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1 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/31(日) 19 29 06 ID tiw+OcvT0 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:2006/11/14(火) 13 26 14 ID cwVjzMAO0 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの 評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。 ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。 前スレ 【みんなで】 中国名将百選 【決めよう】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163478374/ 2 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/31(日) 19 31 24 ID tiw+OcvT0 時代区分 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 3 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/31(日) 19 32 08 ID tiw+OcvT0 これまでのまとめ 春秋戦国 【確定組】 楽毅、魏無忌(信陵君)、白起、李牧、王翦 【候補】 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 統一秦~前漢 【確定組】 韓信、霍去病、衛青、灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 新・後漢 劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援 三国~両晋 【確定組】 曹操、鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 周瑜、劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬00 4 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/31(日) 19 34 15 ID tiw+OcvT0 まとめつづき 五代~北宋・遼 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥 明 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 清 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 5 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/31(日) 19 38 03 ID tiw+OcvT0 前スレより、考慮する武将について 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18 47 07 ID 1kk6Cs2h0 5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。 それはともかくとして… 中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか? 南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。 その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。 また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。 でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。 漢民族だけが中国人ではない! で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。 高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。 そんなところでどうかな? 田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18 57 59 ID yxgR08jb0 とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか? いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 00 31 ID jchs3O4hO 中原指向を持つかどうかで分けた方がよい 渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど 支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない 金や清は歴とした中華王朝 要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ 契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん 逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 12 30 ID 1kk6Cs2h0 9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ? 趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 6 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/31(日) 19 38 34 ID tiw+OcvT0 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 28 22 ID 2mD79BmXO 9 でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか? (モンゴルは現地の兵をよく使うし) 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 35 28 ID yxgR08jb0 10 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 37 28 ID 1kk6Cs2h0 12 名前に抵抗あるわなw 耶律とか述律とか完顔とか… それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな… 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 43 36 ID yxgR08jb0 13 ただ抗金というジャンルがあるからね。 他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。 先入観かな? とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか? 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 20 31 35 ID jchs3O4hO 中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト 郭侃は中国戦線の功績だけ評価 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 21 39 04 ID yQpFrdGM0 所属国家というか王朝で判定するという手もある。 まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。 で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、 とか(これだと遼は除外だな)。 さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。 7 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/01(月) 17 35 37 ID 3WnQHvm2O なかなか決まらんねとはいうが まがりなりにも清代まで1スレでいけば上々じゃないか 8 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/01(月) 18 44 41 ID F5OTQss+O あっさり決まってたらスレたてる意味ねーだろ 9 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/01(月) 20 31 18 ID XMB1xeLJ0 特定の時代を突出させることなく候補をそろえたのは大したものだ。 10 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/01(月) 20 33 50 ID 9S+FoeEn0 仕切り屋さんのおかげだな。 かの人は全時代に通じているわけでしょ。 おれなんか、限られた時代だけだもんな。 普通にすごいと思うぞ。 11 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/01(月) 23 31 01 ID H6cVVAJW0 時代区分は若干の変更があったんじゃなかったっけ? 12 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/02(火) 15 00 37 ID jqm9xRH00 元の脱脱って、ちょい微妙じゃないか? 元史の脱脱伝を一通り見てみたんだけど、 彼が兵を率いたのって 1若い頃に答里、刺刺の反乱軍に勝利。 (とは言っても、率いたのは元朝正規軍の精鋭部隊) 2芝麻里(李二)等の徐州紅巾軍打倒。 3大軍を以って張士誠を敗北寸前まで追い詰める。 の三回だけだろ、 しかも軍団の規模や兵の質は元朝の精鋭軍を率いている 脱脱側の方が賊軍よりもはるかに上だろうし・・・ 確かに百万を号する大軍を見事に率いた手腕は買っていいとは思うけど、 百傑に入るほどでもないと思う。 13 12 sage 2007/01/02(火) 15 02 38 ID jqm9xRH00 芝麻里は芝麻李の間違いね 14 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/02(火) 20 17 08 ID G1mKyYgN0 清は費英東の代わりに揚古礼のほうがいいんではないか。 あと、乾隆期の兆恵がいないのは疑問だ。 15 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/02(火) 21 28 26 ID fV/vyN6i0 ちょっとまってくれ。今はどの時期の話をするんだ? 16 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/02(火) 22 42 11 ID Xoojh3Au0 清代の候補が確定させるのが先決 4でOKなら、100人に絞る作業に移るってことだね。 その前に、時代区分の確定と候補者が重複や抜けが 無いかのチェックが必要 春秋戦国の候補で、呉起が抜けてるし。 17 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/02(火) 23 10 04 ID lSXc3gJ90 清の時代にはあまり詳しくないので、 阿巴泰、費英東、策稜、明亮、楊遇春、李長庚に どんな武功があったのか教えて欲しい。 18 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 02 38 01 ID isoS44jK0 阿巴泰~李長庚、遅くなったが紹介します。 阿巴泰(アハタイ) ヌルハチの第七子。崇徳元年、アジケらとともに明伐戦に参戦、五十六戦して全勝、10城を落とし俘虜10数万を獲る。 5年十月、再び明伐。88城を抜き6城を降し36万人の俘虜を得た。順治元年、饒餘郡王に進められる。康熙十年、敏と謚された。 費英東(フィヤントン) 清初の5大臣の一。天命三年、撫順の堅城を攻めたとき、敗戦ムードの諸将を叱咤して遂にこれを破り、太祖から「万人の敵なり」と賞賛された。 太祖の下で転戦し、「戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」といわれた。「佐命第一の功臣」としてその功績は諸将の上に冠した。 策稜(ツェリン) モンゴル貴族。12歳のとき康熙帝に目通りし、その娘を娶る。 1715年、オイラートのツェワン・アラプタン侵入を撃退、ついで二十年、オイラートの大軍を破る。 同年扎薩克(官名。意味はよく知らん)となり、23年には多羅郡王に進む。 三十一年、オイラートが大挙して南侵、コブドに駐留する清軍を破り、清朝を脅かしたがこれを撃退した。超勇の号を賜る。 翌年、オイラートが性懲りもなく攻め入り、策稜の二人の息子を攫ったが、策稜は兵2万を率いて追撃、エルデニ・ジョーの会戦でオイラートを撃滅した。 1750年、没。祖廟に陪葬された。モンゴル人で祖廟に合祀されたのはのちの僧格林沁のみ。 明亮(ミンリャン) 1765年、伊犂領隊大臣として将軍・明瑞らに従い、回部・烏什の乱を平定。 69年、ビルマへ遠征して功があった。 71年、僧格桑が乱を起こすと将軍阿桂(アグイ)に従って奮戦、5年をかけて乱を平定、功により一等襄勇伯に任ぜられた。 79年、改めて四川提督を授けられ、伊犂将軍、鑲紅旗蒙古都統、刑部尚書、黒竜江将軍を経て正紅旗漢軍都統となる。 96年、ミャオ族の反乱平定に参加、同年末ミャオ族の首領石柳鄧を捕らえた。その後も各地の叛乱鎮定に奔走する。 1821年、老齢により致仕し翌年没した。奔放不羈な性格で軍を動かすのにも独断専行が多く、 しばしば罷免されたがそのつど許されてはただちに軍に復帰したことは、彼の軍略が当時の清朝になくてはならないものだったことを現している。 楊遇春 1784年、総督福康安(フカンガ)に従って甘粛のイスラム教徒の叛乱、88年、台湾の林爽文の乱、96年、ミャオ族の乱などに奮戦した。 フカンガ死後も白蓮教の乱平定に従って功があり、累功により一等男爵となる。 1828年、陝甘総督、伊犂将軍となってイリ、カシュガルを治めたが、三十五年、老齢と病気をもって致仕した。 結髪以来大小数百戦を経験し、かすり傷一つ負わず、人々から「福将」と賞賛された。 また毎戦かならず黒旗を持ち、楊家軍として恐れられた。 李長庚 海の名将。進士ながら内乱平定に功績があった。その残党が倭寇と一緒になって内海を脅かしたので海軍を率いてその討滅に力を尽くした。 1797年、福建海壇総兵となり、最終的には福建水師提督に昇進、海賊・蔡牽をしばしば破って勇名を馳せた。 官軍の水軍が頼りにならない中、孤軍よく戦って蔡牽を阻み、嘉慶帝の絶大な信任を得た。 しかし1807年、浙江提督としてまた蔡牽を追い、広東潮海の海上において交戦、敵勢力を追い詰めたが、流れ矢(鉄砲)に当たって戦死した。 ・・・アハタイとフィヤントン以外は正史読むのメンドイから自前の記憶と「アジア歴史事典」に拠った。もしかしたら抜けてる部分があるかも知れんが勘弁。 19 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 02 59 38 ID isoS44jK0 岳鐘琪と策稜は個人的に大好きなんだが、 康熙帝の武将って事で外してもいいかもわからんね。 曹操入れて張遼をはじくみたいな感覚で。 20 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/03(水) 04 14 49 ID LJBWto2n0 明亮が入るなら阿桂と兆恵も候補には入ると思う。 明亮はナルサスのモデルということでガイエが肩入れしてるだけで、 こいつ以上の武功を立てた同時代人はいっぱいいる。 19 策稜は清朝随一の名将だと思うので外すのはちょっとためらいがあるなあ。 21 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 14 34 53 ID icNFhde00 選考段階で「それ誰?」とかないように、アゲイとジョーホイの略歴も置いとく。 阿桂(アゲイ) 1717-1797。字は広庭。姓は章佳。最初満州正藍旗、1763年以降は武功により満州正白旗に属す。38年(乾隆三年)の進士。48年、兵部尚書班弟に従って金川を討った。 55年ジュンガル征伐に参与、ウリヤスタイに赴き兵站の事務を司った。翌年父の死により北京に帰ったが再び軍務に戻った。参賛大臣としてコブドに駐屯し、 さらに回部の平定に従い、イリ地方の屯田の事務を管理して功績を挙げた。63年、北京に帰り軍機大臣を授かり太子太保を加えられた。65年回部ウシの平定に赴き、 67年伊犂将軍となった。翌年経略使傳恒のもと副将軍としてビルマに出征、しかし戦果は上がらず、71年転職させられた。この年から 副将軍温福とともに金川征伐に乗り出し、定辺将軍を拝して73年にまず小金川を、76年には大金川を平定した。 この大功をもって誠謀英雄公に封ぜられ、再び軍機大臣に返り咲いた。 その後黄河の治水などに尽くすとともに、81年の蘭州、84年の石峰堡でイスラム教徒の反乱を平定して軽車都尉の世襲を許された。 さらに台湾の林爽文の乱やグルカ族の平定にも参加した乾隆期の名将。1797年没。文成公と謚された。 兆恵(ジョーホイ) 1708-1764。満州正黄旗の人。姓は呉雅。1737年、兵部中郎となる。その後内閣侍読学士、内閣学士、盛京刑部侍郎兼摂兵部事、正黄旗満州副都統、 鑲紅旗護軍統領などを歴任するも、48年事件に連座して免職留任に処された。同年六月復権、戸部侍郎となり、8月から翌年にかけて金川の軍糧を督辦した。 50年、正黄旗護軍統領嚮道統領を授かる。53年、チベットに赴きジュンガル部防衛の任に当たった。54年、ジュンガル部のアムルサナが降伏して ジュンガル攻略の策を献じたので、乾隆帝は大軍を派遣した。ジョーホイはこの征伐戦に従い、北路の軍務を協理し、糧秣、兵站を統括した。 55年3月、ジュンガル部を降して功があり、十月には北路の兵站を総括した。ここでアムルサナが叛いたので乾隆帝はジョーホイを総大将とした大軍を編成、 56年3月、アムルサナを討ち、ふたたびイリを征服し、ブルハン・ウッディーンとホージャ・ジハーン兄弟を追ってパダフシャンで殺し、ジュンガル地方を完全に 平定した。この結果アフガニスタン、コーカンド、タシケントなどが相次いで朝貢国となった。功により領侍衛内大臣戸部尚書兼鑲白旗漢軍都統を授けられ、 60年には御前大臣となった。その後江南、直隷などの水利事業を監督し、64年北京で没した。謚は文襄。 22 20 sage 2007/01/03(水) 15 28 18 ID LJBWto2n0 21 すげー、アジア歴史事典持ってるのか。裏山。 フォロー感謝です。 23 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/03(水) 15 53 23 ID YPFWvRn10 自分が気にいった時計がアゲイ 24 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/03(水) 21 30 44 ID hzmG0o490 18 21 サンクス。 この中で決定は阿巴泰、策稜。 候補は楊遇春、李長庚、明亮、兆恵、阿桂。 選外は業績不詳の費英東かな。 25 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 21 58 37 ID KkDIyuIb0 24 ヌルハチとドルゴンがいるでしょ。 まぁドルゴンは戦術的才能より政略・戦略の才能に長けるタイプだから外れても仕方ない気はするが。 あと、康熙帝と岳鐘琪もね。 康熙帝もドルゴンと同じで政戦略に長けるタイプだから、岳鐘琪を残したほうがいいんかな。 岳鐘琪=清朝唯一の漢人大将軍。漢人ながらその統率力と人望は満州人からも崇拝された。 26 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 22 00 00 ID KkDIyuIb0 あ、18と21で名前挙げた中での選抜か。ならそれでいいや。ごめん。 27 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/03(水) 22 36 06 ID 2CuDKY29O 25 ヌルハチ入れちゃったら既に資格無しと弾かれた征服王朝の征服前武将のヲタが怒り狂うだろ 28 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 22 50 44 ID KkDIyuIb0 清朝は後金含むじゃなかったか? と思って読み返してみると、後金含むとはどこにも書いてないなぁ。 ヌルハチ、哀れにも失格か。 29 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 00 22 56 ID Y2s3c1T8O 28 参加資格は ・中華本土に領地を持つ ・中華風の元号・国号を使う この二つを満たしている時期の政権に所属していた武将という事だったはず ヌルハチが前者の条件を満たしていると言うのは厳しいのでは? 同じ女真の完顔阿骨打も駄目って言われているし 30 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 00 30 33 ID fy6tV2150 だったら費英東も失格だな。 31 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 00 40 16 ID hp8B4y9B0 西夏も中国本土に食い込んでたりするが。。。。 32 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 00 57 23 ID X/dCpkK30 残念だけど、西夏は単体の歴史書が二十六史に入っていないから、今回このスレ的にはアウト。 遼も燕雲十六州得て以降に限定するだろうし。 33 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 02 19 55 ID Y2s3c1T8O 32 専門外だからよく知らないんだけど、五胡十六国って二十四史から漏れてたりしない? 34 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 09 29 31 ID oXDBTh0w0 五胡十六国は入ってないね 35 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 09 33 46 ID oXDBTh0w0 33 二十四史に限定したら清も入らないんだけどね 36 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 11 20 43 ID eulKXP3p0 29 その条件は、個人的には「中華本土に本拠を置いた政権」にするべきだと思う。 でないと、遼を入れて西夏を外す理由にならない。 この条件だと、清は入関以降、元はフビライ以降(もともと国号・元号の点からして そうなるが)となるが、ただ問題は金で、海陵王以降になってしまう。 37 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 12 00 03 ID p+rBjct70 仮に西夏を入れるとしたら名将って誰がいるの? 李元昊くらいしか知らないんだが 38 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 12 00 54 ID X/dCpkK30 33 晋書に伝があるからいいんでないの? それ言ったら、五代十国の十国さえも入らなくなってしまうし。 五胡流入のとき活動した地域は、京兆畿内を中心としてるわけだし、西夏などおよびもつかないでしょ。 39 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 12 10 06 ID p+rBjct70 五胡十六国でまとめられちゃうけど、よく考えれば 前秦やら前燕やらは入るけど北涼や西涼はアウトということになるのでは 40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 12 48 55 ID Y2s3c1T8O 36 遼の本拠地は中華の外じゃなかったか? いまだと内モンゴルになる 41 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 14 46 21 ID X/dCpkK30 40 だけど、清朝期に公認された「正史二十四史」の中に「遼史」は入っている。 中国王朝が遼を中国王朝と認めているわけだから、とやかく言うことはないとは思うが、それでも違和感あるので、陰山以南で活躍した人物だけあげようとしている。 ちなみに、清朝を入れるために「二十六史」をもって中国王朝の枠組みの基本とすればいいと思う。 でも、上記のようにできるだけ中華本土での活躍に絞りたい。 西夏も入れてもいいんだろうけど、遼と違って京師を陥落させ、一国を滅亡させるほど攻め込んでないし… 吐蕃も長安陥としているけど、すぐ取り戻されてるしな。入れるには抵抗ありすぎだから。 42 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 16 31 46 ID d6ZjjZTC0 劉邦は候補に入るほどの人かな もちろん凄い人だけど軍事に入れるのとは違うような 司馬イが入らないのは意外 候補に入れていいと思います 43 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 17 21 47 ID uRnUt6Zl0 42 とりあえず前スレを読んでくれ、としか言えんな。 44 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 18 00 52 ID ApxA3iCi0 西夏は正史(のような物)が無いので名前の挙げ様が無い。 精々、 37の言うように李元昊くらいしか出てこない。 45 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 29 34 ID NMt0QMNpO 中華内で戦ったに限定すると衛青や高仙芝はアウトにならない? 46 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 37 37 ID 5FfnHFZm0 高仙之は国内で安録山と戦ってるよ。 47 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 39 22 ID oXDBTh0w0 これの宰相(政治家)バージョンも作ろうぜ 48 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 39 30 ID ApxA3iCi0 対遊牧国家で活躍した武将を外すのは厳しい。 高仙芝は元の郭侃と同レベルに考えるとアウトかな? でも最後の戦歴は中華内での安史の乱だからな~ 49 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 43 48 ID ApxA3iCi0 47 明の李善長みたいな文官タイプか? 50 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 46 03 ID CXfziSWK0 西域で戦った武将も外したくないな。 51 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 19 58 26 ID iCF4IRjb0 宰相バージョンほしい ただ、宰相の場合100人も選ぶと微妙なのも入るかもよ 白眉は一時代に2,3人じゃない? 52 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 20 08 07 ID ApxA3iCi0 確かに名宰相となると一王朝で十人は無いな。 春秋戦国だと管仲・子産・商鞅・李斯と多いが 明や清になると 51の言うように2、3人くらいしか出て来ない。 53 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 20 09 14 ID oXDBTh0w0 49 朱元璋乙 51 もちろん皇帝からも選ぶ 54 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/04(木) 20 17 31 ID CXfziSWK0 47 51-53 立てたぞ。 【みんなで】 中国名相百選 【決めよう】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167909324/l50 55 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 20 57 01 ID NMt0QMNpO 高仙芝の国内の戦績じゃやっぱりアウトだな 56 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/04(木) 22 02 50 ID E57e1IaHO 42 劉邦は統一後、自ら親征して反乱を鎮圧している。 (候補に入れても問題は無いだろう) 司馬懿はどちらかと言えば陰謀家で文官か軍師が司令官として戦場で采配を振るったのに近くないか? 用兵能力の凄さは認めるが名将の部類に入るとは思えない。 57 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/04(木) 23 38 08 ID Y2s3c1T8O 48 そもそも郭侃が入ってないのは時代的な問題が大きいのでは? モンゴル帝国の国号が元になった後も活躍していないとは言わないが、やはり世代が一つ前だろう 58 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 00 47 47 ID NsywhEyk0 56 ムリムリ。 たかが、一地方の反乱に帝国の全力で当ったのに、その親征で矢傷を負ってるし、 当たり所が悪けりゃ死んでるww 後は、対項羽・対冒頓単于とか負戦が多い。 候補入りは厳しくないか? 59 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 01 13 26 ID qGtnEJwf0 質問ですが 白村江の戦、文禄慶長の役で戦った中国の将は誰一人として入らない? 語れるべき人がいないのかな 60 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 09 42 34 ID dElCpDPa0 59 仕事前にいっちょ書き込み。白村江の戦いで日本軍を覆滅したのは劉仁軌。 戦勝したあと前任の劉仁願いに代わって百済鎮撫の任につき、 668年、李勣の副将となって高句麗平定。674年、新羅を攻めて大勝した。 功績により文昌左相同固閣鸞台三品となり、685年没した。 ・・・この人を入れたいという有志は結構いたが、人数制限で泣く泣く削るはめに。 次、文禄・慶長の役。 秀吉の朝鮮出兵に対し4万の兵を率いて朝鮮入りしたのは李如松。 1593年、平壌で小西行長の軍を撃破、しかし連勝に驕り、 碧蹄館で小早川隆景の軍に大敗して命からがら逃げ墜ちた。 その後和議を主張して事態を収拾、同年末帰国した。 1597年遼東総兵官に任ぜられ、翌年土蛮の侵攻を迎撃、長躯その本拠を突いたが、伏兵に遇って戦死した。 ・・・この人は候補にも挙がってないけど、明朝廷の一流将帥って訳でもないから仕方ないか。 61 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 10 50 29 ID cx2UuNYZ0 60 李如松の父親の李成梁は候補に挙げられてたけどね(なぜか選考漏れに) やっぱり、実績が伴わないとこのスレでは不利 逆に一発屋も不利なんだよね 名将百選でなくていいから、各時代に一名「一発屋」枠が欲しいな 瞬間最大風速を記録するようなバカがどの時代にも何人かいるじゃん こうすれば宇宙大将軍もこのスレに名前を残せ(ry 62 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 12 24 59 ID ne0XULCqO 59 李如松以外の参戦主要武将 文禄の役 祖丞訓・栄応昌・李如伯・李如梅・李寧・大受・楊元・張世爵・沈?敬 慶長の役 麻貴・楊鍠・劉テイ・董一元・陳リン・高策・李芳春 詳しくは 60に任せます。 63 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 18 46 09 ID PWrAjd9/0 帰ってきたらいきなり任された。 それはともかく、伝なしの人はムズいんだよ。 アジア歴史事典にも東洋歴史大辞典にも載ってない人はいっぱいいるわけでね。 改めて《明史》を読み返さにゃならんし。 読み返しても一行だけで済まされてる人もいるし。 まぁとりあえず史書と格闘するんで、1、2時間ください。 あと、謝罪。 自分、前スレ905で「元末群雄はアクの強い魅力がないから擁護する気にならん」などとのたまった大バカですが、 全然そんなことないね。江南三大勢力の虚虚実実の駆け引きとか、勇将謀将の活躍とか、隋末唐初の群雄たちに まったく劣らないということをつい先日理解しました。知らなかったとはいえご無礼の程、平にご容赦していただきたい。 ところで帰り道に本屋で「巨商 沈万三」を勝ってきて、まだちょこっと(一話だけ)しか読んでないんだけど、 虚構と真実、どれくらいの比率で読んだらいいんかな? 64 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 19 07 23 ID 7jfsM0F70 63 沈万三読んだけど、これは殆ど虚構。 身も蓋もないこというけど、そもそも沈万三はこの時代既に亡くなっています。(生きていたとしてもかなり高齢) 元末当時活躍していたのは、沈万三の息子世代だそうです。 65 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 19 22 08 ID PWrAjd9/0 64 情報感謝。 ほとんど虚構か。 まぁ、エンタテインメントとして楽しむ方向ならOKだわな。 少なくとも塚本作品よりは面白いだろうと。 何故か職場近くの紀伊国屋は中国史コーナーに塚本氏の本ばっか置くから困る。 66 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 20 13 39 ID 0PrrZ7jxO 前スレでは各時代煮詰めきれないまま先に進んじゃったから 前スレの評価を叩き台にして、もう一回最初の春秋戦国から議論していかない? 67 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 20 30 47 ID leqmxDSA0 それより先に時代の区分と中国の武将を明確に定義しないと 後から揉める。 68 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 20 35 30 ID bkAe1TwC0 劉綎(テイ)って、「抗清名将」の一人ですよね?「劉大刀」の綽名を持ち、 清軍と戦って戦死した…。でも、この人は猛将に分類した方がいいのでは。 父親の劉顕も一緒に。 というか、劉顕は江南で活躍したけれど、戚継光・愈大猷と同時期なのが ネックですかね。賊軍の数十人を素手で格殺したりとか、印象的な エピソードには事欠かないんですが。 あと、王崇古は文官で扱った方がいいですか? アルタンと丁々発止を繰り広げた人ですけど…。 横レスごめんね 66 69 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 20 38 16 ID PWrAjd9/0 翻訳完了・・・精度低いけど。 文禄の役の将帥 祖丞訓 字、号、生没年全て不詳。萬暦年間中遊東副総兵となり、対北虜戦に活躍。 同20年(1591)、朝鮮の役が起こると騎兵三千を率いて平壌に入った。しかし 城内は隘路が多く、騎兵隊の機動力が殺され、城壁に上った日本軍の鉄砲掃射を浴びて 殺傷されるもの多数。生き残りの兵とともに退却し、遼東に帰還した。 日本軍と最初に交戦した将軍。 栄応昌 萬歴20年、祖丞訓の失敗を踏まえて対日本戦の戦略を建議した。現地でも活躍するが 糧秣問題に苦しめられる。李如松とともに召し還された。 李如伯 李如松の弟。この人も父に従って北虜討伐で活躍していた。薊州副総兵、寧夏総兵官、 右都督などを歴官。朝鮮の役において日本軍を思う存分ぶちのめした。 のち病を得て帰国、20年ほどひきこもったのち、遼東総管の任を授かってしばしば清軍を蹴散らした。 李如梅 李成梁の第三子、李如松の弟。遼東副総兵、代総兵官、左府倹書などを歴任、兄に従って日本軍と戦い、 功があった。兄が戦死するとその職を継ぎ、兄を上回る用兵手腕で日本軍を恐怖させたが、宮中で弾劾されて 罷免された。成梁の子の中では如松が最も勇敢で父の風があり、如海はそれに次ぐといわれた。 李寧 克力蓋が河套の日本軍を攻めたとき、逃げ去る日本軍を追撃、殺戮戦を繰り広げた。さらに日本軍と連携して 邪魔をする倭寇を撃破。査大受とともに精兵三千を率いて東江の小道に潜伏、小道を通る日本兵を襲撃して360人を殺した。 祖丞訓とともに開城に屯した。 査大受 命を受け、決死隊を率いて日本軍の兵糧を焼き毀した。活躍シーンはそんだけ。 楊元 李如松の副将。命を受けて小西門の城壁を登り、大西門を登った李如松と連合で火器を一斉掃射、日本軍を殲滅した。のち、日本軍に身を投じようとした沈惟敬を捕らえてぶっ殺した。 張世爵 不明。まったく分からん。 沈惟敬 奸臣。兵部尚書石星を篭絡して朝鮮入り、敗戦ムードが色濃くなると 日本軍の先鋒小西行長と会見を開いて和議を結び、翌年、自ら名護屋に 赴いて盟約を結ぼうとするも上手くいかず、しまいには朝廷から国賊扱いされて 楊元に捕らわれ、斬首のうえ棄市された。 ・・・結構苦労して調べたんだが、張世爵はなにしたのやらさっぱりわからん。 慶長の役 英雄善戦、の四文字が頼もしい勇将、麻貴は万歴十九年、寧夏で叛乱を起こしたホバイを討伐。 25年、対日本防備の総兵官となり、朝鮮に赴く。兵を三路に分かち、左路を李如松が、右路を李芳春と解生が、 中路を高策がそれぞれ指揮して進軍したが、加藤清正、小西行長の前に敗れる。万歴二十七年(?)将兵を九路に 分かち、進軍したが小西行長の軍に大敗し、楊鍠などは日本軍の旗を見るだけで恐懼した。怒った朝廷は楊鍠の官職(経理) を奪い、贖罪として麻貴に戦功を求めた。麻貴は劉綖、陳璘、董一元とともに出陣、軍を4路に分かち、東軍は麻貴、 中路は董一元、西路は劉綖、水軍を陳璘に任せて総勢14万2千人の大軍で日本軍に対した。 しかし戦況は芳しくなく、劉綖は小西行長に敗れ、麻貴も蔚山を抜こうとして果たせず、董一元は島津義弘のために破られた。 秀吉の死により日本軍は撤退し、明王朝はかろうじて面目を守ったが、官軍の弱体化は覆うべくもなかった。 ・・・長文で一個にまとめてみた。一応麻貴、楊鍠、劉綖、董一元、陳璘、高策、李芳春の7名カバー。 翻訳下手だからなー。間違ってる部分もあるかもしれん。そんときはご勘弁。 70 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 21 36 21 ID PWrAjd9/0 時期的には蒙古と元、後金と清はできれば一緒がいいな。 これなら現行の時代区分にそれほど手を加えることなく変更できる。 あと、中国地付きの人で西域遠征した人は認める(衛青とか)。 最初から中国国外に生まれ育った人は除外(郭侃とか)。 で、26史に入ってる国家の将は基本オッケー(耶律休哥とか)。 個人的な意見はこんなとこ。 71 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/05(金) 22 49 06 ID ToYMpIv00 70 郭侃は華州鄧県の人。思いっきり中国地付きなわけだが。 72 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 22 54 11 ID PWrAjd9/0 71 あれ、西域でばっか活躍してるから向こうの生まれだと思ってた。 でもあそこまで西域で戦って中国に戻ってちまちま戦っても、なんか違うなぁ。 73 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 22 58 57 ID ne0XULCqO 69 お手数掛けまして申し訳ないです。 張世爵について 1593年の碧蹄館の戦いで李如松を大将とする明軍で 副総兵として右軍を率いたぐらいの情報しか見当たらない。 自分も今日、図書で世界人名辞典を見てきたが余りの分厚さにビックリした… 貴殿はアジア歴史辞典を所蔵とは凄いですな!! でも古本で値段が10万前後とは…orz 74 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 22 59 32 ID PWrAjd9/0 それでもフラグ汗の遠征前にはスブタイに従って汴京陥としたりしてるのか。 中国でもそこそこ頑張ってたんだな、郭侃。 75 59 sage 2007/01/05(金) 23 06 28 ID qGtnEJwf0 お答えしてくれてありがとうございます 白村江も文禄慶長もネットで調べても余りありませんね 劉仁軌はなかなかの良将みたいですね、他の将は分かりますか? 李如松は猪突猛進型みたいですね 76 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 23 38 13 ID PWrAjd9/0 75 さすがにネタ切れ。ご期待に沿えず申し訳ないです。 77 59 sage 2007/01/05(金) 23 51 23 ID qGtnEJwf0 76 いえいえ、沢山の情報をありがとうございます 78 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/05(金) 23 54 54 ID PWrAjd9/0 70 自分で書き込んどいてなんだが、中華国外で生まれ育った人はアウト、はいかんな。 遼、金、モンゴル、元、後金、清の武将を否定することになるもんな。 まぁアレだ。俺はこーいう調整役には向いてないってことがわかった。得意な人に託すよ。 79 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 01 07 43 ID rd3NDjjq0 「中国に領土をもち中華王朝の体裁を整えた国の武将」という条件で選んでいたので 衛青や五胡はセーフだが郭侃はアウトになったんじゃなかったっけ? あと、遼・金は曖昧だから中国内部で戦った武将のみに限定していたはず 80 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 01 16 10 ID aSdIOMOo0 79 うん、 70にいらんこと書いただけ。お気になさらず。 81 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 12 13 58 ID ZzP7/Zjf0 時代区分と中国名将の定義。 難しいな、今まで散々議論してきたのに不安定なままだというどけはある。 とりあえず南宋・金・元時代にトゥルイとスブタイ入れたいなぁ。 一応中原国家の金に侵攻して最終的には金を滅ぼしたんだから、可能性はゼロじゃないと思うが。 82 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 12 25 47 ID NC+j6Ai60 とりあえずカタカナの連中はちょっとな 83 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 12 34 29 ID LaAcgcRh0 連投。 「中華王朝の体裁を整えた王朝」の武将ってことだと完璧にはじかれるんだよな、モンゴル武将は。 でも中国の支配権は漢人だけに与えられたものじゃないし、なんとかならんかな。大元王朝の母体としてってことで。 84 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 13 16 02 ID LaAcgcRh0 また連投。モンゴル武将オッケーでの南宋~清まで30人(ほとんど前に出した叩き台とかわらんが) 【南宋・金・元】 宗沢 完顔宗望(オリブ) 岳飛 完顔宗弼(ウジュ) 拖雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ) 孟珙 忽必烈(フビライ) 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 【明】 拡廓帖木児 張士徳 徐達 常遇春 馮勝 朱棣 馬芳 戚継光 兪大猷 袁崇煥 【清】 阿巴泰(アハタイ) 多爾袞(ドルゴン) 康熙帝・玄燁 岳鐘琪 策稜(ツェリン) 楊遇春 僧格林沁(サンゴリンチン) 宋景詩 李長庚 関天培 うん、ほぼ前回どおり。南宋・金・元でやたらモンゴル人優遇措置をとってるが、これでこそ抗元大将孟珙の真価が発揮されるというもの。 ま、勝手な30選だからスルーは覚悟。でも一考ぐらいはしてほしいな。 85 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 16 55 38 ID toCE7Jzc0 多爾袞は政治家であって馬上の将軍ではないと思うが・・・ 実際に軍隊を率いているのは確かだが、名目上の総司令官。 同様に康熙帝もモンゴル親征してはいるが、結構接戦だったし、 実際の前線は配下の将軍が指揮していた。 86 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 19 22 39 ID Xk2IkBWV0 84 王保保は元の武将なんだからどう考えても元だろ。 87 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 19 44 15 ID nClBpJ/Y0 86 拡廓帖木児を元に入れるとしたら、外すのはやっぱ忽必烈かな。武将というより大政治家。 ともあれ、蒙古の二人は外したくないんよ。 金軍精兵100万を覆滅したトゥルイに、汴京を陥として完顔陳和尚を殺したスブタイ。 でもこの二人のどっちか外せっつったらスブタイかな。戦功が中国史より世界史により多い。 ま、あくまでモンゴル武将OKという仮定の話だけどね。 明、清はまだ煮詰める必要ありそうだな。多爾袞、康熙帝を外したら他に誰を入れるかとか。 88 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 20 12 54 ID sl6cnp3K0 84 朱元璋は前スレから議論が激しかったが、やはり入れるべきだと思う 1356年 集慶路攻略 1360年 応天府での陳友諒撃退 1363年 ハ陽湖の戦い→陳友諒勢力撃滅 一連の戦績を追っていけば、配下の将たちの活躍も当然あるが、 やはり勝利を収めることができたのは、総司令官としての朱元璋の 戦術、指揮能力が優れていたからに他ならない 戦略的失敗を指摘する声が、前スレではあったが それを戦術的勝利で挽回できたことこそ、朱元璋が将軍として優秀であった ことの証左と言えないだろうか? 馬芳って馬林の父親だよね? 詳しい功績あんまり知らないんだが、やっぱ李文忠外すくらい名将? 89 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 20 41 54 ID nClBpJ/Y0 88 馬芳と李文忠比べたら正直李文忠のほうが上かも知れんが、6王からのエントリーが多すぎるとなんなので避けた。 あと、戚継光、兪大猷ら海の名将(戚は北虜とも戦ってるが)に対して陸の名将代表ってことで。 膳房堡、朔州、登鷹巣、鴿子堂、龍門、万全右衛、東嶺、孤山、土木、乾荘、岔道、張家堡、大沙灘ほか各地を転戦して生涯負けなし、 兵卒から大帥にまで成り上がり、「未だかつて大勝せざるはなし」とか「斬首無数、威名辺境に轟く」とか賛嘆されてるのは十分名将の名に値するかと。 ただ、知名度と歴史に与えた意義は少ないよな。前スレでも言ったけど、歴史を決めたのはやっぱり呉三桂。 だから呉三桂と変えてもいいんだけど、まぁ好みで。 90 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 21 05 49 ID nClBpJ/Y0 89つづき 土蛮が叛乱を起こしたとき、兜を外して見せたら「げぇ、馬芳!?」で土蛮が一斉に逃げたとか、それを追撃して殲滅したとか、 宣府太守のとき山西に北虜がちょっかいを出すと軍を率いて一日に500里を踏破、一気に戦闘に持ち込んで7戦7勝したとか、 辛愛率いる10万の衆を一戦にして壊滅させたとか、特に顕著な武功はそんくらい。 北虜も馬芳の軍を前にすると恐懼して逃げ去ったほど。 知略にすぐれ、かつ勇敢。間諜を使って敵の内情をよく探り、戦陣にあっては士卒に先駆けて突撃した。 ・・・うん、李文忠に負けてないかも。 91 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 09 21 ID L8Z3YMRa0 ぶっちゃけ現時点で他時代も【確定】【内定】【候補】に別れてるんだから そんなに頑張って10人に限定しなくてもいいと思うが 92 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 09 34 ID DPNbxxO50 荒れそうな話題ですまないが・・・ 中国と韓国が争ってる互いに自国の歴史と主張している高句麗の扱いはどうしようか・・・? 一応今の中国の領内ではなるが・・・・。 五胡の時代にはかなりの漢人が亡命してるし 前燕にボコボコにされたり、 隋唐と死闘を繰り広げたり、関わりが深い。 荒れそうだったらスルーでいいが 93 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 21 15 34 ID nClBpJ/Y0 91 特に10人確定、にこだわってはないよ。 とりあえず10人出して、確定数名を選出、残った分は入れ替え候補として待機、というのが基本スタンス。 みんなそれぞれ思い入れのある武将がいるだろうし、そういう声は逐一取り上げてスレに反映させるべきだと思う。 なにせ【みんなで作る】【名将100選】なんだから。 94 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 17 35 ID sl6cnp3K0 89-90 サンクス、前スレで連戦連勝みたいに言われてたので戦績が分かって納得 タイプ的に、唐代の裴行倹、蘇定方みたいなポジションか 一兵卒からってのがポイント高いなあ ここまでの【確定】の連中はこれでいいのか? それとも春秋戦国から吟味しなおすか? 95 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 20 09 ID VpdbGzYD0 とりあえず、清代は暫定候補を決める。 その他の時代は、このスレになって出てきた候補を まとめる。 その後、名将と時代区分を明確にするってやらな いと、元代あたりは、特に決まらないぞ。 96 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 21 25 52 ID nClBpJ/Y0 とりあえず清朝の候補として、施琅を挙げとく。 清朝初期の制海権はこの人が一手に引き受けてたようなもんだし。 97 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 27 42 ID /kqhpNxH0 92 二十五史に入ってないので除外で問題なし。 98 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 36 40 ID X6hnm7wKO 92 マンチュリアを中華地帯なんていうのは中共くらいだし、高句麗は駄目でしょうね 99 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 42 41 ID eJs9ob1k0 ・五胡十六国のうち僻地の国 ・遼 ・西夏 ・金 ・モンゴル ・後金 あたりのどっからどこまで含めるかが問題だな 100 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 21 46 47 ID nClBpJ/Y0 モンゴル頼む!! オゴタイ時代以降の金伐戦以降でいいから。 101 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 21 48 20 ID VpdbGzYD0 100 まず、自分から案を出すべきっす。 102 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 22 01 58 ID pq9LO3/Q0 明代の候補に秦良玉は入らないかのう? 103 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 22 05 54 ID nClBpJ/Y0 101 了解。やってみる。 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) まずこれが現在の時代区分だろ。 こっからオゴタイ以降のモンゴルと後金を入れるなら・・・。 清(後金含む)で天命元年(1616~1912)とするだろ。 で・・・モンゴルは難しいな。時代的には問題ないわけで、拖雷たちをどう中国武将と位置づけるかだからな。 とりあえず、先にも言ったように中原国家の金に進出=中華志向、といえれば楽なんだけど、 モンゴルの場合ひたすら貪欲な征服欲に突き動かされて戦いまくるだけだからな。 最初の頃は漢民族を皆殺しにして中原で遊牧しようとか言ってたし。 それでもモンゴルの台頭自体が中華王朝・金にとっての脅威であって、 中原を脅かして最終的に征服王朝・元を打ち立てた最初の一歩、布石が拖雷、速不台の金伐にあるとすれば、モンゴルを入れてもいいのでは? さすがに苦しいかもしれんが、拖雷も速不台もちゃんと26史に載ってるわけだし、戦功も赫々たるものがあるし、あっさり切り捨てるのはどうかと。 104 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 22 19 46 ID VpdbGzYD0 103 変な言い方だが、元の中国にあたる地域=明の支配地域で 良いんじゃないかと。 大雑把に言って、クビライ家の世襲領のうち、モンゴル高原と朝 鮮を除いた地域って感じかな。 105 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 22 23 37 ID MjGsMEJj0 103 隋と南北朝はあわせることにしたんじゃなかったっけ?あれは提案だけだったか? 106 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 22 30 23 ID nClBpJ/Y0 105 多分提案だけだったはず。 南北朝は150年と短いながら多士済々だから、隋まで一緒にするととんでもなく絞る必要が出てくる。 107 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 22 34 22 ID nClBpJ/Y0 102 入らないか? じゃなくて候補に挙げるよ、って宣言していいと思うよ。 秦良玉は確かに名将だし、候補が多けりゃ時代ごとに10選するときあぁこの人どうするかなぁ、って悩む楽しみも出てくるし。 108 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 22 58 38 ID nClBpJ/Y0 104 ごめん、何度か読み返したがよくわからん。多分俺がバカタレなんだろうけど、明代の話か? 僭越ながらバカにも分かる説明お願いします。 109 104 sage 2007/01/06(土) 23 04 22 ID VpdbGzYD0 108 ごめん、俺の日本語が不自由なだけなんだ。 元の支配地域というか、元代の武将が活躍した範囲の つもり。意味不明ならスルーして 110 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/06(土) 23 13 40 ID nClBpJ/Y0 109 OK了解、把握した。 ところで現時点でモンゴル人武将を入れてもいいと考えてる諸兄、どのくらいいるのだろうか? 今板にいる人たちのご意見を聞きたい。 111 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/06(土) 23 18 34 ID MjGsMEJj0 個人的には中国の武将じゃあないだろうと思う。 112 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 00 05 13 ID PFqy+Fj90 アレで、耶律休哥とかと同じ感覚で許可してくれないかなぁ。 しかし向こうは漢化された文明をもってたけど、 モンゴルは野蛮人集団でろくに文明をもたなかったのが痛いか。 それでも拖雷、速不台は惜しすぎると思うんだが。特に拖雷が金の精鋭100万人を 潰滅させなかったら金王朝はもうしばらく命脈を保ったと思うんだが、それでも駄目? 113 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 00 11 56 ID bX4fkhOy0 モンゴル系は元朝期に活躍したやつだけで充分。 清も入関以後。 遼も要らんな、正史があるじゃないかとか言っている奴がいるが、 編纂したのが中国史上でも異質な元朝だということを考えて言っているのか? 漢民族王朝が編纂すれば、金はどうなったか知らんが、 遼はほぼ確実に周辺諸国扱いになったろう。 114 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 00 15 45 ID 0+8myHFo0 清が入関以後なら、確実に多爾袞は外れるなあ・・ すでに政治家で、実戦なんてやらなくなってるし。 115 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 00 21 42 ID sk35tW3T0 112 「中国で活躍した名将」を挙げるスレだったら問題ないよ。でもここでは中国王朝に 籍をおいた人物って定義がなされているのだから、元以降はともかくそれ以前の 人たちは無理があるでしょ。おなじ理由で、入関以前の清(後金)も無理でしょ。 たとえば日本史の名将を挙げるときに、江戸以前の琉球の武将を「日本の武将」だって 入れられますか?仮の話ですが、琉球の武将が侵略してきて九州を占領したとしても、 それは「琉球の名将」であって「日本の名将」とはいえないと思うのです。 琉球が日本に編入されて以降なら、問題なく沖縄出身の日本軍人でいいと思いますが。 116 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 00 31 38 ID 4nWwK0O60 余計なことだったらスルーして欲しいんだけど。 中国での軍功って3つに分類できると思う。 1 騎馬民族または大国などの強大な勢力に対抗した。 例 李牧 廉頗など 2 中国(中華思想の影響圏内ってことで)で、国内の 統一・平定に尽力した。 例 白起 王翦 など 3 非中華圏や騎馬民族で中華圏を征服することに活躍 した。 例 楊遇春( 18) とか元の武将 これらの分類を格付けするか、単に戦果の大きさだけで 名将とするかで、定義が出来ないと元の将の取捨などが 出来ないと思う。 117 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 01 25 14 ID E1bI6h3TO 116 モンゴルにとって中華世界は征服対象の一つに過ぎないだろうしな 実際金を滅ぼした後南宋が粘ったこともあって、南宋滅亡までにもかなり領土を拡大してるし (まあ元代になるとモンゴル帝国西方の独立傾向が強くなるんで、中華を基盤にするようになったが) ただ漢民族系でも膨張傾向が強い王朝だと諸外国に積極的に侵略戦争しかけてるし、それはどうなるのかって疑問はある 118 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 01 33 34 ID j01KSXPs0 トゥルイ・スブタイは外れても仕方ないとは思うが 張柔・史天沢のような漢人で中国でしか戦っていない武将はどうなるかな 115の真似をさせてもらうと、「琉球」に仕えて九州で戦った 日本人の武将、ということになるんだが う~ん、微妙だ・・・。 119 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 01 40 26 ID ZR/OuL5J0 日本の名将を列挙していく時にアイヌのコシャマインやシャクシャインを入れるかどうか?と 似た問題やね ましてやモンゴルや女真は最終的に中原を征服して王朝を樹立してるしな。 120 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 01 59 19 ID sk35tW3T0 118 その例だと、日本出身の琉球武将ってことになるかなあ。 とにかく、どこに籍をおいているかだと思う。中国でも高仙芝や安禄山、李克用 など明らかに非漢人でも唐朝に仕えたということで中国武将扱いされているし。 121 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 02 31 04 ID 0+8myHFo0 中国≠支那(いわゆるチャイナ)ということで、 広い意味での「中国武将」として選べばいいのでは。 122 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 02 32 52 ID KFYtGt2+0 皆々様のご意見の数々、骨にしみました。 モンゴル武将を入れる企ては断念します、つーか諦めざるを得ないレスの数々だから、 これ以上固執するのは漢ではあるまいと。 となると 宗沢、岳飛、宗望、宗弼、孟珙、忽必烈、伯顔、阿朮、拡廓帖木児、 ・・・一人枠が空くな。元末群雄の張士徳を明からこっちにもってくるか。 まぁなんにせよ、孟珙が外れることはまずないだろうからそれだけは安心。 諸兄にはご意見ありがとうございました。感謝の気持ちとして粗品はないですが。 そんではもう一眠りします。それではまた。 123 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 04 30 53 ID E1bI6h3TO 122 もうモンゴルは 【異民族】 中国好敵手百選 【周辺国家】 て感じのスレたててそっちに移住するかね キタイ・女真・モンゴル好き辺りは変なストレス溜まってそうだし 124 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 06 07 50 ID U3mstPVL0 周瑜はあまり記録がなくてよく分からないんじゃないか ここに入れるには物足りないような気が 125 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 08 29 58 ID G6cc/SYd0 123 拖雷、速不台を強烈に推した俺ですが、 さすがに異民族だけで百選は難があるだろ。 中華武将たちを彩るスパイスとして数名から十数名選出するのがほどよいと思うのだが。 126 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 12 56 46 ID Gq1Va5NW0 西夏もNGかな? となると十六国のうち、西夏と同じ地域の前涼後涼、 北涼西涼南涼なんかもだめになるわけか。 候補に挙がってる謝艾は前涼だから自動的に落選と。 127 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 13 17 15 ID wZbPE9qNO 西夏と前涼などの五胡十六国の場合は地域が同じでも条件が異なると思うが・・・ 128 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 13 40 32 ID wOXlQQqO0 五胡十六国(の一部)・遼・金・モンゴル・後金を外すと田中●樹の名将百選とかぶって面白みにかけるんじゃないか? 別に田中氏に恨みはないというかむしろファンだが、ここは独自路線を提唱したい。 121の言うように 「中国≠支那(いわゆるチャイナ)ということで、 広い意味での「中国武将」として選ぶ」のがいいと思うのだが。 129 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 14 05 38 ID ZR/OuL5J0 周辺異民族の流入・侵入、それに伴う文化風俗の変化、、それによる王朝の交代、 乱立や南北対峙の中にこそ中国史が持つダイナミズムが存在するんだろう 異民族除外なんて、どんだけ中国史知らないんだよと笑われるだけだと思うが。 異民族武将や周辺の異民族王朝に関しては、これまで決まってた条件に従って 判断するんじゃダメなのか。 西夏にせよモンゴルにせよ、条件にかなってる奴がいれば候補に入れればいいし 駄目なら外せばいいだろう。 130 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 14 22 49 ID bt3urDdg0 129 大賛成。前スレから続く「耶律休哥は中国の武将か否か?」に対する明確な答えだよな。 国家・領土に関係なく才能による推薦、候補入り。これが一番正当な意見だと思う。 おれはここまで理路整然と語れんから、 129の語る理論は一種の憧れ。正直に凄いなと言わせていただく。 131 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 15 03 39 ID E1bI6h3TO 125 モンゴル(モンゴル帝国、カイドゥ・ウルス、北元)だけで10人はいけるから十分かなと思った 132 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 15 08 22 ID wZbPE9qNO 129の仰る通りです。 異民族の中華に置ける立場や歴史的推移を排除するなら 秦や楚そして呉越なんか元々中原国家から蛮夷って呼ばれていた訳で、 そうなるとその国々も対象から外さなければならなくなる。 133 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 15 31 38 ID bt3urDdg0 支援書き込み 最初に決められたルールは ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 の三点。前スレ7で 「中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権」 という項が加えられたが、これは絶対的な条件ではないと思う。 とりあえず最初の三項目と延々議論されてきた時代区分にさえ抵触しなければ問題ないのでは? 異民族王朝や征服王朝を完全に無視したら、極論すると隋唐帝国でさえはじかれかねんし。 134 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 15 40 18 ID bt3urDdg0 133続き 異民族王朝について熱く語りたいのは山々だが 現在は一応清朝ね。とりあえず候補の中から5人ぐらいは確定を出そう。 135 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 15 42 56 ID 4nWwK0O60 異民族とかは関係無しで、中国から他国への遠征または、 中国への侵攻をしてきた将も功績があれば名将で良いのか? 個人的には、他国への侵略行為っていうのは、平治に乱を 起こすってことで、賞賛に値する行為では無いと思うんだけど。 136 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 15 47 54 ID bt3urDdg0 確かにそういう場合は「涜武の人」といわれて人間的に悪く見られがちだが、 それはさておき十分な軍事的成果をあげた人物は名将でいいと思う。 人格と才覚が正比例するわけではないのだから。 137 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 15 48 54 ID 0+8myHFo0 途中参加で過去ログ読めないんだけど、 このスレの「名将」の定義教えて。 「実際に軍隊を率いて、軍略に富み、多くの戦で勝利した」人物かな? 135 みたいに専守防衛の軍人しか駄目だとなると、清の大半の将軍は 失格ということになるんだけど。 138 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 15 57 34 ID 0+8myHFo0 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 揚古礼(ヤングリ)、兆恵(ジョーフイ)、阿桂(アゲイ) 一応清代では上の人たちの名前が挙がっているけど・・・・ 139 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 16 01 24 ID j01KSXPs0 135 侵略行為といっても全部を十把一絡げにはできない 全く無用なものもあれば必要だったものもある それに他国を攻撃した人物を外すと大半の人間が落選になってしまう 140 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 16 03 44 ID bt3urDdg0 137 おおかた貴兄の提言した定義で合ってると思う。 まあ、たまに生涯一度の大戦で勝って名将の名を博した人物もいるけど、 そういう人は一発屋呼ばわりでこのスレ的にはあまり歓迎されない。 貴兄の提言に「部下に慕われた」という一項目を追加すればほぼ完璧かと。 138 前回の選考で阿巴泰と策稜は確定組になったんだよね。多爾袞と康熙帝は政治家、戦略家としての側面が大きいから除外するとして、 後金オッケーなら文句なしでヌルハチ、あと「戦う豆腐屋」宋景詩も推したい。 あと施琅を推薦しといたんだけど挙がってないね。改めて推薦。 141 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 16 09 19 ID E1bI6h3TO 135 それだとまず班超あたりを外さなきゃならなくなると思うが…… 142 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 16 11 15 ID 0+8myHFo0 奴児哈赤:ほとんど徒手空拳から連戦に次ぐ連戦で後金を建国 ただ、後にハンとなったので外すべきか? 多爾袞 :しばしば総司令官として軍隊を指揮するが、あくまで 名目上の大将であり、彼の本領はむしろ政治家。 呉三桂とともに入関の立役者であはあるが・・・ 康熙帝 :モンゴル親征をしたが、最前線には立たず。あくまで 武威発揚のための出馬であり、実戦指揮は執っていない 143 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 16 11 18 ID bt3urDdg0 136続き 人格と才覚が正比例するわけではないと書いたがもう一つ。 人格者であっても職業軍人である以上、上の命令に背くことはできないってことがある。 それに、戦略的にどうしても戦わなければならない場合もあるだろうし。 144 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 16 13 11 ID D2f7n0Wp0 平地に乱を起こそうがなんだろうが戦術の能力があれば名将でいいだろう 長期的な戦略や道徳的なものさしは、考慮したとしても優先順位は低くした ほうが軸がぶれなくていいと思う 145 135 sage 2007/01/07(日) 16 20 25 ID 4nWwK0O60 そうすると、異民族王朝や征服王朝であっても、 133のルール (もう少し明確化した方が良いとは思うけど)で、選定してくのね。 それで名将の定義は 「実際に軍隊を率いて、軍略に富み、多くの戦で勝利し、部下 に慕われた」人物ってことでいいかな。 146 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 16 20 30 ID 0+8myHFo0 140 名将定義補足、多謝。 後に君主となった人物もオッケーであれば、努爾哈斉に異論なし。 少年時代から戦場に出て、努爾哈斉の娘婿となって「武勲王」「超等公」の 称号を得た楊古礼も個人的には捨てがたいが、あまり入関前に偏るのもなあ。 清前期のモンゴル代表として策稜(ツェリン)、漢族代表として岳鐘琪・施琅 というところか。ただ岳鐘琪は、例の事件に絡んで雍正帝が過剰に持ち上げて それが列伝の高評価につながってるような気がする。 「岳飛の末裔」(未確定)と言う点もあるし・・・ 147 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 16 37 43 ID bt3urDdg0 146 あの事件っつーと 曾静「漢民族の誇りを忘れたのですか、自立しなさい!!」 岳鐘琪「だが断る」 ってアレ? 確かにあれで雍正帝の心を掴んだよな。 でもちょっと地味。一応戦功はそれなりだし、清朝唯一の漢人大将軍として確定にしたいところなんだけど・・・ 西域防備に回されたのに西域から来たツェワン・アラプタンの侵入を許してるし。 「衛(青)、霍(去病)、郭(子儀)、李(光弼)に伍す、って書かれてるけど、「超勇公」策稜に比べるとやや落ちるか。 148 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 16 47 46 ID bt3urDdg0 145 一応名将の定義はあれでいいと思うけど、 ときどきとんでもないDQNで慕われるどころじゃないけど、用兵家としては間違いなく天才、ってのもいるからなぁ。 特に五代十国。 でもまぁ基本はあれでいいと思うよ。拓跋珪、拓跋燾、石虎あたりはその限りでない感じだが。 149 148 2007/01/07(日) 16 49 00 ID bt3urDdg0 間違えた。五代十国じゃなくて五胡十六国だわ、すまん。 150 146 2007/01/07(日) 17 18 55 ID 0+8myHFo0 147 そう、それw 個人的には、 努爾哈斉・阿巴泰(努爾哈斉の子)・施琅(漢人)・策稜(蒙古)あたりは 確定でもいいかなと思う。 でも満洲旗人で一人くらいほしいかな(費英東/楊古礼?)。 康熙雍正年間の将軍では、西北方面の遠征軍を率いた富寧阿(フニンガ)もいる。 乾隆年間の将軍では、新疆征服の功績で兆恵(ジョーフイ)有利かな。 151 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 17 31 26 ID 4nWwK0O60 それで、現在は次のどの段階? 1 清朝の候補者決定 2 時代と中国の範囲の定義を確定 3 前スレの候補者の見直し 4 それ以外 152 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 18 06 34 ID bt3urDdg0 今は1番、清朝候補者決定だろうね。 次が2番、中国の定義確定 最後に3の候補者見直し→全時代の10選確定。 100選が決まったらその中から10傑を選ぶとかやりたいな。個人的には孟珙に一票。 153 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 18 20 16 ID bt3urDdg0 おせっかいだが清朝の候補なんてもう忘れた、って人に。 18、阿巴泰、費英東、策稜、明亮、楊遇春、李長庚の略歴 21、阿桂、兆恵の略歴 どーぞ。 154 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 18 28 34 ID ydEXK/n+0 全時代の十選はいるか? 取り敢えず各時代から10人くらいだして A時代確定のαとB時代の候補のβを比べてβ>αの場合、チェンジする という為の10人なんだから、細かく決めるより確定武将の割り出しと 残り枠を候補・内定武将から選出していって100選が確定って流れだろう 155 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 18 34 21 ID bt3urDdg0 それもそうか。あんまり厳密にすると自由度下がるよな。 でも総合ベスト10はやりたい。ベスト5とかベスト3とかでもいいけど。 156 清朝候補その一 2007/01/07(日) 19 58 25 ID bt3urDdg0 費揚古(フィヤング) 1645-1701。棟鄂(ドンゴ)氏。盛清の名将で内大臣三等伯オショの子。1658(順治15年)、14歳で父の爵を襲い、74年には安親王岳楽に従って呉三桂ら三藩の乱平定に当たった。 その功労により79年には領侍衛内大臣兼火器営総官に起用され、議政大臣に加えられた。その後ハルハ左翼トシエト・ハン(土謝図汗)とジャサクトゥ・ハン(扎薩克図汗)との 間に紛争が起こると、89年命を受けてトシエト・ハンのもとに使いし、紛争の調停に当たった。ところがジュンガル部長ガルダンがこの紛争に乗じて被いにハルハを侵害すること になったので、翌年彼はホルチン(科爾沁)に行って兵を整え、清の本軍とともにガルダンをウラン・プトゥン(烏蘭布通)に破った。ついで93年、安北将軍に任ぜられて帰化城に 駐し、バヤン・ウラン(巴顔烏蘭)に拠っていたガルダンの防衛と折衝の任に当たり、95年には撫遠大将軍を授けられた。翌年康熙帝が自ら大軍を率いてガルダンを討つと彼は その先鋒となり、ガルダンをジョー・モド(昭莫多)に追い詰めて大いにこれを破り、ガルダンを敗死させた。97年病により京師に帰り、領侍衛内大臣一等公に封ぜられたが、 まもなく同地において病卒した。 海蘭察(ハイランチャ) ?-1793。乾隆20年(1755)、兆恵のアムルサナ征伐に従い、タルバガイでバヤルを生け捕りにした功によりエルケ・バトゥル(称号。バトゥルは多分勇者の意だとして、 エルケはわからん)の号を授けられ、一等侍衛に進められた。32年(1767)傳恒らのビルマ遠征に従い大金沙江沿岸の老官屯で戦功を立て、34年(1769)鑲藍旗蒙古副都統を 授けられた。36年、金川のミャオ族が叛乱を起こしたので、翌年雲南から鎮圧に赴き、将軍温福や阿桂の下で戦功を立て、参賛大臣を授けられた。38年、部下の守っていた 美諾が敵の手に落ちたので降格された。翌年戦功により再び参賛大臣に復し、40(1776)年、金川の乱を完全平定した功績により一等超勇候に封ぜられた。45(1781)年、 甘粛のイスラム教徒蘇四十三が叛乱を起こして蘭州を侵したのでこれを平定、49(1785)年、再度イスラム教徒が叛いたので参賛大臣として尚書・福安康とともにこれを鎮圧、 張文慶を捕らえた。翌年台湾の林爽文らが叛き彰化、嘉義を陥としたので、翌年7月、参賛大臣として将軍・福安康を率い、台湾に渡ってこの乱を平定した。55(1791)年 西チベットに侵入したグルカを討ち、福安康らを率いてこれを討ち、グルカ兵を撃破、追撃してグルカ族の国都カトマンドゥまで逼った。グルカが和議を求めると 藩兵1000、蒙古兵3000をチベットにとどめて凱旋した。戦功により侯爵から公爵に進められる。乾隆57年没。 157 清朝候補その二 2007/01/07(日) 20 01 37 ID bt3urDdg0 徳楞泰(デレンタイ) 1745-1809。盛清の将軍。蒙古正藍旗の人。字は惇堂。チャハル(察喀爾)部の伍弥特(ウミト)氏に属する。1773(乾隆38)年、定西将軍アグイを助けて 金川の乱平定に活躍したのを始め、84年には甘粛のイスラム教徒の反乱鎮定に従い、87~88年にかけての台湾の叛乱鎮定にも活躍して功績により参領となり、 継勇巴図魯の称号を受けた。91年には名将ハイランチャに従ってチベットに出征し、グルカ族平定に功を立てて副都統護軍統領となった。ついで95年にはフカンガを 助けて湖南方面に出征し、湖南・貴州方面で威を振るっていたミャオ族の叛乱鎮定に活躍した。のち97年にはミンリャンらとともに四川方面における白蓮教徒の乱の平定を命じられて出征し、 数年にわたる反乱鎮圧に大いに活躍し、非常な功を立てた。この遠征の間、99年には参賛大臣となり、翌年には成都将軍に任ぜられ、1804年には欽差大臣を授けられた。 乱平定後の05年に侍衛内大臣となり、翌年には西安大将軍となるなど、多くの功績をあげたが、まもなく病没した。謚は壮果。 羅思挙(らしきょ) 清中期における郷勇の代表格。貧困の家に生まれ、家業につとめず、盗賊稼業で生計を立てた。不法行為はなはだしく、人々はたいそう彼を恐れた。嘉慶初年、 白蓮教の乱が各地に激しさを加え、羅思挙の郷土でも教主・王三槐らが乱を起こし威勢を振るうに及んで、それまでの生活を恥じ、郷里に帰って郷勇に加わり、乱徒平定に尽力した。 ことに教匪征伐のためデレンタイ、ミンリャンらが入川するにいたってこれに協力し、いわゆる随征郷勇として各地を転戦した。その戦闘における巧妙な作戦と勇猛ぶりは 当時弱体化の一途をたどっていた清朝官軍と対照的なものがあり、彼の存在は郷勇の存在意義を高めた。道光元年(1821)、累進して貴州提督となり、 さらに四川・雲南提督を経て湖北提督となった。その後も趙金竜らの乱平定などに功績を挙げたが、1840年病死した。謚は壮勇。著書に「羅壮勇公年譜」がある。 158 清朝候補その三 2007/01/07(日) 20 04 24 ID bt3urDdg0 陳・化成(ちんかせい) 1776-1842。字は蓮峯。嘉慶7年金門右営把総に任ぜられ、累進して同18年銅山営参将となり、20年烽火門参将に抜擢された。道光元年彭湖水師副将、同3年台湾水師副将 を経て同年碣石鎮総兵となる。同10年には福建水師提督となり、12年イギリス船が福建・浙江・江蘇・山東などの海面に来航するや、不慮に備えるため督師巡邏を命ぜられた。 19年イギリスの軍艦が福建省を侵すと海林洋に戦い、同年江南提督に任ぜられた。江南水師はもとより怯懦であったが陳は鋭意教練し、士気ようやく奮うに至った。彼はまた 呉淞の防備を堅固にし、砲台を修築し、沿海に26堡を築造した。道光22年、アヘン戦争が起こると彼は呉淞西砲台にあって防御に努め、奮戦してイギリス艦3艘を破壊したが、 敵弾に当たって戦死した。宣宗は特詔を下して銀一千両を賜い騎都尉兼一雲騎尉與職を追贈し、忠愍と謚し、殉難地に祠を建てて英霊を祀った。 僧格林沁(サンゴリンチン) ?-1865。モンゴル、ボルチギット族の貴族。1834年御前大臣となり、正白旗領侍衛内大臣、正藍旗蒙古都統などをへて、36年鑲白旗満州都統を授けられ、帝の深い恩顧を受けた。 1853年、太平天国の北伐軍が直隷に進出したとき、参賛大臣に任じられ、同年10月以来蒙古騎兵を率いて転戦、太平天国軍をさきざきで敗退させ、1855年3月、主将・林鳳祥を連鎮で、 また同年5月・李開芳を高唐州で捕らえて北京に送り、太平軍の北伐を水泡に帰せしめた。この功により威名は天下に轟き、その後鑲藍旗満州都統、正黄旗領侍衛内大臣、 署鑲紅旗漢軍都統などを歴任した。1858年、アロー号戦争で英仏連合軍が天津の海口に侵攻したとき、欽佐大臣に任ぜられて軍務を任され、英仏軍退去後大沽および双港において 砲台修築や海防施設の強化に当たり、翌年6月には蒙古旗兵を率いて大沽砲台を守り、連合軍の進撃を撃退して諸々の恩賞にあずかった。しかし60年には連合軍の猛攻の前に大敗し、 通州に退いた。そのため職を奪われ、いろいろあって降格され欽佐大臣とされた。北京条約成立後、山東の捻軍をはじめとする華北各地の農民反乱を平定するため、 郡王の位に復され反乱平定に従事するようになった。各地で民軍を破り御前大臣、正紅旗漢軍都統を復され、1863年には世襲親王に進んだ。 64年、貝勒となるも多年にわたる軍事活動の中で部下の蒙古将兵の多くを失い、1865年、曹州で宋景詩率いる民軍に破れ、包囲されて戦死した。 159 清朝候補その四 2007/01/07(日) 20 07 02 ID bt3urDdg0 唐・炯(とうけい) 1829-1909。清末の官吏。字は鄂生。1849年の進士。62年太平天国の石達開が四川に侵入してきたとき、これを破って捕らえ、棄市に処した。67年には四川総督崇実の命を受けて貴州地方の民乱を平定、偏刀、水上、太平、黄瓢、白堡をたちまちに破り、 寇賊王超凡、劉儀順を斬り、潘人傑、唐天佑らを降した。また平越、甕安、黄平、清平、麻哈を抜いて大いに成績を上げ、法克精阿巴図魯の称号を賜って蜀に還った。78年からさらに四川総督丁宝楨の命を受けて塩茶の専売制の整備に当たり、 手腕を発揮した。82年張之洞の推荐によって雲南布政使となり、フランス人のベトナム侵略を防衛したが、誤聞を議して勝手に任地に帰り、光緒帝の怒りに触れて免職となった。その後雲南の鉱務を監辦していたが、1905年退職した。 著書に 成山老人自撰年譜 6巻がある。 塔斉布(タチプ) 1817-1855。晩清の将軍。姓は陶佳。字は智亭。はじめ三等侍衛から、咸豊元年(1851)都司として湖南に赴任、撫標に所属、参将に進んだ。1853、当時長沙で湘軍の練兵に当たっていた曽国藩に起用され、副将として湘軍を率い、 以来、太平天国との戦いにその勇猛さをもって頭角を現した。特に1854年、配下千人をもって成功した湘譚県城占領は湘軍最初の勝利といわれ、おりから靖港での敗戦で総帥曽国藩が自殺を図ったほど意気阻喪していた湘軍を 奮起させる重要な意義を持った。これによって湘南提督に任命されるという異例の抜擢を受け、さらに岳州、田家鎮などでの戦功で騎都尉の世職を与えられたが、1855年、九江攻防戦中に軍営で病死した。謚は忠武。 160 清朝候補その五 2007/01/07(日) 20 14 06 ID bt3urDdg0 宋・景詩(そうけいし) 生没年不明。清末の農民暴動の指導者。山東の人。従来ほとんど知れなかったが、1951年映画「武訓伝」批判運動の中で行われた武訓歴史調査団によって知られるようになって以来、武訓と同時代、同じ地方で武訓の保護者であった地主勢力と生涯闘い続けた 真の英雄として武訓と対照的に顕彰されるようになった。彼は貧しい豆腐売りであったが、当時山東各県に広がっていた白蓮教系の秘密結社に加わり、1961年はじめ、農民所有地への増税反対を契機に18人の村の仲間たちと蜂起した。山東の白蓮教、 五旗約一万の一翼として黒旗軍と呼ばれた。同年秋形勢不利と見て勝保の軍営に投じ、安徽・河南の捻党の回乱鎮圧に差し向けられた。勝保の推挙により参将に任ぜられたが、機会を見て再度脱走したため免職された。62年末、部下千余を率いて故郷に脱走して 以後、表面は帰順を誓って清軍内に留まりつつ、山東白蓮教軍の鎮圧に差し向けられるや、逆にこれと呼応して敗軍を収容し、あるいは太平天国軍の残存部隊を収容して隊伍を拡大、各地で地主の武装勢力を撃破した。なお武訓のたてた崇賢義塾の後援者である 揚樹坊一族は、最大の民団として宋景詩軍と最も激しく対立した柳林鎮民団の中心であった。清朝側は山東・河南の暴動に牽制されて武力鎮圧に出ることが出来なかったが、63年4月、その鎮圧と同時にサンゴリンチンの洋槍隊など大部隊を動員、 9月直隷省で宋景詩軍を撃破した。こののち、宋は安徽の捻党苗沛霖軍、のち湖北の太平天国張宗禹軍に加わり、65年曹州でサンゴリンチン軍を掃滅したと伝わる。その後の消息は明らかではないが、清朝の記録では71年毫州で改名して符水治病をしていた 宋景詩を捕らえ、安徽省城で処刑して晒し首にしたとある。しかし現地調査の農民の話ではそれは別人で、1900年彼は故郷に姿を現したという。 劉・永福(りゅうえいふく) 1837-1917。清末・民国初期の軍人。淵亭と号す。欽州の貧農の家に生まれ、幼少の頃父母とともに流民となって広西の上思州、ついで遷隆州に移った。 農耕や船頭生活のかたわら父から武技を授けられたが、17歳で両親と死別し、21歳のとき天地会の一派に身を投じた。太平天国の乱後馮子材の追撃を受け、 1865年首領の呉亜終に従ってトンキンに逃れ、阮朝のトゥドゥックに帰順した。その後一度トゥドゥックに叛いたが、呉亜終から離れて67年六安州で黒旗軍を編成し、 ソンコイ川流域とくに勝保を中心に強固な地盤を樹立した。68年以来、ときには阮朝官軍や清朝派遣の馮子材と協力して匪賊討伐に当たり、その功によって トゥドゥックから物資的援助を受けたほか、領兵官、三宣軍務副提督(ともに1874)、太原布政使(1879)などの官を授けられた。しかし彼の阮朝に対する態度は一貫せず、 黒旗軍は土匪的性格を持ち続けたので、ベトナム人から嫌悪されることが多かった。しかし、フランス人がソンコイ川北上を狙ってトンキンに進出してきたのに対し、 黒旗軍はしだいに組織化されて抵抗し、73年ハノイ占領中のフランス軍司令官ガルニエを戦死させた。また81年、ソンコイ川をさかのぼってきたフランス商人を撃退し、 翌年フランス軍が再びハノイを占領すると、83年、フランス軍排斥の檄文を発し、これを攻撃して司令官リヴィエールを敗死させた。こうして彼は清朝はもとより阮朝や 一般ベトナム人から利用されたが、信頼を受けるにいたり、83年トゥドゥックから三宣提督を授けられた。またこの間、1876年にフランスを憚る阮朝の要請をいれて 墓参を理由に一時帰国したが、清朝からは英雄視して迎えられ、阮朝からはただちに呼び戻されている。しかしフランス人に対する彼の抵抗はあまりに激しかったため、 83年トゥドゥックの死後、阮朝がフランスに屈服するとふたたびベトナム人から疎遠された。清仏戦争には清朝派遣の唐景崧軍や阮朝の一部役人とともに各地で戦ったが、 清朝とも折り合わなくなり、85年両広総督張之洞の要請に従って帰国した。86年広東南澳鎮総兵となった。94年日清戦争が起こると台湾防衛に派遣され、 翌年下関条約締結後、台湾民国総統に推されたが辞退し、また日本の樺山資紀の投降勧告をはねつけ、日本軍に抵抗を続けた。義和団事変には湖広へ進んで排外運動につくした。 1911年辛亥革命にあたり広東都督胡漢民の要請により広東民団総長となったがまもなく解散した。15年、日本が突きつけた21ヶ条要求に激怒し、義和軍を組織して 抗日戦を計画したが、実行に移る寸前で排外運動に終始した生涯を閉じた。 候補は多い方がいいと思って、とりあえず清朝のメジャーどころを並べてみた。清朝の場合、他にも名将はごろごろいるが。 161 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 21 03 01 ID bt3urDdg0 なんか6時半頃から過疎ってるが、空気を読まず新ルールを開陳させていただく。 まずは 121の「中国≠支那で、広い範囲の『中国武将』を選ぶ」を前提に置き、「中国王朝に籍をおいた人物」ではなく おもに中国国内で活躍した武将、の中から選出する。五胡十六国、金、蒙古、後金、清の異民族武将たちも、中国国内、 あるいは国境付近で中国の武将と戦った人物はすべて候補入りの可能性ありとする。 選考基準はまず才能ありき。遼の耶律休哥のような境界が不鮮明な武将でも、国境付近で宋軍と戦った実績があり、 実際大勝している実績がある人物は10選入りを認める。 当時の宗主国と国境が直接つながっていない国に関しても、その国の人物が中国本土において十分な戦功を挙げた(トゥルイの金軍100万人覆滅など) のであれば10選入りを認める(この場合当時の宗主国は南宋より金であろうから、普通に認める)。 こんなもんでどうか? 一人で勝手に決めた事だから、どんどん口出し、手直ししていただきたい。 162 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 21 08 38 ID 4nWwK0O60 161 その話は、取りあえず、清代の候補者を確定させてからで良いだろ。 俺は清代詳しくないから候補者を決めるのは、他の方に任せた。 163 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 21 17 57 ID bt3urDdg0 とりあえず現状で確定してんのは 奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜の四人か。 あと一人二人ほしいところだな。とはいえ俺は晩清をほとんど知らん。 とりあえず豆腐屋の英雄宋景詩と言ってみるか。 164 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 21 45 28 ID 0+8myHFo0 156-160 候補選定乙。 >・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 普通「近代」といった場合1840年のアヘン戦争以降を指すのだが、 このスレの場合はとくにそれにこだわらず、「馬上の指揮官」であれば 1840年以降でもいいんだよね? 165 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 21 51 48 ID bt3urDdg0 個人的には一応清の滅亡までを考えてるけどどーなんだろ。 劉永福とか僧格林沁とか豆腐屋のお兄さんとか、 アヘン戦争以降にも名将と呼べる人物はいるからいいと思うが。 というかあの時代(アヘン戦争後)こそ中華政権の意地の見せ所だったともいえるしね。 ・・・惨敗だったけど。 166 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 02 40 ID 0+8myHFo0 156 の費揚古は名将というにはちょっと不足の気が。 オヤジのコネで軍隊司令官になったわけで、個々の戦場でも 目だった戦績(寡兵で大軍を破るとか)があるわけでもなし。 岡田英弘『康熙帝の手紙』読む限り、ジュンガル戦の功績も 「勝つべくして勝った戦」のような気がする。 それを言ったら乾隆年間の征服戦も圧倒的兵力で突き進んだわけで、 個々の武将の力量というのもあまり影響していない。 167 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 03 42 ID 0+8myHFo0 156 の費揚古は名将というにはちょっと不足の気が。 オヤジのコネで軍隊司令官になったわけで、個々の戦場でも 目だった戦績(寡兵で大軍を破るとか)があるわけでもなし。 岡田英弘『康熙帝の手紙』読む限り、ジュンガル戦の功績も 「勝つべくして勝った戦」のような気がする。 それを言ったら乾隆年間の征服戦も圧倒的兵力で突き進んだわけで、 個々の武将の力量というのもあまり影響していない。 168 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 08 07 ID 0+8myHFo0 うわ、間抜けなことに・・・ゴメン orz 清滅亡を下限とするなら、サンゴリンチンは当確と思う。 169 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 22 17 06 ID 4nWwK0O60 現行ルールの時代区分だと1912年までですな。 ただ、英国や仏蘭西の近代軍人と戦った人物を 将とするか軍人とするかは明確にしないといかんの ではないでしょうか。 170 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 22 20 58 ID asB6HySG0 169 >英国や仏蘭西の近代軍人と戦った人物 将でいいんでない? 近代軍人と戦った人物が皆近代軍を率いていたわけでもあるまい。 171 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 25 58 ID bt3urDdg0 奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜に僧格林沁入れて5名。 時間枠の改編を忘れてたから奴児哈赤が(つーか後金)入るかどうか微妙だが、 王朝発足時から選んで良し、とすれば奴児哈赤OK。 確定組五人が揃ったところであとは春秋戦国に戻っての確定決めだが、 その前に新ルール(というか改変ルール)について議論する、ということで諸兄、了解? 172 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 22 31 16 ID asB6HySG0 洪承疇が候補に入ってないのは納得いかないなあ。 173 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 36 02 ID bt3urDdg0 172 略歴紹介して候補入りを宣言すればいいんでない? とりあえず基本ルールに、 「推挙する武将については、その理由を述べること」ってあるし。 174 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 38 53 ID 0+8myHFo0 172 そうだそうだ、なんで洪承疇忘れてたんだろ? てか、結局満洲旗人はゼロになりそうですな。 175 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 22 54 58 ID bt3urDdg0 う~ん、俺が書いていいんかな? 洪承疇 明末清初の将軍。呉三桂の前任。早くから清に降り清朝のためにつくしたが 報われたとはいいがたく、その人生は概して不遇であった。 ・・・こんなもん? 176 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 04 51 ID 0+8myHFo0 洪承疇(1593~1665) 福建安南の生まれで万暦年間の進士。各地の巡撫・総督を歴任し、 陝西の流賊反乱軍を鎮圧し、李自成らを退けた。 崇禎年間に大軍を率いて清軍と対峙するも敗れて清に降伏。 順治年間に大学士となり、華南の征服戦に多大なる貢献を果たす。 南明政権を追い詰めるが、順治18年に致仕。 よく考えたら清に大敗してるんだな。これは大きなマイナスだな。 177 175 2007/01/07(日) 23 08 17 ID bt3urDdg0 やっぱ俺が出しゃばる必要なかったな。余計な真似してゴメン。 178 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 12 50 ID 0+8myHFo0 177 いえいえ、こっちもリロードせず書き込んでしまった。 洪承疇は面白い人物だけど、名将っていうか、政治家っぽい 側面(進士だし)ももちあわせてるんだよね。 それはいいとしても、清に一度負けていることが気になるなあ。 179 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 15 29 ID 0+8myHFo0 175 ところで参考までに聞きたいんだけど、 156-160 は列伝みてまとめているの? 180 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 22 37 ID bt3urDdg0 もしそうだったら漢文自由自在で大助かりなんだけどね。 一応正史列伝も読むけど斜め読み程度。 あとはアジア歴史事典と東洋歴史大辞典から引っ張ってきてる。 列伝2割 自前の記憶2割 辞典からの引用6割ってとこ。 洪承疇の2行は自前の記憶から引っ張ってきた。概要ぐらいはまぁ憶えてるし。 181 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 23 29 29 ID ydEXK/n+0 負けてるっていったら岳鐘琪とかも負けてなかったっけ? 三国~晋の確定組の曹操なんて赤壁とかやらかしてる訳だし 隋唐の李世民も負けてるぞ(部下のせいにしたけど) 182 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/07(日) 23 31 31 ID m3HHxjG40 大功あげて不敗のやつなんかめったにいないだろうしな 183 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 36 48 ID bt3urDdg0 雍正帝のときにジュンガル軍と戦って負けてるね、岳鐘琪。 乾隆帝期に復権、大金川の叛乱を平定して以前の負けを取り戻してるけど。 なにより不思議なのは厳格苛烈な雍正帝がミスした岳鐘琪を殺さなかったこと。 年羹堯とかはあっさり自殺させられてるんだが。 184 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 36 53 ID 0+8myHFo0 180 レスどうも。アジア歴史事典持ってるうらやましい・・・ 自分は北京旅行したときに買ってきた人物事典くらいしかない。 ところで各時代の「確定」って何人までオッケーなの? 余裕があればだけど、 明清で大学士になって北と南で活躍した洪承疇は入れてもいいかも。 185 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 41 11 ID bt3urDdg0 10人以内なら何人でも、と言いたいが基本的にあとで入れ替えがあるから、 まぁ最初の段階では一時代に5、6人じゃない? 一気に10人決めるとあとが苦しくなるし。 186 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 57 48 ID 0+8myHFo0 171 奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜、僧格林沁 では清代の候補はこれ+1ぐらいかな。 誰か候補いませんか?(洪承疇?) ところで阿巴泰が確定になった理由を教えて。 187 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 23 59 28 ID asB6HySG0 176 僧格林沁も反乱軍に敗死してるんだから、 一度くらいの敗戦は大目に見ようや。 188 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 00 00 17 ID k9cHV6vm0 豆腐屋の英雄宋景詩 これも+1候補ですね。 189 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 00 14 35 ID LKoNrYsf0 186 阿巴泰を確定にした理由。 崇徳元年、アジケらとともに明伐戦に参戦、五十六戦して全勝、10城を落とし俘虜10数万を獲る。 ついで5年十月、再び明伐。88城を抜き6城を降し36万人の俘虜を得た。順治元年、饒餘郡王に進められる。康熙十年、敏と謚された。 ・・・いくら弱体した南明相手とはいえ、生涯に五十六戦全勝、しかも96城を陥として50万人近い俘虜を得たんだから、 これはもう破格の名将といって差し支えないと思う。 特に欠点らしい欠点もないし、多爾袞が大本営指揮官、阿巴泰が実戦担当と考えるとちょうどいいのでは? 190 186 2007/01/08(月) 00 16 51 ID k9cHV6vm0 189 こりゃすごい戦績ですね。 納得しました。 191 186 2007/01/08(月) 00 24 08 ID k9cHV6vm0 奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜、僧格林沁 が確定として、あとは洪承疇と宋景詩を推してる人がいるんで、 とりあえずこの7人を清の名将として暫定的ですが決定しますか? あくまで暫定ということで、この先より説得力・熱意のある推薦者が 現れれば話し合うということで。いかがでしょう? 192 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 00 29 23 ID LKoNrYsf0 いいのでは? って俺一人が納得してもなぁ。 息を潜めて趨勢を見守ってる方々、ここは決断のしどころですぞ? 193 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 00 30 28 ID Gyi43SFP0 左宗棠はどうだろう? 誰も名前を挙げていないのが不思議なんだが。 194 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 00 35 21 ID k9cHV6vm0 最初は「近代(1840)以降に活躍したからかな」と思っていたが・・・ どうやら清末に特に思い入れがある人がいないからっぽいw 195 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 00 35 43 ID LKoNrYsf0 左宗棠入れるなら林則徐のほうがよくないか? ただ硬骨なだけの政治家という勿れ、 保守的な清朝にあってポルトガル砲や洋式銃を輸入して 西欧列国に対抗しようとした戦略眼は並々ならぬものがある。 第一次アヘン戦争では見事イギリス軍を撃退したし。 二度目はなかったけどな、さすがに。 196 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 00 38 20 ID k9cHV6vm0 清末は詳しくないんで、みなさんのご意見に従います。 議論をどうぞ。 197 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 00 49 00 ID LKoNrYsf0 196 つーことは、 それはつまり現状の7人確定で清朝の暫定候補決定、 新規(というか追加)ルールの議論に入って良し、ということかな? 前スレ1のルール三条に、新規(追加)ルールを上書きということで。 ちなみに追加ルールは 161ね。 もうひとつ付け加えるなら、 異民族国家や征服王朝の武将はその時代の最初から選抜して良し、という時間枠を設定したい。 198 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 00 53 06 ID k9cHV6vm0 よろしいのではないでしょうか。 そのうち清末により詳しい方も参加されると思いますし。 199 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 00 58 01 ID ccC5uxEZ0 異民族国家といっても、ある意味春秋戦国時代からして 該当する気がしないでもない。 200 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 01 04 16 ID LKoNrYsf0 では皆さん 161を読んで吟味していただきたい。 一人で勝手に作り上げたルールだから無意識的に好きな時代を贔屓してるってこともあるだろうし、 そこんとこを指摘してもらってルールを改定、 五胡十六国、遼、蒙古、後金などの異民族国家、征服王朝の武将がすんなり受け入れられる完成版にしていきましょう。 199 確かに。だから本来中原国家に「異民族」なんて括りはいらんはず。 まぁ匈奴とか柔然とかは別問題として。 そこんとこを煮詰めていきましょう。ぜひとも。 201 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 01 14 30 ID ccC5uxEZ0 中華思想の国を以て中国と為すの? 中国での異民族ってのは、人種ではなく 未開人・蛮族って意味であって、そのため 騎馬民族が異民族とされるんだよね。 それでなければ単純に支配地域で中国 としますか? 202 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 01 15 11 ID k9cHV6vm0 後金、清の異民族武将たちも、中国国内、 あるいは国境付近で中国の武将と戦った人物は すべて候補入りの可能性ありとする。 この場合の「中国の武将」というのは、漢族ではなく異民族も含むんだよね。 たとえば後金の費英東なんかは、同族の女真族(満洲族)との 戦闘で主に武勲を挙げた人物なんだけど。 203 200 2007/01/08(月) 01 16 55 ID LKoNrYsf0 異民族なんて括る必要はない、というのは例えば呉王闔慮。 中原からは遥かに遠く、蛮族どもの国と蔑まれながらも、 春秋五覇の一人にまでなった男。 才能と実力でのしあがった人物の代表みたいなもんです。 後世の異民族がそれを模倣して何が悪い? いや、悪くない(反語)というのが俺の持論。 さぁ、議論しましょう。・・・ちょっと眠いけど明日も休みだ、大丈夫。 204 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 01 26 11 ID LKoNrYsf0 202 もちろん異民族同士の抗争で名を上げた将帥も含まれるはず。 誰と戦ったか、ではなくどれほどの将才があったか、が問題なわけだから。 201 ちょいと乱暴ながら中原に乗り込んだ異民族はその時点ですでに中国武将と称していいかと。 そうでないと五胡十六国の一部の国なんかは中国国内に版図を持ちつつも中華国家ではないとされてしまうので。 とにかく中原国家と対決姿勢をとった時点でその国も中国の一部、と断ずるぐらいの切り口でいいのではないかと主張します。 205 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 01 30 58 ID k9cHV6vm0 現代の中華人民共和国の版図内に過去に都を置き 支那風の国号をもつ王朝、 およびその王朝に直接に結びつく先行政権において、 優れた軍略の才をもち、実際に軍隊を率いて、多くの功績を挙げた人物。 (配下の兵士に慕われればなお良し) という定義はどうだろう。 206 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 01 35 45 ID k9cHV6vm0 205の定義だと、遼も金も西夏も入るし、 元の先行政権ということでそれ以前のモンゴル帝国も含むことができる。 清の先行政権の後金も入るし、 一方で高句麗とかベトナム、新疆のイスラム政権は対象外。 207 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 01 38 48 ID LKoNrYsf0 205 いいですね、その定義。 それなら蒙古→元、 後金→清と繋げることにほぼ問題はなくなる。 (創業期の国家には将才と人望を兼ね備えた人物が多く排出するし) ただ、燕雲十六州の契丹はどうするべきか。 俺が定義した「国境地帯で中華国家と戦い勝利した人物」でいけるかな? 208 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 01 44 49 ID k9cHV6vm0 契丹=遼では駄目なんだっけ? 燕雲十六州って、現代だと中華人民共和国ではない? 209 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 01 45 54 ID LKoNrYsf0 あ、現在の中国の版図だと遼も入るのか。 グレイト。申し分ないですな。これを新規ルールとすることで問題ない? 結構短期決戦で議論終息しましたな。 あとは春秋戦国に戻って、時代ごと10人に増やす、削るの作業だけか。 210 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 01 49 21 ID k9cHV6vm0 えっ、205の定義でいいのかな? まあ、明日以降に他の人にもチェックしてもらいましょうか。 今日は落ちますね。おやすみなさい・・・ 211 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 01 57 39 ID LKoNrYsf0 205の定義が完全であるかどうか他の有志たちにも諮ってもらうとして、 俺も寝ますかね。連休だからといって延々起きてるのも体に悪いし。 212 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 02 00 59 ID ccC5uxEZ0 205の定義だと、古い時代の方に無理が出るような。 好きなこと書いて、俺も落ちるけど。 213 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 02 01 48 ID I2J5S0VT0 そこまでいくと、もう中国の武将じゃあねえよなあと思ってしまう。 遼もモンゴルも後金も、当時の中原王朝からは明確に外国扱いされているんだがなあ。 ここまでの流れは「この人物を入れたいから定義をここまで拡大しよう」みたいに見受けられる。 そのあたりを語りたいのなら「中国で活躍した外国人武将」スレでも立てたらと思う。 214 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 02 23 19 ID AAsiG5VE0 129を書いたものなんだが。 129で書いたとおり異民族武将とか異民族政権だからどうこうと言うのは無いし、 除外はやりすぎだとは思ったが、戻ってきてみると意外な方向に話が進んでて驚いた。 先行政権までとは、ちと無秩序に拡大しすぎなんじゃないか? 129で俺が言いたかったのは、基準が存在するのだから、まずそちらに照らし合わせ、 それに従って粛々と選考を進めようと言う事なのだが・・・。 また、新規ルールを作るにしても数時間で決定では議論の時間が短すぎると思う。 用事や仕事がある人も多いンのだから、最低でも一日位は置いた方がいいんじゃないか。 215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 02 45 58 ID vXfaXOHi0 現在の確定武将 楽毅 (燕) 魏無忌 (魏) ※信陵君 白起 (秦) 李牧 (趙) 王翦 (秦) 韓信 (前漢) 霍去病 (前漢) 衛青 (前漢) 灌嬰 (前漢) 曹操 (後漢) 鄧艾 (曹魏) 石勒 (後趙) 祖逖 (東晋) 王猛 (前秦) 劉裕 (劉宋) 檀道済 (劉宋) 韋叡 (梁) 陳慶之 (梁) 拓跋珪 (北魏) 高歓 (北魏) 宇文泰 (北魏) 楊素 (隋) 李世民 (唐) 李孝恭 (唐) 李靖 (唐) 李勣 (唐) ※徐世勣 裴行倹 (唐) 郭子儀 (唐) 李克用 (唐) 朱温 (後梁) 李存勗 (後唐) 郭威 (後周) 柴栄 (後周) 趙匡胤 (北宋) 曹彬 (北宋) 楊業 (北宋) 狄青 (北宋) 宗沢 (南宋) 岳飛 (南宋) 完顔宗望 (金) ※斡魯補(オリブ) 孟[王共] (南宋) 拡廓帖木児 (元) ※ココ・テムル 徐達 (明) 常遇春 (明) 朱棣 (明) ※永楽帝 戚継光 (明) 袁崇煥 (明) 奴児哈赤 (後金) ※ヌルハチ 阿巴泰 (清) ※アバタイ 施琅 (清) 策稜 (清) ※ツェリン 僧格林沁 (清) ※センゲリンチン 計52名 後漢建国連中が確定してない? ヌルハチは定義によっては外れる? 216 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 06 51 47 ID lvEcNuyCO 205 つまり吐蕃もアリ? 217 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 06 52 18 ID NAKHXe030 どうも文禄慶長の役の明側はそれほど優れた将はいないみたいですね 日本はほぼオールスターな感じなのに 218 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 08 37 48 ID 4IbGAhxk0 203 そもそも当時漢民族というくくりが存在してないし 呉楚越の姓名も中原と変わらないから それを持ち出して蒙古や女真と同じように扱うのはおかしすぎると思うな 日本語と中国語並に根っこから異なる言語を話す人種なんだし 219 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 09 03 35 ID /mQ1WrzGO 217 日本側は秀吉がマジで明を攻め滅ぼし大名にその領土を与えようとしてたから。 明側は朝貢の見返りに金・絹などを与えたり、 領土を侵されたらそれを救護しる義務があるから。 日本は戦時態勢にあったが、明は平和ボケしてたので有能な武将が少なかったのでは? 自国も乱れていたことだし。 220 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 10 10 58 ID iaqH3bh50 遼は微妙かもしれんがモンゴルは明らかに中国じゃないな 後金は・・・遼東はやはり中国の外と認識されていたのか? 221 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 10 24 14 ID wRHn2Luk0 先行政権・・・別段無理はないと思うが。 中国国内で活躍した武将=中国の武将、基本的にこれで問題ないのでは? 確かに清末あたりの西洋から中国にやってきて活躍した武将はスレ的におかしいだろうけど。 あとは春秋戦国時代などの分裂期における新ルールの定義を決めたいと思うが、どうか? 222 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 10 48 18 ID wRHn2Luk0 連投。 モンゴルはないってことはないだろ。 元のフビライからして元来モンゴルの皇族なわけだし、途中で王朝の流れが止まったわけでもない。 中国で活躍した外国人武将スレ、を作らずに外国人武将をこのスレ内に組み込むのが新ルールの眼目であって、 独立した別スレを立てるのは本末転倒。実際異民族武将だけでは数に限りがある。 モンゴルに話を戻すとチンギス時代まで遡ると確かに齟齬が出るかも知れんが、 オゴタイ期以降、金との対決姿勢を明らかにした後なら問題ないのでは? 金に取って代わって中原に王朝を立てようとしたのだから。 214 確かに、煮詰めることなく数時間で新ルール確定、なんて言ったのはまずかったな。 やはりある程度長い時間をかけて、侃侃諤諤の議論にかけることは必須条件だった。批判も含めて。 さて、分裂紀におけるルール・・・どう手をつけるべきか。 223 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 11 16 55 ID wRHn2Luk0 さらに連投。 蒙古と南宋が組んだ蔡州の役が太宗オゴタイの6(1234)年、この時期には ある程度モンゴル帝国の体裁も整ってた。 で、トゥルイの活躍はオゴタイの4(1232)年。伐金戦のたった2年前。 スブタイにいたっては定宗3(1248)年まで生きてる。 正式な元の成立は1260年からだが、その空白期間はわずか2、30年でしかない。 それをモンゴル=斬り捨てとするのはあんまりじゃないか? 言語が違うというならのちの元の名将、阿朮もモンゴル語以外は話せなかったわけだし。 224 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 12 26 16 ID wRHn2Luk0 四連投。いい加減にしろとか苦情が来そうだが・・・ 俺が出てきた時点でみんな退避したのか? 誰もレスしないってことは。 とりあえず、分裂期における名将の定義 将兵を慈しんで慕われ、敵からも尊敬を受けた 成否に関わらず、分裂国家の統一に奔走した 純軍事的に領土を拡大した。あるいは敵から国土を守りぬいた ・・・なんか普通に名将の条件だな、これじゃ。 他に分裂期だけに適用される名将の条件があったらよろしく。 225 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 13 21 58 ID lvEcNuyCO 222-223 元を特別扱いしすぎでしょ フビライは歴としたモンゴル帝国の五代目のハーンだし、元はモンゴル帝国の国号なんだし それに1260年は元の成立じゃなくてフビライの即位だよ 元の成立は1271年(まあ1260年とする場合もあるけど) 226 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 13 29 51 ID WP+RBqbD0 216 吐蕃はシナ風の国号を持っていなかったのでアウトだろ 227 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 13 56 21 ID I2J5S0VT0 221 その新ルール自体に反対しているのだが。 だからそういうことを語りたいのなら新スレを立てればいい。 221で中国国内で活躍した武将といっておきながら理由もなく西洋人は除外と かってに決めたり。はっきりいって、君個人がモンゴルを加えたいためだけに 新ルールを持ち出したとしか思えない。 228 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 14 04 19 ID HPYsMVEr0 227 西洋人除外、はあくまでアジア圏内にとどめたかったから。 西洋人入れると世界史スレになりそうだし。 実際モンゴル入れたくて新ルールを利用してるのは確かだから返す言葉もないのは確かだけどね。 でも新ルールのほうが柔軟性に富むと思うのもまた事実。 前スレでさんざん議論された耶律休哥もこのルールを適用すれば確実に入るし。 229 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 14 21 33 ID HPYsMVEr0 225 元はモンゴル帝国の国号=モンゴルと元をあえて区別する必要はないってこと? だったら嬉しいが、俺の勘違いだったらすまん。 230 121=205 sage 2007/01/08(月) 14 48 35 ID k9cHV6vm0 勝手に定義を提案したものです。 自分としては「中国史」といった場合、モンゴルもキタイもマンジュも 全部含めてイメージしてしまうので、そこの武将を「中国武将」と認識 するのに違和感はないのですが、「中国史」を「支那史」に限定して イメージする人が多いのにも納得できます。 ただ「支那史」に限定すると、じゃあ鮮卑系の北朝隋唐はどうなんだ、とか そもそも「中原」の概念すら時代によって伸縮しますので、ここはおおらかに 205 を提案した次第です。 231 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 15 13 20 ID I2J5S0VT0 230 中国国内に立てられた政権だから問題ないよ>北朝隋唐 民族を問題にしているのではないよ。所属した国籍(これも近代的な概念だがあえて他の言葉が みつからないので)が問題だと言っています。 中国王朝に仕えたモンゴル人もキタイ人もマンジュ人も中国武将でいいと思いますよ。 でも中国政権ではない明らかな外国扱いの国に仕えた武将を中国の武将扱いには出来ない でしょう、と言っているんです。 山田長政は、シャムに仕えた「シャムの日本人武将」ですが、日本の武将だと言えますか? 逆に日本に帰化して幕府に使えたイギリス人三浦安針を、日本の政治家ではなくイギリス の政治家だなんて言えますか? 232 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 15 13 55 ID lvEcNuyCO 229 区別するもなにも基本的には同じものじゃん モンゴルが弾かれるのは、中華王朝の定義の範囲の都合でしょ そりゃ征服王朝かつ世界帝国なんだから定義の仕方によっては中華王朝じゃなくなる 233 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 15 15 22 ID 7I247Mkx0 新ルール完全版を作ってくれた大恩人の登場だ。ひれ伏さねば。 俺一人だったら本当にただモンゴルから数名入れたいだけの案にしかできなかっただろうし、 230氏には感謝してもしきれないものがある。 こっから本格的に議論しましょう。大哥。 234 121=205 sage 2007/01/08(月) 15 19 58 ID k9cHV6vm0 231 後半部分はまったく異論ありませんが、 すいません、「中国国内」「中国王朝」っていうのは、 どこら辺を想定していますか? たとえばチンギス期のモンゴル人武将や、ヌルハチ・ホンタイジ期の マンジュ・モンゴル武将はアウトとお考えですか? 235 121=205 sage 2007/01/08(月) 15 23 13 ID k9cHV6vm0 233 えーっと、賛同してくれるのはありがたいのですが、 自分でも粗い定義(清末の西洋人武将のことはすっぽり抜けてたし) だと思いますんで、あまりとらわれずに議論してください・・・ 236 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 15 40 30 ID 7I247Mkx0 161で新規ルールの荒い版を出したのは俺なわけだが、 まずそれをここに挙げさせていただく。 まずは 121の「中国≠支那で、広い範囲の『中国武将』を選ぶ」を前提に置き、 「中国王朝に籍をおいた人物」ではなく おもに中国国内で活躍した武将、 の中から選出する。五胡十六国、金、蒙古、後金、清の異民族武将たちも、中国国内、 あるいは国境付近で中国の武将と戦った人物はすべて候補入りの可能性ありとする。 選考基準はまず才能ありき。遼の耶律休哥のような境界が不鮮明な武将でも、 国境付近で宋軍と戦った実績があり、実際大勝している実績がある人物は10選入りを認める。 当時の宗主国と国境が直接つながっていない国に関しても、その国の人物が中国本土において 十分な戦功を挙げた(トゥルイの金軍100万人覆滅など)のであれば10選入りを認める (この場合当時の宗主国は南宋より金であろうから、普通に認める)。 …というのが当時の俺が考えた定義。これに追加して 武将はあくまでアジアに限定、基本的に現在の中国領に準拠した土地の武将のみから選出し、 清末の西洋人武将は含めないこととする。 すべての時代からまんべんなく武将を選出する、という基本ルールに則り、遼、モンゴル、後金 など現在の中国領土で活躍した武将たちからも平等に選考する。 これに205氏の定義を重ねればおおかた平等な選考が可能だと思うが、どうか? 237 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 15 44 25 ID 7I247Mkx0 ちょいと訂正。 現在の中国領の武将からのみ ↓ 中国領及び、中華国家に軍事的・文明的影響を及ぼした周辺国家の武将から に変更。 238 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 15 49 15 ID AAsiG5VE0 う~ん・・・ チンギス期のモンゴル人武将に思い入れのある人の気持ちも理解できんでは無いんだが。 じゃあ、マッカーサーや、沖縄戦司令官のバックナー中将は日本軍人かね? もしも警察予備隊や自衛隊に所属したアメリカ人がいたとすれば、彼らは日本軍人かどうかの 検討に値すると思うが。 俺は 231に賛成。 民族によって除外は大反対だが、例えば「中華政権成立以降」といような区切りを設けた方が良い。 「無制限に先行政権まで認める」のは反対。 中華政権成立以降といっても、その時実績のある武将まで含めるか、在籍・存命まで含めるかといった 細かい区切りをどこにするかの話合いには賛成。 その結果、スブタイやトゥルイも入れてよし、となれば候補に入れるべきだと思う。 239 231 sage 2007/01/08(月) 15 53 19 ID I2J5S0VT0 234 あくまで個人的な考えですが。 中国国内>いわゆる秦および漢(西域やベトナムの辺りを除く)の領域かな。もちろん 時代によって変化、拡大しているものですが。チベットやモンゴルは現在は中共の 領土内ですが、だからって過去にさかのぼって中国扱いはできないと思います。 (政治的にはまた別の話) 日本にとっての沖縄や北海道みたいなものですか。 中国王朝>基本はこの範囲に拠点を置いて(首都)支配した王朝、ですか。 ただ侵略王朝は難しい。おおざっぱな考えですが、国号・元号など中華王朝の体裁を 整え、かつ中原を支配できれば中国王朝扱いでもいいかなあと思う。江南の亡命 政権(六朝、南宋)は別ね。 五胡は中国内(長城以南)で国を建てているからOK。遼はアウト。金は少なくとも精康 の変以後(首都を問題にすると海陵王以降になってしまうな)。清は入関以降、後金は アウト。モンゴルはフビライの即位ないし元朝成立以降、フビライの支配下に入った人達。 それ以前のモンゴルはやはり外国扱いかと。 240 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 15 59 30 ID iaqH3bh50 236 宗主国云々の意味がよく分からんのだが チンギス期のモンゴルや後金を入れるということは冒頓やエセンなんかも 入れてもいいってことか? 241 231 sage 2007/01/08(月) 16 02 05 ID I2J5S0VT0 追加。 征服王朝の樹立に貢献した武将は、入れてもいいんじゃないかと思ってます。 例えば精康の変で活躍して中原を征服した金の武将たち。入関以降、李自成を 撃破して中国を征服していった清朝初期の武将たち。あくまで中国征服に貢献 した武将だから、モンゴルだったら金を征服したトゥルイやスブタイは入るが ロシアや中東で活躍したバトゥたちは入らない。 242 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 16 05 29 ID 7I247Mkx0 240 その当時中原を支配していて他国から歳貢を受けていた国。 だから当時は南宋から歳貢を受けていた金が宗主国と考えているが。 243 242 2007/01/08(月) 16 10 27 ID 7I247Mkx0 240つづき チンギス期のモンゴルを入れるとは言ってないよ。 というかモンゴルが国家としての体裁を整えたのはオゴタイ以降で、 それ以前はひたすら征服欲に突き動かされて膨張を続けていた 国家というには少し語弊がある存在だったので。 244 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 16 11 24 ID q3aW16fg0 現在の中華人民共和国の範囲内で活躍した武将。 吐藩・西夏・遼・金も範疇に入れる。 元は、現在の中国国内で活躍した武将。 (ここら辺は知識不足のため、なんともいえませんが・・・) という簡単な定義でいいと思うのですが、駄目なんでしょうか? 元は中国の外から来た王朝ですが、現在の中国が しっかりと組み込まれています。 それで考えれば中国出身か、現在の中国の範囲内で活躍した人 とすればいいのではと愚考するしだいですが? 245 231 sage 2007/01/08(月) 16 22 19 ID I2J5S0VT0 244 その理屈だと、チベット方面で活動したロシアやイギリスの軍人たち、同じく 日清・日露で活動した日本とロシアの軍人たちも中国武将として扱うと? ティムールは拠点こそ離れているが間違いなく現中国領で活躍しているので彼 も中国武将扱いすると?そういやアレクサンドロスもチベット方面まで進出して きていたな。あれは手前で引き返したのだったか?とにかく現中国領で活動して いたら彼も中国武将扱いか? 246 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 16 34 58 ID 7I247Mkx0 せっかく議論が白熱してきたところに水を差して悪いが・・・。 エセンは10傑候補に入れてもいいと思う。相手が放蕩バカ皇帝だったとはいえ、 統率力、戦闘力ともに十分だろ。 ただまぁ、エセン入れるとどうしても于謙を入れる必要が出て、 明の10人枠にそんな余りはないからせいぜい候補どまりだろうが。 247 244 2007/01/08(月) 16 39 50 ID q3aW16fg0 245 1さんが清末など近代以降の軍人は入れないと言ってるから それは暗黙の了解だと思っていたが、すでに白紙の状態? 248 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 16 46 04 ID 7I247Mkx0 1 の基本ルール3条は健在のはず。 俺たちはその上で新ルールを模索しているわけで。 249 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 16 50 41 ID ccC5uxEZ0 247 春秋戦国~漢代あたりの騎馬民族も中国武将扱いするって いうことでもあるんですけど。 250 121=205 sage 2007/01/08(月) 16 50 53 ID k9cHV6vm0 239 レスありがとうございます。 100人というくくりがあるので、やっぱりチンギス期やヌルハチ・ホンタイジ期の 武将は100傑からは外して、「参考武将」にとどめておいたほうがいいかも しれませんね。 246 「支那風の国号をもつ王朝に仕えて」という条件を入れたらどうでしょう? 247 このスレで言う「近代以降」は「1840年以降」ではなく、 清滅亡(1912)までを指すらしいですが・・・?
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1 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 43 46 ID sOfSQEo90 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:2006/11/14(火) 13 26 14 ID cwVjzMAO0 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの 評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。 ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。 前々スレ 【みんなで】 中国名将百選 【決めよう】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163478374/ 前スレ 【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/ 2 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 44 28 ID sOfSQEo90 時代区分 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 3 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 45 31 ID sOfSQEo90 これまでのまとめ 春秋戦国 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 統一秦~前漢 【確定組】 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰 【候補】 劉邦、曹参、彭越、鄭吉 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、曹操、皇甫嵩 【候補】 岑彭、樊崇、馬賢、周瑜 三国~両晋 【確定組】 鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 4 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 46 36 ID sOfSQEo90 まとめつづき 漢字が?になっている奴は誰か補完頼む 五代~北宋・遼 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥 明 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮国勝、張輔、張士徳、馬芳 清 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン)、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 5 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 48 06 ID sOfSQEo90 前々スレより、考慮する武将について 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18 47 07 ID 1kk6Cs2h0 5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。 それはともかくとして… 中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、 中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか? 南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。 その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。 また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。 でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。 漢民族だけが中国人ではない! で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。 高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。 そんなところでどうかな? 田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。 6 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 49 05 ID sOfSQEo90 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18 57 59 ID yxgR08jb0 とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか? いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 00 31 ID jchs3O4hO 中原指向を持つかどうかで分けた方がよい 渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど 支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない 金や清は歴とした中華王朝 要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ 契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん 逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 12 30 ID 1kk6Cs2h0 9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ? 趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 7 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 50 03 ID sOfSQEo90 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 28 22 ID 2mD79BmXO 9 でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか? (モンゴルは現地の兵をよく使うし) 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 35 28 ID yxgR08jb0 10 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 37 28 ID 1kk6Cs2h0 12 名前に抵抗あるわなw 耶律とか述律とか完顔とか… それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな… 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 43 36 ID yxgR08jb0 13 ただ抗金というジャンルがあるからね。 他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。 先入観かな? とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか? 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 20 31 35 ID jchs3O4hO 中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト 郭侃は中国戦線の功績だけ評価 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 21 39 04 ID yQpFrdGM0 所属国家というか王朝で判定するという手もある。 まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。 で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、 とか(これだと遼は除外だな)。 さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。 8 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 12 13 36 ID K6Fq4ny8O 前スレで◆RQdk7scN8sが周瑜を無理に入れようとしてないのなら別にそれには文句は言わないよ。 なんかバランス重視を理由に周瑜を無理矢理ねじ込もうとしてる様に、 個人的に感じたから、意見を述べただけだ。 9 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 12 38 48 ID Q6XBSgl40 1 乙 10 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 12 54 20 ID 1WdYJG3r0 1 乙 宇宙代将軍ワロタw 11 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 24 13 ID 3XMnymf40 1 乙っす このシリーズは盛り上がりますねえ、もう3スレ目ですか。 12 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 49 16 ID 4IdRe7Ru0 このスレって最終的に100人決めたら終了? それとも100人決めてからが本番でそっから入れ替え議論していくの? 13 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 55 06 ID Q6XBSgl40 過疎化したら終了でいいんじゃね? 入れ替えしないと枠多すぎ少なすぎな年代もあるだろうし。 14 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 14 13 47 ID R2QbPteI0 1スレ立て、乙 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、曹操、皇甫嵩 【候補】 岑彭、樊崇、馬賢、周瑜 となっていますが大軍を率いていたなどの異議が出ている皇甫嵩を落し、 岑彭、馬賢を確定入りとすべきかと思います。 樊崇は無理に外す理由が無いので確定入りでいいと思いますが、 諸兄いかがですかね? 15 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 14 33 48 ID TF77q+PQ0 一つ提案がある。 戦史において重要な会戦から逆算して名将を選出するのはどうだろう? 確かに決戦を回避して数と勢いで押しまくるのが最善ではあるが、誰もが万全の条件で戦える訳ではない。 一戦一勝でも賭けられた覇権次第で百戦百勝に匹敵すると考える。 「一発屋」を無条件に軽視する傾向があるようだが、一発で片付けられない実力だから連戦をする羽目になる面も考えた方がいい。 前漢については、灌嬰。 劉邦配下の部将で最も優秀なのは否定しないけど、彼の仕事は周勃や曹参で替えが利いてしまう。 戦略的には劉邦、項羽、韓信の三人以外に楚漢戦争では百選入りの候補はいないだろう。 何故馬上で天下を取った将の将、劉邦が候補止まりなのか? 負けが多いといっても相手は項羽で立ち直りは怪物じみてる。 劉邦の本隊が正面対決で膠着状態にまで持ち込んだことをもっと評価するべき。 もちろん単に韓信の兵を奪っただけとも言える。そんな無茶が出来ること自体凄い。 そして、そんな舐めたことをやられても勝ち続ける韓信は神としか言いようが無い。 後漢については、新末後漢初に多すぎと言われるが、実際何の面白みも無いほど異常に厚い層で圧勝した陣営なのだからそれも已む無し。 周瑜は赤壁を何度も行われる南北戦争の先駆けとして重視するなら入れるべきだろう。 皇甫嵩は確定でいい。黄巾の乱は後漢に事実上のトドメを刺した戦役。 後漢末は序盤の序盤を皇甫嵩、序盤から終盤まで曹操、終盤の終盤を周瑜で。 16 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 15 31 15 ID DSPHlkDY0 戦略的に考えたら彭越の替えはいないけどな 劉邦の怪物じみた立ち直りは韓信の精兵を大量にかっぱらったから 17 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 15 42 11 ID 3XMnymf40 12 まあ、百人を決めること自体より、こうやって議論して盛り上がるために、 やっているようなものですから。 とりあえず百人が決まったとして、まだ議論の需要があるなら、 続ければいいかと。 18 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 15 46 49 ID jhdIx4wjO 百選を決めた後は、その中からさらに十選を選抜したり、最強を決めたりと議論出来ることは色々あると思うよ 19 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/07(水) 16 54 53 ID Ou6gNASC0 1 乙です。 8 特に文句を言われたとは捉えてないよ。 まぁ、軍事勝利はそのときの状況でいくらでもかわるので、勝利の多い人間は追い風に乗っているなんて、そういう捉え方も一方でできたりする。 そのへんの判断はかなり難しいし、政治思想から立地条件、経済状況、政治的背景にその勢力の団結力相互協力など、いろいろな要素が絡んでくる。 そこまでつっこんで考えると気が狂いそうになるから、大体の時代から選出すれば、「時代に則した名将」というのが選ばれるかな? というのが、持論みたいなもん。 楚漢の時代に活躍したからといって、じゃあそれが隋唐期にも活躍できるか? と言えば、ここの人なら、それは一概に言えないという程度の識見は持ち合わせているはずだから…(最強スレではそれでもできると言ったお方がいらっしゃいましたが) できたら区分時代ごとに選出するのがベターであると思うわけです(光武陣営贔屓にしていたくせによく言うよな)。 20 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 19 35 56 ID maUver7h0 春秋に小白入れるのは駄目か? 21 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 19 49 29 ID 6H+B1Mzh0 前回散々に議論していながら最後が曖昧に流されてしまった「中国の武将」の定義。 ①清滅亡(1912)以前の武将であること (いわゆる制式軍隊の軍人は不可) ②現中華人民共和国の領域内に都を置き、 支那風の国号を持つ王朝に所属して、活躍した経歴であること (王朝の樹立に貢献した場合は可、先行政権治下のみの活躍は不可) ③実際に軍隊を率い、軍略に優れ、多くの戦功があること (配下の兵卒に慕われていればなお望ましい) 個人的には、この②から「中華人民共和国」の範囲を変えてくれれば問題なく 大賛成なんだが。 22 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 21 00 50 ID PJ9fL7Jm0 19 ◆RQdk7scN8s さんは適度に改行してくれないかな 前スレから見づらくて仕方ない 23 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 21 42 05 ID sKd+eUbE0 20 なら、とうに晋文が入ってる 24 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 22 52 18 ID K6Fq4ny8O 15 >劉邦配下の部将で最も優秀なのは否定しないけど、 灌嬰の仕事は周勃や曹参で替えが利いてしまう。 そうかな?じゃあなぜ途中参加の灌嬰を重用したんだ? 灌嬰は元は商人であったが軍事的才能があり、別働隊となったり、 秦以来の騎馬隊を任されたり、匈奴も打ち破っている。 また、一人で多くの山賊を討ち取ったという話もあり、洛川の灌嬰と呼ばれたていたんだぜ。 曹参はどちらかと言えば猛将タイプだし、周勃は実直型だしな、 灌嬰とは明らかにレベルが違うじゃないか。 それに周瑜の替えには魯粛がいるじゃないか。 劉邦は人を使いこなすのは超一流だが武将としては凡将だろうな。 劉秀・李世民・趙匡胤 みたいに自身が戦も上手なら話もわかるけど、 膠着状態にまで持ち込んだと言っても、 韓信、彭越の活躍が有ればこその話だろ、違うかな? 農民から皇帝に上り詰めた偉人としては高く評価するけどな。 「一発屋」についてだが俺はここでそう扱いを受けてる武将って一発屋とは思わない。 実力が有るから抜擢され、きちんと結果をだしたんだし、 その功績により高い地位に就いた為、 戦線に復帰出来ない、もしくは早死にしたりした人物が多くないか? むしろ過少評価されてる気がする。 一発屋って実力が無いのにマグレ当りした奴を言うんだろ。 でも周瑜の確定入りには反対。 25 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 22 59 27 ID CCE2+zas0 24 一発屋は一度や二度の勝利以外は、 大して戦歴の振るわない武将のことだと思う。 26 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 23 12 00 ID K6Fq4ny8O 大して戦歴の振るわないのでは無く早死になどの諸事情では振るうに振るえないと思うが・・・ 第一、実力の無い武将を抜擢するのもおかしな話だし。 27 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 17 19 ID C7omL+dn0 灌嬰が重用された理由は、絹商人時代に西域へ騎行した経験が あり、そのため騎馬部隊の将として起用されたのが契機ではな いかと推測されるな。 それとは別に、周勃や曹参より長く前線の将を務めたのは、こ の両名が灌嬰より戦功を挙げすぎていたために、前線で戦闘に 従事することが無くなっていたことと、灌嬰は前線指揮官に留 めておく程度の戦功と評価されていたとの見方も出来る。 26 実力の無い武将を抜擢して大失敗してるケースは割と多いじゃ ないですか。 28 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 22 40 ID PidaTmUO0 ここでいう「一発屋」の多くは、天下の趨勢をひっくり返しているにもかかわらず なぜか過小評価されているんだよねえ(周亜夫、周瑜、謝玄、于謙、王守仁等々) 何度も言っているが彼らが存在したからこそ、討呉戦役や北宋滅亡、永楽帝による簒奪のような一方的な事態を 防ぐことができているのに、曰く「実績が足りない」と その実績を、スマッシュヒットかミリオンヒットか見間違えていないかい? 周瑜を擁護させてもらえれば、 六朝時代に、華北政権によって荊州(長江上流)を押さえられていた建康政府が、南征されたケースで唯一 華北政権の天下統一を頓挫させている武将なんだがな (ほかのケースは、杜預による討呉戦役、江陵陥落を受けての北周~隋の平陳の役) 実は謝玄(東晋)あたりは荊州をある程度抑えていたから、華北政権に牽制が効いたが 周瑜以下のケースでは、選択肢が絶望的に限定されている 曹操の拙速も、杜預のケースを考えれば下策とは言えまい これをひっくり返した周瑜は六朝屈指の名将と言っても過言ではないんだが 29 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 28 50 ID 6lZjpVDb0 岑彭、樊崇、馬賢、皇甫嵩、周瑜から三人を選べということだね。 論点は①時代ごとのバランス ②実績、功績 ③卓越した指揮力、戦術 ④果たした歴史的意義 の大きく分けて4つだ。こうなれば満たしている数で比べるのもよい 岑彭②③ 樊崇②③④ 馬賢①② 皇甫嵩①② 周瑜①④ この選定にも、異論はあるだろうが、やはり樊崇は確定に戻すべきだと思う。 また、馬賢は③④もかなり満たしている。馬賢を推すことにしたい 岑彭、皇甫嵩、周瑜の残り一人は難しいが、史書の評価から(歴史者の評価などあてにならない というむきもあるだろうが当時の人々が直接、その人物に接して感じたことを反映していること が多いので無視はできない)絶賛されている岑彭を推す。(逆に皇甫嵩はそれほど誉められていない ので落とす) 結論 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、岑彭、樊崇、班超、馬賢、段ケイ、曹操 でどうだ?周瑜は張遼、劉備、孫策、呂蒙などと比べられ、少し見劣りがすると思う 歴史的意義は認めるが、曹操が赤壁に勝ったからと言って、統一政権を長期間に渡り 維持できたとは限らず、光武帝と並ぶ名声を得たかといえばかなり疑問。 (さらにいえば、赤壁に勝てたとしても、孫権軍閥や劉備軍閥が城塞や地形を利用し、 少しずつ押していきながらも、何回も撃退されるという南北朝状態になったことも否定できない) また、不利な水戦を挑んだのは曹操の減点で周瑜の加点にはなるかは微妙 歴史的意義をいったら、劉備などは蜀地方に独立政権をつくる先駆者ともいえるし、きりがない 面もあると思う。確かに惜しいし、バランスも悪いが以上の点で周瑜を外したい 30 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 23 33 32 ID jhdIx4wjO 赤壁の勝利は、曹操軍の間で疫病が流行ったという一因もあるし、 曹操軍の損害はそれほど大きなものでも無かったらしい。 まあそれでも周瑜は充分名将だとは思う。 31 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 48 03 ID tHcWFBrg0 西晋vs呉や隋vs陳ほどの絶望的な国力差は曹操vs孫権のときにはまだなかったろう 32 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 01 30 ID VZb5pAHF0 29 公孫述のことを少しでもいいから、思い出してあげてください…… 蜀地方独立政権 まあ、岑彭は公孫述に対しては、終始圧倒していたけどさ(暗殺される直前までは) 31 当主暗殺されるわ、未だ異民族問題を抱えて揚州すら押さえてないわ 当時の孫呉は末期や陳と比べてそんなに良い状態とはいえない 曹操は華北をほぼ制圧して、荊州を無傷で(劉備と言う小骨が喉に引っかかっていたが)奪取し どう考えても「詰み」の状態 勢いを考慮すると、統一前夜を絵で書いたような状態 これに決戦をふっかけて、一気に三国鼎立に持っていった(頓挫した)手腕は紛れも無く名将 公孫述が光武帝政権に正面決戦挑んで、涼・益・関隴を確保して 東西並立する体制に持っていくようなもんなんだがね 結果を知っている後世の人間から見れば、荒唐無稽なif歴史でしかないけれど 33 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 14 04 ID jKfMQl0l0 華北の生産力自体が、曹操のときと鼎立を経てある程度安定した 晋や隋とでは大違いじゃないかな といっても周瑜が名将というのに異を唱えるわけではないんだが 34 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 20 07 ID IOy77Z+U0 そもそも周瑜の戦法自体が先に地の利、戦機を制して戦略戦術的に詰みに入った後に力押しで勝つ っていうパターンで、赤壁でも江陵でもこの軍事運用で勝ってる 戦だけ見たら確かにパッとしないあたりはここら辺に起因すると思う 35 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 35 07 ID 39XMAbZw0 33 江南は開発が始まったばかりで相対的に見て、江南の方が悪かったのかもしれない 別に周瑜を擁護しているわけではないが。 36 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 50 15 ID wgMBPAB90 35 荒れる中原を避けて(気候変動説も聞いたことある)南部に流入してる時期だから、それ以前に比べると相対的に上、 まだまだ南部開発の走りの時期だから、後年に比べると下って感じかな?…改めて言うまでもないことならスマン。 37 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 01 32 49 ID IOy77Z+U0 流入っていってもどれほどのもんか怪しい気がするが 淮南は袁術に荒らされ、その後は曹操に獲られてるし 人口激減つったって、戸籍調査出来なくなっただけな面が強いし 華北の動員実数が激減したわけじゃない 38 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 02 41 36 ID r95naShF0 曹操陣営が、赤壁で崩壊してれば 周瑜の評価ももっと上がってたのかな? 赤壁の敗戦でも、多大な被害をださなかった 曹操が凄いのだろうけど 赤壁が曹操の勝利で終わっていれば 曹操の代で天下統一されただろうし 歴史を変えた周瑜は10選に入ると思うけど 39 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 02 55 09 ID GPHfUq1S0 37 戸籍調査が出来なければ動員はできない。人口統計ってなんのためにするか判ってる? 38 謝玄のヒ水の戦いのように、その勝利(敗北)によって政権崩壊のきっかけを与えたって ほどでもないしねえ。 40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 03 25 23 ID IOy77Z+U0 戸籍調査で居なくなった人はどこへ行ったか? 豪族の私物になったに決まってるじゃん で、軍隊って豪族の私兵の集まりだよな?後漢末 41 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 06 16 52 ID f972XC3qO 29の言ってるのが一番妥当な答えかと・・・ 俺も周瑜を外し岑彭、樊崇、馬賢を確定入りでいいと思う。 確かに周瑜は赤壁で勝ったが別に曹操が衰退、滅亡させるほどでもなかったし、 逆に曹操が衰退、滅亡していれば文句無く確定入りに出来るのにな。 29の言ってるのが一番妥当な答えかと・・・ 俺も周瑜を外し岑彭、樊崇、馬賢を確定入りでいいと思う。 確かに周瑜は赤壁で勝ったが別に曹操が衰退、滅亡させるほどでもなかったし、 逆に曹操が衰退、滅亡してれば確定入りに出来るのにな。 昨日言ったが赤壁で功績を周瑜だけに還元し過ぎな感もするし・・・ 42 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 06 19 35 ID f972XC3qO ↑スマン変な書き込みになってるな・・・orz 43 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 13 49 55 ID wgMBPAB90 周瑜は「実績・功績が不足し、卓越した指揮・戦術力があるとは言えない」レベルなのか… 44 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 16 07 15 ID HUKYyGrD0 43 他の候補と比べれば、明らかに見劣りする。 45 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/08(木) 16 43 01 ID 5R+sEqky0 41 「相手を衰退、滅亡させるほどでもなかった」って、それ防衛戦で活躍した連中の大半が落ちそうだな。 春秋戦国や南北朝期、五代などの分裂期の特徴である勝ったり負けたりは、あんまり評価できないということかな? 46 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 17 22 09 ID t57X4TwOO 曹操じたいが弱いイメージがあるなあ 47 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 17 23 23 ID JH64p7KFO 46 どこまで話を戻す気だよw 48 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 17 26 26 ID t57X4TwOO 47 スマンねw いや抗金名将の金や元と比べるとって意味ですた 説明短かすぎたね 49 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 17 32 11 ID IOy77Z+U0 その理屈だと賊征伐とかの武将や内乱征伐なんかの武将は 軒並み自軍の方が質の良い武装、練兵をしてる訳で評価出来ないと言えないか? 50 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 17 39 28 ID t57X4TwOO そんなつもりはないよ 天下とった人だって昔は賊からや内乱から、反乱軍からのしあがったりするし 質のよい武装や錬兵をいくら頑張っても率いる武将がだめなら意味ないし 51 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 18 26 35 ID f972XC3qO ◆RQdk7scN8sさん 38の曹操陣営が、赤壁で崩壊してれば 周瑜の評価ももっと上がってたのかな? 及び 39の意見が俺の考えと被る訳で、周瑜の功績自体はちゃんと認めているし、 春秋戦国や南北朝期、五代などの分裂期の特徴である勝ったり負けたりは、 あんまり評価できないとは、別に言ってない。 つ 俺の拙い日本語に過剰反応しないでくれると助かる。 52 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 18 39 42 ID wgMBPAB90 周瑜の活躍は如何せん範囲が狭くて期間が短いのがネックだよなぁ… あれで蜀占領まで成功させてたら文句は出ないだろうけど、あそこで死んだ以上落とされて已む無しかと。 53 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 18 51 31 ID GPHfUq1S0 ただ、死んだのは負けて戦死とかではないから、そうそうマイナス材料とするのも酷では? 活動期間が短いといっても、孫策挙兵以来の十年以上の実績はあります。 一発屋という評価もあるが、それは有名な戦いが少ないからで、少なくとも若くして司令官 を任じられるだけのそれまでの功績があってのことでしょう。 54 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 18 58 17 ID lPV6jmJG0 赤壁で曹操を撃退して、その後1年かけて曹仁守る要地江陵を攻略し孫権の勢力下に置いたことは評価してもいいと思うけどね。 正確には外交の問題から劉備に貸与してはいるが。 55 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/08(木) 19 12 26 ID 5R+sEqky0 51 いやぁ、過剰反応したつもりはないから、きつく言ったように聞こえたらすまなかった。 ただ、どうも政治背景を無視というか軽視して、表面上顕れた戦績だけで語ってるような気がしてね。 ま、前からも言ってるように周瑜は候補待機でいいとして、そろそろ次に行きましょうか。 三国以降を待ちかねている人もいるだろうし。 56 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 19 45 27 ID f972XC3qO 55 別に政治背景を無視というか軽視して、表面上顕れた戦績だけでなんかで語っていませんが。 俺は俺なりに総合的に分析をした上で語っているつもりだけど・・・ まあ拙い日本語で語っているんで上手く伝わらないのかもしれないな・・・orz 57 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 19 49 00 ID IOy77Z+U0 拙い拙い煩いなぁ…… 本当にそう思うならもうカキコしなければいいじゃん 58 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 01 49 ID GPHfUq1S0 29 少なくとも周瑜には②と③もあるとおもうが? 赤壁までの実績・功績があったからこそ若年の周瑜が総司令官となることに先代からの 旧臣たちも認めたのだろう。③については人によって評価はかわるだろうが、曹操軍の 弱点を正確に認識して対応したのは戦術眼のなせるところでしょう。 で、現状は 【確定】 劉秀、馮異、耿弇、呉漢、樊崇、班超、段熲、曹操 【候補・議論中】 岑彭、馬賢、皇甫嵩、周瑜 でいいのかね? 個人的な推薦は、功績で岑彭と周瑜、バランスを考えたら馬賢と周瑜かなあ。 59 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 17 53 ID wgMBPAB90 53 「落とす」は評価を下げろっていう意味じゃ無くて、百人から落ちるってことね。紛らわしくてすまない。 その10年の実績、全部丹念に洗っても、 孫策の部下として6年、一応この転戦の最中、地位からして軍中の主力だったと思われる。 孫策死後になり、指揮官として砦二つ落として一万人捕虜、後に黄祖の部下を迎撃して生け捕り。 黄祖討伐について前部大督だった周瑜が実質的な指揮を取った可能性もないわけじゃない。 そして赤壁で曹操、江陵で曹仁・徐晃らから勝利。 これで精一杯なんだよね。この前半だけでも孫策死後当時の呉将では司令官に選ばれるのには十分だし。 44に言われたように、歴代の名将と比べてみるとどうしても見劣りするのは否めないかなと。 せめて最初の六年間にも周瑜の采配の冴が見れれば大分印象も違ってくるんだろうけど、残念ながら見当たらない。 60 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 34 20 ID HeLRo5Eo0 とりあえず、新末~後漢はこれでひと段落つけてもいいでしょ まだ、春秋戦国、秦漢も確定したわけじゃないし 個人的には、 58と同意見 明確かつ画期的な功績を残している馬賢、周瑜を推す と言うか、岑彭って堅実な用兵と大胆な奇略を併せ持った良将ではあるが 決定打が無いんだよね、秦豊を討伐したぐらいか(隗囂・公孫述戦では結局勝負ついてないしね) 劉邦でもできそうじゃねえ?と思うよ、実際 活躍期間の短さも、周瑜とどっこいどっこいなのは誰も突っ込まねえし(正味十年ぐらいか) あと、一軍の将としては軽率すぎる 兵の人気取りも重要だが、やっぱ暗殺される伏線は彼自身に起因していたとしか思えない (結局、公孫述討伐を遂げられなかったんだからマイナス評価にしないとアンフェア) 61 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 35 05 ID DBIxn+vG0 赤壁の戦いって、曹操軍は、疫病や兵糧不足に悩まされたことも あり許都に引き返した。 曹操配下の武将の戦死・戦傷が皆無で、その後の曹操が莫大な 費用のかかる銅雀台を建設をしいることから、実は大きな損害を受 けていないとも言われるのは、どこまで信憑性があるんだろ。 取り方によっては、曹操の自爆にも見えるのだがな。 62 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 20 51 34 ID /kTa3KNXO 61 疫病に悩まされたという時点で十分被害は受けているわけだからそれは妄言でしかないがな 曹操は赤壁後軍事的には丸一年以上動いておらず、孫権・劉備が荊州を切り取るのを放置している 後の事を考えたら、赤壁で大した被害も無かったのに孫・劉を放置したのだとしたら赤壁以上の戦略的な大失策 動きたくても簡単には動けないくらい打撃を受けたと見るべきだろう 63 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 21 09 47 ID DBIxn+vG0 62 その書き方だと、曹操軍にで損害を与えたのが周瑜なわけでは ないし、赤壁後に曹操軍にが病の影響から脱するために1年以 上かかったとし読みとれます。 あくまで、周瑜が挙げた戦果が問題なのだと思いますよ。 64 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/08(木) 21 19 15 ID 5R+sEqky0 62 戦勝というと、とかく誰それを撃破したとか、何万人大破したとかにとらわれがちだけど 思うに、その戦いで後に相手に軍事侵略を許さず、外に対しては強固な構え、内に対しては結束の強化など そういった、戦術だけでなく戦略、政略で大きな効果をもたらした戦い、そのときの将帥というのが、名将の解釈のひとつでもあると思う。 もちろん、鬼のような戦績を残している、陳慶之や岳飛のようなのも、また違ったかたちの名将でもある。 曹操が仮に打撃をいうほど受けていないにしても、容易に南征できない印象は与えたはず。 そのとき、孫権軍閥を代表した将帥はというと… となるかな、とは思う。 あと 60 岑彭も戦歴は短いとはいうけど、光武陣営は総じて短いし、もっと短いのがカオスな分裂期には多い。 分裂抗争のときは、味方陣営での足の引っ張りあいが多いから、戦功たててもすぐ讒言受けたりするし。 65 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 21 35 56 ID HUKYyGrD0 60 前線に出て戦死したというわけでもなし、 暗殺されたというのは、将才や武勲とは関係ないと思う。 66 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 21 59 58 ID 39XMAbZw0 65 岑彭応援派の自分でもそれは違うと思う。事故ではなく、公孫述の計略として暗殺が 計られたのであって、やはり暗殺されたのはマイナスだと思う。 (前任者も暗殺されているし、無防備すぎる) 暗殺により、せっかくの任務を果たせずにいるし、部隊を全滅の危機においやった。 これは減点になると思う。 ところで、馬賢は確定、皇甫嵩は落選でいいかね とすると現状は 【確定】 劉秀、馮異、耿弇、呉漢、樊崇、班超、馬賢、段熲、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 かな? 十人目を空席にして、この二人の論議をおいて、先に進んでいいかも知れない 67 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 22 00 02 ID U8QfliXG0 暗殺は相当マイナスでしょ。戦死よりはましだけど。 68 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 05 29 ID wgMBPAB90 61 63 じゃあ何で曹操は疫病に悩まされるハメになったのか?といえば真冬に湿地帯で大軍が身動き取れなくなったからで、 じゃあなんで身動きとれなくなった?といえば渡るより先に対岸を押さえられ、 先鋒を送り込んだら水上戦でボコボコにされたため。大軍は危なくて動かせない(致命的な大敗に繋がる) 周瑜は戦前から「真冬に湿地帯に長く布陣するようになれば、絶対病気が流行る」と予想した上での行動だった。 赤壁に関してはまさしく「周瑜にハメられた」と言って良いと思う。 ちなみに「じゃあなんでそれでも曹操は留まったのか?」というと、 実は呉は重臣が軒並み降伏派だったり、司令官の周瑜と程普が不和だったりと、かなり不安定な状態。 大軍で圧力をかけ続ければ内部から崩壊するんじゃないか?っと思ったんじゃないかと推測。 黄蓋の偽装投降はそういう意味で「待ってました」だったのかもしれない。 60 単純な長さというより具体的な量の差じゃないかな?周瑜はそれがイマイチ。 転戦の経緯が細かく判れば評価しやすいし、規模や範囲が大きければ客観的な目安・良いアピールになる。 69 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 22 07 50 ID HeLRo5Eo0 65 岑彭が敵を降すために、単身説得とかしようとした故事や 兵隊達からの信頼が非常に厚かった話を考慮すれば その大胆さ、下々に対する大らかさは名将候補の中でも屈指のもの しかしながら、暗殺の前科がある?(来歙の件ね)公孫述攻略に際して あの脇の甘さは致命的(大胆さと大らかさが、ともに仇になっている) 「万が一」を考えれなくて、公孫述を延命させてしまったのは武将として致命的ミス 友達にはなりたいし、上司として仰ぎたい人物ではあるが、将軍・軍司令官として評価すれば 「無駄死に」「犬死」だと思う 70 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 43 48 ID kCQcGJGzO 暗殺されるまでは快進撃を続けていただけに、あっさり命を奪われたのは惜しいね。 公孫述も岑彭を生かしておけば、呉漢から一族皆殺しにされずに済んでただろうに。 71 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 46 08 ID grX51/GL0 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、樊崇、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、馬賢、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 で取り敢えずいいですか? 三国~両晋に移るということいいですかね。 72 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 47 31 ID grX51/GL0 取り敢えず貼っときます。 三国~両晋 【確定組】 艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄 劉淵、劉聡、冉閔 73 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 01 08 ID HUKYyGrD0 67 それを言うなら、確定の馬賢だって戦死してるじゃないか。 最期をまっとうできなかったからといって、 生前の将才や実績を否定するのは良くない。 69 それは個人の性格の問題であり、 将としての実績とは関係ないと思う。 71 まだ次に移るのは早いんじゃないのか? 後腐れないように、今のうちに後漢は議論を詰めておいたほうがいいと思う。 74 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 23 04 45 ID /kTa3KNXO … 75 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 09 44 ID /kTa3KNXO 73 横からだけど、暗殺されたこと自体が問題なんじゃなく、 ・来歙も殺られてたのだからより配慮すべき ・暗殺によってその後の漢の軍事行動に悪影響が出たんだから、暗殺にはもっと慎重であるべきだった といった点を、時に臆病なほど慎重であるべき将としてはマイナスだと言ってるんじゃないかな 76 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 11 13 ID /kTa3KNXO 74は間違えて送信した ごめん 77 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 18 22 ID HeLRo5Eo0 73 多分後腐れるだけだと思うよ うん、性格の問題といった理由で作戦行動の頓挫をスルーされたら、議論にならないからね で、やっと三国~両晋か 曹操がいなくなった今となっては、石勒の一強になってしまった観がある 候補勢の再議論必要だな 78 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 22 44 ID f/F+9QoJ0 司馬懿は候補に入ってないの? 79 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 29 49 ID U8QfliXG0 75 そのとおりです。 80 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 32 25 ID L+cjmUG30 ぶっちゃけ、正史の知識は全く無いけど、陸遜はだめなん? 81 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 00 17 00 ID cAm3cVvu0 鄧艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪の七名はそのまま確定でいい気がするな>三国両晋 つか慕容垂が未だ内定で慕容恪が論争にしか居ないのはどうかと思った ただ、燕から二人って言うのがバランス悪く感じるのも判らなくはない 82 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 00 21 13 ID bSJ7SzSmO 桓温も確定でいいんじゃないかな? 83 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 00 31 10 ID Pq+tYknw0 皇甫嵩はあまり本人の議論をなされないうちに確定組に入り、そして落選した感があるな。 擁護したいんだが、俺のごときはマンセーな後漢書の伝をネット上でよんだことがあるだけだしな・・・ 84 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 01 53 58 ID cAm3cVvu0 劉曜←石勒←祖逖←石虎←慕容恪→冉閔 桓温←慕容垂→拓跋珪 ↓ 姚萇←慕容泓 慕容兄弟は十六国の食物連鎖の頂点に居るw 粗探しをしても粗がないのは慕容兄弟と王猛かな?この3人は不動 劉曜、石勒、劉曜、石勒、祖逖、石虎、冉閔、桓温、姚萇はそれぞれ負けてる相手がいる 鄧艾は国力差、陶侃は北伐成績が無い、謝艾は相手がヘタレ麻秋、謝玄は一発屋(北伐が失敗) 李雄は将軍というより政治家(というか成漢って宗教色強いし、一慨に戦強さで成立した国じゃないので比較しづらい) 劉親子はどこまでを本人達の軍功に当てるか この辺りが各人のスネになるだろう 85 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/02/09(金) 04 37 12 ID lZUOEAd20 80 密かに軍歴は長いけど前半が山越討伐で 後半は対魏戦で目立った戦績が無いので大々的に名将扱いするには抵抗がある。 86 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 07 47 01 ID 0s53FtN50 81 慕容恪も慕容垂に劣らず優れた将だよね。 知勇兼備で政治力に優れた名宰相でもあるし。 78 あのさー何度も指摘されてるけど推薦文なり戦績なり挙げればいいじゃん。 入る、入らないはまずそれからだ。 87 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 11 22 11 ID OSleyQaN0 >仲達 孟達、公孫淵といった凡夫には異常に強いけど、 孔明や陸遜のような半名将には大した手出しが出来ないというのが何とも… 彼が凄いのは局地戦で勝ちきれないと見るや、兵站を整備して戦略の次元で自軍が負ける要素をゼロにした点。 まあ、大軍になるほどキレが鈍る曹操とは正反対のタイプだろう。 追撃が下手なのもなw 88 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 14 22 58 ID igvrdi3iQ 周瑜一票 彼がいなければ三国志が無かった 89 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 14 58 17 ID 1uiJCajv0 林彪一票。 90 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 18 46 19 ID ZgSZDhZVO 88 魯粛が十分代わりを果たすと思うけど。 91 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 03 02 ID eCqI0NxI0 90 魯粛は将軍としては呂岱あたりにも劣る感じですが… 92 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 05 21 ID hywcihSb0 中国兵法ってサイトは既出? 自選の武将百選もあるみたいだけど。 93 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 14 36 ID NQChl9IG0 92 アレは自選じゃなくて『中国古代百将図説』っていう本を訳したもの 図もそのまんま使ってる 94 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 36 37 ID Cycs++gc0 周瑜がはいらないのなら 謝安も入らないのかな 95 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 21 10 40 ID 0s53FtN50 劉曜、慕容垂、慕容恪の確定入りに俺は賛成。 それと桓温も確定でいいじゃないって意見も出てる。。 論争中の慕容恪、桓温を確定入りさせる事にみんなは異論はないのかな? 96 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 22 14 29 ID Epk7T0gJ0 俺は慕容垂、慕容恪、陶侃、謝玄を推したいな。 劉曜は功績すごいけど、死んですぐに前趙が滅びたからなぁ。。。 97 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 00 09 05 ID ZDGrm4b1O 謝玄はヒ水の戦い以外になんか具体的な戦功ってあるの? 98 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 02 15 56 ID d1AL/BOVO 91 別に将軍として劣っていても周瑜の代わりを果たす分には問題無いと思うけどね。 他の才能はピカ一なんだし。 謝玄はヒ水の戦いしか思い浮かばないね 99 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 09 21 31 ID dqBV37+RO 将軍としての才能なんかなくたって魯粛に赤壁その他の指揮が同様に出来たと言いたいのか、 それとも影響力その他将としての資質以外を含めた名将スレと関係なさげな話しなのかは知らないが、 どっちにしても代わりは無理だろう。 100 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 09 56 11 ID JW+7VL+i0 周瑜は、新・後漢で議論中なのに、三国~両晋でも 議論するのか? どちらかの時代に絞ってから議論した方がよくないか。 101 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 12 14 47 ID nSGVJ4+m0 99 建安20年の荊州侵攻の時も実際に攻め入ったのは呂蒙で魯粛は関羽とにらみ合って外交してたしね。 102 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 13 03 42 ID ZDGrm4b1O どうやらこのスレでは周瑜は新~後漢末に区分されるらしいので 三国~両晋の対象にはならないだろう 103 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 14 11 14 ID hZlRKqDj0 そろそろ周瑜ヲタうざい 104 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 15 05 36 ID 0DolzXKO0 慕容垂・慕容恪・桓温の確定入りに賛成 ところで、劉裕即位以降が南北朝ということは拓跋珪はこの時代になるのか? 105 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 15 17 29 ID R+5ku6yt0 拓跋珪は南北朝の確定組に入ってるんだけどな一応 106 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 15 22 12 ID ZDGrm4b1O あれ?南北朝時代って北魏の統一からじゃなかったっけ? 107 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 19 48 41 ID gAvCiJ4B0 84 慕容恪はジリ貧の冉閔に何度も撃退されていたわけだが 冉閔を推す声が強いのも、滅亡寸前にもかかわらず慕容部を寄せ付けなかったところが評価されてじゃない? (でも、名将百選には入るほどではないか) 108 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 22 58 15 ID M2mR8P9+O 十一戦十敗一勝だな>恪と閔の対戦成績 最後にキッカリトドメ刺してる以上、慕容恪の戦略勝ちだと思うのは贔屓倒しかね? 109 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 00 03 15 ID zimrvkQk0 しかし慕容部最高の傑物だしな慕容恪は 俺は強力に後押ししたいぞ慕容恪 110 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 00 08 57 ID t6cka/Jg0 慕容兄弟と石勒・虎・閔の血で血を洗う継承者達は俺も推したい だが、これをすると10名中5名が燕と趙になってしまうという諸刃の剣 素人にはお勧めで(ry 111 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 00 20 44 ID zxHX4yrr0 108 いや、慕容恪の十傑入りは確定だと思っている上で、 84の認識の誤りを正しただけ 慕容恪>冉閔って評価は動かないと思うけど、そこまで力量に差がついているわけでもあるまい 慕容垂は苻丕相手に、ひたすら手こずっていたイメージのせいで、評価落ちるんだよね (しかも、苻丕を滅ぼしたのは西燕の攻撃と東晋のトドメによるもの) 燕の領土拡大への貢献度も含めれば、慕容恪>慕容垂な感じになるかな? 【確定】 鄧艾、石勒、祖逖、劉曜、慕容恪、桓温、慕容垂、王猛 これに加えるとしたら、やっぱ陶侃、謝玄を推したいな 特に謝玄はヒ水以前から徐州方面で前秦の侵攻を撃退していたし 劉牢之による北伐は失敗だったとは言え、黄河以南の地域を少し回復しているし 一発屋って評価は当てはまらない人物だと思うんだが 112 84 sage 2007/02/11(日) 00 43 12 ID t6cka/Jg0 元々ネタにソコまで突っ込まれても困るし、慕容恪と冉閔の戦いを知らないと言うことも無い 慕容垂が符丕とやり合ってるとき、東晋から劉牢之が援軍に来て他と思うが? 劉牢之と言えば東晋きっての猛将だし、そんなにマイナス査定かねぇ? 個人的には 石勒、祖逖、石虎、冉閔、慕容恪、桓温、慕容垂、王猛 が確定ライン、劉曜もまずOKで鄧艾と陶侃どっちにしようかな?って気分 113 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 01 14 20 ID VT1qa0zoO 苻堅はやっぱ入んないかな… 114 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 01 39 43 ID tbOoreXg0 五胡十六国って実に狂った時代だな。 115 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 06 21 38 ID GsUzwaR6O 113 ココに挙がってる連中と張り合うのはかなりきついな…… 116 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 14 55 14 ID /fuPV5TF0 陶侃は五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務めた東晋の柱石 石虎は傍若無人な殺戮マシーン(あくまで個人的なイメージなんだけどね) 戦の上手さは石勒に引けを取らないと思う 謝玄は有能なのだがヒ水の功績をどう評価するかが焦点 劉曜、桓温は確定入りでいいと思う 個人的には陶侃、石虎に各一票ずつ入れたい 117 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 21 56 09 ID m9FT3T8S0 ところで王猛の具体的な戦功ってなんだ? 名宰相・名軍師なのは分かるが、名将と言われてもピンとこない。 誰か具体的に教えてくれないか。 118 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 22 32 48 ID t6cka/Jg0 慕容垂が抜けた後の前燕を滅ぼした 119 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 00 09 21 ID XLJvockR0 118 それだけじゃ、時代を代表する十人に入れるには、 実績不足じゃないか? 慕容垂のいる前燕を滅ぼしたならともかく。 120 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 00 15 10 ID VSgQqZ36O 118が示したのは功績の一例だろ 121 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 00 19 19 ID 410mDf1L0 蜀征伐とか、転戦してた筈 122 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/12(月) 14 59 49 ID Vsejoll10 林則徐は入るだろ。 123 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/12(月) 20 55 17 ID Kez+90Og0 【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170812626/ 【みんなで】 戦国名将百選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166806707/ 【ヨーロッパ】西洋名将百選【西洋】 http //academy5.2ch.net/test/read.cgi/whis/1168117287/ 【みんなで】日本名将百選【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1169589425/ 【みんなで】 世界名将百選 【決めよう】 http //etc6.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1171011992/ 【みんなで】 中国猛将百選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167189069/ 【みんなで】 中国名相百選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167909324/ 【みんなで】中国愚将百選【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1165592836/ 124 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 21 08 22 ID 410mDf1L0 マルチうざいよ 125 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 21 10 38 ID T7SiANKl0 122 半年ログれ 126 120 sage 2007/02/12(月) 22 52 09 ID VSgQqZ36O 符柳が挙兵した際、王猛はこれを鎮圧している。 陝城を落し、符[庚]を捕えて長安に送り内乱を平定。 前涼が前秦に侵攻した際、姚萇と共に涼軍を撃退。 李儼が救援を符堅に請うた際、王猛は各地に兵を派遣して守備を固めさせた上で 楊安と共に枹罕救援に向かい、 迎撃してきた前涼の張天錫を大いに破り、 前涼軍に、戦死者・降伏した兵を合わせて一万七千の打撃を受えた。 これにより絶縁していた前涼は再び前秦に藩属した。 これで少しは王猛の名誉回復できたはず。 127 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 23 02 36 ID 410mDf1L0 そっか蜀じゃなくて涼だったな ただ姚萇だって頑張ったんだよと、ヤツは面白い生き方してるんだよなぁ 百選入りは厳しいと思うが 128 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 21 16 35 ID bHog/2AB0 前秦の怒涛の征服を指揮していた将軍って誰? 王猛?苻融?それとも苻堅? 129 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/13(火) 22 46 55 ID Rx2jG3G0O 王猛あっての前秦だね 130 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 22 56 02 ID ihkBeGfrO 129 同意 符堅は王猛の死後は冴えなよな。 王猛の遺言を守らず東晋を攻めてヒ水で惨敗してるし… 131 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 22 58 19 ID bHog/2AB0 いや、だから前秦の征服戦争を指揮した将軍を教えて欲しいんだが。 132 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 22 02 ID ihkBeGfrO 131 王猛、楊安、符融、符丕 符丕は王猛の後釜的存在 で関東を鎮めている。 まあ符堅も親征してることはしてるけどな。 つ これで満足した? 133 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 32 14 ID ihkBeGfrO スマン 王猛の後釜的存在は符丕じゃなく符融だった。 134 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 36 01 ID bHog/2AB0 132 サンクス。質問ばかりで申し訳ないが、 その中で武勲が最大といえるのは誰? 135 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 45 20 ID ihkBeGfrO 王猛 前秦の政策、戦略など殆どが彼の力により、 前秦が勢力を拡大出来たのは彼がいたからと言っても過言ではないはず。 符堅の信頼が厚く、劉備にとっての諸葛亮の様な存在と評された。 つ これで十分に満足した? 136 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 54 52 ID bHog/2AB0 135 いや、それ軍師や宰相としての功績じゃん。 純粋に戦場での武勲が最も多い前秦の将軍を知りたいんだが。 137 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 00 31 54 ID SIXMw3/l0 王猛だろ 前燕を滅ぼしてるんだし 138 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/14(水) 01 33 40 ID rMwASHSNO つ まず最初王猛とに答えてる。 >前秦の政策、戦略など殆どが彼の力により と補足入れただけだけど何かおかしいか? 139 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/14(水) 15 47 38 ID c87tDxIqO じゃあ王猛は文句なく確定ということでいいかな? 140 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 21 55 36 ID hfbVFxXy0 >じゃあ王猛は文句なく確定ということでいいかな? あれ?王猛っていつ確定から外れたの? 119 が早とちりした以外は別に異論が出てないなかったよね? まあ王猛の確定入りに問題無いと思うよ 141 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 22 08 01 ID 3K5sckN+0 前秦から王猛ひとりなのは仕方ないかもしれないけど、 国としては3人ぐらい入ってもいい実績だと思う。 142 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 22 38 00 ID rMwASHSNO 141 符堅、符融、符丕と候補が無いことも無いが 他の面々と張り合うのはかなり厳しいだろうな 143 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 20 37 44 ID gxItVOPf0 確定 慕容垂 慕容恪 王猛 桓温 石勒 祖逖 候補 石虎 冉閔 陶侃 謝艾 謝玄 姚萇 拓跋珪 こんなところでいいかな? さあ、議論を続けよう。 144 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 06 31 ID z9vhyC8R0 いいんじゃない? じゃ次は隋唐時代か。 やはり李世民は外せないな。 145 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 09 26 ID RmTPz1FG0 南北朝は? 146 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 10 53 ID wouTLgWt0 鄧艾、劉曜がいつ確定から外れたんだ? 147 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 27 54 ID YE3VGJ3DO 確かに 艾、劉曜が外れてる それと拓跋珪は南北朝で確定入りしてるけど 拓跋珪はこっちに入れるのか? それにまだ残り枠決めてないけど次の時代に移るのか? 148 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 45 30 ID gxItVOPf0 146 劉曜・鄧艾を入れ忘れてた。スマソ 147 拓跋珪の没年はこのスレの時代区分では、 三国・両晋に入るんだよ。 149 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 52 19 ID OTyjqmfq0 隋には名将っていないの? 150 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 53 26 ID RmTPz1FG0 拓跋珪、確定じゃないの? 納得いかない 151 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 22 02 00 ID Y11ZyAOl0 拓跋珪をこっちに入れるとなると 鄧艾 劉曜 慕容垂 慕容恪 王猛 桓温 石勒 祖逖 拓跋珪 で九人になるけどここから確定落ちになる人はいるかな 149 楊素、韓擒虎、賀若弼、史万歳あたりがいるが 152 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 22 29 05 ID yqZEfS88O 謝玄はやっぱ落選か… 153 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 22 37 23 ID YE3VGJ3DO 148 拓跋珪は三国・両晋じゃないの?と前々から疑問に思ってたんだけど それについて誰も言わないし、 南北朝に入れるのかと思っていたから一応聞いてみただけ… 151 この九人は確定でいいんじゃない そうなると残り一枠を誰にするか迷うよな 154 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 22 43 06 ID wouTLgWt0 あと一人、難しいね。 候補にあげるなら、戦術の巧みさなら冉閔か謝艾、果した功績の大きさなら陶侃か謝玄。 155 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 22 45 41 ID gxItVOPf0 153 陶侃を推す。他の名将と対戦してないのが痛いが、 戦歴は豊富だし、陶侃がいなければ、 おそらく東晋は地盤を固められずに短期政権で終わっただろうから。 156 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 23 21 24 ID 20phuMvF0 155 俺も陶侃に一票 陶侃は五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務めた東晋の柱石だしな。 平時でも戦に備えて瓦を庭に出し入れして、 体を鍛えたというエピソードが残っているぐらいの根っからの武人だしね。 個人的には殺戮マシーン石虎も推したいのだが・・・ 157 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 23 35 07 ID dEMkXELF0 負けた祖逖が入ってて 勝った石虎が脱落ってのもなぁ・・・ 陶侃も捨てがたいし、この時代は迷うな 158 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 23 54 21 ID YE3VGJ3DO 157 そうだよな。 石虎の暴れっぷりは評価したいし、 確かに陶侃も捨てがたいね。 今回も残りの一枠は持ち越しになるのかな? 159 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 15 00 18 ID M0NJi0+u0 157 石虎は天王になってからの戦績が振るわないのが減点材料かと。 160 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/16(金) 17 15 53 ID 9kljjt400 思ったんだけどさー なんで田単が候補にすら入ってないの? 161 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/16(金) 17 16 27 ID 9kljjt400 楽毅入るなら田単も入るだろ 162 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 21 10 50 ID bVTmxrvn0 理由がわからん。別に田単は樂毅に戦場で勝ったわけではないしなあ。 まあ城を落せなかったのと諜報戦でしてやられたってのはあるが。 田単が候補に挙げられないのは、おそらく究極の一発屋だったからだろう。 城の防衛の指揮を任されるようになる前は一介の市場の役人で、勝った後は 栄達はしたがこれという功績もない。 即墨戦の後の軍事的行動というと狄を討とうとして失敗したこと(後に成功) と趙の兵を率いて燕の城を落としたことくらいしかない。 163 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 21 19 49 ID f/WwVciP0 スレの流れ これ読める? 164 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 21 27 45 ID yYY6neoF0 とりあえず151に異論がなければ南北朝に進んでもいいと思うがどうか 165 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 22 31 53 ID bVTmxrvn0 いいんじゃないですかね。 残り一枠の候補には冉閔と陶侃を推薦しておきます。 166 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 22 50 41 ID TLQAXSzqO 159 劉曜も後年、石虎と石生に惨敗してし、 石虎も天王になってから破れた相手って慕容恪だろ。 減点するには厳し過ぎないかと言ったら贔屓し過ぎかな? 167 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 22 53 32 ID f/WwVciP0 冉閔だって慕容恪に十勝してるし この時代、アホみたいに戦争しまくってるので、単純には決めづらいだろう 168 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 23 29 54 ID bVTmxrvn0 いまさらだが、戦術の巧みさだけで推薦するのなら八王の乱時の司馬乂とかも 凄いんだよな。圧倒的劣勢下で、戦場では不敗だった。 さすがに十傑入りは無理だろうけど。そう考えると、やはり冉閔も外れるかなあ。 169 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 19 14 06 ID Ynh5F5kWO 現在の状況はこんな感じか? 三国~両晋 【確定組】 艾、石勒、祖逖、王猛劉曜 慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪 【候補】 陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔 陶侃が一歩リードってとこかな。 どうするまだ論議を続ける? それとも南北朝に移る? 170 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 25 05 ID rMl3f1A40 いいかんじに次にいってもいいかな 171 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 29 09 ID hHgYTn5T0 まぁ、これまでも十人確定を出してきたわけでもないんだし、 また、改めて議論もするだろうから、取り敢えず次に移ってもいいんじゃない? 172 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 35 12 ID oHGca7Iw0 じゃあ南北朝時代に行く? 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 173 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 45 22 ID Ynh5F5kWO じゃあ南北朝へと移りますか。 俺は韋叡の好敵手である楊大眼を推しとくよ。 174 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 21 25 43 ID pClLuuW80 宇宙大将軍を推したい 175 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 21 32 53 ID 2AFKOlEu0 斛律光は確定でいいと思う あとネタ枠として宇宙大将軍を推したい 俺達の永遠のヒーローだろw 176 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 21 38 44 ID y65Q0nPv0 侯景は君らの胸の中にしまっておけ 177 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 21 55 26 ID h95p/GHrO 素人でいつもロムってる俺に宇宙大将軍について教えてくれ 何がネタなのか 178 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 22 15 42 ID Ynh5F5kWO 177 侯景 宇宙大将軍でググってみなよ ちなみに宇宙大将軍は2ちゃんの偉大なるヒーローさw 179 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 22 42 52 ID h95p/GHrO 178 ごめん、ググってみたけどどのへんが2ちゃん的なのかよくわからない 180 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 22 47 36 ID cj4xFKaH0 wikiからの引用だけど、この辺のことでしょ。 武帝の没後、侯景は簡文帝を立て、相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事を 自称した。 181 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 22 53 30 ID hHgYTn5T0 ぶっちゃけると、宇宙大将軍って自称が面白いだけ。 182 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 05 02 ID 2AFKOlEu0 高歓の元で転戦する軍団長 ↓ 高歓が死にそうになると 「HEYHEY!おいらは高歓のアニキにはついてくが、そのガキの事まではしらねぇぜwwww」 と公言する ↓ 高澄(高歓の息子)、政権を引く継ぐと真っ先に不穏分子である侯景を謀殺しようと、高歓の名で招集の手紙を出す ↓ その手紙を見て 「アニキは俺に書状出すときは穴を開けてた筈……こいつはヤベェ!!(←自業自得)」 ↓ 梁と組んで独立する ↓ 高澄、高歓の遺訓に従い慕容紹宗を起用する ↓ 「慕容紹宗?あの青二才に何が出来るってんだよ!俺は百戦錬磨の侯景サマだぜ!!」 ↓ ボコボコにされる ↓ 「何で援軍よこさねぇんだよ!」と八つ当たり気味に建康に進軍 ↓ 梁の一軍団長になる。その性格その他から危険視される。ついでに梁と東魏の国交が回復し始める ↓ やられる前にやったると建康進軍、権勢を誇った朱イをヌッコロス!と進軍したはいいが、すでに朱イが病死してた ↓ 出した刃は引っ込められず、建康で梁武帝を人質に面白籠城劇を繰り広げる ↓ 軟禁されてる梁武帝を前に気圧されて汗を流す(自分が軟禁してるのに) ↓ 相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事という喜劇的な将軍位を開発、名乗る ↓ 和睦、梁武帝の娘を娶る。この公主に溺れる ↓ 結局拗れて皇帝を名乗るも、陳覇先と王荘辯に破れシボンヌ 一時代の梟雄にして、ネタに溢れ、強勢を誇った梁を一人でぶっ壊したという そのお人柄とネーミングセンスが今尚愛されてるのです 183 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 07 46 ID m3yniq2v0 まあ百人には入らないだろ 184 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 55 46 ID rMl3f1A40 楊大眼よりは元英の方がいいと思う。あとは韋叔裕、斛律光、爾朱栄あたりか。 しかし北に偏ったな。 そういや候補に蔚遅ケイがいないな。まあいても候補どまりな気はするが。 185 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 57 12 ID 96WZcXqg0 宇宙大将軍こと侯景には負けるが南北朝には個性派ぞろいだな 三十六の戦術を持つ、逃げの檀道済 馬に乗るのが下手なとぼけた天才、陳慶之 虚弱体質の名将、韋叡 文盲で愛妻家(戦場でもラブラブ)泣く子も黙る、楊大眼 仮面の貴公子、高長恭(しかもオリジナルミュージック付き) など全く真面目なんだか不真面目なんだかw 186 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/18(日) 00 12 34 ID uwADlhPn0 哭泣した重臣のヅラがとれて、葬儀中大笑いしたのは、南朝の太子だっけ? 187 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 00 21 08 ID E0w974GCO 186 東昏侯こと蕭宝巻 188 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/18(日) 00 32 11 ID uwADlhPn0 187 それそれ。 ヅラじゃなくて頭巾だったかな。 そうか、あの東昏侯だったか。 斉梁革命期近辺だと、義陽で元英との名勝負を謳われる蔡道恭や鍾離を堅守した昌義之とか 防衛線で手腕を発揮したのもいるなぁ。 189 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 01 09 43 ID E0w974GCO 184 【名前】元英 【時代】南北朝 (北魏) 【推薦理由】中山王こと元英は北魏でも屈指の教養人として知られ、玉笛の名手でもあった。 南斉・梁と戦っただけではなく、北方の騎馬民族とも戦っている。 また漢中ではたった三千の兵で二万もの南斉軍を破るなどの武功を重ね、この時代北魏随一の用兵家であった。 楊大眼は副将だし、やっぱ元英の方が上だよな・・・ あと斛律光が確定なら、仮面の貴公子、蘭陵王こと高長恭も確定でいいんじゃないか? 188 頭巾だよ。 ちなみに太中大夫の羊闡はみごとな禿頭だったw 190 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 02 27 03 ID iJs60l6O0 182 おいおい、どこから突っ込んだらいいんだw 我らが宇宙大将軍は、他の武将が来たときは強気だったのに、慕容紹宗が来ると聞いてビビったはずだぞ 侯景は高歓の下の時の功績だけなら確定に入れてもいいんだが 高長恭あたりが候補に入ってるのに、高敖曹、賀抜兄弟とかが入ってないのが不思議だ 尉遅ケイも入ってもいいんじゃないか。隋文帝の最後のライバルだし 191 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 07 21 40 ID dY9oFs7C0 宇文泰が戦闘の才能を絶賛した高洋は候補に入ってないね。 あと尉遅ケイについて誰か詳しく教えてくれませんか? 192 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/02/18(日) 07 49 47 ID XjmOOEaw0 数週間ぶりの登場です。ようやく南北朝ですか。 ログなど見て思ったのですが、確定を決めずに先に行くのですか? 春秋戦国であれだけ話し合って確定を決めたのに 確定を決定させず候補を残したまま議論されてるのは少し残念です。 話を戻すようなことを言ってすまんね。 193 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 09 21 27 ID LNILSB950 192 春秋戦国 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 ご覧の通り、春秋戦国は散々話し合っても十人確定までは至らなかったし、 ど~せ、一通り各時代を語り尽くしたら、また最初から議論しなおすんだから、 別に、そう確定にこだわらなくてもいいと思うよ。 194 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 09 48 18 ID OPjVxuI80 ○○は候補に入っていないね?という人は、○○の人を 推薦するなり、候補に入って無くてもいいけどとか意思表 示してくださいな。 195 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/18(日) 10 51 13 ID uwADlhPn0 192 春秋戦国のときみたいに嵐のような討論が少なくなったから、妥協で進んでいるような気もするかもしれないが 恒例的に最後の一枠は空席にするやり方になってる。 現時点ではそれがベターだと思うな。 (それぞれの時代で、特に詳しい人がここにどれだけいるか、調査してみるのも面白そう) 196 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/18(日) 12 04 21 ID E0w974GCO 納得するまで討論はしたいよ、みんなも思ってるはずだ。 でも最後の一枠って決めるのってかなり難しいんだよね。 195の言う様に最後の一枠は空席にするやり方が現時点ではベターだと俺も思う。 納得するまで討論はしたいよ、みんなも思ってるはずだ。 でも最後の一枠って決めるのってかなり難しいんだよね。 195の言う様に最後の一枠は空席にするやり方が現時点ではベターだと俺も思う。 197 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 13 15 34 ID ShNq57gT0 「必ず最後は一枠を残しておかなければならない」ってもんでもないけどね。 すんなり決まるのなら十人決めてもいいのだろうけど。 あと、確定から高歓はずして高洋を入れるべきだと思う。君主としては文句なし に親父だが、個人の将としての才はこちらが上だと思う。 198 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/19(月) 14 48 23 ID jEimL0780 神武・文襄・文宣の三王に仕え、 二十歳頃から戦に出て数々の功績を挙げた段韶を俺は推したい。 戦績としては西魏の宇文泰と高歡が芒山で戦ったとき、高歡の命が危ういところを救い、 高帰彦の乱を婁叡とともに鎮圧、突厥と北周が晋陽を攻めてくるとこれを撃った。 侯景の乱の際には晋陽を守るなど功績を挙げ、 また陳覇先が攻めてきた際には水上戦ながらこれを撃退し、 北周軍に包囲された洛陽をなかなか救出出来ずにいた斛律光と高長恭のもとへ駆けつけ、 彼らと共にに芒山で北周軍を撃ち破り、洛陽を救い、 国境の定陽郡周辺をめぐっての北周との攻防戦では、病をおして出陣し、定陽城を落としている。 199 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 00 29 44 ID RVq+iqA20 172の候補者の詳しい解説などみたかったのだが…とまっちゃってるなあ 200 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/21(水) 04 09 12 ID Typ7OUhy0 とりあえず南朝からももうひとりぐらい、ってことで。 蘭欽(らんきん。?~西魏の初めあたりまで)《梁書》33巻 字は休明。剛毅果断にして超人的敏捷性を備える。 大通元年(527)、魏の蕭城を攻めてこれを抜く。さらに彭城の別将郊仲を破り、擬山城まで進行、 大都督・劉属率いる20万の魏軍を寡兵で潰滅させ、返す刀で籠城を陥とす。 また魏の大将・柴集および襄城太守・高宣、さらにその別将范思年、鄭承宗らの連合軍を撃破する。 彭城の主将・楊目がその子楊孝邕を派遣して蘭欽を攻めると逆撃してこれを破る。 また譙州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。 楊目は都督・范思年と別将・曹龍牙に数万の兵を与えて援軍としたが、 蘭欽の巧緻な作戦の前に魏軍は潰滅、蘭欽は曹龍牙を斬って京師に戻った。 假節を与えられ、都督衡州三郡兵を拝して桂陽、陽山、始興の異民族 叛乱をたちまち平定。また天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破った。 衡州刺史・元慶和が桂陽の厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、 羅渓で厳容を打ち破った。ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の進行を撃退。 持節を拝し、督南梁、南秦、北秦、沙四州諸軍事、光烈将軍、平西校尉、梁、南秦二州刺史を授かる。 通生行台・元子礼を破り、大将・薛儁、張菩薩を捕らえ、梁州刺史・元羅を投降させて 梁、漢中を平定した。昇進して智武将軍とされた。 まもなく改めて持節を授かり、都督衡・桂二州諸軍事、衡州刺史に任命される。 直後、魏が都督の董紹、張献を遣わして南鄭を囲むと、梁州刺史・杜懐瑶の救援要請により駆けつけ、 高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、 西魏の相・宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。 帰国した蘭欽は詔により散騎常侍を加増され、仁威将軍に昇進した。 広州を治めていたとき俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人をともにとらえた。 功績により平南将軍とされ、改めて曲江県公に封ぜられた。為政者としても有能で仁政を敷き、 民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。散騎常侍、左衛将軍から改めて散騎常侍、平南将軍、 広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺される。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられるが、 併伝の陳にインパクトがありすぎるため漢中取りの大功を立てているにもかかわらず影が薄い。 ・・・先日バカは黙れと言われて以来ROMっとった者ですが、これを手土産ってことで 戻ってきちゃいかんでしょうか。 201 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 05 06 02 ID d/gc4DIi0 200 >・・・先日バカは黙れ >これを手土産ってことで戻ってきちゃいかんでしょうか。 だからそんな事は気にするな、2ちゃんなら日常茶飯事だw 出来れば功績をもう少し簡潔に纏めてもらえるといいのだが・・・ 202 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 11 09 39 ID kkS6C0xQ0 何か最近過疎ってるよな。 他のスレなら過疎っても別に問題ないんだけど、 このスレの場合は後がつかえているんだから、 出きるだけ盛況に話し合って、 出きるだけ速く結果を出してもらいたい。 とにかく頑張ってくれ!南北朝時代に詳しい住人の方々!! 203 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/21(水) 13 37 31 ID uVbiGNaW0 やったら復帰した俺がリストに挙げ忘れた北周の于謹を。 俺の紹介文は正史からの直訳をまんま載せて 毎度やたらと長くなる癖があるけんが、今回はアジ歴から抜粋。 【名前】于謹 【時代】西魏~北周 【功績というか紹介文】 493-568。字は思敬。鮮卑系貴族の名門の出。六鎮の乱のとき大行台・ 元纂の鎧曹参軍に召され、爾朱天光が高歓に破られると宇文泰の麾下に 投じた。沙苑・河橋・邙山の戦いに高歓の大軍を防いで功があり、尚書 左僕射から司空となった。梁の岳陽王・蕭詧を補佐して江陵の元帝を滅 ぼし、西魏の官制改革(この改革制度は隋から唐まで受け継がれた)で 大司寇となり、丞相・宇文泰が死ぬと宇文護とともに宇文氏政権を守り、 西魏から宇文覚への禅譲を実現させた。功績により燕国公、太傳、大宗 伯にのぼり、三老の礼を受けた。 孫子の兵法に通じ将軍として正攻法・奇策ともに優れ、政治家として も国家の官制制度を一新させるほどの才覚を見せるオールラウンダー。 梁を滅ぼしたときも民に危害を加えることなく、劉宋以来の珍宝を私せ ずすべて宇文泰に献上した清廉の人。梁討滅から凱旋した彼の家に宇文 泰が家までおしかけ、宴を開いて談笑したという君主と臣下を越えた間 柄。軍事に戦略の韋叔裕に対して軍事に政略の于謹。双璧、ということで一票。 204 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/21(水) 14 26 00 ID uVbiGNaW0 200から余分な要素を削ってみました。 【名前】蘭欽(梁書33巻陳慶之蘭欽伝) 【時代】?~候景の乱以前 【紹介文】 字は休明。剛毅果断にして敏捷。 大通元年(527)、北伐して擬山城 まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。同年、魏の太 守・ 柴集らの連合軍を破る。彭城城主・楊目がその子楊孝邕を派遣、 蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。ついでに譙州刺史・劉海游を破 り、その帰途で厥固城を抜いた。楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はた やすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。桂陽、陽山、始興 の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻 め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向か い、羅渓で厳容を打ち破った。ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正 将・托跋勝の侵攻を撃退する。假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・ 元子礼を破る。魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、 漢中を平定。智武将軍とされた。改めて持節を授かる。魏の都督・董紹、 張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦い で魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董 紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られ て追撃を中止、互いに友好を結ぶ。凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・ 俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。功績 により平南将軍、曲江県公。為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は 石碑を建てて彼の功徳を称えた。散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされ るも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えら れるが、併伝の陳にインパクトがありすぎるため漢中取りの大功を立て ているにもかかわらず影が薄い。とりあえず梁には韋叡と陳慶之の他に もこんな人もおるよ、ということで一票。 ・・・これでちっとは読みやすくなったかいな? 205 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 15 50 11 ID cxroJRbA0 ぱっぱと100人決めちゃって 後から入れ替え議論したほうがいいと思うんだけど 206 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/21(水) 16 52 09 ID F0BoUhF+0 その百人がな… 特定の時代に詳しい人とそうでない人の、人口比率が違いすぎる。 今の過疎っぷりは、そういうことだろうと予想するのだが… 自分は南北朝はわからないので、候補決定にまで参与できない。 すると、候補説明のところにツッコミいれるくらいしか策がないなw 204 于謹というのは征梁戦のときの総大将? このスレ的には(今までの流れから)、より戦功が顕著な蘭欽のほうがランクインしそうだ。 重鎮とか戦略家とかいうのは、歓迎されていないように思う、残念ながら。 207 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 17 24 45 ID 4pXxYmxa0 何せ南北朝(特に北朝)は日本語で手軽に読める史料が皆無な上に メジャーな人物も少ない(と言うか皆無に近い)からな。 原語の正史でも読めないと人名が出て来ない。 208 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 17 26 21 ID d/gc4DIi0 では少しでも過疎化打破する為に投下。 ◆RQdk7scN8sさんお手柔らかに頼みますよw 【名前】拓跋トオ (太武帝) 【時代】南北朝(北魏) 【推薦理由】明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳のとき、父が崩じて即位。 はじめは宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。 北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。 また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。 劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。 戦死者は万単位に上ったと伝えられる。 なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。 北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、 捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。 東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、 五胡十六国時代の終焉させた拓跋トオを強く推したい。 209 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 17 27 28 ID d/gc4DIi0 ◆oOLAqFKRBさん別にダメ出ししたわけではないんだよ・・・ 余計なお世話かも知れんが字とか為政者としてとか、尚書、左僕射から司空となったとか 生い立ちや戦績以外の武将として余り関係ないような部分を省くのがよかでなかとですか。 210 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 19 04 56 ID EBujPzTb0 自分も拓跋燾を推すよ 小競り合いレベルの戦は省略して戦歴を書き出すと 423年 帝位に即位 424年秋 雲中に侵入した柔然を討つ (資治通鑑では拓跋燾が自ら率いて討ったと書かれているが 魏書では配下の手柄 いずれにしても親征) 424年冬 柔然戦(柔然北遁 諸軍追之 大獲而還) 425年冬 柔然戦(柔然北走) 426年冬 夏戦(夏主出戦而敗 退走入城) 長安占拠(赫連乙升棄城西走) 427年夏 夏戦 赫連昌に逃げられるが統万城占拠 430年冬 夏戦 平涼陥落 439年秋 北涼戦、北涼降伏 446年春 蓋呉の乱、平定 449年春 柔然戦、大勝 (蠕蠕渠帥綿他拔等率其部落千餘家來降 蠕蠕吐賀真恐懼遠遁) 450年春 北伐 450年冬~451年春 南征 452年3月 逝去 上記の戦は全部親征(主語が魏書では「車駕」資治通鑑では「魏主」) 426年夏戦、439年北涼戦では少数意見を選び勝利している 親征ではない戦に 428年春 夏戦 奚斤の指揮下にある丘堆が敗戦 監軍侍御史の安頡が夏主・赫連昌を捕らえた (拓跋燾は平城に帰還していた、敗戦を聞いて激怒) 448年 亀茲戦、亀茲撃破 損害が大きくなりそうだと思えばあっさり引き返す 叩くべき時には諸将の反対を押し切っても叩く(結果的に正しい) 効率が良く判断ミスがないのが売り 211 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/21(水) 19 28 21 ID F0BoUhF+0 208 いや、前言撤回w。 知らない時代なんで、ツッコミも無理です。。 拓跋燾といえば、テュルク語でいうところの「狼」を意味した名前の人ですね。 ちょうど崔浩の補佐を得て、勇躍した時代でしたっけね。 しかも、柴栄を含む「三武一宗の法難」の先駆け。名将ということ以上に興味ある人物です。 以上、チラ裏。 212 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 21 36 04 ID ukcPhd3tO 207 >メジャーな人物も少ない(と言うか皆無に近い)からな。 宇宙大将軍こと侯景は別として、 南朝には劉裕、蕭道成(この人は君主としての方が有名だな) 檀道済、韋叡、楊大眼、陳慶之、陳覇先が 北朝なら高長恭、斛律光、、慕容紹宗、爾朱栄、尉遅迥や 高歓、高洋、宇文泰、宇文護(この四人も君主としての方が有名だな) とかはメジャーじゃないの? それとも上記の人物以外の話してるのか? 213 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 21 46 13 ID RLcmIEVH0 宇文ユウも君主として有名だと思う ただ、部下の功績か皇帝の功績かの線引きの関係で残れないケド 214 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/21(水) 22 14 52 ID PPUrb9Aa0 【名前】韋孝寛 【時代】北周 【推薦理由】高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。 淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。 そのほかの軍功は数え切れず。 斛律光に敗れているが、その武勲が損なわれることはないだろう。 215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 22 15 56 ID CkUyX/4Z0 楊大眼が南朝に間違えられてしまうほどだからやっぱりメジャーじゃないんだろう 216 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 22 29 05 ID ukcPhd3tO スマン 楊大眼は北朝だったな 217 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 22 42 01 ID PPUrb9Aa0 189 決して名将とは言えない陳顕達に敗れているのが痛いな。 鐘離でも敗れているし、時代を代表する名将というには足りないかも。 218 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 23 12 57 ID RLcmIEVH0 良く北斉の将軍として 斛律光と蘭陵王は並び称されるが 王猛と張賓ぐらい差があるというのが実態 219 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 23 16 13 ID 4u8xHEFA0 推薦で分けてみましたよ 宇宙大将軍はネタなんでしょ? 【候補1】 蘭欽、斛律光、慕容紹宗、高長恭、爾朱栄、拓跋燾、段韶、于謹 【候補2】 柳元景、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、韋孝寛、宇文護、韋叔裕、李弼、 王勇、沈慶之、陳顕達、赫連勃勃、蕭道成、陳覇先 220 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 00 21 30 ID dV2RuS5z0 いや、宇宙大将軍だってそれなりに優秀なんだが 221 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 01 10 05 ID 1FYEvWnU0 高長恭は 218のいうとおり。候補にあがるほどの戦功もない 219 韋孝寛と韋叔裕は同一人物。前者のほうが通称なので、前者を残しておけばいいと思う 韋孝寛は 214に追加して、噂を流布させて斛律光を死に至らしめたこと、 北斉の平定の際に武帝に建策したことも挙げられる 尉遅迴の反乱の鎮圧は楊堅が隋を立てる障害を取り除いた点でも大きい 222 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 01 26 50 ID 4aTkK6Dm0 220 優秀だが名将と呼ぶにはネタ臭が強すぎると思うのですよ。 223 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 01 50 23 ID dV2RuS5z0 梁に降った後が奮わないんだけど 梁は相当弱兵だったからなぁ・・・ 224 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 02 40 20 ID 56tfdA8U0 叔裕が名で孝寛が字だよな確か 見た限りでは逆な感じがするけど 225 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 02 49 35 ID UKmb0iwJ0 それではこれで 【候補1】 蘭欽、斛律光、慕容紹宗、爾朱栄、拓跋燾、段韶、于謹 【候補2】 柳元景、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、宇文護、韋叔裕、李弼、 王勇、沈慶之、陳顕達、赫連勃勃、蕭道成、陳覇先、高長恭、 宇宙大将軍(侯景) 226 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 05 04 18 ID dV2RuS5z0 本名の方が括弧かよw 227 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 07 44 57 ID lL5Covtv0 211 ID変わってるだろうけど210です そうです。崔浩の補佐が大きいです。 ただ、崔浩が献策する策はほとんど崔浩一人説で 他のめぼしい将(長孫嵩、長孫翰、奚斤ら)は皆反対 読んでいて「またか」と 拓跋燾の字「佛釐」がテュルク語の「狼」だったはず 228 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 12 50 50 ID VwslXJjYO 拓跋 と蘭欽、韋叔裕は確定でいいんじゃないかな あと斛律光か段韶のどちらかを確定にしてもいいと思けど。 斛律光は敵の策略で死を賜った悲運の名将。 段韶の場合は病死だしこの人も悲運の名将と思う。 229 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 17 34 23 ID oPmrojV20 228 >斛律光は敵の策略で死を賜った悲運の名将。 違うぞ斛律光は後主に粛正されたんだぞ 230 国 sage 2007/02/22(木) 19 34 03 ID 4ql0L8Sq0 【名前】昭奚恤 【時代】戦国 【推薦理由】楚の宣王の下で大軍を率い、 北方諸国ににらみを利かせた。 「虎の威を借る狐」の元祖。 231 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/23(金) 16 16 22 ID Xt8IyYYe0 アジ歴からの引用だけやと落とされそうやし、 えらい過疎状態で書き込んでも邪魔やなかろうし。やっぱ正史からも。 【名前】于謹 【時代】北魏末・西魏~北周初期 【推薦というか紹介文】 ものしずかで冷静、見識・度量があり、読書を好み孫子の兵法に通じた。六鎮の乱を避けて隠棲していたが 太宰の元穆から「彼こそ王佐の才である」と見込まれて仕官する。 辺塞で破六汗抜陵が造反し柔然と手を組むとわずか2000人で鎮圧にあたり、寡兵と侮った柔然と郁対原で17戦、 ことごとく勝利を得た。正光4年、破六汗抜陵との対陣においても敵の動きを読み、伏兵をもって大勝、その才を帝に嘉された。 魏の孝昌2年、梁の曹義宗が国境を侵すと行台尚書・辛纂とともに出陣、数十戦を経るも決着はつかずに終わる。孝荘帝が 即位すると鎮遠将軍とされた。太宰・元天穆に従って葛榮を討ち、刑杲を平定。征虜将軍を拝し爾朱天光について万俟丑奴を 打ち敗った。普泰元年、征北大将軍を拝す。再び爾朱天光に従って勤明達を平定し、夏州の賊・賀遂有伐らを討つも、韓陵山 の戦いで爾朱天光が敗死すると宇文泰に投じた。 宇文泰に帝位につけと勧めるもこれは実現せず、ただし大統元年に于謹が驃騎大将軍、開府儀同三司に任命されたのは宇文泰 の野心の表れとも見える。同年、東魏に出征、先鋒を務めて盤豆で東魏の将軍・高叔礼を破り、俘虜一千を獲る。さらに弘農に 攻め入って陝州刺史・李徽伯を捕らえた。沙苑で高歓の本軍と戦い、諸将らとともに奮戦してこれを破る。 また河橋の戦いでは丞相府長史兼大行台尚書として作戦に参与、自らは出陣せず後方を固める。夏州刺史劉平が叛くとこれを 平定した。大統9年、再び宇文泰の東征に従軍、邙山の戦いで西魏軍は大敗を喫すも、部下に偽装投降させてその隙に背後から 攻撃を仕掛けるという于禁の策により東魏軍を混乱に陥とし、結果敗戦ながら大軍を失うことを免れた。 候景が西魏に従属を求めるとこれを受け入れようとする宇文泰を諌め、候景はともに大事をなす相手ではないと説いたが、宇 文泰は聞き入れず、李弼に兵を与えて候景につけた。まもなく兵を率いて潼関に鎮守した。この年三回昇進して司空となる。 大統15年には柱国大将軍を拝した。 梁の元帝が候景を倒して即位すると秘密裏に岳陽王・蕭詧を支援、元帝が蕭詧の兄を殺すよう仕向け、蕭詧が西魏に援軍を求め ると中山公・宇文護、大将軍・楊忠らとともに出撃、長江を渡り、16日の篭城戦を経て京師を陥落させた。梁の皇族は悉く殺した ものの民衆を害することなく、10余万の俘虜と劉宋以来の珍宝を得て、蕭詧を仮の梁主につけた上で部隊を整頓、凱旋した。珍宝 は私せずすべて宇文泰に献上した。宇文泰は自ら親しく于謹の家まで出迎え、ともに盃を交わし談笑した。 六官制度を制定、大司徒となる。 世を去るに当たって世子の幼いことを心配した宇文泰から、宇文護とともに後事を托された。宇文泰死後宇文護とともに野心的な 王侯・大臣らを抑え、宇文氏の政権を揺るがせにしなかった。禅譲により孝閔帝が即位すると燕国公とされ、食邑10000戸を下 賜された。李弼、侯漠陳崇らとともに朝政に参与、賀蘭祥が吐谷渾討伐にてこずると自ら兵を率いて出陣、策略を授けて勝利に導いた。 周の保定2年、于謹は老齢を理由に致仕を願い出たが、晋国公宇文護、楚国公豆廬寧も現役で国に尽くしているのに于謹だけを引退 させることは出来ない、という理由で却下された。晋国公宇文護の東伐にあたって、病床の于謹は若輩の士卒たちに兵略を教示し、そ のおかげで周軍は勝利を得た。天和3年没。享年76歳。 ・・・かなり削ったんやけど、それでも長い。推薦理由は 203の下半分。 そーいえば豆廬寧とかもおったね。宇文護とあわせて“三老”といわれたの美形のお人。この人も名将やし、訳そうかいな。 232 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/23(金) 16 25 36 ID aI1KYwKR0 女はバカって決め付ける男って最低だと思う。 女だって読書するし、知性と感性は男とは比べ物にならないぐらい輝いてる。 今の愛読書は吉川英治の三国志、あと月刊同心クオリティ。 三国志は関羽が麦城で籠城して最後死んじゃう所が切なくて泣けちゃう。 つい三国時代の英雄と自分の心情とを重ねちゃうんだよね。 こうして様々な英雄が散っていったと思うとすごく悲しくなる。 やっぱりEIJIは天才だよね。 233 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/23(金) 17 00 08 ID DPdQ5A5i0 231 もう、ほんっっっと、しょうもない指摘で悪いですが 「豆廬寧」の廬は「盧」だと思います! 淮南廬州の廬と、見た目ほとんど一緒なんで間違いやすいですが… 苻堅の苻もよく、符に間違えられるし、暗黙の了解でなんとでもなるけどね。 (…少し前まで自分が廬と盧を間違えていて、最近気がついたからだと言うのは内緒にしておこう) 234 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/23(金) 18 14 22 ID tS6v123eO 231 于謹は戦上手けど、どちらか言えば策士、政治家としての色合いが濃くないですかね? それに韋叔裕はともかく段韶、斛律光の戦績の方が上だと思う。 235 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/23(金) 20 15 24 ID i2hUONey0 【名前】豆盧寧(233氏ありがとう。10年来ずっと間違えとったよ) 【時代】北魏末~西魏・周 【功績と推薦理由】 字は永安。本姓は慕容氏。前燕の傍流の末裔。若くして勇猛果敢、志と気節があり、身の丈8尺、 容姿は端麗で、騎射をよくした。永安年間、爾朱天光とともに入関し、万俟丑奴を討つのに功績が あった。弓技に長け、100歩離れた所で落ちる木の葉に向けて一瞬で7本の矢を射掛け、5本を 命中させるという神業をこなす。爾朱天光敗死後は李弼らとともに宇文泰についた。 北魏の孝武帝が西遷するとこれをむかえて功があり、伯爵に。大統元年、宇文泰の下で竇泰を捕 らえ、弘農を回復し、沙苑で東魏軍を大破して車騎大将軍とされた。七年には于謹に従い稽胡の総 帥・劉平伏を上郡で打ち破る。友人の梁仚定が叛くと平定を命じられ、内心はともあれ非情に徹し て友を撃つ。大統九年、邙山の戦いに参加、西魏大敗の中ひとり気を吐き、局地的ながら勝利を得 て、戦後左衛将軍、范陽郡公に昇進する。十六年、大将軍となり、羌族の主帥・傍乞鉄忽と鄭五醜 らの叛乱を平定。恭帝の二年、梁の王琳が候方児、潘純陁らを派遣して江陵を侵すと蔡祐、鄭永ら を率いてこれを撃破。三年、武興・固道の氐族らが叛乱を起こすと征討、平定する。孝閔帝が即位 すると柱国大将軍を拝し、武成元年、同州の稽胡、郝阿保、劉桑徳らの反乱を伐ってこれを平定す る。凱旋すると楚国公に封ぜられ、食邑10000戸を下賜される。保定四年、宇文護らの東伐に 病を押して従軍するも、行軍中に没した。 推薦理由は・・・とりあえず顔、やろーか(笑)。同じ美男将軍でも高長恭よりこっちのほうが 長生きしたぶん武勲多そうやし。宇文護、于謹とあわせて“三老”と呼ばれるからには《周書》に 記載されとー以上の功績がありそうやが、そのへんの記述はないけんよーわからん。 236 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/23(金) 20 37 44 ID i2hUONey0 于謹の武功の半分くらいは豆盧寧の手柄かもしれん。 参加した戦争がやたら被るし于謹に従っての戦いが多いし。 とすると于謹は帷幕の謀臣・作戦立案者で、 現場で実戦を経験するのは豆盧寧やったりするんやろーか。 となるとこのスレ的には豆盧寧の株が上がって、于謹の株がダウン? 237 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/23(金) 23 06 25 ID B/R6vXIV0 236 江陵攻略の総督していた時、長孫倹も于謹に策略を尋ねたてたりするし、 宇文護と楊忠へ精騎を与えて江津を占領させて、 東からの援軍を遮断させたたりしているし、 推測だけど例えたら、于謹は孫呉の周瑜みたいな立場じゃないのかな。 238 237 sage 2007/02/24(土) 22 18 39 ID gRAaQU8u0 豆盧寧の功績は宇文泰や于謹の指揮下での戦績や反乱を鎮圧したのが多いよね、 于謹と同様に各地を展戦し功績を挙げている李弼が 有力候補にすら入ってないのを見ると、于謹、豆盧寧の十傑入りは厳しいんじゃないかな。 206が言うように重鎮とか戦略家、あと〇〇の指揮下や反乱鎮圧で功績を挙げた武将も このスレでは歓迎されていないように思う。 于謹、豆盧寧より数人が名前を挙げてる高洋の方が良いような気がするけど如何ですかね。 よかったら高洋の推薦文書こうか?(これ以上北朝の武将を増やすのは躊躇いがあるが) 今日も進展ないんだろうな・・・ 239 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/24(土) 22 39 53 ID lZI7/8Cw0 とりあえず 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 ・・・というのが現状。暫定の高歓を高洋に代えて、 同じく暫定の宇文泰を拓跋燾に代えてみてはどーやろ。 あと斛律光、韋叔裕、蘭欽(←個人的嗜好が多分に混ざってます)を推す。 豆盧寧は顔と“三老”の一人って肩書きに惹かれてとりあえず訳しただけやから無視してOK。 于謹はどーやろ? まぁ意地でも執着するってつもりもないし候補落ちでも問題ないです。 ・・・本当に、なんでこう過疎なんやろね。 240 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/24(土) 22 40 30 ID L9vFa+ZB0 お願いします。 私はこの時代は手を出せないので、詳しい人頼みですよ。 無知な私を啓蒙するようなマンセーをお願いしますよ。 241 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/24(土) 22 56 51 ID Q2fDkW120 239 ほんと、ゴメン。 唐、五代過ぎたらまた黙りますけどw 242 237 sage 2007/02/24(土) 23 19 51 ID gRAaQU8u0 239 于謹は先程意見を述べさせて貰ったのが漏れの見解です。 韋叔裕、蘭欽、拓跋 の三名は確定入りでいいと思いますし、 残り枠は斛律光、段韶、高洋から選べばいいかなと思っています。 高歓と宇文泰も無理に外さなくてもいいと思いますよ。 高歓と宇文泰は因縁のライバルだし功績は高洋に決して負けて無いと思いますけど。 (宇文泰は高洋に打ち負かされているけどね) 如何ですかね? ここ数日の間、殆ど◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんと漏れだけで語り合ってるような希ガス(ry 過疎化なのはやっぱ南北朝がマイナーな時代だからなのかな・・・ 243 237 sage 2007/02/24(土) 23 28 06 ID gRAaQU8u0 追伸 ◆RQdk7scN8sさんの客観的な意見またはツッコミをぜひお願いしますよ。 つーか大歓迎しますよw 244 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/24(土) 23 53 56 ID D6caCvtpO 242 おいおい俺も結構話に参加してるんだけど…( `Д´) 245 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 00 09 20 ID sMWZRMju0 自分もーときどきね 拓跋燾が入ってればいいよ と言うか宇文泰が確定で拓跋燾が確定じゃなかったんだ どうしてなのか…理解できない 246 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/25(日) 00 29 56 ID oP5k2IGQ0 245 叩きの時点で「あ、この人功績凄いけど宦官に殺されとるんやが。除外」 って意識が働いたもんで外したんです。すんません。 そのくせ部下に殺された拓跋珪は入れたという・・・我ながら変な選考基準やね。 247 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 02 44 14 ID KdE3R6CP0 北朝でまだ推したい人がいるんだが、偏ってしまうので書きにくい 誰か南朝プリーズ 248 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 03 50 51 ID VB/ku5FD0 李靖 戰神、昆沙門天の下世 249 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 07 54 52 ID YcJrJNnrO 曾国藩は如何です?元は文官だけど。 250 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 08 30 12 ID VB/ku5FD0 曾国藩 李秀成 251 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 10 22 22 ID uTBiPFEPO 247 南朝は厳しいっしょ!? 陳覇先は王僧弁の遺臣に悩まされてるから候補どまりだと思う。 王琳は時代や王朝が違えば変わると思うが、やはり厳しいし、 その王琳を破った呉明徹も候補に入れるのは躊躇する。 陳朝の章昭達は、こうやって名前が出るだけで充分だし。 簫摩か(漢字が出ない)にしても名将かと言われれば否だし。 252 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 10 49 24 ID m7lRrmYZO 247 南朝プリーズって言われても推薦したいのいないんだよなぁ~ 取り敢えず挙げるなら曹景宗、王茂、呉明徹ら辺りだな。 でも 251の言う通り呉明徹は推薦するほどではないし、曹景宗、王茂も俺は推薦しない。 それと北朝に偏るから俺は高洋を推薦するのに躊躇があるな。 これ以上候補者を増やすのはどうなんだろうね。 つーか一応名前挙げてみなよ。 253 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 13 27 32 ID EPr/dfx90 陳覇先は敵だった人物をどんどん配下に入れていく度量は好きなんだけど この時代十選に入る名将かと言われると微妙なところだ 蕭摩訶は隋の誰かが言ったように「一夫の用のみ」だしな しかし南朝の人物は確定に四人もいるから別に無理して搾り出さなくてもいいんじゃないか 254 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 14 25 23 ID v6A3yq7p0 251 呉明徹 秦郡・寿春を陥落させ、王琳を滅ぼし、淮南を獲得。 北周に攻め入るも王軌の計略に填まり大敗。 捕われて長安に連行され、そこで病死。 蕭摩訶 呉明徹の下で北伐に従い、その後も呉明徹の下で転戦し、 明毅将軍、武毅将軍・右衛将軍へ累進しているが 呉明徹の死後たびたび北伐を起すも功績を挙げてないし、 隋の南下に抵抗するも隋の賀若弼に捕われている。 晩年は楊諒の謀反に従い処刑されている。 章昭達 陳の文帝から四帝に仕えた。侍中、車騎大将軍となり、さらには司空までなった。 義勇兵を募って建康にはいり、侯景軍を相手に奮戦。 王僧弁の残党、杜龕との呉興を巡る戦いでは第一等の武功を上げ、 陳のみならず陳覇先の信任も得る。 陳の即位後は、皇帝の股肱として重用され、これに応えるように次々に武功を上げてゆく。 王琳を北斉に駆逐した柵口の戦いでは、蕪湖での水戦で王琳軍を大破、勲第一とされた。 周迪の反乱では呉明徹に代わり討伐軍を指揮。 陳宝応が周迪を保護し一挙に叛乱すると、討伐軍の司令官として周迪、陳宝応を相次いで撃破。 ビン中を平定して陳宝応、留異を捕らえる。 これらの武功をもって鎮前将軍、開府儀同三司に任じられている。 しかし安蜀城を攻めた際、李遷哲と陸騰に撃退されてる。 江陵を水攻めにしようとするも、陸騰が出てきて戦うが章昭達は分が悪くなり、退却している。 王琳 湘東王に属して侯景討伐に功を挙げるなど軍功によって累進。 滅梁の後は湖南に大勢力をなし、斉と結んで陳と対立し、文帝のとき滅ぼされた。 以上いろんな所から抜粋。 253の意見に漏れも同意。 まあどっちみち候補入りは厳しいだろう・・・ 255 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 16 36 27 ID sMWZRMju0 246 謝られるとかえって恐縮です うるさいこと言って本当にごめん(北魏好きなので) 拓跋珪を殺したのは拓跋紹(拓跋珪の次子、当時16歳) 札付き少年で、怒った拓跋珪が井戸に逆さ吊りにしたこともある 彼が拓跋珪を殺したのは、拓跋珪に殺されそうになった生母(賀夫人)を助ける為 247 書かないことには始まらないよ 256 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 17 45 29 ID uTBiPFEPO 253 おそらく、南朝の劉宋、梁と出てるから、 陳からも候補を出したかったんじゃないのかな? 陳覇先、呉明徹、簫摩訶、章昭達に絞られると思うんだけど、 仮に北朝側に使えても高名を得られるのは、陳覇先のみかな? もはや名前を出す段階じゃなくて、あとは決めるだけでしょ。 257 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 18 32 16 ID v6A3yq7p0 265 いや多分、北朝に偏り過ぎるのを考慮して南朝側からも 候補者を挙げて欲しかったんだろうな。きっと。 漏れもバランスを取る為に南朝側から誰か推薦しようかと思ったが諦めたぐらいだし。 まあ 247が推したい武将がいるみたいだし、挙げてもらうぐらいはいいんじゃない。 258 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 18 36 09 ID v6A3yq7p0 256とアンカー打ち間違えた。スマン 259 247 sage 2007/02/25(日) 19 46 20 ID KdE3R6CP0 257の言うとおり、北朝、それも後期に偏るので南朝に詳しい人にもっと出して欲しかった もう決める段階ということなので、名前だけ投下して消える 宇文憲(斉王憲)、王琳、賀抜勝、高敖曹 260 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/25(日) 21 27 43 ID pqSt5D8y0 【劉宋】 臧貭、魯宗之、沈攸之、柳元景、薛安都(?)、沈慶之、劉誕、劉秀之、 宗越、譚金、呉喜、王宜興、殷孝祖、沈文秀、杜彗度、陳憲。 【南斉】 柳世隆、垣崇祖、張敬児、陳顕達、王玄載、呂安国、周山図、周盤龍、 王広之、載僧静、焦度、曹虎、蕭景先、王融、張沖、裴叔業、王洪範。 ・・・南朝初期の名将・・・というには不足かもしれんがまぁそんな感じの 人たち。梁、陳はあらかた既出なので調べません。つーか余力ないです。まぁ どいつもこいつも10選に入る器とは違うやろーけど、一応名前だけ紹介。 261 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 22 36 00 ID v6A3yq7p0 260 そうなんだよね。 漏れが南朝側から誰か推薦しようかと思ったが諦めた理由は 既に候補に挙がっている人物以外は名将と呼べる程の人物がいないからなんだよな。 それよりもう確定の残り枠を決めていこうか。 262 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 23 00 38 ID v6A3yq7p0 【名前】高洋 【時代】南北朝 【推薦理由】侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。 また西魏と争って江陵を奪った。北伐して、契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退してるし、その宇文泰に戦闘の才を褒めそやされた位の人物 また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。 酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、 非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で 『資治通鑑』には、高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、 高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。 高洋の推薦文を挙げてなかったので念のため挙げておくよ。 263 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/26(月) 18 53 15 ID PsqbDDaI0 蘭欽、拓跋 、韋叔裕は確定でいいんじゃないかな 俺は高洋と段ショウに一票 264 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/26(月) 23 29 15 ID ABU0aJ6b0 259 宇文憲(斉王憲) 564年北周の尉遅迥と共に洛陽に迫ったが、斛律光に打ち破られている。 570年宇文憲の軍は斛律光に潰滅させられている。 賀抜勝 懐朔鎮を守り、葛栄討伐や北海王元 の平定に従い、 また都督三荊二郢南襄南雍七州諸軍事として梁軍を破っているが 高歓が爾朱氏討伐した時に爾朱仲遠に従って参戦するも高歓に敗れているし 北魏の孝武帝が関中に逃れた際、高歓に対抗しようとして侯景に敗れているし、 後に北還の兵を挙げるも侯景に迎撃され敗退している。 高敖曹 高歓に帰順して爾朱兆を滅ぼした時と 侯景と共に荊州を攻撃、独弧信を敗走させた以外戦績がイマイチ 538年に北周の達奚武に討ち取られているし。 王琳を含め十傑入りは厳しいと思う。 265 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/27(火) 22 05 58 ID q1p5m1xyO 263 韋叔裕は斛律光が確定でないなら、候補以下だろ。 266 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/27(火) 23 01 44 ID bMMRctAy0 265 斛律光は確定でいいんじゃないのか? 韋叔裕を破っているし。 267 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/27(火) 23 03 30 ID M+mKbIQiO 劉裕、 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋 高歓 宇文泰 蘭欽 段韶 高洋 個人的にはこんなかんじかな 段韶を斛律光に代えてもいいけど 268 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/27(火) 23 12 43 ID q21jvMQF0 それを言ったら高歓は韋孝寛に勝てていないし 韋孝寛は策謀で斛律光を殺させている 269 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 02 23 59 ID 04g/9RR60 268 >策謀で斛律光を殺させている これは戦績にカウントするの? 270 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 02 25 09 ID fKtxzfX60 普通はされない 斛律光が外れる要因もさっぱり判らない 彼こそ南北朝時代の代表的名将なのに 271 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 02 56 06 ID 04g/9RR60 策謀により殺されたのがノーカウントなら 斛律光の確定入りには問題無く決定ということで まあ 270の指摘どうり外される要因も見当たらない訳だし 劉裕 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋 高歓 宇文泰 蘭欽 斛律光 高洋 確定は以上の十人でいいかな? 272 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 15 01 21 ID +3uepBVG0 271 高歓の代わりに韋孝寛を入れたらどうか。 高歓、結構負け多いし。 韋孝寛にも負けてる。 273 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/28(水) 20 26 30 ID 3fcOmC6GO 俺も高歓は外したいと思う。 ただ、この時代を象徴する――ということを考えたら入るのかな?とは思った。 274 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 21 13 12 ID 01zQ5ORz0 象徴するというのは、その意味によっては宇宙大償軍が欠かせなくなるので、 深く気にしない方がよいのではないでしょうか。 275 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 22 25 01 ID KzlNdH0r0 これは冗談で言うのだが、いっそ選外というか番外で宇宙大将軍枠というのを作って そこに侯景を入れてしまいましょう。 真面目な話しをすると、 271だったら高歓と宇文泰は外しません?この二人、君主と してはともかく将帥としては配下の方が上のヤツらが揃っているでしょう。 推薦は、宇文泰の代わりに韋叔裕、高歓の代わりに慕容紹宗か段韶で。 ところで、拓跋って拓跋燾のことでいいのよね? 276 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 22 40 27 ID xbugPRMBO 275 じゃあ高歓と宇文泰を外し空いた枠は韋叔裕と段韶がいいと思う 慕容紹宗は韋叔裕、段韶より戦績が劣ると思うし あと俺の場合拓跋 のトウの漢字が変換できないんだ 277 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 23 43 32 ID 04g/9RR60 275 では宇文泰の代わりに韋叔裕、高歓の代わりに段韶で 漏れも慕容紹宗より段韶の方がいいかと思いますし >ところで、拓跋って拓跋籌のことでいいのよね? その通りで漏れはさっき調べるまで字が分からなかったのでそのままコピペしましたw その上変換も出来ませんでした だから当て字でご勘弁を・・・ 278 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 23 56 43 ID KzlNdH0r0 276 277 えー、別に責めたりしてるわけでなく単に確認のつもりでした。 御気に触ったらすいません。 では現状で 【確定】 劉裕 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋燾 蘭欽 斛律光 高洋 で候補というか確定入りの案として 「高歓・宇文泰」か「韋叔裕・段韶」のどちらか。現在後者が一歩リード ということでよろし? 279 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/01(木) 00 21 52 ID QUoF+NEA0 拓跋燾→燾。 &を半角 にしてコピペ。 280 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/01(木) 00 26 16 ID gn/agLaYO 宇文泰よりか息子の宇文ヨウの方が名将じゃない? 281 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/01(木) 15 26 31 ID dw40jr3C0 太武帝でいいじゃないか 282 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/01(木) 16 52 12 ID pAyLpTYCO 281 そりゃそうなんだけどそんなこと言うんだったら 劉裕、高歓、宇文泰、高洋も帝号で書いてないじゃん 拓跋燾も名前で書いてあげてもいいだろ? まあ別に識別付くならどっちでもいいけど 283 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/01(木) 21 30 14 ID f45QL7ME0 278さん逆に気を使わせて仕舞い恐縮です ◆RQdk7scN8sさん親切にお教えていただきありがとう 280 宇文泰と宇文ヨウの置かれた状況が違うので どちらが将として優っているかは安易に判断出来ないと思う 284 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 22 46 26 ID 6uCi8qQb0 また動きが停まった? だいたい二日たって反論異論がほぼ無いということは、 278で 【確定】 劉裕 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋燾 蘭欽 斛律光 高洋 韋叔裕 段韶 でよろしいということで、次の時代へいってよしということでしょうか? 285 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 08 00 ID 4DSUpOV5O 284 俺は異論ないよ たぶん明日まで待ってても反論異論はないと思うし、次の時代に移ってもいいんと思うよ 286 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 23 18 23 ID scz/XHN9O 難民板の百選スレでも結構中国史の人物について語られてるね 287 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 20 20 ID 4PzOFmBl0 284 いいよ 288 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/02(金) 23 20 46 ID burmEGiJ0 とうとう唐ですか。 あ、しょうもないこと言ったw とりあえず今日は寝るです。おやすみ。 289 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 24 37 ID 24u7bz1/0 南北朝は珍しく十人決まったな 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 ここは大体決まってて、あと二人 290 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 23 27 49 ID Db5pa5BL0 玄奘を推すぞ。 孫悟空等、人外の妖怪どもを見事に束ねる統率力は相当なものw 291 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 34 54 ID wQSlDchu0 李孝恭が二人いる件 292 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 48 04 ID 4DSUpOV5O 唐の時代を二分割にするのはどうだと今更言ったらやっぱ怒られる? 例えば安禄山の乱までを前半、安禄山の乱以後を後半とかこの案ってどうだろ 290とっとと消えな 293 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 58 08 ID 24u7bz1/0 291 貼ったあとで気づいた 薛仁貴も二人いるな 294 290 sage 2007/03/03(土) 00 02 38 ID Q30jS8ho0 292 290は軽い冗談。 これぐらいのネタが容認できんようじゃ2ch向きじゃないよ。 それと、君の提案は受け入れられないと思うよ。 今更時代区分を話し合おうとか言うのは、荒らし扱いを受けるだけだろうし。 それと、隋唐は318年間と確かに他に比べて期間は長めではあるけど、 これを2分割するとなると、他に比べて極端に短い期間になるし、 その分のツケが他の時代に回ってくるから、今のままが無難だね。 295 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 00 20 07 ID FZddzMuM0 しかしつまらん冗談だ 296 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 00 29 17 ID wXoh3GKrO 294 冗談なら別にいいんだけどw いやー南北朝があまりに過疎ってたから思わずキツイ言い方になっちゃった 気を悪くしたらゴメンね 俺の提案は別に却下されてもいいんだけどね ちょっと聞いてみただけだし 297 nekoman 2007/03/03(土) 00 30 27 ID aXgCKWnA0 裏情報アリ http //www.geocities.jp/ijyuuin3/ 298 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 04 04 13 ID QqeTWAqp0 279 そういう文字をまとめて辞書に入れられるファイルってどこかにありますか? 299 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/03(土) 15 52 07 ID Fcn9qi5g0 あれ? すると李孝恭は確定、候補どっちなんだろう… 彼の軍歴は今更言うまでもないと思うけど、簡略にまとめてみようか。 唐国公李淵が長安で即位してより、第一線を二子李世民に政治中枢である中原(河南~河北)の平定を委ねた。 その一方で、甥である李孝恭を山南道招慰大使として山南道(おおまかに言って蜀の地方)平定に向かわせた。 李孝恭は巴蜀30余州を平定し、次は江陵に拠った南朝梁の末裔を名乗る蕭銑の討伐を上奏し容れられると 趙郡王として水陸12軍を統率してこれを討滅した。 輔公祐の乱が起きると、李靖、李勣らを指揮下に置き討伐に向かった。 後、揚州大都督となり貞観年間に入って礼部尚書、河間王に封じられた。 禁欲的な従兄弟である李世民に比べ、豪奢で派手好み、性格は磊落、女好きで屋敷には100人ほどの歌姫を囲ったとか。 それでいて功績を誇らず、李世民に深く信頼された。 つまり、李世民が北で暴れていた頃、南の経略に走っていたという感じ。 300 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 17 18 57 ID 82O9Tjv20 江南の蕭銑平定は実質李靖がやったようなもんじゃないのかな 李靖のいうこと聞かずに大敗したりしてるし 隋が陳平定したとき楊広が総司令官だったような感じとは違うの?
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/33.html
501 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 02 20 27 ID G6anuSEy0 お前がレスしなければ終わると何故気づかん 502 ◆RQdk7scN8s 2007/03/22(木) 20 04 59 ID BgsEBHfT0 よくはわからないが、冒頓単于はだいぶ違うような気がする。 例えて言うなら、日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。 遼は唐が崩壊してのち、中国内地に新たな統一政権ができる前に、巨大な統一政権(中華政権とは違う根っこ)となっており 晋も後唐も後晋も北宋も、事実上の衛星国家であって(真の衛星国家は後晋だけ)、まぁ中華という由緒あるお国が 頭を押さえつけられていた、苦難の時代だったわけですよ。 その意味では金も元も同じことではありますが、中国内地への干渉の密度というか、期間というか そういったものが遼には足りないかな、と。 この際、匈奴や突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じと考えるのはいかが?(国史は華麗にスルーということで) 503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 20 07 58 ID 0wSl8cUL0 502 日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。 どちらかというとシャクシャイン、アテルイや薩摩藩の支配下に入る前の琉球の人物を上げられる程度の違和感ではなかろうか? 504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21 10 27 ID agkaWfz50 誰がどの程度の違和感を抱こうが自由ではなかろうか? 505 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/22(木) 21 17 32 ID sKLTOXlHO 正史として遼史、金史、元史、清史稿があるのだから、いっそのこと これらの王朝に属した者は対象とする。 ただし、その業績は万里の長城内の戦いや、対中華王朝との戦役のみをカウントし、 それ以外の戦いは、戦史的に重要なものであっても、一切考慮しない。 鉄木真のモンゴル統一時の戦いは、この場合はずれ、伯顔の伐宋は入る。 こんな感じ。 506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21 57 22 ID u3kHLofq0 502 冒頓単于はだいぶ違うどころの話ではない。全く別物。 漢代の匈奴は突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じ扱いにするのが妥当。 南宋で言えばタタル、ナイマン、オイラート的存在。 505の提案なら問題なさそうでは? これでダメならすっぱりと例の人に諦めてもらえばいいだけ!! 507 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21 58 25 ID VZGb6AWu0 西夏はダメなの? 508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 22 28 55 ID u3kHLofq0 507 いいとは思うけど候補に挙げるほどの武将いないでしょ? (確か李継遷、李元昊ぐらいしか居なかったキガス ) 509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 22 42 14 ID 9E/D5ASB0 505 いいと思うが、一点だけ。 「対中華王朝との戦役のみ」は「中華王朝征服の戦役のみ」とすべき。 単に中華王朝との戦いというのでは前述の冒頓単于やエセン・ハンなども入ってしまう。 これだと遼は耶律休哥を含めてほぼ除外(対象になるのは耶律徳光くらいか) 金は靖康の変以降。清は入関以降。 510 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/23(金) 00 19 40 ID XxeR28Vb0 別に遼を諦めるのは問題なしです。 あと、ちょいと謝る必要が出てきたんで一言。 俺答(アルタン)も也先(エセン)も正史の列伝に入ってないんやね。 これは「正史に伝があれば問題なし」という俺のスタンスに反するんで 中国武将ではないなと。 イギリス将校も《清史稿》に名前挙がってないしね。昨日は長々とすんません。 ただ、中国の史書に《遼史》はあって《朝鮮史》、《日本史》はないんやから、 同じく中国的国家作りを目指したからと言って 遼と日本、朝鮮を一緒の俎上に上げるのはちょいとナンセンスではないかと。 ま、言いたいことはそれだけ。 これ以上遼にこだわると前みたいに荒れる原因になる気がするんで、 これでスパッと諦めますわ。もとより遼にはそれほど固執してないし。 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 00 47 08 ID VqdxipuS0 509 505の基準に従うなら冒頓やエセンが入る心配はいらないと思うが。 完全に外部勢力だった匈奴やオイラートと、中国の一部を長期間支配した 遼はかなり違う。 この場合遼は長城内で戦った武将は入ることになる。 512 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 02 20 24 ID 7Om45kvYO 507 名将の選考基準が、すべての時代で一定していたとは思えない。 人間がやることには限界があり、そのつど例外がある。 正史があり、後の王朝から正当な中華王朝である、もしくはそれに準ずる 政権であったと目された遼でさえ紛糾している。 西夏の人物が入るには、 ①名将であることを証明する ②中国の人物であることを立証する 以上の事が必要だと思われる。 例えば西夏の景宗、李元昊は、宋に服従する父、李徳明に対し 英雄に生まれた以上、王者となり覇業を遂げて当然なのです。どうして宋室に媚びる必要がありますか と答えたという。 彼の目指したモノは、制度的・文化的にも宋からの独立であり、 文官・武官に独自の服装を定め、人民に坊主頭にする事を強制している。 彼の本意が宋からの独立ではなく、中華征服なのであれば、入れても良いかもしれないが。 513 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 02 20 45 ID Hm6YJx1f0 PS3でFolding@homeが利用可能になりました! タンパク質解析プロジェクトFolding@homeで病気で苦しむ人達を救えるかも。 PS3をお持ちの方、下記いずれでも構いません、ご参加下さい。 ・2ch全体として参加したい方 チーム名:Team 2ch PS3でFolding@homeしようぜ(Team 2ch) http //ex22.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1174030817/ ・PS3所有者として参加したい方 チーム名:2ch@PS3 【PS3】Folding@home総合スレッド1【Cell】 http //ex22.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1174557458/ 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 20 02 54 ID juGduEuT0 楊師厚(?~915) 潁州斤溝の人。元々は李罕之の部下で、李罕之が李克用に降ると、これに従った。 のちに罪をえて朱全忠のもとに逃れ、宣武軍押衙・曹州刺史となった。 青州の王師範との戦いで偏将八十余人を捕らえる戦功を挙げる。 また襄陽の趙匡凝を破る。 山南東道節度使・同中書門下平章事に任ぜられた。 劉知俊が長安に拠ってそむくと、これを奇兵をもって撃破した。 また晋の周徳威を蒙坑で破り。保義軍節度使に転じた。 朱友珪が立つと、天雄軍節度使に任ぜられ、 末帝が立つと、?王に封ぜられた。 後梁・太祖の遠征時には常に先鋒を務めたともいわれ、 旗下には後梁の精鋭部隊が所属していた。 五代後梁屈指の名将である楊師厚を推薦する。 あと後梁からは王彦章、王景仁を 後唐からは郭崇韜を推薦したい。 遼を入れる入れないの関係の話ばかりなのでここらで少し流れを変える為に投下してみた。 (もちろんその議論も重要なのだが) 515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 20 21 19 ID 1Pf0fG5D0 元が入るなら、金も遼も入れるべきだろうと思うが。 匈奴、鮮卑、突厥、回鶻、蒙古や 高句麗、渤海、後金を入れろって訳じゃあないんだから。 516 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 20 58 05 ID 7Om45kvYO 515 ナニをもって中国の武将とするかの問題。 金、遼のいつからを選考に入れるのか? それが問題。 遼将のすべてを対象にしたら、中国の範囲が広くなりすぎる。 基準はその人物、政権に、 517 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 21 04 31 ID 7Om45kvYO 中原に覇を唱え、中華征服を狙っていたか、どうか?だと思うが、 それだとティムール入るよね? だから線を引いて、明確な基準を作りましょう。 518 ◆RQdk7scN8s 2007/03/23(金) 21 14 48 ID Vwh02sV40 わ~い、五代の武将キター 「?王」のところは「鄴王」だね。 銀槍効節都は後に李存勗に引き継がれたということで、実は楊師厚を引き立て役程度にしか見ていなかった… 改めて見ると、かなり有能な武将。 郭崇韜 軍政官、常山の重鎮、建国の第一等功臣、前蜀討伐の事実上の総司令官。 ついでに言えば、冤罪による不遇の死。 しかし、こと戦術となるとどうかな、と。 自分も推挙したものの、自らひっこめた過去があります。 よりも、ですよ。 晋~後唐の李存審が縦横無尽ですばらしい。 李存審は李克用の仮子となった人で、元の名を符存審。 李克用の仮子といえば、第一に後唐明宗である李嗣源が有名なわけですが 李存勗時代で言えば、李存審の方がインパクトあるかも、と。 李克用の十三太保の中では、順番としては9番目で、地味なことこの上ないですが。 まぁ、「十三太保」の主役は李存孝と史敬思なわけだから、それはいいとして。 戦史に残す輝かしい勝利を飾った柏郷の戦いで、周徳威が後梁の王景仁を破ったときは、李存審は晋陽の守りでした。 朱温(朱晃)が子の朱友珪に殺され、後梁内に内訌が起こったとき 河中の朱友謙(朱温の子。後、李継麟と改名)は朱友珪の討伐を受けることになった。 後梁軍は康壊貞(岐州の李茂貞を虢県の戦いで破った人)を招討使(総大将)とし攻めさせたが 朱友謙は晋に救いを求めた。李存勗は、李存審を出撃させた。 李存審は胡壁において、後梁軍5万を撃ち破った。 また、敗残兵を立て直そうと平陽に退いた康壊貞は、後詰で出てきていた李存勗と不運にも遭遇してしまい とどめを刺される… さらに後梁では新帝・朱友珪が遊び狂ったので、朱友貞(末帝)によって殺された。 その後すぐに、魏博天雄軍の楊師厚が卒したので、後梁はこれ幸いにと強力な藩鎮の分割を打診した。 決定を嫌がった魏州の兵たちは騒然となった。 そのとき、魏州を牽制に後梁の劉鄩が兵6万とともに黄河を渡って陣を構えたが 魏州が晋の側につき、それを助けるため李存勗は魏州にまで出陣した。 劉鄩はそのまま対晋防衛軍となった。 劉鄩は計略の多い将で、李存勗を疑兵でもって魏州に釘付けにする一方で、自身は本隊を率いて西から晋陽の攻撃へと向かった。 李存勗は動かない劉鄩を奇策があるとして警戒していたが、ついに実は晋陽を狙っているとの報告を受け蒼白となった。 しかし天は劉鄩に味方せず、このときに限ってひどい大雨となりまともに進軍もできないありさまだった。 後手に回っていた周徳威が必死に救援にかけつけ、どうにか晋陽の守りは整えることができたので 劉鄩は大きく貝州にまで退かねばならなかった。 態勢を立て直し、敵の疲れを待つ持久戦を計画したとたん、朝廷から即戦の督促状が届き、あげく 「戦わずに補給の要請とは。将軍、それは敵を破るためか、それとも財を得んがためか?」と詰問された。 さらに彼の周りの将帥も、血気にはやり勝算もなく出撃を主張した。劉鄩は 「ああ、主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、兵は怠惰。これでは一体、どんな死に様をさらすのか…」 と有名な嘆きのセリフをこぼしました。 それでもなお、起死回生のチャンスを狙って、どうにか士卒をおさえ、やがてそのチャンスがきた。 李存勗は長帯陣に倦み、自身だけ晋陽に帰ると言って一隊を率いて戦線を離脱した。 これを見てとった劉鄩は、全軍に出撃を命じ、魏州の奪回に乗り出した。 実は伏兵として潜んでいた李存審は、劉鄩が軍を動かすのを見ており、ひそかにそれを追尾した。 魏州には李嗣源がいたが、劉鄩はそれを押し、魏州を手に入れられるかと思いきや 後方から李存審に衝かれ、あまつさえ帰ったはずの李存勗が突如現れたので、完全に包囲殲滅の態勢に落とし込まれた。 後梁軍はここで、実に7万からの歩兵等を殲滅され、劉鄩は数十騎とともに逃げ帰るありさまだった。 以上、我らが不運の名将・劉鄩閣下の不勝伝説。 あれ?誰の説明だったっけ… いったん切ります。 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 22 38 54 ID juGduEuT0 ◆RQdk7scN8sさん レス㌧ 楊師厚はなかなかのやり手だと思ってます!! あと熱く語るのはいいのですがちょっと自分にはハードル高杉~w お手柔らかにお願いしますよ(^^; 自分は後唐から周徳威、李嗣源、郭崇韜、霍彦威 後梁から王彦章、後周から王景なんかいいんじゃないかなぁ~と思ってます。 ≫「?王」のところは「4王」だね。 スンマセン、ボロPCなもんでたまに変換出来ないです・・・ 520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/24(土) 09 18 14 ID JMkQAoJSO すいません以前レスの中に名前が登場した 後梁の康壊貞と寇彦卿、符道昭と後晋の桑維翰について教えてくれませんか? 面倒なら〇〇は××を打ち破ったぐらいでもいいです。 何しろ五代に関しては知識が皆無なものでよろしくお願いします。 521 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 00 34 13 ID fhmvZMJPO 範囲は大陸にあった漢字一字の国の武将。でいいじゃん 522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 00 43 34 ID rM7USuue0 (西)夏も入るのか? 523 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 01 16 53 ID H//pJM0KO 521 つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい? 違うよね? ならば、それまで中国に属してた西夏と、交[足止](ヴェトナム)の扱いは? 一時的か、そうじゃないかの違いで、この時期に共に独立を果たしてる。 号は夏と、越って考えて良いからその判断なら、選考に入れて良い? 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 02 14 07 ID z1cfCt9qO わーい挙げ足取りキター―w 521の意見をじゃ当然挙げ足取られてるがオチだよな 525 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 02 51 45 ID DFe1bYGgO 523 南宋も北宋も国号は宋でしょ。 東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。 ただ、五代十国の呉越とかはどうなるの?ってはなるが。 526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 03 10 33 ID 8yYClWNt0 李存勗時代の名将は既に楊師厚、劉鄩、李存審などが挙がっているが ここはあえて意表をついて趙の張処瑾を 921年2月、張処瑾の親父張文礼が「趙王」王鎔を殺した。これを聞いた 李存勗は彼を討とうとするもその余裕がなく、やむなく成徳留後に任命して その支配を認めた。 しかし不安な張文礼は契丹と梁に救援を求めるも、その文書が李存勗の 手に落ちてしまった。8月、遂に李存勗は趙将符習、及び閻宝、史建瑭に 張文礼討伐を命じる。 が、肝心の張文礼は晋軍が侵攻してきた矢先に病死し、息子の張処瑾が鎮州に 立て篭もって戦うこととなる。この後張処瑾と鎮州は約1年に渡って抵抗し、 その間晋は史建瑭・李嗣昭・李存進の3人が戦死するというかつてない損失を 蒙ることになった。 さらに鎮州が滅びれば次は自分たちの番だと思い込んだ定州の王処直・王郁親子 が契丹に通じ、これに乗じて大挙南進してくる契丹と戦うために李存勗が北に 向かえば後梁軍が北上してくるという大騒ぎに発展していく。 最終的に922年9月、鎮州は食糧が尽き内応により降伏するが、晋軍がこれに 手こずっている隙に後梁は衛州を含む澶州の西、相州の南を奪還することに成功 していた。 名将ではないかもしれないが、ある意味李存勗を最も苦しめた人物でないかと 思ったので書いてみました。 527 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 03 37 59 ID DZSn4ljW0 520 自分も完全に正史読めているわけじゃないので、いろいろ間違いあるかもなので、詳しいところはヤバイからぼかしますw それでまず「康壊貞」。 兗州の人で、 475にもチラっと書きましたが 朱温が汴州(開封)に拠ってから敵対した、朱従兄弟のうち兗州節度使・朱瑾の列校として配下にいた。 朱瑾はそのときも書いたけど、勇猛な人であり、康壊貞も驍勇をもって鳴る。 朱温が鄆州(うんしゅう)を平定し、朱温側の主砲のひとり、葛従周が迫ると城をもって降った。 最初は氏叔琮という、これも朱温軍にあっては主砲のひとりの部隊に従軍した。 氏叔琮が、襄州・漢州を攻めているとき、康壊貞は一軍を指揮し、鄧州(新野に近い)を陥とした。 幽州と雲州の藩鎮がそれぞれ、河東(晋陽)の李克用と対立すると、朱温は朝廷に働きかけて李克用を朝敵と認定させる。 それをもっとも熱狂的に支持したのは、宰相の張濬であり、唐昭宗は李克用討伐軍を発した。 張濬は総大将となり、晋州まで出陣し、朱温軍の驍将・葛従周らと李克用を挟撃する態勢をとった。 しかし、李存孝の神速の用兵により、朱温軍の誇る猛将・鄧季筠は一騎討ちにて敗亡し 葛従周もまた敗れて逃走した。 張濬は無謀にも野戦に撃って出たが、惨敗した。 朝廷は李克用の汚名を返上せねばならなかった。 こうして一時、河北は李克用の支配が強盛となったが、李存孝が叛したことにより、李克用勢力は不振となった。 ちょうどその頃、岐王・李茂貞(鳳翔節度使。岐王に封じられていた?)が朝廷の忌避を買い、これまた朝敵とされたが 誰もそれには参加せず、また李茂貞が罪を詫びたので沙汰やみとなった。 その頃朱温は、汴州と滑州と鄆州の三鎮を兼ね大勢力となっており、勢力不振に陥った李克用を攻めた。 しかしそれはうまくいかず、さらに河中(蒲州)を得ると、ふたたび北伐軍を発した。 そのときの主将に、氏叔琮を充て、李克用をして滅亡寸前まで追い詰めた。 (しかし李嗣源、李嗣昭ら仮子たちと、周徳威らの抵抗により止めを刺すには至らなかった) その一方で朱温自身は、李茂貞と戦うため西進していた。 ちょうど、唐昭宗が宦官らに拉致され、鳳翔へと逃げ込んだのであり、それを奪還した宰相ら清流派が朱温の武力を恃んだからだった。 朱温は昭宗を迎えるという名分で軍を動かし、先鋒として康壊貞を起用した。 李茂貞は部将・符道昭に歩騎一万余にて迎撃させた。 符道昭は武功に陣を置いたが、康壊貞はこれをひとつ陣鼓を打ち突撃しただけで大破してのけ 六千余からの捕虜と軍馬二千を奪った。 朱温は「ここは武功という地名か。今まさに敵を討った、これぞ武功なり」(多少表現ちがいますが)と言って、康壊貞の武功を絶賛した。 逃げた符道昭はさらに大軍をもって虢県(かくけん)に至るが、朱温は康壊貞に数千騎のみで迎え撃たせた。 符道昭は康壊貞軍を寡兵とみて挑戦をこころみたが 康壊貞は夜襲、伏兵と駆使してさんざんにこれを打ち破った。 鄜州(ふしゅう)の李周彜が李茂貞の救援のために三原に陣を置くと、康壊貞はこれと戦い 梨園城塞から翟州を抜いた。 李茂貞が奉天に陣を敷くと、康壊貞は東北方面から守りの薄いところを攻めたので、戦わずして李茂貞は退いた。 そのころ、青州の王師範が部将・劉鄩を遣わして、朱温の兗州を攻め落とし、また淮南の楊行密も これを機として宿州を攻めた。 朱温は康壊貞を急遽東進させ、これらを防がせた。 翌年、岐州攻めに戻り、劉知俊を補佐して、李茂貞の所領を削り取っていった。 朱温は康壊貞に「卿は上将の位にあり、勇は三軍に冠せり、敵、向かい来たらば破り…(なんかいいこと書いてますが、訳は??? すまん) と、まぁ岐王・李茂貞をコテンパンにやっつけた張本人。 符道昭は、康壊貞に対するヤラレ役みたいな感じ? そのあとは、河中において晋軍と対するものの、結構負けたりしている(相手が李存勗ではなぁ)。 後梁末帝にはあまり用いられず、終る。 末帝の諱(朱友貞)を避けて、名を康壊英としたため、列伝にはこちらで載っている。 かなり長いな… 相変わらず余計なことも書いてます。 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 06 06 13 ID z1cfCt9qO 527 ◆RQdk7scN8sさん サンクル 康壊貞ってなかなかの強者って感じですな。 いろいろと分かりやすく有難うございました。 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 10 23 44 ID 2qGmGLVT0 521 「大元」「大明」「大順」「大清」は? 530 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 11 11 32 ID H//pJM0KO 525 > 南宋も北宋も国号は宋でしょ。 だから 523で > つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい? > 違うよね? って断りをいれてるでしょ。 あと 東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。 いや後年グェン朝が、清朝に冊封を願い出たときの国号は南越だったよ。 それが通らず越南にしたら許可がおり、いまのヴェト(越)ナム(南)の名の元になった。 自分達の領土だって思ってても、中華じゃないよなぁって場所は、結構いい加減につけられてるよ。 って、いつまでたっても話が進まないし、五代の武将の話だけだとアレだから、 とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。 通る、通らないは別問題じゃね? で、耶律休哥を推薦。 505をもって中国の武将として判断した。 この時代は国号は契丹だよな?とか、難しい話はこの際おいとく。 せっかくの宋弱兵の時代、唐代の国土内の王朝を対象にしたら、 それはそれで面白いかな?と。 どうせ無難な選択されるんだから、賑やかしのために 名前や業績ぐらいなら、紹介しても良いんじゃない? その時代の直近の中華を統一した王朝の、その国土内に発生した戦いは、 すべて参考する――なんて大まかな括りをしても、 推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ? 531 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 11 21 52 ID DZSn4ljW0 李存審のつづき。 後梁随一の名将だった劉鄩を魏州で撃破した李存勗は (このときの劉鄩の作戦行動は、『百戦奇略』でも取り上げられている(変戦-臨機応変)。作戦の内容自体は理にかなっているということ。ただそれを上回った李存勗が戦術の天才だっただけ) 邢州・洺州など、河北の要衝を攻め落とし、また滄州(南皮)を取り、李存審をして滄州節度使とした。 晋軍が南征に狂奔しているころ、李克用と兄弟の盟約を結んでいた耶律阿保機が 晋陽の北、振武軍(朔州)に攻め入り、節度使・李嗣本を殺した。 耶律阿保機はさらに雲州を攻撃したが、それは李克用の仮子の一人、李存璋によって阻まれた。 方向を転じた耶律阿保機は東進して新州を攻め 邀撃に出た幽州節度使の名将・周徳威をも軽々と撃破してのけ幽州を包囲した。 李存勗は後梁に優越したとはいえ、未だ戦っている最中にこの腹背攻撃を受け、半狂乱となったが 李嗣源、李存審、閻宝ら諸将と謀り、周徳威の救援を決意した。 李存勗は南面して動けないので、李嗣源と李存審で一軍を指揮し、7万をもって北上した。 李存審は 「契丹は輜重が十分でないので、略奪するものがなくなればおのずと退くだろう。そこを猛追するにしかず」 と言ったが、李嗣源は 「いや、幽州は陥落寸前と聞く。周徳威は社稷の臣ゆえ、もしこれに万一のことがあってはならない。契丹が動くのを待っていては取り返しがつかない。わたし自ら先鋒となって向かおう」 そう言って、李嗣源と李存審らは易州に急行し、幽州を目前とした。 李嗣源は契丹軍は騎兵が多く、味方は歩兵が多いということから 平地ではなく山間に入り密かに軍をすすめて幽州に近づいた。 そうして一気に平地に踊り出、契丹軍の一隊と遭遇するや契丹語で叫びつつ三度突撃し 契丹の将一人を討ち取り、幽州への道を確保した。 一方、李存審は兵に木を切って逆茂木を一本づつ持たせ、平野において戦場で野戦陣をつくり 契丹騎兵の馳突を防ぐとともに、強弩を乱射して契丹騎兵をなぎ倒した(長篠?)。 さらに、幽州の契丹本営に迫ると、陣を構え待ち受けている契丹軍に対し、主力を敵の後方に伏せ 自身は弱兵を統率して火をつけた柴をひっぱり、草原を焼きながら契丹軍に迫った。 契丹軍はその煙幕のために晋軍の兵力がわからず狼狽したので 伏兵となっていた主力軍がそれに踊りかかって、大勝利を挙げた。 幽州はボロクソになったものの、無事救われ、再び晋軍は南征に専念できた。 で、大乱戦である胡柳の戦いへと続くわけですが… また今度w 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 12 02 31 ID z1cfCt9qO 530 >とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。 >通る、通らないは別問題じゃね? >推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ? 五代は専門外だから論議には参加してないけど 530さんの意見は最もだと思います。 清朝が許可云々はただ清朝が国号に関して知識が余り無かった為ではと 個人的には思いますし、そう言うのを反対材料にするのもどうかと思います。 ( 530さんは別に反対材料にしてはいませんが) 個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。 反対してる人の反対材料がイマイチ屁理屈に聞こえるのは気のせいかな? 533 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 12 44 39 ID rM7USuue0 どのあたりが屁理屈に聞こえますかね? 私には逆に、遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を範囲に入れるため に矛盾する定義を持ち出しているように見受けられるのですが? 534 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 12 58 05 ID DZSn4ljW0 527の追記。 康壊貞は後に、かつての上官だった劉知俊が岐王・李茂貞に付き叛し、霊武等を攻略したので その討伐のために大将として出陣した。 最初は寧州・慶州などを奪回し、三水に至っては劉知俊の攻撃を 左軍使・王彦章らの奮戦もあり、撃退したが、どうもそれは誘いの手口だったもよう 劉知俊は昇平に伏兵を置き、康壊貞が勢いに乗って追ってくると、これをさんざんに打ちのめした。 大敗した康壊貞は身一つで逃げる有様だった。 かつての上官ということで、あんまり乗り気しなかったのか、舐めていたのか… ちょっとパッとしませんね、この戦いでは。 さらに、河中の朱友謙が晋と通じると、これを討伐に向かったが 李存審と李存勗のダブルパンチを一身に喰らい昇天した。 あとは、自領の雍州に戻って死ぬまで短い期間、どうにも冴えなかった。 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 13 28 16 ID iuU/Xo9f0 533 同意 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 14 11 25 ID VnquViRn0 533 「矛盾する定義」ってのがどの辺を言ってるのかわからんですけど、 遼は最初っから論争の種になって棚上げ状態のまま来てて、 含めるかどうかの明確な基準は合意されたことはないんではないですかね? 自分的には反対派が冒頓やらエセンやらティムールやらを例に挙げてるのが屁理屈に感じますね。 遼については独立の正史が編纂されている点が上記の例とは明確に異なっているので。 505は明確で妥当な案に思えるのだけど、反対派と思われる 533さんや 535さんはどう考えてるんでしょう? 537 535 sage 2007/03/25(日) 14 39 54 ID iuU/Xo9f0 536 21 505 532 の定義で整合性がとれていないことが最大の矛盾 暫定的にせよ 21の定義で選考してきたのに、その後、西夏を入れてい たり、外していたりして中国を定義した意見を出してきても、自分の好きな 武将を入れるために、後出しで定義を変えようとしているように見える。 暫定的な定義の後で、明確な定義を決定していないのであれば、 21 の暫定的な定義に従うべきだろ。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 14 45 46 ID 2qGmGLVT0 清が「中国」の完成形じゃないのか? その原型が元であり、五代以降の遼と北宋、金と南宋だと思うが。 匈奴と漢、五胡と晋、突厥と唐とは関係の性質が違うように思うが。 539 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/25(日) 14 56 40 ID 4vpp3T0e0 533さん、 535さんへ ・遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を・・・ 俺が書き込むとまた議論になってスレが荒れてしまうかもしれんとか思うんやけど、一応。 俺含め契丹(代表・耶律休哥)とか蒙古(代表・トゥルイ)とか後金(代表・阿巴泰)を入れよう って人たちは、特別その武将(あるいは国家)が好きなわけやないと思うんよ。ただ「そのほうが 面白い」ってことで挙げてるだけで。異民族をシャットダウンしてしまうと 530氏の言うよーに 「無難な(面白みに欠ける)選考」になると思うし。ここは前スレでどなたかが提唱した「中国 本土に根刺した国家およびその国家樹立に貢献した先行政権の武将」は中国の武将として認める (多分こんな感じやった。ちょいと自信ないが)って定義が一番問題ないと思うっちゃけど、 どーやろ。史書にアルタンの名はなくても、耶律休哥の名はあるわけやし。 540 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 13 33 ID VnquViRn0 537 21と 505は矛盾する関係ではなくて、 21を補完して確定させる案が 505って流れと思います。 暫定的なまま棚上げしてきてたけど、まさにその棚上げの原因になっていた、 遼や元の線引きの問題に直面してるので明確な線引きを議論するのは当たり前では? 532の 個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。 を 21や 505と同レベルの例に挙げるのはおかしいんではないですかね? 定義の案ではなく、明確な根拠付けすらないので、単なる個人的な意見で議論の対象外と思いますが。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 15 27 04 ID H//pJM0KO 537 532を入れるのかw ありゃ話が進まないから、中国の定義論争じゃなく、人物をあげようという例だよ。 遼を入れたい人は遼将を推薦してるが、西夏は?って言ってる人がいるわりには、 ぜんぜん推薦する人物の名前が出てこないから言っただけ。 505の基準で文句はないよ。 とりあえず人物をあげて話し進めない? 名将を決めるんであって、ナニをもって中国とするか?じゃないんだろ? 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 34 34 ID iuU/Xo9f0 541 532 533 535の流れなんだから 532が入っていて当然だろ。 前スレから西夏は?って言ってる人は、西夏を入れろと言っているので はなくて、遼(契丹)・西夏・元・金あたりを公平に取り扱えと言いたい のだと思うぞ。 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 37 39 ID rM7USuue0 矛盾 21 のような「現在の中華人民共和国領土内」とするなら冒頓やエセンやティムールも含まれる。 しかし遼やモンゴルの武将を入れろと言ってこの定義を持ち出す人は、条件に合致する冒頓やエセン も入れろとは言わない。逆にいろいろと理由を後付で持ち出して否定する。 544 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 15 37 52 ID H//pJM0KO 532は俺の意見じゃないやw スマソ 530で西夏の話したから勘違いしたよ。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 43 51 ID VnquViRn0 543 冒頓もエセンもティムールも「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」に適合したとしても 「支那風の国号を持つ王朝」に属してないので 21の定義に従えば対象外。 反例に挙げること自体がまずおかしい。 それに 21の「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」は 対象があまりに広すぎるので合意がとれた定義ではないと思うけどね。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 46 31 ID vULUf26h0 むかし世界史で習った時は、遼・元・金は中国史扱いだった気がするんだけどな。 充分漢化したわけだし、入れないほうが違和感あるんじゃない? 清と扱いは変わらないでしょう。 西夏は……どうかなあ。 547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 17 52 03 ID RS7UDsUr0 金は完璧漢化してたが 遼まで漢化してたっていうのは中国文明の傲慢だろ 548 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 17 58 29 ID 2qGmGLVT0 周が漢化してたか? 秦が漢化してたか? 楚が漢化してたか? 中国≠漢族だろ。 549 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 02 34 ID WusCxBU/0 遼は南面北面の二重体制だから一概に言えないよな 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 11 00 ID vULUf26h0 あー漢化はそうだね、考えるの無しにしましょう。 551 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 35 36 ID z1cfCt9qO 548 少なくとも秦・楚・呉・越は最初は蛮夷扱いされてた‥‥ だから中国≠漢族だろとは言い難いのでは? 552 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 56 45 ID RS7UDsUr0 当時世界からカラ・キタイと言われてた東の大国を中国と呼ぶのは変ですよ 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 02 49 ID VnquViRn0 552 カラ・キタイは西遼でしょ? 554 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 06 42 ID RS7UDsUr0 カラ抜かして 555 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 10 01 ID rM7USuue0 中国というか支那という地域は、秦の統一によって完成し、その後二千年以上変化はない。 時代によっては、領土を拡大することはあったがそれは政治的な領土のことであり、支那(中国) の範囲が拡大したわけではない。 漢や唐は一時期西域を支配したが、だからってそこが支那になったわけではない。 明は満洲を支配したこともあるが、そこが支那になったわけではない。あくまでそれぞれ の王朝が領土を拡げただけのこと。日本は一時期朝鮮や満洲を支配したが、そこが日本に なったわけではない(正確には、日本化しようとして失敗した)。かつて支配したことがある からといって、そこは日本だなんてほとんどの日本人は認識しないだろう。 現在の中国の行政区画をみても、東北の三省を除けば省としている地域はほぼ秦漢の領域 と重なる。他は自治区扱い。これは唐でも明でも歴代統一王朝でかわらない。 ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。遼を北朝と呼んだり皇帝 の称号を認めたのは、それが中国の外の皇帝であると認めたのであって、中国のもう一人の 皇帝と認めたのではない。 そんな遼に仕えた武将を「中国の武将」とはみなせないでしょう、というのが私の主張です。 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 45 41 ID z1cfCt9qO 554 西遼をイスラム史家はカラ・キタイ(黒い契丹)と呼んだのですが‥‥ 557 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20 27 28 ID J0K58VTg0 Wikipediaだと遼・元・金、あと西夏も中国の歴史扱いだね。 西遼は入っていない。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 絶対的な基準にはならないけど、多くの人の認識が遼・元 ・金・西夏を中国としていると考えられるんじゃないかな? 555さんみたいに反対の人が多ければ、修正入っていた だろうし。 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20 41 14 ID VnquViRn0 554 キタイ=契丹で、遼は国号を契丹と遼と、時代によって両方使い分けてた訳で、 外国からキタイ(契丹)と呼ばれることがあるのは当たり前なんじゃ? 555 前半部分の領土的な理由は、賛同するかは別として筋が通ってると思うけど、 後半部分の ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。 については、漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。 遼を除外する理由としてはこちらは不適切と思いますが。 あと 545を無視してるのは 543で言ってることが間違いと認めたってことでよい? 559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20 56 35 ID RS7UDsUr0 国号が契丹なのは中国的国家への否定なんだけど? 560 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 20 57 08 ID H//pJM0KO 558 >漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。 いや、それどころか五胡十六国時代、西晋が正統であるとして、わざわざ北から 移住した者もいるぐらいだから、北の王朝はぜんぶ対象外だよ。 たぶんもう一度、選考し直しを提案するはずだよ。 561 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 16 03 ID z1cfCt9qO 多くの人の認識が遼・元・金・西夏を中国としていると考えられるんだから そんなに意地になって外せと言うのはどうなのだろうか? 推進派は的外れな武将を推薦したいなんて 決して言わないと思いますけどいかがですかね? で仮に的外れな武将を推薦してきたらそれは違うだろと指摘したら良いだけじゃない? 562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 23 58 ID RS7UDsUr0 多くの人の認識が対象なら 関羽とかが百選に入ってるだろうよ、今頃 563 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 31 32 ID J0K58VTg0 じゃあ多くの人が認めない名将100人選ぶ気なのかい? 後ろ向きなツッコミはやめたほうがいい。 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 34 18 ID 2qGmGLVT0 そうだな。 おまえとかでも知ってるくらいの知名度だからな。 565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 47 28 ID z1cfCt9qO 562 国としての認識と関羽個人の認知度とでは論点が少しずれてないかい? 566 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 21 54 17 ID DZSn4ljW0 で、入れるとして、結局誰を入れたいんだ? 遼、西夏あたりから、二、三人紹介して候補に入れてみればいいさ。 契丹は中華政権とは関わり無く勃興し、中華政権と干戈を交えつつ、いびつながらも共存し なおかつ、中華政権の良いところを取り入れようとしたが、基本は中華政権とは一線を画した別の国。 西夏は、もと中華政権の一節度使が、独立してやがて国を建てたが、完全に中華政権の支配下を逃れている。 また、中華政権に対抗するため、独自の文化を持つに至り、中国との同化はなかった。 中華文明の亜流であり、当時の制度が中国のそれを深く参考にしていたので、中国の歴史には欠かせない。 遼が国史として編まれたのは、征服王朝時代のさきがけで、正当化をはかるためのものと思われる。 その風俗、習慣などは、中国と呼ぶには同化し切れていない、外国の様相を呈していると考えますよ。 まぁ、入れる入れないにしても、人物を挙げてみましょうよ。 いいかげん人物列伝を読みたいんだが。 567 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 21 59 32 ID H//pJM0KO 565 ID RS7UDsUr0で抽出すると分かるけど、かなり苦しい事いってる人なんだよ。 唯一、反論されてないのが、 559なんだけど、それだと じゃ、国号が契丹の時代は外し、遼の時代は入る――で問題なし。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 08 03 ID rM7USuue0 558 たしかに、漢族からすれば金も元も清も蛮族と見ていたでしょう。しかし私が遼を除外 すべきと主張しているのは、民族を問題としているのではありません。 金も元も中華の中心部というべき中原を支配して、支那の範囲内に都を置いて統治して いますのでもとは外国だが中華を支配する政権とみなせます。その意味では 560が言って いるような南北朝の北を外せなんて言う気ありません。 しかし遼は最後まで関外の外国として終わりました。これを中華の政権だとはとても 言えないと考えます。だから遼の武将は外すべきだと考えているのです。 >あと 545を無視してるのは 543で言ってることが間違いと認めたってことでよい? そうですねたしかに「支那風の国号」という点からすれば冒頓は対象外ですね。 しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人 たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます。これは支那風の国号 になりますね。 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 10 09 ID RS7UDsUr0 耶律休哥でしょ?>入れたい武将 高梁河で趙匡義率いる宋軍を破ってるし でも当人、宋とは和平路線を支持してたよな 民族が独立して国を作る志向を持ってるから宋は宋、遼は遼なんだけど 遼って高句麗、渤海から続く満州一帯らへんの国家だし 渤海人も多く登用されてるし、渤海人は中国とは別の国なんだけどな まあ渤海使を遣唐使扱いしてるから遼も中国扱いする人多いんだろうけど でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが 570 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 18 25 ID RS7UDsUr0 休哥よりは斜軫の方が、南下して中国で戦ってる分中国名将に入りやすいと思うけど(事情アリとはいえ楊業破ってるし 何回か名前も挙がってるが、感じとしては休哥>斜軫な感じ 西夏は……宋側で狄青が頑張ってるしなぁ 中華外の所で国を設立するのに功績のある名将って、それは歴難の世界百選の範囲だ 571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 32 13 ID z1cfCt9qO ◆RQdk7scN8sさん >いいかげん人物列伝を読みたいんだが。 まあそう怒らずにw 俺は善意の第三者として前々スレから擁護してるんだけで 小難しいこと抜きにして推薦したいなら推薦させてあげればと言う考え方なんですよ。 だから国号が契丹、遼の時代だろうが挙げてみればいいんじゃないかなと思いますけど。 契丹か遼かは君主の個人的な思想なんだしそんなに拘るほどの事とは思いません。 そんなに重要ですかね? 契丹か遼かで領土の位置が代わる訳でもないし‥‥ 572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 35 04 ID 2qGmGLVT0 568 中原というのは河南のことなんだろうが、 俺は燕雲近辺こそ近世中国の中原だと思っている。 だからそれを支配する遼は入選資格有り、というスタンス。 まあ遼の頃はそれほどの重要性はなかっただろうが、金元清の先駆けとして評価している。 そして統一政権は長城以南の支那を全て支配してなければならない。 北宋にはそれが出来ていない。だから俺は北宋を統一政権とは思わん。 遼は北朝だと言わざるを得ないと思うが。 573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 39 05 ID RS7UDsUr0 君主の個人的な思想で国名が変わるなんてなんていう独裁国家だw 574 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 22 40 36 ID DZSn4ljW0 571 いやいや、怒ってないです。 語気が荒くて申し訳ない。 なんかだんだん、キナ臭くなってきてたので、流れをムリに変えようと… なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。 歴史学として、遼や西夏は中国にとって非常に重要なんだけど、このスレ的にどうか、というのはある。 そういう意味で、いわゆる中国本土、おおかた万里の長城を北端として、という範囲で それほど領地的に影響の少なかった、遼や西夏は外してもいいかとは思っている。 それに防衛戦とかで有能な武将は、あんまり評価しないでしょ? ということは、耶律休哥ではダメなんですよね。耶律徳光でないと。 まぁ、それもケース・バイ・ケースで拘る気はないけど、そういうのどう考えるのだろうか。 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 43 07 ID DQ5mmA020 569 ≫でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが それはちょっと話が違うと思うし、反対材料とするには無理が有るよ・・・ 576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 54 55 ID z1cfCt9qO ◆RQdk7scN8sさん >なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。 いやいやそんな事ないですよ。 推薦したいなら取り敢えず推薦してみればつーのが 俺の考え方なだけでムキになりほどかな?と思っただけですよ。 573 古代から現代まで中国なんて君主の個人的な思想で物事が代わるれっきとした独裁国家ですよw 577 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/25(日) 23 17 46 ID Vd9KwL440 とりあえず誰やそれ、的なのを二人ほど投下。 陳昭袞 驍勇果敢でしばしば戦功を立てる。聖宗が虎に襲われたときこれを捕殺した豪傑。 耶律(韓)徳威 耶律善補ともに楊業を破る。真っ向勝負で楊家の軍を大破した遼朝唯一の大殊勲者。 こんなもんで。 578 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 23 31 13 ID H//pJM0KO 568 > しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人 > たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます 当人が目指したのは中華の主たる元でなく、 チンギス・ハンの末裔としての北元だと思うんだが。 エセンは山師的な所があるから、明の領土が手にはいるなら、 喜んで奪いに行ったとは思うが、本気で中原に覇をとなえるつもりはないのでは? 574 耶律徳光は名将だよ。 なんだかんだで最後まで遼を入れるのに反対してた人に敬意を込めて、 個人的には、あえて遼と号した時期のみ推薦したいから、 遼の太宗、耶律徳光を推す。 579 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 23 37 39 ID rM7USuue0 572 燕雲が中国の中心になったのは少なくとも元以降。たしかに今の北京のあたりは 北方の遊牧文化圏と中華を結ぶ結節点として古代から栄えていたが、だからって 中心にはならない。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 00 21 56 ID /XCFnoouO 正史二十四史、清史稿+αに載ってる人物でいいじゃないか 遼や金外すとかスケール小さくするようなことしなくても 581 558 sage 2007/03/26(月) 01 00 02 ID SnVA8+Cv0 568 レスありがとうございます。 555の前半部、領土的な判断基準の主張まで否定するものではないので、 後半部が切り離されれば案として残すのはよいんじゃないかと思いますよ。 505あたりの案と比較して、どれを定義に採用するかは議論が必要でしょうが。 タタールやオイラトは元を自称してるけど、 578さんの意見に賛同しますね。 北元はフビライの子孫がアリクブケの子孫のイェスデルに殺されて 途絶えたところで別の王朝になってるように思います。 582 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 01 08 53 ID fFHC/Wd9O 580 いいんじゃない。だから俺は昨日 530さんに同意した訳だし。 推薦するだけ推薦してみればいいし、落選してもそれは仕方ないと言うことでおK? ああでもないこうでもないばっか言っても先に進まないよ。 もちろん定義を煮詰めていくのは賛成です。 583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 15 09 27 ID hITodSrz0 きっちりした定義も決めず始めたり、100人にはいるとも思われない小物を長文で紹介して 悦に入ったりする奴がいたりともはや混沌としてきてるなwww 特に後者は知名度の低い名将スレでも立ててそっちでオナニーしろやww 584 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 16 04 07 ID 0CwfyWgr0 ↑このスレの住人とは到底思えないアホがいるな。 585 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 16 38 04 ID fFHC/Wd9O 584 ID hITodSrz0みたいなアホが三戦板の某スレ板にいるよ (恐らく同一人物かと) そいつはやたらとwwwを付けたがる精神病患者。 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 17 08 51 ID /AnJjCbS0 スルーも出来ないのか?情けない 587 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 18 07 41 ID XLkRRoMd0 583 そりゃ悪かったねぇ。 マイナーな時期と思ったればこその長文であって 単に、誰ソレが誰々に勝った、でわかってくれるなら説明せんよ。 勝ったはいいけど、その相手ってどうよ? ってなれば、いくらか説明いるしねぇ。 李存審の残りの部分を、簡潔にいきます(言いたいところは済んだから)。 胡柳陂の戦いにおいて、別部隊として奮闘。 最終的な勝利を得るに貢献する(周徳威が戦死したりと、むちゃくちゃの乱戦だった)。 張文礼の乱では、李嗣昭とか李存進とか主な主将が次々と戦死する中、最後に起用されて鎮圧した。 以上。 絡めて、符彦卿のことも書こうかと思ったけど、様子見ます。 588 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 19 10 33 ID XLkRRoMd0 もう一回、確定・候補の磔。 五代~北宋・遼 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【論争中】 耶律休哥 遼は入れん、と言いつつ… 耶律徳光ならおkな無節操w かの戎王を入れるなら、対抗馬として後晋の桑維翰も入れたいところ。 ただし、桑維翰はあくまで軍政官。前線で戦術能力を発揮したことはありません。 かなり有能な戦略家。 桑維翰の作戦指揮のもと、劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)など15節度使が大暴れ。 契丹の侵攻および青州の重鎮・楊光遠の反乱を鎮定する(テロップふうに)。 589 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 19 28 32 ID fFHC/Wd9O 587 ◆RQdk7scN8sさん まあそう怒らずに。 自分は李愬・李存審や符彦卿のこと全く知らないので詳しい人物紹介は大変有り難いです。 (教えて下さいとお願いした張本人だし) 専門外の時代を深く知るのは楽しいですし、寧ろもっと紹介してほしいです。 (恥ずかしながら漢文が全く読めませんつーか羨ましいです。) 石勒が高祖本記を読んで聞かせてもらったり、 朱全忠が耳学問で知識を得た様なつもりで拝見させていただいています。 御迷惑で無ければこれからも人物紹介お願いしたいです。 590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 19 45 12 ID fFHC/Wd9O 588 連投で申し訳ないです ありゃwこれ又興味津々な武将たちがww 桑維翰はともかく劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)15節度使が大暴れってなんですか?ww 青州の重鎮・楊光遠って人物も凄く気になるんですけどw いい加減にして下さいよ。物凄く知りたくてウズウズしちゃうじゃないですかwww 591 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 20 03 50 ID XLkRRoMd0 590 今、その後晋期の契丹南下のときをまとめている関係上、ちょっと他より深く入っているんだけど そのテロップには惑わされないでください。 詳細ではないけど、五代スレにさわりは書いてますんで。 上の中で、皇甫遇はまだ太師になっていないのに、《資治通鑑》ではずっと「皇甫太師」と尊称されb「たりします。 杜重威の腰抜けのせいで、契丹に降らなければならず、羞じて死んだが故に義士とされているわけ。 司馬光さんよwwwwワロスwwww という感じ。 (ちなみに、「太師」の漢字が間違っていましたね。まぁ奥さんは法号を得て大師となりますが) ところで、漢文は読めていません。眺めているだけです。 だから結構、細かいところは誤認していると思われますので、注意してください。 592 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 20 29 40 ID XLkRRoMd0 こちらも連投。 李存審を確定不動にしたいため、形容詞を並べます。 《舊五代史》唐書列伝八に引く、最後のほうで 「李存審は若い頃から軍中にあり、臨機応変を知り、法令は厳正、策を練り勝機を制する。功名は周徳威との双璧であり、これ近代の良将である」 多少、中抜きしていますが、概略こんな感じ。 周徳威は胡柳陂で討ち死にしたけど、李存審はまっとうしたから、選ぶとすればこちらかな。 593 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 21 44 11 ID aNjHA8LV0 581 たしかにフビライの子孫である北元皇帝のトクズテムルはイェスデルに殺され、 フビライ流の系統は途絶えました。しかしそのイェスデルもその後継者たちも みな「中国風の国号」である元の皇帝として(北)元皇帝を名乗っているのです。 たしかに彼らは中華皇帝としてではなくチンギスの流れとして皇帝を名乗った のかもしれません。しかしそれは今回は関係ありません。私は「中華風の国号」の 点を問題としていたからこそ、この例を出したのですから。 「中華風の国号を名乗った国じゃないだろ」 ↓ 「いや、名乗っているよ」 ↓ 「でも中華の支配者を目指したとは思えないからダメ」 これが定義の後付でなくてなんだと? 念のためにいっておきますが、私は中華風の国号を名乗ったからと言って、 遼が中国に入るとは思いません。しかし、入るといったのはそちらです。 その理由が「国号」で、その矛盾をついたら前回の論旨では言っていない ことを持ち出して反論とういのはなんでしょう? 594 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 22 08 51 ID fFHC/Wd9O 591 劉知遠は後漢の初代高祖ですよね。しかも在位わずか一年で崩御orz 五代随一の名君と言われる後周の世宗(柴栄) その後周で殿前都点検(近衛軍長官)だった北宋の太祖(趙匡胤)ぐらいなら 隋・唐・五代は専門外ですが陳先生の十八史略などを読んでいますので少しなら分かります。 やはり新五代史や資治通鑑を御愛読なされてるのでしょうか? 593 主張が矛盾してるとお怒りはごもっともですが 支那風元号を名乗っているとは言えやはりタタールやオイラトは 遼などの場合と一緒に考えるのはちと厳しいかと思いますよ。 (自分の器量ではこれ以上貴方を納得させられませんツッコミはご勘弁を) 595 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/26(月) 22 38 37 ID RMVpnz1GO 593 まず、ご自身が遼を外す理由として、漢民族ではないため、正統王朝ではないと 当時から主張されていたと言いましたよね? であれば、五胡十六国、南北朝時代にも同じ考えの人がいたのだから、 異民族が創始した政権は除外しないと、おかしくないですか? そっちはok、遼はNGと言うのは矛盾してませんか? ご自分の矛盾を棚に上げ、他人だけ責めるのは、その論旨に反してると思いますよ。 いかがお考えですか?納得できるご回答をお持ちいたします。 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 23 15 52 ID OVLT3XCM0 ご要望?に応えて五代の武将を投下 霍彦威(872~928) 曲周(河北)の出身。字は子重。 梁将霍存に養子とされ、のち朱全忠に仕えて各地を転戦。 後梁が滅ぶと後唐に仕える。 荘宗(李存勗)から李紹真と賜名され、李嗣源に従ってしばしば契丹撃退で功を挙げる。 帷幄にも参画して首都反抗や即位のことを勧め、検校太尉中書令に進んで 明宗(李嗣源)の政権で重権を与えられたが在任中に没する。 ◆RQdk7scN8sさん質問なんですが劉?は劉[尋卩]のことですか? 597 558 sage 2007/03/26(月) 23 39 07 ID HQSEL59z0 593 自分は 505案に賛成なので北元(タタル・オイラト含む)は対象外との考えですが、 議論の流れからすれば不適切ですね、ごめんなさい。 21の定義でいくということで完全に決定すれば、 合致するエセンあたりも対象に入れてよいと思いますよ。(採用されるかはともかく) なんにしても大前提の定義が決まらないことには、遼将が入るかどうかで大違いなんで、 定義の決定を先送りにするなら確定は8~9人で止めて、後で別途議論するって形にせざるをえないのかも。 定義の話がメインじゃないし、いい加減うんざりしてる方々も多数いるようなんで、早めに決められないなら先送りですかね。 595 568の前半が質問の回答になってるんではないですかね? 598 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/27(火) 00 13 27 ID uqsL7maX0 594 五代の流れなら、「馮道」がかなり面白いですね。 ある種、小説として読めますから。 資治通鑑は愛読できないです… 誰か完訳してくれないかな。 三国時代も読みたいし。分裂時代への突入の仕方が三国-五代と似ていて、いろいろ興味あるんですよね。 (三国志は演義くらいしか読んだことがないから) 596 そう。 開封府尹の劉ジンのことです。 この人、戦理に適った軍事行動起こすのに、いつも運に見放されてカワイソスなんですよね。 李存勗との名勝負が好きなんで、対比として出しました。 その李存勗をして「一歩に百計を出す」と言わしめた梁軍きっての名将… なのにね… ちょっと前、世界史板に「劉ジンと苦難を乗り越えるスレ」というのがあって、面白かったんですが その頃は、誰それ? でした。 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 01 14 26 ID KAWFH+dC0 595 「漢民族ではないため、正統王朝ではないと」 言っていませんよ。私は当初から、遼は中華を征服支配したわけでもないのだから、 中国の政権とは言えないと言ってきました。ですから、五胡十六国でも南北朝でも 北は外せなんて言ったことはありません。金や清は歴史的な流れから言って中原征服 を成し遂げた、あるいはそのきっかけとなった靖康の変、呉三桂による入関以降を 対象にすべきだと考えており、「漢民族ではないからダメ」なんてひとっことも言って はおりません。あなたは何を相手にしてきたのですか? 民族がどうこうというのは、遼を入れるべきだ、元や金や清の前政権まで含めるべき と主張する人たちの定義では他の時代に矛盾が生じるという例を説明する場合にのみ、 逆説の意味で言ったことはありますが。 で、あなたが指摘した矛盾とやらについて、私は説明しました。この説明であなたが 納得するのか、受け入れるのかは知りませんがね。また後付で別な論旨を持ち出して の反論はやめて下さい。 600 558 sage 2007/03/27(火) 01 28 33 ID /RU9XVRx0 599 既に 558で指摘したことだけども、 555の後半で言ってることは 「漢民族ではないため、正統王朝ではない」と受け取られるのが普通じゃないかと思いますがね。 568で否定してるつもりなのかもしれないけど、非を認めて発言取り下げたわけでもないし。 601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 03 01 04 ID KAWFH+dC0 600 冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。 602 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 06 31 12 ID ZgfGS8wEO 600の問いに対しての回答が 601 > 冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。 となると 555の後半部分は否定しないんですよね? 599の >金や清は歴史的な流れから言って中原征服を成し遂げた。 という部分をもって、あなたの意見を他の時代に当てはめると、 中原征服を成し遂げたとはいえない五胡十六国の異民族政権は 選考に入れるべきじゃないと思うんです。 ご自身はその考えを否定なさってます。だから矛盾してますよ――と指摘したのですが。 私はあなたが言ってるとは、申し上げておりません。 そういう意見にならないので、矛盾してますよ、と主張してるのです。 ご自身の意見にぶれが生じてませんか? みんな武将の確定作業に入りたいと思ってるんです。 複数人から、遼からでも、西夏からでも良いから、 とにかく名前を出してくれという意見が出てます。 とにかく話しを進めませんか?かりに選考に矛盾や無理が出たのなら、 そのつど指摘し、場合によっては、先行時代の選定にまで影響が及び、 確定した人物の落選、昇格もあるかもしれません。 その時は後日改めて話し合う――こんな感じではダメですか? 603 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 06 59 10 ID MYU6zSe40 一連の議論を見てみると、頑なに遼将の審査を主張している人は別に「遼将の誰某を入れろ」って訳じゃなく、 「最初から遼、西夏等を選考外にするな」と言ってるだけだと思われる。 つまり遼、西夏の資格が認められても、 選考議論の過程で振るい落とされて遼や西夏の将は一人もいない、とかあるかもね。 論議の上で落とされるなら強硬派も納得し得るだろうと思われるが、如何か? 604 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 08 08 24 ID MLgwmFSh0 こんなに粘る気と思わなかったんで言わなかったけど、これって「遼は中国か?」スレでも建てて 議論するレベルの話だと思うよ。何かのついでで語るには条件が複雑すぎるでしょ。 そんで遼が中国ではないと結論が出たら、ウィキペディアにも働きかけて、抜いてもらってね。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 09 01 06 ID AT0XEXMT0 最後にそうやって無駄な煽りを入れるから終わらないと思うんだが 606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 09 32 10 ID aZAw7oJN0 取り敢えず遼も西夏も認めようよと流れになってるんだから もうあれこれ五月蝿なこと言わなくてもいいじゃん 遼も西夏も推薦したい人もこんな状況じゃ躊躇してんじゃないんですか? 第一やり合ってるの二人ぐらいの人でしょ? いい加減ウザイよ!!! 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 11 11 50 ID KAWFH+dC0 たしかに熱くなってムキになっていたようです。この件はここで棚上げして停止、 選定に戻ることにしましょう。 不快な思いをさせてしまった方には申し訳ない。 ただ、中国の武将の定義ははっきりさせておかないと、この先も何度もでてくること になると思います。 608 黒幕 2007/03/27(火) 13 45 48 ID 2EykxZtyO 来て、見て、語れ! このスレを1から丹念に読み込んでみて欲しい。現代のネット世界の光と闇、新しい伝説がここにある。 http //same.u.la/test/r.so/pie.bbspink.com/feti/1162548223/l10 609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 16 57 32 ID vtNm/IzHO 598 たびたび㌧です。 自分も馮道はかなり面白いと思います。 (つーか根回し凄杉) あと五代じゃないですが宰相として似た様な境遇?の耶律楚材なんかも。 分裂時代への突入の仕方が五代と似ていてるなら、東晋~五胡十六国や南北朝なんかも比較的近い状態じゃないですかね? いろんな漢族・異民族がぐちゃぐちゃに入り交じって面白いと思いますよ。 以上チラシ裏でしたw 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 19 52 16 ID L8aoC6+2O 592 生き残ったから確定で死んだからランク落ちっておかしくない? 周徳威自身に戦死の原因があるなら話は別だけど 双壁と称されてる周徳威の事績も紹介してその上で優劣つけてくれればありがたいが 611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 20 19 49 ID aZAw7oJN0 610 詳しい説明は◆RQdk7scN8sさんに任せますが 楊師厚に周徳威は蒙坑で破れてるのがマイナスポイントじゃないのかな? 612 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 23 01 39 ID aZAw7oJN0 611の続き またまた余計なお世話かもしれませんが 盟友(?)◆RQdk7scN8sさんの代わりに投下 (自分は前スレから共に論議に参加しています) 周徳威は李存勗に軽率を諫めたが聞き入れられず胡柳坡で敗れ戦死 耶律阿保機にも撃破されてますし、ここら辺もマイナスポイントと とらえているのではないでしょうか? だから李存勗>周徳威という考え方なんだと思います。 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 23 13 15 ID aZAw7oJN0 612 李存勗>周徳威じゃなく李存審>周徳威でしたねスマン ホント大きなお世話だった・・・orz 614 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 03 23 06 ID 3CY9ORIA0 610 おかしくはあると思いますが、このスレでは往々にして主張される事柄と思いましてね。 自分が周徳威を語ると、またまた長くなりますよ?(そりゃもう、大好きな武将ですし) 田中ヨッシの百撰でも、周徳威と王彦章は入っていますので、それなりに知名度はあると信じて その間に夏魯奇などを交えて、ちょっと独り言を言ってみます。 王彦章、あざな賢明(子明。注:欧陽脩《五代史記》) 鄆州の出身で、後梁太祖(朱晃)に仕え、若い頃から驍勇をもってなる。 《五代史記》の列伝によれば(死節伝に収録。劉仁贍が付録…orz)、鉄でできた槍を一本もち 騎上にあって馳突するさまは飛ぶがごとく奮う。軍中は彼をして「王鉄槍」と呼んだ。 猛将でもある。 かの魏州の乱のおり( 518)、劉鄩の麾下に配属されていたけど、魏州が晋に下ったため 彼の妻子(魏州にいた)は、晋の人質となった。 王彦章の勇猛っぷりを欲しがった李存勗は投降を促したが、王彦章は拒否した(後で家族は冷遇された?) その後は各地の節度使を歴任して周辺防備に携わっていった。 晋が、ついに黄河を越えて鄆州を攻め、橋頭堡を得ると、後梁朝廷は震撼した。 宰相で朱全忠時代は、軍政すべての権を一身に担っていた敬翔はこれを危急存亡のときとし 自らの首を縄で縛って後梁末帝に拝謁し 「先帝(朱晃)は臣の進言をよくお取りになりました。今、我が国は累卵の危機にあるにも関わらず、 主上は我が言をお取りあげになられたことがございません。この上は無用の者として先に死を賜りとう存じます」 と言ったので、驚いた後梁末帝は、敬翔の進言を聞くことにした。 「今の状況を打開するのに、王彦章を大将とする以外に道はありません」 現在の後梁では、末帝が左右の奸臣に惑わされており、先に劉鄩が讒言によって死を賜り 胡柳陂の戦いで、どうにか痛み分けに持っていった賀瓌も死んだので まともな将帥は王彦章しか残っていないありさまだった。 その王彦章は、後梁末帝に召され、敵を破るのに幾日かかるか? と諮問され、ただ一言 「三日」 とだけ答えた。 後梁の朝廷は、その大言壮語を笑ったが、敬翔と当の対戦相手である李存勗だけは、それを軽く見ることはなかった。 李存勗は滑州の守将・朱守殷に、「王彦章が来るから、絶対に気を抜くな」と厳命したといいます。 王彦章は滑州に至ると、晋軍を前にして陣を張り、突然将兵を集めて宴会を開いた。 晋将・朱守殷は敵軍が着陣したことを察知したが、雨が降っていることもあり また宴会を開いていると聞いて、その日は特に備えなかった。 王彦章は宴たけなわの頃、ふいに席を立ち、数千の精鋭のみを率いて たちまち徳勝の南城とまわりの拠点を制圧してしまった。 それは、末帝に約束した三日目のことであった。 それから日に数十回戦闘を交えるという混戦が続き、しかしその手柄はすべて同僚の段凝という将と 朝廷の奸臣である、趙巌・張漢傑らの手によって握りつぶされ、段凝の手柄として報告された。 敬翔や李振などは、段凝の害毒を末帝に説くが、末帝は取り上げようとはしなかった。 やがて段凝が王彦章に変わって主将とされると、王彦章は牙兵のみをもって力戦し、ついに捕らえられる。 李存勗が降れと言ったが、王彦章は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留める」と拒否し、やむなく斬られた。 以上が後梁の最後の名将・王彦章。 615 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 04 17 13 ID 3CY9ORIA0 周徳威、あざな鎮遠。幼名は陽五。 朔州の人で、李克用の幕下に入り、驍勇と騎射によって武名を挙げる。 後梁の氏叔琮が晋陽へと攻めたとき(この時点ではまだ後梁ではなく汴州軍) 「晋の要は周陽五なり。これを擒えた者には一郡をもって褒美とするぞ!」と言い 陳章という勇名を知られる者が名乗りを上げ、周徳威と一騎討ちするが、あっさり生け捕りにされた。 後梁の康懐貞が潞州を攻めたが、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の堅守のため 持久策を用いようとし、主将を下ろされた戦いで、周徳威は三垂崗に伏せ、翌日一気に敵軍を撃破し 長く包囲下にあった潞州を救った。 朱晃は910年11月、王景仁を大将として潞州を奪還するため編成していた8万の大軍を 趙(趙王・王鎔。鎮州成徳軍)攻略に振り向け、柏郷に陣を置いた。 趙は晋に救援を求めたので、李存勗は周徳威や易定の北平王・王処直らとともに、戦場へ急行した。 晋軍は河を隔てて柏郷の北に着陣した。 梁に比して晋は総兵力が少なく、軍中に動揺が走ったが、周徳威は 「あれは外見は華々しいが、しょせんは町人のせがれどもだ。恐れるにたりず」と言い作戦を披露しようとした。 李存勗は速戦を望んだが、周徳威は否定した。 「梁には歩兵が多く、我が方には騎兵がありますが、ここでは騎兵の戦力は十全には生かせません」 と、李存勗はふてくされて陣幕に帰ったので、周徳威は張承業に今後の作戦を説明して、李存勗を説得してもらおうとした。 張承業が李存勗を訪れると、李存勗の方でも周徳威の意見を吟味しており、その作戦を容れることになった。 梁の王景仁は河に浮橋をかけるべく作業していたが、それを察知した晋は陣を後方の高邑にまで下げた。 周徳威は精騎三千をもって、梁の陣営に近接し罵声を浴びせて挑発した。 好機とみた王景仁は全軍を出撃させ、晋軍を飲み込もうとした。 周徳威は梁軍と戦いつつ数十里後退し、ついに高邑の南にある平原に敵を誘い込むことに成功した。 周徳威は 「敵はまんまと追撃してきたぞ。きっと携帯食も持たずに来たに違いない。昼すぎには撤退を開始するだろう」 と言い、再び速戦は避けた。 やがて正午が過ぎて、梁軍は退却をはじめたので、梁の陣営から土煙があがった。 遠望した周徳威は温存しておいた騎兵に一斉突撃を命じ、梁軍を大破した。 王景仁や李思安はわずかに身をもって逃れたが、捕獲された将校は280人に上った。 梁帝朱晃は嘆いて言った。 「子を持つなら、李亜子のごとくあるべし。我が子など豚犬のみ!」 柏郷の戦いは周徳威を語る上で外せない大戦果です。 ええ、さすがに眠たいので、続きはまた今度。 616 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 20 12 51 ID 3CY9ORIA0 夏魯奇、あざな邦傑。賜姓名:李紹奇。 燕が兵を起こし易定を攻め、晋との間に戦端が開いた晋×燕戦役で 夏魯奇は周徳威の麾下に入って、幽州攻めに従軍した。 燕の驍勇をもって自負する、単廷珪(水滸伝じゃないよ)と元行欽は、周徳威の勇名を知っており 彼を戦場で打ち倒すことを目指していた。 周徳威が幽州に向けて軍を発し、攻めかかると二人の燕将は一軍をもって吶喊してくる 夏魯奇はその前面に立ちはだかって、単廷珪、元行欽の二人を相手取って壮絶な一騎討ちを展開した。 その壮観は、周りの兵たちが戦うのを忘れて、思わず見入ってしまうほどだったという。 夏魯奇に阻まれた二人の燕将は軍を引き、燕帝・劉守光は陣を立て直すことにした。 このとき劉守光は朱晃に救援を求めたものの、梁軍は先の柏郷での大敗もあり また李存審らに阻止されて救援できなかった。 朱晃を嘆かせること三度目となり、朱晃は健康を著しく損なったといいます。 龍頭岡においてふたたび周徳威は劉守光軍と対陣する。 単廷珪は「今度こそ、周陽五を擒えて献上いたしましょう」と言って 精騎一万をもって龍頭岡の周徳威本営を奇襲した。 乱戦に持ち込んだ単廷珪は周徳威と遭遇し、勇んで撃ちかかったが 周徳威はわずかに身を反らせただけで、その斬撃をかわし鞭を浴びせかけて単廷珪を生け捕ってしまった。 当然、主将のいない攻撃軍は潰走し、単廷珪を失った劉守光は意気消沈してしまった。 周徳威はさらに軍を進め、李嗣源と李存審の加勢を得て幽州を降すに至る。 魏州の乱のおり、李存勗が梁の劉鄩と向かい合ったとき、李存勗はしばしば百騎程度でもって 敵情視察にでた。この行動は、李存勗が自らの目で戦場を見るという癖のようなものだった。 しかし、劉鄩はそれを見逃さず伏兵を配置させて幾重にも包囲した。 夏魯奇は李存勗と行動をともにしていたので、自らは二十箇所ほど傷を負いながらも 一人で百余人は殺し、力戦して李存勗を逃がすことに成功した。 彼は王彦章とも戦い、これを擒えることに成功している。 最後は、東川で董璋の謀叛により、城中の食が尽きて自刃した。 名将ではなく、猛将? 劉秀の賈復、劉備の趙雲みたいな感じだろうか。 617 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 20 25 04 ID 3CY9ORIA0 おまけ「胡柳陂の戦い」 西暦918年に李存勗は黄河を越えて濮陽の近郊、麻家渡に軍を進めたので、梁軍も北行台村に着陣した。 このときも李存勗は少数での偵察を行い、何度も危機に陥りその都度李紹栄に助けられた。 (李紹栄って誰? 夏魯奇は姓名を与えられて「李紹奇」と名乗ったけど。この時期、紹の輩字をもらった人が多すぎる。わけがわからんw) あんまりの無謀さに、李存審は泣いて李存勗を諫めたが、そのときは神妙な顔していた。 李存審が自陣に戻ったのを確認すると「あの爺がいると人の楽しみを邪魔するからな!」 と言って、李存勗はまたしても軽騎で敵を挑発しに出て行った。 梁将・謝彦章は、これをてぐすね引いて待っており、李存勗はふたたび危機に陥った。 報せを受けた李存審は手勢のみで急行し、ぎりぎり無事保護できたという。 さすがに軽挙を反省した李存勗は(きっと李存審にガミガミ言われたのだろう)、百日ほど行動を起こさなかった。 その長帯陣のうちに、梁軍のほうに異変があった。 総大将・賀瓌は、かつては自分より地位の低かった謝彦章が同列にいることに不満であり さらに、最近つとに武名があがっているのが気に入らなかった。 意見の対立から謝彦章に罪ありとして処断したので、それを知った李存勗は大いに喜んだ。 しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。 李存勗はそれを無視して、全軍を汴州方面へと動かし、敵を誘った。 賀瓌はそれを追尾したので、両軍は胡柳陂に入った。 周徳威は陣営を固守して軽挙を戒めたが、李存勗はそもそも敵を釣りだそうとしていたので 「せっかく敵が後から追いかけてくるのだ、軍を控えてなんとする。その方、臆病風に吹かれたとみえるな」 と退け、輜重隊を前進させ、李存勗は軍を返して賀瓌軍に向かった。 李存勗の近衛軍は、かつて魏州の楊師厚が編成した「銀槍効節都」であり、その勇猛さは梁軍を恐れさせた。 梁軍の一部がそれによって突き崩され敗走していくと、晋軍の輜重隊はそれを敵襲と間違い狼狽して 周徳威の陣営に一斉に逃げ込んだ。 それによって、周徳威の陣営は大混乱し、沈静を試みるが効果は薄かった。 賀瓌は、騎兵を周徳威の陣営に突撃させ、これを蹂躙した。 周徳威はこの乱戦の中戦死した。 李存勗は賀瓌の本営を衝き、数里後退させたものの、賀瓌の陣容は堅固に見えたので 一旦、軍を退いて陣営を整えようと思った。 しかし閻宝、李嗣昭、王建及ら諸将に速戦を主張され、愕然とした。 「公らの意見がなければ、わたしは計を誤るところであった」 小山の斜面を利用して、晋軍の騎兵は賀瓌の陣営に吶喊した。 この戦いで梁は死者三万という大敗を喫したが、晋のほうでも周徳威をはじめ、 掌書記として陣中にあった王緘が戦死していたし、さらに敵軍を追撃する余裕もすでになくなっていた。 王緘は帷幄の臣であり、その補填として巡官の馮道が起用されるようになった。 618 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/28(水) 20 55 01 ID QQ+xWEIM0 ◆RQdk7scN8sさん頑張ってますなぁ。 俺も忙しい時期が一段落したことでもあるし(まだちょっと忙しいが)、 久方ぶりに人物紹介やるかね。五代では初、ってことで、 ◆RQdk7scN8sさんの推す李存審とつながりが深いこの人を。 史建瑭(866-920。字は国宝) 李克用を庇って斬り死にした史敬思の息子。 光化年間、昭徳軍を任され、李嗣昭とともに汾州を攻め、真っ先に城壁を登り、 叛将李瑭を捕らえて李克用の前に突き出した。李思安が上党を囲んだときは総管、 周徳威の先鋒として李思安の包囲軍に穴を開け、上党を救った。また、史建瑭の 守る城を汴軍が挟み撃ちにし、退路を断ったときも、精騎を率いこっそり城を 出て、要所に精兵を埋伏を設置。罠にかかった敵兵から情報を引き出し、綱紀の 緩んだ汴軍の陣営に突っ込んで斬首千余人を挙げた。汴将・王景仁が柏郷に陣営 を築くと周徳威の先鋒として井陘まで出陣した。高邑の戦においては天が黄昏に 染まるまで戦い、汴軍が陣営に還ろうとする心理を見澄まして後背を突く。 史建瑭は自ら麾下の精騎を率いて突撃し、敵陣を陥とし、逃げる汴軍を追って 魏・滑の間を抜け、長躯追撃して、夜、柏郷に突入して俘虜、斬首あわせて数千人 の武勲を挙げた。凱旋すると趙州の留守を任され、汴将氏延賞が趙州の南を侵すと 伏兵をもってこれを破り、氏延賞を擒らえて李克用に献上した。 光化九年、朱温が自ら蓚県を攻めたとき、李克用は唐朝の軍を率いて幽州攻略に 向かっていた。公称50万の軍が陳州、定州を侵す。李存審が史建瑭に訊いた。 「50万の大軍で攻め寄せる敵を前に、我々はなにをなすべきか?」その後史建瑭 と李存審の相談。奇策をもって活路を見出すということに落ち着く。800人の 精騎に汴軍を挑発させつつ信都に移動させ、李存審が下博橋を扼し、史建瑭と 李嗣肱は要所で敵将を擒らえる構え。史建瑭は部下三百を五部隊に分かって要所に 埋伏させ、自らは一隊を率いて梁軍に突入、敵兵を思うさま斬りまくり、梁軍を 下博橋に誘導する。翌日、両軍が下博橋に出揃う。史建瑭は自ら幾十人を斬り、 士卒百余人を捕らえる。そして将兵に「沙陀来たれり!!」と叫ばせる。梁軍は 一気に青ざめた。その翌日、史建瑭と李嗣肱は梁軍の甲冑を着込んで敵将・ 賀徳倫の塞に忍び込み、門衛を殺し、塞に火をつけ、大声を上げて混乱をあおり、 目撃者を殺して帰陣した。朱温はこの晩、陣営を焼き捨てて貝州に逃げ去った。 十二年、魏博が投降し、史建瑭は符存審とともに魏県に駐屯することとなる。 翌年、元城の戦で劉鄩を破った。澶州を取ってその刺史となり、徳勝に駐屯した。 18年、閻宝とともに張文礼を討伐し、馬軍都将とされる。八月には趙州を修復 して刺史王鋋を生け捕った。鎮州攻略の途上、流れ矢に当たって死ぬ。享年46歳。 旧五代史に載っとる武将で一番“寡をもって衆を破”ったのは 李存孝(300とか500とかの寡兵で汴梁軍1万以上を毎回破る。バケモンか) やと思うんやけど、彼は唐末に処刑されとるけん、唐の武将だわなぁ。やから除外。 つーわけで個人的趣味により史建瑭。 李存審の後援があったとはいえ、300+伏兵で50万を破るんやから大したもんやろうと。 619 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 20 56 27 ID QQ+xWEIM0 なんでやろ、名前が消えた。 多分これで大丈夫のはず。 620 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 22 25 07 ID LvTTdf2T0 連投やけど問題ない? なんか人少ない感じやし、いいか。 今度は朱温陣営から、史建瑭と同じく流れ矢に当たって死んだ名将を。 郭言(生没年不明) 黄巣を擒らえて朱温に献じ、騎将となる。 性、剛直にして権謀あり、むしろ理知的だが戦場では鬼神のごとく荒れ狂う。 家財はすべて困窮する部下のためになげうち、すこぶる将士の心を得た。しば しば蔡、浚の地攻略に出陣、常に少をもって多を打ち破り、出戦したからには 必ず勝利を得た。朱温はかれの勇敢果断であることを称え、賓客・僚佐たちの 前で「言、すなわち我が虎候なり」と賞賛した。 当時、秦宗権とその徒党が数10万の兵を抱え、朱温の兵はその十分の一に しか過ぎず、常々兵力の減少を遺憾に思いながらもこれを敵に回すことが出来 なかった。ある日、郭言は命を受け、数千の兵を率いて黄河をわたり洛河を越 えて、陝・虢で壮丁を募兵して兵力の充実を図った。夏に出立し冬に帰還した ときには、兵力は1万余を超えていた。朱温はこの兵力をもって蔡討伐に出陣、 郭言もそれに従うも、とめどもなく殺戮と略奪が繰り返される戦場は勝利と呼 べるものではなかった。ともあれ秦宗権は逃走し、朱温は蔡の地を汴梁の版図 に組み入れた。その間、郭言は女性や老人などの社会的弱者を保護するために 奔走する。潼関を陥としたときも奸悪を除き弱者を救い、人々の絶大な信頼を 得る。 光啓年間、日に日に勢力を増す朱温のために、唐の天子は揚州節度使兼を贈る とともに禅譲、汴梁皇帝朱温に位を譲る。得意絶頂の朱温は幕僚の李璠を維揚に 向かわせた。このとき郭言は李璠の先鋒として戦ったものの、民心を得ていない 土地を奪ったところで意味はないとして盱胎を攻め抜いただけで兵を還した。朱 温は郭言に、今度は東伐を命ずる。郭言の出馬となると東の諸将は万人辟易、向 かうところ捷たざるはなく、郭言の存在だけで東人の鋭気は大いに崩れた。朱温 はその戦功を見て大いに喜び、“排陣斬斫”の称號を与えた。景福初年、時溥の 軍と遭遇、郭言は大敵を前に勇躍し、自軍の精鋭を率いて自ら斬首無算という暴 れぶりを見せる。しかし流れ矢に当たって倒れ、その晩陣没した。 621 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 22 38 16 ID LvTTdf2T0 書き忘れ。 郭言は東伐戦で東西千里の領土を切り取っております。 622 611 sage 2007/03/28(水) 22 52 27 ID CpCEcV480 ◆oOLAqFKRBさんお久です。 ◆RQdk7scN8sさんだけじゃなく自分もそれなりに推薦文(楊師厚、霍彦威とか)挙げてるのですが…シュン 以前嫌な思いをしたのでコテもトリも付けてませんが 自分は春秋戦国からずっと◆oOLAqFKRBさんとは推薦合戦を繰り広げている者です。 (長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案した奴と言えばわかるかと) まあ寝言と聞き流して下さいw では自分は後周よりこの人を推薦 王景(889~963) 莱州掖県の人。農家に生まれ、騎射を良くし、生業に就かずに、若くして従軍する。 後梁・後唐に仕え、後晋の天福初年、相州刺史に上る。 開運元年(944)、侍衛馬軍左廂都校に任ぜられる。二年、南下してきた契丹軍を威城で破り、 侍衛馬軍都指揮使に進んだ後、横海軍節度使として、滄州に鎮める。 後漢の乾祐初年、同平章事を加えられ、後周の初年には侍中を兼ね、鳳翔節度使に転じた。 世宗(柴栄)が即位すると、中書令を加えられる。 柴栄は先虚後実・先易後難の作戦方針を考え、向順と王景を派遣して 隴右に進攻させ、半年にわたり堅持させた。 顕徳二年(955)、世宗の命により後蜀を攻め、秦州・鳳州・成州・階州を奪取する。 宋代に入って太原郡王に封ぜられている。 多少はおかしい箇所もあるかと思いますがご勘弁を… 623 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 23 23 59 ID LvTTdf2T0 622さん、気付かずにいてすいません。 短く、と気をつけながらどーしても長文になるんですわ。 つづめようとしてもいつのまにかアレ? になってしまうという駄目な俺なのです。 史書からの要点ピックアップにとどめてるつもりなんやけど、上手くいかんのですねー。 ま、そんな俺に仲間意識を感じていただけるのは非常にうれしいです。今後ともよろしく。 と、五代は皆さんに任せて俺は北宋および議論百出の遼を担当しようかなと思っとります。 現在読んでるのは嫌われキャラ、潘美。この人案外結構名将なんですよ。戦術的には曹彬の上。 この人か楊家将の息子たちの中から推薦文出して見よーかなと思っとります。 それでは翻訳に戻りますねー。 624 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 23 43 35 ID 3CY9ORIA0 622 前スレで、実は◆oOLAqFKRB氏とID CpCEcV480氏は同一だと思ってたんですよね。 で、前のとき、郭言や、台濛あたりを推挙したのはどちらさまでしたか? 長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案 (どきどき…) 618 史建瑭とは… こりゃ盲点でした。オヤジの史敬思については、それなりに知っているところはあったのですが。 中国古典では、李存孝とならんで英雄ですよね、史敬思。 ところで、李存孝の初名も、敬思、安敬思というんですよね。 安も史もソグド系の姓になりますね。 しかも、何かを連想させる姓… そう、安史の乱w 史敬思は、李克用が黄巣を撃破したばかりのとき、朱全忠の「悪辣な」夜討を喰らい ベロベロに酔っ払っている李克用を、身を挺して逃がした忠良の士ですな。 この「上源駅の夜襲」は演劇の題目にも有名だとか。 李存孝は反対に、最終的には李克用に叛しましたね。 その経緯は同じ李克用の義児である李存信との確執にあるわけですが、はるかに年上な(と予想される) 李存信と、李存孝とはいろいろあわないところがあり、両者の不仲が決定的な破局を導きました。 邢州に立て篭もった李存孝は、それでも野戦では李克用には遅れをとらなかった… というより、李克用は勝てなかった。 城の周りに塹壕を作り、李存孝を封じようとすると、李存孝は軽騎をもって出陣し飛ぶようにそれを攻撃したので 包囲軍はどうすることもできなかったという。 で、結局、李克用は弁舌達者な者に、李存孝に「邪魔をするな」と言いくるめさせました。 言いくるめられるな、李存孝よw この辺、戦場においては鬼神もこれを避く、という知略・勇猛ぶりも微塵も感じさせないお人よし感がでています。 痴呆とさえ疑ったほどですwww 結局、城中の食が尽きてどうしようもなくなった李存孝で それを憐れに思った李克用の夫人である劉氏は、単身城中に赴き、降伏するよう説得しました。 李存孝はただ李存信憎しのためだけに叛したと言いましたが、 「我が名誉を損ない罪をきせたのも、李存信の仕業だとでも言うのか!」 と激怒して、晋陽に連れ帰って処断しようとしました。 本心では、誰かそれを止めてくれると期待していたのに、誰も止めてくれず、結局、処断は実行されてしまったのでした。 落胆した李克用は10日引き篭もり、ために晋の兵勢は著しく損なわれることになりました、と。 (あまりの激怒っぷりに、諸将も滅多なことを言うととばっちり受けそう、とか思っていたんじゃなかろうか) 623 潘美 自分もそう思います。 人間性や人格は曹彬のほうが上ですが、こと戦に関しては曹彬、それほどでもないんですよね。 625 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/29(木) 00 23 43 ID vPJ4/UlR0 624 郭言とか台濛とか挙げたの俺ですわ。でも十国からやと呉越の顧全武になる かな。周本にも台濛にも勝っとる。 さて、五代は◆RQdk7scN8sさん、622さんに任せて、 俺は北宋、契丹(入る入らんは別として)の人物を書いたほうがいいやろか。 一応俺、宋が専門(知識は南宋の晩期に傾いとるんやけど)ってことになっとるし。 とりあえず嫌われキャラのこの人でも。 潘美(921-987。字は仲詢) 少年の頃から大志を抱き、度量があり、漢や周の政権交代時における乱世が やってくれば功名を立て富貴を手にしてみせると吹いて回っていた。成人する と後周の世宗の下で将校となり、しばしば戦功を立てる。 後周の頃から趙匡胤と仲がよく、陳橋の変で趙匡胤が皇帝となると僚佐たちに 趙匡胤のいいところを吹聴して信服しない連中を宣撫したのは彼の功による。そ ういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。 湖南平定後、人心いまだ寧まらずという状況下で宣撫に派遣され、恩威両面の 政策をもってこれを定む。乾徳二年、徳裕・尹崇珂・張継勛らとともに郴州を陥 とし、南漢討伐の準備を固めた。 開宝三年、南漢の劉鋹が降伏勧告を拒絶、宋朝は兵を動かすことを決意、その 将校の中に当然、潘美の名もある。南漢軍は賀州に兵力を集中して迎撃の構えを 見せたが、潘美は萌諸嶺を越えて一気に賀州を陥とすという離れ業をやってのけ、 破竹の勢いで南漢の州郡を陥としまくって要地、韶州に迫る。 軍事的要地に迫られた南漢軍は急ぎ10万の兵を韶州に送るが、潘美の猛撃の 前に結局は大敗。潘美率いる北宋軍は俘虜、斬首あわせて数万という大戦果を上 げる。窮地に陥った劉鋹は開宝四年、宋に投降を願い出るものの、(南漢)朝廷 からの「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。 守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は 即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず(物凄くテキトーな訳)。」 劉鋹は絶望したが潘美にはそれを相手にするヒマはなく。南漢の文臣蕭崔らを 開封に送り、自らは大軍をもって南進を続ける。劉鋹は弟・保興に使者を派遣 して宋軍に抵抗せよと命じたが、衆寡敵せず。潘美は士卒を鼓舞し、塹壕を抜け、 各所に設置された防馬柵を破壊し、広州百二十里を踏破した。宋朝は劉鋹の抗戦 姿勢に容赦をなくし、潘美に一気呵成で広州を攻めさせた。 南漢皇帝(王?)劉鋹は甘い考えで自分の失策を認めず、最終的に虎の子の兵士 15万を険阻な地に配備、宋軍を迎え撃つ姿勢を見せた。潘美は一旦兵士たちに 休憩を取らせ、その間に間諜から敵の情報を受け取る。南漢軍が竹木で作った陣営 を構築したと知るや潘美は大いに喜び、火計を仕掛ける。大いに燃える敵陣に潘美 以下宋軍は突撃、急撃して敵軍を大いに破る。ここで劉鋹を捕らえて開封に送り、 南漢は滅ぶ。この戦役で宋は六十州、二百十四県、十七万戸を獲た。 潘美は一連の功績で忠武軍節度使、韓国公に封ぜられたが、のち北漢との戦いに 敗れて官爵を剥奪された。しかしまもなく復権。没後武恵と謚され、鄭王を追贈された。 ・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物とは思えません。まぁ独立した 伝で悪口ばっか書かれてる人もそうはおらんやろーけど。 626 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/29(木) 00 44 27 ID vPJ4/UlR0 「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。 守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は 即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず」 これじゃ意味不明なんで、現代語訳します。 「名将はよく敵と戦い、突然へりくだったりしねーんだよ。守るんなら降伏 なんか考えずに戦い抜けやボケ。降っても守ってもどっちにしても死ぬんだ からもっと必死になれバカ。お前なんかウチに出入りする資格もないわ!!」 大体こんな感じだと思う。 さて、そろそろ寝ますわ。そんじゃ。 627 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 03 38 03 ID 3RygpEsm0 ◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんからのお返事キタ━━━(・∀・)━━━ッ!!!!!! まあ長文云々はホント只の寝言ですからお気になさらずw ぶっちゃけ◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんは勝手に盟友だと思っています(ry (特に南北朝で過疎って時は三人で乗り切った感があるし) 御両人これからもヨロ!! ≫・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物 ホントそうですな楊業好きな者としては憤慨物ですわw 北宋、契丹は◆oOLAqFKRBさんにお任せしますが よかったら五代からも推薦しちゃって下さい。 (自分の知識なんて大したことないですし、契丹、モンゴルなどは容認派ですから) ◆RQdk7scN8sさん自分は前スレから参加していますが 推薦文を挙げ始めたのは春秋戦国の選考からなんですよ。 628 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 04 31 03 ID dq8cE7YkO 625 細かいですが、 > そういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。 太宗だと趙匡義ですね。両陛下が草場の陰で哭いてますよ。 629 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 09 53 26 ID 3RygpEsm0 628 馴れ合いとかまた言われたら嫌なので一応言い訳w 確かに太宗・趙匡胤となってますが これは只の打ち間違えか慌ててただけでは? だから敢えてツッコミは入れませんでした。 細かいのは結構ですが>両陛下が草場の陰で哭いてますよ。 せめてwぐらい付けてあげてくださいよ。 その方がマイルドに聞こえますがいかがですかね? 630 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/29(木) 13 55 48 ID 8987gU1e0 622 後周の王景ですか。 まさに「銀河英雄伝説」のラグナロック作戦を彷彿させる、後周の遠大な戦略の一環を見事に担った人ですよね。 これは、自分が勝手に物語と沿わしているだけで、まんまそういうわけではないけど。 その時期、大規模な伐蜀軍を派遣した後周は、それ以外の軍事行動は当分起こさないだろうと思われた。 王景や向訓らは、秦州で後蜀の李廷珪や王環らに結構粘られて、戦線は一時膠着していた。 そこへ、趙匡胤を督戦に、韓通を援軍として送り 天下の耳目を集めた隙に、枢密使・李穀を大将にして、油断している南唐へ攻撃をしかけた。 前線防備を怠っていた南唐は、やすやすと淮河を越えられ、また禁軍大将の李重進の速攻で 南唐の劉彦貞は敗死した。 清流関に拠った皇甫暉は趙匡胤と一騎討ちするが敗れ、張永徳、韓令坤らによって 淮南は席巻された。あっという間だった。 その中で、一人寿州の劉仁贍だけが、柴栄の本隊を相手に譲らず(30万とかの攻撃軍を寿州に足止め) 雨季まで粘り、南唐の反撃の契機をつくった。 結局、寿州以外の土地で連戦連勝の柴栄も、劉仁贍にだけは勝てなかった。 寿州を取れたのは、劉仁贍が病に倒れたからだった(南唐の首脳部が非協力的だったため、がんばりすぎ)。 柴栄=ラインハルト、劉仁贍=ヤン で、おk。 以上、たわごとでした。 631 国 sage 2007/03/29(木) 17 08 21 ID c9hQ6QdH0 しかし、この時代もハイレベルですねえ。 趙宋を建てた功労者の一人、呼延賛が 十傑候補にも入らないとは(T_T) 632 ◆RQdk7scN8s 2007/03/29(木) 17 15 21 ID 8987gU1e0 再び磔 五代~北宋・遼 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【論争中】 耶律休哥 有力候補として雑感。 514の楊師厚。 618の史建瑭。 補欠(w)枠で、耶律徳光。 王彦章よりは周徳威を推したいが、北宋期が全然出てないないので、保留。 郭言も、戦績を見ると普通に入りそうだけど、有力藩鎮とは戦う前に戦没かぁ… どう評価しようねぇ。 たまに言われるバランスを考慮するなら、ここは十国南方勢力の、最後まで生き残った呉越から それの立ち上げ時期の将として、顧全武を入れるのもいいか。 とすると、顧全武の詳しい事績を調べる必要があるわけだ… 南漢は、荊南、湖南や、もはや弱小国に成り下がった江南(南唐)に比べ、勢力としてかっちりしていたので それを降すのに功績のある潘美は評点高いでしょうね。 633 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 17 35 58 ID 3RygpEsm0 631 呼延賛も確かに名将なのですが何げにボスの趙匡胤(太祖)と楊業が化け物じみてますから… (趙匡胤 大、大、大好き~w) それに後梁、後唐、後周辺りに猛者揃い杉ですからね。 632 ◆RQdk7scN8sさん乙です 自分も十国から誰を推そうか昨日から思案中です。 ところで霍彦威、王景は予選落ち? 634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/29(木) 18 59 02 ID 0z5HJruS0 楊師厚 開平三年、叛逆した劉知俊を劉鄩とともに討つ。長安に至った時、既に城内には岐軍が 入っていた。楊師厚は近傍の南山に急行して西門から侵入し、守将の王建は驚愕して 降伏した。 同じ年に晋が晋州を攻めたため救援に向かう。蒙坑の険で迎撃する周徳威を撃破し 晋軍を撤退させる。 柏郷の大敗の後北面招討使となり、勝ちに乗じて黄河まで進撃してきた晋軍の迎撃に当たる。 包囲された邢・魏州を助けるため前進し、晋軍は魏州から退却。漳水を越えて追撃し 邢州の囲みを解いた。 晋が燕を攻めている隙をついて十万の大軍を率いて北上し趙に侵入する。鎮州を襲ったのち東方 に進み滄・徳州を降して還る。 翌年、幽州を征服した李存勗が王鎔・周徳威・李嗣昭とともに南進して邢州に侵攻。 楊師厚もまた邢州まで進んでこれを退けた。 翌年3月死去。 楊師厚は 514ですでに出ていますが、自分もこの人物を推します。 いけいけ状態の当時の晋軍を3度も押し返したところが高ポイントかと。 635 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 20 40 48 ID eD1wgc/V0 ここの住人の皆様方の知識量は凄いですね。 ほんといつも勉強になります。 だれかまとめサイトとか作ってくれないかなあ。 636 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 22 52 46 ID 3RygpEsm0 617 「胡柳陂の戦い」で >しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。 >李存勗はそれを無視して~周徳威はこの乱戦の中戦死した これって街亭の戦いの折り曹魏の歴戦の猛将、張儁乂が司馬懿を諫めたにも関わらず 追撃を命じられ討ち死にした話に合い通じるものを感じますね。 (演義の中では逆に張儁乂が司馬懿の制止を聞かず討ち死にした事になってます) 630 田中ヨッシーの「銀河英雄伝説」ラグナロック作戦に準えた話にデラワロスwww 634 楊師厚の支援㌧ 後梁屈指の名将ですものね。 自分も一押しの武将です。 637 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/29(木) 23 02 07 ID 8987gU1e0 636 そういえば似てるかも。 まぁ、その張郃の戦死について、詳しくは知らないのだけど あれは、相手が諸葛亮という不運だったのじゃないかと思っていたり。 諸葛亮は全中国史を通じても、抜群の統率力を誇っていますからねぇ。 そうおいそれと、追撃など許さないのじゃないかと… 胡柳陂は例えるなら、第四次川中島というところでしょう。 勝つには勝ったが、大事な臣を多く失っていた、というヤツ。 638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/29(木) 23 10 20 ID AQSbmDXX0 アレ?何時の間に曹彬が候補落ち? 639 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/30(金) 00 37 36 ID bNBcckBn0 顧全武 武粛王に従い常にその左右に侍った。董昌が叛き淮南の将・魏約と ともに嘉興の将兵を囲んだとき、反乱軍の寨二つを陥として西陵に 還る。淮南の安仁義の軍が董昌に攻められると石城を腹し、董昌の 武将徐章をとらえ袁邠を降した。董章が嬰城で帝位を僭称して蘇州・ 淮南を陥とすと、武粛王の命により賊討伐を命じられた。顧全武 曰く、「越州の賊、この根本は克ちて而して棄ておいても蘇を捨て置 けば越が復するにあり。時に昌の真将、兄子、驍勇善戦。全武これを 攻めて年を逾するあたわずなり」そして董昌の裨将・刺羽の隙をついて これを殺し、そして昌の兵を破る。全武は董昌殺害に執念を燃やし、 この戦役において城を囲むと同時に伏兵を設け、自ら真っ先に城壁を 登って陣を陥とし、伏兵を発して逃亡する将兵を悉く捕らえた。 翌年、顧全武は海道から嘉興をの奪われた版図を修復し、淮南の 18営を確保した。淮南の将・魏約を松江で破り、無錫に連行する。 また沿岸を侵す海賊を蹴散らした。また蘇州を攻めて呉の名将 台濛・周本らを相手に向かう所敵なし。遂に蘇州を回復、崑山を 陥としてその将泰裴を降した。裴は崑山に拠して呉越軍を拒んだ ものの、顧全武が万単位の兵を投入して崑山を囲み、しばしば 交戦したのち降伏した。武粛王は千人を選んで泰裴に与えたが泰裴 は頑として固辞し、百人で十分と進言、武粛王は怒り、「軍、弱く かくの如し。何ぞ敢えてこれを拒むや」泰裴はこれを宥めすかし、 このとき居合わせた廷臣たちは揃って泰裴の長厚を褒め称えた。 天復元年、武粛王が呉王の宝を盗んだとの嫌疑により元老・ 李神福が呉越に攻め寄せ、杭州を奪い取るも、顧全武が軍を八寨 に分けて神福と対抗する構えを見せる。形勢不利と見て撤退する 李神福は撤退するが、その退路を的確に読んだ顧全武の伏兵に よって大打撃を蒙ったうえ、李神福自身が擒らえられる。顧全武 は彼を武粛王の前に引き出すが、泣いて訴える李神福の前に武粛 王はこれを国に帰す。はじめ徐綰は呉の後援を得ての自立を考え たが、顧全武の存在ゆえに呉の後援が得られず、結局謀反を諦め た。その後も顧全武は呉越・武粛王時代の重鎮として武功を挙げ、 自宅で平穏に没した。没年・享年ともに不明。 632で◆RQdk7scN8sさんが顧全武の事跡を・・・と仰ったので顧全武。 はっきりいって訳には自身ないですわ。ウチの十国春秋は影印版で写りが悪いうえ、 字が潰れてたりしてて読むのが一苦労。せめて句読点つけろや、と言いたくなるです。 628さん おっしゃるとおり。趙匡胤は太祖ですな。頭ん中では太祖って打ったつもりなんやけど、 まぁここは言い訳すまい。完全に俺のミスです。すんません。 640 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/30(金) 00 49 58 ID bNBcckBn0 連投でもいっちょ。今日はこれで打ち止め。 楊延昭(958-1014) 幼い頃から寡黙で沈思黙考するタイプ。軍事教練を遊戯として育ち、 楊業が出征すると常に従軍して戦場の匂いをかいで育った。雍熙三年の 北伐で楊業が応州、朔州などを陥とすとき、先鋒を担った。ときに29歳。 決して早咲きではないが朔州城下で勇戦し、流れ矢に肘を貫かれたながら も平然と戦闘を続け、ついに朔州を陥とした。父が死ぬと抗遼の将軍としての 重責を一身に担う。 咸平二年(999)秋、遼軍が南侵。七月の間に宋朝は間諜を使って鎮州、 定州、高陽関の各部署に命令を通達、8万の兵を動員して抗遼戦の準備を整える。 九月、遼兵二十万が国境を越える。辺境は危急を告げるが間諜は戦える戦力がない と指摘、主戦論を唱える将校は一喝されて停止した。当時、延昭は沿岸沿いの要害・ 遂城を守っていたが、城には武器も糧秣もほとんどなかった。遼軍は鎧袖一触、 楽勝で城を抜こうとして猛攻をかけ、蕭太后みずから督戦して意気あがるものの、 城内も三千の兵士と城中の青年・壮年が手に武器を取って遼軍を食い止めんと悲壮な 決意を固めこちらも士気は高い。遼軍は城を囲むこと数日、突然水がかぶぜられる。 延昭は民間の井戸からといわず酒造所からといわずすべての液体を城壁にぶちまけた のであった。翌日、遂城は冰城と化し、城壁に上ることは不可能になる。 (三国志演義で曹操がやった砂山一夜城のもとネタ) しかたなく撤退する遼軍に今度は延昭たちが反撃する。勢いに乗って襲撃し、遼軍は 武器や鎧を捨てて逃げ去った。この戦以後、遂城は畏敬を込めて“鉄遂城”と呼ばれる ようになる。 遼軍は遂城で敗れたものの、今度は河北定州などの地を掠めとる。宋の真宗は同年12月、 詔を降して親政し、大名で軍馬、代え馬を調達し、遼軍を迎撃する。真宗は延昭が河北で戦い 功あったことを知り、呼びつけて辺事を訪ね、はなはだ賞賛して、「延昭の父楊業は前朝の名将、 而して延昭は兵を治めて辺境を護り、父の風あり。深く嘉すべし!!」言って厚く賞与を与え、 任地に戻らせた。翌年春、遼軍は北に去る。延昭は兵を率いてその後方を衝き、易水の北まで 追いかけてその殿軍を破った。 同年冬、遼の蕭太后は遂城の敗北で受けた恥を忘れず、報復作戦を進行すべく軽騎数千で 延昭の本体を襲った。延昭は遼軍の策謀を見抜き、遂城西北の羊山に伏兵を敷く。まず遼軍 を城攻に引き込み、しかるのちに少数の騎兵で城の北側から遼軍を攻撃、戦い且つまた退き、 羊山まで誘導して伏兵を発し、遼軍を殲滅して主将を斬った。真宗はその報せを喜んで延昭 を莫州団練使に任命した。「楊嗣および延昭、みな嫡系にあらざれど、よく忠勇をもって自らい たす。朝廷の中に彼らを忌み妬むものとても多けれど、朕、力の限り庇護し、ようやくこの地位に 到達す」この報せが届いたとき延昭は辺境にあり、父と同じく不公正(そんなこともないと思うが) な人事を断った。 景徳元年(1004)、詔により将軍・楊延昭の軍隊が加増されて一万人とされた。延昭は本来大いに やりがいを感じるところだったが、この年“澶淵の盟”が結ばれて彼の抗遼の壮志も一旦落ち着く。 こののち顕職を歴任したのち、57歳で没。 延昭は知勇兼ね備え、用兵に優れ、下賜された賞与はすべて部下たちをねぎらって分け与えたが、 しかし公私を混同することはなかった。軍を治めるに号令厳命、士卒と甘苦をともにし、人を待つことを 苦と思わず、敵に遇っては士卒に先んじ、功があれば部下に譲った。それが楊家軍の楊家軍たるゆえんで あり、余人が指揮して本来の強さを発揮できるものではない。河北の辺境を守ること二十余年、 遼人は“楊六郎”と呼んで彼を恐れた。 639 「自信ない」を「自身ない」って打ち間違え。ホント俺は誤字が多いな。 641 ○ sage 2007/03/30(金) 00 59 31 ID TNMRJwdr0 637 おっしる通り孔明が追撃など許すはずがないと張儁乂が強く主張したにも関わらず 調子ぶっこいたアホ司馬懿がイケイケと無理矢理追撃を命じたんですよ… (おかげで死んじゃった可愛そうな張儁乂さん) 確か第四次川中島って霧を抜けたら目の前、武田だ状態wじゃなかったでしたっけ? でしゃあないから戦ったみたいなw (別に状況違うだろって意味じゃないてすよ念の為) 630 曹彬については◆RQdk7scN8sさんが上の方で理由を述べてますよ 642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 02 01 01 ID frRWcZHP0 いや、遼に負けてるもの判るけど だからといって候補落ち確定になってしまったのか? 643 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 02 03 21 ID G+2zz9/60 候補から落ちたんじゃなくて確定から候補に格下げになったってことじゃない? 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 11 29 57 ID UfTnwbR6O 曹彬は用兵の巧みさだけだと、わりをくってしまっているからです。 諸将を束ね、皇帝の代理人として戦地に赴き、様々な対処を致す。 確かに名将だけども、このスレの主旨に反してると思われてます。 将としての純軍事的な功績と、用兵の巧みさをあらわす逸話があれば、書き込んでください。 645 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 16 58 12 ID boXD/C+e0 曹彬、あざなは国華。 後周太祖郭威の夫人である張貴妃の従弟。 ために、鎮州から京師に呼ばれ、柴栄の帳下に配属される。 柴栄が起つと、潼関監軍、上閣門使を歴任し、呉越への使者として立つ。 呉越からの贈り物を一切受け取らず、すべて上納したが柴栄は曹彬に返した。 曹彬はそれを兵士の遺族らに分け与えてしまった。 晋州兵馬都監として北漢への防備軍に赴任。 そのまま陳橋の変が起き、趙匡胤が起った。 曹彬は後周の縁戚ということで中立を望んだが、趙匡胤は曹彬と見知っており、 自ら平陽に出向いて、帰参を説いた。 客省司に任じられ(客省司とは武官の重職で、主に外交や接客を担当する)、王全斌、郭進らと計って 河東(北漢)の楽県を攻めた。 王超、侯覇栄等1800人(兵士もあわせて、だと思う)を下し、1000余人捕獲した(こっちは降伏兵ではなく捕虜だな) そして、賊将(w北漢将のこと)蔚進が来援してくると、三度戦い、みな勝った。 宋の乾徳初年、左神武将軍(近衛)となり、北漢が契丹の助勢を得て6万の大軍を起こすと 李継勲(趙匡胤の義兄弟のひとり)と共に、晋州城下でこれを大いに破った。 その功績あって、枢密承旨を兼ねることになる(枢密院は軍部の作戦本部のような感じ。その属官)。 乾徳二年、王全斌を大将に、曹彬は都監として、宋は伐蜀を開始した。 王全斌は無類の快進撃を続けた。 王全斌はかつて、後周の秦・鳳奪還戦で、大将・王景、向訓らの麾下にあって、後蜀軍と戦った経験があった。 また、柴栄に従い、燕雲十六州奪回のための北伐でも、瓦橋関を抜くという手柄も上げている。 (後周のこの北伐は「一矢も失うことなく捷つ」と形容され、遼兵は武器を捨てて逃げ去るほど圧倒的な進撃ぶりだった) さらに宋建国時、後周の臣たるの道を貫いた潞州節度使・李筠の乱で、これを鎮圧したいう、なかなかの武将ぶり。 その王全斌が後蜀軍相手に、20余の砦を奪い、味方との分進合撃により、相手の主力を撃破し 利州を抜き、剣門をおとし、後蜀将・王昭遠の裏をかいては前後挟撃して撃破した。 そうして王全斌が思うさまに武人としての本領を発揮している一方で、曹彬は手堅く各砦を道々降し 後蜀の領土を宋の色で染め上げていった。 王全斌は調子に乗りすぎ、占領した土地では乱暴狼藉の限りをつくし、自らも子女をさらうという逸脱ぶりだった。 ために、四川には反宋感情が根付き、また新領土政策でも失敗したので(これは朝廷が)、蜀という地域は 宋という国と一体とはなりえなかった(特に貨幣問題が大きく、四川には四川にだけ通用する貨幣を、そのまま採用するしかなかったのである)。 その中で曹彬だけが廉潔を保っていた。 翻って、李継勲とともに北漢討伐に従軍し、野戦でいくどか敵をやぶり、また趙匡胤が親征してくると やはり戦場で勝利を挙げるものの、北漢を攻めきることはできず、契丹軍の襲来で敗北した。 そのあと、潘美を大将とする南漢討伐軍がおこされた。曹彬は従軍していない。 (つづく) 646 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 16 58 58 ID boXD/C+e0 (つづき) 翌年、江南攻めを開始した宋は(かなり無茶な理由で戦端を開いた。李煜カワイソス) 曹彬を昇州西南路行営都統として、潘美らを下に置き、進発させた(昇州は江南国の首都・金陵城のある州。首都州)。 その征旅の前、趙匡胤は曹彬に特に念入りに 「南方のことは一切お前に任せる。人々に暴虐を加えず、かつ威信を示し、おのずと我が軍に降るよう配慮せよ。急な進撃はならんぞ」 と言い含め、御剣を与えて、「お前の命に従わないものは、これで斬り捨てよ!」と言った。 この曹彬の起用は、軍事能力に秀でているというわけではなく、衆の統率と略奪を良としない清廉な人柄を買われてのことだった。 江陵を前進基地とした南征軍は、やがて金陵を包囲したが曹彬は容易に総攻撃をしかけなかった。 1年ほど包囲を続けるうちにも、趙匡胤は小心さながらに「おい、城中の人間を絶対に傷つけるなよ?いいな、わかっているな?」 と、何度も神経質に使者をよこしていた(趙匡胤さん… らぶりー) と、突然曹彬は病と言って臥せってしまった。 血気にはやる軍中は、どうにか速戦を命じて欲しいのに、いきなり司令官が倒れたので驚いた。 見舞いに来た諸将に 「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」 と、言った。 諸将はそれを承諾して、香をたいて誓約したので、曹彬は突然元気になって「治ったぞ!」と言った(おい)。 金陵の城門をぶち破った宋軍は、曹彬の統率のもと整然と隊伍を整え入城した。 江南国主李煜は群臣とともにこれを出迎え降ったのだった。 むろん、略奪暴行は一切なく、四川のときのように民衆が暴動を起こすことはなかったという。 ただし、曹彬はこの征討では昇級することはなかった。 というのも、趙匡胤は 「まだ辺境には敵がいることでもあるし、お前を最高位につけたらもう働かなくなるのではないか?ここはひとまずおあづけにして、ちょっくら太原(北漢)を取ってきてくれんか?」 と言った(そりゃないぜ)。 さすがにしゅんとして帰路についた曹彬は、家に山積みの銭箱があるので驚いて言った。 「やはり出世より、銭もらったほうがよっぽどいいのぉ」 と喜んだという(漫才ですか、この二人は…) しかし趙匡胤はこの翌年死去する。曹彬は枢密使に上がり、軍部の最高幹部となった。 そして、太宗が即位し、北漢への征討となり、遼との戦い、ということになりますね。 647 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 17 28 23 ID boXD/C+e0 640 お、楊延昭ですか。 実は、密かにねらっていたんですよ。 楊業よりは息子かな?とか。 影印版 ああ、そういえば自分も注文してたんですが、(8千円くらいだった)なかなか来なかったので、キャンセルしましたよ。 版画のような白文でしょ… 趣があっていいのだけど、読みにくいのは困りますよね。 642 ごめん、候補すらはずれたわけではなく、候補に落ちた、という意味です。 まぁ、一応、遼にボロ負けする前の事績を書いてみましたので、判断してみてください。 648 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 18 02 54 ID BIemegpYO 太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ 足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ 649 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 22 31 39 ID UfTnwbR6O 648 > 足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ 足利兄弟もそうなのですか?? 頼朝、義経の兄弟以外もそんな感じだったん兄弟もいるんですね。 650 ○ sage 2007/03/30(金) 22 58 22 ID TNMRJwdr0 645-646 紹介文を読むと曹彬って南北朝の于謹に近い状態にあるような気がしますね。 このスレでは重鎮とか戦略家な人物は敬遠される傾向にあり、 実際、南北朝の于謹、唐の李建成が落選していますね。 そうなると曹彬は落選確実? >見舞いに来た諸将に >「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」 と、言った。 これまた三国志演義の中で孔明が後主(劉禅)の放蕩ぶりを嘆き、 「この病気は後主が態度を改めてくれればこの病気は治るのです」 と、言ったシーンとたぶるのですが… (これが元ネタなのかな?) またまた寝言言ってみましたw 651 ○ sage 2007/03/30(金) 22 59 02 ID TNMRJwdr0 648 >太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ これは太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に 有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。 後に節度使の欠員には文官を充てその権限を弱めていくこととなる。 (趙匡胤自身が宋州節度使であったし、節度使が大きすぎる権力を握り 各地に割拠して国が分裂するのを恐れていたんでしょう) この文治政策が宋の基本路線となり真宗の頃には行き過ぎとなって 後にセン淵の盟を結ぶ遠因となったのでしょう。 その逆に足利尊氏は気前が良すぎて守護大名の力を弱めることが出来ず、 その為に守護大名の権力が大きくなり過ぎ 後に応仁の乱を引き起こす遠因とすらなった訳ですし… 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 23 08 34 ID frRWcZHP0 文治制作邁進してるときに遼とやり合う太宗って一体…… 653 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 23 25 16 ID UfTnwbR6O 651 > 太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に > 有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。 その説が正しいのなら、洪武帝による粛清後の永楽帝が、 かなり善戦してる理由が不明です。 やはりトップの軍事的才能が影響するんじゃないかと考えます。 654 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 23 28 36 ID frRWcZHP0 燕王には燕王の子飼いの部下が居たじゃない 建文帝が善戦したら、そういう反証はできるけど 655 ○ sage 2007/03/30(金) 23 36 42 ID TNMRJwdr0 649 異母弟の直義ですね 後は有能な高師直・師泰兄弟が補佐してますし。(趙晋・コウ準みたいな感じか?) 652 燕雲十六州の回復は太祖・大宗の悲願ですから… 653 文人優遇で優秀な人材はすべて進士をめざしどうしょうもないのが「軍人にでもなるか」 と、軍隊に入ったのも多いに関係有りかと (ごく稀に例外な人物もいますが) それに明代と宋代では事情か違うよ。 656 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 23 40 49 ID UfTnwbR6O 654 じゃ、楊業はたいした事ないんでしょうか? 太宗の時代にろくな武将がいないとは思えないのですが。 永楽帝の子飼いが水準を越えてるとは感じません。 もしそうであるなら太宗時代の武将すべて、名将候補から外してよろしいかと思います。 657 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 00 10 02 ID 2/goJBJE0 652 強幹弱枝の政策と文治主義は、唐末五代に起こった武人政治へのアンチテーゼです。 節度使や禁衛に権限を与えすぎたために(与えすぎた背景は、楊国忠等の無責任が多大) かつてない勢いで、良民や貧民層、はては賊徒の類が、政治権力を振るうに至ったわけです。 で、その権限が地方に分散しかつ、それぞれが強大であれば(軍事だけでなく、民政権・徴税権がありましたから) 相対的に皇帝の権力が低くなるわけです。 後唐明宗(李嗣源)、後晋高祖(石敬瑭)、後周太祖(郭威)と、代々受け継がれて 皇帝権力の回復を目指していましたが、郭威はともかく、先の二皇帝は、節度使や武人との間に軋轢を生んでいました。 ために、地方反乱は続発し、王朝が短命に終った次第です。 後周世宗の代に、激烈な禁衛改変が推し進められ、かつ皇帝が最前線で槍を振るって戦うという 類の少ない苛烈さをもって将兵の信望を皇帝に帰すことに、半ば成功していました。 この時点で、中原王朝は節度使の権限がやや低下しており、対して禁軍将の権限が増していました。 柴栄が存命なら、強固な中央集権が早期になったことでしょうが、早世してしまうので趙匡胤が引き継ぐわけです。 趙匡胤も節度使の権限は無視できませんでしたが、まずは自身が所属した禁衛の将軍から 兵権を取り上げました。 で、太宗の時代に節度使は実権を持たない名誉職となります。 で、ここで留意すべきは軍事権が個人に集中せず、分散させることによって恣意的に動かすことができない体制であり その権限は皇帝のみとされたことでした。 つまり、文治主義は皇帝以外の臣に対してのみであり、国内で皇帝以上に軍事権を行使する存在があってはならなかったのでした。 もし、そんな事態が発生するなら、その国は終焉に近いことでしょう。 とにかく、初期の段階で、皇帝親征というのは宋のあるべき姿で、燕雲十六州の奪回は、後周世宗の頃からの悲願でもあり また、長城以南の地というのは、古来からの中国王朝土地、という認識のもと政治的にも 他国に取られたままというわけにはいかないのでした。 思うに、宋朝弱卒というのは、そういった指揮権の分散にあると思われ、文人が統率したからだけ、というわけでもないと思います。 寇準が嫌がる真宗をむりやり親征させた背景は、そういうところでしょう。 656 楊業は、北宋に降る前のほうが、いろいろすごいですよね。 北宋に降ると、すぐに対遼戦線が始まってしまいましたから。 明のことは知らないので、政治背景を比較して検討してみてください。 658 ○ sage 2007/03/31(土) 00 17 59 ID aFKe3hPS0 656 なぜそう言う理論になるのかさっぱりわかりませんがですが?w 誰も楊業などか愚将なんて言うつもりでレスしたわけではなく 五代と比べれば優秀な人材がめっきり少なくなってしまっていてるであろう 理由を自分なりに述べただけなんですけどね… 宋に名将が居ないなんて言ってませんが… 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 00 25 48 ID sQC1J0FV0 656 違ってたら失礼。遼将を入れるのに徹底反対してた方ですかね? 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 00 46 55 ID hLbEGSCv0 657 俺も馬鹿じゃないので、そのぐらいの流れは当然知ってる けど、それを一番知ってる当事者である宋太宗は文治政策と中央集権の結果と 遼の軍事力を天秤に架けて、勝てる線で戦争をしなければならない つまり孫子でいうところの「己を知り」という部分で見誤ったから敗北をした そういう宋太宗を総大将に持って敗北した宋将が、いわば宋太宗に引きずられる形で 落選していくのはどうよ?って話 661 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 00 48 34 ID 2/goJBJE0 658 いや、実際制度上、名将が世に現れにくくなってはいます… と思いますw 楊家や狄青は、いわば例外でしょう。 まぁ、それだけ五代という時代が、いかに武人マンセーな時代だったか、というところです。 662 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 01 00 49 ID 2/goJBJE0 660 え? 質問の内容が変化したように思うのは気のせい? 宋太宗の、親征を判断ミスとした疑問のことから、そのせいで大敗を喫し、ために属した将も過少に評価されている に変わったでよろしいか? 曹彬の落選は、彼個人に言うほどの戦績がないからです。 重鎮、優秀な統率者(何度も言いますが、名将とは本来そうあるべき)は、このスレ的に、一段下げて扱う傾向です。 耶律休哥による大敗は決定的であるというだけで、実際、用兵手腕を発揮したのは、王全斌とか潘美らになるわけですよ。 ただ、澶淵の盟以降は、本当に将というのを探すのがやっかいになりますので、 見つければ報告もしますが、今のところ不明というのが正直な話です。 663 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 01 27 46 ID sQC1J0FV0 662 脇から割り込んで申し訳ないが、hLbEGSCv0さんが言いたいのは、 文治政策と中央集権を進めすぎて、宋軍の弱体化を招き、遼に負けるようになった。 これは大局の判断を誤った太宗のミスで、遼と戦争するなら軍隊の維持を図るべきだったし、 逆に文治政策を進めるなら遼と戦争しないで和平するべきだった。 そういう状況を斟酌しないで、遼に負けているのを理由に曹彬ら宋将が 減点されてしまうのはいかがなものか、ということじゃないですかね? 652と 660で発言の趣旨は変わってないんじゃないかと思いますが。 (hLbEGSCv0さん、違ってたらごめんなさい) 北宋時代、過度な文治政策のために名将が生まれにくかったという状況は、 西漢文帝が馮唐に「廉頗や李牧がいても使いこなせない」と言われたエピソードと通じるものがあるかも? 664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 01 28 03 ID hLbEGSCv0 変わったじゃなくて、はじめからそういう意図で宋太宗を貶めていた 俺は曹彬の戦績が悪いとは思わないし、統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるとも思わない 遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし、他の五代の連中も 主君に恵まれなくて負けてることはあるのに、彼だけ遼に負けたからでは割食ってる 665 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 01 36 31 ID a+k2XnjI0 諸葛良孔明!! 666 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 09 12 57 ID 2/goJBJE0 664 663氏のレスで主旨は了解しました。 しかし、太宗趙匡義は、北漢に対しては勝ってるんですよ。 北漢は、あの柴栄すら潰走させ、また趙匡胤も敗退している。 太宗は潘美を遣わして、契丹の援軍をあらかじめ撃退させ、みずからは前線にたって督戦しました。 これで唐末五代にかけて不落の要害だった太原は陥落したわけです。 両二帝に為しえなかったことを為しえて、調子に乗っていたのはあるでしょうが 殿前司をはじめとする宋の中核部隊は近代無比とされ、とくに遼に対して遅れをとるほど質が悪かったわけではないのですよ。 (質が悪くなりだすのは、もう少し後の時代ですね) ところで、高梁河の大敗は太宗のミスで間違いありませんが、曹彬が耶律休哥にボロ負けしたのは岐溝関の戦いです。 二度目となる幽州攻略戦は、曹彬を総大将、潘美を別将として分進合撃の態勢で望みました。 潘美が道々手柄を上げまくっていることに焦った、本隊の曹彬隊は、必要以上に勇んだのです。 曹彬個人は抑えようとしましたが、抑えきれなかったという。 涿州のまで一気に進軍した曹彬は、そこで補給線が届かなくなり、耶律休哥の少数騎兵に遊ばれてしまったわけです。 統率しきれなかった曹彬に責めがあるでしょう。 ただし、最終的な責任は、むろん皇帝である太宗に帰しますが、それを言うなら功績もそれを取り立てた主君に帰されるものでありましょう。 667 ○ sage 2007/03/31(土) 10 03 16 ID aFKe3hPS0 664 別に曹彬は遼に負けたのだけが落選の理由ではなく 曹彬個人の武功で華々しいものがないから 他の連中より厳しいものがあるんじゃないのかなと思いますけどね… それに統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるのは事実なんだし、 実際南北朝の于謹、唐の李建成が落選しています。 その時に反論、異論はなかった筈ですが… 出来れば曹彬個人の武功で顕著なものが有れば示していただけませんかね? >遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし しかし太宗自身は対遼戦で足を引っ張るような事をしてますか? 例えは徳川慶喜のように自身が敵前逃亡した様に自軍の戦意を喪失させる様な事や対遼戦に消極的な態度を示したり、 してれば話はわかりますがそうではないですよね? (徳川慶喜の話はあくまで一例ですよ) 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 10 30 54 ID EZc6xv770 659 一応答えておきます。違います。 もっとも、 656氏がその点についてはどのような意見なのか、は存じませんが。 669 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 11 11 54 ID 5hE98XacO 私はですね、太宗の時代の負けが多いのは、 太祖の杯酒もて兵権を釈いたことが、原因ではないと言いたいだけです。 その後も王審キや石守信、高懐徳は従軍してますよね。 太宗が負けたら、兵権を取り上げたことを持ち出し、 北漢平定のときには、そのことに言及せず太宗の功績とする。 これで誰かを説得できるなら楽ですよ。 遼が強かっただけなのではないですか? 太宗以後も負け続けたのは、文治主義政策をしていたからだと思います。 ですが太祖の杯酒のエピソードは関係ないです。 670 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 13 17 48 ID 2/goJBJE0 669 ええとですね。 太宗が北漢を降したことを書いたのは、太宗個人が特にいくさに弱いというわけではないと言いたかっただけです。 その一方で、先鋒としての潘美に、かなりの功績があります。 そのことはすでに言及していますし、曹彬より上、とはっきり書いています(自分じゃないけど)。 で、調子に乗って高梁河で耶律休哥の電撃戦に負けたのは、太宗の判断ミス(戦場だけでなく、戦略全体において)。 岐溝関の戦いでは、曹彬と潘美という二大柱に軍事執行権を与えて遠征させるが、 曹彬の進撃速度が異常に速いことを危惧した太宗は、伝令でもって止めようとしました。 曹彬はできず、ために耶律休哥に負けます(これは曹彬の責任でしょう)。 臣下の兵権を解いたことで(分散したことで)、宋軍が目に見えて弱くなったのは太宗以降の話です。 和平がなって皇帝が親征しなくなったんですから。 皇帝が親征しなければ、軍は指揮権が分散し、かつベテランがいないということもあり、命令系統の伝達に いくらか遅れがでるのは必然です。 岐溝関の敗戦以降は、太宗は和平に傾きましたが、完全になるのは真宗の代ですね。 遼が強かっただけなのではないですか? まったくそのとおりですね。 戦略的な敗北というのは、突き詰めれば国力・兵勢の強弱ですから、北宋は遼に比べたら、弱小国とさえ言えたでしょう当時では。 なんと言っても、遼はそのときが一番の最盛期だったのですから。 で、文治政策を推し進めたのは、趙匡胤ですよ。 太宗は継承し、より中央集権化させたというだけで。 強幹弱枝の政策で、地方藩鎮の軍事力を低下させ、禁衛を強化し、その最高司令官を都点検ではなく、皇帝のみとした。 軍閥を解体したのは、太宗の時代ですが、武より文に重きを置き、中央軍の強化を急いだのは趙匡胤。 石守信ら古参は中央からさり地方藩鎮へと転出し、かつその藩鎮もまた牙兵が抜かれ、力を弱められた。 ここからは想像ですが 地方藩鎮の強兵を中央軍に引き抜き、兵士の質の向上に成功はしたものの 古参の将個人の裁量により、部隊を動かしていた頃と違い、最前線での現場の直感的判断が、 やはり、古参を抜いたことで鈍くなった面はあると思います。 皇帝親征により、補いはついていましたが、崩れると速いのかもしれません。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 21 35 47 ID O7SpbD8rO 曹彬の評価の是非はともかく、于ケンや李建成扱いはどうかと? 李存恭や李文忠ならわかるけど。 672 ○ sage 2007/03/31(土) 22 46 03 ID aFKe3hPS0 671 于謹・李建成については上の方のレスを読んで貰えばわかるかと (自分で探してみてね…) 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 22 50 57 ID Gs9clL4R0 <開国名将十選> 周:呂尚 秦:王翦 漢:韓信 晋:杜預 隋:楊素 唐:李靖 宋:曹彬 明:徐達 清:呉三桂 赤:朱徳 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 23 35 11 ID Gs9clL4R0 <亡国名将十選> 戦国:項梁 秦:章邯 漢:皇甫嵩 晋:桓温 六朝:侯景 隋:張須陀 唐:李克用 宋:張世傑 明:袁崇煥 清:李鴻章 675 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 00 03 50 ID 0mbJih4N0 李建成って殆ど語られてないし、そもそも弟に史料抹消されてるから 最初から候補外だったろ。3スレ目にして 351でポッと名前が出ただけ。 于謹は◆oOLAqFKRBの気分で上がって下げられた感じだが。 途中で周瑜に比されてたりするけど、当の周瑜は議論中だし その理由は活躍期間という問題で将の将だからという問題ではない。 内政・戦略も出来る統率者の五胡十六国の王猛は確定入りしてるんだけどなー 676 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 00 14 35 ID hcLr56bQ0 長かった書類との格闘も今日で終わり。南宋からは普通に(8時ごろから)参加できそうです。 で、五代宋初は任せると言った手前、俺も北宋中期の名将探し、一応やっとったよ。 《宋史》より 289巻、高継勛、高瓊の長子。王均の乱を平定、蜀の人々から“神将”と称えられた。 高継宣、継勛の弟。并州で募った“清辺軍”を率いて西夏軍を退けた。 290巻、張玉、狄青の腹心 郭逵、狄青の腹心。のち大将として契丹、西夏と戦う。 300巻、杜杞、農民反乱に転戦、広西の区希范を討つ。 徐的、安化州の蛮族叛乱を平定、その後もさまざまな叛乱を平定した。 301巻、梅詢、河北を侵した契丹軍を督戦して撃退。楊瓊ら反逆者を誅殺した。 303巻、田京、兵法に通暁し李元昊の宋進を撃退した。 323巻、趙振、武力あり弓馬に優れ、智謀に優れ財を軽んじ義を尊んだ。対西夏戦で活躍。 馬懐徳、寡兵をもって西夏の軍を退け、逆撃して西夏の寨10余を陥とす。 向宝、神宗から“薛仁貴の再来”と称えられた驍将。 324巻、石普、性剛強にして胆略あり、頗る兵書に通じ、契丹、西夏との戦いに功を挙げた。 張亢、しばしば西夏と戦い、“虎翼軍”を率いて西夏軍を破った。 郭遵、向かうところ敵なしの驍将。愛馬が矢を受け倒れたところを殺された。 任福、一万八千人を率いて西夏に進軍、伏兵に遇い、力戦するも戦死した。 武英、任福麾下。伏兵の危険を危惧したが皆聞かず、伏兵の前に力戦するも戦死。 334巻、林広、しばしば西夏と戦って戦功あり。蛮族乞弟と戦いこれを破る。 335巻、チュウ師道、西夏の臧底城を破る。金軍の南進にも抗戦して一時これを退けた。 チュウ師中、師道の従弟。しばしば金軍を退けるも、寿陽の戦で金軍に囲まれ、戦死。 349巻、劉昌祚、西夏相手に寡をもって衆を破る。騎射に最も優れ、《射方》を著す。 姚兕、しばしば西夏と戦い向かう所敵なし。西夏の将・鬼章を擒らえる。 姚麟、兕の弟。兄と並んで“二姚”と呼ばれる名将。 劉舜卿、姚兕らの上官。兵書に親しみ、よく敵情を計り、守辺の名将と呼ばれる。 劉紹能、順寧、破羅川の戦いで西夏を破り、戦功一等。47年に渡って辺境を守る。 350巻、曲珍、はじめ郭逵の部下。西夏と戦い勝ったり負けたり。 郭成、財を軽んじ施しを好む。忠勇にして善く戦い、その威名は辺境に轟く。 賈嵓、一矢で西夏軍の大将を討ち取る。驍勇にして善く戦う当世の名将。 王恩、徽宗時代の将。伏兵をもって西夏の大軍を大破した。 趙隆、王韶の部下。西夏の将・鬼章を擒らえ、平夏川の戦いでは軍功一等。 353巻、張叔夜、宋江の乱を平定。金の南進を阻み将軍二人を斬る。 ・・・こんなとこ。詳細に関しては明日まで待ってくだせぇ。今は仕事で目がチカチカしとるんです。眠いし。 677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 01 19 39 ID OHmyUdqAO そのクラスの将軍なんてどの時代にも幾らでもいるだろ 候補入りすら出来ないような武将はいらん 678 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 01 25 54 ID cjZBgJWe0 知らん人物を紹介してくれるのはありがたいが 詳細については十選に入るだろうというのを選んで書いてくれればいいんじゃない 679 ○ sage 2007/04/01(日) 02 58 26 ID Yep9d0/00 677 まあモチツケw なんか北宋って建国期と一部の例外を除き名将っていないような 印象を受けるのは自分だけか… だから後年は女真族に頼った感は否めないし… 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 04 13 13 ID mZ52tYyA0 遼も推薦可能になったし、この時代であれば外すわけにはいかないこの人を推薦。 列伝を頑張って読んでみましたが、漢文訳は不慣れなので間違いあれば指摘お願いします。 耶律休哥(字は遜寧、938?~998) 若いころから公輔の器量があった。烏古、室韋二部の反乱で戦功をあげ、 応暦年間の末に惕隠(宗正にあたる職?)になった。 979年に宋太宗の北伐に際して、遼の蕭討古らが敗れて燕京で包囲され、 耶律休哥が救援の将に抜擢される。高梁河で宋軍に遭遇して、耶律斜軫と協力して 両側面から攻撃して破り、追撃して1万ほどの首級を得る。耶律休哥は3箇所負傷していて 騎乗できず、軽車を駆って太宗を追撃したが、捕らえることは出来なかった。 その年の冬報復で満城を攻めた際、宋軍が降伏を申し出てきたが、耶律休哥は 罠と見抜いて変事に備えるよう諫言した。主将の韓匡嗣は降伏を信用してしまって聞き入れず 計略にはまって大敗してしまったが、耶律休哥は手勢を率いて迎撃し、宋軍を引き上げさせた。 この功績で北院大王となった。 980年、景宗の親征で瓦橋関を包囲したとき、耶律休哥は宋の援軍に呼応して出撃してきた 守備軍の将を斬って撃退し、さらに騎馬隊の精鋭を率いて渡河して援軍も撃退した。 景宗から「皆が耶律休哥のようであれば何の心配も要らない」と誉めちぎられ、 馬と金杯を下賜されている。 聖宗が即位して承天太后の摂政体制になると、耶律休哥は南面軍の全権与えられて 指揮することになった。耶律休哥は兵卒と同じ生活をし、法律の整備・桑の生産の奨励・ 防衛体制の整備をして辺境の治安を向上させた。 986年、宋の北伐があって潘美、楊業が雲州に、曹彬、米信が雄州・易州に進出し、 岐溝関や固安が陥落した。このとき耶律休哥の兵力は少なかったので正面から戦うことは避け、 夜間は軽騎兵を率いて孤立した部隊を攻撃し、昼間は精鋭を率いて奇襲し、宋軍を攪乱した。 また林や草原に伏兵を置いて糧道を断ったので、曹彬軍は撤退した。1ヶ月ほどして 再度曹彬軍が攻めてきたが、耶律休哥は軽装の部隊で宋軍に近づいて寝食の様子を伺い、 本隊を離れる少数の部隊を変幻自在に攻撃した。承天太后の率いる軍が到着して曹彬軍は 退却したが、耶律休哥に包囲され、曹彬・米信はわずかな側近と逃亡、宋軍は壊滅した。 耶律休哥はさらに追撃して、沙河の辺で駐屯していた宋軍数万を攻撃して撃ち破った。 このとき川が死体で埋まり、流れが堰き止められたという。功績により、宋国王に封じられた。 その秋、承天太后の南征にて、耶律休哥は先鋒となり、宋軍を望都で破った。 このとき宋将の劉廷讓が数万騎を率い、李敬源の軍と連携して燕の占領を狙っていた。 耶律休哥はその動きを察知し、要所に兵を配置しておいた。承天太后の軍が到着し、 宋軍を迎撃して李敬源を殺し、劉廷讓を敗走させた。 989年、宋の劉廷讓軍が攻撃してきた。遼将が皆恐れる中、耶律休哥は単独で精鋭を率いて 沙河の北で迎え撃ち、数万を殺傷し、宋軍の輜重を数え切れないほど鹵獲して献上した。 この功績により免拝不名の特権を与えられた。宋軍はこれ以降北伐を試みることはなかった。 宋では泣く子を黙らせるのに「耶律休哥が来るぞ!」と言うようになったという。 (原文だと「於越至矣!」でいまいち意味不明だったですけどこんな感じであってますかね?) 耶律休哥は燕の民が疲弊していたため、賦役を免除し、孤児や寡婦を援助し、 兵が宋の国境を越えないよう戒め、国境を北へ越えてきた馬や牛といえども全て送り返した。 998年に死去し、詔勅により南京に祠が建てられた。 敵の動きを読み、寡兵でも変幻自在に敵軍を攪乱・撃破しているあたり、やはり名将ですね。 武将としての能力だけでなく民政の面でも有能ですし、「百戦を経て無辜の民を殺したことは 一度もなかった。」と評されるあたりもポイント高いけど、このスレ的には評価対象外かな? 681 ○ sage 2007/04/01(日) 13 26 18 ID Yep9d0/00 680 そうですねこのスレ的には人格面はあまり評価の対象になってませんね。 耶律斜軫は蔚州を攻め破り、宋の潘美の軍を破り、朔州に進んで、 宋の将の楊継業を捕らえてる。 耶律休哥は宋軍を瓦橋関と高梁河で破り、 太宗の親征を始め曹淋・米信・劉廷譲を破り燕雲十六州を確保、 しかし尹継倫に敗れているね。 うーんやはり耶律斜軫>耶律休哥になるのかな? 682 ○ sage 2007/04/01(日) 13 28 26 ID Yep9d0/00 連投スマン 遼に対抗して西夏(夏)からも推薦しないとなw 李継遷(963~1004) 西夏の太祖、光孝皇帝と追尊された。チベット系タングート族拓跋部、銀州無定河の出身。李光儼の子。 李継捧の弟と言われているが族弟とする説もあり。 李徳明(太宗)の父、李元昊(景宗)の祖父 開宝七年(974)、宋の定難軍管内都知蕃落使に任ぜられる。 太平興国七年(982)、族兄の李継捧が夏・綏・銀・宥・静の五州を献じて 宋に内属し、開封に遷ると、 李継遷は夏州の東北三百里の地に移って自立。 宋に抵抗しつつタングート族を糾合して遼に臣従した。 宋に対して叛服を常にして、在地豪族と結んで勢力を蓄えた。 雍煕二年(985)、銀川を根拠地とし、定難軍留後を自称。 後に遼に対して臣を称し、義成公主の降嫁を受け、夏国王に封ぜられる。 タングート族の勢力を結集して、宋・遼に対抗、西夏の礎を築く。 淳化初年には宋に帰順、銀州観察使となり、趙保吉の姓名を賜るがまもなく叛く。 至道二年(996)に、宋軍を浦洛河に迎え撃ち、霊州を囲む。 翌三年(997)、宋の夏州刺史・定難軍節度使となる。 咸平五年(1002)には霊州を陥れて、西平府と改称、国都とする。 景徳元年(1004)、西涼府を攻めて、吐蕃(チベット)の首領、 潘羅支に襲撃を受けて矢に当たり没した。orz 683 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 14 13 18 ID ZrNR2d1m0 北宋中期、太宗以降の名将その一。 賈嵓(字は民瞻。神宗~哲宗期) 若くして騎射に精通、常々“大丈夫としてこの世に生まれたからには、 自ら奮戦し名を揚げたいものだ”と発言し、家出して放浪する。神宗の 武才選考の目に止まり武人となった。 林広の夷狄討伐に先鋒として従軍、西夏の軍を明堂川で破る。ほかにも いろいろ功があって昇進。紹聖年間、西夏の軍が数万の大軍で麟州の 神堂寨を囲むと危急にあって賈嵓は数百騎を率い、“国家が安泰のとき おまえたちに厚い禄を食ませて養育してきたのはまさに一旦このような時 のためである。今力敵わずといえども、私は死をもって国に報いんと誓う!!” と宣言。100騎の兵はみな感動し、速攻で屈野河まで至り、そこから五里の 北欄坡嶺に登った。賈嵓は一箭のもとに敵の酋長を射殺して敵を潰走させる。 哲宗はその戦果を大いに嘉して恩賞を下賜し、威州刺史に任命した。 賈嵓は辺境にあること20年、知略ありよく士卒を御撫し、戦えば必ず 勝って当世の良将と称えられた。濠州団練使にまでなって52歳で没。 雄州防御使を追贈された。 ・・・なんか短いけど中期~徽宗までの武官はほとんど全員2,3ページしか 割かれてないんでこんなもんです。いつもは長すぎるぐらい長いんやけどなー。 684 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 14 29 39 ID mZ52tYyA0 681 耶律休哥が尹継倫に敗れたあたりの記述がどこにあるのか探してるんですけどご存知でしょうか? 尹継倫列伝や宋史本紀には将の名前までは書いてないし、尹継倫が撃退した 989年7月の遼遠征について、遼史本紀では南征したって記述だけで誰が従軍してるかわからないですし、 耶律休哥の名前は989年6月の戦勝記録以降、逝去する998年まで出てこないんですよね・・・ 耶律斜軫は列伝の記述量が耶律休哥に比べて激減するのと、 戦勝はしててもここがすごいっていうのがわかる記述がないんで、 セールスポイントは無理攻めさせられた楊業をラッキーで捕らえたくらいな気がしますが。 遼から入れるとしたら、太宗は確定として、耶律休哥・耶律斜軫はどちらか一人になりますかね。 685 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 14 58 14 ID ERvMR/+10 676 モツカレ。 探してみると、結構武官いるんですね…(つうか、よくみつけましたねw) けど、やっぱ狄青が別格かなぁ。 話の腰を折ってすまんけど、北宋中期以降、武官としてどのあたりの使職についていれば 高位な方なんでしょう? 団練使や防御使って、五代では中堅クラスですもんね… と、唐末~北宋初オンリーの自分が訊いてみる。 686 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 15 01 10 ID mZ52tYyA0 中国サイトで同じような企画やってるところを発見(既出だったら失礼) 三国志に異常に偏りすぎだろ!とか突っ込みどころもいっぱいありそうですけど(笑) 細かい説明や、選外になった候補の記述もあっていい感じ。 ttp //big5.hjsm.tom.com/gate/big5/html.hjsm.tom.com/html/book/8/784/875645941,4e01.htm このスレでの選考結果もログと一緒に、こんな感じでまとめサイトになるといいですねぇ。 687 ○ sage 2007/04/01(日) 15 08 44 ID Yep9d0/00 684 Webを見てたら 統和七年(989)、宋の尹継倫に敗れて、ひじに傷を負った。 と記載されてたので参考になればと思いカキコしてみました。 ◆oOLAqFKRBさん チュウ師道は南宋・金~元の候補枠に入ってますがチュウ師道は北宋、南宋のどちらの武将になるんですか? チュウ師道について全く知識がないもので、よかったら詳しくお教えねがえませんか? 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 15 15 22 ID mZ52tYyA0 687 レスありがとうございます。 おそらくそのWeb、枕流亭の人物辞典ですよね。こちらも検索かけて見つけてたんですけど、いざ史書を読んでみると記述がなくて。 686のサイトの耶律休哥の評見てみると尹継倫に敗けて肘に負傷した記述があるんで、見落としてるのかもしれません。どこだろう・・・ 689 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 15 28 30 ID ZrNR2d1m0 劉昌祚 父を定川の戦いで亡くす。蛮族の酋長のもとに赴きこれを論破、 ねぎらいの言葉と賞与を賜る。帰国後、対遼戦を想定した神宗の 武才選挙に合格して舎人となった。西夏が劉溝堡に攻め込むと騎兵 2000の増援軍を率いて出陣、黒山に伏せていた遼軍の伏兵1万と遭遇し 交戦、不利な戦況の中で劉昌祚は敵の大将を射殺し、遼軍を潰走させる。 劉溝堡の将帥李師中は劉昌祚の功績を褒めちぎって朝廷に報告、劉昌祚 はそれによって昇進する。 王中正に従って入蜀、羌族を討つ。元豊四年、涇原副都総管となる。 皇帝の西征軍に総管・姚麟とともに従軍、少数民族および漢民族あわせて 5万の兵を率いる。入境後、環慶の高遵裕がはぐれたのを寡兵で探しに 出て、胡盧川で西夏軍10万に出会い、敵が隘路で思うように動けないのを 見て取って突撃、1700人を斬る。敵の食糧を奪いそのまま鳴沙川まで 進軍、霊州に迫る。高遵裕が使者を遣わして劉昌祚の先走りを諌めるが、 劉昌祚は黙れと一喝、夕方、敵軍と交戦した。高遵裕が数千の援軍を送るも、 黎明には劉昌祚の軍が敵を退けていた。翌朝皇帝に謁見、霊州城を前にして 「ひたすら攻めりゃいいんです」と進言、高遵裕が「城を囲んで兵糧攻め すべきです」と言ったものだから劉昌祚は怒りに怒り、上官である姚麟の 兵権を奪うという暴挙に出る。翌日、環慶軍と涇原軍が大喧嘩するという 一幕があったものの一応は兵糧攻めが採択され、18日が過ぎるも降すあたわず。 逆に追い詰められた西夏軍が決死の覚悟で出城、環慶軍を潰走させる。そこで 劉昌祚が出馬し、西夏軍を叩きのめした。これによりまた出世する。 翌年、永楽が陥とされ現地士卒の士気が奮わないということで各軍の武芸を 競わせ、優勝者に名馬を下賜した。また西夏が塞門、安遠門に攻め寄せると 反撃に出て彼らを打ち負かし、総帥・葉悖麻と咩吪埋の二将を殺した。この戦い で永楽の士卒が活躍したので、皇上は大いに喜び、宦官を派遣して慰労した。 哲宗が即位するとさらにさまざまな官職を与えられるが割愛。士卒に弓兵と 2頃の土地を与え、騎兵隊で馬を喪ったものには新しい馬を支給した。隴山の 田地で万頃の収穫があり、その経済力を持って士卒5千人を募兵。これを指揮 統率して剽悍な部隊とする。西夏との戦いに生涯を捧げ、68歳で没。 開府儀同三司を追贈され毅粛と謚された。 685 宮崎市定全集「宋」からの引用で自分でも確証はもてんのやが、多分で。 節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史の順でいいと思うです。 節度使っつーても武官の実権なんぞほとんどないわけですが。 制置使とか都統制はまた別扱いみたいでして、同時に兼ねる武将も結構おったり。 687 チュウ師道は一応北宋でいいかと。ほぼ西夏との戦いで前線に立っとるし、 靖康の変以前に死んでる(多分死んでたはず)から。 でも張叔夜と並んで抗金の名将のはしりみたいな存在ではありますな。 690 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 15 42 55 ID ZrNR2d1m0 連投やけど書き忘れ。 劉昌祚は気力満々の雄偉な偉丈夫で、騎射にかけては当時天下一等、 百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。 著書に《射法》があるが現在散逸。 685さんの質問に答える形で言うとこの人は節度使にまでなってます。 687さんへ。范仲淹、韓琦、チュウ師道の三人は北宋の候補に入れたはずが俺の ミスで南宋になってしまっただけです。チュウ師道はほぼ確実に北宋、ということで。 691 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 15 43 35 ID ERvMR/+10 688 《続資治通鑑》の、『宋紀十五』(遼統和七年…)、六月末にそれらしい記事がありました。 休格食未竟,棄匕箸走,爲短兵中其臂,創甚,乘善馬選遁。 休格? 休哥でしょうね(自分のはちょっとアレなヤツですんで…) ちなみに、尹繼倫がらみと思います。 692 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 15 47 43 ID ERvMR/+10 690 節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史 なるほど、またちょっとその辺の資料探してみようかな。 百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。 李克用伝説とまんま同じですね、ソレ。 韃靼が西夏になっただけという。 693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 16 21 53 ID mZ52tYyA0 691 おお、ありがとうございます。 続資治通鑑をネットで読めるところ発見して該当部を確認しました。(いい時代になったなあ・・・) 宋史や遼史に記述がないのは、元が編纂したんで遼よりの記述だったってことなんですかね。 逆に清代に編纂された続資治通鑑だと、宋よりに捏造してないかとか疑いたくなったりしますが(笑) 休格と休哥両方で検索かけてみると、一応両方あってるみたいですね。 細かく見れてないですが、宋朝は休格と呼んでいたってことのようです。 694 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 16 38 20 ID ERvMR/+10 690 あ、そうだ。 チュウ師中の「ちゅう」は种を使ってみてください。 変換できるはずです。 693 耶律休格… ま、たしかにそれで記述されているわけですが いまいちパッとしないイメージが。 ともかく、謎が解けてよかったですね。 695 ○ sage 2007/04/01(日) 19 20 08 ID Yep9d0/00 689ー690 ◆oOLAqFKRBさん ㌧です何度もお手間かけさせて申し訳ないです。 种師中の紹介文(?)是非お願いしたいですね。 張叔夜は済州太守か知州の文官(?)なのに なんか宋江戦では見事な戦術を披露したみたいですね。 あと抗金戦で悲運の死を遂げた人物なんですね。 范仲淹は文官・詩人のイメージが強いので自分的には意外です。 韓世忠は金の宗弼率いる10万の大軍を相手に,わずか8000の手勢で退路に潜み追撃し打ち破ったり、 文武兼備の妻の梁紅玉ともに戦場を駆け巡ったこと人物ですね。 主に活躍したのが南宋期だし、岳飛・張俊と共に抗金の名将として有名ですし、 韓世忠は南宋でいいんじゃないですかね?ダメ? ここでまたいつもの寝言w 韓世忠は奥さんと一緒に戦場を駆け巡ったとこなんて 北魏の楊大眼と妻の潘氏が駄ぶるのですが… 696 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 20 44 23 ID ERvMR/+10 种師道 &は (半角のアンド)で討って… ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。 そういえばうやむやになったけど、曹彬の件、なんか鮮烈な戦勝報告でもないもんかな。 高懐徳とかどうなんだろう。 オヤジの高行周は対契丹戦で勇名を馳せた、ガチの名将ではありますが(10人には入らんでしょうが)。 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 20 58 50 ID 5sYk0nXe0 695 奥さんとセットでなんぼって感じだからなあ さすがに10人には入れにくいような 698 ○ sage 2007/04/01(日) 21 54 18 ID Yep9d0/00 696 >&は (半角のアンド)で討って… すいません◆RQdk7scN8sさん 种師道これでおK? >ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。 これまたすいません(;^_^" 決してそんなつもりじゃかったんですけど、流れ変えちゃった? 推薦が落ち着いたら確定の方を決めていく方向でいいんじゃないですかね? (西夏も仲間に入れてあげて下さい…) 699 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 22 04 12 ID IbwTPFXu0 今种師道の訳を進めてる最中ですので、五代~北宋はいま少し待っていただけると助かりますが。 ちなみに韓世忠、この人自分に拝礼しない部下(呼延通って言うんやけど)に キレて徹底的にシカトしまくり、自殺に追い込んだ恐るべき男、というイメージ が強くてどうしても好きになれん。まぁ、このスレでは関係ないのか。 700 転載 sage 2007/04/01(日) 22 31 47 ID inohJBGt0 217(北宋時代の軍事費も相当なものだったでしょうな) 相当どころの話ではない。宋はその国初から兵農一致の国民皆兵制を断念し、 傭兵による常備軍を保持していたため、軍事費は財政全体の8~9割を占めた。 人民は兵役を免れたものの、労役は依然として存在したし、 軍事費は主に塩税で調達されたから、結局は別の形で生活を圧迫された訳だ。 王安石が唐代の徴兵制へ回帰をはかったのも、かかる事情が背景に存したためだ。 王安石の兵農一致政策(保甲法という)は、財政面から言えば一応の成功をみた。 なにせ保甲法による軍隊の維持コストは、従来の十分の一程度の試算だったからだ。 実際はそこまで計算どおりには行かなかったにせよ、歳出削減の効果は劇的だった。 ただし、兵制改革のもう一つの重要な目的である軍隊の精鋭化は達成できなかった。 王安石は、軍隊の弱体化は傭兵の士気の低さに原因があるのだから、 外敵から自らの生活を守るという確固たる目的を有した民衆を徴兵することで 士気の高い軍隊を作ろう───と、考えたわけだが、実際そう単純なものではない。 王安石は民衆の国防意識を過大に見積もっていたのだな。 民衆にとっては、いかに農閑期とはいえ、一銭にもならぬ軍事教練などに 駆り出されるのは迷惑であろうし、また、戦争は農閑期を狙って起きるものではない。 加えて、兵士は卑しい身分であり、軍隊はやくざ者の集まりである───という、 中国独特の卑武精神もある。そうした気風は何も士大夫だけが持つものではない。 であるから、巨大な軍隊を抱えつつも、外交で平和を模索するという宋の国家観は、 実情を反映した合理的な考え方であったのだ。宋は弱腰で腑抜けた時代であると 揶揄する者も多いが、近世東アジアの超大国として、それが最も妥当なあり方だった。