮西軍を設置し、杜希望は軍を引き連れて塞下に分置したから、吐蕃は恐れ、書簡を送って講和を求めた。杜希望は「講和を受けるのは臣下があれこれできることではない」と答え、敵はすべて争って講和の地につこうとした。杜希望は大規模・小規模な戦いをすること数十におよび、その大酋を捕虜とし、莫門に到達して、積載された備蓄物を焼き払い、終わって城に帰還した。功績によって二子に官位を授けられた。当時、戦争がしばしば勃発し、府庫はだんだん少なくなっていったが、杜希望は鎮西軍にあること数年、備蓄された穀物や金絹は余剰が出るほどであった。宦官の牛仙童が辺境にやってきて、ある者は杜希望に誼を結ぶことを勧めたが、「金銭によってこの身を節度使のままでいようとは、私には堪えられない」と答え、牛仙童は戻って杜希望が職務を行っていないと奏上したから、恒州刺史に左遷され、西河に遷った。しかし牛仙童が諸将より金銭を受け取っていたことが漏洩し、その罪は死罪に相当し、金を送った者は全員罪となった。杜希望は文学を愛し、門下で引き立てられた者は崔顥らのように全員有名となって当代に重んじられた。 杜佑は父の蔭位のため済南参軍事・剡県の丞に補任された。かつて潤州刺史の韋元甫のもとを通過すると、韋元甫は友人の子であったから厚遇したが、杜佑自身は韋元甫に礼を加えなかった。他日、韋元甫に疑獄の案件を抱えて結審することができず、試しに杜佑に訊問させると、杜佑が述べるところは、要点がつくされていないところはなかった。韋元甫は優れた人物だと思い、司法参軍に任じ、韋元甫が浙西・淮南節度使となると、上表して幕下に任用した。京師に入って工部郎中となり、江淮青苗使に任命され、再び容管経略使に遷った。楊炎が宰相となると、金部郎中を経て水陸転運使となり、度支兼和糴使に改任された。ここに戦争が起こると、補給のことは杜佑が専決した。戸部侍郎の地位によって判度支となった。建中年間(780-783)初頭、河朔の兵は内乱となり、民は困窮して、賦は出されなかった。杜佑は弊害を救うために用途を省くにこしたことはなく、用途を省けば官員も減員するから、そこで上議して次のように述べた。 「漢の光武帝は建武年間に四百県を廃止し、吏は十分の一しか任命されず、魏の太和年間(227-233)には方々に使者を派遣して吏員を削減し、正始年間(240-249)には郡県を併合し、晋の太元年間(376-396)には官七百を廃止し、隋の開皇年間(581-600)には郡五百を廃止し、貞観年間(623-649)初頭には内官六百人を削減しました。官を設置する根本は、百姓を治めるためであって、だから古は人を数えて吏を設置し、無駄に設置することをよしとしなかったのです。漢から唐まで、戦争で困難のため吏員を削減するのは、実に弊害から救うのに合致したことなのです。 昔、咎繇(皋陶)は士となりましたが、これは今の刑部尚書・大理卿にあたるので、つまりは二人の咎繇がいることになるのです。垂は共工となりましたが、これは今の工部尚書・将作監にあたり、つまりは二人の垂がいることになるのです。契は司徒となりましたが、これは今の司徒・戸部尚書にあたるので、つまりは二人の契がいることになるのです。伯夷は秩宗となりましたが、つまりは今の礼部尚書・礼儀使にあたるので、つまりは二人の伯夷がいることになるのです。伯益は虞となりましたが、これは今の虞部郎中・都水使司にあたるので、つまりは二人の伯益がいることにあるのです。伯冏は太僕となりましたが、これは今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑厩使にあたるので、つまりは四人の伯冏がいることになるのです。昔、天子は六軍あり、漢は前後左右将軍が四人いましたが、今、十二衛・神策八軍で、だいたい将軍は六十人います。旧名を廃止せず、新たに日々加えられているのです。また漢は別駕を設置し、刺史に従って巡察しましたが、これは今の監察使の副官のようなものです。参軍は、その府軍事に従いますが、これは今の節度判官のようなものです。官名職務は、変化にあたっても同じのままであって、どうして名実一体しておりましょうか。本当に余剰について検討しなければなりません。統治しようとするのならまず名実を正すのです。神龍年間(707-710)、任官は気まま勝手で、役人は大いに集められ選ばれましたが、官職は既に欠員がなく、そこで員外官を二千人設置し、これより常態化したのです。開元・天宝年間(713-756)当時は、国の四方に敵はおらず、戸九百万あまりを数え、財庫は豊かで溢れ、余分な費用がかかったとしても、心配するほどではありませんでした。今耕作地は疲弊し、天下の戸は百三十万、陛下が使者に詔してこれを調査させましたが、わずかに三百万がいただけで、天宝年間(742-756)に比べると三分の一、とりわけ浮浪の者が五分の二おりますから、賦税を出すことができる者は段々減っているのに、禄を食む者はもとのままなのです。どうして改めないままでおれましょうか。 議論する者は、天下なお群雄が跳梁跋扈して朝廷に服していないのだから、ただ官吏を削減すれば、罷免された者が皆群雄のもとに行ってしまうとしています。これは一般的な心情を述べたものであって、正確に述べたものではありません。なおかつ才能ある者を推薦して用いるのですから、不才の者はどうして群雄のもとに行っていなくなったとて心配することがありましょうか。ましてや姻戚・財産をかえりみるでしょうか。建武年間(25-56)に公孫述と隗囂はまだ滅ぼせておらず、太和年間(227-232)・正始年間(240-249)・太元年間(376-396)に魏は呉・蜀と鼎立しており、開皇年間(581-600)に陳はまだ南に割拠しておりましたが、皆英才を捕まえ、人を失って敵に利益をもたらすとは心配しておりませんでした。今、田越のような輩は頻繁に刑罰を用いて重税を課し、軍には目をかけるものの、士人への待遇は奴婢のようで、もとより范睢が秦の遺業をならせたり、賈季(狐射姑)が狄を強くしたような恐れはありません。または長年にわたっているものをにわかに改めるべきではありません。かつ仮に別駕・参軍・司馬を削減し、州県で内官を試験し、戸ごとに尉を設置すべきです。ただちに罷めるべきなのは、行義があるとして在所から上奏されたものの、実際にはそうではなかった場合、推薦者を罪としてしまえば、人のために推薦する者がいなくなるので、常調官に任ずべきです。またどうして心配することありましょうか。魏で柱国を設けた時、当時の宿老の功業は柱国の地位にあったので、第一に尊ばれたのです。周・隋の時代には授けられる者が次第に多くなり、国家はこれをただの勲功とし、わずかに地を三十頃得るだけになったのです。また開府儀同三司・光禄大夫もまた官名でありましたが、非常に多くなったので、かえって位階の一つとなりました。時に従って制度を樹立し、弊害にあえばただちに変えるのであれば、どうして必ず順応して改めるのを憚ることがありましょうか。」 議題に上がったものの、採用されなかった。 盧𣏌が宰相となると、盧𣏌に嫌われたため、京師から出されて蘇州刺史となった。前の刺史の母の喪があけると、杜佑の母は健在であったから、辞退して行かず、饒州刺史に改められた。にわかに嶺南節度使に遷った。杜佑は大きな道路をつくり、間隔をあけた街並みとしたから、大火災にならなくなった。朱厓の民は三代にわたって要衝によって節度使に服しなかったから、杜佑は討って平定した。召還されて尚書右丞を拝命した。にわかに京師から出されて淮南節度使となったが、母の喪のため任を解かれるよう願ったが、詔して許されなかった。 徐州節度使の張建封が卒すると、軍が騒動をおこし、その子張愔を立て、承認を朝廷に願ったが、帝は許さず、そこで杜佑に詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)、徐泗節度使として討伐させた。杜佑は軍艦を配備し、部下の将の孟準を派遣して淮河を渡河して徐州を攻撃させたが、勝てずに撤退した。杜佑は軍を出兵させて変乱に対応するのを得意とはしていなかったから、そこで境を固めてあえて進撃せず、張愔に徐州節度使を授け、濠州・泗州の二州を割いて淮南に隷属させた。それより以前、杜佑は雷陂を決壊させて大規模灌溉を実施し、海に近い土地を田とし、収穫された米は五十万斛にもおよび、軍営は三十区をならべ、兵士・馬は整然とし、四隣は恐れさせた。しかし部下に寛容であったため、南宮僔・李亜・鄭元均が権力を争って政治を乱したから、帝は全員を追放した。 貞元十九年(803)、検校司空・同中書門下平章事(宰相)に拝命された。徳宗が崩ずると、詔して摂冢宰とした。検校司徒、兼度支塩鉄使に昇進した。ここに王叔文が度支塩鉄副使となったが、杜佑は既に宰相であったから度支塩鉄使は自ら執り行わず、王叔文が遂に専権した。後に王叔文が母の喪によって家に帰ると、杜佑が審査決定することとしたが、郎中の陳諌が王叔文にさせるよう要請したから、杜佑は「専権させないようにするからなのか」と言い、そこで陳諌を京師から出して河中少尹とした。王叔文は東宮を動かそうとし、杜佑に助けを求めたが、杜佑は応じず、そこで謀して追放しようとしたが、まだ決する前に失脚した。杜佑はさらに李巽を推薦して自らの副官とした。憲宗が諒暗に服すると、再び摂冢宰となり、度支塩鉄使を李巽に譲った。それより以前、度支使は職務にあたっては経費を削減してきたが、職務が増加するにつれて経費が多くなっていったから、吏を任命して百司の暫時の代理とし、繁多な上に決まりがなかった。杜佑は営繕署を将作監に、木炭は司農寺に、染色を少府に帰属させ、職務を簡素化した。翌年、司徒を拝命し、岐国公に封ぜられた。 党項(タングート)が密かに吐蕃を導いて乱をおこし、諸将が功績を得ようと、討伐を請願した。杜佑はよくない辺臣が叛乱をおこすことと思い、そこで上疏して次のように述べた。 「昔、周の宣王が中興したとき、異民族の獫狁が害をなし、これを太原に追いましたが、国境に到達してから追跡を止めました。中国の弊害となることを願わず、遠夷を怒らせることになるからです。秦は兵力をたのんで、北は匈奴を防ぎ、西は諸羌を追い払いましたが、怨みをまねいて乱のきっかけとなり、実際には流謫人からなる守り人を生んだだけであった。思うに聖王が天下を治めるのは、ただ多くの人を安撫させようとすることを願うからで、西は流沙まで、東は海まで、北も南も、天子の名声を聞きその教えを被るのですが、どうして内政が疲弊しているのに外征を行おうというのでしょうか。昔、馮奉世は詔を偽って莎車王を斬り、首を京師に伝送し、威は西域に震わせたので、宣帝は爵位・封土を加えるかどうかを議論させました。蕭望之は一人詔を偽り命令を違えたことを述べて、功績があっても通例としてはならないとし、後世に使者となった者が国家のために夷狄に事件を引き起こさせるような事態を恐れたのです。近年では、突厥の黙啜が中国に侵掠し、開元年間(713-741)初頭に郝霊佺が捕えて黙啜を斬り、自らこの功績は二つと匹敵するものはないと言っていましたが、宋璟は辺境にいる臣下がこのようにして功績を得ようとするのを恐れて、ただ郎将を授けただけでした。これより開元の盛が終わるまで、再び辺境に関する議論はおこらず、中国はついに安泰となったのです。このような事情の戒めは手本とするに遠い過去のことではありません。 党項は小蕃で、中国と雑居しており、時折辺境の将が攻撃しては、その良馬や子女を己に利させ、徭役を苛斂誅求し、遂には謀反させるに到り、北狄と西戎とを互いに誘致して辺境に掠奪させたのです。伝(『論語』季氏篇)に「遠方の人が随わないなら、必ず文化力を高め、そうやって招き寄せる」とあり、管仲は「国家は勇猛の者をして辺境にいさせてはならない」と言っていますが、これは本当に聖哲が兆候を見て、その傾向や問題の本質を知覚できるということなのです。今戎どもは強くなり、辺境の防備は備わっておりません。本当に良将を慎重に選び、防備を完備させ、苛斂誅求を禁止し、真心を示し、来れば防いで懲らしめ、去れば備えるべきです。そうすれば彼らは懐柔し、奸悪の謀をするのを改めるでしょう。どうして必ずしばしば軍役をおこし、座して財力・人材を消耗する方を採用するのでしょうか。」 帝は喜んで受け入れた。 一年あまりして、致仕を願い出たが、聴されず、詔して三・五日に一度、中書・平章政事に入らせた。杜佑は進見するごとに、天子は尊んで礼遇し、呼ぶのに官名を呼んで、名前では呼ばなかった。数年後、固く骸骨(辞職)を乞い、帝はやむを得ず許した。そこで光禄大夫・守太保致仕を拝命し、毎月朔日(一日)・望日(十五日)に朝廷に出席し、宦官を派遣して賜い物は非常に厚かった。元和七年(812)卒した。年七十八歳。冊立して太傅を追贈し、諡を安簡という。 杜佑の性格は学問を嗜み、貴い身分になって、それでも夜分に読書した。これより先、劉秩は百家を拾い上げて、周の六官法を揃え、『政典』三十五篇をつくり、房琯は才能は漢の劉向を超越したと称えた。杜佑は『政典』は未だに尽くされていないと思っていたから、そこでその欠落部分を補い、『開元新礼』を参考にし、二百篇をつくって、自ら『通典』と名付けて奏上し、詔してお褒めの言葉を賜り、儒者はその書物が簡約でありながら詳細であることに感服したのである。 人となりは簡素かつ恭順な人物で、物事に背かなかったから、人は皆敬愛して重んじた。名声は漢と胡に広がり、しかも練達の文章は誰もが及ばないのである。朱坡・樊川の地には、すぐれた東屋・高台・林泉の庭園をつくり、山を穿って泉を掘り、賓客とともに酒を酌み交わすのを楽しみとした。子弟は皆朝廷に供奉することを願い、貴く盛んなことは当時の筆頭であった。能力は吏職に精勤し、統治しても苛斂誅求を行わず、しばしば税務を司り、宰相として民の利害によって差配を決めたから、議論する者は杜佑を統治・行ないに欠点はないと称えた。ただ晚年、妾を夫人としていたが、杜佑の業績からは隠れる程度といわれる。子に杜式方がいる。 杜式方は、字は考元で、父の蔭位によって揚州参軍事を授けられた。再び太常寺主簿に移り、音律を考察して定めたから、太常卿の高郢に称えられた。杜佑が宰相になると、京師から出されて昭応県令となり、太僕卿に遷った。子の杜悰は、公主を娶った。杜式方は宗室の姻戚となったから、たちまち病と称して業務を行わなかった。穆宗が即位すると、桂管観察使を授けられた。弟の杜従郁は長らく重い病に罹っており、自ら薬を与えて食事の介助をし、死ぬと泣いたから、世間ではその真心のこもった行ないを称えた。卒すると礼部尚書を追贈された。 杜従郁は、元和年間(806-820)初頭に左補闕となり、崔群らからは宰相の子であったから嫌われ、再び秘書丞に遷された。駕部員外郎で終わった。子に杜牧がいる。 杜悰は、字は永裕で、一門の蔭位のため三遷して太子司議郎となった。権徳輿が宰相となると、その婿で翰林学士の独孤郁は嫌疑を避けて自らその職を辞するよう申し上げた。憲宗は独孤郁が文章をよくするのを見て、「権徳輿に婿ありというのはまさにそなたのことだな」と歎いた。当時、岐陽公主がおり、帝はこの娘を愛していた。昔の制度では、多くは姻戚や将軍の家より選ばれたが、帝は始め宰相李吉甫に詔して大臣の子より選んだが、皆病と称して辞退し、ただ杜悰だけが選抜によって麟徳殿で召見された。婚礼が終わると、殿中少監・駙馬都尉と授けられた。大和年間(827-835)初頭、澧州刺史より召還されて京兆尹となり、鳳翔忠武節度使に遷った。京師に入って工部尚書、判度支となる。たまたま岐陽公主が薨ずると、杜悰は長らく挨拶せず、文宗は不可解に思った。戸部侍郎の李珏は「この頃駙馬都尉は皆公主の服喪は天子・父同様の斬衰三年で、だから杜悰は挨拶できなかったのです」と述べると、帝は驚き、始めて詔して服喪期間を斉衰杖期の一年とし、法令として明記させた。 会昌年間(841-846)初頭、淮南節度使となった。武宗は揚州監軍に詔して俳優の家の娘十七人を禁中に進上させ、監軍は杜悰に同じく選ばせようとし、また良家に姿形がよい者を見せようとしたから、杜悰は「私は詔を奉っていないのにたちまち共に行うのは罪である」と言ったから監軍は怒り、帝に上表した。帝は杜悰に大臣の体裁があるのを見て、そこで詔して俳優を進上させるのを廃止し、その意は杜悰を宰相にすることにあった。翌年(844)、召還されて検校尚書右僕射・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、判度支を兼任した。劉稹が平定されると、左僕射・兼門下侍郎となった。しばらくもしないうちに、宰相を罷免され、京師から出されて剣南東川節度使となり、西川節度使に移り、また淮南節度使となった。当時、旱魃となり、道路に流亡する者が溢れ出て、民は運河で運ばれてくる米を濾して自給するようになり、「聖米」と呼び、湖沼のまぐさや蒲の実を採ってすべて尽き果ててしまったにも関わらず、杜悰は上表して吉祥・災異の前触れと報告した。獄囚は数百人を数えたが、酒色におぼれて安逸に過ごしたから裁決できなかった。罷免されて、兼太子太傅、分司東都となった。翌年、起用されて東都留守となり、再び剣南西川節度使となった。召還されて右僕射、判度支、進兼門下侍郎同平章事(宰相)となった。 それより以前、宣宗の在位中、夔王李滋以下の五王を大明宮の内院に住まわせて、鄆王を十六宅に住まわせた。帝が重病となると、枢密使の王帰長・馬公儒らが遺詔によって夔王を擁立しようとしたが、左軍中尉の王宗実らが殿中に入って、以為王帰長らのために詔が偽られたとし、そこえ鄆王を迎えて即位させた。これが懿宗である。しばらくして、枢密使の楊慶を派遣して中書省にやって来たが、ただ杜悰だけが拝礼し、他の宰相の畢諴・杜審権・蒋伸はあえて進み出なかったから、杜悰に説諭して大臣にふさわしくない者を弾劾させて罪にあてようとした。杜悰はにわかに封を使者に授けて復命し、楊慶に向かって、「お上は践祚されてからまだ日が浅い。君達は権力を手中にして愛憎によって大臣を殺せば、役人の禍いは日を待たないだろう」と述べ、楊慶の顔色を失い、帝の怒りもまた解け、大臣は安泰となった。しばらくもしないうちに、司空となり、邠国公に封ぜられ、検校司徒によって鳳翔・荊南節度使となり、加えて太傅を兼任した。たまたま黔南観察使の秦匡謀は蛮を討伐しようとしたが、兵は敗れ、杜悰のもとに逃げたが、杜悰はこれを逮捕し、節義に殉じなかったことを弾劾したが、詔によって斬られてしまった。杜悰は死んでしまうとは思っていなかったから、驚きのあまり病となって卒した。年八十歳。太師を追贈された。葬送の日、宰相百官に詔して参列させた。 杜悰は大いに議論しては往々として時勢に適うところがあったが、しかし才能は適応しなかった。将軍や宰相の地位を行ったり来たりし、厚く自ら父母を孝養したが、いまだかつて在野に隠れた士を推薦したことがなく、杜佑の素風は衰えたのだった。だから当時の人は「禿角犀(角が禿げたサイ)」と呼んだ。 子の杜裔休は、懿宗の時に翰林学士・給事中を歴任したが、事件に罪とされて端州司馬に貶された。弟の杜孺休は、字は休之である。累進して給事中となった。大順年間(890-891)初頭、銭鏐が弟の銭銶を派遣し、兵を率いて徐約を蘇州で攻撃して破り、海昌都将の沈粲が刺史の業務を執行したが、昭宗が杜孺休に命じて蘇州刺史とし、沈粲を制置指揮使とした。銭鏐は喜ばず、密かに沈粲を遣わして殺害してしまった。杜孺休は攻められると、「私を殺さないでくれ。君に金をあげよう」と言ったが、沈粲は「お前を殺せば、金はどこに行くのかね」と答えた。兄の杜述休も同じく死んだ。 杜悰の弟に杜慆がいる 杜慆は、咸通年間(860-874)に泗州刺史となった。龐勛が反乱を起こすと、城を囲まれ、処士の辛讜が広陵よりやって来て杜慆に面会し、家族を城から出して、ただ身を守るよう勧めた。杜慆は「私が一族全員を逃れさせて生を求めたところで、軍心は動揺するだけだ。将兵と生死を共にするのにこしたことはない」と言い、軍は聞いて皆涙を流した。杜慆は籠城の困難を聞いて、堀を浚って城の防備を固め、籠城の器械で備わっていないものはなかった。 賊将の李円は杜慆が組みやすしとみて、勇士百人を馳せて府庫に入らせようとすると、杜慆は甘言によって礼を厚くして迎えて慰労したから、賊は杜慆の謀であると思わなかった。翌日、兵士三百名を伏兵し、球場で宴して賊を全員殲滅した。李円は怒り、曲輪を攻撃したが、杜慆は数百人を殺したから、李円は撤退して城の西に立てこもった。龐勛はそのことを聞いて、兵を増やして、書簡を城中に射て投降を促した。夜になって、杜慆は鼓を打って城壁の上から大声で叫んだから、李円の士気は削がれ、走って徐州に戻った。しばらくもしないうちに、賊は淮口を焦土とし、昼夜戦ってやむことはなく、辛讜はそこで救援を守将の郭厚本に要請し、賊は包囲を解いて去った。浙西節度使の杜審権は将を派遣して兵千人によって救援させたが、かえって李円の軍に包囲され、一軍もろとも全滅した。杜慆は人を間道によって京師に走らせると、戴可師に詔して沙陀・吐渾の援軍二万によって討伐させた。淮南節度使の令狐綯は牙将の李湘を派兵して淮口に駐屯させ、郭厚本と合流したが、李円の攻撃のため敗北し、李湘らは枕を並べて討ち死にし、ここにおいて援軍は途絶えた。賊はそこで鉄の鎖で淮河の流れを途絶えさせ、梯子と衝角で城を攻撃した。兵糧は尽きて、そのため薄い粥を支給していた。懿宗は使者を派遣して杜慆に検校右散騎常侍に任命し、防衛に努めさせた。龐勛は李円を派遣して城内に入って杜慆に面会して投降を約束させようとしたが、杜慆は怒って李円を殺してしまった。龐勛は再び書簡を送ったが、安禄山・朱泚らがついに滅亡してしまったと答書し、ひそかに龐勛の軍にあてつけた。龐勛はしばしば攻撃したが目的を遂げることができず、たまたま招討使の馬挙が兵を率いてやって来たから、遂に包囲を解いて去った。包囲されることおよそ十か月、杜慆は兵士を慰撫し、全員が命を投げ出し、辛讜は包囲を冒して出入し、援軍を集め、ついに一州を全うさせたから、当時の人は艱難さを称えた。賊が平定されると、杜慆は義成軍節度使、検校兵部尚書に遷り、卒した。 杜牧は、字が牧之で、詩文をつくることが上手であった。進士の試験に合格し、さらに賢良方正科の試験にも合格した。当時江西観察使であった沈伝師が朝廷に届けて、江西団練府巡官とした。それからこんどは牛僧孺の淮南節度府の書記の職につき、監察御史に抜擢されたのち、病気を理由にして東都(洛陽)の分司御史となった。弟の杜顗の病気が悪化したので退官し、再び宣州団練判官の職につき、殿中侍御史内供奉をさずかった。 この頃、劉従諌が沢潞節度使として、また何進滔が魏博節度使として、相当にごうまんで国の法律制度に従わなかった。杜牧は、長慶年間(821-824)初頭から朝廷の処置が方法を誤り、そのためにまたしても山東の地を失い、大きい領域をもった重要な藩鎮の処理は、天下の人が唐の政権を重く視るか軽く視るかに関係することだけに、それを世襲のように受けつかせたり、軽々しく授与したりしてはいけないのに朝廷はこれを許したことを、当時にさかのぼってとがめようとした。が、こうしたことは、すべて朝廷のきめる大事だから、自分がその地位にないのに分をこえたことを言うのは、とがめられるおそれがあり、そういうことはよくない、ということで「罪言」を作った。その文にいう、 「人々は常に戦争の惨劇に苦しみ、戦争は山東で始まって、天下に広がっていきました。山東を占領しなければ、戦争をやめることができません。山東の地は、禹が全国九土を分割して冀州(九州)といい、舜がその中でも非常に大きい部分を分割して幽州とし、并州としました。その自然条件を見てみると、河南と匹敵し、常に全国の十分の二の強さがあり、そのため山東の人は勇猛で力が強く、規律を重んじ、苦労を厭わないのです。魏晋の時代より以降、職人と織機の技術は巧妙で、ありとあらゆるものが流出し、習慣は卑俗となり、人々はますます脆弱となっていったのです。ただ山東だけが五種の穀物を種まき、兵は弓矢の道を根本として、他はゆったりしていて揺らぐことはありません。丈夫な馬を生産し、馬の下位のものでも一日に二百里を移動するから、兵は常に天下と対抗することができるのです。冀州は、その強大さをたのんで摂理に従わず、冀州が必ず弱く弱体化することを期待しましたが、敗れたとはいえ、冀州はまた強大となったのです。并州は、力は併呑するのに充分な能力があります。幽州は、幽陰(奥深く)で厳しい土地柄です。聖人はだからこの名をつけたのです。 黄帝の時、蚩尤は戦争をおこない、それより以後は帝王が多くその地にいることになりました。周が衰えて斉が覇者となりましたが、一世代もたたずに晋が強大となり、常に諸侯を使役しました。秦が三晋より強勢となると、六世代の時を経て韓を占領したため、遂に天下の背骨を折り、また趙を占領して、そこで残る諸侯を拾い上げるように征服したのです。韓信が斉を占領しましたが、だから蒯通は漢と楚のどちらが勝利するかは韓信次第であることを知っていたのです。漢の光武帝は上谷で挙兵し、鄗で帝業をなしとげました。魏の武帝は官渡で勝利して、天下三分のうち、その二が手中にあったのです。晋が乱れて胡が侵攻してくると、宋の武帝が英雄となり、蜀を占領して、関中を手中におさめましたが、黄河以南の地の大半を占領し、天下は十分の八まで得られましたが、しかし一人として黄河を渡って胡に攻め入る者はいませんでした。高斉(北斉)の政治が荒れると、宇文(北周の武帝宇文邕)が占領し、隋の文帝が陳を滅ぼし、五百年で天下が一つ家となったのです。隋の文帝は宋の武帝には敵いませんが、これは宋が山東を占領できず、隋が山東を占領したから、そのため隋は王業をなしとげ、宋は霸となるにとどまったのです。この観点からみてみると、山東は、王者が獲得できなければ王業はならず、霸者が獲得できなれば霸道は得られませんが、狡猾な匪賊でも得られれば、天下を不安にすることが十分にできるのです。 天宝年間(742-756)末、燕州の安禄山は反乱をおこし、成皋・函谷関・潼関の間を無人の地を行くかのように出入りしました。郭子儀・李光弼らは兵五十万を率いていましたが、鄴を越えることができませんでした。それより百あまりの城や、天下が力を尽くしても、尺寸の地すら得られず、人々は元は唐土であったこれらの土地をまるで回鶻や吐蕃を望み見るかのように扱い、あえて攻撃しようとする者はいませんでした。国家はそのため畦や河を阻塞とし、街路を封鎖しました。斉・魯・梁・蔡はそのような影響を蒙り、そのため彼らも叛徒となったのです。裏(河北)を表(河南)の後ろ盾とし、水の流れが旋回するかのように混乱状態となり、五年間常に戦っていない者はいない状態となったのです。人々は日に日に貧しくなり、四方の異民族は日に日に勢いが盛んとなり、天子はそのため陜州に逃れ、漢中に逃れ、じりじりとして七十年あまりとなりました。孝武帝のような時運に遭遇し、古着を着て一日一度だけ肉を食べ、狩猟や音楽をせず、身分の低い中から将軍や宰相を抜擢することおよそ十三年、それでもすべての河南・山西の地を征服し、改革を実行に移すことができなかったのです。山東は服属せず、また二度も攻撃しましたが、すべて勝利には到りませんでした。どうして天は人々にまだ安寧な生活をさせないのでしょうか。どうして人の謀がまだできていないのでしょうか。どうしてそんなに難しいのでしょうか。 今日、天子は聖明であらせられ、古を凌駕し、平和に治めようと努力されています。もし全国の人々を無事に過ごさせたいのなら、戦争を終わらせることが重要です。山東を得られなければ、戦争は終わりません。今、上策は自立して治まるのにこしたことはありません。なぜならば、貞元年間(785-805)に山東で燕・趙・魏の叛乱があり、河南で斉・蔡が叛乱しましたが、梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春はすべて大軍で十箇所以上防衛し、わずかに自ら治所を守るのにたる程度で、実は一人として他所にとどまることはできず、遂に我が力はほどけ勢いは緩み、反逆があっても熟視するだけで、どうすることもできなかったのです。この頃、蜀もまた叛乱をおこし、呉もまた叛乱をおこし、その他まだ叛乱をおこしていない者でも、時勢によっては上下し、信頼を保つことはできなくなりました。元和年間(806-820)初頭より今にいたるまでの二十九年間、蜀・呉・蔡・斉を占領し、郡県を回復すること二百城あまりとなり、まだ回復していないのは、ただ山東の百城だけとなりました。土地・人戸・財物・兵士は、往年の時と比べて、余裕綽々ではありませんか。また自分に統治能力があると思わせるのに充分です。しかし法令制度・条文は果たして自立できるといえるでしょうか。賢才や悪人を探し出して選んだり捨て置いたりしますが、果たして自立できるといえるでしょうか。要塞や鎮守、武器や車馬は、果たして自立できるといえるでしょうか。街や村々、穀物や財物は、果たして自立できるといえるでしょうか。もし自立できなければ、これは敵を助けて敵の為に行っているのと同じなのです。土地の周囲は三千里、叛乱が根付いてから七十年、また天下には密かにそれを支持して助ける者がいるのに、どうして回復できるのでしょうか。ですから上策は自立するにこしたことはないのです。中策は魏州の占領です。魏州は山東で最も重要な地で、河南にとっても最も重要な地です。魏州は山東にあって、趙州の障壁となる地です。朝廷はすでに魏州を越えて趙州を奪取することも、もとより趙州を越えて燕州を奪取することもできませんでした。これは燕州・趙州にとって魏州が常に重要地点であることを意味し、魏州は常に燕州・趙州の命運の握っているのです。そのため魏州は山東で最も重要な地なのです。黎陽は白馬津から三十里離れており、新郷は盟津から百五十里離れており、城塞は互いに向かい合っており、朝から晩ばで戦い、この白馬津・盟津の二津のうち、敵が一つでも破ることができれば、数日もしないうちに成皋に突入することができるのです。そのため魏州は河南で最も重要な地なのです。元和年間(806-820)、天下の兵を動員して蔡・斉を誅伐したので、五年ほどは山東からの攻撃の心配はなくなりましたが、魏州を得られたからです。先日、滄を誅伐し三年ほどは山東の攻撃の心配はなくなりましたが、これまた魏州を得られたからです。長慶年間(821-825)初頭に趙州を誅伐しましたが、一日のうちに五諸侯の軍隊は壊滅し、そのため魏州を失いました。先日、趙州を討伐しましたが、長慶の時のように魏州を失ったので失敗しました。そのため河南・山東の勝敗の要は魏州にあるのです。魏が強大なのではなく、地形がそうさせているのです。そのため魏州を奪取するのが中策なのです。最下策は軽率な作戦で、地勢を計算に入れず、攻守を分析しないことがそうです。兵士と兵糧が多く、人々を戦わせることができれば、それは防衛に有利であり、兵士と兵糧が少なく、人を自発的に戦う必要もなく、攻勢が有利となります。そのため我が軍は常に攻勢で失敗することが多く、敵は防御で悩むことが多くなるのです。山東が叛いて五世代にもなり、後世の人々が見たり聞いたりした行動は、叛乱側ではなく、物事の理はまさにそうあるべきだと思い、なじんで骨髄にまで入っており、そういではないと思わなくなっています。包囲が激しく兵糧が尽きると死体を食べてまで戦っています。これはもはや習慣となっていますが、どうして一勝一負を決することができましょうか。十年あまりにおよそ三度趙州を奪還しましたが、兵糧が尽きて撤退しました。郗士美が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、杜叔良が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、李聴が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻しました。そのため地勢を計算に入れず、攻守を分析せず、軽率な作戦を行うことは、最下策なのです。」 何度か昇進して左補闕兼史館修撰となり、その後膳部員外郎に転じた。宰相の李徳裕は、かねてより杜牧の才能を、とりわけすぐれたものであると高く評価していた。会昌年間(841-846)のことであるが、黠戛斯(キルギス)が回鶻(ウイグル)を破り、回鶻の部族は負けてばらばらになって漠南(内蒙古)にのがれて来た。その時は、次のように李徳裕に説いてすすめた。「この機をのがさずに討ち取ってしまうほうがよろしい。私が考えますのに、前後漢の匈奴討伐は、いつも秋と冬に行われましたが、この季節は、匈奴の強い弓が、膠の折れる冷気のためにより強くなっており、はらんだ馬が子を産んでじゅうぶん働けるようになっております時期で、ちょうどこの時にはりあったものですから、負けることが多く、勝つことがほとんどなかったのです。ですから、今も夏の中頃に、幽州・并州のよりすぐりの騎兵と酒泉の兵を出動させて、匈奴の意表をつきましたら、一度で殲滅できましょう。これこそ上策と存じます」李徳裕はこの策を高く評価した。ちょうどその頃、劉稹が朝廷の命令を拒否したので、天子は諸鎮の軍に詔を下してこれを討伐させた。その時にも李徳裕に意見をのべた。「私が考えますのに、河陽は、西北の方天井関からは百里(56km)あまりありますが、ここに大勢の人を使ってとりでを築いて、軍の進入口をふさぎ、守りを固めてまともに交戦してはいけません。成徳軍節度使は、代々昭義軍節度使と敵対しております。それで成徳軍節度使の王元逵は、一度仇を報いて自軍の士気を高揚したいと考えています。しかしなにぶんにも遠方のことゆえ遠い道のりを駆けてまっすぐに昭義軍の根拠地の上党を攻撃することができません。そこで、当方のぜひとも狙わねばならぬところは、賊の西の方です。今もし忠武・武寧の両軍に、青州の精鋭五千人と宣州・潤州の弩の名手二千人を加えて、絳州を通って東へ攻め入りましたら、数か月もたたぬうちにきっと敵の本拠を滅ぼすことができましょう。昭義軍の食糧は、その全部を山東に頼っておりまして、ふだん節度使はたいてい邢州に留まって生活しています。山西にいる兵は孤立して少数ですから、敵の手うすにつけこんで不意に襲撃して取るのがよいのです。こういうわけで、戦争には、拙速というのはありますが、およそ巧久(うまくて長びく)というのはまだあったためしがないのです」。まもなく沢潞は平定された。戦略は大体において杜牧のたてた方策の通りであった。黄州・池州・睦州三州刺史を歴任したのち、朝廷に入って司勛員外郎となったが、いつも歴史を編輯する官を兼任した。その後、吏部外郎に転じ、かさねて請願して湖県刺史となった。その翌年、考功郎中に進み兼ねて知制詰となり、つぎの年には中書舎人に昇進した。 杜牧は性格が剛直で、なみなみならぬ節義があり、慎重すぎて小事になずむことはせず、大胆に朝廷の大事を論じ、弊害と利益を指し示して述べたがその指摘は、とりわけ適切でゆきとどいていた。若い時から李甘・李中敏・宋邧と仲がよかった。しかし、杜牧が古代と現代の事柄に精通していて、政治やいくさの成功にも失敗にも十分にうまく処する道を知っていたことは、李甘らの及ぶところではなかった。杜牧はまた歯に衣着せぬ率直な態度がわざわいして、当時彼を助ける者がいなかった。従兄の杜悰は、将軍と宰相を歴任したが、杜牧は、官途に苦しみつまずいて調子よくのびてゆけず、相当にくさくさして不満であった。卒した時、五十歳であった。かつては、ある人が「あなたは畢(おわり)という名にすべきだ」と言った夢を見た。さらにまた自分が「曖昧たる白駒」という字を書いているのを夢見た。ある人が「これは、白馬が戸のすきまの向こうをきっと走り過ぎるということだ。死期が近いことの暗示だ」と言った。まもなく穀物を蒸す蒸し器が破裂した。杜牧は「縁起が悪い」と言った。それから自分の墓誌をつくり、今までに作った詩文をすっかり焚いてしまった。杜牧は詩において、その趣が力強くて雄々しく、人々は彼を「小杜」とよんで、杜甫と区別した。 杜顗は、字は勝之で、幼いころに眼病を患い、母は杜顗に学問することを禁じた。進士に推挙され、礼部侍郎の賈餗が人に向かって「杜顗を得られれば数百人に匹敵する」と語り、秘書省正字を授けられた。李徳裕が奏上して浙西府賓佐とした。李徳裕は尊く勢いは盛んで、賓客はあえて逆らう者はいなかったが、ただ杜顗はしばしば諌めて李徳裕を糾した。袁州に流謫されることとなると、「門下が私を愛するのに全員が杜顗のようであったなら、私は今日のようなことはなかったのに」と歎いた。大和年間(827-835)末に、召還されて咸陽県の尉、直史館となった。常に人に語って、「李訓と鄭註は必ず失脚する」と言っていたが、行って都に到着する前に、彼らが殺害されたのを聞き、上疏し病と称して辞任した。杜顗もまた文章をよくし、杜牧と評判はどちらかが上か下かというほどであった。ついに失明して卒した。 令狐楚は、字は殼士で、令狐徳棻の後裔である。生まれて五歲にして、文章をよくした。加冠の年となると、進士に推薦され、京兆尹の推薦によって第一となろうとしていたが、当時、許正倫は軽薄の士で、長安では有名な人物で、蜚語をなしていたから、令狐楚はそのような人物と争うのを嫌って、譲って自らが下とした。及第すると、桂管観察使の王拱がその才能を愛し、令狐楚を任命しようとしたが、恐れて赴くことはなく、そのためまず奏上してから、後で招いたのであった。王拱の所にいても、父が并州で官職についていて孝養できていないから、宴も楽しむことはできなかった。年季が終わって父のもとに帰った。李説・厳綬・鄭儋が相次いで太原を摂領し、いずれも令狐楚の行業を高潔なものとし、幕府に引き止め、そのため掌書記から判官となった。徳宗は文章を好み、太原からの上奏文を見るたびに、必ず令狐楚の書いた文章について語り、しばしば称賛した。鄭儋がにわかに死ぬと、後の事を行うことができる者がおらず、軍は大騒動となり、軍乱が起ころうとしていた。夜に十数騎が刃を引っ提げて令狐楚を連行し、遺奏を書かせたが、諸将が取り囲んで熟視する中、令狐楚の顔色は変わらず、筆をとるとたちまちに出来上がり、全員に示すと、士は皆感泣し、全軍が平穏となった。これによって名はますます重んじられた。親の喪が明けると召還されて右拾遺を授けられた。 憲宗の時、累進して職方員外郎、知制誥に抜擢された。作成した文章は、とくに上奏・制令が最も優れ、一篇ができるごとに、人々は皆伝え合って暗唱した。皇甫鎛は発言が憲宗の寵幸を得ており、令狐楚・蕭俛とともにかなり親しかったから、そのため帝に推薦した。帝もまた自分自身でも彼らの名声を聞いていたから、召還して翰林学士とし、中書舎人に昇進した。蔡州を討伐しようとし、まだ命令が下される前に、議論する者の多くは出兵を取り止めたいと思っていたが、帝と裴度だけは蔡を赦すことをよしとしなかった。元和十二年(817)、裴度は宰相になり、彰義節度使となり、令狐楚に制書を起草させようとしたが、その文章は趣旨とは合わないところがあり、裴度は令狐楚の心の内を知ることになった。当時、宰相の李逢吉は令狐楚と親しく、皆裴度を助けなかったから、帝は李逢吉を罷免し、令狐楚の翰林学士を停職として、ただ中書舎人のみとした。にわかに京師から出されて華州刺史となった。後に他の学士に書かせた宣旨は誰も趣旨に合わなかったから、帝は令狐楚の草稿を見て、令狐楚の才能を思わずにはいれなかった。 皇甫鎛が宰相となると、令狐楚を河陽懐節度使に抜擢して、烏重胤と交替させた。それより以前、烏重胤は滄州に移り、河陽の兵士三千を従えたが、兵士は不満を持ち、道の途中で規律は崩壊して帰り、北城を根拠とし、転進して旁州を掠奪しようとしていた。令狐楚は中潬に到着すると、数騎で自ら行って労った。軍の兵士は出てきたが、令狐楚は疑う素振りをみせず、そのため全員が降伏した。令狐楚は主犯を斬り、軍はついに平定された。裴度が太原に出されると、皇甫鎛は令狐楚を推薦して中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)とした。穆宗が即位すると、門下侍郎に進んだ。皇甫鎛が罪を得ると、当時の人は令狐楚が皇甫鎛との縁によって昇進し、またかつて裴度を追い出したと言い、天下は皇甫鎛と令狐楚の両方を憎んでいたが、たまたま蕭俛が宰相となっていたから、あえて表立って言う者はいなかった。景陵を造営すると、令狐楚に詔して山陵使とし、親吏の韋正牧・奉天令の于翬らは造営のための雇い賃十五万緡を捻出できず、令狐楚が献上したのを羨余であるとし、怨んで訴えを道に掲げた。詔して于翬らを捕らえて獄に下して誅殺し、令狐楚を京師から出して宣歙観察使とした。にわかに衡州刺史に貶され、再び移されて、太子賓客の職を以て東都に分司となった。長慶二年(822)、陜虢観察使に抜擢されたが、諌官が議論して置かれず、令狐楚は陜州に到着して一日で再び罷免され、東都に戻った。 たまたま李逢吉が再び宰相となり、令狐楚を起用しようと奔走したが、李紳が翰林にいて令狐楚の昇進を阻んだから、起用はならなかった。敬宗が即位すると、李紳は追い出され、そこで令狐楚を河南尹とした。宣武節度使に遷った。汴軍は傲慢であるため、韓弘兄弟が職務にあたって厳しい法によって糾し治め、兵士は安逸を楽しんで、心を改めることはなかった。令狐楚が到着すると、厳しさや過酷さをとりやめ、真心をつくして勧戒・説諭したから、人々は喜び、ついに世情は好転した。京師に入って戸部尚書となり、にわかに東都留守を拝命し、天平節度使に遷った。それより以前、汴州・鄆州の藩鎮が赴任するごとに、州の銭二百万を藩鎮に私に納めることになっていたが、令狐楚一人が辞退して受け取らなかった。李師古が園地・欄干と僭称した物を破壊した。しばらくして、河東節度使に遷った。召還されて吏部尚書、検校尚書右僕射となった。慣例では、検校尚書右僕射の官は従二品の重職であり、朝儀ではその班位によることとなっていたが、楚は吏部尚書の相当官は三品であるから固辞したから、詔によってお褒めのお言葉を賜った。にわかに太常卿を兼任し、左僕射・彭陽郡公に進んだ。 李訓が乱をおこすと、将軍や宰相は全員神策軍に捕縛された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を呼んで禁中に入れ、令狐楚は、「外には三司・御史がおり、大臣の指示には従わないことになっているので、宦官は宰相を捕縛する権限はありません」と建言したから、帝は頷いた。詔を起草して、王涯・賈餗は冤罪で、その罪を指すのにそぐわないとしたから、仇士良らは恨んだ。それより以前、帝は令狐楚を宰相とするのを許可していたが、そのため果せず、さらに李石を宰相として、令狐楚を塩鉄転運使とした。これより先、鄭註が榷茶使を創設するよう奏上し、王涯もまた官が茶園を運営することを議したが、人々にとって不便であったから、令狐楚は榷茶使を廃止して旧法のままとすることを請願し、令狐楚の意見に従った。元和年間(806-820)、禁軍から武器を出して左右街使に宰相が入朝するのを建福門まで護衛させていたが、今回の乱のため廃止された。令狐楚は「藩鎮の長は初めて任命されると、必ず戎服で仗を持って尚書省に行って挨拶しました。もとより鄭註には実は乱の兆しとなり、そのため王璠・郭行余は将吏を使役して京師を血まみれにしたのです。停止すべきです」と述べ、詔して裁可された。開成元年(836)上巳、群臣に曲江の宴を賜った。令狐楚は新たに大臣が誅殺され、骸が晒されて回収おらず、怨みや禍いがからみあって解けないから、病と称して行かなかった。そこで衣服・棺の材を給付を願ったから、刑死された者の骨をおさめると、喜びの顔をみせた。当時、政治の実権は宦官にあり、しばしば上疏して位を辞することを求め、山南西道節度使を拝命した。卒したとき、年七十二歳であった。司空を追贈され、諡を文という。 令狐楚の表向きは厳重で犯しがたい雰囲気があったが、その内面は度量がひろく、士を待って礼儀をつくした。客で星歩鬼神のような占いを勧める者がいると、一度も会わなかった。政務を行っては慰撫に優れ、治世に実績があり、人は適材適所であった。病が重くなり、子供達は薬を勧めたが、口に入れるのをよしとせず、「士はもとより命に限りがあるのだ。どうしてこんな物に頼ろうか」と言った。自らの力で天子に最期の奏上をしようと、門人の李商隠を呼び寄せて、「我が魂はすでに尽きた。私を助けて完成させてくれ」と言い、その大まかな内容は、甘露の事変で誅殺された者達への怒りを解き、全員の罪を洗い清めることを願った。文章は委細をつくしたが、錯誤するとことはなかった。書き終わると、子供達に「私の一生は時勢には無益であったから、諡を賜うことを願ってはならず、葬礼用の鼓吹も願わず、ただ葬式用の布車一台で葬り、銘を書いてもらうのに高位の人を選んではならない」と言い、この日の夜、大きな星が寝室の上に落ち、その光が庭を照らした。座って家族と別れ、そこで命を終えた。詔があって行幸をやめ、その志を述べさせた。 子の令狐緒・令狐綯は、当時に名声があらわれた。 令狐緒は蔭位によって出仕し、隋州・寿州・汝州の三州刺史となり、善政があった。汝州の人は石に頌徳を刻むことを願ったが、令狐緒は弟の令狐綯が宰相であったから、固辞した。宣宗はその思いをよしとし、そこで沙汰止みとなった。 令狐綯は、字は子直で、進士に推挙され、左補闕・右司郎中に累進した。京師から出されて湖州刺史となった。 大中年間(847-860)初頭、宣宗が宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀のとき、道中で風雨に遭って、六宮の百官は全員退避したのに、一人背が高くて髭の者が梓宮で奉って去らなかったのを見たが、一体あれは誰だったのか」と言い、白敏中は「山陵使の令狐楚です」と言い、帝は「子はいるのか」と尋ねたから、「令狐緒は若い頃から関節痛で、用いるのに堪えられません。令狐綯は今湖州を守っています」と答えたから、「その人となりは宰相の器だな」と言い、そこで召還して考功郎中、知制誥とした。翰林学士となった。ある夜、呼び寄せて共に人間の病苦について論じ、帝は「金鏡」の書を取り出して、「太宗が著したものである。卿は私の為にその概要をあげよ」と言い、令狐綯は語を摘要して「治に到っていまだかつて不肖に任せず、乱に至って未だかつて賢を任ぜず。賢を任ずるは、天下の福をうく。不肖を任ずるは、天下の禍に罹る」と言い、帝は「よろしい。朕はこれを読んだのはかつて二・三回だけだった」と言うと、令狐綯は再拝して「陛下は必ず王業を興されようと願っていますが、これを棄ててどうして先んずることがありましょうか。『詩』に「徳があるからこそ、自分に似る人物を推薦できる」とあります」と述べた。中書舎人に昇進し、彭陽県男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷った。また翰林学士承旨となった。夜に禁中で話し合い、燭がつきると、帝は乗輿と金蓮華の松明で送り届けてくれたが、院吏が遠くから見て、天子が来ると思っていたのに、令狐綯がやって来るのを見て、全員が驚いた。にわかに同中書門下平章事(宰相)となり、宰相となること十年であった。懿宗が即位すると、尚書左僕射・門下侍郎によって司空を拝命した。しばらくもしないうちに、検校司徒平章事に任じられ、河中節度使となった。宣武軍節度使となり、また淮南節度副大使となった。安南が平定されると、兵糧運搬の功績によって、涼国公に封ぜられた。 龐勛が桂州より戻ると、浙西白沙を通過して濁河に入り、舟を盗んで遡上した。令狐綯は聞いて、使者を派遣して慰撫し、なおかつ兵糧を送った。部下の将の李湘は「徐州の兵は勝手に帰ってきたのですから、なりゆきとして反乱となるでしょう。まだ討伐の詔が下っていないとはいえ、節度使として任にある以上すべての反乱を制するのは、我々が対処しなければなりません。今その兵は二千足らずで、軍船を展開させ、旗や幟をたて、夥しさを人に示せば、非常に我らを恐れるでしょう。高郵は崖が切り立っていて流れは狭いので、もし草を積んだ舟をその前で火を放させ、精兵をその背後から攻撃させれば、一挙に殲滅できるでしょう。そうでなければ、淮河・泗水を渡らせてしまい、徐州の不逞の徒と合流すれば、禍乱はひどいものになるでしょう」と言ったが、令狐綯は臆病でその提案を採用することができず、また詔が出ていないことを理由として、「彼らは乱暴を働いていないのだから、淮河を渡るのと許してやり、あとは私の知ったことではない」と言ったから、龐勛は戻ると、やはり徐州を掠奪し、その衆は六・七万人となった。徐州は食料が乏しく、兵を分けて滁州・和州・楚州・寿州を攻撃して陥落させ、食料が尽きると、人を食べて腹を満たした。令狐綯に詔して徐州南面招討使とした。賊が泗州を攻撃すると、杜慆は固守し、令狐綯は李湘に命じて兵五千を率いて救援に向かわせた。龐勛は令狐綯に挨拶して「何度も赦免を受けましたが、ただちに降伏できなかった理由は、一・二人の将が反対意見を述べただけであって、ここから去りたいと思っています。一身を以て命令を聞きます」と言ったから、令狐綯は喜び、そこで龐勛を節度使に任命するよう願い、そこで李湘に「賊が降伏したら、君は謹んで淮口を守り、戦ってはならない」と命じ、李湘はそこで警戒をやめて備えを解いたから、その日は龐勛の軍とともに喜んで語っていた。後に賊は隙に乗じて李湘の陣地を襲撃し、すべて捕虜として食べてしまい、李湘および監軍の郭厚本を塩漬けとした。その時、浙西節度使の杜審権が勇将の翟行約に千人の兵を率いて李湘と合流させようとしたが、到着以前に李湘は壊滅しており、賊は偽って淮南節度使の旗幟を立てて誘引し、これもまた全滅させた。 令狐綯の軍が敗北すると、そこで左衛大将軍の馬挙を令狐綯と代わらせた。太子太保となり、東都に分司した。僖宗が即位したばかりの頃、鳳翔節度使を拝命した。しばらくして、同平章事を加えられ、趙国公に移封された。卒し、年七十八歳であった。太尉を追贈された。子に令狐滈・令狐渙・令狐渢がいる。 令狐滈は父令狐綯が宰相であったため進士に挙されなかった。父は宰相の職にあって、令狐滈と鄭顥は姻戚であったから、勢力をたのんで驕慢で、賓客を通じて権勢を招き、四方の財貨を集め、皆側目であえて言うものはなかった。懿宗が即位すると、しばしば人にその事を暴かれたから、そのため令狐綯は宰相を去ることとなった。そこで令狐滈を進士たちとともに役人に試験させることを願い出て、詔して裁可され、この年に及第した。諌議大夫の崔瑄が、令狐綯が十二月に宰相の位を去ったのに、有司の解牒は十月のままで、朝廷が進士を採用する法を令狐滈の家の事に屈したと弾劾奏上し、御史に委ねてその罪の実を取り調べることを願ったが、聴されなかった。令狐滈はそこで長安県の尉の任によって集賢校理となった。しばらくして右拾遺・史館修撰に遷った。詔が下って、左拾遺の劉蛻と起居郎の張雲はそれぞれ上疏してその悪行を指弾した。「李琢を登用して安南都護とし、長となって南方を乱し、賄賂のために害となって人々は涙を流し、天下の兵士は租税を給付されませんでした。李琢は最初から賄賂を令狐滈に送り、令狐滈は人の子の立場でありながら、父の令狐綯を悪行に陥らせました。振り返ってみれば令狐滈は諌臣となるべき人物でしょうか」と述べ、また弾劾して「令狐綯は大臣で、まさに国家と調え守る根本たるべき人物でしたが、大中年間(847-860)、諌議大夫の豆盧籍と刑部侍郎の李鄴を引き立てて夔王李滋らの侍読としましたが、これは長幼の序を乱すもので、先帝の後継者についての謀を陛下に及ばさせなかったのです。かつまた令狐滈は当時にあって、「白衣の宰相」と呼ばれていました。令狐滈はまだ進士に推挙されていなかったのに、すでに理解したとも妄言し、天下をして無解の及第と言わせるような事態になったのは、天下を欺かずにすんでいるといえるでしょうか」と述べた。令狐滈はまた恐れ、他の官に換えるよう求め、詹事府司直に改められた。その当時、令狐綯は淮南節度使であって、上奏して自分への嫌疑を雪ぎ、帝はそのため張雲を興元少尹に、劉蛻を華陰令に貶した。令狐滈もまた不幸にして官職が振るわないまま死んだ。 令狐渙・令狐渢はともに進士に推挙され、令狐渙は中書舎人で終わった。 令狐定は、字は履常で、令狐楚の弟である。進士に及第した。大和年間(827-835)末、駕部郎中の職を以て弘文館直学士となった。李訓の甘露の変で、王遐休がまさにこの日に職に就いたから、令狐定は行って祝ったから、神策軍のために捕らえられ、殺されようとする者がしばしばいたが免れた。桂管観察使で終わった。 賛にいわく、賈耽・杜佑・令狐楚は皆誠実な学者で、大官高官で、廟堂に威儀をただし、古今を導き、政務を処理するのに優れていた。立派な忠節であるのに責めることは、思うに玉のような美しい石の中に玉の表面があるようなものであろうか。杜悰・令狐綯が代々宰相となったのもまた誹謗するのに充分な理由ではない。杜牧が天下の兵を論じて「上策は自立するにこしたことはない」と述べたのは何と賢いことであろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十五 列伝第九十 『新唐書』巻一百六十六 列伝第九十一 巻一百六十七 列伝第九十二
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コメント 寒いとよくクリックとかミスります。 一回戦… ごめんよ慧音さん(´・ω・`) それは置いといて。 いつものようなフランさん。 一回戦のプレミを除けば…いつもの感じ。 あと、どの手札を切るのかが見通すことができるようになれば。 さらにいい感じになってくるのではないかと思ってみたり。 とがるとがる Leader Lv4 フランドール・スカーレット 3x パターン避け 2x 月の兎 3x 蝙蝠変化 2x 禁忌「クランベリートラップ」 2x 禁忌「フォーオブアカインド」 1x 禁忌「レーヴァテイン」 3x 禁忌「フォービドゥンフルーツ」 3x 禁弾「スターボウブレイク」 3x 禁弾「過去を刻む時計」 3x 秘弾「そして誰もいなくなるか?」 3x 手加減知らず 1x オーバーヒート 3x 禁じられた遊び 2x 無慈悲な両手 1x 癇癪 3x 禁弾「カタディオプトリック」 2x バンパイアバイト
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ついに始まる代表との決戦。 ストーリーは激化していき、厳しい戦いの連続。 すべてのミッションのクリア後にはついにオーバードウェポンが使えるように! ネタバレありなのでご注意ください。 ミッション04 沿岸区に侵攻。 トンネルを抜けたさきで、プテラノサウルスみたいなメタルギアレイみたいな敵機が登場。 最初は苦戦して何度も堕とされましたが、敵の突撃後の隙にロケットを連続で撃ち込むとあっさり勝利。 ロザリィさんの忠告はちゃんと聞きましょう。 その先で同じ敵がもう一機。 これもなんとか退けると、今度は敵AC。しかも強い。しかも周りは警備部隊だらけ。 全然勝てないので、ハイウェイ?線路?下の狭い空間におびき出してロケット連射。ロケット強い。 ミッション05 行政区への侵攻。 敵が多いうえに、前ミッションで登場したメタルギアレイみたいなやつと戦闘。弾切れおこすし、機体は満身創痍の状態なのに敵AC戦。 しかし、コイツ全然こっちに攻めてこないし、遠くから狙撃してもちょっと動くだけでよける素振りもない。 地味にレーザーライフルのチャージショットを当てて勝ちました。 ↑画面中央が敵AC。まったく反撃してこなかった。 その後、主任が登場。だから満身創痍だって言ってんだろーが。 だけど、オーバードウェポンで攻撃してくるだけでその場から動かないので簡単に勝利。 ミッション06 行政区へ侵攻し、代表の拘束が目的。 スタートしていきなり周りが敵、敵、敵。 謎の巨大兵器は出てくるし、広場で敵を迎撃しなければいけないし、敵AC戦まである。 盛りだくさんだけど、そのぶん熱いミッション。 ミッション07 衝撃の展開の後、シティからの逃亡劇。 トンネル内の敵は怖いので無視。 そして突然のAC戦。わかっちゃいたけど、やっぱ裏切りやがったこの人。 それを撃破すると今度は主任との戦い。 フィールドが障害物だらけでつっかえて戦いにくい。 やっと倒したのに今度は復活して、即死級の攻撃をしかけてくる。 けっこう苦労しました。 ミッション08 逃げつつ、見方のヘリを守ったり、いろいろ大変ですが、それ以上にやっかいなのが裏切ったRDくん。 ミッションの最後に対決することになるんですが、オーバードウェポンの攻撃を何度も仕掛けてくるので少々やっかい。 当たると一撃で死ぬし。しかし、それ以外の攻撃は行なってこないのでしっかり回避してれば勝てる。 ってか、これゲーム開始直後に体験した内容と一緒。 つまりストーリーミッション開始直後のあの話はここにつながっていたんですね。 見せ方がうまいなぁ。 ミッション09 これがラストミッション。前のミッションで終わってたらそれこそファイナルファンタジー13-2みたいなもんになっちゃいますが、 ちゃんと主任とは決着がつきます。企業側の思惑は分からずじまいだけど。 でっかくて怖そうな兵器との戦い。 一応簡単に攻略みたいなことを言わせてもらうと、 離れて戦うよりつかず、離れずの距離のほうが、攻撃もあたりやすいし、よけやすい。 突進は必ずよける。そして、その後うまれる隙にいっきにロケットを撃ち込むとあっというま。 敵が飛んでミサイルを撃ってきたら、ブーストでしっかり回避。その後敵は突進してきますが、これをよければ大きな隙がうまれる。そこにロケット連射。 ってなわけで、ストーリーミッションは全てクリア。 なんか続編がでそうな謎をよぶてんかいでしたが、最初から最後まですごく面白かったです。 ソウルキャリバーV - PS3
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※前回の続きです。 モビラー氏がダニエルと作戦会議をしたようです モビラー 「とりあえず今から作戦会議をする!」 ダニエル 「はい。」 モビラー 「お前等の場合だと多分ノエルが最大の敵になると思うから、なるべく彼女と当たらないように!あとテリーが攻撃重視の時もなるべく避けたいところだな……。まぁ、それ以外は大抵低火力ばっかりだと思うので大丈夫だと思うが……。」 ダニエル 「はい。」 モビラー 「それと、やたらと火力バカが多い時の参戦は絶対に避けた方がいい!どうせ痛烈で雑魚と成り下がるのがオチだからな!それでは頑張ってくれたまえ!」 ダニエル 「はい、分かりました。」 予選C組開始前日の雑談 モビラー 「あの……、もうそろそろ予選C組が始まりますが?」 ダニエル 「いや、それは分かっていますけど、今火力バカが多過ぎてとても参戦できる状況じゃないですよ……。」 モビラー 「うむ、それは困ったな……。」 その後、ダニエルさんがモビラー氏に大変なお知らせを伝えに来たようです ダニエル 「モビラーさん、大変です!ここ最近私が全然いい成績を残してくれません!」 モビラー 「あっ、しまったな……。それならむしろ途中棄権すべきだったな……。」 ダニエル 「あの、何を言っているのでしょうか?WBRに参戦している以上最後まで頑張ればそれでいいと思いますよ!」 モビラー 「まぁ、確かにそうなんだが……。」 その後、ダニエルさんがモビラー氏にこんなお願いを頼んだようです ダニエル 「モビラーさん、せめて次からは通常時の能力値で参戦していただければ……。」 モビラー 「うーん、まぁ、次からはそうすることにしよう。」 ダニエル 「ほ、本当ですか?ありがとうございます!」 そしていよいよ決勝戦!しかし……。 ダニエル 「レナードさん、いくら頑張ってもいい成績を残してくれません……orz」 レナード 「もうお前に用はない!帰れ!」 ダニエル 「そ、そんな……ひどいです……。」 レナード 「よし、今度はこの俺が決勝を頑張ってやるぞ!」 と、ここで何か不気味なBGMが流れる レナード 「んん!?一体何が起きたんだ!?」 (しばらく経つと何か神々しい歌が聞こえ始めた) Estuans interius ira vehementi,Estuans interius ira vehementi, Sephiroth! Sephiroth! レナード 「な、何!?セ、セフィロスだと!?あのFF7に出てくるラスボスのことか!?くそう、モビラーの奴め!決勝直前にとんでもないものを投下しやがって!……こうなったら皆にそのことを知らせなくては!」 その後モビラー氏は意外な事実を知って後悔したようです モビラー 「そ、そんなぁ……。まさか今シーズンが決勝ラウンドじゃないなんて……。」 モビラー氏ががレナードと再び作戦会議をしたようです モビラー 「とりあえず今から作戦会議をする!」 レナード 「はい。」 モビラー 「まぁ、お前の場合だと大体↓こんな感じかな?」 比較的安全 南海マリオ、イカ娘、ガラハド、怪獣バギラ、紅蓮の巫女 正直微妙 ディメーン、シェゾ、岸辺露伴 なるべく避けるべき サタン、朧月夜、エイト レナード 「ふむ、とりあえず登録のタイミングは火力バカやバランス型が多い時に行った方がいいよな。」 モビラー 「その通りだ。何故ならスピード狂ばかりだと返り討ちに遭う危険性があるからだ。」 レナード 「そうだな。」 モビラー 「それでは決勝でも最後まで頑張ってくれたまえ。」 レナード 「分かった。」 その後、モビラーさんは早速レナードの現時点での成績を確認してみたようです モビラー 「何!?3回目のLIFE6の時点で勝利数10に連勝数4にV3だと!?一体何が起きたんだ!?」 その後再び彼はレナードさんの今の成績を確認 モビラー 「げ、現在勝利数13だと!?い、一体いつまでやるつもりなんだ!?」 念のため全出場者の現時点での得点を計算してみた レナード・マクラーレン:8+14+15=37pt南海マリオ:8+9=17ptディメーン:9ptイカ娘:4+7+10=21ptガラハド:8+8=16ptサタン:0pt(※実質上)朧月夜:9pt怪獣バギラ:4+5=9ptエイト:10ptシェゾ:4+7=11pt岸辺露伴:4+20=24pt紅蓮の巫女:4pt モビラー 「さ、さ、37ポイントだと!?あのイカ娘ですら20ポイントちょっとなのに!?うわぁ……、これじゃバトロイの法則が乱れまくりだよ……。」 その後モビラー氏がある重要なことを見落としていたことに気付いたようです モビラー 「あっ、今回のWBRって連覇数じゃなくて制覇数で計算されるんだった……。となると最大の敵はあのスタンド使いか……。うーん……、誰か自軍にこいつの邪魔する存在になれそうなキャラはいないかなぁ……。」 念のためあのスタンド使いのポイントと他選手の現時点でのポイントを計算してみた 1 岸辺露伴 快傑まふっと 3 6 3 27 52 26 2 レナード・マクラーレン モビラー 3 7 11 48 37 3 紅蓮の巫女 快斗 5 14 24 24 4 イカ娘 銀髪猫74 23 23 5 南海マリオ 石坂線の鬼神 2 5 9 26 17 6 ガラハド 快傑まふっと 2 8 12 28 16 7 怪獣バギラ むしろ 2 7 11 25 14 8 サタン アルル 3 8 14 14 9 シェゾ アルル 2 6 10 21 11 10 エイト 石坂線の鬼神 10 10 11 朧月夜 うまかぼう 3 9 9 9 9 12 ディメーン 快斗 8 8 レナード 「こ、このスタンド使い一体何者だ!?」 何故かジェラルドさんがモビラー氏に言いたいことがあるようです ジェラルド 「モビラー、WBR開催中ですまないが一つ言いたいことがある。」 モビラー 「何だい?」 ジェラルド 「もし今回のWBR優勝者が1ヵ月前くらいに神敗退スッドレを襲撃した奴とかだったらどうするんだ?」 モビラー 「うーん……。」 ジェラルド 「フン、やはりそう来ると思ったな。おそらくお前はそのことを素直に喜ぶだろうが、そのうち皆から大ブーイングを喰らうのがオチだろう。」 モビラー 「うん……。」 ジェラルド 「まぁ、要するに勝利ばかり求めているだけじゃ皆とは仲良くなれないってことだ。」 モビラー 「そうか……。」 念のため再び全出場者の現時点での得点を計算してみた 1 岸辺露伴 快傑まふっと 3 8 3 29 55 26 2 レナード・マクラーレン モビラー 3 6 43 37 3 イカ娘 銀髪猫74 3 7 11 34 23 4 シェゾ アルル 3 9 1 20 31 11 5 朧月夜 うまかぼう 3 9 15 24 9 6 紅蓮の巫女 快斗 5 14 24 24 7 ガラハド 快傑まふっと 3 6 22 16 8 サタン アルル 4 11 19 19 9 南海マリオ 石坂線の鬼神 17 17 10 怪獣バギラ むしろ 14 14 11 ディメーン 快斗 3 6 14 8 12 エイト 石坂線の鬼神 10 10 レナード 「くっ、気が付いたらイカ娘もシェゾ様も俺のすぐ前まで来てるのか……。」 その後モビラー氏がレナードに重要なことを伝えに来たようです モビラー 「レナード、悪いがお前に伝えたいことがある。」 レナード 「おいおい、いきなり何なんだよ……。」 モビラー 「今お前はおそらくあのスタンド使いと優勝争いしている最中なんだけど、何故か彼とは違って皆に嫌われていることが気になってしょうがないだろ?」 レナード 「うん。」 モビラー 「個人的には多分1か月前に神敗退スッドレを襲撃して皆に迷惑をかけたことが原因じゃないかなと思っているんだ。」 レナード 「ああ、そうか……。あの頃はドロちゃんもそれに参加していた記憶があるな……。」 モビラー 「ふむ、よく覚えているじゃないか……。だがドロちゃんは今LIFE50で漬物神?という非常に厄介な奴等を何とかする仕事を毎回のようにしているんだぞ?」 レナード 「えっ?」 モビラー 「あれ?そんなことも知らなかったの?お前も時々漬物神?狩りをしているのに?」 レナード 「あっ、そうだったのか……。」 モビラー 「まぁ、さっき僕が言いたかったのは自分の為だけに生きている人よりも、人の為に生きている人の方がよりきれいな心を持っているということなんだ。」 レナード 「へぇ、そうなのか……。じゃあ、俺もそんな人になれるよう努力するよ。」 念のため三度全出場者の現時点での得点を計算してみた 1 シェゾ アルル 3 10 2 26 57 31 2 岸辺露伴 快傑まふっと 55 55 3 レナード・マクラーレン モビラー 3 1 11 54 43 4 イカ娘 銀髪猫74 3 7 13 47 34 5 ガラハド 快傑まふっと 3 7 2 23 45 22 6 怪獣バギラ むしろ 5 12 22 36 14 7 サタン アルル 3 8 14 33 19 8 紅蓮の巫女 快斗 7 7 31 24 9 朧月夜 うまかぼう 3 6 30 24 9 南海マリオ 石坂線の鬼神 3 7 13 30 17 11 エイト 石坂線の鬼神 4 9 17 27 10 12 ディメーン 快斗 14 レナード 「何か最終的にスピード狂の勝利という感じな上に、俺とシェゾ様とあのスタンド使いの三つ巴状態になっているな……。」 そしていよいよ第九回WBR閉幕と共にレナードさんの活躍も終焉を迎える。しかし……。 レナード 「ふぅ、そろそろ第九回WBRも終わりを迎えるのだが……ってえっ?モビラーさん……、一体どうしたんだ?」 モビラー 「レナード……、悪いけど皆に伝えたいことがあるんだ……。」 レナード 「うん。」 モビラー 「実は僕……、今後自軍の活躍の場をmarinonetから棒人間の村に移行しようと思っているんだ……。」 レナード 「……な、何だって!?お前今後からホントにそうする気かよ!?俺達はこれまでmarinonetで一生懸命戦ってきたじゃないのか!?」 モビラー 「まぁ、確かにそうなんだけど……。実はここ最近marinonetで参戦しているうちに『何か僕の軍って 人混みの中で戦うよりも人混みのないところで戦うスタイルの方が似合っているかな?』と思っていたりして……。」 レナード 「おいおい、何でいつからそんな気持ちになったんだよ!?だいたい例え人混みに遭っても必死に戦った方がいろんな人と出会えていいと思うのだが……。」 モビラー 「いや、今はそういうところじゃないんだ……。実はこの前誰かさんから『僕みたいないくら 指摘されても態度の改善が見られ無い作者なんて関わりたくない』という事実を突き付けられたんだ……。」 レナード 「ええっ!?そ、それが事実なのか!?」 モビラー 「うん、多分そうだと思うんだ。だから今後は人混みの多いところはなるべく避けて活動していきたいと思っているんだ……。」 レナード 「そうなのか……。じゃあ、このことを他の仲間達にも伝えておくことにするよ。」 モビラー 「ああ、分かった。」 そして無事第九回WBR閉幕。しかし……。 モビラー 「レナードさん、お疲れ様!ところで今回のWBRの最終順位は?」 レナード 「……今はそれどころではない!それよりもお前に言いたいことがある!」 モビラー 「えっ?何だい?」 レナード 「はっきり言ってやる!こんなゲームやサイトにムキになってどうすんの!?」 モビラー 「……!?」 レナード 「そもそもお前は表面上では反省しているとか言いながら実際はいつも逃げてばっかりの毎日を過ごしてきただろ! その上自分が他人に迷惑をかけているという自覚はあるくせに他軍から説教されてもすぐに裏切りやがるし……。」 モビラー 「……!?」 レナード 「おそらくお前はその後もそういう毎日を過ごすだろうけど、それは流石に人間として最低なことじゃないだろうか!?」 モビラー 「……。」 レナード 「……まるで何も分かっていないようだな。俺はとにかく容赦なくお前のことを叱ってやるが、お前みたいな血も涙もない偽善者にバトロイを語る資格は無い!」 モビラー 「……。」 レナード 「……さぁ、そろそろお前を現実世界に戻してやろうか!」 モビラー 「……。」 バッ!(レナード、モビラーに向かって清めのお札を取り出す) レナード 「……これで終わりだ!モビラー!」 ピカァッ!(清めのお札はモビラーに向けて眩い光を放った!) モビラー 「な、何をするきさm……ウボァー!」 シュウ……(そしてモビラーは跡形もなく消え去っていった……。) レナード 「……さて、今後は俺達自身が他軍との関係を築かなければ!」
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カタリナカンパニーが世界最大の企業となり、強制的に経済結束を主導してアビスリーグに対抗する。 最早、絵空事にすら等しいようなトーマスのその発言に、ハンス邸の会議室に集まった全員がトーマスに向かい驚愕と疑問とを伴う視線を向けた。 「おいおい・・・ベントの旦那、今の今でその方針ってのは、流石に無理がないか・・・?」 あまりに荒唐無稽と思われるその発言に、さしものカンパニー敏腕営業部長ポールも、薄らと冷や汗を浮かべながらトーマスに苦言を呈する。 トーマスとほぼ等しい程にカンパニーの内部状況を理解していると言って間違いない彼から見ても、様々な側面からその方針は、今の段階で採るべきものではないと思えたからだ。 周囲の皆も、彼ほどではないにせよその空気感はわかっているのか、それが集合した疑問符として現れている。 しかし。 突如そこに、トーマスの爆弾発言に大いに賛同する声が、予想外のところから聞こえてきた。 「めっちゃ面白そうじゃん。それ、ウチも混ぜてよ」 その声に驚いたトーマス以外の一同が部屋の入り口へと振り替えると、そこには、右腕に愛用のクマちゃんを抱えながら精一杯胸を張って仁王立ちをしてみせる少女、キャンディの姿があった。 彼女の後ろには、ローブを羽織ったロビンも控えている。 「キャンディ、帰ってたのかい!」 ノーラが最初に声をかけると、キャンディは大きく手を上げながらノーラに視線を返し、そのまま会議室の空いた椅子に向かっていく。 そしてその場に集まった一同を素早く確認し、当然の流れの様にブラックに視線を止めた。 「ってか、おっさん誰?」 「けっ、その台詞はいい加減聞き飽きたぜ」 ハーマンの時の彼しか知らないキャンディが疑問に思うのは当然だが、当のブラックはあまりに聞かれ過ぎたその誰何に、真面に答える気がない様子であった。 気を利かせたミューズが簡単に経緯と正体とを説明してやると、キャンディは暫し興味深そうにブラックの全身や左足あたりを見回した後、その場での疑問追及は諦めた様子で改めて椅子へと腰掛ける。 「・・・っと、遅くなっちゃってごめん。ちょっと仕込みに時間掛かっちゃった。でも今の話ってことなら、ちゃんと手紙の通りに準備はばっちしだよ」 キャンディが腰を下ろしながらトーマスに向けたその言葉に、ポールは再び疑問符を頭に浮かべる。 「仕込み・・・? キャンディ、そりゃ一体なんのことだ?」 昨年の暮れ。 ドフォーレ商会の一連の事件以降、ヤーマスにて商会立て直しその他の事後処理等をしてもらっていたキャンディへと書簡を届けるようロビンに託したのは、誰あろうポールなのだ。 これは丁度、昨年末のコングレスが開かれる直前のことであったので、その時点でのルートヴィッヒとの協調体制などの現状を伝えると共に、連動してヤーマス内での新たな調査を依頼するためのものであった。 なので、今のピドナの状況を見越した類の依頼など、そこに記した覚えは彼には全くなかったのだ。 「あぁ・・・ポール。それは俺が、別でロビンに手紙を渡していたんだ」 即座にトーマスが名乗り出ると、ポールは首を傾げながらその内容を問うた。 だが、トーマスに先んじてそれに嬉々として応えたのは、テーブルに大きく身を乗り出してきたキャンディであった。 「そ、ポールからのとは別で、トーマスさんからの手紙があったの。中に書かれていたのはね・・・フルブライト商会への探りと、何個かの仕込みについてだよ」 ニヤリと笑みを浮かべながらのキャンディのその言葉に、場の一同は改めてトーマスへと視線を向ける。 特段その中でも、ポールの瞳は全く驚きを隠すつもりもないほど大きく見開かれたもので、これにはトーマスも思わず苦笑いを浮かべてしまうほどであった。 「おいおい、まさか旦那のいう世界最大って・・・。てかキャンディが既に仕込みをしているっつーことは、この展開まで・・・あんたは読んでたってのか・・・!?」 「・・・いや、全てを読んでいたなんてことはないさ。ただ、フルブライト二十三世様からの依頼を受けた時点で、我々が選択する可能性の一つ、としては考えていた。だからいざという時の為に、キャンディに幾つかお願いをしていたまでだよ」 トーマスとポールの会話は、キャンディを除いたその場の面々には今一、内容の理解に苦しむものであった。そこで、キャンディと同じく空いた席に腰をかけたロビンが口を開く。 「確かに私が書簡を渡したし、ヤーマスではキャンディさんに頼まれて色々と調べに動いたが・・・。あれらの調査には、一体どんな意図があったのだ・・・?」 ロビンの言葉に今度こそトーマスが応えようとしたが、しかしそこに、やたら興奮気味のポールが割って入った。 そんな彼の表情は、どこか呆れたような引き攣ったような、そんな表情だ。 「そんなん・・・もう決まってる。トーマスの旦那・・・あんた、フルブライト商会を『買う』つもりだな・・・?」 「な・・・フルブライト商会を!!?」 とんでもないことを言い出したポールに、思わずシャールが驚きの声を上げた。それと同時に、ぱきり、と音がして彼の装着する銀の手が、持っていたティーカップのハンドルを割ってしまう。 その声色が含むのは、単なる驚きの感情だけではない。お前たちは、なんたる不敬、なんたる畏れ多いことを口走るのか。その様な感情の方が、寧ろ一番に読み取れるような声だった。 これは何も、シャールだけがそう感じるということではない。恐らくは世界中で大多数の人間が、彼と同じく感じることであろう。 フルブライト商会という存在は、それだけこの世界にとって特別な存在なのだ。 何しろ先ず、この世界で経済に関わる者ともなれば、フルブライト商会の名声とその偉大さを知らぬ等という不届き者は、まず間違いなく存在しないだろう。 それどころか、例えば商い事とは全く無縁の、それもフルブライト商会の本拠地であるウィルミントンから遠く離れた貧しい農村に住まうような子供たち。その子供たちでさえ、酒場で謳う流れの吟遊詩人や聖王教会で教えられる数々の逸話の中で、その名前程度は耳にしている子供の方が圧倒的に多いはずだ。 三百年の昔、人類が四魔貴族との死闘を繰り広げたその最中。様々な場面で宿命の子たる聖王を助け、時の世界経済を纏めあげ、聖王軍の勝利に貢献した偉大なる存在。 それが、フルブライト商会なのである。 その威光は今も全世界に届いており、この三百年、世界の経済界を常に牽引してきた存在。まさに、名実ともに世界一の企業とは即ち、フルブライト商会のことを指すのだ。 そのフルブライトを、買収する。 それが、トーマスの狙いであろうとポールは言ったのである。 あまりに突拍子がなく、そして荒唐無稽に聞こえてしまうのも無理はないことであった。 そしてそこに、今度はノーラが理解に苦しむ様な表情で声を上げた。 「ちょっと待っておくれよ。あたしにはその狙いとかあんま良く分からないんだけどさ・・・でも今は、兎に角ピドナの状況を何とかするのが先決なんじゃないかって感じるんだけど、違うのかい?」 「うむ・・・私もノーラ殿と同じ考えだ。単に優先順位として、今は一刻も早くアルフォンソ海運などへの融資などを起点に状況打開をするべきではないのか?」 ノーラに続き、シャールも執事にティーカップを交換してもらいながらそう付け加えた。 確かにこの流通の孤立状態を打開しなければ、ピドナの状況はどんどん悪くなるばかりだ。そこを先ずどうにかしなければならないと考えるのは、至極当然のことの様に思われた。 だがしかし、それは実際には悪手である。 そうトーマスは確信していた。そこをしっかりと説明せねば、この先の意図にも理解は示してもらえまい。 トーマスはそう思い、テーブルの上で両手を組み直しながら腰を据えて解説を行おうとする。 が、そこでミューズが他者とは少し様子の異なる視線で、自分のことをじっと見つめていることに気がついた。その瞳は他者と同じく疑問を持つというよりは、此方の考えを既に察しており、その答え合わせを待つというような色合いだ。 なので思い直したトーマスは彼女に発言を促す様に、彼女に視線を合わせてから眉を上げ、薄く微笑んで見せる。 勿論ここは自分から説明しても構わない場面だが、ミューズを介した方が話が早かろうと判断したからである。彼女の持つ魅力、言い換えれば生まれつきのカリスマ性というのは、本人が思う以上に大きいことを彼は知っていた。 ミューズはトーマスの意図を汲み取り多少驚いた様子だったが、即座にそれに返す様に、浅く頷いた。 「では・・・私からご説明します。恐らく・・・トーマス様の狙いは、より大局を見据えたものです」 ミューズの開口に皆の視線が集まると、彼女はその場の一人一人に視線を移しながら語り始めた。 「確かに現在のピドナは、流通の断絶によって一時的に外部から孤立しています。この状況は早急に打開しなければ、先の通り他国に侵攻の口実を与える様なもの。それは、紛れもない事実です。ですが、初手で流通改善への着手は根本解決どころか・・・一時凌ぎにすらならない可能性が高いのです」 ミューズの語ったことは、こうだ。 アルフォンソ海運やメッサーナキャラバンへの融資、若しくは買収という選択肢。これを現時点で行うことによって得られる効果は、流通の改善までには全く至らない。 そもそも魔物に破壊された多くの荷馬車や船は直ぐに作り直せるわけではないし、人々に植え付けられた襲撃への恐怖心もまた、修復には相応の時間が掛かる。つまり融資か買収の何れかを行ったところで、即座に以前の状態に戻る、ということはないのだ。 そして何より、仮に流通環境が以前と同様まで即座に整ったところで、結局のところ魔物に再度襲われるリスクそのものは、全く改善されていない。 そうなると、作っては破壊されて、の圧倒的に不利な消耗戦を強いられる可能性が高く、襲撃を恐れた従業員の業務拒否も当然考慮せねばならず、それらへの対策が別途必要になってくる。 単純に、これでは非効率極まりない結果が見えているという話なのであった。 「・・・対して、トーマス様の言うフルブライト商会へのトレードには、その困難さに比例した大きな利点が、三点ほど考えられます。先ず一点目は・・・アビスリーグの組織規模をより正確に読み取り、その正体に近づくこと。つまりは、事態の根本解決を確実に進められることです」 これの根拠は単純だ。 まず世界最大企業たるフルブライト商会の買収が仮に成功した場合、フルブライト傘下の世界各国企業をそのままカタリナカンパニーに組み込むこととなる。 実のところ、複数地方を跨ぐ規模で企業運営をしている商会は数えるほどしかなく、直近ではフルブライト、ドフォーレ、ラザイエフ、そしてカタリナカンパニーがそれに該当する程度だった。 このうちドフォーレは既にカタリナカンパニーが買収しており、事実上カタリナカンパニーは規模だけで言えば既に世界二位の企業規模となる。そこが更にフルブライトを買収するとなれば、世界に散らばる企業のかなり多くをグループに抱えるということになるのだ。 そして現時点で、カタリナカンパニー内にアビスリーグからの接触がないことは内部監査済みである。 これはフルブライト二十三世から話を聞いた直後にトーマスが全支店の昨年帳簿を直接隅から隅まで確認しているので、間違いないことだった。 アビスリーグは世界各国で活動しつつ同盟範囲を広げておきながらも、世界第二位の規模にまで広がっているカタリナカンパニーと一切接触がない。これは、その事実に安堵する反面で、非常に不可解でもあった。 それこそ「意図的に避けている」とでも考えない限りは。 これは、トーマスは事実その通りなのだろうと踏んでいた。 カタリナカンパニーに関われば、必ず尻尾を掴まれる。それを向こうが理解しているから、敢えて避けているのだ。 これには思わず、敵ながらいい判断だ、とトーマスはほくそ笑んだものであった。 トーマスが副社長として実質的に全権を握るカタリナカンパニーは、その内部規律と監査の精度において、他企業では全く比肩できないほどに高度精密化されている。 元よりこれは、トーマスがフルブライト商会の歴史的な威光と世界に及ぼした影響に多大なる感銘を受け、企業という組織がその影響度からして持たざるを得ぬ「世界に対する社会的責任」を果たす上で絶対に必要であると考え、徹底して実行しているからに他ならなかった。 経済という巨大な力を持つからこそ、それを統制するための仕組みと外部影響はしっかりと考えねばならない。その気概と実行の精度が、蓋を開ければ既にフルブライトのそれを凌駕していた。それだけの話なのであった。 そのカタリナカンパニーがフルブライト商会を買収すれば、フルブライト商会の中にアビスリーグの手が伸びている場合、必ず買収の最中に分離するだろう。 そうするとその分離企業を最優先調査対象としつつ、残りはラザイエフ商会関連企業と、各都市にある独立企業群、そして旧ナジュ王国領の企業群あたりまで絞ることが出来る。 ここへの調査も買収と並行して行う事で、アビスリーグの本丸へと確実に迫ることができる筈なのだ。先ずはこれなくして、事態の根本的な解決には至らないのである。 「第二に、フルブライト商会の浄化救済を行うことができます。フルブライトとアビスリーグを切り離すことができれば、商会に残り内部調査をされているフルブライト二十三世様のご安全を確保することができるでしょう。最初にアビスリーグの存在を察知したあの方の安全を確保し、改めてその助力を得る事で、更なる迅速な真相解明が期待できるものと考えられます」 買収によりフルブライト内部に巣食うアビスリーグの手のものを切り離せられれば、これは可能であろう。 フルブライト商会という存在は、今後も世界にとっては必ず必要になる。そしてそれを統率すべきは当然ながら自分などではなく、高潔なるフルブライト十二世の意志を継がんと奮闘するフルブライト二十三世でなければならない。そうトーマスは考えていた。彼を危険から救い出すことは、正に世界の今後を左右する一大事であるのだ。 「最後に・・・他国のピドナ侵攻判断を遅らせる効果、です。他国が攻め入るまでの猶予ですが・・・恐らくはあと一ヶ月もこの状況が続けば、何れかの都市の軍団が攻め上がってくる可能性はかなり高まるでしょう。ピドナの現在の異変状況は、あと一週間もしないうちに各国に広まります。若しくはアビスリーグが裏から手を引き、既に各都市国家に侵攻を煽っている可能性も考えられます。戦の準備には従来なら短くとも半年程の準備期間を要するとされますが、混乱を突いて各国家の常備軍と備蓄だけで攻め上げるなら、そこまで時間は掛からないでしょう。つまり、その前に彼らを思いとどまらせる何らかの『事件』が必要です。このトレードは、それも兼ねているのだと考えられますが・・・如何でしょうか」 「・・・全くその通りです。ミューズ様、流石のご慧眼ですね」 こちらの狙いを細部に至り把握してみせたミューズに内心では舌を巻く思いだが、トーマスはそれを望外に嬉しく思いながら微笑み返した。 三百年の間に渡り世界経済を牽引してきたフルブライト商会への、トレード勃発。これは、全世界が注目せざるを得ない一大事になることは間違いがない。 そして今回特に重要なのは、それを行うのがピドナに本店を置くカタリナカンパニーである、という点だ。 奇しくも昨年末のコングレスによってルートヴィッヒ軍団長と、世論に英雄視されるミューズの繋がりが大々的に世界へと示された。そしてその場に、一企業人に過ぎないはずのトーマスが立っていたことを知らぬ各国要人は、居ない。 経済界においてはカンパニーとクラウディウス家の繋がりは元から判明していたことなので、そこに大きく疑問を抱く者はいなかったであろう。 そしてそのカタリナカンパニーが、この世界からの孤立状態の渦中にあって、フルブライト商会へトレードを仕掛ける。 これはつまり、それを実行するだけの余裕がピドナにはある、という事実を世界に知らしめることに他ならない。 流通と経済の危機という客観的事実と大いに相反するこの事態が起これば、各国は否が応にも慎重に出方を探らざるを得なくなる、というわけである。 更にいうならば、昨年末コングレスの場でトーマスはカンパニーとフルブライトの同盟破棄を宣言している。この宣言が、ここで予想外に外交思惑に響いてくる。 コングレスの場では『特段この同盟破棄がカンパニーと近衛軍団との新たな蜜月を表すものではない』との補足を敢えて行っている。だが、ここに至ってカタリナカンパニー対フルブライトのトレードなどが起これば、あの補足が信ずるに値する、などと愚直に考える者の方が少ないのは、火を見るよりも明らかだ。 これらの意味するところはつまり、この経済危機が『事実なのかフェイクなのか』を各国は何としても見極めなければならなくなる、ということだ。 「・・・旦那、狙いはわかった。だが、肝心のトレードに充てる資金は一体どうするつもりなんだ。ドフォーレ買収の影響はガッツリ残っている。即座に動かせるオーラムは、ぶっちゃけ殆どないはずだが・・・?」 頭に被っている帽子の特徴的な突起部分を手で弄りながら話を食い入るように聞いていたポールは、一呼吸置いてからトーマスに向かい冷静に問うた。 彼の指摘は、実に的確だ。なにしろトレードを行うには、ただでさえ莫大な資金が必要になる。そして今回のトレードで狙い通りの効果を目論み行うとなれば、前回ドフォーレの倍以上の稼働資金が必要になるのは間違いない。 残念ながらカタリナカンパニーにそのような資金は、ない。それはカンパニー内部の情報を把握しているポールには、聞くまでもなく分かりきっていることだった。 更には、唯一の隠し球であった旧クラウディウス家縁の者たちからの融資も、ドフォーレ戦で用いてしまったのでもう期待はできない。 その上で、フルブライトに勝負を挑むだけの資金が確保できるとは、到底思えなかったのであった。 「そうだね・・・ただそこは、一応は策があるんだ」 トーマスは、どこか不敵に笑いながら言った。その表情が大層不気味に見えてしまい、ポールは思わず背筋に震えを感じながら、怖いもの見たさで次の言葉を所望した。 「・・・旦那、一体どうするつもりなんだ・・・?」 「・・・簡単なことさ。ドフォーレが敢えてやらなかった手段を、我々がやるだけだよ」 そうしてトーマスが少し俯きながら微笑む様は、その場の誰もに等しく、恐ろしいもののように映ったのであった。 三百年の昔、かの聖王三傑たる玄武術師ヴァッサールの発案から作り上げ、そこから二度に渡り魔海侯フォルネウス討伐という偉業を成し遂げた海上要塞都市バンガード。 建造から三百年の時を経て、つい最近に再び大地の鎖を断ち切ったバンガードは、ルーブ地方とガーター半島を結ぶ要所兼、新たに内海と西太洋の海上直通路として、世界中から大いに注目される地となっていた。 今宵、その海上都市の中でも最も高貴なホテルの宴会場にて、非常に豪奢な催しが開かれていた。 「ようこそおいで下さいました。誠に細やかなおもてなしではありますが、今宵は是非とも楽しんでいかれてください」 ホテル前に到着した数台の馬車による一団を仰々しい一礼とともにエントランスで迎えたのは、その夜の催しを開いた主催の男だった。 その男は、非常に肥えた身体をこれでもかと着飾っており、煌びやかな衣服と数々の宝飾品がその動きに合わせてジャラジャラと音を立てている。 その装飾品だけで開拓民が一生暮らすに困らないであろうほどのものであるが、それらを全く惜しげのない様子でひけらかしながら、ゆっくりと顔を上げた男は馬車から降りてきた今宵のゲスト一団に改めて向き直る。 「・・・まさか、我々がこうして貴殿のおもてなしを受けることになろうとは。以前ならば、思いもしませんでしたな」 馬車から降りてきたゲストの中で、明らかに周囲と異なる風格を漂わせた老紳士が、ホストの男に向かって軽い会釈をしながらそう告げる。 この老紳士こそ、世界第一位の企業規模を誇るフルブライト商会の、営業本部長を任される人物であった。フルブライト商会の現会長の先代にあたるフルブライト二十二世の時代から長年辣腕を震ったとされる、業界内ではかなり名の通った大御所である。 「ははは、全く同感です。生前の父は、よく貴方のことを愛憎混じりに語っていましたよ。数奇な運命の末にこうして私が貴方に持て成しの場を用意できたこと、光栄に思います」 「それはそれは・・・ふふ、貴殿も随分と棘が抜けて、ご成長なされた様子。今宵この時ばかりは、日中の闘争を忘れて楽しませていただくとしよう」 表面上の口上とは全く異なる剣呑な雰囲気を纏った両者は、しかし互いに固く握手を交わしながら微笑んだ。 商業ギルドに申請された瞬間から世界を震撼させた、フルブライト商会とカタリナカンパニーによる、世紀の一大トレード。 その実施会場として指定されたこの海上都市バンガードにて、本トレードのカタリナカンパニー側代表として挑む人物こそ、今宵のホストであった。 「・・・さぁ、どうぞお入りください」 そう言いながらゲスト一団をホテル従業員に会場内へと案内させ、男は会場入りする一団の背中をじっと見ながら、やがて懐から葉巻を一本取り出す。 彼の側に控えていた執事が慣れた手つきで葉巻の吸い口をシガーカッターで切り落とし、火をつけた。 何度か吸って火のついた葉巻から、たっぷりの煙を鼻腔を通じて燻らせる。そうしながら男は、どこか憎らしげな表情を浮かべながら、一人その場で凄みをきかせた。 「・・・ったく、どいつもこいつもこの俺様を舐めくさりやがって。今に見てやがれよ・・・」 世界で最も注目される史上最大のトレードを仕切る、カタリナカンパニー側の人物。 今こうして葉巻を燻らせるその人物こそは、つい最近まで世界第二位規模の巨大企業を一手に率いていた経済界随一の剛腕、ラブ=ドフォーレその人であった。 ラブは吐き捨てるようにそう言うと、その「剛腕」の名に似つかわしく実に含みのある笑みを浮かべながら、火をつけたばかりの葉巻を惜しげもなく地面に放り捨て、ゆっくりとした足取りで賑やかさを増す会場へと入っていった。 前へ 次へ 第九章・目次
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第九章 国民代表と選挙制度 p.133以下 <目次> ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類[155] (一)歴史上最初の代表は王であった [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された ■第ニ節 代表または代表制の意義[161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない ■第三節 日本国憲法上の代表制[165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない ■第四節 選挙と選挙権[167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える ■第五節 選挙制度[174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である ■第六節 被選挙権と立候補の自由[177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か [179] (三)立候補は自由でなければならない ■第七節 選挙区[180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される ■第八節 選挙方法[182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 ■ご意見、情報提供 ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類 [155] (一)歴史上最初の代表は王であった 代表概念は実に多義的えある。 それは、ある権限それ自体、その権限を有する人・機関、または、それらの権能(役割)のいずれか、または、全てを表す。 今日いう「代表」とは、通常、選挙民によって選出された人をいい、そのための制度を「代表制」という。 そのことからすれば、「代表」なる概念は、選挙制、議会制といった制度の表現体である。 これを「狭義の代表」と称することにしよう。 この狭義の代表概念は、例えば、《アメリカの大統領は、全国民の利益を代表する》、とか、《君主は国家を代表する》とかいわれる場合の、機能からみた「代表」概念と同じではない。 狭義の代表は、議会において必ず民意(選挙人の利益、全国民の利益)を表出しなければならないわけではない。 代表の表出する利益は、一院制か二院制かによって異なり、二院制のなかでも、州の利益代表、職能の利益代表等々、様々である。 議会が登場する以前の代表は、王であった。 王は、その機能からみれば、国家・国民の一体性を象徴しているという意味での「象徴的代表」であったり、国家・国民のもつ特質を集約的に共有しているという意味での「縮図的代表」であったりした。 [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した 中世中期以後、王への自主的援助金(これが後に税となる)に対する等族(司祭、村長、修道院長等)の同意を得る実際的必要性から、審議権限をもつ集会たる等族会議が登場する。 王は、財政的基礎を領主関係を超えた諸階層に求め始めたのである。 等族は、「国家」機関ではなく、「国家内国家」(公法上の団体)であって、それぞれの構成員を支配する権限を有する独立団体であった。 等族は、等族会議に代表を送り出すが、その代表は、①選挙区の特権身分の有する伝統的な固有の権利を君主から守るために、各身分から派遣され、②私法的な委任の原則による規律に服する存在であった。 それは、選出母体からの命令的・個別的委任を受ける「委任的代表」であった。 委任の条件と範囲を逸脱する代表の行為は無効とされるばかりでなく、代表の罷免事由とされた。 また、その役割は、君主の諮問機関であったために、討論・表決することではなく、君主と選出母体との間の導管役を果たすにとどまった。 右の代表の役割がいかに限定されていたとはいえ、その統治にもたらした変容は、重大な意味をもっていた。 すなわち代表の登場は、君主の権力は絶対的ではなく、等族の有する権力との二元構造のなかで制限されていることの象徴的意義を有していた。 絶対君主制に代わる制限君主制が説かれるに当って、歴史上のモデルとされたのが等族的な代表であった。 [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した 国家は、等族国家にみられた君主と等族との二元構造を克服することによって成立した。 ヨーロッパ大陸では、その克服は、政治的統一を一身で代表する君主の登場、すなわち、絶対君主制の確立によって達成された([2]参照)。 これに対して、市民革命期のイギリスにおいては、等族君主制から立憲君主制への円滑な移行によって、二元構造が克服されたのである。 立憲君主制は、パーラメントという統一的統治機構を有するイギリスにおいて、まず実現された。 その後、統一的国家の中に、最高・直接機関としての君主と、もう一つの直接機関としての議会(または議院)が存在するに至った段階で、近代国家は新たな二元構造上の政治的軋轢に遭遇することになる(この新たな二元構造を克服する試みが、議院内閣制であることは後の第11章の [208] でふれる)。 なお、「直接機関」とは、国家の組織法たる憲法に基づき国家機関となるものをいい、委任に基づいて機関たる地位を与えられる「間接機関」と対比される。 イギリスでの議会は、法を語る大法院でもあり、間歇的に活動する諮問機関でもあったパーラメントから発展して成立する。 パーラメントは、等族会議とは違って公法上の団体ではなく、地域的閉鎖性を打破する国民代表機関(政治的統一を担う機関)としての性格を次第に獲得していった。 そして、パーラメントは、代表機関の同意こそ法の拘束力の基礎たるべしと主張しつつ、「すべての人に関係あることはすべての人により同意されるべきである」との標語のもとで、まず、「法を作ること」(law-making)に参与する。 それが、国民の同意の通路、国民の代表者としての議会(パーラメント)となる。 議会は、もともと法の確認と修正を行う機関であったが、「法を作ること」がすなわち「立法」であると法実証主義的公法学者によって同視されるに至って、「立法機関としての議会」が誕生するのである。 もともと議会の成立要因は、立法機関としての地位を獲得することだけにあったのではない。 議会は、課税という立法でもなく行政でもない君主の作用について同意することから発生・生育したことに表れているように(後述する [289] 参照)、執政府を監視監督しながらそれを抑制することを目指していた。 その本来の目的に従って議会は、立法権限から、さらに勢力を拡張して、執政府の責任追及権まで獲得していく。 この段階であっても、君主は立法の裁可権を保持するのであるが、ほぼ全面的に制限された君主となる。 [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく 右のような移行は、代表制のあり方と密接に関連している。 等族会議から議会への移行は、トーリ的代表観に代わってウィッグ的代表観が定着してきたことを反映している。 トーリ的代表観とは、代表は地域的利害を君主に対して表明し交渉する存在であるべし、とする思考をいう。 等族会議への代表は、同質的な地域的利害を代弁する存在であった。 これに対して、ウィッグ的代表観とは、直接機関の構成員としての代表は、「一つの利益をもった一つの国民」の意思を表示すべきであって、選出母体から自由に見解を表明できる存在足るべし、とする思考をいう。 ウィッグ的代表観は、次のようなE. バーク演説(1774年)に典型的に表れている。 すなわち、「議会は全体の利益をもった一つの・・・・・・国民の審議のための集会である。・・・・・・代表者は、その偏見なき意見、その成熟した判断力・・・・・・を、いかなる人間、団体に対しても、犠牲に供してはならない。」 これは、議会が政治権力の中心となるために、代表の意思は、選挙区からの個別的な訓令がなくとも全国民の意思を表わすが故に正当であることを強調したものである。 この代表観によって初めて、議会は全国民の代表としての地位と、それに相応しい政治権力とを獲得したのである。 このウィッグ的な代表制は「選挙制代表」と呼ばれ、その代表は、委任的代表、象徴的代表、縮図的代表のいずれであってもならない、とされる。 もっとも、17世紀以降のイギリスにおける代表観は一様ではない。 先にふれたように、トーリ流に、地方の利害を代表し、不満の救済を王に求めるという伝統的代表観ばかりでなく、急進派レヴェラーズのように、委任的代表観に立って頻度の高い選挙を要求する流れもみられた。 こうした様々な代表観は、個人を単位として成立している近代社会にあって、部分(地域)的利害を全体(全国)的利害へと社会統合するための架橋として、複数の解答があることを示唆している。 [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された こうした様々な代表観は、18世紀フランスに渡った。 そこでは、二つの代表概念が意図的に使い分けられた。 まず、1791年憲法はウィッグ的代表観に影響され、「各県から選出された代表者は個々の県の代表ではなく全国民の代表である」(第三編第一章第五節七条)と謳うことによって委任的代表制を否定した(命令的委任の禁止または自由委任)。 代表が選挙民から自由であるために、「代表として、職務執行に際しては、言動を理由として捜索され、起訴され、裁判されることはない」とする免責特権をも同憲法典は認めた(第三編第一章第五節七条)。 この代表は「純(粋)代表」と呼ばれる。 この代表制が、ナシオン主権理論のもとで主張された点については、既にふれた([114]参照)。 これに対して、ルソー理論の影響のもとでプープル主権理論にでた1793年憲法(ジャコバン憲法)は直接民主制の原則を標榜し、純(粋)代表観を否定して、命令的委任の制度を採用した(ルソーによれば「主権は代表され得ないし、同様に譲り渡し得ない」のであるから、議員は代表ではなく、受任者となる)。 19世紀中葉以降のフランスにおいて、また新たな代表観の登場をみる。 男子普通選挙制の実現(1848年)後に制定された第三共和国憲法(1875年)は、純粋代表に代わる別の代表を模索して、選挙民の意向を無視できなくするための工夫を凝らした。 具体的には、(ア)大統領による民選議院の解散制度を導入し、(イ)選挙民を直截に代表する議会の最高機関性を謳った、のである。 これによって選挙民は、代表の行為と表決を実効的に統制でき、ここに選挙人と代表との事実上の同一性が確保される、とする新たな代表観が誕生した。 この代表が「半代表」または社会学的代表と呼ばれることについては、既にふれた([113]参照)。 [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された アメリカ合衆国憲法典における代表観は、総じてウィッグよりも急進的である。 同憲法典は、主権が人民にあることを宣言し、代表制を直接民主制の次善の策またはその手段として捉えた。 そのために、連邦議会の下院議員に大きな独立性を与えることを避け、議員を二年ごとの頻繁な選挙に服せしめるのである。 さらに同憲法典は、一身で全国民を代表する大統領を置いた。 もっとも、その選出に当っては、人民の激情による選出を阻止するために、間接選挙という制度が採用された。 大陸諸国の相当数が、君主と議会という二つの代表機関を置けば、かっての二元構造の復活となることを危惧して、議院内閣制という新たな理論によってこれを克服しようとするのに対して(議院内閣制については第11章 [207] 以下でふれる)、アメリカは独自の代表観と権力分立構想のもとで、独自の道を歩むのである(アメリカ独特の権力分立については。[196] でふれる)。 ■第ニ節 代表または代表制の意義 [161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる 法的な意味での代表とは、Aの行為の法的効果がBに帰属する場合のAをいうが、憲法学でいわれる代表とは政治的意味でのそれ、つまり、ある政治体制のなかで統治の一体性を、公然と表象する地位または役割を有する人をいう。 それを「政治的代表」という。 政治的代表の概念は、私法上の代表概念とは全く異なる。 歴史を振り返れば、我々は、三つの代表概念が存在してきたことに気づく。 その第一は、 民会を中心として行われる直接民主政におけるポリス的代表観である。そこでは、有責・有徳の人物(君主、貴族または多数の公民)から構成される政治的共同体において、各人が共通利益を代表しながら、積極的・自発的に政治参加することが理想とされた。 その第二は、 理性の力によって自由な判断(私利私欲を払拭した判断)を為す公民が自らの意思を現前させれば、一般意思が形成され、たとえ代表が存在するとしても、それが最終的決定権を持つことはない、とする18世紀のルソー的な代表観である。 その第三は、 一定の条件を満たせば選挙人としての資格をもって、その選挙人が代表を選出するという装置のなかで、代表は、公衆(public)の政治的選好を公然と(publicly)再現前(represent)すべきものである、という今日的な代表観である。 この最後の代表観は、選挙によって選出される議員から成る議会が、選挙民に代わって政治上の争点を解決する、とする制度を前提とする。 その制度は、強制的委任を排除しながらも、定期的な選挙に代表を服さしめる(一定の任期期間中だけ存在する)制度でもある。 [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る 政治的代表は、国民主権の実現と共に、一般意思または主権者意思を表明する機関または機関構成員を意味するようになる。 そして、そこでの代表制とは、多数の意思を反映するように機関が組織されていることをいう(宮沢『憲法』219~220頁)。 これを国民代表(制)という。 国民代表には、二つのタイプがあり、一つが直接民主制、他の一つが間接民主制である。 直接民主制とは、機関概念を用いて説明するとすれば、全体としての国民が一つの機関となると同時に、全員が機関構成員となる統治技術をいう。 この直接民主制は、国民の各自が代表者兼決定者となり、統治の自同性を最大化するための国民代表制である。 これに対して間接(代表)民主制とは、同じく機関概念を用いるとすれば、一次機関としての国民が二次機関としての議会(その構成員たる議員)を選出し、二次機関が政治的統一性を表象する統治技術をいう。 近代国家は、右の二つのうち、間接民主制を採用して議会を置き、その構成員たる議員の選出方法として、選挙によるとするのが通例である。 間接民主制が各国で採用された理由は、 第一に、 広大な領土と多大な人口を抱える近代国家においては直接民主制の実行は不可能または困難であること、 第二に、 加熱しがちの人民のパッションや、地域的利害のストレートな強要を抑制する必要のあること(近代立憲主義は、人民の積極的政治参加に警戒的であった点は、既に [78] [81] でふれた)、 第三に、 統治の自同性を確保実現することは、憲法の目指すところではなく、統治にとってリーダー(代表)は不可欠であること、 等に求められる。 右のうち、(ニ)(※注釈:第二の理由)が最も重要である。 直接民主制は多数者の選好をストレートに反映するのに対し、間接代表制は少数者をも代表し得るのである。 [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した 近代立憲主義にとって、代表という観念は極めて重要な発明であった。 というのは、この代表技術によって初めて、絶対君主のもとにあった単一の権力から分離独立した権力保持者としての議会が成立し得たからである。 換言すれば、代表技術の考案によって成立をみた議会こそ、絶対君主の専制からの訣別の第一歩であった。 議会は、君主の権力を剥奪または抑制するための組織として成立をみたのである。 議会の成立時においては、議会に対する信頼は絶大であった。 普通選挙のもとでの自由な投票は、議会が国民に対して最大の効用を実現するであろう、と期待された。 J. S. ミルでさえ、代議政治こそ最善の統治形態である、と述べたのは、そのためであった。 実際、19世紀は「議会制の時代」となった。 それを先導したのは、一つには、イギリス憲法史の所産である、代表制、両院制、大臣責任制、議院内閣制といった制度であり、一つには18世紀の哲学の所産である、国民主権、憲法制定権力、権力分立等の理論であった。 君主と議会との力関係は国によって異なるものの、立憲君主制以降は、両者が直接機関としての地位を占めるに至り、議会がまず立法権の本質部分を担うようになる([156]でふれたように等族会議の時代には、その会議体は直接機関ではなかった。また、立憲君主制の意義については、[197]参照)。 その時代には、イェリネックの如く、一次機関(国民)と二次機関(国民代表)とが「法的な統一体となる」と解することも、「議員の意思は国民全体の意思である」と解することも、本来擬制であるとはいえ、説得的であり得た。 なぜなら、国民が統一体として、統一的選挙によって代表を選べば、国民の統一的意思は議会に反映され、従って、我々は民主制を獲得したのだ、といい得るからであった(同時に、多くの人々は、民主制のなかに自由がある、と確信して、19世紀の「議会の時代」を賞賛した)。 ところがその後、君主権限が完全に名目化されたり、君主の存在自体が否定されたりして、議会は抵抗すべきターゲットを失った。 この時点以降、選挙制代表または純粋代表制のもとでの議会は、国民から法上独立した機関であって、議会と国民との間の法的同一性こそ擬制中の擬制であることが判明してくる。 例えば、「昔の政治の大迷信は国王の神権であった。今日の政治の大迷信は議会の神権である」(H. スペンサー)とか、「疑いもなく代議制は民主主義の歪曲である。純粋な民主制は、人民主権を議会という媒介者を通じてのみ発動せしめることを否定する直接民主制のはずである」(ケルゼン)とかの指摘は、「議会の時代」への反省を人々に迫った。 「個」と「全体」との対立は、いかなる代表技術をもってしても解決されることはない。 そこで、真の民主制としての「治者と被治者との自同性」を満たす直接民主制への回帰を訴える人々が出てくるのも当然である。 しかしながら、直接民主主義的統治理念も、ほかならぬ擬制であり、空虚な主張形式に過ぎない。 各人全員が代表者であり、かつ、決定者となる事態は在りようもなく、在ったとしても「感情という誘惑を伴う群衆の仕事であって何者もその衡平を保障しない」であろう(デュギー『公法変遷論』第一章)。 国家は、二つの相対立する形成原理に拠って立つ。 一つは、「同一性の原理」であり、他の一つが、「代表の原理」である。 同一性の原理に依拠する国制が直接民主制であるが、統治に一定の組織・機構と指導者が不可欠である以上、その国制といえども、自己統治を実現することはなく、ただ、民意と指導者の意思とのギャップを極小化することに期待されるだけである。 これに対して、代表の原理に徹する国制は、指導者たちによる統治を極大化するであろう。 それにも拘わらず、代表制や普通選挙制と、国民主権とを関連させながら、議会が主権者たる国民の意思を代表すると説くことは、有害無益である(主権者としての国民、すなわち、選挙人団としての国民が議会を創設することをもって、主権の行使であると説くことは出来ない。この点については、既に [56] [130] でふれたが、後の [173] でもふれる)。 この点と関連して、「議会制民主主義」という用語に過剰な内容を吹き込むことにも我々は慎重でなければならない。 その用語は、国民と代表との間の関係を表示するものではなく、議会内での討議、表決等の手続にみられる特徴をだけ指すものに限定されるべきである。 [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない 民主制とは、被治者が治者(代表)に対して有効な統制を及ぼすための装置である([56]参照)。 その装置のうち間接民主制または純(粋)代表制は、統治技術としてベストではなく、様々な工夫によって補完されなければならない。 まず 第一に、 民意の多元的な分布を可能な限り正確に反映する代表制とするために、選出(選挙)の在り方が検討されなければならない。その工夫の一つが比例代表制である。これは、複数政党の掲げる公約または綱領が選挙の争点となり、基本的には、選挙民が投じた票数に応じて議席が配分される選挙制である(比例代表制のタイプについては、[183]でふれる)。政党は、代表制を補完する政治的装置として、自然発生的に生まれたのである。 第二に、 地域的利害は、住民の生活に最も密着した地方政府に直接表明されることが望ましく、そのためのチャネルの整備保障も望まれるところである。地方自治制度は、地域的部分意思を住民自ら形成するための制度であるばかりでなく、全国的な多数者意思形成を準備させるための基盤でもある。 第三に、 一定種の公務員に関しては、任命による公務員であっても、国民による選定罷免権の対象とすることも一つの対応である(日本国憲法にみられる最高裁判所裁判官の国民審査はその一例である)。 第四に、 政治過程から隔絶されている少数集団(マイノリティ・グループ)は、その政治的意思を政治過程へ正確に反映できないこと(under-representation)に鑑みて、非政治的機関(典型的には司法府)による救済手段を彼らに柔軟に講ずることも必要であろう。 最後に、 代表制を半代表制に近づけることも一案ではあるが、社会学上の概念である半代表を、法上の概念として制度化することは困難であって、結局民意と代表者意思との可能な限りの一致は、現実の政治的展開によって解決されるほかない(半代表をいかに評価すべきかについては、すぐ後の [166] で述べる)。 ■第三節 日本国憲法上の代表制 [165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない 日本国憲法が採用している国民代表制につき、徹底した直接民主制であると解する余地はなく、次のいずれかの選択肢が残される。 まず、 ① 選挙人の意思から法上独立するなかで、独自に統一的意思形成をする代表制、すなわち「純代表制」である、とするA説、 ② 選挙人の意思を反映しながら、代表と選出母体との利害の類似性を確保する代表制、すなわち「半代表制」である、とするB説、 ③ 日本国憲法が人民主権に立っているとの前提で、その採用する代表制は、命令的委任に服する代表制、すなわち「委任的代表」か、直接民主制の次善手段としての代表制である、とするC説。 我が憲法上の代表制は、「権力は国民の代表者がこれを行使する」と謳う前文、国会議員が「全国民の代表である」と定めて選出母体からの統制を受けないことを示唆する43条、それを具体化するために代表に免責特権を与えている51条等から考えて、A説(純代表制)またはB説(半代表制)の説くところであろう。 なお、本書は、「実在する民意または選挙民の意思」という表現を使用しない。 民意や選挙民の政治的選好は、モザイクのように、ただ浮遊するのみであって、統一的な実在物ではない。 [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない このうち、半代表とは、何度か繰り返したように、選挙人の意思と代表の意思との「事実上の同質性」を満たすものをいい、ときに社会学的代表ともいわれる。 なるほど、普通選挙制の実現、民選議院解散に伴う選挙の実施、党員政党の発達等によって、事実としては、代表への自由委任は貫徹し得なくなってきている。 とはいえ、法上の代表の性質如何を問う場合に、事実上の性質をもって論ずることでは、代表に対する法的拘束力を説き得ない。 また、純代表であっても、選挙民の意思に十分配慮すべきものとされていることからしても、A説が妥当である(今日いう純代表を擁護する有名な演説をしたE. バークでさえ、選挙民との密接な接触の必要性、彼らの利益の優先性を説いた点を忘却すべきではない。また、普通選挙制が国民主権の実現であるとか、民主制の実現であると、ナイーヴに同視してはならない。プルードンの指摘するように「普通選挙制とは、人民をしてその本質的統一の姿において語らしむるを得ない立法者が、市民をして一人一人自己の意見を発表せしむるもの」に過ぎない。この点については、[173]でふれる。 半代表制論には、地域的利益は同質であってその意思は代表され得るであろう、との想定がある。 ところが、地域的利益も実は多元的であって、代表され得ると思われる利益も、実は、個別的でしかないのである。 半代表論は、得票最大化動機や団体利益促進願望に支配される代表を産み、国会を地域の特殊・個別的利益の巣とするであろう(大統領公選制や首相公選制は、特殊利益代表と化した議会に対して、全体利益代表としての執政府の長を置いて、半代表機能を修正する試みである)。 さらには、参議院議員の任期が6年、衆議院議員のそれが4年と長期であることからして(45条、46条)、選挙民と代表との事実上の同質性は強調し得ない。 [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない 法律を行うはずの「行政」担当者、なかでも、官僚が、法律案の策定のみならず、執政領域の政策立案、政策の見直し等々、統治の全過程に力を持ってきた。 それは、「自由市場のもたらしてきた不公正の是正」を理由として、国家が、ときには企業として、ときには保護者として、我々の「市民社会」にきめ細かく介入して、生産とその成果の分配を決定し始めた。 これは、「福祉国家・積極国家」の必然の帰結であった。 実際、無数ともいえる国家目的決定の選択肢と実現手段が、投票者には理解できないほど複雑になったために、その主導権は、議会でもなく、国民でもなく(ましてや国民の多数派でもなく)、官僚へと移ってきたのである。 かくして官僚は、リソースの配分と分配を決定する「権力」を保有することとなった。 この現代立憲国家においては、ヘーゲル『法権利の哲学』第311節が既に指摘していたように、個人は代表されることはなく、ただ、規模の大きい組織化可能な利害のみが代表されるに至った。 民主主義は、多数派を代表することさえしないのである。 なかでも、代表民主制は、「代表する者」と「代表される者」とを切断するばかりでなく、その二つの者の間隙に、「代表されない者」を出現させる。 代表制は、まさにその中に、「代表されない者」を生み出すという逆説をもつのである。 ■第四節 選挙と選挙権 [167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする 任命権者による選任を「任命」というのに対して、選挙人(有権者)によって代表を選任する行為を「選挙」という。 我が国の通説は、選挙に当って選挙人が選挙人団という一つの機関を構成すると捉える。 この観点からは、選挙における個々の選挙人の意思表示は、選挙とは異なるものと観念されて、「投票」と呼ばれる。 こうした思考は、国家法人説に立って、国家という法人の構成員たる選挙人が、選挙人団という法人の一機関を構成する、と捉えることによる。 この考え方でいけば、「選挙行為」とは、最高国家機関でもあり一次機関でもある選挙人団が二次機関を創設する行為(公的な行為、従って公務としての特質をもつ行為)であり、「選挙権」とは、個々の選挙人が選挙人団の構成員たる資格を求める権利(選挙人資格請求権)である、とされる。 この資格は、国家構成員であるが故に認められるのであるから、これを国籍保有者に限定するのが当然である(選挙人資格を認められた者の氏名等を登録した名簿を選挙人名簿という。同名簿の作成方法には、本人の登録に基づく自発的登録制と、公的機関が職権で登録する自動登録制とがある。我が国は後者に拠っており、公職選挙法第4章に詳細な定めがある)。 [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする 「選挙人団」という観念を持ち出すと、その行為は個々の選挙人の権利とは別次元のものと考えざるを得なくなる。 ここから、「選挙人団の行為=公務としての選挙」と、「個々人の選挙権=資格請求権としての選挙権」との区別が帰結される。 これが、イェリネックにみられた、公務としての選挙行為と能動的権利としての選挙権という二元説である。 [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる もっとも、我が国で二元説といわれる場合には、イェリネックの見解とは異なった意味で用いられる。 それは、選挙権は、選挙人団という機関の公務であると共に、「参政の権利」として主観的権利でもある、という趣旨で通常用いられる(芦部信喜『憲法と議会政』281頁、佐藤・109頁)。 つまりこの二元説は、選挙行為を、機関としての国民から統一的にみれば選挙人団の機関行為であるとみる一方で、個々人のレヴェルに分解してみれば参政権の行使である、と説くのである。 この我が国の通説は、「機関としての選挙行為=公務としての選挙行為」という等式にさらに、「選挙人資格請求権+自己の意思表示としての選挙行為(参政権)=主観的利益としての選挙権」とする等式を加えることによって、選挙権の二元的正確を解明してみせるのである。 しかしながら、各人の選挙権と選挙人団の選挙行為という異なる次元のものを「二元的」と称すること自体、誤導的である。 もともと「参政権」という概念自体、イェリネックにはみられなかった極めて曖昧な概念である。 選挙権が主観的利益であることが解明されて初めて「それは参政権である」といい得るのであって、芒洋とした「参政権としての選挙権」という前提から選挙権の権利性を根拠づけることは結論先取りの循環論に過ぎない。 機関概念を前提とする限り、定義上、個々人の選挙権はあくまで「有権者の一員となる資格の請求権」であり、選挙行為は「機関としての国民の行為(公務の遂行)」である、と説くのが正しい。 [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である 通説的位置を占める二元説に対抗するかたちで、最近では、選挙権を権利であるとする立場(権利説)が提唱されてきている。 権利説の中にも、自然権説、憲法上の基本権説、等様々な立場があるが、中でもプープル主権論を基礎とする権利説が注目されている。 プープル主権論によれば、主権が現実的具体的存在としてのプープルに帰属する以上、プープルが最大限直接に国家権力を行使すべきものとされ、選挙とは、主権主体たるプープルが、主権の客体たる国家機関を創設したり改廃したりする「権利」である、と位置づけられる。 この場合の「権利」には、選挙人となる資格および選挙行為の双方が含まれるばかりでなく、同権利は「主権を直接に行使する権利」(奪うことの出来ない政治的権利)である、と特徴づけられる。 このプープル主権論を基礎とする権利説は、次のような多くの難点を残す。 第一に、選挙を主権の行使と捉えることは、正しくない。選挙を主権的権利であると捉え得るか否かは、主権や民主主義をいかに捉えるかと関連している。プープル主権論は、民主主義を「治者と被治者の自同性の実現」と捉えるために、主権の行使(治者の行為)と選挙権の行使(被治者の行為)との同質性を見て取るのである。しかしながら、統治に同質性など在り得ない。多元的社会における民主主義は、国民の最大可能な部分が、治者を定期的に交替させる装置をもつ政治体制、または、決定者(代表)を決定する政治体制である([56]参照)。今日においては、シュンペーターも指摘するごとく「人民の意思は政治過程の推進力ではなくて、むしろその産物である」といわざるを得ず、選挙民の意思を統一的に捉えて、それが政治的意思の最高の決定であり推進力である(主権の行使である)、とすることは擬制にすぎる。「民主主義理論は、最小限度、一般市民が指導者に対して比較的高度のコントロールを発揮できる諸過程に関連をもっていると考えられている。このことこそ、・・・・・・[民主主義理論という言葉の]最低限度の定義なのである」(R. ダール『民主主義理論の基礎』11頁)。選挙とは、右にいう「統治者に対する有効なコントロール」を行うためにシトワイアン(各市民)が参加するメカニズムであって、プープル(シトワイアンの総体)の行為ではない、と考えるべきである。選挙は、自ら統治することを含意していない(間歇的な選挙は、不断の統治とは異なる)。 また、プープル主権論に基づく選挙権権利説に対する疑問の第二として、次の点が挙げられよう。すなわち、いかに民主主義が徹底されようとも、選挙権の享有主体の具体化は法令に待たねばならず、シトワイアンであれば選挙権を「奪われることのない権利」として保障されるわけではない。選挙権は、国民のうち、行為能力のある成人にのみ、平等原則に基づいて法認されるのが通例であり、何歳をもって成人とするか、居住要件や不適格要件をどうするか等は、立法府の裁量的判断によって決せられざるを得ない。 なお、選挙権を自然権の一種であると説いて、その権利性を主張する立場もみられるが、各種の技術的制約(例えば、年齢、定住性、登録等)に服さざるを得ない選挙権を自然権と理論構成することは、不可能である。 [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない 選挙権は、国籍保有者たる国家構成員にのみ付与される。 憲法15条1項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定めているのは、国家は、対人高権によって画される政治的共同体であって、その政治的意思決定は、対人高権の指標でる国籍の保有者によって下されるべきことを明らかにしているものと解される。 また、国民主権または民主制の観念が、選挙人資格を最大限広げることを要請しているとしても、それは、国政が国籍保有者によって為されるものとする結論に変化はもたらさない。 イェリネックの指摘するように、「民主制的共和制の理念がどんなに進んでも、国家の全ての住民が政治的権利を持つべきだということにはならない。せいぜい、国家の全ての構成員が政治的権利を持つべきだというところで止まる」(イェリネック『一般国家学』582頁)。 最高裁判決は(最ニ小判平5.2.26、判時1452号37頁)、永住外国人が平成元年の参議院議員選挙での投票を行い得なかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、マクリーン事件判決(最大判昭53.10.4、民集32巻7号1233頁)を援用しながら、「国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法9条1項の規定が憲法15条、14条の規定に違反するものではない」と判断した。 同判決は、国家権力行使の源泉は「国民」とすることが国民主権原理の意であるとしながら、学界の通説である「権利性質説」に立って、外国人をその権利保障の範囲外としたのである。 国家権力行使の源泉が「国民」にあるとする伝統的な思考に従えば、被選挙権が外国人に保障されない、と解釈されざるを得ない。 ある下級審判決は(大阪地判平6.12.9、判時1539号107頁)、国会議員の被選挙権について、日本国籍を有さない者が参議院議員選挙への立候補を受理されなかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、「右権利は、国民主権原理に基づくものであるから、同条[憲法15条]の『国民』とは日本国籍を有する者のことであることは明らかである」と述べた。 [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である 選挙は、国政だけにみられるわけではない。 地方政治のレヴェルにおいても各種の選挙が実施される。 そこでの選挙権は、その地方の住民であることに基づく資格であると考えれば、その要件として一定期間の定住性が課せられることに異論はない(定住性を満たさない外国人については、論外である)。 地方公共団体における選挙について、「定住性」以外を要件とすることにつき、日本国憲法の採用するスタンスについては、以下の三説があり得る。 まず、A説は、 憲法93条2項が「住民」による直接選挙を保障していることを根拠に、日本国憲法は、定住外国人への選挙権付与を要請している、とする(積極説)。この説に立てば、国籍を要件としている現行の地方自治法11条は違憲とされる。このA説には、地方自治の目的は、国家の意思から独立して、住民の身近に感じている地域的な行政需要に応ずることにある、との前提がある。この前提に立てば、定住性や、共同体意識においても日本人と変わりない外国人に選挙権を付与して、その意思を地方行政へ反映するためのチャネルを解法するのは当然の対応ということになろう。 次にB説は、 憲法93条2項にいう「住民」には、外国人を含み得る余地ありと解して、憲法が外国人の選挙権を許容している、とする(許容説)。この説をとれば、現行の地方自治法は違憲とまではされないものの、同法を改正して、定住外国人に選挙権を与えたとしても違憲ではないことになる。 これに対してC説は、 地方自治をもって住民の行政需要に応ずるためのものでなく、あくまで地方の「政治(統治)」を決定する統治制度であると捉えながら、地方自治であっても、それはあくまで国家における統治であって、その政治的統一性は国民のなかの一定の意思によって為されなければならない、とする。となれば、93条2項にいう「住民」とは国民の中での部分意思を意味し、従って、憲法は、外国人の選挙権を否認していると帰結される(禁止説)。この説に立てば、現行の地方自治法上の規定は合憲であり、外国人に選挙権を承認する法改正は禁止されることになる。 憲法93条2項の文理からすれば、A、B説の成立する余地がないではないが、地方自治の統治的性格からして、「住民」とは「国民の中の住民」を意味すると解するのが妥当である。 1990年、ドイツの憲法裁判所が、外国人に選挙権を与える州および特別市の法律について違憲判決を下したのも、統治なるものは、同質なる国民(Volk)の意思によて為されるべし、との古典的な思想を基本的には反映している(もっとも、右のドイツ憲法裁判所の違憲判決は、ドイツ基本法20条にいう「全ての国家権力は、国民(Volk)に由来する。国家権力は、選挙および投票において国民により、かつ、立法・執行権および裁判の個別の機関によって行使される。」との定めを文理解釈しながら導き出されたものであって、その意味では、やや技術的な姿勢にとどまるものの、基本的な国家観とも関連を有していると考えられる。なお、ドイツにおいては、1992年12月に基本法28条が一部改正され、「郡および市町村における選挙に際しては、欧州共同体を構成する国家の国籍を有している者も、欧州共同体の法の基準に従って、選挙権および被選挙権を有する」こととされた)。 本書は、C説を妥当と考える。 なお、国際人権規約(B規約)25条は、すべての「市民」が「普通かつ平等の選挙権」を有すると定めるが、「市民」とは、国籍保有者を意味するものと理解すべきである。 外国人の地方公共団体における選挙権について、最高裁は(最三小判平7.2.28、判時1523号49頁)、 ① 公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、その権利の保障は、在留外国人には及ばないこと、 ② 憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内の住所を有する日本国民を意味すること、 を明らかにした。 もっとも、同判決は、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、・・・・・・法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」と指摘したこと(許容説にでたこと)に我々は留意しておかなければならない。 地方レヴェルでの被選挙権に関する最高裁の判断は、今のところ、示されていないとはいえ、右の最高裁判決が「日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に [永住外国人等の意思を] 反映させるべく」と表現していることからすれば、地方統治の意思を決定するポストに関わる被選挙権に対しては、消極的とならざるを得ないものと思われる。 [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える 【表12】選挙権に関する本書の見方 ① 国家法人説に立たず、従って、有権者団という国家機関を考えない。 ② 求心性に欠ける有権者が統一的意思をもつことはなく、従って、有権者が機関となることはない。 ③ 秘密投票まで承認する選挙方法は、公的責任ある統一的な政治的判断を産むことはない。 ④ 間歇的に行われる選挙は、主権の行使ではない。 ↓ 選挙とは、統治される民主主義のもとで個々の選挙人が、代表を選出する行為であり、選挙権は主観的公権である。 本書は、選挙とは選挙人団という機関行為(公務)ではなく、代表を選出するための個々人の行為であると解する(表12をみよ)。 選挙人団なる概念は、払拭されるべきドイツ国法学上の残滓である。 もし、選挙行為を公務であると考えれば、「個人の自由な処分に服するという意味での権利ではない」とする思考が正しく(シュミット『憲法論』295頁)、従って、ベルギー憲法48条にみられるように「投票義務」を帰結することとなる(「同国憲法48条1項は「選挙人団の構成は、法律により定められる。」と「選挙人団」という用語によりつつ、3項は「投票は義務であり、秘密である。」と定めている)。 確かに我が国の二元説は、この不当な帰結を回避するかの如くである。 ところが、その二元説が理論構築に成功しているわけではない。 特に今日の選挙が個別的地域を基礎にした選挙区制によって為される以上、選挙民は統一的国家意思の法上の単位ではない。 代表は、選挙民のバラバラの行為(通常は秘密投票)の後に、有効投票の多数が法上結合されて、法上の効果として、出来上がるのである。 利害を異にする有権者が機関を構成することはない(佐々木・318、224頁)。 また、選挙人の多数により示される意思をもって主権であるとする理論は、単純な擬制である(J. ベンサムは、19世紀初頭、「支配する少数者」を選定・解任する権利を多数者に認めることが「最大幸福」に繋がるとみた。これに対して、デュギーは、20世紀初頭にその著『公法変遷論』において既に「現代意識は、選挙団体の多数によりて示される主権の単純すぎる観念ではもはや満足しない」と指摘していた)。 選挙とは、代表(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程であり、選挙人からみれば、それは、その競争過程の最終段階において、代表を選択する行為である、と考えたい。 つまり、選挙とは、機関としての行為でもなく、公務でもなく、主権の行使でもなく、代表を選出する主観的権利の行使である、と本書は考える。 各自の投票におくる意思表示が法上結合されて、そのうちの有効投票で最多数または一定数以上の投票を得た候補者が、法上の効果として、代表の資格を与えられるのである。 この権利は、国民が統治者に対する有効なコントロールを及ぼすための基本的で重要な権利である。 かく解すれば、「選挙権/選挙行為」、「選挙/投票」の区別は不要となる。 我が国の古い最高裁判例(最大判昭30.2.9、刑集9巻2号217頁)は「国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一つである」と述べた。 その後も、議員定数不均衡に関する一連の最高裁判決(最大判昭51.4.14、民集30巻3号23頁)も、選挙権をもって憲法上の最も重要な基本的権利であることを、繰り返し指摘している。 その最高裁の論理は、国民主権から選挙権の権利性を説く点で、プープル主権論にみられると同様の疑問を残すものの、通説にみられる二元説に立っていない点では、基本的方向として妥当である。 ■第五節 選挙制度 [174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 年齢、居住要件以外を選挙権資格の認定に必要としないものを、「普通選挙制」という。 これに対して、独立した政治的判断は、教養と「財産」を有する有閑階層のみが出来ると考えられた場合には一定以上の納税額が、公事に参画するためには一定以上の教養・判断能力が必要であると考えられた場合には知能または教育レヴェルが、女性は家事に男性は公事にという女性への差別感が反映した場合には男性であることが、選挙権付与の要件とされる。 これらの要素のいずれかまたは全部を要件とする選挙制度を「制限選挙制」という。 我が憲法典は、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」(15条3項)としている。 数多くの国々で採られていた制限選挙制は、19世紀中葉から20世紀にかけて、次々と撤廃されていった。 普通選挙制の実施によって、政治の様相は一転する。 第一に、 大衆を指導・組織する政党政治が生まれた。議院内閣制の成立も普通選挙制と無関係ではない。 第二に、 労働者階級を基盤とする社会主義政党が登場して、福祉国家への変容を促進した。 第三に、 純粋代表の思想はもはや実際上貫徹できず、半代表概念が説かれるに至る。 選挙が統治者に対する有効なコントロールのための最大の機会である以上、選挙人となる範囲を意味する「包括度」が可能な限り高くなければならない([57]参照)。 それは、普通選挙制度のもとでも、欠格事由が、やむを得ざるものであり、かつ、その範囲が最小限でなければならないことを意味する。 我が国の公職選挙法11条は、禁治産者、禁固以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者等を欠格者として法定している。 旧憲法時代には欠格事由として、準禁治産者、破産者、貧困のため生活扶助を受ける者等が挙げられていたことと比べれば、その範囲は縮小されたといえよう。 選挙違反による処罰者に対し選挙権・被選挙権を停止している公選法252条につき、最高裁は「選挙の公正を害した者として、選挙に関与せしめるに不適当なものとみとめるべきであるから、これを一定期間、公職の選挙に関与することから排除するのは相当」である、と合憲判断を示した(前傾最大判昭30.2.9)。 しかし、選挙関係犯罪を「公民権停止」事由としていることには、公選法が本来合法的とも思われる戸別訪問等の選挙運動を犯罪として法定している点も合わせ考慮すれば、疑問が残らざるを得ない。 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 「何人も一人として数えられ、一人以上には数えられない」との形式的正義原理に基づいて投票数または投票価値を平等にする one person one vote, one vote one value に依拠する選挙制度を「平等選挙制」といい、これらに格差を設けるものを「差等選挙制」という。 差等選挙制度には、選挙人に一票もつ者と複数票もつ者との別を設ける「複数投票制」、選挙人を幾つかの等級に分けて、各等級ごとに一定の代表数を配分する「等級選挙制」とがある。 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である 我が国では、大正14年に25歳以上のすべての男子に選挙権を認める普通選挙制が採用された。 昭和20年には、女子にも選挙権が与えられると共に、年齢資格が20歳以上に引き下げられ、完全な普通選挙制度となった。 日本国憲法15条3項は、明文で普通選挙制を保障している。 これに対して、同憲法典には平等選挙制に関する明文規定はないものの、14条の平等原則規定、国会議員選挙における選挙人資格の平等を定める44条但書からして、当然にこれを採用しているものと解される。 なかでも、44条但書は、投票数および投票価値に関して、選挙人の判断能力、財産、社会的身分等の差異を捨象した、徹底した形式的平等観を示したものである(この点については『憲法理論Ⅱ』 [230] でふれる)。 また、直接選挙制について我が憲法典は、地方公共団体の長および議会議員等の選挙について明文規定をもつにとどまるものの、これを当然視しているものと思われる。 公選法の定める選挙は、すべて直接選挙である。 ■第六節 被選挙権と立候補の自由 [177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する 民主主義は、自由に闘わされる複数の選択肢のうち、最大多数の票によって支えられたものが勝利を得た選択であるとみなされ、それまでの選択肢に平和裡に取って代わることにその特質がある([56]参照)。 日本国憲法前文の第一文が「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・・・・自由のもたらす恵沢を確保し、・・・・・・」と述べているには、この特質に基づく統治体制を予定してのことである。 民主主義は、選挙民となる人口が大であることのみならず、複数の政党または候補者が投票獲得を求めて自由に競争することをも、その必要条件としている。 この観点からすれば、被選挙人資格につき、特定政党の構成員であることや、特定団体の推薦を受けること等を法上の要件とすることは許されず(一党制を公認するとなると、党が国家となってしまう)、立候補は自由でなければならない。 [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か 通説は、被選挙権とは、選挙人団によって選定されたとき、これを承諾し、公務員となりうる資格をいう、と解している(資格説)。 この説は、被選挙権とは公務就任権の帰属主体となりうる資格をいうのであって、権利そのものではなく、権利能力の如きものと捉えるようである。 これに対して、我が最高裁(最大判昭43.12.4、刑集22巻13号1425頁)は、「被選挙権は、15条1項の保障する重要な基本的人権の一つ」であるとして、選挙される資格につき、国家から妨害、干渉を受けない自由とみている(自由権説)。 なるほど、被選挙人資格の具体的あり方は、立法府の判断に委ねられざるを得ないものの、選挙人資格の決定に当って、性別、財産、教育等を関連性のなき不合理な要素とする思考は、被選挙資格の付与の際にも妥当する。 従って、これらの不合理な要素を理由に被選挙資格を制限されないことをもって、被選挙権という、と解してよい。 我が憲法典は、特に国会議員のそれについて、法律事項に委ねながら「但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」(44条)と規定しているのは、この趣旨にでたものと解される。 もっとも、包括度が最大である必要はない。 例えば、公務員(官僚と呼ばれる人々)であること、補助金受給者であること、といった事実を欠格事由とすることが真剣に検討されるべきである。 なぜなら、彼らは、それ以外の人々とは違って、政策の立案実行の段階で、既に数票を投じておきながら、選挙時点で、また、一票をもつことになるからである。 [179] (三)立候補は自由でなければならない 被選挙人資格を有する者が、自己の自由な意思に基づいて公選に係る公職に就任するために立候補することを、立候補の自由という。 政党を主導とする選挙制が採用される場合には、政党によって立候補の自由も規制されることがありうるが、それは、基本的には、党と立候補者の私人間の問題である(もっとも、政党の国法上の位置によっては、また、現実の政治に対する政党の統制力如何によっては、政党を国家機関またはそれに準じたものとして扱い、憲法典規定を直接適用することがあり得る)。 これに対して、政党の存在を憲法上公認している国家にみられるように、法上、政党を単位とする選挙制が採用されている場合には、 ① 政党結成の自由が保障されていること、 ② 立候補決定の党内手続が公開され、多数者意思を反映するよう整備されていること、 ③ 構成員が立候補するについては、その自由意思に委ねられること(構成員の自由)、 等の条件が必要である。 我が憲法典には、立候補の自由に関して明示的規定はない。 その根拠については、憲法13条の幸福追求権を挙げるもの、14条1項にいう政治的関係における平等原則を挙げるもの等、様々である。 公選法は、憲法典が同自由を保障していることを当然の前提として、公職の候補者になろうとする者に暴行または威力を加えること等を禁止している(225条)。 なお、政党だけを単位とする選挙制を採用することには、我が憲法典上、個人の立候補の自由との関係上、大きな疑義がる。 公選法(87条の2)が、参議院議員の比例代表選挙について、政党その他の政治団体が候補者名簿を選挙長に届け出ることにより、名簿記載者を候補者とすることが出来る、としているのは、そのためである。 ■第七節 選挙区 [180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という 全体の選挙人を数個の選挙人団に分割して、それぞれの選挙結果を独立に決定するための単位を選挙区という。 通常、選挙区は地域を標準として区分され、一名を選出するものを小選挙区制、二名以上を選出するものを大選挙区制という。 選挙区の設定は、古くは王の特権であった。 議会の勢力が強くなるにつれ、その特権は否定され、議会の制定法による原則が確立された。 これを「選挙区法律制度」という。 我が憲法典も、国会議員の選挙区につき、「法律でこれを定める」ことを明らかにしている(47条)。 それを受けて公選法は、衆議院については大選挙区制を採用している(3名ないし5名区が多く、我が国特有に「中選挙区制」と呼ばれている)。 参議院については比例代表選出と選挙区選出という方式に分かたれ、前者は全都道府県の区域という大選挙区制をとり(12条2項)、後者の選挙区は都道府県を単位とする大選挙区制をとっている。 [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される 選挙区制のもとでは、立候補から当選人の決定までの選挙手続は、一定地域を単位として行われる。 各選挙区から選出される議員数の配分方法としては、各区の人口に比例させるもの、一定地域(例えば各県につき一人)を基礎とするもの等、様々のものがある。 我が憲法典は、議席配分基準を明示することなく、法律事項としている(47条)。 公選法は配分基準を明示することなく、衆議院の小選挙区選出議員については別表第一で、同議員比例代表選出議員については別表第二で、参議院選挙区選出議員については別表第三で定めることとしている(13、14条)。 そのうち、別表第二の末尾には、「この表は、国勢調査(統計法・・・・・・第四条第二項の規定により十年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によって、更生することを例とする。」と述べられており、人口を基礎にすることが示唆されている。 これに対して、参議院の選挙区選出議員に関しては、こうした指示は見当たらない。 それは一つには、都道府県を単位とする地域代表的性格をもっていることから来るものとみる余地もある(議院定数不均衡と日本国憲法14条との関係については、『憲法理論Ⅱ』でふれる)。 ■第八節 選挙方法 [182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 選挙人が、議員や首長等公選に係る公務員を直接に指名することを「直接選挙」といい、選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出されるものを「間接選挙」という。 そして、実定法によってそれぞれの選挙方法を制度化したものを「直接選挙制」、「間接選挙制」と呼ぶ。 後者は、一般有権者の判断能力に対する不信感から採用されたが、その後の民主主義思想の浸透に伴って、今日では直接選挙制を採用する国家が多くなっている。 間接選挙制の典型例が、アメリカ合衆国の大統領選挙にみられる(もっとも、アメリカの大統領選挙においては electoral college と呼ばれる大統領選挙人が政党別に選出され、各人は予め支持すると公約した大統領候補者に投票しなければならないという習律が成立しているために、その実質は直接選挙となっている)。 これに対して、フランスの大統領選挙は、かつては議会が選出する方式によっていたが、1962年の憲法的法律制定以来、それに代えて直接選挙制によっている。 大統領権限の正当性を強化するためである。 また、「直接選挙制」と似て非なるものとして、被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出するという「複選制」というものもある。 この場合の議員は、複選のためだけの職務に限定されていない点で、中間選挙人の職務とは異なる。 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 代表の選出がその選挙区の多数派の意思によって決定される選挙方法を「多数代表法」という。 これは、代表機関は多数者意思を反映すべきものである、という思想に基づく。 大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれに当たる。 ところが、これによれば多数派による代表機関の独占の可能性が生ずるため、少数派もまた代表を送り込める方策が模索される。 その方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれに当たる。 もっとも、この方法によれば必ず少数派が代表を送り出せるというわけではなく、立候補者の数や投票行動といった外的要因によって左右される。 そこで、これを修正し、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする「比例代表法」も考案されて、19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されている。 比例代表法の基本的特徴は、 ① 当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものとしてドント式がある)、 ② 当選基数を超える投票が他の候補者に移譲されること、 この二点にある。 比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代方法とに大別だれる。 ① 単記移譲式比例代表法これは、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。 ② 名簿式比例代方法これは、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補内で為される方法をいう。この方法には大別して二つある。一つは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他の一つは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純高速名簿式である。 我が国の参議院議員の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を、「秘密投票」という。 これに対して、挙手、起立、記名等の方法のように、第三者に投票内容が知れるものを、「公開投票」という。 政治は、責任ある公人によって為されるものであるという理念が強調されれば、公開投票制が好まれる。 しかし、その制度は、他者による拘束や圧力等の不利益を選挙人に与えることになる。 そこで今日では、各人の自由な意思に基づく投票を確保する秘密投票制が広く採用されている。 我が国の憲法典も、「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」(15条4項)と定める。 これを受けて公選法は、無記名投票(46条3項)、投票の秘密侵害罪(227条)につき定め、さらに、何人も投票した被選挙人の氏名または政党その他の政治団体の名称を陳述sる義務はない(52条)としている。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 ものすごく分かりにくい -- よもぎ (2015-01-18 16 58 43) ものすごく分かりやすい -- くさもち (2016-12-04 23 46 36) 名前 コメント