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標識と周辺の写真 林道皆本沼里線の標識 国道299号線側の様子 県道279号線側の様子 国道299号線側から入った先のダート 皆本沼里支線との分岐 県道279号線との分岐 ルート #alpslab_route 林道の説明 国道299号線側なら黒竹バス停と間明平バス停の間の細い橋を渡った 先、県道279号線側なら沼里バス停と日蔭バス停の間を下りていった 橋の所から始まる埼玉でも屈指のダート林道で、支線として短い ダートのピストン林道である皆本沼里支線があります。 林道皆本沼里線は全線ダートですが、2007年8月11日現在、ユンボが 入って舗装をかける前に敷く砕石を均したりしていたので、近い将来 舗装化されるのではないでしょうか? (2007 08/11 11 48 59) 関連する林道 ダート 不動滝線 八日見線 埼玉県 塩沢線 大谷線 小鹿野町 日蔭入線 柏沢線 浦島線 皆本沼里支線 皆本沼里線 芽ノ坂峠線 荒川左岸 藤指線 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
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みなもと かんな 皆本 環菜 性別:女 年齢:17歳(2008年11月現在) 血液型:A型 生年月日:1991年10月24日 身長:162cm 体重:47kg 特技:ピアノ/料理 好きなもの:暇な時間 苦手なもの:忙しい時間 = 人物 = 夏P(ナッピー)作『With the HERO』のヒロインその2。 怜悧な美貌とそれに違わぬ冷静な性格の持ち主。切れ長の瞳と流れるような黒い長髪が印象的な少女で、渡会八雲曰く「自分の人生でも二番目に可愛い女の子」とのこと(一番は稲葉瑞希)。長内朱実とは違い、自分の可愛さを理解した上で利用している節が垣間見えるので性質が悪い。 朱実と同じ二宮女子高校に通っており、本人達は認めていないが彼女の数少ない友人の一人である。無口で無愛想な割には、世渡り上手で人付き合いも上手く、他校の友人も多い。 半年前は八雲のクラスメイトで友人の三上亮と付き合っていた。作中で園田靖史にも思いを寄せられており、恋愛関係は華やかである。彼女としては駄目な子ほど可愛く思えるらしい。とにかく笑わないし泣かないのに良く怒るという厄介な性格。彼女と付き合う人間は大変だろうと同級生からは噂されているが、本人はそれを知らない。ちなみに朱実より胸は大きいらしい。どんぐりの背比べだね! 兄と弟、そして妹が一人ずついるが、父親は物心付く前に自動車事故で他界している。その事故で同じように亡くなったのが八雲の両親であり、そんな経緯から八雲とは本人達の知らぬ場所で繋がりを持っている。故に八雲にとっての「運命の相手」と言えば朱実ではなく彼女を指す。 一人称は「私」で二人称は「あなた」。基本的に全ての人間を苗字+君付けorさん付けで呼ぶ。 = 本編での活躍 = ・Flashback サブヒロイン。 突如として変貌した世界に戸惑うも、偶然出会ったブラックガルゴモンと共に調査を進めていく。当初はモンスターの蠢く世界への恐怖から感情を封印していたが、その中で出会った八雲と共に行動する中で次第に元の姿を取り戻していく。 靖史がダスクモンと化し絶望する八雲を彼女なりのやり方で叱咤激励し、単身靖史との戦いに赴く。進化を果たしたブラックラピッドモンとのコンビネーションでこれを圧倒、靖史を諭そうとするも闇に沈んでいく彼の心を引き留めることはできなかった。 靖史が死を迎えた瞬間、同時に彼女にも激痛が走る。そのことから彼女も闇の闘士との何らかの関係があると思われるが――? ・Circle of Life メインヒロイン。詳細不明。 ・ONE LOVE サブヒロイン。詳細不明。 = パートナー = ブラックラピッドモン。進化系統はテリアモン⇒ブラックガルゴモン⇒ブラックラピッドモン⇒???である。 当初から環菜に好意的な契約者ではあるが正確にはパートナーではなく単なる協力関係でしかない。環菜の指示を忠実に実行に移す行動力と時として殺戮も厭わない残虐性を秘めている。環菜にとっては頼もしさと同時にこの世界で最初に覚えた恐怖の具現でもある。 次第に激化していく戦いの中で完全体の身でありながら自らの力量を弁えた上で最大限の活躍を見せる戦巧者。 環菜に依存している面があるらしく、彼女と八雲の関係に良い感情を抱いていない。 = プレ・ジャム内の設定 = 高校二年生。料理部所属で美化委員。 あまり喋らず真面目な面が目立つのでクラスでは目立たないタイプの生徒。しかし料理部に所属しているためか彼女の弁当は抜群に美味なので、昼休みには良く集られる。うんざりしている素振りを見せながらも満更でもない辺り、彼女もまたツンデ(以下略)。 ただ、本編とは異なり打ち解けて話せるような友人はあまりおらず、同じような境遇の渡会八雲と良く話している。それに長内朱実と園田靖史を加えた四人で試験前は一緒に駅前のマク○ナルドにて勉強しているとか(朱実と靖史はサボるわけだが)。 加賀美冬梧の友人(?)である羽佐間絢に対して自分と近しいものを感じ取ったらしい。本来は他人に対しては無頓着な気質があるのだが、彼女のことには妙に首を突っ込みがち。 規定数前後を行ったり来たりしている料理部の部員数の確保のため、現在は校内に貼るビラを作成中。放課後には八雲や靖史を引っ張って勧誘の手伝いをさせている。 = 関連キャラ = ・長内 朱実 互いに認めていないが親友。 ・園田 靖史 救えなかった者。 ・渡会 八雲 運命の相手(恐らく)。 ・三上 亮 元カレ。八雲の友人でもあるが、本人達はそれを知らなかった。 ・稲葉 瑞希 違う高校に通う友人。また八雲のクラスメイトでもある。 ・クラウド 何故か彼女に対して親愛に近い感情を抱いている様子。 ・羽佐間 絢 似た者同士(と環菜は思っている)。
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種族 人間 純人間 血縁 妹:皆本タツ子 所属 西鮎世公立高校→東郷大学付属鮒界舎 第一部 西鮎世高校SF同好部部長。 戸的実の家庭教師を務めていた。 実の依頼でベリトに挑むが敗北する。 久松二三夫の依頼で東郷仁に挑むが敗北する。 第三部 + ... 東郷大学付属鮒界舎で研修教員として長稚児部を教えている。 ケモナー。 名前の元ネタは『ドラえもん』の「源静香」+「セワシ」か。
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登録日:2011/03/07(月) 21 40 59 更新日:2020/10/12 Mon 18 58 33 所要時間:約 2 分で読めます ▽タグ一覧 アサギ スタッフに良綱という人が…… ファントム・キングダム プリニー ヨシツーナガキータヨー 惑星破壊 戦艦 日本一ソフトウェア 最強 良綱 キャーー!! うわぁぁっ!! 逃げろ!逃げろ!!逃げろー!! うひぃぃっ!? ヨ、ヨシツーナ ガ キータヨー!! 無敵戦艦『良綱』降臨!! ゼタ「な、何だ、コイツはァァッ!!?」 無敵戦艦『良綱』とは日本一ソフトウェアのゲーム、ファントム・キングダムに出てくる「最終兵器玩具」もとい「このゲーム最強の敵」の戦車(戦艦)である。 戦艦の搭乗者はプリニーの姿をした超魔王バールである。 戦艦に乗っているプリニー(超魔王)と豪華なメモ帳こと全知全能の書(宇宙最強の魔王)の対峙する絵は非常にシュール。 だが見た目に騙されると痛い目をみる。 やり込みゲームの代表である日本一ソフトウェアの「最強の敵」だけ有って、普通にやった所で余裕で死ねる。 頑張って良綱を破壊してみてもプリニーバールにやられる始末。 やはり勝つにはそれ相応のやり込みが必要である。 もう少し詳しく解説するよ! 防御フィールドを完備した全長15Kmのボディ! 主砲からは『超宇宙消滅爆撃波』や『超時空銀河波動砲』といったド派手な攻撃が可能であります。 前者は「宇宙の平和を守るため愛と勇気の皆殺し爆撃」 後者は「宇宙最強絶対無敵前代未聞の究極最大奥義」等、最強の名に恥じないプラズマレーザーが発射できるようなっております。 ご注文はローゼンクイーン、魔界支店にてお求め願います。 ちなみに倒せば使用できるようになりその性能は、 スロット 5 HP 515 SP 190 ATK 349 DEF 291 INT 374 RES 297 TEC 126 Mv 100 Jm 40 と、やった人なら解るほどブッ壊れている。 例えるならFFTの雷神シドぐらいブッ壊れている。 だが悲しいかな、文字通り「このゲーム最強」の為、倒してしまうとやることが無くなってしまう。 もちろんやり込みを極めたいならまだまだすることはあるけど…… 因みにスタッフに良綱という人がいる。 是非ともストーリーをクリアしてスタッフロールを見てみよう。 なお、アサギウォーズには非常によく似た戦艦、『最強戦艦良綱』というものが存在する。こちらも魔界を消し飛ばすくらいの威力があるらしいが…… 追記・修正おねが…ヨ、ヨシツーナ ガ キータヨー!! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 名前 コメント
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依頼主 チェプコロカムイ 出現条件 チェプコロカムイ解放後 クリア条件 11/21 12 00 までに 以下の神様を解放するシトゥンペカムイ 成功報酬 エリクサー(行動力回復)行動力が完全に回復する薬。味は良くないが効果は抜群。冒険者の必須アイテム。 依頼時 黒いキツネの神を見ていないか…?まだ幼い姿の… クリア時 …そう、シトゥンペカムイという名の……?…見つけてくれたのか…そうか…ありがとう。
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2月27日名古屋版夕刊 2月27日三重版夕刊 2月27日 大阪版(京都)夕刊 関連ページ 2月27日名古屋版夕刊 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事160 http //changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1235566659/110 1面題字下:ニュー美しま 途中:未病 下:(株)保険相談(3段) 2面下:AC(5段) 3面下:八ッ目製薬(1段) 5面下:(株)加美乃素本舗(2段) 6面下:宝ヘルスケア(株) 毎日新聞社(協賛:ヨシヅヤ)(5段) 7面下:歌舞伎講座(毎日新聞社) サンマリエ(株)(5段) 8面途中:Bridal Collection SPOSA DI MATSUEDA 2月27日三重版夕刊 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事160 http //changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1235566659/123 1面題字下:ニュー美しま 途中:未病 下:(株)保険相談(3段) 2面下:AC(5段) 3面下:八ッ目製薬(1段) 5面下:(株)加美乃素本舗(2段) 6面下:宝ヘルスケア(株) 毎日新聞社(協賛:ヨシヅヤ)(5段) 7面下:歌舞伎講座(毎日新聞社) サンマリエ(株)(5段) 8面途中:Bridal Collection SPOSA DI MATSUEDA 2月27日 大阪版(京都)夕刊 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事160 http //changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1235566659/267-268 一面:ハルタ製靴株式会社 未病.com ”2色カラー” ホテルグランヴィア京都 ”カラー” アヴァンス法務事務所 アヴァンス・リーガルサービスグループ ”下5分の1” 三面:アンターク本舗 四面:佐川急便協賛・アマチュア本因坊のコーナー ロート製薬 ”下5分の1” 五面:宝ヘルスケア株式会社 ~TaKaRa缶チューハイのグループ企業です~”下3分の1” 七面:<マダガスカル2 パラマウント映画配給 DRAGON BALL EVOLUTION 20世紀フォックス映画配給 ヤッターマン 松竹、日活配給 ジェネラル・ルージュの凱旋 東宝配給 ホノカアボーイ 東宝配給 アンダーワールドビギンズ ソニー・ピクチャーズ配給 パッセンジャーズ ショウゲート配給 映画ドラえもん 東宝配給 劇場版ケロロ軍曹 角川映画配給 ラ・ボエーム 東京テアトル、スターサンズ 配給 デメキング ジョリー・ロジャー配給 恋極星 日活配給 いのちの戦場 -アルジェリア1959- ツイン配給 ダウトーあるカトリック学校でー ディズニー映画配給 (シネ・ヌーヴォ提供・中国の全貌2009鑑賞券プレゼント、東宝東和提供 ディファイアンスプレスシートプレゼント、 ギャガ提供 ストリートファイターズ ザ・レジェンド・オブ・チュンリー キーホルダープレゼント) ↑「広告」企画制作・毎日新聞社広告局>”上3分の1カラー” 七面(続き):国立文楽劇場 ザ・レジェンド・オブ・チュンリー ギャガ・コミュニケーションズ配給 ”6分の1” 愛のむきだし ファントム・フィルム配給 禅 ZEN 角川映画配給 八面:鷲ヶ岳スキー場 <おくりびと おくりびと製作委員会(TBS、セディックインターナショナル、松竹、電通、アミューズソフトエンタテインメント、 小学館、毎日放送、朝日新聞社、TBSラジオ、テレビユー山形) 松竹配給>”下半分” 九面:感染列島 東宝配給 20世紀少年 東宝配給”6分の1” ドラえもん 映画 東宝配給”6分の1” トラピックス 阪急交通社 阪急阪神東宝グループ ”下3分の2” ×→自社広告 ☆→新規企業 ★→広告復活企業 (記憶違いならごめんなさい) 関連ページ 2009年1月- 6月 毎日新聞に広告を出していた企業
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京太郎「全く咲のやつどこいったんだ? ん?」 【F○CK ME! 見えるならどうぞ】 京太郎「……ふむ」グイッ エッ!? チョ、マッテクダサイッス! ジョウダンデッ アッー!> 京太郎「ふぅ。町の方にはいない、と。次はどこ探すか――ん?」 一「~~♪」 京太郎「ふむ」グイッ エッ!? チョ、ナニスルノ! チジョジャナイヨシツレイナ! マッ アッー!> 京太郎「ふぅ。川の方にもいない、と。次はどこ探すか――お?」 和「~~♪」 京太郎「――ふむ」グイッ エッ!? ナニスルンデスカ! アッ ンンッ!? ンッ アッー! エッマダスルンデスカ? ンアーッ!> 京太郎「ふぅ。家の方にもいない、と。次はどこ探すか――あ!」 咲「京ちゃん遅いよ!」 京太郎「なーぁにが 遅いよ! だ! 図書館行くはずがどうして県境まで来てるんだよ」ウリウリ 咲「うぅ、だってぇ~! ……クンクン。何か京ちゃん変なにおいがする?」 京太郎「気のせいだろ。シャワー浴びたし。それよりほら、帰るぞ」グイッ 咲「あっ、待ってよ! せっかくここまで来たんだから本屋に って引き摺らないでえええぇぇぇぇ」 カンッ
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昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-118 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(5) 知念証人・皆本証人・控訴人梅澤・赤松大尉の供述等について (原)イ 皆本証人の証言について (判決本文p228~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)イ 皆本証人の証言について(ア)(赤松大尉の言動を把握できる立場にいなかった)* (イ)(手榴弾に関し証言の齟齬)* (ウ)(まとめ)* (ア)(赤松大尉の言動を把握できる立場にいなかった)* 証拠(甲B66)によれば, 皆本証人は, 海上挺進戦隊第三戦隊の第三中隊長であった者であると認められる。 そして, 証拠(甲B66及び皆本証人)によれば, 皆本証人は, 陳述書(甲B66)あるいはその証人尋問において, 昭和20年3月27日, 赤松大尉から部隊の後退の援護を命ぜられ, 午前9時すぎころに渡嘉敷島に上陸した米軍に対し, 第三中隊に配属された基地隊の高塚小隊を率いて交戦したこと, 同月28日午前1時ころになって, ようやく第三戦隊の主力部隊と合流し, 午前3時ころになって, 赤松大尉と会ったこと, 皆本証人は, 同月28日, 第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり, 赤松大尉の側に常にいたわけでないこと, 赤松大尉が住民に対して陣地の近くに来たらと言ったことも, 当時, 聞いていなかったことを記載し, 若しくは証言した。 もっとも, 防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)では, 「二十七日〇九〇○ころ猛烈な砲爆撃の支援下に渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。 第三中隊長皆本義博少尉(57期)は配属の高塚小隊(勤務隊の高塚春次郎少尉以下二八名)を指揮し, 渡嘉志久東側高地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を射撃して前進を阻止したが, 迫撃砲, 機関銃の猛射を受け交戦約三○分にして高塚少尉以下九名の戦死者を生じた。 皆本中隊長は高塚少尉に代わって小隊を直接指揮し, 交戦を少時続けたのち一○○○ころから撤退を開始し, 二十八日一〇〇〇ころ戦隊本部に到着した」 と記載されており, 皆本証人が本隊と合流した時間に関し皆本証言と差異がある。 第4・5(1)イ(イ)のとおり, 皆本証人は, 赤松大尉が住民を西山陣地の方に集合するように指示した昭和20年3月27日には, 主カ部隊と合流していないとのことであるから, 同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。 そして, 翌28日の合流時間は, 皆本証人の証言等と防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)との間で食い違いがあり, 特定できないけれども, 皆本証人の証言等によれば, 同月28日, 第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり, 赤松大尉の側に常にいたわけでないことが認められ, 同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになり, 赤松大尉の言動についての証言の評価に当たっては, この点を重視する必要がある。 (イ)(手榴弾に関し証言の齟齬)* 皆本証人は, 手榴弾に関し, 陳述書(甲B66)に 「手榴弾は軍が管理していましたが, 一部を『防衛隊』の隊員に配布していました。」 「『防衛隊』とは, 防衛召集により部隊に編入された成人男子のことで, 沖縄では昭和19年7月に編成されました。 普段は家族と一緒に暮らしているのですが, いざという時には敵と戦わなけれぱならず, 軍人としての扱いを受けていました。 そのために, 軍は防衛隊員にも手榴弾を公布していたのです。 あくまで戦闘に備えて交付していたのです。」 「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用いられたのは, 以上の理由によるもので, 普段から防衛隊員が手榴弾を保持していたからです。 決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのではありません。」(甲B66・5頁)と記載している。 ところが, 被告ら代理人の 「しかし皆本さんは手りゅう弾の交付自体, それは御存じないんですね。」 という問いに対しては 「はい。」 と答え, 「交付の際にどういう命令が出てたということも御存じないということですかね。」 という問いに対しては 「そうです。」 と答え, さらには手榴弾の交付時期に関する質問に対しては, 「私は当事者ではありませんから, 何月何日ごろということは私はここで申し上げることはできません。」 と答えている。 そうすると, 皆本証人の証言は, 手榴弾を交付した目的等を明示する陳述書(甲B66)の内容と齟齬し, 手榴弾に関する皆本証人の陳述書(甲B66)の記載及びその証書には疑問を禁じ得ない。 (ウ)(まとめ)* 以上のとおり, 皆本証人は, 昭和20年3月27日及び同月28日の赤松大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく, また, その陳述書(甲B66)に記載された手榴弾に関する記述は, 皆本証人自身の証言と齟齬し, 信用できない。 目次 戻る 通2-118 次へ 通巻
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沖縄作戦 殉国日記(3) 皆本義博直話 昭和21年3月 聞き書き:中島幸太郎 「集団自決」事件で名を知られる赤松部隊すなわち海上挺進第三戦隊に所属する第三中隊中島一郎少尉は、昭和20年3月26日の夜、沖縄全体の海上挺進特攻の司令官である第十一船舶団長大町大佐とその一行を、沖縄本島司令部まで護送する特攻艇の操縦手として選抜され、他の一艇と共に米軍上陸前夜の慶良間列島渡嘉敷島を脱出した。 しかし島の周囲は夥しい米軍艦艇に取り巻かれている。脱出行の成功は期待できるものではなかった。一艇は出発直後に沈没しその乗務者は渡嘉敷等に泳ぎついた。大町大佐を乗せた中島艇は消息を絶ったままとなった。 戦後、中島一郎の父幸太郎は、本土に復員した赤松部隊関係者に手紙を送ったり面会を求めたりして、息子一郎の死のいきさつを知ろうと奔走した。その経過を一郎の二周忌にあたり幸太郎が綴ったものが、「沖縄戦 殉国日記」(昭和22年3月26日)である。 前半は息子から届いた手紙を中心にした「息子の日記」となり、後半は息子の死の謎を解く「父の日記」となっている。 その中に赤松嘉次元部隊長や皆本義博元中隊長の手紙や証言があるが、未だ史料としての検討は加えられていないようだ。以下は、中島一郎一周忌を期して、昭和21年3月25日熊本の実家から埼玉県の中島家を弔問した皆本氏から、中島幸太郎が聞き書きした「皆本義博証言」である。なおこの「直話」は、1ヶ月前に届いた皆本氏からの書簡の内容を補充している。 皆本氏が書いた「中島一郎」略歴の後に綴られています。乱丁があったが正常に復しました。送り書きのカタカナはひらがなにしました。漢字の右肩に「*」があるものは原文では旧字のものです。 当稿を引用する方へのお願い:書き起こし文には私の間違いが含まれていますので、其の点を充分にご承知の上引用してください。また引用する方は当ページのURLを、必ず引用文に添えてください。食物の安全を流通過程で保障するのと同じように、資料典拠のトレーサビリティーを確保するためです。原文を独自に解読し直された方はその限りにありません。 (皆本氏が書いた「中島一郎」略歴の後に綴られています。乱丁があったが正常に復しました。送り書きのカタカナはひらがなにしました。漢字の右肩に「*」があるものは原文では旧字のものです。} P44右 皆本中隊長直話に依り判明せるその後の真*相は左記の次第である 昭和19年8月6日豊浜の幹部候補生隊の通知に依り遥に面会*に行った其の朝已に出発の〓〓面会*する事が出来なかった これは小豆島にある船舶特別幹部候補生隊の教育のため任命〓発したのであった 小豆島に於ける生活は詳細に知ることが出来なかったが是等若い特幹生の指導に当り「純〓なる心情に頭が下る思ひがした」と云いて手紙を寄せたことがあった、小豆島は八月二十八日出発し二十九日広島県江田島に着、船舶練習部第十教育隊に入り隊を整備した、9月1日動員を完結し海上挺身(ママ)第三戦隊第三中隊皆本隊附となった、9月4日宇品に面会*に行った時には既に特攻隊として動員が完了して居たのであった、私達には面会*中特攻隊であることも、既に動員が出て居る事も話に聞かなかった、然し一郎は特攻隊員として、心中既に覚悟は決まって居た事と思はれたが、其の気色を表さず面会*を終ったのであった。 那覇港に到着したのは九月二十六日で鹿児島には九日間も滞在して居た様だ、此の時手紙にて通信できたものと考えられたが其の便りはなかった 那覇市に上陸せず直ちに慶良間に向った、那覇市にある神社の大鳥居を海上遥かに眺めながら出発したのである(皆本さんは復員后宅にこられて那覇の大鳥居を出航の時に見、終戦になりて再び那覇に来た時見たものは唯此の鳥居だけ外には何物もない焼野原であったと述懐して居られた)九月二十七日二十三時隊は慶良間列島渡嘉敷に上陸した、次で十一月十日渡嘉志久に移駐した、茲にて昼*は特幹生の訓練に、防空壕の開鑿に懸命の努力が続*いた、此の附近は総てが珊瑚礁なので防 P46右 空壕は総てノミでなければ掘る事は出来なかった、二月迄に漸く完成することが出来たが、此の壕内は如何なる砲撃にも危険のない完全な安全地帯*であった、訓練は又夜間に於て特別訓練が施された、特攻艇は長さ五米突巾一米突八分のベニヤ板を以て造られた、軽少なもので自動車のエンジンを据付け中央座席は一人乗りで艇の両*側に二本の爆薬を装備したものであった、夜間敵の船団*に襲いかヽり一挙に之を撃破すると云う特攻戦法で輸送船等は船腹に直径十五尺位の大穴を穿ち忽ち沈没すると云う事である、此のため夜間に於ける訓練は最も重要なもので附近の島嶼は如何なる暗夜中でも其の位置状況等を感識するの養成をせられたもので、是が最も大切な訓練であったとの事である(※)、十一月十日部隊は三部隊に分れ第一中隊は南方の阿波連に第二中隊は留利加波(※※)に第三中隊は中央部渡嘉志久に駐在して居った、一郎は第三中隊(皆本隊)で其の第一群長を命ぜられた 一個中隊は中隊長以下三十名で三個の戦闘群に分け一個の戦闘群は群長以下九名となって居た、中隊の編成は中隊長一名、戦闘群長三名、中隊伝令二名各戦闘群員八名宛三軍二十四となって居た ※ 此の頃このような訓練ができる物理的条件が整っていたかどうかは疑問である。「戦落艇」の到着時期、舟艇壕の未完成、など ※※ 留利加波の基地は建設途中で撤収して第二中隊も渡嘉志久に基地を置くことになったが、この聞き書きでは触れられていない 渡嘉志久は無人海岸となって居るが隊が駐屯してからは島の児童達は渡嘉敷より毎日の如く遊びに来た、そして一郎等と非常に親密になって来た、子供達が来ると部落の人たちも亦集って来た 一郎等は兵舎の側の海辺に花壇を造ったり菜園を造ったりした・・・(綴じ込み箇所のため約15字分解読不能)・・・・・ P45左 子供達は兵隊によく懐いて来た 村の人たちの間でも一郎は非常に親まれ人気が良かった、此の辺の事情を皆本さんは「村の住民も中島少尉殿と到る所で君に多大な尊敬を払ひ、かつて住民の声を聞きしに「私達も中島さんの部下になりたい」と之真*に偽はざる声なりて」と書かれて居った 若い特幹生は海辺でよく相撲をとった、其の相手はいつも一郎であった、特幹生は花壇の側で故郷の事を語り合ったのも度々であった、赤い南西の月を眺めながら特攻隊として身を国家に捧げて居るとは云い此の人たちにも故郷には父あり母あり又兄姉弟妹もあった、千里を離れた渡嘉志久の浜に互に胸を抱き合ふて明日の命を知ることの出来ぬ心の中に親を憶ひ更に故郷に居る友達のこと迄憶ったことであろう、是等若い特攻隊員の語る純真*な言葉は、語る者も聞く者も感動の裡に時を過したのであろう、后日神奈川県*の並木実君の手紙はよく之等の消息を伝へてくれた「沖縄本島に収容されて戦友と語るは渡嘉志久に於ける生活であり話題はいつも中島小隊長の身上に落ちて行った、中島さんは今に必ず帰る様な気がする」と書かれてあった (引用者注)この一節は皆本氏からの聞き書きから離れた部分があるようです。 十九年十{(「一」を訂正)月十日那覇に初めて空襲があった事を部隊に報告があったが慶良間は未だ戦〓は起こらなかった 二十年一月十日 陸軍少尉に任官した一郎の通信は一月十一日少尉になったと云って来たが此の通信が最后のものとなったのであった P45右 三月二十二日第十一船舶団長大町大佐は第五基地隊長鈴木少佐(※)以下副官等を従ひ那覇より慶良間に於ける作戦の状況視察に來島せられた。一般の観測は「敵の侵攻は早くて三月下旬恐らく四月初旬になるだろう」と云うものであった、翌二十三日大町大佐は阿嘉島にあった ※ 第五基地隊長は三池明少佐。元海上挺進第三基地大隊長鈴木少佐と混同している。 渡嘉敷の第三中隊にては二十三日の昼食*を取って居た、看視中の兵より「敵機らしき数機を海上に認む」との急報があった、遥か洋上グラマン戦闘機が八機低空にて渡嘉志久の基〓に来襲した、敵機は投弾することなり、基地上空を旋回して去るかと見る間に再び来襲し数個爆弾を投下して退去した、中隊は俄然緊張し戦闘準備の位置に就いた 此の爆撃に依って軍倉庫は火災を起し外施設に若干の被害を受けた、防空壕の人人等に対し急據隠蔽作業が開始された、其の后八十余機のグラマン戦闘機が来襲し投弾銃撃を受け基地設備に対し被害を受けたのである、三月二十四日敵機三十~四十機常時上空に来襲攻撃を継続*し渡嘉志久の基地設備は更に被害を受けると共に民家も亦被害を受け火災を生じ火勢益々烈しく夜に至り全島は凄惨の状況を呈するに至った、日本軍のため軍民に死傷者続*出し其の収容は隊に於て行われたが兵は危険を冒して之に従事して三月二十五日よりは更に敵は艦砲射撃を併せて実施して来た、彼等は応戦する陣地に対し・・(綴込みのためコピー再現されない約16文字)・・・・・・・ P44左 は何とも敵の攻撃に任せる外術はなかったのである、其のため死傷者は比較的少なかった 大町船団長は当時阿嘉島ヨリ座間味島に移って居たが渡嘉敷に対する敵の攻撃と更に慶良間周辺にある敵艦隊の状況より判断して一刻も猶予する事を得ず、直ちに全部隊を本島に移し一挙に敵を破るべき計画を決心せられ二十五日夜陰に乗じ三池少佐以下十五名を引率し橇舟を以て渡嘉敷に上陸、軍本部に到着せられた、本部に於て渡嘉敷全島に対する敵攻撃の情況を聴取すると共に全戦闘部員に対し沖縄本島転進を下命せられたのである、時既に二十時を過ぎていたのである、尚勤務隊の主力、整備兵の一部及海上勤務隊は渡嘉敷に残留し敵の上陸を邀撃すべき事を決定せられた、各中隊長は本下令に依り海辺に上陸作戦に備ひつつありし兵員並に整備の全兵員に対し特攻艇の泛水作業を命じたのである、此の時兵員は連日連夜の戦闘に疲労極に達して居たが本島進転に勇躍し泛水作業を行ひたるも種々なる悪条件のため進捗容易ならず完了したるは二十六日午前四時に及んだ、西南の夜は明るに一時間余りを余*すのみである 渡嘉志久より沖縄本島迄二十二哩(ママ)を航団を以て航行する時は二時間乃至三時間を要し夜の明け放したる然も百数十隻の敵艦が遊弋する慶良間海峡を横断する事は全艇全滅を来すは火を見るよりも炳(あきらか)にして遂に計画を変更の余儀なきに至ったのである 大町船舶団長は P46左 此の状情を見一日延期することに決し下令泛水の艇を再び陸上に曳揚隠匿することとなったのである 此の時赤松部隊長は意を決し事茲に至りては〓(※)団全艇を以てする敵艦艇攻撃実行せんとしたるも軍の命令来らず且沖縄方面に待機中の大部隊の特攻艇の計画が曝露する恐〓るを以て赤松部隊長の決心を中止するに至ったのであった、陸上曳揚作業は日出前完了する〓〓〓せられたるも兵員の疲労と日の出迄の時間少なき為進捗せず僅か第三中隊(皆本隊)に於て二艇を曳揚したるに過ぎず日の出迫るに及び大町船団長は最早万策施すに術なく全舟艇に対し最后の震決自沈すべき事を命ずるに至つたのである、特攻艇の若き純真*の人達は宇品出発の時より艇と死生を共にする事を誓つたのである、整備の兵亦生命を賭して愛護し来ったのである、敵の船団を目前にみつヽ之に一撃を加へる事もなく自沈することは到底なし得べき事ではなかった、兵隊は艇内に男泣きに泣いた、然も艇と死を共にすべき事を願った夜は既に明けんとして東天は紅を帯*びて来た、船団長は再び涙を呑みて艇の自沈を命令した、各中隊長は艇内に兵を説得し事茲に至っては萬止むを得ざることを、認めて六十余*隻の特攻艇は次々と渡嘉志久の浜に自らの手によって姿を消して行ったのである、敗者の悲哀が之等純真*なる若き人達に如何なる感激を与えたか〓記するに辞がないのである ※獣扁に「ム」と見える。皆本書簡では「獨」 艇が波間に消え去ると仝時に敵の偵察機が基地を旋回飛来した、大町船団長は本島進転の計画挫折するや三月二十六日夕谷地に隊長外各中隊長等集合せしめ第十一船舶隊 P47右 を直ち沖縄作戦に運用すべきことを痛感し之が指揮の為、今晩を期し敵艦艇群を突破本島に帰任すべく決意を披瀝せられた、之が護送に当りてはニ案があつた、一案は漁船を以て敵の目をのがれ帰隊すること、二は特攻艇による方法であつた、一の漁船については操縦を漁師が承知する者を得なかった、止むなく特攻艇による事〓じた、之が操縦の人選には重大の意義を持つことになつた、二艇は皆本隊の曳揚したものであつた、大町大佐は皆本隊より将校一名下士官一名最も優秀者を選出すべきことを命じた、皆本中隊長は赤松部隊長と協議〓〓中島一郎少尉及竹島伍長とを推挙し本重大任務決行の任を命じたのである 皆本中隊長は一郎に今回*の重大任務決行の経緯を話し一郎を措いて他に其の人無く、任務完遂を依頼されたのである、一郎は従容として、其の大任を拝受し、必ず其の大任を果すべき事を誓った、中隊の全員は壮行会*を開き心より一郎の壮行を祝福した、少ない日本酒を傾けて其の行を盛んにした 一郎はニコニコしつヽ平常と変らず「一寸行つて参ります、明日の晩は必ず帰って御目に懸りませう、何か本島から御土産でも持参しますから」と云う悟道に徹した挨拶であつた、午后十一時整備員に依る泛水に font(#0a0,90%){(ママ)}行はれ出発準備は完了した、中隊全員は二人の勇士を見送るべく浜辺に出た 岬の方に何か点滅する暗信号があつた、皆本中隊長は直ちに火光を滅することを電話せられた、十三夜の月は中空に懸って居ったが空は薄曇であった十時二十分大町大佐は、鈴木、三池少佐以下部員を率ひて海辺に来られた、一郎の肩をたたいて P47左 「今晩はしっかり頼むぞ」と挨拶せられた「任務は御心配なく遂行致します」一郎の返事は凛として自信ある言葉であった、軍用行李は当番兵の池田文三軍曹が艇内に積み込んでくれた、本島上陸の場合大町大佐の部下として働くことを予想せられたからであった、十一時三十分一番艇には、大町大佐、鈴木少佐、山口中尉、操縦として一郎外に土肥技伍長、二番艇には三池少佐、新海中尉、木村少尉、竹島伍長、田中技上等兵が乗船した。大町大佐は「途中万一遭難することあるも両*艇は互いに救助し合はず一路那覇港目指して直行すべし」と云う訓示を輿へた十一時三十分、赤松部隊長以下中隊全員の静寂なる心よりの見送りを受けつヽ両*艇は島伝ひに北進出航したのである、航路は渡嘉敷北方を過ぎて儀志布島を経て針路を東にとり前島南方より那覇に向かって北東上するものであった、二番艇は儀志布島南方に於て東方に変針の直后連日の爆撃にて破損の個所に亀裂を生じ航行中拡大遂に浸水故障を生じ航行不能に陥り乗組員必至の努力功なく沈没するに至った、三池少佐以下全員遊泳によって辛うじて渡嘉敷島に帰着することを得た 是等遭難の報を得本隊よりは南少尉以下五名救護のため派遣せられた、一番艇は事故なく、二番艇の遭難は知るも「互に救助し合はず」の命に従ひ一路前進当時艇尾波を立てて前島南方を航進なりしことを認めたとの事であった一番艇は途中故障なければ二十七時(印刷後「日」と上書き訂正の痕)午前二時頃には沖縄本島に着する筈である本島船舶軍に連絡するも「大町隊長未だ帰島せず」との事にて、再度照会*するも其 P48右 消息判明せず、特攻艇は小舟の事とて無電装置なく其の后の情報を知るを得ず、前島南方を那覇に向かって前進中を二番艇遭難者により望見せるを最后として、遂に其の消息を失うに至ったのである、那覇に於ける船舶団本部に於ても団長の消息不明は大いなる衝動を与へた、総ゆる方途を講じて本島間は勿論、神山島、前島並に其の附近の島嶼は漁船等を使用して総ゆる捜索を行なった、然し其の探査には何の得る所もなく消息は迷宮に入ってしまった、 其の后に於ける渡嘉敷島は敵の上陸する所となり部隊は応*戦するにも既に刀折れ矢尽*きたるの状況にして止むなく伝*令により阿波連、渡嘉志久等基地を発して谷間伝*ひに北進、北端の留利加波に集合茲を根據として糧秣、兵器、弾*薬なき防備に苦闘を重ねつヽ終戦まで頑張り八月二十五日、武装を解除し遂に戦闘を終わるに至った、此の間戦没者は勿論糧食の不足に依り兵は次々と斃れ其の三分の一を失ふに至った(兵二〇〇名の内六十九名戦病死し外一般従軍者七十名程戦病死者を生じた) 終戦后之等軍部隊は沖縄本島に移転せられた、大町大佐以下の情況を質すに杳として判明せず、一番艇は「八の十一号」の記号艇により難破により破片の捜索をなしたる之亦発見するに至らずして遂に手の下し様がなかった 本島に於ては大町船舶団長に対する種々なるデマが飛んだ「大町大佐以下米軍に捕はれて南方グァム島にあり」とか「洋上の無人島に漂着しロビンソン式の P48左 生活をなしつヽあり」とか憶測は種々流布せられた、然し当地前島附近より沖縄本島近く百数隻の敵艦が遊弋して居た、十三夜の月明、小艇なるも艇尾の波により発見せられたるか又は自動車エンヂンによる雷気発火は直ちに電波探知機に感じて敵駆逐艦又は水雷艇によりて襲撃せられ全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認定するの外なく又然るべくして散華したものと思はるヽのである、 一郎の遺品は軍用行李を艇に積込んだ事により何物もなかった、嘗て宇品出発の時特攻隊を編成せらるヽや隊員は皆遺髪を船舶管理部に残したのであった、其の時皆本中隊長に従ひ一郎は特攻艇受取りのため出張中で遺髪を残すことなく早々として宇品を出航した、皆本中隊長は之等の事を能く知って居た、中隊長は一郎の心情を憶ひ且遺族のことを憶ふ時痛心切なるものがあった「彼が居室の附近に花壇を造った、其の中に真*白き光ある石を発見し、せめてはこの美しき小石を遺骨として遺族に届け中島少尉の霊を弔はん」との御厚情により態々慶良間列島渡嘉志久の海辺より御持参下されたのである(※)、三月二十五日熊本県泗水の自宅より皆本中隊長の温き胸に抱かれて懐かしの故郷へ帰ることができた、一度戦場に出づれば生還を期せざる事は豫て覚悟した所であり、且特攻隊として身も心も国家に捧げた一郎の事であった、然し目前に姿の変わった一郎の帰還を迎えた吾等遺族は痛心哀惜の情禁ずるを得なかった唯々合掌黙祷して冥福を祈るのみである、(約3字分空白) 終戦后八月二十三日留利加波の山上に白旗を掲げ全軍降伏の状を示し全員渡嘉敷の部落に下山小学校に於て休戦降伏の協定をした、下山する時すでに武装解除した、直ち座間味に米軍 ※ 折角の美談に水を注したくありませんが、「一番艇」が絶望となった昭和20年3月27日夜以降この直話を語る時まで、皆本中隊長が渡嘉志久の旧兵舎を訪れる機会があったかどうかは、「陣中日誌」などを読む限り甚だ疑問大しです。赤松隊(第三戦隊)が米軍に投降するに当っては、亡くなった隊員の遺骨の帰国ということが生存隊員の新たな「任務」となったことは間違いありません。其の中で、海上で遭難し行方不明となった中島隊員の「遺骨」に代わるものが苦心されたことは充分考えられます。 P49右 の本部ある故座間味島に米軍の船にて移転八月二十五日迄在島、二十六日沖縄本島石川と云う部落に着、二十一年一月七日発一月十日復員する迄此の地に滞在した 沖縄作戦 殉国日記(3)
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通108 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(5) 知念証人及び皆本証人の各証言等日本軍関係者の供述、体験談について 第4・5(5)イ 皆本証人の証言について 第4・5(5)イ 皆本証人の証言について(ア)(赤松大尉の言動を把握できる立場にいなかった)* (イ)(手榴弾に関し証言の齟齬)* (ウ)(まとめ)* (ア)(赤松大尉の言動を把握できる立場にいなかった)* 証拠(甲B66)によれば,皆本証人は,海上挺進戦隊第三戦隊の第三中隊長であった者であると認められる。そして,証拠(甲B66及ぴ皆本証人)によれば,皆本証人は,陳述書(甲B66)あるいはその証人尋問において,昭和20年3月27日,赤松大尉から部隊の後退の援護を命ぜられ,午前9時すぎころに渡嘉敷島に上陸した米軍に対し,第三中隊に配属された基地隊の高塚小隊を率いて交戦したこと,同月28日午前1時ころになって,ようやく第三戦隊の主力部隊と合流し,午前3時ころになって,赤松大尉と会ったこと,皆本証人は,同月28日,第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり,赤松大尉の側に常にいたわけでないこと,赤松大尉が住民に対して陣地の近くに来たらと言ったことも,当時,聞いていなかったことを記載し,若しくは証言した。もっとも,防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)では, 「二十七日〇九〇○ころ猛烈な砲爆撃の支援下に渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。第三中隊長皆本義博少尉(57期)は配属の高塚小隊(勤務隊の高塚春次郎少尉以下二八名)を指揮し,渡嘉志久東側高地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を射撃して前進を阻止したが,迫撃砲,機関銃の猛射を受け交戦約三○分にして高塚少尉以下九名の戦死者を生じた。皆本中隊長は高塚少尉に代わって小隊を直接指揮し,交戦を少時続けたのち一○○○ころから撤退を開始し,二十八日一〇〇〇ころ戦隊本部に到着した」 と記載されており,皆本証人が本隊と合流した時間に関し皆本証言と差異がある。 第4・5(1)イ(イ)のとおり,皆本証人は,赤松大尉が住民を西山陣地の方に集合するように指示した昭和20年3月27日には,主カ部隊と合流していないとのことであるから,同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。そして,翌28日の合流時間は,皆本証人の証言等と防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)との間で食い違いがあり,特定できないけれども,皆本証人の証言等によれば、同月28日,第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり,赤松大尉の側に常にいたわけでないことが認められ,同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになり,赤松大尉の言動についての証言の評価に当たっては,この点を重視する必要がある。 (イ)(手榴弾に関し証言の齟齬)* 皆本証人は,手榴弾に関し,陳述書(甲B66)に 「手榴弾は軍が管理していましたが,一部を『防衛隊』の隊員に配布していました。」 「『防衛隊』とは,防衛召集により部隊に編入された成人男子あことで,沖縄では昭和19年7月に編成されました。普段は家族と一緒に暮らしているのですが,いざという時には敵と戦わなけれぱならず,軍人としての扱いを受けていました。そのために,軍は防衛隊員にも手榴弾を公布していたのです。あくまで戦闘に備えて交付していたのです。」 「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用いられたのは,以上の理由によるもので,普段から防衛隊員が手榴弾を保持していたからです。決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのではありません。」(甲B66・5頁)と記載している。 ところが,被告ら代理人の 「しかし皆本さんは手りゅう弾の交付自体,それは御存じないんですね。」 という問いに対しては 「はい。」 と答え, 「交付の際にどういう命令が出てたということも御存じないということですかね。」 という問いに対しては 「そうです。」 と答え,さらには手榴弾の交付時期に関する質問に対しては, 「私は当事者ではありませんから,何月何日ごろということは私はここで申し上げることはできません。」 と答えている。そうすると,皆本証人の証言は,手榴弾を交付した目的等を明示する陳述書(甲B66)の内容と齟齬し,手榴弾に関する皆本証人の陳述書(甲B66)の記載及びその証書には疑問を禁じ得ない。 (ウ)(まとめ)* 以上のとおり,皆本証人は,昭和20年3月27日及び同月28日の赤松大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく,また,その陳述書(甲B66)に記載された手榴弾に関する記述は,皆本証人自身の証言と齟齬し,信用できない。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」