約 4,320,797 件
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/60.html
1600年に「関ヶ原の戦い」が起きた場所は、現在の何県? →岐阜県 徳川家康の後を継いで江戸幕府の第2代将軍になった武将は? →徳川秀忠 出家以後は「芳春院」と号した戦国武将・前田利家の妻は? →まつ 加藤清正と豊臣秀吉の出生地である尾張の村は? →中村 1600年の「関ヶ原の戦い」で東軍の総大将を務めた武将は? →徳川家康 徳川家康が豊臣家を攻め滅ぼしたのは「大阪”何”の陣」? →夏 徳川家康が関東入国と共に置いた甲州口の警備を任務とする役職を何という? →八王子千人同心 1549年、日本へキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師・ザビエルが最初に上陸したのは現在の何県? →鹿児島県 戦国時代に暗躍したという盗賊団の頭領・石川五右衛門が1594年に処刑されたのは京都のどこ? →三条河原 1990年公開の角川映画『天と地と』で武田信玄を演じた俳優は? →津川雅彦 1990年公開の角川映画『天と地と』で武田信玄を演じた俳優は津川雅彦ですが ∟1979年公開の角川映画『戦国自衛隊』で武田信玄を演じた俳優は? →田中浩 特に豊臣秀吉の正妻を指すものである、摂政や関白の妻に対する敬称といえば? →北の政所 若き日の豊臣秀吉が織田信長のために懐に入れて温めたという逸話があるものは? →草履 次のうち、織田信長の異称として知られるものは? →第六天魔王 日本が戦国時代だった頃に中国を支配していた王朝は? →明 1588年に豊臣秀吉が発令したのは「”何”狩令」? →刀(画像) 時代劇などでは、眼帯?(画像)を着用した姿でおなじみの戦国武将は? →伊達政宗 NHKの大河ドラマ『太閤記』で豊臣秀吉を演じた俳優は緒形拳ですが ∟『秀吉』で豊臣秀吉を演じた俳優は誰? →竹内直人 NHKの大河ドラマ『太閤記』で豊臣秀吉を演じた俳優は緒形拳ですが ∟『おんな太閤記』で豊臣秀吉を演じた俳優は誰? →西田敏行 「大津宰相」と呼ばれた京極高次が、保身のため豊臣秀吉に差し出したとされる美女の誉れ高い妹といえば? →松の丸殿 1560年の「桶狭間の戦い」で織田信長が約10分の1の兵力で破った戦国大名は? →今川義元 戦国時代の武将・上杉謙信が上杉氏の家督を譲られるまで名乗っていた苗字は? →長尾 戦国時代に各地でその信徒たちが一揆を起こした「一向宗」とは何宗の別名? →浄土真宗 1979年に公開された映画『戦国自衛隊』で戦国時代にタイムスリップした自衛隊が手を結ぶ武将は? →長尾景虎 俗に「戦国時代の三大夜戦」の一つに数えられる北条氏康の軍が武蔵で繰り広げた戦いといえば? →河越城の戦い 漫画『仮面の忍者赤影』で主人公・赤影を従わせている戦国武将は? →豊臣秀吉 次のうち、四国を本拠にしていた戦国大名はどれ? →三好氏 「築山殿」とも呼ばれた今川義元の姪にあたる徳川家康の正室の名前は? →せな 「洞の乱」とも呼ばれる稙宗、晴宗の親子が対立し伊達家を二分した争いといえば? →天文の乱 1600年の関ヶ原の戦いで西軍の石田三成を捕らえた東軍の武将は? →田中吉政 四国統一で知られる長宗我部元親はもともとどこの大名? →土佐 1550年に勃発した、豊後国の戦国大名・大友氏のお家騒動の通称は「”何”崩れ」? →二階 1582年に派遣された天正遣欧少年使節で、豊後の戦国大名大友宗麟の名代を務めたのは? →伊東マンショ 1582年に派遣された天正遣欧少年使節で、豊後の戦国大名大友宗麟の名代を務めたのは伊東マンショですが ∟肥前の戦国大名・大村純忠と有馬晴信の名代を務めたのは? →千々石ミゲル 1586年の岩屋城の合戦で島津方の大軍を前に散った大友氏の重臣だった武将は? →高橋紹運 戦国時代の武将・上杉謙信が自らがその生まれ変わりであると信じた神は? →毘沙門天 1600年に上杉景勝軍と最上義光・伊達政宗連合軍の間で行われた合戦で、「東北の関ヶ原」ともいわれるのは? →長谷堂の戦い 武田軍の軍師・山本勘助が川中島の戦いでとったとされている戦法は? →きつつき戦法 江戸時代に隆盛した剣の流派一刀流の開祖である戦国時代の剣客は○○一刀斎? →伊東 1950年から1967年まで東京新聞などに連載されたある戦国武将を主人公とする作家・山岡荘八の代表作は? →『徳川家康』 戦国武将・織田信長の父の名前は? →信秀 戦国武将・蒲生氏郷に嫁いだ織田信長の次女は? →冬姫 関ヶ原の戦いと同じ年に東インド会社を設立した国は? →イギリス 戦国時代の武将・今川義元の正室である定恵院の実の弟に当たる武将は? 武田信玄 津本陽の歴史小説『下天は夢か』の主人公は? →織田信長 津本陽の歴史小説『下天は夢か』の主人公は織田信長ですが ∟『夢のまた夢』の主人公は? →豊臣秀吉 織田信長の最期の地として知られる京都のお寺は? →本能寺 次のうち戦国武将・前田利家が用いた旗印はどれ? →●が5個あるやつ(画像) 次のうち戦国武将・柴田勝家が用いた旗印はどれ? →扇型が縦に2つ並んでいるやつ(画像) 1555年に戦国武将・毛利元就が陶晴賢を破った場所はどこ? →厳島神社(画像)
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/47532.html
登録日:2021/03/10 Wed 23 00 00 更新日:2024/03/18 Mon 11 27 11NEW! 所要時間:約 40 分で読めます ▽タグ一覧 ことわざ大量発生 キングダム 三晋 中国 中国史 史記 呉 周 始皇帝 封建制 故事成語が産まれる時代 斉 春秋 春秋戦国時代 晋 東周 楚 燕 秦 諸子百家 越 趙 郡県制 韓 韓非子 魏 春秋戦国時代とは、中国史の一区分。 西周王朝が崩壊して東周に遷都した時期から、始皇帝による統一時期までを指す。 ヨーロッパ史における古典ギリシャ時代に比肩するほど、数多くの思想家が輩出したことでも知られる。中国文化が現在のように固まる、基礎を築いた時代でもあった。 【時間区分】 【地理区分】 【前史】 【斉国】 【燕国】 【晋国】◇韓国 ◇魏国 ◇趙国 【楚国】 【秦国】 【その他の諸国】◇魯国 ◇宋国 ◇鄭国 【諸子百家】 【その他の要素】◇封建制から郡県制へ ◇統一の気配はいつ生まれた? 【創作界隈】 【時間区分】 始まりが西周王朝の崩壊と、終わりが始皇帝の統一ということでは定説が一致している。 しかし一口にそういってもBC.770からBC.221に及ぶ、前後550年もの時代なので、簡単にこういう時代だったとまとめることはできない。 ただし「春秋戦国時代」を「春秋時代」と「戦国時代」に分けることにも、あまり意味はない。前後で世界的な変化はあまりないからだ。 とくに「春秋時代」の終わりとは、「孔子が麒麟の死体を見つけて世に絶望して歴史書の記述をやめた年」となっているが、これを歴史の変わり目とするのは無理だろう。実際、春秋と戦国の境目は学者によってまったく一定していない。 晋国の分裂を境目とする学説も多いが、晋国分裂以前と以後で情勢が劇的に変わったわけでもない。 「周王への権威がまだいくらかでも残っていたのが春秋時代、欠片も残らなくなったのが戦国時代」という区分もないではないが、その明確な区分はつけられないし、ついでに春秋時代の「周王の権威」も、せいぜい「敬意を表する」ぐらいなもので、実際に諸国の情勢を左右するほどではなかった(*1)。 そういうわけで本項目では、ざっくばらんに【前期】【中期】【後期】で分ける。 【前期】とは、いわゆる「春秋の覇者」が中原の諸侯国をリードした時代である。具体的には、斉の桓公から晋の文公までの時代。 【中期】とは、文公が死亡してから秦に商鞅が現れる前の時代まで。この時代は、中原をリードする覇者も秦国もいない時期である。 【後期】とは、秦国で商鞅が法治主義改革を行なって以降の、秦一強の時代。この時代はなにを置いても秦が時代の中核となる。 そして【黎明期】として周の東遷から斉の桓公が登場する前まで、【末期】として始皇帝の統一時期までとすれば、大体の流れは掴める。 【地理区分】 春秋戦国時代は、すべてを数えればたくさんの国があって、多くの地域で同時多発的に事件や改革が起きている。 それらを年代順に読むと、東西南北中央で視点が飛び飛びになってしまい、間違いなく混乱する。 そこで本項目では、年代順ではなく、大国を中心として記述をしたい。 具体的には、東方の斉国、東北の燕国、中部の晋国、南部の楚国、西部の秦国である。 ほかにも国はあるではないか、という意見はもっともだが、この五大国は、春秋戦国時代の最初から最後まで、滅亡することなく、常に重要要素として歴史の中心にあり続けたため、これらを中心に置くと話が分かりやすいのだ。 確かに、斉国は途中で公室(君主の血統)が乗っ取られ、晋国は韓・魏・趙の三国に分裂した。 しかし、斉国は公室交代前後でまったく存在感が変わっておらず、晋国は三国分裂後もしばしば「三晋」とひとまとめにされており、実質は「晋国内部の権力闘争」が「三晋内部の権力闘争」に変わっただけといえるほどで、その地理的要因や外交圏における要素は、さほど変わりがない。 なにより、そうしたほうが「春秋戦国時代の流れ」を掴む、初期の理解には好都合なのだ。より詳しく理解したい場合は個別に調べ て、個別項目を立て るのがよいだろう。 それと、春秋戦国時代は、その名前が予想させるような「国家の存亡を掛けた熾烈な弱肉強食の時代」ではなかったことも、留意したい。 確かに小国はよく併合されたが、始皇帝の時代まで斉・燕・晋(三晋)・楚の大国が残っていたように、実は大国は末期まで「存亡の危機」に瀕していなかった。 そんなわけで、春秋戦国時代を斉・燕・晋・楚・秦の五大国を中心に見ることは、視点を定めて腰を落ちつけられることに、意味があると考えられる。 【前史】 春秋戦国時代に入る前に、まず理解しておくべきは、この時代が「周代の緒を引いていること」である。 つまり、始皇帝以後の中華帝国は「中国を単一の政府で統一して運営すること」が当たり前となっているが、周代から春秋戦国時代には、そうした発想はなかった。 諸侯国の関係は、周代までの封建制の要素を色濃く残している、ということだ。 リンク先も参照してほしいが、封建制とは簡潔に言うと「各国が盟約を結び、その盟主が諸国のリーダーとなるシステム」である。 周王とはまさにその「盟主」にほかならず、周朝/周国と傘下の諸侯国は極論すれば、内政不干渉を前提とする同盟国の関係にあった。 周国が全中国を直接支配していた、わけではないのだ。諸侯国はそれぞれの土地を管理・運営し、周朝には同盟関係だけを組んでいたにすぎず、領国内部の統治権は諸侯が握っていた。 その周朝が崩壊したことで、春秋戦国時代に移ったわけだが、かつて夏王朝や殷王朝が崩壊したときとは異なり、周王朝にすぐに代われる支配者がいなかった。 それでこの時代が五百年以上続くわけだが、言わば春秋戦国時代は、「盟主のいない封建時代」ともいえる。 【斉国】 東部の大国。主に山東半島を領域とした。 国祖は太公望で、最初から東部における代表者としての地位を与えられていたため、西周時代初期から開拓や富国強兵を行ない続け、春秋戦国時代の黎明期から、すでに押しも押されもせぬ大国となっていた。 【前期】には斉の桓公、いやそれ以上に大軍師の管仲が登場し、春秋五覇の典型・代表となる。 管仲は桓公から「仲父」と呼ばれて絶対的な信任を与えられ、国内の制度体制を改革。 経済体制を改革して国家と領民を富ませて、国家に従う余力を付けさせるとともに、法令(法律と執行命令)を厳正的確にして賞罰(褒賞と刑罰)を公正明確にすることで、領民をして国家の指示に従うようにさせる。 言わば「倉廩を満たして礼節を知らしめ、衣食を足らして栄辱を知らしめる」ことで、「兵を政に寄せる」つまり領民(領民は兵士となる)と国家を一致させる。 特に「倉廩」、つまり穀物を納める倉を、その領地の区分に応じて立てさせ、収穫期には必ず満たすことで、穀物の値上げを図り、生産者である農民を富裕にするとともに、貴族層の消費を切り詰めさせて物価を下げることにも成功する。 他方で、民衆のあいだにも改革のメスを入れる。 「五戸を最小単位の『軌』、十軌を『里』、四里を『連』、十連を『郷』」と定め、それぞれに長官(軌には軌長、郷には郷長)を置いて、民衆の統治システムを明確にした上で徴兵や納税にも基準を設け、かつ軌や郷内部で監視や連帯責任を追わせることで、犯罪を未然に予防し、高度な規律を民衆にもたらせた。 それらによって管仲は、斉国内部の行政システム・軍事システムを効率化し、五年にして富国強兵と規律確立を達成し、ついに斉桓公五年(BC.681)、北杏の地で近隣諸国を呼び集めて「会盟」を挙行し、諸国との盟約を結んで、桓公がその盟主、すなわち「覇者」となった。 その「北杏の会盟」を初めとして、桓公は総計九回の会盟を挙行し、ことごとくで盟主となった。そして中原諸侯国が内紛や無道な侵略を起こせば、盟下の諸侯国を率いて鎮圧し、あるいは侵入した夷狄を撃退して、現代的にいえば集団安全保障のリーダーとなって、春秋戦国時代前期の立て役者となる。 しかし管仲が没すると桓公はたちまち破滅して無惨な末路を迎え、その過程で斉国も混迷を極めた。 それでも基礎的な国力は依然として大きく、内紛が落ち着けば再び中原の大国として返り咲くが、以後は覇者となることはなかった。 さて、この「諸侯国の盟主となって国際的な問題にあたるリーダー」とは、本来は周王の為すべきことであり、王が王たるゆえんのはずだった。 そして桓公は王ではなく侯爵で、諸侯が周王に代わって王者として振舞うのは本来なら謀反と呼ばれるべきである。 だが、現実には桓公が盟主となることに反論はほとんどなく、当の周朝も、さすがに王本人は臨席しなかったが、特使を送って桓公の会盟に「諸侯として」参加していた。 もはや桓公は実質の王者、諸侯同盟の盟主となったわけで、これは同時に周朝がもはや王として機能していないことを示していた。 他方で、桓公も明確な王者とはならず、ついに暫定的な盟主、一代限りの盟主となるにとどまった。 王者そのものでありながらも王者の形式がなく、新しい王朝を築くほどではなかった桓公は、いつしか「覇者」と呼ばれるに至る。 この桓公モデルの「覇者」が、春秋戦国時代前期の象徴といえる。 斉桓公・晋文公といった「中原の覇者」が世を去ったあとの【中期】には、斉国の情勢は貴族的な門閥に握られ、君主の影は薄くなる。 どころか、荘公が臣下の妻と密通したため、激怒したその臣下に殺される、という冴えない事件も引き起こした。 しかし、こんどはその強力になった門閥貴族の配下から有能な人士が台頭して、斉国は再び繁栄を迎える。 荘公に次ぐ景公の時代には、名臣晏嬰を中心として、名将田穣苴(司馬穣苴)、重臣田乞といった面々が現れ、斉国の安定に寄与する。 しかしこの頃、陳からの亡命貴族である田氏の勢力が急激に力を増しており、この田氏の当主が田乞、同じくその傍系であったのが田穣苴であった(なお「司馬」というのは役職の名前である)。 これに対し旧来の門閥貴族たちは当然嫉妬と警戒を強め、名将であった田穣苴は他の貴族の国氏・高氏らからの讒言により解任され、景公が没するとその年若い息子の姜荼を擁立して実権を握る。しかしこれに反発した田乞は、クーデターを起こして国氏・高氏を滅ぼし、後ろ盾を亡くした姜荼を暗殺して弟の悼公を擁立。 さらにその次代・田恒も悼公の息子の簡公をと二代続けて君主を弑殺して挿げ替えという恐怖政治を敷き、同時に他の門閥貴族も粛清。簡公の弟の平公を都合の良い傀儡として擁立し、外交や賞罰などの国の全権を掌握して国の半分以上を自らの領地とし、田氏による斉国簒奪を既成事実化した。 ただ、巧みにも姜氏を完全には滅亡させず、名目だけにしろ残している。田成が簡公を殺して実権を握ったのがBC.481で、田氏が名実ともに君主となるのはBC.386のことである。百年のあいだに「田氏こそが斉の公室」という認識を社会に広めてから、名号を奪ったわけだ。 こうして「田斉」が完成するBC.386から約三十年後には、遠く秦国で商鞅が出現して大改革を行ない、秦一強の時代が訪れる。 これを【後期】とすれば、田斉の時代はまさしく春秋戦国時代後期と重なる。 ところで田氏に乗っ取られたとは言え、斉国の混乱はほとんどなく、国力も依然として富強なままだった。君主と貴族は大勢が削減されたが、この権力の空白を田氏ががっちり握ったため、むしろ巧みに継承させたのだ。 そのおかげもあって、秦一強の時代でも斉国は依然として東方の超大国として影響力を発揮する。 その首都・臨淄には「稷下の学士」と総称される大勢の学者――いわゆる「諸子百家」――が集結し、文学サロンのような盛況を見せた。 そのなかから台頭する人物も現われ、名将として大活躍した孫臏、外交使節として活躍する淳于髠といった英雄も現れる。田氏からも孟嘗君が生まれて活躍した。 そして宣王の代には東北部の大国・燕を一時は併合し、その次の湣王の代には宋をも滅亡させて秦と並ぶ二大巨頭となり、秦を西帝・斉を東帝と称するほどとなる。 だが、この燕の併合の後に、斉への服属を条件として即位を許された燕の昭王は斉を深く恨んでおり、斉の勢力拡張に危機感を感じた諸国との連合軍を結成、これを戦国時代を代表する名将・楽毅に命じて率いさせ、ついに首都の臨淄が陥落、湣王も連合軍の将軍に殺害されてしまう。そしてほぼ全土が燕軍の勢力下に併合され、数年前とは真逆で今度は斉が滅亡寸前という状況に。 しかしこの直後に燕の昭王は没し、後を継いだ燕の恵王は側近の讒言を信じて楽毅を解任。そして斉は王族の傍流の人物であった名将・田単の活躍により、奇跡の逆転劇を演じて燕軍の撃退に成功、再び復興を果たす。 とはいえここまで展開を見ても分かるように、斉の国の朝廷にも天下を統一して云々、と言うような革新的な方針が採用されることはなかった。 同時期の、後期の秦国を代表する名将白起もそうだが、いまだ封建制の名残りと言うべき「諸国による同盟」を常識とした斉国は、言わば戦国七雄による現状維持以外の考えはなかったわけだ。 そんな状況を、韓非子と始皇帝が覆す。春秋戦国時代【末期】の訪れである。 秦国は七雄を次々併合しては完全なる行政区画として組み込み、単一行政システムによる中国全土の管理を開始した。 そして斉の最後の王・田建は、他の五国への支援を行うという事もなく、秦がこれらの国々を併合するのをただただ傍観していた。斉国が滅ぶのは、戦国七雄でも最後となるが、これは単に秦国から最も遠かったという理由だけで、斉国が強い抵抗を見せたから、というわけではない。 斉国はBC.221にあっけなく滅び、天下は秦国に統一される。 【燕国】 当時の大国では東北の端にあった国。国祖は召公奭(しょうこうせき)。 中原の東北端にあるということは、北方騎馬民族の侵入に晒されるということで、その国力もほとんど常に北方に向けられ、南方=中原に関与する余力がなかった。 東南に隣接する斉国・西南に接する晋国も、燕国を攻撃すればそのぶん騎馬民族に有利、むしろ燕国を騎馬民族の防壁として利用したほうが便利ということで、珍しく中原の闘争からは一歩引いた立場にあった。 とくに春秋戦国時代【前期】【中期】には、これと言って活躍がない。 せいぜい、異民族の一派・山戎の撃退のために、桓公・管仲コンビの斉国に応援を求めた件ぐらいである。 この時、斉国が中原の覇者であったというのもあるが、斉国は快く燕国に援軍を送っており、「燕国は北方の防壁」という意識があったことがわかる。 しかし中原に関わらないあいだ、ずっと北方開発を続けていたようで、【後期】に入るころには黄河の北辺を南端として、遼東半島全域や朝鮮北部にまで勢力を広げており、いつしか大国となっていた。 BC.323には王号も用いている。 ただ、政治体制はだいぶいい加減だったようで、王号を名乗る以前の国政改革などの逸話はほぼない。 それどころか、王号を用いた二代目の姫噲(き かい)がとんでもない愚君で、尭舜の禅譲伝説にかぶれて宰相の子之に全権を譲り渡すという暴挙に出た(*2)あげく、大混乱と内紛を招いて、自分は殺害され、さらにこの隙をついた斉国に攻め込まれて、一時は完全に滅亡した。 ただ、二年後には斉国は燕国を復興させている。この時、趙国と斉国に擁立されて王となったのが昭王である。 昭王は、擁立の恩はあるが、それ以上に燕国を滅ぼし、かつ昭王擁立によって燕国を属国としようとする斉国をなんとしても打破せねばならないと覚悟しており、必死の思いで富国強兵に邁進。 名将楽毅を一本釣りできたことも僥倖となって、二十年間以上の歳月の果てに、国力と軍事力を大幅に増強。 折しも斉国内部で孟嘗君が排斥されたのに乗じて、燕国は斉国に進撃し、斉軍を徹底的に打ち破り、七十二の城のうち七十を制圧して、斉国を滅亡寸前に追い込んだ(*3)。 しかし燕国も、斉国を完全に滅ぼして天下統一、という意志はなかった。 それどころか、斉国の首都で天下一の大都市・臨淄を落としたにもかかわらず、残るたった二城を落とすのにやたら時間をかけるうちに、昭王が没してしまい、内紛が起きて楽毅は燕国から亡命、その隙に乗じて斉国も復興する。 【末期】に入り、始皇帝が天下統一に動き出す時期には、燕国は始皇帝暗殺のため刺客を送ったことでよく知られる。 しかしこれ以外にはなんらかの対策はなく、そもそも国力差が懸絶していたため、やがて秦国によりあっけなく滅ぼされた。 全体として燕国の活動は、地理的な要因もあってほとんど斉国との関係のみに終始している。 【晋国】 中国の中・北部にあった国。中原と呼ばれることもあった。 もとは翼城に首都があったが、領内の曲沃城のほうが繁栄し、かつそこに晋公室の分家が分封されていたため、いつしか分家のほうが本家よりも強力になっていた。 そして春秋戦国時代も【黎明期】を過ぎて【前期】に入ると、ついに曲沃の分家が翼の本家を滅ぼして、取って代わる。 この時、斉国では桓公の八年、まさに桓公の覇権の全盛期である。 このように晋国は、春秋戦国時代の黎明期から内紛を繰り返しており、とくに公室での殺し合いがかなり激しいものであった。 旧本家を根絶やしにした武公以後も内紛は止まず、有名な美女驪姫の暗躍によって、武公を祖とする新本家もほとんどが内紛で殺し尽くされた。 そうした内紛から亡命した公子・重耳が、晋の文公である。 彼は十九年も亡命生活を続けており、そのあいだに廻った斉国・楚国・秦国と言ったほかの大国に顔が広く、かつ有能な側近団も抱えていたため、秦国の後援で帰国・即位すると瞬く間に台頭し、斉桓公亡きあとリーダー不在だった中原の、新たなる覇者として会盟を挙行した。 ここに、桓公モデルの中原の指導者となる覇者が現れたわけだが、しかし文公は長い亡命生活で寿命を使い切っており、帰国した時点で六十二歳だった。 そのため文公は在位九年で没し、晋国の覇権もわずか九年で跡絶える。そして以後、中原では「諸国を盟約で主導する覇者」は二度と登場しなくなる。 晋国内部でも内紛が再発し、晋国の公室はますます殺されていった。 そういうわけで、覇者の時代が去ってからの【中期】には、晋国公室はすっかり影が薄くなってしまう。 その権力の空白を穴埋めして台頭したのが、晋国内部で分封された、分家領主たちである。 中期には早くも六家系、すなわち「范」「中行」「知」「韓」「魏」「趙」のいわゆる「六卿」が、晋国の国政を掌握していた。 彼らは言わば「晋国内部の封建領主」で、晋国の臣下でもあるが自領内では君主である。その晋国の君主がいなくなれば、彼らが自立するのは自明でさえある。 そして彼ら六卿もまた、六卿同士で殺し合いと併合を行ない、最終的に「韓」「魏」「趙」の三勢力が残留。 彼らはそこで殺し合いをやめ、それぞれの領地を「国家」として再編・巨大化し、国力を増強していった。 そしてこれら六卿の相克と発展について、晋公室・君主はまったく関与していない。むしろ、残った三卿に晋公のほうから「入朝」するほどだった。 【中期】の晋国情勢は、言わば晋国が韓魏趙の三国に分裂する過程であったといえる。 同時期の斉国でも、田氏による簒奪が起きていた。 しかし「韓魏趙の三国が生まれた」と言っても、要はもともと一つの国だった晋国を三分割しただけで、どこかの国が攻め滅ぼしたとかそういうわけではない。 そしてその三国がしばしばまとめて「三晋」と呼ばれたように、韓魏趙の三国を「一つの国」と見て、三国の争いを「三晋の内紛」と見ることも可能だった。 実際、「呉子」なんかは韓魏趙の三国を「三晋」とひとまとめにして、区別なく分析している。 春秋戦国時代【後期】は、三晋それぞれの時代である。 しかし細かく見ればいくらでも差異を見出せるが、全体としては、三晋がそろって秦国に対処するしかなかったという点で、大差はない。 ◇韓国 三晋では南の国。中国全体ではまさに中心地点となった。 北に魏国、西に秦国、南に楚国に挟まれ、領地がもっとも小さく、その上魏に包囲されるような位置にあって、三晋でも戦国七雄でも最弱と言われた。 それでも、申不害が宰相となっていた時期には、例外的に国内がよく治まり、また他国からの侵略・干渉も防ぎ切れたという。 申不害の詳しい事跡は伝わらないが、韓非子は彼の資料を入手して徹底検証したようで、韓非子の説く法治システムの三本柱「法」「術」「勢」のうち、「術」すなわち実際の法律の運用は、申不害の流儀を研究したものとしている。 申不害亡きあとはすぐ元に戻り、韓非子が若かりしころにはすでに秦国の属国となっている(韓非子いわく「もう秦国の郡県(直轄領)と変わるところがない」)。 それでも、始皇帝登場までは戦国七雄として確かに存続していたが、韓非子から「天下統一」を教えられた始皇帝によって真っ先に併合されて「潁川郡」となった。 ちなみに、この国の「韓」とは韓原(現在の陝西省・渭南市の韓城市)という土地に由来し、当然のことながら朝鮮半島南部の「韓」とは無関係。直線距離でも数千キロ離れてるし。 ◇魏国 三晋では中部の国。 韓国を包み込むように広がっており、おかげで西に晋・北に趙・東に斉燕・南に韓楚と接していた。 三晋のなかではもっとも早く発展した国で、実質自立して間もない文侯の代に、賢人を数多く迎え入れてその国力を一気に強大化させた。 その賢者というのが、呉子を筆頭として西門豹・李克・楽羊(楽毅の先祖)と言った面々で、彼らの統治手腕と軍事能力で、魏国は最初に全盛期を迎える。 しかし文侯死後に即位した武侯は、呉子と対立して彼を追い出してしまう。 それでも武公もなかなかの君主だったので、しばらく魏国も勢力を残していたが、【後期】を代表する商鞅の改革を経た秦国にはまるで叶わず、防戦一手となる。 「戦国四君」の一角・信陵君も魏国の公子であり、彼の外交政策で一時期は盛り返すが、信陵君が失脚する(*4)ともとの木阿弥となる。 その後、始皇帝が統一を視野に外政を始めると、韓・趙・燕の後に滅ぼされた。 燕国が先なのは例の暗殺事件によって順番が変わったからであり、始皇帝も最初は三晋を先に滅ぼすつもりだったと見られる。 ただし、一時的にとは言え秦に勝利した信陵君に対して劉邦が敬意を抱いていたことから、魏の王女の娘(薄姫)を側室にしている。 薄姫は大人しい性格であり「そこそこの財産を貰って息子と楽しく暮らせればいい」と言う態度を一貫していたため、劉邦の正妻の呂后にも敵視されず、結果として彼女の一人息子が漢の皇帝(文帝)に即位。 光武帝や劉備も文帝の末裔なので、女系とは言え魏の王族の血は五胡十六国時代前まで生き延びている。 ◇趙国 三晋でも最北部の国で、燕国にも近い。 公室/王室の趙家は、晋国内部でもとくに早くから勢力を確立した名門で、春秋戦国時代の【前期】には覇者文公の参謀趙衰を、【中期】には重臣趙盾を排出している。 趙盾没後に一度滅ぼされたが、韓氏の支援を得て復興し、ついに独立に至る。 趙の名君と言えば武霊王で、魏の文侯より150年ほどのちの人物となる。 彼は騎馬民族のすぐれた馬術・騎射術に感銘を受け、彼らの騎馬隊を趙国でも取り入れるべく「胡服騎射」の改革を行なった。 胡服つまり騎馬民族の服装は、もちろん馬術に向くよう最適化されている。逆に漢族の伝統衣服は、あらゆる意味で馬術に向かない。 しかし、かつて機動戦の主力だった戦車(戦闘用の馬車)が廃れたいま、そして秦国が商鞅の改革によってとてつもなく強大化したいま、騎馬隊を創設することは急務だった。 よって武霊王は、反対派を論破しつつ胡服を取り入れて強力な騎馬隊を創設。同時に、漢族の文化が絶対至上ではないと表明することにもなった。 また、騎馬民族を祖とする国家・中山国を併合して、その戦力も併合。 同時に、旧中山国を経由して、北方から斉国や秦国に攻め込む態勢も見せる。 しかしまぎれもない名君だった武霊王も、中途半端な禅譲によって後継争いを引き起こしてしまい、殺害される。 それでも武霊王の改革によって趙国は強大化しており、さらに陸続として現れた廉頗・趙奢・藺相如・平原君といった名将・名臣の活躍もあって、秦国に対抗しうる国家として斉国とともに知られるようになる。 「机上の空論」の語源となった趙括の大敗もあったが、秦国に統一プランがなかったこともあって、依然として強い影響力を持ち続けた。 韓非子も「趙国は合従の盟主となって秦を狙っている」と、強敵と指摘している。 この韓非子の予想があたったか、始皇帝が統一に乗り出した【末期】には、趙国に名将李牧が出現し、一時的に秦軍を撃退している。 しかし「天下統一」という戦略プランを確立した始皇帝と、そうした戦略のない李牧の差は大きく、政略によって李牧は消され、ついに趙国は秦国に滅ぼされる。 【楚国】 南方に位置した大国。淮南から長江流域に掛けて勢力を誇った。 長江文化圏を母体に、黄河文化圏の勢力も取り入れたと見られ、独特な文化があった。 正確な年代は不明だが、西周時代から王号を称したとされ、かなり早いうちから独自の王権/封建制による支配力を誇示していた模様。 周の四代王・昭王が楚国に攻め込んだ際に「行方不明」となっており、これもおそらく返り討ちにしたとみられる。 春秋戦国時代に入ると、初っぱなから国力を振るって、南方の小国を併合あるいは傘下に加えて、勢力を確立。 さらには中原まで視野に入れて活動を開始した。 【前期】に斉の桓公が覇権を確立したのも、躍進著しい楚国に対抗しうる、強力なリーダーが中原諸侯に求められたからでもある。 実際に管仲は楚国討伐を行なっている。もっとも、さしもの管仲も楚国との本格的な遠征は考えていなかったようで、楚国の使者屈完の交渉に応じて、外交的決着を済ませている(*5)。 以後はおおむね、南方での覇権を固める一方、中原にちょくちょく干渉する、というスタンスで推移する。 楚国と中原のあいだにある鄭国が、今日は楚国の側につき、明日は中原の側につく、という二股外交を展開したため、逆に楚国と中原の緩衝地帯になったからでもあった。 宋の襄公を撃破したり、晋の文公に撃退されたりといった事件も起きている。 【中期】には、名君荘王によって全盛期を迎え、中原の大国・晋を破って文公以来の覇権を崩壊させる。荘王はこれによって「春秋五覇」の一人と呼ばれた。 しかし、荘王を含めた楚国が中原諸侯の盟主となった様子はなく、あくまで「南方の覇者」にとどまる。 さて【中期】と言えば中原の覇者がいなくなって、斉国は田斉に・晋国は三晋に変遷していくが、南方でも権力の変遷が起きる。 呉国と越国が台頭して、楚国が覇権を失うのだ。 呉国は少し前に、楚国から亡命した屈巫・屈庸という親子から、戦車・用兵の方法を学んで軍事力を大きく飛躍させていた。 そしてその数十年後に、やはり楚国に家族を殺された伍子胥が亡命する。家族の復讐に燃える伍子胥の熱意に導かれ、かつ名将孫武、すなわち「孫子」の指揮も加わって、物の見事に楚の大軍を打ち破り、首都を陥落させる。楚王・昭王は亡命に成功した。 だがその呉国の背後から、これまた新興の越国が、国力と軍事力を急成長させていた。 呉と越はすぐに戦争状態に入り、「臥薪嘗胆」の由来となる克己と鍛練の果てに、越国が呉国を滅ぼして、南方の主導権を握った。 しかし、呉国は滅んだが楚国は生きていた。首都を落とされながらも脱出していた楚の昭王が、秦国の支援を得て再起動していたのだ。 その楚国が、越国の覇権確立から百数十年後、越国を滅ぼして南方の覇者に舞い戻る。 この、楚国復活が果たされたのはBC.334あたりで、まさに秦国では商鞅の改革が行なわれて、天下が秦一強の時代となっていた【後期】にあたる。 楚国は返り咲きはしたものの、政治システムは旧来のものを引き摺っており、王族・貴族は数が増えすぎて人材登用が彼らで埋まり、地位と俸禄はあるのに職務のない「冗官」も多いなど、他の国々ではすでに行なわれていた改革すべき旧弊が、そのまま残っていた。 越国を滅ぼす以前に、魏国から亡命してきた呉起が令尹(宰相)に抜擢されて、これら旧弊をいっせいに打破する改革を施行したが、呉起を支えてくれた悼王が、呉起抜擢からわずか七年で逝去。 その葬儀の日に、呉起の改革で既得権を奪われていた楚国の門閥貴族がクーデターを起こし、持ち出した弓矢で呉起を殺害、彼の改革も破棄されてしまった。 呉起の死は商鞅の登場よりも半世紀ほど先立つが、商鞅を殺しても商鞅の法は引き継いだ秦国が強大化したのに対し、呉子を殺して呉子の法も破棄した楚国は、大国ではあっても統制の取れない弱い国として、秦国に圧倒される。 始皇帝が統一に乗り出す【末期】には、名将項燕が現れて一度は秦軍を押し返すが、相手の始皇帝は「天下統一」という戦略プランを堅持しており、老将王翦の再抜擢と、彼の要求をすべて呑んでの総力戦に挑んだ始皇帝によって、項燕は破れて楚国は滅んだ。 数十年後、項燕の息子の項梁と孫の項羽が台頭。 秦を滅ぼし、中華を支配するが、短期間で滅んだ。 【秦国】 西の大国。関中盆地を中心に発展した。 西周時代から勢力を広げていたが、周朝から諸侯と任命されたのは春秋戦国時代に入った直後のことで、周が異民族に攻められて東遷した際に、王室復興に尽くしたために伯爵位を与えられた。 中原で斉の桓公や晋の文公が覇権を握っていた【前期】には、西方の経営と開発に力を注いでおり、中原に対してはあまり目立った行動はとっていない。 【前期】の君主としては穆公が第一に挙げられる。 穆公は百里奚や由余を筆頭として、国内外から広く賢者を登用し、かつ彼らに役割を持たせてよく駆使したため、秦国は強大化して、一気に西域の覇者に躍り出た。 また穆公は、亡命時代の晋文公を匿い、最終的に即位させた張本人でもある。 そうした事情もあって穆公は「春秋五覇」の一人に数えられる。もっとも穆公は、楚国の荘王と同じく、中原の諸侯に対して「覇者」として振舞った形跡はない。 ただ、穆公はあまりにも名君でありすぎた。 穆公が没したとき、彼の人徳を慕う大勢の人士が殉死したのだが、その全員が有能かつ忠誠心にあふれた面々だった。 そんな彼らが一斉殉死したため、一時秦国は大混乱に陥るが、幸いにもその頃には秦国に対抗するような大国は西方におらず、秦国は安定する。 【中期】の秦国は、斉国が田氏に、晋国が六卿に乗っ取られ、楚国が呉越に破れるのを後目に、そこそこ安定して存続した。 しかし中原諸国が諸子百家を抜擢して新規人材を駆使したこと、特に魏国で呉起を筆頭としてすさまじい躍進を遂げたことが、魏国に隣接する秦国にも「賢者招集」「体制改革」を意識させることになる。 そして秦国が釣り上げたのが、春秋戦国時代の情勢を一変させる超大物、商鞅だった。 商鞅の改革は、なにを置いても「農民の重視」を第一とする。農民は有事には徴兵されて兵士にもなるから、農民の重視とは「農業と軍事の重視」のことだ。 一人前の人間として扱われたければ、農事と軍事にて功績を挙げるほかはない、ということを徹底し、弁舌や無用な学問・よけいな技芸では昇進どころか食べることもできないほどの厳しい価値観を広める。 しかもこれは農民だけに与えられるものではなく、貴族や役人にまで徹底された。名門の子弟であろうと、与えられたノルマを果たせなければ地位を落とされる。 そのうえで、褒賞と刑罰を厳格かつ明確にする。 挙げた業績に対して、褒賞が確実にもたらされるから、ひとびとはなんとしても手柄を立てようとする。犯した悪事に対して、刑罰が確実にもたらされるから、ひとびとは最初から悪事を避けるようになる。 その法律・刑罰・褒賞の厳格さたるや、王太子やその補佐役の諸公子、つまり直系王族にまで及んだ。大臣や官吏が驚いたのはいうまでもない。 さらに国内の行政システムにしても、効率化やスピード向上を徹底する。これは業務処理の改善のみならず、役人が汚職・賄賂を行なう余地を無くすものである。 連座の法も用いられ、民衆は同胞に対しても「犯罪行為をやめろ!」と厳しく説くようになった。 実は、これら商鞅の改革は、先行する管仲たちの改革と似ているところが多い。 こうした改革によって秦国の人たちは、農地に行けば力を尽くして開墾し、戦場に出れば血眼になって敵に襲いかかった。 さらに第二次改革で、大家族を分家させて辺境に移し、開墾できる・するしかない状況に追い込み、土地の開発と戸数の増加を同時に図らせた。 また行政区核を「県」を中核として再編し、また農地の再測量も並行して、国内の行政システムを一新・効率化させた。 同時に国内の度量衡も統一して、国内での情報疎通を簡素にした。 農地が開墾されて生産力が増大し、民衆に規律が生まれて兵が強くなり、行政システムが効率化されて汚職が減れば、国力が増して当たり前だ。 かくして秦国は超大国となる。しかも、同じく「戦国の七雄」と言われた斉燕韓魏趙楚の六カ国とは、桁外れの国力を備えた「一強」の存在となった。 秦を除く「七雄」を「六国」というのも、「秦は他の六国とは別格」というニュアンスが強い。 以後、秦国は六国に兵を出し、そのたびに勝つ。ちなみに秦国では商鞅の改革により「敵兵の首を挙げること」が昇進にかかっていたため、この時期からの秦国の記録には「斬首七千」などの記録が明確になった。もっとも、兵たちが水増しした数値であることは間違いない。 商鞅は、彼を支えてくれた孝公がわずか四十五歳で急逝したことから失脚し、惨殺される。 しかし秦国は、商鞅は殺しても商鞅の改革は引き継いだため、その国力は時間を追うごとにますます強大化した。 以後は「強大な秦国に、六国がどう対処するか」という【後期】に変わる。秦国は常に情勢の中心にあったのであり、その意味で商鞅の改革は、春秋戦国時代の大きな節目となった。 六国サイドでも改めて富国強兵と改革が行なわれたが、秦の商鞅のそれほど徹底はしておらず、また「六国が一致団結して同盟を結んで秦と対処する」という「合従連衡」も、六国同士にこれまでの怨恨や利害闘争があったために「一致団結」することができず、秦の強勢を覆すには至らなかった。 秦の昭襄王は在位年数が55年に及ぶ長命な君主で、【後期】を代表する人物だが、国内では権力闘争こそあれども国力そのものは安定して強く、国外では名将白起と商鞅以来精強なままの軍隊によって、向かうところ敵なしだった。 ただ、これほど強く、かつ六国を圧倒していたにもかかわらず、六国を明確に滅ぼしたことはない。 壊滅状態に追い込んでも、しばらくすれば撤兵して復興させる、と言うふうで、むしろ「隣国は隣国に治めさせるのがよい」「亡国を復興させるのがあるべき姿」と思っていた節が強い。 この時代までには、秦国にも「中華文化圏を単一の行政システムのもと統一する」という発想がなかったのだろう。 その情勢が、韓非子と始皇帝によって変わる。【末期】の訪れである。 始皇帝、統一までは秦王政だが、彼は韓非子の教えを受けて「天下は統一すべきであること」「国力・戦力では秦国はとっくに可能で、あと必要なのは君主の気力のみ」と教えられて、いよいよ天下統一を視野に入れて行動を開始。 それなりに苦戦はしたが、短期間で六国を併合し、BC.221年に天下を統一。 西周~春秋戦国時代までの封建制ベースの諸国併存体制から、「単一の行政システムによって中国文化圏を管理・運営する」、世にいう郡県制を前提とした秦朝の時代――秦代――が幕を開ける。 【その他の諸国】 以上の斉・燕・三晋(韓・魏・趙)・楚・秦の大国が春秋戦国時代の顔だが、この五大国/七大国のほかにも印象深い国は多い。 ◇魯国 周公旦の長男を国祖とし、斉国の西南に隣接した。 小国というには大きいが大国というほどでもなく、特に軍事力は弱くて、一時期を除けばほぼ斉国の衛星というか、属国に等しい(*6)。 さらに、【中期】からは三つの有力貴族「三桓」が実権を握り、しかも彼らは晋国の六卿と違って、国力増強よりも三桓同士の内紛に励んだため、魯国はますます衰亡した。 孔子はこの魯国の出身で、周公旦を始祖とする周の礼制を学んだと見られ、彼の研究した「儒学」が、中国人伝統の先祖供養と融合して「儒教」へと発展する。 とは言え、孔子が魯国に仕えていた時期は実は短く、ほとんどは弟子たちと各国を放浪していたので、「魯国が儒教に影響を与えた」というわけではなかったりする。 本人もあまり就職先として魅力的ではなかったようで、斉国に仕官運動を挑んだりしていた。 ◇宋国 斉国や魯国のさらに東南にあり、西の晋国・南の楚国との中間に位置する。 殷王朝の王族微子啓を祖とする国で、殷王朝の祭司を継ぐというちょっと独特な国(*7)。ほとんどの国が侯爵か伯爵である中、旧王家の末裔ということで最高位の公爵位が与えられていた。 爵位は高いが国力はさほどではなく、魯国よりちょっとマシというていど。 春秋戦国時代は全期間を通じて弱い国だったが、斉の桓公の没後に、時の君主襄公が「覇者」になろうと画策したことがある。 しかし襄公は「宋襄の仁」を発揮して無様に大敗し、襄公本人もその戦いでの負傷から回復できず二年後に死亡。覇者の名誉は夢と消えた。 それ以後はあまり振るわなかったが、生前の襄公が斉の桓公とも晋の文公(亡命時代)とも親しくしていたため、かつ地理的に楚国に対する最前線でもあったために、斉と晋の両国と良好な関係を結んだ。 ◇鄭国 中国のほぼ中央、中原に限定すれば南にあった国。つまり、西は秦国・北は晋国・東は宋国(延いては斉国)・南は楚国に接していた。 とくに、中原の大国・晋と南方の大国・楚のあいだに立地するというのは、のちのち重要な要素となる。 鄭国は、実は春秋五覇の筆頭・斉の桓公以前に、覇権を握ったともいえる国だった。 鄭国自体は西周末期に最後の王・幽王の父の代に弟を分封した国であり、犬戎系の勢力だった秦と共に春秋初期には新興国だったが、立地の良さと王の近親と言う事から卿士筆頭(後世で言う摂政や首相)を務めていた。 西周崩壊時にも唯一幽王の元に来援したのが鄭国初代君主で幽王の叔父桓公だった(とは言え、摂政として甥の暗愚を諫められなかった責任を取る形であり、「若い者を巻き添えに出来ない」と僅かな老兵を伴っての自殺目的の出撃だったが)。 桓公以前を【黎明期】とすれば、その中心にいたのが鄭の荘公で、封建制における王として、諸侯の盟主としての権威を誇示しようとする周王朝に対して、正面からノーを突きつけた。 これは言葉や比喩や脅しではなく、現に諸侯連合軍を率いて鄭国討伐に乗り出した周王を、鄭軍を率いて打ち破ったばかりか、王本人に矢を命中させている。 「諸侯の盟主となって、秩序を乱す敵を打ち負かす」のが封建制の王であれば、その姿は完全に否定されてしまったわけだ。 この荘公の時代は鄭国の全盛期で、斉国も娘を娶らせようとしていたほど。 しかし荘公没後は統制が取れなくなり、かつ近隣の斉国や晋国が強大化するにつれ、国力が衰える。 しかし南方の楚国と北方の晋国が覇権を競うにつれ、その中間点に位置する鄭国は別の活路を見いだした。 つまり「今日は晋国の盟約に従い、明日は楚国の覇権を受け入れ、楚国がとがめれば謝罪し、晋国がとがめれば詫びて、柔軟に生き残る」という面従腹背というか、二股膏薬的な外交政策をとった。 おかげで一種の「緩衝地帯」となって、意外と程よく生き残ることができた。 もっとも、両大国の意向ですぐ方針が変わるために、国内の政治や制度は乱れきり規範は無きが如しとなり、国内は混迷を極めていた。 この状況を憂えたのが賢人子産で、法律の公開を筆頭とした数々の改革によって鄭国は一時的に規律を築き上げるが、子産が没すると彼の改革はまたも消滅してしまった。 その後は韓国に滅ぼされるが、今度は韓国が地理的用件から窮乏し、秦国の属国同然となってしまう。 【諸子百家】 大国の存在が春秋戦国時代を彩る主役なのは間違いないが、同時に春秋戦国時代を彩るのが諸子百家とも総称される、数多くの人士であることも間違いない。 時代にもよるが、彼ら英雄豪傑たちの特徴は、諸国を渡り歩くため特定国家への帰属意識が薄いことにある。 つまり、登用されて自分の意見が採用されるならどの国にも行くし落ち着くが、その国が自分の意見を採用しないと言うなら故郷であってもあっさり離れる、ということだ。 君主の側も、賢者と見ればどんな身分のものであっても抜擢して国政を授ける、という行動をよく見せた。 もっとも、抜擢してもまた反論があれば取り止める、ということも多かったため、また目新しい意見にすぐ流されるなどの定見の無さも加わって、不遇に終わったり翻弄された人物も多い。代表的なのが呉起だろう。 なお「諸子百家」といまでは当たり前のようにいうが、この用語は後漢時代に作られたもので、春秋戦国時代の実態はあまり反映していない。 とくに「百家」つまり学閥や学問の系譜というものを意識したのは、春秋戦国時代では儒家と墨家のみだった。 そのため、儒家と墨家のメンバーを除けば、「○○家」というものの区別はあまり意味が無かったりする。 ちなみに、「諸国を股に掛けて自分の理論を主張する遊説の人士」のモデルを作ったのは、孔子である。 孔子以前の、例えば管仲は、君主に一気に抜擢された点で諸子の典型っぽいが、「諸国を股に掛ける」というほどの行動力は見せていない。 まあ孔子本人は「なぜ我が意見が受け入れられないのだ」と嘆いていた節もあって、「諸子百家の先駆けですね」と言われても嬉しくはないだろうが……。 ただ、彼ら諸子の幅広い活躍と研究、そしてそれらを奨励した君主たちの応援によって、後世「百家」「百家争鳴」と言われるような無数の学問・研究・哲学が花開いたのは間違いない。 春秋戦国時代に由来することわざが数多くあるのも偶然ではなく、この時代が中国思想史の黄金時代であったからなのだ。 また国際情勢が五大国(七大国)で何となく安定し、それでいて戦乱=思想実践の場が絶えなかったこともあって、単なる「思想が発展した」だけではなく「実践方法も発展した」春秋戦国時代は、国家レベルでも個人レベルでもとても楽しい時代となった。 そのため、管仲や楽毅を代表とする人物たちのエピソードはどれをとっても悲喜交々、おもしろいものばかりである。 かくのごとく、春秋戦国時代が政治面のみならず思想面・文化面においても、極めて重要な時代であったのだ。 【その他の要素】 ◇封建制から郡県制へ 春秋戦国時代を「周代から秦代の過渡期」と見た場合、最大の特徴は「郡県制・官僚システムの普及」だろう。 詳しくは封建制も参照してほしいが、周代までは封建領主に中国各地を統治させるという地方行政システムで、これは春秋戦国時代でも引き続き使われている。 また、周王は諸侯に領土を与えて封建するが、封土を与えられた諸侯も、自分の領内に封建領主を作り、領主に封土を統治させていた。 (典型的なのは、晋国内部で封土を持ち、最終的に自立した、韓・魏・趙の面々だろう。彼らは晋公室ありし時から晋の国内領主だったのだ) 秦代はこれがほぼ完全に廃止され(名誉職としては多少残る)、地方行政システムは世襲ではない官僚を派遣して統治させる「郡県制」に切り替わる。 この郡県制だが、これは何も韓非子と始皇帝の独創ではなく、春秋戦国時代の中期から後期にかけて広まっていた。 主に晋(三晋)や秦で広まり、呉子も楚国で実施しようとした。 ただ、これら郡県制はあくまで「各国内にあった封建領主を解体して、国王直属の郡県制にする」というもので、天下全体の封建制を解体するようなものではない。 また、始皇帝以前の各国の郡県制は徹底されたものではなく、封建制との併用だった。 典型的なのが秦の昭襄王の叔父、魏冄(ぎ ぜん)である。 彼は昭襄王の母の弟で、宰相として辣腕を振るったのだが、彼は秦国から離れた「陶」という場所に封土を持っており、秦軍を動かして敵を破っては、占領地を自分の封土に加えていた。 つまり魏冄は、秦国内部の封建領主として、強い力を持っていたわけだ。 しかも魏冄や昭襄王の時代の秦国は商鞅の改革から百年近く経過しており、郡県制の理解や研究がかなり進んでいたにもかかわらず、である。 そういうわけで、確かに春秋戦国時代を通じて郡県制が広まったのは事実ながら、完全に切り替わる趨勢だったわけではないということだ。 ◇統一の気配はいつ生まれた? 年代記を見ると、周の統一的権力が崩れて、代わって秦が統一したかに見える。 しかし、周代から春秋戦国の全期間において、各大国は他の大国を、いくら攻めても完全に滅ぼしはせず、復興させるのが常だった。これは封建制の常識が存在していたからだろう。 大国を滅ぼして郡や県に再編して、以後は官僚支配に切り替える、というのは、実は始皇帝だけがやったことであり、これに関しては前例がない。 そのため、もしも始皇帝が歴史に現れて天下を統一することがなければ、 中国史は七大国が共存しあうまま、何千年も現状維持が続き、現在のヨーロッパのように複数の国が併存し続けたのでないか、という論もある。 現に韓非子は「すでに秦国は国力・軍事力ともに天下統一が可能なはずで、しかもこれまでの幾度かの大勝利の勢いを駆れば、天下統一など昭襄王の代でできたはずだ。しかし秦国は君主も群臣も、毎度毎度滅ぼせる隣国を滅ぼさず、撤収しては復興させることを繰り返した。結果、天下統一の機会を逸すること四度に及ぶ」と語っている。 確かに秦国が当時圧倒的に強かったのは疑いなく、事実始皇帝が最初に韓国を滅ぼしてから最後に斉国を滅ぼすまでは、たった11年のことだった。 しかし「単一行政組織による全世界の統一」という、それまでは誰も考えていなかったまったく新しい事業を、敢然と行ったのは、やはり始皇帝自身に類稀なる気力があったからだろう。 もしも彼が統一までの過程で死亡していれば、「中国」は現在あるものとは大きく変わったかもしれない。 ただ、始皇帝が中国全土を統一できたのは、それ以前から「中国は一つの世界」という認識が土台にあったからでもある。 いわゆる「中国文化圏」は、春秋戦国時代に「戦国七雄」と言われた領域、「諸子百家」が自由に闊歩した領域と、基本が一致する(*8)。 特に、言語で言えば各国(五大国圏)で文字の表記や発音や細かい文法が異なるにもかかわらず、つまり「国境と言語」で見れば確実に「外国」だったにもかかわらず、 当時の中国には「天下諸国は一つの世界だ」という認識が広がっていた。それは、諸子百家の面々が、中原から秦や楚まで、国境も言語も無視するかのように移動していたことからも明らかだ。 これは、あたかもヨーロッパにはイギリス・フランス・ドイツ・スペイン・イタリアなど多数の国があり、それぞれ言語も異なりながらも、 「キリスト教」「ラテン系言語」を核として(時には、言語は「ギリシャ語系」ながらも「キリスト教」を共有する、ロシアなど東欧を含めて)、 「ヨーロッパは一つの世界」という認識が存在することと類似する。現にその枠組みに沿うかのように、中世では十字軍が組織され、現代ではEUが組織された。 そして始皇帝は、中国は統一したが、その先の異文化圏まで統一しようとしなかった。具体的には、長城で「国境線」を引いた北の匈奴などである(*9)。 始皇帝が歴史に産まれなければ中国は今の姿とは大きく変わったかもしれない。しかし始皇帝の統一事業が無から生まれたわけでもない。 始皇帝の統一事業はあらゆる意味で、春秋戦国時代の総決算であった。 【創作界隈】 司馬遷の『史記』が春秋戦国時代を重点的に描いていたことと、この史記が日本では『新釈漢文大系』にて全巻翻訳されていることもあって、『三国志』に次いで身近な中国史の題材となっている。 なので、それなりの作品が作られている……のだが、三国志関連の作品に比べると、どうにも絶対数が少ない印象を受ける。 小説界隈では、まずは宮城谷昌光がスタンダードとされる。 ただ、キャラクターの個人列伝に近く、全体を俯瞰する要素は薄い。また登場人物の前半生は重点的に描くが、後半生はあっさりダイジェスト化してしまうこともちょくちょく(例えば『管仲』は桓公に仕えるところまででほとんどが終わり、執政となってからは早送り)。 安能務師は『春秋戦国志』で、前後550年の春秋戦国時代を上・中・下の3巻でまとめている。 本作では主に法治思想の発展に着目している。 漫画作品では『キングダム』が有名。これは始皇帝の統一戦争をモデルとしている。 そのほか孫臏を主役とした『ビン~孫子異伝~』、蒼天航路で有名な王欣太の『達人伝〜9万里を風に乗り〜』など、やはり三国志ほどではないが、春秋戦国時代の作品はある。 追記・修正は春夏秋冬を問わずいつでもどうぞ。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 次は韓非子の予定です。今回は諸事情あって推敲不足となった気がします。長いし。どうか随時修正をお願いします。 -- 作成者 (2021-03-10 23 06 05) ついに来たかって感じだ。創作が難しいのは時代が長い割に史料が少ないからだろうなあ -- 名無しさん (2021-03-10 23 57 44) これはもしや科挙の人かな・・・?いいぞもっとやってくださいお願いします -- 名無しさん (2021-03-11 10 34 13) ↑2 来ましたね。とっても嬉しい。できれば、春秋戦国も、コーエーのSLGになってほしいけど、何百年も続いていたから、やはりシナリオ作りが難しいのかなぁ(´・ω・`) -- 名無しさん (2021-03-11 10 44 04) 建て主アピールをやめろ -- 名無しさん (2021-03-11 11 36 18) 春秋戦国時代ってあまりにも長すぎるからなあなあにしてたけど、こういう時代だったのか。それに宮城谷昌光氏の小説「晏子」の時代がどの辺なのかもようやく理解できた。建て主ありがとう。 -- 名無しさん (2021-03-11 13 15 58) 春秋とはこの年代が書かれた歴史書、戦国とはこの時代の歴史などが書かれた戦国策から、春秋戦国時代と名付けられた。 -- 名無しさん (2021-03-11 14 17 06) ↑3ただ修正をお願いしただけで「建て主アピールをやめろ」とかアホか。だったら初めから見るんじゃねえ -- 名無しさん (2021-03-11 15 53 55) ↑追記、俺は建て主じゃないがお前みたいな荒らしがいるからいつまで経っても記事が立たないんだろうが -- 名無しさん (2021-03-11 15 55 53) 科挙の項といい、学者さんの暇つぶしかな...感謝 -- 名無しさん (2021-03-11 17 03 46) 隣国を攻めるけど滅ぼさないって独特な価値観してるなあ。一種の経済活動みたいな感覚なんだろうか。 -- 名無しさん (2021-03-11 17 14 27) ↑現代でもアメリカが敵国を攻めるけど政権を滅ぼした後は復興させてるし、そこまで異様な事ではないのかも。 -- 名無しさん (2021-03-11 17 31 15) あの、科挙を作られたのはウチじゃないです。あんな凄いのは無理。曹操や張飛や劉封を立項した人じゃないかな…… -- 作成者 (2021-03-11 17 36 43) 始皇帝達がやったことを今の時代で言うと、世界征服を真面目に目指して戦争するような感じかな。現代でも「世界征服してやるぞ!」なんて真剣な顔で言い出したら周囲から正気を疑われるだろうし、無理に決まってると笑われるだろうから、それをやってのけた始皇帝がいかに突出した人だったかがよくわかる。 -- 名無しさん (2021-03-11 17 52 37) 管仲は軍師ではなく宰相に近いが、管仲より位が上な大臣が二人いる (高氏、国氏と言われている) 。そのため宰相とも言えず一大臣に過ぎない。 -- 名無しさん (2021-03-11 18 01 41) 燕はあと数年昭王が生きていたら斉全土を征服できたであろうに。その次の恵王が台無しにした・・・ -- 名無しさん (2021-03-11 18 12 19) 趙は長平の戦いで趙括が大ポカやらすまでは、独力で秦に対抗できた唯一の国。韓・魏・楚は白起に叩かれ、斉は燕の侵攻からの立て直し真っ最中で外征の余裕なし、燕は内紛のごたごた・・・ -- 名無しさん (2021-03-11 18 21 00) ↑7 知らず知らずのうちに「周の内紛」というような認識をしてるんじゃないか?直接支配が面倒だったってのもあるだろうけど -- 名無しさん (2021-03-11 19 54 34) 鄭問の東周英雄伝でこの時代に興味を持った人も少なくないと思う -- 名無しさん (2021-03-12 00 42 09) 秋春戦国に比べて楚漢戦争が短すぎる 百分の一ってマジかよ -- 名無しさん (2021-03-12 01 00 37) 秦の統一から始皇帝の死まで僅か10年、滅亡まではそこから5年。人々の恨みを忘れさせ亡国の諸侯の力を奪うにはあまりにも短すぎて全部一気に噴出したんだろうな -- 名無しさん (2021-03-12 01 44 53) やっぱり創作小説の第一人者は宮城谷氏なんだな -- 名無しさん (2021-03-12 03 39 10) 宮城谷氏はまさに春秋戦国史作家(not中国史作家)だな。三国志物とか楚漢物もだしちゃいるが -- 名無しさん (2021-03-12 07 44 35) ↑13 滅ぼした後が面倒だからな。常に内紛を警戒して駐留軍は置かんといけないし、政治形態を民に浸透させその上で信用を得るのも手間。時代は違うが欧州の大航海時代のプランテーションも無限に金と手間が掛かる事でリスクリターンが合わずにやめてったしな。 -- 名無しさん (2021-03-12 08 21 04) 春秋戦国時代って色々複雑すぎるのかネットでもほとんど教えてくれる場所を見ないので項目が立って嬉しい -- 名無しさん (2021-03-12 20 10 07) ↑2 それこそ10年やそこらじゃ終わらんことだからな・・・始皇帝ですら失敗したことをそれよりも寿命(任期)の短い現代の民主主義国家にできるわけがない -- 名無しさん (2021-03-12 20 20 50) これだけこの時代が長かったことを見ると秦を滅ぼした項羽がまた各国バラバラの封建制に戻ろうとしちゃったのも無理ない気がしてくる -- 名無しさん (2021-03-12 21 21 31) 劉邦も半分封建で半分郡国制度だしな -- 名無しさん (2021-03-12 21 44 06) 恩賞は手早く分けないといけないからな -- 名無しさん (2021-03-12 23 25 28) ↑4 待てよ、そしたら、もしかしたら北朝鮮だったらできるんじゃないか!? あちらは独裁だから、寿命なんてあってないようなものだし。え、アメリカがいるから無理? -- 名無しさん (2021-03-14 11 55 28) ↑それらは経済力が低くて無限にかかる金と手間を捻出できないんだよ。この時代のように切り分けられたまま維持しようという地球を、独裁と経済の両立で統一し得る国家は遥か昔にそんな時代を制し統一した経験を持つ国しか残っていないかもしれんなあ -- 名無しさん (2021-03-14 13 27 11) 第二次世界大戦直後のアメリカならあるいは世界を統一できたかも。残念ながらタイミングを逃したな -- 名無しさん (2021-03-15 01 19 45) 統一の機会はあったとしても時代的には大航海時代が最後くらいだろうなぁ。世界の認識が広がるほど意識の統一は難易度が跳ね上がるし。まぁ欧州圏内が仲悪かったからそんな機運すら生まれんかったが -- 名無しさん (2021-03-15 13 28 27) 本家Wiki読んだら田単ってぽっと出のチート野郎って感じだったけど、この記事の田氏の所業知ったら、その血族で滅亡寸前まで生き延びてたらそりゃ只者じゃないわ -- 名無しさん (2021-03-17 14 55 59) 「個別に調べ"て、個別項目を立て"るのが」 無茶いうな、中国史の鬼が並び立つこのアニヲタWikiで斉・韓・魏・趙の項目なんか恐れ多くて立てられんw -- 名無しさん (2023-06-19 19 41 59) 三国志を比べて作品が少ないのは単純に長過ぎるってのもあるかもな。三国時代は黄巾の乱から晋の統一までと長めに取っても100年前後で終わるけど春秋戦国時代は550年だから単純計算で5倍かかる -- 名無しさん (2024-01-10 05 36 56)
https://w.atwiki.jp/sengokuziten/pages/8.html
戦国時代の戦い 基本的に左側がその戦の勝者。 ▲は戦死者。 1467 応仁の乱 ~~~~~~~~ 1539 国府台の戦い(足利晴氏&北条氏綱VS足利義明) 1542 桑原城の戦い(武田信玄VS諏訪頼重) 1553 川中島合戦(第1次)(武田信玄VS上杉謙信)※5戦とも引き分け 1554 第2次 1557 第3次 1561 第4次(八幡原の戦い) 1563 第5次 1555 厳島の戦い(毛利元就VS陶晴賢) 1556 長良川の戦い(斉藤義龍VS▲斉藤道三) 1560 桶狭間の戦い(織田信長VS▲今川義元) 1561 小田原城攻め(北条氏康&武田信玄&今川氏真VS上杉謙信) 1569 安芸城の戦い(長宗我部元親VS▲安芸国虎) 1570 肥前の戦い(大友宗麟VS竜造寺隆信) 姉川の戦い(織田信長&徳川家康VS浅井長政&朝倉義景 石山の戦い(1580年まで)(織田信長VS蓮如&▲雑賀孫一) 1572 小谷城の戦い(織田信長VS▲浅井長政&▲朝倉義景) 三方ヶ原の戦い(△武田信玄VS織田信長&徳川家康)(信玄は戦いの後に病死。) 1575 長篠の戦い(織田信長&徳川家康VS武田勝頼) 四万十川の戦い(長宗我部元親VS▲一条兼定) 1577 大和信楽山城攻め(織田信忠VS▲松永久秀) 1578 耳川の戦い(島津義久VS大友宗麟) 上月城の戦い(吉川元春VS▲尼子勝久) 御館の乱(上杉景勝VS▲上杉景虎) 以下執筆中・・・・
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/59.html
次のうち、戦国武将・加藤清正が「朝鮮の役」の際に退治したとされる動物はどっち? →○虎 →×熊 天下統一を目指した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人は、現在でいうところの同じ県の出身である →○ 原哲夫の漫画『花の慶次』の主人公・前田慶次は実在した戦国武将をモデルにしている →○ 戦国時代の幕開けともいわれる「応仁の乱」は、最終的に決着がつかなかった →○ 日本へキリスト教を伝えたザビエルが所属していた修道会・イエズス会は現在も活動している →○ 日本史で10世紀は戦国時代である →× 豊臣秀吉は征夷代将軍に任ぜられている →× 戦国武将・豊臣秀吉はカトリックの洗礼を受けている →× 1587年に豊臣秀吉によりカトリック宣教師が追放された際南蛮人との貿易も同時に禁止された →× 上杉謙信が旗印に用いていた漢字といえば信奉していた神・毘沙門の「毘」である →○ ∟ →× 戦国武将・武田信玄の本名は武田晴信である →○ ∟戦国武将・武田信玄の本名は武田信虎である →× 1543年に種子島に漂着し鉄砲を伝えたのはポルトガル人である →○ ∟1543年に種子島に漂着し鉄砲を伝えたのはオランダ人である →× 徳川家康が豊臣氏を攻めた大阪夏の陣と大阪冬の陣のうち先に起こったのは大阪冬の陣である →○ ∟徳川家康が豊臣氏を攻めた大阪夏の陣と大阪冬の陣のうち先に起こったのは大阪夏の陣である →× 関ヶ原の戦い以後に徳川氏に従った大名を外様大名という →○ ∟関ヶ原の戦い以後に徳川氏に従った大名を譜代大名という →× 「天下分け目の戦い」といわれる関ヶ原の戦いで勝ったのは東軍である →○ ∟「天下分け目の戦い」といわれる関ヶ原の戦いで勝ったのは西軍である →× 戦国武将・豊臣秀吉が1585年に任ぜられた位は関白である →○ ∟戦国武将・豊臣秀吉が1585年に任ぜられた位は摂政である →× 「独眼流」と呼ばれる戦国武将・伊達政宗が失明していたのは右目である →○ ∟「独眼流」と呼ばれる戦国武将・伊達政宗が失明していたのは左目である →× 戦国武将・三好長慶が生まれたのは現在の徳島県三好市である →○ ∟ →× 越後の虎と呼ばれた上杉謙信の母の名は「虎御前」である →○ ∟ →× 「天空の城」と呼ばれた尼子氏の居城は月山富田城である →○ ∟「天空の城」と呼ばれた尼子氏の居城は月山富田城である →× 戦国時代の武将で、法名を「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」というのは豊臣秀吉である →○ ∟戦国時代の武将で、法名を「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」というのは織田信長である →× 関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた戦国武将は毛利輝元である →○ ∟関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた戦国武将は石田三成である →× キリシタン大名の高山右近が追放された国はフィリピンである →○ ∟キリシタン大名の高山右近が追放された国はタイである →× 似た名前の戦国武将・浅野長政と浅井長政のうち豊臣秀吉の五奉行に数えられたのは浅野長政である →○ ∟似た名前の戦国武将・浅野長政と浅井長政のうち豊臣秀吉の五奉行に数えられたのは浅井長政である →× 明智光秀の家臣・明智左馬助が馬で渡ったという伝説が残っている湖は余呉湖である →○ ∟ →×
https://w.atwiki.jp/mybookshelf/pages/58.html
- 戦国時代の大誤解 2007 PHP新書 鈴木 眞哉 ★×2 歴史好きな知人に借りた本。 細かいエピソードが集まった感じの本で、なんか散漫な印象。 自分は歴史まったく詳しくないので、へえ~って感じで読んだのですが、こういう広く浅く食べ散らかした本って詳しい人にはつまらないかもわからんですね。 やっぱり、歴史への想いがないので「実はこうだった!」っていうのを見ても、へえ~以上の感想を持てませんでした。 作者の咎ではないよ、悪い読者ですいません。 ただ、「問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ」と比べても文章あんまりうまくないし引き込まれる感じもないかなー… 句読点がやたら多いのとか、気になりだしたら気になってしょうがないたちです。 でもたぶんこの作者は歴史畑の人で作家じゃないから仕方ないのかなー。 ISBN 978-4-569-65940-4
https://w.atwiki.jp/magoriatcg/pages/293.html
戦国時代の不思議雑学(せんごくじだいのふしぎざつがく) 戦国時代の不思議雑学 アイテムカード 使用代償:青[知]白 常時知+100 このキャラが器属性の場合、このキャラが攻撃しているバトルの間、器+100 「お琴さん……ユズたちのこと、ちゃんと覚えててくれたんですね……」 Version/カード番号 Ver.2.0/0198 レアリティ U コメント コメントの入力。必須ではない。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/49110.html
登録日:2021/08/28 Sat 15 34 14 更新日:2024/02/22 Thu 03 04 59NEW! 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 G-SAVIOUR Vガンダム アムロやカミーユ、バナージらが頑張った結果がコレ ガンダム ガンダムシリーズ サイド サイド「自立の邪魔!」→「介入しろ!」→「介入するな!」 ←連邦「で、結局どうすりゃいいの?」 →「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に」 ザンスカール帝国 ザンスカール戦争 スペースコロニー スペースノイド ポストアポカリプス 世紀末 宇宙世紀 宇宙戦国時代 機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST 歴史 混沌 独立戦争の末路 終わらぬ戦い 衰退 ”おそらく” こうして”宇宙世紀”は少しずつ… 血を流しながら終わっていくのだろう… 宇宙戦国時代とは、『機動戦士Vガンダム』及び宇宙世紀シリーズにおける特定の時代を指す呼称。 ▽目次 【概要】 【歴史】発端(機動戦士ガンダムF91~機動戦士Vガンダム) ザンスカール戦争(機動戦士Vガンダム) 塵どもの物語(機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST) 終焉(未知の世界) 地球連邦政府崩壊(G-SAVIOUR) 年表 【余談】 【概要】 『機動戦士Vガンダム』の時系列における背景設定であり、宇宙世紀0140年代以降の連邦政府の弱体化とコロニー間の対立が激化した時代とされる。 『V』本編においても、宇宙戦国時代という単語が登場して触れる場面が存在する。 『機動戦士ガンダムF91』以前の宇宙世紀シリーズでは、戦争の理由が基本的には「スペースノイドVSアースノイド」「コロニーVS地球」という構図だった。 しかし、宇宙戦国時代の世界観は「スペースノイドVSスペースノイド」という対立構造になっている事が特徴である。 スペースノイドとアースノイドとの対立意識や地球の特別区域扱いが消えた訳ではないのだが、一年戦争から長い時間が経過したことでスペースノイドの地球への強い興味が消えつつあった。 「宇宙棄民の象徴」だったジオン公国軍への忠誠心やそれらの残党の活動についても、宇宙世紀0090年代の袖付きの壊滅やラプラスの箱の解放で一気に衰退していた。 宇宙戦国時代はジオンやロナ家の存在が完全に消えた『V』における新たな宇宙世紀を表現する役割がある設定である。 しかし、この設定はジオンなどの脅威の存在が消えてもなお宇宙世紀には暗い未来が待っていることを示しているのかもしれない。 また、シリーズの初代作品である『機動戦士ガンダム』の時点で望んでいたスペースノイドの野望が最悪の形で実現したとも言える。 【歴史】 発端(機動戦士ガンダムF91~機動戦士Vガンダム) ジオン共和国の自治権返還以降、マフティー動乱を経てスペースノイドの連邦政府に対する武力を用いた強い抵抗意識は薄まりつつあった。 そんな風潮が強まる最中で宇宙世紀0123年、ロナ家率いるクロスボーン・バンガードと地球連邦政府の戦争(コスモ・バビロニア建国戦争)が勃発する。 戦争自体はロナ家の分裂騒動もあって数年で連邦の勝利に終わり、ロナ家が提唱したコスモ貴族主義は宇宙世紀の人類の思想には歴史的に大きな影響を与えることなく衰退した。 しかし、コスモ・バビロニア建国戦争における連邦政府の対応やコロニーにおける連邦軍の戦闘は褒められた内容でなかった。 連邦軍は各コロニーによる連邦軍駐留部隊の拡充などの要求を無視し、政府高官に至っては「酔っ払いの喧嘩みたいなもの」とまで言い放ち、このような対応はコロニーの不信感や独立機運を高めることになる。 画像:地球連邦軍の兵器は私設軍隊の兵器に性能差で大きく劣るようになっていた 画像出典:機動戦士ガンダムF91 1991年上映/©創通・サンライズ ……実際にはラー・グスタ隊など、練度の高い兵士の果敢な抵抗は確認されている。 また政府高官のいい加減な態度こそ報道されたが、現地の連邦軍としてはその後、割と早い段階で増援艦隊を派遣していた。 更に二度のオールズモビル戦役では連邦単独で勝利している(これに関しては相手の状況を見るに勝って当たり前と言えばそれまでだが)。 結果的に後のザンスカール戦争時の連邦のやる気のなさもあって、この時期までは何だかんだでまだ連邦の意識と戦力は高かったとも言えるだろう。 しかし、腐敗や負け戦の方が世間的には目立つというのが現実であり、連邦の活躍した一面については社会から無視される傾向にあったのかもしれない。 ついでに興味深い点として「各コロニーによる連邦軍駐留部隊の拡充などの要求」とは、連邦軍によるコロニー社会の管理を強化せよという要望であり、 ジオン残党が活発だった時代の「連邦はコロニー社会の自立を邪魔するな」という欲求とは180°異なる性質があることだろう。 この時代はコロニーの全てが反連邦的な自立意識があったとかいう訳ではなく、連邦の支配体制に従順な声も多かったために要望が矛盾しているという訳ではないが、マフティー動乱以降の微妙な意識の変化が見受けられる。 宇宙世紀0133年には、木星を率いるクラックス・ドゥガチが地球圏に侵攻する「木星戦役」が始まる。 これは新生クロスボーン・バンガードの活躍でドゥガチの野望は砕かれるが、この戦争でも連邦は大きな力を示すことが出来なかった。 実際にはこの戦争でもハリソン・マディンを中心とする連邦軍一部勢力の協力や奮闘もあったが、あくまでも一部勢力の行動ということもあってか威厳を示すには至らなかった。 ちなみに、新生クロスボーン・バンガードを支援していたコスモ・クルス教団は『機動戦士クロスボーン・ガンダム メカニック設定集』によると、後の宇宙戦国時代の影響で財政難に陥ってしまうという末路を迎える。 戦争が起きてもなお連邦政府は各コロニーによる軍事面での防衛要求を無視を決め込み、これを受けて各コロニーは自衛のために軍事補強を行う。 特にオールズモビル勢力が運用していたRFシリーズがオールズモビル戦役以降にオープンソース化してしまっていたこともコロニー勢力の軍事補強に繋がった。 元々各コロニー勢力では旧世代のレプリカMSの生産が流行っていたが、RFシリーズはモビルワーカーの生産さえできれば量産可能だったのである。 性能もある程度の力を持ち、第二期MSよりも大型でありながらも運用保守開発のコストも低いという正にスペースコロニー向けの兵器だったRFシリーズは防衛力として広く拡散した。 『G-SAVIOUR』における年表によると、宇宙世紀0143年にコロニー主義や自治権要求運動は加速したようだ。 このようなコロニーの軍事補強と自立化に対して、連邦は新興勢力が多いことやコロニーの数を把握できなくなっていた事情が重なり、かつての一年戦争以前のスペースノイド勢力に対する規制行為が不可能になっていた。 自治権の要求までするコロニーも出てきたが、連邦は不干渉の意識でこれを容認することになる。 ……それはとりもなおさず、これまでジオン系を初めとするスペースノイドの武装勢力が求めてきた「スペースノイドの自立を連邦は邪魔するな」という欲求を、連邦が受け入れたということに他ならなかった。 かくして「連邦による管理」が無くなると、やがて「サイド主義」から「各コロニー主義」に変わった各コロニー間での経済格差や住民意識の隔たりが大きくなっていき、果てはコロニー同士での軍事衝突までが始まるようになる。 特に連邦政府が各コロニー政庁に自衛権を認めたことで、スペースノイドの意識はサイド国家主義からコロニー主義(コロニー単位の国家主義)へと変貌していたことが対立意識を加速させた。 連邦のコロニーへの無関心、スペースノイドの意識の変化、各コロニーの軍事力の強化。宇宙世紀0140年代のスペースノイドは荒んでいた。 考えて見ればある意味連邦の無干渉とスペースコロニーの国家としての確立という一年戦争のころからのスペースノイドの要求がいざ実現したわけだが、やってみたら思ったよりもうまく行かないし大変という表れでもある(*1)。 連邦に助けを求めて見るにも連邦としては「お前らがやりたい放題してきたせいで連邦軍も連邦政府も地球環境自体も何もかもガタガタなんだ。お前らも念願の独立なんだ、治安維持ぐらいやって見せろ」という心境かもしれない。 一応スペースノイドの長年の理想が達成されたと思えば結果は無惨な末路、という事態だった。 連邦という組織は各地の問題解決をするのが仕事の一環なのだが、最早開始から100年を経過した宇宙世紀の歴史において度重なる戦乱による消耗と一部政治家の腐敗で確実に弱体化しつつあった連邦にはその仕事をこなす力はなく、「どうせ問題が起きても連邦が解決してくれるんだから、自分たちは好きに生きればいいんだ」と無責任に考えられる状況ではなくなっていた。 そしてジオン以降の「連邦打倒による独立」を標榜する勢力も「連邦を打破するために事件を起こす」ことはあっても、「誰かが起こした事件を自分たちで解決する」能力には欠けていたのだ。 ザンスカール戦争(機動戦士Vガンダム) 宇宙世紀0140年代、サイド2においてスペースノイドの自治権を獲得する動きが活性化する。 その最中、フォンセ・カガチが宇宙世紀0146年に結成した政治結社「ガチ党」は民間団体を取り込んで勢力を拡大。翌年にサイド2のアメリア政庁の政権与党となる。 そして宇宙世紀0149年、マリア・ピァ・アーモニアをトップとするザンスカール帝国の建国を宣言。 ザンスカール帝国はサイド2のサナリィの支社、サイド4の一部のコロニー、月面のアナハイムの都市の吸収や軍事力の増強を行う。 この状況でも対抗策を連邦政府は取らず、その姿勢に業を煮やした「神聖軍事同盟」及びリガ・ミリティアがザンスカールに抵抗を試みる。 ザンスカール帝国は軍事組織ベスパを用いて地球への侵攻作戦を展開、宇宙世紀0152年にザンスカール戦争が開始された。 画像:ザンスカール帝国による地球クリーン作戦の光景 画像出典:機動戦士Vガンダム 1993年放映 第34話「巨大ローラー作戦」/©創通・サンライズ 弱体化した連邦軍を相手に優位に進んでいたはずのザンスカールだったが、 ムバラク・スターン大将の艦隊、およびムバラク大将のもとに集まった連邦軍の有志たちが「ムバラク艦隊」を結成。 この連邦軍有志からなるムバラク艦隊がリガ・ミリティアと連合したことでパワーバランスが逆転し、ついにザンスカール側が決戦に敗北して壊滅したことで戦争は終結した。 少なくとも150年代までは、地球連邦には地球圏を守るだけの底力が十分あったと言える。 塵どもの物語(機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST) ザンスカール帝国は消滅したが、ザンスカールを倒した勢力は「レジスタンスであるリガ・ミリティア」という認識が全世界に広まった。 つまりこれはザンスカール帝国を倒すことに貢献した力は地球連邦軍ではなかったということであり、内外に連邦の弱体化を示した。 しかし同時に「リガ・ミリティアがザンスカールを倒せたのは連邦軍有志と手を組んだから」というのも紛れもない事実であり、しかもそちらは無視されていた。 実際はリガ・ミリティア単独では、ザンスカールに勝つことはできなかっただろう。 一方でそういった有能で正常な連邦軍の勢力や人員が既に連邦の主流派ではなかったことは否定できず、確実に地球侵攻を進めていたザンスカールに対してあくまでも有志だけで動いたという状況は、仮にも地球圏を統治する組織としては確実に機能を失いつつあったことを示している。 ただし、「連邦にはもはや地球圏の問題を解決する力はない」という命題は、「スペースノイドには地球圏の問題を解決する力がある」ということと、イコールではなかった。 連邦には地球圏をまとめる権威が無く、スペースノイド国家には地球圏をまとめる実力が無い、となった結果、地球圏を主導する権力機構、地球圏の問題を解決しうる勢力が無くなったのだ。 連邦という歯止めを失ったコロニーの独立運動は過激化し、気付けば各コロニーの覇権争いへと移行していった。 戦乱の長期化は人々の生活の安定を妨げて技術を低下させ、各コロニーは一部勢力を除いて次第に新型のモビルスーツの設計や量産を行える余裕がなくなった。 やがてコロニー勢力は、整備が難しい新型よりも、一年戦争から90年以上の戦乱で宇宙各所に散らばっていた既存機を年代問わずかき集め、無理矢理改修して運用する体制へと切り替わっていった。 なお、同時にビーム兵器に関する技術も衰退し、かつてそれを運用できた兵器も、外装を流用した実弾銃を使う事が当たり前になっていた。 それどころか連邦軍の勢力ですらも旧世代のMSを改修した低レベルな兵器を用いていた。 画像:宇宙は過去の大規模紛争の骨董品…「亡霊」で溢れていた 画像出典:機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST 1巻 2016年~2021年連載/©長谷川裕一・角川書店・ガンダムエース 低レベル・低性能なモビルスーツしか使えなくなったことで大規模な戦争は起こらなくなったが、代わりに絶え間なく小さな紛争が乱発するようになった。 各コロニーではジオンやコスモバビロニアやザンスカールの名前を利用する勢力が乱立し、宇宙世紀の人民の精神は諦観の姿勢で荒れていった。 サイド7近くの資源衛星であるルナツーでは「讃美歌の国」を名乗る勢力とそれに抵抗する一部勢力による比較的規模の大きい紛争が勃発している。 終焉(未知の世界) 宇宙戦国時代がどのような末期を迎えたのかは、現時点で正史における末路は明らかにされていない。 『V』や『DUST』よりも後の時系列である宇宙世紀0200年代を描いた作品には『ガイア・ギア』と『G-SAVIOUR』が存在する。 しかし、この2作品は様々な事情から現時点では宇宙世紀作品としての公式の認識が不明瞭となっており(*2)、扱いが宙に浮いた状態が続いている。 そもそもこれらの作品は『V』や『DUST』の時系列よりもかなり先の未来世界であり、展開時期の都合から作品内の描写には『V』や『DUST』と齟齬がある。 『ガイア・ギア』は作品の連載期間がVガンダムの展開以前というメタ的な事情の問題があり、作品内では宇宙戦国時代に関する言及や示唆する描写は一切ない。 この作品の世界観における地球連邦政府や連邦軍の軍事力はとんでもなく弱体化しているが、これは宇宙戦国時代が影響しているのか(そもそも起きているのか)は不明。 また、作中の描写から推測する限りでは宇宙移民から200年近く経過している影響からコロニーの老朽化という問題が一層悪化しており、スペースノイドの生活は貧富の格差の激化やスラムが乱立するなど悲惨さが加速している。 そして、宇宙戦国時代を経た遥か未来… 宇宙戦国時代により衰退した世界は、宇宙世紀という年号を捨て、リギルドセンチュリーという新たな時代を迎える事になるのだが、それはまた別の話である… 画像:宇宙世紀0200年代の世界ではマンハンターの後継者が暴れているとも言われている 画像出典:ガイア・ギア 4巻 ©富野由悠季・角川書店・ニュータイプ 『G-SAVIOUR』は映像本編では宇宙戦国時代への言及はないが、小説版や背景設定では宇宙戦国時代のその後については多少解説されている。 地球連邦政府崩壊(G-SAVIOUR) 宇宙世紀0170年前後、宇宙戦国時代が本格化した。 宇宙世紀0200年代に秘密結社イルミナーティが本格的に活動を開始すると、この組織は各コロニーの調停役や警備役として役割を果たす。 度重なる紛争で弱体化していた連邦政府内部では、サイドへの反発心から地球至上主義が力を付ける。 宇宙世紀0217年、好き放題に動くサイドについに地球連邦政府は痺れを切らして武力制圧を行う。 この強硬策は各サイドの自治政府の反発を買い、サイド駐留軍と連邦の侵攻部隊による大規模な武力衝突が発生する。 最終的に連邦寄りのサイドの働きによって紛争は調停となるが、各サイドに対する強制力を失った連邦政府は事実上崩壊した。 一昔前は連邦の軍事介入を求めたこともあるコロニー勢力だったが、いざ乗り出してみたら状況は既に軍事介入に対して否定的だった。 ただし、連邦側からすればスペースノイド(というかコロニー勢力)の態度がコロコロ変わっており、文句ばかり言われているような感覚ではあっただろう。 地球圏を主導していた時代には反連邦活動や自立の動きが盛んとなっていたり、いざスペースノイドから距離をおいて見たら荒れたので、また介入してみたら抵抗されたりと、振り回され続けた(まあ状況によって主張が変わること自体は別に不思議でもないし、スペースノイド全体の意志と簡単に決めつける話でもないが)。 「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処しろ」といわんばかりである。この発言が出た国はやがて滅びた。 実際の問題として連邦が軍事介入まで考える原因となった「各サイドの好き放題」は、スペースノイド社会では全く解決されず、ほったらかしにされたままだった。 一方で、連邦の軍事介入の決断は反サイド主義がついに爆発したとは言っても宇宙戦国時代開始から70年近くも経過しているわけで、当時のサイド側からすれば「何故このタイミングなのか」という感想が出たであろうことは想像に難くない。 ついでに言えばこの時期の連邦は間違いなく軍事力は大きく低下しており、明らかに各サイド勢力を武力で強引に抑える力など無かった可能性が高く、単純に戦略面を見ても判断が遅すぎたと言える。 しかも連邦は勝つどころか完全に自滅するオチに終わったため、戦争の結果だけで見れば何がしたかったのかと思われても仕方がない状況ではあった。 結局は長期間における戦乱が影響でもしたのか、連邦もサイド側も互いに「正当性」はなく我儘を極めたと言える。 そんな世の中だからこそ、イルミナーティのような組織が世界のバランサーとして発展していったのかもしれない。 画像:宇宙世紀0200年代の各サイドは払い下げられた量産機を用いていたらしい 画像出典:G-SAVIOUR 2000年上映/©1999 SUNRISE,INC. SOTSU 結局、連邦政府は各サイドを地球と同等の権利を持つことを認め、差別的な意図があったコロニー(植民地)という名前はセツルメント(入植地または居住地)に改称。 一方で連邦政府を構成していた地球上の国家と親連邦のサイド2、サイド3、サイド5、サイド7はセツルメント国家議会という事実上の連邦の後継組織を結成する。 というか、なんだかんだでセツルメント国家議会に所属する親連邦派のサイド・スペースノイドのほうが多勢だった。その中には旧ジオンや旧ザンスカールのサイドも含まれる。独立運動とはなんだったのか。 月とサイド1、サイド4はセツルメント自由同盟を結成し、この2つの勢力が対立する不安定な状況で秩序を保つ世界となった。 宇宙戦国時代のスペースノイド同士の対立の時代は終わり、人類は新しいアースノイドとスペースノイドの対立の時代を迎えるのである(*3)。 年表 宇宙戦国時代が始まったとされるVの前史の時代からG-SAVIOURの前史である地球連邦政府崩壊までの時代で起きた出来事をまとめた年表。 映像作品で確認できる出来事については、備考欄にて★マークを記している。 年代 事件 作品 備考 U.C.0139年 民間ネットワークによって「神聖軍事同盟」構想が発足 機動戦士Vガンダム U.C.0141年 サイド1のアルバニアン政庁にてマリア・ピァ・アーモニアが活動を開始 U.C.0143年 コロニー主義が台頭し、自治権の確立運動再燃 G-SAVIOUR U.C.0144年 マリア・ピァ・アーモニア、民間団体「マリアの光の教団」を発足 機動戦士Vガンダム U.C.0146年 フォンセ・カガチ、政治結社「ガチ党」を結成 U.C.0147年 政治結社「ガチ党」がサイド2アメリア政庁の政権与党になる U.C.0148年 神聖軍事同盟、リガ・ミリティアという軍事的組織へと発展 U.C.0149年 政治結社「ガチ党」がサイド2に「ザンスカール帝国」の建国を宣言 リガ・ミリティアがザンスカール帝国への対抗策としてモビルスーツ開発計画「Vプロジェクト」を開始 U.C.0152年 ザンスカール戦争開始 ★ ズィー・ジオン・オーガニゼーションが「シャア・コンテニュー・オペレーション」を開始 ガイア・ギア 小説版では不明 U.C.0153年 ザンスカール戦争終結 機動戦士Vガンダム ★ U.C.0155年 ズィー・ジオン・オーガニゼーションが反地球連邦組織としての活動を開始 ガイア・ギア 小説版では不明 U.C.0157年 サイド7にてコロニーレーザー修復の計画を開始した連邦軍に反発する反対派による暴動が発生 機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST U.C.0169年 ルナツーにて「賛美歌の国」が「再灯火の日」として独立宣言武装輸送団「無敵運送」によってコロニーで地球の大気圏に突入する難民避難計画「DUST計画」が開始 U.C.0170年(前後) 宇宙戦国時代本格化秘密結社イルミナーティの前身組織が発足 G-SAVIOUR U.C.0184年 「シャア・コンテニュー・オペレーション」成功、シャア・アズナブルのクローン体が秘密裏に地球に移送 ガイア・ギア 小説版では不明(*4) U.C.0186年 地球連邦政府、既存のマンハンター組織と異なる新たな秘密警察的組織「マン・ハンティング部局((MHA)」を設立 小説版ではこの設定は存在しない U.C.0197年 地球連邦政府がマンハンター及びマハ組織の権限拡大を承認マハの軍事力増強と地球上の不法居住者摘発が激化 小説版では不明 U.C.0200年(前後) 秘密結社イルミナーティが発足 G-SAVIOUR U.C.0203年 マハの反乱開始ビジャン・マハの壊滅と反地球連邦組織メタトロンの地球連邦軍への吸収によって同年に終結 ガイア・ギア 小説版では具体的な明言はされていない U.C.0217年 地球連邦軍と各コロニーの駐留軍による紛争が各地で勃発 G-SAVIOUR U.C.0218年 地球連邦政府崩壊、各サイドが独立を達成してスペースコロニーがセツルメントへと改名 地球連邦政府とサイド2、3、5、7を母体としたセツルメント国家議会が結成、月とサイド1、4によってセツルメント自由同盟が結成 【余談】 『G-SAVIOUR』の製作に関与した井上幸一氏は『HJメカニクス02』において、富野氏の宇宙戦国時代の構想について「コスモバビロニア紛争をキッカケに100を超える国家が誕生したが、ザンスカール帝国がその最後の勢力だったのではないか(=ザンスカール戦争が宇宙戦国時代の最後の全盛期)」と推測している。ただし、この推測を採用した場合は「ザンスカール戦争による宇宙戦国時代の激化の加速と小国の更なる乱立」という設定を世界観にしている『DUST』などの設定と決定的な齟齬が発生する。上述したように『G-SAVIOUR』と『DUST』は展開時期が違う事情などもあるので、単純にこの2作がパラレル的関係にあるとも解釈できるが。更に言えばあくまでもスタッフの発言なので、この推測が『G-SAVIOUR』の設定に具体的に反映されているという訳でもない。 シャアによるアクシズ落としが成功した場合、この時代が数十年程度先倒した形で発生したのではないかと考察される事がある。(*5)また、フル・フロンタルやジオン共和国の「サイド共栄圏」構想が成功しない理由として宇宙戦国時代の未来が挙げられることがある。メタ的に言えば『機動戦士ガンダムUC』が『V』より後年に展開された作品なので、成功しないことを前提に作られていると思われるが 宇宙戦国時代を舞台にした作品の展開を望む声は多いが、現時点では長谷川裕一氏の漫画作品など少数に留まっている。長谷川氏はザンスカール戦争後の宇宙戦国時代が舞台の『DUST』の時代設定については『機動戦士クロスボーン・ガンダム メカニック設定集』において「サンライズからよく許可が出たなと思った」「『V』を超える技術はNGという注意を受けた」と述べている。また、長谷川氏は『クリエイターズカフェ月光』では「『DUST』は『ゴースト』から50年くらい飛ばそうとしたが、歴史がどうなるか分からないので」と発言しており、『V』の先の宇宙戦国時代を描く難易度の高さが窺える(長谷川氏の初期構想の「宇宙戦国時代の50年後」を実行した場合、上述した公式的に扱いが浮いている作品群に当たってしまう)。 宇宙戦国時代のモチーフとなったのは、1990年代初頭に東西冷戦が終結後、共通の敵が消えたことでアメリカやそれ以外の資本主義国同士の利害対立が表面化し、西側陣営の団結と自由の保持という理想の喪失と、あるいは旧ソ連や東欧諸国といった東側陣営で共産主義体制が破綻・崩壊していく中で民族紛争が頻発していった時代とされている。 それぞれのWiki篭りが自分達の暇つぶしを望んで勝手に編集を始め、アニヲタWiki(仮)は追記・修正時代になってしまいました。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 独自研究色が強い気もする項目 -- 名無しさん (2021-08-28 16 05 37) 100年近くのゴタゴタの末に行き着いた先がスペースノイドとアースノイドの対立構造の焼き直しで「何も変わらねぇのかよ、結局…」だな -- 名無しさん (2021-08-28 16 17 37) 宇宙世紀の末路の先のGレコ関係への言及も欲しいな -- 名無しさん (2021-08-28 16 24 27) アムロの信じた人の心の光の先にある未来がこんな時代とか皮肉すぎる… -- 名無しさん (2021-08-28 16 33 01) ∀の時代は最早月周辺くらいしか人間の生存域はないんだろうか? -- 名無しさん (2021-08-28 17 01 35) ↑地球圏見限って外宇宙に出た連中も、結局そいつらで戦争してるっぽいんだっけ? -- 名無しさん (2021-08-28 17 03 28) 共栄圏作るどころか覇権争いという -- 名無しさん (2021-08-28 18 11 36) 地球連邦軍は元々成立時点で政治色の強い組織だったから、宇宙開発の旨味が減った以上干渉が減るのは当然の帰結とも言える -- 名無しさん (2021-08-28 18 42 51) ↑↑↑そこで作られた兵器がターンXと考えると多分… -- 名無しさん (2021-08-28 18 48 27) 地球連邦「ほら、念願の自治独立だぞ。喜べよ」 -- 名無しさん (2021-08-28 18 54 31) 宇宙に適応すれば戦わなくて済む気がしていたがそんなことはなかったぜ! -- 名無しさん (2021-08-28 19 23 57) 宇宙に進出して適応すれば人間は進化して争いはなくなる!→全然そんなことはないしなんならムタチオンする。 -- 名無しさん (2021-08-28 19 38 04) 時折挟まれる画像が歴史資料の写真みたいに見えるな -- 名無しさん (2021-08-28 19 42 12) 戦国時代という名称だが日本のそれとは違いほぼ創作で取り上げられることがない -- 名無しさん (2021-08-28 19 50 01) ↑魔王ガンダム6号を駆る宇宙ノブナガが、コロニー国家統一を掲げ覇道を突き進む。しかし、あと一歩のところで部下の宇宙ミツヒデに滞在中の本能寺コロニーを核攻撃され…… -- 名無しさん (2021-08-28 20 14 08) 時は、アフターイエヤス40000年。サムライらしいサムライは死に、サムライらしくないサムライも死ぬ時代。 -- 名無しさん (2021-08-28 20 38 05) 別作品で例えると銀河烈風バクシンガーの世界みたくなったか・・・ -- 名無しさん (2021-08-28 20 51 47) F91の時点でMSの携行火器でコロニーを軽々とぶち抜くビーム砲が存在するくらい技術が進んでるのによくコロニー間で戦争ができるなぁ。艦砲射撃だけでコロニーを複数粉砕するくらい余裕な時代だろうに -- 名無しさん (2021-08-28 21 56 43) SEEDの世界とどっちがマシなんだろうな…… -- 名無しさん (2021-08-28 21 58 28) ↑常時殺し合いしているSEEDよりはこっちがマシだが、何も学ぼうとせず争いを繰り返すマッポーセンチュリーなこの時代もある意味悲惨だと思う。 -- 名無しさん (2021-08-28 22 05 27) でも、種は、キラたちが頑張らないと共に滅亡確定の種族絶滅戦争だからなあ、、、。共食いの時代がきても、やがてはR.Cの時代がやってくる宇宙世紀のほうがマシかも。どちらかといえばレベルだけど -- 名無しさん (2021-08-28 22 07 12) 木星おじさんが外宇宙に出た事は書くべき? -- 名無しさん (2021-08-28 22 39 36) そう言えばリギルドセンチュリーってターンエーの時代の前なのか、後なのかって決まったの?まだ未確定の状態? -- 名無しさん (2021-08-28 22 46 15) 公式設定ではずっと宇宙世紀直後。∀の後ってのはあくまで監督が個人的にそういうつもりで作ってたって話。 -- 名無しさん (2021-08-28 22 51 46) ↑↑禿はイベントで後とか言ってたらしいけど、制作時とかスタッフ間では宇宙世紀直後の時代という設定で作ってたらしい。だから∀の時代はGレコよりも遥かに未来と考えた方が良さそう -- 名無しさん (2021-08-28 22 52 52) ↑でも何か監督のGレコは∀の後発言を受けてスタッフが少し考慮しときますとか言う発言を聞いたんだけど、結局そのままにしたってこと? -- 名無しさん (2021-08-28 23 04 56) アフターウォーは本編以前で人類減りまくってるけど本編時代は峠は越えたって感じで絶望感薄い(争いがないわけじゃないが)。人が物凄く減りまくって逆に争う機会も減ったか -- 名無しさん (2021-08-28 23 08 40) ↑2考慮するというのは「ターンエーの後にします」という意味ではないのかも -- 名無しさん (2021-08-28 23 10 56) ↑成程そう言う可能性もありますね。どちらにしろ監督の発言後、扱いがどうなったのか公式から何かしらの発表をして欲しいところです。 -- 名無しさん (2021-08-28 23 15 19) ↑そもそもリギルドセンチュリーよりターンタイプのほうがずっと技術力上だし、ターンAのあとと考えると世界観に色々と矛盾がある気がする -- 名無しさん (2021-08-28 23 19 01) ↑でも矛盾も結局公式のやり方でどうにか云々な気がするからやはり公式からの発表待ちかなと思う。 -- 名無しさん (2021-08-28 23 22 45) Gレコがターンエーの前か後かは明確にされてないよ。関係者の発言も作中の描写もどちらだとしても問題ないけどあんま断言すべきじゃあない。 -- 名無しさん (2021-08-28 23 23 12) トワサンガの歴史設定が根拠とされてる部分があると思うけど>宇宙世紀から数えて2000年の歴史 -- 名無しさん (2021-08-28 23 31 16) ヒトは進化しても争いを続ける、もはや絶望しかない…。 -- 名無しさん (2021-08-29 00 16 06) スターウォーズで独立星系連合がシスの暗躍なしに勝ったらこうなってたんだろうなと思った。パルパティーンやドゥークーいなかったら共和国倒しても勝手に内部分裂してそうだし -- 名無しさん (2021-08-29 02 31 39) 字面からしててっきりSDガンダム世界の設定かと思ったら宇宙世紀の方だとは -- 名無しさん (2021-08-29 02 56 29) 背景設定は納得できるとは言え、DASTレベルの技術衰退は未だにピンと来ない。歴史で類例とかあるのかしら教えてエロい人。 -- 名無しさん (2021-08-29 03 12 56) ↑ローマ(西ローマ)崩壊後に農村や地方都市を中心に高度な土木工事が出来なくなって、高度な橋は一度壊れたらもう直せなくなったりした例がある。技術衰退というよりはむしろ税収の細分化と交易の一時衰退による収入減少で公共事業に投資できなくなったという貧困化の面が大きいけど -- 名無しさん (2021-08-29 04 25 57) この時代の紛争をして連邦は正しかったとかスペースノイド独立は間違いだったと言う人もいるけど、それ以前の連邦統治時代のモデルになっている冷戦時代が終わらずに例えばソ連が続いていた方が世界は幸せだったと言えるのかというとそうでもないわけで… 宇宙戦国時代も冷戦後の紛争も一つの体制の継続が限界に達して保てなくなった転換期に起きる摩擦であって、冷戦を続ける事が限界だったように連邦統治も無理に続けていたら歪みが増えて、宇宙戦国時代とどっちが幸せなのか分からない世界になっていたかもしれない -- 名無しさん (2021-08-29 04 41 41) ↑2 ガンダムに限らず昔の作品は情報メディア関係の技術が未来的なものがある一方で妙に古い所もある作品ばかりだけど、ガンダムだとミノフスキー粒子のせいでそれらの技術が役に立たなくなったみたいな話を聞いたことがある -- 名無しさん (2021-08-29 08 18 24) 字面から宇宙大将軍を想起してしまう -- 名無しさん (2021-08-29 08 20 22) ↑3 そもそも連邦がそんな「悪いこと」をしたか? 大虐殺をしたティターンズは連邦自らがたった四年で事故解決したし、それ以外は民族大虐殺とかはしてないだろ。むしろ、ジオンとかがいっつもコロニー落としや隕石落としとかして、大虐殺ばかりしてるのを、その都度くそまじめに復興してるだけじゃない。いっつも責められてばかりだけど、連邦批判っていっつもおかしい。 -- 名無しさん (2021-08-29 15 34 38) 連邦のこと、政府高官の腐敗とかばかりをあげつらって「連邦はクソ!」ってやるけど、それも本来無理筋。ジオンで例えると「ザビの男は愛人を抱えまくり(デギンの息子たちは全員母親違い、ギレンはセシリアが、ドズルはハマーンの姉が愛人)」「マ・クベは権力を乱用して骨董品を蒐集」という事実があるが、これを敷衍して「スペースノイドは権力にモノを言わせて女や骨董品を漁る、倫理観の欠落した成金民族」という理論は、成り立たんだろう。確かに連邦高官が救いようのないほど腐敗していても、連邦という組織全体が、間違っていたわけではない。なのに、連邦のうち「肯定する要素」だけは無視して、「否定する要素」だけを集めているから、みょうちきりんな批判しかできないのだ。 -- 名無しさん (2021-08-29 15 36 55) コスモ・バビロニア建国戦争は一部の部隊のふがいなさや初動の失態を連邦全体がそうであると受け取られてしまっている反面木星戦役やザンスカール戦争の一部連邦関係の活躍は連邦全体がそうではなくごく一部に過ぎないと受け取られているという -- 名無しさん (2021-08-29 16 02 53) ↑3 ティターンズについてはスペースノイドのレジェンドの息子の赤い人が頑張ったから4年で壊滅出来たので、いなかったらさらに長い間バスク地獄が続いてた。・・・つーか、「事故解決」ってなんだ!? -- 名無しさん (2021-08-29 17 54 50) 自己解決でしょ。エゥーゴは連邦の一組織 -- 名無しさん (2021-08-31 08 56 23) そもそもエゥーゴの発起人連邦軍准将のブレックスだし結局グリプス戦役は連邦のお家騒動だよ -- 名無しさん (2021-08-31 10 42 03) 統治機構と民族は別物。連邦とアースノイドも、ジオンとスペースノイドも同一のものではない。まあ劇中の過激派レイシストたちはしょっちゅう混同してたが…… -- 名無しさん (2021-08-31 11 07 45) 未来世紀だと、コロニー間の宇宙戦国時代になりかけたけど「ガンダムで殴り合って宇宙の覇権決めようぜ」と満場一致でガンダムファイトを受け入れて曲がりなりにも平和を実現したわけだから、やっぱGガンダムの人間たちはなんかオカシイ -- 名無しさん (2021-08-31 12 45 55) アムロが人々を信じて戦い抜いた結果の未来に待ち受けるのがこんな時代という皮肉めいた未来がじつに富野監督らしいというかなんというか… -- 名無しさん (2021-09-03 12 13 32) 宇宙戦国時代を整理するとこんな馬鹿馬鹿しい事になってたのか…宇宙世紀って人は変わらないし変われないってのがよく分かるな -- 名無しさん (2021-09-04 20 26 20) ↑1,2 追い討ちをかけてすまないけど、そのあとに、共食いと黒歴史があるんよ -- 名無しさん (2021-09-04 20 42 43) 黒歴史自体は∀(とビルダーズやSD関係)を除いたすべてのガンダムシリーズの後に起こるもので、多くの主人公達が作り出したハッピーエンドも結局壊れてしまうというね… -- 名無しさん (2021-09-09 19 45 14) ↑そんな「何万年もあとにはハッピーエンドが壊れちゃう」みたいな言い草は流石に色々嫌な言い方だと思う。 -- 名無しさん (2021-09-09 20 33 04) ↑徳川家康は江戸幕府を開きました、めでたしめでたし…まぁ250年後には江戸幕府崩壊するんだけどなって言ってるようなもんだからね。アムロが人々を信じて戦い抜いたのにって言ってもアムロだってアクシズ落としを阻止した後は恒久的に平和が続くなんて思ってなかっただろうし -- 名無しさん (2021-09-10 03 06 50) ↑ 下手すりゃ人類その物が絶滅していたかもしれないしな… -- 名無しさん (2021-09-10 05 08 36) あれ?今更だけど木星絡みは宇宙戦国時代には入らないの? -- 名無しさん (2021-09-22 00 13 35) ↑9 まぁドモンを始めとして重い代償を払った人間はいるがな!! -- 名無しさん (2021-09-24 01 03 09) これではグレイ・ストークが地球圏を完全に見限ったのも無理はないな…こんな事ばかりではな。 -- 名無しさん (2021-09-24 01 07 30) 人の革新だなんだと言って宇宙の青さと深さに見惚れるばかりで、地の上の現実を変えようとしなかった結果 -- 名無しさん (2021-10-25 09 24 44) やりたいように好きなだけ戦えばいんでね?疲れ果てて銃も手に持てなくなるまで戦えばいつかは終わるさね -- 名無しさん (2021-11-03 17 56 12) プロジェクトエクソダスも触れて欲しい -- 名無しさん (2021-12-08 00 34 46) リガ・ミリティアが連邦軍に喝を入れる為に動いていたのにリガ・ミリティア単体で勝ったとか…その抵抗運動も連邦軍系なのにそれすら忘れるなんてな。 -- 名無しさん (2022-03-14 17 33 26) ザンスカールが直接地球侵攻を行うに至っているのに、連邦軍が総力を上げて応戦したりはせず、抵抗してるのはあくまでリガ・ミリティアに同調した有志のみ、という状態を晒したんだから、そりゃ「リガ・ミリティアありきで、連邦軍は組織としては動いてない」と見なされても文句は言えない -- 名無しさん (2022-03-14 17 50 01) Ⅴガン作中だとあんまり説明されてない気が -- 名無しさん (2022-05-31 22 35 49) ウッソの両親は「妊娠中に妻が見た不思議な夢の話から、息子を特別な存在だと本気で信じ英才教育を施したヤバい夫婦」なのは間違いないけど、設定上リガ・ミリティア設立の構想が持ち上がったのってウッソ誕生前後くらいの頃だから「政府軍とは別に民間自衛軍を設立する」ような構想が持ち上がり、政府軍より優れた機体を開発できるほど優秀な技術者や資産家といった数多の賛同者が集まるくらい必要とされたあの時代の御時世が一番本当にヤバいんじゃ…… -- 名無しさん (2022-06-19 16 16 34) 連邦が解体される元凶となったコロニー武力制圧、今のロシアを見てると「むしろよく解体だけで済んだな」って思うわ…。全コロニーに喧嘩売るという蛮行働いたのに後継組織作れる程度の権力は残してあげるってスペースノイド甘すぎない? -- 名無しさん (2022-06-24 21 03 02) 前向きに考えればなんだかんだで人は生きていくとも言える -- 名無しさん (2022-06-24 21 10 36) ↑2それ言い始めると連邦より前にジオン共和国含めてジオン殲滅しないの何故?ってなるが -- 名無しさん (2022-10-07 08 39 03) 正直40年も戦乱続けてる時点で、コロニー側も何も言えねえよ・・・ -- 名無しさん (2022-10-13 19 00 37) Gセイバーの「連邦は最後に各サイドと戦争になった」「各サイドが二大陣営に分かれた」という設定を真とするなら、この時期までにコロニー主義によるコロニー国家の乱立は落ち着いて各サイド毎のサイド国家への再編が進んでいたとも読み取れる。強力なコロニー国家が統一を推し進めて四国統一や九州統一の如くサイドを一つに統一したのだろうね -- 名無しさん (2022-11-19 03 21 18) F90の技術を導入してへビーガンより強くなった18m級のRFシリーズがコロニーで普及するほど安かったのかね? 大半のコロニーは払い下げられたヘビーガンやジェムズガンを使っていたのでは? -- 名無しさん (2023-04-10 09 41 14) あまりに長谷川裕一の作風が強いクロボンDUSTの設定を正史の宇宙世紀として組み込むべきなのか? あのシリーズで富野由悠季が関わってるのは最初の作品だけだと思ったんだけど -- 名無しさん (2023-04-14 22 53 02) 水星世界が似たような感じだよね -- 名無しさん (2023-06-18 14 20 42) 魂を重力に縛られてるのはスペースノイドも同じだった。宇宙にでただけでは何も進歩できなかった。 -- 名無しさん (2024-02-22 01 35 01) 強大な国家と安定性を維持出来なくなったからむしろ技術は衰えてったってのは面白いな -- 名無しさん (2024-02-22 01 58 52) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/61.html
戦国時代の武将 川中島の戦い 初名は「長尾景虎」 「敵に塩を送る」 →上杉謙信 戦国時代の武将 川中島の戦い 別名は「甲斐の虎」 「風林火山」 →武田信玄 戦国時代の武将 刀狩 太閤検地 あだ名は「サル」 →豊臣秀吉 戦国時代の武将 趣味は料理 仙台藩の初代藩主 独眼流 →伊達政宗 戦国時代の武将 尼子十勇士の一人 鴻池家の祖とされる 「願わくば我に七難八苦を…」 →山中鹿之助
https://w.atwiki.jp/ryuugakusei/pages/28.html
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。 この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始され、火縄銃やキリスト教などが伝来した。それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えることになった。
https://w.atwiki.jp/qsaz59/pages/14.html
日本の戦国時代というのは今振り返って考えるととても特殊な時代で、二度とやって来て欲しくない時代ではあるんですが、この時代テーマにしたドラマや映画というのはとても人気があります。大河ドラマでも、人気が出るのは戦国時代を背景にした時が多いですよね。その理由の一つとしては、戦国時代が英雄たちの活躍する舞台だったからでしょうね。織田信長、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、真田幸村・・などなど、実にたくさんの英雄たちが活躍しました。英雄たちはドラマの主人公として絵になりやすいので、ドラマなどでも活用されるのでしょう。ほんとに戦国時代というのは英雄が多すぎてキラキラとした時代です。ストーリとしても実にシンプルで作りやすいという面もありますね。