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港南歴史協議会は、2007年に港南区内の郷土史に関わる8団体で発足した「こうなん歴史連絡会」が発展的に「港南歴史協議会」と改称し、組織いたしました。 現在は区内の古写真のデジタル化をはじめ、郷土史に関わる文化の保存と伝承に向けて、活動をしています。 港南歴史協議会の歩み改.pdf
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「港南の歴史を学ぶ会」は昭和55年(1980)に発足し、港南区を中心に、横浜や周辺地域の歴史を講師のお話と散歩を楽しみながら、月に1回学んでいます。 講義は「港南地区センタ-」で毎月第3日曜日に午前9時30分から正午まで、歴史散歩は午前10時現地集合、午後3時現地解散です。 会費:年間4000円(臨時の方の参加費は毎回500円) 平成23年度(2011)年度の計画は下記の通りです。
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政治の中心地「関」と港南の桜(港南) 江戸幕府の治めていたころ,いまの港南区内は野庭や永谷・芹が谷の地域は相模国,上大岡や笹下・大久保・日野の地域は武蔵国になっていたのじゃよ。 「ヒヤー そうだったの,わたし,神奈川県はみんな相模国かと思っていたわ」 江戸幕府のあのチョンマゲの武士の政治はアメリカからやって来た「黒船」と,幕府の政治を天皇の政治にもどそうと考える人たちの勢力によって,倒されてしまったのじゃよ。この時の黒船のことを表現した歌に, 「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四はい(隻)で夜も寝られず」 なんて歌われているが,上喜撰とは上等のお茶の一種じゃが,歌の意味を考えて見て下され,なるほどと思うじゃろ。 こうして,新しく明治政府ができ,「廃藩置県」というてな,武蔵国や相模国をやめて,横浜あたりを「神奈川県」,港南区は野庭・永谷方面を除いて「久良岐郡」となったのじゃ。 そこで,笹下村字関の東樹院の近くには「久良岐郡郡役所」が置かれ,これに続いて,学校や郵便局・警察署・土地や家などの登記所ができ,政治や教育の中心地になったのじゃ。 もっと古くは,奈良時代のころに,笹下の天照大神の社のあたりに久良岐郡郡衙という役所が置かれたともいわれているのじゃ。 そこで武士を廃止した明治政府は,二十歳になった男子を兵隊にする制度にしたので,徴兵検査に来る者や「役所に用事があって来る者などがつめかけにぎやかになったのじゃ。 それにつれて,日用品・雑貨品・料理店・旅館・床屋・人力者屋・運送屋などで大いににぎわい,往来する人が“オシッコ”をするので道ばたの田んぼの稲は穂を付けなかったと言うことじゃった。 このあたりの家は,屋号で呼んだものじゃ。「まんじゅう屋・ざる屋・とうふ屋・せんべい屋・下駄屋・石川屋」などなどじゃよ。 それは,当時の久良岐郡は横浜駅あたりから金沢へかけての広い区域,その中心で関の村が栄えていたのは「かまくら道」や「かねさわ道」の中心でもあったからじゃよ。 もう一つ,おもしろい話もあるのじゃよ。 昭和の初めごろ,日下小学校の移転問題があった時に,市の教育課長から電報が届いたのじゃ。なにしろ電話が少ない昔のことじゃからのう。 「アスユカレヌキョウイクカチョウ」 さあたいへん,あすの約束じゃが教育課長が今日来るという。あわてて関係者を集めた。待てどくらせどいっこうに来ないのじゃ。 役員がようすを見に役所に自転車を飛ばし,事の訳を話すと,いやいや,それは, 「アスユカレヌ・・・」のヌに「,」をつけると「あす行かれぬ,教育課長」という意味になる。一同,合点するやらがっかりするやら,大笑いしながら解散したのじゃと。 それに「港南の桜」の話もあるのじゃよ。 港南区役所横の「桜道入り口」から,公園墓地裏門までの千二百メートルの桜道と,笹下・釜利谷道路から七百メートルの関坂,合わせて千九百メートルに桜の木が植えられ,桜の名所になったのじゃ。 横浜が大きな街になり,人口もどんどん増え,それにつれて必要になった手ごろの墓地としてここが選ばれ,昭和六年に山を上手に利用して,ここに墓地を造ることになったのじゃよ。 墓地への参道にあたる土地を持っている農家が,参道用地を市へ寄付し,昭和八年日野公園墓地が完成したんじゃ。 この完成記念の一つとして,地元の町内会や当時活発に活動していた青年団が,活動の一つとして,桜道,関坂の参道にソメイヨシノの桜の苗木を植えることにしたのじゃ。 両参道に植える予定じゃったが,桜道側を植え終わり,関坂側を上から植えていくと,坂の途中で苗が足りなくなって,とうとうそこで終わってしまったのじゃ。桜並木が下からつながっていないのは,そのためなんじゃよ。 この桜の木も,ことしでちょうど六十歳の年齢を迎えることになりますのじゃが,その間にいろいろのことがあったんじゃ。 太平洋戦争中は,食程増産に木陰がじゃまだと言われたり,燃料不足を補うために切り倒されそうになったり,近年になっては,交通妨害だ,日照権だ,とじゃま者扱いされてきたが,地元の理解や保存活動のおかげで「港南の桜まつり」も行われたりして,いまでも見事なお花見ができるんじゃ。 いま関坂交差点の角に建っている「横浜名所 港南の桜」と刻まれた記念碑の石は,もと笹下神明社の鳥居を活用したものでな。地域の方々の努力の跡をうかがうことができるというものじゃ。
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「港南郷土史散策の会」は平成18年7月からの野庭地区センタ-で開催された「タイムスリップ港南の旅」が機会で、馬場久雄先生のご協力で、もっと深く郷土史を知りたい、との思いの受講者有志で発足しました。 毎月1回(原則として第1木曜日)午前中に開催しています。
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港南歴史散策の会では、平成13年10月6日(土)に第1回目として、上大岡西側の大久保地域の散策を行いました。 平成16年5月1日(土)に同じコ-スを第29回歴史散策会として歩きました。その時の記録です。
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「港南百景デジタルア-カイブ会」は平成19年(2007)にITを活用して、港南区内の歴史・文化財の保存に関わる活動を目的に発足しました。 主な活動は、○現在の景観、過去の景観等の写真展の開催。 ○文化財、史料(古写真)等をデジタル化し、保存する。 ○これ等資料を活用して、歴史講座の開設。 等です。 平成22年度、区民企画講座「こうなんの歴史講座」の運営を支援しています。 平成22年度、第5回「こうなんの歴史講座」 テ-マ:貞昌院に伝わる「天神おみくじの」 日 時:12月18日(土)10時~12時 場 所:貞昌院 客殿 講 師:亀野哲也 貞昌院副住職 さん 詳しくは、下記の 貞昌院亀野さんのHPをご覧下さい。 区民企画講座2010@貞昌院 天神おみくじ ◇ 平成22年度、第4回「こうなんの歴史講座」 テ-マ:「松ヶ崎古墳とふじやま公園の見学」 日 時:11月20日(土)10時~12時 場 所:港南台タウンカフェ(集合)→松ケ崎古墳→ふじやま公園 案内ガイド:寺田宏子さん(歴史に学ぶ港南台の会) 特別ガイド:馬場久雄先生(港南歴史協議会会長) *「松ヶ崎古墳」については、下記のペ-ジをご覧下さい。 松ヶ崎横穴古墳群の現状 ◇ 平成22年度、第2回「こうなんの歴史講座」 テ-マ:「日下小学校資料館見学と日下・打越地域の歴史散策」 日 時:9月18日(土)10時~12時 場 所:日下小学校 資料会(集合)→成就院(笹下城跡)→東福寺→笹下中央公園(北見掃部の墓)→川島の取水堰→久良岐郡役場跡 案内ガイド:北見繁男さん(日下小学校資料館長) 隅田和夫さん 中田房子さん 福田純直さん(楽遊クラブ) 港南台タウンカフェで開催の写真展 第5回「こうなんの歴史講座」を行いました。 テ-マ:「大久保地域の歴史話」 日 時:11月21日(土)10時~12時 場 所:港南台タウンカフェ 講 師:自性院 住職 山本邦法さん 大久保地区には50年前まで「久保池」があり、そこでは地域の子供達が泳いだり、釣りをして楽しみました。 自性院に伝わる「勘九郎地蔵の話」等、大久保地域に纏わる歴史話をご紹介されました。 第4回「こうなんの歴史講座」を行いました。 テ-マ:「日野・港南台の昔話し」 日 時:10月17日(土)10時~12時 場 所:港南台タウンカフェ 講 師:寺田伊佐武さん 日野の人達の小遣い稼ぎが、「ウサギ狩り」「山百合取り」だったとは、驚きです。 日野の「萱場は3ケ所」その萱で屋根ふきを夫々の地域30軒で輪番制で行っていました。従って、夫々の家ではほぼ30年に一度の屋根の葺き替えになります。 第3回「こうなんの歴史講座」を行いました。 テ-マ:東海道線は鎌倉街道を通る計画だった! (東海道線の開通に至る間の秘話の紹介です) 日 時:9月19日(土)10時~12時 場 所:港南台タウンカフェ 第2回「こうなんの歴史講座」は開校後138年の歴史がある日野小学校の資料室の見学会を行いました。 日野小学校 資料室には 日野地域の人達が昔使っていた教科書・民具や農機具が保管されています。 ご案内は日野町内会の皆さんにお願いいたしました。 その際に日野小学校に保管されている古写真のスライドショ-も実施いたしました。 日 時:7月18日(土)午前10~12時 今年度の区民企画講座「こうなんの歴史」講座を6月20日(土)より開講しました。 第1回は「永谷天満宮の昔話し」を永谷天満宮 松本正昭宮司さんに、永谷天満宮に纏わる歴史等のお話を伺いました。 20区民企画講座チラシ こうなんの歴史.pdf 詳細は下記のPDF版のチラシをご覧願います。 永谷天満宮の歴史 チラシ .pdf 5月16日(土)に開催したプレ講座「港南区内の街道の歴史」の記録です。 港南区内の街道地図です。 港南区内の街道地図 文書2.pdf 武蔵・相模の国の古道 港南百景
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幕府隠密の村、松本 (港南) 港南中学校のうら手の高台に、正覚寺という古いお寺があります。六十六の石段をのぼって行ってみますと、そこはもう四方八方が見渡せる眺めのよい所です。 むかしは、このお寺の近くに大きな松の木があったそうで、いまの港南一丁目から六丁目を中心に、この辺一帯を松本村とよんだということです。 この「松本」という名前には、大さな松の木があったというだけでなく、ある秘密がかくされていたというのです。 時は今から四百年ほど前のこと、正覚寺という寺の近くにある、巨大な松の老樹の上から、ひとりの隠密が身をひそめながら 「ボアー、ボアー」 とホラ貝を吹きました。 すると、どこからともなく、幾人かのさむらいが、この松の木めがけて集まってくるのでした。 このさむらい達は、徳川ゆかりの者たちです。実は、このあたりは、徳川と戦った旧小田原北条氏の重要な拠点で、相模衆十四家と呼ばれた間宮氏の支配地に近い場所でした。 この間宮一族は、十四家の中でもひときわ才たけた、力のある武士の集団でした。この間宮一族の中には、小田原が落城したあとに徳川家康の家臣となった者もおりました。 しかし、家康は、この者たちは、いつ謀反をおこすかわからないと思い、身分の低い武士たちに農地を与え、常に一族の動きを監視させていたのです。 ホラ貝の合図で、松の根方に集まってきたのは、こうした隠密たちだったというのです。「松本」という村の名前には、そんなわけがあったというのです。「松本」という地名は港南の他にもいくつかありますが、何らかの関係があるのかもしれません。 また、松本は、徳川の旧姓松平からとったもので、徳川とかかわりの深い所につけられた名前だという説もあるようです。 現在、正覚寺付近には、目印になっていたという松の巨木はありませんが、西松本、東松本という名前の町内があるのは、この名残りかもしれませんね。 ----
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室の木と富士塚 (港南) みなさんは、葦という植物を知っていますか。水辺に生える多年草で、茎はすだれなどの材料になり、別名をよしともいいます。 そのむかし、日野川はよく氾濫し、河原はよしでおおわれていました。これが、鎌倉街道にある「吉原」という地名の由来です。 区役所から、南高校の方に坂をのぼって行くと、相武山小学校につきあたります。その辺りは武蔵国と相模国の境で、「室の木」が植えられていました。 「室の木」は、ねずともいわれ、高い木で冬でも緑の葉をつけているため、目印になったようです。今は、その木はありませんが、地名として、坂やバス停、また、公園や幼椎園の名前に使われています。 吉原村の北のはずれの一番高いところ、すなわち、室の木の近くには、富士塚がありました。富士塚には、富士浅間宮と彫られた、石の供養塔が置かれていました。上部には、仏さまが、下部には、二匹の猿が、向きあって手を合わせている姿が彫られています。これは、とても珍しいものだそうです。 江戸時代には、厳しい身分制度があり、農民は重い年貢に苦しみました。また、大雨が降ると日野川はすぐにあふれて、田畑を流し、あすの食べ物にも困りました。そして、疫病がはやって大勢の人がなくなり、悲しみに暮れました。 それらを支える信仰として、富士山に登る人が多くいました。白装束を身につけて、富士塚に旅の安全を祈願してから出かけました。また、富士山まで行かれない人は、この富士塚を拝んで、そのかわりとしました。昔は、村と村、国と国との境に、よそから悪霊が入らないようにするために、このような石塔や石仏を建立し、また樹木などを植えて境や道標の役目をもたせていました。 また、疫病などを境で塞ぐ「塞の神」や、旅の道中の安全を守る「道祖神」もよくまつられています。相模の国だった永谷には、男と女の神様が仲良く並んだ姿を石に刻んだ、珍しい道祖神塔がまつられています。 近年、富士塚は住宅地になり、石塔は日野二丁目五十四番の、小高く木の茂っているところに移されました。 「ざんげ、ざんげ」が「さわげ」になって、いまの港南区と磯子区の間にある坂道を「さわげ坂」、そのせまい谷を「さわげ谷」といい「さわがや」(沢ケ谷)になったといいます。
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幕府隠密の村、松本 (港南) bgsound 港南中学校のうら手の高台に、正覚寺という古いお寺があります。六十六の石段をのぼって行ってみますと、そこはもう四方八方が見渡せる眺めのよい所です。 むかしは、このお寺の近くに大きな松の木があったそうで、いまの港南一丁目から六丁目を中心に、この辺一帯を松本村とよんだということです。 この「松本」という名前には、大さな松の木があったというだけでなく、ある秘密がかくされていたというのです。 時は今から四百年ほど前のこと、正覚寺という寺の近くにある、巨大な松の老樹の上から、ひとりの隠密が身をひそめながら 「ボアー、ボアー」 とホラ貝を吹きました。 すると、どこからともなく、幾人かのさむらいが、この松の木めがけて集まってくるのでした。 このさむらい達は、徳川ゆかりの者たちです。実は、このあたりは、徳川と戦った旧小田原北条氏の重要な拠点で、相模衆十四家と呼ばれた間宮氏の支配地に近い場所でした。 この間宮一族は、十四家の中でもひときわ才たけた、力のある武士の集団でした。この間宮一族の中には、小田原が落城したあとに徳川家康の家臣となった者もおりました。 しかし、家康は、この者たちは、いつ謀反をおこすかわからないと思い、身分の低い武士たちに農地を与え、常に一族の動きを監視させていたのです。 ホラ貝の合図で、松の根方に集まってきたのは、こうした隠密たちだったというのです。「松本」という村の名前には、そんなわけがあったというのです。「松本」という地名は港南の他にもいくつかありますが、何らかの関係があるのかもしれません。 また、松本は、徳川の旧姓松平からとったもので、徳川とかかわりの深い所につけられた名前だという説もあるようです。 現在、正覚寺付近には、目印になっていたという松の巨木はありませんが、西松本、東松本という名前の町内があるのは、この名残りかもしれませんね。
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こうなんちゅうおう 横浜市交通局 神奈川県横浜市港南区港南中央通 横浜市営地下鉄ブルーライン 上大岡←→上永谷