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◎仏教 ラインナップ 140516 過去帳は部外者に見せないで 差別懸念、各宗派が周知 [朝日] 0518 延暦寺の役員が総辞職、組長法要問題で「おわび」 [読売] 0516 山口組、延暦寺で歴代組長法要…寺「今後は断る」 [読売] 0226 住職 異例の一般公募 新潟のお寺が後継選びで [毎日] 新刊:無宗教からの『歎異抄』読解/阿満利麿 ちくま新書 140516 過去帳は部外者に見せないで 差別懸念、各宗派が周知 [朝日] 寺の檀(だん)信徒の戒名(法名)や死亡年月日などを記した「過去帳」について、各宗派が、外部に閲覧させないよう所属寺院に呼びかけている。かつて、被差別部落出身者かどうかを確かめる身元調査に過去帳が利用されているとして閲覧禁止を周知したが、ここ数年、寺外に見せた事例が相次ぎ判明したためだ。 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市)は2月、過去帳や類する帳簿の扱いに関する規則を改訂。住職には、守秘義務や過去帳を厳重に管理する義務があると明記し、身元調査を断るシールを約1万の末寺に配った。門徒にも閲覧禁止を知らせる。 きっかけは、2012年5月に放送されたNHKのバラエティー番組。広島県の同派の寺が、過去帳に類する帳簿を、祖父の手がかりを探していた出演者に見せる場面が流れた。 放送後、同派はNHKに「寺に行けば簡単に過去帳を閲覧できると誤解されかねない」と指摘。NHKは再放送を取りやめた。NHK広報局は「過去帳に関し、歴史的な経緯も含め、制作現場に繰り返し周知するなど、再発防止に努める」としている。 かつて被差別部落の人の戒名に「賤」「隷」「畜」といった文字をあてて過去帳に記したり、被差別部落の人だけの過去帳が作られたりしたことがあった。 結婚や就職の際の身元調査に過去帳が使われているとして問題化したため、各宗派は1980年代以降、外部への閲覧禁止を所属寺院に通達。差別記載があった過去帳の書き直しを進めた。 しかし、複数の地方紙でも昨年、過去帳などの調査で歴史上の人物らの新事実がわかったなどとする記事を、過去帳などの写真とともに掲載する例が相次いだ。いずれも過去帳などに差別記載はなかったが、部落解放同盟や寺の所属宗派が「過去帳が身元調査に使われ、人権侵害を助長したことを忘れているのでは」などと指摘。地方紙はホームページから記事を削除したり、記者研修を開いたりした。 浄土宗(総本山・知恩院、京都市、約7千寺)や真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市、約9千寺)なども改めて閲覧禁止を周知したが、一方で過去帳には人口動態など近世の歴史解明に役立つ史料という側面もある。身元を確認できる研究者が閲覧を求めた場合、宗派の担当職員の立ち会いの下で見せることを認める宗派もある。 桃山学院大の寺木伸明・特任教授(近世部落史)は「80年代は僧侶の意識も高かったが、30年余りがたち、人権や部落差別への認識が薄れているのではないか。家系図作りなどルーツ探しが人気で、過去帳を見たいと寺に求める人が増えたことも影響しているのかもしれない」と指摘する。(岡田匠) ◇ 〈過去帳〉 檀信徒の戒名(法名)や俗名、死亡年月日、年齢などを記した帳簿。多くの寺で記録や回向のために記すようになったのは江戸時代前期からとされる。金庫に鍵をかけて保管している寺が多く、本尊とともに重要視される。 0518 延暦寺の役員が総辞職、組長法要問題で「おわび」 [読売] 天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)で指定暴力団山口組歴代組長の法要が行われた問題で、同寺は18日、大津市内で「一山(いっさん)協議会」を開き、代表役員で運営トップの今出川行雲・執行(しぎょう)(68)と、副執行6人の「執行(しぎょう)局」役員全員が責任を取って総辞職した。 同寺は「信用を著しく損なう事態を招いた。暴力団の排除が求められている中、甚だ軽率な行為。多大なご迷惑をかけ、深くおわびする」との声明を発表。 「今後は管理体制を見直し、職員の意識向上を図り、総力を挙げて信頼回復に努めたい」とし、ホームページにもおわびを掲載した。 19日の会議で新役員の選任について協議、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送する。 (2006年5月18日23時28分 読売新聞) URL http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20060518i415.htm 0516 山口組、延暦寺で歴代組長法要…寺「今後は断る」 [読売] 天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)に先月下旬、指定暴力団山口組の最高幹部ら約90人が集まって、歴代組長の法要を行っていたことがわかった。 同寺など7万の寺が所属する全日本仏教会は、約30年前に暴力団排除を決議しており、滋賀県警も法要直前に中止を要請していた。 警察当局は、香典名目で数千万円が上納されたとみており、「明らかに威力誇示と資金集めが目的」と分析。 延暦寺は「配慮が足りなかった。今後、暴力団の法要は拒否したい」と話している。 警察当局や延暦寺などによると、法要は先月21日、山口組の初代から4代目組長の供養を目的に同寺の阿弥陀堂で開催された。 銃刀法違反罪で服役中の6代目組長を除く、全国の直系組長ら約90人が、7台のマイクロバスに分乗して同寺に集結。 午後5時から約40分間にわたって、「特別永代回向」と呼ばれる最高級の儀式を行った。滋賀県警は約50人態勢で警戒しトラブルはなかったという。 3月下旬ごろ、第三者を介して山口組側から申し込みがあったといい、前日の20日に法要の開催を知った県警は、延暦寺に「やめられないか。社会的影響を考慮してほしい」と口頭で中止を申し入れたが、寺側は「宗教の行事だから断れない」などと答えたという。 天台宗など58宗派が加盟する財団法人「全日本仏教会」(東京都)は1976年、全日本仏教徒会議で、「威力誇示、資金集めに利用するような葬儀、法要は拒否しよう」という暴力団排除の決議を行っており、仏教会は「法要が(暴力団に)利用されたことに関しては、大変遺憾に思う」としている。 (2006年5月16日16時18分 読売新聞) URL http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20060516it11.htm?from=top 0226 住職 異例の一般公募 新潟のお寺が後継選びで [毎日] うちのお寺を継ぎませんか--。新潟市にある日蓮宗の妙光寺=小川英爾住職(53)=が、後継の住職選びとしては異例の一般公募を始めた。同寺は永代供養墓を全国に先駆けて始めるなど、脱「葬式仏教」を掲げる。そうした志を継げるのは、先入観のない教団外部の人材と見込んだためだ。後継は世襲か縁故で決まるのが常識だけに、寺のあり方を問う試みとして注目される。 募集対象は25~30歳ぐらいまでの大卒で実社会での経験がある人。性別、国籍、専攻は問わない。3、4人をまず採用。3カ月研修し、2人程度を候補生として本採用する。その後、仕事の実務や他寺研修など3年間の育成プログラムを経て2013年をめどに1人が副住職に就任する。他の候補生は寺務職などで残るか、他寺の住職を目指すことになるという。研修中は月額3万円の研修費がもらえ、候補生になると給与は月額12万円。 同寺は1989年、少子化、シングル化、核家族化が進む時代に応え、祭祀(さいし)の継承者(子孫)が必要ない新しい墓の形として注目される永代供養墓「安穏廟(あんのんびょう)」を始めた。年1回の「フェスティバル安穏」も行い、合同法要と生老病死を語るシンポジウムを開くなど、社会に開かれ人々の心の支えになる寺のあり方を模索してきた。こうして従来の檀家(だんか)のほかに、安穏廟の会員が550人に増えた。 小川住職は「新しい時代のお寺の可能性を開く基盤が整ったので、それを引き継いでくれる人がほしい」と話している。 応募は履歴書、職務経歴書、論文「私が妙光寺の住職になったら」(800字程度)を同寺(〒953-0011新潟市角田浜1056、電話0256・77・2025)に送るか持参する。締め切りは5月末。【内藤麻里子】 ▽新しい仏教の形を唱える町田宗鳳・東京外語大教授(比較宗教学)の話 宗教の世界ではモチベーションが大事で、それが僧侶の資質を決定付ける。一方で世襲などで住職になる場合は知識も社会体験も少なすぎて信仰の受け皿になり得なかった。この公募で面白い人材が集まれば全国に広がる可能性がある。日本仏教改革のきっかけになってほしい。 毎日新聞 2006年2月26日 3時00分 URL http //www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060226k0000m040136000c.html 新刊:無宗教からの『歎異抄』読解/阿満利麿 ちくま新書 「いかに善悪のけじめに神経をすり減らしていようが、人生そのもののはかなさ、不条理、虚妄に、道徳は答えを出すことはできない」。「業報にさしまかせて」の親鸞の教えは仏教的実存への決断。[朝日]05/07/10
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#blognavi 昨日無事親父の満中陰の法要を終えました。 記憶がある歳になって初めてお墓に納骨するところを目の当たりにしましたが、 お墓と骨壷の大きさが綿密に設計されているもんだと感心しました。 親父、ゆっくりと休んで下さい。 さてさて。 法要の後に食事を行ったのですが、結構トラブルだらけでして。 お店の不手際はどぉーしても持て成す側の不手際。 終わってしまえば笑い話ですが、その場はいい感じはしませんねー。 いやはや、難しいもんです。 カテゴリ [なし] - trackback- 2008年05月12日 05 54 43 名前 コメント #blognavi
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925 :1/2:2013/04/22(月) 03 56 04.08 0 文章力ないですが投下。 旦那家はお殿様に仕えていた由緒正しい家系でウトはその当主。 トメはテンプレいびりと家系云々で勝手に由緒正しくもなんともないただの家と思い込み嫁子家sage発言を二人きりのときに言い放ってくる。 それなら我慢できたもののペットのハム2匹を殺されプッツン。 その年にあったお殿様家の法要で反撃してやった。 大変珍しいがお殿様家の法要では家臣であった10いくつかの家の当主を呼び行う。 家臣家ではその法要に一番若い嫁を連れて行きお茶などの雑用をさせる(若嫁を連れてくるのは強制されているわけではなく家臣家の体裁保ちでやってる習慣)。 私も手伝いに借り出されたので旦那とお殿様家へ行く。私が免許を持っていないので旦那は運転手として。 今回の法要はお殿様家頭領(女性)のお婿さんの3回忌。 法要が無事終わり、頭領と家臣家当主がそれぞれ挨拶をしているところで旦那家と頭領の挨拶が。 はじめは当たり障りの無い世間話だったが頭領が「紹介が遅れましたわ、こちらが嫁子といって私の孫であり次の頭領です。」と私を紹介。 ウトメ驚き(特に嫁子家sage発言ばかりしていたトメは驚いていた)どういうことなのかと頭領に詰め寄る。 頭領「どういうことも何も、この子は私の孫ですので。」と答えるとトメ( ゚д゚)ポカーンで開いた口が塞がらず。 ウトは「そういえば頭領さんの苗字と嫁子の旧姓が同じだな」と納得。頭領家の苗字は珍しいのでこの地域でその名前を聞くと頭領家関係なのだなと思われる。 そしてトメ、「でもうちの長男君と結婚していますから頭領は長男君でお殿様家の苗字は・・・」と言い出す。 実は旦那にプロポーズされたときに私がいずれ頭領になることは決まっていた(うちの頭領は孫までの中で指名制、祖母に当たる頭領は初孫である私を溺愛し必ず頭領にすると言い生前贈与もしてくれていた)ので説明をし「あなたの苗字になれないがそれでもよければ」と承諾。 婚姻届も嫁子の苗字で出してある。 926 :2/2:2013/04/22(月) 03 58 39.59 0 そういうわけで私は旦那家の若嫁ではないので順位が戻り若嫁に戻ったトメに「ささ、お片づけが残っていますよ^^」と割烹着を手渡し他の若嫁さんを帰らせたあとに片づけを全部させた。 洗い物を拭いたあとに水滴のひとつでも残っていたら「トメさん!?どうしてここに水滴がついているのかしら!?」なーんて細かくネチネチ言ったのはDQだと思う。 それ以降ウトメは私の顔色を伺っています。 嫁子が頭領になると聞いてからトメが中の人が変わったのかと思うくらい嫁子age発言をし始めやたら本家へ行きましょうと煩いので「これ以上煩くするならウト家とは縁を切らせていただきますがよろしいですか。」と静かに言ったところ大人しくなったのですっきり。 ちなみに長男である旦那が婿養子であることを長男教のウトメに言わず、姓は私の方を名乗っていることを結婚5年目の前述の法要ではじめて明かした。 家系のことをいろいろ書きましたが旦那とは社内恋愛結婚です。 なんかわかりづらい文章でごめん。 927 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 04 53 27.99 0 ハム殺害をみんなの前で暴露せんと。 928 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 05 53 27.57 0 嫁憎しで弱い小動物を殺生するような人間と席を同じくしたくない と言ってもいいんじゃないか? 929 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 06 03 29.30 P 小動物を殺す人間の性根は治らないし、 逆恨みするともっとえげつないことやるから 上下関係をわからせるだけでよかったんじゃない? 931 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 07 23 04.91 O なんか、ネタのテンプレてんこ盛りだな…。 932 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 07 25 42.62 0 息子の姓が変わったことに気が付かない親がいるもんか 家の地方にも姓を聞けば「殿様の家臣の一族?」とわかるが、嫁の姓がそれと同じなら話題にもしないのってあり得ない 935 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 08 41 28.76 0 そもそも婚姻届の保証人なんか赤の他人でもOKだし、 戸籍を見ない限り気づかないよ。 名字が変わったことを隠すことは難なく可能。 936 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 08 46 24.37 0 法要で家臣家が来るような家で次の頭領の結婚披露宴もしてないのかよw 937 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 08 48 57.10 0 結婚式はしなかったんだろうか 祖母さんは溺愛する孫娘の花嫁姿を見たかっただろうに 938 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 09 27 47.25 0 ファンタジーにそんなにツッコミ入れなくてもw 939 :名無しさん@HOME:2013/04/22(月) 09 30 05.33 0 ネタならネタでリアリティ追求してほしいの。 次のお話→237-971
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7月5日に国立競技場(東京都新宿区)で営まれる石原裕次郎さん(享年52)の 二十三回忌法要で限定5万人に無料で配られる記念品をめぐり、 石原プロモーションは15日、応募が75万1170通あったと発表した。 ヤフーニュースhttp //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090616-00000049-spn-entより 裕次郎さんの法要の記念品に 多くの応募があったようです。 裕次郎さんの人気の凄さに驚かされます。 石原裕次郎関連商品はこちら 石原裕次郎
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世界を言葉で検索 ■ テクノラティ検索 #technorati ■ クチコミ検索 #bf ■ ブログ2 #blogsearch2 ■ ニュース1 青少年読書感想文全国コン 特選・入選、227編決まる /福岡 - 毎日新聞 寿福院「開眼」 羽咋・妙成寺で法要 奉納の油彩画、本堂に安置(北陸新幹線で行こう! 北陸・信越観光ナビ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 浜田中心部にクマ 住宅街の寺、過去にも目撃 - 47NEWS 裏金2億円、私的流用 妙智会教団の代表役員 - 千葉日報 ■ ニュース2 青少年読書感想文全国コン 特選・入選、227編決まる /福岡 - 毎日新聞 寿福院「開眼」 羽咋・妙成寺で法要 奉納の油彩画、本堂に安置(北陸新幹線で行こう! 北陸・信越観光ナビ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 浜田中心部にクマ 住宅街の寺、過去にも目撃 - 47NEWS 裏金2億円、私的流用 妙智会教団の代表役員 - 千葉日報 .
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東本願寺(真宗本廟) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の一派、真宗大谷派の本山寺院。「お東さん」の愛称でも呼ばれるが「東本願寺」は通称であり、正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は教如(本願寺光寿)。徳川家康より本願寺(現在の西本願寺)の東側に寺領を与えられて創建された。近接する飛地境内地の渉成園も管理する。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の末娘覚信尼によって興った本願寺が、越前国(福井県)吉崎から京都の山科、大坂の石山と各地を移転しながら発展。石山での織田信長との10年間のわたる抗争・和睦を経て、天正19年(1591)に豊臣秀吉からの土地の寄進を受け、京都市下京区堀川六条に移転する。本願寺11世顕如の死後、長男の教如と弟の准如が対立し、慶長7年(1602)に教如が徳川家康から寺領を与えられて別立することになった。このため寺が東西ふたつに分かれることとなり、教如の開いた寺を東本願寺、それまでの本願寺は西本願寺と通称されるようになった。江戸期には4度の火災に見舞われ、現存する建造物の多くは明治期の再建。しかし建築物・障壁画等は当時の技術の粋を集めたもので、御影堂は世界最大級の木造建築物である(現在修復工事中)。明治以降、親鸞?の血筋を引く大谷家の当主が法主(宗派の教学を顕現する)、管長(真宗大谷派の代表)、住職(真宗大谷派の本山東本願寺の代表)の地位を継承し、権限を独占していたが、昭和35年(1960)頃からこうした教団のあり方をめぐって意見が対立、改革を主張する勢力が教団のあり方の改正を訴える。昭和56年(1981)になって宗憲(宗派の憲法にあたる)が改正され、教団運営が選挙で選ばれた議員による議会制となり、従来の法主、管長、住職にかわって門首が置かれるなどの改革が行われた。一方、同派の東京浅草別院住職であった大谷光紹(興如)が従来通り法主を中心とする運営を主張し、宗憲の改正と時期を同じくして真宗大谷派から分離独立し、これに賛同する末寺・門徒をまとめて「浄土真宗?東本願寺派」を名乗った。大谷光紹の弟暢順(經如)や暢道(後に光道と改称、秀如)らも大谷派を離脱、現在真宗大谷派は大谷暢顯(淨如)を門首とし真宗本廟を本山とする真宗大谷派、大谷光見(聞如)を法主とし浅草別院を本山とする浄土真宗?東本願寺派、大谷光輪(楽如)を門主とする財団法人本願寺維持財団、大谷光道(秀如)を当主とする東本願寺大谷家の4派に分かれている。正式名称である「真宗本廟」は親鸞の根本道場・帰依処としての「はかどころ」を意味し、分派した諸派と区別して正当性を主張する意味がある。 伽藍 御影堂 正面76m、側面58m、高さ38mの二重層の建築物で、明治28年(1895)に完成した。入母屋造、桟瓦葺。宗祖親鸞?の御真影が安置されている。屋根には約17万枚の瓦が使われ、90本の柱が支える堂内には927枚の畳が敷かれており、世界最大級の木造建築として有名。 阿弥陀堂 御影堂の南側に並んで建ち、御影堂と同じく明治28年(1895)に完成した。入母屋造、桟瓦葺。御影堂よりはやや小ぶりで単層だが、正面52m、側面47m、高さ29mの大きさを誇り、約10万枚の瓦と401枚の畳が使われている。堂内には本尊の阿弥陀如来像、本尊の左右には法然?と聖徳太子の御影と、インド・中国・日本の六高僧の御影を安置する。 御影堂門 御影堂の東側正面にある高さ約28mの重層門で、明治44年(1911)の再建。入母屋造、桟瓦葺。楼上には「真宗本廟」の扁額が掲げられ、釈迦如来・阿難尊者・弥勒菩薩?の三尊像を安置する。天井には竹内栖鳳?の天女の絵が描かれる予定だったが、下絵を完成させた段階で逝去したため白いままとなっている。楼上は通常非公開。 阿弥陀堂門 阿弥陀堂の正面やや北寄りに建つ切妻造、檜皮葺の四脚門。唐破風を備え、江戸時代には唐門とも呼ばれた。現在の門は明治44年(1911)の再建。 参拝接待所 建築家武田五一?の監修によって昭和9年(1934)に新築。平成10年(1998)には本願寺中興の祖、8世蓮如の500回御遠忌の記念事業として、地下部分に視聴覚ホールやギャラリーなどが設けられた。 諸殿(書院・能舞台・宮御殿・大寝殿・桜下亭ほか) 書院は来賓接待に使用され、白書院からは能舞台が観覧できる。宮御殿は旧大宮御所?内の御殿を移築したもので、琵琶湖疏水?を利用した庭園がある。大寝殿は慶応3年(1867)に建てられた東本願寺最古の建物で竹内栖鳳?の障壁画が飾られている。桜下亭は明治42年(1909)に東京霞ヶ丘に建てられた隠居所を移築したもので、円山応挙の障壁画が飾られている。これら諸殿は公式行事や来賓接待などに利用されるため通常非公開であるが、期間限定で公開されることもある。 渉成園(枳殻邸) 周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれる歴代門首の隠居所。平安時代に左大臣源融が奥州塩釜の景を移して海水を運ばせたという六条河原院苑池の遺構と伝わり、寛永18年(1641)に徳川家光から寄進された。約1万坪の池泉回遊式庭園は承応2年(1653)に石川丈山?によって作庭され、印月池を中心として回棹廊(檜皮葺の廊橋)、侵雪橋(木造の反橋)、縮遠亭(中島に建つ茶室)、傍花閣(二層門)、園林堂(棟方志功の襖絵がある仏堂)などの建物が配置されている。慶応元年(1865)より明治期にかけて修復されたが、石組は当時とほぼ変わらないという。昭和11年(1936)には国の名勝に指定された。 大谷祖廟(東大谷) 円山公園の南にあり、東大谷とも呼ばれる御廟所。弘長2年(1262)に親鸞?の遺骨を鳥辺野の北の地に納め、10年後に改葬されて新たに祖廟が建立され、寛文10年(1670)現在地に移転した。長い参道の先に、御廟、本堂、書院、墓地などがある。本堂は元禄14年(1701)の諸堂の整備の際に建立されたもの。親鸞?をはじめ、本願寺の歴代並びに全国の門徒の遺骨が納められている。 文化財 国宝 教行信証(親鸞?筆、坂東本) 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 絹本著色親鸞?聖人像 紙本著色本願寺聖人?伝絵 紙本著色本願寺聖人?親鸞?伝絵 一念多念文意(親鸞?筆) 名勝 渉成園 拝観情報 住所 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754 電話番号 075-371-9181 拝観時間 5:50~17:30(3月~10月)、6:20~16:30(11月~2月) 拝観料 境内自由 アクセス JR京都駅より徒歩7分、市バス「烏丸七条」下車すぐ 駐車場 門前道路にタイムパーキングあり 主な行事 1月1日 修正会 1月25日 法然?上人御祥月命日法要 2月22日 聖徳太子御祥月命日法要 3月春分の日を中心に7日間 春季彼岸会法要 3月25日 蓮如上人御祥月命日法要 4月1日~3日 春の法要 4月1日~8日 花まつり 4月15日 立教開宗記念法要 7月14日~15日 盂蘭盆会法要 8月1日~5日 暁天講座(大谷祖廟) 8月14日~16日 万灯会(大谷祖廟) 9月秋分の日を中心に7日間 秋季彼岸会法要 9月27日~28日 大谷祖廟報恩講(大谷本廟) 11月21日~28日 宗祖親鸞?聖人御正忌報恩講 12月20日 お煤払い 12月31日 歳末昏時勤行 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「東本願寺の別邸である渉成園は誰から与えられた地に作られたか。 (ア)徳川家康 (イ)徳川秀忠 (ウ)徳川家光 (エ)徳川家綱」 リンク 東本願寺オフィシャル http //www.tomo-net.or.jp/ 現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く
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西本願寺(本願寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の寺院で浄土真宗?本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は親鸞?の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の知恩院の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は天台宗?の末寺という位置づけだったため、本願寺の活況は延暦寺宗徒の反感を買い、堂舎はたびたび破却され、各地に移転を繰り返した。蓮如は越前国(福井県)吉崎から京都の山科へと移りながら、平易な御文章(ごぶんしょう)の述作など独自の布教を続ける。天文2年(1533)に山科本願寺は六角氏や法華宗?徒の焼き討ちに遭い、大坂の石山に拠点を移す。そこで11代の顕如が織田信長と対立し、11年におよぶ石山戦争が勃発。最終的に信長と和睦した本願寺は石山を退去し、天正19年(1591)に豊臣秀吉からの寺地の寄進を受け、現在の本願寺の寺基である堀川六条に移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。顕如の死後、長男の教如が秀吉により隠居を余儀なくされ、弟の准如が12代として継いだ。一方、慶長7年(1602)に教如が徳川家康から本願寺の東に寺領を与えられ、本願寺を別立することになった。このため本願寺が西と東のふたつに分かれることとなり、教如の開いた寺を東本願寺、それまでの本願寺は西本願寺と通称されるようになった。 伽藍 御影堂(大師堂) 寛永13年(1636)に造営された。中央に宗祖親鸞?の木像坐像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置するため御影堂(ごえいどう)もしくは大師堂と呼ばれる。南北62m、東西48m、高さ29m、支柱の数は277本、734畳敷きの巨大な建造物である。現在、「平成大修復」中につき、平成20年(2008)まで拝観できない。 阿弥陀堂 宝暦10年(1760)に造営された西本願寺の本堂。入母屋造、本瓦葺で内陣に本尊の阿弥陀如来像を安置する。本尊の左右にはインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。 南北45m、東西42m、高さ25mと御影堂に続く大きさを誇る。現在、御影堂の修復工事に伴い、阿弥陀堂の南(左)余間を「仮御影堂」として使用しているため、阿弥陀堂は「総御堂」と称されている。 飛雲閣 西本願寺の境内南東隅に位置し、名勝指定の庭園「滴翠園」と滄浪池を前にした3層の楼閣建築。豊臣秀吉の聚楽第から移築したと伝わる。初層内部には紹賢殿、八景の間、舟入りの間、茶室がある。狩野永徳筆と伝わる「雪柳図」が襖に描かれている。二層目は屋根に軒唐破風を付け、内部の天井には葡萄やリスが描かれ、杉戸や壁には三十六歌仙が描かれた歌仙の間がある。筆者は狩野山楽と伝わる。三層目は8畳の間に花頭窓をあしらった茶室風の造り。また廊下伝いには飛雲閣の西側にある浴室の「黄鶴台」とも繋がっている。拝観は申込み制(通常非公開)だが、飛雲閣の内部は拝観できない。 書院(対面所・白書院・虎渓の庭など) 対面所は203畳敷きの大広間で、上下段の境の欄間に雲中飛鴻の彫刻があるので「鴻の間」とも呼ばれる。上段の床には中国前漢の人、張良が四賢人を率いて二代皇帝の恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれている。障壁画は狩野派の渡辺了慶の筆。下段左右の襖絵と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、白は水晶、赤は珊瑚、緑は銅のサビ)、400年の年月を経た現在でも美しい色を残している。 白書院は対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院で、一の間、二の間、三の間からなる。一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれている。また、三の間には華麗な孔雀を描かれているため、孔雀の間とも呼ばれ、畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されている。 虎渓の庭は、中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られた江戸初期の枯山水庭園。巨大な色石やソテツが配され、御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れている。国の特別名勝及び史跡に指定されている。 すべて拝観は申込み制(通常非公開)となっている。 黒書院 黒書院は明暦3年(1657)、13代良如のときに建立された。白書院の華麗さとは対照的に、数奇屋風の佇まいで、歴代門主が寺務をとった場所。一の間(門主室)と二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがある。幾何学絞様の欄間や、狩野探幽筆の襖・貼附の墨絵等は清楚な趣きを漂わせ、一の間の床・違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされている。白書院と同様に、拝観は申込み制(通常非公開)。 能舞台 西本願寺には北と南のふたつの能舞台が現存する。北能舞台は日本最古の能舞台として著名。屋根の破風につけた懸魚(けぎょ)に天正9年(1581)の墨書きがある。前庭の石はすべて舞台の方向を向いており、音響効果のため、さざなみを意味する、などの諸説がある。国宝に指定されているため、北能舞台では演能されることはほとんどない。 南能舞台は白書院対面所の南側に位置する、現存する最大の能舞台であり、重要文化財に指定されている。毎年5月21日の宗祖降誕会には祝賀能が演じられている。 いずれも拝観は申込み制(通常非公開)である。 唐門 伏見城の遺構と伝わり、豪華な装飾彫刻が施された桃山文化を代表する門。檜皮葺、入母屋造、前後を大唐破風とした四脚門で、勅使門とも呼ばれる。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮門(ひぐらしもん)」の異称もある。 文化財 国宝 飛雲閣 書院(対面所及び白書院) 黒書院 北能舞台 唐門 紙本墨画親鸞?聖人像 熊野懐紙 三十六人家集 観無量寿経註 阿弥陀経註 重要文化財(建造物) 御影堂 阿弥陀堂 玄関、波の間、虎の間及び太鼓の間 浴室(黄鶴台) 鐘楼 南能舞台 重要文化財(美術工芸品) 紙本著色慕帰絵詞 絹本著色雪中柳鷺図 紙本著色親鸞?・如信・覚如三上人像 絹本著色聖徳太子像 銅鐘ほか多数 特別名勝 本願寺大書院庭園(虎渓の庭) 名勝 本願寺滴翠園 史跡 本願寺大書院庭園(虎渓の庭) 本願寺境内 拝観情報 住所 京都市下京区堀川通花屋町下ル 電話番号 075-371-5181 拝観時間 1.2月 6:00~17:00、3.4月 5:30~17:30、5~8月 5:30~18:00、9.10月 5:30~17:30、11.12月 6:00~17:00 拝観料 境内自由、書院と飛雲閣は要申込み(拝観は無料) アクセス 市バス「西本願寺前」下車すぐ 駐車場 駐車場あり(無料) 主な行事 1月1日 元旦会(修正会) 1月8日 大御身(おおごしん) 1月9日~16日 御正忌法恩講法要 1月9日 本山成人式 3月春分の日を中心に7日間 春季彼岸会 4月8日 花祭り(灌仏会) 4月13日~15日 立教開宗記念法要 4月17日~18日 大谷本廟永代総追悼法要 5月20日~21日 宗祖降誕会 6月25日~28日 大谷本廟納骨、永代経法要 8月6日~10日 朝の法座(大谷本廟) 8月14日~15日 盂蘭盆会 8月15日 戦没者追悼法要 9月18日 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京・国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑) 9月秋分の日を中心に7日間 秋季彼岸会 10月15日~16日 龍谷会(大谷本廟報恩講法要) 11月22日~23日 全国門徒総追悼法要、本願寺献菊展 12月20日 お煤払い 12月31日 除夜会 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「西本願寺は宗祖親鸞の娘( )が建てた東山の大谷廟堂に始まる。(中略)天正19年に( )が現在地に寺地を寄進し(中略)飛雲閣は( )の遺構と伝えられ(中略)三層は( )と呼ばれる。」 「西本願寺の「松と鶴図(国宝)」の作者は誰か。 (ア)土佐光信 (イ)石川丈山 (ウ)尾形光琳 (エ)渡辺了慶」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「明治4年(1871)に京都で行われた日本最初の博覧会の会場はどこか。」 リンク 西本願寺オフィシャル http //www.hongwanji.or.jp/ 新版 古寺巡礼京都〈20〉西本願寺
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【フィンガーレスグローブ】 切磋琢磨に支給。 指の先が露出する形になっている物。武器にはあまりならないかも……。 【工事用ヘルメット】 菊池やとに支給。 工事の際に使われる黄色いヘルメット。 【根性鉢巻】 榎本瞳に支給。 「根性」と書かれた白い鉢巻。 【国分由貴の服@DOLオリロワ】 長谷川智美に支給。 DOLオリロワ内で長谷川祐治により破かれた国分由貴の衣服。 大雑把に縫われ辛うじて着れる状態になっている。 【葬儀・法要用ネクタイ】 緑川美沙子に支給。 葬儀や法要の時に使う黒色無地のネクタイ。 【狭山雪子のブラジャー@変哲×EDLおまけSS】 浅井きららに支給。 狭山雪子が一大決心の末購入した人生初のブラ。 ぺった……いや、貧にゅ……いや、乳房が小さめな人用の、スポーツブラ。 【コンドーム】 丹羽雄二に支給。 言わずもがな用途は性こry ちなみにそれ以外にも液体(健全)が大量に入れれたりするので使い道がないわけではない。 【スクール水着】 大塚英哉に支給。 小学生女子が着れそうなぐらいのサイズ。ちなみに世間一般的に言う旧タイプ。 胸のところには名前を書くところがあり所謂萌えを意識している気がする。 ……人無は何がしたいのだろうか。 【麦わら帽子】 川田喜雄に支給。 夏場子供や農作業の人がよく被る麦わらで出来た帽子。某ゴムの人のトレードマークでもある。 防御力は全く無い。
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醍醐寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐にある真言宗?醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもち、伽藍は山上の上醍醐と山麓の下醍醐にわかれて建ち並んでいる。寺宝10余万点、うち国宝・重要文化財107件約4万点を所有する屈指の大寺院。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると、創建は貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が霊感を得て笠取山に登り、准胝観音?並びに如意輪観音を造って祀ったのが最初という。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。延喜7年(907)には醍醐天皇の御願寺となって飛躍的に発展し、薬師堂や釈迦堂(金堂)、五重塔など多くの伽藍が建ち並ぶ寺容を整えた。院政期には源氏の座主が続き、永久3年(1115)、14代座主勝覚のときに三宝院が建立された。のち応仁の乱による戦火で下醍醐の伽藍は五重塔を除き全焼するが、第80代座主の義演准后が豊臣秀吉の支援を取り付けて復興させた。秀吉は仁王門や諸殿を修復させ、境内に桜樹700本を植樹し、次いで三宝院殿舎、庭園の増築を命じた。慶長3年(1598)には「醍醐の花見」が催されたが、秀吉は新しい三宝院の完成を見ることなく死去。秀吉の没後は秀頼の寄進を得て諸堂の再建がなされた。江戸時代に入り、修験道中興の祖でもある聖宝により継承されてきた三宝院に属する修験(山伏)を「当山派」と称する許可を幕府より得、座主高賢の大峯入峰(おおみねにゅうぶ)により醍醐の教風がひろまっていった。現在もその法流を汲み花供入峰修行が行われている。 伽藍(上醍醐) 上醍醐には「醍醐味」の語源ともなった醍醐水が今も湧き出ているほか、准胝堂は西国三十三箇所の第11番札所として篤い信仰を集める。平安時代のままに残る薬師堂や醍醐寺の鎮守神である清瀧宮拝殿、五大堂、開山堂、如意輪堂などが険しい山あいに立ち並ぶ。上醍醐と下醍醐は山道で隔たれ、徒歩で約1時間を要する。 准胝堂 上醍醐の中心伽藍。貞観18年(876)の創建と伝えられるが、現在の建物は、昭和43年(1968)に再建されたもの。本尊准胝観音?像は秘仏であるが、毎年5月18日に御開扉法要が営まれ、前後3日間だけご開帳される。平成20年(2008)8月24日、落雷により焼失。 薬師堂 延喜7年(907)に醍醐天皇の発願で上醍醐の中心に建立。現存する建物は、保安2年(1121)に再建されたもので、醍醐山上に残る唯一の平安時代の遺構。入母屋造、檜皮葺。 清瀧宮拝殿(清瀧権現拝殿) 清瀧権現とはインドの沙羯羅龍王(しゃがらりゅうおう)の三女、善女龍王のことで、密教?では如意輪観音の化身とされている。中国の青龍寺で密教?を守護していたが、空海が唐から帰朝する際に、海を渡って神護寺に来臨する。聖宝が醍醐寺を開いた際にも出現したのにちなみ、寛治3年(1089)に社殿が造られた。中国の「青龍」寺から海を渡ってきたので、「さんずい=水」を加えて清瀧と称された。現在の建物は室町時代の再建。寝殿造の様式で、前面が崖にさしかかる懸造(かかりづくり)となっている。 五大堂 本尊として不動明王を中心に五大明王が奉られている。毎年2月23日に五大力さんとして下醍醐金堂で授与される「御影(おみえ)」は、この五大堂で1週間に亘って祈願されたものである。 開山堂 開山の理源大師聖宝を祀るお堂。最初は御影堂といい、延喜11年(911)に聖宝の弟子、観賢座主によって建立されたが、後に焼失。現在のお堂は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建されたもの。内部には中央に開山聖宝理源大師像、左に弘法大師像、右に醍醐寺第1世座主・観賢僧正像が安置されている。 伽藍(下醍醐) 下醍醐には本尊を安置する金堂や三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的な絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱とその後の幾度の火災によって焼失、再建を繰り返しているが、護摩道場前にそびえ立つ五重塔だけは奇跡的に創建当時のまま現存する。 金堂 醍醐天皇の勅願により延喜4年(904)に創建。当時は釈迦堂と呼ばれていた。永仁3年(1295)、放火により焼失した。現在の金堂は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」の宴を前に再興を命じ、その遺志を継いだ秀頼が、慶長5年(1600)に紀伊国(和歌山県)湯浅の満願寺の本堂を移築したもの。平安後期の建築で入母屋造、本瓦葺。内部には本尊の薬師三尊像や四天王像が安置されている。 五重塔 醍醐天皇の菩提を弔うために第1皇子の朱雀天皇が起工し、第2皇子の村上天皇の天歴5年(951)に完成した。総高約38m。京都府下最古の建造物で、五重塔自体が国宝に指定されているが、それとは別に初層内部に描かれた壁画も独立して国宝に指定されている。この壁画は日本の密教?絵画の源流をなすものといわれ、両界曼荼羅の諸尊や真言八祖像が描かれている。中でも真言八祖像にある空海像は、現存する空海の画像としては日本最古のもの。 仁王門 豊臣秀頼によって慶長10年(1605)に再建された。安置されている仁王像は、もとは南大門に祀られていた尊像で、平安後期の長承3年(1134)に造立されたもの。 清瀧宮本殿 清瀧権現を祀る本殿で、三間社流造、檜皮葺。永正14年(1517)に創建されたが応仁の乱により焼失。現在のものは、慶長4年(1599)に座主義演准后により、再建されたもの。 三宝院 大玄関、葵の間・秋草の間・勅使の間、表書院・純浄観、本堂(弥勒堂・護摩堂とも呼ばれる)、宸殿、庫裏などからなる。 庭に面して建つ表書院は、縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造の様式を表す建築。庭園側には廊下状の縁が巡らされ、庭が見やすいように縁に立つ柱の間隔は広く取られている。門跡?の接客対面の場として使われ、畳敷きの上段(15畳)、中段(18畳)、下段(27畳)の3室が並列している。上段の間には「松柳図」「柳草花図」、中段の間には「四季山水図」、下段の間には「蘇鉄に孔雀図」の華麗な障壁画に彩られている。いずれも制作年代はさまざまだが、その中でも有名なのが上段の間の長谷川派の絵師の作と思われる「松柳図」である(寺伝では狩野山楽の筆としている)。表書院の西側の「葵の間」「秋草の間」「勅使の間」にも、それぞれ障壁画が描かれており、表書院の障壁画と合わせて国の重要文化財に指定されている。 純浄観は表書院の東側に繋がっており、茅葺の民家風の建物だが内部は豪華な書院造で、秀吉が花見の時に御殿として建てたものを移築したもの。その奥の本堂は、仏師快慶作の弥勒菩薩?坐像を安置し、護摩焚が行われるため、弥勒堂もしくは護摩堂とも呼ばれる。 宸殿は、江戸初期の建造と伝わり、田の字型の間取りをしている。主室の上座の間は床棚書院及び帳台構(通称:武者返し)を備えている。棚は「醍醐棚」と呼ばれる有名な違い棚で、修学院離宮?の「霞棚」、桂離宮?の「桂棚」とともに「天下の三大棚」と称されている。また上座からは庭園の藤戸石を見渡すことができる。宸殿の東北角には江戸末期に作られた茶室松月亭がある。四畳半、東側に丸窓があるのが特徴で南側に竹の縁、躙り口がある。切妻造、こけら葺。 三宝院庭園 慶長3年(1598)に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、庭奉行竹田梅松軒らに命じて作庭させた。施工にはのちに小堀遠州のお抱え庭師となった賢庭?があたった。池に滝・島・橋を配した池泉回遊式・舟遊式庭園でありながら建物の中から鑑賞する設計にもなっている。園池は東西に長く、岬、入り江で屈曲の多い汀線に、石組をほどこしている。南岸の中央部には聚楽第から移されたという名石の藤戸石が立つ。本堂の南側には苔と白砂で瓢箪などを象る「酒づくしの庭」、その奥には枯山水庭園の石組、茶室沈流亭、三段の滝がある。国の特別名勝及び特別史跡に指定されている。 霊宝館 醍醐寺の文化財を収蔵する建物で、本館と平成館のふたつの展示室と収蔵庫からなる。平成13年(2001)にリニューアルオープンした平成館は、建物に500年耐久コンクリートを使用し、内部に上醍醐薬師堂の薬師三尊像を安置する。樹齢180年の桜を眺望できる休憩室もある。展示物は天平期から江戸期にかけての仏像、仏画、文書、工芸などで、特に鎌倉時代を中心とした密教?仏画が充実している。 文化財 国宝 薬師堂 清瀧宮拝殿 金堂 五重塔 三宝院(表書院・唐門) 木像薬師如来及び両脇侍像(薬師堂→霊宝館安置) 五重塔初層壁画 紙本著色絵因果経 絹本著色五大尊像 絹本著色文殊渡海像 絹本著色訶梨帝母像 絹本著色閻魔天像 大日経開題 後醍醐天皇宸翰天長印信 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡 理源大師筆処分状 狸毛筆奉献表 重要文化財(建造物) 開山堂 如意輪堂 清瀧宮本殿 三宝院(本堂・大玄関・勅使の間、秋草の間及び葵の間・宸殿・庫裏・純浄観・宝篋印塔) 重要文化財(美術工芸品) 木像弥勒菩薩?坐像(快慶作) 木像薬師如来及び両脇侍像(金堂安置) 木像五大明王像 木像理源大師坐像 木像金剛力士立像 木像阿弥陀如来坐像 木像地蔵菩薩?立像 木像如意輪観音坐像 木像不動明王像 木像閻魔天像 木像帝釈天?騎象像 木像吉祥天?立像 木像聖観音?立像 三宝院障壁画(表書院40面、勅使の間・秋草の間32面) 絹本著色大日金輪像 絹本著色大威徳明王像 紙本密教?図像 金地著色舞楽図(俵屋宗達?筆) 紙本墨書義演准后日記 紙本墨書理趣経(足利尊氏筆) 紙本墨書醍醐花見短籍(豊臣秀吉及び一座各筆) 宋版一切経 醍醐寺新要録 醍醐寺文書ほか多数 特別名勝 三宝院庭園 特別史跡 三宝院庭園 史跡 醍醐寺境内 拝観情報 住所 京都市伏見区醍醐東大路町22 電話番号 075-571-0002 拝観時間 9:00~17:00(12月第1日曜日の翌日から2月末日まで 9:00~16:00) 拝観料 三宝院600円、霊宝館600円、伽藍600円(3箇所共通1,500円 ※ただし、霊宝館と伽藍の金堂内部は期間限定で公開 アクセス 地下鉄東西線「醍醐駅」下車徒歩10分 駐車場 駐車場あり(700円) 主な行事 1月5日 年頭式初護摩供養 1月6日 初聖宝会 2月15日~21日 五大力尊王仁王会前行・御還座式 2月23日 五大力尊仁王会(五大力さん) 3月第1日曜日 奥之院初回峯行 3月18日~24日 春季彼岸法要 3月第3土曜日~ 霊宝館展覧、金堂特別内拝 4月1日~21日 清瀧大権現例祭桜会大般若転読法要 4月第2日曜日 豊太閤花見行列ほか 5月18日の前後3日間 西国三十三箇所第十一番札所 本尊准胝観音?御開扉法要厳修 5月21日 三宝院流得度式 6月7日~9日 三宝院門跡大峯山花供入峯修行 6月15日 宗祖弘法大師降誕会法要 7月7日 葛城山花供入峯 7月13日~15日 盂蘭盆会法要 7月19日~23日 三宝院門跡奥駈け修行 8月5日 万灯供養会法要(19時)、精霊供養大般若転読法要(19時)、施餓鬼供養法要(20時) 8月6日 開山忌竪義会(開山理源大師御命日) 8月7日~11日 修験伝法教校 9月20日~26日 秋季彼岸法要 10月1日~12月第1日曜日 霊宝館展覧、金堂特別内拝 10月15日~11月下旬 大菊花展 10月23日 五大力講世話方総会 12月上旬 修験伝法教校 12月21日 三宝院流伝法灌頂 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「醍醐寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)山の上の上醍醐と山の下の下醍醐からなる寺院である (イ)秀吉の醍醐の花見で知られる桜の名所である (ウ)国宝の金堂、五重塔は上醍醐にある (エ)塔頭の三宝院の表書院は桃山時代の書院造の遺構として知られる」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「(京都府下の)現存する最古の木造建築物として国宝に指定されているのはどれか。 (ア)法界寺阿弥陀堂 (イ)平等院鳳凰堂 (ウ)大報恩寺本堂 (エ)醍醐寺五重塔」 リンク 醍醐寺オフィシャル http //www.daigoji.or.jp/ 新版 古寺巡礼京都〈6〉醍醐寺
https://w.atwiki.jp/osvnet_fukui/pages/17.html
7月25日 陸前高田市の大工さんに大工道具を届ける。 7月22日~25日 現地支援センター・仙台仏青のコーディネイトの元、宮城県石巻市雄勝町・宮城県遠田郡美里町にて無料バザー・念珠作り活動。 6月25・26日 あわら市福円寺永代経法要にてバザー 6月19日 がんばっぺし東北 復興グッズ販売会に参画 6月17日 福井教務所にて第2回報告会・今後の活動計画を話し合う。 5月14日 小松市称名寺にてバザー第3弾開催→詳細 5月8日 鯖江誠照寺派本山『誠市』にてバザー第2弾開催→詳細 5月7日 大谷派吉崎別院にて復興支援バザー開催→詳細 4月30日 福井教務所にて値付け作業を行う。 4月28日~5月2日 代表世話人、陸前高田市で活動 4月28日 代表世話人、越前市で行われた超宗派の震災犠牲者四十九日法要に出勤 4月20日~22日 代表世話人、他教区の有志と飯舘村に行き村長さんに215万円を幼児、妊婦の被曝回避一時避難の為に使用して欲しいと渡す。 4月13日~15日 代表世話人、陸前高田市で活動 3月27日~30日 代表世話人がチームふくいの活動も兼ねて現地入り、29日に仙台仏青・同朋社会推進ネットワーク(東京)・山形仏青・災害復興支援ネットワーク(高岡)・大谷派V委員会のメンバーと現状報告・今後の打合せを行う。