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https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島《ワタリジマ》に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。 「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といい、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸《シチノヘ》および斗南《トナミ》の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後|二戸《ニノヘ》郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。 「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著わる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。 「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦いこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用うるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣わし、秀吉の陣を犒い、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従い、西上して大垣に戦い、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。 「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平《ヒラ》川及び東より来る浅瀬石《アサセイシ》川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随って幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出ず。 [#地から2字上げ](以上、日本百科大辞典に拠る) 津軽の歴史は、あまり人に知られていない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思っている人さえあるようである。無理もない事で、私たちの学校で習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった。すなわち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」というような文章があって、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それっきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だったようだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのようで、日高見国というのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらい経って大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依って、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝えられているだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になって、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城《いざわじょう》(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやって来なかったようである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担していたとかいう事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といえば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教えられているばかりである。この前九年後三年の役だって、舞台は今の岩手県・秋田県であって、安倍氏清原氏などの所謂|熟蝦夷《ニギエゾ》が活躍するばかりで、都加留《ツガル》などという奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されていなかった。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依って奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちょっと立って裾をはたいて坐り直したというだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言われても、仕方の無いようなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだというのは、まことに心細い。いったい、その間、津軽では何をしていたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせていただけの事なのか。いやいやそうではないらしい。ご当人に言わせると、「こう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」というようなところらしい。 「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥《むつ》州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であった。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となった。その『みち』の国の名を、古い地方音によって『むつ』と発音し、『むつ』の国となった。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であったから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。 次に出羽は『いでは』で、出端《いではし》の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越《こし》の国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥《みちのく》と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端《いではし》と言ったのであろう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であったことを、その名に示している。」というのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされていたのだから、その極北の津軽半島などに到っては熊や猿の住む土地くらいに考えられていたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能わず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従うべきことを命ずるのやむを得ざる程であった。随って最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があったと見えて、土豪|安東《あんどう》氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。」というような事を記している。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかって来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしていただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残ってしょんぼりしているアイヌとは、根本的にたちが違っていたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめている程であるとも言われ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随って石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達しているのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になってしまった。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のように論断しているようである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡って来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇の天平十八年(一四〇六年)及び光仁天皇の宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行われたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀った神社があったらしいのは、いずれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行われたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡って見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考えて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依って得たる文華の程度が、不充分なる中央に残った史料から推定する如く、低級ではなかったことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であったのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかったと考えて、はじめて氷解するのである。」 そうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷《えみし》、東人《あずまびと》、毛人《けびと》などと名乗ったのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいという意味もあったのではなかろうかと考えてみるのも面白いではないか、というような事も言い添えている。こうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしていたわけでは無かったようでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういうものか、さっぱり出て来ない。わずかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子|高星《たかぼし》の後と称し、その遠祖は長髄彦《ながすねひこ》の兄|安日《あび》なりと言っている。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となったというのである。いずれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であったに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だったと伝えられているのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂わゆる守護不入の地となっていたことを語ったものであろう。 鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到って、幕府の執権北条高時、将を遣わしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能わず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」 さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当っては、少し自信のなさそうな口振りである。まったく、津軽の歴史は、はっきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦い、負けた事が無いというのは本当のようだ。服従という観念に全く欠けていたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞わせていたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似ている。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言い合い格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となってやがては元弘の変となり、建武の中興となった。」とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数えられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つという事になって、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言わなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部《ぬかのぶ》と称する蝦夷地であったが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢い頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争い、津軽に於いては安東氏のかわりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したというのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となった。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称している。しかし一方では南部氏の分れであるといい、或いは藤原基衡の次男|秀栄《ひでしげ》の後だとも、或いは安東氏の一族であるかの如くにも伝え、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言っている。また、竹内運平氏もその事に就いて次のように述べている。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあったのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加われるものである、と主張する事等から起って居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であったから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思う。なお、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めているが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取って居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云い、近来出版になった読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いように思う。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあっても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云えない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けている。それを簡明直截に疑わず規定しているのは、日本百科大辞典だけであったから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。 以上くだくだしく述べて来たが、考えてみると、津軽というのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもい胸にふさがりて」と書いてあるが、それだって北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。そうして、その青森県の日本海寄りの半島たった一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下ってせいぜい深浦あたり迄、そうして南は、まあ弘前迄といっていいだろう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがった所謂文化的な気風も育成せられているようだから、これは除いて、そうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらいに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかったのも無理はないと思われて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やっぱりまだ船が出そうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまっすぐに蟹田のN君の家へ帰って来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかえて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなっていた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があって山中には路らしい路も無いような有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居《じょい》という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。 「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。 私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思っていますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思っていますから、その折にはよろしくお願いします、というような葉書を嫂に差上げていたのである。 「一週間ほど前です。東海岸で、手間どってしまいました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知っている筈だった。 「そう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配していました。陽子や光《みっ》ちゃんなどは、とても待って、毎日交代に停車場へ出張していたのですよ。おしまいには、怒って、もう来たって知らない、と言っていた人もありました。」 陽子というのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちょいちょい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやって来ていたのである。光ちゃんというのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝いに来ている素直な子である。その二人の姪が、からみ合いながら、えへへ、なんておどけた笑い方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。 「おかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑った。 「ばか。これが、東京のはやりさ。」 嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。 「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言う。元気な人だったが、でも、さすがに少し弱って来ているようにも見えた。 「どうしますか。」と嫂は私に向って、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんないるんですけど。」 陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめている様子である。 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらい打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかっていない。 「お差支えなかったら、二階へ行きましょうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでいるのも、いじけているみたいで、いやらしい事だと思った。 「どちらだって、かまいませんよ。」嫂は笑いながら、「それじゃ、二階へお膳を。」と光ちゃんたちに言いつけた。 私はジャンパー姿のままで二階に上って行った。金襖の一ばんいい日本間《にほんま》で、兄たちは、ひっそりお酒を飲んでいた。私はどたばたとはいり、 「修治です。はじめて。」と言って、まずお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言って、ちょっと首肯いたきりだった。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言っていいかも知れない。私は慣れているので平気でお膳について、光ちゃんと嫂のお酌で、黙ってお酒を飲んでいた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐って、もうだいぶお顔が赤くなっている。兄たちも、昔はお酒に強かったようだが、このごろは、めっきり弱くなったようで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互いゆずり合っている。外ヶ浜で荒っぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のようで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。 「蟹は、どうしましょう。あとで?」と嫂は小声で私に言った。私は蟹田の蟹を少しお土産に持って来たのだ。 「さあ。」蟹というものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちょっと躊躇した。嫂も同じ気持だったのかも知れない。 「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまいませんよ。持って来なさい。ナプキンも一緒に。」 今夜は、長兄もお婿さんがいるせいか、機嫌がいいようだ。 蟹が出た。 「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まっさきに蟹の甲羅をむいた。 私は、ほっとした。 「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気そうな笑顔で私に言った。はっと思った。無理もないとすぐに思い直して、 「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑いながら答えたが、しょげてしまって、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかったかしら、と卑屈に気を使って、次兄の顔色を伺ったが、次兄は知らん顔をしているので、取りつく島も無かった。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちゃんに、こんどはビールをお酌させた。 金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。 翌る日は、雨であった。起きて二階の長兄の応接間へ行ってみたら、長兄はお婿さんに絵を見せていた。金屏風が二つあって、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいった閑雅な風景が画かれている。私は落款を見た。が、読めなかった。 「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。 「スイアン。」と兄は答えた。 「スイアン。」まだわからなかった。 「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにそう言って、「百穂のお父さんです。」 「へえ?」百穂のお父さんもやっぱり画家だったという事は聞いて知っていたが、そのお父さんが穂庵《すいあん》という人で、こんないい絵をかくとは知らなかった。私だって、絵はきらいではないし、いや、きらいどころか、かなり通《つう》のつもりでいたのだが、穂庵を知らなかったとは、大失態であった。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言ったなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかったのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になってしまった、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、 「秋田には、偉い人がいます。」とお婿さんに向って低く言った。 「津軽の綾足《あやたり》はどうでしょう。」名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあって、私は、おっかなびっくり出しゃばってみた。津軽の画家といえば、まあ、綾足くらいのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持っている綾足の画を見せてもらって、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がいたという事を知った次第なのである。 「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないような口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立って屏風の絵を眺めていたのだが、兄が坐ったので、お婿さんもそれと向い合った椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。 「この人などは、まあ、これで、ほんすじでしょうから。」とやはりお婿さんのほうを向いて言った。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。 そう言えば、綾足のぼってりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちそうな不安もある。 「文化の伝統、といいますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やっぱり、秋田には、根強いものがあると思います。」 「津軽は、だめか。」何を言っても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑いながらひとりごとを言った。 「こんど、津軽の事を何か書くんだって?」と兄は、突然、私に向って話しかけた。 「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでしょうか。」 「さあ、」と兄は笑い、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」 「津軽名所案内といったような極く大衆的な本でも無いでしょうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」 「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたように苦笑しながら首を振って、それから立ち上ってお婿さんに、 「それじゃあ、わたしは農会へちょっと行って来ますから、そこらにある本でも御覧になって、どうも、きょうはお天気がわるくて。」と言って出かけて行った。 「農会も、いま、いそがしいのでしょうね。」と私はお婿さんに尋ねた。 「ええ、いま、ちょうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知っている。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかった。 「僕などは、いままで米の事などむきになって考えた事は無かったようなものなのですが、でも、こんな時代になって来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のように一喜一憂して眺めているのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植えもおくれるんじゃないでしょうか。」私は、れいに依って専門家に向い、半可通を振りまわした。 「大丈夫でしょう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考えて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のようです。」 「そうですか。」と私は、もっともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのう汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕というんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかえすあれを、牛に挽かせてやっているのがずいぶん多いようですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するという事は、ほとんど無かったんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行った時、牛が荷車を挽いているのを見て、奇怪に感じた程です。」 「そうでしょう。馬はめっきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないという関係もあるでしょうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もっともっと駄目かも知れません。」 「出征といえば、もう、——」 「僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかえされて、面目ないんです。」健康な青年の、くったくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かえされたくないと思っているんですが。」自然な口調で、軽く言った。 「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るような、隠れた大人物がいないものでしょうか。」 「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言われている人の中に、ひょっとしたら、あるんじゃないでしょうか。」 「そうでしょうね。」私は大いに同感だった。「僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいったような痴《こけ》の一念で生きて行きたいと思っているのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあって、常識的な、きざったらしい事になってしまって、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレッテルをはられると、だめになりはしませんか。」 「そう。そうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひっぱり出して講演をさせたり何かするので、せっかくの篤農家も妙な男になってしまうのです。有名になってしまうと、駄目になります。」 「まったくですね。」私はそれにも同感だった。「男って、あわれなものですからね。名声には、もろいものです。ジャアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になったとたんに、たいてい腑抜けになっていますからね。」私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、そうは言っても、内心では有名になりたがっているというような傾向があるから、注意を要する。 ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変っていない感じであった。こうして、古い家をそのまま保持している兄の努力も並たいていではなかろうと察した。池のほとりに立っていたら、チャボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかった。どこがいいのか、さっぱり見当もつかなかった。名物にうまいものなし、と断じていたが、それは私の受けた教育が悪かったせいであった。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与えられていたか。森閑たる昼なお暗きところに蒼然たる古池があって、そこに、どぶうんと(大川へ身投げじゃあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教えられていたのである。なんという、思わせぶりたっぷりの、月並《つきなみ》な駄句であろう。いやみったらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠していたのだが、いま、いや、そうじゃないと思い直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなってしまうのだ。余韻も何も無い。ただの、チャボリだ。謂わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしている。謂わば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まずしいものの、まずしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、こう来なくっちゃ嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にこう書いた。 「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味《み》。古池や、無類なり。」 翌る日は、上天気だった。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負って、四人で、金木町から一里ほど東の高流《たかながれ》と称する二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行った。アヤ、と言っても、女の名前ではない。じいや、という程の意味である。お父さん、という意味にも使われる。アヤに対する Femme は、アパである。アバとも言う。どういうところから、これらの言葉が起って来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずっぽうしてみたってはじまらない。諸家の諸説がある事であろう。高流という山の名前も、姪の説に依ると、高長根《たかながね》というのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがっているさまが、さながら長根の感じとか何とかという事であったが、これにもまた諸家の諸説があるのであろう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取っているので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。よい天気である。津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも、「昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて逢う事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。」としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立って町はずれまで歩いて来たが、高流へ行く路がわからない。小学校の頃に二、三度行った事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思ったが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違っている。私は当惑して、 「停車場や何か出来て、この辺は、すっかり変って、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方に見える、への字形に盛りあがった薄みどり色の丘陵を指差して言った。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしましょう。」とお婿さんに笑いながら提案した。 「そうしましょう。」とお婿さんも笑いながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知っている。 「そうですか。捜してみましょう。」 修錬農場は、その路から半丁ほど右にはいった小高い丘の上にあった。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののようであるが、この本州の北端の原野に、もったいないくらいの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらっしゃった折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になって、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであった。 「へえ? ちっとも、知らなかった。金木には過ぎたるものじゃないですか。」そう言いながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かった。やっぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれているものらしい。 農場の入口に、大きい石碑が立っていて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、という幾重もの光栄を謹んで記しているのである。金木町の人たちは、この農場を、もっともっと誇ってよい。金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであろう。実習地とでもいうのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの作った畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開していた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、 「たいしたものだなあ。」と溜息をついて言った。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであろう。 「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏《いちょう》の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。 「金木も、どうも、わるくないじゃないか。」私は、あわてたような口調で言った。「わるくないよ。」口をとがらせて言っている。 「いいですな。」お婿さんは落ちついて言った。 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いという伝説もあるそうだが、米のほうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のほうは、どうも、心細いように、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせいかも知れない。 「アヤたちは、どうしたでしょうね。」ふっと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行ってしまったんじゃないかしら。」アヤたちの事を、つい忘却しているほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまっていたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻していると、アヤが、思いがけない傍系の野路からひょっこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしていた、と笑いながら言う。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまっすぐにどんどん後を追っかけるようにして行ったという。 「そいつあ気の毒だったな。陽ちゃんは、それじゃあ、ずいぶん遠くまで行ってしまったろうね。おうい。」と前方に向って大声で呼んだが、何の返辞も無い。 「まいりましょう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」 空には雲雀がせはしく囀っている。こうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらいであろうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあったり、小さい沼があったり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だったら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言ってほめたであろう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになったものだと、しみじみ思った。そろそろ、山の登り坂にさしかかっても、まだ姪の姿が見えない。 「どうしたのでしょうね。」私は、母親ゆずりの苦労性である。 「いやあ、どこかにいるでしょう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。 「とにかく、聞いてみましょう。」私は路傍の畑で働いているお百姓さんに、スフの帽子をとってお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマがとおりませんでしたか。」と尋ねた。とおった、という答えである。何だか、走るように、ひどくいそいでとおったという。春の野路を、走るようにいそいで新郎の後を追って行く姪の姿を想像して、わるくないと思った。しばらく山を登って行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑いながら立っていた。ここまで追っかけて来てもいないから、あとから来るのだろうと思って、ここでワラビを取っていたという。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸《はつたけ》、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「敷《し》かさっているほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるという。 「陽ちゃまは、きのこ取りの名人です。」と言い添えた。また、山を登りながら、 「金木へ、宮様がおいでになったそうだね。」と私が言うと、アヤは、改まった口調で、はい、と答えた。 「ありがたい事だな。」 「はい。」と緊張している。 「よく、金木みたいなところに、おいで下さったものだな。」 「はい。」 「自動車で、おいでになったか。」 「はい。自動車でおいでになりました。」 「アヤも、拝んだか。」 「はい。拝ませていただきました。」 「アヤは、仕合せだな。」 「はい。」と答えて、首筋に巻いているタオルで顔の汗を拭いた。 鶯が鳴いている。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いている。背の低い柳、カシハも新芽を出して、そうして山を登って行くにつれて、笹がたいへん多くなった。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言いたいくらいのものであった。私たちは立ちどまって、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。 「これが頂上か。」私はちょっと気抜けして、アヤに尋ねた。 「はい、そうです。」 「なあんだ。」とは言ったものの、眼前に展開している春の津軽平野の風景には、うっとりしてしまった。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光って見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のように鈍く光っているのは、田光《たっぴ》沼であろうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがっているのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三|潟《がた》と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合いて大湖となる。しかも各河川固有の色を失わず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらいのものだという。水は、海水の流入によって鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでいるという。湖が日本海に開いている南口に、十三という小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であったという説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいう話であるが、いまはその一片の面影も無いようである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはいる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさっと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。 「これはいい。僕だったら、ここへお城を築いて、」と言いかけたら、 「冬はどうします?」と陽子につっ込まれて、ぐっとつまった。 「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。 山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかった。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。 「蛇!」 お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかえて腰をうかした。 「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言った。「あの岩壁に這い上ろうとしているのです。」奔湍から首をぬっと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によじ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるようにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上った。一間ばかりの木の枝を持ち、黙って走って行って、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやった。私たちは眼をそむけ、 「死んだか、死んだか。」私は、あわれな声を出した。 「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にほうり投げた。 「まむしじゃないか。」私は、それでも、まだ恐怖していた。 「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」 「まむしも、この山にいるのかね。」 「はい。」 私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。 アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずって来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひょいと対岸に飛び移った。そうして、対岸の山の絶壁によじ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めている様子である。 「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくったって、他のところにもたくさん生えているのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきっと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかそうという魂胆に違いない。」 「そうよ、そうよ。」と姪も大笑いしながら、賛成した。 「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」 「はい。」とアヤは答えて、するすると崖から降りた。私は、ほっとした。 帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負った。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまわない子であった。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めっきり無口になってしまった。山から降りたら、郭公が鳴いている。町はずれの製材所には、材木がおびただしく積まれていて、トロッコがたえず右往左往している。ゆたかな里の風景である。 「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言った。 「そうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。 私は急にてれて、 「いやあ、僕なんかには、何もわかりゃしませんけど、でも、十年前の金木は、こうじゃなかったような気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のように見えました。いまのようじゃなかった。いまは何か、もりかえしたような感じがします。」 家へ帰って兄に、金木の景色もなかなかいい、思いをあらたにしました、と言ったら、兄は、としをとると自分の生れて育った土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思われて来るものです、と答えた。 翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はって、金木の東南方一里半くらいの、鹿の子川溜池というところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といういでたちであった。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとって、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかった。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来ていて、甚だ歩きにくかった。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いていた。お天気がよすぎると、旅人はぐったりなって、かえって意気があがらぬもののようである。 「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまって説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思わせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱している。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言っているほどの大洪水がこの金木町を襲ったのである。 「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言って、アヤは悲しそうな顔をした。 「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のようだったろうね。」 「海のようでした。」 金木川にわかれて、こんどは鹿《か》の子川に沿うてしばらくのぼり、やっと森林鉄道の軌道から解放されて、ちょっと右へはいったところに、周囲半里以上もあるかと思われる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛えている。この辺は、荘右衛門沢という深い谷間だったそうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作ったのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれていた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出しているので、所謂天然の荘厳を欠いてはいるが、しかし、金木という一部落の力が感ぜられ、このような人為の成果というものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おっちょこちょいの旅の批評家は、立ちどまって煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめていた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、 「ここがいい。この辺がいい。」と言って池の岬の木蔭に腰をおろした。「アヤ、ちょっと調べてくれ。これは、ウルシの木じゃないだろうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだろう。ウルシの木ではないと言う。 「じゃあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑っていたが、私は真面目であった。それも、ウルシの木ではないと言う。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしゃべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山というところへ行って、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまっさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」という唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいう海岸生れの子供の歌をうたうのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であった。そうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝って、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使った神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言われたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばって、まず袴と靴をぬがせられ、草履、といっても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履という、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがわれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあずけ、とうとう病人用として学校で傭って行った荷車に載せられ、家へ帰った時の恰好ったら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑わせていると、 「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。 「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走って迎えに行った。やがて、兄は、ピッケルをさげて現われた。私はありったけのビールをみな飲んでしまっていたので、甚だ具合がわるかった。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行った。バサッと大きい音がして、水鳥が池から飛び立った。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合った。雁だか鴨だか、口に出して言えるほどには、お互い自信がなかったようなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違いなかった。深山幽谷の精気が、ふっと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙って歩いている。兄とこうして、一緒に外を歩くのも何年振りであろうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸くして黙って歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があったけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されているとは思わない。一生、だめかも知れない。ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これっきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思った。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝という、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁《へり》に沿うた幅一尺くらいの心細い小路を歩いているのであって、右手はすぐ屏風を立てたような山、左手は足もとから断崖になっていて、その谷底に滝壺がいかにも深そうな青い色でとぐろを巻いているのである。 「これは、どうも、目まいの気味です。」と嫂は、冗談めかして言って、陽子の手にすがりついて、おっかなそうに歩いている。 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いている。兄はピッケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇っている箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけている。路は次第に下り坂になって、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひょいひょいと二歩で飛び越せるようになっている。ひとりひとり、ひょいひょいと飛び越した。嫂が、ひとり残った。 「だめです。」空言って笑うばかりで飛び越そうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。 「おぶってやりなさい。」と兄は、アヤに言いつけた。アヤが傍へ寄っても、嫂は、ただ笑って、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根っこを抱きかかえて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちょっと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やっと半分くらい渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じゃぶじゃぶと水の中を歩いて渡ってしまった。モンペの裾も白足袋も草履も、びしょ濡れになった様子である。 「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさっきの高山へ遠足してみじめな姿で帰った話をふと思い出したらしく、笑いながらそう言って、陽子もお婿さんも、どっと笑ったら、兄は振りかえって、 「え? 何?」と聞いた。みんな笑うのをやめた。兄がへんな顔をしているので、説明してあげようかな、とも思ったが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまって「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かった。兄は黙って歩き出した。兄は、いつでも孤独である。 [#5字下げ][#中見出し]五 西海岸[#中見出し終わり] 前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行った事がない。高山というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行き車力《しゃりき》という人口五千くらいのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものだそうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残っているくらいのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまっている。この機会に、津軽の西海岸を廻ってみようという計画も前から私にあったのである。鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、木造《きづくり》駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見て置きたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どっどっと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。また自作の「思い出」の中の一節を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論それは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟うと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言っていいくらいのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないから淋しいなどと思った事はいちども無かったのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼な忖度をしてみるようになって、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしていたのだという事がわかり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなって来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の死歿を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考えるようになった。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考えている。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見て置きたいと思っていたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造《きづくり》のポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでいた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、華奢で頗る美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言うまい。こんな話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足音も無くのこのこ歩いているうちに春の温気《うんき》にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造《もくぞう》警察署と読んで、なるほど木造《もくぞう》の建築物、と首肯き、はっと気附いて苦笑したりなどした。 木造《きづくり》は、また、コモヒの町である。コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積った時に、家と家との聯絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐っている人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒというのは、小店《こみせ》の訛りであると一般に信じられているようだが、私は、隠瀬《このせ》あるいは隠日《こもひ》とでもいう漢字をあてはめたほうが、早わかりではなかろうか、などと考えてひとりで悦にいっている次第である。そのコモヒを歩いていたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとおり過ぎて、やはりコモヒをまっすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考えた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒというものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依って貫通せられているといったようなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまった。しばらく歩いて、ようやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Mの家に行った事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあったかも知れないが、いまの私の記憶には何も残っていない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちょいちょい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たずねて行っても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑って声をかけたら、Mさんはぎょっとして、こいついよいよ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか、などと思やすまいか。死ぬまえにいちど、父の生れた家を見たくて、というのも、おそろしいくらいに気障《きざ》だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言えたもんじゃない。いっそこのまま帰ろうか、などと悶えて歩いているうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。 「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」 「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」 「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」 この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。Mさんは、何かと私をもてなそうとする。 「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」 「深浦へ? 何しに?」 「べつに、どうってわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。」 「書くのか?」 「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるような事は言えなかった。 「じゃあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだったらね、」とMさんは、少しもこだわるところがなく、「まず第一に、米の供出高を書いてもらいたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言っても、差支え無いと思う。この辺一帯の田の、水が枯れた時に、僕は隣村へ水をもらいに行って、ついに大成功して、大トラ変じて水虎大明神という事になったのです。僕たちも、地主だからって、遊んでは居られない。僕は脊髄がわるいんだけど、でも、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどっさり配給されるでしょう。」たのもしい限りである。Mさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであった。子供っぽいくりくりした丸い眼に魅力があって、この地方の人たち皆に敬愛せられているようだ。私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやっと間に合う事が出来た。 木造から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいうものだそうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛え、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼《さかづきぬま》と称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違いない。この辺の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗われている、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、そうもなるのだろうが、外ヶ浜北端の海浜のような異様な物凄さは無く、謂わば全国到るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得の佶屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけているのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである。れいの竹内運平氏は「青森県通史」に於いて、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であったのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したというような記録もあると言っている。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるような気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持っていない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示しているのである。私は、深浦のこのような雰囲気を深浦の欠点として挙げて言っているのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思っている。これは、成長してしまった大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜している。津軽の北部に見受けられるような、子供っぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切っている。ああ、そうだ。こうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきものなるぞ。」などと人の悪口ばかり言って、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑えよ。ルネッサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さえあったではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまっている時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になっているか、一夜しずかに考えて、などというとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行こうではないか。 深浦町は、現在人口五千くらい、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙《すき》をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上って町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた。ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小綺麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向って大あぐらをかき、酒、酒、と言った。お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。 「深浦の名所は何です。」 「観音さんへおまいりなさいましたか。」 「観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言うのか。そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思った。しかるに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、 「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、おばさんも一緒に立ち上り、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、 「あなたは、津島さんでしょう。」と言った。 「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。 「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので。」 「でも、あれは、偽名でもないのです。」 「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。 鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらい、木造、深浦よりも少いような具合で、往年の隆々たる勢力を失いかけているようだ。鰺ヶ沢というからには、きっと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思われるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるようであるから、読者もご存じの事と思うが、鰰、または鱩などという字を書いて、鱗の無い五、六寸くらいのさかなで、まあ、海の鮎とでも思っていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のようである。東京の人たちは、あれを油っこくていやだと言っているようだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあって、一ばん多く食べた人には賞品、などという話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなっているし、それに料理法も知らないだろうから、ことさらまずいものに感ぜられるのであろう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出ているようだし、また、ハタハタの味は淡いという意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされていたものかも知れない。いずれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるという事には間違いない。私は、そのハタハタに依って、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知ってはいたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであった。山を背負い、片方はすぐ海の、おそろしくひょろ長い町である。市中はものの匂いや、とかいう凡兆の句を思い出させるような、妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。川の水も、どろりと濁っている。どこか、疲れている。木造町のように、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかっている、木造町のコモヒのような涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だったが、日ざしを避けて、コモヒを歩いていても、へんに息づまるような気持がする。飲食店が多いようである。昔は、ここは所謂銘酒屋のようなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思われる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言って道を通る人に呼びかけている。ちょうどお昼だったので、私は、そのおそばやの一軒にはいって、休ませてもらった。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であった。おそばのおつゆも、まずくなかった。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行っても、同じような家並が何の変化もなく、だらだらと続いているのである。私は、一里歩いたような気がした。やっと町のはずれに出て、また引返した。町の中心というものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の重《おもし》になっていて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマックスだな、と感じさせるように出来ているものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなかろうかと、れいのドガ式政談さえ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であった。こう書きながら、私は幽かに苦笑しているのであるが、深浦といい鰺ヶ沢といい、これでも私の好きな友人なんかがいて、ああよく来てくれた、と言ってよろこんで迎えてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもって書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑って見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持っていないのだから。 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨年、病気をなさって、それから、こんなに痩せたのだそうである。 「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう。」と、それでも嬉しそうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れているな。」と言って、自分で立って箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。 「これから、ハイカラ町《ちょう》へ行きたいと思ってるんだけど。」 「あ、それはいい。行っていらっしゃい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めっきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思い出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のような随筆を発表した。 「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だったと思います。たしか、左右衛門だった筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供心にも、どういうわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭《あさひ》座という名前が『火《ひ》』の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思い出になりました。」 中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、 「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか。」 すぐそこだという。 「それじゃ、連れて行って。」 けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中にばかりいて、外へ出るのがおっかなくて、外出の時には目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違わず、いま見てもやっぱり同じ様に、長い橋だ。 「いぬいばし、と言ったかしら。」 「ええ、そう。」 「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角の乾《いぬい》だったかな?」 「さあ、そうでしょう。」笑っている。 「自信無し、か。どうでもいいや。渡ってみよう。」 私は片手で欄干を撫でながらゆっくり橋を渡って行った。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似ている。河原一面の緑の草から陽炎がのぼって、何だか眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光って流れている。 「夏には、ここへみんな夕涼みにまいります。他に行くところもないし。」 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑わう事だろうと思った。 「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、川の上流のほうを指差して教えて、「父の自慢の招魂堂。」と笑いながら小声で言い添えた。 なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違いない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立って、しばらく話をした。 「林檎はもう、間伐《かんばつ》というのか、少しずつ伐って、伐ったあとに馬鈴薯だか何だか植えるって話を聞いたけど。」 「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」 大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。 「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいたね。こんど、おむこさんをもらうんだって?」 「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。 「いつ? もう近いの?」 「あさってよ。」 「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるでひと事のように、けろりとしている。「帰ろう。いそがしいんだろう?」 「いいえ、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘で、そうして養子を迎え、家系を嗣ごうとしているひとは、十九や二十の若さでも、やっぱりどこか違っている、と私はひそかに感心した。 「あした小泊へ行って、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言った。「たけに逢おうと思っているんだ。」 「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」 「うん。そう。」 「よろこぶでしょうねえ。」 「どうだか。逢えるといいけど。」 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。以下は、自作「思い出」の中の文章である。 「六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放《つ》けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。 そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆廻りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追ふだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。」 私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと逢ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私にはひどく怨めしかった。それっきり、たけと逢っていない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思い出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といえば、たけを思い出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何のたよりも無かった。そのまま今日に到っているのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持って来ない私の旅費も、そろそろ心細くなっていたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち廻って歩くのも大儀になって来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちょっと立寄ろうという具合に予定を変更して、きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっすぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院しているので、それの附添に行っているというのである。 「あなたが、こっちへ来ているという事を、母はもう知って、ぜひ逢いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と従姉《いとこ》が笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。 「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」 「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。 「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕っていたか知っているようであった。 「でも、逢えるかどうか。」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。 「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いていましたけど、」とけいちゃんは立って、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合いませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないように。」ご自分の大事な日をまるで忘れているみたいであった。一番の八時の汽車で五所川原を立って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるという見込みがついた。日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入違いに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やっと一番の汽車に間に合った。きょうもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になっている。沼が見える。芦の湖という名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。すぐに、中里に着く。人口、四千くらいの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟《うちがた》、相内《あいうち》、脇元《わきもと》などの部落に到ると水田もめっきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言っていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸《かなまる》という親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらいの時であろうか、村のはずれの滝の他には、何も記憶に残っていない。 「修っちゃあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている。私より一つ二つ年上だった筈であるが、あまり老けていない。 「久し振りだのう。どこへ。」 「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢いたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それじゃあ、失敬。」 「そう。帰りには、うちへも寄って下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」 指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立っている。たけの事さえ無かったら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきっと立寄らせていただき、ゆっくり中里の話でも伺ったのに違いないが、何せ一刻を争うみたいに意味も無く気がせいていたので、 「じゃ、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さっさとバスに乗ってしまった。バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立ったままであった。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言われる安東氏一族は、この辺に住んでいて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在ったものらしい。バスは山路をのぼって北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしっかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やっぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂いが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きている。東海岸の竜飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依って以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまいになっているのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のように、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞いもどってこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまったというわけなのである。ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行われた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である。水田は、村のはずれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なようで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。 「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。 「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので。」 「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」私は懸命である。 「ああ、わかりました。その人なら居ります。」 「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」 私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭った。引越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどという事は無い。二、三日あるいはもっと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。私は勢い込んで、 「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも。」 すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと田圃に出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。 「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」 「そうですか。ありがとう。」 教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、その畦道を伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に廻ってみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行われているのだ。まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵《むしろ》で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑っているのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。たしかに、日出ずる国だと思った。国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑いと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思いであった。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公に私はなったような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであった。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。逢えば、わかる。その自信はあったが、この群集の中から捜し出す事は、むずかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しようが無いのである。私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。 「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。 「金物屋の越野。」青年は考えて、「あ、向うのあのへんの小屋にいたような気がするな。」 「そうですか。あのへんですか?」 「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん。」 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざったらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言い、その漠然と指差された方角へ行ってまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かった。とうとう私は、昼食さいちゅうの団欒の掛小屋の中に、ぬっと顔を突き入れ、 「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか。」 「ちがいますよ。」ふとったおかみさんは不機嫌そうに眉をひそめて言う。 「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか。」 「さあ、わかりませんねえ。何せ、おおぜいの人ですから。」 私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔いの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行って水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。この中に、いるのだ。たしかに、いるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁が無いのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上った。また畦道を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そうも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんかどうでもいいような、腹立たしい気持になりゃしないだろうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢いたいのだ。しかし、どうしても逢う事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたずねて来て、すぐそこに、いまいるという事がちゃんとわかっていながら、逢えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それっきりで、あとは無いという事であった。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらいあいだがある。少しおなかもすいて来ている。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入って、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが。」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうは内の者がみな運動会へ行っているので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生《こんじょう》のいとま乞いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。天のたすけ! と勇気百倍、グヮラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあげ、 「ごめん下さい、ごめん下さい。」 「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、 「金木の津島です。」と名乗った。 少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。 「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」 「そう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの。」気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに逢える。もう何が何でもこの子に縋って、離れなけれやいいのだ。 「ずいぶん運動場を捜し廻ったんだが、見つからなかった。」 「そう。」と言ってかすかに首肯き、おなかをおさえた。 「まだ痛いか。」 「すこし。」と言った。 「薬を飲んだか。」 黙って首肯く。 「ひどく痛いか。」 笑って、かぶりを振った。 「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行ってくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか。」 「うん。」と大きく首肯いた。 「偉い、偉い。じゃあ一つたのむよ。」 うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。 「運動会で走ったか。」 「走った。」 「賞品をもらったか。」 「もらわない。」 おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。 「修治だ。」私は笑って帽子をとった。 「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。 たけの頬は、やっぱり赤くて、そうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変っていない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた頃にも締めていたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらったものだという事である。そのせいもあったのかも知れないが、たけは、私の思い出とそっくり同じ匂いで坐っている。だぶん贔屓目であろうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違った気位を持っているように感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしっかりしている。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持っている。私も、いつまでも黙っていたら、しばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。 たけは、ふと気がついたようにして、 「何か、たべないか。」と私に言った。 「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。 「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。 「いいんだ。食いたくないんだ。」 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、 「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って微笑んだ。三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、 「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。 私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上って、 「竜神様《りゅうじんさま》の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。 「ああ、行こう。」 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤の蔓も、這い拡がっている。たけは黙ってのぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。砂山を登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。 「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫《くら》の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺《むがしこ》語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛《め》ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。 「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。 「男? 女?」 「女だ。」 「いくつ?」 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。 底本:「太宰治全集第六巻」筑摩書房 1990(平成2)年4月27日初版第1刷発行 初出:「新風土記叢書7 津輕」小山書店 1944(昭和19)年11月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:八巻美惠 1999年5月21日公開 2018年7月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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■ 支那の歴史 / 「反日・自虐史観を排した歴史年表」より / 支那では、匈奴、鮮卑、契丹、突厥、ウイグル、モンゴル、満洲(女真)など、様々な民族によるまったく異なる王朝の出現、滅亡、戦乱の繰り返した。つまり、歴史に連続性がない。 支那の統一王朝は、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清で、このうち漢民族(支那人)の王朝は漢、宋、明の3つだけである。 +続き 複数の王朝が並立した時代も多く、「天下」はあっても「国家」はない。王朝が変わるたびに領土の範囲もまったく異なった。王朝が変わると前の文化をことごとく破壊しつくし、数千万の単位で人口が激減していた。要するに大虐殺が繰り返されたのである。 支那は有史以来トラブルの絶えない国(地域)である。易姓革命、宮廷内紛、群雄割拠、軍閥内戦、農民蜂起、天災飢餓、難民流出・・・などなど、現在(中華人民共和国)に至るまで支那史では暴力と流血は一日もやむことがない。そうしたなかで、権力者は、内部の敵から銃口を向けられないよう、どうしても外部に国民共通の敵や仮想敵を欲する。大東亜戦争終結後、朝鮮戦争、中印、中ソ、中越と対外戦争を繰り返してきたのもこのため。そして現在、ぴったりの敵として設定されたのが日本の「軍国主義」なのだ。 ■ 人々をウソにまみれた政治(人治)から開放(liberalに)したい 「縦椅子のブログ(2018年12月31日)」より / ーー以下「田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)コラム」より抜粋編集 石平著『中国五千年の虚言史』(徳間書店)より。 ネットから情報を得ているような人は、支那人が歴史を持たない人たちであることはもう常識のようになっている。 しかし、これまで、ネット環境が整備されるまでは、支那4千年の歴史などという話が大真面目に信じられていたのだった。 ーー 例えば1912年の辛亥革命によって滅びた清朝は、第一公用語を女真族の言葉・満州語としており、第二公用語をモンゴル語としていたのである。 その事実は、琉球と清との公文書が満州語(パスパ文字)で記されていることからわかる。 漢文が出現するのは、ようやく第三公用語としてだ。 ーー つまり支那大陸は、さまざまな異民族支配を受けてきた土地なのだ。 その地を異民族が立ち代わり支配し、それぞれの王朝を築いてきたのである。 連続する民族の記録(歴史)など成立するはずがなかった。 (※mono....以下略、詳細はサイト記事で) ■ 中国4000年のおそろしさ――不気味な隣人の素顔 「再生日本21」より / 中国4000年の“抗争と断絶”の歴史 よく「中国4000年の歴史」という。しかしこの4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、もっと言えば血で血を洗う抗争の歴史といってもよいくらいだ。 それを象徴する言葉が「易姓革命」である。易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。天や徳といった言葉が使われているが、実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想なのだ。そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、4000年の歴史と言っても私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。江戸時代の儒学者であり、軍学者であった山鹿素行はその著『中朝事実』においてその点を指摘し、「中国では易姓革命によって家臣が君主を弑することがしょっちゅう起こっている。中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中朝(中華)である」と主張した。素行も説いた中国の抗争と断絶の歴史をさかのぼりながら見ていこう。 清朝は漢族ではなく満州族の王朝 +続き 例えば、今の中華人民共和国の前は、中華民国。その前は清。ここまでは誰もが知っているだろうが、この清朝はいわゆる「中国人」の主流派である漢族の王朝ではない。北方の満州族が打ち立てた王朝なのだ。前述した素行はこの点についてもきちんと指摘していた。この満州族が中国を支配していた清の時代に持ちこんだものの中には、今私たちが中国の伝統的なものと誤解しているものも少なくない。例えばチャイナドレスがそうだ。チャイナドレスは丈の長い詰め襟の衣服だが、あれは元々北方に住む満州族の防風防寒のための衣服だったのだ。 実はこの満州族の王朝である清朝により、「中国」は拡大してほぼ今の「中国」とイコールになった。それまではもっと狭い地域を指していたのだ。少し考えてみれば分かることだが、誰もが知っている世界遺産の万里の長城。あれは外敵の侵入を防ぐために造られたものなのだから、長城の向こう側は「中国」ではなかった。その「中国」ではない地域、満州において1616年に建国した後金(こうきん)国が清の前身である。後金国の首都は遼陽(りょうよう)から後に瀋陽(しんよう)(旧称奉天)に移されたが、つまり遼陽も瀋陽も当時は「中国」ではなかった、「中国」の外にあったのである。後金は1636年に国号を大清に改め、1644年に万里の長城を越えて北京に都を移す。こうして満州族の征服によって、満州から旧「中国」までを含む現「中国」が誕生したのである。 古代、「漢族」は存在しなかった 清の前は、明。明の前は元。これくらいは多くの日本人が知っている。それより前になると、あやしくなる人が多いであろうが、さかのぼって見ていこう。北に金、南に宋の両王朝が併存していたのが、平清盛が日宋貿易を行なった時代である。さらにさかのぼると北宋の時代、五代十国時代となり、その前、6世紀後半から10世紀にかけてが、遣唐使・遣隋使で馴染みのある唐や隋の時代。その前は、南北朝時代、五胡十六国時代、そして『三国志』で名高い三国時代は220年頃から300年頃。その前は、漢字や漢族という言葉の元となる漢王朝で、始まりは紀元前206年にまでさかのぼる。漢は前漢と後漢に分けられるが、前漢を起こしたのが小説や漫画で知られている劉邦である。そして、前漢の前が始皇帝で名高い秦(しん)。東アジアの大陸部に「中国」と呼んでもいい政治的統一体が完成したのは、この秦の始皇帝による統一(紀元前221年)からだ。 「中国4000年の歴史」と言われるが、まだ半分にしか達していない。秦の始皇帝による統一前、いわゆる先秦時代はどういう状態であったかと言うと、「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる黄河中流域の平原地帯を巡って、諸族が争い攻防を繰り返していた。今、諸族と書いたが、読者は「諸族というのは漢族とその他の少数民族のこと?」と思ったかもしれない。そうではない。実は古代中国の時代には「漢族」などという種族は存在しなかったのだ。読者は「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)」という言葉を聞いたことがあるだろう。今、日本人に馴染みのあるのは「南蛮」くらいだが、元々は4つセットで「四夷」と呼ばれる。中国の周り、東西南北に住む野蛮人というような蔑称だ。中華思想を象徴する言葉だが、実は元々、中華に値するのは前述した黄河中流域の中原しかなかった。それ以外に住む種族は、例えば今の北京や上海に住んでいた種族もみな「夷・戎・蛮・狄」であったのである。そればかりではない。先秦時代の王朝として夏(か)・殷(いん)・周の三王朝が中原にあったが、夏は東南アジアの海洋民族(東夷)、殷は北の狩猟民族(北狄)、周は東北チベットの遊牧民(西戎)ではなかったかと言われているし、中国統一を成し遂げたした秦も西戎である。西戎のさらに西、ペルシャ系の遊牧民ではなかったかという説もある。いずれにしても、豊かな都市国家・中原を巡って、文字どおり諸族が入り乱れ、それによって誕生した混血雑種が漢族なのである。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F 征服王朝のすさまじさ 混血という意味では、日本人もそう言える。私たちも学生時代、日本史の授業において、帰化人、あるいは渡来人を学んだ。大陸から多くの血が入ってきているのは間違いない。ただ、日本人と漢族あるいは中国人とが決定的に違うのは、日本人の場合、渡来人は日本に融合していったのに対し、中国人の場合は前述した易姓革命により、抗争と征服を繰り返してきたという点だ。 先に述べた清だけではない。読者もご存知のとおり、元寇で知られる元はモンゴル族の王朝であるし、燕京(現在の北京)に都を置いた金は女真族、後の満州族につながるツングース系言語を話す半農半猟の民であった。中国史における用語として、「征服王朝」という言葉があるが、これは漢族以外の民族によって支配された王朝のことを指す。清や元、金は征服王朝である。 征服王朝のすさまじさの一例を挙げよう。1126年11月、金は宋(北宋)の首都・開封を陥れる。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼ぶ。金はおびただしい金銀財宝とともに、徽宗・欽宗以下の宋の皇族と官僚、数千人を捕らえて満州へ連行し、そこで生涯にわたって悲惨な虜囚生活を送らせた。そればかりではない。この事件で宋室の皇女達(4歳~28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族らの妾にされるか、洗衣院と呼ばれる官営売春施設に送られて娼婦とさせられたのである。 「中国」どころではなく、東アジアから東ヨーロッパまでを支配した大征服王朝の元は、南宋を滅ぼした際、金が北宋に対して行なったようなむごたらしい行為は行なわなかったが、統治においては厳しい身分制度を敷いて徹底的に民族差別を行なった。民族をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。色目人とは色々な目の色をした人の意味で、中央アジア・西アジア出身の異民族、さらにはヨーロッパ人も含む。早くから譜代関係にあったために、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成した。支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%に過ぎなかった。漢人は、金の支配下にあった人々の総称で、淮河以北に居住していた宋代の漢人の子孫の他に、女真人・契丹人・高麗人・渤海人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。そして、一番下の階級である南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。その決まりは細かく、例えばモンゴル人と漢人・南人が争ってモンゴル人が漢人・南人を殴っても、漢人・南人は殴り返してはいけないというような細かいことまで法で定められていた。また、同じ漢族でも、金の支配下にあったか南宋の支配下にあったかで差別しているが、これの基準は中国化しているかしていないかであり、徹底して中国式を抑圧した。私たち日本人からすると、元は遊牧民族が作った中国式王朝のようなイメージがあるが、実際には中国式の要素はほとんどなかった。ただ、「パスパ文字」という独自の文字とともに支配の都合上漢字も使っていたというだけなのだ。 なお、余談になるがこのパスパ文字、ハングルとそっくりである。実は、ハングルは、元の属国であった高麗(朝鮮)王朝がモンゴル化し、その時伝わったパスパ文字が基礎となって、高麗王朝に代わった李氏朝鮮の時代に作られたと言われている。このパスパ文字起源説は韓国外の学界では広く受け入れられているが、韓国内では当然、圧倒的に非主流派である。しかし韓国内においても、きちんとした学究も一部ではなされている。例えば、国語学者のチョン・クァン高麗大名誉教授がそうだ。チョン・クァン名誉教授は、次のように述べ、韓国における国粋主義的研究を糺している。「訓民正音とハングルに関する国粋主義的な研究は、この文字の制定とその原理・動機の真相を糊塗してきたと言っても過言ではない」。 http //japanese.joins.com/article/430/107430.html 尖閣はもちろん我が国固有の領土であるが、今、韓国が不法占拠している竹島も我が国固有の領土である。竹島は1952年のいわゆる「李承晩ライン」により、韓国に軍事的に侵略された領土なのである。第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域はマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであったが、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、翌1952年4月28日の日本主権の回復後はこの制限の撤廃が予定されていた。ところが、日本の主権回復前の隙を韓国は狙ってきたのだ。1951年7月19日、韓国政府はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出し、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求した。これに対し、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答し、この韓国政府の要求を拒否した。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約は調印されたが、講和条約発効の約3か月前の1952年1月18日、朝鮮戦争下の韓国政府は、突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインという軍事境界線の宣言を行った。1965年の日韓基本条約によってラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。このような国際法上違法であり、かつ非人道的侵略行為に対し、当時我が国政府のみならず米国も抗議しているが、米国は直接的な利害関係国ではないため積極的な介入は行なわず、それがために韓国による侵略が固定化されてしまったのである。 国策として反日愛国を強く推進している韓国という国の中で、こういった事実は全く知られていない。反日愛国に沿った虚偽が真実として異常に強調される国なのである。そういう国にあって、もし真実を伝えようとすれば、袋叩きに遭うことは間違いないだろう。しかし、中には良心に忠実に真実に向き合おうとする人もいる。例えば、先に取り上げたハングル研究におけるチョン・クァン名誉教授などがそうである。韓国にも、あるいは中国にも少数ながら存在するそういう勇気ある真っ当な人たちの声を、私たち日本人はしっかり認識し、広めていくべきだろう。 次は最後の征服王朝・清だ。1644年に都を北京に移した清は、中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間を屠殺する」のである。こう言うと、「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。日本では籠城するのは武士であり、城下町はその外にある。だから、仮に城内の人間がすべて殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。 秦に見られる中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清 征服王朝から、もう一度初めて中国を統一した秦に戻ろう。なぜなら、ここに中国史を貫く特徴が顕著に表れているからである。その特徴とは、思想弾圧、そして大量殺戮と粛清である。思想弾圧に関しては、今さら多言を要す必要はないだろう。秦の始皇帝は歴史に名高い「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」を行なった。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味である。これは多くの人が知っているが、意外と知られていないのが秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、紀元前293年、秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、問題はその後である。45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)されたのである。 次は粛清である。紀元前210年に始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。始皇帝の身辺の世話をしていた宦官・趙高(ちょうこう)と宰相・李斯(りし)は、まず始皇帝から後継指名を受けていた長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む。そして、次男の胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、趙高と李斯以外のグループの重臣を次々に殺戮。次いで胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは李斯であった。趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして例によって一族皆殺しである。これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である。凄惨な粛清はさらに続く。趙高は、今度は二世皇帝・胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫である子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に趙高一族が子嬰によって誅殺されることになる。因果である。 なお、秦は子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な項羽と劉邦である。この時、項羽がやったこともすさまじい。項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、子嬰が降伏して秦が滅亡した後、項羽は子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである。 項羽と劉邦の時代の漢族は滅びた 力を合わせて秦を滅亡させた項羽と劉邦であったが、その直後から対立は始まり、楚漢戦争が勃発。紀元前202年の垓下(がいか)の戦いで劉邦は項羽をやぶり、漢(前漢)を建国する。残虐な項羽に比べて人格者のイメージの劉邦であるが、決してそうではない。きちんと中国史の伝統を受け継ぎ、天下を取った後は粛清の連続である。関ヶ原で天下を取った家康が功労のあった多くの武将に領地を与えたのと同じように、天下を取った劉邦も功労者に封土と王位を与えた。しかし、功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。楚(そ)王・韓信や梁(りょう)王・彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、一族皆殺し、族誅された。 しかも、梁王・彭越は誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた。「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである。劉邦は紀元前195年に亡くなるが、その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。 高祖・劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。この呂后がまたすさまじい。まず、恵帝の有力なライバルであった高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王如意(にょい)とその生母・戚(せき)夫人を殺害した。この時の呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。呂后は我が子である劉盈(恵帝)以外のほとんどの劉邦の息子を殺し、呂氏一族を要職に付け専横をほしいままにする。しかし、これまた因果は巡るで、呂后の死後、逆に呂氏一族は族誅される側に回り、皆殺しされるのである。 漢はこの後、血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、紀元8年「新」という王朝を建てる。しかし、この「新」王朝は、紀元17年に始まった反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。 さて、この「新」王朝建国の直前、紀元2年に中国史上で最初の人口統計が現れる。『漢書』の『地理誌』にある「口、五千九百五十九万四千九百七十八」という記述である。約6000万人である。ところが前述した全国的な戦乱と飢餓の結果、23年に「新」王朝が滅んだ時には中国の人口は6000万の半分に、さらに劉秀(後漢の光武帝)によって再統一される37年までに、さらに半減したと言われている。つまり、17年から37年までの20年間で、75%も人口が減り、約1500万人になったことになる。その後の後漢の人口統計に見れば、これはほぼ事実と考えられる。『続漢書』の『郡国史』によれば、人口は57年に約2100万人、75年に約3400万人、88年に約4300万人、105年に約5300万人と推移している。これから推計すれば、37年には1500万人くらいであったろう。 戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、とりわけ中国においては甚だしい。そして、戦乱・飢餓で人口が激減し衰微しきったところに、近隣の異民族が侵入してくる。それが我が国にはない中国史の特徴である(と言うより、我が国のように異民族による侵入がない方が世界に類例がないと言えるが)。「新」王朝期の人口激減は、中国史において数字が残されている最初のものである。 37年に劉秀(後漢の光武帝)による天下統一で誕生した後漢であるが、長くは続かなかった。184年に黄巾の乱、五斗米道の乱と相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。『三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。黄巾の乱後、正史の記録には、「白骨山のように積み」「人は共喰」「千里に人煙を見ず」といった記述が多い。当然、人口は再び激減した。先に見たように、後漢の時代、人口は5000万人を超えるところまで増えた。それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの漢族は滅びたと言ってよい。 なお、『三国志』とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた歴史書であり、撰者は晋の陳寿である。それとは別に、歴史書『三国志』に逸話や創作を盛り込んだ小説『三国志演義』というのがあり、これは明代に成立している。私たちが横山光輝の漫画などで知っている『三国志』はこの『三国志演義』をベースにした物語である。 三国時代という内戦時代の後、一時的に晋が中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。「五胡十六国時代」である。五胡とは、匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の五民族を意味し、十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、実際の国の数は16を超えた。要するに、従来の漢族が内戦により自滅的に激減した状況下で、様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。「五胡十六国時代」は304年から439年まで続き、439年に至って従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を北魏(ほくぎ)が統一する。では、この北魏を打ち立てた民族は何だったのか。先の五胡の中の鮮卑。鮮卑とは北方の遊牧民である。それに対して、わずかに生き残った従来の漢族は南に逃れて王朝を建てた。そのためこの時代を中国における「南北朝時代」(439年~589年)と呼ぶ。南北朝時代に終止符を打ったのは隋による中国統一であるが、この隋も鮮卑による王朝であった。 「五胡十六国時代」から隋の時代にかけて、中国語は大きく変質した。鮮卑は文字を持たなかったため、話していた言語がテュルク系であったかモンゴル系であったか、正確には分からない。ただ、アルタイ系言語(北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)であったことはほぼ間違いない。隋の天下統一の直後、601年に鮮卑人の陸法言という人物が、『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、この時代の中国人は、すでに始皇帝や劉邦の時代、秦・漢時代の中国人の子孫ではなかったことが分かる。 なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、既に述べた清や元などと同じく異民族王朝であるが、明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。 繰り返された仏教の興隆と弾圧 隋の時代は長く続かず、589年から618年まで。次いで唐の時代となるが、この唐も鮮卑の王朝である。ところで、隋・唐と言えば、遣隋使・遣唐使が思い浮かぶ読者も多いであろう。そして、遣隋使・遣唐使の大きな目的の一つが仏教を学ぶことにあったことは言うまでもない。隋の時代は日本では聖徳太子の時代と重なり、聖徳太子は四天王寺の建立や仏教興隆の詔を発した。また、唐の時代には、帰日する遣唐使とともに唐の高僧・鑑真が渡日し、唐招提寺を創建するなど、日本における仏教の興隆に大きな役割を果たしたし、空海や最澄も遣唐使として唐に渡り、仏教を学んでいる。これらのことは多くの日本人が知っている。では、仏教は中国の宗教なのだろうか? 少し考えればそうではないことに誰もが気付くだろう。仏教を開いたお釈迦様はインドの生まれである(より正確には国境を少し越えた現在のネパールのルンビニに生まれた)。釈迦が生まれ、仏教が誕生したのは紀元前5世紀頃。それが中国に伝わったのは1世紀頃と推定される。ではそれ以降、仏教は順調に中国に浸透していったかと言うと、そうではない。先にも述べたが、思想・宗教の世界でも、中国史は過酷な弾圧が繰り返されているのである。 まずは、中国における仏教の興隆と弾圧の歴史を見ていこう。南北朝から隋、唐、そしてその後の五代十国時代にかけての500年余りの中国史の中で、規模も後世への影響力も大きかった4度の廃仏政策のことを、4人の皇帝の廟号や諡号をとって、「三武一宗の廃仏」または「三武一宗の法難」と呼ぶ。三武とは、南北朝時代の北魏の太武帝・同じく北周の武帝・唐の武宗を指し、一宗とは五代十国時代の後周の世宗を指す。弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊と財産の没収、僧の還俗、あるいは殺戮などである。 最初の北魏の太武帝による「魏武の法難」は438年の50歳以下の僧侶の還俗に始まり、446年には仏教排斥の詔に至る。以後、太武帝が殺害されるまでの7年間、僧侶は殺戮され、経典は焼き捨てられた。この時、仏教弾圧の一方で保護されたのは道教であった。次の北周の武帝による「周武の法難」は574年と577年の2回にわたり、この時は仏教のみならず道教も廃され、儒教が顕彰された。続く隋と唐の時代は、私たち日本人のイメージどおり、基本的には仏教隆盛の時代であった。隋の文帝は仏教と道教の禁制を解いて仏教の復興に取り組んだ。「隋の文帝一代二十四年の間に、得度した僧尼二三万、寺院三七九二」などという記録がある。唐代に入ると仏教はますます盛んになった。『西遊記』で有名な三蔵法師、玄奘三蔵は実在の人物であるが(602年~664年)、西域やインドへの遊学し、膨大な仏典をもたらした。ところが、840年に即位した武宗は81名もの道士を宮中に召すなど道教に傾斜して仏教を弾圧。この弾圧で廃止させられた寺院は4600以上に上ったという(この時の年号により「会昌の法難」呼ばれる)。4回目の「後周の法難」は、今までの思想・宗教的な性格のものではなく、財政的窮迫が主たる動機で、寺院の財産を没収したり還俗させて税を課した。廃寺となった寺は3300余にも上った(本筋から話はそれるが、国家は財政に窮した場合、どんな手段を使ってでも取れるところから取るという実例でもある)。 ちなみに、我が国でも明治の初めの一時期、いわゆる「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」が行なわれた。しかし、廃仏毀釈の元となった「神仏分離令」や神道を国教とする詔書「大教宣布」は、神道と仏教の分離を目的とするもので、本来仏教排斥を意図したものではなかった。しかし、時代は維新の動乱期であり、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまったのである。こうした歴史がごく一時的にはあったにせよ、日本における宗教は、教義や経典を持たない「かんながらのみち」としての神道に外来宗教である仏教が融合してきたものと言えるだろう。 日本の融合に対し、中国では思想・宗教においても激しい対立と闘いが繰り返されてきた。今まで述べてきた時代であれば、仏教と道教の抗争に時に儒教が絡んでくるという構図がお分かりいただけたであろう(ちなみに、仏教と道教、それに儒教の三つを中国三大宗教という)。王朝も宗教も中国史の特徴は抗争と断絶なのである。 売りがある寺院は破壊から一大観光スポットへ 中国の仏教は、宋・明代以後、衰退していく。読者も遣唐使以降、あまり中国仏教のイメージがないのではないだろうか。では、現在、中国の仏教はどうなっているのだろうか? ある意味では繁栄している。その一例として、1987年に仏舎利(釈迦の遺骨)が出土した古刹、法門寺の現状を見ていこう。 法門寺の歴史は1700年ほど前にさかのぼる。南北朝時代の北周以前には阿育王寺と呼ばれていたが、前述した北周の武帝の廃仏によって、一度廃毀された。隋代に再建され、618年に寺の名を法門寺と改める。その後も前述したような幾度もの法難をくぐりぬけてきて、20世紀を迎えた。そこで最大の試練を迎える。共産主義国家・中華人民共和国の誕生。そして、さらに壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。 「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし、僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。60年代には、既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。そして文化大革命である。 念のため、文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。しかし、その内実は、政権中枢から失脚していた毛沢東が、劉少奇からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は一億人に及んだと言われる、世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。 文革時、宗教は「破四旧」(思想、文化、風俗、習慣の破壊)のスローガンの下、徹底的に弾圧、破壊された。例えば、中国最初の佛教寺院は68年に建立された洛陽にある白馬寺であるが、中国共産党は革命をすると言って農民たちを白馬寺に連れて行き、千年前の遼の時代に土で造られた十八羅漢の像を壊し、二千年前にインドの僧侶が持ってきた貝葉経を燃やしただけではなく、稀世の宝とも呼ばれる玉の馬をもばらばらに壊した。法門寺も当然、破壊の対象とされた。時の住職であった良卿法師は、宝塔や伽藍を守ろうとして寺院内の真身宝塔前で抗議の焼身自殺をするが、寺は破壊されその他の僧侶らは殺戮された。 狂気の文革が終わった後、寺院は文化財として修復されるようになる。そして1987年、法門寺にとって願ってもない天佑が訪れる。真身宝塔の地下にあった地下宮殿が開かれ、稠密な彫金を施した幾重もの宝函に収められた4粒の仏舎利などの大量の貴重な文物が出土したのである。その後は、国家主導で一大観光スポットとして、建築開発が進められた。一大看板の仏舎利は、現在は2009年に新しく西隣に建立された新法門寺に納められ、毎日夕方になると自動的に地下の格納庫に収納されるシステムで大切に扱われている。この新法門寺は中国最大級の現代建築物である。広大な敷地に近代的な建物群、金ピカな仏像群に現代的オブジェ。お目当ての仏舎利塔は超巨大な現代的門をいくつもくぐったはるか先にあり、そこまでの足として有料電動カーが用意されている。下はコンクリート舗装なので、暑い季節はこの電動カーが観光客にはありがたいであろう。現在、法門寺はホームページを開設しており、中国語だけでなく、英語・ハングル、そして日本語のページもある。金ピカな仏舎利塔がトップに来るホームページには、「会社案内」の文字も見える。そう、現代中国仏教は、観光会社として一大発展を遂げているのである。 http //fms.demo.allwww.cn/Channel.aspx?ChId=5 金儲けに突き進む現代中国仏教 法門寺に限らない。今日、中国仏教は政府主導で金儲けに突き進んでいる。2012年7月3日、中国4大仏教名山の一つ普陀山の管理団体「普陀山旅遊発展」が2年以内の新規株式公開(IPO)を計画していると、中国紙チャイナ・デイリーが伝えた。上場によって7億5000万元(約94億円)の調達を計画しているという。普陀山旅遊発展は、普陀山観光センター、索道、バス会社、観光事業などの運営を行っている。この他に、九華山、五台山も積極的に株式公開の準備をしているといううわさが流れている。 ほとんどの中国の有名な観光地には寺院があるが、そうした寺院は形だけは立派に復興している。少し名が通った寺院は、どこも安くない入場料を取るだけでなく、販売商品も多彩に取り扱っている。写真や拓本、仏像、年珠、線香、置物、ペンダント等々だ。その他にも多くの高額料金のサービスがある。例えば、焼香代、鐘突き代、おみくじ代、おみくじ解説代等々。観光客に大金があれば寺は焼香をあげ、鐘を突き、様々な儀式を執り行ってくれる。一般の観光客が寺に行くと、寺の僧侶は焼香を上げるよう勧めるが、御香は外から持ってくることはできない。一応、それは不浄であるとの理由による。その焼香代は日本のように安くはない。境内では香を上げるのに最低でも200元(2500円)、最高10万元(125万円)も支払った例もあるという。しかも、一応宗教であり商売ではないから、値段交渉することもできない。値段交渉は敬虔さの欠如とみなされるのだ。ただ、支払いに現金がなくても問題はない。こういった観光寺院には、POSシステムが導入されておりカード払いもできるのだ。 焼香が終わると、僧侶は賽銭簿を持ってきて観光客にサインするよう勧める。サインするなら住職自らお経を読み、開運祈願と厄払いをしてくれるという。賽銭簿にサインして初めて住職は「サインは無料ではなくお布施が必要で、どれぐらい寄付するかはあなた次第、3でも6でも9でもよい」と言う。よくよく聞くと、3、6、9とは300元(3750円)、600元(7500円)、900元(1万1250円)、3000元(3万7500円)、6000元(7万5000円)、9000元(11万2500円)のことで、その中から選ぶというのである。 このように、今の中国では観光寺院は大いに儲けるようになったので、僧侶は公務員を越えて最も稼ぎがよく、且つ尊敬される職業となった。寺の僧侶が儲かる職業であることから、偽僧侶も増えてきた。例えば観光客におみくじの解説をするために、ある寺院では大金を払って偽僧侶を雇っている。このビジネスは利幅が大きいことから、僧侶、尼僧として雇用契約書にサインし、寺院に出勤し、毎月給料を得、退勤後は一般人に戻り、その収入はホワイトカラーを超える。住職は僧侶を指導する立場にあるから、収入は更に多い。住職の多くは結婚し子供もいて、市内に家を購入し高級車を乗り回している。 このように、現在中国において仏教は大いに栄えている。ただしそれは精神的な面においてではない。そもそも、「宗教はアヘン」とする共産主義の国で、深い宗教性が涵養されるはずもない。形骸としては残った寺院を、観光資源として金儲けにフルに活用しているのである。教えや精神は破壊されたまま。そこで拝まれているのは神仏ではなくマネーである。 明の太祖・洪武帝によるすさまじい粛清 ここまで、中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、「征服王朝」「浸透王朝」といった言葉とともに説明してきた。また、主に仏教を中心に中国における宗教の興亡も見てきた。その最後は、狂気の弾圧と粛清である文化大革命による破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。 さて、中国史における大粛清と大量殺戮。これに関する史実を、もう少し補足しておこう。まずは、今まで述べてこなかった明王朝の時代(1368年~1644年)における大粛清である。 明朝の創始者である朱元璋(しゅげんしょう)は貧農の生まれで、家族は全員飢え死にし、乞食坊主となった。そこから身を起こし、秘密結社白蓮教(浄土教系)が起こした紅巾の乱に加わって頭角を現し、41歳にして天下を取った(明の太祖・洪武帝)。大変な才覚があったのは間違いない。しかしその一方で、洪武帝は後の毛沢東にも通じる恐怖政治を行なった。すさまじい粛清である。既に見てきたように、血で血を洗う抗争が中国史であるのだから、中国史において粛清自体は珍しいことではない。しかし、洪武帝が行なった粛清は、その規模、空前のものであった。 洪武帝の粛清は、1380年の胡惟庸(こいよう)の獄に始まる。胡惟庸は紅巾の乱時代から洪武帝とともに戦ってきた旧臣であった。しかし、謀叛を計画していたとされ粛清される。ここまでなら、よくある話である。すさまじいのは、この時、胡惟庸派と見なされた重臣はみな連座して虐殺され、その数実に一万五千人に上ったということである。1393年には藍玉の獄。藍玉は明建国初期に軍功を上げた武将であったが、やはり謀反の疑いで粛清された。この時も連座して処刑された者の数が半端ではない。一万五千人とも、二万人(『明史紀事本末』)とも言われ、正確な数字は不明である。 この二つを合わせて「胡藍(こらん)の獄」と呼ぶが、洪武帝の恐怖政治はまだまだこんなものではない。空印の案(1376年)、郭桓の案(1385年)、 林賢事件(1386年)、 李善長の獄(1390年)といった数々の粛清を行ない、一連の事件の犠牲者は、合わせて十数万人に及んだとも言われる。こうした粛清にはスパイによる密告が欠かせない。中国は古代からスパイ国家であるが、洪武帝は皇帝直属の秘密組織「錦衣衛(きんいえい)」を設け、この組織をフル活動させて恐怖政治を行なった(なお、中国は今でも諜報活動においては世界屈指の能力を持ち、イギリス・イスラエルとともに、世界の“3大インテリジェンス・パワー”と呼ばれている)。刑罰もすごい。身体の肉を少しずつ切り落として死に至らしめる「凌遅(りんち)刑」や「剥皮(はくひ)刑」をはじめとする様々な残虐刑を行ない、人々を恐怖で縛り上げたのだった。洪武帝は1398年に崩御する死の間際まで功臣を殺し続けた。 本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱 先の洪武帝がのし上がるきっかけとなった白蓮教は、清朝の時代にも大きな反乱を企てる(白蓮教徒の乱1796年~1804年)。清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。 太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である(ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、当時から20世紀にかけて「洗回」と称するイスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した洪秀全はキリストの弟であると宣言し、1847年に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。1850年に広西省で蜂起した洪秀全は、1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。 ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた。歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において「10の村の中の7、8の村が襲撃された。いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々はことごとく皆殺しにされた。屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。 しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である天京(南京)に攻め入ったが、この時の大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に「天京屠城」と称されるこの大虐殺の実態はどういうものだったのか。 天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました。3日間にわたる掃蕩作戦の結果、賊軍10万人あまりを処刑しました」。3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。曾国藩の死後、幕僚の一人であった趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。 「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。彼女たちをその場で凌辱した後に、周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。 現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが歴史学上の定説となっている。これこそが、中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。 なお、太平天国が衰退した大きな理由には内紛があるが、これまた内紛というのは表面的な聞こえのいい表現であって、実質はすさまじい粛清であった。1856年9月、洪秀全はナンバー2であった楊秀清を粛正するのであるが、この時には楊秀清の一族並びに配下の兵たちとその家族約4万人が虐殺されている。既に述べてきたように、秦に始まり、漢の劉邦や呂后、明の洪武帝、太平天国の洪秀全、そして毛沢東と続くすさまじい粛清というのも、中国史の伝統と言えるだろう。 毛沢東が行なった大量殺戮と粛清に次ぐ粛清 ここまで、血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を見てきた。より具体的に言えば、その特徴は既に述べたとおり、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。既に「一村一焼一殺」と文化大革命については少し触れたが、本章の最後に毛沢東が行なった数々の戦慄するようなおぞましい行為について述べておこう。 毛沢東は、1928年から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。1928年から1933年までの5年間で、「一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、10万人に及んだという。中国共産党が政権を取ると、「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった。全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが、毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。 次は粛清である。現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるだろうが、実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、1930年から翌31年にかけての「AB団粛清事件」。これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、この時は7万人以上を処刑している。政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清が行なわれることになった。1951年、「反革命分子鎮圧運動」である。毛沢東は「農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の千分の一程度とすべきだが、都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という殺人ノルマを課し、中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である。中国共産党の公式資料『中国共産党執政四十年(1949~1989)』によれば、「反革命分子鎮圧運動」で銃殺された人数は71万人に上るという(さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。粛清・虐殺はまだ終わらない。1955年には「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。 思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、文革のひどさはよく知られるところなので、ここではこれ以上述べない。今日ではYoutubeなどで映像も見ることができるので、ぜひご覧いただくと良いだろう。http //www.youtube.com/watch?v=p63xt5AlahY 最後に文革にもつながった「大躍進政策」について述べておこう。先に、文革は政権中枢から失脚していた毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であると述べたが、毛沢東の一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。1957年11月6日、ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。対抗心を燃やす毛沢東は、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。その中心に据えられた鉄鋼などは、生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。1959年夏、共産党政治局委員で国防相の彭徳懐(ほうとくかい)が大躍進政策の再考を求めたが、毛沢東が受け入れるはずもなく、逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる(彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。その結果はすさまじい餓死者である。その数は、わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている(中国本土では発禁となった『墓碑――中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。最後は、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、1959年4月27日、国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。 不気味な隣人との付き合いにおいて心すべきこと 私たちは何気なく「中国4000年の歴史」などと口にする。しかし、ここまで見てきたように、それは抗争と断絶の歴史であり、むしろ歴史が伝わらない国なのである。それを証明するある事実がある。老舗企業の数である。創業200年以上の老舗企業数を国別に見ていくと、我が国には3113社もあり、2位ドイツの1563社、3位フランスの331社などを大きく引き離し、ダントツで世界一である。それに対して中国はわずか64社で15位。共産主義の影響だと思うかもしれないが、149社で8位のロシアの半数にも満たない。人口わずか1000万人のチェコ(第二次大戦後、1989年まで共産党政権下にあった)が97社で10位なのだから、やはり歴史が続かないというのが「易姓革命」の国、中国の伝統なのである。 確かに昔の文物はある。しかし、それは先に見た仏教寺院のように、形骸に過ぎない。精神は断たれているのである。人によっては「中国は私たち日本人の先生なんだから」などと言うが、それは隋にしろ唐にしろ、昔のその時点での話である。日本の方がむしろ学んだものを血肉化して生かしている。 帝国データバンクが2008年に創業100年を超える老舗企業に行なったアンケート調査がある(回答企業814社)。それによれば、「老舗企業として大事なことを漢字一文字で表現すると」という問いに対し、最も多かった回答は「信」。197社からの圧倒的な支持を集めた。次いで「誠」68社。以下、「継」「心」「真」と続く。「社風を漢字一文字で表すと」という問いに対しては、「和」が158社でダントツ。次いで2位「信」63社、3位「誠」53社。以下、「真」「心」と続く。そして、「老舗の強みは何か」という問いに対しては、「信用」と答えた企業が圧倒的に多く、実に73.8%に達した。ここから見えてくることは、我が国の伝統的企業は、社内においては上下心を一つにして働き、対外的には信用を最も大切な財産と受け止め、信を守り誠を尽くす。そういう企業文化を継続することで続いてきたことが伺われる。こうした精神が仏教や儒教の教えに大きな影響を受けていることは言うまでもないが、それはもはや完全に日本のものとなっており、逆に今の中国にはないのである。 さて、抗争と断絶とともに、中国史の特徴として顕著な大量殺戮と粛清。私たちはここから大いに学ぶことがある。それは、中国という国は冤罪をでっちあげて断罪する国であるということ、そして、やれるとなれば血も涙もなく暴力を行使して徹底的にやる国だということである。中国国内で出版された『従革命到改革』という書籍によれば「文化大革命において作り出された冤罪」は実に「900万件」に上るという。文革に限らない。本章で見てきた数々の粛清は、そのほとんどがでっち上げの罪による断罪と言ってよいだろう。中国の楊潔チ外相が国連総会で「尖閣諸島は日本が盗んだ」などと演説したが、これも同様の確信犯的でっち上げである。尖閣周辺に埋蔵資源があることが分かるまでは、中国の地図でも尖閣は琉球列島に含めていたわけで、そういう事実を外相が知らないはずがない。しかし、事実がどうあれ、冤罪をでっちあげて徹底的に断罪するのが中国なのである。そして断罪した後は暴力の行使。それが中国史に見る中国の伝統である。尖閣問題への対処を考えるにあたって、私たちはこの隣人の性格をしっかり認識しておかなくてはならないだろう。 参考文献 『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所) 『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC) 『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書) 『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社) 『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫) 『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書) 『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社) 『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋) 新興国情報EMeye Bloomberg 中央日報 サーチナニュース 大紀元時報 Wikipedia .
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唐書巻一百二十六 列伝第五十一 魏知古 盧懐慎 奐 李元紘 杜暹 鴻漸 張九齢 拯 仲方 韓休 洪 滉 皋 洄 魏知古は、深州陸沢県の人である。人品は端正かつ正直で才能があり、進士に及第した。著作郎となって修国史に任じられ、累進して衛尉少卿、検校相王府司馬に遷った。神龍年間(707-710)初頭、吏部侍郎となったが、母の喪のため辞職した。服喪があけると、晋州刺史となった。睿宗が即位すると、もとの属していた官によって黄門侍郎を拝命し、修国史を兼任した。 当時、金仙観・玉真観を造営しており、盛夏にもかかわらず、工程は厳しく督促されていた。魏知古は諌めて次のように述べた。「臣は次のように聞いています。「古の人の上にたつ君主は、常に人の働くところを視ているが、人は懸命に働いても建造が出来るのは稀である。人が蓄財に勤めれば貢賦は少なくなり、人が食に勤めれば百事は廃せられるのである」(穀梁伝 荘公二十九年)。そのため、「役に立たないことをして役に立つことをおしつぶす」(尚書 周書旅獒)といい、また「百姓たちの心に逆らってまでも、御自分の意思を押し通されてはなりません」(尚書 虞書 大禹謨)とあります。『礼』に「季夏の月(六月)、樹木が盛んに茂る。みだりに木を伐らぬよう取り締まりをさせる。また土木工事はいけない」(礼記 月令)とあり、これはすべて人民への教化を興して治世をたて、政治を行って人を養う根本なのです。今、公主のために道観を造営するのは、土木工事によって福を祈っていますが、しかしながらこれらの土地は百姓の家とするところであって、突然事態が差し迫って、彼らを移転・転居させ、老人を抱えて幼児を携えて、椽を変えて瓦を変えて、道路上で阿鼻叫喚するのです。人の事にそむくことは、天の時に違うことであり、無用の造作をおこし、不急の務めを崇めることは、群臣の心を揺れ動かし、多くの口からあれこれと言いはやすことになるのです。陛下は人の父母となられ、どういった手段によって安んじようとなされるのでしょうか。また国には簡冊があり、君主が何か行えば必ず記録されることになり、言動のきざしは慎まなければなりません。願わくば明詔をお下しになられ、人の願いにしたがって土木の徭役を除かれ、この事業を晩年に行われても、その失策は遠いことではないのです」 受け入れられなかった。再び諌めて次のように述べた。「陛下が反逆者を平定して取り除き、国家を保ち定まれてからは、天下は荘重となり、朝廷に新政があると思われます。今、教化は次第に廃れていくことは日々ますます甚だしいものであり、府蔵は空しいものとなり、人力は疲弊し、造営は果てなく、官吏の人員は次第に増え、諸司の試補・員外・検校官はすでに二千人あまり、太符の帛はつきて、太倉の米は支給できなくなっています。臣は以前に金仙観・玉真観の造営をやめられるよう願いましたが、それらが終わってもまだ停止されていません。今、水害と旱魃が前後でおき、稲・黍・稷・麦・豆の五穀は育たず、この状態になっては春になると、必ず大飢饉となります。陛下はどこに賑給なされるというのでしょうか。また突厥は中国の憂いとなることは長いことになっており、その人となりは礼義や誠信によって約束すべきではありません。使者を派遣して婚姻を願っているとはいえ、恐るべきは豺狼の心をもち、自身が弱ければ伏せ従い、強ければ驕慢となって逆き、月日がたてば騎乗する馬は肥え太り、中国の飢饉に乗じてきます。講和や和親の際にも、辺境の砦を攻撃せんと狙っていますが、またどうやって防ぐというのでしょうか。」帝はその実直さをよろこび、左散騎常侍によって同中書門下三品(宰相)とした。玄宗は春宮であったとき、また左庶子を兼任した。 先天元年(712)、侍中となった。渭川の遊猟に従い、詩を献上して風刺し、手ずから制によってお褒めをいただき、あわせて賜物五十段をいただいた。翌年、梁国公に封ぜられた。竇懐貞らが謀をめぐらせて国を乱すと、魏知古は密かにその奸計を暴いたから、竇懐貞は誅殺され、封二百戸、物五百段を賜った。玄宗は以前の褒賞が手薄かったのを残念に思い、手ずから勅してさらに百戸を加え、その名節を明らかにした。この冬、詔して東都(洛陽)で吏部の選事を司り、適正な要件によって称えられ、お褒めの詔によって衣一副を賜った。これより帝の恩意は最もあつく、黄門監によって紫微令に改められた。姚元崇とあわず、工部尚書に任命されたが、宰相を罷免された。開元三年(715)卒した。年六十九歳。宋璟はこれを聞いて「叔向は古に実直さをのこし、子産は古に愛をのこした。これを兼ねた者は魏公だ」と嘆いた。幽州都督を追贈され、諡を忠という。 推薦した洹水令の呂太一、蒲州司功参軍の斉澣、右内率騎曹参軍の柳沢、密県の尉の宋遥、左補闕の袁暉、右補闕の封希顔、伊闕県の尉の陳希烈は、後に全員が当時に有名となった。 文宗の大和二年(828)、その曾孫の魏処訥を探して、湘陽県の尉を授け、魏徴・裴冕の後裔も抜擢して任命した。 盧懐慎は、滑州の人で、思うに范陽の有名な盧姓なのであろう。祖父の盧悊は、仕えて霊昌県の令となり、遂に県の人となった。盧懐慎は幼い頃からすでに非凡な人物で、父は友人で監察御史の韓思彦に「この子の器は図り難い」と嘆いた。成長すると、進士に及第し、監察御史に任じられた。神龍年間(707-710)、侍御史に遷った。中宗は武后を上陽宮に謁し、武后は帝に十日に一朝するよう詔した。盧懐慎は諌めて、「昔、漢の高帝(高祖)が天命を受けると、五日に一朝、太公と櫟陽宮にて謁し、民間から決起して皇帝位に登り、子に天下があったから、尊を父に帰し、だからこのようになったのです。今、陛下は先王以来の法と帝王の位を継承されましたが、どこの法を採用されたのでしょうか。ましてや応天門は提象門からはわずか二里の所にあり、警備の騎馬は列をつくることができず、随行車は平行することができず、ここにたびたび出入りしたとしても、愚人が万が一随行車の塵を犯すような襲撃があったところで、これを罪としたところでどういたしましょうか。臣は愚かに申し上げるところは、内朝に従って穏やかかつ清らかであるようにお過ごしになられ、出入りして煩わせるようなことがあってはならないということです。」採用されなかった。 右御史台中丞に遷った。上疏して時政を述べた。 「臣は以下のように聞いています。「善人の政治も百年つづけば、暴力をおさえ死刑もなくせる」(論語 子路第十三)。孔子は「使ってくれる人があったら、一年だけでもいいんだ。三年だと、完全だが。」(論語 子路第十三)と言っており、そのため『書』に、「三年に一度、その役目にあって成果をあげたかどうかを調べられ、三度検査されたあと、輝かしい仕事をしたものは位を上げ、みずほらしくてだめなものはその役から退けられた。」(尚書 虞書舜典)とあります。昔、子産は鄭の宰相となり、法令を改め、刑書を施行し、一年間は人に怨まれ、殺されると思うほどでしたが、三年にして人は徳としてこれを歌い継がれるようになりました。子産は賢者であったから、政治を行ってなお年を重ねてから功績がなったのに、ましてや普通程度の人材ではどうでしょうか。この頃州牧、上佐、両畿の県令はあるいは一・二年、あるいは三・五か月で転任となり、かつて考課を論ずるのに政務統治の成績が良好かどうかで判断せず、まだ戻って来ない者に対しては耳を傾けて聞くことはなく、つま先立ちして望んでいても、無闇に行動して廉潔の聞こえがなく、またどうして陛下のために風を教化して人を憐れむ余裕がありましょうか。礼義を興すことができず、戸口はますます流出し、倉庫はいよいよ乏しくなり、百姓は日に日に疲弊するのは、職はこれが原因となるだけなのです。人は吏の任期が長くないのを知っているので、その教化にしたがわず、吏は転任するまで長くないのを知っているので、その力をつくさないのです。かりそめに爵位に身を置き、これによって経歴や声望を養ったとしても、明主が天下に勤労しようとする志があったとしても、天子の寵遇を得る道を開くことになり、上も下も互いに互いに騙し合い、どうして公正をつくすことができましょうか。これは国の病なのです。賈誼がいうところの誤りというのは、小の小なる者のみなのです。これを改めなければ、平和的に緩慢であっても、なすすべもないのです。漢の宣帝を総合的に考えてみると、治世は勃興して教化がなされ、黄霸はすぐれた郡守であり、秩を加えて金を賜り、その能力をあらわしたが、終に遷任をよしとしませんでした。そのため古で吏となった場合、長きは子孫までに到ったのです。臣が願うところは、都督・刺史・上佐・両畿の県令に任じて四度の考課を得ていない場合は、転任することができないこととすることです。もし統治に最も優れたものがあれば、あるいは加えて車や衣服、秩禄を賜い、使者をくだして臨問させ、璽書によって慰撫して励まし、公卿に欠員があれば、そこで抜擢して能力がある者を励ますのです。職に適さずあるいは貪欲かつ暴虐であった場合、罷免して田舎に帰らせ、信賞必罰の信を明らかにするのです。 昔、唐・虞は古えの道にならって百の官位をたてました。夏・商では官は二倍になりましたが、やはりまたうまく治まりました。これは官を少なくしたからです。そのため「この官は必ずしも員数を揃えなくともよい、ただふさわしい人でなければならぬ」、「もろもろの官に、適当な人をつけないでいて、その官位をむなしくされてはなりません。なぜなら官職というものは、もともと天に属するものであって、天のなさる事を人間が代わってやっているからなのです。」(尚書 周書 周官)というのは、人を選ぶからなのです。今、京の諸司の員外官は数十倍となり、近年いままでなかったことです。必ずしも備わっていないというのに、余剰人員がいるということは、その代わりの仕事を求めて、多くはわずかな仕事もせず、俸給の費えは毎年巨額なものとなり、いたずらに府蔵をつきさせることになり、どうして統治なぞありましょうか。今、民力は疲弊の極みで、河州・渭州は広く運漕していますが、京師に給付されず、公も私も損耗し、辺境はいまだ静寂ではありません。ちょうど今、旱魃や水損で災いとなり、租税は減収しており、辺境で急を知らせれば、賑給する暇とてなく、どうやってこれを救えましょうか。「人事を軽々しく考えてはなりません。つらい困難なものだと知って、慎重に扱ってやって下さい。天子の位に安んじてしまってはなりません。ひたすらに恐れつつその位を保ってゆかねばならないのです」(尚書 商書 太甲下)とあるのは、謹んで慎重に取り扱わなければならないことなのです。員外の官をたずねてみると、全員が当時の重任に値する賢臣であり、選ぶ際に才能を用いながらもその用途を伝えることなく、名を尊んでいるのにその力量を任じませんでした。昔より人を用いるのに、どうしてそのようにしていたのでしょうか。臣が願うところは、才能が太守や上佐にたえる者を官職に昇らせ、力量を全国に知らしめ、考課の責めは治状で行うことです。老いや病、もしくは職にたえられない者は、すべて廃して除き、賢人や不才を確率して一貫性をもたせるのは急務なのです。 私寵や賄賂をおかし、寡婦を侮る者がいるのは、為政者を蝕むものです。ひそかに思いますに、内外の官に賄賂を贈って狼藉し、鼻削ぎして人を蒸し殺し、罪にふれて流黜したとしても、しばらくして戻ってきて、再び牧宰となり、任じるのに江淮・嶺表・磧に、だいたい懲罰的左遷を示しても、心の中では自暴自棄を懐き、貨に従って財貨を集め、終わっても改悛の心なぞありません。明主の万物においては、平分にして恩を施すのに均等ではないことはなく、吏を罪として遠方の太守とするのは、これを奸人に恵みして遠きに残すという。遠州の辺境の村々は、どうやって聖化を負って、ただその悪政を受けるのでしょうか。辺境の官吏がいる地は、異民族・漢族が雑居し、険阻や遠方であることをたのんで騒動をおこしやすく、平定も困難なのです。官はその才能でなければ、民衆は流亡し、蹶起して盗賊となるのです。これに基づいていうのなら、凡才は用いるべきではなく、ましてや狡猾な官吏はどうでしょうか。臣が願うところは、収賄によって解任を詮議された者は、除籍されてから数十年もしないうちは、再任用を賜ってはなりません。『書』に「民のよいものと悪いものをみきわめて」(尚書 周書畢命)とありますが、それは適切なことなのです。」 上疏したが、答えはなかった。 黄門侍郎、漁陽県伯に遷った。魏知古とともに東都で進士の試験を実施する責任者となった。開元元年(713)、同紫微黄門平章事(宰相)に昇進した。開元三年(715)、黄門監に改められた。薛王の叔父の王仙童は百姓に暴虐を働き、御史は捜査してその罪を検挙し、事実を列挙したから、詔が紫微・黄門に下されて審理させた。盧懐慎は姚崇とともに執奏して、「王仙童の罪状は明白で、もし御史を疑うようなことがあれば、他の人は何を信じたらよいのでしょうか」と申し上げ、これによって獄決した。盧懐慎は自ら才能は姚崇に及ばないとみなしていたから、そのため事案はすべて推して専断せず、当時の人は譏って「伴食宰相」と呼んだ。また吏部尚書を兼任し、病のため骸骨(辞職)を乞い、許された。卒すると、荊州大都督を追贈され、諡を文成という。遺言して宋璟・李傑・李朝隠・盧従願を推薦し、帝は哀悼して嘆いた。 盧懐慎は清廉で経営を行わず、服飾・器物に金玉や模様の飾がなく、身分は貴かったが妻子は寒さや飢えに瀕し、俸禄を得ると、故人や親戚に惜しむことなく、散財し尽くした。東都の貢挙を担当するため派遣されると、身に携えたものは、一つの布袋にとどまった。病となったから、宋璟・盧従願が見舞いすると、筵を覆って寝床とし、門には箔を施していなかった。風雨がくると、すべての席が妨げとなった。日が遅くなってから食事とし、豆を蒸して二つの器に盛り、菜と数杯の酒があるだけであった。別れの時がくると、二人の手をとって、「お上は治世を求めること熱心であらせられるが、しかし国を長いことみると、しばらくしてお勤めに飽きられて、奸人が間に乗じて進んでくることがあるだろう。官邸で記録しておきなさい」と言った。葬式になっても、家に貯蓄はなかった。帝は当時東都に行幸しようとすると、四門博士の張星が上言して、「盧懐慎は忠節かつ清廉で、真っ直ぐな道のまま終えられましたが、お褒めのご下賜を加えられておらず、善を勧めることができません」と言ったから、そこで制を下してその家に物百段、米粟二百斛を賜った。帝が京師に帰還すると、追い込み猟で、杜との間を行き来し、盧懐慎の家が遠望でき、小さな垣根があり、家人が何かしているようであったから、使者を走らせて尋ねてみると、戻って盧懐慎大祥(三回忌法要)をしていたと報じたから、帝はそこで縑帛を賜い、そのため狩猟をやめた。その墓に立ち寄ると、碑表がなかった。行列を止めて眺めていると、涙がはらはらと流れて泣き、官吏に詔して碑を建てさせ、中書侍郎の蘇頲に文をつくらせ、帝自ら書した。 子に盧奐・盧弈がいる。 盧奐は、若い頃から容貌に優れ、吏になると清廉であると称えられた。御史中丞を経て、京師から出されて陜州刺史となった。開元二十四年(736)、帝が西に帰還すると、陜州に立ち寄り、その優れた政治をお褒めになられ、賛を役所に次のように書いた。「太守の任は重要であるが、陝州の政治は優れている。またすでに人々を救い、忠誠の心がある。これは国の宝となり、家風をおとさない人物である。」ついで京師に召喚されて兵部侍郎となった。天宝年間(742-756)初頭、南海太守となった。南海は水陸の集積地であって、物産は怪異で、前太守の劉巨鱗・彭杲は収賄で失脚し、そのため盧奐と交替した。汚職にまみれた吏は手を縮め、宦官で市舶に携わる者もまたあえて法を違反せず、遠方の習俗は安じた。当時開元から四十年たち、治世が優れて清廉な者は、宋璟・李朝隠・盧奐の三人だけであった。尚書右丞で終わった。盧弈は「忠義伝」を見よ。 李元紘は、字は大綱で、その先祖は滑州の人であり、後世に京兆万年県に住んだ。本姓は丙氏である。曽祖父の李粲は、隋に仕えて屯衛大将軍となり、煬帝は京師の西二十四郡の盗賊を取り締まらせ、安んじ宥めて、よく兵士の心をつかんだ。高祖は李粲を厚遇し、兵が関内に入ると、多くを帰順させたから、宗正卿、応国公を授け、姓は李氏を賜った。後に左監門大将軍となり、老いたから、乗馬のまま宮中に入ることを許した。年八十歳あまりで卒し、諡を明という。祖父の李寛は、高宗の時に太常卿、隴西公となった。父の李道広は、武后の時に汴州刺史となり、善政をしいた。突厥・契丹が河北に侵攻すると、議して河南の兵で迎撃したが、百姓は震撼しており、李道広はことごとく慰めたから、人々で離散する者はいなかった。殿中監、同鳳閣鸞台平章事に遷り、金城侯に封ぜられた。卒すると、秦州都督に追贈され、諡を成という。 李元紘は、若い頃から身を謹んで礼法を守り、仕官して雍州司戸参軍となった。当時、太平公主は天下に勢力を振るい、百官はその勢力に従おうとし、かつて民と公主が水車石臼の使用で争った際に、李元紘は民に帰結させた。長史の竇懐貞は非常に驚き、駆けつけて改めようとしたが、李元紘は署判の後ろに「南山に移すべし。判決は変更してはならない」としていた。好畤県の令となり、潤州司馬に遷ったが、優れた統治によって名声を得た。開元年間(713-741)初頭、万年県の令となり、賦役は公平であると称えられ、京兆少尹に抜擢された。詔によって京師付近の渠を裁決することになった。当時、諸王・公主・権勢の家はすべて渠の傍らに水車石臼を建て、溜池を堰き止めて水利権を争い、李元紘は吏に命じてすべて破却し、灌漑用の運河から分水して田に下し、民はその恩を頼った。三たび吏部侍郎に遷った。当時、戸部の楊瑒・白知慎は徴税の失敗を罪とされ、刺史に貶され、帝は代わりとなるべき者を求め、公卿の多くは李元紘を推薦した。帝は戸部尚書に抜擢しようとしたが、宰相は素質が薄いとしたから、そこで戸部侍郎となった。箇条書きにして利害および政治の得失を述べたから、帝は才能があるとし、帝王の助けとすべき者であるといい、衣一揃、絹二百匹を賜った。翌年、遂に中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され、清水県男に封ぜられた。 李元紘は宰相となると、仕事ぶりは厳しく抑圧し、突っ走る者を抑え、出し抜こうとする者は憚った。五月五日、武成殿で宴し、群臣に重ね着を賜い、特に紫服、金魚錫は李元紘と蕭嵩のみで、群臣に比較できる者はいなかった。当時、京司の職田を廃止し、議する者は屯田を置こうとした。李元紘は「軍と国は同一ではなく、内と外も制度は異なっており、もし人が手隙で戦争がなく、耕作放棄地があれば、手隙の人に耕作放棄地を耕させると、運漕の労を省き、軍糧の実となるので、そうなれば屯田することは、ますます有益なことなのです。今百官が職田を廃止することは一県だけではないので、迎合すべきではありません。百姓の私田はすべて力して自ら耕したものであるので、奪ってはなりません。もし屯田を設置すれば、公と私がそれぞれ置き換わることになり、丁夫を徴発することになります。徴発すれば業は家を廃し、庸を免除すれば賦税は国から欠乏します。内地に屯田を置くことは、古よりいまだなかったことです。恐れるところは損失を補うことができず、いたずらに費用を費やすことです。」と述べたから、遂に議は止んだ。それより以前、左庶子の呉兢が史官となり、『唐書』および『春秋』を撰述したが、完成せず、喪があけてから、後に上書してその仕事を終わらせるよう願った。詔して集賢院にて成書することを許した。張説が致仕すると、詔して自邸で史書を編纂させた。李元紘はそのため「国史は、人君の善悪や王政の損益を記録し、毀誉褒貶がつながることは、前聖が最も重んじたことです。現在、国の大典は、分散して一つではありません。また太宗が史館を禁中に別置したのは、秘密を厳重にしたからなのです。願うところは、張説に対して書によって史館につかせ、撰録に参与させることです」と述べた。詔して裁可された。 後に杜暹と合わず、しばしば帝の御前で弁論したから、帝は不快に思い、全員を罷免し、李元紘を曹州刺史とし、蒲州に遷したが、病と称して辞職した。後に戸部尚書で致仕し、再び太子詹事に起用された。卒すると、太子少傅を追贈され、諡を文忠という。 李元紘が宰相となると、清廉で節度があり、宰相となって年を重ねたが、いまだかつて邸宅を改築したことはなく、子馬は貧弱で、封物を得ても親族に散財した。宋璟はかつて「李公は宋遥の美点を引き継ぎ、劉晃の貪欲さを退け、国の宰相となっては、家に蓄えを留めることなく、季文子の徳であっても、どうしてこれに加えることができようか」と嘆いた。 杜暹は、濮州濮陽県の人である。父の杜承志は、武后の時に監察御史となった。懐州刺史の李文暕が人に告発され、杜承志に詔があって審理させたところ、無実とした。李文暕は、宗室の近族であり、ついに罪を得て、杜承志も貶されて方義県の令となり、天官員外郎に遷った。羅織の獄がおこり、病と称して辞職し、家で卒した。 高祖の時代から杜暹の時代までは、五世代が同じところに居住した。杜暹は最も慎み深く、継母につかえて孝行であった。明経化に推薦されて及第し、婺州参軍に補任され、任期満了で帰還し、吏は紙を一万枚贈ったが、杜暹は百枚のみ受け取った。皆が「昔、清吏であっても大銭を受け取ったが、なんと珍しいことだろうか」と感嘆した。鄭県の尉となり、また清廉かつ節度によって名が有名となった。華州司馬の楊孚は、公明で正直な人であり、たびたび杜暹を重んじて意見を聞いた。たまたま楊孚が大理正に遷任することになったが、杜暹もたまたま罪に連座し、楊孚は「もし人を罪にさせたら、皆にどうやって善を勧められようか」と言い、宰相に進言し、これによって大理評事に抜擢された。 開元四年(716)、監察御史となって磧(ゴビ砂漠)西に滞在した。安西副都護の郭虔瓘と西突厥可汗の阿史那献、鎮守使の劉遐慶が相互に訴え、杜暹に詔して審議させた。突騎施(テュルギシュ)の帳に入ると、証拠を探した。虜は金を杜暹に贈り、杜暹が固辞すると、左右の者が「公は絶域に使者となって来たのですから、彼ら戎の心を失ってはなりません」と言ったため、受けたが、密かに幕下に埋めた。境界から出ると、文書で命じて受け取った物を取り出させた。突厥は大いに驚き、磧を渡って追跡したが、間に合わず去った。給事中に遷ったが、母の喪に遭って辞職した。安西都護の張孝嵩が太原尹に遷ることになり、ある者が杜暹を安西に行かせると、虜はその清廉さに心服し、今なお思い慕っていると申し上げたから、そこで奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)されて黄門侍郎兼安西副大都護となった。翌年、于闐(ホータン)王の尉遲朓が突厥諸国と約束して叛こうとしたが、杜暹はその謀を暴き、兵を発して討伐して斬り、支党をことごとく誅殺し、さらに君長を立てて、于闐を安んじた。功によって光禄大夫を加えられた。辺境を守備すること四年、戎を撫育して兵士を訓練し、よく自ら勤め励ましたから、戎も漢人もとも心服した。 開元十四年(726)、召喚されて同中書門下平章事(宰相)となり、中使を派遣して迎えに行かせた。謁見すると、絹二百、馬一匹、邸宅一区画を賜った。李元紘とあれこれ反りが合わず、罷免されて荊州都督長史となり、魏州刺史、太原尹を歴任した。帝が北都(太原)に行幸すると、戸部尚書に昇進し、行幸の随行を許されて帰還したが、再び東に行幸すると、杜暹は京師留守となった。杜暹は当番の衛士を率いて三宮城を修繕し、池を浚ったが、監督は少しもなまけなかった。帝は聞いてお褒めのお言葉をいたただき、しばしば書を賜って労った。礼部尚書に昇進し、魏県侯に封ぜられた。 開元二十八年(740)卒し、尚書右丞相を追贈され、使者を派遣して葬列を護送させ、禁中から絹三百匹を出して賜い、太常は諡を貞粛とした。右司員外郎の劉同昇らは杜暹が忠孝を行い、諡はまだつくされていないとし、博士の裴総は杜暹が黒い喪服を着て安西への赴任の命を受け、国に勤労したとはいえ、孝を尽くすことができなかったと言った。その子は訴え、帝はさらに役人に勅して考定させ、ついに諡を貞孝とした。 杜暹は友愛のある人物で、異母弟の杜昱を非常に可愛がった。その人となりは学問が希薄で、そのため朝廷で議論すると、時々浅薄を露呈した。しかしよく公に清廉で自己保全に勤め、倦まず休まず努め励んだ。若い頃より誓って親友からの贈り物を受け取らず、こうして身を終えた。卒すると、尚書省および吏が贈り物をしたが、その子の杜孝友は一つも受け取らず、杜暹の普段の志を行ったのだという。 杜暹の族子に杜鴻漸がいる。 杜鴻漸は、字は之巽である。父の杜鵬挙は、盧蔵用とともに白鹿山に隠遁し、母の病のため、崔沔とともに同じく医術を蘭陵県の蕭亮に授けられ、遂にその術を窮めた。右拾遺に任命された。玄宗が東は河に行くと、そこで狩猟したから、賦を奉って風刺した。安州刺史で終わった。 杜鴻漸は進士に及第し、延王府参軍に任じられ、安思順は上表して朔方節度判官とした。安禄山が叛乱をおこすと、皇太子は軍を率いて平涼に行ったが、駐留に適当な場所がわからなかったから、議して蕭関道を出て豊安に赴いた。杜鴻漸は六城水運使の魏少游、節度判官の崔漪、支度判官の盧簡金、関内塩池判官の李涵と謀って、「夷どもが秩序を破壊し、長安・洛陽の二京は占領されてしまった。太子が兵を平涼で収められたが、土地が分散していて根拠地とするのは難しい。今朔方が勝利を制しようとするなら、太子を奉迎し、西は河・隴に詔し、北は回紇と手を結び、回紇は最初から国家とともに、協力な騎馬を収め、兵力を合同し、南方を鼓舞すれば社稷の恥を雪ぐのは、また簡単なことではないであろうか」と述べ、そこで兵馬召集の軍を詳細に上奏し、また軍の資材、攻城用器械、兵糧を記録し、李涵を平涼に派遣して太子に引見させると、太子は大いに喜んだ。たまたま裴冕が河西よりやって来て、また朔方に行くことを勧めた。杜鴻漸は崔漪とともに白草にやってきて迎え謁し、「朔方軍は天下の強兵で、霊州は本領発揮の地です。今、回紇は和平を願い、吐蕃は付き従っており、天下は城を並べて堅守し、王命を待っています。たとえ賊に占領されていても、日夜官軍を待ち望み、回復しようとはかっています。殿下が兵を手に入れ長駆すれば、逆胡どもを滅すことは簡単なことです」と説き、太子は喜んで「霊武は私にとっての関中だ。卿は私にとって蕭何だ」と言った。 霊武に到着すると、杜鴻漸は裴冕らとともに皇帝の位に即位することを勧め、内外の望みであるとした。六度要請し、聴された。杜鴻漸は朝廷の作法に明るく、故事通りに采配し、壇を城の南に設け、一日前にその儀式の次第を詳細にして草案を上奏した。太子は「聖皇は遠くにあらせられ、逆賊どもは結束しようとしている。壇場をやめて、他は奏上の通りとせよ」と言い、太子は即位した。これが粛宗である。杜鴻漸に兵部郎中を授け、中書舎人とした。俄に武部侍郎となり、河西節度使に遷った。長安・洛陽の両京が平定されると、また荊南節度使となった。乾元二年(759)、襄州の大将の康楚元らが叛き、刺史の王政は脱出して逃走し、康楚元は偽って南楚霸王と称し、そこで荊州を襲撃した。杜鴻漸は城をすてて逃走し、人々は皆南へ逃れ、舟を争って溺死する者が非常に多かった。澧・朗・復・郢などの州は杜鴻漸が逃れたのを聞いて、皆山谷に隠れた。にわかに商州刺史の韋倫がその叛乱を平定した。 しばらくして、杜鴻漸を召喚して尚書右丞、太常卿とし、礼儀使にあてた。泰陵・建陵の二陵の制度はすべて杜鴻漸が統括したもので、優れた成績によって、衛国公に封ぜられた。また、「『周官』に「災害時には礼を省く」(周礼 掌客)とあり、今大乱をうけ、人民は殺されたり重症を負っています。婚礼・葬送の行列は、国に大功がある者や二等の以上の場合でなければすべて許されませんように」と建言し、詔して裁可された。 代宗の広徳二年(764)、兵部侍郎同中書門下平章事(宰相)に任じられた。ついで中書侍郎に昇進した。崔旰が郭英乂を殺して成都を占領し、邛州牙将の柏貞節、滬州牙将の楊子琳、剣州牙将の李昌巙が兵で崔旰を討伐し、蜀の地は大乱となった。杜鴻漸に命じて宰相の地位のまま成都尹、山南西道剣南東川副元帥、剣南西川節度副大使を兼任して鎮圧・撫育に向かわせた。杜鴻漸の性格は臆病で、他に遠大な計略はなく、晩年は仏教におぼれて殺戮を恐れた。剣門を過ぎるにあたって、張献誠が敗北したのを教訓とし、また崔旰の武勇を恐れ、先に許したから死ななかった。面会すると、礼をもって待遇し、あえて譴責せず、かえって成都の政務を委ね、毎日従事の杜亜・楊炎と宴会泥酔し、そこで崔旰を推薦して成都尹とし、柏貞節に邛州刺史、楊子琳に滬州刺史を授け、それぞれ戦闘を停止した。そこで入朝を願い出て、聴された。帝に謁見すると、盛んに崔旰の武威・知略が任じるにたえうるものであり、留後とすべきであるとした。宝器五床、羅錦(刺繍入りの錦)十五床、麝臍(ジャコウジカのへそ近くの麝香嚢から製する香料)五石を献上した。また宰相に復帰した。議論する者は乱を長引かせたことを憎んだ。門下侍郎に昇進した。大暦三年(778)、東都留守、河南淮西山南東道副元帥を兼任したが、疾と称して赴任しなかった。また山南、剣南副元帥の地位を譲り、聴された。大暦四年(779)、病が重くなり、宰相を辞任し、辞めて三日して卒した。年六十一歳。太尉を追贈され、諡を文憲という。 杜鴻漸が蜀より帰還すると、千僧供養を行い、報いがあると思ったから、貴紳たちはこれに倣った。病が重くなると、僧に頭を剃らせ、仏葬(火葬)するよう遺命し、土を盛って木を植えるような墓地をつくらなかった。 張九齢は、字を子寿といい、韶州曲江の人である。七歳で文章をつづることをおぼえた。十三歳のとき、広州の刺史であった王方慶に書簡を送った。王方慶は感心していった、「こいつはきっと出世するぞ」。ちょうど張説が嶺南地方に左遷されてきたが、一見すると彼を厚遇した。父親の喪にあって、哀しみにやつれて、その結果役所にある樹木の枝が連なりあうという瑞祥が現れるほどだった。進士に選抜され、最初校書郎に任命されたが、道侔伊呂科の試験でよい成績をあげたため、左拾遺となった。当時玄宗は即位したところで、まだ郊見をしていなかったので、張九齢は建白書を奉った。 「天は、百神の君主であって、王者は天より受命によるところです。古より帝統を継いだ主は、必ず郊祀で始祖を配祭しますが、思うに天命を敬い、受命したところに報いるからなのでしょう。恩恵がいまだに行き渡らず、一年の稔りもまだ実っていなければ、その礼を欠くのです。昔、周公旦は后稷を郊祀して天に配えたのは、成王が幼かったから自ら行ったのだといい、周公は摂政となってその礼を用いたので、廃さないことを明らかにしたのです。漢の丞相の匡衡は「帝王の事で郊祀より重いものはない」と言い、董仲舒はまた「郊祀せずに山川を祭るのは、祭祀の序列を失うことになり、礼にそむく。『春秋』はこれを謗っている」と言っています。臣は匡衡・董仲舒は古の礼を知っているというべきで、皆郊祀を先に行うべきだとしています。陛下は先聖の美業をお継ぎになって、今にいたるまで五年になりますが、まだ天を大いに報祀しておらず、これを経によって考えてみるに、義は通じていません。今、百穀はめでたく実り、鳥獣にも帝王の教化が行われ、夷狄は朝廷に帰順し、武器は使うことをやめていますが、だから天につかえることを怠るのは、後世への教訓とすべきではないと恐れています。願わくば長日(冬至)を迎えて紫壇にのぼり、美しい席をならべ、天位を定めれば、聖典の教えをあますことはないでしょう。」 また申し上げた。「失政の気は発して水害や旱魃となります。天道は遠いとはいえ、こたえることは非常に近いのです。昔、東海で孝婦が無実の罪で殺されると、天はしばらく旱となりました。一官吏の愚かさのため匹婦が非業の死を遂げたとしても、ただちに天はその無実を明らかにします。ましてや全世界の人民の多くは、県では県令に命じられ、家では刺史に生かされ、陛下はこれと共に統治するところで、もっとも人に親しい者においてはどうでしょうか。もしその任にあたいしなければ、水害や旱魃になる道は、どうしてただ一婦だけがたどるのみになるのでしょうか。今刺史や京近の雄望の郡は、まだ多少は人材が選ばれているようですが、江・淮・隴・蜀・三河の大府の外は、そのような人材ではない者もいるのです。京官より出た者は、ある者は昇進した者ですが、またある者は政務に功績がないのに州郡の長官の任に用いられた者で、これは外地の長官が追放・左遷の地となったからです。ある者は追従によって高官となり、勢力が衰えるとこれを京職とは称さないといい、出て州の刺史となったのです。武官や流外官は財産を積んでこの職を得たのであって、才能によったのではありません。刺史がそうなのですから、県令に到っては言うまでもありません。民百姓は国家の根本で、物事の根本の事柄に努力すべきつとめで、よく進上する者は軽んじられ、疲弊した民は、不才の人に遭うと騒擾となり、聖化はこれによって消沈して晴れ晴れとせず、親近の人を選ばないからこのような弊害がおこるのです。古の時代、刺史は入っては三公となり、郎官は出ては百里もの地をつかさどりました。今朝廷の士は一度入ってしまえば外地に赴任することはなく、計略を私用ではかって、かなり得意になってうぬぼれているのです。京師の衣冠を集めると、身名出るような身分の者は、京師に落ち着いて外に赴任しない理由を無理にこじつけ、外地への勤めずに出世しますが、これは大きな利益が京師の内にあるからであって、外にはないからなのです。智能の士で利を欲する心がある者は、どうして再度出て刺史・県令になることを承諾しましょか。国家は智能の士に頼って統治していますが、常に親しい人がいない者は、陛下が法を理由に改めないからなのです。臣は思いますに、治めようとするの本義は、刺史を重んじるのに他はなく、刺史が既に重きを置かれているのなら、すなわち優れた者を任命すべきです。試験してその資質を見定めるのがよいでしょう。概ね都督・刺史を歴なければ、高位の子弟であっても、侍郎・列卿に任じさせるべきではありません。県令を歴なければ、善政したとしても、台郎・給事・舎人に任じるべきではありません。都督や刺史は遠地であっても十年以上外地に任じることをさせてはなりません。このことを行わずにその失を救うようなことがあれば、恐らくは天下はまだ治まっていないようなものです。」 また申し上げた。「古の時代の士を選ぶには、思うによくその任にあたる者を採用し、これによって士は素行を修養するから、思いがけない幸せとはならず、悪巧みは自然と止み、官位はおかしなことにならないのです。今天下は必ずしも上古のように治まらず、一日の事務量は以前の倍に達しており、本当にその根本を正しくなければ、末節が虚偽を行うことになります。所謂末節というのは、吏部条章は千百人にも及んでいます。役人は文墨に溺れ、文筆に優れた悪賢い者共は、悪者によって奮うのです。臣は思うに、当初、出納簿をつくることとは備忘に備えるのみでしたが、今はかえって精密さを案牘(調査文書)に求めており、それなのに人材を求めるのに性急になっていますが、これは所謂剣を流れの中に残して、契丹で記すようなものです。おしなべて吏部で優れた者は、すなわち尉と主簿より、主簿と丞より、ここに文をとって官次を知るもので、それが賢者であろうが不肖な者であろうが論じることはないのは、どうして誤ちではないというのでしょうか。吏部尚書や侍郎というのは、賢者に授けるものですが、どうして賢者を知ることができないというのでしょうか。賢者を知ることが難しいようでしたら、十人を抜擢してうち五人を得られれば、これでよいのです。今かたく格条を用い、資質によって職を配し、官のために人を選んでも、当初からこの意がなければ、そのため時の人は品評調配の誹りを受け、役所は賢人の実を得ることができなくなります。」 「臣が申し上げます。選部(吏部)の法はおとえても変わることはありません。今、刺史・県令のようにその人を詳細に調べ上げ、そこで管内で毎年選にあたる者は、才行を選考して、流品に入るべきであれば、その後に御史台に送り、また選に加えられるのであり、多少でも用いるところは州県の役人の功過についてその上功下功を評定し、そこで州県は慎んで推挙された者で、官吏となるべき才能が多ければ、吏部はその作成された推挙文によるので、凡人がやたらめったらいるということがなくなります。今毎年選ばれるのは一万人を数え、京師の米や物が消耗していますが、どうして士が多いというのでしょうか。思うにみだりにこれがそれにあたるとしているだけなのでしょう。まさに一詩一判をもってすれば、その是非が定まり、たまたま賢人をのがし漏らしたとしても、これは当代の失政なのです。天下は広く、朝廷に人は多いとはいえ、必ず悪口と賞賛があい乱れ、聞く者も受ける者もわからなくなると、事は終わってしまうのです。もしその賢能を知り、それぞれ品第があり、官吏に一人欠員が出るごとに、次にこれを用いることをしなければ、どうしてできないというのでしょうか。もし諸司要官が、下等の者をみだりに昇進させれば、この議に高貴も卑賎もなく、ただ得るのとそうではないのがあるだけになります。そのため公正な議論はおこらず、名節はおさまらず、善士は節を守って時を失い、中人は追求して操つりやすくなるのです。朝廷はよく令名によって人を推挙し、士もまた名を修養して利を得ており、利が出ると、多くはそれに走るのです。そうでなければ小者はいやしくも求めることを得て、一変して私事におもんねることになり、大者は名分を守るのに従うことを許しながら、二変して朋党をなすのです。そのため人を用いるのには身分の高い低いで落第にすべきではなく、身分の高い低いに序列があるからといって、簡単に閑職に追いやるべきではなく、天下の士は必ず心の中で己の品徳を修養するよう刻んでいるから、政務や刑罰はおのずから清廉となり、これは興衰の大事な部分なのです。」 急に左補闕に昇任した。張九齢は人才を見抜く能力をもっていた。吏部が抜萃と被推挙者を試験する場合、いつも右拾遺の趙冬曦と席次を考査し、ゆきとどいて公平だと評判された。司勲員外郎に転任した。当時張説が宰相であったが、彼をいつくしみ大事にし、同じ張姓というので同族扱いをした。常に「わが家の若者は、文学者仲間の第一人者だ」といっていた。中書舎人内供奉に昇任し、曲江の男爵に封じられた。中書舎人に進んだ。そのころ、玄宗は泰山で封禅を行った。張説は門下省の録事と中書省の主書それに身近な部下を泰山に連れて行くために数多く抜擢した。特進して五品の位に登るものがいた。張九齢は詔勅を起草するときに、張説に向かっていった。「官位爵位というのは天下の公器で、徳義と人望を第一とし、功労と旧識を二の次とするものです。現在、泰山に登って封禅を行い天に成功を報告しようとしており、千年に一度の大典です。それなのに高潔な人々は格別の御恩から遠ざけられており、小役人の方が高官のしるしである章韍をつけるでたらめさです。詔が発布されると、四方の人々の期待を裏切ることが心配です。今、草稿をさし出すときなので、まだ変更が可能です。公はよろしく熟慮して下さい」。張説はいった。「事柄は決定ずみだ。いいかげんな議論は、気にかける必要はない」。その結果、果たして非難を受けた。御史中丞の宇文融は田法に専念していたところで、それに関連して上奏したことがあった。張説は事あるごとにそれに異議をとなえた。宇文融は彼に対しふんまんが積み重なった。張九齢はそのことについて注意したが、張説はききいれなかった。突然、宇文融に手ひどくとがめだてられ、危うく処刑されるところだった。張九齢も太常少に配置がえされ、冀州刺史として出されたが、母親が故郷を離れることを承知しないので、上表して洪州都督に変えてもらい、桂州都督に移り、嶺南按察選補使を兼任した。 以前、張説は集賢院の長だったときに、張九齢を帝の顧問となる資格があると推薦したことがあった。張説がなくなってから、天子はその言葉を思い出し、召し帰して秘書少監・集賢院学士知院事に任命した。ちょうどそのとき、渤海国王に詔勅が下されることになったが、その文書を作れるほどのものがいなかった。そこで張九齢を召してそれを作らせたが、詔を受けると直ぐに作りあげた。工部侍郎・知制誥に昇任した。度々郷里に帰って孝養をつくしたいと願い出たが、勅許されず、彼の弟の張九皋と張九章を嶺南刺史に任命し、節季ごとに馬を支給して家を見舞うことをゆるした。中書郎に昇任したが、母親の喪ため職を離れた。悲しみにたえずやつれはてた。紫芝が居間の側に生え、白鳩と白雀が庭の木に巣をかけた。その年、服喪期間をきりあげさせられ、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)に任命された。固辞したが、許されなかった。翌年、中書令に昇進した。初めて河南に水を開くことを建議し河南稲田使を兼任させられた。年功序列の廃止とふたたび十道採訪使を設置することをした。 李林甫は学問がなかったので、張九齢が文章によって帝の知遇を受けているのを見て、心中を嫌った。たまたま范陽節度使の張守珪が可突干を斬る功績を立てたので、帝は彼を侍中にとりたてたいと思った。張九齢はいった。「宰相とは天に代わって万物を治めるものです。しかるべき人がいて、始めて任命するもので、功績のほうびとして与えるべきではありません。国家の失敗は、官吏のまちがった任命から起こります」。帝はいった。「宰相の名をかすのだが、どうかね」。答えて「名義と器物はかすべきではありません。東北の二蛮族(奚と契丹)を平定するようなことがありましたなら、陛下は侍中の上に何をつけ加えられますか」。かくて中止になった。また、涼州都督の牛仙客を尚書にとりたてようとした。張九齢はあくまでも反対した。「いけません。尚書は昔の納言です。唐朝では元大臣を起用する場合が多いのです。そうでないとしても、内外の高官を歴任しすぐれた徳義人望を有するものを、それにとりたてます。牛仙客は黄河・湟河流域の一地方官に過ぎません。大臣の一員となれば、天下はいったい何ととりざたしましょうか」。さらに実際の領地を賜与しようとした。張九齢はいった。「漢の法律では、功績があるのでなければ、領地を与えませんでした。唐が漢の法律を活用することは、太宗の定められた規則です。国境地帯の将軍が穀物絹帛を貯え、兵器具に手入れすることは、職務からいって当然のことに過ぎません。陛下がどうしても彼にほうびを授けるおつもりなら、金と帛を下賜されればよろしいことです。土地をさいて領土を与えることは、絶対によろしくありません」。帝は腹を立てていった。「牛仙客の出身が賎しいから、彼を毛嫌いするのではないか。卿は実際もとから名門だとでもいうのかね」。張九齢は頭を地につけて辞儀をしていった。「臣はさいはての地より参った孤独の身です。陛下にはうっかり文学者として臣の採用をゆるしになりました。牛仙客は小役人から抜擢されまして、書物を読んだこともございません。韓信は淮陰の一壮士でありましたが、周勃・灌嬰らと同列になったことを恥としました。陛下がどうあっても牛仙客を起用されるならば、臣は実際それを恥と考えます」。帝は不気嫌だった。翌日、李林甫が参内して申しあげた。「牛仙客は宰相の器です。それを尚書になることが無理だというのでしょうか。張九齢は文官で、古くさい道理にこだわって、本筋を見失っているのです」。帝はこの発言によって牛仙客起用を決定してためらわなかった。張九齢は帝の気持ちに逆らってからは、全く心中に危惧し、かくては李林甫に陥し入れられる結果となるのを心配した。帝が白羽扇を賜与された機会に、賦を献上して扇に託して心境を述べた。その末句に「いやしくも効用の所を得れば、身を殺すといえども何をか忌まん」とあり、また「たとい秋の気の移奪するも、ついに恩を篋の中に感ず」とあった。帝はねんごろなお言葉で答えられたが、けっきょくは尚書右丞相の資格のままで政権から退け、牛仙客を起用した。それ以後、朝廷の官僚たちは俸禄を大事にして天子の恩寵をそこなわないようにした。以前、張九齢は長安尉であった周子諒を推薦して監察御史としたことがある。周子諒は牛仙客を弾劾したが、その上奏文の中に讖緯の書を引用した部分があった。帝は怒り、政事堂において周子諒を杖で打たせたうえ、瀼州に流したが、彼は道中で死んだ。張九齢は不適当な者を推挙したかどで、荊州長史に降等された。まともな行為によって左遷されたにもかかわらず、怨みの念にとりつかれて悲しむこともなく、ただ文学歴史を楽しみとして過ごした。朝廷ではその名声を認めて、しばらくしてから始興県伯にとりたてた。彼は郷里に帰って墓守りをすることを願い出たが、病気でなくなった。六十八歳であった。荊州大都督を追贈された。諡は文献という。 張九齢はひよわな体質で、おくゆかしい人であった。慣例によると、高級官僚はみな笏を帯にはさんでから馬に乗ったが、張九齢だけはいつも人にそれを持たせていた。そのため笏袋を設けたが、それは張九齢から始まる。以後、帝が人を起用するとき、必ず「ものごし態度は張九齢みたいになれるかね」と訊ねるのが例であった。以前千秋節のとき、公・王がたはいずれも宝の鑑を献上したが、張九齢は「千秋金鑑録」と名づける事がらの鑑となるべき十章の書を献上して諷諭の意を述べた。厳挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡と仲がよく、彼らが終始変わらぬ交友関係を保ったことを、世間では称賛した。宰相となると、ずけずけと発言して大臣の節義があった。その当時、帝は在位も長く、次第に政治をおろそかにしだした。従って張九齢の議論は必ず善悪を遠慮なく指摘し、推挙する人物はすべてまともな人々だった。武恵妃が皇太子李瑛を陥し入れようとたくらんだとき、張九齢はあくまでも反対した。武恵妃はひそかに宦奴の牛貴児を彼のもとにやっていわせた。「廃されるものがおれば必ず起用されるものがおります。公が加勢して下されば、宰相の位に長くおれましょう」。張九齢はどなりつけた。「奥向きのものが、どうして外に口をはさむのです」。急遽そのことを奏聞した。帝はそのため表情を変えた。おかげで張九齢が宰相である間は、皇太子に災厄は起こらなかった。安禄山が初めて范陽偏校下級士官として参内して上奏したとき、おごりたかぶった気色だった。張九齢は裴光庭に向かっていった。「幽州を乱す者は、このえびすのひよっこだ」。安禄山が奚・契丹を討伐して敗れた時、張守珪は逮捕して都に行った。張九齢はその間の事情を書き記して述べた。「司馬穰苴は出陣するとき、遅刻した荘賈を処刑しました。孫武は模擬戦のときですら、兵士として使った宮女を死刑にしました。張守珪が軍法とおり厳正に執行するならば、安禄山は死を免れるべきではありません」。帝はききいれず、安禄山をゆるした。張九齢はいった。「安禄山は狼の子で荒々しい心のままで、反逆の相があります。事件を利用して彼を処刑して、将来の禍根を絶つべきだと存じます」。帝はいった。「卿は王衍が石勒の下ごころを知っていたためしにならおうとして、忠良の人を害してはならんぞ」。けっきょく採用されなかった。帝はのちに蜀にいるとき、彼の忠義を思いかえし、彼のため涙を流した。その上、使者を韶州に派遣してお祭りをし、手厚い贈り物を送って彼の家族を慰問した。開元(713-749)以後、天下の人は曲江公と称号でよび、名まえをいわなかったという。建中元年(780)、徳宗は彼の風格を評価して、更に司徒を追贈した。 子の張拯は、父の喪にあって節行があり、後に伊闕令となった。安禄山が河州・洛州を陥落させたが、終に偽官を受けなかった。賊が平定されると太子賛善大夫に抜擢された。張九齢の弟張九皋もまた名を知られ、嶺南節度使でおわった。その曾孫に張仲方がいる。 張仲方は、生まれたときから優れており、父の友の高郢は面会して、普通の人ではないと思い、「この子は必ず国の器となるだろう。私が高官になれたら、必ず引き立てよう」と言った。貞元年間(785-805)、進士・博学宏辞科に推薦され、集賢校理となったが、母の喪に遭って辞職した。当時、高郢が御史大夫を拝命し、上表して御史となった。累進して倉部員外郎となった。 当時、呂温らが宰相の李吉甫を弾劾したが証拠はなく、罪とされて排斥され、張仲方は呂温の与党であったから、金州刺史に補任された。宦官が民間の田を奪い、張仲方は三度上疏して明らかにし、ついに民間有利の裁決となった。京師に入って度支郎中となった。李吉甫が卒すると、太常は諡を恭懿とし、博士の尉遅汾清は諡を敬憲とし、張仲方は以前の恨みをかかえてまだやむことがなかったから、そこで議を奉って「古の諡は、大節を考え、細かい行いを略し、善悪が一言で足るようになっています。李吉甫を考えてみますに、多芸多才でしたが、君側に媚び、別人に取り入って自分の安全をはかり、重ねて高官となり、信は少なく謀は安直で、事は成功しませんでした。また兵は凶器であり、こちら側から開戦すべきではありません。罪を討伐するには、迎撃して必ず功績をなすのです。内に輔臣を害する賊がおり、外に害毒を懐く災いがあるのです。兵士は野に暴れ、敵の馬は郊外で生息しています。皇帝は職務多忙のため夜食と夜着で過ごすことになり、公卿・大夫もまた恥じ入り、農民は田畝におらず、糸紡ぎ婦には桑が得られないのです」と述べた。また又言、「李吉甫は平易かつ柔和で、名は配行でありません。願うところは、蔡が平定されるのを待って、その後に議論することです」と申し上げたが、憲宗は兵を用いようとしており、発言に悪意があるのを憎んで、貶して遂州司馬とした。しばらくして河南少尹、鄭州刺史に昇進した。 敬宗が即位すると、李程が宰相となり、引き立てられて諌議大夫となった。帝は当時、王播に詔して競舟三十艘を造船させたが、半年分の運費を用いた。張仲方は延英殿で謁見し、厳しく論じたてたから、帝はそのため三分の二に減らした。また詔して華清宮に行幸することとなったが、張仲方は「万乗の君が行かれる際には、必ず儀仗の兵を備えなければなりません。簡易にすれば威重を失います」と述べた。意見に従わなかったが、慰労された。鄠県の令の崔発は宦官を辱めて獄に繋がれ、大赦となっても許されなかった。張仲方は「恩は天下にこうむると、昆虫にも流れるものですが、御前の場合は行われないのでしょうか」と言ったから、崔発はこのため死なずにすんだ。大和年間(827-835)初頭、京師から出されて福建観察使となった。召還されて、左散騎常侍に昇進した。李徳裕が宰相になると、太子賓客の地位で東都分司となった。李徳裕が罷免されると、再び常侍を拝命した。 李訓の変で、大臣はある者は誅殺され、ある者は拘禁された。翌日、群臣が宣政殿で謁見しようとしたが、宮殿は開かなかった。群臣はバラバラに朝堂に立ち、衛兵の門が開いていなかったため、しばらくすると半扉が開いたが、使者が張召仲に伝えて「詔があった。京兆尹となるべし」と言い、その後門が開き、天子がお出でになる合図があった。その説き、宰相や将軍が皆殺しとなり、頭や脚があちこちに転がっており、張仲方は密かにその死体が誰であるのか識別するために使者を派遣した。にわかに埋葬が許可されると、そのため遺体に混乱が生じなかった。すでに禁軍は横行し、多くが政治に干渉し、張仲方はこれを嫌ったが、弾劾することができなかった。宰相の鄭覃は京兆尹を薛元賞と交替させ、京師から出されて華州刺史となった。召還されて京師に入り、秘書監を授けられた。人々は鄭覃が李徳裕を助けて、張仲方を追い出して用いなかったと言った。鄭覃はそこで丞・郎に任命しようと上奏した。文宗は、「侍郎は、朝廷の花形である。彼の刺史はとくに功績もないから、任命すべきではない」と言ったが、ただ曲江県伯に封じた。卒し、七十二歳であった。礼部尚書を追贈され、諡を成という。張仲方は実直で風骨節操があったが、すでに李吉甫の諡を論駁しており、世間はその発言を修正しなかったから、ついに名声が現れなかったのだと言い、没すると、人々の多くは悲しんだ。 それより以前、高祖が隋に仕えていた時、太宗は幼くして病となったから、そのため玉像を熒陽の寺院に刻んで、毎年祈祷していたが、しばらくして削れてわからなくなってしまい、張仲方が鄭州にいたとき、吏に命じて守らせ、石を刻んで上奏し、当時広く伝わった。 韓休は、京兆長安県の人である。父の韓大智は、洛州司功参軍で、その兄の韓大敏は、武后に仕えて鳳閣舎人となった。梁州都督の李行褒は居民に謀反を告発され、詔して韓大敏に審理させた。ある人が「李行褒は李氏の一族で、武后は除きたいとの思いがあるのだろう。その冤罪をつくることなければ、恐らくはあなたに累が及ぶであろう」と言ったが、韓大敏は、「どうしてこの身を顧みて人の罪に捻じ曲げて殺すことがあろうか」と言い、そのため証拠事実のまま判決を出した。武后は怒り、御史を派遣して再審し、ついに李行褒を殺して、韓大敏は家で死を賜った。 韓休は文章を巧みにし、賢良方正科に推挙された。玄宗がまだ東宮であった時、国政の対策を箇条書きにさせ、校書郎の趙冬曦とともに成績は乙科にあたり、左補闕、判主爵員外郎に抜擢された。昇進して礼部侍郎、知制誥となった。京師から出されて虢州刺史となった。虢州は洛陽・長安の近州であり、乗輿が来る場所で、常に厩の秣が税となったから、韓休は賦を他の郡と同じくするよう願った。中書令の張説は「虢州が免除されて他州に与えられるのなら、これは刺史となった臣が私に恩恵を与えるだけになる」と言ったが、韓休は再び議論をとりあげたから、吏は宰相の意にさからうことを恐れると言った。韓休は、「刺史は幸運にも民の弊害を知ったのに救わなかったなら、どうして政務ができようか。罪を得たとしても、甘んじて罰を受けよう」と言ったが、ついに韓休の要請の通りとなった。母の喪があけ、服喪がとけると、工部侍郎、知制誥となった。尚書右丞に遷った。侍中の裴光庭が卒すると、帝は蕭嵩に勅して代わりとなる者を推薦させ、蕭嵩は韓休の志や行いを称え、遂に黄門侍郎、同中書門下平章事(宰相)を拝命した。 韓休は公正で行動につとめず、宰相となると、天下は一致してよしとした。万年県の尉の李美玉に罪があり、帝は嶺南に放逐しようとした。韓休は「尉は微官で、犯した罪は大悪ではありません。今、朝廷に大奸がいて、先にこちらを治めてください。金吾大将軍の程伯献は天子の恩寵をたのんで貪欲で、自宅に輿や馬があって法度をおかしていますので、臣は先に程伯献を、後で李美玉を裁くことを願うのです」と言ったが帝は許さず、韓休は強く争って「罪が小さいのに容赦しないのに、巨悪であったなら差し置いて問わない、陛下が程伯献を追放しないのでしたら、臣もあえて詔を奉りません」と言い、帝は韓休の考えを換えさせることができなかった。大体お堅く正直な様子はこのようであった。それより以前、蕭嵩は韓休が物腰柔らかく平易な人物であったから、推薦した。韓休は事に臨んではある時は蕭嵩を糾弾したから、蕭嵩とは不和となった。宋璟はこれを聞いて「意とせず韓休がこのようであったなら、仁者の勇だな」と言い、蕭嵩は寛容で多くを受け入れたが、韓休は厳正剛直で、時政の得失は、これを言うのに徹底しなかったことはなかった。帝はかつて苑中で狩猟し、ある時は大いに楽を演奏し、しばらく贅沢をしていると、必ず左右に向かって、「このことを韓休は知っているか」と尋ね、すでに韓休の上疏がたちまち到着していた。帝はかつて鏡の前で、黙って楽しまなかった。左右の物が「韓休が朝廷に来てから、陛下は一日も喜びがなく、どうして御自ら憂い悲しまれて、韓休を追放しないのですか」と尋ねると、帝は「私は痩せていっても、天下は肥えていく。また蕭嵩は何か言うごとに、必ず私の意見に従うが、我は退いて天下のことを思うと、不安で寝られない。韓休が政治の道を述べると、多くを議論し、私は退いて天下のことを思うと、安心して眠れるのだ。私が韓休を用いるのは、社稷の計のためなのだ」と言った。後に工部尚書で罷免された。太子少師に遷り、宜陽県子に封ぜられた。卒し、年六十八歳であった。揚州大都督を追贈され、諡を文忠という。宝応元年(762)、太子太師を追贈された。 子の韓浩・韓洽・韓洪・韓汯・韓滉・韓渾・韓洄は、全員学問があって尊ばれた。 韓浩は、万年県主簿となったが、王鉷の家が財貨を隠したのに連座したから、京兆尹の鮮于仲通に弾劾され、循州に流された。韓洪は司庫員外郎となったが、韓汯も一緒に全員連座して貶された。韓洪は後に華州長史となった。韓渾は、大理司直となった。安禄山の反乱軍が京師に侵攻すると、皆賊に捕らえられ、賊は官につくよう迫ったが、韓浩は韓洪・韓汯・韓滉・韓渾とともに出奔し、行在まで逃走しようとしたが、韓浩・韓洪・韓渾および韓洪の四子は再び賊に捕らえられて殺された。韓洪は人と交わるのをよくし、節義があり、当時最も評判が高く、見る者は涙を流した。粛宗は大臣の子で難事に死んだ者をよしとし、詔して韓浩に吏部郎中を、韓洪に太常卿、韓渾に太常少卿を追贈した。韓汯は上元年間に諌議大夫で終わった。韓洽は、殿中侍御史で終わった。 韓滉は、字は太沖で、蔭位によって左威衛騎曹参軍に補任された。至徳年間(756-758)初頭、山南に避難し、采訪使の李承昭が上表して通川郡長史とし、彭王府諮議参軍に改められた。それより以前、韓汯が知制誥となり、王璵への詔の草稿をつくるにあたって、古典よりの借言がなかったため、恨まれた。王璵が宰相となると、韓滉の兄弟は全員冗官に退けられた。王璵が罷免されると、そこで殿中侍御史に抜擢され、三遷して吏部員外郎となった。性格は強直で、吏の事務に精通し、南曹にいること五年、帳簿に最も詳しい人物となった。給事中に遷り、兵部の選抜試験の責任者となった。当時、富平県令の韋当が盗賊に殺され、賊は北軍に所属しており、魚朝恩はその凶徒に通じ、奏上して死罪を許したが、韓滉は執拗に追いかけ、ついに罪に伏した。右丞に遷った。吏部の選抜の責任者となり、戸部侍郎判度支となった。 至徳年間(756-758)より戦争が勃発してから、賦税に制限がなくなり、財務の官吏は輸送にあたって財物を横領した。韓滉は下級官吏および全国の運送を調査し、罪を犯した者は法にてらして追放とした。この数年しばしば豊作となり、軍事はやや収まり、そのため穀物や帛が山谷のように積み上がり、しばらくの間充実した。しかし公文書を再審理し、法律を厳格に適用して捜索して取り立てたから、人々はまた恨みの声をあげた。大暦十二年(777)秋、大雨により収穫への影響は十のうち八にいたり、京兆尹の黎幹が言上したが、韓滉は租税が免除されてしまうのではないかと恐れ、頑なに事実ではないと上表した。代宗は御史に命じて視察させてみると、実際には損田は三万頃あまりにのぼった。それより以前、渭南県令の劉藻が韓滉にしたがい、領内の田に損害がないと報告し、御史の趙計も査察したが、劉藻の報告の通りにし、帝がまた御史の朱敖に事実を調査させると、田の損害は三千頃であった。帝は怒って、「県令は民を養うのが職務であって、田の損害を不問としたら、どうして百姓の辛苦を心配できようか」と言い、劉藻を南浦員外尉とし、趙計もまた豊州司戸員外参軍に左遷された。まさにこの時、長雨で黄河が結界して塩池に注ぎ込んだが、韓滉は池が瑞塩を産んだと上奏した。帝は疑い、諌議大夫の蒋鎮を派遣して事由を調査させたが、蒋鎮は韓滉を恐れ、戻ってそこで帝に祝賀して、また祠を設置することを願い、詔して宝応霊慶池と名付けた。 徳宗が即位すると、韓滉が民の財物を搾り取るのを嫌って、太常卿に遷した。議論する者は満足しなかったから、そこで京師から出して晋州刺史とした。しばらくもしないうちに、浙江東西監察使に遷り、ついで検校礼部尚書として鎮海軍節度使となった。百姓を慰撫し、租・調を公平に実施すると、一年もしないうちに、領内での統治が称えられた。帝が奉天にあって、淮・汴が騒動となると、韓滉は兵卒を訓練し、兵を分けて河南を守った。帝が梁州に行くと、また縑十万匹を献上し、鎮兵三万を以て賊の討伐の助けとするよう願い出ると、お褒めの詔があり、検校尚書右僕射に昇進し、南陽郡公に封ぜられた。李希烈が汴州を陥落させると、韓滉は部将の王栖曜・李長栄・柏良器に精兵一万人を率いさせて討伐に進撃させ、睢陽に至ると、賊はすでに寧陵を攻撃しており、王栖曜らは打ち破って賊を敗走させ、運送路は塞がることなく、東南の安全を全うできたのは、韓滉の功績が大きかった。 当時、里長が有罪となると、たちまち殺されてしまい、許されることはなかった。人々はこれを怪訝に思った。韓滉は「袁晁はもともと一鞭を持った小役人にすぎなかったが、賊を捕らえては衆望をあつめ、その類を集めて叛乱をおこし、これらの輩はすべて郷県の凶徒であって、殺すにこしたことはない。年少の者を用いれば、身を惜しんで家を保つから悪事をしない」と言った。また賊は牛酒がなければ集まって盗となることができないから、牛を屠ることを禁止し、その謀を絶やした。婺州の属県で法令を犯す者がいて、誅殺は隣伍(隣組)二及び、連座で死んだのは数十数百人に及んだ。また役人を派遣して境内を分けて査察させ、罪は嫌疑がかかれば必ず誅殺し、一度の裁判でたちまち数十人にもなったから、下々の者は皆恐怖した。 京師がまだ平定されていないことを聞いて、関所と橋梁を閉鎖し、牛馬が境から出ることを禁止し、石頭の五城を築城することは京口から玉山までであった。上元県の道観・仏寺四十箇所を破壊し、壊れた城壁を修築し、建業から京峴まで城墻から望見できるようにした。朝廷に晋の永嘉南遷のような事がおこると思い、館邸数十を石頭城に設置し、井戸を掘削することすべて百尺に及んだ。部将の丘涔に命じて徭役を監督させ、毎日数千人、丘涔はその衆を虐待し、朝で命令して夕には完成し、先代の墳墓はすべて暴かれた。楼艦を建造すること三千柁、舟師(水軍)を海門で大閲兵し、申浦から帰還した。李長栄らを追って帰還し、側近の盧復を宣州刺史とし、堡塁を増設し、演習して兵器に熟達し、鐘を壊して軍器を鋳造した。陳少游は揚州にあって、兵士三千で江に臨んで大規模な閲兵を行い、韓滉もまた兵士を総指揮して金山に臨み、陳少游と会同し、金や絹を互いに贈りあった。しかし韓滉は精兵を掌握していたが、出発を延長して国難に赴かず、兵糧を徴発し朝廷を救う者と結びつきを強め、当時の人はこれを頼った。李晟は渭北に駐屯しており、韓滉は米を運送して贈り、船に十弩を設置して警備したから、賊は脅かすことができなかった。それより以前、船を操船して江に臨み、韓滉は属官に向かって、「天子が宮中を出て流浪することになったのは、臣下の恥である」と言い、そこで自ら一袋を背負い、将校も争って背負った。 貞元元年(785)、検校左僕射を、同中書門下平章事(宰相)、江淮転運使を加えられ、鄭国公に封ぜられた。石頭城を修造し、人々はかなり謀略をめぐらせていると言っており、帝であってもまたその言に惑わされた。当時、李泌が難儀しながらも弁解の訴えをしたから、帝の誤解は解けた。貞元二年(786)、晋国公に改封された。この年入朝した。韓滉は既に熟達の宿老であって、非常に志が大きくて人に高ぶり、新入りに接して用いても、その意を満足させることができず、衆はこれを恨んだ。羨銭五百万緡あまりを献上し、詔して度支諸道転運、塩鉄等使を加えられた。 右丞の元琇が判度支となると、関内の旱を調査し、江南の租米を運んで西は京師に供給するよう願った。帝は韓滉に委ねて監督を一任したが、元琇は韓滉の剛直が一緒に仕事するのが難しいことを恐れ、長江より揚子江まで、韓滉が担当し、揚子江から北は、元琇自身が担当することを願った。韓滉はこれによって元琇を愚かな人間であるとした。たまたま元琇が京師では銭重貨軽(銭納の税納者よりも物納の税納者の方が負担が大きいこと)であって、江東塩監院を出発した銭四十万緡が関中に入った。韓滉は欺いて「銭を運送して京師まで持ってくれば、費用は一万あたり千にも及ぶので、従ってはなりません」と奏上したから、帝は元琇に叱責した。元琇は「千銭はその重量は米一斗と同じで、費用は三百ほどでしょう」と言ったから、帝は韓滉を諭したが、韓滉はあくまでも反対した。ここにいたって、元劾は米を淄青の李納、河中の李懐光に贈ったと誣告された。帝は怒り、再審を行わず、元琇を降格して雷州司戸参軍とした。左丞の董晋が宰相の劉滋と斉映に向かって、「昨年、関中では軍事を援助しました。当時、蝗害や旱魃となりましたが、元琇は一賦も増税せず、戦時体制をすべて支援しました。これを労臣というべきでしょう。今罪名なく流刑とされ、刑罰はしきりで人心を恐れさせています。たとえ権臣の思い通りのままになっても、公はどうして三司の審問を要請しないのですか」と言ったが、劉滋と斉映は採用することができなかった。給事中の袁高が皇帝に直言して申し上げたが、韓滉は党派による訴えであると誣告したから、次第に用いられなくなった。 劉玄佐が入朝せず、帝は密に韓滉に詔して入朝を勧めさせた。汴州を通過すると、劉玄佐は最初から韓滉を憚り、属吏に礼で出向かえさせた。韓滉はそれには当たらないと辞退し、そこで兄弟の契を結び、劉玄佐の母親に拝礼し、酒席を設けて女楽を演奏させた。がすすむと、韓滉は、「速やかに天子に謁見すべきだ。夫人の白首と新婦や子孫を宮掖の奴とさせてはならない」と言うと、劉玄佐は泣いて悟った。韓滉は銭二十万緡を劉玄佐のための旅の準備金としてやり、また綾(あやぎぬ)二十万で軍を労った。劉玄佐が入朝すると、韓滉は辺境の軍事に任用すべきであると推薦した。当時、両河地域では兵乱がやみ、韓滉は上言して、「吐藩は河湟を長らく根拠としていましたが、近年次第に弱くなり、しかし西には大食が、北は回鶻を防ぎ、東は南詔に抗い、軍を分けて外戦し、兵は河隴にあっては五・六万を数えるに過ぎず、もし朝廷が将に命じて、十万の軍で城州・涼州・鄯州・洮州・渭州にそれぞれ兵二万を置いて防御すれば、臣が願うところは、本道の財物で軍に送り、三年の費えを給付し、その後田を営んで収穫された粟を積み上げ、耕しては戦うことです。そうすればつま先立てて待ち望んだ河隴の地の回復ができるのです」と述べ、帝はその上申をよしとし、そこで劉玄佐を訪れ、劉玄佐の行くことを願った。たまたま韓滉が重病となり、張延賞は州県の冗官を減員して、俸禄を収公し、戦士を募って西へ討伐するよう奏上した。劉玄佐は張延賞が、備蓄が減るのを物惜しみしており、また犬戎がまだ弱体化しておらず、軽々しく進撃すべきではないからと辞退し、そのため病と称した。帝は宦官を派遣して慰問し、劉玄佐は臥して命を受けた。張延賞はこのことを知って劉玄佐を用いるべきではないとしたから、沙汰止みとなった。韓滉はついで卒し、年六十五歳であった。太傅を追贈され、忠粛と諡された。 韓滉は宰相の子であったが、性格は節倹で、衣服や毛布は十年に一度変える程度であった。非常に暑くても扇をとらず、住むところは粗末で、庇で風雨を防ぐ程度であった。門には戟を並べ、父の時の邸門であったから毀すのに忍びず、そのため修復を願わなかった。堂の先とは庇で接続されておらず、の弟の韓洄がようやく増設すると、韓滉は見て即座に撤去させ、「先君が受け入れられたものは、我らが奉らなければならず、常に失墜するのではと恐れている。もし倒壊したら、修理すればすむのであるから、どうしてあえて改作して倹徳を傷つけるのか」と言った。朝廷の重職にあって、潔癖で悪を憎み、家族のために資産をなさなかった。仕官の始めから将相に至るまで、五匹の馬に乗るだけで、飼い葉桶のもとに繋ぐだけであった。鼓や琴を好み、書は張旭の筆法を得て、画は宗族の人の韓幹と双璧をなした。かつて自ら「定筆することができなければ、書画を論じるべきではない」と言い、急務ではないから、自らひた隠しにし、人に伝えなかった。よく『易』・『春秋』を修学し、『通例』および『天文事序議』各一篇を著した。はじめて判度支となると、李晟は裨將に軍事のことを上申させると、韓滉はこれに答申した。李晟は礼を加え、その子に拝礼させ、器物や鞍・馬を贈った。後に李晟は終に大功を立てた。韓滉は幼い頃からすでに名声があり、交友するところはすべて天下の豪俊であった。晚年はますます苛烈かつ残酷となり、そのため論ずる者は自身の本意が行いによって悪く言われているのは、目的のための手段ではなかったかと疑っていた。すでに志を得て、そこで独断専行するようになったのは、思うに自然とその性格の現れであったのだろう。子に韓群・韓皋がいる。 韓群は国子司業で終わった。韓皋の字は仲聞で、人格は重厚で、大臣の器があった。雲陽県の尉から賢良方正異等科に及第して、右拾遺を拝命した。累進して考功員外郎に遷った。父を喪うと、徳宗は使者を派遣して弔問し、父韓滉の行状の事を論述させ、号泣して命を承諾し、数千言の草稿を書いて進上し、帝はお褒めの言葉を賜った。喪があけると、宰相は考功郎中に任命しようとしたが、帝はさらに加えて知制誥とした。中書舎人、御史中丞、兵部侍郎に遷り、仕事ぶりを称えられた。にわかに京兆尹を拝命した。奏上して鄭鋒を倉曹参軍に任命した。鄭鋒は苛斂誅求な役人で、そこで韓皋に、徹底的に府中の雑銭を探し求め、これで強制的に粟麦三十万石を買い上げて帝に献上することを説き、韓皋は喜び、奏上して興平県令とした。貞元十四年(798)、大旱魃となり、民は租賦税の免除を願い出たが、韓皋は京兆府の金庫がすでに空っぽであったから、心の中で心配かつ恐れ、奏上してあえて事実を言わなかった。たまたま宦官が出くわした際に、百姓が道を遮って訴えたから、事案が上聞され、撫州員外司馬に貶された。しばらくもしないうちに、杭州刺史に改められ、京師に入って尚書右丞を拝命した。王叔文が政権を掌握すると、韓皋はこれを嫌い、ある人に向かって、「私は新入りで偉くなった奴なんかに仕えることはできない」と言い、それを従兄弟の韓曄が王叔文に告げたから、王叔文は怒り、京師から出されて鄂嶽蘄沔観察使となった。王叔文が失脚すると、節度使を拝命し、鎮海節度使に遷り、京師に入って戸部尚書となり、東都留守、忠武軍節度使を歴任した。大抵、簡素かつ倹約で仕事をし、至るところで実績があった。召還されて吏部尚書を拝命し、太子少傅を兼任した。荘憲太后が崩ずると、大明宮留守となった。穆宗はもと太子少傅であった恩から、検校尚書右僕射を加えられた。また左僕射に昇進した。長慶四年(824)、再び東都留守となったが、赴任の道中に卒した。年七十九歳で、太子太保を追贈され、諡を貞という。 韓皋の容貌は父に似ていたが、父を失うと、見て鑑とするものはなかった。生来音律を知り、常に、「長年、後々まで音楽を聴きたいとは願わなかった。なぜなら門内の事は多く逆にこれを知ったからだ」と言っていた。鼓・琴を聞いて、「止息」まで至ると、嘆いて、「なんと素晴らしいのだろうか。嵆康がこの曲をつくったのは、当時晋の時代になろうとしていて、魏の終焉期であったのだ。その音域は商を主調としていて、商は音が秋と一緒であり、秋は天がまさに寒々として草木が枯れ落ちていくところで、その年が終わろうとするのだ。晋は金運に乗じ、商もまた金声であり、これは魏が末期で晋がまさに代わろうとしているからなのである。その商弦を緩めると、宮音と同音になり、臣が君権を奪うという意味になり、司馬氏が簒奪しようとしているのを知るのだ。王陵・毌丘倹・文欽・諸葛誕が相次いで揚州都督となり、全員が魏を復興させようとの謀があったが、全員司馬懿父子に殺された。嵆康は揚州がもと広陵の地であり、王陵らは全員魏の大臣で、だからその曲を名付けて「広陵散」とし、魏が滅亡するのは広陵から始まるのだと言うのだ。「止息」は、晋が突然勃興しても、終にはここに止息するのを言うのだ。その哀憤、焦りと苦しみ、哀悼、逼迫の音は、ここに尽きるのだ。永嘉の乱はその兆しなのか。嵆康が晋・魏の禍いを避け、自身の身を鬼神に託したのは、後世が音を知るのを待ったからだろうか」と述べた。 韓洄は、字は幼深で、蔭位によって弘文生となり、任期が満了で、吏部侍郎に任じられ、達奚珣が家柄と声望があるから抑圧した。章懐太子陵令に任じられたが、怒りの顔色を見せなかった。安禄山が叛乱をおこすと、韓家の七人は殺害され、韓洄は難を江南に逃れ、菜食して音楽を聴かなかった。乾元年間(758-760)、睦州別駕に任命され、劉晏は上表して屯田員外郎とし、知揚子留後となった。召還されて諌議大夫を拝命し、補闕の李翰とともにしばしば奏上して得失を申し上げ、知制誥に抜擢された。元載と親しかったのに連座し、邵州司戸参軍に貶された。徳宗が即位すると、起用されて淮南黜陟使となり、再度諌議大夫となった。 劉晏が罪に伏し、天下の銭穀といった財政のことは尚書省に帰属することになったが、省司は廃止されてから久しく、綱紀はなく、その任を統括する者がいなかった。そこで韓洄を抜擢して戸部侍郎、判度支とした。韓洄は上言して、「江淮七監は、毎年銭四万五千緡を鋳造して京師に運んでおり、巧みに運送しても、運送費用は緡ごとに二千にもなり、これは元本に対して利子が二倍になるのです。今、商州の紅崖冶で銅を算出していますが、洛源監が長らく廃止されています。願うところは山を掘って銅を採取し、そこで洛源監を復活させ、十炉を設置して鋳造を行えば、毎年銭七万二千緡が得られ、費用は緡ごとに九百で、そうすれば元本を浮かすことができるでしょう。江淮七監は、願わくばすべて廃止されますように」と述べた。また上言して、「天下銅鉄の鋳造、山沢の利は、まさに王者に帰属すべきものであり、願わくばことごとく塩鉄使の所属とされますように」と述べ、これに従った。また胥史の余剰人員二千人を罷免し、米を長安県・万年県の二県にそれぞれ数十万石を積み、毎年の豊作・不作を見て出納させたから、そのため人々は食に苦しむことはなかった。 韓洄は楊炎と親しく、楊炎が罪を得ると、不安となったがどうすることもできず、韓皋が上疏して楊炎の罪をおさめたが、帝は韓洄にこれを教えたのだと思い、蜀州刺史に貶した。興元元年(784)、京師に入って兵部侍郎となり、京兆尹に転任した。貞元十年(794)、国子祭酒で終わり、戸部尚書を追贈された。 賛にいわく、人が事を立てるや、最初は巧みに行って、始めは鋭く、その半ばに至ると次第に怠り、ついには放縦となって振るわなくなるのだ。玄宗の開元年間(713-741)の治世を見ると、精力的に励んで治世を求め、元老は前時代の大物たちで、ややもすれば皇帝も憚るところであり、そのため姚元崇・宋璟の時は人の言うことに耳を傾け、全力で諌めても難なく功績がなったのである。太平の世が長引くと、左右の大臣は皆帝自ら選んだのを知っていたから、慣れて与しやすしとした。玄宗の野心と意欲が満たされて、自己満足で独りよがりとなったのである。しかし張九齢は論争しては切羽詰まったもので、申し上げてもますます聴かれなかったのである。野心と意欲が満たされると、たちまち謀略が行われるところとなり、自己満足で独りよがりとなると、柔和で円熟であるのを楽しみ、厳しい諌めを憎んだから、全力で諌めたことが多いといっても、聞き入れられることは姚崇・宋璟の時から遠く及ばないのである。ついに胡の小人どもに中華を乱され、身をもって辺境に逃れたのは、天運であるというのは違っており、また人事が要因であるというのが正解なのである。もし魏知古らが皆宰相に選ばれたのが、天宝年間(742-756)の時に当たっていたのなら、どうしてよく救うことができただろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百二十五 列伝第五十 『新唐書』巻一百二十六 列伝第五十一 巻一百二十七 列伝第五十二