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榎戸の水”問答”(港南台) bgsound 日野や港南台が、武蔵国とよばれていたころのお話です。 武蔵と相模の国境線は、国や村の境であると同時に、水を分ける大切な境でもありました。このころのくらしの大部分は、農業によって支えられていました。そして、その農業とは「お米を作ること」でしたから、人々にとって水は、いのちを守ることと同じくらい大切なものでした。 武蔵と相模の境にある円海山は、武蔵にとっても、相模にとっても、大切な山でした。それほど高くない山なのですが、海に近いために、雨がよくふり、しかも、その雨をためる水ガメのような役目を持っていて、多くの川の水源地になっています。 むかしは、どこの海に流れ込むかということでその水はどこの水かということをきめていました。ですから、今は港南区になっていますが、野庭や永谷の村はもともと、相模国の村だったのです。なぜなら、野庭から流れる野庭川や馬洗川は、柏尾川に合流して、相模湾に流れ込んでいるからです。 港南台の榎戸に、”問答”という所がありました。その地名は、日野川の水源をめぐつて、武蔵や相模の村人が集まって、水の利用の仕方や順番について、話し合った場所だというふうに伝えられています。 また、水の神様である「弁天様」をまつる「巳待講」という集まりを作りました。これは巳(へびのこと)の日に集まってするおまつりの会のことで、弁天様のお使いが蛇であったこと、また、水源地は湿地でもあり、蛇、マムシが多いことなどから、水源地を守っているとされた、蛇を信仰の対象としたのです。 日野の金井村と小菅ヶ谷との境にあった水源地には、その「巳待供養塔」が建てられていて、道しるべの役目をも持っていました。 日でりや洪水になれば、その年のお米はできません。特に日でりが続き、雨の全くふらない年には、わずかな小川の水が、貴重な「いのちの水」になって、はげしい争いがおきます。ですから、そういうことにならないように、村人たちがしっかりと話し合い、きちんとしたきまりを作っておく必要があったのです。
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天狗が守ってくれる大山道 (港南台) bgsound むかし,人々は雨降山といわれる,相模の大山へお参りに行きました。 武蔵国の人たちも,小坪道や日野川の道を通り,東海道の戸塚の宿の不動坂から大山道に入って,雨降山へ雨乞いに行きました。 そして,帰り道は一言でも話をすると,途中で雨が降ってしまって,雨乞いのお参りの効果がなくなると言われていました。 ある時,武蔵国の一行は 「作物がよく育つよう雨を降らせて下さい」 と,雨降山へお願いした帰り道のことです。日も暮れて,あたりは真暗になっていました。 そのうち,峠のばあさんがいつもともしている常夜燈の明かりが見えてきました。 「ああ,よかった。道に迷わず,ここまで帰ってこれた」 と,お互いに口には出せないので,みんなうなづき合いました。 気がゆるんでお腹も空いていた一人は 〈この辺にまんじゆう屋があったはずだ〉 と思わず, 『まんじゅう!』 と言ってしまいました。 みんなハッとしましたが,何も聞かなかったように黙々と歩きました。が,心は穏やかではありません。 〈まったく,ここまで帰ってきて,せっかくの雨乞いも水の泡かもしれない。今年も作物が枯れてしまったら,どうすればいいのだ。雨が降らなんだら,あいつ何としてくれよう〉 〈とり返しがつかないことをしてしまった〉 と,当人もうなだれています。 すると,ポツリ,ポツリ,ザーと雨が降ってきました。もう常夜燈の明かりも何も見えないし,道もわからなくなってしまいました。 〈おいはぎにでも会わなければいいが〉 と心細くなって,みんな寄りかっていました。 その時,スーツと何かがおりてきました。 そして,先頭にたって道案内のように歩く姿が,雨の中に見えかくれします。鼻が大きくて高く,顔は真っ赤で一本歯の下駄をはき,山伏の格好をした大天狗と,鳥のくちばしの小天狗ではありませんか。 みんなが天狗の後を追っていくうちに,雨もあがり,無事,家に帰りつきました。 「大山道の天狗様が助けてくださった。いつも大天狗様,小天狗様が大山道で守っていてくださる」 と,安心して村人たちはくらすことができました。
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[地方] 近畿 [路線] 国道477号 [状態]おすすめ 起点…三重県四日市市 終点…大阪府池田市 四日市市内区間は路肩が広く、原付での走行はしやすい。 湯の山~日野町「鈴鹿スカイライン」は勾配がきついが快適に走られる。 日野町~琵琶湖大橋の湖東地区は他の道が入り組んで、かつ標識が少なくて迷いやすい。 日野川河口付近から湖岸沿いを走った方がよいかも。 「琵琶湖大橋」は原付は有料(20円) 湖西~(途中トンネル(有料20円)経由)~R367分岐点は勾配もきつくなく快適。 京都市(北区)内は道幅が狭く、勾配もきついが交通量も少なく、原付での走行はしやすい。 旧京北町内はは道幅が広く、勾配も少なく交通量も少ないので原付の走行は快適。 八木町~亀岡市は、R9とR372と重複し、他の枝道も多く、迷いやすい。 府道73号でショートカットしたほうがよいかも。 亀岡~(能勢町経由)~大阪は、道幅が広く、勾配もきつくない。後ろからの 車に気を付ければ快適に走行できる。 情報提供者:無記名
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源為朝の隠れ里 (上大岡・日野) bgsound 上大岡のにぎやかな街を見おろすことのできる東の丘に、雑木林があって、その一帯を「八郎ケ谷」とよびます。 為朝は、源為義の八番目の子で、鎮西八郎とよばれていましたが、保元の乱で父ととも崇徳上皇に味方して戦い、やぶれたために落人となり、ここに隠れ住んだといわれています。 この丘の切り立った崖の上に「為朝の祠」があり、今でも四月二十五日に近隣の人々が供養しています。 また、この丘のふもとには、為朝の妻の墓といわれている笠石がまつられています。 そして、明治二年にはこの丘の崖がくずれて、その横穴から古い鏡の入った壷が見つかった時には、ここが為朝の隠れ穴ではなかったかと、大さわぎになったといわれています。 為朝は日ごろ、金のお地蔵様を信仰していたといわれていて、八郎ケ谷にある富士見坂近くの子育地蔵は、為朝とつながりがあるともいわれています。 為朝伝説とは直接関係ありませんが、この上大岡東のところどころには板碑があり、鎌倉武士の子孫との言い伝えをもっている、旧家もあります。 全国各地には、平家の隠れ里はたくさんありますが、この港南区内では、もうひとつ珍しい源氏の隠れ里があります。 それは、春日神社に近い、「兎ケ谷」というところです。 鎌倉幕府を創設した源頼朝は、幼少のとき伊豆の蛭ケ小島に流されました。弟の義経は、京都の鞍馬寺にあずけられました。 頼朝の叔父の新宮十郎行家は、山伏の姿の修行者になって、武士たちをたずねて源氏の再興をうながして歩きました。 平家をたおし、源氏の世の中をつくる糸口をつけた、行家の功績を忘れてはいけないと思います。 しかし、頼朝は、この行家も弟の義経をも討たせてしまいました。行家の家来の中に、紀伊の国(和歌山県)の田井庄からでた武士がいました。 この人たちは、頼朝と行家の仲がわるくなってから、この日野川支流の奥の兎ケ谷に、ひそかに隠れ住んだと伝えられています。
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平子峠 国道477号線の滋賀県日野町と甲賀市境界にある峠。 日野町側には日野川水系の蔵王ダム、甲賀市側には安側水系の野洲ダムがある。 少し東にも旧道のようなものがついている。 峠位置 滋賀県日野町/滋賀県甲賀市 道所在地 滋賀県日野町~滋賀県甲賀市 距離 日野町側 3.44km甲賀市側 1.69km 路面距離(計算値) 日野町側 3.45km甲賀市側 1.7km 最大標高 437m 最大標高差 日野町側 134m甲賀市側 93m 平均勾配 日野町側 3.9%甲賀市側 5.5% 舗装状態 日野町側 7甲賀市側 7 路面状況 日野町側 7?甲賀市側 7? 交通量等 日野町側 5甲賀市側 4 スタート 日野町側 蔵王ダム湖端の交差点甲賀市側 交差点 ゴール 峠 地図 ルート地図 日野町側甲賀市側 走行時、スタート地点を決めかねたので、ルートラボより、適当な位置に設定。 日野町側からの峠。 日野町側 ダムの間にある峠ぐらいにしか、記憶にない。 甲賀市側 鈴鹿スカイラインの下りからつないで登る感じであり、スタート地点を定めにくい。 登坂走行ルート 日野町側(○) 甲賀市側(○) 登坂未走行ルート 無し 甲賀市側からの峠。 双方のスタート地点は、上記にも書いたように、走行時に定められず、ノンストップで通過したため写真無し。
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よろしくですm(_^. .^_)m 釣友日高クンのアユ情報① ゲート放水の日高川に釣行。気違い沙汰。当然本流はアマゾン川状態。で初湯川の最上流に入川。まるでアマゴつり。アカ飛んでるし…。で爪楊枝の様なアユ11匹でした。5時間で。悲しい。 -- クマゾー (2007-05-29 15 55 23) 釣友日高クンのアユ情報③ 2日間で走行距離650km。土曜は福井 日野川解禁。午前中ボウズ。3時から4時の1時間で13匹。日曜は揖保川。大会やったけど 2匹づつ釣って6位でした。はっきり言って今のところ 両川とも死んでます。スッカーとしたアユ釣りしたいなア~。 -- クマゾー (2007-06-20 11 25 50) 釣友日高クンのアユ情報④ 6/24 今週は揖保 美山 2連戦。揖保は死んでます。美山は かなり 釣れます。黄色の魚が釣れた時 ウグイとちゃうか?って 疑った人 かなりいたらしい(笑)。ワイも黄色いアユ 今シーズン初めて釣りました。来週のスポニチは面白い大会になるかも…。美山は今日 夕方には真茶色になってたけど。でも 美山はかなりマシです。 釣友日高クンのアユ情報⑤ 7/14 本日は長良川。何とかできました。今 水位はじわじわ上昇中。釣果は18。どこでも掛かるけど 昼からは見渡す限り誰もいないからあたり前か。でも18ヒキしかよーつりません。来週のスポニチはワシには厳しそう。ではまた~。 釣友日高クンのアユ情報⑥ 7/29 昨日の夕方から 穴場の愛知川。この前のは台風の雨で琵琶湖と繋がりドッと天然が遡上してるハズと予想し釣行。今シーズン初めての夕刻の出し掛かりを体験。今日は百だ!と意気込んだけど 何と目覚ましがならず 気が付いたら9時。でも6時間で50釣れた。監視員のオッチャンも現場売り2000円にしてくれたしエエ川やー。 釣友日高クンのアユ情報⑦ 8/16 6日間 河原生活。まず九頭竜川 放水口で2日、信じられんくらいの貧果。3日目は石川の手取川。100% 遡上アユ、が4時間で20。小さい。4日目はまた九頭竜川。今度は五松橋。型はイイが 数が出ない。6時間で12匹。5日目は何とダウン。1日寝てました。で最終日の本日 滋賀県 安曇川 朽木。小さいけど 釣れました。7時間で53匹。浅場で入れ掛かりした。明日から社会復帰できるのか? 釣友日高クンのアユ情報⑧ 9/2 今週は安曇川。魚います。人も無茶苦茶います。でも釣れます。土曜日40 日曜62。支流の北川は20センチ釣れます。上流は人いません。魚 薄いけど いきなり目印飛びます。今日は100目指したけど昼まで40で挫折しました。とにかくスゴイ人です。帰りの湖西道路の渋滞もっとスゲーけど…。 釣友日高クンのアユ情報⑨ 9/9 今回も安曇川。もう強烈な人出。さすがに今日はマトモなところは渋い。関東から6時間かけて来た人が2組もいてビックリ。監視もまわり切れずに 一人増員らしい。竿を上竿にできません。そんな中で人のたちこんでいる後ろで釣ったり 分流の分流でウロチョロしながら52匹でした。でも安曇川のアユは偉いなぁ~。釣られても釣られても みんなを楽しませてくれて…。 釣友日高クンのアユ情報⑩ 9/20 秘密編。今日は年休。一応 午前中用事を済ませたらイイ天気。で久しぶりに日高川へ。今年は不調の日高川、秋のシーズンはどうか?結果です。3時間半で7コ。型は20センチオーバー。まあ たまに掛かると 腰を抜かす程 ビックリします。9月30日のチーム対抗はかな~り 厳しそう。 名前 コメント
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上大岡・大久保地域 上大岡駅周辺を楽遊クラブの皆さんが、下記のペ-ジに紹介しています。 上大岡周辺.pdf 上大岡地域記載の文献紹介 上大岡の歴史については下記の文献に詳しく記載されています。 絵図・古文書で探る村と名主(武蔵国久良岐郡上大岡村):横浜市歴史博物館/1998.4.25. 上大岡の市街地開発の歴史については下記の記録に詳しく記載されています。 上大岡B地区再開発の歴史:上大岡B地区市街地再開発組合/2004.8.1. 大久保・林大学の頭からの書 .pdf 上大岡地域について記載のHP紹介 上大岡については、下記のHPにも詳しく掲載されています。 黒船が見えた丘 120年前の横浜・上大岡「ハマちゃんのがらくた箱」 東海道線は当初、大岡川沿いを通る予定だった!「ハマちゃんのがらくた箱」 上大岡って? 身近な所にもある戦争の痕跡! 丁度、その住宅が建てられていた景観を写した古写真が桜岡小学校保管写真の中にありました。 昭和34年頃、桜岡小学校より森ケ岡方向をを望んだ写真です。 森ケ岡の下には、規則的な2軒住宅(日平産業の社宅)が沢山並んで建てられています。この住宅は、その後ニッサンの公団型住宅に変わり、現在は高層マンションへ建て替えが進められています。(現在では、イト-ヨ-カド-の辺りになります。) 港南区の炭鉱と戦争の影 上大岡・大久保地域について歴史散策の会の記録 上大岡・大久保地域の「街歩き・歴史散策」の際は下記のペ-ジは参考になると思います。このペ-ジは「港南歴史散策の会」の過去の記録(PDF)です。 「こうなん昔ばなし」も併せてご覧になる事をお勧めいたします。 第1&29回散策-大久保、最戸-商住地区- 第1&29回散策-大久保、最戸-商住地区-.pdf 第6&30回散策-上大岡・日野川左岸の道- 第6&30回散策(上大岡・日野川左岸の道).pdf 第31回散策-上大岡東・久良岐の丘- 第31回散策-上大岡東・久良岐の丘-.pdf 第34回散策-上大岡・西福寺~久良岐公園- 第34回散策(上大岡・西福寺~久良岐公園).pdf 第35回散策-上大岡鹿島神社~笹下武者ヶ谷- 第35回散策-上大岡鹿島神社~笹下武者ヶ谷-.pdf こうなん道ばたの風土記より 富士見道路と為朝伝説 上大岡の丘から鹿嶋神社へ 森・杉田道の石仏 久良岐公園 青木神社 自性院と勘九郎地蔵 御園王の五輪塔 神奈川県戦没者慰霊堂 鎌倉古道の餅井坂 こうなんの昔ばなし より 野庭の「関城」と周辺 (上大岡・野庭) 米倉丹後守の通った道(上大岡) 源為朝の隠れ里(上大岡・日野) 桜岡小学校0142(上大岡商店街の歴史3) 桜岡小学校0141(上大岡商店街の歴史2) 桜岡小学校0140(上大岡商店街の歴史1) 桜岡小学校0124(上大岡駅前通りの歴史5) 桜岡小学校0123(上大岡駅前通りの歴史4) 桜岡小学校0122(上大岡駅前通りの歴史3) 桜岡小学校0121(上大岡駅前通りの歴史2) 桜岡小学校0120(上大岡駅前通りの歴史1) 桜岡小学校0113(上大岡京急分譲地の歴史4) 桜岡小学校0112(上大岡京急分譲地の歴史3) 桜岡小学校0111(上大岡京急分譲地の歴史2) 桜岡小学校0110(上大岡京急分譲地の歴史1) 桜岡小学校0081(大久保地域の歴史2-2) 桜岡小学校0062(上大岡地域の歴史) 桜岡小学校00611(上大岡地域の歴史) 桜岡小学校0061(上大岡地域の歴史) 桜岡小学校0060(上大岡地域の歴史) 桜岡小学校0050(上大岡地域の歴史) 桜岡小学校0049(上大岡駅の歴史7-7) 桜岡小学校0048-3(上大岡駅の歴史7-8) 桜岡小学校0048-2(上大岡駅の歴史7-6) 桜岡小学校0048-1(上大岡駅の歴史7-5) 桜岡小学校0047(上大岡駅の歴史7-3) 桜岡小学校00461(上大岡駅の歴史7-2) 桜岡小学校0046(上大岡駅の歴史7-1) 桜岡小学校0045(上大岡駅の歴史6) 桜岡小学校0044(上大岡駅の歴史5) 桜岡小学校0043(上大岡駅の歴史4) 桜岡小学校00421(上大岡駅の歴史3-1) 桜岡小学校0042(上大岡駅の歴史3) 桜岡小学校0041(上大岡駅の歴史2) 桜岡小学校0040(上大岡駅の歴史1) 桜岡小学校0011(桜岡小学校の歴史1-1) 丘の上の黒船見物 (上大岡) 上大岡東・西、大久保、最戸地区 散策の記録 ヌエが運んだ青木神社 (大久保) 桜岡小学校0091(鎌倉街道の歴史2) 桜岡小学校0090(鎌倉街道の歴史1) 桜岡小学校0080(大久保地域の歴史2-1) 桜岡小学校0070(大久保地域の歴史1) 桜岡小学校0030(桜岡小学校の歴史4) 桜岡小学校0023(桜岡小学校の歴史3-4) 桜岡小学校0022(桜岡小学校の歴史3-3) 桜岡小学校0021(桜岡小学校の歴史3-2) 桜岡小学校0020(桜岡小学校の歴史3-1) 桜岡小学校0012(桜岡小学校の歴史2) 桜岡小学校0010(桜岡小学校の歴史1) 御園王の黄金伝説 (最戸) 和田義盛の関所跡(最戸) 勘九郎地蔵 (大久保) 元屋敷の「みどり姫」 (大久保) 上大岡東・西、大久保、最戸地区 散策の記録 もちはなくとも餅井坂 <タグに 上大岡・大久保 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
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事件年表 ????年 異常型精霊ウィルーテリ・メォン、地球へと飛来 201X年 日野川濤二、樺太に現れる 202X年 自由精霊タム・リン、■■■■の■■■■■■となる 203X年 ロシア正教会神父アレクセイ、■■■■■■として■■■■■に従事する 205X年 ティル・タンジェル本土にて■■■■■■■■■■ 205X年 ■■■■にて魔術結社■■■■■結成 2062年 有坂時雨、シアワセを退社 以後フリーランスのフィクサーとなる 2063年 "パッチワーク" セルゲイ、樺太へと乗り込む 2064年 マリーナ・アンドレエヴナ・ヤクーニナ、イーヴォ豊原支社長に就任 バジル・オルムステッド、豊原入り 以後同胞の亡命支援活動に従事 206X年 ヴィッカ、樺太にてロシア正教会司祭アレクセイに出会う 2067年 三浜擁する企業軍特殊部隊――通称■■■■壊滅、部隊生存者一名 久我山組三代組長、久我山正平死去 その妻千鶴、同四代目を継承 2068年 シアワセ豊原支社、壊滅的な大損害 2069年 樺太にてシャドウランナー“ムーン”誕生 ウラジミール=ヤマシタ、一浪の末に志望校合格 2070年 1月10日 双子姉妹の店舗にて強盗事件発生、同日解決(第0.2話) 3月4日 兵藤弘庸、シアワセ豊原支社長に就任 6月11日 日本本土-樺太間航空便にて覚醒生物密輸事件発生、同日解決(第0.1話) 同便にて鷹見、ミカエラ両名樺太入り フィクサー有坂に出会う 6月13日 マンハント・カーニバル発生 同日深夜終了(第0.3話) 6月14日 密輸犯のボブ、釈放される 以後行方不明 6月16日 須々木鈴季、三浜豊原支社へと赴任 6月20日 ロングアーチ亡命事件発生 同日解決(第1.0話) 6月23日 クラブ・アトミックにてギャンブル混じりの酒宴(第1.1話) 6月24日 聖ヨハネ祭(夏至の祭) ムーン、二日酔いながらも取り仕切る 6月30日 赤いサイバーハンドの男、殺し合いがしたいと駄々をこねる 7月2日 アシリ・レラ、ティル・タンジェルへの渡航許可を得る(第2.0話) 7月5日 ロシアンマフィアのボス、セルゲイが襲撃される その場に居合わせたヴィッカ、赤いサイバーハンドの男と交戦 7月6日 久我山組緊急幹部会 甲東会による久我山組支援が決定される 7月8日 ミカエラとヴィッカ、探偵及びバルボアチームに尾行される(第2.1話) 7月11日 大条一徹及び津島亮平、樺太入り(第2.2話) 7月14日 ロシアンマフィアと魔術師ヴァンキッシュ、樺太港にて覚醒者の子供を取引する 7月17日 デイビッド・ボゥイ、ムーンに人身売買事件の調査を依頼(第3.0話) 7月18日 ムーン、ミカエラ、鷹見の三名がヴァンキッシュの工房へと突入する その後、現場に到着した警官隊により子供達の一部が保護される 7月19日 ミカエラとムーン、上位次元界にて世界の記録にアクセスする(第3.1話) 7月26日 鷹見、須々木鈴季からの要請でオハ郊外の屋敷にて潜伏中のセルゲイを捕捉(第3.2話) 7月31日 ヴィッカ、鷹見、ムーンの三名が史博碩を殺害(第4.0話) 7月某日 ティル・タンジェルのゴースト隊、樺太入り 7月某日 赤いサイバーハンドの男、豊原郊外のロシア正教会へと誘拐目的で侵入 その場に居合わせたアレクセイ司祭によってフルボッコにされる 8月1日 北樺太にて待機していたロシアンマフィアが南下、反攻を開始する 8月2日 ミカエラとムーン、日野川濤二に面会(第4.1話) 8月3日 豊原中華街にて史博碩の葬儀が行われる 日野川濤二、葬儀会場にて史博碩の孫娘、史嘉樹に接触 8月4日 ミカエラ、ティル・タンジェルのゴースト隊による襲撃を受ける(第5.0話) その場に居合わせたヴィッカ、鷹見、有坂、赤いサイバーハンドの男、それぞれ重傷あるいは逃走する 8月7日 ミカエラ、ムーン、ヴィッカの三名がゴースト隊を襲撃、全滅させる(第5.1話) 同日夜、ミカエラがバジルと会談(第5.2話) 8月10日 在豊原ロシア連邦総領事館爆破事件発生(第6.0話) 8月11日 豊原商工会議所内にて樺太におけるシアワセ、イーヴォ、アレスの代表が会談 8月12日 大条一徹の銃砲店で在庫が盗まれる(第6.1話) 鷹見とムーンが暴走族チーム・カーネルサンダースから奪われた在庫を取り戻す 8月15日 須々木鈴季と謎のオーク、もといセルゲイが密談(第7.0話) 8月20日 久我山組本家がロシアンマフィアによって襲撃され、炎上の末に全壊(第8.0話) 久我山千鶴の死亡が確認される 8月21日 赤いサイバーハンドの男、ヤマダの家に転がり込んで居候を始める 8月22日 樺太におけるマフィア同士の大規模抗争が終結 8月25日 リディヤ・ヴェニアミノヴナ・ゼレンキナ率いる傭兵団が樺太から撤収 9月12日 アレクセイ司祭がセルゲイに各種物品の調達を依頼 10月15日 樺太の暴走族チーム、カーネルサンダースと装甲十字軍が公道上で激突(第8.1話) 装甲十字軍のリーダー、ジーザス・クライスト・ハイウェイスターが死亡する 10月24日 アズテクの牧場から遺伝子改造を施された牛四頭が脱走、内三匹行方不明(第8.2話) 10月29日 人気歌手フェルディナン・ジョリヴェ、本人含め一家全員9名が殺害される(第8.3話) 10月30日 アレクセイ司祭、豊原国際空港より出国 11月2日 赤いサイバーハンドの男、鉄屑と化す(第9.0話) 11月6日 JIS管理下の社会福祉施設にて爆発事件発生、児童含め死傷者十三名の惨事に 11月10日 復讐に燃える一人の少女とその相棒、行方不明となる(第10.0話) 11月23日 簡単な仕事の夜(第10.1話) 11月28日 続・簡単な仕事の夜(第10.2話) 12月17日 豊原シアワセアーコロジー内にて殺人事件発生(第11.0話) 社員の家族及び警備員含め死者多数 12月18日 サンクトペテルブルクにおいてロシア正教関係者に対する誘拐事件発生 12月末 ヤマダ、樺太を去る 12月末 アレクセイ司祭、樺太を去る 12月末 マリー、樺太を去る 12月末 ヴィッカ、真人間を目指す 12月末 鷹見、樺太を去る 12月末 ムーン、樺太に残る 12月末 (最終話) セッション履歴とカルマ収支 2007/09/12 第0.1話(ミカエラ21点、鷹見21点) 2007/09/18 第0.2話(ヴィッカ18点、ムーン21点) 2007/09/19 第0.3話(ヴィッカ24点、ムーン18点、ミカエラ18点、鷹見9点) 2007/09/27 第1.0話(ヴィッカ18点、鷹見21点、ムーン18点) 2007/09/28 第1.1話(ヴィッカ8点、鷹見8点、ムーン8点、ミカエラ8点) 2007/10/03 第2.0話(ミカエラ18点、ヴィッカ21点、鷹見18点) 2007/10/03 第2.1話(ミカエラ12点、ヴィッカ12点) 2007/10/04 第2.2話(鷹見3点) 2007/10/12 第3.0話(ミカエラ24点、鷹見24点、ムーン24点) 2007/10/13 第3.1話(ミカエラ12点、ムーン12点) 2007/10/14 第3.2話(ミカエラ8点、鷹見12点) 2007/10/16 第4.0話(ミカエラ6点、ヴィッカ15点、鷹見18点、ムーン12点) 2007/10/17 第4.1話(ミカエラ8点、ムーン8点) 2007/10/20 第5.0話(ミカエラ15点、ヴィッカ15点、鷹見18点) 2007/10/24 第5.1話(ミカエラ18+3点、ヴィッカ18+3点、ムーン18+3点) 2007/10/26 第5.2話(ミカエラ4点) 2008/02/07 第6.0話(ヴィッカ21点、鷹見18点、ムーン18点) 2008/02/16 第6.1話(鷹見10点、ムーン10点) 2008/03/08 第7.0話(ヴィッカ18点、鷹見18点、ムーン15点) 2008/04/14 第8.0話(ヴィッカ27点、鷹見24点、ムーン27点) 以下経験値倍率2倍にて算出 2008/04/24 第8.1話(鷹見10点、ムーン10点) 2008/05/01 第8.2話(ヴィッカ10点、鷹見10点、ムーン10点) 2008/05/02 第8.3話(ヴィッカ8点、鷹見8点) 2008/05/04 第9.0話(ヴィッカ10点、鷹見8点、ムーン10点) 2008/05/11 第10.0話(ヴィッカ16点、鷹見16点、ムーン18点) 2008/05/18 第10.1話(ヴィッカ6点、鷹見6点、ムーン6点) 2008/10/19 第10.2話(ヴィッカ6点、鷹見8点) 2008/10/28 第11.0話(ヴィッカ24点、鷹見28点、ムーン28点)※3倍算出 2008/10/28 最終話(ヴィッカ16点、鷹見16点、ムーン16点) ※ログ等はSandBoxに添付中
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八岐大蛇(八俣の大蛇、ヤマタノオロチ)は、日本神話に登場する伝説の生物。八岐大蛇は、日本書紀での表記。古事記では八俣遠呂智と表記している。略称は大蛇(オロチ)。「お」は峰、「ろ」は接尾語、「ち」は霊力、また霊力あるものの意。 8つの頭と8本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの谷、8つの峰にまたがるほど巨大とされている。 大酒飲みを意味するうわばみという言葉は酒好きであったこの怪物に由来する。 説話 高天原を追放されたスサノオは、出雲国の肥河(斐伊川)の上流の鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)に降り立った。川上から箸が流れてきたので、川上に人がいると思って川を上ってみると老夫婦が泣いていた。その夫婦はオオヤマツミの子のアシナヅチとテナヅチであった。夫婦には8人の娘がいたが、毎年古志(越国とも出雲国古志郷とも考えられる。あるいはその時代製鉄の先進地帯で、出雲側から山越しするので吉備地方を古志としていたとも考えられる。)からヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまった。今年もオロチのやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘のクシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)も食べられてしまうので、泣いているのであった。 スサノオは、クシナダヒメを妻として貰い受けることを条件に、ヤマタノオロチ退治を請け負った。スサノオはクシナダヒメを守るためにその姿を櫛に変えて髪に刺した。そしてアシナヅチ・テナヅチに、強い酒を醸し、垣を作って8つの門を作り、それぞれに醸した酒を満たした酒桶を置くように言った。準備をして待っていると、ヤマタノオロチがやって来た。オロチは8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。オロチが酔ってその場で寝てしまうと、スサノオは十拳剣を抜いてオロチを切り刻んだ。尾を切り刻んだとき、剣の刃が欠けた。剣で尾を裂いてみると大刀が出てきた。これは不思議なものだと思い、アマテラスにこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。 ヤマタノオロチを退治したスサノオは、宮殿を作る地を探して出雲国の須賀の地へやって来て、「ここに来て、私の心はすがすがしい」と言ってそこに宮を作った。それでその地を須賀という。宮が完成したとき雲が立ち昇った。そこで、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じた。 解釈 記紀にみえる神話には、動物神が人間神に倒されるというアンドロメダ神話に代表される類型がみられる。また、オロチは水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられている。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。 あるいはこの当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、出雲風土記には意宇(イウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名は、モリ=守、すなわち戦闘に守り抜いたことを記念してつけた名前であると記されている。この交戦状態にあった相手である「越の八口」との戦いがこの神話の原型ではないかという説もある。 天叢雲剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされている。オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄で川が濁った様子を表しているとする説もある。 のちに宮中の天叢雲剣は入水した安徳天皇とともに失われるが、『平家物語』は、これを八岐大蛇が安徳天皇となって天叢雲剣を取り返しに来たとする。(天叢雲剣のその後の所在については諸説ある。詳しくは天叢雲剣の項参照) 島根県の斐伊川には、出水後に「鱗状砂洲」と呼ばれる、蛇の鱗を思わせる砂洲が幾条も構成される。これが大蛇のイメージを作り上げたとの説がある。 また、島根・鳥取県境にある船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川等の川およびそのその支流を頭が八つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川をオロチ河川群と呼ぶ。
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幻の笹下城 (笹下) みなさん,笹下にお城があったという話を信じますか。 幻の笹下城といわれている城は,いまの成就院のあたりの高台を中心として,築かれた戦国時代のお城です。 しかし,調査が充分行われないうちに,洋光台の開発の波にのみこまれたために,その内容が詳しくはわからないので,幻の城ともいわれているのです。 このお城を築いたのは,小田原北条氏に仕えた間宮豊前守信元であったとされています。 古くは,篠笥城とも佐々木城とも呼ばれていました。この近くには,空堀,水堀,犬走りの跡らしいものが見受けられます。 杉本(笹下四丁目)あたりから見渡しますと,山あり,谷ありで,その間にはいく筋もの川が流れていました。 このような自然の地形を利用するのを,「谷津構え」の山城ともいうのです。 さらに,その外がわには,北に日野川,東に笹下川,南に笹下川支流がめぐり,西側にはけわしい山があるのです。いざという時には,ここから大船にあった玉縄方面へも連絡することができたのです。 織田信長が安土城を造ってから後の,安土桃山時代や江戸時代には,平地に天守閣がそびえる,きれいなお城が造られるようになりましたが,それ以前はこうした自然の地形を利用した,砦のような要塞を造るのが普通でした。 その時代には,戦いがない時には,城をまもるべき武将の生活は,陣屋と呼ばれるところで行われていました。 間宮氏の陣屋は,現在の「洋光台入口」の信号から西の,山を背負った平地にあったと考えられています。 「間宮一族って,どんな武士団なの?」 よく,そんな質問を受けます。 この横浜を代表する,戦国の武将については,非常に話題も多いので,かいつまんでいくつかをとりあげてみたいと思います。 戦国時代のはじめ,北条早雲が,そのころ関東地方を支配していた山内上杉氏と扇ケ谷上杉氏に対して,戦いをしかけたことがあります。 そして,いまの横浜駅の近くにあった,権現山という砦に兵をかまえました。両上杉氏は二万の大軍をもって,権現山を攻撃しました。 この時,砦のなかから,間宮と名乗る武者が,たいへん派手なよろいを着て,兜のさきには笠印という小さな旗のようなものを付けて,敵陣へと打って出たのです。 その笠印には,佐々木源氏の紋章である「四つ目結び」が浮き出ていて,それが浜風になびくさまはたいへん勇壮であったそうです。 城を守る武士たちは 「間宮をうたすな,間宮をうたすな」 と応援にかけつけ,激しい戦いになったとのことです。 この戦いがあってから,間宮氏は小田原北条氏に認められたらしく,「相模衆十四家」の筆頭として,北条早雲の相模進出の最前線をまかされることになりました。 そして,両上杉氏にそなえるために,間宮信盛が,いまの京浜急行川崎駅に近い,堀之内という場所に館を築きました。 しかし,上杉氏がだんだん勢力を失い,北関東へと退いて行きましたので,信盛の子,信元が笹下へと移ったのです。 なぜかと言いますと,その頃,房総(いまの千葉県)にいた,里見氏の勢力がだんだん強くなり,特に,その水軍がしばしば金沢や磯子などの,久良岐郡沿岸に上陸してくるようになったからです。 里見氏撃退は,小田原北条氏にとつて重要なことでした。 笹下に移った間宮氏は,本城以外にも,杉田陣屋,森陣屋,氷取沢陣屋,さらには港南区の中登台に松本城などを設け,兵力を張り巡らせていました。 そのため,さしもの里見水軍も攻めてくることがなくなりました。 時代がくだって,豊臣秀吉の天下統一により,小田原北条氏は滅ぼされます。 しかし,この時,間宮一族の箱根の山中城を守った戦いぶりが,あまりにみごとであったため,攻撃軍の徳川家康は,笹下に残っていた間宮氏のなかから,多くのものを家臣として取り立てました。 のちの世に,その一族からは,間宮海峡を発見した間宮林蔵や,オランダ医学をはじめて我が国に移入した,杉田玄白のようなりっぱな人たちも多く世にでたのです。