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EB-6r グレイズ・リッター 概要 EB-06 グレイズのバリエーション機のうちの一つ。主に軌道上や月面といった低重力下での運用を想定して機動性と装甲防御力を強化したカスタム機であり、武装親衛隊月軌道方面軍中心に配備が進んでいる。 同様にグレイズベースのカスタム機としてシュヴァルベグレイズが存在するが、扱いが難しく整備性にも難がある前者と比較すると本機は同じくツインドライブ化による大出力化が図られつつも一定の操縦性を維持しており、堅牢な装甲防御力もあって無理もきく本機の方が汎用性に優れているという違いがある。 機体外見 機体構造 基本構造は変わらないものの、コクピット周り及び推進器にサイコフレームが採用される事で機体追従性の向上が図られている。また、動力はバインダーユニットに太陽炉を外付けする事でツインドライブシステムを採用。これによりハイエンド機に匹敵する推力を得ている。 騎士甲冑のような特徴的な外見の外部装甲はスラスターユニットを兼ねており、フレームとの接続部を支点に自在に可動が可能となっており、推力偏向や姿勢制御を容易としている。 アビオニクス 頭部ブレードアンテナを標準装備とした事で指揮管制能力及び索敵能力の向上が図られている。 またサイコフレームを採用したことで操縦系の一部にナイトロシステムが組み込まれるなどの原型機との違いが見受けられる。 武装 基本的に原型機と変わらず。オプション兵装も共通。唯一標準の手持ち格闘兵装がハンドアックスではなく、ナイトブレードに変更となっている。 GNナイトブレード 西洋風の直剣型武装。日本刀のように『切る』のではなく、武器そのものの自重で『叩く』事を主眼としており、切れ味は長刀型に劣るものの頑強さに優れる。刀身からGNフィールドを展開することで簡易的な防御兵装としても機能する。 アビオニクス ナイトロシステム コンフォーマルアレイレーダー PS装甲 繊維型関節駆動システム 液体窒素充填型軽量カーボンフレーム 第三世代型搭乗者保護システム 統合戦術情報伝達データリンクシステム OBLシステム(オペレーション・バイ・ライトシステム) バイオコンピューター搭載型教育式OS 作戦行動予測システム 統合戦術情報伝達データリンク『レギオンシステム』 バリエーション機 EB-6rs/m グレイズ・リッター メリル・フランダース専用機 概要 第13独立義勇師団司令部付小隊二番機のメリル・フランダースに専用にカスタマイズされて与えられた機体。赤地に白いラインが入った派手なカラーリングが特徴。ベースは指揮官仕様のrs型。 比較的精度のいいパーツを選別して選んだ上にスラスターのリミッターを最初からオミットした事で機動性と運動性の向上を図っている。その半面扱いは極めて難しいピーキーな機体。 武装 AMWS-G11 先進型多目的突撃銃 原型機には装備されていない先進型多目的突撃銃をOSを改良して対応させることで装備している。 GNガトリングシールド 小型シールドと一体化したガトリング砲。シールド内に独立した小型太陽炉を装備する事でこの手の武装としては極めて高いビーム出力を誇る。 EB-6r/SP グレイズ・リッター リーシャ・ドライツェーン専用機 概要 r型をベースにサイコフレームの含有率を高めたフレームに換装。さらにリアスカートアーマーを延長してGNファングのマウントコンテナとした事でオールレンジ攻撃を可能としている。また、リーシャの要望でGNナイトブレードを左右のサイドスカートアーマーに装備する二刀流となっている。 カラーリングは銀色。 武装 ロングレンジライフル 先進型多目的突撃銃にロングレンジバレルと火器管制システムを追加装備した長砲身仕様。バレルの下部には冷却板を兼ねたブレードが装備されている。 GNラウンドシールド 左腕に装備している円形のシールド。丸みを帯びた表面で敵からの銃撃や斬撃を逸らす事を意図している試作品。内部にGNコンデンサーを内蔵しており、表面にはコンデンサーと直結する事で大出力を実現した拡散ビーム砲を装備している。 GNファング リアスカートアーマーに装備された小型のGNファング。三角錐型の形状をしており、先端からビーム刃を出力可能なビーム砲を備える
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[[ローマを継ぐ者(1) ../ローマを継ぐ者(1)]] [[ローマを継ぐ者(2) ../ローマを継ぐ者(2)]] [[ローマを継ぐ者(3) ../ローマを継ぐ者(3)]] ここまでのあらすじ [#b4ef6449] 天下三分 [#g7a0af1d] 激震 [#d82a33e8] 電撃戦 [#u0ca8c92] ローマを継ぐもの [#h954cd35] おまけ [#z88850f4] コメント [#bb330d53] ここまでのあらすじ 人口1500万人の国で100万人の騎士団を作って400万人殺したら1800万人が不幸になったのでしばし休戦。 天下三分 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1008AD.jpg) 11世紀は大帝国の鼎立と共に始まった。東のビザンツ・北のアウストラシア・西のランゴバルドである。ビザンツは兵力が多く、アウストラシアは精鋭騎士団を抱え、ランゴバルドは金を大量に持っている。切り取るべき小国が無くなった以上、今後の勢力拡大は帝国同士の激突によって達成されねばならない。 現在、アウストラシアが仮想敵国とするのはランゴバルドである。ビザンツ・ブルグントに対しては先のローマ大戦で厭戦感情が蓄積しており、宣戦すれば一瞬にして領内が暴動の嵐に見舞われる。泥沼の戦争を展開する間に漁夫の利を取られてはたまらない。ローマ同士の決戦は最後の最後である。 となれば、次なる敵は必然的にランゴバルドという事になる。そこで騎士団を使い元ブルグント領の地形改善と道路をことごとく破壊、ランゴバルドの入植に先手を打っておく。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (pillage.jpg) アウストラシア軍は東西2方面に分かれてそれぞれの国境を監視。現有戦力は重弩兵59体と騎士56体。質量とも充実しているが東西に長い領土を防衛するため余剰兵力はあまり無い。他国がどう動くか読み切れない段階では迂闊に兵を動かせず、しばし無風状態が続く。 激震 平和が続くかと思われた1016AD、ビザンツ帝国がランゴバルド帝国に侵攻。この世界は大戦が起きていない状態の方が異常らしい。アウストラシアはランゴバルドとの通行条約を利用して戦争監視団を送り込む。ランゴバルドは西部に兵力を集中しているためか各都市10ユニット程度の防備しか無いものの、ビザンツの侵略部隊もいくつかの正面に分散しており防御側が有利。しばらく戦闘が続くもランゴバルドで偉大な将軍が誕生した以外大きな動きは無し。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (byz_lanwar.jpg) アウストラシアは現状にやや不満が残る。アウストラシアがビザンツに対して厭戦を蓄積しているのと同様、ビザンツもアウストラシアとの戦いで巨大な厭戦爆弾を抱えている。つまりビザンツがいくら巨大化してもアウストラシアがこれを打ち破る事は可能であり、ランゴバルド軍が壊滅する展開の方が望ましいのだ。そこでアウストラシアは急遽国境を閉鎖、東部へ救援に向かうランゴバルド西部方面軍を閉め出した。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (closeborder.jpg) これで同軍団は道路の寸断された南仏に迂路を求める他無くなり、約6ターンの遅れが生じた。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1040AD.jpg) 果たしてこの策が功を奏し、1040ADまでにランゴバルドの3都市が陥落。救援部隊が都市の防衛でなく奪還に投入された事でランゴバルド軍の犠牲は膨らむ一方である。兵力の乏しさと東部戦線への傾注によりランゴバルド西部は無防備に近くなる。仕掛けるなら、今だ。 電撃戦 1046AD、アウストラシア帝国は南仏ランゴバルド領に侵攻。開戦と同時に騎士の強襲でスポレート・ポワティエの2都市を破壊する。同年アングロサクソンがランゴバルド側で参戦するが小島の夜郎国に出来る事など無い。1048ADにボルドーを占領、アキテーヌへの足掛かりを得る。更に北仏分遣隊がパリ西方のソワソンを破壊してネウストリア残り1都市。1054ADにルルドを破壊、これでランゴバルドの直轄領は南仏地域から一掃された。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1060adfrance.jpg) 侵略の火は南へ広がる。侵攻軍団2個が南仏アキテーヌに進撃、オーシュとバイヨンヌの2都市を同時攻撃する。守備部隊は両都市合わせてわずか14、津波に飲み込まれる様にしてどちらも陥落した。アキテーヌは小島の1都市を残すのみとなりランゴバルド帝国から独立。1064ADの事である。 ランゴバルド勢力は東部戦線でも惨敗。東端のピサを明け渡した後残る都市は5つのみ。東方に突き出す格好になったジェノアに迫るはビザンツ軍31ユニット。駐留兵14ユニットは最初の突撃を退けるが残存部隊全てが瀕死の惨状。そこにビザンツ軍の後詰37ユニットが到着する。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1060adgenoa.jpg) ランゴバルドの降伏が秒読みに入った。ここでアウストラシアはビザンツと交渉、1535ゴールドと引き換えにランゴバルドと講和させる。奴に止めを刺すのはこちらの仕事。勝利の果実をもぎ取るのはビザンツでなくアウストラシアだ。 1066AD、アキテーヌ降伏。北イタリアのランゴバルド領ヴェローナを主力軍団が包囲。砲撃に続いて騎士団が突撃、22勝4敗で同市を占領。14人目の偉大な将軍が誕生。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (captureverona.jpg) 1070AD、ネウストリア最後の都市ロウエンを別働隊が攻撃。騎士7体の犠牲を出したが攻略に成功、即座に蹂躙。ネウストリア滅亡。 同年、属国を失って闘志の折れたランゴバルドはアウストラシアに降伏。戦争終結の運びとなった。今大戦におけるアウストラシアの戦績は104勝22敗。丘陵都市への突撃が黒星を増やした様だ。 ローマを継ぐもの #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1070AD.jpg) アングロサクソンとの講和も果たし、アウストラシアは悲願であった西方の安全を手に入れる。これでフランス方面の駐留部隊を大幅に削減可能だ。 1074AD、アウストラシアは保有戦力の90%を帝都以東に集中。同時にバイエルン領を偵察。フライジング、守備6ユニット。ウィッテン、同3ユニット。攻城兵器が所定の位置に到達する。 準備完了。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (capturewitten.jpg) 1076AD、アウストラシアはビザンツに対し宣戦。主力騎士団がバイエルン領になだれ込む。同時に西部方面別働隊がブルグント最後の都市を目指し西進。小規模な野戦が発生するが圧勝。翌ターン1078AD、東部方面軍がバイエルンの前線を粉砕しフレイジング・ウィッテン両都市を制圧する。 明けて1080AD。キリスト教都市の占領により宗教評価点が163に到達、アウストラシアの得点勝利が達成された。神聖ローマ帝国の誕生である。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (holyroman.jpg) 23時間26分に及ぶ激戦の最終成績は954勝109敗。偉大な将軍は通算14人誕生した。最終保有兵力は213ユニットで兵数134万人。人口は2569万人で堂々の首位である。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (placeinhistory.jpg) 歴史評価点は37176点。神聖ローマ皇帝カールはローマ皇帝アウグストスとその偉業に於いて肩を並べた。 彼の名はこの世界においてもヨーロッパの父として歴史に刻まれるのだ。 おまけ 宗教評価点は領内の信者や教会の数で概ね決まるのだが、実は教皇に金を貢ぐという方法で簡単に上昇させる事が可能である。 そういうわけで早解きに挑戦してみよう。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (paris_initial.jpg) 難易度天帝で指導者は哲学志向を持つキルペリク一世。都市を1つと市場を購入し、開始ターンから商人を雇用する。税率は100%で富以外の物は生産しない。 608AD、1人目の偉大な商人が誕生。ローマに派遣して1100ゴールドを得る。 632AD、2人目が誕生。近場の都市で900ゴールド獲得。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (tithe.jpg) そして保有する2410ゴールドを全て教皇に上納。宗教評価点が120ポイント増加する。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (chilpericwinsgame.jpg) 勝利。所要時間8分。 結論:地獄の沙汰も金次第。 コメント 最後までお付き合い頂きありがとうございました。ご感想などありましたらお寄せ下さい。 ひでぇ話だヨwwww -- 一回このシナリオやったら、このレポの高度さがよくわかる。。。 -- 戦争・戦闘に関してはこのレポが1番優れてると思う -- おまけくそワロタwww -- 私もクリアしてきたけど、こんなオチがあったとはw -- 最後ワラタw -- 最後ワラタw -- 所要時間8分wwwwwww -- 教皇の右手は、okサインじゃなくて金のことだったのか。 -- 最後の方法に気づいたときはクソ笑った。MOD制作者わざとだろw -- 名前
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概要・戦術 ミッションNo.09をクリアすることによって使用可能となるキャラクター。 地球連邦軍極東方面軍独立機械化連隊長イーサン・ライヤーの指示により暗躍するジムスナイパーのパイロット。 名無し兵でありながらもEz8を半壊させ、ギニアスのアプサラスⅢによるジャブローへの攻撃を断念させる活躍を見せる。 最後はコックピットを撃ち抜かれ死亡したかのように見えたが、ガンダムファイターズでは奇跡の生還を果たしている。 ゲームでは持ち前の長い射程を生かして戦っていくことになる。 基本的には弱Sと強Sを選んで撃ち続けるだけだが、強Dと超殺も選択して上手に使っていこう。 接近されるとAと弱Dしかなくかなり脆いので、基本的には敵を寄せ付けず自分からも近づかないようにしよう。 通常攻撃 【通常攻撃(A)】パンチ 少し発生の遅めの単発のパンチ。格闘迎撃にはこれか弱Dを使っていこう。 【打ち上げ攻撃(A長押し)】パンチ 上に同じ。 【ため攻撃(A+進行方向のキー)】パンチ 上に同じ。 必殺技1 【弱必殺1(弱S)】ロングレンジビームライフル ジムスナイパーの代名詞であるロングレンジスナイパーライフルを水平に発射する。 ビームは細い照射ビームのような感じで、銃身が長く近距離では当たらない。また、発生も遅い。 しかし、火力と射程が素晴らしく特に火力は一発当てるだけで敵のHPがモリモリ減ってゆく。 また、ダウンゲージもあまり削らないので連続で当てても敵がダウン状態になりにくい。 クセの強い武器だがダメージソースはほとんどこれ。 【強必殺1(強S)】ロングレンジビームライフル ロングレンジビームライフルを斜め上に発射する。弱Sより溜めは短い。 唯一の対空技だが、やはり発生が遅く敵の硬直に合わせて撃つことは難しい。 しかし、敵キャラによっては主力ともなりうるので弱Sと上手く使い分けよう。 必殺技2 【弱必殺2(弱D)】あと5分待ってダッシュ 「あと7分、いや5分ください!」 敵に向かって突撃する。突進速度は遅く、モーションは長い。火力は低いので、主に格闘迎撃に使おう。 移動距離はそれなりだが速度が遅いので、原作と違い狙撃ポイント移動には適さない。 【強必殺2(強D)】うつ伏せモード移行 うつ伏せ状態へ移行する。D追加入力で途中解除可能。うつ伏せ中は打ち上げ攻撃と弱Dは使用不可になる。 近距離では逆に不利になりかねないので敵との距離を置いて使おう。 超殺ゲージを常に消費するので超殺とどちらにするかしっかり考えよう。 また、S弱、S強ともに連射性能が上昇し敵へどんどん攻撃を当てられるようになる。 うつ伏せ中でも移動は一応可能だが全キャラ中で最も遅いので注意。 また、うつ伏せ中はヒット判定が小さくなるのでビームライフルやパンチなど様々な技をスルーできる。 しかし、強力な対地技や巻き込みやすい攻撃には無力なので注意。 【強D中通常攻撃(強D中A)】ロングレンジビームライフル打突 ロングレンジビームライフルで突く。根元には判定がないので、密着状態では当たらない。 【強D中ため攻撃(強D中A+進行方向のキー)】ロングレンジビームライフル打突 上とほとんど同じだが、こちらは判定が銃口付近にしかない。 【弱必殺1(弱S)】ロングレンジビームライフル 通常時と同じく細い照射ビームを水平に発射する。 通常時よりも連射性能が上昇している。 【強必殺1(強S)】ロングレンジビームライフル 通常時と同じく細い照射ビームを斜め上に発射する。 通常時よりも連射性能が上昇している。 超必殺技(F) 【超狙撃】 ロングレンジビームライフルを発射する。発生は弱Sよりも遅いがビームは通常より太く、途中から斜め上に向かって撃つ。 威力や射程が優秀な技だが他の照射ビームよりも細いため、若干当たりづらい。 強Dで超殺ゲージは大きく減るため、超殺と強Dどちらか選んで使っていくのがベスト。 コンボ 【オススメコンボ】 入力 備考 【バリアブレイクコンボ】 全て打ち上げ攻撃が始動。 入力 備考 【その他のコンボ】 入力 備考
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【元ネタ】史実 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】ナポレオン 【性別】男性 【身長・体重】167cm・68kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷D 魔力E 幸運B+ 宝具EX 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 単独行動:B マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。 ランクBならば、マスターを失っても二日間現界可能。 【固有スキル】 カリスマ:A 大軍団を指揮する天性の才能。 Aランクはおおよそ人間として獲得しうる最高峰の人望といえる。 軍略:A- 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。 自らの対軍宝具や対城宝具の行使に極めて有利な補正が与えられる一方で、 相手の宝具への対処は不得手としている。 皇帝特権:EX ―――余の辞書に不可能の文字はない 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できる。 該当するスキルは騎乗、剣術、芸術等。 ランクがA以上の場合、肉体面での負荷(神性など)すら獲得する。 アーチャーが皇帝になる前の状態で召喚された場合、このスキルは「星の開拓者」となる。 扇動:A 数多くの大衆・市民を導く言葉を身振りの習得。 特に個人に対して使用した場合には、ある種の精神攻撃として働く。きわめて強力。 【宝具】 『時馳せる英雄伝説(ソレイユ・ダウステルリッツ)』 ランク:EX 種別:対民宝具 レンジ:‐ 最大補足:最大1都市 革命をもたらしたアーチャーの影響力の発露である、常時発動型の対民宝具。 範囲内の英霊は民意を獲得する程魔力の貯蔵量・回復量が向上する。 戦いに大義名分が得られるほどそれらは上昇し、民を傷つけ卑劣であるほど低下する。 この効果が及んでいる間は聖杯戦争が行われていると言う事が周知の事実となる。 詳しい事がわからないが英雄が戦っている――その事実が新たな信仰を生む。 『救国の軌跡(カノン・ド・エロイカ)』 ランク:C++ 種別:対軍宝具 レンジ:5~60 最大捕捉:200人 世界制覇を目指したアーチャーの戦争芸術の一部が具現化したもの。 自身からレンジ5~60の範囲の任意の地上に、 魔力を砲弾とする砲台を 充填済みの状態で魔力の限り幾つでも召喚することが出来る。 二発目以降は砲弾を充填するのに多少の時間を要するが、 更なる魔力の消費によりその充填時間を短縮することができる。 【Weapon】 『望遠鏡』 戦場を観測するための望遠鏡、索敵や着弾観測にも使用する。 【解説】 第二次百年戦争末期における”最後の英雄”。 元はコルシカ島の生まれで、フランスでは孤独な学園生活を過ごしたという。 その反動か、わずか11ヶ月で士官学校を卒業し、砲兵少尉として任官すると、 革命初期のトゥーロン攻囲戦で瞬く間に頭角を表す。 テルミドールのクーデタの煽りを受け一時休職処分にされるが、 続くヴァンデミエールの反乱では総裁政府のバラスに抜擢され、暴徒を鎮圧。 これによりナポレオンは27歳の若さでイタリア方面軍の地位を得る。 そして、イタリア遠征で国民的な人気を得て、軍の第一人者となると、 ブリュメールのクーデタで総裁政府を打倒して自らを第一執政とする。 フランスの指導者となったナポレオンは、アルプスを越えてマレンゴの戦いに勝利し、 イギリス、オーストリアなどと和平し、国内を一時的に安定させる。 そして、1804年に国民投票で第一帝政を開始して諸国を侵略し、 戦争芸術の粋とされる三帝会戦での勝利によって、フランスに栄光をもたらす。 しかし、イギリスへの大陸封鎖や半島戦争、ロシア遠征での失敗で斜陽に陥り、 同盟諸国とのライプチヒの戦いで敗れ、エルバ島に流された。 その一年後には帰国して復位を果たすが、英・普とのワーテルローの戦いの結果、 ナポレオンの野望は完全に終止符を打たれた。
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テイニクェット・ゼゼーナン (バンプレストオリジナル) ゲストの太陽系方面軍司令官。ゾヴォーグ連合の元筆頭書記官で、バラン・シュナイルのパイロットである。地球人を猿呼ばわりする傲慢な性格の持ち主。 ズ・ザンバジル(超電磁マシーン ボルテスV) 黄金城に住み労奴階級を搾取していた、ボアザン星の前皇帝。ボルテスチームの活躍と革命によって、その地位を追われる。元はバルマーの傘下だったが宇宙連合に寝返り、再びかつての権勢を取り戻そうと企む。 女帝ジャネラ(超電磁ロボ コン・バトラーV) キャンベル星反和平派勢力の司令官。美女と鬼女の二つの顔を持つ。ザンバジルと同じくバルマーから宇宙連合へと寝返った。 オルバン大元帥(闘将ダイモス) 平和主義者のリオン大元帥を暗殺し、地球との戦端を開いたバーム星タカ派の首魁。 ダリウス大帝(大空魔竜ガイキング) ブラックホールに飲み込まれそうになったゼーラ星の人々が自らの安全を守るために作り上げた全知全能の機械神。しかし逆にゼーラ星人を支配し、暗黒ホラー軍団を結成して宇宙征服の野望実現のために動き出した。 ムゲ・ゾルバドス(超獣機神ダンクーガ) ムゲ宇宙と呼ばれる異世界より太陽系侵略を試みる、ムゲ・ゾルバドス帝国の帝王。悪霊の力を操る。 シャピロ・キーツ(超獣機神ダンクーガ) 元地球連邦軍士官学校の教官で、現在はムゲ・ゾルバドス帝国の参謀。冷静沈着にして、戦略・戦術の立案に高い能力を誇り、ゼ・バルマリィ帝国の帝国監察軍第七艦隊にも在籍していた事がある。地球軍を見限り、宇宙連合側の司令官として地球を攻撃する。 風見博士(宇宙大帝ゴッドシグマ) スーパーロボット・ゴッドシグマの開発者にして、ゴッドシグマを動かす超動力・トリニティ・エネルギーの発明者。シャピロと並ぶ地球人の裏切り者である。元々は本心から平和を愛する正義の科学者であったが、周囲からの圧力で心労が重なった事などもあり、次第に精神が病んでいき、最終的に悪の道へと走ってしまった。 ベルゼウス(超星神グランセイザー) ガルバ星人。元ウオフ・マナフ最高会議幹部にして地球攻撃軍総司令官。現地球人類が宇宙の絶滅者ボスキートの子孫であるとの偽情報を流布し、宇宙連合の乗っ取りを企てたが、その目論見は露見し失脚。一度逮捕されたが、宇宙連合タカ派勢力の裏で糸を引くETF勢力の後押しで脱獄。再び地球征服を狙う。 銀河王(8人ライダー対銀河王) 宇宙船で銀河を放浪しているコンピューター生命体。その好奇心は非常に旺盛。また誇り高い性格で、侮辱される事を嫌う。配下に凶暴な宇宙生物サドンダスと、ロボット・クルー兵士が存在する。ちなみに彼らの戦闘データは元財団Xのレム・カンナギ一派にも本人の知らないところで応用されている。 バイオハンター・シルバ(超電子バイオマン) 反バイオ同盟所属の殺し屋ロボットで、バイオ粒子を持つあらゆるものを破壊するようプログラムされているバイオハンター。ボディはLSV合金で出来ており、400m先のバイオ粒子反応をキャッチする探知機能を備える。愛銃バイバスターは0.03秒の抜き撃ちで、高い命中率を誇る。両肘にはシルバニードルという鋭利な針があり、これを射出して敵を倒す。あらゆる武器・兵器に関するデータがインプットされており、他勢力のメカ兵器さえもたやすく操縦する。宇宙連合の密使として、Gショッカーに愛息ワルズ・ギルを送り込みながら水面下で密かに宇宙連合とも気脈を通じるザンギャック皇帝アクドス・ギルとの連絡役も務める。愛機は巨大ロボット・バルジオン。 宇宙忍デモスト(世界忍者戦ジライヤ) 暗黒星の忍者。2300年生きた男。頭部が分離して相手を攻撃する。 実はGショッカー巨獣軍の傘下組織である幻魔空界の幹部であり、巨獣軍から出向して宇宙連合に協力している。 ズール皇帝(六神合体ゴッドマーズ) 元ギシン星の独裁者。宇宙連合における地球脅威論者の中心的存在。 六体のゲシュタルト・オーガニズムに分離可能。その声はショッカー大首領に酷似…?
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898: ゴブ推し :2017/01/17(火) 20 26 55 キャラ設定その1。 ロニー・アンダーヒル。 年齢15歳。イギリス系コーディネーター。年齢相応の身体つきの薄い青色の眼と赤い髪を持った少年。 70年10月に志願してザフト訓練校に入隊。凡そ半年間の養成を経て翌年4月にザフト・アフリカ方面軍カイロ基地に着任。 本人はバクゥのパイロットを望んだが、MS適性が平均値の域を出なかった為にジンオーカー改が与えられる。 連合の反抗作戦までの一か月間を重力下・砂漠化への慣熟訓練に費やしていた。 これと言って多くを語る必要のない平均的な今どきの若者。 ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に両親の愛情を受けて育ち〝成人〟を迎え、他人から見れば不遇であるが、本人にとって喜ばしい事に戦時中であり、ザフトへ志願。ただしプラントの為というよりも、ナチュラルを圧倒的な力で叩きのめす事を……身も蓋もなく言えば無双する事を夢みて、英雄をなる事を憧れたごくごく普通の少年。 しかし現実は無常であり、彼は何の戦果を挙げる事も無く最後の最後の一瞬でザフトに入った事を後悔し、母親の顔を脳裏に浮かべてその生涯を終えた。 71年5月、連合の反抗作戦にてブリック機のヒートサーベルにコックピットを貫かれて骨すらも残さずに肉体が蒸発。戦死。 タネリ・ポッカ。 年齢30歳。北欧系コーディネーター。190近い身長を持ち、灰色の髪に青い目を持ったがっしりした体格の男性。 ザフト軍アフリカ方面軍アレクサンドリア基地所属のMSパイロット。 開戦初期からマトスの下で戦い続け、高いMS適性と操縦技術を持つ事から開戦程なくしてエースパイロットとしてザフトに名を知られるようになる。 戦線が地上にまで広がり、アフリカ方面軍に所属した後、マトスが基地司令に着任した事から彼が隊を引き継いだ。 ジンの編成される隊を任されながらも、バクゥ部隊にも引けを取らない戦果を挙げられるザフトでも数少ない優れた現場指揮能力と技量を持つベテラン。 バクゥ乗りでなかった事から70年10月の侵攻作戦には不参加。 その戦いの後で補充に送られた〝成人〟達の面倒を見る為、アレクサンドリア基地で教官役を担う事となり前線から離れる事に。 成人兵の根性を叩き直すのにかなり苦労していた模様。 趣味は日本の時代劇鑑賞と時代劇小説の購読。幼い頃から剣道・居合を嗜んでおり、10年前に大洋…日本へ渡って本場で学び、剣道5段、居合3段、柔道、空手も更に学んで2段まで取っている。またプチモビ免許も取得しており、仕事先では結構頼りにされていた。 就職先での立場も安定し、5つほど年下だが大和撫子な恋人も出来て将来を約束し、そのまま日本で暮らして骨を埋めようかと考えていたが、プラントと理事国との関係が怪しくなった事で故郷が心配となり3年前に帰国(帰郷が正しいか?)。 そこで故郷を為となるのならばと、義理的に考えてザフトに入隊するも、彼自身は戦争になるとは思っておらず精々小競り合いで済み、外交的解決が図られると考えていた。国力という観点から見ればこれは当然の考えなのだが………知っての通りプラントは戦争の道を歩むことになる。 日本にいた恋人には必ず戻ると約束していた。 しかし翌年5月の連合軍の反抗作戦にてクルツに敗れて戦死。 899: ゴブ推し :2017/01/17(火) 20 27 48 シーラ・ウォード 年齢27歳。イギリス系コーディネーター。170cm前後の長く伸ばした美しい髪とグラマラスな体形を持った金髪碧眼の巨乳美女。 開戦初期から戦い続けたベテラン。ジンよりバクゥに高い適性があった為、地上に配属となりバクゥに搭乗。ユーラシア陸軍を幾度となく蹂躙し程無くして隊を預かる事になった。 70年10月の戦いにも参加しており、ブラウン、クルツと当たる事はなかったが数多くのゴブリンを屠り、殿を務めたハウンズマン曹長を激闘の末に落としている。 だが、件の戦いで高い戦果を挙げているものの、多くの仲間も失っており、ナチュラル侮り難しという考えが強くなった。 その後、アレクサンドリア基地配属となり、ポッカと共に教官役を務めて地上に不慣れな成人兵達を鍛え直していた。なおポッカは鞭役を演じ、彼女が飴役を担って逸りがちな成人達を上手く御していた模様。基本的に男性が多かった為に彼女の役回りはかなり有効だった。 数年前までは、ただコーディネイトだけでは得られない、努力で得たグラマラスな体型を活かしてモデルをしていた。 しかし宇宙作業用機免許(大洋のプチモビ免許相当)を持ち、ザフトが実地した適性検査で高い能力を示した為に軍に誘われ、モデル業に退屈を覚えた事もあり、刺激を求めて入隊。時期はポッカとほぼ同時期。 なお彼女も本気で戦争になるとは思っていなかった。 ザラ派ではないがナチュラルはコーディネーターに及ばないものと考えていた。しかしこれは何も差別的思考から来たものでは無く、「人類の壁を超える為に遺伝子を弄ったのだからそれは当然」「でなくては遺伝子を弄ってまで何故自分達を作り出したのか」という自然の摂理に反してまで人類が行った事に意味を求めて彼女なりに出した結論…ないし信条からである。 戦争が終わったら良き夫を見つけ、平穏な家庭を築こうと考えていたが、連合の反抗作戦でマイヤーに愛機ごとヒートサーベルで切り裂かれて戦死。 ロブ・ハーマン。 年齢28歳。アメリカ(イギリス血筋)系コーディネーター。180cmほどの金髪碧眼のやややマッチョな体格。 開戦初期から戦い続けたベテラン。シーラ同様にバクゥへの適性が高かった為に地上軍に配属され、同様に隊を任された(この時にバンとフィーネを部下に持つ)。技量面ではポッカに及ばないもののシーラ以上で指揮能力も高い。 70年10月に実地された侵攻作戦には参加しておらず、他方へ哨戒任務に付いていた。 その後、カイロへの配置となり、度々前線に出てはユーラシアの機甲部隊や鹵獲MS部隊やゴブリン部隊と戦闘を行っていた。 翌年5月の連合による反抗作戦では、緒戦から前線に出て戦い幾らかのガンタンクやケンタウロスやグフなど撃破していたが、当然戦局を覆すまでには至れず、後退命令が出た直後に位置的な問題からカイロではなく、アレクサンドリアへと向かった。 ザフトには…横道同盟発足時から所属。母親が議会の一員。 だがそれを笠に着ず、偉ぶる事も無く大らかな性格の為に部下にとても慕われていた。地上に来たばかりの成人兵も何故か彼には良く懐き、良く従っていた。 バンとフィーネの才能を見抜き能力を高く評価していて、二人の面倒をよく見ていた模様。 軍人である事に疑いは無かったが、エイプリルフールクライシスの現実や日々苦しくなる地上軍の状況と補充に送られてきた〝成人〟達を見て今次大戦に関して、そして評議会のやり方に不満と不振を抱くようになっていた。 息絶える寸前に例え聞こえなくともバンとフィーネに向かって言葉を残した。 CE70年5月、連合の反抗作戦にてブラウンと交戦して敗北。戦死。 900: ゴブ推し :2017/01/17(火) 20 29 32 オダリス・マトス。 年齢37歳。北欧系コーディネーター。短く刈ったダークブラウンの髪と黒い目を持つ男性。 ザフトには横道同盟発足同時から所属し、開戦初期はMSに乗っていたが、指揮能力の高さを買われて白服の与えられて艦長職に着き。地上に配属後はアレクサンドリアを預かる事となった。 物流の要所という事もあって、重要な補給拠点ともなったアレクサンドリア基地の運営に彼は砂漠の虎さえも舌を巻く辣腕を振るい。苦しい地上での補給・輸送などの兵站計画に大きく貢献していた。 またそのコーヒー好きの上司とは幾度と図上演習を行い、友人と言って差し支えのない関係であったが……それが返って不幸を呼んだとも言える。 砂漠の虎―――アンドリュー・バルドフェルトは勘違いをしていた。 幾度となく図上演習を行い、マトスと交わした会話やり取りで能力を高く評価し過ぎていた。それは周りがバルドフェルトの考え…先見性に付いてこれない事も原因だった。 マトスは、バルドフェルト同様に評議会のやり方に危険を覚え、プラントには先がない事に気づいていた。彼の副官であるマーチン・ダコスタすら気付いていない事柄に。 多くの会話の中でその話を聞き、バルドフェルドはマトスが自分と近しい先見の明があるのだと認識してしまった。 その為、バルドフェルドは反抗作戦でアレクサンドリアへ迫る危険を理解しておきながら指示を怠ってしまった。マトスの能力を評価したが故に。 そしてマトスも誤る。 連合が反抗作戦を開始した時点でアレクサンドリアの放棄に動くべきだったのだ。少なくともバルドフェルドならそうしていた。 しかしマトスは前線崩壊を持ってから動き始め、カイロから後退する味方を受ける行動まで取ってしまった。加えて言えば強欲な北アフリカ軍の大佐の説得も怠った。自己顕示・自己保身に腐心する人間ならば、そこを突けば十分に説得でき、北アフリカ軍の戦力も動かせ、共に後退する事は決して難しくはなかった。 バルドフェルドはマトスを評価し信用した為にその指示を飛ばさなかった。マトスであればそう行動すると信頼して。 その結果はここで語るまでも無いだろう。 横道同盟発足時から所属の古株である事からシーゲル・クラインとは知己の関係。国を成すという夢とナチュラルに融和的な考えを持つ彼に同調して同盟に入った……のだが、エイプリルフールクライシスを見てその夢とナチュラルとの融和が崩れ去ったと感じて内心で絶望感を覚えていた。 それでもマトスは、自分に出来る事をする為にザフトに残って戦い続けた。 CE71年5月、連合による反抗作戦の最中で敵包囲網から味方を逃がす為に特攻して自爆。戦死。 901: ゴブ推し :2017/01/17(火) 20 30 31 ヨンナ・マグヌソン。 年齢22歳。スカンジナビア王国出身のナチュラル。俗におかっぱ頭とも言われるショートボブの黒髪を持つ身長150cm程度の小柄な女性。日系の血が入っている所為か容貌が幼く見える。 開戦2年前にマトスの伝手を使ってザフトに入隊。本人の運動神経の悪さも原因だが、ナチュラルである事から当然MSには乗れない。しかし座学成績が優秀だったので指揮官候補として後方で必要な経験を積まされて本人の希望もあり、マトスが白服を着ると彼の副官となった。 これといった功績はないが、マトスの傍で彼をサポートし続けてアフリカでの兵站計画で大きな一翼を担っていた。 また本人の知らぬ所ではあるが、少女めいた可愛らしい容姿のお陰で何処か庇護欲を誘われ、小柄な体で上官や自分達部下の為に懸命に頑張る姿が健気に見えて、秘かに兵の士気を鼓舞にしていた。ファンも多かった模様。 ヨンナはマトスの両親の妹夫婦の娘であったが、7歳の頃に両親が事故で死亡してしまい。頼れる肉親がマトスの両親だけであった為にプラントへ移住。ナチュラルである事を隠しながら過ごしてきた。幸いな事に容姿は悪くなく知力でもコーディネーターに劣らないものであった為にその事が周囲にバレることなかった。 年の離れたマトスを兄というよりも父のように慕い。ヨンナは彼の仕事を手伝う事が幼い頃からの夢であった。 しかし、マトスやその両親としては、蔓延するコーディネーター優位思想や近年悪化(マトス達が原因ではあるが)した理事国との関係もあって成人する頃(プラントでの成人年齢に在らず)には、地球で暮らして欲しいと願っていた。 だが、彼女はこれ拒否して半ば無理やりザフトへ入隊する。自分を引き取り、育ててくれたマトス達への恩を返したいと言って。 そしてアフリカでの連合による反抗作戦の中、追い詰められたマトスは誰よりも彼女を無事逃がす為に奮闘し命を賭した。 マトスは、ナチュラルでありながらザフトに所属するヨンナが連合の捕虜になる事でどのような目に遭うかを恐れた。 ザフト内で連合に所属するコーディネーターを裏切り者だと非難し、侮蔑して怒りを向けるものも少なくないように連合でも同様に見られないか不安が大きく、更に言えばエイプリルフールクライシスでザフトに向けられる憎悪もその不安に拍車を掛けていた。 無論、自分が死に。その後、彼女がナチュラルである事が周囲に発覚した時に守れないことも不安であったが、それはヨンナに信頼する上司宛と、付き合いはほぼ無くなったがシーゲル宛の手紙を預け、彼等にヨンナを…娘のように思う彼女を託す事にした。 が、しかし。 マトスの最大の誤算は、ヨンナが逃げなかった事と彼女がマトスに依存してたことである。 ヨンナは確かにマトスを父として慕ってはいたが、強く依存した云わばファザーコンプレックスを重く抱えていた。 これを見抜けなかった為にマトスの想いは果たされる事はなく。誰よりも愛し頼りにしていたマトス…父が死に行く事を止められず失ったショックと虚脱感に捉われてヨンナは死を選んでしまった。 お互いを誰よりも強く思いながらも、想いが通わずにすれ違ったと言える。 CE71年5月、連合の反抗作戦の最中に降伏するも自殺…ヨンナにとって果たして名誉である事なのか、そうでないのか……敗北の責任を取っての自決と公式に記録された。 902: ゴブ推し :2017/01/17(火) 20 31 26 以上です。 その1としているのは今後もオリキャラが出てくると思っての事です。 ただやられ役のモブキャラ達にも物語があるという感じで設定し書いてます。あと戦争という激動の中での犠牲者でもある…という感じですかね。 今回はこれと言って捕捉する事は無いですが、ポッカに関しては色々と付け足して武道の達人で大洋で10年近くプチモビの操縦経験があり、才能に恵まれていた為に優れた技量を持っているとしてました。 成長したアスラン(種割れ無し)やイザーククラスの実力あり、そこに冷静さを足したといった感じです。 バンとの関係を考えてハーマンはゾイドから引っ張って来てます。 ハーマン以外の容姿に関しては、皆様それぞれの印象とイメージにお任せします。これと言って細かくは考えてませんので。 ただヨンナは、セーラムーンの蛍が一番イメージし易いと思います。 あと、ハーマンを除いたこれ等の人物をラクス軍に使うのもアリかも知れません。
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ――世界最強の魔王に…私はなる! そうすればもう誰も私を虐げる事は出来ない…! 誰かに頭を下げたりゴミを見るような目で見られる事も無くなる!┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 、...,,_ / > ヽ 、.二=、 / ; イ / '; ',_,...-‐`ニ∠..,,l { i l ; ィ'" // /、 ヽゝ /i `'"/ / / ,r'. '; ヘ ,' i i ! .l./'/ヽ、 ,r.l ト ', (その為にはココに居る誰よりも強くならなければ…) ,' i .l l .レl',ェュ、 nl l '; ! i i .l^.! l 〈 以 {|l l l .リ (力がある者が全てを制するのだから――) .i i .lゝl .l. _, `ノ l .,' i i l .ト_.ァ _∠ l l ,' i i l i i_ 〈| / ノ! l _,. ,' .i i l ', i"'''ト、ニ‐-'ノ_ノ f ̄ ./ i .l } l/. `、',、 .〉.`、`、ヽ .ゝ 、/ .i i ヽl ` .Y ', ヽ-‐′ ./ ,' i ャァzィ.z_h' ゝ ィヘヽ / .,',′ .i l リ‐LL' .レ' lノ、 ./ / ;' .i / /,'l l г'''''''""l l.',_ゝ../ .//,'. .i 〉'/ ,'.L.! .l l ll l.l ,'' / .i .i i' ー′ l l l l l.! .i ,' i i ii l l l l l.゙、 .l.{ i .i ,'l;' l l l l 物語へのリンク ◆第一部 ttp //yaruoshelter.com/test/read.cgi/yaruo001/1580649382/1983-5985 ◆まとめ一話 https //yaruok.blog.fc2.com/blog-entry-11863.html ストーリー 人間と魔族の戦争が絶えない世界。 魔族でも被差別階級種族ディスガイアの少女フロンは、誰にも虐げられない強い自分となるために、魔王養成学校で大魔王を目指す。 冷めきった心で他者を敵視し拒絶していた彼女だったが、友人を得て心身共に少しずつ成長していく。 登場人物 フロン・・・最下層階級の被差別魔族で成り上がる為に魔族養成学校へ入学した野心家 その他人物 + ... ピニャ・コラタ・・・フロンのルームメイトにして友人 鈴原るる・・・上記のピニャに着ぐるみで変装してた中身 大波乗人・・・現代日本から召喚されたフロンの召喚獣 虞美人・・・何らかの目的を持って魔王養成学校へと潜り込んだ人間 ミネルヴァ・・・鍛錬場でフロンが模擬戦を申し込んだ上級生 黒鉄アルト・・・北部方面軍を指揮する北の魔王 ジン=ガニス・・・下層階級出身で粗野な人格の持ち主だが2股をかける程度にはモテる ベルファスト・・・魔族養成学校の学生食堂で働く女給 ギュメイ将軍・・・上流貴族階級出身で将来は大魔王となる人物と目される超エリート ???・・・上記ギュメイの第2形態 浦風・・・かつては一般階級だったが何らかの事情で下層民へと落ちた者で同級生 ヴィットーリオ司教・・・魔王殺しの勇者と共に人類軍を率いて魔王養成学校へ侵攻してきた名将 猗窩座・・・フロンやるるに絡んできた同級生 マーラ・・・召喚獣トーナメントの第1回戦相手 カール・クラフト=メルクリウス・・・召喚獣トーナメントの第2回戦相手 フラウィ・・・召喚獣トーナメントの第3回戦相手 ウインディオ・・・召喚獣トーナメントの準決勝相手 乾十三・・・召喚獣トーナメントの決勝相手 ???・・・フロンの第2形態 概要
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日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第2章 日中戦争-日本軍の侵略と中国の抗戦 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2> 波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員) 庄司潤一郎:防衛省防衛研究所戦史部第1 戦史研究室長(委員会委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1> 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2>第2節 戦線拡大と持久戦2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争a.武漢・広東攻略と長期持久体制 b.中国の抵抗 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 第3節 日中戦争と国際関係1)列国の中国援助と対日経済制裁 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 4)日米交渉と中国問題a.事変解決と対米交渉 b.中国駐兵問題と破局 第2節 戦線拡大と持久戦 2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争 a.武漢・広東攻略と長期持久体制 参謀本部は徐州作戦に続いて漢口作戦と広東作戦を承認した。この二つの大作戦は南京攻略後から作戦部と現地軍において研究されていたもので、徐州作戦の成功がこの作戦の決定を後押しした。漢口と広東の攻略により中国主要部の実質的支配が達成され、列国の中国援助ルートにも打撃を与え軍事的に事変解決を図ることができるはずであった44。 中支那方面軍は、38 年8 月末から30 万を動員して「蒋政権の中枢である武漢三鎮」の攻略戦を展開し、10 月末には漢口を占領した。さらに9 月下旬から広東攻略戦など華南作戦における作戦を敢行し、ほとんど無抵抗のうちに広東をも占領した。中国戦線に投入された兵力は100 万に及び、対ソ戦用の兵力まで引き抜かれて日本の軍事力は限界に近づいていた。しかし、蒋政権は屈服の気をみせず、首都を重慶に移し正面作戦を縮小して四川省周辺に立てこもって「持久戦」を展開する体制をとる。因みに、武漢・広東作戦を通じて毒ガスの効果が実証され、38 年12 月、参謀本部は「大陸指345 号」によって、「特種煙」(あか筒、あか弾、みどり筒)の使用を認めることを各軍に指示し、中国戦線での毒ガス使用が一般化したといわれる45。 漢口、広東作戦後の38年11月中旬、陸軍省と参謀本部は新しい戦争指導の基本方針を合同決定し、12月初旬に天皇の裁可を得て発令された。それは、作戦地域を限定し、兵力を節減しながら占拠地 44 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(2)』朝雲新聞社、1976 年、109-12 頁。同『大本営陸軍部(1)』朝雲新聞社、1967 年、542-53 頁。 45 ただし、致死性ガス(きい剤)は、39 年5 月に山西省に限定した実験的使用が認められたのが最初といわれる(吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』不二出版、1997 年、9-39 頁)。 12 域の安定確保と治安回復、資源獲得を図り、「長期持久の体制」に移行することを目標としていた。事変開始以来、北支那方面軍や中支那方面軍に与えられていた、中国軍の戦争意思を挫折させ、戦争終結の機会をつかむ、という作戦目的は初めて変更されたのである46。こうして事変は新たな段階を迎える。 持久戦体制の下で日本軍が重視した戦略が、重慶など内陸部の要衝都市と内陸部にいたる援蒋ルートの遮断を目的とした、航空機による波状的な空爆であった。漢口飛行場を起点とし、38年12月から始まった奥地爆撃は、重慶など主要都市の市街地爆撃が含まれ、市民に大きな被害を与え、重慶爆撃では全期間を通じた中国側の死者は約11000人と言われる47。しかし、頻繁な奥地爆撃も飛行機の不足、致命的目標の欠如などから国民政府に大きな打撃を与えることはできなかった。 b.中国の抵抗 日本軍の大規模な軍事攻勢が一段落したとき、中国の大衆的ナショナリズムは蒋介石政権の対日和平や屈服を許さない規模で広がりつつあった。占領地域や作戦地域の拡大が刺激剤となり、それまで学生や都市住民、軍人にとどまっていた民族運動は、数千万の農民を含む大運動に膨れ上がっていた。蒋介石はこうした大衆的ナショナリズムに応える術を持たなかったが、中国共産党はその要望によく応え、とくに農民大衆の支持を急速に拡大させていった48。 38 年秋、中国共産党は、武漢陥落をもって抗日戦争が「対峙段階」に入ったことを確認し、国共合作を堅持しつつ長期戦を戦い抜くことを決定した。さらに共産党はその主要な活動を敵の後方におく方針を決定し、共産党軍は日本軍の後方の農村地帯に進出して民衆武装によるゲリラ戦を展開し、各地に抗日根拠地を建設していった。抗日根拠地は全国的に広がっていくが、とくに華北において強力であった。 38 年12 月、参謀本部は占領地域と主要交通線の確保を華北と華中の現地軍に命じた。華北では、共産党軍のゲリラ活動に対抗するため、部隊を市や町の拠点に細分化して分散配置する「高度分散配置」と呼ばれた配備形態を採用した。遊撃戦法を封殺し、住民の組織化や懐柔によって民生安定を図るのに適した部隊の配備形態でもあった49。他方、方面軍は、39 年初頭から抗日根拠地に対する「治安粛正」作戦を展開して、一定の成果を挙げた。 しかし、華北で勢力を拡大していた共産党軍(八路軍)は、40 年8 月下旬から年末にかけて、ベトナム戦争中のテト攻勢にも匹敵する大攻勢(「百団大戦」)を展開し、石太線を中心に、橋梁、通信施設などを徹底的に破壊し、北支那方面軍指導部を震撼させた。方面軍が虚を突かれた主たる原因は共産党軍に関する情報・諜報活動の欠如であった50。同時に、百団大戦は高度分散配置の弱 46 前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』306-08 頁。 47 「中国側から見た重慶爆撃」を含む最近の研究成果として、戦争と空爆問題研究会編『重慶爆撃とは何だったのか―もう一つの日中戦争』高文研、2009 年。 48 戦場となった中国において、過酷な人員・食糧の動員と徴発がなされ、社会の混乱と変容をもたらしたが、それが中国共産党が支持を拡大していく社会的基盤の形成につながった(笹川裕史・奥村哲『銃後の中国社会』岩波書店、2007 年)。 49 戦史叢書『北支の治安戦(1)』朝雲新聞社、1968 年、114-47 頁。山本昌弘「華北の対ゲリラ戦,1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)189-218 頁。 50 当時陸軍は国民党軍の暗号の80%を解読していたが、共産党軍の暗号はほぼ皆無であった(前掲、山本「華北の対ゲリラ戦」200 頁)。また、戦史叢書『北支の治安戦(1)』382-83 頁。 13 点を暴露し、少数兵力で分散駐屯していた部隊は、人海戦術による攻撃に圧倒された。百団大戦は、日本軍による宜昌攻略などの圧力によって動揺し、対日和平に傾きかけていた国民政府を鼓舞する役割を果たしたといわれる51。 百団大戦に衝撃を受けた方面軍は、報復的な粛正作戦(第1 期、第2 期晉中作戦)を展開し、41年6 月には大規模な華北治安の安定化作戦として中原作戦を実施し、大きな戦果を挙げた。中原作戦後の41 年7 月には、「粛正建設 3 ヵ年計画」を策定し、「未治安地区」(解放区)を「准治安地区」(遊撃区)に、「准治安地区」を「治安区」に変えていくという計画を推し進めた。また、方面軍は、41 年3 月から汪兆銘政府との協力のもとに、軍事・政治・経済の三位一体の運動として、新民会による反共工作の強化などを含む「治安強化運動」を展開した。これらの治安強化作戦の重点は、解放区の経済封鎖に置かれるようになり、軍の「現地自活」要求の強まりと相まって、共産党軍のゲリラ戦に対抗するため日本軍による粛正作戦も過酷なものとなり、住民の虐殺や略奪(これを中国側は「三光政策」と呼んだ)の原因となる52。 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認 a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 38 年11 月3 日、近衛内閣は、いわゆる東亜新秩序声明(第2 次近衛声明)を発表し、日本が定義する東アジアの新たな国際秩序を「東亜新秩序」と呼び、日満華の共同による建設推進を「帝国不動の方針」と位置づけ、3 国が互恵平等の立場で経済協力や防共政策を進める、と宣言した。その一ヶ月前の38 年10 月初旬、アメリカ政府は長文の覚書で、盧溝橋事件以来アメリカ人が中国で被った差別待遇、市場独占化の現状を例示して、門戸開放原則・機会均等原則(9 カ国条約)の侵害に対し、速やかな改善を要求した。これに対し、宇垣に代わる有田八郎外相は、事変前の事態に適用されていた観念や原則は、東アジアの現状と将来の事態を律することはできない、と反論し、9 カ国条約などの国際原則を公式に否定していた53。東亜新秩序声明は欧米が築いた国際秩序の原則に代わる新たな原則を示したものであった。 この東亜新秩序声明は、国民政府が従来の抗日・容共政策と人的構成を改めるならば「敢テ之ヲ拒否スルモノニアラス」と述べ、「対手トセス」声明の修正を示唆していたが、和平の呼び掛けではなく、蒋政権の切り崩し工作の一環であった54。日本とともに東亜新秩序建設の一翼を担うはずの新中央政権の樹立工作は混迷を深め、反蒋勢力の結集による蒋政権の「屈服」が相変わらず難題であった。 しかし、このころ外交部亜洲司長・高宗武によって、汪兆銘を占領地区の統一中央政権の首班に据え、和平派を蒋政権から離脱させて蒋政権の外部で和平運動を展開し、蒋の下野と対日和平への 51 前掲、石島『中国抗日戦争史』131-33 頁。 52 戦史叢書『北支の治安戦(1)』494-97 頁、528-37 頁。 53 前掲『日本外交年表並主要年表(下)』393-99 頁。 54 前掲、戸部『ピース・フィーラー』306-09 頁。 14 転換を迫るという構想がもたらされる55。この高宗武工作には、陸軍の影佐禎昭大佐(参謀本部謀略課長)、今井武夫中佐を中心とし、中国側は高宗武のほか、汪の同志とみなされた周仏海(元国民党中央宣伝部副部長)や梅思平らが関与していた。 高宗武らは汪の命を受け、38 年11 月中旬から日本側代表と汪による挙事計画(汪の重慶からの脱出計画)や和平条件について会談に臨み、11 月20 日、日華協議記録に調印した。12 月初旬、汪一派は影佐らの手引きによって重慶を脱出し、昆明を経て12 月19 日ハノイに到着した。これに呼応して日本政府は12 月22 日、近衛首相談話(第3 次近衛声明)を発表した。その内容は日華協議記録の再現であり、日本側が中国の満州国承認、防共協定の締結と日本軍の防共駐屯、華北・内蒙における資源開発に対する便宜供与などを要求し、その代わりに、日本は戦費賠償を求めず、治外法権の撤廃、租界の還付を考慮する、というものであった。ただし、陸軍の要求で防共駐屯地域が「特定地点」とされ、撤兵条項も省かれた56。 汪は、12 月29 日、ハノイで対日和平を提唱し、国民党有力者の蒋政権からの離脱を期待する「艶電」を発表するが、和平条件について、速やかな全面的撤兵の必要性に加え、駐兵地域は「内蒙の付近に制限されなければならない」と強調した。つまり、第3 次近衛声明で抹消された部分の確認を求めたのである57。 一方、参謀本部内では、漢口作戦後を想定した講和条件の立案が進展し、38 年11 月に御前会議決定となった「日支新関係調整方針」は、政治形態の分治合作主義の採用、南京・上海・杭州三角地帯への治安駐兵、揚子江下流域の経済上の強度結合地帯化、日本人顧問の派遣など、第3 次近衛声明や日華協議記録にはない要求を列挙するものとなり、「21 か条要求を凌駕する苛酷なもの」となるが58、汪には翌39 年秋までは示されることはなかった。 39 年1 月、近衛首相は、汪兆銘の重慶脱出を見届け総辞職した。しかし、汪の重慶離脱に呼応する国民党有力者や反蒋軍閥は皆無であったため、政府や軍の指導者は汪による中央政権樹立に消極的となり、陸軍の一部には呉佩孚を首班とする新中央政府構想も再浮上する始末であった。相変わらず事変解決の展望は見出せなかった。 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 事変収拾の方策が手詰まり状態となるなかで、ドイツの台頭によって流動化する欧州情勢を活用した対外方策も有力な手段となってくる。それは、対米関係の改善をはかりつつ、独伊との防共協定を対ソ・対英同盟として強化し、事変遂行や東亜新秩序建設の最大の妨害者と考えられた英ソを欧州において牽制するという構想であった59。38 年夏から陸軍の外交戦略の中心となったこの構想の実現のため、まず対独関係の強化がはかられる。 55 影佐禎昭「曾走路我記」(『現代史資料(13)』みすず書房、1966 年、349-98 頁)。西義顕『悲劇の証人-日華和平工作秘史』文献社、1962 年、195-98 頁。 56 前掲、劉『日中戦争下の外交』342-50 頁。前掲、戸部『ピース・フィーラー』310-25 頁。 57 前掲、劉『日中戦争下の外交』352-53 頁。 58 前掲、戸部『ピース・フィーラー』280-96 頁。前掲、臼井「日中戦争と軍部」83 頁。 59 38 年5 月、板垣陸相は五相会議で、「目下蒋を援けて居るものは『ソ』連と英なり本協定を結ぶことにより彼等を欧州に於て牽制せんが為なり」と述べている(『現代史資料(10)』みすず書房、1964 年、271 頁)。 15 ドイツ側も38 年2 月にリッベントロップが外相に就任し、極東政策は親中路線から親日路線へと転換しつつあった。38 年5 月の満州国承認、中国派遣の軍事顧問団の引揚げなどがそれを物語っていた60。日独の接近はすでに38 年初頭からリッベントロップと大島浩陸軍武官との間で始まり、それを7 月に知った東郷茂徳駐独大使は、日独同盟は日華事変の解決に役立つどころか欧州の戦争に巻き込まれる恐れがあるとして宇垣外相に交渉中止を要請するが効果はなかった。陸軍は、極東ソ連軍に対する地上兵力の劣勢を外交的に補うという観点から、対ソ軍事同盟を目標とした枢軸提携交渉の推進力となった。 しかし、ドイツ側の期待はソ連よりも、主要な敵であるイギリスを対象とした同盟であり、ソ連とともに英仏をも加えるか否かをめぐって日本の指導層は紛糾し、近衛内閣の総辞職(39 年1 月)の一因となる。平沼騏一郎新内閣となっても、同盟の対象をソ連に限るとする外務省と英仏も含めることを主張する陸軍との調整がままならず、その決着は39 年8 月23 日の独ソ不可侵条約によってもたらされる。すなわち、長引く日独交渉の裏側で、ソ連は欧州と極東との東西二正面戦争の危機を避けるため、極東では満ソ国境での日本軍との衝突事件(ノモンハン事件)を収拾する一方、欧州ではドイツに接近しており、その成果が独ソ条約であった。独ソ条約は日独間に進行していたソ連を目標とする軍事同盟交渉を頓挫させた。平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と述べて内閣を総辞職した。 陸軍の外交戦略実現のためのもう一つの機会は、39 年6 月の北支那方面軍による天津英仏租界の封鎖であった。親日派要人がイギリス租界で暗殺されるという事件をきっかけに、華北の金融や経済の中心であった天津英仏租界を封鎖した。租界封鎖は38 年夏から計画され、徐々に封鎖網を強化していた矢先であった。現地軍にとって租界封鎖は、租界の回収によるイギリス排除であったが、東京の陸軍にとっては、東亜新秩序政策と事変解決へのイギリスの同調を誘うことが狙いであった61。 (引用者注)イギリスの弱腰の原因は当時のヨーロッパ情勢参照。 この事件を重視したイギリス政府部内では対日制裁問題が再燃するが、チェンバレン首相は対日制裁よりも外交交渉による解決を選ぶ。激しい反英大衆運動のなか、東京における有田・クレーギー会談は、39 年7 月イギリスの譲歩と妥協のうちに了解が成立した。その内容は、(1)英国は中国における現実の事態(戦争状態の存在)を確認し、(2)中国における日本軍の生存及び治安維持行為について妨害しない、というものであった。(1)について、「ミュンヘンの宥和」にも似た対日宥和の姿勢に対し、中国は激しく非難した。他方、平沼首相は蒋政権への打撃となるとして高く評価した。しかしその直後のアメリカによる日米通商航海条約の破棄通告は、イギリスを奮い立たせた。日本の外交的勝利は減殺され、日英現地交渉におけるイギリスの立場を強いものとし、東京における協定は反古同然となる62。アメリカの強力な支持を得たイギリスが対日協調を選択する基盤はもはや存在しなかった。 60 1930 年代のドイツの親中路線について、田嶋信雄「解説 Ⅱ-一九三〇年代のドイツ外交と中国-」(石田勇治ほか『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店、2001 年)309-24 頁。 61 永井和「日中戦争と日英対立」(古屋哲夫編『日中戦争史研究』吉川弘文館、1984 年)237-362 頁。 62 永井和「日英関係と軍部」(前掲、三宅編『昭和史の軍部と政治(2)』)184-87 頁。 16 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 汪の重慶離脱は蒋政権の動揺を誘うことはなかったが、高宗武は汪を中心に南京に新中央政府を樹立する構想を推し進める。39 年5 月、汪は自ら中央政権樹立の決意を影佐らに語り63、汪政権樹立工作は本格化するものの、政府・軍部が一致して支持する気運にはなかった。 とくに、参謀本部は汪政権の実力を疑問視し、沢田茂参謀次長の着任時の10 月には、「本樹立工作を後援すべきや、将叉これを打切り、重慶との直接交渉により時局を処理すべきやの分岐点」にあった。そこで参謀本部は、汪政権の樹立は妨害しないが、陸軍の政戦略はこれに影響を受けないという協定を政府と締結したうえで、汪政権樹立を容認した64。こうして39 年11 月にはようやく汪政権樹立を前提とした国交調整交渉が開始され、交渉の基礎とされたのが、1 年前の「日支新関係調整方針」であった。汪はこの対日交渉で撤兵と駐兵権の要求に抵抗するものの、結局、日本側の苛酷な和平条件を受け入れ、40 年3 月、南京に新中央政府を樹立する。 この間、参謀本部は汪政権と蒋政権の合流を期待して、重慶との直接交渉の可能性を様々なルートを通じて探っていたが、40 年に入ると宋子良なる人物を通じた和平ルートが開拓される。この「桐工作」は、40 年6 月には蒋、汪と日本側代表者の三者による停戦会談の約束へと発展し、停戦会談の促進を目的の一つに発動されたのが6 月中旬の宜昌作戦であった。戦面の不拡大を固持する参謀本部は宜昌作戦を躊躇するが、攻撃後にただちに撤退することを条件に許可した。しかし、宜昌に進撃した第11 軍は撤退することはなかった。桐工作の進展情報から、蒋政権に和平会談に応ずるよう「最後の決定を迫る為」、宜昌の確保を命じられたからである。実際、宜昌占領は日中戦争全体を通じて重慶に最も強い圧迫感を与えたという65。 しかし、桐工作は汪政権の撹乱をねらった中国側の謀略の疑いが濃厚となり停戦和平への期待は急速に萎んでしまう。さらに、松岡外相のもとで、浙江財閥の巨頭、銭永銘を通じた和平工作も、汪政権の承認を遅らせつつ折衝がなされたが進展しなかった。こうして蒋政権との停戦の術をなくした日本政府は、40 年11 月末日、汪兆銘政権を南京国民政府として正式に承認し、同時に日華基本条約を締結した。この基本条約は前述の「日支新関係調整方針」を基礎としたもので、「善隣友好」や主権・領土の尊重、互恵平等を謳ってはいたが、蒙疆・華北への防共駐屯、治安維持のための日本軍の協力、蒙疆・華北の国防資源の共同開発と日本への優先的提供などが規定されていた。同日、汪政権は日満華共同宣言によって満州国を正式に承認した。基盤の脆弱な汪政権の承認と汪政権の満州国承認は、事変の解決に寄与するどころか、かえって蒋政権との対立関係を固定化することになり、停戦和平の道を閉ざす結果となる。 第3節 日中戦争と国際関係 1)列国の中国援助と対日経済制裁 63 戸部良一「汪兆銘のハノイ脱出をめぐって」(『外交史料館報』第19 号、2005 年9 月)。 64 沢田茂「記憶を辿りて」(沢田茂〈森松俊夫編〉『参謀次長沢田茂回想録』芙蓉書房、1982 年)168-69 頁。 65 波多野澄雄「南進への旋回:1940 年」(『アジア経済』26 巻5 号、1985 年5 月)30-33 頁。前掲『沢田茂回想録』57、177-78 頁。 17 盧溝橋事件の勃発によって逸早く中国援助に乗り出したのはソ連であった。ソ連は、37 年8 月には国民政府と不可侵条約を締結し、同時に武器・弾薬、航空機などを購入するための借款供与を約束し、直ちに実行に移していく。さらにソ連は義勇兵や軍事顧問団をも派遣し、その援助は、米英が援助を本格化させる1940 年までは中国にとってきわめて重要であった66。 アメリカの中国に対する直接的な援助はソ連より遅かったが、すでに盧溝橋事件の勃発以前から、銀の購入政策を続けていた。当初は為替安定資金に限定されていたが、使用条件も撤廃され、銀の売却で得た資金をもって軍需物資の購入に充てることができた。しかし、銀購入の先細りにより、直接的な援助が必要となり、38 年12 月、2500 万ドルの借款(輸出信用供与)協定が成立した。これを皮切りにアメリカは中国援助を本格化させ、40 年以降は最大の対中援助国となる67。 他方、イギリスは日本にとって、事変遂行と東亜新秩序建設の最大の妨害者とみなされていた。しかし、援蒋ルートとしての香港ルートやビルマ・ルートを経由する軍需物資は、ソ連からの物資援助に比べてきわめて少なかった。中国は再三、武器供給と借款を要請していたが、日本を刺激することを恐れて道義的支援にとどまっていた。イギリスの最初に着手した具体的支援策はビルマ・ルートの建設であり、38 年12 月に完成した。さらに、中国の要請に応えて借款供与に動き出し、39 年3 月には500 万ポンドの法幣安定資金を供与したが、この通貨安定資金も日本の激しい通貨工作のために、期待された効果をあげることはできなかった68。 英米は、38 年末から中国援助を本格化させるが、援助の本格化は対日方針の転換を意味したわけではなかった。実際、アメリカの経済制裁は航空機や関連部品の道義的禁輸、クレジット禁止措置といった、軽微の措置に終始する。39 年7 月の日米通商条約の廃棄通告も、その狙いは日本軍の天津租界封鎖問題で妥協を余儀なくされていたイギリスを牽制するためであり、さらに、対日禁輸を要求する議会に先手を打つ意味もあった。ハル国務長官の「日本と事を構えず、アジアから撤退せず、日本の行動に同意を与えず」という対日方針は維持される69。一方、イギリスは、東アジア問題で対米依存を深めていくが、欧州大戦の勃発後は、本国防衛が主要関心事となり、ますますその傾向を強める。 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 平沼内閣が退陣し、阿部信行大将が組閣した直後の39 年9 月、第2 次欧州大戦が始まった。欧州大戦の勃発は東南アジアに植民地を有する英仏蘭の関心を欧州に集中させたという意味では日本にとって積極的な南進政策の好機であった。実際、海軍中堅層には大胆な南進国策への転換論が 66 ヤング(Arthur N. Young)によれば1939 年までにソ連が国民政府に供与したクレジットは英米の3 倍強に達していた(China and the helping hand, 1937-1945, Cambridge Harvard University Press, 1963,p.441.) 67 Ibid., pp.61-86. 206-07,441-42. 鈴木晟「アメリカの対応―戦争に至らざる手段の行使」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』錦正社、1997 年)319-37 頁。 68 戸部良一「米英独ソ等の中国援助」(河野収編『近代日本戦争史 第3 編』、同台経済懇話会、1995年)340-44 頁。 69 Jonathan G. Utley, Going to war with Japan, 1937-1941(Knoxville The Univ. of Tennessee Press, 1985), pp.9-10. 18 起こるが、日中戦争の解決を最優先課題とする政府・軍部の共通意思とはなり得ず、阿部内閣は欧州大戦への「不介入」政策を採択し、欧州の交戦諸国のいずれにもコミットしないことを宣言した。 欧州大戦の勃発と不介入という条件のもとで、事変の有効な解決手段は英仏ソなど蒋政権に対する列国の物資援助ルートの遮断と考えられた。とくに広東占領による香港・広東ルートの遮断後は、仏印ルートが最大の輸送量を有するとみられた70。ハイフォンからハノイを経て昆明にいたるルートと、ハノイから竜州-南寧にいたる二つのルートのうち、後者の南寧ルートの封鎖作戦が広東占領の第21 軍を主体として実施される。21 軍は占領直後の海南島に集結したのち、11 月下旬に南寧を占領した。しかし、12 月に入って国民政府軍による大規模な冬季攻勢が始まり、21 軍は翌年まで苦戦を強いられ、占領が確定したのは40 年2 月であった。南寧には南支派遣軍の第5 師団が駐留したが、軍事的圧力のもとで実施された外交交渉でも仏印側は援蒋ルート遮断に応ずる態度を示さなかった 仏印問題の行き詰まりは、ドイツ軍の西欧電撃戦によって打開される。39 年秋以降、西部戦線でほとんど戦闘が行われない「奇妙な戦争」が続いたが、40 年春からドイツ軍は電撃戦によってベルギー、オランダを制圧し、6 月にはフランスが降伏した。ドイツの欧州席巻は難航していた援蒋ルート遮断問題を進展させる。イギリスは40 年6 月中旬、日本のビルマ・ルート閉鎖要求に応じて3 ヶ月間の閉鎖に同意し、仏印当局も仏印ルートによる援助物資の輸送を停止した。また、フランスの対独敗北は、遊兵化していた第5 師団を中国方面に転用するか、仏印領内に侵入させるか、という問題に解答を与えることになり、9 月末に北部仏印進駐が敢行される。 他方、日本国内では、ドイツとともに「世界新秩序」建設を担うべきである、とする観点から、朝野の「革新勢力」によって日独同盟論と南進論が声高に主張された。仏蘭がドイツの支配下に入り、イギリスも危うくなったという状況のなかで、いわば力の真空地帯となった東南アジアのヨーロッパ植民地に進出する好機と映った。 しかし、「不介入」政策を堅持する米内内閣は、南進にも日独同盟にも消極的とみなされ、陸軍や革新勢力から激しい批判に遭い、40 年7 月総辞職に追い込まれる。陸軍の強力な後押しで成立した第2 次近衛内閣が7 月下旬に定めた二つの国策(閣議決定「基本国策要綱」、大本営政府連絡会議決定「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」)は、革新勢力の主張を大幅に取り入れたものであった。すなわち、世界は今や「歴史的一大転換期」にさしかかっているとの認識から、日本の「国是」は、「大東亜新秩序」の建設にあるとし、国内政治全般の刷新、自給自足経済の確立、国防国家体制の確立などを国策に掲げた。8 月初旬には新入閣した松岡洋右外相が公式に「大東亜共栄圏の建設」という言葉を用い、大東亜共栄圏の範囲は、日満華三国の東アジアだけではなく、東南アジアを含む地域であると述べた。 一方、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」は、6 月下旬から、ドイツによる欧州制圧と、米内内閣に代わる新内閣の出現を前提として、参謀本部を中心に立案が進んだものであるが、その柱は仏蘭に続くイギリス本国の敗北を想定した極東における英領攻略であった。しかし、欧州戦線は 70 立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』彩流社、2000 年、28 頁。なお、仏印問題につ いては主に本書による。 19 イギリスの必死の防衛戦によって長期化の様相となり、ドイツに呼応して極東の香港やシンガポールを攻撃するという事態は遠のいていく。 ところで、上記「時局処理要綱」において、武力南進政策と日中戦争の収拾方策との関係は明瞭ではなかったが、それは、ドイツの欧州攻略と、日本の武力南進とを連動させることによって、事変を有利に解決できるという漠然とした期待の故であった。例えば、沢田参謀次長は40 年春頃から、「支那事変は欧州戦争と其の運命を共にすべく、・・・為し得れば南方作戦を敢行することが支那事変を有利に解決する途にあらずや」71と部内に説いていたが、こうした考え方が説得力を増してくる。事変の解決は、もはや日中の問題としてではなく、欧州の国際関係の変動と結びつけられていく。実際、汪政権承認後の収拾方策を定めた40 年11 月の「支那事変処理要綱」(御前会議決定)は、既占領地の安定確保を中国政策の基本とすることを確認するのみであった。 こうして、欧州列国との衝突を覚悟した武力南進による自給自足圏確立―長期自給体制の確立が陸軍の事変解決の一手段となる。しかし、英米の結束強化とABCD 対日包囲陣が整ってくるなかでは、武力による東南アジア侵攻は当面避けねばならず、まずは蘭印、仏印等に対する外交交渉による資源獲得や影響力拡大が優先された。しかし、これらの平和的・外交的手段による南進は、蘭印やタイへの英米の支援や牽制も作用して期待通りには進まなかった。 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 三国同盟構想は、独伊との政治的結束強化という「時局処理要綱」の対外施策に沿ったものであったが、東南アジアの資源地帯にドイツの影響力が及ぶのを避けるという意味が含まれ、アジアにおける日本の覇権と欧州におけるドイツの覇権の相互承認が基本的内容であった。問題は、対英戦争中のドイツにどの程度協力を約束するかにあった。とくに陸軍案はシンガポール攻撃などドイツから対英参戦を要求された場合には「原則的にこれに応ずる」ことを約束するものであった。しかし、松岡外相は同盟の対象としてイギリスとともにアメリカを加えた対英米軍事同盟案へと変質させようとし、とくに海軍や外務省の強い異論に直面した。松岡の意図は同盟の威力によって対米戦争を回避することにあり、ドイツの日独同盟に対する期待もアメリカの欧州大戦への参戦抑止にあった。両者は欧州の戦争とアジアの紛争へのアメリカの介入を牽制することに同盟の主眼があることについて了解した。海軍は最後まで同盟に反対するものの、対英米参戦問題について交換公文等で自主的判断の余地を残すことで賛成に回る。こうして9 月下旬、日独伊三国同盟が調印され、松岡は同盟の意義について日米戦争の防止がそのねらいであることを力説したが、英米の援蒋政策を強化させる結果をもたらすのみであった。 ところで三国同盟の成立過程では、日独伊同盟にソ連を誘導して「四国同盟」とするという構想が陸軍から提起されていた。ドイツの対ソ影響力を活用して日ソ国交調整を図ることを念頭においていた松岡外相がその推進に積極的となる。元来、日ソ間の国交調整はノモンハン事件の解決(39 71 前掲、沢田「記憶を辿りて」172 頁。 72 細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約」(日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第5 巻』朝日新聞社、1987 年新装版、159-331 頁)などによる。 20 年9 月)以来、ソ連の重慶政権に対する支援を抑制するという観点から追及されてきたが、40 年夏の南進政策の浮上によって、南進に備えた北方の安全確保という観点が加わり、さらに重要な懸案となっていた。 しかし、対ソ交渉は難航した。とくに陸軍は独ソ不可侵条約に匹敵する関係の設定を望んだが、具体的代償に乏しく、40 年秋からの不可侵条約の打診はことごとくソ連の拒否に遭う。そこで松岡は、41 年3 月から「四国同盟案」を抱いてモスクワ、ベルリンを訪問し4 月にはスターリンとの間で日ソ中立条約に調印した。日ソ中立条約の成立は、松岡から見れば日独伊ソの「四国同盟」の成立であったが、すでにヒトラーはこの時点までに対ソ攻撃を決定し、独ソ関係の現実は松岡の主観的判断を越えた厳しいものになっていた。 4)日米交渉と中国問題 a.事変解決と対米交渉 事変解決のため、最後に残された外交的手段はアメリカによる和平斡旋を期待して直接、対米交渉に臨むことであり、そのための準備工作が日米民間人によって40 年秋から開始される。この対米工作には陸軍省軍務局長・武藤章、野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官らも関与し、やがて41年4 月中旬には、日米会談のための非公式的な基礎案として「日米諒解案」が日本政府に伝えられる73。 諒解案は三国同盟の実質的な無力化を求める一方、一定の条件の下での事変の和平斡旋や東南アジアの資源獲得に対する日米協力を掲げており、日本側は政府も軍部もこれを歓迎した。ただし、諒解案は和平斡旋の前提として、「ハル4 原則」(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、平和的手段によらざる限り太平洋の現状不変更)の受諾を求めていたが、日本側はこの諸原則を重視しなかった74。 日米交渉における主要な争点は、三国同盟に規定された参戦義務の適用問題、そしてアメリカの仲介による日中戦争の解決であった。前者は条約の解釈と実行の問題として妥協の道が開かれていくが、日本が最も期待した日中戦争の和平斡旋について、アメリカは単なる仲介者ではなく、その前提は、「ハル4 原則」を日本が受諾することであり、とくに、通商上の門戸開放、機会均等原則が無条件に中国に適用されることを重視した。一方、日本はこの原則の修正を要求し、日本軍の駐兵の継続によってそれを保証させようとした。 とくに、日ソ中立条約や三国同盟という外交的成果をもって有利な対米交渉を進めようとしていた松岡外相は、三国同盟に関する日本の義務や日中戦争収拾に関する和平条件の明確化という観点から諒解案を大幅に修正することになる。松岡の意見を容れた日本側の対案(5 月12 日対米提案) 73 塩崎弘明『日米英戦争への岐路』山川出版社、1984 年、第2 部第3・4 章。なお、以後の日米交渉の経緯は、主に外務省編『日本外交文書・日米交渉―1941 年(上)・(下)』(外務省、1990 年)による。 74 野村大使は「ハル4 原則」は会談に臨む前提条件であることを日本政府に報告しなかった(須藤眞志『日米開戦外交の研究』慶應通信、1986 年、60 頁)。ハル長官は、4 原則の承認を前提に日本政府が「諒解案」を正式に提案すれば,それを基礎に日米会談に入ることを想定していた(細谷千博「『日米交渉』及びその記録文書をめぐる若干の問題点について」『外交史料館報』第2 号、1989 年3 月)。 21 の日中戦争に関する部分は、アメリカは、40 年11 月に汪兆銘政権との間で締結した日華基本条約と日満華共同宣言の原則を「了承」した上で、蒋政権に対して和平を勧告すべし、と要求していた。日華基本条約は、当時の公表部分でも、共同防共のための日本軍の蒙疆、華北への駐屯、治安維持のための駐屯、蒙疆・華北の国防資源開発に関する協力などを含み、日満華共同宣言は中国による満州国の主権と領土尊重を確認していた。 これに対するアメリカの回答(6 月21 日米国案)は、汪政権の否認、満州の中国への復帰、日本軍の無条件撤兵、防共駐兵の否認、通商上の無差別待遇などであり、日本の提案をほとんど否認していた。その後の交渉においてもアメリカはこれらの条件を後退させることはなかった。この回答に接した松岡は日本を「弱国・属国扱いするもの」と激怒し、交渉打切りを主張するが、近衛首相は松岡の更迭によって交渉の継続を図った。 b.中国駐兵問題と破局 6 月23 日の独ソ戦争の勃発は、ソ連が明確に反枢軸陣営の一員となったことを意味し、松岡外相の抱く日独伊ソの「四国同盟」構想を破綻させるものであった。アメリカは対ソ援助をさらに強化させ、また、中国共産党の内外戦略を変化させる。すなわち中共は、世界大戦の性格は、帝国主義諸国間の戦争であるとする「帝国主義戦争論」を後退させ、日独伊のファシズムに反対する「反ファシズム統一戦線論」を復活させる。国内では抗日民族統一戦線と国共合作をより重視するようになり、皖南事件で悪化した国共関係は修復され、第2 次長沙会戦では、国民党軍と共産党軍との間に一定の作戦協力も実現している75。 日本では陸軍部内に「北方戦争論」が浮上し、参謀本部や松岡外相はドイツのソ連攻撃に呼応した対ソ攻撃を主張した。南進論との論争の末、国策としては「南北併進」に落ち着いたが、対ソ攻撃は独ソ戦争がドイツに有利に展開した場合とされ、その準備のため関東軍の増強が図られるが、シベリアの気候的条件に加え、独ソ戦が早期に終結する見込はなくなり、8 月初旬に中止される76。 一方、南進政策は、仏印との軍事的結合を強化するとの既定方針に基づき、7 月下旬、南部仏印進駐が断行される。資源供給のための交渉が不調に終った蘭印を威圧するという効果や、南部仏印に航空基地を設定するという目的も含まれていた。南部仏印進駐に対し、アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という最高度の経済制裁で応え、英蘭もこれに倣った。しかし、日米ともに戦争を決意したのではなかった。アメリカの最大の脅威は依然としてドイツであり、米独関係は極度に悪化し、6 月には独伊の在米資産はすでに凍結されていた。アメリカの対日強硬措置は、戦わずして日本を屈服させ、さらなる南進を抑止するためであった77。 他方、日本側からすれば、最高度の経済制裁は米英蘭中のABCD 包囲陣が、国防上耐え難いものとなったことを意味していたが、政府・軍部の指導者はなおも対米戦の回避の可能性を追及した。その一つが近衛首相とローズヴェルト大統領との直接会談構想であった。この頂上会談のために改めて対米提案が検討された。その作成過程では、外務省は中国からの速やかな撤兵という原則のも 75 前掲、石島『中国抗日戦争史』137 頁。 76 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(上)』錦正社、1998 年、144-45 頁(1941年8 月9 日の条)。 77 J. Utley, Going to war with Japan, pp.151-55. 22 とで、駐兵地域や駐兵期間の限定を盛り込もうとするが、陸軍はとくに蒙疆・華北における駐兵に固執した。結局、9 月25 日の対米提案は、通商上の門戸開放・機会均等については譲歩し、経済活動の自由を原則として認める方針を示していたが、駐兵について譲歩することはなかった。 10 月2 日のアメリカの回答は、日本の提案を否認するとともに、首脳会談についても、その前提として「根本的な諸問題について討議の進展」が必要である、として否定的であった。それでも近衛首相は、戦争回避の立場から、部分的撤兵案によって妥結に持ち込もうとするが、陸軍の立場を代表する東条英機陸相は撤兵に強硬に反対して内閣は崩壊する。10 月18 日に成立した東条内閣は、天皇の指示を受け、「白紙」の立場から非戦の可能性を追求した。11 月5 日の御前会議は、11月末を限度に対米交渉と作戦準備を併進させ、妥結しない場合の武力発動は12 月初旬と決定した。同時に、最後の交渉案として「甲案」「乙案」が了承された。「乙案」は、アメリカの対日石油供給の約束と引きかえに、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させ、当面の危機を回避しようとする暫定協定案であり、11 月20 日に米政府に提示される。 アメリカ政府でも暫定協定案の検討が進み、「乙案」に近い内容の暫定協定案が用意され、英蘭と中国(重慶政権)に内示される。しかし、日本との苦しい戦いを強いられていた蒋介石の期待はアメリカの対日参戦であり、暫定協定による日米の妥協は、さらなる対日戦争の長期化を意味した。中国からみれば、アメリカは中国の犠牲において日本を宥和しているのであった。イギリスもまた暫定協定案の提出に消極的であり、アメリカの中国問題における譲歩が、中国政府や国民の士気に及ぼす影響を恐れていた。チャーチルの懸念は中国の崩壊がそれだけ日本の東南アジアへの攻撃を容易にしてしまうことにあった78。 かくして、「乙案」の拒否とともに、暫定協定案も取り下げられ、11 月26 日、いわゆるハル・ノートという形で対日回答がなされた。ハル・ノートは中国全土および仏印全土からの撤兵、重慶政権以外のすべての政権の否認、という要求を含み、日本をいわば満州事変以前の状態に引き戻すに等しかった。これを事実上の最後通牒と受けとめた日本政府は12 月1 日、御前会議において最終的に対英米開戦を決定した。 陸軍省軍務局員として、対米提案における中国問題の起草を担当した石井秋穂中佐によれば、蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろう、という期待の故であった79。中国の共産化と対米戦争とは陸軍が最も避けたかった事態であり、皮肉にも、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執したことが、対米開戦を招くことになったのである。 他方、アメリカは、日米交渉の最終段階では、太平洋の安定のためには中国の主権を侵すような条件は承認できず、中国問題は英蘭中等との多国間協議が必要である、という立場をより鮮明にするようになっていた。もはや日本軍の駐兵問題は二国間の問題ではなく、太平洋の安定と不可分の問題となっていたのである。 78 U. S. Dept. of State, Foreign Relations of the United States,1941 Ⅳ,pp. 651-54,660-61,665-67.アントニー・ベスト(相澤淳訳)「日中戦争と日英関係、1937-1941 年」(前掲『日中戦争の諸相』)354頁。 79 波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞社、1991 年、143 頁。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
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地球人類はヒロコが生まれるずっと前から、宇宙の彼方から現れた“バイド”と呼ばれる謎の生命群によって絶滅の危機に瀕していた。 バイドは宇宙空間でも生き続けることができ、その強烈な破壊本能により、生命反応がある宇宙船や施設を襲い、“食らう”。 そして分裂や融合を繰り返し、新たな生命体へと進化し続ける、人類の天敵である。 人類はこの未曽有の危機に対応するため、統一政府を成立させ宇宙軍を組織したが、これまで何度もバイドの太陽系への侵入を許している。 今日では、バイドは太陽系がある銀河系のオリオン腕からは遠く離れたサジタリウス腕の中ほどにある星域から時空を越えてやってきていることが分かっており、人類は何度もその本拠地に侵攻している。 現状は、人類が優勢な状態といえるだろう。しかし、バイドの増殖力を考えると楽観はできなかった。 人類はこれまでに4度に渡ってバイドの本拠地(生物学者M・ウォルターが論文の中でバイドの行動を、侵略戦争を行う“帝国”に見立てたことから“バイド帝星”と呼んでいる)の撃破に成功しているが、その成功の立役者となったのが通称「R」と呼ばれる次元戦闘機である。 これはバイド生命体の根絶を目的として開発されたもので、20メートル弱の小さな機体に“波動砲”と呼ばれる戦艦の艦首砲に匹敵する火力と“フォースユニット”とそれを制御する“フォースコンダクター”を搭載している。 “フォース”とは、バイドの細胞を用いた無人生体兵器で、その破壊本能が暴走しないようにコントロールロッドと呼ばれる制御棒で押さえつけているものである。 次元戦闘機の活躍と人類の生き延びることへの執念は4度の勝利をもたらしたが、それはすなわちバイド帝星の3度の“復活”を意味している。 そして5度目の派兵がなされたのが6年前。28歳の青年士官が木星衛星軌道上の軍事基地のバイドを一掃し、バイド殲滅艦隊(正式には「バイド帝星方面艦隊」)の司令官に任命され、少数精鋭の艦隊で当時太陽系を席巻していたバイドを迎撃していった話はヒロコが士官学校にいたときの教科書に載っていた(実際は少数精鋭などではなく、単に兵力をまわす余裕がなかったらしい)。 そのなかでバイド殲滅艦隊は外宇宙(太陽系の外)へ出るための唯一の施設である、準惑星冥王星の外側に位置する軍事基地、“グリトニル”を奪還した。 若き司令官はグリトニルの長距離跳躍システムを突貫工事で修理し、バイド帝星へと旅立って行った。 彼らのその後の戦果はまだ明らかになっていない。 バイド殲滅艦隊の活躍もあって、太陽系に進入するバイドの数は激減した。 しかし今度は度重なったバイドとの激戦により慢性的に兵力が不足していた宇宙軍の目を盗み、輸送艦や商船を襲う宇宙盗賊がはびこるようになった。 そして1年前、グリトニルが武装組織によって占拠されるという由々しき事態が起こった。 この武装組織は「太陽系解放同盟」を名乗っているが、盗賊の集まりであることに変わりは無い。 しかし“議長”と呼ばれるゴードンは人心掌握術に長け、その参謀ハルパーは卓越した艦隊指揮能力を持っていると言う。 統一政府は、バイド迎撃と殲滅に偏狭していた軍の編成を見直し、太陽系治安維持軍を増強した。 ヒロコが所属する第4艦隊は地球から外宇宙への航路と、バイド帝星方面軍帰還時の航路確保のため、グリトニルのある冥王星へ派兵されている。 ヒロコが士官学校を卒業して第4艦隊の司令官付き第3副官を任官したのはグリトニルが占拠されたのと同じ1年前だった。 このことを考えると母親の 「こんなときに配属されるなんて、なんて運の悪い…」 という言葉を思い出す。 ヒロコは士官学校にいたときから、バイドがもたらした様々な「ひずみ」に注目していた。 統一政府による権力の一極化、急激な兵器テクノロジーの向上、広大な宇宙の治安維持…。 ヒロコにとってはグリトニルがテロリストの手に落ちることはなるべくしてなったことだった。 まあ、こんな話を親に言っても理解してもらえないだろう。 兄さんなら…、もっと正確な予想をするだろうな。 そんなことを考えながら走っていたのでヒロコは作戦会議室を通り過ぎてしまい、慌てて戻ってドアを開けた。 No.1→シャワールーム No.3→作戦会議
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Template 韓国の人物? Template 基礎情報 軍人? 洪 思翊(ホン・サイク、こう しよく;1889年3月4日 - 1946年9月26日)は朝鮮人の日本陸軍軍人。陸軍中将。戦犯としてフィリピンで処刑された。 出自 1889年、京畿道安城の両班の家に生まれた。本貫は南陽洪氏である。1905年の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年の日韓併合に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 軍歴 1914年に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、日本陸軍に勤務、1923年には陸軍大学校(35期)も卒業している。彼は士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、創氏改名が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。この点、親日派ではあるが媚日派ではなく、朝鮮民族の矜持を持っていたと高く評価する声もある。また、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。 洪はその卓越した能力と研鑽で昇進を遂げ、1941年には陸軍少将に進級、歩兵第108旅団長となり、1944年3月比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった。終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だったが、結局解放された祖国を見ることは出来なかった。戦後、連合軍から捕虜収容所長時代の責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守ったまま、マニラ軍事法廷で戦犯として死刑判決を受け、1946年9月26日にマニラで処刑された。 辞世の歌 「昔より冤死せしものあまたありわれもまたこれに加わらんのみ」 「くよくよと思ってみても愚痴となり敗戦罪とあきらむがよし」 子息 洪思翊は独立後の韓国では親日派として糾弾の対象となった。長男の洪国善は早稲田大学を卒業後、朝鮮銀行に勤務していたが、当時の李承晩大統領の直接命令により辞職させられた。また、未亡人の李清栄も、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業していたが、韓国に帰国した後は一切の職業から追放され、日本に戻らざるを得なくなった。しかし日本に協力した責任を差し引いてもなお評価に値する人物であるとする意見もある。 参考文献 山本七平『洪思翊中将の処刑』上、下(筑摩書房ちくま文庫、2006年) 上 ISBN 4-480-42269-2、下 ISBN 4-480-42270-6 長野為義『李朝の武人と桜花 日韓史の中の洪思翊中将』(角川書店、1992年) ISBN 4-04-893015-X 名越二荒之助『日韓共鳴二千年史 これを読めば韓国も日本も好きになる』(明成社、2002年) ISBN 4-944219-11-3 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月11日 (水) 22 41。