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913 名前:reden 投稿日:2006/12/29(金) 22 56 17 [ b6zK/Sj2 ] こちら、初めて投下させていただきます。 朱き帝國第01話 新星暦351年 ヴェンツェル・エッカート子爵導師は白亜の空中回廊から、魔術師達が忙しなく動き回る宮城前広場を見下ろしていた。 「いよいよ、か……」 口に出して呟くと、胸の奥からある種の感慨がこみ上げてくる。 宮廷魔術師として、大モラヴィア王国に仕えて30年余り。 長年の研究成果が漸く実を結ぼうとしているのだ。 「お師様!こちらにおいででしたか」 ふと、後ろから声がかかる。 紫のローブを纏った大柄な青年がこちらに歩いてくる。 「ゼップ君か。どうしたね?」 「……儀式の準備が整いました。国王陛下も、既に広場でお待ちです」 「そうか」 いよいよだ。もう一度、今度は心の中で呟いて、ヴェンツェルは広場のほうに歩き出そうとする。 「導師」 「なにかね」 大柄な青年魔術師…ゼップは、なにやら言いづらそうに口篭り、ややあって意を決したように口を開いた。 「本当に、危険は無いのでしょうか」 「………また、その話かね」 ヴェンツェルはフゥ、と軽く息を吐いて男に向き直った。 「既に閣議でも決定した事だよ。リスクに関しても陛下はちゃんと認識しておられる」 「しかし……異界の大地を丸ごと転移させるなど前代未聞です」 914 名前:reden 投稿日:2006/12/29(金) 22 56 58 [ b6zK/Sj2 ] つまりはこういうことだ。 ヴェンツェルやゼップの母国たるモラヴィア王国は、俗に遺跡王国とか魔法王国などと呼ばれている。 その名が示す通り、国民の中にしめる魔術師の割合が他国より多く、その国土には太古の魔道文明の遺跡が多数眠っているわけなのだが……問題は彼らモラヴィアの魔術師が使う魔術にあった。 『秘蹟魔術』 太古に滅び去った魔法文明において利用されていたという、世界の根源たるマナを直接汲み出すことで奇跡を成すという強力な魔術である。 351年前、建国王アルブレヒトによって遺跡より発見されたこの古代魔術は、他国で一般に使われている精霊魔術に比べて汎用性、威力ともに非常に優れており、この強大な力を独占したアルブレヒトは(それまでは地方の一豪族に過ぎなかったにも拘らず)大陸北部を覆う大国を一代でうち立てたのだ。 しかし、この魔術の乱用によって大地よりマナを延々と汲み出し続けた報いか、モラヴィアの大地はここ数十年のうちに急速に衰えつつあった。 それは、大人口の集中する首都や魔術研究都市の近辺より始まった農地の砂漠化と、森林の枯死という形で現れ、時の王国首脳に大きなショックを与えた。 彼らの覇権の原動力たる古代魔術を今更放棄することなどできない。 かといって、このまま事態を座視していれば、そう遠くない将来。自分達の国は草木も生えぬ不毛の大地と化すだろう。 その後いくつもの対応策が講じられたものの、目立った成果はあがらず。最終的に考え出されたのが異界からマナの豊富な大地を召喚し、そこから国土維持に必要なマナを吸い出してしまうというものだった。 『救世』と名付けられたそのプロジェクトを率いることになったのがヴェンツェルだった。 「召喚陣には我が国で最も強力な従属魔術が付与されておる。仮にその大地に異界人が紛れ込んでいたとしても、問題にはならんよ」 ヴェンツェルはそう言って笑った。 ここでいう従属魔術とは、人の体内で生成される魔力に干渉して、その精神を乗っ取るというものだ。 逆に言えば、マナから魔力を生成できない者には効果が無いということなのだが、その点に関してヴェンツェルはなんら心配していない。 人間なら誰しもごく少量の魔力は生成できるはずだし、万一、異界人が魔力を生成する術を持たぬというなら、それこそ我が国の魔術兵団なりを送って制圧してしまえば良い。 現代において、魔法を運用しない軍など物の数ではないのだから。 「案ずるには及ばんよ」 そう言ってヴェンツェルは笑った。 915 名前:reden 投稿日:2006/12/29(金) 22 58 28 [ b6zK/Sj2 ] 1941年6月21日。モスクワ。 「困ったものだ」 赤軍参謀総長ゲオルギー・コンスタンティノヴィッチ・ジューコフ元帥は疲れきった風体で椅子に腰を下ろした。ここはクレムリン宮殿内に設けられた高官用の休憩席である。 帝政時代の職人が丹精込めて造り上げたアンティーク調の椅子は、彼の背中をやんわりと受け止めた。 その柔らかな感触に軽く息を吐く。と、後ろから声がかかった。 「おう。何だ、同志ジューコフ。ここに来てから30分で10年は老け込んだように見えるぞ」 「……どうかお手柔らかに願いますよ。同志」 そう言って振り返ると、軍服姿の禿頭の大男がニヤニヤ笑いながら立っていた。 国防人民委員のセミョーン・ティモシェンコ元帥である。 「その様子だと、色好い返事はもらえなかったようだな」 「ええ、同志書記長はドイツの攻撃まで、まだ間があると御考えです」 そう言って溜息を吐いた。 この時期、ドイツとの開戦に備えて赤軍はかなりの兵力をポーランドに集結させつつあった。 しかしその大半はスターリンの厳命によって即応体制には無かった。 「第一撃でナチの奇襲を許した場合、このままではウクライナ辺りまで一気に踏み込まれかねません。唯でさえ4年前の…」 「同志。その先は言いっこなしだぞ」 「……申し訳ない」 4年前。 スターリンの意を受けたNKVD長官エジョフによる赤軍大粛清は、ソヴィエトの軍事システムを主に人材面で半ば麻痺状態にしてしまった。 なにしろこの粛清劇で元帥5人のうち3人。軍司令官15人のうち13人。軍団長85人のうち62人。師団長・旅団長も半数以上が粛清され、被逮捕者の数はなんと将校だけで2万人にも及んだ。 はっきり言って軍そのものが瓦解しないのが不思議なほどの数である。 (あれから4年……) そうだ。僅か4年だ。 この程度の期間で将校を、ましてや将軍を育成するなどまず不可能だ。 現在の赤軍は装備だけが立派な張りぼてに近い、ジューコフはそう思っている。 ……実際には『張りぼて』というのは言いすぎだったが。この感想は実に的を得たものだった。 「ともかく、だ。俺もその件に関しては憂慮している。後で同志書記長に進言しておこう。せめて前線への警告だけでも、とな」 「……ありがとうございます」 ジューコフは安心したように頷き、ティモシェンコはニッと男臭い笑みを浮かべた。
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朱き帝國第18話① 1941年8月9日17:00 モラヴィア王国グレキア半島東部 北部方面軍司令部 目の前に広げられた地図を眺めつつ、ポポフは参謀団の戦況報告を黙然と聞いていた。 「――――以上、空軍機からの偵察情報と合わせてみますと、前面のモラヴィア軍部隊に関しては完全に指揮系統を喪い潰走中と考えて宜しいかと思われます。」 サハロフ中将が報告を終えると、ポポフはつい先刻戻ってきたネウストリアの派遣武官に尋ねた。 「偵察では、敵地上部隊は既に組織的な抵抗ができる状態ではないようだが、この状況で、何か魔術的な反撃は考えられるかね」 「―――魔術とは、何も人知を越えた奇跡の業ではありません。攻勢に出るにあたってモラヴィア野戦軍で最も注意を払うべきは機鎧兵団による機動防御ですが、それも先の砲撃で壊滅した様子。制空権をこちらが握っていることを考えても、もはやモラヴィア側にまともな抵抗手段は残されていないでしょう」 我々から見れば全てが常識外れだよ、と心の片隅で毒づきながらも、もポポフはその言葉に安堵した。 「なるほど。少なくとも、進軍中に方面軍纏めて海の上にでも飛ばされたりすることはないわけか」 「そのような技術があるなら、今頃この世界はモラヴィアが覇権を握っているでしょう」 やや呆れたように言うネウストリアの魔術師。 彼に言わせれば、赤軍の砲火力や動員力のほうが余程非常識だ。 モラヴィア側が展開していた防御結界は彼の見るところ要塞級……戦場で行使される魔術としてはほぼ最上級のものだ。 それを一刻足らずの内に破壊し、内部に温存された梯団……ネウストリアの軍編成における一個騎士軍相当の戦力を砲撃のみで殲滅してしまうなど、常軌を逸しているとしか思えない。 魔力波通信で報告は送ったが、今頃、本国では上へ下への大騒ぎだろう。 「よく分かりませんな。ロシア本国をこの世界に呼び寄せることのできる技術を持った国だ。方面軍一個を移動させる方が容易なように思えるが…」 納得がいかない様子で参謀のひとりが頭をひねる。 ヨーロッパからアジアに跨る広大なソヴィエト・ロシア本国を異なる世界に移動させることに比べれば、一個方面軍を数百キロ移動させる方がよほど容易なように思える。 それは他の者達も同様だったようで、派遣武官に視線が集中する。 「召喚魔術というものは多くのマナを必要とし、かつ幾つもの触媒と魔術師、さらには年単位の準備期間を要します。移動標的に対してこれを施術するのは不可能なのです」 さらに言うなら―――、派遣武官は続けた。 ソヴィエト連邦の広大な領土を喚び出すような大魔術は、それこそ国が傾きかねないほどの大事業のはずであり、そうそう頻繁に行えるものではない。 マナを大量に消耗することから考えても、自国領土に重大なダメージを与える魔術をそうそう頻繁に行なうことはできないだろう。 (第一……) 言葉には出さず、派遣武官は内心で漏らした。 これだけ圧倒的な戦力差があるのだ。 モラヴィアが追い詰められ、自暴自棄になってソ連を巻き添えに自滅を謀ったところで、召喚魔術を施術してのけるような時間的余裕は与えられないだろう。 ソ連側は魔術の力に随分と怯えているようだが、彼からすれば赤軍のほうが余程恐ろしい。 おそらく、眼前に展開していたのがモラヴィア軍でなくネウストリア軍―――それも赤軍と同規模の一個総軍であったとしても、敗北は免れないだろう。 (この国は……危険すぎる) 派遣武官が抱いた思い、それは魔力波通信によって報告を受けたネウストリア軍首脳陣が抱いたそれと、全く同じものだった。 1941年8月9日20:00 モラヴィア王国グレキア半島西部 都市ブルーノ モラヴィア新領土鎮定軍司令部 夜の帷に包まれた東部属州最大の貿易都市。 その中心近くに存在するモラヴィア王国新領土鎮定軍司令部。その建物の至るところに煌々と明かりが灯り、廊下を幾人もの軍人たちが慌ただしく行き来している。 4階建ての建物の最上階に設けられた戦況報告室に、男の怒号が響き渡った。 「一体これはどういうことだ!?」 新領土鎮定軍司令官、西グレキア方伯アウグスト・ハウゼン魔道兵大将はデスクに拳を叩きつけて居並ぶ幕僚陣を怒鳴りつけた。 先刻、魔力波通信によって報告された前線の状況は信じ難いものだった。 【壊滅】だ。 敵を発見したでも無ければ交戦開始でもない。 前線から送られてきたのは体裁の全く整っていない断片的な報告だったが、その内容は自軍の壊滅とソ連赤軍の国境突破を知らせるものだったのだ。 この報告を確認した鎮定軍司令部は、当初これを何かの間違いだろうと一笑に付し、再度前線司令部に確認のための通信を送った。 対ソ国境北東部付近に展開するグレキア梯団は5個兵団80000の兵力を有し、それも内4個兵団が魔道軍所属の精鋭である。 1個連隊あれば軍に要塞並の防御力を与えるとまで言われる結界魔術のエキスパート集団―――虎の子の独立防護連隊も投入されており、その質を考えれば、たとえネウストリアの一個総軍の攻撃を受けても数週間は持ちこたえることのできる戦力である。 現状国内でこれに匹敵する軍は、ネウストリア国境に展開する南部国境梯団しかいない。 しかし、幾度試みても前線との連絡は回復しない。ここにきて、事態が容易ならざるものだとモラヴィア側も理解はしたものの、それでも梯団そのものが壊滅したとは考えなかった。 常識的に考えて、5個兵団からなる野戦軍が、後方司令部にまともな報告を送る暇も無く一瞬で壊滅したなど考えられない。 魔道文明を持たないソヴィエトが魔力波通信を妨害する手段を有しているとは考え辛いが、それでも技術面でのトラブルが起きたと考える方が現実的だった。 とはいえ、通信の内容から考えて、ソヴィエト側が国境を侵犯したのは間違いない。 ならば、早急に前線に増援を送る必要がある。 ハウゼン大将がこの時点で下した命令は後置されている予備旅団から装備・練度が比較的良好なものを選んで前線に送り出すことと、本国への開戦の報告だった。 徴兵軍の集結が済んでいないのが痛いが、防戦に努めれば持久は可能だろうとハウゼンは考えた。 だが、暫くして東部・南東部の国境をグレキア梯団が対峙していたのとほぼ同規模の軍勢が突破したとの報告が立て続けに入り、さらに数刻おいて東部国境よりに点在する小都市群から次々に送られてくるようになった救援要請。 これらを目の当たりにしては、さすがに事態の深刻さを悟るしかない。 信じ難いことだが、既にグレキア梯団は戦力として計上できない存在と成り果てているらしい。 そして、場面は冒頭に戻る。 「蛮人ども相手に何をやっておるのだ!直ぐに後方の予備軍を纏めて迎撃軍を編成にかかれ!」 頭に血を昇らせている司令官に、恐る恐る幕僚が意見具申する。 「しかし閣下。予備旅団の多くは二線級の、それも歩兵部隊にすぎません。魔道軍主体のグレキア梯団が短時間で撃破されていることを考えますと、このまま送り出しても各個撃破の好餌となるだけです」 「地方軍に要請して、近在の魔道兵部隊を組み込むべきです。その上で本国の増援を―――」 口々に言い募る幕僚陣を、ハウゼンが再びデスクに打ち降ろした拳の音が黙らせる。 「ならば直ぐに手配しろ!一刻も早く奴らの足を止めねば東部属州が蹂躙されるぞ!」 「直ちにかかります」 敬礼し、足早に司令室を出ていく幕僚陣を見送ると、ハウゼンは通信のための魔術を起動した。 まずは本国司令部に直談判して魔道軍の増援をなんとしても毟り取る。まずは手駒を揃えなくては話にならない。 そしてもうひとつ、ソヴィエトが魔道文明を持たないというのであれば、魔道院が保有するある技術が有効に働くだろう。 「たかが召喚獣風情が思い上がりおって…!」 ソヴィエト赤軍が先制攻撃をしかけてきたという事態そのものが、ハウゼンをいらだたせていた。 モラヴィア人によって召喚され、その命が尽きるまで召喚主に奉仕することを義務づけられた奴隷どもが牙を剥いてきたのだ。 彼にしてみれば不遜も甚だしい。 「身の程というものを思い知らせてくれるぞ、蛮人ども」 呪詛のように呟くハウゼン。しかし、彼は理解していなかった。 機械化された赤軍の移動速度、火力。 さらには【縦深作戦】 前世界において、膨大な動員兵力と火力を備えた欧州陸軍大国の防御システムを食い破るべく策定された、機械化部隊と航空機による数百km単位に及ぶ大突破。 奇襲と、それに続く連続した攻勢作戦によって相手国の防御システムを瞬時に無力化し、防御側が体制を立て直す暇も与えず敵国の縦深を一撃する。 最精鋭の魔道軍部隊が壊滅した今、モラヴィア東部属州に赤軍に抗しうる戦力は最早存在しておらず、赤軍の尖兵たる西部・北西方面軍はグレキア梯団と北部方面軍の交戦を横目に既に国境地帯を突破。 無防備に広がるモラヴィアの領邦都市群を守備軍諸共飲み込みつつ、一路、東部属州最大の都市、ブルーノを目指して進みつつあった。
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913 名前:reden 投稿日:2006/12/29(金) 22 56 17 [ b6zK/Sj2 ] こちら、初めて投下させていただきます。 朱き帝國第01話 新星暦351年 ヴェンツェル・エッカート子爵導師は白亜の空中回廊から、魔術師達が忙しなく動き回る宮城前広場を見下ろしていた。 「いよいよ、か……」 口に出して呟くと、胸の奥からある種の感慨がこみ上げてくる。 宮廷魔術師として、大モラヴィア王国に仕えて30年余り。 長年の研究成果が漸く実を結ぼうとしているのだ。 「お師様!こちらにおいででしたか」 ふと、後ろから声がかかる。 紫のローブを纏った大柄な青年がこちらに歩いてくる。 「ゼップ君か。どうしたね?」 「……儀式の準備が整いました。国王陛下も、既に広場でお待ちです」 「そうか」 いよいよだ。もう一度、今度は心の中で呟いて、ヴェンツェルは広場のほうに歩き出そうとする。 「導師」 「なにかね」 大柄な青年魔術師…ゼップは、なにやら言いづらそうに口篭り、ややあって意を決したように口を開いた。 「本当に、危険は無いのでしょうか」 「………また、その話かね」 ヴェンツェルはフゥ、と軽く息を吐いて男に向き直った。 「既に閣議でも決定した事だよ。リスクに関しても陛下はちゃんと認識しておられる」 「しかし……異界の大地を丸ごと転移させるなど前代未聞です」 914 名前:reden 投稿日:2006/12/29(金) 22 56 58 [ b6zK/Sj2 ] つまりはこういうことだ。 ヴェンツェルやゼップの母国たるモラヴィア王国は、俗に遺跡王国とか魔法王国などと呼ばれている。 その名が示す通り、国民の中にしめる魔術師の割合が他国より多く、その国土には太古の魔道文明の遺跡が多数眠っているわけなのだが……問題は彼らモラヴィアの魔術師が使う魔術にあった。 『秘蹟魔術』 太古に滅び去った魔法文明において利用されていたという、世界の根源たるマナを直接汲み出すことで奇跡を成すという強力な魔術である。 351年前、建国王アルブレヒトによって遺跡より発見されたこの古代魔術は、他国で一般に使われている精霊魔術に比べて汎用性、威力ともに非常に優れており、この強大な力を独占したアルブレヒトは(それまでは地方の一豪族に過ぎなかったにも拘らず)大陸北部を覆う大国を一代でうち立てたのだ。 しかし、この魔術の乱用によって大地よりマナを延々と汲み出し続けた報いか、モラヴィアの大地はここ数十年のうちに急速に衰えつつあった。 それは、大人口の集中する首都や魔術研究都市の近辺より始まった農地の砂漠化と、森林の枯死という形で現れ、時の王国首脳に大きなショックを与えた。 彼らの覇権の原動力たる古代魔術を今更放棄することなどできない。 かといって、このまま事態を座視していれば、そう遠くない将来。自分達の国は草木も生えぬ不毛の大地と化すだろう。 その後いくつもの対応策が講じられたものの、目立った成果はあがらず。最終的に考え出されたのが異界からマナの豊富な大地を召喚し、そこから国土維持に必要なマナを吸い出してしまうというものだった。 『救世』と名付けられたそのプロジェクトを率いることになったのがヴェンツェルだった。 「召喚陣には我が国で最も強力な従属魔術が付与されておる。仮にその大地に異界人が紛れ込んでいたとしても、問題にはならんよ」 ヴェンツェルはそう言って笑った。 ここでいう従属魔術とは、人の体内で生成される魔力に干渉して、その精神を乗っ取るというものだ。 逆に言えば、マナから魔力を生成できない者には効果が無いということなのだが、その点に関してヴェンツェルはなんら心配していない。 人間なら誰しもごく少量の魔力は生成できるはずだし、万一、異界人が魔力を生成する術を持たぬというなら、それこそ我が国の魔術兵団なりを送って制圧してしまえば良い。 現代において、魔法を運用しない軍など物の数ではないのだから。 「案ずるには及ばんよ」 そう言ってヴェンツェルは笑った。 915 名前:reden 投稿日:2006/12/29(金) 22 58 28 [ b6zK/Sj2 ] 1941年6月21日。モスクワ。 「困ったものだ」 赤軍参謀総長ゲオルギー・コンスタンティノヴィッチ・ジューコフ元帥は疲れきった風体で椅子に腰を下ろした。ここはクレムリン宮殿内に設けられた高官用の休憩席である。 帝政時代の職人が丹精込めて造り上げたアンティーク調の椅子は、彼の背中をやんわりと受け止めた。 その柔らかな感触に軽く息を吐く。と、後ろから声がかかった。 「おう。何だ、同志ジューコフ。ここに来てから30分で10年は老け込んだように見えるぞ」 「……どうかお手柔らかに願いますよ。同志」 そう言って振り返ると、軍服姿の禿頭の大男がニヤニヤ笑いながら立っていた。 国防人民委員のセミョーン・ティモシェンコ元帥である。 「その様子だと、色好い返事はもらえなかったようだな」 「ええ、同志書記長はドイツの攻撃まで、まだ間があると御考えです」 そう言って溜息を吐いた。 この時期、ドイツとの開戦に備えて赤軍はかなりの兵力をポーランドに集結させつつあった。 しかしその大半はスターリンの厳命によって即応体制には無かった。 「第一撃でナチの奇襲を許した場合、このままではウクライナ辺りまで一気に踏み込まれかねません。唯でさえ4年前の…」 「同志。その先は言いっこなしだぞ」 「……申し訳ない」 4年前。 スターリンの意を受けたNKVD長官エジョフによる赤軍大粛清は、ソヴィエトの軍事システムを主に人材面で半ば麻痺状態にしてしまった。 なにしろこの粛清劇で元帥5人のうち3人。軍司令官15人のうち13人。軍団長85人のうち62人。師団長・旅団長も半数以上が粛清され、被逮捕者の数はなんと将校だけで2万人にも及んだ。 はっきり言って軍そのものが瓦解しないのが不思議なほどの数である。 (あれから4年……) そうだ。僅か4年だ。 この程度の期間で将校を、ましてや将軍を育成するなどまず不可能だ。 現在の赤軍は装備だけが立派な張りぼてに近い、ジューコフはそう思っている。 ……実際には『張りぼて』というのは言いすぎだったが。この感想は実に的を得たものだった。 「ともかく、だ。俺もその件に関しては憂慮している。後で同志書記長に進言しておこう。せめて前線への警告だけでも、とな」 「……ありがとうございます」 ジューコフは安心したように頷き、ティモシェンコはニッと男臭い笑みを浮かべた。
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朱き帝國閑話① 1941年8月16日 11:00 モラヴィア王国 グレキア半島東部 都市リンゼン モラヴィア東部属州のなかで最も東に位置する人口2万人弱の小都市。 白煉瓦の瀟洒な街並みと郊外に広がる家畜の放牧地は、平時であれば長閑な雰囲気を醸し出していることだろう。 だが現在、街を歩く人々の顔には不安の色が濃い。 彼らは時折、怯えるように街の中央―――リンゼンの地方行政を所掌する政庁に向けられる。 このリンゼンに存在する建築物の中で最も広大な面積を敷地面積を有するその城館の前。数日前まで、そこにはリンゼン知事を務めていた子爵家の紋章旗、そしてモラヴィア王国の国旗が掲げられていた。 現在そこに掲げられているのは赤地に鎌と鎚の意匠が縫いこまれた異世界軍の旗だ。 そして、城館を時折出入りする人々の殆どはカーキ色の軍服に青帽子を被った男たちだ。 街の主要街道である石畳を歩いていた青年が、ふと後ろの方から聞こえてきた耳障りな音に、ぎょっと表情を引き攣らせて路の端に寄る。 端に寄った青年の目の前を、何やら車輪の付いた奇妙な鉄製のゴーレムが、後部のパイプから煙を吐き出しながら走り抜けていく。 すれ違いざま、ゴーレムに備え付けられた座席に掛けている青い帽子を被った異界の将校と一瞬目が合い、青年は怯えるように目を逸した。 そのまま走り去っていくゴーレム――――ソ連においてGAZ-61と呼ばれている車は市街を走り抜け、街の中心に建つ政庁に向かうようだった。 、 道路の凸凹を車輪が乗り越える度にガクガクと上下に身体を揺られながら、ユーリー・ステパーノヴィッチ・ルーキン保安少佐は先ほどすれ違った住民の青年の視線に含まれた感情について考えを巡らし、小さくため息をついた。 ルーキンは今年で30を迎えたばかり。この歳で少佐というのは、他国でいえば相当なスピード出世だ。 しかし、将校全体の平均年齢が異常に若いソ連にあってはそこまで珍しい存在というわけでもなかった。 NKVD作戦グループ要員として任務につく彼は、この先の任務の難しさを思い遣って再び嘆息した。 ―――魔法王国と呼ばれるモラヴィアにあっても、魔術を扱える人間というのは限られている。 この世界の人間は誰もが大なり小なり魔力という魔法の動力源、或いはマナを汲み上げる際の鍵となるエネルギーを体内で生成できるようだが、実際に、手から火の玉を飛ばしたり、土塊から巨人のような人形―――ゴーレムを作り出して人を襲わせたりできるのは100人に一人もいればいいほうだ。 モラヴィア領侵攻作戦が開始される以前より、正確には捕虜からの情報により魔術という技術の存在を知ってからになるが、NKVDではモラヴィアの魔道技術を解析するためのセクションが立ち上げられており、今回の作戦でも、侵攻軍が制圧した地域・都市にはNKVDの作戦グループが展開し、モラヴィア魔術師の狩り出しと、技術情報の確保に当たっている。 このために現地には既に1000名を超える専任のNKVD職員が入り込んでいるほか、内務人民委員部隷下のNKVD軍が3個旅団(各方面軍に1旅団)投入されており、これらを統括する方面軍作戦トロイカが占領地の治安維持も含めて後方の面倒を見ることになる。 このリンゼンを含む北部方面軍占領地域を統括する作戦トロイカはモスクワ及びレニングラードNKVDが主体となっており、イヴァン・セロフ保安大将がその議長を務める。 トロイカと名がつく通り、その執行委員は3名から成り、トロイカ議長のセロフのほか、方面軍政治部長、実行部隊であるNKVD旅団長がそのメンバーとなる。 「どうしました少佐。心配事でも?」 「いや……そうだな。会戦後に捕えた連中の移送もほぼ終わったことだし、そろそろ我々にも移動命令が来る頃じゃないか?」 上官の浮かない様子を目ざとく見とがめた運転手―――アジア系らしい彫りの浅い顔立ちのNKVD中尉の問いかけに、ルーキンは一瞬何と答えたものかと言葉を濁し、ややあって当たり障りのない返事を返した 「また引越しですか。たまりませんなぁ……書類の梱包だけでも大仕事だ」 大げさに首を振る中尉を横目に捉えつつ、ルーキンは苦笑を漏らした。 赤軍占領地において魔術師捕縛に血道を上げているNKVDだが、全部隊合わせて3万近い人員を抱える国内軍3個旅団は主に治安維持部隊であり、捜査官としての役割を担うのは各方面軍に300名程度配置されているルーキン達のような作戦グループだ。 この長閑な街でルーキン達作戦グループが行っているのは言うなれば人狩りだ。 魔術を扱う事のできるもの。魔術について知識を有する者。そういった『技術者』たちを捕縛し、ソヴィエト本国に移送する―――それも軍属・民間人問わずだ。 占領地にあっては降伏した現地行政機関への指揮・命令権を有し、さらには言葉の壁という厄介なものが無いこともあり、移送作業は滞りなく進んでいるといってよい。 既に、このリンゼンでは500人近い魔術技能者を拘束しており、そのうち軍属及び高度技術者―――導師と呼ばれる者たち―――と見られる60名程が既にモスクワに送られている。 ZISトラックに押し込められて東のソ連領に向かって連れ去られていく魔術師達。 日々繰り返されるその光景は、リンゼン市民の心理を恐怖で染め上げた。 (まぁ、魔術だの魔法だの魔獣だのと、訳がわからんものを怖がるのもわかるがね) 本国のお偉方の気持ちも分からなくはないが、やりすぎて現地住民がパルチザン化でもしようものならえらいことだ。 少なくとも自分たちが居るうちにそんな事態にはなってほしくないものだが…… と、同乗の中尉も似たような感想を抱いたらしい。 「……そのうち矢玉でも飛んできそうですな」 「パーシャ。本当に飛んできそうだから止めてくれ」 縁起でもないことを言う中尉に軽く睨みをいれる。 戦場から、あるいはモラヴィアの本国からどんな形でソヴィエトについての情報が流れてきているのか? ここに来て初めて聞いた情報によれば、我々ロシア人は異世界から召喚された魔王の軍勢らしい。 炎の魔神を現世に呼び出し、10万の軍勢を一瞬にして焼き払ったとか……そんなものが本当にロシアに居るなら是非お目にかかりたいところだが。 加えて郊外の小さな村落を訪れた際、村長を名乗る男が着飾った若い娘達を連れてきて生贄ですと宣ったときは頭を抱えたくなった。 そう、モラヴィアのようなこの世界の列強国でさえ、辺境に行けばこの程度の文化・知識レベルなのだ。 (――――いや、魔法や魔獣が存在する以上、我々が知らないだけで魔王とやらも実在しているのかもしれないが…) ふと、そんな厭すぎる想像が浮かび上がり、ルーキンは頭痛を堪えるようにこめかみを指で揉み解す。 実際、妖精や魔獣などの御伽噺のような存在が堂々と闊歩する世界であるだけに、一概に荒唐無稽な流言とも言い切れないのだ。 彼は座席にもたれかかり、深い溜息を吐いた。 懐から紙巻き煙草を取り出し、火を点けながら車窓から見える異世界の風景を何となしに眺める。 この街に拠点を構えてから既に4日。本国に移送するのも今日のグループが最後になる。 数日中には次の任地について通達があるだろう。 手元の鞄から書類を挟み込んだバインダーを取り出し、表紙を1枚めくる。 そこにはびっしりと隙間なく人名が羅列されており、既に大部分が二重線で消されている。 「今日の7人で最後、か。将校2名に……鍛冶師?そんな者まで魔術師か」 「後でそれ、私にも見せてもらえますか」 「すぐに直に見ることになる。そこ、左折だ」 運転手に指示を出しつつ、さらに書類を一枚めくる。 2枚目以降は魔術師一人ひとりについての詳細な情報だ。 降伏した都市行政機関から吸い上げた情報がそこに記載されている。 (ふむ…国家規模で魔術師を管理しているだけあって徹底してるな) 軍からの投降者に関しては情報の無い者もいるが、リンゼン出身者に関しては家族構成・履歴に至るまで詳細な情報が書き込まれている。 それを流し読みつつ、ルーキンは目的地への到着を待った。 市街の中心に舗装された街道を曲がり、駐留部隊の司令部が置かれている旧市庁舎に向かう。 小都市の割には随分と立派な庁舎は遠目にもすぐにわかる。 庁舎前のコンコースには6台程のZIS5トラックとBA27-M装甲車が3台停車している。 臨時に設けられた駐車場に車を止め、運転手を務めていたパーシャ・コクンコ保安中尉とともに車から降り立ったルーキンを、大尉の階級章をつけたNKVD士官が出迎えた。 リンデンに駐留する国内軍旅団分遣隊の将校で、任務の都合上こちらに何度も顔を出しているルーキンとは顔見知りだ。 「ああ…ちょうどよかった。少佐殿、実はいま本国から派遣されてきたモスクワ本部の大佐が施設を視察中でして」 ほっとしたような表情で告げる大尉に、ルーキンは微かに眉を顰める。 「所属はどちらに?」 「……3課です」 ルーキンは心底嫌そうに表情を歪めた。 ルーキン自身が所属している国家保安総局第3課はNKVDの対諜活動を所掌する部門の中でも最大の規模を誇る部局であり、抱える人員も膨大だ。 その職域・権能は非常に多岐にわたる。そこは対内保安を司る部局であり、その守備範囲には外国人・外国人ビジネス駐在員・各国大使館及び大使館員の身辺調査、国外に逃亡したソ連国籍保持者や収容所脱走者の追跡・捕縛、ブラックマーケットの手入れ、そしてソ連領内に潜伏する敵国工作員や反体制主義者の摘発が含まれる。 元々がモスクワ勤務のルーキンからすれば自身の古巣であり、実際、親しい同僚だっている。 が、本部の3課に所属する大佐クラスと聞くと、思い浮かぶのはロクでもない連中ばかりだ。 そこはベリヤの懐刀にしてグルジア共産党時代からの相棒であるフセヴォロド・メルクーロフの膝元であり、その幹部クラスは尽くベリヤの忠実な子飼いばかりだ。 ルーキンは決してベリヤを無能とは思っていないし、その配下の連中にしたところで大概は情報官・工作担当官として相応の能力を持っている。 が、その人間性に関しては毛ほども尊敬はしていない。 課内では公然の秘密として扱われているベリヤのおぞましい性的嗜好云々に至っては触れたくもない。 「……で、こちらに来ているのは誰なんだ?」 「グレナジー・クラシュキン大佐です」 後ろを振り返り、パーシャを見ると、苦い薬を飲んだような顔をしていた。 嫌な予感はよく当たる。先ほど思い浮かべた能力はあるロクデナシの一人だ。 「車で待っていましょうか?」 「貴様、ふざけるなよ」 歯をむき出して睨みつけるとパーシャは力なく肩を落とした。 ふん、と面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、大尉に向き直る。 「今は館内を回ってるのか?」 「いえ、旅団長と応接室でお話中です」 「よし。いらん口を挟まれる前に、さっさと仕事を終わらせるぞ。パーシャ、来い」 足早に館内に向かうルーキンを、パーシャが慌てて追う。 目的の場所に向かって歩きながら、ルーキンは先ほど車内で見ていたバインダーを取り出す。 (最初の一人は……女か) 面倒が起きる前にさっさと終わらせたほうがいい。 ルーキンは無言で歩みを早めた。 書類には戦地で撮影したらしいモノクロの顔写真とともに、魔術師の情報が書き込まれている。 最初一枚に書かれていたのは、憔悴しているものの育ちの良さそうな雰囲気のブルネットの女性将校、氏名欄にはクラリッサ・クローデンと書かれていた。 重厚な木製の扉を開けて入室してきた異世界人将校の姿に、クラリッサは反射的に身をこわばらせた。 守備隊の屯所を接収した臨時の捕虜収容所から引き出され、政庁に連れてこられてから、かれこれ半刻近く。 緊張と不安で気が参りかけていたところでの来客である。 入室してきたのは二人組だった。 ひとりは中肉中背の、どこか怜悧な雰囲気を身に纏った長身の将校。続いて入ってきたのは西方の騎馬民族にも似た彫りの浅い顔立ちの男で、こちらは先に入ってきた将校の部下だろう。クラリッサに細い目で軽く一瞥をくれただけで、そのままドアの傍らで休めの姿勢で待機する。 「待たせたようで済まないね、クラリッサ・クローデン大尉。」 笑みこそ浮かべていないものの至極穏やかな調子でそういうと、将校は簡素な木組みの机を間に挟んだクラリッサの対面の椅子に腰を下ろした。 「まずは自己紹介をさせてもらおうか。私はユーリー・ルーキン少佐、そちらに立っているのは部下のコクンコ中尉だ。…突然呼び立ててすまないね。お茶はいるかな?珈琲でも良いが」 「……結構だ」 微かに戸惑った様子でクラリッサが答えると、ルーキンはやれやれといったふうに肩を大袈裟に竦めた。 「私の勧めを受け入れたら自分の弱みになる、などと思っているならそれはとんだ勘違いだぞ?……まぁ、君の立場からすれば戸惑うのも無理のないことか」 最後の方はひとりごちるように呟くルーキンに、クラリッサは困惑することしきりだった。 困惑の原因はソ連の捕虜に対する扱いにある。 まず、この世界において、前世界におけるハーグ条約のような戦争捕虜の取扱いに関する明文化された条約は存在しない。 捕虜の取り扱いは各々の国家・文明圏によってまちまちであり、大概の場合、それは人道などというものからはかけ離れたものになる。 例えばモラヴィア軍の場合、投降してきたロシア人捕虜に関しては傷病兵は殆どがその場で処刑され、健常なものは奴隷として使い潰されるのが当たり前だ。 これはモラヴィアからすれば、ソ連自体が自国の手で召び出した被召喚物にすぎず、対等な国家とは認めていないからでもある。 いわんやロシア人など自分たちが新たに所有するべき土地を【不当に占拠している】蛮族でしかない。例外は将校だが、こちらも情報源としての役割が済めば待っているのは死だ。 実際、転移直後のレニングラード・沿バルト攻防戦において、占領下に置いた都市でモラヴィア魔道軍が振るった蛮行の数々はロシア人をして顔色をなくす程に凄惨なものだった。 ではモラヴィア以外の国はどうか? これがもし、同一の文化・文明圏の国同士であれば、捕虜の待遇や交換について協定を定めている国も一部にはある。 例えばネウストリアを中心とした精霊神教国などがそれだ。 しかし、そのネウストリアであっても、協定を結んでいない国や邪教蔓延るモラヴィア軍が相手では捕虜の扱いも過酷なものになることが多い。 ことが宗教問題でもあるだけに、大陸各国を巻き込んだ大規模な条約などなかなか結べるものでもないのだ。 こういった事情から、モラヴィア軍人にとって、投降というのは【死よりはマシ】という程度の行為であり、クラリッサにしたところで最悪蛮人の慰みものになったあげく殺されるのがオチだろうと半ば考えていたほどだ。 むろん、そのときには自身の持てる力を駆使して最後まで抵抗するつもりだった。 だが、実際にはどうか。拘束されてこそいるものの、食事は一日三度供され、恐れていた過酷な拷問もない。そして、ある日突然政庁に連れてこられたかと思えば、この待遇である。 寝返りでも促されているのだろうか?だが、たかが一大尉にそこまでするものなのか。 ソ連側の意図が読めず、押し黙って様子を伺うクラリッサに、ルーキンは微かに口の端に苦笑めいたものを浮かべた。 「君を呼んだのはほかでもない。ひとつ提案したいことがあってね」 そういうと、一枚の紙をクラリッサの前に滑らせる。 「君たちの国の言葉に翻訳してあるから読めるだろう。……何と言うか…通訳がいらんのは助かるが、こういうときは少々不便に感じるな」 召喚時の魔術の影響か、話し言葉が自動的に翻訳されてしまうために、会話する上での意思疎通には問題はない。 だが、ヒヤリングは問題なくとも文章の読解にはこの恩恵がないらしく、占領地の軍事・行政を掌握する際の大きな障害となっていた。 モラヴィア王国との最初の接触から未だ二月足らず。通訳の育成はネウストリアの支援のもとで行われているものの、未だ実用に耐え得るものではなく、現状ではモラヴィア側の書物の解読には現地人を徴用して行わせている状態なのだ。 加えて言うなら、読み解くのが高度な技術資料―――魔術書ともなると現状では完全にお手上げである。 モノがモノだけに、こればかりはネウストリアの人間に任せられるものでもなく、ソ連としてはモラヴィア占領地域で狩り出している魔術師を自国に協力者として取り込む必要があった。 そして、今回の面談はまさにその問題に直結したものだった。 紙面に書かれた文字を読み進めていくうちに、困惑に彩られていたクラリッサの表情が冷ややかなものに変わっていく。 やがて、読み終えたクラリッサは机に紙を置くとルーキンを正面から睨みつけた。 「ふざけないでもらおう。故国を裏切るなど、万に一つもありえぬことだ」 吐き捨てるように言う。それは誓約書だった。党への忠誠と人民への奉仕を誓いソ連邦に帰化するための。 クラリッサの反応は予想済みだったのか、ルーキンは気分を害した様子もなく、ただ肩を竦めた。 「立派な心がけだ」 それだけではなく、クラリッサを讃えるかのように笑みさえ浮かべた。 今度こそ完全に混乱したクラリッサの表情の変化を見ながら、ルーキンは「失礼」と一言ことわると懐から紙巻き煙草を取り出して咥え、マッチで火をつけた。 吐き出される紫煙が鼻についたのか、クラリッサは微かに眉を顰める。 ルーキンはまるで世間話でもするかのように語りだした。 「今のはあくまで提案だ。強制はしない。が、申し出を受ける受けないに関わらず、君はこの後ソヴィエト本国に移送されることになる。きみの祖国への忠誠心は賞賛されてしかるべきものだが、君自身のためにもこの提案は受けておくべきだと、私は思うよ」 ルーキンは生粋の防諜将校らしい相手の内面までを見透かそうとするような目でクラリッサをじっと見る。 恫喝されたわけでもないというのに、クラリッサは気圧されたように押黙った。 「ここに来るまで、君が何を警戒していたかは大体想像がつく。女性軍人が捕虜になって、真っ先に考えることだろう。実際、君の泣き叫ぶ姿に快感を覚えるような連中もここにはいる」 「……脅しか?」 「いや、案じているだけだ。君の立ち居振る舞いを見させてもらったが、拷問などに対して訓練を受けているようには見えなかったのでね」 拷問、という言葉にクラリッサの顔から血の気が引く。 「…まぁ、訓練など大した問題ではないがね。していようがいまいが、結局のところ人間は継続して与えられる苦痛には耐えられるものじゃない。そこに至る経過が異なるだけで、君が選びとることの出来る選択肢は一つしかないんだ。……申し訳ないがね」 そういうと、ルーキンは誓約書を机の上に置いたまま、席から立ち上がった。 顔を青くしながらも必死にルーキンを睨みつけるクラリッサに、彼女の抵抗心を打ち砕く言葉を放った。 「既に、我が軍はモラヴィア東部の州都ブルーノに手をかけつつある」 「――――――な…」 クラリッサは完全に絶句した。 東部属州の州都ブルーノはモラヴィア本国と東部をつなぐ交通の結節点であり、政軍の中枢。 それだけではない。モラヴィア王国の最も有力な穀倉地帯は西部から中西部にかけて集中しており、貿易都市ブルーノはそこから食糧を、また王都を含むモラヴィア中央から軽工業品や高度な魔術工芸品等をモラヴィア東部へと流し込む物流の大動脈であり、物資の集積拠点でもあるのだ。 ここを落とされた場合、士気の面での影響はもちろんのこと、兵站面においてもモラヴィア地方軍は深刻な危機に陥る この世界の軍は魔術を運用しているだけに、一部においては非常に先進的なドクトリン・軍編成を取っているが、その科学技術はあくまで近代以前のレベルに過ぎない。 兵器・弾薬・燃料等の補給面での負担は機械化されたソ連赤軍に比べれば格段に軽いと言えるが、それでも食料の供給を絶たれれば立ち枯れるほかない。 元々、大陸北限を占めるモラヴィア北東部はそこまで肥沃な土地というわけではないし、同時に東部から中部にかけて数多く存在する遺跡や魔術研究都市でのマナ乱獲が祟って砂漠化が一際進んだ土地柄でもあり、食糧生産高は王国領内で最も低い。 人口が少ないこともあって、元からの住民の食糧分程度は自給可能だが、対ソ戦に備えて集結中の地方軍の分はどうか? ブルーノの陥落。それはモラヴィア東部属州の失陥にほかならないのだ。 「馬鹿な!東グレキア平原の会戦から一週間…そんな短期間で―――」 その先は言葉にならない。 あの煉獄のような戦場で見た光景が、その先を言わせない。 不可能。本当に? モラヴィア魔道軍の精華を、まるで卵の殻を踏みくだくように粉砕してしまった鋼の大軍勢。 あの黙示録の軍勢が、モラヴィアの諸都市を焔に沈めていく光景が、まざまざと脳裏に浮かぶ。 「モラヴィア全土に赤旗が翻るまで、どれほどかかるものか……君にも祖国に守りたい人間がいるんじゃないか?そこもふくめて、今一度この申し出について考えてみてくれ。それがきみのためだ」 死人のように青ざめた顔色で顔を伏せるクラリッサ。その耳元で囁かれたルーキンの言葉は、悪魔の囁きのように彼女の意識に滑り込んで行った。 部屋を出たルーキンは直ぐに腕時計を確認する。 残り6人の魔術師との面談を今日中に終わらせた上で、報告をまとめなくてはならない。 捕虜の移送は国内軍分遣隊に引き継ぐ形になるだろう。 小脇に抱え持っていたバインダーの書類を1枚めくり、先ほどの女性将校の面談記録に自身のサインを書き込む。 そのまま次の部屋に向かおうとしたところで、後方から聞こえてくる規則正しい靴音が耳に入り、ルーキンは振り返った。 足音の主を見て、サッと姿勢を正して敬礼する。 ルーキンに少しばかり遅れて、パーシャも続くように敬礼した。 「順調かな、ルーキン」 一人のNKVD将校が微笑を浮かべながら歩いてきた。 何かの傷痕のようにも見える皺の深い顔に、やや薄くなりかけたくすんだ金髪。 歳は50代半ばということだが、顔つきだけ見れば70過ぎの老人のようにも見える。しかしその動きは矍鑠(かくしゃく)とし、軍人らしく隙のないものだ。 磨きあげられた軍靴。皺ひとつないプレスされた制服の襟元には大佐の階級章が縫い込まれている。 「君と顔を合わせるのも半月ぶりか。何か問題や心配事はあるかね?」 「いえ、万事順調です同志。既にこの地区の魔術師に関しては本日中にモスクワへの移送手続きを完了する見込みですので」 「ほぉ、それは素晴らしい。」 皺だらけの顔に浮かべた微笑をさらに深め、グレナジー・クラシュキン大佐は満足げにうなずいた。 クラシュキンは革命期以降20年以上のキャリアを持つ古参のNKVD幹部職員であり、同時に、NKVDにおける魔道技術収集のための特別セクションの責任将校でもある。 ベリヤの直属であり、彼が報告をあげるのは直属の上司であるベリヤか、ヨシフ・スターリンの二人だけだ。 ルーキンは先ほど書き込んでいたバインダーをクラシュキンに手渡す。 表紙の名簿と進行表をざっと眺めると、クラシュキンは破顔した。 「相変わらず仕事が早いな、ユーリー・ステパーノヴィッチ。この手の仕事では、やはり君が頭ひとつ抜けているようだ」 「恐れ入ります」 クラシュキンは笑みを大きくしてルーキンの肩を叩いて称揚するが、ルーキンの表情は今ひとつ晴れない。 見た目は知性的・理性的な大佐であり、保安将校としての能力も十二分にある。 が、同時に執念深く、許すことも忘れることも決してない男であり、必要とあればどんな汚れ仕事も眉ひとつ動かさずにやってのける冷酷さも合わせ持っている。 革命期における白軍将兵やその家族。粛清期における己の同僚、はては女子供にいたるまで、彼が手にかけた人間は数知れない。 「これなら次の任務にも期待が持てそうだ」 そういってクラシュキンは親指を立てるとくいっと後ろに向け、先程ルーキンが出てきたのとは、また別の一室を指差した。 「そこまで付き合え。込み入った話になる。――ああ、来るのは君だけでいい」 ルーキンは後ろを振り返り、、パーシャに先に行けと言うとクラシュキンに従った。 木製の扉を開けて部屋に入る。 先ほどの面談に使用した部屋より一回り大きなそこは応接室か何かのようで、設えてある家具なども見たところではそこそこ値の張りそうな物が揃っていた。 うち一つのソファにクラシュキンは無遠慮に腰を下ろし、顎をしゃくってルーキンにも座るように無言で促す。 ルーキンが無言で従うと、クラシュキンはおもむろに口を開いた。 「さてルーキン。お互い忙しい身だ。下らんお喋りはなしにして、早速本題に入るぞ」 ルーキンにしてもそれは望むところである。 「まず、今後についてだが、君と君のグループは今後しばらく私の直属として動いてもらうことになる。君を我が3課きっての防諜将校と見込んでの抜擢だ」 うれしかろう?とでもいいたげな口調で話すクラシュキンに、ルーキンは内心でげんなりしながらも、表情は何とか取り繕って「光栄です」と答えた。 ルーキンの内心を見透かしたように、薄笑いを浮かべるクラシュキンだったが、直ぐに笑みを消すと手元のマニラフォルダから何枚かの書類を取り出した。 それを枚数を確認するようにパラパラと捲りつつ、クラシュキンは話し始めた。 「…今から二日前になるがな。ブルーノへの接近路、南西200キロの地点に展開していた西部軍の師団が奇妙な集団に襲われ、壊乱した」 「―――奇妙、ですか」 「ああ。こちらの哨戒網・歩哨線をどうやってか擦り抜けて、193師団の宿営地を急襲されたそうだ。混戦になって僅か数時間の戦闘の後、士気崩壊を起こして師団は潰走した」 「それは……」 尋常な事態ではない。師団規模の赤軍部隊が潰走するなど、クトゥーゾフ作戦発動以降ではこれが初めてのはずだ。 まして小隊・中隊程度ならいざ知らず、大規模な会戦があったわけでもないというのに師団規模の軍が数時間で潰走するなど聞いたこともない。 「士気崩壊を起こして、と言われましたが」 「ああ、混乱の中で師団司令部が襲われた。師団長以下、司令部は全滅。加えて、襲ってきた相手が問題だった」 「相手、ですか」 ルーキンは内心で首を傾げた。説明の内容が断片的過ぎて、現地で何が起きたのかがさっぱり掴めない。 また、今ひとつ要領を得ないクラシュキンの話し方もひっかかる。 幾つもの疑問が脳裏を渦巻くが、ややあってルーキンは最初の疑問を口にした。 「モラヴィアの魔道軍でしょうか」 「かもな。だが、少なくとも人間ではない」 「どういうことでしょう」 クラシュキンは口の端を微かに釣り上げて答えた。 「死体だよ」 「は?」 ルーキンはあんぐりと口を開けて固まった。 「死霊魔術……ネクロマンシーというそうだがな。」 そこで言葉を切ると、クラシュキンは捲っていた書類をまたマニラフォルダに戻し、ルーキンに放って寄越した。 「まずはそいつを読め。話の続きはそれからだ」 それまで大佐の顔に張り付いていたニヤついた笑みは、いつの間にか消えていた。
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950 名前:reden 投稿日:2007/01/02(火) 17 06 05 [ b6zK/Sj2 ] 朱き帝國第02話 新星暦351年 青竜月13日 正午 モラヴィア王国 王都キュリロス 宮城前広場。 晴れ渡った青空に、陽光が煌いていた。 (まるで我らの未来を祝福しているようではないか) 広場の端に設けられた高官用の観覧席で、モラヴィア王国宰相アルベルト・ハーロウ伯爵導師は眩しげに空を仰ぎながら、ふと、そんな事を考え、次いで自分が思いついたセリフの余りの陳腐さに、軽く肩を竦めた。 「やれやれ。私も随分浮かれてるらしい」 しかしまあ、これから行われんとしている魔術の壮大さを思えば無理も無い。 この『救世』計画には国家予算の2割がほぼ毎年投じられ、さらに宮廷魔術師団が抱える導師級魔術師の半数が参加しているのだ。 そして軍部からも…… 「国防相。既に顕現予想点へ向けての戦力配置は済んでいるのかね?」 傍らの席に掛けている国防相のロイター元帥に尋ねる。 僅かに灰色の混じった黒髪を持つ壮年の元帥は、宰相の問いかけに力強く答えた。 「はい。既に訓練名目で東部に移動していた第3機鎧兵団が、支援の為の飛竜騎士団・歩兵部隊とともに展開を完了しております。異界の転移後には、まず小規模の調査隊が、その後発としてこれらの隊が現地への進駐を行います」 「また随分と奮発したな」 951 名前:reden 投稿日:2007/01/02(火) 17 06 57 [ b6zK/Sj2 ] ハーロウは驚いた。 機鎧兵団は主に機鎧兵科……ゴーレムやキメラなどの魔法生物を運用する創命魔術師によって編成された部隊であり、王国軍の中でも有数の精鋭部隊だ。ちなみに第3兵団は3個機鎧連隊で編成され、それぞれに魔術師30名と彼らが操作する600体のキメラ、司令部付の護衛部隊が所属している。 「実の所、これはエッカート導師の強い要請でして」 「ヴェンツェルの?」 「ええ。顕現の際、万一、従属魔法が発動しなかった場合の保険です。転移した大地に、もし何らかの国家が存在した場合、我々の進駐に対して妨害が予想されますので」 もちろん陛下の内諾は頂いております……とロイターは続けた。 「それと、農務相からひとつ頼まれましてね。マナ抽出後の新規開墾に向けて専従奴隷を確保しておく必要があります」 「あぁ……」 それで納得がいった。 マナの減少に伴う農地の砂漠化によってこれまでにかなりの耕作地帯が駄目になっている。 まあ砂漠化や森林破壊に関しては、今回の計画が完遂すれば直ぐに解決するのだが、農地の開墾はまた一からやり直さねばならない。その為には人手が必要というわけだ。 ちなみに専従奴隷というのは、魔術を用いてモラヴィア人への抵抗意識を奪い、特定の単純作業のみ行うように条件付けが施された奴隷のことだ。 これは秘蹟魔道を伝えるモラヴィア王国独自の魔術で、奴隷の反乱を防止するという点で非常に使い勝手が良かった。そしてこの魔術を施された奴隷達(素材となる人間は、主に他国との奴隷貿易や戦争によって得る)は公共事業や農作業で大きな力となり、モラヴィアの諸産業に貢献している。 「とはいえ、これはほんの第一歩に過ぎません」 「確かに」 ハーロウは頷いた。 952 名前:reden 投稿日:2007/01/02(火) 17 07 44 [ b6zK/Sj2 ] そうだ。異界の地を召喚するというのは計画の、ほんの第一段階(最も、これが一番大変な作業なのだが)に過ぎない。呼び出した大地にはマナを吸引するための装置を設置する必要がある。 そこからマナを吸出し、モラヴィアの国土に還元して、漸く計画は完遂するのだ。 ちょうどその時、計画責任者のヴェンツェル子爵導師が空中回廊の階段を下りてくるのが見えた。 それを見ながら、ハーロウは誰に聞かせるともなしに呟く。 「そう、これは世紀の一歩だ」 王国の貴顕が顔を揃える中。 建国以来の大魔術が、これより始まろうとしていた。 新星暦351年 モラヴィア王国 王都キュリロス 青竜月13日 第13刻 「おっ!エリカじゃないか!お勤めご苦労さん」 行商人の露店や旅芸人の見物客で賑わうアルトリート中央通り。 宮城での夜勤を終え、あちこち道草を食いながらも家路に着こうとしていたエリカ・エレットは、後ろから大声で呼びかけられて思わず飛び上がった。 「っきゃ!?……あ、あんた!いきなり何て大声出すのよ。危ないじゃないの!」 みっともない悲鳴を上げてしまった恥ずかしさも相俟ってか、剣呑な口調で、声をかけてきた陽気そうな青年…リロイ・ハーツマンに詰め寄る。 「おいおいなんだよ、ちょっとした親愛の表現じゃないか」 悪びれた風も無く、しれっと言い返すリロイにエリカはますます口を尖らせた。 この男。エリカが田舎から王都にやって来た時に宿で知り合ったのだが、これまでにまともに働いているところなど見たことが無い。 「こちとら夜勤明けで疲れてんだから、遊び人の相手してる暇なんて無いのよ」 「失敬な。俺だってちゃんと仕事くらいしてるぜ」 エリカはへぇっと馬鹿にしたように言った。 「行商人だっけ?お父さん一人に仕事押し付けて、自分はフラフラ遊び歩いてるだけじゃないの」 「フッ。社会勉強といってほしいね」 「……アホらし」 堂々と胸を張って駄目駄目な発言をするリロイに、エリカはがっくりと肩を落とした。 まったく、この男と話していると調子が狂う。 953 名前:reden 投稿日:2007/01/02(火) 17 08 31 [ b6zK/Sj2 ] 「しっかし、最近朝帰りが多いよなぁエリカちゃん」 「公衆の面前で誤解を招くような事言わないでよ」 そう言ってエリカはリロイの向う脛に軽く蹴りを入れた。 「ここ数日、魔道院の人たちが何か慌しくてねぇ。うちの師匠も何を手伝ってるのやら……宮内総務の人たちもソッチに行っちゃうもんだから、おかげでこっちは負担が増えて増えて…あぁ~…宮廷魔術師なんて給金も良いんだろうし、偶には弟子に何か奢ってくれたって罰は当たらないと思うのよね」 ブツクサと愚痴をこぼすエリカ。 別に彼女は宮城で正規に雇われている女官というわけではない。 本来は魔術師ギルドに務めるヒラの魔術師に過ぎないのだが。問題は彼女の師事している導師が宮廷魔術師団に籍を置いていることで、忙しい時などはこうして城まで出張っては便利屋使いされてしまうのだ。 まあ色んな…それこそ自分が見たこともない変わった魔術にお目にかかることも珍しくないので、これはこれで満足しているのだけれども。 「そーゆーわけで、アンタと付き合ってる暇があったら帰って休みたいの。お分かり?」 「……へ~い」 ニッコリと青筋と共に浮かべた笑顔に、リロイは顔を引き攣らせて引き下がった。 まったく。この軽薄さがなければ…… エリカは溜息一つついて真っ直ぐ家路に着いた。 エリカの姿が人ごみの中に消えると、リロイは踵を返して人気の無い路地裏に入った。 そのまま暫く歩き、先程とは別の広い表通りに出ると、直ぐに近くにあった宿屋に入り込んだ。 「ただいま」 部屋に入る。そこには既に『父』が戻っていた。 「どうだった?」 「振られちゃった。……けど少し面白いこと聞いたな」 そう言ってリロイは口元に笑みを浮かべた。 宮廷魔術師が多忙なのはいつものことだが、それよりも魔道院と共同で動いているというのが気になる。 あのヒキコモリ連中が宮廷魔術師と組んで何をやる気なのだろう? 954 名前:reden 投稿日:2007/01/02(火) 17 09 15 [ b6zK/Sj2 ] 1941年6月22日深夜0時。 ソヴィエト連邦 首都モスクワ。 開け………蒼き月の門よ。 来たれ……異界のまれびとよ。 その力…その命…我らに齎すために。 豪奢な寝台の上でまどろんでいた男は、突然、弾かれたように跳ね起きた。 耳元で、何かが囁いたような気がしたのだ。 目を皿のようにして辺りを見回し、人の気配が無いのを知ると安堵の息を洩らした。 (……少しばかり、神経質になっているようだ) 男……ヨシフ・スターリンは額に滲んだ汗を拭い、寝具を纏ったままで近くに置かれているソファに腰を下ろした。 自らを『赤いボナパルト』などと称する思い上がった若造をはじめ、既に自分の足元を脅かす輩はあらかた始末し終えた。気に病む事など無いはずだった。 傍らのテーブルに置かれている皮革製のカバーに包まれた帳面を取る。 それはリストだった。これまでに自分が地獄に送り込んできた者たちの名が記されている。 なにか不安や恐怖に襲われたとき、彼はこの帳面を見る。別に罪悪感からそうしているわけではない。 「しかし、何なのだろうな。あの夢は…」 突然の悪寒とともに囁かれた、しゃがれた声。 頭の中に映し出された見知らぬ石造の街。空を飛んでいるのはまるで御伽噺の…… 「……疲れてるな…私も」 余りにも馬鹿馬鹿しい、子供じみた夢に。 赤い帝國の支配者は苦笑を洩らした。 それから軽くウォッカを呷ると、彼は再び床についた。 その後。彼は朝まで目覚めることは無かった。 しかし、その間に起きたことは、ある意味で彼が一笑に付した夢と密接に絡み合った超常的な変化を、彼の帝國に強要することになる。 物語は、恐らくはこの時を持って動き出したのである。
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495 :reden:2008/08/18(月) 02 52 00 ID .CwD6B5.0 朱き帝國第13話 新星暦351年 影竜月16日(1941年 7月23日) モラヴィア王国領グレキア半島西部 州都ブルーノ 緑命の広場 その日、モラヴィア王国東部の貿易都市ブルーノはかつてない喧騒の只中にあった。 今から30年ほど前に当時の領主の命によって造営され、以来、街のシンボルとして知られる市中央の広場には、大勢の群衆が詰め掛けていた。 群集たちの関心は、もっぱら広場に面じた大通りを行進する隊列に向けられていた。 一糸乱れぬ隊伍を組み、整然と行進する兵士たち。魔術師が着るようなローブと騎士が纏う鎧を掛け合わせたような、一風変わった軍衣。 モラヴィア魔道軍の正規軍装である。 彼らとともにキメラ、ストーンゴーレムといった『兵器群』が列を成して進んでゆく。 創命魔術師……王国の草創期には建国王に率いられ、一兵団に満たぬ戦力で当時大陸北部に割拠した名だたる大国を次々に滅ぼしていったと伝えられる。 紛れもなくモラヴィアが世界に誇る魔道軍の精華であり、平民、貴族問わずモラヴィア人にとっての『力』の象徴といえた。 軍楽隊の演奏を背景に行進する兵団に、群集はあらん限りの歓声をもって応えた。 『続きまして、グレキア兵団!先頭は第41独立機鎧大隊の行進です!大隊指揮官はレドニツェ伯爵公子エンドレ閣下!』 鎮台司令部付広宣部の将校が謳いあげる紹介に、群集の歓声にはさらに熱がこもる。 本国常備軍たる魔道軍機鎧兵団に対して、『地方軍』ーーー有事に諸侯が有する陸兵を各鎮台が抽出して編成する郷土兵団ーーーが有する機鎧科部隊は、数こそ少ないもの の地元民にとってはより身近な存在といえる。 特に『機鎧科』部隊ともなれば、地方軍の中でも有力な貴族・騎士の子女、将来性豊かな魔術師達が所属しており、地元の女子供にとっては憧れの的であった。 熱狂する群集。 勇壮な軍楽と行進でそれに応える将兵。 人々は、なに一つ疑っていなかった。 東に突如出現した蛮族の国。 彼らが送り出そうとしている精兵たちは必ずや祖国の敵を討ち滅ぼし、モラヴィアに更なる繁栄を齎してくれるだろうと。 ……しかし、それらの熱狂とは全く無縁の人々もブルーノにはいた。 「……見事なものだ。我が地方軍に魔道軍機鎧兵団2個。さらに飛兵軍3個騎士団!これほどの戦力を投じるのだ。生半な戦果では本国も納得すまいな?」 窓の外の行進風景を眺めつつ、グレキア鎮台長官、アンスヘルム・フィードラ魔道中将は満足げに口元を緩ませて言った。 オークとでも張り合えそうなほどの胴回りを、これまた彼以外には着れそうにないサイズの軍礼装に包んでいる。 傍らに立つ第5機鎧兵団長ゲルベルト・ベーム少将は、中将が笑う度に大げさにゆれる腹を見て『こいつを見た後じゃ肉類が食えそうにないな』などと場違いな感想を抱きつ つ、表面上はしかめつらしい表情で「微力を尽くします」と答えた。 グレキア鎮台司令部。その石造りの建物は市中央の大通りに面じて建っており、その3階に設けられた会議室は現在行われているパレードを見物するには最高の場所といえた 。もっとも、実際にその壮景を満喫していた人間は僅かだったが…… その数少ない一人、フィードラ中将は窓から振り返り、居並ぶ将校達に向けて機嫌良さそうに話し始めた。 「さて諸君。知ってのとおり、本国司令部の命令により、我が鎮台は鎮定軍の先鋒としてグレキア悌団に編成される。諸侯軍の戦力化が済み次第、我々は万全の体制を持って 蛮族鎮定に乗り出すのだ。その主戦場は東グレキア平原である」 496 :reden:2008/08/18(月) 02 54 44 ID .CwD6B5.0 フィードラは会議室中央の机に歩み寄り、そこに広げられたグレキア半島の精巧な地図の一点を指差した。 地図に描かれているのはグレキア半島東半分の精巧な図、そしてそこから更に東……新たに出現したソヴィエト連邦の、あまり正確とは言い難い図だった。それでも、ある程 度の位置関係や等高線もしっかり描かれている。レニングラード侵攻時に第3機鎧兵団が持ち帰った『戦利品』のひとつである地図を複写したものだ(原本は本国の司令部が 管理している)。 続いてフィードラは傍らに立つ将官……ベーム少将に目配せした。ベームは心得たように前に進み出ると具体的な作戦計画について話し始めた。 「主攻を担うのは本国軍の第5、第6機鎧兵団。これを王都からの増派を受けた第4飛兵軍が支援する。国境に陣取る蛮族を撃破し、奴らが言うところのレニングラード地方 、そこからラトヴィア中部を経て東プロシア地方に至る地域に進出することが目的となる。その後、マナ吸出のための大規模術式を施術し、救世計画が完遂されるまで同地域 を確保することが目的となる。詳しくは手元の資料を参照されたい。」 ベームの言葉をうけて、室内にざわめきが走った。 驚きの声を漏らしたのは者は何れも地方軍の佐官クラスの指揮官であり、逆に本国から派遣されてきている機鎧兵科、飛兵科の将校はある程度事情を知らされているのか表面 上冷静さを保っている。 彼らの驚きの対象はまず第一に目の前の見慣れない地図の存在だった。 グレキア半島の東端……本来なら外洋に面じているはずのそこには広大な陸地が描かれており、その全体図は彼らが暮らしている大陸の広さに匹敵する。 そしてそこに存在するという異界の国家『ソヴィエト連邦』。 作戦計画で侵攻が予定されている地域は連邦西部の一部地域に過ぎないものの、その広大さは大国の領土に匹敵する。 「質問は?」 ベームの問いに地方軍出身の将校が手を上げた。 「占領地を一定期間確保、とありますがこの具体的な期間は?」 「最大で4ヶ月程度…それが魔道院の試算だ。現地のマナの分布を走査し、術式の基点を絞り込むのに魔道院の派遣官を総動員したとして、その程度かかるらしい」 「大雑把な…信用できるのですか?」 ベームはただ肩をすくめた。 「これには補給の問題も絡んでくる。現地のマナで事足りる機鎧科はともかくとして、この広大な地域で飛兵・歩兵の活動を十分に担保しようと思えば膨大な糧秣が必要にな る。……現地調達もひとつの手ではあるが、それに頼り切るなど論外だ。かつてのグラゴール戦役で焦土戦に付き合わされた例を見るまでもなく、な」 答えたのはフィードラだった。 『肥え太ったオーク』という外見通り、戦場でまともに剣を振るえる男ではない。 実際軍に入営してある程度の地位に上るまではコネに頼りきってきた人物だ。だが、軍官僚として後方勤務に従事するようになってからはそれなりの実績を上げており、全く の無能というわけでもない。 「実際のところ、1ヶ月あれば、施術の前準備のみならば完遂できるというのが魔道院の分析だ。だが、その大前提としてこれらの地域を我々が抑えておく必要がある。流石 に当初の計画ほどの効果は望めんようだが……そもそも、ひとつの大陸に匹敵する地域を制圧するなど兵站面から言っても所詮無理な話なのだ。そして魔道院と軍部の綱引き の結果、このような計画に落ち着いたというわけだ」 中将の言葉を引き継ぐ形でベームは語り終えた。一同を見渡すと、幾人かの幕僚の顔が引き攣っている。 政治といってしまえばそれまでだが、『泥縄にも程があるだろう』、という表情だ。 そもそも、召喚儀式自体がマナを含んだ異界の『土地のみ』を呼び出すために行われたのだ。 偶々、召喚した土地に異界人の国があり、それが脅威とするに足る軍事力を有していたために今の状況に至っている。 このような状況で急遽立案された作戦に長期的な視点など求めるのも馬鹿らしい。馬鹿らしいのだが、軍上層部もこの計画には片足を突っ込んでいただけに大っぴらに批判す るわけにも行かないのがベームの辛いところでもある。 続いて別の方向から手が上がる。 「作戦は、まぁ良いとして、肝心の占領部隊が集まりきっていないようだが?」 497 :reden:2008/08/18(月) 02 55 26 ID .CwD6B5.0 「悌団の集結状況ですが、やはり歩兵………戦列兵団が遅れています。動員兵の編入作業が予定より遅れたために、戦力化のための訓練スケジュールを消化し切れておりませ ん」 今度は本国軍の将官から質問が飛び、それに対して鎮台司令部の動員課長を務める大佐が答えを述べた。 「原因は?」 「単純に歩兵科の召集が予定より遅れているのです。輸送機関は魔道兵科に優先的に割り当てられておりますし、元々、歩兵科は移動ひとつとっても相当な時間を要します」 「だが事前計画でもそのあたりは考慮していたのではなかったか?」 「『メトディオス』は元々、ネウストリア帝國侵攻を睨んだ計画でした。ここで用いられる予定の軍は南部国境悌団……所属する兵団は半数が完全充足状態に置かれています 」 「…………」 モラヴィアには大型のゴーレムを用いた輸送機関が存在する。 主要都市間に整備された路線を運行するそれは、ソ連における鉄道に近いものだ。 モラヴィアの動員計画はこの輸送網を利用して移動に時間のかかる歩兵戦力を迅速に集結させることを明記している。 だが、実際の輸送力は大型トラックに毛が生えた程度のものであり、各地に分散した万単位の歩兵を集結させるには不足していた。 また、キメラ程ではないにせよゴーレムの運用には多くのマナを必要とする。 実際、ゴーレム輸送網の難点は計画立案段階にも取りざたされており、これに対してモラヴィア参謀本部は仮想敵たるネウストリアとの国境近辺に配備されている師団を完全 充足体制に置き、尚且つ機動力に優れた機鎧兵団、飛竜騎士団を南部に重点的に配備することで解決しようとした。 これならば仮にネウストリア常備軍に先手を取られることになっても、『総軍』の編成が終わるまで国境で帝國軍を釘付けにできる。 ……しかし、現在の主敵は南の帝國ではなく『北』のソヴィエト連邦である。 救世計画以前には外洋に面じていた大陸北東部の端。そんな所から数十万の陸兵が大挙して押し寄せてくるなど、当時の参謀本部は全く予想していなかった。できるわけもな い。 既に動員計画『メトディオス』の発令に伴い、モラヴィア王国の各州では地方軍の動員が開始されていた。 これは各地の諸侯が管轄する連隊区より歩兵大隊、魔道小隊を抽出し、戦時計画に基づいて『旅団』、さらに王国軍における戦略単位である『兵団』を編成するというものだ 。 現在は、動員の第1段階である『第1次動員』ーーー予備役の歩兵(専従奴隷を含まない正規兵部隊)予備・後備役の魔術兵、機鎧兵、その他技術兵科ーーーが召集されてお り、これらの戦力は、戦時編成兵団の骨格として、あるいは常備兵団の補充に当てられることになる。これらの編入作業が一段落したところで後備役歩兵や専従奴隷を含めた 『第2次動員』が行われるのだ。 しかし現状において、異界軍との交戦に堪えることのできる戦力は国境を接するグレキア鎮台において2個機鎧兵団、2個戦列(歩兵)兵団……計3万程度でしかない。 しかも兵力の大多数を占めているのは、グレキア鎮台が抱えこんでいる歩兵部隊であり、それも教練中の動員兵を含めた数字である。 この時点で赤軍の本格的な攻勢にさらされれば、未だ編成途上にあるグレキア悌団は瞬く間に蹂躙されていたかもしれない。 だが現実には、突然の異世界転移と正体不明の国家による奇襲攻撃のショックから赤軍は未だに立ち直れておらず、STAVKAによる国境地帯の死守命令と相まって、両軍の間に は奇妙な膠着状態が訪れることになったのだ。
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147 :reden:2011/01/29(土) 22 16 50 ID x16FHqXQ0 朱き帝國第15話 1941年7月24日 ソヴィエト連邦 エレオノールたちを乗せた列車は北へ北へと進み、交通の要衝、キエフを通過しつつあった。 列車のスピードは徐々に落ちてきている。 赤軍の本格的な動員が開始されているため、いかな特別列車といえど(動員計画に合わせて組まれている)鉄道ダイヤを過度に乱すわけにはいかないからだ。 欧州の陸軍大国が有する動員システムはまさに精密機械のごとき緻密さであり、ひとたび動員令が発せられたならば国家のあらゆる機構がそのために動き出す。 軍事上最も恐れるべきは動員未了の時点で自軍が攻撃を受けることであり、逆に動員途上の敵を攻撃するのが最高の奇襲ともいえた。 そのため欧州の陸軍国は戦争となれば彼我の動員速度を競うことになる。 第1次大戦時、このシステムが最も完成していたのがフランス・ドイツであり、発令よりわずか3週間足らずで300万、400万の大軍を編成して前線に送り出す能力を持っていた。 無論、この膨大な軍を維持するために、ほぼ同数の後方要員が必要となる。当時の仏・独の人口は日本の半分程度であり、文字通り国家そのものが戦争に注力される仕組みがあった。 そして、これに対するロシアは広大な国土に兵力を分散し、なおかつ鉄道網の貧弱さから大きく後れを取っていた。 スターリンの号令の下、重工業化と軍の機動力向上を目指してきたソヴィエト・ロシアにあってもこの弱点は依然として存在する。 ソヴィエトの広大な国土そのものが迅速な戦力集中の妨げになるのだ。 今回のケースに救いがあるといえば、ドイツのポーランド侵攻に端を発した戦乱の影響で、赤軍自体が準動員体制に置かれていたことだろう。 ヒトラーへの配慮から欧州ロシア国境の軍は平時体制に置かれていたものの、後方の軍を迅速に前線に運ぶための体制は整っていた。 車窓から外を眺めるエレオノールの視界に、駅へ向かおうとしている狙撃兵連隊の行進風景が飛び込んできた。 何か汚らしい印象を受ける褐色の軍衣を纏った縦列が自分たちの列車と逆の方向に向かって進んでいく。 (……この動力付きの鉄馬車で軍を移送するのか) 先ほど通過した駅にはたくさんの列車……それも自分たちが乗っているような豪奢なものではなく、もっと無骨な作りをしたそれが延々と連なっていた。 この国の兵士たちは、駅に到着するやその貨車に押し込まれるように満載され、次々に発車していく。 彼女からみると、どうにも違和感が先に立つ光景である。 この世界の常識で考えれば、軍隊の移動手段は大きく分けて船舶か徒歩の何れかだ。 もちろん、西方の遊牧民族のように戦闘部隊から輜重に至るまでを騎馬兵によって統一している軍もあるし、国によっては独自の輸送手段を持っている場合がある。 秘跡魔道技術を保持するモラヴィア王国では大型のゴーレムに兵を積載して整備された街道を縦横に移動するというし。 精霊魔道に優れ、『帝國』として多種族……エルフ、ドワーフなど技術集団として優れた異種族たちを内包するネウストリアでは、飛空船や魔石動力船といった独自の技術がある。 エレオノールも職業上、そういった他国の技術については学んでいるが…… 「凄いもんですねぇ……あれ一両でどれだけの物資や兵を運べるんだか」 いつの間にか近くに来ていた部下の一人が呆れたように言う。 そう、要は物量なのだ。 これまでに通過してきた街々で見てきた鉄道車両……ソ連人が機関車と呼んでいるそれは調査団が目にしたものだけでも数十両になる。 当然、自分たちが見たのがこの国の保有総量ということはないだろう。 「……そうね」 148 :reden:2011/01/29(土) 22 17 41 ID x16FHqXQ0 ポツリと呟き、ぼんやりとした表情で車窓の外を眺めながら、その頭脳は目まぐるしく回転していた。 兎にも角にも、この未知の国家についての情報を得なくてはならない。 敵か、味方になり得るのか。政体、国力、軍事力…etc。 東大洋の魔力走査をするはずが、まさか外交使節の真似事をする羽目になるとは思いも寄らなかったが…何れにせよ、自分はこの『ソヴィエト連邦』なる国家と 接触した帝国で最初の人間なのだ。 (失敗は許されない……でも、逆にいえばこれは好機) 政治的なコネもなく、修練院のような高等教育機関を出ているわけでもない自分の経歴を省みれば、今後何か大きな功績でもない限りは出世は現職で頭打ちだろう。 遠からず地方の観察院支局に飛ばされ、鳴かず飛ばずの余生を送る……冗談ではない。 モラヴィア近在の大国との国交締結。これに大きく貢献することが出来れば、自身の未来にも大きな展望がひらけてくるのではないか? なにしろ、今のエレオノールの肩書きは暫定とはいえ使節団団長……本国の外務尚書府から正式なスタッフが送られてくるまでは帝国代表なのだ。 「腕が鳴るじゃない」 「は?なにか仰いました?使長殿」 不思議そうに問いかけてくる部下に「何でもないわよ」と返しつつ、エレオノールは前方……列車の向かう先、首都モスクワの方角を睨み据えていた。 7月25日 モスクワ モスクワ。分けてもクレムリンに勤務する高級官僚たちは須らく夜型人間であると言われる。 その理由は党組織の頂点に立つ指導者、ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリンの生活リズムに帰せられた。 スターリンは平時においては昼近くに起床し、その後郊外の別荘からクレムリンに赴き深夜まで執務に当たる。 その後、高官たちを集めて明け方近くまで晩餐に興じ、その後就寝する。 その為、各省庁の中堅以上の官僚たちはスターリンの生活リズムに合わせて勤務時間を調整せざるを得ない。 スターリンからの電話が鳴ったとき、省庁の担当者が既に帰宅していた、などという事態はあってはならないからだ。 また、ある程度以上……党書記や次官級の高官ともなると、この深夜勤務に加えてスターリンの晩餐に参加するという イベントが加わるため、そのスケジュールはまさに殺人的な様相を呈する。 後継者候補筆頭に数えられる娘婿アンドレイ・ジダーノフをはじめ、高官の多くが内臓器官に大なり小なり持病を抱えているのもむべなるかな、というべきだろう。 故に彼…ミハイル・エドムンドヴィッチ・メッシング保安少佐が、早朝に公用車のエムカでクレムリンに出仕したとき、高官用のジスが 駐車スペースに数多く止まっているのに違和感を覚えたものである。 (やけに物々しいな…) 車の数の多さも然ることながら、警戒にあたっている兵の数もこころなしか多い。 メッシングは、はて?と首を傾げた。 メッシングが属するNKVD国家保安総局第5課は主に対外諜報活動を担当する部署であり、『転移』によって最も大きな被害を受けた部署でもあった。 在外支局が所属課員諸共に消滅し、任務対象であるはずの仮想敵国も全てが消え去り、現在の彼らの主な任務は国内の対諜活動を担当する第3課のサポートが中心である。 具体的には新規連邦加盟国……たとえば旧バルト三国内に蠢動する民族過激派の摘発などだ。 転移直後のモラヴィア侵攻時にもこれら過激派による破壊工作等が行われ、バルト方面での反撃が遅れた要因の一つにはこれによる通信網の混乱が挙げられている。 転移以前はドイツから極秘に支援を受け、通信・インフラ等の破壊工作を行ってきた彼らの掃討を主に情報面でサポートする等、現状の5課は他の部局の従に回った役割が中心となっている。 メッシング自身、昨日まで出向という形で3課の庁舎に詰めきりだったのだ。 149 :reden:2011/01/29(土) 22 18 15 ID x16FHqXQ0 「全く。あの天変地異からこっち、踏んだり蹴ったりだな」 ぼやきつつ、敷地内の標識に従い車を進めていく。 ある程度進んだところで、ナガン・マシンピストルを腰に吊るしたモスクワNKVDクレムリン警備局の兵が手旗を振って車の誘導をはじめた。 警備兵の誘導に従い、メッシングはエムカをクレムリン武器庫の前に停めた。 クルマから降りたった彼をクレムリン警備局の少尉が出迎える。 「お待ちしておりました、同志少佐。これよりご案内します」 敬礼し、言葉少なに告げると、サッと踵を返す。 メッシングは少しばかり慌てて少尉に問いかけた。 「なにやら慌ただしいな。警備の数も心なしか多いようだし、こんな光景は『あの日』以来じゃないか?」 周りをそれとなく見廻しながらつぶやくメッシングに、少尉はそっけなく答えた。 「それについては答えられません。私が命じられているのはあなたを案内する事、それだけです」 メッシングは肩をすくめ、少尉の後について歩きだした。 (はてさて、一体全体何の呼び出しだ?) 努めて軽い気持ちでいようとするメッシングだが、気を抜くと悪い考えばかりが頭に浮かんでくる。 理由ひとつ告げずに早朝からの呼び出し。 NKVD国家保安総局(OGPU)という己の職場について良く知るだけに、こういった不意打ちには不安を掻き立てられる。 たとえ自身に疚しいところがないにしても、だ。 少尉の先導を受け、閣僚会館に入る。帝政時代はカザコフ館の名称で呼ばれていた豪奢な建物の2階。 ちょっとした講堂くらいの広さを持ったその一室には、ラウンジのように数組のソファとテーブルがしつらえられ、茶器も置かれている。 そこに一歩足を踏み入れたメッシングは、中に居た先客を見て、一瞬身を強ばらせた。 「M.E.メッシング少佐。出頭いたしました」 はじかれたように背筋を伸ばし、踵を打ちつけて敬礼する。 室内にいたのは外務人民委員部、そしてNKVDの高官らしい4人。そして彼らを前に3人の若い男達が緊張した面持ちで立っていた。 メッシングは案内役の少尉に促され、3人の若い男の横に並んで立つ。 自身と4メートルほどの距離を置いて向かい合う形となった高官連についてはすぐに名前が浮かんだ。 来客用のソファにゆったりと掛け、値踏みするようにこちらを見ているのは国家保安総局長であり、内務副人民委員を兼任するベリヤの懐刀、フセヴォロド・メルクーロフ。 秘密警察を統括する第3課の長を歴任し、大粛清末期にはエジョフ派の高官連に粛清の大鉈を振るったことでも知られる生粋のチェキストだ。 窓際に立ち、メッシングに顰めつらしい視線を向けているのは対外諜報活動を統括する第5課長のパーヴェル・フィーチン中将。 農業アカデミーの出身で、卒業後は出版社で編集業を営み、その後党に選抜されてNKVDの情報畑に足を踏み入れたという変り種である。 そして部屋の中央の執務机に腰掛けている小男。内務人民委員にして保安元帥。ラヴレンティ・ベリヤであった。 「ふむ、これで全員揃ったようだね。同志ベリヤ」 案内役の少尉が退室し、ドアが締まった所でタイミングを計ったように一人の高官が言った。思わずそちらに意識が向く。 眼鏡のレンズをハンカチーフで丁寧に拭いつつ呟いたのは、この場にいる高官で唯一軍の階級を持たない男。 外務人民委員ヴャチェスラフ・モロトフだった。 150 :reden:2011/01/29(土) 22 18 50 ID x16FHqXQ0 「ええ。早速本題に入りましょう」 ベリヤは頷くと、部下に目配せする。 心得たように、窓際に立っていたフィーチンが進み出で、一同に十数枚の紙を束ねた冊子を配り始めた。 高官達に、次いで自分たち下僚にまで手ずから配り始めるのを見て、メッシングを含め呼び出された男たちの顔に一瞬動揺の色が浮かぶ。 彼らの困惑を意に介するでもなく、さっさと書類を配り終えると、フィーチンは元いた窓際に戻って、そのまま休めの姿勢を取る。 「此処に呼んだのは他でもない。君らはNKVD、外務委員部、貿易委員部、そして大学機関における『その道』の専門家として、ある任務についてもらう」 まずはその書類を見たまえ、と促され、4人は配られた冊子をめくり始める。2ページ、3ページとめくった所で、ぎょっとしたように顔を上げる。 「何か質問はあるかね?」 面白がるように問うベリヤに、躊躇いながらもメッシングは口を開いた。 「同志ベリヤ。此処に書かれている外交使節というのは……」 「既にモスクワに向かっている。……折りを見て、可能なら君たちとも引き合わせたいが…そこは今後の交渉進捗によるな」 こともなげに言うベリヤに、一同は呆然とした面持ちで書類に再び視線を落とす。 その書類の表題にはこう書かれていた。 すなわち『対ネウストリア帝国外交工作要綱』と。
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108 :reden:2007/01/11(木) 23 18 13 ID b6zK/Sj20 朱き帝國第05話 1941年 6月22日 ソヴィエト連邦 首都モスクワ 日も中天に差しかかろうかという頃、ルビヤンカ丘の老朽ビル群の合間を縫うようにして、一台の黒塗りの車が走っていた。 「…では、昨夜の異変で被害をこうむったのはバルト海を航行中、あるいは沿岸の港に係留されていた艦艇全てということか、ヴィターリー」 揺れる車の後部座席で、外務人民委員ヴァチェスラフ・モロトフは報告書に目を通しながら傍らに座る補佐官に向かって呟いた。 「はい。……まるで出来の悪い娯楽小説でも読んでいるような気分です」 「それは私も同感だがね。これだけ状況証拠が揃っていてはな、夢や幻と片付けることも出来んよ」 困惑げに答える部下に、モロトフは苦笑した。 現在モスクワに居る政府高官の中で、恐らく最も多忙なのが彼…モロトフだった。 早朝から彼の元には、各国の在ソヴィエト大使館からの電話が引っ切り無しにかかってきている。 まあ、本国との通信が全く出来ないというのだから、情報を得たいと考えるのは至極当然の話ではあるのだが。 そんなわけで午前中のモロトフは各国大使との面談を連続してこなし続け、昼過ぎになって漸く落ち着いたところだった。 「この後は、海軍か。……全く、食事をゆっくり取る暇もないな」 実のところ、昨夜は一睡もしていない。 フゥッ…と疲れたように眼鏡の下の瞼を揉む。 首相の職を5月6日に離れて以来、モロトフは外務人民委員として外交事務を一手に引き受けていたが、同時に副首相としてのクレムリン内のポストも保っていた。 彼は一日の時間を二つの要職に分け、日中をナルコミンデル(外務省)で執務し、夜はクレムリンに赴いて仕事をするのが日課だったのだが、今日ばかりはそうも行かない。 副首相、すなわち人民委員会議副議長の職分には海軍への行政指導も含まれており、昨夜から続いている混乱に対して対応策を講じる必要があった。 そういった事情から、普段であればナルコミンデルに居るはずの時間帯に、彼はクレムリンに向かっていた。 109 :reden:2007/01/11(木) 23 18 52 ID b6zK/Sj20 クレムリン内に設けられた自分の(副首相としての)執務室に入ると、既にそこには海軍人民委員のニコライ・クズネツォフ提督が待っていた。 「待たせたようで済まないね、ニコライ・ゲラシモヴィッチ」 「いえ、然程待った訳ではありませんから」 「そりゃ良かった」 モロトフは笑うと、自分のコートを脱いで秘書官に手渡す。 そのまま下がろうとする秘書にコーヒーを二杯持ってくるように申し付けると、歳を感じさせない足取りで自分の椅子に腰掛けた。 クズネツォフにもソファに掛けるよう促す。 「バルチック艦隊とバルト商船団の生き残りはポリャルヌイに退避したのだったね」 互いに席に着くと、早速仕事の話に入った。 「はい。バルチック艦隊の健在艦・人員は一時的にゴロフコ提督の北方艦隊司令部の指揮下に入ります」 「まあ、距離的に順当だろうな。」 ポリャルヌイを根拠地とする北方艦隊はソヴィエトの北半分に展開する艦を統括しており、その担当海域の多くが北極海であることから水上艦艇よりも、むしろ潜水艦が多く所属している。 昨夜の異変で艦艇と人員の大半を失ったバルチック艦隊だが、北海に居た一部の艦艇は難を逃れており、これらはモスクワの命を受けた北方艦隊司令部の命令によってポリャルヌイに退避中だった。 「それで、船舶の被害集計は現状どうなっているかね?」 「未だ集計中ですが……とりあえず此方に暫定のデータが」 そう言ってクズネツォフは数字の羅列された一枚の紙を差し出した。 それを受け取って読み始めたモロトフは、内容を読み進むに連れて徐々に顔を青褪めさせていく。 「……予想できていたとはいえ、これは酷すぎるな。ほぼ全滅じゃないか。」 バルチック艦隊水上艦艇は文字通り一隻残らず全滅。 潜水艦に関しては、たまたま北海(北方艦隊管轄)に入り込んでいた艦が5、6隻助かったに過ぎない。 深夜ということもあり、港に停泊していた艦艇の乗員は、多くが基地内に移動していて消滅に巻き込まれている。 「乗員に関しても深刻ですが、バルト沿岸の海軍工廠も、海の消滅によって無用の長物と化しました。工作機械に関しては移転も出来るでしょうが、建物は無理です」 ……一体、再建には幾らかかるのか?特に人的な損失が凄まじい。 粛清の影響で、ただでさえ人材が払底しかかっているところにきて、この大量損失である。 下手をしなくとも、これは赤色海軍存亡の危機だ。 工廠の移転。他の軍港の拡張。人材の育成……ああ、その為には教育機関もレニングラードから移転しなくてはならない。 二人の、特に海軍提督であるクズネツォフの顔色は悪い。 「予算は下りるだろう」 モロトフは正直に言った。 「元通りに再建できるとは思わんでくれ。財務委員や軍需委員からも話を聞く必要があるだろうが……どちらにしろ、天文学的な予算が必要になる。そこまでの金を海軍に割くわけにはいかん。スターリン同志も、恐らくはそう仰るだろう」 110 :reden:2007/01/11(木) 23 19 32 ID b6zK/Sj20 「艦艇のやりくりが、かなり厳しくなりますが……」 クズネツォフとしては引き下がりたくは無かった。 本国艦隊が消滅し、その再建が行われないかも知れないなど、海軍軍人としては絶対に認めたくは無い。 だが、同時に自分の要求する予算が、絶対に通らない規模のものだという自覚もあった。 一個艦隊と、その人員の再建。レニングラードに存在する国内最大規模の海軍工廠の移転。海軍の全教育機関の移転。……それこそ戦時下の海軍国並の予算が必要になる。 (畜生め!!誰がこんなふざけた真似をしやがったんだ!!) 神か悪魔か。誰であろうと、クズネツォフには許せなかった。彼の海軍を滅茶苦茶にしたこの異常現象に、もし黒幕と呼べる者が居るのなら、自分の手で絞め殺してやりたいとすら思っていた。 1941年 6月22日 ソヴィエト連邦 レニングラード レニングラード市街の中央を貫くネフスキー大通り。 その出発点であり、位置的には冬宮の反対側にあたる場所に、そのビルディングはあった。 1812年のナポレオンに対するロシアの勝利を記念したアーチを中心に、両翼に分かれた形をとっている芸術的な建物。レニングラード軍管区、その総司令部ビルである。 「モスクワからの情報から判断するに、バルト方面も、状況はうちと似たり拠ったりか」 レニングラード軍管区司令部の本部ビル内。 その一室で、軍管区司令官のポポフ大将はモスクワから送られてきた各地の状況報告に目を通していた。 それによると、レニングラードを見舞った異変と似たようなことが、連邦各地からも報告されているらしい。 中央アジア、ザバイカル、オデッサ、の軍管区では国境を接していたはずの国……中国やトルコなど……が消滅し、代わりに海が出現。極東軍管区ではサハリンが消滅し、太平洋艦隊からの報告によると千島・日本列島も消え失せていたという。 そして西部特別軍管区では、ブレスト・リトフスク要塞内のブーケ川を挟んでドイツ側が消滅し、一夜にして広漠たる砂漠地帯が出現したらしい。 ちなみに、第4軍からの通報を受けて自ら車で駆けつけたパブロフ軍管区司令官は、眼前に延々と広がる砂の丘陵を見て絶句。その場で腰を抜かしたとか。 「参謀長、どう思うね?」 「……正直申しまして、何か超常的な現象に見舞われたとしか思えません」 軍管区参謀長のザハロフ中将は返答に困るというような様子で答えた。 昨夜未明に出現した陸地に関しては、既にレニングラード大学の学者が地質調査を行い、地表に生えている草花から、この陸地が一朝一夕のうちに地表に現れたものではないことを報告している。 根っからの唯物論者・科学信奉者である二人にとっては理解しがたいことだった。 現実問題として、フィンランド湾には昨夜まで“確かに海は存在していた”のだから。 「レニングラード大の調査班が出した報告書ですが……例の陸地から採取された植物はこれまでに発見されたことのない新種ばかりだそうです。……というより、既存種は全く見当たらないそうで。馬鹿馬鹿しい想像ではありますが、私にはまるで、連邦そのものが異世界にでも飛ばされてしまったような気さえ……」 そこまで言って、ザハロフは自分の妄想を振り払うように頭を振った。 「申し訳ありません同志司令官。…少しばかり疲れているようで」 「私も疲れとるよ。君の話が妄想とは思えないくらいにはね」 そう言ってポポフは力なく笑った。 その時、扉がノックされる。 入ってきたのはのレニングラード共産党第一書記のジダーノフ政治委員だった。 海軍担当政治局員・党中央委書記を兼任し、スターリン死後の後継者候補の一人にも数えられる有力者は、見るからに消耗した様子である。 「楽しそうだね。同志司令官、同志参謀長」 「これは……お疲れのようですな」 「私の話を聞けば、君も疲れると思うよ」 そう言って、ジダーノフは分厚い報告書をドン、と机の上に置いた。 111 :reden:2007/01/11(木) 23 20 15 ID b6zK/Sj20 「船舶関連の報告書だ。港の船舶は……まあ、これは見るまでもないだろうが……全滅。商船団はバルト海・北海の南に居たものが駄目になった。潜航中の潜水艦に関しては言うまでも無かろう」 「……酷いですな」 「まったく、先ほどクズネツォフ海軍委員と電話で話したが死にそうな声をしていたよ」 ジダーノフはそう言うと、適当なソファを見繕って、そこに大儀そうに腰掛けた。 「ふぅ……それで、例のステップの調査活動のほうは進んどるのかね?」 「大学の調査班から地質や植物相に関する報告が来ていますが」 「……君なぁ。私が言ったのは、あの未知の原野の先に何があるかって事だよ」 冗談めかして言うジダーノフ。その精神的なゆとりに半ば感心しつつポポフは答えた。 「そちらの調査は未だ。モスクワからの許可があれば、管区内の部隊を調査に遣ることも考えていますが」 「まぁ、それもそうだろうね」 然して期待していたわけでもないのだろう。 ジダーノフはそう言って軽く肩をすくめた。 実際、モスクワからの許可無しにそんなものを出すのは、かなり問題があった。 「それにしても、何なのだろうね。モスクワからの情報を聞いていると、まるで昨夜0時を境に連邦そのものが異世界にでも飛ばされてしまったみたいじゃないか」 「ははは……まさか」 「しかし、もしそうなら元の世界では我々が消えて大騒ぎになっているのでは?」 「違いない!」 大笑いする3人。 その時、外からなにやら歓声が聞こえてきた。 ザハロフが訝しげに窓に目を向ける。 「……なにやら外が騒がしいな」 「また市民が騒いでいるのだろう。まあ無理もないが」 そう言ってジダーノフはやれやれと言いたげに肩をすくめた。 いつもは鬱陶しい位に溌剌とした人物なのだが、やはり今日はいつもと比べると元気が無い。 どうやら昨夜から立て続けに起きた大異変の数々に、かなり精神が参っているらしい。……それでも冗談を忘れない辺り、なかなか図太いといえるが。 ポポフはそんな政治局員の姿に、微かに苦笑を洩らすと何か慰めの言葉をかけようかと口を開いた。 と、その時。 小さく、しかし確かに、ポポフの耳に爆発音が届いた。
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975 名前:reden 投稿日:2007/01/04(木) 14 04 55 [ b6zK/Sj2 ] 朱き帝國第03話 1941年6月21日・深夜。 ソヴィエト連邦 ミンスク。 西部特別軍管区司令官ドミトリー・パブロフ上級大将は、今から眠ろうかという所で、司令部からの呼び出しを受けた。 「何かあったのかね?」 まだ少年と呼んで良い歳の従兵に尋ねた。 彼の統括する西部特別軍管区(西部方面軍)は、ドイツと開戦した場合、赤軍の一番槍としてドイツ軍と対峙する事になる。 現時点でパブロフの指揮下には、4個軍、6個機械化軍団、1個空挺軍団からなる総兵力268万が配されていた。赤軍大粛清後に策定された方針によって、保守・整備を度外視してとりあえず数だけは揃えた各種装甲車両は、その稼働率にかなり深刻な問題を抱えてはいたものの、他国から見れば十分に脅威といえるだけの戦力を有していた。 しかし、『英国と交戦中のドイツが赤軍相手に二正面作戦などやるはずが無い』という実に真っ当な発想からくる思い込みによって、スターリンは各地に展開する軍に対してドイツ軍を刺激しないように厳命を発していた。 これでは万一ドイツが攻めてきたとき、この世界有数の陸戦兵力はドイツ軍によって、呈の良い射撃の標的にされかねないという危険があった。 パブロフはドイツ軍をなるだけ刺激しないように、それでいて万一開戦となった場合には精鋭揃いのドイツ軍に対して効果的な防戦を行わねばならないという非常に困難かつ不健康な役目を負わされていたのである。 「はい。軍管区司令部より、大至急閣下にお越しいただきたいと連絡が入っております。」 言われて、パブロフはハッとした。 「まさか……ドイツが攻めてきたのか!?」 「いえ。具体的に何があったとは聞いていません。ただ、第4軍より閣下の判断を仰ぐべき奇妙な事態が発生したとの無電が来ているのですが…その、どうも内容が要領を得ないらしく」 なんだそれは。パブロフは従兵の言葉遊びのような言い草に少し苛ついた。 叱責するべきかと思ったが、よく見れば従兵の方もなにやら困惑している節がある。 パブロフは溜息一つ吐いて立ち上がった。 「分かった。直ぐに行くから車の用意を頼む」 「ダー」 従兵はカッと踵を打ちつけると踵を返して部屋を出て行った。 従兵が消えたのを見届けると、パブロフは手早く身なりを整え、幾つかの書類を鞄に放り込んだ。 「第4軍から?……全く…コロプロフの奴は無電の一つもまともに送れんのか」 思わず、第4軍司令官に対する愚痴がもれる。 さっきの従兵の様子だとファシストどもが大挙して攻めて来たというわけではないようだ。 しかし奇妙…奇妙な事態とは……!はっきり言って報告文としての体裁すら成していない。 いったい、第4軍の報告が悪いのか、それとも通信を受け取ったウチの司令部の連中が怠慢なのか、はたまた先程の従兵が口下手なのか? 「まあ…行ってみれば分かるか」 呟いて、パブロフは部屋を後にした。 司令部に到着すると、そこはまるで魔女の大釜と化していた。 幕僚達は右往左往し、政治委員たちは混乱した様子で辺りに怒鳴り散らしている。 パブロフは一瞬唖然として、直ぐに周囲を一喝した。 「落ち着かんか!!」 石の壁がビリビリと震えそうなほどの大声に、辺りは一瞬虚を突かれたように静まり返った。 パブロフはその隙を見逃さずに参謀長に問いただした。 「何があったのだ?」 「ハッ。先程第4軍より無電が届きまして」 「それは聞いている。報告と呼ぶのもおこがましい意味不明な内容だったがな」 「……申し訳ありません。どうにも荒唐無稽な内容だったもので」 「どんな内容だろうが私に伝えるのが筋というものだろう。で、その電文は?」 「これです」 そう言って参謀長は一枚の紙片を手渡した。 パブロフはそれをひったくるように受け取るとその隅々に目を通していく。 「……」 読み始めて5秒後。 パブロフの表情が固まった。 976 名前:reden 投稿日:2007/01/04(木) 14 05 30 [ b6zK/Sj2 ] 1941年6月22日。深夜0時。 この瞬間。東欧から中央アジア、北東アジアにかけて突如、異常な濃霧が発生したと記録されている。 北半球の4分の一を霧が覆うという、地球規模の異常気象。 その時の気圧・気温は全くの正常であり、霧が発生するというのは理論上ありえないことだった。 そして夜が明けたとき。 ひとつの大国がこの世から姿を消した。 977 名前:reden 投稿日:2007/01/04(木) 14 06 50 [ b6zK/Sj2 ] 新星暦 351年 青竜月14日 早朝 レニングラード外港 帝政時代、ピョートル大帝によって建設されて以来。この港湾都市はロシア海軍にとって最大の拠点であり続けた。 その価値は帝政が倒れ、ソヴィエト社会主義共和国連邦(CCCP)と国名が変わって以降も変わることは無かった。 つい昨日までは。 港の埠頭。 北欧屈指の規模を誇る海港の玄関口で、2人の男が呆然と立ち尽くしていた。 1人は赤色海軍の制服を着た、見るからに屈強な男。 もう1人は小奇麗な背広を着込んだやや小太りな男。 2人はこの街でもひとかどの地位につく要人だったが、揃いも揃って虚ろな目を水平線の先…否…地平線の先に向けていた。 「同志ブレジネフ……」 軍服姿の男が、震える口調で言った。 「なにかね」 傍らに立つ政治局員が同じく虚ろな目でモゴモゴと小さく答えた。 「私は……夢でも見ているのか?」 震える手つきである方向を指差す。 そこには喫水線より下を地中に埋めさせたバルチック艦隊旗艦・戦艦マラートの姿があった。 いや、マラートだけではない。巡洋艦も、駆逐艦も、商船も、すべてが地中に喫水下を埋めていた。 より正確に表現するなら、喫水より下にあるべき『海』が無かった。 「そうだとしたら、随分とたちの悪い悪夢だよ」 ブレジネフは呻くように言った。 その異変に気付いたのは、マラート艦橋で当直についていた士官だった。 突然、辺りに霧が漂いだしたかと思うと、自分達の艦が停泊しているコトリン島・クロンシュタット軍港の外観が薄らぎ始め、やがて跡形も無く掻き消えてしまったのだ。 続いて足元に、地震でも起きたような揺らぎが奔った。 それも地上で感じるような…海上に停泊しているフネの中では絶対に有り得ないような揺れ方。 異変を感じて艦隊司令部に連絡しようにも、通信が全く繋がらない。 やがて港に停泊していた他の艦でも似たような混乱がおき、ある水兵が艦の喫水下に草木の生い茂る原野を見出したとき、混乱は最高潮に達した。このとき艦隊にいた最先任士官の判断で、この異常事態はレニングラードの軍管区司令部に報告された。もちろん報告されたほうも大混乱である。 978 名前:reden 投稿日:2007/01/04(木) 14 07 22 [ b6zK/Sj2 ] しかも間の悪いことに、ジューコフとティモシェンコに二人掛りで説得されたスターリンの指示により、『22日~23日に掛けてドイツ軍の奇襲が予想される』という警戒令が各軍管区の司令部宛に届けられたものだから、事態はさらに2転3転、正誤様々な情報が各地を駆け巡ることになる。 曰く、ドイツ軍の奇襲でコトリン島要塞が破壊された。バルチック艦隊が全滅した、云々……まんざら間違っている訳でもないところが実に性質が悪い。 コトリン島に存在する、あらゆる軍施設(バルチック艦隊司令部も含む)が通信途絶。クロンシュタットに停泊していた艦隊からは指示を求める緊急の無電が飛び交い、仕舞いにはレニングラードの行政・軍管区からモスクワまでを巻き込んだ大混乱が巻き起こった。 「私の艦隊が……」 軍服姿の男……異変が起きる前、所用でレニングラード市内に宿泊していたおかげでクロンシュタット基地諸共消滅せずに済んだバルチック艦隊司令長官は悲嘆に暮れる。 「………君の艦隊ではない。人民の艦隊だよ」 未だショックから立ち直れず、それでも一言つっこむブレジネフだった。 ……これはえらい事だぞ。ブレジネフは港の余りの惨状に吐き気すら覚えた。 今朝、何も食べてこなかったのは正解だったらしい。単純に食事を取っているような暇など無かっただけなのだが。 地中にめり込んで奇妙なオブジェと化してしまっている艦隊・商船団は、ソ連海軍・海運の船舶量を考えると発狂ものの事態といえるが、彼らには目の前の事態を認識するだけでも精一杯だった。 天変地異? 海底の隆起? 馬鹿な!もしそうなら目の前に広がる原野は一体なんだ?コトリン島は何処に消えた!? 目の前に広がる風景…まるでモンゴル辺りの草原でも見ているようだ。 既に、かつての海岸線周辺には物見遊山にやってきたらしいレニングラード市民による人だかりが出来つつある。 流石に自分達が今いるような港近辺は封鎖されているが。 (まずはこれを何とかしなくては…) 政治部としては、まず市民の統制をしなくてはならないだろう。 この原野がいかなる物か?突然現れたように、また忽然と消えて海に戻ってしまう可能性も無いではない。 また、モスクワからは既にこの事態について説明を求めるべくブレジネフに対する召喚命令が来ている。 「現実逃避している場合ではないぞ。提督」 どうにか気を持ち直すと、傍らで未だに震えている男に話しかけた。 とにかく、今は市内と軍の混乱を収拾しなくてはならない。 ブレジネフはそう考え、踵を返した。 その後に続くように弱々しい足取りで軍人が続く。 まるで幽鬼のような足取り……無理も無い。彼の司令部は消滅したコトリン島内のクロンシュタット基地にあった。バルチック艦隊の将兵の多くもそこにいたのだ。 979 名前:reden 投稿日:2007/01/04(木) 14 08 56 [ b6zK/Sj2 ] 1941年6月22日。早朝。 ソヴィエト連邦 首都モスクワ 午前6時半。 クレムリンにて緊急政治局会議が招集された。 会議室にスターリンが入室すると、既に参集していた閣僚、高級将校達は一斉に起立した。 スターリンは煙草を一杯に詰めたパイプを手にしながら席に着くと、じろりと一同を睥睨した。 「……まずは情報が聞きたい。昨夜から今朝にかけて一体全体何が起きたのか、だ」 一言だけ言う。下らんことを言ったら承知せんぞと言わんばかりの表情で黙り込む。 国防人民委員のティモシェンコ元帥は軽く唇を湿らせた。 わけの分からない理由で早朝に起こされた書記長が、酷く機嫌を損ねているのは間違いない。 (まあ…無理も無かろうが) 自分だって、この情報を最初に耳にしたときは馬鹿を抜かすなと報告者を怒鳴りつけたくらいなのだから。それほどに、現在、連邦全土を見舞っている事態は常軌を逸していた。 普段、あれやこれやと口を挟む内務人民委員のベリヤは今日に限っては大人しいものだ。 (いや、大人しいのは今だけか) ティモシェンコはおもった。 小ざかしいチェキストのことだ。具合の悪いことは皆こちらに報告させておいて、その後で書記長の怒りの代弁者を気取って攻撃してくるに違いない。 そんなネガティブなことを考えながらも、ティモシェンコは手元の報告書を読み上げた。 「では、ご報告いたします。昨夜未明……恐らくは日付が変わる前後から、連邦国外との通信一切が不能になりました。」 「原因は?」 「……根本的な原因については不明です」 スターリンからの視線がより強まったように感じ、ティモシェンコは背中にじっとりと汗を滲ませた。 「……まどろっこしい言い方だな。根本的とは……つまり、直接的な原因については判明したというのか?」 「はい。極東、シベリア、レニングラード、アルハンゲリスク、オデッサ、キエフ、西部、沿バルトの各軍管区より届けられた報告を総合的に検討した結果……」 ティモシェンコは軽く息継ぎをすると、意を決して言い放った。 「連邦と国境を接するすべての国家、さらに連邦が有する島嶼全てが消滅していることが判明しました」 一息に言い切った。 同時に、辺りを沈黙が包み込む。 スターリンは一瞬呆然と目を見開き、次いで周囲の閣僚達を見渡した。 そして周りにいる誰もが、ティモシェンコの報告を一切訂正しようとしないことに気付くと、今度は途方にくれたように視線を宙に漂わせた。 口に咥えていたパイプを放すと空いた手で、こめかみの辺りを軽くさする。 別荘(ダーチャ)でも簡単に説明されてはいたものの、あまりの荒唐無稽さに怒る気力すら失せてしまったらしい。 その妙な雰囲気に、ティモシェンコは自分の顔が羞恥に紅潮していくのが手に取るように分かった。 (俺だってこんな報告したくはない!) そう叫びたいのを我慢して、話を続ける。 「この異変における最大の損害は、主に船舶に関わるものです。ここからは海軍人民委員が報告を」 どこかホッとした様子でティモシェンコは席に着いた。 匙を投げたとも言う。 後を任されてしまった海軍人民委員の提督はというと、一瞬恨めしげな視線をティモシェンコに向けた。 こんな馬鹿馬鹿しい報告、全部やってくれよと言いたげなのは誰の目にも明らかだった。 「まず、レニングラードに関してですが、昨夜の0時前後より濃霧が発生し……こちらは他の地域でも同様ですが……問題はフィンランド湾に突如として謎の陸地が出現したことです。」 「………陸地だと?」 スターリンは未だショックから立ち直れぬまま、鸚鵡返しに呟く。 「はい。これにより、湾内に停泊していた軍民あらゆる船舶が座礁しております。また、コトリン島がクロンシュタット諸共消滅したことで、バルチック艦隊の指揮系統、人員ともに全滅しております。他の艦隊に関しては特に問題は無いようですが……この一連の異変により、我が国の軍艦艇はその3割を失ったことになります。商船舶については現在被害の集計を行っておりますが、こちらも深刻です」 次々と読み上げられる報告にスターリンはただ呆然とするばかりだった。
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609 :reden:2007/03/28(水) 01 10 18 ID oTZYRjrE0 朱き帝國第11話 1941年7月5日 ネウストリア帝國領 港湾都市キルグリット 水都キルグリット。 列強の一角。ネウストリア帝國の東部に位置する海港都市である。 大陸北東部を流れるローヌ川の支流……ちょうど川と海の合流点に造営されたこの都市は、同時に帝國の海洋貿易の中心地でもあった。 その人口は70万を数え、帝國領内でも有数の大都市として知られている。 事実、その広大な港内の埠頭にはさまざまな船……小は漁船から、大は外洋を渡って遥か東の文明圏より渡り来た大型帆船まで……が停泊している。 では市街に目を向ければどうか? そこには白を基調とした、優美な石造りの街並みが整然と広がっている。 街中には区画ごとに水路が設けられ、そこでは川から流れ込む澄んだ水が踊っていて、白い街並みとの絶妙なコントラストを描いている。 港区画にわりと近い大通りには即席の露店がいくつも立ち並び、様々な肌の色をした人間…あるいは他種族の商人たちが、めずらかな交易品を並べては威勢の良い売り文句を謳い上げる。そして、それら品々を興味津々に見つめる人々の姿……。 そこには国際都市ならではの活気があった。 そんな街の中心を貫く大通りを、一台の馬車が走り抜けていく。 客車の扉に彫り込まれているのは、交差する長槍とグリフォン……ネウストリアの国章である。 それを見た人々が慌てたように道を空ける。 そのまま大通りを走り抜けた馬車は、街道を伝って郊外の丘を駆け上がり、丘の上にそびえ立つ城館を前にして止まった。 御者台から身なりの良い痩身の男が降り立ち、うやうやしい挙措で客車の扉を開く。 「到着致しました」 その声を受け、客車から一人の人物が降り立った。 純白の法衣にヴェールという、修道女のようないでたち。 その胸元には"短剣に絡みつく蛇"をあしらった青銅の紋章がペンダントとして下がっていた。 ■ ■ ■ 「一体、どういうご用向きで来られたのかな。巡察使殿」 城館の主。 キルグリッド総督は困惑していた。 その原因は、いま彼の目の前で泰然とした様子で茶を啜っている女性だった。 ひさびさの休暇を満喫しているところに、突然の来客である。 事前になんの連絡も寄越すことなく、おまけに総督府ではなく私邸に直接押しかけてくるとは…… 普通、そんな礼儀知らずには門前払いを食らわせてやるところなのだが。 (こういう手合いから恨まれたりすると、酷く始末が悪いからな) 表面上愛想笑いを浮かべつつ、総督は女性が胸元に下げているペンダントを盗み見た。 報土観察院の紋章である。 帝國内務尚書府に属し、国内外の対諜活動を統括する機関。 ちょうどロシアで言うところのチェーカー(秘密警察)に相当する機関であり、 総督のような地位にあるものにとっては、緊張感ある付き合いを強いられる手合いである。 「出来ることなら、まずは総督府に話をもってきて欲しかったよ。ここは政庁ではなく私邸なのだから」 「それについては申しわけなく思います。……それにしても立派なお屋敷ですね……庭の噴水など、ドワーフの名工『ニグレド』の作品ではないですか?彼の刻印が彫られていましたし」 そう言いながら、ふと女性は天井を見上げる。 季節は夏。 海側から涼しい風が吹き込んではくるものの、外はかなりの暑さだ。 このような石造りの家屋では、中が蒸し風呂のようになっていてもおかしくないのだが。 しかし、ここは涼しい。 「天井に巡らせた張に、地下から汲み上げた水を流しているんだよ」 総督が説明すると、巡察使の女性は目を見張った。 「それはまた…」 「贅沢に見えるかね?しかしこの街では大概の者はこういう造りの家に住んでいるよ。 街中に水路が巡っているだろう?あそこから水を引くんだ。 昔この辺りにあった王国の建築様式らしいが、快適なので皆使っている。 まぁ…うちの庭の噴水に関しては、金を掛けているのは認めるがね」 「そうなのですか。この地方に来るのは初めてなもので」 「暇があれば見ていかれると良い。この街は、世界各地の文化が集まる坩堝のような所だからね」 「ええ。機会があれば是非」 しばらく……といっても最初の数分だけだが……雑談に興じ、空気が少し和んできたところで本題に入った。 610 :reden:2007/03/28(水) 01 11 11 ID oTZYRjrE0 「まぁ世間話はひとまずおいて、まずは君の公用を片付けてしまおうか。 ここに直接押しかけて来るくらいだから、かなり重要な案件なのだろう?」 最初会ったばかりのときに比べると、かなり友好的な調子で総督はたずねた。 今までの巡察使の友好的な態度から、彼女が自分に即刻不利益を齎しにきたわけでは無いらしいと理解したのだ。 むろん、これから話す用件次第でどう転ぶかわからないので、まだ油断は出来ないが。 「実は先日、長官より直々に命令を受けまして。東大洋北部の調査を行うことになったのです」 「それはまた…ずいぶん剣呑なところに行くのだね」 総督は少しばかり顔をしかめた。 東大洋というのは、キルグリッドの港が面じている外洋のことだ。 帝國の東にあるから東大洋……実に単純な命名基準だが、この大陸ではごく一般的な呼び方である。 その大洋の北方海域といえば、船乗りの間では難所として知られているところだ。 まず波が荒い。敵国であるモラヴィア領海にも近く、そのうえ水棲魔獣が少なからず生息していることでも知られている。海域内の島嶼から、はぐれ飛竜が飛んでくることもあるらしい。 経験豊富な船乗りも近づきたがらないところだ。 「理由については…詳しくは申せません。ただ、任務のために調査団用の船を用立てていただきたいのです。 乗組員込みで、遠洋航海にも堪えられるもの。できれば商船団ではなく総督府所属の船をお願いしたい」 「……海軍のものでは駄目か?」 総督府が保有している大型艦艇ともなると、外交使節などの重要人物を運ぶための連絡艦くらいしかない。 武装も申しわけ程度だ。 「余り目立ちたくありませんので、軍船は止めていただく思います」 「むぅ…それは難しいな」 総督は小さく唸った。 「武装商船では駄目かね?腕が良く、口も堅い連中を知ってるんだが」 「武装商船…ですか」 巡察使は露骨に不審そうな顔をした。 確かに軍船ほどに目立ちはしないだろうが、はたして役に立つのだろうか? 武装商船という名前は、軍事に疎いものが聞けば強そうに響くかもしれない。 しかし実情は素人が武器を持っただけ…或いはそれより少しマシな程度のものが殆どだ。 「不安そうだね。だが、連中実力は折り紙付だよ。船長は元冒険者とかで、船員の中には魔術師も居るようだしね」 「……わかりました。確かに、我々も急ぎですし…総督府のほうに船が無いのであれば……」 渋々という感じではあったが、いちおう納得したらしい。 総督は内心で胸を撫で下ろした。 「そうかね。なら、その連中には私から連絡しておこう」 「信用できるのですか?」 「大丈夫だ。まぁ観察院と聞いて顔をしかめるかもしれんが、多少の無礼は大目に見てくれるとありがたい」 「ええ、わかっています」 総督は安心したように頷くと席を立った。 そのまま部屋から出て行こうとして、ふと、何か思い立ったように振り返る。 「ところで」 「なんでしょう?」 「雇い賃は、もちろん観察院がもってくれるんだろうね?」 1941年7月8日 深夜 ソヴィエト連邦 セヴァストポリ 闇の帳が落ちた市内に、警報が鳴り響く。 (またか!) 黒海艦隊司令長官、F.S.オクチャーブリスキー中将は忌々しげに舌打ちした。 やや乱暴にデスクから立ち上がって、窓の近くに寄り、外を見る。 海岸の砲台からは電光信号が出て、街中にはサイレンが鳴り響いていた。 『ヴニマーニエ!ヴニマーニエ!(傾聴せよ、傾聴せよ)』 無線の拡声器が、がなりたてているのが此処まで聞こえてくる。 水兵に部署に戻るよう呼びかけを行っているのだ。 しばらくそれを眺めていると、部屋に来客がやってきた。 コン、コン。 ノックの音。 入るよう促すと、艦隊参謀長のI.D.エリセーエフが入室してきた。 611 :reden:2007/03/28(水) 01 11 43 ID oTZYRjrE0 「また例のドラゴンか?」 「はい。現在、高射部隊が応戦中です。そのうち落ちるか、或いは逃げていくかと思われます」 「そうかね。結構なことだ」 オクチャーブリスキーは疲れたように呟いた。 これで何度目だろうか、と彼は思った。 レニングラードが内陸都市と化してから、ちょうど今日が15日目になる。 黒海艦隊司令部が置かれているセヴァストポリ軍港は、今や赤色海軍が有する最大の艦隊泊地となっていた。 その司令長官たるオクチャーブリスキーが今もっとも悩まされている事。 それは、海から時折やってくるドラゴンの存在だ。 「で、今日は何匹来たんだね」 「1匹です。今しがたの警報分を数に入れなければ、ですが」 「畜生め。何とか出所を探って、纏めて始末できるといいんだがな」 6月23日。 あの日を境に全てが変わってしまった。 一番の変化はレニングラードをはじめとした西部で起きたことだが、ここ南部でも『転移』による被害は起きていた。 まずは水資源。 これまで獲れていた既存種の漁獲量が日を追う毎に減り、それに代わって今まで見たことも無いような種類の魚が獲れるようになったことだ。 それに加えて、漁船の遭難も相次ぐようになった。 当局が哨戒艇を繰り出して調べてみると、そこには信じがたい事実が存在した。 異世界の『怪物』の存在である。 全長20メートル近い大きさの肉食の魚類・軟体動物、そしてドラゴン。 これらの存在に、黒海艦隊司令部は半ば恐慌状態に陥った。 既存の海図は役に立たない。 国内最大の造艦廠は潰れ、艦艇補充の目処は立たず、おまけにこんな怪物が海にひしめいているとしたら、哨戒艇を出すことさえも危険(特にドラゴンが相手だと駆逐艦でも危ない)だ。 「そんな閣下に朗報です。近海での怪物の出没は……徐々にではありますが……減り始めています。 駆逐隊を定期的に遣って爆雷を落し続けた成果が現れているようです」 エリセーエフは手元の報告を読み上げた。 「ただ、ドラゴンに関してはお手上げですね。 哨戒機を飛ばしてはいますが、航続距離の関係で巣を突き止めるには至っておりません。 これ以上は船を繰り出して捜さないことには……」 「こんな、右も左もわからない海にかね?自殺行為だよ」 「確かに…そうです」 測量船を繰り出して調べようにも、空を行くドラゴンの存在を考えると軽はずみな行動は憚られた。 護衛艦艇も不足している現在。貴重な測量船に護衛艦艇までつけて、独断で動かすほどの度胸は無かった。