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Template Infobox 軍人? 西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日〈グレゴリオ暦1828年1月23日・ユリウス暦1828年1月11日〉 - 明治10年〈グレゴリオ暦1877年〉9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 人物 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。西郷家の家長は吉兵衛と名乗り、西郷の本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う、初代は熊本より鹿児島に移り住む、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った。 次弟は戊辰戦争で戦死した(長岡戦争で戦死)西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて新政府に江戸総攻撃の中止を命令したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの命令に従い、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 位階は正三位。功により、継嗣の寅太郎に侯爵を賜る。 出生 - 斉彬側近 以下、本項では、年・月・日は、明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)である天保暦、明治6年1月1日以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの( )内にグレゴリオ暦を書く。 幼少・青年時代 文政10年(1827年)12月7日、薩摩国鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆永に改名、禄47石余)の第一子として生まれる。西郷家の家格は御小姓与であり、下から二番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原(系譜参照)を称する。先祖は肥後の菊池家の家臣で、江戸時代の元禄時代に薩摩に島津家家臣になる。 天保10年(1839年)、郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しその仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱にうなされたものの一命は取り留めたが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町郷中(しもかじやまちょうごちゅう)の二才組(にせこ)に昇進。これを機に、西郷の身辺警護を中村半次郎(後の桐野利秋)が勤め始める。 郡方書役時代 弘化元年(1844年)、郡奉行迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子島津斉彬の襲封を願うようになった。 伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(現在鹿児島市立玉龍高等学校があるところにあった島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、秩父崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)・吉井幸輔(友実)・伊地知竜右衛門(正治)・有村俊斎(海江田信義)らとつくった(このメンバーが精忠組のもとになった)。 斉彬時代 嘉永4年(1851年)2月2日、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉須賀(敏(敏子)であったとも云われる)と結婚したが、7月に祖父遊山、9月に父吉兵衛、11月に母マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。 安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。 安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸の徳川斉昭に持って行く。12月、第13代将軍徳川家定と斉彬の養女篤姫(敬子、将軍正室)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、将軍正室を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であった。西郷はその手足となって活動したのである。 安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物、津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟吉二郎が御勘定所書役、三弟信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた(親友大久保利通(正助)も徒目付になった)。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主松平慶永に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。安政5年(1858年)1、2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には将軍正室から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。 5月、彦根藩主井伊直弼が大老となった。井伊は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀伊藩主徳川慶福を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を実施した(兵を率いて東上するつもりであったともいわれる)が、7月16日、急逝した。7月19日、斉彬の弟久光の子忠義が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父斉興が握った。 謹慎 大島潜居前後 安政5年7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。 9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。月照・平野らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。 12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした、12月末日、菊池源吾(熊本の菊池氏を祖としていたので、吾が源は菊池なりという意で付けたと云われる。公式には西郷三助)と変名して、鹿児島から山川郷へ出航した。安政6年(1859年)1月4日、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。 島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通・税所篤(喜三左衛門)・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も送られ、西郷も返書を出して情報入手につとめた。この間、11月、龍家の一族、佐栄志の娘とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活になじみ、万延元年(1860年)11月2日には菊次郎が誕生した。文久元年(1861年)9月、三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾と名乗った。11月、見聞役木場伝内と知り合った(のち木場は大坂留守居役・京都留守居役となり、西郷を助けた)。 寺田屋騒動前後 文久元年10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日に召還状を受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち、文久2年(1862年)1月14日に阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2月12日に鹿児島へ着いた。2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門(大島に三年住んでいたという洒落)と改名した。同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張したので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。 下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、3月22日、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。しかし、4月6日、姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から西郷が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒し、西郷・村田・森山に捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは10日、鹿児島へ向けて船で護送された。 一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結している真木保臣・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣した。奈良原らは激派を説得したが聞かれず、やむなく有馬新七ら8名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島(鬼界ヶ島即ち薩摩硫黄島ではない。村田新八「宇留満乃日記」参照)へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。 徳之島・沖永良部島遠流 文久2年6月11日、西郷は山川を出帆し、村田も遅れて出帆したが、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で出会い、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し、奄美を経て(以上は「宇留満乃日記」に詳しい)、やっと7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。 徳之島岡前の勝伝宅で落ち着いていた8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。これより前の7月下旬、鹿児島では二弟吉二郎、三弟信吾、四弟小兵衛が遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行・家財が没収され、最悪の状態に追い込まれていた。 藩命で舟牢に入れられて、閏8月初め、徳之島岡前を出発し、14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。しかし、10月、間切横目土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。4月には同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている。 文久3年(1863年)7月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦しようとした。10月、土持がつくってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていたとき、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、「与人役大躰」「間切横目大躰」を書いて島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換はかかさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木和泉などと書簡を交わした。 この頃、本土では、薩摩の意見も取り入れ、文久2年(1862年)7月に松平慶永が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏8月に会津藩主松平容保が京都守護職、桑名藩主松平定敬が京都所司代となって、幕権に回復傾向が見られる一方、文久3年(1863年)5月に長州藩の米艦砲撃事件、8月に奈良五条の天誅組の乱と長州への七卿落ち(八月十八日の政変)、10月に生野の変など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕権の失墜をはかっていた。この情勢を量ると、秤は幕府・薩摩方に傾き、長州藩を中心とする反幕攘夷派勢力は徐々に軽くなりつつあったといえよう。 もともと公武合体派とはいっても、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権をめざす薩摩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていたが、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。元治元年(1864年)2月21日、吉井友実・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えにきた。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って(村田の兄宛書簡あり。無断で連れ帰ったとも、そうではなかったともいう)帰還の途についた。 活動再開 禁門の変前後 元治元年2月28日に鹿児島に帰った西郷は足が立たなかった。29日、這いずりながら斉彬の墓参をしたという。3月4日、村田新八をともなって鹿児島を出帆し、14日に京都に到着し、19日に軍賦役(軍司令官)に任命された。京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。そこで、藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採ることで、この難局を乗り越えようとした ref name= kagoshimakenshi 『鹿児島県史』第三巻。 この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。文久3年(1863年)半ばに、米国南北戦争(1861年-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり、日本綿・茶の買い付けが盛んに行なわれた結果、両品の日本からの輸出量が極端に増加した。このことから日本中の綿・茶値段は高騰し、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができたのである。世人は物価の高騰を怒ったのであるが、攘夷派は攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を怒ったのである。その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が起きた ref name= kagoshimakenshi / 。 こうして形成された薩摩藩への悪評(世論も大きな影響を持っていた)は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、西郷は6月11日に大坂留守居木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ『西郷隆盛全集』第一巻、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した『西郷隆盛全集』第五巻。 4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松清廉と相談のうえで断った。しかし、18日、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した(禁門の変)。このとき、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らがとった中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸」と呼ばれるようになった。 第一次長州征伐前後 元治元年7月23日に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張をはかるべく、それに応じた。8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。この間の9月中旬、西郷は大坂で勝海舟と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。10月初旬、御側役・代々小番となり、大島吉之助(『詳説西郷隆盛年譜』によれば、この名は沖永良部島在島以来らしい)から西郷吉之助に改めた。 10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表吉川監物と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾がはかられ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。 第二次長州征伐と薩長同盟 慶応元年1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ますと、人の勧めもあって、1月28日に家老座書役岩山八太郎直温の二女イト(絲子)と結婚した。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと平行して大久保・吉井らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩などを遊説していたが、3月中旬に上京した。この頃幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。 5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組に任命された ref name= syousetsu 『詳説西郷隆盛年譜』。この頃、将軍徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。翌23日、家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。 この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松とともに兵を率いて上京した。この頃長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。 9月16日、英・仏・米・蘭四国の軍艦9隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるみ、9月21日、朝廷は幕府に長州再征の勅許を下した。また、10月1日に前尾張藩主徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった。 慶応2年(1866年)1月8日、西郷は村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎(木戸)を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。21日(22日という説もある)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、3月4日に小松清廉・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが入れられると、5月1日から小松・桂らと藩政改革にあたった。 第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大村益次郎が指揮した山陰口は奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で連戦連勝し、大島口・小倉口も高杉晋作の電撃作戦で勝利し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。一方、幕府は、7月30日に将軍徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て、21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間、西郷は、7月12日、西郷に嫡男寅太郎が誕生し、9月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された ref name= syousetsu / 。大目付役は返上した。 倒幕 大政奉還と王政復古の号令 慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩・平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。6月15日、西郷は山県有朋を訪問し、初めて倒幕の決意を告げた。16日、西郷・小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、江戸市内へ伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らを派遣し、破壊工作(江戸や近辺の放火・強盗による人心攪乱)を行わせ幕府を挑発した。22日には西郷が坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝悌らと会し、薩土盟約が成立した。 9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。土佐藩(前藩主山内容堂)から提出された建白書を見た将軍徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している ref name= syousetsu / )。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。 密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津忠義を奉じ、兵約3000名を率いて鹿児島を発した。途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・安芸・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。 戊辰戦争 明治元年(1868年)1月3日、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。西郷はこの3日には伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認した。6日、徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦開陽に搭乗して江戸へ退去した。新政府は7日に慶喜追討令を出し、9日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。 西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長中村半次郎・二番小隊隊長村田新八・三番小隊隊長篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した。3月9日、静岡で徳川慶喜の使者山岡鉄舟と会見し、徳川処分案7ヶ条を示した。その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。 3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城無血開城についての交渉をした。当時、“薩摩藩の後ろ盾”となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて“江戸総攻撃に反対”していたため、「江戸無血開城」は新政府の既定方針だった。橋本屋での2回目の会談で勝から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督有栖川宮熾仁親王に謁見して勝案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た。江戸へ帰った西郷は、4月4日、勅使橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城開城が成った。 江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された北部政府(奥羽越列藩同盟)との「東北戦争」に臨んだ。“南部政権”たる新政府と“北部政権”たる北部政府との、事実上の“南北戦争”である。「東北戦争」が長引けば、日本は再び“南北朝時代”に突入する可能性があった。5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の奥羽白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した ref name= syousetsu / 。 北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。来て間もない14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の死亡を聞いた。藩の差引の立場から北陸道本営(新発田)には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。 薩摩藩参政時代 明治2年(1869年)2月25日、藩主忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。以来、藩政の改革(藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした)や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。 5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。7月、鹿児島郡武村に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた ref name= syousetsu / 。明治3年(1870年)1月18日に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。 後半は、西郷隆盛-2及び西郷隆盛-3参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月23日 (水) 11 18。
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01 回送 06 仙台 07 槻木 08 角田 09 丸森 10 富野 11 梁川 12 福島 交互表示 6 仙台 11 梁川 2015/08/01 06仙台・11梁川(交互表示)を追加しました。 2015/12/01 09丸森を追加し、06仙台・11梁川(交互表示)をgif形式のものに変更しました。 2017/01/03 06仙台を追加しました。 2020/01/18 01回送・08角田を追加しました。
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ガソリンスタンド名 住所 販売状況(販売中:○、品切れ:×) 更新日時 (株)マクサムコーポレーション 伊達セントラル店 福島県伊達市原島47−1 03/16 14 00 滝沢分店石油部 福島県伊達市保原町字実町67 03/16 14 00 (有)高原関本店ガソリンスタンド 福島県伊達市保原町字前田町4−4 03/16 14 00 マルセキ(株)東北カンパニーグッドハート伊達SS 福島県伊達市伏黒字八反田47−1 03/16 14 00 保原石油(有) 保原泉給油所 福島県伊達市保原町字泉町116 03/16 14 00 (有)中木鉱油店 福島県伊達市梁川町字八筋101 03/16 14 00 会津ゼネラルエクスプレス福島保原SS 福島県伊達市保原町上保原字久シ原28−1 03/16 14 00 (有)曳地 福島県伊達市梁川町五十沢字羽山下113 03/16 14 00 (株)山和 福島県伊達市梁川町栄町19 03/16 14 00 シミズ砿油(株) 福島県伊達市梁川町幸町77 03/16 14 00
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以下は、青山松任『大垣まつりの記』の本文を電子化したものである。 底本としては、美濃民俗文化の会による複製版(昭和42年(1967年)刊)を用いた。なお、その複製版の跋文にある通り、本書は、戦前(昭和9年(1934年)頃か)に青山松任氏が美濃大正新聞上に連載していた文章が、昭和28年(1953年)に小森嘉兵衛氏の筆と川地寿山氏の絵によって集録浄書されたものである。 ※青山松任氏は昭和10年(1935年)ご逝去のため、著作権保護期間は既に満了している。 凡例 電子化にあたっては、誤字脱字や仮名遣い・句読点はそのまま再現したが、変体仮名および漢字は通行の字体に直した(「燈」「臺」「餘」「藝」「辨」を除く)。ただし、促音や拗音を表すのに用いる「っ」「ゃ」等の仮名は、大書きのものも散見するが、ここでは小書きに統一した。また、リーダは点の数や長さが一定しないが、原則として「……」に統一し、特に短いもののみ「…」とした。 本書には美濃民俗文化の会による正誤表が付属する。該当箇所の《 》内には、これに示されている修正後の形を示した。また、この正誤表で指摘されていないものの誤写と考えられる箇所に関しては、必要に応じて【 】内に青山松任氏の原文にあったと推定される形を示した。なお、誤写によって存在しない文字が書かれている場合、これを「〓」とした。 ページの区切りは水平線で示し、底本(袋綴装)に丁番号が付されている場合、これに「表」または「裏」を加えてページごとに【一表】などと示した。なお、挿絵のある丁(挿絵は表面に書かれ、裏側は白紙)など、丁番号のない丁も一部ある。 割注は〈 〉内に示し、割注内の改行は全角スラッシュ(「/」)で示す。 字下げなどの字配りや文字の大きさについては、必ずしも正確に再現していない。 複製版刊行に際する印(扉に「此書複写百五十部/第五拾号」「美濃民俗文化之会印」の押印あり)や挿絵(掲載箇所を【挿絵】で示す)は省略した。 大垣祭りの記 【一表】 大垣祭り はしがき 段々と大垣の五月祭が近よって来た、私は祭りが好きである。 元気な神輿を思ひ、裕長な山車を思ひほの〴〵ともへあがるあこがれの燈籠の火を思ふと、私の若い心はたまらなくなって来る、 祭りは民衆的である山車といひ神輿といひ、厳格なる階級制度の中にあって間歇的に迸り出た平民の自由平等観の表象ではなからうか。神輿は僧侶の政権獲得運動に其の端を発し、山車は祭りを我物にせん 【一裏】 との目識から土分に虐伝《士分に虐待》された城下の平民の間に発達したものである。大垣においても東大寺の寺領であった昔から殊に華美を極めた徳川時代を経て今日に至るまでの長い道程において、氏神八幡神社を中心にした大垣祭りは順次に発展して来た 私は今この伝統的な大垣の祭りを愛する心からいさゝか私が趣味を以て研究した八幡神社や山車の歴史について思ひ浮ぶまゝ、又聞いたまゝを書きつらねてみたいと思ふ。 【二表】 大垣祭り 八幡神社 大垣市の氏神として市民の尊崇深い大垣八幡神社の祭神は応仁天皇でその御神体は天平十五年(紀元一四〇三)東大寺の建立された時宇佐から迎へ奉った八幡を正慶《元弘》(一九九一)建武(一九九六)の年間即ち南北朝時代にこの地へ御移祀したものであるといふ。当時この地は大井庄《大井荘(以下同)》といって東大寺の寺領であった大垣城主歴代記によると、美濃国安八郡大井庄鎮守八幡宮は初は南藤江村の犀角子(サイカチ)の森に奉安し、次で宝徳三年(二一一一)に宮村地内に遷しこの八幡宮を中央に稲荷社を東の社に天神社を西の社として 【二裏】 祀り奉り、別当は牛屋山大日寺遮那院、社家は中川円宮(現社司中川五月氏の先社【先祖】)御朱印十石三斗としるされてゐるが、これ実に足利義政よりの朱印である。この八幡が大井庄へ遷座されたのに就ては種々なる説があるが、伝説によると、昔奈良の東大寺に奉安してあった八幡の御身体《御神体(以下同)》が紛失したことがあった。之をお守りしてゐた社人や社僧は大いに驚いて種々協議の結果兎に角全国的に之を捜索する事となり御身体の形を絹地に模写したのを二十一枚作り一々三尺の錦布に包んで之を二十一人の社僧に持たせて国々へ派遣したのであった其の中の一人は巡り巡って美濃へ出で安八郡に入って其日に室村の某家に宿泊 【三表】 したが、何だか気が変になって眠に落ちることが出来す身悶(ミモダ)へてゐる中に夢か現か目の前に自分の探し求めてゐる八幡神があらはれ給ひ「この土地後々吉事多く、余はこの地に永住するによって其方は早々南都に帰り皆々にさう告げ申せ」との有難い託宣(タクセン)があった社僧は翌朝目覚めて奇異(キイ)な思ひに満たされつゝ東の方藤江村のあたりを眺め渡すと不思議にも大いなる瑞光(ズイコウ)あらはれ我を招くかの如くであるので光を辿(タド)って急いできてみると犀角子の木の下で紛(マガ)ふ方なき八幡の御身体に会ひ奉ったのである、社僧は大いに喜んで、模写の絹画と引くらべてその事実なるを確め模写を捨て三尺の錦布に之を 【三裏】 包んで脊に負ふて勇み南都を差して帰らうとしたが不思議にも目がくらみ足が立たず其処へ打倒れて暫くは人事不省であった。折りしも其処を通り掛った大日寺の和尚に発見され和尚の取扱ひで其の八幡の神託を徳とし、大井庄十八郷の鎮守の神としたといふのが其大体であって、此時用ひられて《用ひられた》三尺の錦布は今でも八幡神社の御身体を奉安する櫃の中にあるといひ伝へられてゐる。 また一説には当時南北朝時代で管轄充分でなかったのを幸に東大寺の寺僧がひそかに大井庄大日寺の和尚に諸式諸共若干の金を以て譲り渡し 【四表】 たものであるといひ昔聖武天皇が宇佐から此の御身体を迎ひに遣はせられた勅使衆のの本造《木造》の彫刻などもその頃共にこの地へ渡されたもので今も尚其の幾つかが現存する筈であると伝へられるが何れにもせよ 南ヶ輪村(後の南頬) 南寺内(後の寺内) 南東前樋口新田(後の福田新田) 江渡(後の江崎) 東高橋、西高橋、三塚、藤江、林本郷、林東村、林中村、貝曽根、高屋、宮牛、室《宮、室、牛屋》(後の西崎)、切石、 等十八ヶ村の多郷から成ってゐる大井庄を統一し、人心を収攬(シウラン)するにはどうしても日本の国体上から神を基準とすべく、神社を建立するに若かすといふ、大日寺の和尚の卓見を持って東大寺に祀ってあった八幡を 【四裏】 御移祀したものであることは確からしい。大井庄はその後 東前枝郷田中、林中村枝郷西村、 室技郷《室枝郷》入方、三塚枝郷入方、 の四ヶ村を加へて二十二郷に膨張し戸数人口の増加と共にだん〳〵説備《設備》もとゝのひ、祭にも《祭も》徐々に盛になって来たものらしいが、慶長五年には関ヶ原戦争で境内を荒され慶長十一年には時の城主石川長門守が、家康の歓心を買はんとして同社に伝はる粟田口吉光の宝刀を江戸へ献上し其他の宝物を私腹に収めるなど一時疲弊(ヒヘイ)の極に対したが、寛永十二年戸田左門氏鉄公着封後は世の中も平和に秩序だって祭式も行はれ、藩主より鳥居、本社、舞殿等 【五表】 を立派に改築さるなど、たちまちにして面目を一新し慶安元年徳川家光将軍よりは改めて御朱印十石を拝領し、明治の御代には県社に指定され以て今日に至ったのである。 現今大垣八幡神社の敷地は約三千坪あり、其中に本殿、幣殿、舞殿、拝殿、神饌殿等型の通り配置され、社頭に聳ゆる高さ約二丈の石の大鳥居には大納言藤原行成郷に《行成卿の》筆になるといふ額を掲げ二の鳥居は木造で高さ二丈巾一丈七尺、拝殿に通ずるに一間巾の石畳を設け拝殿に入らんとする所に石の高麗狗(コマイヌ)二基(ツイ)あり 【五裏】 其前に金森吉次郎氏の奉納になる鉄製の篝火台一対あり、この他に稲荷神社、北野神社両摂社及び旧藩時代特に五穀穣風両《風雨》穏順を祈念する為に迎へた広瀬竜田神社あり、建物としてはお馬屋二棟、神輿庫、社務所等あり県社としてその設備のとゝのってゐることは西濃有数である以上の如く神社の歴史が頗る古く、従ってこゝに縛はる《伝はる》宝物等も立派なものが数限りなくあった筈であるが数度の兵乱兵火で散逸して現存する宝物の主なるものは △縁起書一巻 寛文年間 梶川英盛撰 △大鏡一面 延宝年間 戸田氏鉄公奉納 【六表】 △神号幅一軕【軸】 後陽成天皇御宸筆 △刀 一口 藤原友常作 二尺三寸 △刀 一口 田代兼元作 一尺四寸 △刀大小二口 寛文年間戸田九郎右衛門奉納〈大二尺八寸/小九寸五分〉 △刀 一口 兼光 二尺二寸 △刀 一口 寿命 二尺三寸 濃州清水住 △剣 一口 藤原盛道作 △刀 一口 政俊作 二尺四寸 △刀 一口 吉次作 龍刻む 一尺五寸 △剣 一口 宗次作 八寸五分 明応七年 △鎗 一口 兼房作 一尺 △鎗 一口 長船祐定作 【六裏】 △鎗 一口 藤原貴次作 一尺八寸 △居合刀 一口 勝直作 二尺七寸 △刀 一口 広道作 二尺三寸 △刀 一口 永貞作 二尺三寸 濃州住 △刀 一口 関兼次作 二尺三寸 △剣 一口 奥和泉守秀興作 二尺三寸 薩州 △剣 一口 兼元作 一尺六寸五分 △剣 一口 正直作 二尺二寸 備州住 △大刀作 一口 長船祐之作 △戸田淡路守氏房筆の和歌 等でこの外無名の刀剣数十口甲冑弓等多数あり、古の祭りの餘興に使用せられたといふ大獅師《大獅子》頭及び馬面、馬冑等 【七表】 があるがいづれもその年代や由緒は確かでない而して現今の社司は中川五月氏である。 昭和二十年七月二十 日【二十九日】明方、東亜大戦争の為、米軍の空襲により、全焼せり、終戦後健築【建築】に掛る現在 【七裏】 【八表】 幕末迄の変遷 「武者屯(タマリ)の頭(ホト)り金鐸(キンタク)響き、御弓(オユミ)巷口(コウ〳〵)の石泉は清らかに殿宇翼然として是れ何れの処か松杉高く聳へ《聳え》、鵓鳩(ボツキウ)は鳴く」と詩に歌はれる頃の八幡神社は総てが極く整備したもので神輿もあり祭例【祭礼】また華美をつくしたものであらうが藤江の犀角子の森から宮村へ御移祀した頃の祭りはこのころの小さな村の祭にみるやうな極めて簡単なもので、その祭りの月も卯月の中卯月【中卯日】に行ふことになってゐたといふ。而して当時は鎌倉時代の餘習をうけて流(ヤリ)《流(ヤブ)》鏑馬(サメ)などか《などが》しきりに行はれた、その後卯月十四日十五日両日が祭典日に決定され八幡、稲荷、北野 【八裏】 三社の神輿を仮造して十八郷の氏子が其れを舁(カツ)き《舁ぎ》、獅子を舞ひ本楽の日には大将に扮し甲冑に身を固めた武者に続いて打物、神器、宝物等を捧持した数十人が麻上下帯刀で扈従(コジ)《従(ジュウ)》し村々を行列して練り廻ったそうであるが、戸田氏鉄公が大垣へ入国されてからは市街も整頓し正保五年(二三〇八)には三社の神輿が新調され延宝七年(二三三九)には藩主から神楽、大黒、恵比須の三輌軕を大垣十町に下賜され十町又夫々種々なる屋形車、渡り物を作り列をして清水門(現今の清水橋東)から七本柳(現今大橋別邸の南)に入り竹橋から切石馬場の町を久瀬川に出で船町俵町竹島町本町を経て伝馬町より高橋町(今の東長町)を通り新町天神を御旅所(昼の休憩所) 【九表】 として中町より再び名古屋口御門(現今柳原内田水車前)に至り北の冠門(赤坂口で外側町の東端)を出て八幡へ還るので延宝年中における或年の記録によるとその順序は 神楽軕(本町) 恵比須軕(中町) 道外坊《道外軕》(魚屋町) 朝鮮人軕(竹島町) 大黒軕(俵町) 石曳軕(船町) 猩々軕(伝馬町) 吉野軕(岐阜町) 小船軕(新町) 三上軕(宮町) 右の如く何れも綱引くもの操(アヤツ)るもの、歌をうたふもの舞をまふもの等数十人宛あり、続いて 騎馬の神主三方(御供各札一枚に神号を書記して持つ) 予《矛》二振(何れも吹貫附して枠の台に立て十人宛して各別に荷ふ) 【九裏】 板的二枚(二人して別に持つ) 歩行武者一人(具足冑弓矢太刀刀を帯す) 二股竹(一人して持つ) 御太刀二腰(二人して別に持つ) 裸馬一匹鞍置馬二匹(御城より出る) 獅子一頭(五人してあやつる) 具足櫃一荷(二人して舁ぐ) 三社神輿(一社に三十人合せて九十人各別に舁ぐ) 楽人(八人中太鼓二人笛六人) 等で、これが現在行はれてゐる祭りの儀式のもとなし《もとをなし》てゐるのである。 其後幾年かを経て藩主氏教公が御老中を勤め 【十表】 てゐたころである。流石は名君であった、祭りを盛んならしめることは庶民を喜ばせることだ而して庶民をして大垣の藩政を謳歌(オウカ)させるには第一番に庶民の最も熱中する祭りに大いに威厳をもたせるがよからうといふ見地から、神輿に数千の足軽をつけ、神馬に馬具足をつけ警備として町同心を山車の行列の先頭に立たせ、本楽当日は政務を廃すると同時に各町に布令して諸大名の宿泊伝馬継立を禁ずることゝなったので、町民の喜びは如何ばかりであったであらうか十町内は此年総町寄りの大会を開いて、各々永久的の山車を造ることを申合せて藩主に之を上申し、藩主又喜んでこれを許可して此処に各町は競ふて意匠をこ 【十裏】 らし、趣向を調べて、金具、木等の彫刻、水引、幕見送り等の絵画、刺繍等を天下の名手名工に依頼し数年或は数十年にして出来上ったものが 本町 相生山車、中町 布袋山車 新町 船山車《小船山車》、魚屋町 鯰山車 竹島町 朝鮮王山車、俵町 浦島山車 船町 玉井山車、伝馬町 松竹山車 岐阜町 愛宕山車、宮町 猩々山車 等で、殊に水引や、幕や、見送りの支那織物に人物花鳥を浮織りにしたものなどは華麗なもので、就中山車の見送りなどは最も高尚優雅を極め、その結構の美妙なることは近国にその比がないと称せられ、 【十一表】 祭りの当日は山車山車の見送りや水引を見るためにわざ〳〵近郷近在から多数の人出があり尚氏教公が従来民衆娯楽として一般に優雅な能楽を鼓吹してをられた関係上山車の曲藝には大抵能楽が用ひられてゐる趣味がある所から、四方の人民を誘致して祭りはこれからだん〳〵と隆盛に向ったのである。 新緑鵑声(けんせう)乾坤を詩化するといふが。実際八幡社の祭典はいゝものである、音曲がくずれ、儀式か《儀式が》すたれたといはれる今日でさへ、吾々はしかくもゆかしさ懐かしさを感ずるのであるが、その最も華美荘厳を極めたといふ幕末の祭典の具合はどうであっただらうか、昔し三輌山だけは八幡社の境内に山車庫があって、三月三日の 【十一裏】 桃の節句には山車庫を開いて三輌山を当番町へ曳き出し、その日から各町内共打囃子や謡曲舞踊の稽古を始めたものである、而して四月九日には場ならしといって、その稽古場へ長い竹の先に白紙の御幣を括りつけた梵天竹と称するものを建て、各山車に飾るべきものを前にすへて神聖なる本稽古をするのである、かうして本稽古がすめば、翌十日は山車飾りで、この日軕曳きの人夫が集って山車を仕組み、同時に各町山車庫を臨設し、夜中はそれへ引入れるのであるが、老人の話によると魚屋町などは狭い街道の中央につくるので全く往来止めの形であったといふ十二日には各町夫々山車掛り附添ひ山車を八幡社へ曳いて神符を受け、山車 【十二表】 の屋形に安置してのち各町を廻り、これを普通町渡しと称へてゐる十四日は試楽とて町年寄りが山車の支配を司り各山車整列して先づ本町札の辻前に設けられてゐる町会所へ曳き行き、総年寄りの検分を受けて済めば郭内の町奉行所に至って更に検分を受け、こゝに明日の晴れの本楽を待つのであるが、これよりさき三輌山の囃しに対しては特に場ならしの際、町奉行から検分役が出張して、藩主の御前奏楽をなすものに限り一人々々実地にその腕を検査する例になってゐるが、この際検査に通過して愈々藩主の御前奏楽をなし得るとなればその子の家庭では大いにこれを名誉なりとして前祝いをやる位であるといふ。 【十二裏】 愈々祭典当日となれば山車係りの年寄り衆は未明から山車と共に八幡社東の武者溜りに寄り山車は鳥居前で奉藝して順次清水橋御門に向ふのである。 藩主は当日南西の角櫓(現在の鈴木彰氏邸の倉庫の位置)に出張先づ八幡宮を遥拝して櫓の窓から掛け藝を上覧されるので、この時は藩主と雖も容を整へて観覧せられたとかいふから町人百姓が敬意を払ったのは無理もないことである、神楽山《神楽山車(以下準ズ)》が清水橋を渡って大垣藩百官の武士に迎へられながらしず〳〵と清水御門を入ると、八幡社の境内に安置されてある「武運長久の鐘」がゴーン……とおごそかに鳴り響くそれはお祭りが渡ったしらせで、この鐘が鳴ってからは如何に雨が降ら 【十三表】 うが、雪が降らうが、祭りは延びることはないとされてゐる。清水橋から七本柳へ入る川島屋敷前には総年寄りが差扣へ、御鳥屋敷南には町奉行、御厩屋(ウマヤ)前には御馬奉行がいかめしく警固してゐる藩主は濠越(ホリコシ)しに山車の懸藝を上覧されるのであるが、その濠の中には目標として笹竹が建てられてゐるので夫れに依つて山車の位置を定めるので藩主の御前における山車の行動に【行動は】総て役人が扇子を持ってする指揮に従うものであって、殿の御前で懸藝をしてゐる間その山車附添の山車係り数十人は山車の前に土下座《中腰遵居》して藝の済むまで平伏叩頭(タトウ)【叩頭(コウトウ)】する例になってゐて山車が御前を下る時は山車を前に傾けて勢よく三度廻転して走り曳きする又清水橋を入ってからの 【十三裏】 山車の位置は頗る厳格なもので川島屋敷前に一輌御鳥屋敷前に一輌、御上覧場所一輌、御厩前一輌、柳橋一輌にて五輌は一定の場所に並列(ヘイレツ)し藝がすむと順次に竹橋御門へと下ってゆく、尚この荘厳を極めた幕末における祭礼の儀式に就て詳しく調べてみると、神楽山に先立って藩主からの命で先払ひの任に当るべく横目一文字笠を戴いて黒紋附の羽織袴で二人の武士が五色の布を巻いた竹の技《竹の杖》をついて前駆し、彫《簓》を持つ二人、突捧【突棒】の二人指俣と柱(モノリ)《指扠と捩》【刺股と捩(モヂリ)】の二人之に次ぎ九等四番席格の御役人が二人、引手十七人宛二組列をなして前衛を警固し、神楽山車に続いてその他の山車型の如くつらなり、最後の猩々山車の後には御先払として 【十四表】 九等四番席格の御役人が一人、御行列の御神馬二頭(裸馬)二人の仲間に口取られて続き、その傍に立大笠を押(オ)し立て大きな馬柄(イ)《柄(ヒ)》杓(シャク)を振り翳(カザ)した仲間あり、その次には飾り頬面即ち蛇の面を冠(カブ)った仲間が口取った殿様の御馬一匹(鞍置)が続き 御先払の御役人が一人、続いて馬一匹、銀予【矛】、長刀、御榊 歩行武者、御具足櫃一荷、御獅子頭御先払、役人一人 而して神輿は十八郷の村民名主等之を守護して勇ましく舁(カツ)ぎまわり、不破郡青柳町(今の南杭瀬村青柳)からは奉楽員を出し、又十ヶ町・山車に供奉してきらびやかに町中を練りまわるのであるが、藩主の御前では殊に御神馬の前に立った仲間が、馬柄杓を振り翳しつゝ 【十四裏】 足で自分の尻をびた〳〵と打ちながら、声明らかに「大阪天満の真ん中で傘枕で……」と馬柄杓歌を唄ひながら面白く舞踊するがその様は実に面白いもので、馬柄杓歌には尚もう一つ「姉さんよ 原【吉原】はへたかへはへたもはへたも……」といふのがある、 而して此馬柄杓取りは当時東田町と西田町にあった大部屋の仲間が勤めることになってゐて祭礼の二十日程前から盛んに稽古したものであるといふ。 【十五表】 大垣祭り 山車の順序 高砂に始まって猩々に終る大垣祭りの山車の古の順序はよく考った【考へた】ものであった神聖にして犯すべからざる皇祖天照大神を祀った神楽軕を先頭に謡曲高砂を用ひる本町の相生山車、謡曲加茂を用ひる中町の布袋山車、院曲で種々なる舞踊をなす新町の小船山車、老翁が面白い囃しにつれて鯰押へに腐心する魚屋町の道外坊勇壮な韓人の行列に模した竹島の朝鮮王山車、謡曲浦島にかたどった俵町の浦島山車、謡曲玉の井に飾付をした船町の玉の井山車、謡曲竹生島によった伝馬町の松竹山車、謡曲弓八幡を用ひたる岐阜町の 【十五裏】 愛宕山車、最后に目出度い謡曲猩々を歌ふ宮町の猩々山車、等の順序で大黒山車と恵比寿山車は之を引受けた番町の本山車の先に立つのが例であった、その町分けは大黒山車は俵町、竹島町、魚屋町の三ヶ町、恵比寿山車は岐阜町、伝馬町、宮町、船町の四ヶ町である、神楽山車は中町、本町、新町が交代で之を引受けるが、其の引受けた町の如何にかゝわらず真先に立つ例になってゐて現在尚実行されつゝあるのであるがその他の順序は明治五、六年ころの或る総町寄りの時に何故吾々の山車は年百年中、最后に列せなければならぬのかそんなことを誰が定めたのだ総ては大垣に存在する平等の山車でないかなどゝ宮町側から従来の 【十六表】 山車の順序に対する猛烈な反対が出て各町内これに和して激論して以来大いに変更されて番町を交代制にし番町の山車が必ず神楽山の次に立つことゝなり、祭りの山車に関する総ての事務を毎年番町が交代で取扱ふことになったのである 【挿絵】 神楽山車 【十七表】 神楽山車 「白布の𥘼【衫】児あいしばしば袚【祓】除し、貂蠑(セウエイ)【貂蝉(テウセン)】冠女(カンジョ)交互に舞ふ、忽ち忘る四月清和の日、呼びなす開昏天地の初め」これは旧藩主戸田氏鉄公が摂州尼ヶ崎から大垣へ御移封される時に彼の地から大垣十ヶ町へ土産に下しおかれた三輌山車の一つである神楽山車を歌った幕末の詩人斎藤百竹の詩であるが神楽山車は一名、市山車ともいひ山上天照大神の祠(ハラ)【祠(ホコラ)】を安置しその前に赤い丈長をつけ島田髷に結(ユ)った天の鈿女命と赮(アカ)ら顔の馬鹿(バカ)に鼻の高い猿田彦命を静置し、一番前には青装束で鈴と扇とを振って神楽を舞ふ少女と白装束で七五三の竹を振りながら…チャンチャンチキ……の囃子(ハヤシ)につれて湯の花をあげる 【十七裏】 山武士とが飾られてる【飾られてゐる】神楽山車は一般に天の岩戸をかたどったものだと伝へられてゐるが、天の岩戸へ天照大神がかくれましましたときだとすると天の鈿女命が舞はねばならぬ筈だし、又猿田彦の命もゐない筈だから。これは蓋し孫(ソ)【孫(マゴ)】瓊々杵尊(ニヽギノミコト)が天祖の御神勅を奉じて豊葦原瑞穂国(トヨアシハラミツホノクニ)へ御降臨ましまさんとするとき国神である猿田彦の命がこれを待ち奉ってゐる所で即ち統治者に対する服従の意義を現はしたもので、 古事記にも 瓊々杵の尊が今、正に天降らうとし給ふ時天の八衢にゐて上は高天原タカマガハラを照し下は葦原の中国を照す大神ありこれ即ち天照大神で大神は葦 【十八表】 原の中国の一角に当って怪しきものあるを発見し天の鈿女の命に詔して往きて問はしめ給ふに、怪しきもの答へて曰く「我は国神で名は猿田彦といひ天神の御子天降りたまふにより御前に仕へ奉らんとお待ち申してゐるのである」といふ 意味の一節があり、多分之によったもので一面猿田彦の命は天孫の御案内役を仕った命であるからこの山車行列の案内として先頭に立つことゝなってゐるのであらうとも解釈せられる、又この山車を別名市山車といわれだしたのはずっと以前のことで社司中川左門氏に市子さんといふ容貌の頗る美しい娘さんがあって、祭典毎に八幡社で神楽を舞ったので城下及び近郷の住民にもてはやされ「神楽を舞ふ」こと 【十八裏】 を通称「市を舞ふ」といわれるやうになり、神前ばかりでなく神楽山車にさへこの名称が用ひられるに至ったのであるといふ。 大黒山車 【挿絵】 昭和十七年八月一日 大東亜戦争勃発し 昭和二十七(十)年八月十五日 終戦の勅語下る(敗戦) 昭和二十年七月二十九日払暁(三時頃) 米空軍の空襲により名残惜しや焼失す 其後昭和二十四五年頃新調す 【十九表】 大黒山車 大黒さんは福の神である。あのいつもにこ〳〵とした顔、誰のためにも振ることを惜しまないといふ様なあんばいで右手に持った宝槌左の肩にした福袋、それは誰しもなつかしみを感ずる福の神の象徴であるが、殊にお祭りうち山車に飾られた大きな大黒さんが大勢の子供達によって引きまはされてゐるのをみると故もなくクリスマスのサンタクロウスと比較して見るなどして何ともいへぬ好い感じを抱(イダ)かせられる。明治の初年神仏混淆のやかましくいはれた時分、一時大黒の槌の更りに剣を持たされたことがある。 それは大黒さんが元来大黒天と称して仏教の守護神である所からで剣を持たせても支障ない理由もあった、詳しく説明すると大黒天は梵 【十九裏】 語で摩訶迦羅(マカカラ)といひ、訳して大黒又は大闇夜(エンヤ)【闇夜(アンヤ)】とし初めは闘戦の神であったが、その後幾多の変遷を経て主福神として崇拝せらるゝに到ったもので、大自在天の化身ともいひ又は堅牢(カンロウ)【堅牢(ケンロウ)】地神の化身であるともいふ。この大黒天が我が国に伝来したのはいつ頃であらうか、年代は確りとは分らぬけれども、恐らくは平安朝の初期において密教と共に渡来したのであらう。而して神仏同体を論せられるに当ってわが国の大国主命の訛伝(ケデン)【訛伝(カデン)】するに至ったのである。 古事記に徴してみても大国主の命(一名大己貴の命)稲羽の気多前に到り給へる時袋を負ひ給へり、とあって大国の音が大黒に通じ大己貴の音亦大黒に近いのでこれを混同したものであらう。 【二十表】 現今日本では七福神の一にかぞへこれを崇拝し、殊に恵比須さんと相並んで戸毎に祀り福徳円満を祈願してゐるがその形像は頭巾を冠り、狩衣及び袴を着けて足下に米俵を踏み槌と袋をもってゐるのが例である。老人の口碑によると昔の大黒山車を引受けた町は一切鼠を殺生せぬといふ。習慣があったさうであるが、それは恐らく古事記に出てゐる大国主命の事跡によって鼠は命の使獣であるとの見解からいひだされたものであらう又以前までは大黒さんの腰が三年に一度づゝぬけるといって魚屋町が大黒山車を引受ける番になって子供がないのと費用に困窮する為に町内に飾っておくだけでよう曳(ヒ)き出さぬのを悪口いったものだが、近年になってからは三輌山車に元気がなうては大垣の名折れになるとて、殊に皆が骨折るやうに 【二十裏】 なった。 百竹の狂詩に面白いのがある。 現れ来る市井作遷【作銭】の神 天井豈に応化の身なからんや、 世間僭窃す君の名字、漫りに称す僧房枕席の人… … 而して現在囃には笛・太鼓・鐘等を用ひ、その歌には「なたね」「たんだ」「えすえす」「やまと」「大黒」「帰り山車」「おかゞりこぼし」「おわかれ」等があるがその歌詞の完全に伝ってゐることの極めて少いのは遺憾である。 大黒山車 追加之部 恵比寿軕 【挿絵】 【二十一表】 恵比須山車 恵比須さんが大黒さんと共に福の神であることはいふまでもない。然し祭りに引出す山車の上で大黒さんは塗りほどこして綺麗な顔をしてござるにも不枹【不拘】、恵比須さんの、はげ〴〵【はげ〳〵】であるのはどうして【どうした】訳であらうか。口碑(コウヒ)によると、両者とも左甚五郎の作で塗師が手を触れやうとすると大黒さんは水を吹き恵比須さんは火を吹くので火を吹いた恵比須さんには恐れをいだいてそのまゝ現在に及んでゐるのだといふが真偽の程はわからない。又この恵比須さんを山車に祀るに就て藩主が摂津へ御祈願の使を出されたといふ古い話が残ってゐるがそれは摂津の広田神社に併置されてゐる夷子神社ではあるまいか広田神社内には夷子神社を祀って宮が二社あって一は西宮 【二十一裏】 といひ別に夷宮又は西宮夷等と称し祭神は蛭子神(ヒルコジン)、一は南の宮又は奥夷の宮といひ祭神は夷三郎と称してゐる中世以降夷子神を福徳の神と称へ諸人に財福を与へ給ふ神として世の尊敬厚くことに商家は何れも大黒神と並びまつるのはどうした由縁(ユエン)であらうか一説に夷子神とは蛭子命である日本書紀に「伊弉諸尊(イザナキノミコト)【伊弉諾尊(イザナギノミコト)】伊弉冊(イザナキミノ)【伊弉冊(イザナミノ)】尊夫婦となり蛭児生る、既に三才になるといへども脚(アシ)、猶立たず、故にこれを天の磐橡樟(イハクイネ)船【磐櫲樟船(イハクスフネ)】に載せ風にまかせて放棄す」とあり此船が西宮の社下蛭子浦に止りこの浦に謫居(テキキョ)【謫居(タクキョ)】して漁夫となり、里人は尊を夷三郎と呼びその何処か常人と異【異なり】貴品【気品】福徳あるを慕って尊没後神として祠に祀ったので祭神を夷子三郎といふのであるとか。又一説に福神としての恵比須は大国主尊の子 【二十二表】 事代主命であって尊は出雲の国三穂崎に遊び日々海浜に出で釣魚を楽しみにしておられた大国主命及事代主尊は日本最初の国神で福徳の神であるから一は大国といひ一は恵比須と称して諸人これを祭り、福徳神とするのであらうと。蓋し藩主が神楽山車にこの二福神を加へたのは城下の市民に対してその服従を迫ると同時に庶民の福利を増進する善政を敷くの意を遇したものであらう「ゑびす」は「ゑみす」に通じ容顔莞爾(カンジ)として常に笑をふくんでゐるの意である。といって次の様な詩を賦してゐる。 「両脚伸びす三歳の童、孤島に謫居して漁翁となる、釣って紅 (コウソウ)【紅鬃(コウソウ)】を得てより、誤って落つ市喧塵綱【塵網】の中」「僅かに竹竿並びに竹籃を得て、皇宮を遁れ去り釣真【釣魚】に耽(フケ)る嘗て 【二十二裏】 攪乱(カクラン)せず蒼生の意、風致誰か知らん瞿曇(グドン)に勝るを……」山上容顔寛爾(カンジ)【莞爾(カンジ)】たる一翁は左手に紅い鯛をかゝへ右手に釣竿を持ち岩の前に腰かけてゐる。囃には笛、太鼓、鐘等を用ひ、歌には「松づくし」「花づくし」「水づくし」「伊勢まいり」「車かへし」「岡崎」「道行き」等がある。 【挿絵】 相生山車 本町 【二十三表】 相生山車 本町 本町山車は謡曲「高砂」を用ひてあるので一名「相生山車」ともいふ高砂は古今集の序(ジョ)に「高砂住の江の松も相生のやうに覚え」とあるのに基いて、高砂住吉の松の精が現れ、松の謂(ユワ)れを述べ、和歌の道を語り、遂に住吉明神出現して神人和合し、君を祝ひ、国を祝ふ目出度い祝言の曲である。山上には三層の勾欄(コウラン)を設けて、第一層には幔亭(マンテイ)があり正面に樹の老松が象徴的に装置されてその樹の下には翁媼(オウ〳〵)が箕箒(キシュ)【箕箒(キシウ)】を持って立ち第二層には唐冠(トウカン)束帯(ソクタイ)して笏(シャク)を持した住吉大神が起舞し第三層には鳥帽(チョウボウ)【烏帽(ウボウ)】緑袍(リョクホウ)の阿蘇(アソ)の祝官友成があり、祝官は即ち変じて一楼船となり、帆を張って上下し波濤の状 【二十三裏】 をする仕掛けになってゐる即ち始めは 「今を始めの旅衣〳〵日もゆくすえぞ久しき。そも〳〵是れは九州肥後の国阿蘇アソの宮の神主友成とは我がことなり我末だ《我未だ》都を見ず思ふほどに、この度おもひたち都に上り候、又よき次なれば播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候」…… と友成が九州からはるばると播州へやって来た所である。而して摂津の国住吉の老翁と、播州高砂の老媼からなってゐるといふ不思議な夫婦に会い色々の物語りをしてゐる中に時が来て老翁が海人(アマ)の小舟で住吉へ替える所を祝官を楼船に変ぜしめて現はしたもので、 「高砂や此浦船に帆をあげて〳〵、月もろともに出でしをの波の淡路アワジの島陰や」……と歌ふ謡曲につれて山上に揺れ 【二十四表】 動く楼船の微妙(ビメウ)な感じはなんともいへぬよいものである。百竹の詩にも「整(トヽノ)ひ成す烏帽(エボウ)【烏帽(ウボウ)】緑藍(リョククヮン)【緑藍(リョクラン)】の衫(キン)【衫(サン)】、晋笏(シンコツ)容顔自ら凡(ボン)ならす何物の仙官ぞ腹(ハラ)海(ウミ)の如し、浮び来る楼艦忽ちに帆を張る」「一片の蒲帆(ボハン)両客艘(リョウキャクソウ)、月光州影蓬窓(ホウソウ)に入る、遙々(ヨウ〳〵)海路須臾(スユ)の事風は春潮を趁(オ)ふて墨江に到る」。此の山車の水引は蜀江錦(ショクコウキン)に西園雅集(セイエンガシウ)の図を刺繍(シシュウ)したもので其構図は古京都の公卿(クゲ)九条家に伝はる有名な屏風から得た精巧なもので、幕には紅羅紗に十二支を繍したのを用ひ、見送りは「高砂」にかたどって老松(ロウショウ)に翁媼一人を織り出し其技術においてその色彩において十ヶ町中最も優れたものといはれてゐる。 【二十四裏】 旭山車 中町 【挿絵】 【二十五表】 旭山車又は布袋山車 中町 中町山車は「布袋山車」又は「旭山車」といひ古来謡曲「加茂」によった山車として謡ひの声のよいことゝともに山車の設備も可なり立派なものであったが三十四年《二十四年》の濃尾の大地震の折に焼失してその後町内一致共力してその再調に腐心し 《明治卅五》年漸くその塗りを完備したのであるから、その用材に於て細工に於て、其他一般他に勝るといふところのないことは止むを得ないことで車上《軕上》には三層の勾欄を設け、第一層には加茂明神、室明神の神職、神女侍女等を飾ってゐるが老人の話によるともとまではこんな飾りではなかったといふ百竹の詩にも「弥勒(ミロク)今(イマ)布嚢(フノウ)に生れ、禅房を出で得(エ)で【得(エ)て】 【二十五裏】 胡床(コセウ)に踞(キョ)す風狂(フウキョウ)亦復(マタマタ)何事をか成す、只これ嬰児(エイジ)百戯場(ギジョウ)とあって第二層には唐服の女子が扇を握って榻(トス)【榻(トウ)】に登り身をさかさまにして峙立(ジリツ)し或は戯れ、或は舞ひ、第三層には紅装束の少女が頭に金扇を載き《戴き》しば〳〵舞ふて宛転しその様は非常に一般から興がられたといふ。一体布袋さんは七福神の一つであることは勿論であるが布袋和尚は支那梁代(レウダイ)の散聖(サンセイ)で弥勒(ミロク)の化身であり、十六の群童之に付随するといふ故事から、前記の戯児を持って来たもので、祭りが一の散事である所から散聖を奉安した布袋山車は十輌の山車中主き【重き】をなして第二位を占めたのであらう。然し明治維新当時神仏混滑《混淆》が宜しくとがめらるゝやうになったので一時僧形である布袋を廃して玉串榊その後なほ布袋に随ってゐた童子も亦加茂明神及び随臣祝官 【二十六表】 に改作し名を旭山車と改めたもので之を歌った狂詩に面白いのがある、「教主何の心ぞ兜率(カソツ)【兜率(トソツ)】に回(カヘ)りて僅かに留む遊戯(ユウギ)の両嬌児(リョウキョウジ)恨殺(コンサツ)す膨淳(ボウコウ)【膨脝(ボウコウ)】一皮袋、充(ミ)たす今世(コンセイ)ほとんど寒飢(カンキ)す」…かくの如く一時布袋を廃して旭山車としたものゝこれではこの山車の生命がないといふ所から以前の如く布袋を危亭に安置することゝなって現在に及んだのである山車創建以来本町山車と並び称せられた中町山車の水引…蛮錦に桃源(トウゲン)図を繍ったもの…を始めをして、黒羅紗に怪巌蹲虎の図を刺繍した見送り、後山車に厳然と峙立の形にあった竜頭の彫刻等は頗る見事なものであったが三十四年《二十四年》の大火災に焼失したのは惜しいことで現在之に模して総てを飾りつゝあるが軽薄な感じが与へないので同町内では山車の塗りを終ると同時にこの方面 【二十六裏】 にも着手せねばならぬといはれてゐる。 天神山車 新町 【挿絵】 【二十七表】 天神山車 新町 嵐の山の花ざかり、竜頭蠲首【鷁首】の船に乗り、詩歌、管絃の宴たけなはなり、と太平記にもあるが、京における公卿殿上人の専用の如くにして、諸大名さへ遠慮して餘り使はなかった竜頭の宴船を山車に模した新町の小船山車は大垣の祭りに於ける一の誇りであった小船山車とはいへ、船首(トモ)から船尾(ヘサキ)まで約五間の長さを有し、名工の手になる竜頭厳めしく船首に飾られ、舞台があり屋形があり、勾欄が設けられ、紅羅紗の幕には蝦蟇(ガマ)、鉄拐(テッカイ)両仙人を刺繍し、その中に垂れ下る縦二尺、横九尺の水引には梁川星巌が蝦蟇仙人を賦した「宝鏡新たに開 【二十七裏】 いて丹桂(タンケイ)香(カン)ばし、蝦蟇意を得て正に跳梁し一条の霊気天地を串き散じて金華万道の光となる…」の詩及び鉄拐仙人を賦したところの「般精(ハンセイ)運気(ウンキ)化(カ)して神となる身外身あり千億(オク)の身、鉄拐の木瓢(モクヘウ)皆(スベ)て幼用【幻相】にして知らず孰れか是れ本来の真」… といふ二つの詩を隷書(レイショ)で書き、見送りには雌雄二匹の麝香猫(ジャコウネコ)を織り出し目は宝玉を用ひて色彩華麗に、飾弓彩旗等華々しく立て並べられ三つの車輪を用ひて曳(ヒ)き歩く度毎に船が浪に漂ふ如く揺(ユ)れ動くも面白く、浄瑠璃によって種々なる舞踊が演ぜられたもので、百竹は 雲白く風は薫りて霽色開く、四街混コン々として黄塵漲る、 木蘭船上西施出で匹似す呉王ゴオウの暑を避けて来たるに… 【二十八表】 と歌ってその舞台に舞い出た舞妓の美を設き【説き】、又 楼船を製造ツクるの様又奇にして、蝦蟇鉄拐を紅惟【紅帷】に繍子【繍ふ】、 市人ただ〳〵形容の美を説き、梁翁二首の詩を道エ【道イ】はず… とて其船山車の奇観を賞讃してゐる、然し、かく賞讃された小船山車も明治二十四年の大地震及火災にかゝって烏有(ウユウ)に期(キ)【帰(キ)】してからは其の影だに見る由なく、現今は菅原山車と称し、同町の氏神が天神さんである所から第一層には同社の御霊を祀り、第二層には唐人(トウジン)一人、第三層には採振(サイフリ)【采振(ザイフリ)】を装置し、第二層の唐子は手習の意味で文字を書く芸当をして観衆を慰めてゐる。水引は白地に龍の天上する図で戸田氏貞氏の下絵なるもの幕には紅羅紗を用ひ、見送りは大橋翠石氏の墨絵になる虎であるが、町内の一部には山車の名に因(チナ)んで有 【二十八表】 名な菅原道真公の歌である『東(ア)《東(コ)》風(チ)吹(フ)かば香(ニホヒ)よ《香お》こせよ梅の花主(アルジ)なきとも《なしとも》春を忘れな《春な忘れそ》』に改めれば興味深いものになるといふ者もあるが面白い意見である。 鯰山車 魚屋町 【挿絵】 【二十九表】 鯰山車 魚屋町 「大垣祭りに奇抜なるものが二つある。一は魚屋の鯰山車に一は竹島の朝鮮山車」と旧藩時代から市民を始め近郷近在の人々にもてはやされた鯰山車は山上《軕上》 層【一層】の勾欄を設けて中に幔亭を置き、前に大きな板床を出し床上一人の老翁が金色燦然たる大瓢を両手に振りかざし「ハアーハアー押へたかチガタカチン」といふ面白い囃しに連れて目前の鯰を押へるのに腐心する仕組みになってゐてまことに奇抜なものに相違ない、聞く所によればこの鯰を押へんと努力する老人(一名道外坊)は彼の北条時頼に用ひられて引衆《引付衆》となった剛直清簾《清廉》の聞へ 【二十九裏】 高い青砥(アホト)藤綱(アヂツナ)【藤綱(フヂツナ)】をかたどったもので時勢の変遷と共に従来の如く重箱主義のやり方から脱して臨機応変たらんことを遇意【寓意】し暗に因習的な藩庁の役人を嘲弄(チョウロウ)したのであるといふが、実際当時魚屋町の魚商人が如何に覇気(ハキ)があったがしのばれて痛快である、又祭典における届けにおいても、他の町内が各夫々謡曲の題名や、院曲の題を几帳面(キチョウメン)に届け出でるに引かへ魚屋町はたゞ (町は御代も豊かに親父オヤジ鯰を押へ申し候。魚屋町年行事。寺社奉行御中。) と破格な届を年々経続《継続》して知らぬ顔をしてゐたものだそうな、水引には蛮錦に有虞十二章(日、月、星、山、龍、雉(キジ)、虎、藻、火、粉、米、斧(オノ)等つ【)】を刺繍したのを用ひ、幕には紅羅 【三十表】 紗に水雲双竜を繍ひ、見送りは白羅紗に金幣を刺繍したもので、現在使用してゐる見送りは「明治二十年頃金森吉次郎氏の寄進になる物であるといふ。」 百竹は「魚を打つに何ぞ必ず精神を損せん、撚断す霜髭自ら養真、只酒瓢を愛することよく絶大にして、風流甚だ似たり直釣《直鉤》の人……と誦(ヨ)み、或ひは、此叟何ぞ曽て許由に学ぶ紅巾翠袴風流を儘(マヽ)にす、安危を抛却して瓢を取って去り、未だ功名を釣らずして已に白頭……と歌って鯰山車の老翁を直鉤を垂れた太公望や堯帝のお召しに耳を洗った許由等の聖人に比較してゐるが、又説には老翁は鹿島神社の祭神である武甕槌(タケミカツチ)の命であるともいはれてゐて、何れ為政家と解釈して見る方が正しかろう、而してこの山車の玩具がこの地方に 【三十裏】 おいてのみ五月祭りの当時行はれることは人のよく知る通りである。 竹島町 榊山車 【挿絵】 【三十一表】 榊山車以前朝鮮山車 竹島町(上) 現在竹島は榊山車であるが、これは明治 年【二年】新造されたものである。もとまでは朝鮮山車で、之が何れ程大垣の誇りであったらうか。焰魔(エンマ)大王の様な大将官の冠、悪鬼の様な「ゴッカ」の顔、賑やかの彼の囃、勇しいあの行列、懐(オモ)ひ起すだに血湧き肉躍るの感がある古老達は語ってゐる。 抑もこれは今を去る百有餘年前朝鮮国王から幕府への使者の道中の行列に模したもので、現今同町に在住する大黒屋の祖先が自らその行列に加はり、衣装万端から打囃しまでも研究調査を遂げて 【三十一裏】 帰町し、以来祭礼毎にこの行列を組織した山車を引き出すこゝと【ことゝ】なったので、その行列は先づ、先頭に「清道」の二字を大書した二旒の幟を立て、次に割竹二人、大笛一人《大笛二人》、中笛二人、羯鼓一人、大太鼓二人、小太鼓二人、小笛二人、胡弓二人《胡弓一人》打続き次に朝鮮国使に準へたる大将冠は万事朝鮮風に仕組まれたる山車の上に座し竜を描いた大旛をがざし、手には軍配扇をもって威風凛然(リンゼン)と構へこの山車際には稚児髷に結(ユ)って軍扇を持った小姓が三人付随して殿りをしてゐる。尚山車の末払として跟従(コジュウ)【跟従(コンジュウ)】する恐ろしい仮面を被った「ゴッカ」が蕨の杖を打振り打振り立寄る子供を追ひ散らし、子供達亦之に砂礫(シャレキ)を投じて「ゴッカ」〳〵と 【三十二表】 騒ぎまはるのであった、以上の行列は何れも揃ひの艶麗なる朝鮮服に木綿の靴を穿(ウガ)ち、且つ行列に連なる一人毎に笠鋒をさしかけると床几(セウギ)を持ちたる二人のお供が随従することであるから行列は蜒蜿(エン〳〵)として長蛇の如く、而かも朝鮮式の囃は「干」「中干」及び「ながちゃう」の三に分れて極めて勇壮活発なものであった。 竹島町(下) 朝鮮山車は一名唐人行列、或は朝鮮王山車、朝鮮人山車などゝいひ、その行列は頗る盛なものであったらしい。百竹もその行列を称して、 【三十二裏】 鑾車𨌑被【輾破】す九街ガ【街ガイ】の塵ジン、千古の衣冠イカン日に映じて新なり、笙鼓セウコ都て成す太平の象ショウ、誰か知らん支那人を来聘ライヘイせんとは…… と支那人に擬し 羯鼓カッコ鶯黄ならびに鳳笙ホウセウ、一斉に吹き過ぐ錦衣郎、何人か比例する当年のこと、呼びなす玄宗洛陽に帰る… と歌って玄宗皇帝帰洛の盛況にに準(ナゾラ)へ、 大唐王帝満清旗、伍列三韓伶士の姿、童衣ドウギ【童衣ドウイ】上下訳司ヤクシに似たり、恍として見る豊公盛時の時……と豊臣 秀吉全盛当時の来朝使を思ひ浮べるなどしてゐるが、この華美を極めて《極めた》朝鮮山車も明治維新になって遂に廃止せらるゝことゝなり。其かはりに榊山車を造ったのである 【三十三表】 榊山車は車上三層の勾欄を設けて、第一層に幔亭(マンテイ)をおき中に白幣を立て第二層には天鈿女の命第三層には祝官を飾附け、曲藝には神楽を用ひてゐる水引には雲錦を用ひ、幕は紅羅紗で、見送りには洋絹に王仁(ワニ)の像を写し、その上に「なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまをはるべとさくやこのはな」の和歌を書いてゐる。而してこの見送りの下絵は江馬源齢《元齢》であるといひ、水引の上に彫刻されてゐる十二支は伝馬町に在住してゐた彫師馬山の作で可なり精巧なものであるといふ。 唐人を把って神木に換へてより、山棚サンボウ地ヂ【地チ】を抜いて屋よりも高し、帷繍漫【謾】に署ショすこの花の歌、誤って王仁ワニの図一幅を作る…… 【三十三裏】 浦島山車 俵町 【挿絵】 【三十四表】 浦島山車 俵町 「明てたに何にかはせん水の江の浦島か子を思ひやりつゝ」といふ小歌がある。私は今この歌を思ひながら彼の、華麗な装飾に富んだ俵町の浦島山車をまのあたりに浮かべてゐる。 浦島山車は謡曲「浦島」によってこしらへられたもので現在は幾分俗化した傾向があるが第一層の危亭に浦島太郎を置き、第二層に乙姫、第三層に竜神而して竜神が珊瑚の樹を持し歌曲につれて舞ひ出す頃の古の仕組みは、何ともいへぬ優雅なものであった。然し此古いしきたりもいつしか廃れて現在竜神と竜女とは第二層に静置せられ、第三層には 【三十四裏】 竜神竜女をかたどった唐子があり 九重出づる旅衣、〳〵、八重の汐路に急がん…… と謡ひ出る頃から色々のしぐさをなして観衆の目を楽ませ ……竜神みぎはの浪に座して、折柄を守護し、又は神風に雲霧を払ってあたりも輝く玉の手籍《手箱》を、彼の旅人の稀なる故に、夢中に顕はしみせ給ふ、夢ばし覚ますな客人よ、夢ばし覚ますな客人よ、 夜はまだ開けじ玉手箱、早くも治る君が代の、勅使を慰めの夜遊ぞかし、海竜王も心せよ、今この君の御政徳、猶も客人に奇特を見せんと、木綿四手の神心、竜神も心を一つに成相の、松風も吹きよせよ、さす汐もよせよと、互による潮の上に蓬莱山を浮べ浮ぶれば、草木もゆるぎ 【三十五表】 合ひ五色の亀も、いさみ〳〵て…… といふあたり、玉手箱を脊にした、亀は恍然と山上《軕上》の波濤に浮び出で、右往左往する中に玉手箱はぱっと開いて中よりは珊瑚その他の宝が出で、尚餘興として亀が口中から観衆にピンポンを吐投げる様になったが、これは餘り俗な趣味であると思ふ。此山車は水引に紺色の文錦を用ひ構図は正面が対ひ竜両側が貝づくしで尚特に短い水引様のものに波浪を描いたのをその上に設け幕には紅羅紗に六波濤《大波濤》を縫ひ、見送りはなしで、浦島の脊の虎の皮及びその後に立てられてゐる彩旗が其のかはりをしてゐる。一説に見送りを殿様の御上覧の場所で落したからないのだとか、その見送りが松濤寺へ打敷に直して寄進してあるとか云はれてゐて 【三十五裏】 私も或程度まで信じてゐたが調査の結果それはどうやら否定されるらしい。元来この山車は頗る風変りに出来てゐて屋形といひ、勾欄といひ塗といひ総て他の山車に追従してゐないところを見ると、見送りも始めから着けなかったものだといふ同町内年寄り連の説も首肯される。 未だ知らず俗諺これ琉球と、握手歓生満眼マンガン想【愁】ふ、一時信ぜず開筐の戒め、忽ち紅顔をして白頭に変ぜしむ… 釣魚の船を浮べて帰らず、恰も漁父と同じく桃源に入る花紅酒碧春海の如し、隔絶【隔断】す家郷七世の孫……。 玉の井山車 船町 【挿絵】 【三十六表】 玉の井山車 船町 船町の山車は今は優美な踊り山車として有名であるが最初は石曳山車といって極めて野卑なものであったさうな、 それは昔大垣城が築かるゝ際、石材を運搬するに人夫の勢をつけるために使はれた馬鹿囃子をそのまゝ山車に応用したのだといふ。その後氏教公時代行はれた各町内の山車新造に際し、船町も謡曲「玉井」により彦火々出〓命(ヒコホコデミノミコト)【彦火々出見命(ヒコホヽデミノミコト)】が御兄火闌降命(ホノスソリノミコト)の釣針を魚にとられこれを求めんとして、竜宮に至り、豊玉姫(トヨタマヒメ)を娶(アト)【娶(メト)】って失った釣及び潮干(シホヒ)の宝玉を得て帰るの様を擬して、尊の塑像を始め竜神、豊玉姫、玉依姫、天女等を飾り 潮満シホミチ潮干シホヒ二つの玉を〳〵釣針に取り添へ捧げ申し舞 【三十六裏】 楽を奏し豊姫玉依、神【袖】を返して舞ひ給ふ と山上《軕上》の女性が舞ひ出づるのは次の言葉の いづれも妙ヒヘ【妙タヘ】なる舞ふ神【舞の袖】。〳〵、玉のかんざし柱【桂】の黛ホユズミ【黛マユズミ】も照り添ふ花の姿雪を廻らす袂かな… のやうに、いと風雅なものであった竜神山車ともいはれてゐた。然し文化四年の大洪水に、山車附属の人形楽器等を流失し、独り彦火々出見の命の像のみ残すに到ってからは今までの装置を変更して舞台を設け、尊を第一層の危亭内に静置し謡曲の変りに浄瑠璃を用ひあどけない少女をして舞踊を演ぜしめるに到ったもので百竹は成年の祭りの藝題に対し左の如く歌ってゐる。 皇孫何の意ぞ蛇神を聘【娉】す今日音容亦真を写す、甲 【三十七表】 媛嬌顔《嬌歌》し乙姫舞ふ、一時瞞殺す満街の人…… 三絃弾出す一歌たくみなり、京華院曲の中より来り、四万八千経巻のみ、野人満口円通を説く―― 而して水引には邯鄲(カンタン)の交織繍【文織繍】を用ひ幕は紅羅紗で見送は竜神を繡刺したものであるといふ、なほ危亭の脊後には槍旗と玉旗とを立て此山車の彫刻その他頗るこったもので舞台の脊景には金の唐紙に三階松を描いてゐる。 【三十七裏】 辨天山車 伝馬町 【挿絵】 【三十八表】 辨天山車 伝馬町 伝馬町は松竹山車又は辨天山車といってもとは謡曲「竹生島」によってつくられたもので車上三層の勾欄を設け第一層には幔亭を置き中に天女(辨財天)の尊像を安置し、第二層には仕女第三層には祝官が白幣を持って楽に応じて舞ふ仕掛になってゐて水引は蛮錦に杏村の近江八景を縫ひ、房は撚糸にて組み上げ、金物は金の「スリハガシ」で頗る優美なもの、幕には紅羅紗、見送りは蜀錦繍を用ひ殊に水引はこの山車を造る頃同年の年寄塩屋某が大奥様から金欄【金襴】の帯を拝領したが餘りに結構な品であるから私しするも勿体ないと山車の水引に寄附したが普通の山車としては少し短かゝったので、山を縮めたといふ由緒あるもの、 【三十八裏】 故にこの山車は細長くて恰好甚だ不均衡であると称へられてゐる。然し山車の飾附から水引、見送りの模様に到るまでよく統一されたもので百竹の詩に曰く。 淡海タンカイの仙区世上に知らる貪り聴く絃宗ゲンソウ意イ将マサに馳せんとす、街頭用ひず方舟の梶カジ、併せて得たり妙音天女の姿 ……又曰く 他車の猩幕シウマク【猩幕セウマク】に同じからず繍ひ来る絶景倩人を縫ふ瀬田の夕照石山の月、八走バシ【走バセ】の帰帆三井の鐘…… 其後明治維新になって一時天女及び仕女の塑像を廃し、更(カ)ゆるに神鐘【神鏡】司索命巫女等を以てし近時又天女(辨財天)に復旧し前山車の御幣振りが兎(ウサギ)の餅つきに変ぜしめらるゝに至ったのである。 【三十九表】 伝馬町 【三十九裏】 愛宕山車 岐阜町 【挿絵】 【四十表】 愛宕山車 岐阜町 岐阜町はもと伝馬町に属してゐて一個の独立した町ではなかったが、山車は同町の豪家藤島某が自分の趣味から私財を抛って造ったもので、一名藤島山車ともいひ頗る善美を極め中町の布袋山車と並び称されてゐたが、布袋山車が地震で焼失してからは独り岐阜町のみ優美を称せらるゝに至ったのである。 一路黄風【薫風】彩旗を吹く朱欄屈曲して丹塀タンチ《丹墀タンチ》に比す、繁弦急管忽然として起る恰もこれ皇軍奉凱《奏凱》の時…… と歌はれてゐる様に、この愛宕山車は謡曲弓八幡によって神功皇后の三韓征伐後をあらはしたもので、車上三層の勾 【四十裏】 欄を設け第一層には危亭を置き中に神功皇后の塑像を安置し、第二層には武内宿弥【武内宿禰】、第三層には蜑女(アマ)あり、亭後には二流の彩旗並び立てられ、弓八幡の謡曲がゆるやかに謡ひ始められると同時に蜑女は立って踊り、謡ひ半過ぎれば武内宿弥【武内宿禰】の舞ひになるのである、武内宿弥【武内宿禰】の像はもとは皇子を抱いてゐたそうであるがいつの頃から廃せられてしまった。 三百餘齢ヨレイ補佐の臣姓名赫々として古今に薫る、一たび海潮の乾満を測ってより、収捨【収拾】す鶏林八道の雲…… 水引は蜀錦に群鳩を描き、その画工は杏村であったが杏村は一度名古屋の建長寺に遊んで鳩の遊べるを見て岐阜町山車のために自分が描いた鳩の形に相違あるを発見し、後から書足しを《をヲトル》たので、鳩に班色があるといひ伝へられてゐる、又見送りは白羅 【四十一表】 紗に仙客竜に乗って玉児を抱(イダ)くの図を縫ひ、之又杏村の下絵で、この山車の両袖にその賛がある、 何知忽遇非常用 不把分誠独登夫 好蔵莫便令人見 恐有痴人似末顛 尚車上の神功皇后を歌った百竹の詩がある。 装束ソウゾク繊腰センヨウ忽ち男に化す、 英威美麗また能く兼ね錦帆波濤を衝き破り去り、 一柳眉幾虎髯を擒トリコにす……。 【四十一裏】 【挿絵】 猩々山車 宮町 【四十二表】 猩々山車 宮町 江風陣々として月妍妍たり、吹き起る笛声蘆萩のあたり酔舞酣顔飽アくを知らず、海中の仙酒中の仙を学ぶ…… と百竹は歌った、げに宮町の山車は猩々を以て有名である山車は猩々を以て有名である《山車は猩々を以て有名であるヲ削ル》山車が小さくて後山車がなく、一名重箱山車の譏があるとはいへその技藝は他の山車の何れにもおとらないであらうと旧藩時代には盛に謳歌されたそうな、現今では立派に後山車もつき車上に幔亭を置きその前に大板床を突出し、その上に大酒壱《壷》を置き、猩々はしばしば舞ひ、しば〳〵歩んで壱《壷》の傍に到り酒を口にし鯨飲 【四十二裏】 して紅顔に変じ続いて壱《壷》は壊れて牡丹となり猩々は変じて獅子となり、獅子は咲き誇る牡丹に戯れあたりを狂舞しまはる仕掛になってゐてもとまでは謡曲を使ってゐたやうであるが現今は歌曲のみで、楽器も以前は三味線も入ったそうだが、現に使用しつゝあるものは鐘、太鼓、笛等である、 水引は弘化三年《四年》森寿彦の下絵になる扇面四君子の縫ひ潰しで紅羅紗、見送りには黄羅紗に白沢怪を避くるの図を繍ったのを用ひその上に「五言古風短篇」と題して 黄帝コウテイ東巡の国、白沢克く玄論、賢君俊徳を明らかにし、天祥子孫に降る…… の文字が繍ってある、白沢とは黄帝内伝にいふ神獣の名である。 【四十三表】 壷は牡丹に変じ、猩々は獅子に変ず一時の遊戯充分なり、年に枉費する機関の線只郭鮑老に知チあり……。 なほ此山車の両袖に彫刻してある千匹猿は頗る傑出したものである。 【四十三裏】 軕の画 川地寿山氏 昭和二十八年十月吉日複写す 自筆 小森嘉兵衛 大垣まつり(完)
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重石川家 夫:重石川しとね 妻:重石川星羅 長女:重石川こいね 長男:重石川ちとせ 家族4人で日本在住。 重石川こいね 双子の姉。顔と力と目の色は父親似。 髪の色は母親似。 ~編集中~ 重石川ちとせ 双子の弟。顔と目の色は母親似。 髪の色は父親似。 ~編集中~
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沢木員昆(さわきかずやす) 安永7年(1778)-文政13年(1830) ■プロフィール 沢木員昆(さわきかずやす) 仙台藩司天官 通称、団次、黄台と号す。大塚春湖について天文を学ぶ。周宗公は、沢木を天文道学生としてその学資を支給した。大塚春湖が病気になったので、沢木に暦伝を授け、大塚の高弟の小梁川春鴬に付いて学問を続けた。ついにその道を極め、京都土御門家に上がり伝を受けて帰ると、藩は司天官に任命し、沢木を大番士とした。文政13年5月15日に死す。享年53才。 仙台藩医沢木員昌(本道および小児科:46石)の兄弟か親類?明治時代の起業家沢木團治は末裔? なお、佐竹義根の門人に沢木員壽という人物がいるが、沢木家と関連があるかも知れない。 サワキ・カズヤス 【澤木員昆】天文家。通称團治、黄臺と号す、大塚春湖に就きて天文を學ぷ、周宗公天文道學生として其の資を給す春糊病革るや員昆に暦傳を授け、高弟小梁川春鶯に嘱付して其余業を畢らしむ、員昆終に其道を極め、京師に上り、土御門家の傳を受けて帰るや、藩命じて司天官と爲し、大番士に列す、文政十三年五月十五日没す、享年五十三、仙台北八番丁全玖院に葬る。(碑文) ■沢木員昆年表 安永7年(1778) 生まれる。 文化12年(1815) 京師より伝を受ける・大番士 文政13年(1830) 5月15日に歿する。享年53才。北八番丁全玖院に葬る。 ■師弟関係 大塚頼充───┐ │ │ 小梁川貴矩───┴──沢木員昆 ■基礎資料
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瑞州合衆国連邦の競馬(ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうのけいば)では、現在の瑞州合衆国連邦において、公営ギャンブルの一つとして行われている競馬について記述する。 概要 主要競争一覧 三冠 競馬場 競走馬の名前 主な冠名一覧 著名な馬 概要 瑞州における競馬は、瑞州中央競馬会(Zuish Central Racing Association、ZCRA)が主催する。地方自治体が主催し、地方競馬全国協会(NRA)が免許の管理などの統括を行う競馬(地方競馬)のシステムがかつては存在していたが、現在では廃止されている。 瑞州競馬は公営競技のひとつであり、刑法の特例として開催が認められている公営ギャンブルという側面をもつ。勝馬投票券(馬券)の発売を伴う競馬は特殊法人であるZCRAにのみ開催が認められている。 1923年の瑞洲競馬会の発足とともに政府が深く関与する競馬が全国的な統一組織のもとで開催されるようになり、そうした競馬は1934年の国営化(国営競馬、農業省管轄)を経て、1968年以降の中央競馬(ZCRA)へと受け継がれている。一方で、全国統合を嫌った一部の競馬団体と地方行政組織の動きもあり、地方公共団体を主催者とする地方競馬も行われるようになった。 1947年に瑞州内戦が勃発すると、広大な敷地面積を持つ中央競馬場や地方競馬場が軍の拠点として使用された。そのために攻撃目標となった競馬場も数多く存在し、1949年の終戦時にはレースに使用可能な競馬場の数は、開戦前の1/3という状況に陥っていた。 終戦後、国営競馬場の多くはすぐに復旧されたが、地方競馬場の多くは復旧の目途が立たず、また復旧したとしても採算が取れずに廃止される競馬場が続出した。1967年、地方競馬全国協会は組織体制の維持が困難と判断し、解散を決定した。 1968年、農林水産省の外郭団体として瑞州中央競馬会が設立され、国営競馬・地方競馬を統合した。両競馬所属馬を継承したため、全体として競争の質が下がるという事態にも見舞われたが、ZCRAは条件戦や未勝利戦を増やし対応した。またオープン戦の国際グレード(G1・G2・G3)の他にも、瑞州独自のグレードとして「Usz4・Usz5」(国際グレードから連番)を導入した。 主要競争一覧 開催月 競争名 格付 競馬場 馬場 距離 性齢 備考 1月下旬 常州ウインターステークス G2 筑場 ダート 1800 4歳上 1着馬にはスノーグランプリの優先出走権が与えられるステップ競争。 2月上旬 京東賞 G3 瑞京 ダート 1400 4歳上 1着馬にはスノーグランプリの優先出走権が与えられるステップ競争。 2月中旬 スノーグランプリ G1 雲東 ダート 1600 4歳上 ZRCAの主催するG1競争の中で最も開催が早い。 3月上旬 梁川盃 G3 梁川 芝 1400 4歳 1着馬には尾州大賞典の優先出走権が与えられるステップ競争。 3月上旬 越前記念 G2 越前 芝 1800 4歳上 1着馬にはエイプリルカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 3月上旬 レーヴァティ賞 G2 瀬埼 芝 1600 牝3歳 3着馬までに春空杯の優先出走権が与えられるトライアル競争。 3月上旬 孟春賞スプリットエス記念 G2 瀬埼 芝 2000 3歳 3着馬までに農林水産省章典の優先出走権が与えられるトライアル競争。 3月上旬 パシフィックステークス G3 越前 芝 1200 4歳 1着馬には尾州大賞典の優先出走権が与えられるステップ競争。 3月中旬 三勢テレビ杯 G2 河輪 芝 2000 4歳上 1着馬にはエイプリルカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 3月中旬 名牝ステークス G2 梁川 芝 1400 牝3歳 3着馬までに春空杯の優先出走権が与えられるトライアル競争。 3月中旬 花一華ステークス L 尾州 芝 1600 牝3歳 2着馬までに春空杯の優先出走権が与えられるトライアル競争。 3月下旬 子葉ステークス L 筑場 芝 2000 3歳 2着馬までに農林水産省章典の優先出走権が与えられるトライアル競争。 3月下旬 季春ステークス G2 梁川 芝 1800 牡牝3歳 3着馬までに農林水産省章典の優先出走権が与えられるトライアル競争。 3月下旬 三勢大賞典 G2 河輪 芝 3000 4歳上 1着馬には春季大統領杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 3月下旬 瑞経賞 G2 筑場 芝 2500 4歳上 1着馬には春季大統領杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 3月下旬 尾州大賞典 G1 尾州 芝 1200 4歳上 3月下旬 インターナショナルカップ G1 小濱 ダート 2000 3歳上 国際招待競走 4月上旬 エイプリルカップ G1 河輪 芝 2000 4歳上 4月上旬 グリーントロフィー G2 小濱 芝 1600 牡牝3歳 3着馬までに京都マイルカップの優先出走権が与えられるトライアル競争。 4月上旬 仙代牝馬特別 G2 仙代 芝 1600 牝4歳上 1着馬にはウェリヴァーズマイルの優先出走権が与えられるステップ競争。 4月上旬 春空杯 G1 尾州 芝 1600 牝3歳 4月中旬 天馬ステークス G3 小濱 芝 1600 3歳 3着馬までに京都マイルカップの優先出走権が与えられるトライアル競争。 4月中旬 尾州グランドジャンプ G1 尾州 障害 4250 4歳上 4月中旬 農林水産省章典 G1 小濱 芝 2000 3歳 4月下旬 瀬埼牝馬特別 G3 瀬埼 芝 1800 牝4歳上 1着馬にはウェリヴァーズマイルの優先出走権が与えられるステップ競争。 4月下旬 フラワーステークス G2 小濱 芝 2000 牝3歳 2着馬までにバーチステークスの優先出走権が与えられるトライアル競争。 4月下旬 マイラーズステークス G2 仙代 芝 1600 4歳上 1着馬には沢畑記念の優先出走権が与えられるステップ競争。 5月上旬 連理草ステークス L 筑場 芝 1800 牝3歳 1着馬にはバーチステークスの優先出走権が与えられるトライアル競争。 5月上旬 新葉賞 G2 河輪 芝 2400 3歳 2着馬までに連邦優駿の優先出走権が与えられるトライアル競争。 5月上旬 春季大統領杯 G1 瑞京 芝 4000 4歳上 最長距離を走る競争。 5月上旬 真打ステークス L 河輪 芝 2000 牡牝3歳 1着馬には連邦優駿の優先出走権が与えられるトライアル競争。 5月上旬 瑞京マイルカップ G1 瑞京 芝 1600 3歳 5月上旬 皐月ハンディキャップ G2 瑞京 芝 1400 4歳上 1着馬には沢畑記念の優先出走権が与えられるステップ競争。 5月上旬 ウェリヴァーズマイル G1 仙代 芝 1600 牝4歳上 5月中旬 宮嵜大賞典 G3 宮嵜 芝 2000 3歳上 1着馬にはニュースステークスの優先出走権が与えられるステップ競争。 5月中旬 バーチステークス G1 瑞京 芝 2400 牝3歳 5月下旬 連邦優駿 G1 瑞京 芝 2400 3歳 瑞州ダービー。 6月上旬 水無月賞 G2 薙山 芝 2200 3歳上 1着馬にはニュースステークスの優先出走権が与えられるステップ競争。 6月上旬 沢畑記念 G1 越前 芝 1600 3歳上 6月下旬 薙山市記念 G1 薙山 芝 2200 3歳上 7月上旬 ニュースステークス G1 出東 芝 2000 3歳上 8月下旬 オーガストカップ G3 雲東 芝 1200 3歳上 1着馬には筑場杯スプリンターズカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 9月上旬 ケンタウロスステークス G2 越前 芝 1200 3歳上 1着馬には筑場杯スプリンターズカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 9月上旬 パープルステークス G2 越前 芝 1200 3歳上 1着馬には筑場杯スプリンターズカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 9月中旬 雲州牝馬ステークス G3 雲東 芝 2000 牝3歳 1着馬にはミセスライラック記念の優先出走権が与えられるトライアル競走。 9月下旬 スペイシャス記念 G2 尾州 芝 2000 3歳 3着馬までにオータムステークスの優先出走権が与えられるトライアル競争。 9月下旬 オールカマー G2 雲東 芝 2200 3歳上 1着馬には秋季大統領杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 9月下旬 上越盃 G2 越前 芝 2200 牡牝3歳 3着馬までにオータムステークスの優先出走権が与えられるトライアル競争。 10月上旬 筑場杯スプリンターズカップ G1 筑場 芝 1200 3歳上 10月上旬 尾州大賞典 G2 尾州 芝 2400 3歳上 1着馬には秋季大統領杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 10月上旬 京放クラウン G2 瑞京 芝 1800 3歳上 1着馬には秋季大統領杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 10月中旬 豆州牝馬ステークス G3 宮嵜 芝 1800 牝3歳 1着馬にはミセスライラック記念の優先出走権が与えられるトライアル競走。 10月中旬 名古屋ステークス G2 尾州 芝 1600 3歳上 1着馬にはマイラーチャンピオンズカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 10月下旬 オータムステークス G1 瑞京 芝 3000 牡牝3歳 10月下旬 鵠ステークス G2 梁川 芝 1600 3歳上 1着馬にはマイラーチャンピオンズカップの優先出走権が与えられるステップ競争。 10月下旬 ガッディスステークス G3 小濱 芝 1600 牝2歳 1着馬には白雪ステークスの優先出走権が与えられるステップ競争。 10月下旬 秋季大統領杯 G1 瑞京 芝 2000 3歳上 11月上旬 キャピタルカップ G3 瑞京 ダート 1800 3歳上 1着馬には師走賞の優先出走権が与えられるステップ競争。 11月上旬 小濱2歳牝馬ステークス G3 小濱 芝 1400 牝2歳 1着馬には白雪ステークスの優先出走権が与えられるステップ競争。 11月上旬 宮嵜2歳馬特別 G2 宮嵜 芝 1400 2歳 1着馬にはウィンターステークスの優先出走権が与えられるステップ競争。 11月中旬 むつステークス G3 仙代 ダート 1800 3歳上 1着馬には師走賞の優先出走権が与えられるステップ競争。 11月中旬 2歳馬ステークス G2 梁川 芝 1600 2歳 1着馬にはウィンターステークスの優先出走権が与えられるステップ競争。 11月中旬 ミセスライラック記念 G1 京都 芝 2200 牝3歳 11月下旬 マイラーチャンピオンズカップ G1 小濱 芝 1600 3歳上 11月下旬 梁川2歳ステークス G3 梁川 芝 2000 2歳 1着馬には瑞央杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 11月下旬 尾州新聞杯2歳ステークス G3 尾州 芝 1800 2歳 1着馬には瑞央杯の優先出走権が与えられるステップ競争。 11月下旬 バーテックスターフ G1 持ち回り 芝 2400 3歳上 瑞州国際競走(*1)の一つ。 11月下旬 バーテックススプリント G1 持ち回り 芝 1200 3歳上 瑞州国際競走の一つ。 11月下旬 バーテックスマイル G1 持ち回り 芝 1600 3歳上 瑞州国際競走の一つ。 11月下旬 バーテックスクラシック G1 持ち回り 芝 2000 3歳上 瑞州国際競走の一つ。 12月上旬 師走賞 G1 尾州 ダート 1800 3歳上 12月中旬 白雪ステークス G1 筑場 芝 1600 牝2歳 12月中旬 ウィンターステークス G1 小濱 芝 1600 牡牝2歳 12月下旬 梁川グランプリ G1 梁川 芝 2500 3歳上 12月下旬 筑場グランドジャンプ G1 筑場 障害 4100 3歳上 12月下旬 瑞央杯 G1 尾州 芝 2000 牡牝2歳 三冠 3歳クラシック三冠 - 農林水産省章典、連邦優駿(瑞州ダービー)、オータムステークス達成馬はジングウライトネス、ユーハブコントロール、ホーミングキャンサー、アイゼンバーン、ラファールデルタ、ジングウファルコン、キッカライデンの7頭。 3歳牝馬三冠 - 春空杯、バーチステークス、ミセスライラック記念達成馬はタケダドリーマー、ホープスアゲイン、ユリ、フラワープリンセス、インザハピネス、マリノマリッジ、セリアスプリット、ホワイトグレイスの8頭。 春古馬三冠 - 尾州大賞典、エイプリルカップ、春季大統領杯2017年のエイプリルカップのG1昇格をきっかけに制定。 夏古馬三冠 - 沢畑記念、薙山市記念、ニュースステークス達成馬はレコンアサルト、アクルックス、レゴールライトの3頭。 秋古馬三冠 - 秋季大統領杯、オーガストカップ、梁川グランプリ達成馬はスティーヴィーネルソン、オガサファウストの2頭。 競馬場 競馬場 所在地 第1回開催 第2回開催 第3回開催 第4回開催 第5回開催 仙代競馬場 岩陸州宮祇県仙代市 4月 7月 11月 越前競馬場 越野州足翅県越前市 6月 8月 9月 薙山競馬場 淡葉州勝飾県薙山市 6月 7月-8月 筑場競馬場 常陸中州稲式県筑場市 1月-2月 3月 5月-6月 9-10月 12月 小濱競馬場 嶺狭州小濱市 4月 10月-11月 12月 河輪競馬場 三勢州河輪郡 3-4月 5月 10月 尾州競馬場 尾治州愛治県杜預明市 1月 3-4月 9-10月 12月 瑞京競馬場 瑞京府西山区 1月-2月 4月-5月 5月-6月 10月-11月 宮嵜競馬場 日宮州宮嵜県宮嵜市 1月-2月 4月-5月 10月-11月 梁川競馬場 筑紫州来留瞳県梁川市 2月-3月 3-4月 6月 10月-11月 11月-12月 雲東競馬場 八雲州岩見県名賀郡 2月 7月 8月 9月 競走馬の名前 競走馬は競馬に出走するにあたり馬名登録を済ませることが義務付けられている(馬名登録義務)。馬名はアルファベット18文字以内と定められている一方、カタカナ表記での字数制限はない。 主な冠名一覧 冠という文字がついているが必ずしも競走馬名の冒頭につくとは限らない。 アイゼン:アイゼンハイウェイなど。所有馬であったアイゼンバーンが活躍したことからその名前の一部を冠名に使用。 イェーガー:ファルコンイェーガーなど。由来はドイツ語で「狩人」。 イエロー:イエロースナイプなど。由来は馬主の好きな色。 イクサ:イクサバ、イクサモノノフなど。由来は馬主の姓「戦山」から。 イン:インザプレイスなど。由来は馬主の姓「中間」の「中(in)」から。 エヌエス:エヌエスグレーヴリーなど。由来は馬主の姓「鍋島(NabeShima)」から。 オーシャン:レッドオーシャンなど。由来不明。 オガサ:オガサファウストなど。由来は馬主の姓「小笠原」から。 キャリア:ハピネスキャリア、エンジェルキャリアなど。由来は航空母艦から。 キャンサー/キャンサ:ホーミングキャンサー、キャンサプリヴィアスなど。由来は馬主の誕生月の星座がかに座(cancer)であることから。 クマノ:クマノウィンドなど。由来は馬主の姓「熊野」から。 コウソン/コーソン:コーソンスクライブなど。由来は馬主の姓「岡村」の音読み、または先祖である公孫氏から。 コマツ:コマツスピードなど。由来は馬主の姓「小松」から。 サザン:チェックサザンなど。由来は馬主の姓「南山」から。 シュライバー:ウィンドシュライバーなど。所有馬であったクーゲルシュライバーが活躍したことからその名前の一部を冠名に使用。 ジングウ:ジングウラプターなど。由来は馬主の自宅近くに神社があることから。主にミツヤスホースクラブが使用。 スプリット:セリアスプリットなど。スプリットエス系の馬につけられる。 セイシュウ:セイシュウラピッドなど。由来は伊勢州の略称。 ディーエフ:ディーエフライナーなど。由来は馬主である国防軍(Zuish Defence Force)のDFの文字から。 デルタ:デルタアクセルなど。由来不明。 テルモ:テルモスピアなど。所有馬であったテルモピュライが活躍したことからその名前の一部を冠名に使用。 ドーエー:ドーエーオースチンなど。馬主の姓「江戸」を逆(ドエ)にし、もじったもの。 トッキュウ:トッキュウファストなど。由来は特別急行の略。 ナイト:フライデイナイトなど。由来は馬主が夜遊びが好きなことから。 ナンブ:ナンブキャディーなど。由来は馬主の姓「南部」から。 ニトロ:ニトロジェットなど。由来は爆薬の主剤から。 バーク:バークシュトローマーなど。由来不明。 ヒュウガ:マーシーヒュウガなど。由来は日向州から。 リュウケイ:リュウケイサンダーなど、筑紫競馬株式会社所有馬に付けられる。由来は「梁川競馬場」の略。 タケダ:タケダハンターなど。由来は馬主の姓「武田」から。 マーヴェ:マーヴェレイヴンなど。所有馬であったマーヴェリックスが活躍したことからその名前の一部を冠名に使用。 ミブノ:ミブノタイコンデロガなど。由来は馬主の姓「壬生」から。 モールド:プリズムモールドなど。由来は馬主である企業「シマ鋳工」の鋳型製品から。 ラミー:ラミーブレイブなど。由来は「ラム酒のような」を意味する英単語から。馬主がラム酒好きであることに因む。 レコン:レコンブライトなど。飛騨レーシング所有馬に付けられる。由来は創業者が陸軍の偵察部隊に所属していたことから。 ユラ:ユラメンターなど。由来は馬主の姓「由良」から。 ワグリ:ワグリインターセプトなど。由来は馬主の姓「和栗」から。 また冠名を付けなくても、同じジャンルから名づけるということもある。例えば大角知人は、自らの所有馬にスプリットエスやシャンデル、インメルマンターンなど、空戦機動の名を付けた。 著名な馬 ホワイトグレイス(White Grace) 馬主 青川直秀 調教師 佐藤健一 毛色 白毛 性 牡 主戦騎手 高橋哲也 脚質 先行 瑞州競馬における3歳牝馬三冠を達成した馬。3歳牝馬三冠の達成は、タケダドリーマー、ホープスアゲイン、ユリ、フラワープリンセス、インザハピネス、マリノマリッジ、セリアスプリットに続く8頭目。名前の由来は毛色が白色であること、優美(Grace)グレイスは母親の名前も由来している。白毛馬として史上初めてGI勝利、牝馬クラシック初出走、初勝利、三冠を達成した。父はホープフルウィンド、母はグレイスフルスノー。2歳新馬戦では2着で惜敗したものの、続く2歳未勝利戦では2着のターンライトに5馬身差をつけ圧勝。陣営は白雪ステークスでの勝利を目標に、次走は同競走のステップ競走であるガッディスステークスを選択。ホワイトグレイスはここでも勝利を挙げ、白雪ステークスへの優先出走権を獲得した。白雪ステークスでは2番手の位置からレースを進め、最後の直線で粘るレコントワイライトを捉えて勝利。白毛馬として史上初めてGI勝利を達成した。この結果を受けて陣営は、白毛馬史上初の牝馬クラシック出走を目標とした。その後、ホワイトグレイスはトライアル競走のレーヴァティ賞を勝利した後、牝馬クラシック初戦である春空杯に出走。得意距離であるために不安要素はなく、レースでは好スタートから先団を追走し直線半ばで先頭に立つと、後方から突っ込んできたエヌエスミチコをクビ差退けた。白毛馬として史上初めて牝馬クラシック初出走、初勝利を達成した。陣営はさらに牝馬三冠を目指し、バーチステークスに出走。距離が今までの1600mからいきなり2400mに変わり、不安要素となったためか、新馬戦以来の1番人気を外した。しかしここでもホワイトグレイスはその能力を遺憾なく発揮し、2着のスピードガールにハナ差で勝利。トライアル競走である豆州牝馬ステークスと牝馬三冠最後のレースであるミセスライラック記念も危なげなく制し、ホワイトグレイスは白毛馬初の牝馬三冠という偉業を成し遂げた。しかしながら12月の梁川グランプリでは8着と、新馬戦以来初めて掲示板を外した。4歳時・5歳時はほとんどが掲示板内に入る活躍を見せたが、4歳時の梁川グランプリでも7着と、どうも2500mという距離を苦手としているようだった。しかし陣営は「ファン投票で選ばれたのだから」と、同競走で勝つことを諦めていなかった。陣営は2022年(5歳時)の同競走での引退を表明し、ジングウファルコンなどのG1馬が出揃う中、ホワイトグレイスは当日を5番人気で迎える。逃げ馬の作ったハイペースの中、中団内で待機し、4コーナーに向かって各馬がペースを上げた際にも馬なりのまま内を回って最後の直線を迎える。その直線では横に向かって走るかのように大外へと持ち出し、充分な進路を確保した後は上がり最速の末脚を繰り出して残り200m地点で先頭に立つと、2着のホッカイラピッドを5馬身差突き放す圧勝で有終の美を飾った。 生涯成績 (通算22戦14勝) 日付 競馬場 レース名 距離 順 差 騎手 19/7/28 瑞州/仙代 2歳新馬 芝1800 2 1 高橋哲也 19/8/18 瑞州/越前 2歳未勝利 芝1600 1 0 高橋哲也 19/10/15 瑞州/小濱 ガッディスステークス G3 芝1600 1 0 高橋哲也 19/12/15 瑞州/筑場 白雪ステークス G1 芝1600 1 0 高橋哲也 20/3/1 瑞州/瀬埼 レーヴァティ賞 G2 芝1600 1 0 高橋哲也 20/4/12 瑞州/尾州 春空杯 G1 芝1600 1 0 高橋哲也 20/5/17 瑞州/瑞京 バーチステークス G1 芝2400 1 0 高橋哲也 20/10/11 瑞州/宮嵜 豆州牝馬ステークス G3 芝1800 1 0 高橋哲也 20/11/15 瑞州/瑞京 ミセスライラック記念 G1 芝2200 1 0 高橋哲也 20/12/27 瑞州/梁川 梁川グランプリ G1 芝2500 8 2 高橋哲也 21/4/27 瑞州/仙代 仙代牝馬特別 G2 芝1600 1 0 重岡晋也 21/5/9 瑞州/仙代 ウェリヴァーズマイル G2 芝1600 2 0.2 重岡晋也 21/6/6 瑞州/越前 沢畑記念 G1 芝1600 3 3 重岡晋也 21/10/3 瑞州/瑞京 京放クラウン G2 芝1800 1 0 重岡晋也 21/10/31 瑞州/瑞京 秋季大統領杯 G2 芝2000 1 0 M・メイヤー 21/11/28 瑞州/梁川 バーテックスカップ G1 芝2400 1 0 M・メイヤー 21/12/26 瑞州/梁川 梁川グランプリ G1 芝2500 7 1 M・メイヤー 22/4/24 瑞州/瀬埼 瀬埼牝馬特別 G3 芝1800 1 0 M・メイヤー 22/5/8 瑞州/仙代 ウェリヴァーズマイル G2 芝1600 2 0.2 高橋哲也 22/6/26 瑞州/薙山 薙山市記念 G1 芝2200 4 3 高橋哲也 22/11/27 瑞州/梁川 バーテックスカップ G1 芝2400 1 0 高橋哲也 22/12/25 瑞州/梁川 梁川グランプリ G1 芝2500 1 0 高橋哲也 ジングウファルコン(Jingu Falcon) 馬主 ミツヤスホースクラブ 調教師 田中弘明 毛色 鹿毛 性 牡 主戦騎手 安藤享典 脚質 差し 瑞州競馬におけるクラシック三冠(ZCRAクラシック三冠)を達成した馬。クラシック三冠の達成は、ジングウライトネス、ユーハブコントロール、ホーミングキャンサー、アイゼンバーン、ラファールデルタに続く6頭目。名前の由来は冠名「ジングウ」とハヤブサ(Falcon)。デビュー戦から主戦騎手は安藤享典が一貫して務めている。2020年9月の2歳新馬戦で初出走した際、良血場故に1番人気となり、その期待に応えて7馬身差で圧勝する。陣営は次走を2歳馬ステークスに定め、そこでも2馬身差で快勝した。この勢いで2歳馬G1・ウィンターステークスに出走、勝利し、G1初勝利を挙げる。クラシック初戦は農林水産省章典に出走。大雨の中、2番人気のペイシストラトスが序盤からリードを広げ、後続は密集した集団になる。残り1/4を切ったところでイースタンフェローが先頭に立つも、ジングウファルコンは出走馬最速の末脚を繰り出してこれを捉えた。この2頭が後続を引き離すと、ゴール手前でジングウファルコンが優勢となり、半馬身差で快勝した。次走の瑞州ダービーでは、序盤に逃げを打ったペイシストラトスとディーエフカンプウ、そしてエコーブラインドにペースを乱され、ジングウファルコンは後方集団に沈んだ。直線に入るとエコーブラインドが疲れ始め、ペイシストラトス、ディーエフカンプウの順で先頭に立ち、ジングウファルコンは大外から先頭の2頭を強襲した。前走と同じくゴール直前でジングウファルコンとディーエフカンプウが後続を引き離し、首差でジングウファルコンが勝利した。三冠達成が懸かるオータムステークスでは1番人気となり、馬場は稍重でパワーが必要なレースとなっていた。スタート直後、これまで逃げていたディーエフカンプウがなかなか前に出ず、ダービーで3着になっていた先行馬・ゴーゴーグローリーが早くも先頭に立つ。直線ではスパイダレイダーとファイヴモールドがを抜き去り、ジングウファルコンが着実に差を詰めていった。ジングウファルコンは稍重の馬場をものともせず前2頭を捉え、5馬身差で抜け出して勝利した。残りの馬は大きく離された。その年の梁川グランプリでは、前年に牝馬三冠を達成したホワイトグレイスを抑えてファン投票1位で出走するも、主導権を握ったスピードザウィンドのハイペースなレース運びに惑わされ、早めに仕掛けた結果スピードザウィンドやホワイトグレイスと共に直線で失速。アルカイオスの3着で入線し連勝はストップした。4歳古馬となってからは春秋大統領杯に出走し、苦しいレースとなったがどちらもハナ差で勝利。しかし前年に引き続いて出走となった梁川グランプリでは、万全な状態で挑んだのにも関わらず、猛烈な末脚を繰り出して襲い掛かってきたホワイトグレイスやホッカイラピッドに屈して3着。ファンの間では梁川を苦手としているという噂が立った。翌年のエイプリルカップでも10番人気の伏兵・メーメルグライドに差し切られてハナ差惜敗。陣営もここで潮時と判断し、次走・秋季大統領杯での引退を発表する。引退レースとなる秋季大統領杯では2番人気に評価を落としていたものの、スローペースのレースで脚を溜め、最後の直線でメーメルグライドや同期のゴーゴーグローリーをあっという間に抜き去り、自身の最大着差となる8馬身差で有終の美を飾った。 生涯成績 (通算12戦9勝) 日付 競馬場 レース名 距離 順 差 騎手 20/9/13 瑞州/筑場 2歳新馬 芝1800 1 7 安藤享典 20/11/15 瑞州/宮嵜 2歳馬ステークス G2 芝1600 1 2 安藤享典 20/12/13 瑞州/小濱 ウィンターステークス G1 芝1600 1 1 安藤享典 21/4/25 瑞州/小濱 農林水産省章典 G1 芝2000 1 0.5 安藤享典 21/5/30 瑞州/瑞京 連邦優駿(瑞州ダービー) G1 芝2400 1 0.1 安藤享典 21/10/10 瑞州/瑞京 オータムステークス G1 芝3000 1 5 安藤享典 21/12/26 瑞州/梁川 梁川グランプリ G1 芝2500 3 0.2 安藤享典 22/4/6 瑞州/瑞京 春季大統領杯 G1 芝4000 1 0.1 安藤享典 22/10/30 瑞州/瑞京 秋季大統領杯 G1 芝2000 1 0.1 安藤享典 22/12/25 瑞州/梁川 梁川グランプリ G1 芝2500 3 2 安藤享典 23/4/9 瑞州/河輪 エイプリルカップ G1 芝2000 2 0.1 安藤享典 23/10/29 瑞州/瑞京 秋季大統領杯 G1 芝2000 1 8 安藤享典 キッカライデン(Kikka Raiden) 馬主 佐藤英司 調教師 谷奥洋 毛色 栗毛 性 牡 主戦騎手 岩城徹 脚質 自在 瑞州競馬におけるクラシック三冠(ZCRAクラシック三冠)を達成した馬。クラシック三冠の達成は、ジングウライトネス、ユーハブコントロール、ホーミングキャンサー、アイゼンバーン、ラファールデルタ、ジングウファルコンに続く7頭目。名前の由来は橘花と雷電で、優美さと豪快さを兼ね備えているこの馬の形容だという。調教時のぎこちなさからデビューが遅れたが、夏の間にトレーニングセンターで速い追い切りを行い、注目を集めるようになった。しかし8月末に初出走を予定していたが負傷してしまい、2027年9月19日の筑場競馬場第5レースの新馬戦でやっと初出走を果たした。この新馬戦でキッカライデンは3番人気に支持されていたが、1番人気を5馬身差で下した。続く1勝クラスのレースでも3+1⁄2馬身差で勝利している。キッカライデンの次走はG1ウィンターステークスであった。最大のライバルは、G2宮嵜2歳馬特別を含む4連勝中の良血馬・ロードトゥハイトであった。キッカライデンはほぼ同オッズの2番人気で出走した。岩城徹騎手はこの馬をそのまま先頭に送り出すと、バックストレッチでリードを広げたが、この馬が直線で疲れると思ったため、追従してくる他の馬はいなかった。しかしキッカライデンはそのまま逃げ切り、最終的に9馬身差をつけ、当時のステークスレコードで圧勝した。わずか3回の出走にもかかわらず、キッカライデンは2027年の最優秀2歳馬に選ばれた。3歳シーズンは、やはり王道のクラシック路線へと挑戦。緒戦のG2季春ステークスを危なげなく勝利して農林水産省章典への優先出走権を手にした。農林水産省章典本番、キッカライデンは1番人気に支持されたが、2000m以上では弱いという意見が多く、オッズは4.5と低めであった。2番人気は2歳馬でG1瑞央杯で2着の経験があるキングオブアッバースだった。ロードトゥハイトもG2孟春賞スプリットエス記念を勝っており、有力視されていた。キッカライデンはレース本番で出遅れ、最後方でスタートしたものの、第2コーナーで順位を上げ、第3コーナーで岩城がムチを入れると一気に一位まで躍り出た。キッカライデンは追走していたシャトルプリズムを4馬身引き離し、さらに最後に追い込んできたキングオブアッバースに2馬身差で勝利した。この後、クラシック二冠目となる連邦優駿では好スタートを切り、道中を二番手につき、最後の直線で逃げ粘っていたシャレードを撫で切って3馬身差で勝利。三冠最後となるオータムステークスでは、3000mという今まで未経験の距離への不安から、バーチステークス勝利馬でステイヤーとして覚醒していたシロノメーターに続く2番人気となっていた。スタート後キッカライデンは逃げ、序盤からリードを広げた。追走するシロノメーターやキングオブアッバースに差を詰められ、さらに最低人気であるアットエニーコストが好位につけると、場内ではキッカライデンの距離適性を心配したどよめきが起こった。しかしキッカライデンは第4コーナーで後続との差を広げ、直線では岩城が何度か鞭で叩くとぐんぐんと加速していき、キッカライデンはシロノメーターに4馬身差をつけて快勝した。ここにキッカライデンは無敗三冠を達成した。 現在成績 日付 競馬場 レース名 距離 順 差 騎手 27/9/19 瑞州/筑場 2歳新馬 芝1200 1 5 岩城徹 27/10/17 瑞州/筑場 2歳1勝クラス 芝1400 1 3.5 岩城徹 27/12/19 瑞州/尾州 ウィンターステークス G1 芝1600 1 9 岩城徹 28/3/19 瑞州/梁川 季春ステークス G2 芝1800 1 1 岩城徹 28/4/17 瑞州/小濱 農林水産省章典 G1 芝2000 1 2 岩城徹 28/5/29 瑞州/瑞京 連邦優駿 G1 芝2400 1 3 岩城徹 28/10/23 瑞州/瑞京 オータムステークス G1 芝3000 1 4 岩城徹