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五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。 経歴・人物 『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致した。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けた。 明治2年(1869年)の退官後、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩む。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照 明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭は五代友厚)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高等学校)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などの設立に関わった。 鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前に銅像が建立されている。 文献 五代龍作「五代友厚伝」(1933年) 直木三十五「大阪物語第6巻五代友厚」(改造社、1934年) 織田作之助「五代友厚」(現代新書、1956年) 「五代友厚秘史」(五代友厚七十五周年追悼記念刊行会、1960年) 西村重太郎「五代友厚小伝」(大阪商工会議所、1968年) 「五代友厚伝記資料第1~4巻」(日本経営史研究所、1970~74年) 「五代友厚関係文書目録」(大阪商工会議所、1973年) 宮本又次「五代友厚伝」(有斐閣、1981年) 真木洋三「五代友厚」(文藝春秋、1986年) 小寺正三「起業家 五代友厚」(現代教養文庫、1988年) 阿部牧郎「大阪をつくった男 五代友厚」(文藝春秋、1998年) 佐江衆一「士魂商才 五代友厚」(新人物往来社、2004年) 童門冬二「ニッポンの創業者」(ダイヤモンド社、2004年) 関連項目 鹿児島県出身の人物一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月15日 (土) 10 06。
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【元ネタ】史実 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】勝海舟 【性別】男性 【身長・体重】156cm・44kg 【属性】中立・中庸 【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運A 宝具C 【クラス別スキル】 対魔力:E 魔術に対する守り。 無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。 騎乗:C 正しい調教、調整が施されたものであれば万全に乗りこなせる。 【保有スキル】 戦略:C+ 外交や兵站など大局的に物事をとらえ、戦う前に勝利を決する力。 新陰流:B 新陰流を祖とする直心影流の免許皆伝。 本スキルをAランク以上で有する者は、剣のわざのみならず、精神攻撃への耐性をも有するが、勝海舟は精神耐性を持たない。 嵐の航海者:D 船と認識されるものを駆る才能。 当人が船酔いしやすいこと、自然科学に対する知識の欠如などから、かなり低いランクに収まっている。 窮地の智慧:B 危機的な局面に於いて優先的に幸運を呼び込む能力。 駿府城会談で江戸を戦火から救い、無血開城にまで持っていった外交手腕に由来。 【宝具】 『咸臨丸(ヤーパン)』 ランク:C 種別:対軍宝具 レンジ:5~30 最大捕捉:50人 日本人の操縦で(と言ってもアメリカ人乗員の助けに拠るところも大だったが)初めて太平洋の横断を果した江戸幕府の軍艦。 一国の名を背負ったことや艦長の大言癖といった伝承が宝具に取り込まれた事で、Aランク宝具に相当する威圧感、重圧を放つようになった。 とはいえ、実際の戦闘力はランク相応のものでしかない為、ライダーはこの宝具を主にハッタリに用いる。 【Weapon】 『水心子正秀』 【解説】 幕末、明治の政治家。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。 優れた人物、機知の人と評される一方で、自然科学に疎い上に大言癖があり、生前から毀誉褒貶が激しかった。 黒船来航に際して海防意見書を提出したことをきっかけに、歴史の表舞台に現れる。 この意見書が評価され、長崎海軍伝習所で海軍について学ぶこととなったが、 海軍知識がほとんどなく、また数学が苦手だったため、勉学の成果は今ひとつだった。 しかし、幕府遣米使節団の一員として咸臨丸を指揮して渡米に成功したことで頭角を現し始める。 その後、幕府の海軍ではなく日本の海軍の建設を構想していた為に幕府の保守派に睨まれ、失脚。 第二次長州征討に際しては停戦交渉を務めるも無駄に終わり、うだつの上がらない日々が続いた。 徳川慶喜が将軍の座につき、佐幕派の孝明天皇が崩御すると、時代は一気に武力倒幕へと傾き始める。 これを覆さんとした慶喜の大政奉還も功を奏さず、薩長を主体とする官軍と幕府軍の武力衝突に発展。 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したことで、時代の流れは決した。 官軍の東征に誰も対応できない中、慶喜は勝海舟に白羽の矢を立て、対応を一任。 勝機なしと判断した勝は、焦土作戦の準備を整えつつも西郷隆盛と交渉し、江戸の無血開城にまでこぎ着けた。 一方で、徳川家の政治力を保たんともしていたが、彰義隊の壊滅によって水泡に帰している。 明治維新後は旧幕臣の代表格として数々の役職を歴任するが、当人はあまり気が進まない様子だったという。 一方で慶喜の名誉回復と旧幕臣の再就職の世話に尽力していた、とも。 ちなみに、その慶喜とは政治思想の違いもあって非常に不仲であった。
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1853年(嘉永6年) 1854年(嘉永7年→安政元年) 1855年(安政2年) 1856年(安政3年) 1857年(安政4年) 1858年(安政5年) 1859年(安政6年) 1860年(安政7年) 1853年(嘉永6年) 4月19日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーがサスケハナ号以下4隻の軍艦を率い琉球に来航した。6月3日、浦賀に来航。9日、浦賀奉行戸田・井戸がペリーと会見し大統領国書を受領。12日、明年の来航を約してペリーは琉球へ去った。23日、琉球王朝を威嚇し、貯炭所建設、物資の買い渡し等を約させた。 7月18日、ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に来航、8月19日、国書受領。幕府は大船建造の禁令を解き、諸大名に品川台場建設の命令。水戸藩、鹿児島藩に汽船建造を許した。 1854年(嘉永7年→安政元年) 1月16日、ペリーが軍艦7隻を率い再び神奈川沖に来航した。2月10日横浜でペリーと交渉を開始。3月3日日米和親条約を締結した。条約は12条からなり、第1条では、「日本と合衆国とは、其の人民永世不朽の和親を取り結び、場所・人柄の差別これなき事」と定め、下田・函館の2港を食料・薪水の補給基地としてアメリカ船に許可するものである。また、片務的な最恵国待遇を米国に認めている。 吉田松陰が、下田で米艦への密航を企て失敗、逮捕された。象山も連座、逮捕された。ペリーについでプチャーチンも下田に来航し、日露和親条約が結ばれた。この条約では下田・函館のほか長崎も開港することになり、国境については、千島列島の択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地として国境を定めないとした。。 6月15日近畿地方に地震。8月、日英和親条約締結、長崎・函館を開港。11月4日東海地方に大地震。 清の曾国藩が太平天国を破った。 1855年(安政2年) 幕府は、諸大名・旗本に洋式調練を命じ、長崎に海軍伝習所を設けた。 諸政改革の大綱を発布。 10月2日江戸大地震(安政の大地震)。堀田正篤が老中首座に。江川英龍、反射炉をつくるが、病没。 パリ万博。 1856年(安政3年) アメリカ総領事ハリス下田に上陸。松下村塾再開。 清仏でアロー号戦争。クリミア戦争終わる。パリ条約。 1857年(安政4年) 10月21日ハリスが、江戸に出府、将軍に謁見し、貿易通商を要求した。幕府は、これの可否を諸大名に諮問した。 英仏連合軍が広東を落とす。インドでセポイの反乱起こる。英軍、デリー占領。西欧で経済恐慌。 1858年(安政5年) 通商条約勅許を請いに堀田正睦(まさよし)が上京し、戦争を回避するために条約を結ばざるを得ないと説得しようとしたが、孝明天皇以下朝廷には攘夷の空気が強く、勅許を得ることはできなかった。しかし、ハリスは、アロー号戦争を引き合いに出し英仏の脅威を説いたので、幕府はついに折れて、勅許がえられないままに、 6月19日、日米修好通商条約に調印した。 この条約は14条からなり、新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、自由貿易(「双方の国人品物を売買すること、総て障りなく・・・」)、居留地に在留する外国人の裁判は本国の法に基づき本国の領事が行うという領事裁判権を認め、関税の税率は自主権がなく相互に相談して決めるということになっている。幕府は同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結した。 将軍家定没。紀伊徳川家茂が後継将軍となった。安政の大獄始まる。島津斉彬没。長州藩藩政改革を開始。 清が英仏米露と天津条約結ぶ。インド・ムガール帝国滅亡。 1859年(安政6年) 5月、神奈川・長崎・函館が開港。諸国との貿易が始まった。8月、横浜でロシア海軍士官等3名が殺傷された。 橋本左内、頼三樹三郎が処刑された。 1860年(安政7年) 咸臨丸、条約批准のためアメリカに出航。 3月3日、井伊直弼大老、水戸藩士らに桜田門外で殺害された。 皇女和宮の家定への降嫁が発表された。 アメリカ通訳官ヒュースケン殺害された。
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日本国海上自衛隊基地のうち、佐世保地方隊の基地の一覧。 登場はオレンジで色分けされています。見やすい改良案求む。 佐世保警備区 長崎県 佐世保基地 平瀬地区 佐世保地方総監部 佐世保警備隊 佐世保陸警隊 佐世保港務隊 佐世保水中処分隊 YDT-05 水中処分母船5号 第3ミサイル艇隊 PG-826 おおたか PG-829 しらたか 直轄艦 LC-2001 輸送艇1号 AMS-4303 あまくさ (護衛艦隊) 第2護衛隊群 第2護衛隊 DDH-182 いせ DDG-178 あしがら DD-102 はるさめ DD-119 あさひ (第1護衛隊群) 第5護衛隊 DDG-173 こんごう DD-108 あけぼの DD-109 ありあけ DD-115 あきづき (第4護衛隊群) 第8護衛隊 DDG-172 しまかぜ DDG-176 ちょうかい DD-104 きりさめ DD-117 すずつき 第13護衛隊 DD-132 あさゆき DD-157 さわぎり DE-230 じんつう 崎辺地区 佐世保教育隊 佐世保弾薬整備補給所 (陸上自衛隊) (相浦駐屯地) (崎辺分屯地) (水陸機動団) 立神地区 佐世保造修補給所 佐世保磁気測定所 干尽地区 佐世保基地業務隊 佐世保衛生隊 佐世保音楽隊 海上自衛隊佐世保史料館 7階 展望所 映像ホール 6階 長崎海軍伝習所から 佐世保鎮守府開設までの歩み 5階 日清戦争 日露戦争 4階 太平洋戦争 3階 海上自衛隊の艦船、歴史 2階 海上自衛隊の装備、活動 (南極観測船、災害派遣、海外派遣など) 図書室 1階 売店 企画・特別展示 対馬防備隊 防備隊本部 通信所 総務科 補給科 防備科 上対馬警備所 下対馬警備所 壱岐警備所 大村航空基地 第22航空群 第22航空隊 第221飛行隊 第222飛行隊 第223飛行隊 SH-60J/SH-60K (コールサイン WYVERN ) 第224飛行隊 UH-60J (コールサイン RESCUELARK ) (鹿屋航空分遣隊) (UH-60J) 第22整備補給隊 隊本部 第22航空機整備隊 第22電子整備隊 第22武器整備隊 第22機側整備隊 第22補給隊 大村航空基地隊 隊本部 大村管理隊 大村航空警備隊 大村運航隊 大村経理隊 大村厚生隊 大村航空衛生隊 山口県 下関基地 (佐世保地方隊) 下関基地隊本部 第43掃海隊 MSC-685 とよしま MSC-686 うくしま (佐世保地方警務隊) 下関警務分遣隊 小月航空基地 小月教育航空群 小月教育航空隊 第201教育航空隊 T-5 第201整備補給隊 小月航空基地隊 小月警務分遣隊 鹿児島県 鹿屋航空基地 第1航空群 第1航空隊 隊本部 第11飛行隊 第12飛行隊 (コールサイン JUPITER ) P-1 P-3C 第1整備補給隊 隊本部 第1航空機整備隊 第1電子整備隊 第1武器整備隊 第11機側整備隊 第12機側整備隊 第1補給隊 鹿屋航空基地隊 隊本部 鹿屋管理隊 鹿屋航空警衛隊 鹿屋運航隊 鹿屋経理隊 鹿屋厚生隊 鹿屋航空衛生隊 (第22航空隊) 鹿屋航空分遣隊 UH-60J 第1航空修理隊 第211教育航空隊 TH-135 第212教育航空隊 SH-60K (システム通信隊群) (佐世保システム通信隊) 鹿屋システム通信分遣隊 (佐世保地方隊) (佐世保地方警務隊) 鹿屋警務分遣隊 鹿児島音響測定所 奄美基地 (佐世保地方隊) (佐世保地方警務隊) 奄美基地分遣隊 沖縄県 那覇航空基地 第5航空群 第5航空隊 隊本部 第51飛行隊 第52飛行隊 (コールサイン TIDA ) P-3C 第5整備補給隊 隊本部 第5航空機整備隊 第5電子整備隊 第5武器整備隊 第5機側整備隊 第5補給隊 那覇航空基地隊 隊本部 那覇管理隊 那覇航空警備隊 那覇運航隊 那覇経理隊 那覇厚生隊 (システム通信隊群) (佐世保システム通信隊) 那覇システム通信分遣隊 (海上自衛隊警務隊) (佐世保地方警務隊) 那覇警務分遣隊 沖縄基地 (佐世保地方隊) 沖縄基地隊 第46掃海隊 MSC-689 あおしま MSC-691 ししじま MSC-692 くろしま 沖縄水中処分隊 YDT-06 水中処分母船6号 (海洋業務 対潜支援群) 沖縄海洋観測所 (海上自衛隊警務隊) (佐世保地方警務隊) 勝連警務分遣隊 ※作中でP-3Cは全機BP-3Cに改修されています。 ※護衛艦を入れると情報量が多くなりすぎるので除外。 表制作 Wiki管理人 ■那覇航空基地 BP-3Cがパーパルディア本土爆撃をした際に、在アルタラス及び在シオス基地へ向かう前に一度本基地を経由している。 ■沖縄基地 名前は出てこないが、護衛艦の航路を見ていると、他国へ行く際によく寄港しているのでここで補給を受けているものと思われる。 陸上自衛隊駐屯地方面隊 北部 東北 東部 中部 西武 海上自衛隊基地地方隊 横須賀 呉 佐世保 舞鶴 大湊 航空自衛隊基地防衛区域 北部 中部 西部 南西 在新世界各国日本基地
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218 :キャロル:2013/07/31(水) 22 08 24 後藤伯の幕末奮闘記 開国編 第三話 今年で1861年か。 いや~長くて短い10年だったな。 1854年の安政南海地震の際は、土佐での被害を抑える為に32時間前に発生した安政東海地震による小規模津波が起こった事で、民衆には真実味が増したことも有り、避難を強制的に行うことで何とか人的被害は抑えることは出来た。 だが夢幻会メンバーとはいえ、未だ16歳の若造に過ぎない身では何をすることも出来ない。 そこで思いきって叔父であり参政でもある吉田東洋に史実を記述した巻物を事前に提出し、協力を求めようとしていた。 一読した東洋は 「象二郎、これを信じろと言うのか?」 「書いてあるとおりです。一ヶ月後には東海地方で、その翌日にはこの土佐に津波と地震が発生するでしょう。そうなれば嫌でも信じていただけるかと」 「いや、信じておらんわけでは無い。これまで我が土佐藩の特産物を開発してきたお前だ。 寧ろ、その知識が何処から来たのか分かり、納得しておるわ。」 土佐藩の反射炉を設け、建造と鋳砲等の建造を目的とした開成館事業の目処がたったにもかかわらず、建設は来年以降にしようと象二郎は提言していたのだ。 219 :キャロル:2013/07/31(水) 22 09 56 「それで......象二郎、お前は何をどうしたいと思っているのだ。」 「私は.........死なせたくないのです。」「何をだ?」 「この日本という国です。既に海外の列強とは開国という形となった以上、後戻りすることは難しいでしょう。我が国の開国が50年前、ナポレオン戦争以前であれば、また違った形になったでしょうが......」 続けろとばかりに頷き促す東洋、 「現在世界一の強国は、元来欧州一の海運国にして、産業革命を成し遂げたイギリスです。 かの列強に対しての攘夷は、アヘン戦争を知り黒船を知った幕府には難しいでしょう。 故に、この日本国が誇りをもって生き続けるには、軍事力と殖産工業は不可欠であり、その為には現在の血統に拘らず、能力がある人材を登用できることが必須です。 その為に徳川家は、一度幕府という枠組みを壊す必要があります。」 「それが此所に書いてある”大政奉還”と”公儀政体論”か。 だが象二郎、わしが認めると思うたか。もし親族の情あらば通じると考えたのなら、わしはお前への評価を改めねばならんぞ......!」 「ええ。親族という関係を考慮しないといえば嘘になりますね。 ですが叔父上がこの時代にあって、有数の開明派であり、当主の信頼厚い参政であること。 そして、このまま推移すれば叔父上は暗殺。これを逃れ土佐勤王党を弾圧したとしても、世が薩長らに味方すれば、土佐は尊攘派との人脈は途切れ、明治新政府には史実と同じか、或いは水戸藩のように人材が枯渇状態になる、最悪の可能性も有ります。」 「ゆえに上手く勤王党を取り込めか...... だが、わしが歴史を知ったのなら、違う可能性も生まれるのではないか?」 「かも、知れません。ですが其れは完全に”知らない”歴史ですから、”歴史を知っている”という優位性自体、捨て去るに等しいでしょう。」 「.........」 「私の知っている歴史では、長州藩が二度の征伐に耐え抜いたことで、幕府の権威が失墜したことにより、維新への道は開かれました。 ですが、この方法ですと恨みと犠牲が大きすぎ、どちらが勝ったとしても負けた方は冷遇されるでしょう。 武市さんら勤王党に関しても、このまま尊攘激派であるのは好ましくないですし」 「・・・・・・ふむ」 「故に私の考えはこれです。」 取り出して見せたのは、史実とは別の構図でもって考え抜いた計画書だった。 「私の根底には維新を迎えたからこそ、日本は驚異的な発展を遂げたという固定観念があるのかもしれません。 しかし”明治維新”は徳川家ら幕府方を踏み台にする必要が有ったかと言えば、おそらくは違うでしょう。そこを修正したいのです。」 220 :キャロル:2013/07/31(水) 22 13 00 聞き終り、目を瞑り熟考しはじめた東洋を尻目に、象二郎は”『明治維新』とは何だったのか?”という問いを、改めて頭の中で整理しなおしていた。 「(西郷は”革命は血を流し、敵を倒さなければ完成しない”と考えたが、敵とは誰だったのか? 徳川慶喜を代表とする将軍家? それとも其れを支える会津、桑名? おそらく違う。 真の敵とは血筋に拘り、既得権を守ろうとする幕閣守旧派であり、既に役立たずに成り下がっている大多数の大名や大身旗本らであり、武家社会という根底そのものなのだ。 その澱んで沈んだヘドロを上層の清水ごと強引に吐き出そうとしたのが史実。 ......ま、あの戦闘民族の思考だと、むべなるかな。 あの思考パターンは武士道の理想だけど、毒にも薬にもなる劇薬だからな)」 つかの間のまどろみの思考も、叔父の決断の言葉で途切れることとなった。 ......翌年、起こった安政江戸地震の際、旧藩主豊資率いる門閥派であり、維新の際には大政奉還にも異を唱えた小八木五兵衛ら一党が、江戸築地の土佐藩邸で多数が犠牲となり、 一方で小石川の水戸藩邸から、藤田東湖、戸田忠太夫が難を逃れたということを後に知った。 その報告を聞いた叔父が、”新世界の神”のごとく笑ったかは定かではない...... 1856年 清国においてアロー戦争が勅発 同年、薩摩の島津斉彬から今だ存命していた阿部正弘を通じて、老中主座で開国派である堀田正睦に、 ”海外においては『観戦武官』なる制度があり、軍に同行観戦できるそうだ。 清国において戦争が始まったのはもっけの幸い、此れを機に開国するにせよ攘夷するにせよ、海外諸国の武力を調査することは不可欠である” という献策が行われた。(長崎海軍伝習所に研修中の龍馬と、勝麟太郎が話し合い、史実より早い薩摩への航海練習を実施、斉彬に直接提言を行ったとされる。) 使用する船舶も長崎海軍伝習所の練習航海を兼ねることとし、特に強硬に攘夷を唱える者達を優先して派遣することとされた。 これらにより翌57年、「遣清安政観戦武官団」を清国に派遣。 彼らの中には武市半平太や吉田松陰、久坂玄瑞、清河八郎、さらには西郷吉之助らがおり、多大な影響を受けたと思われる。 (此のとき、松陰は上海滞在中に出奔しイギリスに留学している。 また西郷が中華料理を気に入って料理人を連れ帰り、長崎で藩御用達したとかしてないとか) そしてアロー戦争終戦の年、1860年には坂本龍馬と上野彦馬が渡海。 戦場での写真撮影(+彦馬の師匠でもあるピエール・ロシエの戦争写真集も活用)と、 現地を体験した龍馬の活動弁士さながらの講釈(後に台本化)により、サイレント映画ならぬ、写真紙芝居なるものが成立。 土佐藩校 致道館、長崎海援隊内、後には神戸海軍操練所や樺太派遣軍の教練、明治陸軍の座学としても上映会が行われることとなる。 アロー戦争を体験した侍達によって、史実より各藩所属の攘夷論はやや落ち着きを取り戻すものの、 一部の公家や儒者、神官、在野の攘夷志士らは、史実どうり攘夷熱を醸成していくことで、少しづつだが不協和音を響かしていくことになる。 221 :キャロル:2013/07/31(水) 22 13 36 1857年の日米修交通商条約交渉の際は、金の海外への流出を招くことを防ぐため、「このままではハゲ鷹の餌食にされる」と、 共和党系のシカゴ・トリビューン紙に匿名で投稿。 時の民主党大統領ジェームズ・ブキャナンに対し、エイブラハム・リンカーン上院議員は 、 ”この事が事実であるなら、商人の欲望の餌食となり、極東の開国したばかりで何も解らないだろう人民を騙すのは果たしてフェアだろうか?” ”これでは善良で、正義を愛する他のアメリカ国民が無用な怨みを買い、最終的にはアメリカ人の血で持って支払われることになり、同時にアメリカの名は地に落ちるだろう” ”彼(ハリス)は、外交官の皮を被った商人ではないのか!?” と、議会に置いて質疑を行い、大問題となった。 後にハリスから聴取を行い大統領は記事の内容を否定。 問題となった金と銀の交換比率も、2年間の猶予期間を設け、国外への持ち出しを禁止するということで解決した。 当然海外の商人達は反発したが、流石に”モラルがない”というレッテルは恐ろしいのか、すぐに収まったものの只では転ばぬために、国外の割安なメキシコ銀貨を使って、今だ銀の価値が高く、相対的に物価が安い日本商品の購入転売と云う形で利益を得ようと考えた。 そして現在中国大陸では、アロー戦争が勅発中である。 戦争をする為には物資や人員輸送などに、挽馬が不可欠であることから、日本中の馬の買い占めに走った。 これが日本商人達の罠とも知らずに...... 222 :キャロル:2013/07/31(水) 22 14 59 海外と交易する以上、貨幣価値が海外の其れに合わせて暴落(インフレーション)することは避けられないことと考えられた。(同時に社会不安を招くことで、幕府の権威の失墜にも繋がる。) その為、通商条約締結時に備えて、土佐商会グループではグループ内商品に関して商品券(藩札)での取引、金の買い占めなど、可能な限り金貨を溜め込み、 1860年以降の”悪貨”万延小判発行時に、私的改鋳で嵩ましを行うつもりだった。 勿論改鋳した大量の悪貨を国内に流すのは不味いので、海外での兵器購入資金とし、国内の大名に武器を売買する武器商人であるとともに、 南北戦争勅発で綿花不足に陥った英国への、綿花買い占め輸出と合わせ、土佐商会は三井、鴻池クラスの豪商へと迫る急激な成長を遂げ、内外の商人にその名を轟かせることになる。 勿論史実において、三井や薩摩が行ったことの焼き増しに過ぎないわけで、 その救済(というか恨みの分散?)として馬の買い占めは三井、鴻池らと共同で、各地の藩に交渉の上、海外商人には適正価格より数割割高だが、 輸送コストと数多く交渉する手間を考えれば充分元が取れるという計算、更には”戦争は水物”という焦りも有ってか、全て売却できた。 海外商人達には「なかなかしたたかな商売をするな」と、半分やっかみ、半分尊敬の念を向けられ辟易したものだが...... 後日談だが「唐人お吉」は幕末最大の女スパイとみなされた。 どうも彼女が幕府の条約穏健派から派遣され、”傍若無人な夷狄”から情報を奪った”名うての女間者”とか”公儀隠密”とか世間では言われているらしい。どこのマタハリだよ 史実において1861年に暗殺されたヒュースケンは、怪我を負ったものの、この世界では死ななかったらしい。なんか覆面した女忍者が出たとかほざいたそうだが...... ......まさかね
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試験会場 ここは航空宇宙軍幹部候補生学校の入学試験会場です。 宇宙艦長(職業4)獲得を目指す受験生は、以下の問いに答えた上で次の会場に進んでください。 設問0:対消滅炉の基礎理論/構造を記せ、またその構造上の特徴から船舶用主機関として使用する際の利点、問題点は何かを答えなさい。 設問1:重力縮退炉の基礎理論/構造を記せ、またその構造上の特徴から船舶用主機関として使用する際の利点、問題点は何かを答えなさい。 設問2:恒星間航行の定期船に乗務していると仮定する、この際主動力炉が不調となり航行継続が不可能となった。あなたはどのような行動を取るべきか答えなさい。 設問3:水の巫女を用いて宇宙に上がる場合、最も楽な方法は何か答えなさい。 設問4:あなたは大型戦艦の艦長で通常航行中であると仮定してください、前方を航行する小型民間船が「スタボード」と通信を入れてきました、あなたの取るべき行動を答えなさい。 設問5:艦隊決戦です!艦による陣形を組めとの信号を受理しました、要求は以下の通り。 「輪形陣ニテ砲戦敢行ス、貴艦ハ定位置ニ就カレタシ」 さてこの場合、輪形陣の敵との相対関係を答えなさい、この問いに限り図解をもって回答しても良い。 設問6:あなたはAカップ好きですか? 回答欄 名前 コメント すべてのコメントを見る 回答が済んだらエステル伝習所受付へどうぞ。 -- (曲直瀬りま) 2007-07-10 21 48 09
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勝 海舟/勝 安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月21日)は、幕臣、政治家。明治期の枢密顧問官、位階勲等は正二位勲一等伯爵。 幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳 /small 。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あ−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったという。 父は旗本小普請組の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。 山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。哲学館(現:東洋大学)に対して多くの寄付をし、「哲学館の三恩人」の一人にも数えられる。 海舟の長女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。この関係から、海舟は専修学校の学生に「律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風」(大意:「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈って激励し続けた。 生涯 生い立ち 海舟は1823年、江戸本所亀沢町現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。。 曽祖父銀一は越後国三島郡長鳥村現在の新潟県柏崎市の一部。の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子は平蔵で、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が、宝暦2年累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。 幼少時、犬に睾丸を噛まれ、死にそうになったことがあった。そして、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。 生家の男谷家で7歳まで過ごしたのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。 修行時代 剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場浅草港区で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより禅も学んだ。 蘭学は、江戸の蘭学者の箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。1846年(弘化3年)には住居も本所から赤坂田町に移る氷川に移ったのはさらにのちの1859年。。この蘭学修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話がある。一部は自分のために、一部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得たのちに妹の順子は象山に嫁いでいる。。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いたのちに日本統計学の祖となる杉亨二が塾頭となる。。 長崎海軍伝習所 1853年、ペリーが来航(いわゆる黒船)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出した。海舟の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。。 この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。 渡米 1860年、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。妻には、「ちょっと品川へ船を見に行って来る」とだけ言ったらしい。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福沢諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。船酔いでダウン寸前だった勝がアメリカが見えた途端に大いばりを始め、さらに自分の羽織を棒にくくりつけて練り歩こうとしたのをみっともないからやめろと同行者に止められたともいう。これは目撃した福澤が本に書き残している逸話であり、福澤が勝を軽蔑するようになった一因ともいわれる福澤の勝嫌いは、その著作『痩我慢の説』に端的にあらわれているこの時の勝の船酔いについては、実は勝が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。。 福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。 神戸海軍操練所 帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。 神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で勝の提案は斬新だった。。 勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれものが出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れたこの塾頭が坂本龍馬だった。さらに、神戸海軍操練所も設立している。 後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言うただし逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。。 勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、1864年9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている 長州征伐と宮島談判 1866年、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。 駿府城会談と江戸城無血開城 1868年(慶応4年)、官軍の東征が始まると、勝は幕府に呼び戻され、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。 先ず3月9日、山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会談して基本条件を整えた。続く13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われた。 この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。 明治期 維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を授予された。海舟が新政府から子爵叙爵の内示を受けた際、「今までは 人並の身と 思いしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」との歌と共に突き返した為、新政府側が慌てて伯爵に格上げしたとされている(伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌との説も有り)。、政争の渦に巻き込まれる中、参議兼海軍卿を解かれた後、枢密顧問官となる。 勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。 座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷や大久保、木戸孝允の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。 勝は日本海軍の生みの親のひとりに数えられる人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対の立場だった。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物だった。丁は敗戦後に責任をとって自害しているが、勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿した。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、中国大陸の大きさや中国という国のありようを説いた。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟の予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と述べている。 勝と徳川慶喜は、幕末の混乱期には何度も意見が対立していたが、晩年にはその慶喜を赦免させるよう政府に働きかけている。慶喜はこのおかげで明治天皇の特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の生活保護など、幕府崩壊による混乱を最小限に抑える努力を30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げたりしたのも勝の功績である。 晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。 1899年1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であった作家の山田風太郎は、この最期の言葉を「最期の言葉としては最高傑作にあたる」と評している。 墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。 略歴 (明治5年12月2日までは旧暦) 1838年(天保9)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。 1855年(安政2)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用と就る。7月29日、海軍伝習重立取扱と就る。8月7日、小普請組から小十人組に組替。 1856年(安政3)3月11日、講武所砲術師範役と就る。6月30日、小十人組から大番に替わる。 1859年(安政6)11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。 1860年(安政7)1月13日、品川より咸臨丸出航。1月19日、浦賀より咸臨丸出航。2月26日、サンフランシスコに入航。閏3月8日、サンフランシスコを出航。 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。 5月7日、江戸に帰府。6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助と就る。石高400石取りとなる。 1861年(文久元)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。 1862年(文久2)7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1000石。 1864年(文久3)2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。 1866年(慶応2)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。 1867年(慶応3)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。 1868年(慶応4)1月17日、海軍奉行並に異動。役高5000石。列座は陸軍奉行並の上。1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。3月13日と同月14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。 1869年(明治2)7月13日、諱を安芳と改める。7月18日、維新政府の外務大丞に任官。8月13日、外務大丞を免ず。11月23日、兵部大丞に任官。 1870年(明治3)6月12日、兵部大丞を免ず。 1872年(明治5)5月10日、海軍大輔に任官。6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。 1873年(明治6)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。 1874年(明治7)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。 1875年(明治8)4月25日、元老院議官に異動。4月27日、元老院議官を辞表を提出。11月28日、元老院議官を免ず。 1887年(明治20)5月9日、伯爵を受爵。12月、従三位に昇叙。 1888年(明治21)4月30日、枢密顧問官に任官。10月正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。 1889年(明治22)5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。12月、勲一等瑞宝章を受ける。 1890年(明治23)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。 1894年(明治27)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。 1896年(明治29)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。 1898年(明治31)2月26日、旭日大綬章を受ける。 1899年(明治32)1月19日、死去。1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。 文献 回想録として吉本みのるによる『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。これは海舟の談話を記者が速記したもので、海舟の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄のあとが見られるという。 膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。海舟は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝「夢酔独言」(東洋文庫)と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の「坊つちやん」の素材となっている。 語録 自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。 オレは、瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに。) 文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。 敵は多ければ多いほど面白い。 我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて) コレデオシマイ(亡くなった時の言葉) 人物評価 ファンといっていいほど高い評価をする人がいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷も大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかる。 一方、江戸を無血開城した功績は感謝しているものの、旧幕府の高官でありながら新政府に勤めて立身していることに対する嫉妬や反感もある。その決定版が福澤の「痩我慢の説」である。そこでは、幕臣としての節操を護るべきであると非難されている。 勝海舟の仕事は江戸開城をもって終わりとする見方も多いが、明治に入ってからの32年間の行動(明治天皇と慶喜との和解・旧幕臣の名誉回復など)の研究が待たれる。 死の三日後、氷川邸に勅使が来て勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。 幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム 逸話 トラウマ 9歳の頃狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「氷川清話」、「夢酔独言」)。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出す程であったという。 福澤諭吉との関係 木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮出来なかった。福沢は、それをただの船酔いだと考えていたようで、以来勝を嫌っている。 海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事 「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。) 咸臨丸の実情 和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが、水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶぬれになり、航海中、晴れた日はわずかで、乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名がみずから看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。 系譜 海舟の嫡男・小鹿(ころく)は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の一子・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし)を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメントや石川島飛行機などの重役をつとめた。 海舟の長女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだこの関係から、海舟は専修学校の学生に「律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風」(大意:「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈って激励している。。 財務省理財局長の勝栄二郎・世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫にあたる。 勝家 小吉───安芳(海舟)──┬小鹿───伊代子 └逸 ┠────────────┬芳孝───芳邦 精 ├道子 (徳川慶喜十男:婿養子) ├善子 ├静子 ├中子 └當子 注釈 勝海舟に関連する作品と演じた俳優 Template Commons? 三姉妹(1967年のNHK大河ドラマ)勝役:内藤武敏 竜馬がゆく(1968年のNHK大河ドラマ)勝役:加東大介 勝海舟(1974年のNHK大河ドラマ。子母澤寛原作) 勝役 渡哲也(勝麟太郎)→松方弘樹(勝海舟) 竜馬がゆく(1982年、テレビ東京)勝役 若林豪 翔ぶが如く(1990年のNHK大河ドラマ)勝役:林隆三 勝海舟 (テレビドラマ)(1990年に放映された日本テレビ年末時代劇スペシャル) 勝役 田村正和 徳川慶喜(1998年NHK大河ドラマ)勝役:坂東八十助 新選組!(2004年のNHK大河ドラマ)勝役:野田秀樹 幕末機関説 いろはにほへと(声:樫井笙人)2006年(登場は2007年)、GyaO 篤姫(2008年のNHK大河ドラマ)勝役:北大路欣也 談話集 『氷川清話』講談社[講談社学術文庫]、江藤淳・松浦玲共編。ISBN 406159463X 『海舟語録』講談社学術文庫、江藤淳・松浦玲共編。ISBN 4061596772 『海舟座談』岩波書店[岩波文庫]。ISBN 4003310012。 参考資料 石井孝「勝海舟」(人物叢書)吉川弘文館。ISBN 4642050620 小西四郎「勝海舟のすべて」新人物往来社。ISBN 4404012918 勝部真長「勝海舟」上・下巻PHP研究所。ISBN 4569536174,4569536182 Katz Awa The Bismarck of Japan, Edward Warren Clark, 1904年 外部リンク 勝海舟を顕彰する会 勝 海舟:作家別作品リスト(青空文庫) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月3日 (土) 07 24。
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思想 同志社教育の原点は「良心」といえます。創立者の新島襄は誰よりも「良心」を高く評価しました。新島は9年間におよんだ欧米での生活を通して、キリスト教、とくにプロテスタントが文化や国民に与えた精神的感化がいかに巨大であるかを体得して帰国しました。そのひとつが「良心」で、これは「人間の目」ではなく、「神の目」を意識して初めて芽生えるものといえます。 つまり宗教をベースにした教育によってもっとも有効に触発されると考えられます。 新島から見て、日本の教育は智育に力を入れる半面、「心育」、今の言葉では「こころの教育」が疎かにされているといえます。 新島には、人は宗教的教育により「良心」を植えつけられてようやく「人間」となる、との信念がありました。 同志社大学から「精神なき専門家」(マックス・ウェーバー)や、「良心なき逸材」を生むつもりはありませんでした。「同志社大学設立趣意書」で、「一国の良心」を育成したい、と謳ったのもそのためといえます。新島は一学生への手紙の中で「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来(きた)らん事を」、つまり良心が全身に充満した青年が現れることを望んでやまない、と書いています。 この一節は、新島が期待する生徒像を鮮明にあらわしています。この言葉は「良心碑」に彫られ、同志社大学正門近くを始め、日米に6基存在しています。 「良心教育」は同志社がめざす教育理念です。 新島襄の目指した「一国の良心」を目指す教育は、精神と品行を陶冶する活力を身につけ、知識の修得だけでなく、良心の芽生えを促す キリスト教主義、自ら行動する力を育み、一人ひとりに自分の可能性を気づかせる自由主義、外国語を話せるだけでなく、異なる価値観を受け入れ、そこから「何か」を見出せる人を育む国際主義の三つから成り立っています。 創立者新島襄は、周りに流されるのではなく、自分なりに正しい考え方を持ち、変革を自ら実行する人物を育成しようと考えました。そして、このような「一国の良心」となる人物は「キリスト教主義」によってはぐくまれると信じ、キリスト教主義に基づく教育を同志社の基本的な方針として実践してきました。 また、同志社に受け継がれる、 適儻不羈(てきとうふき)という言葉は、才気がすぐれ、独立心が旺盛で、条規では律しがたいことを意味します。同志社では一方的に指導するというスタンスではなく、生徒の可能性を信じて、個性を大切にし、一人ひとりが自発的に行動して自分の力を発揮できるよう努めてきました。 新島襄はアメリカでの勉学や視察を通して教育の重要性に目覚め、同志社を設立しました。そのような歴史を持つ同志社では世界に目を向けて学ぶ姿勢を重視、単にコミュニケーションの道具としての外国語を学ぶだけでなく、世界の文化にふれ、お互いの違いを認め合う学びを実践したのです。 神田一ツ橋、学士会館の南側歩道に面した一角に〈新島襄先生生誕の地〉としるされた自然石の碑がある。かつてそこには上州安中藩邸があった。天保一四年(一八四三)、襄は邸内の長屋で生まれている。江戸城にほど近い武家屋敷街で育ったがゆえに、ペリーの来航をきっかけに、転換期をむかえた時代の雰囲気も皮膚で感じるものがあった。 「欧米の科学・技術はすさまじい。日本の国家独立のために、外国に学んで、遅れをとりもどしたい」 ペリーの軍艦に衝撃を受けた当時の新島は考えた。 江戸湾に碇泊しているオランダ軍艦をみたときの衝撃が、密航へとむすびつくのだが、新島はすぐには決行しなかった。 密航にいたる道のりは、あくまで慎重であった。まずオランダ語と英語を学ぶことからはじめ、幕府の海軍伝習所に入って航海術を修めている。さらに備中松山藩の機帆船にのりこんで航海実習も重ねている。密航を決意したときも函館までいった。アメリカ商船に乗船するときも、自分の志に共鳴する知人を通じて船長に同意をもとめている。日本脱出の地として幕吏の眼がとどきにくい函館をえらんだこと、民間商船に眼をつけたこと、きわめて計画的な行動だった。 アメリカに渡った新島襄は、ボストンの実業家ハーディーの支援をうけて、アーモスト大学、アンドバー神学校で学ぶことができた。襄が眼のあたりにしたアメリカは南北戦争直後であった。奴隷解放を実現、さらにヨーロッパ文化圏からはなれて独自の路線を歩みはじめていたころである。とくにボストンを中心とするニューイングランドは、アメリカでも最も活気にあふれていた。なによりも自由・自主・自立・独立の気風にみちていた。 先進国の科学・技術という表面的なものにあこがれていた襄は、『どうして、こんなすばらしい国ができたのだろうか』と考え、だんだんアメリカ文明の背景に眼をむけるようになっていった。 アメリカという国を築いたのは、きっとデモクラシーの精神とピューリタニズムにちがいない。襄はそのように考えた。 諸外国の侵略から日本を守るためには、欧米諸国の先端技術を導入するだけを考えていてはいけない。アメリカをつくった精神を日本の若者に伝えなければと、新島襄は考えたのである。 同志社英学校設立 明治七年(一八七四)、十年ぶりに帰国した新島裏は、ただちに学校設立に着手、翌八年一一月に「同志社英学校」を開設した。 同志社は中央政府につくつた官立大学のように、国家に奉仕する有能な官僚を養成する学校ではなかった。新島襄のことばでいえば「一国の良心になるような人」の養成である。あくまで在野にあって、批判精神をもつ自立した人材ということであろう。 初期の同志社は自由、自立、自治の気風にあふれていた。権威主義と官僚主義をきらった新島襄は、校長であるにもかかわらず、けっして先生ぶることはなかった。 学習も学生の自主性にまかせられ、教師は助言者にすぎなかった。寮規則などもすべて学生の自主的なとりきめにまかせられた。だれが生徒か、先生かわからない。襄は〈めだかの学校〉のようなありかたを理想としていたようである。 「全責任は校長にあります…」 新島襄を語るとき、いつもきまって登場するエピソードがある。〈自責の杖〉事件である。明治一三年(一八八〇)の春であった。当時の二年生は入学月のちがいから上級、下級の二組にわかれていた。両クラスとも少人数だったので、教師会が合併させようとしたのが事件の発端だった。上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が無届け欠席してしまった。上級組の意向を無視した教師会の決定にも問題があったが、無断欠席は明らかに校則違反であった。五年生から校則違反の処分をせまられて、学校側は頭をかかえてしまった。襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、杖をもって学生の前にあらわれた。 罪は教師にも生徒諸君にもない。紛争の全責任は校長にあります。校長である私は、その罪人を罰します……。襄はそう言うなり、杖で左の掌をはげしく打ちつづけた。杖は三片に折れてふっとんだという。 〈自責の杖〉伝説は、どこか芝居がかっているが、学校というものは、あくまで学生中心に運営されなければならない……という新島襄の原理・原則がよくあらわれている。 新島襄が生きた幕末から明治は、ひろい意味での学生が日本をうごかしていた。昭和になってからも、学生の若いエネルギーが国の転換期をクローズアップしてきた一時期がある。 襄が国禁をおかしてアメリカに渡ったのも同志社をつくつたのも、国家に役立ちたいという使命感からだった。 天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)と言う。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があります。 元服後、安中藩士となるが、1864年、21歳のとき、国禁を犯してのアメリカ合衆国への渡航を計画する。江戸城にほど近い武家屋敷街で育ったがゆえに、ペリーの来航をきっかけに、転換期をむかえた時代の雰囲気も皮膚で感じるものがあった。 「欧米の科学・技術はすさまじい。日本の国家独立のために、外国に学んで、遅れをとりもどしたい」 ペリーの軍艦に衝撃を受けた当時の新島は考えた。 江戸湾に碇泊しているオランダ軍艦をみたときの衝撃が、密航へとむすびつくのだが、新島はすぐには決行しなかった。 密航にいたる道のりは、あくまで慎重であった。まずオランダ語と英語を学ぶことからはじめ、幕府の海軍伝習所に入って航海術を修めている。さらに備中松山藩の機帆船にのりこんで航海実習も重ねている。密航を決意したときも函館までいった。アメリカ商船に乗船するときも、自分の志に共鳴する知人を通じて船長に同意をもとめている。日本脱出の地として幕吏の眼がとどきにくい函館をえらんだこと、民間商船に眼をつけたこと、きわめて計画的な行動だった。 渡航に向け函館に潜伏中、当時ロシア領事館の司祭だったニコライと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ新島に自分の弟子になるよう勧めたが、新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ新島の密航に協力した。 1864年7月17日、函館から米船ベルリン号で出国する。船中で船長テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」、「襄」と名乗った。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、1865年7月ボストン着。アメリカに渡った新島襄は、ボストンの実業家ハーディーの支援をうけて、アーモスト大学、アンドバー神学校で学ぶことができた。襄が眼のあたりにしたアメリカは南北戦争直後であった。奴隷解放を実現、さらにヨーロッパ文化圏からはなれて独自の路線を歩みはじめていたころである。とくにボストンを中心とするニューイングランドは、アメリカでも最も活気にあふれていた。なによりも自由・自主・自立・独立の気風にみちていた。 先進国の科学・技術という表面的なものにあこがれていた襄は、『どうして、こんなすばらしい国ができたのだろうか』と考え、だんだんアメリカ文明の背景に眼をむけるようになっていった。 アメリカという国を築いたのは、きっとデモクラシーの精神とピューリタニズムにちがいない。襄はそのように考えた。 諸外国の侵略から日本を守るためには、欧米諸国の先端技術を導入するだけを考えていてはいけない。アメリカをつくった精神を日本の若者に伝えなければと、新島襄は考えたのである。 1874年アンドーヴァー神学校を卒業する。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得る。11月横浜に帰着。旧主家の板倉氏が京都所司代を務めたこともある関係で、新島家は公家華族とも広く親交があった。1875年11月29日、親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松邸)の半部を借りれたので、校舎を確保することが出来、京都府知事や、当時、府顧問であった山本覚馬の賛同も得て、同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は8人であった。 教育者としては大隈重信とも親交があった。今日同志社大学と早稲田大学の間で学生交流制度があるのはそのためである。 1884年4月、2度目の海外渡航に出発する。1888年11月、『同志社大学設立の旨意』を全国の主要な雑誌・新聞に発表した。 1890年1月23日、募金運動中に前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館で、10か条の遺言を託して死去する。47歳であった。1月27日、チャペル前で葬儀が営まれ、東山若王子山頂に葬られた。 一旦はwikiより引用。上記の箇条書き部は個人作成 http //www.kohara.ac/virtual_museum/neesima/index.htm 思想 1874年、十年ぶりに帰国した新島裏は、ただちに学校設立に着手、翌八年一一月に「同志社英学校」を開設した。 同志社は中央政府につくつた官立大学のように、国家に奉仕する有能な官僚を養成する学校ではなかった。新島襄のことばでいえば「一国の良心になるような人」の養成である。あくまで在野にあって、批判精神をもつ自立した人材ということであろう。 初期の同志社は自由、自立、自治の気風にあふれていた。権威主義と官僚主義をきらった新島襄は、校長であるにもかかわらず、けっして先生ぶることはなかった。 学習も学生の自主性にまかせられ、教師は助言者にすぎなかった。寮規則などもすべて学生の自主的なとりきめにまかせられた。だれが生徒か、先生かわからない。襄は〈めだかの学校〉のようなありかたを理想としていたようである。 新島襄を語るとき、いつもきまって登場するエピソードがある。〈自責の杖〉事件である。1880年の春であった。当時の二年生は入学月のちがいから上級、下級の二組にわかれていた。両クラスとも少人数だったので、教師会が合併させようとしたのが事件の発端だった。上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が無届け欠席してしまった。上級組の意向を無視した教師会の決定にも問題があったが、無断欠席は明らかに校則違反であった。五年生から校則違反の処分をせまられて、学校側は頭をかかえてしまった。襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、杖をもって学生の前にあらわれた。 罪は教師にも生徒諸君にもない。紛争の全責任は校長にあります。校長である私は、その罪人を罰します……。襄はそう言うなり、杖で左の掌をはげしく打ちつづけた。杖は三片に折れてふっとんだという。 〈自責の杖〉伝説は、どこか芝居がかっているが、学校というものは、あくまで学生中心に運営されなければならない……という新島襄の原理・原則がよくあらわれている。 新島襄が生きた幕末から明治は、ひろい意味での学生が日本をうごかしていた。昭和になってからも、学生の若いエネルギーが国の転換期をクローズアップしてきた一時期がある。 襄が国禁をおかしてアメリカに渡ったのも同志社をつくつたのも、国家に役立ちたいという使命感からだった。 http //tk.files.storage.msn.com/x1pVnZjdBBvj2Lx6P8W2NhkCYEmWyBpuVLqHvH5V6ivdbwhH1nl_B-XOf32LQ-WpFfvyp00rK4_6GVps7YTkRBlU8CMWsbqqJ9iQ4uUMbxcZP4Jo_XisHXWl4taOcmj-NJZQ http //mu2.mp7.jp/ib/index.php?uid=yaranaika dir=53 now=0 so= th= http //watanabeabesan.blog122.fc2.com/