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「港南の歴史を学ぶ会」は昭和55年(1980)に発足し、港南区を中心に、横浜や周辺地域の歴史を講師のお話と散歩を楽しみながら、月に1回学んでいます。 講義は「港南地区センタ-」で毎月第3日曜日に午前9時30分から正午まで、歴史散歩は午前10時現地集合、午後3時現地解散です。 会費:年間4000円(臨時の方の参加費は毎回500円) 平成23年度(2011)年度の計画は下記の通りです。
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年代 昭和29年 桜岡小学校の2階建て木造校舎の全景写真です。 右下が上大岡駅でしょう、あふれんばかりの生徒がいました。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 43 11) 名前 コメント
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野庭の赤ナス (野庭) むかし、野庭村は、人も少なく、さびしい村でした。雑木林が広がり、人々は、畑を中心に野菜を作って生活していました。 村の子どもたちは、いつも元気で、日がくれてやっと家に帰ると、みな真っ黒けでした。 「今日もね、うさぎを見つけたんだよ。ね」 「ぜったい、はさみうちにしてやろうと思ったのにさ、また逃げられちゃったよ」 「あいつら、はやいんだよなあ、うさぎ谷へ入ったら、あっという間さ」 うさぎ谷とは、うさぎがいっばいいる谷のことです。 子どもたちは、たっぷりと家の手伝いもしました。中でも、この家の末の弟は、なぜか、いそいそと畑に出ていきます。それは、真っ赤なナスが実っていたからです。 日本に、まだ外国の人があまりいなかったころ、横浜の港からたくさんの外国人が入ってきて、住みつくようになりました。 そして、西洋料理には欠かせない野菜を、このあたりでも作るように決められたのです。 畑仕事をしながら、末の弟は、そのめずらしい赤ナスに心をうばわれていました。どんな味なのか想像もつきません。 赤ナスは、緑色から、日に日に赤くなっていきます。けれども、父も母も、中華街で買ってもらう大事な作物だからと言って、食べさせてはくれませんでした。 他の西洋野菜も作られていましたが、何と言っても一番知りたいのは赤ナスの味でした。 ある日、とうとう、重そうにぶら下がっている赤ナスをもぎ取ると、ガプリ・・・。 「うぁっ」 口中に青臭い汁があふれました。あわてて吐き出しましたが、のどにも鼻の奥にも、そのみょうなにおいがはりついたかのようです。 目くばせしながら、弟の様子をこっそり見ていた二人の兄は、「やったぁ」と、大笑い。 弟は、初めての味にびっくりしたのでしょうか・・・。この弟だけでなく、二人の兄はもちろん、一度これをかじってみた者はだれも、二度と食べてみようとはしなかったそうです。 日本中のほとんどの人が、まだトマトを知らなかったころのことです。野庭村の人々は、いちはやく、その「赤ナス」と呼ばれていた「トマト」の、味見をしたんですね。 ----
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首塚の亡霊(下永谷) bgsound その昔、柏尾川のまわりが、まだ広い湿地だったころのお話です。 下永谷の村にある本城山から、夜になると苦しそうな、悲しそうな、すすりなく声が聞こえてくる、といううわさ話がひろがっていました。 「本城山に、ゆうれいがでるんだって。知っているか」 神社の境内で遊んでいた男の子が、話はじめました。 「夜になると悲しそうな声が、毎日毎日、村のはしっこのほうまで聞こえるんだって」 「知ってる、知ってる。かどのじいちゃんは、山で何か動くものをみてから、熱をだして、ねこんでるんだってさ」 男の子たちの話を、そばで聞いていた小さな女の子が、泣きだしそうな顔で言いました。 「あの声は、ふくろうのなき声を、だれかが聞きまちがえただけだって、かあちゃんがいってたよ」 村の子どもたちは、日が西の山にしずむころになると、いそいで家にかえるのでした。 家の木戸を固くしめ、まっくらな家の中で耳をふさいで、じつと、みんなのかえってくるのをまっていました。 このうわさ話は、いつまでもおさまることなく、村の人たちは、どうしていいのか困りはてていました。 ちょうどそんな時、この村を通りかかった念仏の行者に、首塚の供養をしてもらいました。けれども、声はまだ聞こえるのです。 そこで、江戸から有名な霊厳上人をまねいて、法要をしてもらいました。そうすると、それいらい、声がなくなったということです。 戦国の時代、この山には、北条氏直のとりでがありました。山は平戸川と永谷川が二重の堀となり、広い湿田にかこまれていました。このとりでをめぐつて、たくさんの人々が戦いをしました。 北条氏は、多くの敵の首を切り、みせしめにしたのです。そして、そのあとに首を集めて塚に埋めたのでした。その時に殺されてしまった人たちの、悲しく苦しい思い出が、村の人たちの間に、このような話として伝えられたのかもしれません。
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年代 大正11年 笹下川の堰場の落成式の様子です。 名前 コメント
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戦後の港南区エリア 昭和30年頃までの港南区(当時は「南区」)地域は、戦後復興に向けた横浜中心都市の周辺地域に過ぎませんでしたが、昭和30年頃の上大岡駅前を通る鎌倉街道の開通、拡幅舗装化によって、先ず上大岡周辺が京急開発不動産によって、東西とも緑豊かな里山が削られて、住宅地が誕生いたしました。 貞昌院 港南区の歴史 永野小学校0080(昭和44年、永野小学校下の県道を横断する子供達) 永野小学校0070(昭和41年、水田付近の県道を横断する子供達) 永野小学校0051(昭和38年頃2階建て鉄筋校舎増築) 永野小学校0050(昭和36年頃2階建て木造校舎増築) 永野小学校0044(昭和36年頃の県道の景観) 永野小学校0043(昭和30年頃マラソンを駆ける子供達) 永野小学校0042(昭和30年頃の永野小学校全景・航空写真) 永野小学校0041(昭和30年頃の運動会、未就学児童のかけっこ) 永野小学校0040(昭和30年頃の永野小学校の全景写真) 永野小学校0031(昭和25年の富士登山の記念写真) 桜岡小学校0150(戦没者慰霊堂の歴史) 桜岡小学校0130(桜台・月見ケ丘の歴史) 桜岡小学校0124(上大岡駅前通りの歴史5) 桜岡小学校0123(上大岡駅前通りの歴史4) 桜岡小学校0120(上大岡駅前通りの歴史1) 桜岡小学校0112(上大岡京急分譲地の歴史3) 桜岡小学校0111(上大岡京急分譲地の歴史2) 桜岡小学校0110(上大岡京急分譲地の歴史1) 桜岡小学校0100(桜道の歴史) 桜岡小学校0090(鎌倉街道の歴史1) 桜岡小学校0081(大久保地域の歴史2-2) 桜岡小学校0080(大久保地域の歴史2-1) 桜岡小学校00611(上大岡地域の歴史) 桜岡小学校0049(上大岡駅の歴史7-7) 桜岡小学校0048-2(上大岡駅の歴史7-6) 桜岡小学校0048-1(上大岡駅の歴史7-5) 桜岡小学校0047(上大岡駅の歴史7-3) 桜岡小学校00461(上大岡駅の歴史7-2) 桜岡小学校0046(上大岡駅の歴史7-1) 桜岡小学校0045(上大岡駅の歴史6) 桜岡小学校0044(上大岡駅の歴史5) 桜岡小学校0043(上大岡駅の歴史4) 桜岡小学校00421(上大岡駅の歴史3-1) 桜岡小学校0042(上大岡駅の歴史3) 桜岡小学校0041(上大岡駅の歴史2) 桜岡小学校0030(桜岡小学校の歴史4) 桜岡小学校0023(桜岡小学校の歴史3-4) 日野小学校0009(昭和40年頃の鎌倉街道) 日野小学校00061(昭和40年頃の鎌倉街道) 日野小学校0006(昭和40年頃の鎌倉街道) 日野小学校0005(昭和時代の校舎の全景航空写真) 日野小学校00041(昭和時代の木造・2階建て校舎) 日野小学校0004(昭和時代の木造・2階建て校舎) 日下小学校009(薫花園の様子) 日下小学校008(関の祭りの様子) 日下小学校007(金沢道(笹下・釜利谷街道)の様子) 日下小学校006-3(環2が出来る前の打越交差点) 日下小学校006-2(環2が出来る前の打越交差点) <タグに 戦後 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
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年代 昭和41年 場所 水田バス停留所付近 このバス停留所は今も残っている。 名前 コメント
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お百姓さんの助っ人 (日野) bgsound いま、日野と呼ばれているあたりはな、昔は武蔵国で、宮ヶ谷村、金井村、吉原村、宮下村の四つの村に分かれており、相模国の下野庭、上野庭との国境にあったそうな。 日野はなあ、近ごろ急に開けてきて、ひと昔前までの面影が残っている所は、わずかになってしもうたが、山あり、谷ありの丘陵地だったんじや。村の人たちは、この谷あいの村で、百姓をして暮らしておった。 お百姓さんが、一番いそがしい田植えや、稲刈りをするころを、農繁期といってな、戦後もしばらくの間は、学校を農繁休みにして、子どもたちも、家の手伝いをしていたこともあったんじやよ。 金井村にはなあ、いつの頃からか、農繁期になると、毎年、毎年決まって国境を越えてな、大ぜいの人たちがやってきたそうじや。 村の人たちは、その人たちをあてにして、農作業を始めることにしていたそうな。 その人たちはな、一番いそがしくて大変な時に、必ずやってきて、よく働いてくれるので、村の人たちは心から感謝しておった。 「本当によくやってくれたのう、少し余分にお金を入れておいたから、取っといておくれ」 と、一人一人に給金をはずんだそうな。 ところがな、お頭が、余分にもらつたお金を全部集めると、 「おつりです」 といって、必ず返してくれたそうじや。 その人たちの身なりはな、それほどよくなかったが、お金をめあてにしている様子でもなく、決まったお金だけもらうと、さっさと次の村に行ってしまう。 それになあ、そのふしぎな人たちは、一日の仕事が終わると、村人と一緒にご飯を食べながら、見たことや、聞いたことの、いろいろな話をしてくれて、その上、歌ったり、踊ったりもしてくれたそうじや。 このことはな、山深い村の人たちにとって、この上ない楽しみとなって、いつしかその日のくるのを、心待ちにするようになったとさ。 その人たちがな、いったい誰で、何のために大ぜいで歩いていたのか、謎でな。 「もしかして、鎌倉のお寺で、修行のために集まっていた、お坊さんたちではなかっただろうか」と、いう人もおったそうな。
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年代 昭和36年 2階建て木造校舎を増築しました。 名前 コメント