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『ディギル海賊団』 東大陸では名を知らぬものは居ないと言われるほどの海賊団である。 目を付けられた船は軍艦であろうと只では済まないと言われる。 そのディギル海賊団が見つけた“獲物”が、皇国軍の仮装巡洋艦安国丸であった。 安国丸は本来リンド軍艦を釣り上げるのが目的で派遣されたのだが、本物の海賊と出遭ったのだ。 「お頭! あれは皇国船に間違いありませんぜ!」 「おう。それにしてもデカイ船だ。この前のよりさらにデカイ」 立派な軍服に身を包んでいる海軍の艦長とは違い、着古したシャツを身に纏うお頭――ディギル船長――は、 その鋭い目つきや立派な体格、体中にある傷跡から並みの海軍士官以上の威厳が漂う。 「目標は3マーシュで、逃げに入ってます!」 「この快速ディギル海賊団から逃げられると思っているのか! 追いかけるぞ! 面舵一杯!」 旗艦リバイド号に続き、2隻のスループ――ラジャタ号とレジシア号――もそれに従う。 安国丸では、先程から自艦を追尾してくるフリゲートの確認作業していた。 「あの旗はどこの国のものでも、軍のものでもない」 「だとすると海賊……でしょうな」 「うむ、ええと……あれは、ディギル? そう、ディギル海賊団というそうだ」 艦長は元世界では見たことも無い旗が羅列された資料に目を通しながら口にした。 ディギル海賊団と。 「ディギル海賊団?」 「この資料だけでは、名前と規模以外のことはわからん。 資料に載っているということはそれなりに有名な海賊なのだろう。 もう少し様子を見る。いつでも戦闘を始められるように準備をしておけ」 「了解」 「お頭、そろそろ獲物を射程に入れられますぜ」 「よし、全砲門開け! 威嚇射撃からだ、船体に当てるなよ!」 ディギルは興奮していた。 船を襲うときには気持ちが昂ぶるものだが、今回の獲物はあの“皇国”。 積荷はおろか、船自体にも相当の価値があるはずで、拿捕できればその利益は計り知れない。 しかも海賊団が所有する船の中で最も大型のリバイド号ですら小さな子供のように見えてしまうほどの超大型船である。 それに乗り込んで略奪するのだと思うと、武者震いが止まらない。 「敵が砲窓を開けた。速度を16ktに上げろ! こちらも攻撃準備!」 擬装された船体から姿を現したのは14cm単装砲が4門。40mm連装機関砲2基、12.7mm機銃12丁。 「お頭、奴ら武器を持ってます。ハメられた!」 気付いたときにはもう遅い。 安国丸は14cm砲と40mm機関砲で先頭を進むリバイド号を攻撃する。 距離は約2000m。必中距離だ。 大量の砲弾を受けたリバイド号は穴だらけで、甲板上は船員の血に染まっていた。 程なく、マストが折れたリバイド号は速度を失っていく。 付き従っていたラジャタ号とレジシア号も、反撃する間もなく安国丸のゼロ距離射撃に沈黙した。 30分程で、3隻の海賊船は完全に停止し、波間を漂うのみになってしまった。 「接舷して敵船を拿捕しろ。相手が海賊なら下っ端は殺してもいいが、 船長は殺すな。何か情報を持っているかもしれん」 この世界では慣習法として、正規軍の将兵であれば降伏した場合捕虜として扱われる権利があるが、 海賊のような非合法の組織の場合はその限りではない。その場で即殺されても文句は言えないのである。 「海賊を捕まえたとなれば、賞金が出るかもしれないですね」 「皮算用はよせ。もし賞金が出るとしても、それは結果であって目的ではない。 そもそも、我々の本来の目的は海賊狩りではないのだしな」 海賊狩りは勿論海軍の任務であるが、少なくとも安国丸の任務としては、それは従であり主ではない。 あくまでもリンド王国正規軍の戦列艦なりフリゲートを釣り上げるのが、安国丸の本来の任務なのである。 リバイド号に接舷した安国丸から、海兵隊1個小隊が移乗する。 安国丸はその任務の性質上、臨時編成の陸戦隊ではなく専門の海兵隊を乗せている。 安国丸は後続の2隻に対しても接舷し、それぞれ1個小隊の海兵を乗り込ませる。 リバイド号に乗り込んだ海兵隊は手際良く船内各所を制圧し、後甲板の艦橋に居た船長と思しき人物を確保した。 「中尉。敵船長、船員の無力化、完了しました」 「よし、船長と会わせろ」 「はい!」 「お前が船長か?」 童話に出てくる海賊のような風貌の体格の良い男に、海兵中尉は訊ねた。 「俺を知らないのか? 俺の名はディギル! この海賊団の頭領よ!」 「そうか、では国際海洋法も知っているな?」 「海賊は皆殺しなんて法、悪趣味だぜ」 捕らえられて両手を後ろ手に縛られているディギルは、だが強気な態度を崩さない。 全く悪びれた様子の無いディギルに対して、海兵中尉は淡々と対応する。 「海賊稼業の方が、余程悪趣味だ。さて、本題に入ろう。 貴様等、皇国船に的を絞って襲っている海賊か?」 「海賊ってのは風の吹くまま気の向くまま、目に付いた船は分け隔てなく襲うもんだぜ」 「ほう、ではリンド王国の商船も、目に付いたら襲うんだな?」 「当然だぜ。俺達海賊に対して安全な船なんてもんは無ぇ」 「では、これは何だ?」 そう言って海兵中尉が見せたのは、ディギルから没収した拳銃。 それは正に、FN-M1910拳銃であった。 「たまたま襲った船の船長が持ってたんだ」 皇国商船の船員は、海賊対策として拳銃の携行が許可されている。 この拳銃は恐らく、襲われた船の船長の私物だったのだろう。 「中尉、宜しいでしょうか?」 船内を捜索していた海兵が、小隊長を呼び止めた。 海兵の手には何かが握られている。 「これは、皇国の煙草です」 「こっちには皇国の酒瓶が」 「そうか……」 つまり、ディギル海賊団に襲われた皇国船がいるという事だ。 「中尉、船長室の奥から、こんなものが……」 「何、見せてみろ。これは……」 海兵は、一通の文書を持ってきた。 リンド文字に精通している訳ではないが、全く読めないわけ ではない中尉は、その内容を半分程度だが理解した。 ディギル海賊団は、リンド王国の私掠許可証を持っていたのだ。 「この文書は何だ。リンド船も襲うんじゃなかったのか?」 「俺達ゃ、リンド人だからなぁ……」 「それが答えか?」 「昔はリンドの船も襲ってたが、リンド海軍に目を付けられてこのザマよ」 「それでリンド王国の忠犬になったのか」 「そうだよ! そもそも元海賊の俺達に、日の当たる職なんか無ぇ。 海賊を続けるためには、仕方無かったんだ」 「文書には皇国船を襲えと書いてあるが、この件に関しては?」 「皇国船の場合、実入りが良いんだ。武器や機械は、他の国の船の10倍くらいで、リンド国王が買い取ってくれる」 「襲った皇国船と、その乗組員はどうした?」 「…………」 「答えろ!」 「あいつ等が悪いんだぞ。俺達ゃ、別に殺しが好きでやってるわけじゃねえ。 やつ等は、拿捕されたくせに俺達の命令に従わなかった。だから皆殺しにして、船も沈めた」 「……!!」 中尉は、鬼のような形相でディギルを見つめた。 理性が無ければ、持っている拳銃でディギルを射殺していただろう。 「待て! リンド国王からの命令なんだぜ。拿捕してリンドの港に連れ帰れない場合は、船を沈めろって」 「国王からの……命令だと?」 「そうだよ。その文書の一番下のは、国王の直筆だよ」 つまり勅令という訳だ。 「そうか、解った……。 貴様等はこれからユラ神国に居る我々の捕虜収容船に移送される。 そこで裁判を行い、判決に従って刑罰が下される。 今の私と貴様の遣り取りは、証言として証拠の一部になるからそのつもりで」 「ま、待て……皇国の裁判って何だ!」 「心配するな。死刑判決が出ても、生きたまま火炙り等にはしないからな」 「そうじゃねぇ! 誰が裁判するんだ?」 「全権大使の下、派遣されている我が国の裁判官が行う。弁護人も付くぞ」 「弁護人だと? 笑わせるぜ。何を弁護してくれるんだ?」 「それはプロの弁護士が考える事だ」 「どうせ処刑されるなら、いっそ今撃ち殺して欲しいくらいだぜ」 「わからんぞ。貴様等がリンド王国に対して重要な情報でも提供すれば、 恩赦で減刑される可能性もある。そうしたら死刑でなくなるかも知れん」 「ふん、どうだかね」 「捕虜は全員拘束の上、猿轡を噛ませておけ」 「はっ!」 中尉は自殺防止の命令まで出して、海賊の捕虜を全員安国丸に移送した。 ディギル海賊団の一件は、皇国政府の対リンド感情を険悪にさせた。 リンド王国が海賊を雇って皇国船を襲わせたわけだから、当然だろう。 それまでは、政府も軍も国民も「外交の延長としての戦争」だと認識していた。 つまり、制服を着た正規軍人による、正々堂々の戦である。 しかし、こうなると単なる「外交」ではなく「懲罰」としての戦争に発展しかねない。 皇国政府では「直ちに報復攻撃をすべきだ」という論が主流となりつつあった。 第一航空艦隊を派遣して主要都市を灰に! などという極論もあったが、 「油……」 の一言で派遣される船は旧式戦艦畝傍と金峰、護衛の旧式駆逐艦4隻に決まった。 石炭で動く戦艦二隻であれば、重油やガソリンの消費を最小限に抑えられる。 しかも戦艦であるから火力は十分。万一喪失しても痛くない旧式艦。 標的にされたのは港湾都市メッソール。リンド王国最大の貿易港がある都市である。 リンド王国に対し、1週間以内に皇国への謝罪と賠償を行わない場合、 メッソール港の沿岸要塞と停泊中の船舶を攻撃する旨を打診した。 「ディギルの奴らめ、ヘマをしおって……」 リンド王国では、皇国の要求に対し、断固拒否の意見が大勢を占めていた。 「しかし、呑まなければメッソール港を攻撃すると言っている。そうなれば一大事ですぞ」 今まで、皇国とリンド王国の戦争はユラ神国を経由しての陸戦が主で、リンド王国の港が標的になる事はなかった。 皇国がリンド海軍を追い払った後、リンド王国の港をそのまま使えるようにわざと攻撃を手控えていた面もあるが、 どちらにせよ、リンド王国は無傷の港を経由して同盟国や友好国からの戦略物資獲得に成功していた。 それが、リンド王国が今も劣勢な戦争を粘り続けられる原動力となっている。 リンド王国海運貿易量の4割近くを賄うメッソールを攻撃されるとなれば、一大事である。 「主要な戦列艦もフリゲートも殆どが皇国船狩りに出撃中。これでどうやって港を守るか」 「沿岸砲台と、飛竜しかあるまい」 「沿岸砲台は射程が足りない。飛竜は……この国全体で残り何騎だね?」 「おそらく500騎もいないかと」 事実だった。この時点でリンド王国に存在する戦闘用飛竜は全部で733騎。 うち255騎は負傷しており、実働飛竜は478騎であった。 開戦時には3361騎居た、誇り高き王国軍飛竜隊の末路であった。 「少なくとも60騎は王都防衛に必要だ。さらに360騎程度は各戦線の偵察、爆撃任務に必要。 これは本当に必要な最低限の数なので、実際に必要な数はもっと多いが…… それで、残りの数十騎をメッソールに向かわせるか?」 「勝算があるならば……」 「何をもって我々の勝ちとするかだ。敵に何らかの被害を与えれば良いというのなら、勝算はある。 だが、敵を追い返すことを我々の勝ちとするなら、勝算は殆ど無いだろう」 その言葉に、出席者の多くが不満げだ。当然、敵を追い返すことが求められているのだから。 「ユラの沖に投錨している皇国の大型甲鉄艦を見たものは居るか?」 質問に手を上げたものは一人も居ない。 「そうか。これがその軍艦の絵だ。これで全長は65シンク程だそうだ」 各々がその絵を眺め、隣の人に渡していく。 そして、リューム沖海戦の敗北は必然だったのだと思い当たるようになる。 たった数枚の絵ではあるが、明らかに“強さ”というものが感じ取れた。 こんなに巨大な鉄の塊が本当に浮くのか? と半信半疑の者もいたが。 「メッソールを攻撃するとなると、この艦が出てくる可能性が高い」 「何故分かる? 皇国の本国艦隊がやってくる可能性も否定できないのでは?」 「今までの全ての戦争についてだが、皇国は本国の主力艦隊を一度も動かしていないらしい」 事実だった。実際、第一艦隊も、第一航空艦隊も、転移以降は外征していない。 リンド戦に派遣された第三航空戦隊が、おそらく皇国が派遣した最大規模の戦力だろう。 つまり、ライランス王国やリンド王国を始め、今まで皇国に敗北してきた海軍は、 敵の主力と戦って負けたのではなく一段劣る戦力に負けた事になる。 「それが事実ならば、こちらは助かるが……我々も舐められたものですな」 皇国本国には、ユラ沖に停泊しているものの数倍の戦力が存在している という情報は、不確定情報とされながらもリンド王国に存在していた。 実際は、主力艦隊を“出さない”のではなく“出せない(燃料事情のため)”というのが事実だったが。 「しかし、何もせずに手を拱いているというわけにも行かない……国家や軍の面子にも関わる。 いっそのこと錨泊中の今、奇襲的に攻撃してはどうだろう?」 「皇国艦が停泊しているのはユラの領海だ。それをやると、我々はユラ海軍とも戦争をせざるを得なくなる」 今までは全て公海か、リア公国かリンド王国の領土あるいは領海内での戦闘だった。 ユラ神国の領海内でリンド王国が戦闘行為を行えば、ユラ神国海軍とて重い腰を上げざるを得なくなる。 沈黙を保っていたユラ神国海軍が本格的に攻め上ってくると、本土防衛戦力の激減しているリンド王国海軍は分が悪すぎる。 「メッソール沖に水雷を撒くというのはどうだろう」 「民間の貿易船も通れなくなるぞ」 「この際仕方が無い。民間船の航路とは別の場所に、 1週間で可能な限り水雷を撒いて、事が済んだら回収だ」 「敵を水雷原におびき寄せるために、飛竜の攻撃も加えよう」 ここで言う“水雷”とは、中空の鉄製の球体に鉄製の棘を付けたものである。1m程度の深度で安定し、爆発するものではない。 船がある程度の速度でこの“水雷”にぶつかればそこに穴が開き、浸水するというものである。 「では、そのように取り計らおう」 規定の1週間が経過した頃、畝傍と金峰はメッソール沖の射撃地点まであと5kmといった所を航海していた。 周囲には旧式の艦隊駆逐艦が4隻、輪形陣で畝傍と金峰を護衛している。 合計6隻の艦隊(小隊)であるが、致命的なのは全ての艦について索敵用のレーダーが 搭載されていない(逆探すら搭載されていなかったが、この世界では電波を使った機器 など存在しないため、未装備でも不利にならなかったのは救いである)ことだった。 故に、飛竜の発見が遅れた。 「右舷30度より、飛行物体!」 「飛竜か? 距離と数は!?」 「距離は約8000m、数は20騎! おそらく全て爆装飛竜!」 艦隊がリンド王国の飛竜部隊を発見した時、その距離は既に10kmを切っていた。 戦闘機よりもやや大型な程度で、表皮の色が薄青色の“迷彩色”で、しかも飛行中も 殆ど無音の飛竜を、双眼鏡程度の補助具のみで発見するのは、難しいのだ。 8000mという遠距離で飛竜を発見できたのは素晴らしい結果とも言えた。 「速度を18ktに上げろ! 対空射撃開始!」 旧式戦艦に無理矢理高角砲と対空機銃を増設した故、畝傍型戦艦にはやっつけ程度の防空指揮所しか存在しない。 防空指揮官も、専門の防空長が配置されるのではなく艦長の兼任である。当然、防空戦の効率は落ちる。 新型戦艦や新型空母等で装備される電探連動射撃など夢のまた夢。効果的な弾幕を張るのも精一杯だ。 しかも、対空火器そのものの数も少ない。畝傍と金峰合わせても、12.7cm高角砲8門に20mm機銃32門。 護衛の駆逐艦に至っては、4隻合わせても20mm機銃16門のみ(高角砲は装備していない)である。 駆逐艦の12.7cm砲は一応、対空射撃も可能であったが、基本的に平射砲であるため効果的な弾幕を張る事はできない。 艦隊合計で、12.7cm高角砲8門に、20mm機銃48門。しかも数がある20mm機銃は個艦防御用で、射程も短い。 これでは遠距離で仕留める事は困難だ。最低でも20門程度の高角砲が無ければ、効果的な弾幕にならない。 飛竜との距離はどんどん縮まっていく。 「1騎も落とせないか……直掩戦闘機さえあればなんて事無い数なんだが」 飛竜は散開しつつ、回避行動を取りながら接近してくるためお世辞にも 追従性が良いとは言えない旧式の高角砲では撃ち損じが続いている。 ユラ神国に展開している戦闘機は、全てリンド王国主力部隊との戦闘に 投入されているため、このような作戦に参加する余裕は 無かったし、何より航続距離が足りなかった。 水上機の1機でも搭載していれば追い払えたかもしれないが、 あいにく畝傍も金峰も水上機の搭載はしていなかった。 水上機母艦は、間が悪い事に修理中だった。 畝傍と金峰は、主砲と副砲に対空用にも使える榴弾を装備していた(今回の作戦では、砲弾の 6割が榴弾、2割が焼夷榴散弾、徹甲弾は2割である)が、仰角が足りずに撃つ事ができないでいた。 撃てたとしても、遠距離での1、2撃に貢献する程度で、近距離の 間合いでは追従性の問題で使えないことには変わりないが。 既に、飛竜の全騎が20mm機銃の射程内である。 今度は先程のちびちびとした高角砲射撃とは違い、全艦から雨霰と機銃弾がそそがれる。 だが、各銃座がバラバラに射撃を行う、統制された射撃とは言いがたい対空射撃では効果の程は少ない。 「7騎撃墜!」 待望の戦果であったが、それまでだった。 13騎の飛竜が、輪形陣の中心に位置し准将旗を掲げる畝傍に殺到し、 各々が20kg爆弾と数個の手榴弾を落としていったのだ。 「被害は!」 「爆弾7発と手榴弾24発を受け、右舷を中心に被害がありました。高角砲1門と連装機銃座が2つやられました。 17名の死亡を確認。負傷者は重軽傷者合わせて50名以上に上る模様」 「そうか。負傷者の手当てと、機銃座の応急修理を迅速にな」 「はっ!」 飛竜による空襲は、誰もが予想はしていた。 なにせ、こちらは攻める時と場所を公表しているのだから。 だが、戦闘機による直掩が望めない状況では個艦の対空射撃を頑張る以上のことは出来ないのも事実だった。 先の飛竜の襲撃では、飛竜の帰り際にさらに5騎を墜としたので、戦果は12騎になる。 その襲撃から10分が経った頃。メッソール沖の射点に着こうとしていた矢先であった。 「右舷90度より、飛行物体!」 「また飛竜か?」 「はっ! 今度は24騎!」 「対空射撃開始!」 艦隊は回避運動を取りながら対空射撃に専念する。 皆、空を見上げているのだ。当然、海中に潜む“モノ”のことなど、想像だにしない。 異変が起こったのは飛竜を発見してから2分後だった。 前方を進んでいた駆逐艦蓬の速度が18ktから急に10ktに落ちたのだ。 「蓬より入電。我、触雷せり」 「触雷だと!?」 「蓬は浸水している模様です。艦首が少し沈んでいます」 「このままでは蓬に衝突する。全艦、取り舵一杯!」 「蓼より入電!」 「今度は何だ?」 「はっ。触雷のようです」 「またか! まんまと機雷原に誘い込まれたという事か……」 小隊司令の准将は、薄ら寒い予感がした。 「敵飛竜2騎撃墜!」 「残り22騎か……畝傍には来んのか?」 「12騎が蓬に、10騎が蕨に向かいます!」 飛竜はまだダメージの無い小型艦――葦と蕨――に狙いを定めたのだ。 畝傍と金峰は手に余ると踏んでのことだろう。 この2隻は、というより随伴している4隻の駆逐艦は、艦隊型としては最小の1000tクラスの旧式艦である。 武装は12.7cm単装砲3基に、20mm連装機銃2基、53.3cm連装魚雷発射管2基(ただし、今回の作戦では魚雷は搭載していない)。 主砲は最大仰角70度で、対空射撃も一応可能だが、弾丸の装填時には 砲の角度を水平近くまで戻す必要があるため、断続的な対空射撃は不可能。 その上、防空指揮所も存在しないのだから、対空戦闘力は殆どゼロに等しかった。 そこを狙われた。 「葦、爆弾3発を被弾! さらに手榴弾7発を被弾した模様!」 「蕨、爆弾5発と手榴弾10発を被弾!」 「葦より入電。我、触雷せり」 「蕨より入電。爆撃により艦橋中破。艦長負傷にて先任将校が指揮を続行せり」 旗艦畝傍の司令塔には残酷な現実が突きつけられていた。 「飛竜は!?」 「さらに5騎墜としましたが、爆撃を終えて逃げ帰っていきます」 「そうなると今は機雷が問題だ……おそらく敵は沖に機雷を敷設したのだろう。 機雷を避けるには敵の沿岸砲台の射程内に入る必要がある。座礁の危険も増える」 「航路を機銃掃射しながら進みますか?」 「それでは、更なる飛竜の襲撃に遭った時の弾薬が不安だ。触雷……と言いながら、 水柱は立たなかった。ということは、敵の機雷は爆発しないタイプなのだろう」 「喫水線下に穴を開けるだけということですね。 確かに、爆発されていたら1000t級の旧式駆逐艦など一発で沈没でしょうな」 「駆逐艦は、航行に支障は無いのか?」 「全艦10ktから12kt程度に速度は落ちましたが、航行は可能だそうです。 艦首に少し穴が開いただけで機関は無事ですから、30分の応急修理で 18kt程度には回復する見込みで、ユラまで辿り着ければ、工作艦もあります。 葦と蕨の損害も見た目程酷くなく、航行に支障は無い程度だそうですから」 「よし。では駆逐隊は4隻全てユラに撤退だ。残りの任務は畝傍と金峰のみでやる。 遣ユラ艦隊司令長官に応援を寄越して欲しいと打電しろ。海防艦4隻で撤退掩護して欲しいと」 「しかし、それでは畝傍と金峰の護衛が……」 「小型の老朽艦とはいえ貴重な艦隊型駆逐艦だ。東大陸方面艦隊の貴重な、な。ここで無理して沈める必要は無い。 畝傍と金峰は曲がりなりにも戦艦だ。そう簡単に沈没はしない。畝傍の被害は軽微で、金峰は無傷だ」 駆逐隊の撤退を確認すると、畝傍と金峰の2隻は、低速で機雷原を避けながら約30分で射点に着いた。 速力を12ktに上げて畝傍を先頭に、左舷にリンド王国の国土を見る形に進んでいく。 陸地からの距離5000m。リンド軍沿岸砲台の限界射程を超えている。 「左舷対地砲戦準備!」 「敵、沿岸砲台発砲!」 准将の対地戦闘準備命令とほぼ同時に、リンド軍陣地の数箇所から砲煙が上がった。 「敵弾8発、弾着! いずれも本艦の手前1800mから2000m程度です」 「安心しろ。この距離では敵弾は届かないし、届いたとしてもこちらの装甲は9インチのクルップ鋼だ。 だが油断は禁物だな。まずは沿岸砲台から黙らせる。両艦、砲撃始め!」 と、まだ畝傍も金峰も一発も撃っていないのに、リンド砲台の一部が爆発した。 砲弾を畝傍に届かせるため、装薬の量を目一杯増やした結果、砲身が破裂したのだ。 「敵砲台、どうしたんでしょうか。自爆でしょうか?」 「分からんが、まだ砲台は残っている。全力で破壊しろ」 その後20分で、畝傍と金峰は主砲と副砲を存分に使ってリンド王国メッソール近隣の沿岸砲台を一掃した。 司令は標的を港湾部に向ける。 明らかに軍とは無関係な民間船を攻撃するのは心が痛むが、これも命令である。 皇国の民間輸送船を攻撃し、船員を虐殺した海賊を支援していた国家に対する報復なのである。 攻撃場所と日時は予め告知しており、それでも避難しない船がいたら、それはその船の船長(或いは船主)か、 港に避難勧告を出さなかったリンド王国が悪いのだ……と思うようにして、命令を発する。 「主砲、副砲は榴弾、焼夷榴散弾攻撃を行え。港に停泊中の船は全て焼き払え」 焼夷榴散弾は木造船に効果的の一言であった。 広範囲の標的を一斉に炎上させ、水をかけたくらいで火は消えない。 標的になった船は灰になるまで燃え続けるしかないのだ。 港には火災旋風が巻き起こっていた。 それがさらに火災を延焼させ、炎の柱は夜になっても赤々と港を照らし出す事になる。 結局、それ以上の飛竜の襲撃も触雷も無く、畝傍と金峰、そして4隻の駆逐艦は無事にユラの港へと帰還した。
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澤井 憲一 NORIKAZU SAWAI 愛称 しゃわい 身長 体重 生年月日 1981.06.15 星座 血液型 卒業年度 2003 卒業学部 経済学部 卒業学科 経済学科 出身地 奈良 出身高校 奈良県立畝傍高等学校 趣味 Drive 尊敬する人物 池内玄一郎氏 好きな音楽 Back Street Boys よく行く場所 難波 好きな学問 理科 将来の夢 ミリオネアー、石油王
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飛鳥FC Asuka FC 公式ホームページ 所属リーグ:関西サッカーリーグ1部(5部相当) 法人名:(NPO)ポルベニルカシハラスポーツクラブ 代表者:福西達男 創立年:1979年/前身:橿原FC(白橿FC+畝傍FC)→ポルベニルカシハラ→ポルベニル飛鳥 活動区域/ホームタウン:奈良県/橿原市を中心とする中南和地域 クラブカラー:臙脂 ホームスタジアム:奈良県立橿原公苑陸上競技場(*3,000人) 練習グラウンド:奈良県フットボールセンター アカデミー(育成):ポルベニル飛鳥ジュニアユース クラブマスコット:名前不明♂(鷲?) ユニフォームサプライヤー:squadra 公式SNS Tweets by PORVENIRASUKA
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年2月13日~紀元前585年4月9日)は、日本の初代天皇。日本の神話上の初代天皇。日向国(宮崎県)出身。在位は神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)~神武天皇76年3月11日。 天皇が即位した旧暦1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日という祝日である。 『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。 生涯 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 皇子の時代 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。 生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。 東征の開始 10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。 長髄彦との戦い 戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。 八咫烏の道案内 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 怒濤の進撃 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 即位 辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 崩御 神武天皇76年、127歳にして崩御した。 系譜 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売。阿多小椅君の妹) 手研耳命(たぎしみみのみこと) 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ) 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。大物主の女) 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命) 神八井耳命(かむやいみみのみこと) 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造などの祖 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇) 神武天皇の非実在説 神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。 日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似しているという神話学者三品彰英の指摘もあって、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。 こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は全く前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている。 即位年月日 神武天皇の即位年月日は、日本書紀の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 紀元前660年とされた経緯 『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 グレゴリオ暦が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。 具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 干支は、60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。 神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。 なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。 諡号・追号・異名 「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)~764年に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。 和風諡号は次のとおり。 『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。 また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。 一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。 皇居・橿原神宮 都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。 『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋公に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。 翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、縄文時代後期~晩期の集落跡を検出したが(橿原遺跡)、記紀の橿原宮に直接結び付くような痕跡は確認されていない。 またこの時期、第二次拡張事業(1938~40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵)) なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。 陵墓・霊廟 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。 元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。 しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。 陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。 現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 基礎データ 代数 初代 御名 神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 父 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) 母 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 皇居 畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや) 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 在位 崩御 陵 畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)
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駅名 接続路線 所在地 エキスク 大和西大寺 奈良線、京都線 奈良県奈良市 尼ケ辻 奈良県奈良市 西ノ京 奈良県奈良市 九条(奈良県) 奈良県大和郡山市 近鉄郡山 奈良県大和郡山市 筒井 奈良県大和郡山市 平端 天理線 奈良県大和郡山市 ファミリー公園前 奈良県大和郡山市 結崎 奈良県磯城郡川西町 石見 奈良県磯城郡三宅町 田原本 田原本線※徒歩連絡 奈良県磯城郡田原本町 笠縫 奈良県磯城郡田原本町 新ノ口 奈良県橿原市 大和八木 大阪線 奈良県橿原市 八木西口 奈良県橿原市 畝傍御陵前 奈良県橿原市 橿原神宮前 南大阪線、吉野線 奈良県橿原市 近鉄橿原線マスターバッジ 詳細はWikipediaで
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桜井線 駅名 臨 日付 金橋 - 2000/08/05 畝傍 - 2000/08/05 香久山 - 2000/08/05 桜井 - 2000/10/20 三輪 - 2000/08/05 巻向 - 2000/10/20 柳本 - 1990/12/23 長柄 - 2000/10/20 天理 - 2000/10/20 櫟本 - 2000/10/20 帯解 - 2000/10/20 京終 - 2000/10/20
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駅名 接続路線 所在地 エキスク 奈良 関西線 奈良県奈良市 京終 奈良県奈良市 帯解 奈良県奈良市 櫟本 奈良県天理市 天理 天理線(近鉄) 奈良県天理市 長柄 奈良県天理市 柳本 奈良県天理市 巻向 奈良県桜井市 三輪 奈良県桜井市 桜井(奈良県) 大阪線(近鉄) 奈良県桜井市 香久山 奈良県橿原市 畝傍 奈良県橿原市 金橋 奈良県橿原市 高田(奈良県) 和歌山線 奈良県大和高田市 JR桜井線マスターバッジ 詳細はWikipediaで
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高橋 健 KEN TAKAHASHI 生年月日 1991.8.14 星座 しし座 血液型 O型 出身地 奈良県 学部 商学部 出身高校 畝傍高校 ポジション 前衛 愛称 KEN 好きな歌手 CHISATO!! 好きな学問 中国語 好きな場所 あの人の隣 好きな色 ピンク 好きな食べ物 焼酎 好きな動物 片岡サン 怖いもの 片岡サン 趣味 片岡サンとのメール 資格 酔い絡み 尊敬する人物 片岡サン 座右の銘 まだまだいける~!! 休日の過ごし方 酒を飲む 片岡サンとメール テニスの目標 フォアストローク 将来の夢 3歳の息子が田中さんを・・・
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神武天皇(じんむてんのう) 世界大百科事典、関晃の記述 初代天皇と伝えられる天皇(在位660~585B.C.)『古事記』や『日本書紀』にカンヤマトイワレヒコノミコトとあり、神武という中国風の諡号は、8世紀(奈良朝)後半になってから送られたものである。記・紀によると、神武天皇は高天原から南九州にくだったニニギノミコトの曾孫でウガヤフキアエズノミコトの子。日向から舟軍をひきいて瀬戸内海を東進し、いったん難波に上陸したが、生駒のナガスネヒコにさえぎられて、さらに海上を南に迂回し、熊野から吉野の山険を越えて大和に入り、付近の諸勢力をしだいに従えてゆき、最後にナガスネヒコを倒して大和地方をだいたい平定したのち、紀元前660年の1月1日に橿原宮で初代の天皇の位につき、前585年に127歳で死んだ、ということになっている。記・紀はこの物語を人代の最初にすえて、神代との橋渡しとしているが、その内容にはむしろ神話伝承的な色彩が濃く、事実の記録という性格はかなり弱い。しかし、天皇がつねに建国ということと結びつけて考えられる以上、その史実性のほうがより多く問題になるわけであるが、これらの物語をそのまま事実と考えることはきわめて困難である。紀元前7世紀といえば、まだ縄文式文化の時代で、国家の成立などということはとうてい考えられないし、この年代が中国の讖緯思想にもとづいて、後世7世紀ころの史家の手で机上で作られたものであることはだいたいまちがいない。また年代の点を別としても、こういうかたちで建国がおこなわれたとは考えにくい。おそらく3~4世紀ころに、大和を中心とする政治勢力がしだいに全国を統一していったものであって、ある1時点に建国というような事実を求めることは不可能であろう。したがってこの物語は、全体として後世になって造作されたものとする見方が支配的であり、その一例として、実際の統一者は崇神天皇であって、その事跡を過去に投影して、神武天皇の物語が作られたと見る説がある。そうなれば、神武天皇はまったく実在の人物ではないことになるが、ただ、崇神以前の天皇はまだ統一日本の君主ではないけれども、皇室の祖先であることには違いなく、その簡単な系譜が、なんらかの方法で伝えられたと考えられることは不可能ではない、という意見がでてきている。 大日本百科事典、小野信二・川出清彦の記述 第一代の天皇とされている人物。名はカムヤマトイワレヒコノミコトという。神武という名は奈良時代につけた諡号。『日本書紀』『古事記』によれば、ニニギノミコトの曾孫で、ウガヤフキアエズノミコトの子である。そして事績はほとんど東征と大和平定の物語につきている。すなわち日向国(九州南東部)を出発して瀬戸内海を通り、いったん難波(大阪)に上陸してナガスネヒコと戦ったが、これに妨げられてイツセノミコトを失い、海上を南に迂回して熊野から吉野をへて大和国(奈良県)に攻め入り、諸土豪を征服してついにナガスネヒコをも倒し、大和一帯を平定、前660年の正月朔日に、橿原に都して即位したという。そして同じく前585年127歳で没したと伝えている。記紀の紀年法は誤謬の多いもので、もちろんこれは史実ではなく、前7世紀にこのような天皇の出現や行動があったとは考えられない。当時は縄文文化の時代で、まだ国家というようなものはなかった。大和の一土豪の話として伝えられてきたものを、このように描き出したものと思われ、時代もずっと下るものだろうといわれている。東征説話も大和朝廷発展期にその淵源を遠くに置き、九州と中央とのつながりの必然性を示そうとしたものであろう。崇神天皇の投影とみる、すなわち崇神天皇こそ第一代で、神武天皇はその理想像として架空に構想されたとする考えもある。陸墓は奈良県橿原市畝傍山東北陵。 「神武天皇祭」4月3日神武天皇の崩御相当日に宮中の皇霊殿でおこなわれる御追孝の祭典。天皇陛下御親祭の大祭であり、東遊が前庭で奉奏される。皇后陛下、皇太子・同妃両殿下の拝礼、参列の皇族・宮内庁職員の参拝もある。同日山陵(畝傍山東北陵)へ勅使参向、奉幣の儀をおこなわしめる。 グランド現代百科事典、佐伯有清の記述 古代の伝承上の天皇。第一代の天皇とされる。父はヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト。母はタマヨリビメ。名はサヌミコト。カムヤマトイワレヒコミコト、ヒコホホデミという。九州日向を出発し、大和地方を平定した東征伝説で名高い。日向を出た天皇は筑紫国、安芸国、吉備国をへて難波に居たり、河内国から大和にはいろうとしたが、ナガスネヒコにはばまれて苦戦し、茅渟(和泉の海)に出て紀国の熊野を迂回して大和にはいり磯城地方の豪族を制圧した後、ついにナガスネヒコを殺し、大和一帯を平定。辛酉の年に橿原宮で即位し、この年を神武天皇の元年とした。陸墓は奈良県橿原市の畝傍山東北陵。神武天皇の即位の年を西暦紀元前660年に当たる辛酉としたのは、この年に革命があるとする中国の讖緯説によるものであり、その結果『日本書紀』の紀年は実際より著しく年代が延長され、実在しない天皇が幾人か天皇系譜の中に組み入れることになった。 世界文化大百科事典、高崎徳次の記述 「記紀」に伝えられる初代の天皇。神武は奈良時代の諡。名はカムヤマトイワレヒコノミコト、ニニギノミコトの曾孫。「記紀」によると、天皇は日向(宮崎県)を出発して東征し、瀬戸内海から難波に上陸しようとしたが、土着勢力のナガスネヒコのため果たせず、熊野から吉野を経由、大和の諸豪族を平定した。BC660年元旦橿原に都して即位し、BC585年127歳で没したとある。これらの伝承は史実とは認めがたく、崇神天皇の事績が理想化されて、神武天皇となったとする見解もある。陸墓は奈良県橿原市畝傍山東北陵。 歴代天皇事典、高森明勅監修 御名・異名…神日本磐余彦尊、生没年…不詳、在位…76年?、父…ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(彦火火出見尊の子)、母…玉依姫(海神の娘)、皇后…媛蹈鞴五十鈴媛命(事代主命の娘)。 戦前の歴史教育を受けた人たちのなかには、「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク…」と歴代天皇の名をいまでもそらんじることができる人がいる。その歴代天皇125人の最初のジンムが神武天皇である。この神武天皇から第9代の開化天皇までの9人の天皇は、一般に伝承上の天皇と見なされている。そこで、『古事記』や『日本書紀』に記されている有名な「神武東征」の話をはじめ天皇の事績についても、史実というよりは伝説、あるいは文学として読まれることが多い。なかでも神武天皇は、高天原の神々をはじめ八百万の神々が織り成すロマン溢れる日本神話と、実在の天皇が登場する日本の歴史の間に立つ重要な存在として『古事記』や『日本書紀』に記されている。たとえば、神武天皇の祖父・彦火火出見尊は「海幸・山幸」神話の山幸彦といわれ、その父は「天孫降臨」神話の主役ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)とされている。ニニギノミコトは、「天岩屋」神話で知られる皇祖神アマテラスオオミカミ(天照大神、天照大御神)の孫にあたる。神武天皇は九州の日向に生まれ、3人の兄とともに育った。生まれながらにして賢く、気性もしっかりとしていて、15歳で皇太子になったという。そして45歳のときに、天下に君臨するのにふさわしい東方の「美き地(よきくに)」である大和に都をかまえるために、大軍を率いて日向を発った。これが神武東征の始まりである。皇軍は速吸之門(豊予海峡)で会った椎根津彦を水先案内人にして、海路、宇佐や安芸、吉備などに立ち寄り滞在したあと、難波に到着。そこから生駒山を越えて大和に入ろうとしたが、土豪の長脛彦の抵抗にあい、大和入りを果すことはできなかった。また、この戦いで兄の五瀬命が重傷を負った。そこで皇軍は再び海に出て、紀伊半島を南へ迂回し、ようやく熊野から上陸した。しかし、その間に傷ついた五瀬命をあhじめ人の兄が相次いで亡くなった。上陸を果たした一行も、土地の神の毒気に当たり全軍が倒れてしまった。この天皇の危難を救ったのが霊剣「フツノミタマ」と「ヤタガラス」である。フツノミタマは地元の高倉下という人物が霊夢でアマテラスオオミカミから授けられた剣であり、高倉下がそれを神武天皇に奉じた。すると、倒れていた全軍は目を覚まし起き上がった。ところが、大和を目指そうにも険しい山のなかには道もなく、一行は進むことも退くこともできず迷ってしまう。すると、その夜、今度は天皇が霊夢を見て、アマテラスオオミカミから道案内のための八咫烏を与えられた。皇軍は、八咫烏の導きで無事大和の宇陀に出ることができ、その後、大和の土豪を平定し、最後に強敵の長脛彦と激戦を交わした。皇軍が苦戦していると、その一羽の金色のトビが飛来し、天皇の弓の先に止まった。トビは光り輝き、その威力によって皇軍は長脛彦の軍勢を打ち破ることができたという。こうして天皇は、いくつもの危難を乗り越えてついに大和を平定した。そして畝傍山の麓の橿原に宮殿(橿原宮)を建て、ここで初代天皇として即位した。『日本書紀』によると、天皇が即位したのは辛酉の年の1月1日。紀元前660年とされる。中国には「讖緯説」というものがあって、辛酉の年には大きな改革が起こるといわれた。辛酉の年は60年に一度ずつ巡ってくるが、天皇が東征の偉業を果した辛酉の年から1260年後の辛酉の年は、601年(推古9)であり、この時代には聖徳太子が現れている。そして、この年から逆算して天皇の即位の年が定められたといわれている。天皇は正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命との間に神八井耳命とカンヌナカワミミノミコト(次の綏靖天皇)の二人の皇子をもうけた。天皇は『古事記』によると137歳(『日本書紀』では127歳)で崩御した。畝傍山東北陵に葬る。神武天皇の実在をめぐって、戦後は否定論がさかんであるが、物語の核となった史実を肯定する学者の意見もある。目下のところ、「これを確認することも困難であるが、また、これを否定することも、それに劣らず困難である」(黛弘道氏)と見ておくのが最も無難だろう。
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