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【第一回】→【第一回】my日本の為の、保守主義論(あじゅ) ●保守の4つの観点と人間観 前回の復習を簡単にしようと思います。 右派と左派の人間観には根本的な相違がある。つまり「人間の理性によって社会は進歩し、合理的に理想社会を構築」できるか否か、それが重要な視座です。 であるから、何か個別具体的な政策、たとえば憲法改正するか否か、外国人参政権を認めるか否か、が「保守」の定義ではありえないということです。 さて、ためしに「保守」という単語を辞書で引いてみましょう。 「既存の価値、制度、信条を根本的に覆そうとする理論体系が現れたときにこれに対するイデオロギーとして形成される」(ブリタニカ国際百科事典より)。 かなり簡潔に、しかも正確に言い表せていると思います。 いっぽうで『広辞苑』では「現状維持」だとか「固守」という言葉が用いられており、あまりにも誤謬だらけなので、ここには載せません。 では、保守主義とひとくちに言っても、いったいどのようにとらえればいいのか――おおよそ以下の4つの観点があります。 ①懐疑…人間の理性や、それに基づく社会の変化・変革・改革を疑う ②漸進…急進的・過激的方法を排除して、一歩一歩ゆっくりと前進する ③全体…有機体としての共同体・社会体の仕組み、秩序 ④伝統…歴史を通じて広大に伝えられ、受け継がれていく ①の懐疑は前回も言及したとおりですが、「保守」にとって、人間の理性はモンテーニュの言葉を借りれば「諸刃の剣」です。そして反進歩主義ですから、あらゆる社会の改革にも慎重な姿勢をとります。ただし、何でもかんでも反対という反動主義ではありません。 次、②の漸進ですが、「改革に対して慎重」であるのに、「現状維持(反動的反対)」でもないのだから、慎重に改革を進めるためには、何事もゆっくり、一歩一歩、足元を確認しながらでないといけません。 なぜ改革が必要か。理想社会が実現しないということは、現在の社会もむろん様々な欠陥を抱えています。ならば、常に変えるべき部分があるということなのです。バークの言葉にも「保守するための改革」というものがあります。自由主義者のハイエクにしても、改革に対してかなり慎重になりながらも、「ルールの不確定の部分」などについては、これを明確化するために改革を容認しました。 そして、③の全体。ある部分を機械の部品のように入れ替えれば、それで万事解決とはいかず、部分を変えれば全体に影響を及ぼします。有機体とはそういうことです。たとえば、郵政民営化を断行すれば論理的には確かに政府の支出は抑えられ、かつより合理的になります。しかし、かかる政策の予期せぬ”副作用”が表出したのはご存知のとおりです。 最後に④の伝統です。人間の理性は頼りなく、理想社会は実現しない。でも現在においても我々の社会は多くの問題をかかえている。であるなら、常にゆっくりとした改革が必要。では、「保守」は何に頼って改革をしてゆけばいいのか。それこそが祖先が長い年月をかけて守ってきた伝統や慣習といった、時の風雪に耐えた社会的な経験値に他なりません。暗黙知といってもよいでしょう。「保守」はこれらに依拠しようではないか、ということになります。 ところで、バークは偏見こそ、大事だといいます。これは一見変な考え方ですよね。 たとえばイギリスを例にとってみると、貴族、つまりブルジョワジーの特権的地位まで擁護してしまうのですから。偏見や特権の擁護は確かに合理的ではない。合理的ではないけれど、それが合理的ではないからという理由で歴史的な制度を破壊してしまえば、混乱に陥ると主張しました。そして彼の予言どおり、フランス革命後のフランスはジャコバン派の恐怖政治、ナポレオンの出現といった大混乱をもたらしました。 アメリカ独立戦争やイギリス名誉革命とフランス革命はどのように違ったのでしょう。バークは、フランス革命は暴力と怒りによる、単なる権力の破壊であったと述べています。アメリカやイギリスの場合はそうではなくて、もともと存在した社会秩序を下地に新しい権力を創出しました。だから、両者の革命に対して、異なる態度をとったのでしょう。 話を元に戻しましょう(別に脱線したわけではありませんよ)。「保守」の人間観をまとめると、こうなります。 懐疑主義的人間観に基づく理想社会の断念し、人間の不完全性・複雑性を認識し、理性の限界を直視します。換言すると、最も理性的な人間は理性の限界に気がつける人間です。今まで何度も述べてきましたが、ゆえに、完全な理想社会の構築を断念し、人間の精神のあり方を「合理性」に集約する近代主義への懐疑を持ちます。 保守の寄る辺は伝統です。広義には、人智を超えたもの、自生的秩序や歴史的制度、常識、あるいは神なども含まれます。社会の進歩といった希望的・楽観的観測ではなく、人間が歴史的に蓄積してきた社会的経験値を重視し、歴史の風雪に耐えた社会制度に内包された「潜在的英知」を信頼しましょう、というです。 エミール・ファゲは保守をこう言い表しています。「後ろ向きの預言者」と。過去に遡及による前進です。つまり、後ろ向きのまま、過去起こった出来事や今まで続いている制度(ルール)を常に参照しつつ未来に向けて歩をとめず、足を動かす、ということです。 加えて、「保守」は左派のような「抽象的人間」を想定しません。古くはホッブズやロック、ルソーらが想定した「自然状態」。わりと最近では政治哲学におけるロールズの「原初状態」です。これらは人間をその個々人の属している共同体や信仰している宗教といった条件から、親や兄弟、友人たちとの関わりさえも、一切無視した空想上の状態を前提とします。 しかし、「保守」はそうではなく、むしろ日本の田中さんとか、アメリカのトムとかいった「具体的人間」を想定します。 人間は共同体・宗教・人間関係などの、ある意味「制約・限定性」を重要で、言ってみれば、我々は親を選べませんし、文化や言語までも選ぶことも困難です。チェスタートンは「絵画の本質は額縁にある」と表現しましたが、人間も自分自身をしばっているもの(所与の条件)にこそ、自分があるといえましょう。 少々、難しい話が続いたかもしれませんが、今回の論考ではだいたい同じようなことを繰り返し述べているとお気づきだと思います。「保守」という綺麗な円を描くことは困難ですが、今までの内容から「保守」のエッセンスを汲み取って頂けたら、幸いです。 2011年 05月07日 00 43 1 コメント返信ボタン 0 いいね! 西洋の保守主義についてとてもわかりやすく解説されていると思います。 ただ欧米と日本では国体が全く異なりますので、日本の特殊性を加味にて論を進めるとより深化されたものになるように思いました。 次回も楽しみにしています。 2011年 05月07日 01 02 2 あじゅコメント返信ボタン 0 いいね! 1 尊皇ファミリー@ポス部中尉さん ありがとうございます。 後々、日本については書くと思うので、それまでお待ちください。 2011年 05月08日 14 41 3 コメント返信ボタン 0 いいね! 現在の日本の保守とは、日本会議・チャンネル桜に代表される護国のための行動や言論活動であり、my日本も特に最近は、日本会議・チャンネル桜と歩調を合わせて様々な活動を行っており、私はそれを大変に嬉しく有り難く思っている者です。 一方、あじゅさんが、勧める中島岳志という「週間金曜日」という左翼メディアの編集者が最近やっていることは、「西洋保守主義」の定義を金科玉条の如く振り回して、結局は日本会議・チャンネル桜などを批判することであり、あじゅさんが、そうした方向へと行かないことを私は希望します。 私達の倒すべき敵は、「週間金曜日」などに代表される日本を蝕む反日左翼そのものですから。 2011年 05月08日 15 10 4 コメント返信ボタン 0 いいね! 一年以上前の話になりますが、my日本に怪しい陰謀論が流布しており、my日本管理人様までが半ばそれに引っ掛かっていたことがあり、私の方で(状況が見えていない考えの浅い人達から様々に批判されながらも)必死に陰謀論者を排除したことがありました。 私が特にこれは見過ごせないと思ったのは、そうした陰謀論者が、チャンネル桜を叩いてmy日本参加者を桜から引き離す下心を持っていたからです。 同様にして、強力な自民党支持者を装いながら、実は日本会議を中傷する「月夜とピノ子」という怪しい人物を排除したこともありました。 あじゅさんの意図が、彼らと同じとは思いませんが、先のコメントに書いたとおり、「西洋保守主義」の定義を金科玉条として日本会議・チャンネル桜に代表される日本の保守を叩く方向に万一にも走らないように宜しくお願いいたします。 2011年 05月08日 18 49 5 あじゅコメント返信ボタン 0 いいね! 4 敬神愛国◆my日本健全さを守る有志の会さん 確かに中島岳志に以前お会いしたとき、「チャンネル桜などに冷や水を浴びせるのが、わたしと佐伯先生(京大)の役目」的な発言をされていました。私もそれはそれとして、意味のあることだと思っています。なぜなら、保守も自らを顧みる事ないままでいるのはマズイからです。 とはいえ、中島氏と私の意見は同じではありません。おっしゃるように、ちょいと叩きすぎな面があるからです。私はむしろチャンネル桜とも関係の深い、西部さんや富岡さんに近い立場ですので、安心してください。
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伊吹 萃香のJA・DCを魂魄 妖夢の弦月斬で狩られまくった際に、178が発した一言である。 正確には「その弦月斬には理性を感じない」である。 それ以来、理性を感じるか感じないかというのは、非部屋内では非常に重要なテーマになっている。 たとえば 比那名居 天子の天地プレスばかりを振ってくる相手 比那名居 天子で昇天突ばかりを振ってくる相手 洩矢 諏訪子で蛙ドーザーばかりを振ってくる相手 パチュリー・ノーレッジでC射ばかりを使う相手 などが戦略的にはいいかもしれないが、理性的であるか否かという議論がなされている。 これは誰にも解決できない現代の最終問題である。 名言集へ
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正确认识汉字拼音化 作者 席战伟的 爱随你心飞 原址 (1) (2) 正文 汉字拼音化的优势 见字知音,闻音知形,读写一致形音合一 字体与读音都矛于了明确的规律 拼音化文字只要学会几十个拼音字母对于一切字词都能够做到读写自如 而汉字字体独立没有任何的规律可言汉字的表音不清必须借助注音 反对汉字拼音化的人完全是没有一点理性的人干的事 学习汉字每一个字都是生字,而拼音化的汉字每一个字都有着明显的规律学习起来事半功倍 汉字难学不单单关系到学生的压力而更关系到整个民族的智慧与命运的的问题 因为汉字难学使得我们民族的智慧成长迟滞 汉字拼音化改革,不是在抹杀民族文化而且恰恰是在改良与发扬我们的民族文字 封闭汉字改革才是真正的在封锁与扼杀我们的汉字发展的前途与命运
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「変態だと? あなたみたいな人が爺さんを殺したでしょうが!!」 「!?」 直後、まるこはメガネをかけた青年、氷山キヨテルに惨殺された。 例えまるこが既に息が無い肉塊となっても、振り下ろすバットを止めることはない。 それもそのはず。 せっかく発見した妹のGUMIを殺されたからである。 何故か全裸だったが、たったそれだけの理由で平然と彼女を殺せるまるこを、 青年は酷くくだらなく、そして忌々しく思えたのだ。 「まるちゃんを虐めないで~」 「おや、あなたにはこれと言って恨みも無いのでね。」 突如キヨテルの前に彼女の友人であろう少女が現れる。 しかし、彼からすれば特に関係を持たない赤の他人だったので、 適当に金属バットであしらいながら距離を空けていく。 「待って!」 少女、たまえは叫ぶが、所詮大人と子供の差、 彼との距離を詰めることができず、いつのまにかキヨテルの姿が見えなくなってしまった。 一人残されたたまえは、友の遺体を一瞥し、悲しみに沈んだ。 (いくらまるちゃんが悪いことしたからって・・・・・・からって・・・・・・!) たまえにはわかっていた。 キヨテルだけが悪いのではない。 まるこも恨みを買うのに十分すぎることをした。 見たところ、自分が止めるまではキヨテルは、まるこに激しく怒りをぶつけている。 普段は冷静沈着であろう表情が歪み、罵言雑踏を吐きながら何度も殴打を続けていたのだ。 まるこが殺した人物の中に、彼にとって大切な人がいたのだろうと容易に推測できる。 「・・・・・・この人達もこんなところにいたらかわいそうだよね」 泣き止んだたまえは、まるこが殺した人物達を見て、支給品のスコップを出し始める。 遺体をこんなところに野ざらしにするわけにはいかない。 それは慈悲か、それとも単に自分が見たくないだけなのか、彼女自身はわからない。 (私、これからどうしたらいいのかな?) 大切な親友を失って心にぽっかり穴が空いたたまえ。 かつてのまるこはこんなことをする人物ではなかった。 あの眼鏡の男性だってそうであろう。 誰しもが平和な世界で生きていたはずだ。 殺し合いとはああも人格を醜く変貌させてしまうのだろうか。 このような殺し合いで自分はいったい何ができるのだろうか。 答えが見つからないまま、彼女はひたすら穴を掘り続けていた。 【一日目・11時45分/静岡県沖・ロストグラウンド/天候・真夏日】 【穂波たまえ@ちびまる子ちゃん】 [状態]悲しみ、迷い [装備]包丁、スコップ [道具]支給品一式 [思考]1:まるこ達を埋葬する。 2:これからどうしよう・・・・・・ 「ここまでくれば大丈夫ですね」 たまえから逃げ延びたキヨテルは、近くのベンチに腰掛ける。 しかし、その表情は安堵よりも、憂鬱と言った方が適切であった。 (流石に殺してしまうのはやりすぎでしたね・・・・・・) 再会できたと思った家族が目の前で殺された。 だから殺した。 それだけであったら心地よい気分でいたはずだ。 いや、本当にそうでいたのだろうか。 氷川キヨテルは悩む。 あそこでまるこを殺すのが正しい選択だったのか。 (彼女にだって私と同じように、大切な人がいましたね・・・・・・) まるこを殺して気分を晴らしている所に突如、彼女の友人と思われる少女がキヨテルの前に現れた。 包丁を構えていたものの、涙を流して悲しみの感情の方をむき出しにしていた。 あれほど思ってくれる人がいたのだ。 まるこも生前は明るい少女だったのだろう。 そう、自分の妹達みたいに。 (MEIKO、ミク、ユキ、いろは、ネル、リツ・・・・・・そしてGUMI、すみません・・・・・・) まるでその手を血に濡らし、家族を助けることができなかった自分への贖罪のように、彼はこの世にはいない妹達の名前を呟いていく。 彼女達は、憎しみの連鎖に巻き込まれて、その中で生き残れることができずに散っていった。 ならば自分は何ができたのだろうか。 キヨテルは自身に問いかける。 (ゲームを破壊? 冗談言わないでくださいよ・・・・・・) キヨテルは極めて理知的であった。 それ故、掴めることのできる希望を見分けることができた。 首輪という枷がはめられ、監視がされている現状で、 主催を倒すことなど泡を掴むよりも困難であることがわかってしまったのだ。 キヨテルは極めて理知的であった。 それ故、掴めることのできる希望を見分けることができた。 首輪という枷がはめられ、監視がされている現状で、 主催を倒すことなど泡を掴むよりも困難であることがわかってしまった。 (だから私は一刻も早くあなた達を見つけます!) キヨテルは今生きている家族を思い出す。 自分と同年代のKAITOはこの事実に憤り、家族を守るため奮戦しているであろう。 異常者でありながらも誰よりも家族を愛しているルカは、その心を深く傷つけているであろう。 まだ幼いレンやリン、ガチャッポイドは、甘えていた姉達が次々と死んでいる事実に何もできずに泣いているかも知れない。 ハクだってそうだ。 家族の中でも一番弱気な彼女は、精神的にもう参っているに違いない。 ひょっとしたら今でも虐めを受けているのかも知れないのだ。 Lilyやテト、一見気丈に振舞っている彼女達も、何処まで耐えることができるのか心配だ。 他にも・・・・・・ (そうですね・・・・・・こうしてはいられません) やがてキヨテルは自分の本来の目的を思い出す。 規模が非常に大きなため、バトルロワイアルに殺害を強制するルールはない。 強制しなくても自然と人が殺されていくからだ。 だから彼は一刻も早く家族を集め、殺し合いから逃げ延びるために歩き始めたのであった。 【一日目・11時45分/静岡県沖・ロストグラウンド/天候・真夏日】 【氷山キヨテル@VOCALOID】 [状態]健康 [装備]悟史のバット@ニコニコRPG [道具]支給品一式 [思考]基本:家族を見つけ出し、生き延びる。 1:まるこを殺したことに対する罪悪感 【さくらももこ@ちびまる子ちゃん 死亡確認】
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第五章 立憲主義の展開 p.71以下 <目次> ■第一節 近代立憲主義の特質[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる ■第三節 「現代立憲主義」へ[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む ■ご意見、情報提供 ■第一節 近代立憲主義の特質 [76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ 近代国家は、 (ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、 (イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、 (ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、 (エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、 という特徴を示してきた。 近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。 そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。 すなわち、近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想をいう。 それは、先に述べた「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認することと同義である([53]参照)。 [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である しかし、それだけではない。 近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。 これを「責任政治の原則」という。 責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。 また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。 もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。 現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。 [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。 この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。 そのうちのどちらが妥当であるか。 その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。 概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。 その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。 ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観 [79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた 市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。 個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。 「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。 また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。 近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。 それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。 この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。 中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。 ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。 その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。 こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。 自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。 国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。 例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。 [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている 近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。 そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。 近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。 しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。 その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。 その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。 また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。 それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。 [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった 楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。 有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。 さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。 近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。 [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる 近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。 当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。 理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。 個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。 ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。 人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。 この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。 国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。 人格として存在することではないのである。 そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。 近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。 こうした再検討のなかで出てくるのが「現代立憲主義」である。 近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。 現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。 ■第三節 「現代立憲主義」へ [83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である 19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。 それは具体的には、 ① 個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、 ② 社会に存在する中間団体の見直し、 ③ 人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認 という方向として表れる。 この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。 近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。 [11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「現代立憲主義」という。 [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る 「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。 この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。 それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。 中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。 国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。 [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える 現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。 それが、「社会的法治国家」、「積極国家」または「福祉国家」と通称される国家である。 それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。 現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。 こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。 なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。 [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? 片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。 それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。 なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。 そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。 こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。 この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。 配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。 [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである 「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。 知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。 その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。 「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。 となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。 自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。 [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか 代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。 執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。 それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。 ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。 その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。 「司法国家」への変質の要請である。 その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。 また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。 しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。 特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。 近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。 [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。 この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。 権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。 なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。 以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。 例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。 彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。 その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。 [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。 彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。 ① 合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。 ② しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。 ③ そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。 《正義の第一原理》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理(最大の平等な自由の原理)。 《正義の第ニ原理》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと(機会の平等)、第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること(格差原理)。 以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。 [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。 彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。 政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。 ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。 その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。 確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。 しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。 その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。 「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。 社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。 「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。 これこそが、現代立憲主義国家の病理である。 その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。 近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。 [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む 現代国家の病理はそれだけではない。 大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。 これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。 なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。 というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。 専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、文民の優勢の体制(civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。 もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。 それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。 その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。 狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。 こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。 この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。 軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。 現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。 それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。 現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。 そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。 実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。 また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。 そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。 それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。 【表7】「現代立憲主義」の課題 ① 実体的正義または「社会的正義」を実現すること ② 肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること ③ 軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第五章 立憲主義の展開 p.71以下 <目次> ■第一節 近代立憲主義の特質[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる ■第三節 「現代立憲主義」へ[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む ■ご意見、情報提供 ■第一節 近代立憲主義の特質 [76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ 近代国家は、 (ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、 (イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、 (ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、 (エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、 という特徴を示してきた。 近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。 そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。 すなわち、近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想をいう。 それは、先に述べた「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認することと同義である([53]参照)。 [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である しかし、それだけではない。 近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。 これを「責任政治の原則」という。 責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。 また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。 もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。 現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。 [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。 この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。 そのうちのどちらが妥当であるか。 その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。 概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。 その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。 ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観 [79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた 市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。 個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。 「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。 また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。 近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。 それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。 この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。 中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。 ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。 その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。 こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。 自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。 国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。 例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。 [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている 近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。 そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。 近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。 しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。 その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。 その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。 また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。 それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。 [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった 楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。 有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。 さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。 近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。 [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる 近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。 当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。 理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。 個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。 ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。 人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。 この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。 国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。 人格として存在することではないのである。 そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。 近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。 こうした再検討のなかで出てくるのが「現代立憲主義」である。 近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。 現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。 ■第三節 「現代立憲主義」へ [83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である 19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。 それは具体的には、 ① 個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、 ② 社会に存在する中間団体の見直し、 ③ 人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認 という方向として表れる。 この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。 近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。 [11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「現代立憲主義」という。 [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る 「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。 この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。 それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。 中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。 国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。 [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える 現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。 それが、「社会的法治国家」、「積極国家」または「福祉国家」と通称される国家である。 それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。 現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。 こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。 なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。 [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? 片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。 それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。 なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。 そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。 こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。 この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。 配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。 [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである 「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。 知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。 その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。 「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。 となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。 自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。 [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか 代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。 執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。 それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。 ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。 その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。 「司法国家」への変質の要請である。 その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。 また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。 しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。 特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。 近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。 [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。 この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。 権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。 なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。 以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。 例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。 彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。 その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。 [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。 彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。 ① 合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。 ② しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。 ③ そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。 《正義の第一原理》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理(最大の平等な自由の原理)。 《正義の第ニ原理》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと(機会の平等)、第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること(格差原理)。 以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。 [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。 彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。 政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。 ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。 その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。 確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。 しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。 その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。 「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。 社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。 「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。 これこそが、現代立憲主義国家の病理である。 その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。 近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。 [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む 現代国家の病理はそれだけではない。 大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。 これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。 なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。 というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。 専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、文民の優勢の体制(civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。 もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。 それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。 その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。 狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。 こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。 この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。 軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。 現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。 それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。 現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。 そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。 実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。 また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。 そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。 それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。 【表7】「現代立憲主義」の課題 ① 実体的正義または「社会的正義」を実現すること ② 肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること ③ 軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第五章 立憲主義の展開 p.71以下 <目次> ■第一節 近代立憲主義の特質[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる ■第三節 「現代立憲主義」へ[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む ■ご意見、情報提供 ■第一節 近代立憲主義の特質 [76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ 近代国家は、 (ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、 (イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、 (ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、 (エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、 という特徴を示してきた。 近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。 そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。 すなわち、近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想をいう。 それは、先に述べた「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認することと同義である([53]参照)。 [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である しかし、それだけではない。 近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。 これを「責任政治の原則」という。 責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。 また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。 もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。 現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。 [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。 この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。 そのうちのどちらが妥当であるか。 その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。 概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。 その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。 ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観 [79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた 市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。 個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。 「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。 また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。 近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。 それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。 この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。 中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。 ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。 その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。 こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。 自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。 国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。 例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。 [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている 近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。 そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。 近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。 しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。 その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。 その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。 また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。 それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。 [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった 楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。 有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。 さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。 近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。 [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる 近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。 当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。 理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。 個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。 ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。 人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。 この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。 国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。 人格として存在することではないのである。 そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。 近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。 こうした再検討のなかで出てくるのが「現代立憲主義」である。 近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。 現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。 ■第三節 「現代立憲主義」へ [83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である 19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。 それは具体的には、 ① 個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、 ② 社会に存在する中間団体の見直し、 ③ 人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認 という方向として表れる。 この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。 近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。 [11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「現代立憲主義」という。 [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る 「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。 この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。 それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。 中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。 国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。 [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える 現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。 それが、「社会的法治国家」、「積極国家」または「福祉国家」と通称される国家である。 それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。 現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。 こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。 なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。 [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? 片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。 それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。 なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。 そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。 こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。 この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。 配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。 [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである 「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。 知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。 その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。 「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。 となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。 自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。 [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか 代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。 執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。 それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。 ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。 その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。 「司法国家」への変質の要請である。 その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。 また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。 しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。 特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。 近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。 [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。 この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。 権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。 なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。 以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。 例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。 彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。 その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。 [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。 彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。 ① 合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。 ② しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。 ③ そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。 《正義の第一原理》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理(最大の平等な自由の原理)。 《正義の第ニ原理》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと(機会の平等)、第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること(格差原理)。 以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。 [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。 彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。 政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。 ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。 その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。 確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。 しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。 その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。 「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。 社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。 「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。 これこそが、現代立憲主義国家の病理である。 その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。 近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。 [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む 現代国家の病理はそれだけではない。 大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。 これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。 なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。 というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。 専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、文民の優勢の体制(civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。 もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。 それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。 その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。 狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。 こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。 この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。 軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。 現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。 それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。 現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。 そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。 実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。 また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。 そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。 それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。 【表7】「現代立憲主義」の課題 ① 実体的正義または「社会的正義」を実現すること ② 肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること ③ 軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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けんしんてきにんげんはやさしいひとになれない【登録タグ NexTone管理曲 け 初音ミク 曲 殿堂入り 翁】 作詞:翁 作曲:翁 編曲:翁 唄:初音ミク 曲紹介 翁氏 の6作目。 イラストは あす缶氏 が手掛ける。 歌詞 遥かに消えた 人魚姫も 人の事に 思えないな 独り占めを 知ったのなら きっと僕も泡に 消えるだろう。 そうだろ。 今日の僕も 明日の僕も 相対的に 見れば幸せ 知ってるんだ。 それでもどっか 満たされない どこか 誰かのための僕の嘘も 嘘には かわりないから 本当の声を 知ったのなら このまま一緒に いられないの? そうなの? 泣かないで 優しい人 次は君が 笑う番さ そう言われて 頷いたから きっと僕はずっと 冷たい人 なのだろう。 そうだよ。 コメント いい! -- 名無しさん (2012-01-05 06 15 56) この歌大好きです!メロディーも調教も凄く綺麗で安定してる。 -- 名無しさん (2012-01-06 11 31 55) 仕事はやいっ この曲好き(*´∇`*) -- 名無しさん (2012-01-06 11 47 24) 仕事早すぎww超いい曲すぎる! -- 名無しさん (2012-01-07 00 04 59) なんでこんな歌詞が書けるのか… すごく刺さって、痛い でも聴いてしまうのは何故 -- 名無しさん (2012-01-07 19 28 10) 期待の老人ワロタww 曲は良すぎる♪ とても深いな。 -- ゆう (2012-01-08 00 34 12) 良曲 -- 名無しさん (2012-01-09 16 59 04) いい歌詞ですね。 -- 名無しさん (2012-01-12 00 24 06) 期待の老人は献身的過ぎた -- とある名無し (2012-01-14 00 43 56) 久しぶりにめちゃくちゃ気に入った曲です! -- 名無しさん (2012-01-14 15 38 36) 泣けるなぁ・・・共感できるっ・゚・(ノД`;)・゚・ -- 捺輝 (2012-01-14 20 04 23) 献身 -- 河島英吾 (2012-01-30 13 32 21) たまーにふらっと聞きたくなる。マジでスルメ曲 -- 名無しさん (2012-04-03 12 54 37) いつも最後の所で涙腺が… もっと評価されてほしいような、そっと評価されてほしいような… -- 名無しさん (2012-04-20 22 54 50) カラオケ配信まだー? -- 名無しさん (2012-04-21 23 56 26) よかったです。 -- 名無しさん (2012-07-04 23 41 55) 大好きです!! -- 名無しさん (2012-07-12 02 11 23) あす缶 -- 名無しさん (2012-07-16 18 53 52) どうせなら 遥に→儚く 相対的に→比べてみれば だったら、もっとしっくりくるかなぁ -- うぃず (2013-04-06 17 24 29) 良い -- 名無しさん (2013-04-21 23 13 59) ぐっときます……(TT) -- 蓮 (2013-10-14 23 01 50) 調教が素敵すぎてたまらん -- そん (2013-12-06 15 42 55) 歌詞が淡々と深くて、痛くて、すごいなあと思う。 -- 名無しさん (2013-12-24 14 20 19) すごく好き、 -- 名無しさん (2015-02-05 16 49 30) 献身的!を視るのも、優しいか、優しくないか?みんな!相手側の結論や判断である。やたら話しを決めつけない。献身的優しさを感じるか?待つしかない!自分は、毎日くやしい!相手様分かってあげてますか? -- ブン太 (2016-03-30 06 39 15) 未完成な感じが好き -- 名無しさん (2017-04-06 01 19 22) 名前 コメント
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神 ミケランジェロ 「アダムの創造」 頭 気持 ロゴス パトス ギリシア語 「男はつらいよ」 ビデオ 寅さん 思想 学問 芸術 知 「今、ここ」 人間 日常 体験 喜怒哀楽 理性 感性 合理 非合理 精神 身体 アリストテレス 理性的動物 アニマル・ラチオナーレ ホモ・ロクエンス 言葉を話すヒト 存在 文化 自然 対立 言葉 言葉以前の知覚 本能的欲動 誘惑 古典ギリシャ 西欧形而上学 権威 実体論的 二項対立思考 発想 知性 プラトン イデア プュシス 生成としての自然 超自然的 超感性的 ソクラテス ギリシア悲劇時代 力動的一元論 生成 古典 ギリシア 人為 制度 技術 テクネー 秩序 質料 ヒュレー 無機的物質 マテリア 無秩序 実体 属性 自然観 生ける自然 ロゴス中心主義 技術文明 警鐘 二項対立 実体論 優位項 劣位項 ホッブス ヘーゲル 弱肉強食 粗暴 支配 自然状態 文化的人間 歴史 進歩 ルソー エンゲルス レヴィ=ストロース 不平等 悪徳 世界 歴史的産物 子ども アリエス 「歴史的産物としての子供」 非理性的 獣 社会的人間 非情 鞭 飼育 教育 悪しき自然・良き文化 純粋無垢 天使 分別 情感 幼児 大人 歪み 良き自然・悪しき文化 天才幼児の芸術 文芸評論家 小林秀雄 装幀家 青山二郎 対談 絵 4歳 山下清 個展 世間 赤ん坊 観察 顔 芸術家 意識的 表現 「『形』を見る眼」 1980 文化化 現代 自然科学 信仰 病院化社会 一般大衆 死生観 健康幻想 ジャーナリズム 健康食ブーム 脳死判定 臓器移植 身 ボディ マインド 自然的 本能的 欲求 深層 情念 受苦 ハイデガー 語源 概念 受難 意味 ラテン語 パッシオ 英語 フランス語 パッション ドイツ語 ライデンシャフト ライデン 悲劇 ヒーロー 神々 敗北 中世キリスト教世界 イエス・キリスト 死 10 カテゴリー 受動 激情 苦悩 原因 心 乱れ 近代 デカルト 『情念論』 盲動 愛 憎しみ 怒り 恐れ 意志的 統御 倫理 読む 創る 日本語 古代日本人 呼ぶ 声 古事記 万葉集 和歌 詠む 名づける 富士 文化現象 発生 謎 説明 アルキメデス 風呂 エウレーカ! 我、発見せり! 比重の原理 発見 理論 想像力 現前行為 虚構 創造 言語観 ドイツ 哲学者 『言葉の途上にて』 論文 「言葉についてのある対話より」 対話 独文学者 手塚富雄 1934 論理学 本質 西洋形而上学的 カタログ 議論 計算 比例 尺度 理法 根拠 動詞 レゲイン 『ロゴス・モイラ・アレーテイア』 秩序化 統一 カタロゴス 分類 整頓 法則 キリスト教 ヨハネ 福音書 ヘレニズム 思想家 1915 「ドゥンス・スコトゥスのカテゴリー論および意味論」 解説 カテゴリー論 意味論 形而上学 時間 『存在と時間』 森羅万象 アニマル・シンボリクム 象徴を操る動物 分節 ラベル 有意味化 存在喚起力 エホバ アダム 命名 『旧約聖書』 「創世記」 光 第1章 第3節 土 野 空 鳥 生き物 名 第2章 第19節 生物 対象 事物 観念 作用 言霊 力 古代 名称 神話 伝説 エジプト神話 太陽神ラー 女神イシス 本名 全能 イギリス 民俗学者 フレーザー オーストラリア南部 ユイン族 父親 入団儀式 息子 自分の名 動物 危険 害 熊 蜂蜜 スラブ語 褐色のもの 古代高地ドイツ語 仮の名 慣習 言霊思想 アッカド語 シノニム 文節 母国語 犬 狸 昆虫 蝶々 蛾 papillion メタ クラス 名づけ 命名作用 現象学者 メルロ=ポンティ 認識 『知覚の現象学』 対象物 名前 指向対象 差異化 意識 相互作用 電車 人形 経験 母親 3歳 女の子 単語 物 つながり 確認 意味づけ行為 感覚 運動的 分節行為 言語習得 分節線 本能 質問 象徴化 語 象徴の森 シミュラークル 知覚 再編成 ヘレン・ケラー 最初の一語 エピソード 本能的感覚 運動 習得 水 手のひら water 触覚 イメージ 外界 綱目 ゲシュタルト モノ コト 関係 個 語る 聞く 書く 意味発生 ヘラクレイトス 断片50 等式 合理的精神 ディジタル 二項対立的思考 ロゴス化 意味生成 行為 差異化活動 表層意識 深層意識 存在喚起機能 根源的差異化 日常的 ルポルタージュ 数学 物理学 指標 アンツアイヒエン 表出 アウスドルツク 記号 一義的シグナル 多義的シンボル 位相 表層 制度化 物象化 意味体系 存在分節活動 脳 左脳 右脳 西欧 現代医学 生理学 脳機能研究 1981 ノーベル賞受賞者 カリフォルニア工科大学 教授 スペリー 大脳 脳梁 2億 神経繊維 左半球 言語 中枢 論理的 分析的 数学的 右半球 音楽的 直感的 感覚的 アナログ 合理精神 優位半球 劣位半球 右脳ブーム 企画 ラマルク 獲得形質遺伝説 子孫 ボディビル 生体論的局所論 東京医科歯科大学 角田忠信 日本人 特殊性 母音 子音 コオロギ 虫の鳴き声 実験報告 文化的背景 重層性 西欧思想 浪漫主義的人間学 カオス コスモス カテゴリー化 根源 下意識 生 空間 美意識 性 エロティシズム 動きつつあるゲシュタルト 音楽 美術 スポーツ 言語学者 静態的分析 表象意識 非人称的活動 実体論的二項対立 意識的主体 意志 自/他 on ひと 能動 受動性 雲散霧消 多様化 「私はもう一人の他者」 ランボー 「歴史上のあらゆる人物にさえなる」 ニーチェ 錯視 自我 イッヒ 同一性 デカルト的主体 コギト 自己 ゼルプスト 人 生きる ペーソス ユーモア 哀愁 悲哀 感傷 自然的感性 下意識的 笑い カウンター・パート 貰い泣き 思い出し笑い 闇 二項対立の網 表層のロゴス 生命の波動 レーベン 深層のロゴス 合理的 科学的 透明 虚無 恐怖 呪い 愛憎 不透明 合理主義 神秘主義 二者択一思想 東洋の叡智 テコ 大和ことば テレビ コマーシャル コピー ポップス 歌詞 国語 用法 信号 象徴 詩 光の秩序 道具としての言葉 闇の豊饒 情念の言葉 実生活 交通信号 報道写真 ダリ マグリット ガウディ Dali Gaudi カタロニア語 欲望 快楽 演劇 絵画 彫刻 芸術作品 日常会話 イントネーション 赤 身振り 表情 意識の表層 意識の深層 無意識 心理 異文化間 三段論法 演繹 西欧文化 西欧的価値観 時 スイス 言語哲学者 ソシュール アナグラム 東洋 神秘思想 コンピュータ アニマチズム アニミズム 霊 有性観 有霊観 科学技術 パラダイム 世紀末 フロイト ユング エス 円環構造 貨幣 心の病い 治療 抑圧 無意識の解放 カタルシス 昇華 知る喜び ホモ・サピエンス 知恵のヒト 味わうヒト サピエンス 美食家 グルメ 『生命と過剰』 『ソシュールの思想』 『文化のフェティズム』 ロートレアモン オートパロディ カッシーラー 『象徴形式の哲学』 『人間』 渡部佳延 1985 1987 思ふ 小倉百人一首 願い 憂い 思ひ 追憶 暗示 予感 身体的パフォーマンス おもへり おももち 火 影 かげ 陰 蔭 日向 日陰 両義性 月影 うつせみ 分身 ダブル 想像 まぶた おもかげ 日本 狂気 人類 シャミッソー 影を売った男 秋 田 かりほ 庵 苫 あらみ 衣手 露 天智天皇 稲 刈穂 仮小屋 草葺 着物 袖 夜露 農夫 夜 心情 重ねことば かりほの庵 の 接続助詞「つつ」 類歌 作者不明 歌 7月 8月 9月 連体詞「の」 格助詞「の」 仮庵 掛詞 稲穂 間投助詞「を」 接尾語「み」 ~を~み 自称代名詞「わ」 連体詞「が」 格助詞「が」 係助詞「は」 格助詞「に」 つつ止め 余韻 余情 いいさしの表現 626 671 37 歌人 大化の改新 667 近江 大津の宮 遷都 律令制度 斉明天皇 660 5月8日 6月10日 水時計 ライプツィッヒ 19歳 1877 言語革命 情念としての言葉 文学 造形美術 夢 無意識の言葉 現代言語学 17世紀 物理的世界 ガリレイ カラー 『ソシュール』 革新 存在論 視点 ニュートン 古典物理学 科学革命 バターフィールド ルネサンス 宗教改革 事件 実体論パラダイム 関係論パラダイム 革命 ヤーコブソン 第二のソシュール革命 晩年 アナグラム研究 テクスト 真相意識 ポリフォニー性 他声音楽性 概観 晴天の霹靂 省察 ギリシア時代 ローマ時代 契約 真理 黙示 18世紀後半 研究 神学 機能 支弁 関心 言語論 『クラテュロス』 学派 相対主義思想 社会的 約束事 馬 中世 神学的精神風土 ヘブライ語 ドグマティック 仮説 学者 具現 思考体系 反映 普遍文法 18世紀 ランスロー アルノー 『ポール・ロワイヤル文法』 『一般・理性文法』 形容詞 一般的 理性的 修飾語 文法 本質的性格 思考 立場 伝統 論理学者 判断 内在的観念体系 外的標識 顕在現象 潜在図式 理性的世界表象 還元 普遍的思考構造 理性的文法 サンスクリット 20世紀初頭 1786 1816 東洋学者 ジョーンズ 言語研究 神学的 呪縛 科学 ステイタス 起源 ボップ インド ヨーロッパ 動詞活用 誕生 発展 言語神授説 ジュースミルヒ 批判 神学的能力の所産 ヘルダー 情念論 言語起源論 ペルシア語 ゲルマン語 比較検討 共通性 19世紀 比較古生物学 キュヴィエ 進化論 ダーウィン 進化 生体論 有機体 青春期 文字 運命 「音変化の法則に例外なし」 言語学 19世紀前半 19世紀後半 ロマン派 シュライヒャー ヘルマン・パウル 弟子 少壮文法学派 中心思想 決定論的言語観 自然主義 音 形態 機械的 音法則 条件別 整理 主知主義 科学的経験主義 モデル 動植物 物質 適用 外的刺激 反応 由来 行動 パブロフ 条件反射説 理論化 アメリカ 心理学者 ワトソン 行動主義 影響 ブルームフィールド 経験主義 機会主義的構造言語学 記述・分布主義言語学 共通 アポリア 科学的実証主義 絶対化 哲学的思弁 科学的観察 分析 土俵 主/客 普遍的カテゴリー 個物 唯一絶対 根源的存在 普遍論争 近代科学 現前の形而上学 共犯関係 現前の言語学 現前の記号学 自然科学者 詩人 血 フェルディナン 1857 11月26日 ジュネーヴ 長子 学問的家系 弁護士 農学者 祖先 ニコラ 植物学 鉱物学 電気学 地質学 分野 曽祖父 オラス=ベネディクト 物理学者 科学者 博物学者 祖父 ニコラ=テオドール 地質学者 アンリ ジンメル デュルケーム ベルクソン フッサール 精神風土 コペルニクス的革命 人間科学 転回 ケーレ 時代 クリマ 公理的 数学者的気質 自然科学教育 詩人的 家系 異色 文学者 大伯母 アルベルティーヌ=アドリエンヌ スタール夫人 従姉 親交 友人 少年時代 畏敬 ピクテ 留学 俊英 18歳 早熟 22歳 ジュネーヴ大学 学士院 正教授 1876 5月 創立 パリ言語学会 メッカ 4年間 インド=ヨーロッパ語 弁別 試論 パリ 発表 原初 体系 覚え書 1878 12月 メイエ 少壮文法学 業績 歴史言語学 方法論 告発 著作 博士論文 絶対属格 1880 2月 関係論的視座 一般言語学理論 1891 1年間 パリ高等研究院 ブレアル 講義 学生 24歳 講師 沈黙 病 教鞭 1912 研究者 指摘 伝記上 ムーナン 『20世紀の言語学』 フランス バンヴェニスト 知的絶望感 人生 ドラマ 苦痛 『一般言語学の諸問題』 1894 学術論文 手紙 書簡恐怖症 エピストロフオピー 1900 11月27日 1902 10月27日 ニーベルンゲン ロマンド地方 ゴルゴンド族 民俗学的研究 イポグラム 師 完璧主義 バンヴェスト イタリア デ・マウロ 言語理論 無理解 無視 落胆 推測 不釣合 結婚 重症 アルコール中毒 憶測 マリー・フェッシュ夫人 社会的地位 レーモン ジャック 夫妻 旅行 ヴェフラン 城 フェッシュ家 所有 精神的葛藤 確証 幻 書物 思想上 構築 疑問 苦しみ 矛盾 言語化 非‐知 ノン・サヴォワール 闘い 光線 1月4日 苦渋 事象 困難 嫌気 空しさ 感動 術語 仕事 1893 手稿 草稿 ホイットニー 追悼 メッセージ 未完 生前 『言語学の解体』 中断 自分 ニーベルンゲン伝説 テセウス オリオン神話研究 絶望 結果 一般言語学 逃避 良心 咎め 無関係 主題 持統天皇 春 陰暦 夏 カ行変格活用動詞「来」 完了の助動詞「ぬ」 過去の助動詞「けり」 音節脱落形式 推量の助動詞「らし」 白妙の 衣 枕詞 天の香具山 奈良県 橿原市 南浦町 大和三山 上代 体言止め 女帝 第41代 天武天皇 皇后 690 藤原宮 柿本人麻呂 宮廷歌人 645 702 山部赤人 田子の浦 駿河湾 静岡県 清水市 興津町 由比 蒲原 浦 動詞「うちいづ」 接続助詞「ば」 高嶺 雪 36歌仙 元明 元正 聖武 官吏 歌聖 叙景歌人 奥山 人里 深山 外山 端山 もみぢ 草木 落葉 動詞「ふみわく」 鹿 動詞「なく」 雄鹿 雌鹿 連体修飾語 係助詞「ぞ」 シク活用形容詞「かなし」 結び 猿丸太夫 元慶 877 885 太夫 五位 『古今集』 『猿丸太夫集』 菅原道真 武田美穂 絵本 『となりのせきのますだくん』 学校 いじめ 給食 いじめっ子 消しゴム 不安 気持ち ドキドキ 校門 エンピツ 会話 緑 緑色の怪獣 男の子 怪獣 『ますだ君の一ねんせい日記』 いじわる 悩み 家 お姉さん 相談 四苦八苦 朝 勇気 理解 いじめられ 他者 自分自身 子ども時代 保障 1722 1778 『エミール』 子どもの権利条約 子育て 原則 公教育制度 普及 拡大 現実 目的 学校制度 皮肉 現象 教育問題 エルキンド 『急かされる子供たち』 ポストマン 『子どもはもういない』 ウィン 『子ども時代を失った子どもたち』 現代社会 幼児期 幼児教育 空想 遊び 活動 学習 成績中心 競争 就学前 勉強 小学校 価値観 変化 子ども世界 乳幼児期 アーツ・マネジメント 社会 芸術創造 学芸員 舞台芸術 プロデューサー 制作者 職能 欧米 大学 カリキュラム 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識字教育 講座 無料の原則 図書館法 公立図書館 入館料 図書館資料 学習文化機関としての独自性の原則 講演会 職員必置の原則 地域配置の原則 豊かな施設設備の原則 住民参加の原則 車いす スロープ エレベーター トイレ 巡回バス 利用者懇談会 企画委員会 公民館運営審議会 生命 波動 現代思想 光の輝き