約 81,852 件
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/2301.html
サンエー 本店:沖縄県宜野湾市大山七丁目2番10号 【商号履歴】 株式会社サンエー(1970年5月28日~) 【株式上場履歴】 <東証1部>2006年2月1日~ <東証2部>2005年2月4日~2006年1月31日(1部に指定換え) <ジャスダック>2004年12月13日~2005年4月25日(上場廃止申請) <店頭>2000年9月7日~2004年12月12日(店頭登録制度廃止) 【筆頭株主】 折田譲治会長 【沿革】 当社の前身は、創業者故折田喜作が昭和25年1月、沖縄県宮古島市(旧平良市)に創業した個人経営の雑貨店「オリタ商店」であります。昭和45年5月、事業基盤の確立及びスーパーチェーン店の経営を目的として沖縄県那覇市安里に株式会社サンエーを設立するとともに、同年7月に「サンエー那覇店」を開店し、現在にいたっております。 昭和45年5月 沖縄県那覇市安里に株式会社サンエーを設立(資本金50千ドル) 昭和45年7月 総合衣料セルフサービス店「那覇店」オープン 昭和47年5月 本土復帰に伴う通貨の切換えにより、資本金は24,400千円となる 昭和49年1月 沖縄県那覇市に「ホテルサンワ」オープン 昭和50年7月 大阪府大阪市東区に大阪事務所を開設 昭和52年6月 食品部門を設け、沖縄県沖縄市に総合大型店舗「ファミリープラザコザ店(現「中の町タウン」)」をオープン 昭和56年5月 沖縄県宜野湾市真栄原に本社を移転 昭和57年9月 物流部門強化のため、サンエー運輸株式会社(子会社)を設立(資本金10,000千円) 昭和59年11月 沖縄県宜野湾市大山に大山流通センターを開設し、ディストリビューションセンター(以下「DCセンター」という。)を設置 昭和60年5月 沖縄県宜野湾市大山に本社を移転 昭和60年6月 大山流通センター内に生鮮加工センター(以下「PCセンター」という。)を開設 昭和60年11月 沖縄県浦添市に郊外型ショッピングセンター「マチナトショッピングセンター」オープン 平成元年9月 仕入の強化を図るため、ニチリウ(日本流通産業株式会社)グループに加盟 平成3年11月 POSシステム導入 平成4年9月 大山流通センター内に食品工場を設置 平成6年5月 沖縄県那覇市に外食ロードサイドレストラン1号店「和風亭小禄店」オープン 平成6年11月 DCセンター、PCセンター、食品工場を増築 平成7年4月 株式会社ダイイチ(現「株式会社デオデオ」)とフランチャイズ契約を締結し、本格的に家電販売を開始 平成10年4月 DCセンター、PCセンターを増築 平成10年10月 「サンエーカード」(ポイントカード)を導入 平成12年9月 日本証券業協会に株式を店頭登録 平成13年10月 DCセンターを隣接地に新築移転 平成14年1月 沖縄県那覇市に、株式会社ジョイフルとのフランチャイズ契約による洋食レストラン1号店「ジョイフルおもろまち店」オープン 平成14年2月 PCセンター、食品工場等を増床 平成14年10月 沖縄県那覇市に「那覇メインプレイス」(売場面積32,312㎡)オープン 平成15年10月 「サンエーVISAカード」(クレジットカード(㈱オークス提携))導入 平成15年11月 大阪事務所を閉鎖 平成17年2月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 平成17年7月 沖縄県宜野湾市大山にNSC1号店「大山シティ」オープン 平成17年12月 PCセンター、食品工場を増床 平成18年2月 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 平成18年7月 ISO22000認証取得(食品加工センター)。熊本県熊本市の「ゆめタウンはません店」内に「和風亭」、「ピッツェリアマリノ」オープン 平成18年10月 株式会社マツモトキヨシとのフランチャイズ契約によりドラッグストア1号店オープン 平成19年10月 創業店舗「那覇店」(平成19年2月閉店)をドラッグストアに業態転換 平成20年2月 「サンエーEdyカード」(プリペイド型電子マネーEdy(ビットワレット株式会社運営))を導入
https://w.atwiki.jp/tvopcl/pages/59.html
局名 琉球放送 略称 RBC 放送対象地域 沖縄県 開局日 1960年6月1日 コールサイン JORR-DTV(旧 KSAR・KSBK) リモコンID/アナログ親局 3/10ch ニュース系列 JNN 番組配給系列 TBSネットワーク 現行 2016年頃 オープニングとクロージングのBGMは変わっていないが、映像・RBCソングが新しいものに変更された。 中継局chの表示はクロージングのみでオープニングではコールサインと那覇のUHFチャンネル、リモコンch、出力のみが表示される。また、RBCソングが流れる映像は一部オープニングとクロージングで共通している箇所がある。 放送開始時間は2017年10月現在、平日(月曜~金曜)は午前4時25分、土曜と日曜は午前4時15分である。 1代前:2014年5月 - 2016年頃(ハイビジョン制作) 開局60周年バージョン、全国各地の放送局であった開局記念バージョンは沖縄では初の試み。 オープニングの、三線演奏(琉球民謡「瀧落菅攪(たちうとぅしすががち)」)が始まり、1世代前の映像を中心とした沖縄各地の様子・風景の画像の中間から、コールサイン・周波数・出力を表示し、アナウンス、それが終了すると首里城の映像となり「琉球放送」と表示されて演奏が終わる。その後、ノンボーカル・テクノポップなRBCソングに乗せて、歴代オープニングを中心とした歴史紹介となり、最後に社屋(最近の撮影で沖縄タイムス本社が入っているもの)をバックに60・感動・未来・RBCの文字が「おかげさまで創業60周年・感動・未来・RBC」のアナウンスとともに表示される。オープニングは1分45秒。アナウンス担当は前半が仲田紀久子アナウンサー、後半が狩俣倫太郎アナウンサー。 すぐに番組には入らず、BPO・JARO・ACジャパンなどのCMが流れる。 クロージングは1世代前の映像をベースに再構成したもの。RBCソング・なんた浜の演奏は変わらず、1990年代当時の波型のワイプが復活、沖縄各地の風景やイベント(特に琉球放送や沖縄タイムスがからむもの)のあと、送信所・社屋と表示され、60・感動・未来・RBCの文字が表示、なんた浜のパートの映像が夕日→満月と表示されて、コールサイン・周波数・出力の表示・仲田紀久子アナウンサーによる読み上げ、最後に「RBC 琉球放送」、その後ブラックアウト。 2代前: 2006年12月1日 - 2014年4月(ハイビジョン制作) オープニングは3つに分けることができる。三線(さんしん)演奏→RBCソング(いわゆる“社歌”。オーケストラの演奏と地元合唱団のコーラス)→コールサイン・周波数・出力の表示・アナウンサーによる読み上げ。 オープニングの、三線演奏(琉球民謡「瀧落菅攪(たちうとぅしすががち)」)が始まり、沖縄各地の様子や、風景の映像が流れ、最後は、首里城をバックにした映像になり、三線演奏が終わる。その後、那覇本局送信所(嘉数)の映像に切り替わり、RBCソングが始まる。波之上上空、東平安名岬の風景や、沖縄県内のいろいろな風景の映像を流し、最後は琉球放送本社の空撮映像になり、RBCソングが終わる。その後、海中の映像をバックにコールサイン・周波数・出力の表示・アナウンサーによる読み上げが終わると、リモコンキーIDの「3」とRBCロゴ(デジタル波の場合、アナログ波では従来の「10チャンネルロゴ」)が出て終了。オープニングは2分45秒もある。 クロージングも2つに分けることができる。RBCソング→コールサイン・周波数・出力の表示・アナウンサーによる読み上げ。 クロージングは、上空から撮った琉球放送・琉球朝日放送本社をバックにした映像とともにRBCソングが始まる(デジタル放送のみRBCの送信所の映像が流れる)那覇大綱引き・世界のウチナーンチュ大会前日前夜祭の国際通りのパレードの映像や、いろいろな風景の映像を流し、最後に、太陽が沈みかけている映像でRBCソングが終わる。その後、三日月をバックにコールサイン・周波数・出力の表示・アナウンサーによる読み上げが終わるとブラックアウト(停波はせず、放送開始10分前に時計とカラーバーが表示される)。クロージングは1分45秒。 コールサイン・周波数・出力の読み上げは地上デジタル放送と地上アナログ放送で違いがある(コールサインや出力の違いがあるため)。 オープニング・クロージングの補足: コールサイン・周波数・出力を読んでいる人物は宮城麻里子アナであったが、同アナの退社後も2010年3月ごろまで使用されていた。無音を経て2010年7月ごろから現在の大城蘭アナに代わった。 周波数・出力を読んでいる順番が、オープニングとクロージングで異なる。 アナログ放送はレターボックスで放送されていた。 特番などで特別に終夜放送が実施される場合はクロージング映像は放送されない。 3代前: 1991年10月 - 2006年11月30日 91年10月から2001年頃までは不明だが、オープニングでは2001年頃からはコールサイン・周波数・出力の表示は、RBCソングの前の三線演奏時に表示となっている(それ以前は、RBCソングの後に表示・読み上げていた)。また、各中継局一覧をスクロールしていた。なお、詳細期間はわからないが、1999年頃までは音声多重放送のコールサインである「JORR-TAM」も読み上げていた。なお、1991年頃から地上デジタル開始までのオープニングテロップは、数回ほど変更されている。更に、1999年頃までエンディングの局ロゴは白色、オープニングの局ロゴは青色であった(2001年頃と現在のOPの三線演奏の曲調は同じ)。 オープニングでは、「今日も10チャンネル・琉球放送テレビジョン(RBCテレビ)でお楽しみください」というテロップ出しがあった。 2001年頃の映像は、海中や那覇空港、県内の景色(首里城など)など。RBCソングの前に「10 RBCテレビ」のロゴが表示される。そして再びRBCロゴ(青色)が表示されRBCソングが始まるといったもの。 クロージングは、夕方の海の映像をバックにRBCソングが流れ宇宙の映像と「10 RBCテレビ」のロゴが表示される。その後、アナウンサーによる技術情報(コールサイン等)読み上げとテロップが表示され読み上げが終わると中継局テロップが縦スクロールで流れる。しばらくすると再び「10 RBCテレビ」のロゴが表示され「今日の放送は終わりです。ありがとうございました。」というテロップ出しが表示されフェードアウト。その後放送開始10分前まで停波していた。 4代前: 1985年6月 - 1991年9月 オープニングでは朝日が昇る映像や那覇市内の空撮の映像に最後は局舎の外観の映像を流し、レッドバックにコールサインと周波数&出力の表示・読み上げた後、「RBCソング(歌詞付)」が流れ、最後にブルーバックで「今日も10チャンネル琉球放送テレビジョンでお楽しみ下さい」のテロップが出された。 クロージングでは局舎建物や主調整室などの様子に「RBCソング(歌詞付)」(オープニングと同じ)が流れ、レッドバックにコールサインと周波数 出力の表示・読み上げた後、海岸の夕景などにBGMが流れ、後半の部分で中継局のロールが流れる。最後には「10 RBCテレビ」のテロップが出され停波していた。 なお、「RBCソング」において、2代前で流れるバージョンと1代前で流れるバージョンは、バックに流れる演奏が異なっていた。 5代前: 本土復帰後 - 1985年5月 オープニング・クロージングとともに、玉城美智子(のち岡田郁子)アナ(いずれも当時)によるアナウンスで、この当時なぜかBGMがなくテロップ3枚(のち送信所情報と中継局部分を別テロップ)で構成されていた。 オープニングは虹と「10 RBC」のロゴの絵で、「RBC、10ch、ごらんの放送は琉球放送テレビジョンです」のあと、送信所・中継局情報の青テロップをバックに本局周波数・出力、コールサインを紹介した後、中継局を読み上げていた(のち省略)、最後にコールサインを2回アナウンスして番組がスタート。 クロージングはオープニングと同じ絵で「RBC、10chです。琉球放送テレビジョンをごらんいただき、まことにありがとうございました」のあと、オープニング同様技術情報が読まれ、「これで本日の放送を終わらせていただきます」ここで子どもが魚に乗っている絵に替わって、「なお、お休みの前に、火の元戸締りをお確かめください」のあとコールサインを2度アナウンスして停波。 初期: 本土復帰前 虹と魚の絵が電波の波に変わり、旧久茂地放送会館の鉄塔を鳥が飛びまわり、全体像になってチェッカーフラッグ風の模様に「RBC」と大写しし、その後社屋をバックにズームダウンする形で「KSAR-TV」(日本語放送コールサイン)」「12(大写し)、7ch・久米島サテライト局(小さめ)」(チャンネルは当時のアメリカ周波数のもの。その後12をズームアップ)し、「ごらんの放送はKSAR、KSBKの2つの電波で全琉のご家庭と結ぶ、琉球放送です。」というアナウンスが入ったものであった。 2011年7月24日のアナログ放送終了のクロージング 沖縄県内の風景(梅の花、ホエールウォッチング、子供の様子、こいのぼり、満月、エイサーの様子、大綱引きの様子など)と共に、「わした島沖縄」(うちなー)というBGMがバックに流れた。しかし映像の途中で停波してしまった。
https://w.atwiki.jp/tvwiki/pages/44.html
うちなぁ情報 ツボわかり!は、南西放送で2006年10月2日から2007年9月28日まで放送されていた夕方ワイド番組である。ハイビジョン製作。 概要 [#i21375d2] リニューアルに伴う終了 出演者 [#c55402d9] 司会 金曜ゲスト リポーター・レギュラー 過去の出演者 放送時間 [#meab7b1b] タイムテーブル [#m1d3e465] 月曜日~木曜日、金曜日(~2007年3月) [#ld5d580b] 金曜日(2007年4月~) [#v93654f9] コーナーの詳細 [#o1ceb6e2] 全曜日 [#me02320a] 金曜日 [#of0193e2] ツボ+α(日替わりコーナー) クイズBOX [#qba26c5b] 過去に放送したコーナー 休止・変更など [#qc173fb4] 番組の出来事 前後番組の変遷 [#vec9488b] 概要 Nahoで夕方ワイドが放送されるのは、2000年4月から2006年3月まで放送されていた「おきなわフレッシュ5」(末期は、「ツボナビフレッシュ」)から半年振りである。「ツボナビ~」との違いは、視聴者参加コーナーや芸能情報などが設けられたことである。また、司会は石嶺剛志が起用された。 この番組は、NHK沖縄で放送されていた「沖縄情報市場」の「おもろてれぐすく」を終了に追い込むことに成功しており、他局のニュースと比べても、視聴率は互角となっていた。 これを受けて、2007年4月から、金曜日のみリニューアルを実施した。ポイントは、以下の2つ。 放送時間の拡大 ゲストコメンテーターの導入 前者は、16 48から15 50に拡大して、めんそーれ壷川屋では全曜日15 50からの放送となった。後者は、この番組では、金曜ゲストと呼ばれており、めんそーれ壷川屋では毎日導入されることになった。これを考えると、この時点で、めんそーれ壷川屋という番組の構想はすでにあったものと思われる。 リニューアルに伴う終了 2007年9月をもってザ・ワイドが終了するため、全曜日の放送時間を拡大することを検討していたが、めんそーれ壷川屋にタイトルを変えてリニューアルする形になったため、終了することになった。(出演者は、変わらず) 出演者 司会 石嶺剛志 諸見里麻里子(Nahoアナウンサー) 金曜ゲスト 祝嶺明也(うちなあマニア) ゲスト 祝嶺明也と週替わりのゲストが出演した。後にめんそーれ壷川屋のコメンテーターになるゲストも出演していた。 リポーター・レギュラー 大石健司(Nahoアナウンサー・主に特集のリポーター、石嶺不在時司会担当) 城間恵吾(Nahoアナウンサー・主に特集のリポーター、「すごんちゅ」担当) 上原翔子(Nahoアナウンサー・主に特集のリポーター、「歴史のツボ」「とれどれ」担当) 川満聡(ローカルタレント・主にリポーター担当) 山田力也(2007年4月から主にリポーター担当) 城間祐司(初期はオジイのうちなぁ事情担当で、末期は月曜日のレギュラー) 伊佐明陽(気象予報士・天気のツボ担当) 過去の出演者 いずれも、2007年3月をもって降板した。 新井香織(元Nahoアナウンサー・主に特集のリポーター) 新城真紀(Nahoアナウンサー・主に特集のリポーターを担当していたが、2007年4月以降「Naho Newsリアルタイム」キャスターを務めている。) 放送時間 2006年10月~2007年3月:月曜~金曜16 48~17 50 2007年4月~9月:月曜~木曜16 48~17 50,金曜15 50~17 50 タイムテーブル 月曜日~木曜日、金曜日(~2007年3月) 16 48 オープニング・フリートーク・ラインナップ 16 50 ニュース 16 53 (月~木)NNN Newsリアルタイム(定刻どおり飛び降りることが少ない)、(金曜日)ウィークエンドシネマ 17 00 改めて挨拶・お手紙のあて先など 17 02 今日のツボ 17 15 くわっちーさびら 17 22 お手紙の紹介 17 25 ツボ+α 17 37 天気のツボ 17 40 エンタメ☆NOW 17 47 今日のリアルタイム・お手紙の紹介 金曜日(2007年4月~) 15 50 オープニング・フリートーク・ラインナップ 15 52 お手紙のあて先 15 54 今日のツボDX 16 20 くわっちーさびら 16 27 クイズBOX 16 37 ウィークエンドシネマ 16 44 トークの時間 16 54 お手紙の紹介 16 57 ニュース 17 00 NNN Newsリアルタイム 17 15 トークの時間 17 22 お手紙の紹介 17 25 ツボ+α 17 37 天気のツボ 17 40 エンタメ☆NOW 17 47 今日のリアルタイム・お手紙の紹介 コーナーの詳細 ☆は、後番組の「めんそーれ壷川屋」でも放送されている。(あるいは、タイトルこそ違うが、同趣旨のコーナーが放送されている。) 全曜日 今日のツボ☆ この番組のメインコーナーで、いろんな情報を特集する。金曜日は、放送時間を拡大して、伝える。 くわっちーさびら☆ 料理の先生が料理を作るコーナー。 エンタメ☆NOW☆ 芸能情報。 金曜日 ウィークエンドシネマ☆ 明日公開されるお勧めのシネマを紹介するコーナー。 クイズBOX☆ 2007年4月から開始したコーナー。(後述参照) トークの時間 2007年4月から開始したコーナーで、司会2人が週替わりのゲストといろんなことを聞いていく。 ツボ+α(日替わりコーナー) 歴史のツボ 月曜日のコーナー 2007年4月から開始したコーナーで、城間祐司が歴史を感じさせるスポットを紹介する。 がんじゅうのツボ☆ 火曜日のコーナー 健康情報を伝える。 ニッポンお取り寄せ☆ 水曜日のコーナー 2007年4月から開始したコーナーで、県外のお取り寄せを紹介する。 とれどれ?☆ 木曜日のコーナー 最近流行ってる物を伝える。 沖縄の声・1週間☆ 金曜日のコーナー 2007年4月からそれまで放送された「おきなわウィークリー」をリニューアルする形で開始したコーナーで、沖縄の1週間のニュースを一般人にインタビューとNaho Newsリアルタイムでキャスターを務める与儀透の解説とともに伝える。 クイズBOX このコーナーを行う1週間前に挑戦者の募集をはがきやFAXやメールで行い、そしてその挑戦者の中から2人に、電話をつなぐ。 スタジオには、5つの箱があり、(「ツ」「ボ」「わ」「か」「り」)その中の3つに豪華商品の絵が入っている。(2つはハズレの箱) 抽選で選ばれた視聴者が、簡単なクイズを出題する。視聴者が正解すると、視聴者が好きな箱を選んで、視聴者が間違えると、石嶺が好きな箱を選ぶ。(石嶺にも箱に何が入っているかはわからない) そして、豪華商品の絵がが入っている箱を開けたら、それを獲得できる。 ただし、ハズレの箱を開けても、携帯ストラップがもらえる。 過去に放送したコーナー オジィのうちなぁ事情 月曜日で開始当初から3月まで放送されていたコーナー 城間祐司扮するオジィが沖縄の事情を伝える。 なお、めんそーれ壷川屋で一時期「祝嶺のうちなあ事情2」として復活した。 すごんちゅ 水曜日で開始当初から3月まで放送されていたコーナー 県内のすごい人を中継とVTRで伝える。 なお、めんそーれ壷川屋で、中断期間はあるものの、現在でもこのコーナーが放送されている。 おきなわウィークリー 金曜日で開始当初から3月まで放送されていたコーナー 沖縄の1週間のニュースをわかりやすく伝える。 前述のとおり、4月から「沖縄の声・1週間」になった。 休止・変更など 祝日は不定期に特番が16 00~17 25に放送される。 Nahoでは昔、リアルタイムの5時台をほとんどネットした名残か、祝日は、リアルタイムをネットする。 NNN Newsリアルタイム特報が放送される場合は、休止される 1回だけ15 55~16 53の単発番組をネットしたことがあり(ネットしたのは陣内智則・藤原紀香の披露宴直前番組)、そのときは16 53~17 00はNewsリアルタイムを放送して、17 00から放送した。 県内で重大な事件や重大な日の際は番組のほとんどをそれに関する特集に費やす。 例・沖縄県知事選挙、沖縄本土復帰の日、那覇空港炎上 番組の出来事 2006年10月2日 番組スタート。 2006年11月20日 沖縄県知事選挙で当選した仲井眞弘多氏が生出演。番組のほとんどをこの話題に費やした。 2006年12月22日 年内最後の放送となり、放送時間を15 50からに拡大した。 2007年1月8日 年内最初の放送。 2007年4月6日 金曜のみ放送時間を15 50に拡大した。また、ゲストコメンテーターが導入された。(いわゆる金曜ゲスト) 2007年5月15日 沖縄本土復帰の日に関する特集を番組のほとんどに費やした。 2007年5月30日 陣内智則・藤原紀香の披露宴直前番組が15 55~16 53に放送されるため、15 50からの拡大スタート。なお、本編は、17 00から放送した。(16 53~17 00はNewsリアルタイムを放送) 2007年8月20日 この日発生した那覇空港炎上に関する特集を番組のほとんどに費やした。 2007年9月15日 石嶺が大阪ロケ(理由は後述)をしたため、大石が代理で司会した。 2007年9月29日 最終回。大阪ロケが放送され、その終盤で読売テレビに行き、来月から放送する「情報ライブ ミヤネ屋」の司会の宮根誠司と対面し、番組宣伝を行った。 前後番組の変遷 南西放送 平日17時台 前番組 番組名 後番組 Naho Newsリアルタイム(16 50~19 00) うちなぁ情報 ツボわかり!(16 48~17 50) めんそーれ壷川屋(15 50~17 50) 南西放送 金曜16時台 ドラマコレクション(ドラマ再放送) うちなぁ情報 ツボわかり!(15 50~17 50) めんそーれ壷川屋(15 50~17 50) 南西放送 平日夕方ワイド番組 おきなわフレッシュ5(17 25~、金曜のみ16 55~) うちなぁ情報 ツボわかり!(16 48~→金曜のみ15 50~) めんそーれ壷川屋(15 50~17 50)
https://w.atwiki.jp/ryuseitv/pages/15.html
流星テレビ放送(りゅうせいテレビほうそう)は、流星県を放送対象地域とする架空テレビジョン放送局である。英称はRyusei Television Broadcasting Corp.。略称はRTB。キャッチコピーは「キラキラRTB」(2014年現在)。 英名 Ryusei Television Broadcasting Corp. 放送対象地域 流星県 系列 独立系 略称 RTB 愛称 RTB、流テレ コールサイン JODH-DTV 設立 1958年1月14日 開局日 1959年10月1日 所在地 〒123-4567流星県流星市流星町1-2-3 演奏所 本社と同じ 親局・出力 Hz・kW 電話番号 999-9876 業種 情報・通信業 事業内容 放送法による基幹放送事業及び一般放送事業、メディア事業、その他放送に関連する事業 資本金 5億円 代表者 代表取締役社長 阿井上男 社員数 555人 決算期 3月末 公式HP なし 概説 歴史 1958年(昭和33年)1月14日 設立。 1959年(昭和34年)11月1日 流星県初のテレビ局として開局。(呼出符号KSDW-TV、US10ch)。 1963年(昭和40年)9月1日 早朝放送開始。 1967年(昭和43年)5月1日 カラー放送開始。 1969年(昭和44年)10月1日 東京12チャンネル(現 テレビ東京)、毎日放送とネットを組む。 ※ 3月31日以前はNHKを含めたフリーネット制をとっていたため、民間放送のネットワークに加盟していなかった。しかし、1968年(昭和43年)12月22日に、沖縄放送協会中央放送局 (現在のNHK沖縄放送局)がテレビ放送を開始したことを機に、民放のネットワークに加盟することにした。1971年(昭和46年) - 久米社屋を増築、同時に現行ロゴの原型となるOTVロゴを使用開始、通信タワーの形が首里送信所向けに塔の半分から三角形のユニークなデザインで目を引くようになる。 1972年(昭和47年)5月15日 - 沖縄県本土復帰に伴いコールサインをJOOF-TVに変更。チャンネルもUSチャンネル“10”から日本の8チャンネルに。同時に日本の民間放送として正式にFNN・FNSに加盟。 1975年(昭和50年)3月31日 - 腸捻転解消により、これまで放送されていた毎日放送の番組がすべて琉球放送へ移行、かわって朝日放送の番組が一部放送されるようになる(-1994年3月)。 1983年(昭和58年)3月1日 - 久米2丁目(現東京第一ホテル那覇シティリゾート、以前は沖縄ワシントンホテル)から久茂地の現社屋(元沖縄配電 (沖縄電力の前身の1つ) 跡地)に引っ越す。 1985年(昭和60年)6月1日 - 送信所を那覇市首里崎山町から豊見城村(現・豊見城市)高安のNHK沖縄放送局敷地内に移転[7]。同時に音声多重放送開始。 1986年(昭和61年)4月19日 - 春闘などで自社でのニュースや番組配信(自社制作番組、日本テレビ、テレビ朝日、テレビ東京の時差ネット番組の放送)ができず、丸1日フジテレビからのマイクロ回線をそのまま垂れ流しで放送していた(その日のスーパータイムのローカル枠はFNSの九州・沖縄の基幹局である福岡のテレビ西日本のTNCスーパータイム NEWS SPORTSを放送)。またその日前後にはローカルニュース部分を天気予報に差し替えたり、スーパータイムのローカル枠は関東ローカル枠をそのまま放送していた。通常編成とは大幅な変更となったが、視聴者保護の観点からこの対応にしたことで放送が全面休止になることだけは回避された[8]。 1993年(平成5年)12月16日 - 宮古・八重山地域での放送を開始(琉球放送と同時)。 1994年(平成6年)4月1日 - 琉球放送とテレビ朝日との共同出資による琉球朝日放送設立(1995年10月開局)に備え、民教協番組を除くテレビ朝日系の番組が姿を消す(同局系の番組は琉球放送のみとなり、琉球朝日放送開局と同時にすべて同局へ移行)。 2006年(平成18年)12月1日 - 地上デジタル放送・ワンセグ放送開始。 2011年(平成23年)7月24日 - 開局以来続いたアナログ放送が終了。 2012年(平成24年)3月 - フジ・メディア・ホールディングスの持分法適用会社となる。 放送局概要 本社演奏所: 周波数: Hz 出力: kW 開局: 年 月 日 コールサイン: 代表取締役社長: [送信所名称]送信所 送信所: 沿革 キャッチコピーの変遷 番組 アナウンサー 男性 女性 放送 プロ野球中継 時報 CM 放送開始・放送終了(OP/CL)・試験電波 地上波以外での放送・配信 関連企業 外部リンク
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/3635.html
133 :ひゅうが:2014/09/15(月) 20 19 57 ああそうでしたか… それは失礼しました。 当方も一本、駄ネタを考えましたので投下いたします。 ――「大和」海中記念公園 住所:沖縄県宜野湾市大和(新埋立地) 行き方:JNR沖縄那覇線宜野湾駅から無料連絡バスが運行中(30分に1本) 県営バス56系統「大山貝塚」行上下線で「海中記念公園」から徒歩3分 【概略】―――1966年の沖縄本土復帰15周年を記念して開園した海中公園。 有名な沖縄沖海戦で戦没した日米の艦艇とその慰霊施設で構成されている。 宜野湾市部の宜野湾海浜公園と、北部宜野湾海中に分かれている。 宜野湾市部の埋め立て地と人工海岸で構成される公園には、沖縄沖海戦に参加したアメリカ海軍の軽巡洋艦「アストリア」と日本海軍の駆逐艦「初霜」が保存されている。 また、公園内には慰霊碑とともに在沖縄アメリカ軍の広報館である「オキナワ・メモリアルセンター」が併設されている。 海中部は、沖縄沖海戦の最終段階となった宜野湾砲撃戦において沈没した日本海軍の戦艦「大和」「陸奥」、そしてアメリカ海軍の戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」を海中から潜水船によって見学することができる。 季節や天候によってコースは変わり、水深300メートル圏内までに沈没している戦艦「大和」と「アイオワ」の見学コースが一般的である。 【設置】―――第2次世界大戦後、激戦地となった宜野湾には早くからアメリカ陸海軍の手で慰霊碑がたてられていた。 また、終戦後の鉄量不足から多くの突入艦艇は解体されてしまったものの、駆逐艦の一部は残存し、また地元住民の手で清掃作業などが行われていた。 この場所に慰霊公園を設ける計画が持ち上がったのは、沖縄の日本復帰後すぐであった1952年のことになる。 当初は沖縄県主導の計画だったのだが、これにアメリカ海軍退役軍人会が乗り、ついで在沖縄米軍が、最後に日本政府が乗る形で合同で計画はスタート。 ついで、終戦10周年記念事業の一環として沖縄沖海戦で沈没した艦艇の調査が行われた。 その結果1957年2月、沖縄本島西方沖合30海里の海域、水深150メートルにおいて日本国防海軍の深海潜水艇「しんかい(旧西村式潜水艇)」は戦艦「大和」をはじめとする艦艇を発見。 特に、戦艦「大和」「陸奥」「アイオワ」「ニュージャージー」は砲戦の損傷や沈没時の爆発による損傷こそあったものの原型をとどめており、海中に堂々たる姿をとどめていた。 これを受けて引き揚げ計画などが検討に入ったものの、日米双方の遺族や海戦の参加者たちがこれに反対。 その結果、沈没海域を国立公園地域に指定することによって盗掘や立ち入りを制限することで日米の当局者が一致し、1957年に「沖縄海中戦跡国立公園」として指定。 1965年に、宜野湾市において「戦後25周年記念事業」の一環として宜野湾記念公園として整備が行われ、翌年開園した。 【潜水慰霊事業】―――年に一回、遺族や戦友会が許可を得て潜水船に乗り込み海中の艦艇を訪れることが行われていたが、これを受けてアメリカ・テキサスで「潜水船に観光客を乗せた興業事業」が発案される。 当初は大きな反発を受けたものの、発案者○○○○が弟を沖縄沖海戦で失ったことが知られると提案は討議に移された。 結果、沖縄沖海戦の生存者や遺族たちによる親睦会は討議の末に第2次世界大戦の艦艇や慰霊碑のための費用として運賃を用い、さらには「日米双方の霊への敬意を示す」ことを条件として提示、この案は許可された。 生存者の一人であり、新河野造船所のトップであった河野道兼社長(潜水船の建造で有名であった)が潜水船を提供し、発案者が資金を提供、さらに国防海軍と三菱造船が整備面での協力を申し出、1967年、海が穏やかな3月から4月にかけて日に1回のペースでの潜水事業が開始された。 その後、ガラスの船底を持つ船で海底の艦艇を見るという通年観光コースも設置され現在に至る。 参加には事前の予約が必要である。 また、参加の際には自費で慰霊のための花を持って行くのが通例となっている。 135 :ひゅうが:2014/09/15(月) 20 26 35 誤字修正 「国立公園地域とすることで」→「国立公園地域に指定することによって」 「失ったことから」→「失ったことが知られると」 137 :ひゅうが:2014/09/15(月) 20 42 54 さらに修正、「終戦25周年記念事業」ですね 各部修正
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/702.html
http //www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/70263/ 【正論】岡本行夫 なんのための教科書修正か 07/23 07 20 トラックバックURL: http //www.iza.ne.jp/news/newsarticle/70263/TrackBack/ ■歴史をどんな主観で語るかが焦点に ≪慰安婦問題の争点は何か≫ 故堀米庸三東京大学名誉教授は、歴史というものはばらばらの事実を年代順に並べることではなく、現在の人間が主観的な契機をもって過去の史料を取捨選択するものであると40年も前に説かれていた。歴史というものは主観の産物になる宿命にある。例えば慰安婦問題について何万人もの慰安婦の事例すべてを検証することは不可能である。だからそれを一般化して語る時には、解釈者の主観が問われてしまう。慰安婦の境遇に同情しているのか、それとも何万人かの慰安婦は全員が自由意思、つまり金銭目当てだったと言っているのかと。 慰安婦問題について米下院で審議されている対日謝罪要求決議案。4月末に安倍首相が訪米した際の謝罪姿勢によって事態は沈静化し、決議案成立はおぼつかない状況になっていた。しかし日本人有志が事実関係について反論する全面広告をワシントン・ポスト紙に出した途端、決議案採択の機運が燃えあがり、39対2という大差で外交委員会で可決され、下院本会議での成立も確実な状況になった。正しい意見の広告だったはずなのに何故なのか。それは、この決議案に関しては、すでに事実関係が争点ではなくなっているからである。過去の事象をどのような主観をもって日本人が提示しようとしているかに焦点があたっているからである。 ≪沖縄の歴史の大局的流れ≫ 沖縄の教科書検定問題も似たところがある。軍の集団自決命令はあったのか。現代史について優れた業績を残されている秦郁彦氏が、軍による自決命令はなかった、情緒過剰の報道は慎めと本欄で説かれた主旨に異論はない。 しかし、一方で、沖縄が本土防衛のために「全島要塞(ようさい)化」されて凄惨(せいさん)きわまりない状況に置かれ、住民の死傷者が戦闘員を上回った歴史は存在する。私は60回を超えた沖縄行きを通じて戦時中の話を聞く機会も多かった。住民たちが日本軍に殺された話も、沖縄の至るところに残っている。残念ながら自衛隊員に対する反感が沖縄県民のあいだに今も根強いのは、そうした背景のためである。 誰の命令か発意かは別にして、痛ましい集団自決があったのも渡嘉敷、慶良間だけではない。たとえば、戦争中に特に激しい米軍の攻撃を受けた伊江島では、島に残った住民3000人の半数が死んだ。軍によって米軍への投降を厳しく戒められていた島民たちの中には、絶望的な状況下で手榴弾(しゅりゅうだん)や爆雷を囲んで集団自決していった人々も少なくない。 沖縄の悲劇は、戦時中の被害ばかりではなく、戦後も同県が不公平な立場に置かれてきたことにある。本土が高度成長していた時代に沖縄は占領下で閉塞(へいそく)状況におかれ、1972年の本土復帰後も米軍基地の重圧にあえいできた。面積にして米軍基地の75%が、日本全体の0・6%の面積しかない沖縄にいまなお集中している。日本政府が、本土にある米軍基地の過半をアメリカから返還させたのに、沖縄の米軍基地には手をつけなかったためである。重要なのは、こうした大局的な歴史の流れである。 ≪事実関係が問題ではない≫ そもそも、私にも「軍命令による集団自決」は、教科書にわざわざ書くほどの事象だったのかという疑念はある。しかし、既に書かれていた教科書の記述を、論争のある時に修正することは、「軍の関与はなかった」とする史観を新たに採択した意味を持つ。否定できない犠牲の歴史が沖縄にある時に、修正しなければならないほど重大な過誤が従来の記述にあったのか。歴史とは事実の羅列ではない。それを通じて生まれてくる主観である。 原爆投下の歴史的意義を個人がどう判断しようと思想の自由である。しかし公的立場の防衛相がこれを「しようがない」と述べることは、日本政府の基本政策に背馳(はいち)するばかりでなく、今も苦しむ原爆被災者の感情から、許されることではなかった。 今年は憂鬱(ゆううつ)な年である。秋以降には米国で製作された映画「南京」が劇場公開され、さらにインターネットで世界中に配信される。アメリカの民間人が南京市民を日本軍の暴虐から救う「英雄物語」だが、観客の反応は目に見える。南京事件の実態については、犠牲者を数万人とみる秦氏の著作が最も客観性があるように思われるが、それとて、もはや数字の問題ではなくなってきている。日本人からの反論は当然あるが、歴史をどのような主観をもって語っていると他人にとられるか、これが問題の核心であることに留意しなければならない。(おかもと ゆきお=元沖縄担当首相補佐官)
https://w.atwiki.jp/hit-terakoya/pages/21.html
「沖縄返還とは何なのか」(12月14日発表) ■沖縄はなぜ1952年に返還されなかったか、なぜ1972年のタイミングで返還されたのか 我部政明著『沖縄返還とは何だったのか』では、アメリカの公開公文書を使用して、詳細な交渉プロセスが描かれていた。上記問題意識前半に対して、この本からうかがえることは、簡単に言って、冷戦時代の当時、沖縄の軍事戦略的価値は非常に高く、かつ他のアジア同盟国にある基地と比べ、沖縄基地の自由使用度が著しく高かったこと(核の貯蔵と軍事作戦時の法的・外的制約がないこと)が述べられていた。問題意識後半に対しては、国内世論において沖縄返還の機運が非常に高まり、日米関係の最も大きな障害となるまでに至り、新安保条約締結後10年が経ち一年前通告により自動失効が可能となる1970年直前に、沖縄を返還することで日本との不和を解消し、日米安保継続を確保するアメリカの意図があげられる。また60年代末には、潜水艦発射型のポラリス型ミサイルや大陸間弾道ミサイルの配備により、沖縄に核を配備しておく必要が薄まったこともあげられる。 ○国際政治戦略の観点から見たアメリカの思惑 『沖縄返還とは何だったのか』においては、主に日米二国間関係の観点から論述されていたが、当時のアメリカにとって対日問題・沖縄問題だけが懸案事項ではなかっただろうし、よりマクロな視点からアメリカの戦略を分析することで見えてくるものもあるのではないか。 60年代末のアメリカを取り巻く国際政治状況をまとめると以下の四点が考えられる。 ① ベトナム戦争の戦況の悪化 ② ソ連の台頭-対ソ戦略再編の必要性 ③ 中ソ対立の激化 ④ (ニクソン大統領自身が有していた対中政策の見直し観) ①に関して。この頃の米国の国際政治における地位の相対的低下傾向にあった。1967/68年にかけてベトナム戦争の戦況が激化し、1968年には米国軍の総兵力と在ベトナム米兵力がともに最大となり、軍事支出(300億ドル)が急増し、これが米国財政を悪化させる。また、この頃、日本や西ドイツの工業発展によって貿易戦争が激化、米国はこれにも敗北し、貿易赤字を生じさせる。 ②に関して。このように、米国がベトナムでも、経済的にも困難な状況に陥っている中で、ソ連の軍事力が増加し、米国とソ連の軍事力の差が縮小する。1968年に、ソ連の軍事支出・軍事投資額が米国のそれを抜く。大陸間弾道ミサイル・ICBMにおいて、1964年当時、米国:750-ソ連:180だったのが、1970年には1054-1028にまで差が縮小。潜水艦核発射ミサイルにおいては、1966年当時に、米国:592-ソ連:125であったのが、1971年には656-440に縮小。特にソ連の海軍力増強は顕著で、この頃にソ連艦隊はインド洋・カリブ海にも進出する。ソ連との軍事力の差を埋められ、米国の国際的地位が相対的に落ちていく中で、対ソ政策を見直す必要があった。 ③④に関して。そこで、1950年代後半から、60年代をかけて熾烈化していく中ソ対立を米国が利用するのは必然的であった。中国と接近することで、米中ソの三角関係における、中継者の優位性を確保することが当時のニクソン政権の最大の課題だったのではないか。事実として、ニクソンは政権に就く前から対中関係見直しを考えていた。 →この状況で、アメリカはニクソンドクトリンと中国への接近(米中和解)という二つの政策をとる。 上記の①②から、逼迫する財政の中で軍事支出を減らし、その分を対ソ戦略に向けられるかが課題であり、結論として、アジアへのコミットメントを減らす政策転換を行う。ベトナム戦争のベトナム化や沖縄の返還がその表れであり、これをニクソンドクトリンという。 この観点から、沖縄返還交渉において、アメリカが経済・財政的な利益に拘り、結果として27年間の沖縄占領費に相当する額と「半永久的」に沖縄の土地貸借契約を無償で、かつ「おもいやり予算」という日本からの資金援助まで獲得するに至ったことが理解される。 そして、1971年にニクソン大統領の訪中が同盟国への十分な事前予告もないまま発表され、アジア各国に国を揺るがす衝撃を与える。特に、韓国・台湾・南ベトナムにとっては非常にクリティカルであった。その理由は、これらの国は、冷戦環境においてアメリカの元につくことで、アメリカから経済的・軍事的援助を受け、それによって国内的な正当性を保つことができたが、アメリカがアジアにおける共産陣営のトップと協調関係を築くことで、冷戦論理が覆され、自らの存在基盤を失う恐れがあったからである。 当然この出来事は、日本にも大きな影響を与えた。ここで一般的に議論されるのが日中国交正常化ですが、私は、アメリカが米中和解を考慮したうえで、沖縄返還交渉に臨んでいた部分もあるのではないかと考えます。 沖縄返還は69年に合意、71年に返還協定調印、72年に本土復帰という流れですが、69年の首脳会議で、なぜ72年に返還ということになっただろうか。69年に返還合意に関しては、翌年の国内総選挙を有利に進め、自民党政権存続・日米安保の継続という日米の思惑があったことが、69年の合意に結びついた。他方で、なぜ合意から返還まで3年必要としたのだろうか。簡単に、返還までの準備に3年かかるということが大きな理由と考えられるが、他方で米中和解によって生じる日本との信頼関係へのダメージを解消するために、敢えて米中和解後に沖縄の本土復帰を設定したアメリカの思惑があったのではないか。 1967-1972の主要事実 国際関係 日本 アメリカ 1967 2.17第二次佐藤内閣 11.15日米首脳会談終了(沖縄については討議継続) 1968 1.30テト攻勢 8.20ソ連チェコ侵入 4.5日米小笠原諸島返還協定(6.26復帰) 3.31ジョンソン、北爆部分停止、大統領選不出馬表明 11.1北爆全面停止 1969 3.2中ソ国境武力衝突事件 11.21佐藤・ニクソン共同声明(沖縄返還合意+『核密約』) 1.20ニクソン政権成立 2‐3月中国政策の転換の姿勢(NSSM14・35) 5.28 NSDM13 7.25ニクソン、グアムドクトリン発表 1970 1.14第三次佐藤内閣 6.22日米安保自動延長 12.16ニクソン、パキスタンを通じて中国へメッセージ 1971 6.17日米沖縄返還協定調印 7.9キッシンジャー、秘密訪中 7.15ニクソン大統領、米中接触について発表(第一次ニクソンショック) 8.15ニクソン、金ドル交換停止(第二次ニクソンショック) 1972 3.30北ベトナム軍による大攻勢 5.15沖縄返還 7.7第一次田中内閣 9.29日中国交正常化 2.21ニクソン訪中 出典:緒方貞子著『戦後日中・米中関係』1992年 東京大学出版会 アメリカの予算(単位:億ドル) 年度 予算 支出 差額 1968 1,529 1,781 -251 1969 1,868 1,863 32 1970 1,928 1,956 -28 1971 1,871 2,101 -230 1972 2,073 2,306 -233 出典:米ホワイトハウスHP http //www.whitehouse.gov/omb/budget/fy2004/pdf/hist.pdf ・1970年のGDP アメリカ:1兆253億ドル 日本:2063億ドル ・1970年の日本の国家予算(支出)=8兆円 1ドル=360円 6億ドル=2160億円(国家予算の2.7%) 参照 今川瑛一 『転機の米ソ関係 デタントは来るのか』 教育社 1986 今川瑛一編 『70年代アジアの国際関係』 アジア経済研究所 1980 太田昌克 『盟約の闇』 2004 平文社 ■ 沖縄返還時の財政(補償費)問題 アメリカ側の財政交渉ガイドラインの志向的背景は、ベトナム戦争中からの国際収支が悪化する米国経済を立て直すために、米国が提供する安全保障秩序のなかで経済的に豊かになる日本に対し、相応の負担(バーデンシェアリング)を要求すること、また佐藤政権の要望に応えて沖縄を返還するのであるから、米政府に財政負担を一切かけることなく、返還に伴う財政負担を日本側が負うべきである、というものでした。 そして実際の交渉過程を通じて、米国側の懸案事項は、①沖縄の流通通貨ドルと円との交換によるドルの価格下落をさせないこと、②返還にともなう財政的負担は日本側に負わせること、③返還時に得た補償費を広く自由に使えること、④できるだけ多くの補償費を得ること、で4点であり、日本の懸案事項は、①沖縄を金で買ったと思わせない、②米政府に対し支払う金額は国民に説明できるものにする、の2点に集約できます。(但し核関連事項は除く。) 結果的にほぼアメリカ側の言い値の6億8500万ドルを、現金払い割賦払い・役務提供・連邦準備銀行預入の後約30年凍結を日本側は負担することになります。約3億5000万ドル分は日米間の密約であり、日本国民には公表されていませんが、このうちの1億ドル分が預入分で残りがアメリカ側懸案事項③にあたり日本本土の基地の移転費用に使われました。 大きな流れ ・52年サンフランシスコ平和条約→日本独立、但し沖縄・奄美大島・ 小笠原諸島は米施政下 72年5月沖縄返還(佐藤栄作) 同年9月日中国交正常化(田中角栄) 78年日中平和条約(福田赳夫) ※国家間関係として、国交正常化と平和条約の違いは後者の場合、戦時の懸案事項が基本的に解決した状態であると理解しております。従って日中間では中国の戦後賠償放棄により平和条約を締結しておりますが、日露間は北方領土問題が解決していないため、国交正常化止まりであると認識しています。 ・問題点 1、52年時になぜ沖縄も返還しなかったのか? 2、なぜ統治までする必要があったのか? 軍事目的であったとの理由は、返還の有無に関らず、駐留軍をおくことで目的が達成されるため、理由になりません。他の理由を考えましょう。当時、日本の繊維産業が対米大幅黒字であり、両国の貿易問題でしたが沖縄を米側に留めたことで、輸出超過継続の方向が継続されたため、日本政府は、「糸で(沖)縄を買った」と揶揄されました。 3、72年、なぜこのタイミングで沖縄は返還されたのか? 4、当時の東アジア(ソ連を含む)のパワーバランスは? ヒントはキッシンジャー外交にあることは間違いないでしょう。71年ニクソン訪中ですが、中ソ対立は既にフルシチョフのスターリン批判以降から始まっています。ソは対米平和共存路線でしたが、毛沢東は対米強行路線で、58年大躍進政策、59年中ソ技術協定破棄、62年中印国境紛争ではソのインド支持とキューバ危機の妥協、66年プロレタリア文化大革命、68年中国のプラハの春批判、69年ダマンスキー島紛争、一方アメリカは65年ヴェトナム北爆、68年パリ和平会議で挫折、米の経済的覇権が揺らぎ、71年ニクソン=ショック(8月)の直前7月にニクソン訪中になります。 5、返還時の軍用地はどうなったのか? 沖縄住民に返す際に、軍隊の宿舎や戦車が散々踏みしめた土地、大砲をうちまっくた禿山をそのまま返していただいても困ります。撤去費用・整地費用は当然使った人たちが出すのが筋でしょうし、日本の公文はアメリカ負担となってますし、外務省・政府は今でもアメリカが負担したと言ってますが、アメリカの文書や当時の担当者(「他策無カリシヲ信ゼント欲ッス」の著者)はどうも違うことを言っています。 後者を信じるとした場合、なぜなのか? それでは次回までに 『沖縄返還とはなんなのか?』NHKブックス 『他策無カリシヲ信ゼント欲ッス』 『 』手嶋龍一 を読んだり読まなかったりして、全体像を掴んできましょう。 間違いがあれば訂正してください。
https://w.atwiki.jp/tosiyatosiya/pages/320.html
石 垣 島 に つ い て 調 べ て み る。 石 垣 島 石 垣 島 に つ い て 調 べ て み る。 【突然、南の島!-石垣・竹富いきなり旅行】 第6話)老人会のボランティア・ツアー ||沖縄旅行記|石垣島|竹富島|| 石垣島のガイドブックの片隅に「まちなか散歩ツアー」なる案内が小さく載っていた。タウンマネージメント石垣という街づくりの第3セクターが、地元老人会ボランティアの協力の下に、石垣の街を2時間程ガイドしてくれるお散歩ツアーで、値段も一人800円と良心的だ。 申し込みは公設市場向かいのユーグレナモールにある無料まちなか交流館「ゆんたく家」でできると聞いたので、石垣初日の一昨日に訪れていた。するとツアーは9 30発と15 00発の2つがあり、最低2名集まらないと開催されず、前日15 00までの申し込みが必要であるとのことだったので、初日に、今日15 00の分の予約を入れておいた。 無料まちなか交流館「ゆんたく家」 「一人でも予約できるのですか?」 「あさってまでには他の参加者も集めときますよ。」 と一昨日スタッフは楽観して言ったが、当日実際に集まったのは僕だけであった。なんか独り占めして申し訳ないなぁ、、、 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「私がガイドの粟森(アワモリ)です。」 わお、石垣島のアワモリさんとはなんと覚えやすい名前だ!! ご高齢にも関わらずアワモリさんは大変な健脚だ。早速すたこらサッサと市場の3階を案内してくれる。 「ここには保育園があるんですよ。市場で働く女性が子供を連れて来やすいでし ょう。」 ほほー、職場に保育施設が完備されているなんて、某アグネス・チャンが聞いたら涙を流さんばかりに感激するだろう。でも少し僕は疑問を感じたので尋ねてみた。 「市場で働いてる女性は高齢者が多いですよね」 「ははは、だから孫を連れてくるんじゃよ」 なるほど3世代同居なら保育施設は祖母の職場近くでもOKなワケだ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「この奥は昔は由緒正しいお宮だったんじゃよ。ちょっと入ってみるか。」 アワモリさんは市場近くの民家の中をずんと入っていく。するとその民家の裏庭に小さなお宮が祭られていた。 こんな民家の門の向こうに「御嶽(オン)」と呼ばれるお宮がある。 「お宮はここらでは御嶽(オン)と言ってな、昔は大きな御嶽(オン)だったんじゃが、戦後のドサ クサで土地が売られ民家になってしまった。」 と、ボーとしていた役所に対する不満を隠さない。 「ここは730交差点。本土復帰後、右側通行から左側通行に変わった7月30日を 記念したものじゃ。あの時は一晩で島中の標識を取り替えなけりゃならなかったから、 九州から警官が500人も来て大変な騒ぎじゃった。」 「この道の真ん中に井戸があるじゃろ。これはアコーバルカーと言ってな、この辺り 昔は街のはずれで、ここから先はマラリア蚊が発生する危険地帯だったのさ」 730交差点(左)と 道のド真名にある井戸・アコーバルカー(右) と、その後も、解ってる人がいないと見落としてしまうスポットを次々と紹介してくれる。 「ガイドを始めて、わしら老人会も図書館でいろいろ古い文献なんかを調べるように なりましたよ。」 とアワモリさんは楽しげに語る。なんかいい年のとり方をしているなぁ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 楽しい2時間のお散歩が終わると、「ゆんたく家」でお茶のサービスが待っていた。 「アワモリさん、この散歩ツアーはいい企画ですね。」 「そうなんじゃが、ちとPRが足らんなぁ。」 どうやら老人会のボランティアさんたちはやる気満々のようなのだが集客が今一のようだ。現に今回も参加者は僕一人であった。 「スタッフさん、このツアーもうちょっとPRしたほうがいいよ。」 「そうですね。私たちもホテルさんに声をかけてポスターの掲出お願いした のですが、、、」 ううん、ホテルにお願いするのも悪くはない。でももっと効果的なポスターの貼り方ってあるんじゃない。島で最も観光客の多い通り、そう、それはこのユーグレナモールの「ゆんたく家」ですよ。どうして自社物件前でPRしない? せめて自社物件前に看板たてて宣伝しましょうよ。 がんばれタウンマネージメント石垣さん! 灯台元暗しとはこのことか。 せっかくの好企画、十分認知されてないのがもったいない!! 微力ながらオイラもPRに協力してあげよう。 お世話になったアワモリさん(左)と 散歩ツアーのパンフレット(右) ■石垣島・まちなか散歩ツアー 0980-84-3477 HPはこちら (続く) 追記 その後、ツィッターで「看板は現在製作中ですよ~!」とタウンマネージメント 石垣さんから連絡がありました。素敵な看板ができると良いですね。 もどる < 6 > つぎへ .
https://w.atwiki.jp/zensensyu/pages/669.html
寝台列車 519 名前:水先案名無い人 :2005/04/21(木) 15 29 59 ID 7IEtKoaC0 …ご乗車有難う御座います。この作品は15時30分に 519を出まして、 途中、 520、 521、 522に停車し、終点 523には15時45分に到着の予定です。 各車両のご案内を致します… 車掌「史上最強の寝台列車を見たいかーッ!!」 乗客「オーーーーー!!!!」 車掌「ワシもじゃ!ワシもじゃ、みんな!!」 全寝台列車入場!! 古強者は生きていた!! 更なる研鑚を積み函館乗り入れで甦った!!! 重鎮!! 寝台特急「日本海」だァ――――!!! 昼夜兼用編成はすでに我々が完成している!! 寝台特急「月光」だァ――――!!! 入線ししだい走りまくってやる!! 北陸方面代表 寝台特急「つるぎ」だァッ!!! 九州への走り合いなら我々の歴史がものを言う!! 東京発のエース 前最長ランナー 寝台特急「はやぶさ」!!! 名古屋発の夜行列車を知らしめたい!! 583系 寝台特急「金星」だァ!!! 青森行きは数あれど東北本線ならほぼ全区間オレのものだ!! 東北の象徴 寝台特急「はくつる」だ!!! ビジネスマン対策は完璧だ!! 東海道本線 寝台急行「銀河」!!!! 全夜行列車のベスト・ランニングは私の中にある!! 北海道方面の王者が来たッ 寝台特急「北斗星」!!! 夜行バスには絶対に敗けん!! 伝統特急の走り見せたる ショートランナー 寝台特急「北陸」だ!!! 玉石混合(なんでもあり)ならこいつが怖い!! 常磐線経由のピュア・エクスプレス 寝台特急「ゆうづる」だ!!! 神の国から炎の夜行列車が到着だ!! 寝台特急「出雲」!!! 特急料金のかからない旅ができるから寝台急行(白マーク)が好きだったのだ!! 玄人の運行を見せてやる!!寝台急行「天の川」!!! ふとした疑問で「沖縄までいくのか?」とはよく言ったもの!! 本土復帰祈願の列車名が今 実戦でバクハツする!! 九州新幹線接続 寝台特急「なは」先生だ―――!!! 本四連絡列車こそが四国最強の代名詞だ!! まさか本当に瀬戸内海を渡るとはッッ 寝台特急「瀬戸」!!! 走りたいからしぶとく生き残ったッ キャリア結構複雑!!!! 秋田のナマハゲ(オーガ)ランナー 寝台急行「おが」だ!!! オレたちは奥羽本線経由出羽ない羽越本線経由で最強なのだ!! 御存知上野駅始発 寝台特急「出羽」!!! 寝台特急の本場は今や北海道にある!! オレを驚かせる奴はいないのか!! 寝台特急「カシオペア」だ!!! 短命ィィィィィィッ説明不要!! 実働3年半!!! 呉線経由!!! 寝台特急「安芸」だ!!! 夜行列車は丸1日運行してナンボのモン!!! 超実戦特急!! 日豊本線経由で寝台特急「富士」の登場だ!!! 紀伊半島はオレのもの 邪魔するやつはいないから思いきり走るだけ!! 関西本線・紀勢本線統一王者 寝台特急「紀伊」 自分を試しに運転区間を延長したッ!! 現サンライズ出雲 寝台特急「いなば」!!! 編成に更なる磨きをかけ "暁の超特急"寝台特急「あかつき」が帰ってきたァ!!! 今の自分に居場所はないッッ!! 悲運の列車名寝台特急「鳥海」!!! 日本千数百年の古都から今ベールを脱ぐ!! 京都・新大阪始発 寝台特急「明星」だ!!! ファンの前でならオレはいつでも栄光の1列車だ!! 燃える交流電気機関車 寝台特急「さくら」 新列車名で登場だ!!! 過去の栄華はどーしたッ だが輸送の使命 未だ消えずッ!! 客車も電車も思いのまま!! 寝台特急「彗星」だ!!! 特に理由はないッ 横綱が強いのは当たりまえ!! 協会にはないしょだ!!! 日の下開山! 寝台特急「あけぼの」がきてくれた―――!!! 開業時に磨いた実戦20系!! 東北本線のマイナー・エクスプレス 寝台特急「北星」だ!!! 九州方面だったらこの特急を外せない!! 長崎・熊本行き 寝台特急「みずほ」だ!!! 超一流寝台電車の超一流の臨時列車だ!! 生で拝んでオドロキやがれッ 山陽道の鋼鉄列車!! 臨時寝台特急「サンライズゆめ」!!! 豪華編成はこの特急が完成させた!! JRの切り札!! 寝台特急「トワイライトエクスプレス」だ!!! 青き流星が帰ってきたッ どこへ行っていたンだッ チャンピオンッッ 俺達は君の入線を待っていたッッッ寝台特急「あさかぜ」の登場だ――――――――ッ 加えて青春18きっぷ旅行者に備え超豪華な寝台つき普通列車を4編成御用意致しました! 北海道の雄 夜行普通列車「からまつ」!! 伝統派夜行 夜行普通列車「ながさき」!! 山陰道の巨人!夜行普通列車「山陰」! ……ッッ どーやらもう一編成は列車名がつけられていない様ですが… この先、車内放送は致しません。ごゆっくりお休みください… 関連レス 525 名前:水先案名無い人 :2005/04/21(木) 15 55 25 ID lrf/aY0Q0 5秒しかずれてない、すげー。 そして前後の放送の細かさが好きだ。 でも車内放送やかまし杉だwっていうかシャウトしすぎw 530 名前:水先案名無い人 :2005/04/21(木) 17 30 39 ID 7O6TghCD0 寝台列車が32種類以上日本にあったことに驚いた 549 名前:水先案名無い人 :2005/04/22(金) 10 17 59 ID byP/fRHU0 うしとら好きには感動の寝台列車・北斗星 コメント 名前
https://w.atwiki.jp/tvopcl/pages/80.html
現行(2006年12月-) ※ハイビジョン制作・地上デジタル放送/地上アナログ放送共通。 オープニング 沖縄県の地図が表示され、「OTV」のロゴが分解して飛び回っては結合し、丸くなって沖縄のあちこちに飛び込んではまた飛び出しながらの繰り返しで、西表島-慶良間沖-山原の自然と表示された後、那覇に飛び込んで局舎が出現。ついで、局舎からマスターが表示され拡大したところで沖縄地図が再出現。新キャラクターのゆ〜たんが挨拶したところでチャンネル/中継局一覧が表示されたあと、8、コールサイン、送信出力が表示され、最後に「OTV」「沖縄テレビ放送」のロゴが出る。デジタル中継局が増えているため、現在は中継局の表示にブルーバックを被せて中継局表示。2008年頃からピラーボックスになっている。何らかのミスなのか、2008年7月12日のアナログのオープニングでデジタルの表示になっていた。2016年時点のオープニング時間は平日(月~金曜)が4 20、土曜と日曜が4 25である。 クロージング 社屋出現以下を省略し、山原の自然のあと、分解して飛び回っている間に8、コールサイン、送信出力が表示され、「OTV」が結合して「沖縄テレビ放送」のロゴが出る。最後にゆーたんが眠った絵で「また明日」と表示する。 1世代前まで表示された交通安全メッセージは廃止された。 2008年7月24日からは、アナログ放送のみオープニング前とクロージング後に地上アナログ放送終了告知画面をアナウンス付で放送している。画面は、水色の静止画で告知文テロップの黒緑がある(デジタル放送は、黒画面となっている)。 また放送休止時間が短い場合は、ゆーたんが明るい木の下で寝ている静止画の左下に「本日も沖縄テレビをご覧頂きありがとうございました。まもなく本日の放送を終了いたします。」と表示。ブラックアウトせずにカラーバーを表示する。 また、最終番組終了後にクロージングを放送せずにカラーバーに入ることもある(休止が極端に短い場合のみ)。 1代前(1991年5月-2006年11月) 那覇を中心とし各中継局へラインが飛んで広がっていくが、先島諸島へは直線が這っていくCGとなっている。 2000年頃までのオープニングでは音声多重放送のコールサインである「JOOF-TAM」も表示していたが、後に青幕上に「沖縄テレビ」の字幕で被された。 オープニングでの中継局ロールは、中継局増設後も変更しなかったが、2001年頃には、ブルーバックでの表示に変更、2006年時点では海中の映像に変更(CG自体は、1989年に作成された)。 クロージングもオープニングと同様だが中継局chは表示されずCGをバックにロゴが表示される。その後交通安全メッセージが表示されフェードアウト。 2代前(1983年3月-1991年5月) オープニング 宇宙をバックに地球が奥からスライドし、宇宙から見た琉球半島の映像に切り替わる。その後現在の放送会館がフェードインする。ここからアナウンサーによるID読み上げ「おはようございます。JOOF-TV、8チャンネル、沖縄テレビです。」が始まる。この後、宇宙と放送会館をそれぞれバックに流れ星を流す。このあと「OTV ロゴ(8)」という表示が入り、奥へ飛んでいく。このあと海をバックに「JOOF-TV 沖縄テレビ」の表示が手前に飛んで行き下からOTVのロゴが入り各地区のUHF中継局が一覧になって表示される。このあとUHF中継局一覧が消え「JOOF-TV(改行)JOOF-TAM(改行)ロゴ(8)(改行)沖縄テレビ(改行)(那覇市久茂地1-2-20)」と表示されたのちフェードアウト。また初期の頃は文字がオレンジで、住所が那覇市久茂地1-4-5(1983年10月に住居表示実施以前の地番表示)になっていた。 クロージング 皆既日食の映像が画面の右から中央へスライドしフェードアウトし、現在の放送会館がフェードインする。その後宇宙から見た琉球諸島の映像に切り替わる。このあと宇宙を映し「OTV ロゴ(8)」の表示が飛んでくる。ここからアナウンサーによるID読み上げ「JOOF-TV、8チャンネル、沖縄テレビです。本日も最後まで沖縄テレビの番組をご覧頂きましてありがとうございました。」が始まる。この後また表示が飛んでいき今度は「JOOF-TV 沖縄テレビ」の表示が奥から飛んでくる。このあとこの表示も手前に飛んでいき左からOTVのロゴが入り各地区のUHF中継局が一覧になって表示される。このあとUHF中継局一覧が消え「JOOF-TV(改行)JOOF-TAM(改行)ロゴ(8)(改行)沖縄テレビ(改行)(那覇市久茂地1-2-20)」と表示されたのちフェードアウトし停波。BGMは、大野雄二のアルバム「COSMOS」の1曲目の後半部分が流れていた。 また初期の頃は文字がオレンジで、住所が那覇市久茂地1-4-5になっていた。 3代前(1981年頃-1983年3月) オープニング ジョニー・ピアソンの二人の出会い? クロージング ホーホー鳴く片目を瞑ったフクロウの静止画? 4代前(本土復帰後-1981年頃) オープニング 不明 クロージング 不明