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総括所見:イタリア(第3~4回・2011年) 第1回(1995年)/第2回(2003年)OPAC(2006年)/OPSC(2006年) CRC総括所見日本語訳(国別)/CRC総括所見日本語訳(会期順) CRC/C/ITA/CO/3-4(2011年10月31日) 原文:英語(平野裕二仮訳) 原文は国連人権高等弁務官事務所のサイト(国別情報のページまたはCRC会期一覧ページ)を参照。 1.委員会は、2011年9月20日に開かれた第1642回および第1643回会合(CRC/C/SR.1642 and 1643参照)においてイタリアの第3回・第4回統合定期報告書(CRC/C/ITA/3-4)を検討し、2011年10月7日に開かれた第1668回会合において以下の総括所見を採択した。 I.序 2.委員会は、締約国における子どもの状況についての理解を向上させてくれた、締約国の定期報告書(CRC/C/ITA/3-4)および事前質問事項に対する文書回答(CRC/C/ITA/Q/3-4/Add.1)の提出を歓迎する。委員会は、締約国のハイレベルなかつ部門横断型の代表団との間に持たれた、建設的なかつ開かれた対話について評価の意を表明するものである。 II.締約国によりとられたフォローアップ措置および達成された進展 3.委員会は、以下の立法措置がとられたことを前向きな対応として歓迎する。 (a) 収監されている母とその未成年の子との関係の保護に関する法律第62/2011号(2011年4月)。 (b) 子どもおよび青少年のための国家オンブズパーソンの設置に関する法律第112/2011号(2011年7月)。 (c) 子どもの性的搾取および児童ポルノ(インターネットを通じてのものを含む)との闘いに関する法律第38/2006号。 (d) 親の別居および子どもの分担監護に関する規定についての法律第54/2006号(2006年2月)。 (e) 義務教育期間を10年以上とし、かつ最低労働年齢を15歳から16歳に引き上げた法律第296/2006号(2006年12月)。 (f) 女性性器切除の慣行の防止および禁止に関わる規定についての法律第7/2006号(2006年1月)。 4.委員会はまた、以下の文書の批准またはこれへの加入も歓迎する。 (a) 人身取引と闘う行動に関する欧州評議会条約(2010年)。 (b) 障害のある人の権利に関する条約およびその選択議定書(2009年)。 (c) 国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(2000年)を補足する、人(とくに女性および子ども)の取引を防止し、抑止しおよび処罰するための議定書(2006年)。 (d) 性的搾取および性的虐待からの子どもの保護に関する欧州評議会条約(2007年)。 5.委員会はまた、以下の制度上および政策上の措置も歓迎する。 (a) 国家子ども・青少年監視機関の権限の更新(直近の更新は2010年)。 (b) 発達年齢にある者の権利および発達を保護するための国家行動介入計画(2010~2011年)。 (c) 乳幼児期の社会-教育サービスに関する全国的制度の発展のための特別介入計画(2007~2009年)。 (d) 人権保護についての政策および戦略指針に関する閣僚委員会の設置(2007年4月13日付首相令)。 (e) 政府による人身取引対策活動調整委員会(2007年)、人身取引、暴力および深刻な搾取の被害者支援に関する省庁間委員会(2007年)および人身取引監視機関(2007年)の設置。 (f) 貧困および社会的排除に対抗する国家行動計画(2006~2008年)。 III.主要な懸念領域および勧告 A.実施に関する一般的措置(条約第4条、第42条および第44条6項) 委員会の前回の勧告 6.委員会は、締約国の前回の報告書に関する委員会の総括所見(CRC/C/15/Add.198、2003年)ならびに子どもの売買、児童買春および児童ポルノに関する選択議定書(CRC/C/OPSC/ITA/CO/1、2006年)および武力紛争への子どもの関与に関する選択議定書(CRC/C/OPAC/ITA/CO/1 and Corr.1、2006年)に基づく第1回報告書についての総括所見を実施するために締約国が行なった努力を歓迎する。しかしながら委員会は、委員会の懸念および勧告の多くについて対応がとられておらず、または不十分な対応しかとられていないことを、遺憾に思うものである。 7.委員会は、締約国に対し、未実施の勧告または十分に実施されていない勧告(調整、資源配分、条約に関する組織的研修、差別の禁止、子どもの最善の利益、アイデンティティに対する権利、養子縁組、少年司法ならびに子どもの難民および庇護希望者に関するものを含む)に対応し、かつこの総括所見に掲げられた勧告について十分なフォローアップを行なうために必要なあらゆる措置をとるよう、促す。 調整 8.委員会は、統治の中央レベルから州その他の下位レベルへの権限移譲により、地方レベルにおける条約の不公平な実施が助長されていることを懸念する。この文脈において、国家子ども・青少年監視機関を含む種々の調整機構が存在し、かつ、これらの機構が、子どもの権利の実施に関連する多くの主体の政策およびプログラムを効果的に調整する適切な権限を有していない可能性があることは、委員会の懸念するところである。委員会はさらに、国・州会議に、子どもの権利に関連する政策の計画および実施を調整する作業部会が設置されていないことを懸念する。 9.条約の実施の調整を確保すること、ならびに、州政府に対し、この点に関するリーダーシップを示しおよび必要な支援を提供することの責任は中央政府にあることを想起し、委員会は、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 関連するすべての省庁および諸機関間ならびにすべての段階で子どもの権利に関する政策およびプログラムの実施を調整するため、国家子ども・青少年監視機関の役割を見直し、かつ明確化すること。その際、締約国は、同国家監視機関が強化され、かつ、国、州および自治体のレベルで包括的な、一貫したかつ相互に齟齬のない子どもの権利政策を実施するために必要な人的資源、技術的資源および財源を提供されることを確保するよう、促される。 (b) 国および州のレベル間の調整を強化することにより、あらゆる州で条約の一貫した適用を確保するための効果的機構を発展させるとともに、「社会サービスの提供に関する必須水準」(Livelli Essenziali delle Prestazioni Sociali、LIVEAS)のような全国的基準を採択すること。 国家的行動計画 10.発達年齢にある者の権利および発達を保護するための国家行動介入計画(2010~2011年)が採択されたことには留意しながらも、委員会は、同計画がまだ実施されていないこと、予算がまったく配分されていないこと、および、州レベルで同行動計画のための資金を配分するプロセスによりその実施がさらに遅れる可能性があることを、懸念する。さらに委員会は、同行動計画が監視および評価のための具体的システムを欠いていることを懸念するものである。 11.委員会は、締約国が、国レベルで同行動計画を実施するための資金を遅滞なく配分するとともに、州に対し、州レベルでの活動のために必要な資金を配分するよう、可能なかぎり最大限に奨励するよう、勧告する。委員会はまた、締約国が同行動計画を改訂し、監視および評価のための具体的システムを含めることも勧告するものである。委員会はさらに、締約国が、現在の(および今後の)行動計画にこの総括所見のフォローアップが統合されることを確保するよう、勧告する。 独立の監視 12.委員会は、子どもおよび青少年のための国家オンブズパーソンが法律によって設置されたこと(2011年7月)に満足して留意する。いくつかの州で子どもオンブズパーソンが設置されたことは歓迎しながらも、委員会は、これらの制度が権限、構成、体制、資源および任命の面で相当に異なっており、かつ、個別の苦情を受理しかつ検討する権限をすべての州オンブズパーソンが有しているわけではないことを、懸念するものである。委員会は、独立の国内人権機関の設置に相当の時間がかかっていることを遺憾に思う。 13.委員会は、締約国が、子どもおよび青少年のための国家オンブズパーソンの新たな事務所が速やかに設置され、かつ、同事務所に対し、子どもの権利の促進および保護における独立した国内人権機関の役割に関する委員会の一般的意見2号(2002年)にしたがってその独立性および有効性を保障するための十分な人的資源、技術的資源および財源が提供されることを確保するよう、勧告する。委員会はさらに、締約国が、すべての州で子どもの権利が統一的かつ有効に保護されかつ促進されることを確保する(子どもおよび青少年のための国家オンブズパーソンによる、既存の州子どもオンブズパーソンに対する援助およびこれらのオンブズパーソンの調整を含む)よう、勧告するものである。委員会は、締約国に対し、子どもの権利を含む人権の包括的かつ体系的な監視を確保する目的で、人権の促進および保護のための国内機関の地位に関する原則(パリ原則)に全面的にしたがった独立の国内人権機構を設置しかつ運用するプロセスを迅速に進めるよう、促す。 資源配分 14.委員会は、締約国および諸州全体のあらゆる部門別予算を子どもに特化した形で分析することに関する従前の勧告(CRC/C/15/add.198、パラ9)の実施について、締約国報告書に情報が記載されていないことを遺憾に思う。委員会は、教育予算が最近削減されたこと、社会サービスおよび教育サービスの発展のための特別計画(2010年)に対して資金が提供されていないこと、ならびに、家族政策、国家社会政策基金および国家子ども・青少年基金のための資金が削減されたことを、特に懸念するものである。委員会はまた、乳幼児期、教育および保健の分野におけるものも含め、子どものための配分および子どもに関する支出に州間格差があることにも懸念を表明する。委員会はさらに、汚職に関する締約国の国際的順位が最近になって下降したこと、および、これが子どもの権利に与える可能性がある影響について懸念するものである。イタリアが直面している現在の財政状況に照らし、委員会は、子どものためのサービスの保護および維持が行なわれなくなる可能性があることを懸念する。 15.委員会は、国および州のレベルにおける子どものための資源配分について包括的分析を行なうように求めた前回の勧告(CRC/C/15/add.198、パラ9)をあらためて繰り返す。このような分析の知見に基づき、締約国は、乳幼児期、社会サービス、教育、および、移住者その他の外国人コミュニティの子どものための統合プログラムに焦点を当てながら、20州全体を通じて子どものための公平な予算配分が行なわれることを確保するべきである。委員会は、締約国が、汚職の問題に効果的に対応するとともに、現在の財政状況のもとで行なわれる支出削減から子どものためのすべてのサービスが保護されることを確保するよう、勧告する。 データ収集 16.委員会は、子どもおよびその家族のケアおよび保護に関する全国的情報システムが創設され、2012年に完成する予定であることに留意する。にもかかわらず、委員会は、子どもの権利の享受に関する利用可能なデータ、とくに暴力の被害を受けた子ども、家庭環境を奪われた子ども(里親養護を受けている子どもを含む)、経済的搾取の被害を受けた子ども、障害のある子ども、養子縁組された子どもならびに子どもの難民および庇護希望者に関する統計が限られていることを、依然として懸念するものである。委員会は、州のデータ収集機構の能力および有効性に関して相当の格差があることに懸念を表明する。 17.委員会は、締約国に対し、子どもおよびその家族のケアおよび保護に関する全国的情報システムが全面的に稼働すること、ならびに、当該システムに対し、子どもの権利を促進しかつ保護する締約国の能力を強化する目的で国全域の関連情報を効果的に収集するために必要な人的資源、技術的資源および財源が与えられることを確保するよう、促す。とくに委員会は、締約国が、州間の格差を効果的に測定しかつこれに対応する目的で、すべての州を通じて全面的に一貫したアプローチを確保するよう勧告するものである。 研修 18.法執行官および憲兵隊を対象として若干の研修が行なわれているという情報にもかかわらず、委員会は、締約国が、子どものためにまたは子どもとともに働くすべての専門家(法執行官、憲兵隊、検察官、裁判官、弁護士、子どもの法廷後見人(curatori)、公務員、ソーシャルワーカーおよび保健専門家、地方政府職員、教員ならびに保健従事者を含む)を対象とした、子どもの権利および条約に関する体系的研修についての従前の勧告(CRC/C/15/Add.198、パラ19(d)〔(b)〕および31〔32(c)〕)をまだ実施していないことを遺憾に思う。 19.委員会は、子どもとともにおよび子どものために働くすべての専門家(とくに法執行官、憲兵隊、裁判官および刑務所吏員)を対象とした、子どもの権利に関する体系的、義務的かつ継続的研修を確保するべきである旨の勧告を、あらためて繰り返す。 子どもの権利と企業セクター 20.委員会は、憲法が、憲法に掲げられた原則を尊重する企業の一般的義務を定めていることを歓迎するとともに、自主的な企業の取り組みに基づき、企業の社会的責任が促進され、規制されかつ実施されていることに留意する。委員会はまた、企業の社会的責任についてのさらなる法律(一定の基準を満たした会社を対象とする免税措置も含む)が元老院および代議院で議論されている(それぞれ法律第386号および法律第59号)ことにも留意するものである。にもかかわらず、委員会は、このような法律において子どもの権利が十分に考慮されていないことを懸念する。加えて委員会は、欧州諸国(イタリアを含む)が輸入している綿の収穫において子どもの強制労働が利用されており、これらの国々はこれによって輸出国における児童労働の搾取を促進している可能性があるという訴えがあることを懸念するものである。委員会は、この問題について国際労働機関(ILO)による調査が行なわれており、かつ、欧州議会が、とくに欧州理事会および欧州委員会に対し、綿産業部門における一般特恵関税制度の一時停止(ILOによる調査報告が可能になるまで)をともなう調査委員会の設置を求める決議案について討議していることに、留意する。 21.国および国以外の主体による子どもの権利の保護および尊重を確保する第一次的責任は国にあることから、委員会は、人権に関する企業の責任についての基準を定める目的で元老院および代議院が検討している法律に、子どもの権利に関わる問題を、子どもの権利条約にとくに言及しながら具体的に含めるよう勧告する。さらに、これらの法律において、子どもの権利および人権の侵害が行なわれた場合(イタリアに本社を置く会社およびその国外提携事業者の活動に関する事案も含む)を司法機関に付託することのできる監督機関について定めておくことが重要である。加えて委員会は、締約国が、欧州の諸貿易協定において子どもの権利が尊重されることを確保するためにその影響力を活用しながら、児童労働に由来する綿(欧州またはその他の場所で生産されたもの)が欧州市場に持ちこまれないことを確保する、欧州連合における自国の責任を果たすよう勧告する。加えて、締約国は、イタリアに本社を置く企業が国外のサプライチェーンまたは提携事業者を通じて児童労働の使用を助長しないことを確保するための効果的監視について、現在提案されている法律に基づく明確な枠組みを定めることもできるはずである。 国際協力 22.委員会は、締約国が、2006年に国民総所得(GNI)の約0.20%を国際援助に振り向け、かつ対国民総生産(GNP)比0.7%という国際合意目標を2015年までに達成するという決意を表明していることに留意する。しかしながら委員会は、国連児童基金(ユニセフ)への拠出金を含む政府開発援助の水準が、2006年に最高に達したのち一貫して下降しており、2010年には国際合意目標額の半分に達しなかったことに、懸念とともに留意するものである。 23.多くの国が直面している財政的制約に留意しつつ、委員会は、締約国に対し、対GNP比0.7%という国際合意目標を2015年までに達成する目的で、政府開発援助の減額を是正し、かつ成長路線を回復するために力を尽くすよう、奨励する。委員会はさらに、締約国に対し、開発途上国と締結する国際協力協定において子どもの権利の実現が最優先課題となることを確保するとともに、子どもの権利について扱っている国際機関(とくにユニセフ)への支援を強化するために力を尽くすよう、奨励するものである。委員会は、その際、締約国が、当該援助供与国に関する子どもの権利委員会の総括所見を考慮するよう提案する。 B.一般原則(条約第2条、第3条、第6条および第12条) 差別の禁止 24.委員会は、脆弱な状況に置かれた締約国の子どもを差別する政策、法律および慣行について深刻な懸念を覚える。とくに委員会は以下のことを懸念するものである。 (a) とくに健康、教育、十分な生活水準および社会保障に対する権利の充足との関連における、ロマ、シンティおよびカミナンティの子ども(以下「ロマの子ども」)に対する差別。 (b) 委員会の前回の勧告(CRC/C/15/Add.198、パラ21(b))に違反して、人種的または民族的優越を唱道する宣伝についての刑を短縮した刑法改正。 (c) 嫡出子(準正によるか出生時からかは問わない)と婚外子との間に依然として残っている取扱いの格差。これとの関連で、委員会は、締約国が欧州評議会・婚外子の法的地位に関する欧州条約を批准していないことを遺憾に思う。委員会は、この点に関して提案されている法律について対話の際に提供された情報に留意し、かつこれを歓迎するものである。 25.条約第2条に照らし、委員会は、締約国に対し、締約国のすべての子どもがいかなる理由による差別も受けることなく条約上の平等な権利を享受できることを確保するとともに、この目的のために以下の措置をとるよう、促す。 (a) 人種差別撤廃委員会の勧告(CERD/C/ITA/CO/15、パラ20)にしたがい、ロマ系の子どもに対するいかなる形態の差別(とくに教育制度および必須サービスの提供における差別)も効果的に解消されることを確保するため、あらゆる必要な措置を速やかにとること。 (b) ダーバン宣言および行動計画のあらゆる関連規定を全面的に考慮にいれ、かつ子どもの権利条約第2条をとくに重視しながら、人種主義、人種差別、外国人排斥および不寛容の防止に関する包括的な国家的行動計画を有効な形で採択すること。 (c) とくに子どもに対する人種主義的および排外主義的行為に関するデータの体系的収集の面で、国家人種差別対策局の権限を強化すること。 (d) 刑法第61条に、加重事由として憎悪に基づく動機を編入すること。 (e) 婚内子と婚外子との間に残っているいかなる差別も解消するため、適切な立法上の措置をとること。 (f) 婚外子の法的地位に関する欧州条約の批准を速やかに進めること。 子どもの意見の尊重 26.委員会は、憲法裁判所が、条約第12条は国内法体系において直接適用可能である旨を宣言したこと、および、子どもが手続当事者とみなされる可能性があることを歓迎する。委員会はさらに、親の別居、離婚および監護関係の事件における子どもの意見聴取について定めた法律第54/2006号、養子縁組手続および親の権利の判断における子ども担当弁護士の任命義務について定めた法的規定、ならびに、保護者のいない子どもに意見を聴かれる権利があることを認めた立法令第25号(2008年1月28日付)に、肯定的に留意するものである。しかしながら委員会は、以下のことを依然として懸念する。 (a) 民事上、刑事上および行政上のすべての手続において意見を聴かれる子どもの明示的権利が認められていないこと。 (b) 養子縁組事件における子どもの弁護人/特別後見人(curatori speciali)の任命に関する、法律第149/2001号の実施のための指針が存在しないこと。 (c) 国、州または地方のレベルで子どもに影響を与える法律および政策の策定過程で子どもたちとの組織的協議が行なわれておらず、かつ、子どもに関わる今後の行動計画の策定への子ども参加に関する、より具体的な指針が存在しないこと。 27.条約第12条、および、意見を聴かれる子どもの権利に関する委員会の一般的意見12号(2009年)に照らし、委員会は、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 子どもに影響を与える事柄に関してすべての裁判所、行政機関、施設、学校、保育施設および家庭に適用される、意見を聴かれる子どもの権利について定めた包括的な法規定を導入すること。また、子どもの意見を直接聴けるようにするための措置をとるとともに、その際、そのような参加が、効果的にかつ操作または威嚇を受けることなく行なわれ、かつ、適切なときは関連機関の専門的意見によって裏づけられることを確保するための、十分な保障措置および機構を整備すること。 (b) 養子縁組事件における子どもの弁護人/特別後見人(curatori speciali)の任命についての指針を作成すること。 (c) 州レベルのまたは全国的な支援体制を設置することにより、子どもに関連する法律および政策の策定に子どもたちが含まれることを確保するための措置(子ども評議会の強化を含む)をとること。 C.市民的権利および自由(条約第7条、第8条、第13~17条、第19条および第37条(a)) 登録および国籍 28.委員会は、外国系の子どもの登録される権利に関する法律上および実務上の制限について懸念を覚える。とくに委員会は、公の安全に関する法律第94/2009号により、イタリア国民でない者が全員、身分事項の記録を取得するために在留許可証の提示を義務づけられていることを懸念するものである。委員会はさらに、事実上の無国籍者である子どもの状況(数百名のロマの子どもが無国籍であるという報告も含む)について懸念を覚える。 29.委員会は、普遍的定期審査の際に行なわれた、イタリア市民権に関する法律第91/1992号はイタリアに住むすべての子どもの権利を保全するようなやり方で実施するべきである旨の勧告第40号(A/HRC/14/4/Add.1, p.5)を締約国が受託したことを想起しながら、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) イタリアで出生しかつ暮らしているすべての子どもの出生登録の義務を法律で確保し、かつ実務上促進すること。 (b) 社会的および民族的背景ならびに親の在留資格に関わらず出生時に登録されるすべての子どもの権利に関する意識啓発キャンペーンを行なうこと。 (c) 市民権が取得できなければ無国籍となる可能性がある子どもを対象として、市民権へのアクセスを促進すること。 思想、良心および宗教の自由 30.委員会は、就学前学校、初等学校および中等学校において宗教の授業を受けまたは受けないことを選択する子どもの自由が、妥当な代替的授業が存在しないこと、および、カトリックの信仰に基づく授業に出席しないことを決めた生徒に必要な履修辞退届の入手方法および配布に関する情報が提供されていないことにより、実際には阻害される可能性があることを懸念する。 31.委員会は、締約国に対し、宗教の授業が真に選択制となることを実際上確保するための努力を強化するとともに、以下の措置をとるよう求める。 (a) 宗教の授業が選択制であることを、公立学校に通う生徒のすべての親が全面的に承知することを確保するとともに、もっとも一般的な外国語で情報を利用可能とすること。 (b) カトリックの信仰に基づく授業に代わる選択肢の模範的実践を研究し、特定しかつ記録するとともに、このような調査研究の知見に基づき、関連の代替的授業を全国カリキュラムで利用可能とすることを検討すること。 適切な情報へのアクセス 32.印刷メディアおよび放送メディアについてさまざまな自主規制規則が設けられており、かつメディアと未成年者委員会が設置されたことには肯定的に留意しながらも、委員会は、条約第17条に基づく子どもの権利の享受に資する、包括的な法律上および教育上の枠組みが設けられていないことを懸念する。委員会は、女性および若い女子が性的対象として描写されることについてイタリアのメディアおよび広告が果たしている役割に関する、女性差別撤廃委員会の懸念を共有する。このような描写は、子どもの発達および同世代への関係に悪影響を及ぼすからである。委員会は、とくに以下のことを懸念する。 (a) 「インターネットと子ども規則」の遵守が任意であり、かつ、同規則の実施を監視するために設置された委員会が、2007年の委任期間終了以降、復活させられていないこと。 (b) 子どもたちの間で、プライバシー権をいっそう保護され、かつインターネットの利用に関する情報を子どもにやさしい言葉づかいおよび形式で提供される必要が明らかにあること。 (c) 学習および志望に関する女子の選択に影響を及ぼす可能性があるジェンダー上のステレオタイプ、ならびに、女性および若い女子が性的対象として描写されることについてイタリアのメディアおよび広告が果たしている役割。 (d) メディアにおける、移住者およびマイノリティの否定的描き方。このような描き方は、これらの者の社会的統合およびこれらのコミュニティの子どもの権利の効果的享受に影響を及ぼしている。 (e) 食品、薬、おもちゃその他の物を有害となるおそれがあるやり方で消費することにつながっている広告内容。 33.委員会は、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 社会的および文化的に有益な資料の普及の奨励等も目的としながら、条約第17条の規定および目的を全面的に編入した、子どもとメディアに関する規則の策定を促進しかつ支援すること。 (b) 「インターネットと子ども規則」を監視する委員会を復活させるとともに、同規則に違反に対して効果的な行政上および法律上の制裁が科されることを確保すること。 (c) 人種主義および不寛容と闘う力のある、責任感と積極性を備えたメディアを確保するための措置をとるとともに、その効果的実施を確保する監視システムを設けること。 体罰 34.委員会は、家庭における体罰が蔓延していること、とくにしつけの手段として平手で叩くことをいまなお適切と考えている親が多いことを、懸念する。委員会はまた、体罰の禁止に関する最高裁判決にも関わらず、あらゆる場面(家庭を含む)におけるあらゆる形態の体罰を明示的に禁ずる法律(CRC/C/15/Add.41、パラ20)をまだ成立させていないことも、懸念するものである。 35.委員会は、締約国が、体罰その他の残虐なまたは品位を傷つける形態の罰から保護される子どもの権利に関する委員会の一般的意見8号(2006年)およびあらゆる形態の暴力からの自由に対する子どもの権利に関する一般的意見13号(2011年)を考慮にいれながら、あらゆる場面におけるあらゆる形態の体罰が明示的に禁止されることを確保する目的で、国内法改革を行なうよう勧告する。委員会はさらに、締約国が、体罰が子どものウェルビーイングに及ぼす有害な影響、および、子どもの権利にしたがった、体罰に代わる積極的なしつけおよび規律のための手段に関する、親および一般公衆の意識啓発を図るよう勧告するものである。 D.家庭環境および代替的養護(条約第5条、第18条(1~2項)、第9~11条、第19~21条、第25条、第27条(4項)および第39条) 家庭環境 36.第1次国家家族計画の採択に関わる進展、および、子どもの養育責任に関して親および法定保護者を支援するためのさまざまな措置(それぞれ大家族および低所得家族を対象とする課税控除および子ども手当を含む)は歓迎しながらも、委員会は、これらの措置が第一義的には金銭的なものであり、子どもの発達上のニーズならびに子どもの養育およびしつけを行なう最適な方法について学習することにより子育て能力を高める親のニーズに対応していないことを、懸念する。委員会は、公的保育の機会が限られていることおよび私的保育の費用が高いことを、とりわけ懸念するものである。 37.委員会は、締約国が、大家族および低所得家族への支援に際してホリスティックなアプローチ(所得支援を含む)がとられ、かつ親教育を通じた子育てのあり方に焦点が当てられることを確保するよう、勧告する。とくに委員会は、締約国が、欧州連合の「欧州2020戦略」および欧州委員会の2011年の報告書「乳幼児期の教育およびケア:明日の世界のために、私たちの子ども全員に最善のスタートを」にしたがい、乳幼児期の教育およびケアのためのプログラムのアクセス、負担可能性および質を高め、かつ学校外活動についても同様の対応をとるよう、勧告するものである。 家庭環境を奪われた子ども 38.委員会は、法律第149/2001号にしたがい、家庭環境を奪われた子どものための養護の脱施設化が進展していることを歓迎する。にもかかわらず、委員会は、家族型の代替的なコミュニティまたは施設で提供されるサービスおよび養護の最低基準が設けられていないこと、ならびに、このようなコミュニティの独立の監視および登録に関する法律の実施が弱いことを、懸念するものである。委員会は、提供されるサービスの質の評価が行なわれていないこと、および、子どもの受け入れのために受領した公的資金についての会計責任が問われていないことを、とりわけ懸念する。さらに委員会は、里親養護の利用に関して州間の格差があること、ならびに、里親養護に関する共通の指針および法律が採択されかつ遵守されていないことを、懸念するものである。 39.外国籍の子どもがイタリアで暮らしている家族と再結合する権利に関して、委員会は、手続に時間がかかること、および、欧州連合理事会指令2003/86/ECを国内法化する法律において締約国で暮らしている核家族が除外されていることを、懸念する。 40.委員会は、締約国が、法律第149/2001号の効果的かつ平等な実施を、その権限の及ぶ範囲ですべての州において確保するとともに、以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 家庭環境を奪われた子どものためのすべての代替的養護施設(家族型コミュニティのような「入所型施設」も含む)を対象として、サービスおよび養護に関する全国的に合意された最低基準を採択すること。 (b) 家庭環境を奪われたすべての子どもの措置について関連の機関による独立の監視が行なわれることを確保するとともに、そのような子どもの受け入れのために公的資金を受領する者に会計責任を果たさせる機構を設置すること。 (c) 家庭環境を奪われたすべての子どもに関する包括的調査を実施し、かつこのような子どもの全国的な登録制度を創設すること。 (d) 家族の再統合に対する権利、および、この権利を有するすべての外国人(イタリアで形成された家族を含む)へのその適用について明示的に定める目的で、移民統一法典を改正すること。 (e) 里親家庭の適正な選抜、研修および監督を確保するとともに、これらの家庭に対して十分な金銭的支援および地位を与えること。 (f) 子どもの代替的養護に関する指針(総会決議64/142付属文書)を考慮すること。 養子縁組 41.委員会は、国内養子縁組および国際養子縁組において子どもの意見および見解に耳を傾ける必要があることについての義務的規定を歓迎する。しかしながら委員会は、2003年以来の「開放型養子縁組」の慣行に留意しつつ、このような養子縁組についての確固たるかつ一貫した法的根拠がないこと、および、里親家庭への無期限の措置が行なわれるおそれがあることに、懸念を表明するものである。さらに委員会は、国際的な養子縁組に関する子の保護および協力に関するハーグ条約の非加盟国との国際養子縁組が、二国間協定が締結されていないにも関わらず続けられていることについて、あらためて懸念を表明する。国際養子縁組委員会がとった措置には留意しながらも、委員会は、民間養子縁組斡旋機関が多数存在すること、監視制度が不十分であること、および、養子縁組の過程で一部当事者が金銭的利得を得ているという報告があることを、依然として懸念するものである。 42.委員会は、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 養子縁組を規律する法律(法律第184/1983号および第149/2001号を含む)および手続に、子どもの最善の利益が最高の考慮事項である旨の原則を導入すること。 (b) 1993年ハーグ条約をまだ批准していないすべての送り出し国と二国間協定を締結すること。 (c) ハーグ条約および子どもの権利条約第21条(d)にしたがって、すべての民間養子縁組斡旋機関の効果的かつ組織的な監視を確保し、民間養子縁組斡旋機関の数を管理しまたは限定するための選択肢を考慮し、かつ、養子縁組プロセスがいかなる当事者の金銭的利得ともならないことを確保すること。 (d) これまでに養子とされた子どものウェルビーイングならびに縁組の崩壊の原因および結果に関する組織的フォローアップを確保すること。 子どもに対する暴力(子どもの虐待およびネグレクトを含む) 43.委員会は、あらゆる形態の身体的および精神的暴力からの子どもの保護ならびにこのような暴力の防止を目的とする全国共通の制度および枠組み、ならびに、これに対応した監視および調整のための実施機関が存在しないことを、深刻に懸念する。これとの関連で、委員会は、14~17歳の子ども(ほとんどはイタリア北部および中部の子ども)の過半数が子どもの不当な取扱いを経験しまたは目的したことがあるというある調査の結果に、深刻な懸念とともに留意するものである。とくに、データ収集(ピエモンテ州およびベネト州)ならびに防止(エミリアロマーニャ州)に関わる一部州での肯定的経験には心強い思いを感じながらも、委員会は、以下のことを懸念する。 (a) 子どもに対するあらゆる形態の暴力についての、包括的かつ全国的なデータ収集システムおよび登録制度が存在しないこと。 (b) 子どもに対する暴力についての指針の存在および実施、ならびに、暴力の防止、取扱いおよび根絶に関して、州間に格差があること。 (c) 困難な状況に置かれた母親によって子どもが遺棄されていること。 44.委員会は、前回の懸念および総括所見(CRC/C/15/Add.198、パラ37および38)をあらためて繰り返すとともに、一般的意見13号を想起しながら、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) ヨーロッパ・中央アジア地域協議(2005年7月5~7日、スロベニア・リュブリャナ)の成果および勧告を考慮し、かつジェンダーに特段の注意を払いながら、子どもに対する暴力に関する国連研究の勧告(A/61/299)の実施を確保する等の手段により、子どもに対するあらゆる形態の暴力の撤廃に優先的に取り組むこと。 (b) 前掲研究の勧告、とくに子どもに対する暴力に関する事務総長特別代表が強調した以下の勧告を締約国がどのように実施しているかに関する情報を、次回の定期報告書で提供すること。(i) 子どもに対するあらゆる形態の暴力および不当な取扱いを防止しかつこれに対処するための国家的な包括的戦略を各国で策定すること。 (ii) あらゆる場面における、子どもに対するあらゆる形態の暴力および不当な取扱いの明示的な法的禁止を、国レベルで導入すること。 (iii) データを収集し、分析しかつ普及するための全国的システムならびに子どもに対する暴力および不当な取扱いに関する調査研究事項を強化すること。 E.障害、基礎保健および福祉(条約第6条、第18条(3項)、第23条、第24条、第26条、第27条(1~3項)および第33条) 障害のある子ども 45.委員会は、締約国の報告書で、障害のある子どもに関する情報が限られていることを遺憾に思う。障害のある子どもを学校制度に統合しようとする努力は歓迎しながらも、委員会は、障害がいまなお「ハンディキャップ」として概念化されており、障害のある子どもの社会的インクルージョンを確保する目的をもったアプローチがとられていないこと、および、学校への専門教員の配置に関して州間格差があることを、懸念するものである。委員会はさらに、障害のある子どもの特別なケアを乳幼児期に確保することに関して不十分さおよび遅れが見られること、ならびに、障害のある0~6歳の年齢層の子どもに関する統計データが整備されていないことを、懸念する。 46.委員会は、締約国が、障害のある子どもとの関連で権利基盤アプローチを確保するために現行の政策およびプログラムを見直すとともに、関連の政府職員およびコミュニティ一般がこの点に関する感受性を高めることを確保するための広報および研修の取り組みを検討するよう、勧告する。委員会はまた、障害のあるすべての子どもが質の高いインクルーシブ教育へのアクセスを享受できるよう、締約国が、十分な人数の専門教員を全校に配置することも勧告するものである。さらに委員会は、このような特別なニーズにしたがって政策およびプログラムを適合させるため、障害のある子ども(0~6歳の年齢層を含む)に関する具体的なかつ細分化されたデータを収集するよう、勧告する。委員会は、締約国に対し、これとの関連で障害のある子どもの権利に関する委員会の一般的意見9号(2006年)を考慮するよう、奨励するものである。 健康および保健サービス 47.委員会は、保健ケアに関する権限が州レベルに委譲されたことにともなって保健ケアの必須水準(Livelli Essenziali di Assistenza、LEA)が定められていないことにより、締約国の南部諸州と北部諸州との間で保健ケアシステムの質および効率性に格差が生じ、到達可能な最高水準の健康に対する子どもの権利に影響が及んでいることに、懸念とともに留意する。子供の肥満率が高くかつ上昇していること、ならびに、アレルギー性疾患および(または)呼吸器系疾患に罹患した子どもが相当数にのぼることも、委員会にとって懸念の対象である。委員会はさらに、イタリア人である母親に比べ、外国人である母親の間で死産率および周産期死亡率が高く、かつ救急部または救急病院での治療が必要となる可能性が高いことを懸念する。これは、ひとつには、在留資格を有しない外国人が犯罪者として扱われるために、在留資格を有しない外国人である母親が、妊娠前および妊娠中に、必要な産科学的治療および検査を受けないことによるものである。 48.委員会は、締約国が、すべての州のすべての子どもを対象として共通の水準の保健ケアサービスを促進するために即時的措置をとるとともに、以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 健康に対する子どもの権利との関連で国家保健計画(2006~2008年)の実施状況を分析し、かつ、これに基づき、子どものために十分な保健ケア支出を配分すること。 (b) 保健ケアの必須水準(LEA)を遅滞なく定めること。 (c) 子どもの権利に一致するやり方で、すべての保健専門家の養成および研修のためのプログラムを改善すること。 (d) 運動、健康的な食事習慣およびライフスタイルの重要性を強調しながら、学校および家庭を対象とするアドボカシーおよび意識啓発のプログラムを行なう(国家予防計画(2010~2012年)の効果的実施を含む)とともに、初等中等学校のカリキュラムにおける体育の時限数を増やし、かつその質を向上させること。 (e) とくに外国人コミュニティがアクセスしている保健ケア施設を対象として、外国系の子どもを含むすべての子どもの、保健ケアに対する権利についての広報キャンペーンおよび意識啓発キャンペーンを発展させかつ実施すること。 母乳育児 49.委員会は、生後6か月間の完全母乳育児率が低く、かつ、乳児に対して生後4か月から離乳食を与える慣行があることを懸念する。委員会はさらに、乳幼児および青少年向けの食品の販売促進が規制されておらず、かつ母乳代替品の販売促進の監視が不十分であることを懸念するものである。 50.委員会は、関連の政府職員(とくに産科部で働く職員)および親を対象としたキャンペーン、広報および研修を含む意識啓発措置を通じ、生後6か月間の完全母乳育児の慣行を向上させるための行動をとるよう、勧告する。委員会はさらに、締約国が、子ども向けの食品に関する現行の販売促進規則および母乳代替品(哺乳瓶およびその乳首部分を含む)の販売促進に関する規則の監視を強化するとともに、これらの規則についての恒常的監視が行なわれ、かつ違反者に対して対応がとられることを確保するよう、勧告するものである。 精神保健 51.委員会は、子ども(とくに青少年)の精神保健状況を評価しかつ監視する、国レベルの包括的な戦略またはシステムが存在しないことを懸念する。委員会は、これとの関連で、国家精神保健指針(2008年)がまだ実施されていないことを遺憾に思うものである。委員会はさらに、資源が不十分であることから、地方保健当局および児童青少年神経精神医学サービスが、子どもの精神保健上の問題に社会心理学的な立場から対応するための学際的チームを設置できていないことを懸念する。子どもが使用している精神活性剤のなかに自殺念慮を増大させる副作用を有するものがあることも、委員会にとって懸念の対象である。委員会はまた、子どもの自殺につながる可能性がある抑うつが蔓延していることも懸念する。 52.委員会は、思春期の健康と発達に関する委員会の一般的意見4号(2003年)を参照しつつ、締約国が、精神保健に関する利用可能かつ良質なサービスおよびプログラムを強化するとともに、とくに以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 国家精神保健指針を遅滞なく実施しかつ監視すること。 (b) 青少年の精神保健にはっきりと焦点を当てた、国レベルの包括的な精神保健政策を策定するとともに、公的な資金および資源を十分に配分し、かつ監視システムを発展させかつ実施することにより、その効果的実施を確保すること。 (c) 妥当なかぎりで親、家族および学校が関与する、子どもの精神保健ケアの統合的システムを確立することにより、子どもの心理的および心理社会的健康不良および障害の治療に対する学際的アプローチを実施すること。 薬物および有害物質の濫用 53.委員会は、締約国の青少年の間で不法な薬物(とくにアンフェタミン)の使用が増加していることを深く懸念する。委員会は、このような薬物がしばしば、学校の成績を上げることおよび抑うつと闘うことを目的として使用されていることに、懸念とともに留意するものである。さらに委員会は、子どもによるアルコールの消費および喫煙の水準が高いこと、ならびに、直接の宣伝またはマスメディア一般を通じて広告が悪影響をもたらしていることを、懸念する。 54.委員会は、一般的意見4号を参照しつつ、締約国が、情報伝達のためのプログラムおよびキャンペーン、青少年に対するライフスキル教育の提供ならびに教員、ソーシャルワーカーその他の関連の職員の研修を通じ、子どもによる不法な薬物の使用を解消するための関連の措置をとるよう勧告する。これには、アルコールおよびタバコの使用を防止するために青少年の間で健康的なライフスタイルを促進することに関するプログラム、および、子どもを対象とするこのような製品の広告の規制を執行することが含まれなければならない。委員会は、締約国に対し、委員会に提出する次回の定期報告書で、このような努力に関する情報および子どもによる不法な薬物の使用に関するデータを提示するよう奨励する。 親が収監されている子ども 55.収監されている母とその未成年の子との関係の保護に関する法律第62/2011号が採択されたことは歓迎しながらも、委員会は、収監された親の一方または双方から分離される子どもの多さ、母親とともに刑務所で生活している赤ん坊の状況、および、母親が自宅監禁の要件を満たさない場合に子どもが母親から分離されるおそれがあることについて、懸念を覚える。 56.委員会は、条約第9条にしたがって個人的関係、十分なサービスおよび適切な支援を確保する目的で、締約国が、親が収監されている子どもの家庭環境に対する権利についての状況に関する研究を行なうよう、勧告する。 生活水準 57.委員会は、締約国において貧困下で暮らしている子どもが多いこと、および、子どもの貧困がイタリア南部に不相応に集中していることを、深く懸念する。委員会はまた、とくに子どもの貧困が女性の失業と密接に関係していることにかんがみ、締約国の女性就労率が欧州連合で2番目に低い(50%未満)ことにも、懸念とともに留意するものである。低所得家庭を対象として2008~2009年に実施された最近の政策介入(家族ボーナスおよび社会消費カード)を評価しながらも、委員会は、このようなプログラムによる不平等および貧困の削減がわずかなものに留まったことを懸念する。委員会は、締約国のプログラムが所得面の措置に焦点を当てており、貧困削減を左右する社会的、文化的、地理的その他の構造的要因については限られた形でしか考慮していないように思えることに、懸念とともに留意するものである。 58.委員会は、締約国に対し、(とくに子どもの)貧困および不平等に対処しかつこれを根絶するための努力を強化するとともに、以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 貧困削減を左右する社会的、文化的および地理的要因を考慮した学際的アプローチを用いながら、子どもの貧困に持続可能なやり方で効果的に対応する目的で、現行の政策およびプログラムの体系的改革を検討すること。 (b) 現行プログラムが貧困緩和にもたらした成果を評価するとともに、今後の政策および計画に関連の指標および監視のための枠組みが掲げられることを確保すること。 (c) 保育の供給を増加させる等の手段により、労働市場への女性の参加を高め、かつ双方の親を対象とする柔軟な労働配置を促進すること。 (d) 子どもがいる低所得家庭向けの所得支援を増強しかつ維持するとともに、このような支援が外国系の家族にも拡大して提供されることを確保すること。 F.教育、余暇および文化的活動(条約第28条、第29条および第31条) 教育(職業訓練および職業指導を含む) 59.前回の勧告(CRC/C/15/Add.198、パラ43)を実施しようとする努力は認めながらも、委員会は以下のことを懸念する。 (a) とくに南部においておよび社会経済的困難を有する家族の子どもの間で、依然として高校中退率が高いこと。 (b) 校舎および学校施設の状態が劣悪であり、時として安全不備を理由とする事故死につながっていること。 (c) 学校で暴力およびいじめが蔓延しており、これに対して主として心理社会的および教育的措置ではなく懲戒措置による対応がとられていること、および、被害者による苦情申立て率が低いこと。 (d) 諸州間で同質性が欠けており、かつ職業訓練へのアクセスを延期する法律の成立が遅れていること。 (e) 外国人の子どもおよびマイノリティに属する子どもを学校制度に全面的に統合できていないこと。 (f) 子どもが、教育制度における自己に関連する意思決定プロセスに参加しておらず、かつこのような意思決定プロセスとの関連でなんら意味のある協議の対象とされていないこと。 60.加えて委員会は、州が保障するよう求められている、教育および職業訓練におけるサービスの必須水準について定めた立法令第226号(2006年)が停止されており、かつ、教育支援措置に関する標準化された全国的枠組みがなんら設けられていないことを、懸念する。委員会は、この10年間で私立学校向けの資金が倍増した一方で、2009年の学校改革以降、教育部門に対する公の資金が相当に削減されたこと(教員数の相当の削減を含む)に、懸念とともに留意するものである。委員会はまた、教育資金の供給源(欧州連合および国内の諸財団を含む)が多様化していることにも留意する。 61.委員会は、締約国が以下の措置をとるよう強く勧告する。 (a) 教育部門におけるこれ以上の予算削減を行なわないとともに、学校に対し、すべての子どもに良質な教育を提供するための十分な人的資源、技術的資源および財源が提供されることを確保すること。 (b) 経済的に不利な立場に置かれた家族の子どもを対象とする教育支援の機構を導入すること。 (c) 学校における暴力およびいじめに対し、対応を懲戒措置および懲罰的措置に限るのではなく、カウンセリング、校則および「生徒規則」に関する意識啓発、対話の場ならびに子どもがそのような事件を報告する機会へのアクセスのような社会-教育的措置を通じて、効果的に対処すること。 (d) 学校との関連における職場の安全についての立法令第81/2008号を法律として成立させること。 (e) 職業訓練へのアクセスに関する法律を成立させるための措置をとること。 (f) 学校における外国人およびマイノリティの子どもの統合を向上させるためのプログラムを発展させること。 G.特別な保護措置(条約第22条、第30条、第38条、第39条、第40条、第37条(b)~(d)、第32~36条) 移民の状況にある子ども 62.委員会は、締約国が特有の地理的場所に位置しており、かつこれにともなう固有の制約を有していることを認めるとともに、締約国が最近、出身国における戦争、政治的混乱および貧困から避難してきた数千人の難民が予期しない形でかつ前例のない規模で到着する事態に立ち向かうため、緊急の状況下において、かついかなる種類の援助もなく採択しかつ実施しなければならなかった努力および措置を、評価する。しかしながら委員会は、子どもが難民、保護者のいない未成年者または移民のいずれであるかに関わらず、これらの子どもが条約上有する権利にかんがみ、このような状況が子どもにとって有害であることを依然として懸念するものである。 子どもの庇護希望者および難民 63.委員会は、締約国の移民法に基づき、18歳未満の者および妊娠している女性の追放または送還が禁じられていることを歓迎する。しかしながら委員会は、公の秩序および国の安全を理由として外国出身の子どもを同国から追放できること、および、締約国が、2009年の移民遮断政策(「押し戻し」政策)を実施する際、保護者のいない子どもを含む子どもを、子ども一人ひとりの個別の事情を審査しまたは子ども一人ひとりに対して庇護申請の可能性を与えることなく送還していることに、懸念とともに留意するものである。委員会は、押し戻された移民のなかには国際的保護を必要とする者として特定された者もおり、これは締約国が負うノンルフールマンの義務の違反であることを、深く懸念する。締約国が、移民を強制的に送還する際、庇護申請の可能性を認めないまま子どもを家族とともに収容していることは、委員会にとってさらなる深刻な懸念の対象である。 64.立法令第25/2008号には留意しながらも、委員会は、締約国が政治的庇護に関する枠組み法を定めていないことを懸念する。委員会は、子どもを対象とする受け入れセンターの定員および利用可能性が限られていること、これらのセンターが過密であることならびにその環境がきわめて劣悪であることから、18歳未満の者を対象としていない受け入れセンターに子どもが措置される状況が生じていることを懸念するものである。委員会は、2011年の春から夏にかけてランペドゥーサその他の場所に到着した移民(子どもを含む)の受け入れ環境および生活環境が水準以下である旨の報告に、特段の懸念とともに留意する。 65.以上のことに照らし、委員会は、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 公海上にいるか領域内にいるかに関わらず自国の管轄下にあってイタリアへの入国を希望する子ども一人ひとりが、自己の事情を個別に審査され、かつ、庇護手続ならびに他の関連の国内的および国際的保護手続への速やかなアクセスを認められる権利を有することを確保すること。 (b) 国内法を見直し、かつ、子どもに回復不可能な害が生ずる現実の可能性があると信じるに足る実質的根拠があるときは、たとえ公の秩序および国の安全を理由とする場合であっても18歳未満の者の追放が禁じられることを確保すること。 (c) 保護のニーズを有するすべての子ども(子どもの庇護希望者および難民を含む)に関する効果的なデータ収集および情報保管のためのシステムを遅滞なく整備すること。 (d) 前掲勧告の実施に際し、出身国外にあって保護者のいない子どもおよび養育者から分離された子どもの取扱いに関する委員会の一般的意見6号(2005年)を参照すること。 保護者のいない子ども 66.委員会は、保護者のいない子どもに関して締約国でホリスティックなかつ共通のアプローチがとられていないこと(保護者のいない子どもに関する包括的な指針および法的枠組みが存在しないことも含む)を懸念する。委員会は、保護者のいない子どもの後見人の任命およびこのような子どもに対する在留許可の発布について設けられている法的な保護および手続が、締約国の諸州間で一様に適用されていないことを懸念するものである。委員会は、イタリアで一時的に受け入れられた未成年者の状況を向上させるために外国人未成年者委員会が行なっている努力には留意するものの、委員会の権限が庇護を申請しない子どもに限られていることに留意する。保護者のいない未成年者の年齢判定のために医学的アプローチが用いられることが増えており、疑わしきは申請者の利益に解するべきであるという原則の適用が実際には危うくされていることも、懸念の対象である。 67.委員会は、締約国が、一般的意見6号に掲げられた原則を参照しながら、保護者のいない子どもの援助および保護を確保する包括的法律を導入するよう、勧告する。とくに委員会は、締約国が、保護者のいない子どもの状況を監督し、そのニーズを特定しかつ現行制度の課題に対応し、かつ、保護者のいない子どもに関する実務指針(受け入れ、特定、ニーズ評価および保護戦略に関するものも含む)を策定するための、特定のかつ常設の国家機関を設置するよう、勧告するものである。委員会は、締約国が、保護者のいない子どもの年齢判定のために、学際的であり、かつ疑わしきは申請者の利益に解するべきであるという原則を全面的に擁護する統一手続を採択するよう、勧告する。 移民家族の子ども 68.委員会は、在留許可を有しない家族が社会サービスに対する権利をまったく認められていないことに留意しつつ、非正規移民の子どもによる保健ケア、教育その他の社会サービスへのアクセスに関して制限が設けられていることに、深い懸念を表明する。委員会は、これとの関連で、在留資格を有さずにイタリアに入国することおよび滞在することを犯罪化し、締約国に合法的に在留していない子どもおよび家族の経済的および社会的権利の享受に深刻な悪影響を及ぼしている、公の安全に関する法律第94/2009号が公布されたことをとりわけ懸念するものである。委員会はさらに、締約国における移民家族の子どもの人数が相当に増えていることに留意しつつ、「移民の社会的包摂基金」への資金拠出が2008年と2009年に削減されたことを遺憾に思う。委員会はまた、締約国に合法的に在留していない家族の子どもが鑑別追放センターに収容される可能性があり、かつ、このようなセンターに子どもが入れられることについて国内法による規制が行なわれていないことにも、深刻な懸念とともに留意するものである。 69.委員会は、締約国に対し、条約に定められた権利は締約国の市民である子どもに限定されるべきではなく、出入国管理上の地位に関わらすすべての子どもに適用されなければならないことを想起するよう求めるとともに、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 2010年7月の憲法裁判所判決にしたがい、移民の子どもに対して教育、保健その他の社会サービスに対する平等の権利を確保する目的で、移民法を見直すこと。 (b) 外国人の在留許可に関する決定の際、子どもの最善の利益が常に最高の考慮事項とされることを、法律上も実務上も確保すること。 武力紛争における子ども 70.委員会は、武力紛争への子どもの関与に関する選択議定書第1条~第4条にしたがって、(a) 軍隊および武装集団による15歳未満の者の徴募および敵対行為における使用を国内法で明示的に禁止し(CRC/C/OPAC/ITA/CO/1、パラ12)、かつ、(b) 国内法で「直接参加」を定義するべきである(CRC/C/OPAC/ITA/CO/1、パラ11)旨の前回の委員会の勧告を、締約国がまだ実施していないことを懸念する。 71.条約第29条にあわせた修正は評価しながらも、委員会は、締約国で運営されている4つの軍事学校のカリキュラムに、人権、条約および選択議定書に関する授業が具体的に含まれていないことを遺憾に思う。委員会はさらに、子どもが武力紛争に関与している国への小型武器および軽兵器の販売の禁止および犯罪化を国内法に導入するべきである旨の前回の勧告(CRC/C/OPAC/ITA/CO/1、パラ17〔18〕)が、締約国によって実施されていないことを遺憾に思うものである。委員会はまた、選択議定書上の犯罪の被害を受けた子どものリハビリテーションおよび社会的再統合に関する情報が締約国報告書に記載されていないことも、遺憾に思う。 72.委員会は、これまでの勧告を想起しつつ、締約国に対し、武力紛争への子どもの関与に関する選択議定書を実施するための努力を強化し、かつ以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 最低年齢を18歳と定めた国内法との一致を図るため、入隊に関する最低年齢についての、選択議定書に基づく宣言を修正すること。 (b) 刑法改正により、軍隊および武装集団による18歳未満の者の徴募および敵対行為における使用を明示的に禁止しかつ犯罪化すること。 (c) 子どもが武力紛争に関与している国への小型武器および軽兵器の販売を国内法で禁止しかつ犯罪化すること。 (d) 国内法上の難民認定事由のひとつに、子どもの徴募および武力紛争における使用を含めること。 (e) クラスター弾に関する条約を批准すること。 性的搾取 73.委員会は、ペドフィリアおよび児童ポルノとの闘いのための監視機関、インターネット上の児童ポルノと闘うための全国センターおよび売買春・関連犯罪監視機関の創設を歓迎するとともに、子どもに対して行なわれた性的加害行為を加重事由のひとつとした法律第11/2009号の採択に肯定的に留意する。しかしながら委員会は、これらの機関の活動を調整し、かつその資金を拠出するための資源および計画が存在しないことを懸念するものである。これとの関連で、かつ締約国の主要都市で路上売買春が増えていることに留意しつつ、児童買春に関するデータおよびその撤廃に焦点を当てた活動が限られていることは、委員会にとって相当の懸念の対象である。さらに、性的搾取、児童ポルノおよび児童買春を禁止する国内法が強化されたこと(法律第38/2006号)には肯定的に留意しながらも、委員会は、この法律で、子どもの売買、児童買春および児童ポルノに関する選択議定書で求められているように児童ポルノの定義がいまなお定められていないことを、遺憾に思う。 74.委員会は、選択議定書の実施のための資金が2000年以降半減させられていること、および、焦点が主として人身取引に当てられていることを懸念する。委員会はさらに、とくに脆弱な立場に置かれた集団の子どもの性的な虐待および搾取の防止を目的としたプログラムの数が限られており、かつ、児童ポルノおよび児童買春の被害者特定において困難が生じていることを、懸念するものである。 75.委員会は、締約国が以下の措置をとるよう強く勧告する。 (a) とくに刑法に児童ポルノの定義を導入することにより、国内法を子どもの売買、児童買春および児童ポルノに関する選択議定書と全面的に調和させること。 (b) ロマの子どもを含む脆弱な立場に置かれた集団の子どもに焦点を当てながら、性的な搾取および虐待の防止のための戦略を策定しかつ実施すること。 (c) 児童ポルノ資料専門分析部に対して専門的研修およびいっそうの資源を提供する等の手段により、被害者を特定しかつ保護すること。 (d) ペドフィリアおよび児童ポルノとの闘いのための監視機関の効果的職務遂行を確保する(その構成員を任命することも含む)とともに、この犯罪を監視するためのデータベースの運用を開始すること。 (e) 児童買春および児童虐待が監視されることを確保する目的で、売買春・関連犯罪監視機関を復活させ、またはその権限および活動を既存のいずれかの機関に委任すること。 少年司法の運営 76.委員会は、締約国の少年司法制度において代替的措置および再統合が重視されていることに、肯定的に留意する。にもかかわらず、委員会は、少年司法制度による対応のさらなる多様化を目的とした少年刑務所制度法案がまだ採択されておらず、かつ資金削減によって現行制度が脅かされていることを、懸念するものである。これとの関連で、委員会は、拘禁が過度に使用されているという報告があること、子どもの審判前拘禁が長期に及んでいること、ならびに、少年矯正施設(IPM)で自由を奪われている子どもが教育および訓練に十分アクセスできていないことを、懸念する。 77.委員会は、外国人の子どもが、在留資格書類を所持していないというだけの理由で少年矯正施設および受け入れセンターに措置されているという報告があることに、深い懸念を表明する。司法機関による処理の対象とされた外国人およびロマの子どもの人数が報告対象期間中に増えたことは、これらの子どもが法律によって定められたダイバージョンその他の代替的措置から利益を享受することが、イタリア人の子どもに比べてはるかに少ないことと同様に、さらなる懸念の対象である。 78.委員会は、締約国が、少年司法制度を、条約、とくに第37条、第39条および第40条、ならびに、少年司法の運営に関する国連最低基準規則(北京規則)、少年非行の防止に関する国連指針(リャド・ガイドライン)、自由を奪われた少年の保護に関する国連規則(ハバナ規則)、刑事司法制度における子どもについての行動に関する指針および少年司法における子どもの権利に関する委員会の一般的意見10号(2007年)を含む他の関連の基準と、全面的に一致させるよう勧告する。とくに委員会は、締約国に対し、以下の措置をとるよう促すものである。 (a) 少年刑務所制度法案を不当に遅延することなく採択すること。 (b) 恣意的拘禁に関する作業部会から勧告されたとおり(A/HRC/10/21/Add.5、パラ116および122)、ダイバージョン、および自由の剥奪に代わるその他の措置に引き続き焦点が当てられることを確保するため、少年司法制度に対して十分な人的資源、技術的資源および財源を配分すること。 (c) 少年司法制度において外国人およびロマの子どもが過剰に対象とされている問題の徹底的分析を行なうこと。 (d) 子どもが自由を奪われている場所への定期的訪問を行なう独立の監視機構を設置すること。 マイノリティ集団に属する子ども 79.委員会は、乳児死亡率がより高く、慢性疾患および感染症の発生率がより高く、かつ予防接種率が低いことに表れているとおりロマの子どもの健康状態がよくないこと、ならびに、保健ケアその他の社会サービスへのアクセスが限られているのはある程度自業自得であるとみなされていることを、深刻に懸念する。委員会はさらに、初等学校およびとくに中等学校に就学するロマの子どもの人数がきわめて限られていることを懸念するものである。ロマ・コミュニティの経済的状況および社会的排除が憂慮すべき事態にあることに留意しつつ、委員会は、締約国が、ロマが置かれている状況に対し、主として、参加を基盤とする協調のとれた社会的包摂措置ではなく治安維持措置(2006年の治安維持協約、2008年の非常事態令)を通じて対応しようとしていることを、危惧する。これとの関連で、委員会は、非常事態令に基づいてとられた措置によってロマの生活条件がさらに悪化し、「一時居住コンテナ」の建設を通じて事実上の隔離が激化していることを、深く懸念するものである。委員会は、環境がきわめて劣悪なロマの「不法」キャンプでこの1年間に6名の子どもが死亡したこと、ならびに、立退き強制、強制送還、および、保護を目的としてロマの子どもを親から分離させようとする政府の取り組みが行なわれていることに、このうえない懸念とともに留意するものである。委員会はまた、とくにロマの子どもの間で物乞いが増えていること、および、子どもの物乞いと組織犯罪との間に関係があることに、懸念を表明する。委員会はさらに、イタリアのロマの間で早期婚が蔓延しているという報告があること、および、これに対応するための措置について締約国から提供された情報が限定的であることを、懸念するものである。 80.委員会は、締約国が以下の措置をとるよう勧告する。 (a) 遊動民コミュニティの定住地に関わる非常事態および2008年5月30日付の布告を停止すること。 (b) ロマの子どもがとくに保健および教育との関連で置かれている脆弱な状況を正当に考慮し、かつ当事者であるコミュニティの参加を得ながら、イタリア社会へのロマの真正な社会的統合のための国家的行動計画を策定しかつ採択すること。 (c) ロマの子どもの社会経済的状況の持続可能な向上を確保するため、十分な人的資源、技術的資源および財源を配分すること。 (d) 早期婚のような有害な慣行に対応するための措置をとること。 (e) ロマの文化に関する理解を増進し、かつロマの子どもに対する差別的かつ固定的な見方を防止するため、政府職員を対象とする関連の指針を策定しかつ研修を実施すること。 (f) 地域言語またはマイノリティ言語に関する欧州憲章を批准すること。 H.国際人権文書の批准 81.委員会は、締約国が、まだ加盟国となっていない中核的国連人権条約およびその選択議定書、とくにすべての移住労働者およびその家族構成員の権利の保護に関する国際条約、経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約の選択議定書、拷問および他の残虐な、非人道的なまたは品位を傷つける取扱いまたは刑罰に関する条約の選択議定書、および、無国籍の削減に関する1961年条約を批准するよう、勧告する。 I.地域機関および国際機関との協力 82.委員会は、締約国が、締約国および他の欧州評議会加盟国の双方における条約その他の人権文書の実施のため、欧州評議会と協力するよう勧告する。 J.フォローアップおよび普及 83.委員会は、締約国が、とくにこれらの勧告を国家元首、議会、関連省庁、最高裁判所ならびに州および地方の当局に送付して適切な検討およびさらなる行動を求めることにより、これらの勧告が全面的に実施されることを確保するためにあらゆる適切な措置をとるよう勧告する。 84. 委員会はさらに、条約および選択議定書ならびにその実施および監視についての議論および意識を喚起する目的で、締約国による第3回・第4回定期報告書および文書回答ならびに関連の勧告(総括所見)を、インターネット等を通じ(ただしこれに限るものではない)、公衆一般、市民社会組織、メディア、若者グループ、専門家グループおよび子どもが同国の言語で広く入手できるようにすることを勧告する。 次回報告書 85.委員会は、締約国に対し、第5回・第6回統合定期報告書を2017年4月4日までに提出し、かつこの総括所見の実施に関する情報を当該報告書に記載するよう、慫慂する。委員会は、委員会が2010年10月1日に採択した条約別調和化報告ガイドライン(CRC/C/58/Rev.2 and Corr.1)に対して注意を喚起するとともに、締約国が、今後の報告書は当該ガイドラインにしたがうべきであり、かつ60ページを超えるべきではないことを想起するよう求めるものである。委員会は、締約国に対し、報告ガイドラインにしたがった報告書を提出するよう促す。ページの制限を超えた報告書が提出された場合、締約国は、前掲ガイドラインにしたがって報告書を見直し、かつその後再提出するよう求められることになる。委員会は、締約国に対し、報告書を見直しかつ再提出することができないときは、条約機関による審査のための報告書の翻訳は保障できないことを想起するよう、求めるものである。 86.委員会はまた、締約国に対し、2006年6月の第5回人権条約機関委員会間会合で承認された統一報告ガイドライン(HRI/MC/2006/3)に掲げられた共通コア・ドキュメントについての要件にしたがい、最新のコア・ドキュメントを提出することも慫慂する。 更新履歴:ページ作成(2012年11月17日)。
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人権を規定した日本国憲法第3章は「国民の権利及び義務」と題されているが、ここでいう権利は、条文の中では「基本的人権」(11条・97条参照)と表現されている。論者によっては、ドイツの用例にならって、実定憲法上保障された権利を「基本権」と呼び、「基本的人権」あるいは単に「人権」という呼称を実定憲法とは離れて自然権的ニュアンスをもって使う場合に留保する立場もあるが、本書では、特に断らない限りこうした区別をしないで「人権」という語を一般的に用いる。本章の課題は、人権がいつ、どこで、いかなる観念として形成され発展してきたのか、その結果、人権にはいかなる類型が区別されるのか、そして、人権を保障された主体とは誰なのかを、人権の論理に従って理解することにある。 <目次> 1 人権の歴史(1) 前史 (2) 成立 (3) 普及と変容 (4) 両大戦間の動き (5) 第二次世界大戦後の動向 2 人権の観念(1) 自然権としての人権 (2) 個人の尊厳 (3) 幸福追求権 3 人権の類型(1) 人権の構造的類型論 (2) 人権の内容的類型論 (3) 審査基準を基礎にした分類 (4) 審査方法を基準とする分類 (5) 制度保障 4 人権の主体(1) 国民の範囲(ア) 「人」としての国民 (イ) 女性と子ども (2) 外国人(ア) 考え方 (イ) 具体的事例a) 入国・在留・再入国の権利 b) 自由権・受益権 c) 社会権 d) 参政権 e) 公務就任権 f) 人格権 (3) 法人・団体(ア) 基本的考え方 (イ) 判例a) 八幡製鉄政治献金事件 b) 南九州税理士会政治献金事件 c) 群馬司法書士会事件 1 人権の歴史 日本国憲法97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と規定し、人権が重い歴史を背負って確立されたものであることに注意を喚起している。 その歴史を最初に瞥見することから始めよう。 (1) 前史 人が生まれながらにしてもつ権利、人ということだけを理由に認められる権利が「人権」であるとすれば、そのような意味での人権を歴史上初めて宣言したのは、北米のヴァージニア権利章典(1776年)であった。 しかし、国民が国王(国家)権力を制約する権利をもつという観念をいち早く確立し、近代的人権宣言を準備したのはイギリスであった。 イギリスにおける権利の観念は、たしかに「イギリス国民が古来より承認されてきた権利」というものであり、「人の権利」というものではなかったが、統治者の権力が被治者の権利により制限されるという立憲主義の人権論の核心をなす法構造が、そこに成立していたのである。 人の権利ではなくイギリス国民の権利であり、それが長い歴史的実践の中から、主として判例の集積を通じて徐々に確立されてきたという、その成立経緯を反映して、イギリスで保障されるに至った権利の内容は、権利の具体的な手続的保障(たとえば国会の同意なき課税の禁止、同輩による裁判なしの逮捕・処罰の禁止など)を中心とするという特徴をもち、後の人権宣言が抽象的な実体的権利(たとえば財産権、表現の自由など)を列記する手法をとったのと対照をなしている。 この「イギリス国民の権利」が、グロティウス(Hugo Grotius, 1583-1645)に始まる近代自然法思想の潮流のなかで、ジョン・ロックにより自然権的基礎づけを与えられることにより、近代的な「人の権利」の観念が成立してくるのである。 ロックによれば、人は自然状態において相互に自由・平等な存在として自然権を享受していた。 しかし、自然状態には共通の裁判官が存在しないため、自然権の侵害を十分に阻止しえない。 そこで、自然権をよりよく確保するために社会契約を結び、自然権の一部を社会に譲渡して権力を生み出すのである。 この権力は、個人が留保した自然権をよりよく保障するためのものであり、自然権に拘束される。 このような自然権思想は、論者によって細部に違いを見せつつも、17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパの有力な潮流となり、人権宣言を生み出す近代市民革命の理論的支柱となる。 (2) 成立 近代的人権を最初に宣言したのは、北アメリカのヴァージニア権利章典であり、その後独立した諸邦が同様の権利章典を伴った憲法を制定していったことはすでに述べた(9頁参照)。 1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法は、当初、権利宣言を有していなかったが、1791年に憲法修正として修正1条から10条にわたる権利章典が付加された。 これらのアメリカ権利宣言の特徴は、ピューリタンの伝統からくる宗教の自由とイギリスの伝統を継承した諸自由を自然権思想により根拠づけたところにあった。 他方、フランスにおいては、アメリカ諸邦の権利章典の影響を受けつつ、同時に、モンテスキューやルソーなどフランス啓蒙思想にも大きく影響されながら、1789年に始まるフランス大革命のなかで「人及び市民の権利宣言」を表明する。 基本的にはアメリカ権利章典の思想と同じ思想に基づくものといえるが、アメリカの宣言がイギリスの影響下に具体的な手続的保障に重点を置いていたのに対し、フランス人権宣言は抽象的・理念的な性格が強いという特徴をもつ。 なかでも、そこで採用された、ルソーの思想からくる「法律は一般意志の表明である」(6条)という定式は、国民主権モデルを基礎とする法律(議会)優位の体制を帰結し、フランス的伝統の淵源となった点で特筆に値する。 なお、この宣言は、新しい憲法が採用すべき原理を宣言するという意味をもったものであり、2年後に制定された1791年憲法の冒頭にそのまま取り入れられた。 フランスは、この後1793年憲法(いわゆるジャコバン憲法)においても人権規定を置き、そこでは自由権より平等権を先に掲げ、公的扶助や教育を宣言するなど、91年憲法とは若干異なるニュアンスを示した。 そのため、論者によってはこれを社会主義思想に基づく権利宣言の先駆的意味をもつとするものもあるが、財産権や経済的自由を強調した点で基本的には同一の思想の中にあると捉えることのできるものであった。 (3) 普及と変容 アメリカとフランスの近代革命のなかで成立した人権思想は、19世紀を通じて諸国に普及し、権利保障を謳う憲法制定を生み出してゆく。 その流れは、大局的には、権利保障が徐々に定着していく過程と捉えることができるが、その過程で人権思想が大きな変容を受けたことも見逃してはならない。 最も大きなものは、自然権的思想の退潮によって生じた「人の権利」の観念から「国民の権利」の観念への変化である。 それは、《国民主権》を掲げた1831年ベルギー憲法(政体としては君主制を採用)においても生じていた。 ベルギーは1830年にネーデルランド王国から独立して国民主権に基づく憲法を制定するが、その中で「ベルギー国民の権利」を規定したのである。 しかし、《君主主権》を基礎に置く憲法においては、自然権思想は認められないのであるから、権利観念が「臣民(国民)の権利」へと傾斜するのは当然のことである。 ドイツ諸邦の憲法がその典型であった。 三月革命により制定されるが結局は挫折することになる1849年のフランクフルト憲法(帝国憲法)も、帝政をとる限り人権思想を採用することはできず、妥協として「ドイツ国民の権利」という表現を採用していた。 明治憲法に影響を与えた1850年のプロイセン欽定憲法が「プロイセン人の権利」としたのも当然のことである。 しかも、この権利には「法律の留保」が伴っていた。 1871年のドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)に至っては、基本権規定を置くことさえしなかった。 基本権の保障はラント(邦)の役割であるというのが一つの理由であったが、より根本的な理由は、権利が法律の留保の下にあるとすれば、憲法に規定を置かなくても、特別法により保障すれば十分と考えられたことにあった。 人権思想を退潮させた大きな要因として、特に19世紀後半以降、法実証主義の思想が支配的となったことを挙げておく必要がある。 これにより、人権を基礎づけた自然権思想が支持を失っていったのでる。 (4) 両大戦間の動き この期の最も重要な動きは、人権についてのマルクス主義的観念が登場したことである。 マルクス主義は、近代的な人権を、それを享受するための物質的基盤を欠く労働者階級にとっては抽象的・形式的な権利にすぎないと批判し、人権は天賦のものとしてすでに存在するのではなく、階級なき社会において初めて獲得されるものだと主張した。 このような思想に基づき、ロシア革命が成功すると、1918年に「勤労し搾取されている人民の権利宣言」が採択され、やがて1936年のソヴィエット社会主義共和国同盟憲法において、生産手段の社会主義的所有を謳う権利保障が規定されることになる。 こうした動きは西欧諸国にも影響を与えるが、特にこの期に新しく憲法を制定したドイツにおいては、そのワイマール憲法の中に財産権を制限し社会権を保障する規定を取り入れた。 この社会権規定は、当時のドイツにおいては、法的効力をもたない「プログラム規定」にすぎないと解されたが、第二次世界大戦後の諸憲法にも受け入れられ、現代の積極国家における人権の重要な一部となるに至っている。 この期には、このように近代的人権を修正して社会権を付加する西欧型人権と、近代的人権の形式性・階級性を批判し労働者階級の人権を主張する社会主義型人権が登場したが、他方で、人権の思想そのものを否定する全体主義の挑戦も受けた。 価値の根源を個人に見、社会を個人の福祉のための手段と捉える個人主義に対し、全体主義(ファシズム・ナチズム)は価値の根源を全体に見、個人を全体(国家的・人種的共同体)に貢献する限りにおいてしか価値をもたないと考え、個人主義に基礎をもつ人権の思想を否定したのである。 (5) 第二次世界大戦後の動向 この期には、ファシズムやナチズムの経験を踏まえて、自然権思想が再生する。 実定憲法に書き込まれた人権を実定法に内在する自然権であり論理上超実定法的性格をもつものと考えるのである。 この思想を根拠に、人権が立法権をも拘束することが強調され、かつての法律の留保が否定されるのみならず、裁判所による法律の合憲性審査制度が導入される。 先に述べた社会権の保障や参政権の拡大(女性参政権の一般化)もこの期の重要な特徴である。 特に近時の特徴としては、自然権思想に代わって、人権の道徳哲学による基礎づけの試みが進展していること、ソ連等の崩壊により社会主義型人権論が挫折したこと、違憲審査制度の飛躍的な拡大、国際的レベルでの人権保障の発展が指摘されるほか、プライバシーや自己決定権といった新しい人権に注目が集まってきている。 2 人権の観念 (1) 自然権としての人権 人権とは、人が人であるということだけを理由に認められるべき権利であった。 それは、当初、個々人が自然状態において有している前社会的・前国家的自然権に由来すると説明された。 したがって、そこでは人権は国家を前提としない権利であり、逆にいえば、国家の存在を前提とする権利は人権ではなかった。 フランスの「人及び市民の権利宣言」に典型的に表現されたように、「市民の権利」の典型と考えられた参政権は、国家の存在を前提にするがゆえに「人の権利」ではなかったのである。 同様に、社会権も国家に対する請求権である以上、前国家的な権利ではありえない。 (2) 個人の尊厳 近代自然権思想からすれば、真の人権=自然権は自由権であり、参政権や社会権は国家を前提とする限りにおいて自然権とはいえなかった。 しかし、通常、我々は参政権も社会権も人権に含めて考えている。 日本国憲法が「この憲法が国民に保障する基本的人権」(11条)と表現するとき、この基本的人権には参政権も社会権も含まれると解されている。 ということは、今日では、人権の理解に、近代的な自然権の論理(自然状態・社会契約論)はもはやそのままの形では使用されていないということである。 今日では、人権の根拠は「個人の尊厳(*)」という思想に求められている。 それは、社会あるいは国家という人間集団を構成する原理として、個人に価値の根源を置き、集団(全体)を個人(部分)の福祉を実現するための手段とみる個人主義の思想である。 個人主義に対立するのは、価値の根源を集団に置き、個人は集団の一部として、集団に貢献する限りにおいてしか価値をもたないとする全体主義であるが、「個人の尊厳」を表明した日本国憲法(24条参照)は、全体主義を否定し個人主義の立場に立つことを宣言したのである(**)。 (*)「個人の尊厳」と「人間の尊厳」日本国憲法は「個人の尊厳」(individual dignity)にコミットした(24条参照)。これに対し、ドイツ基本法は「人間の尊厳」(Wu?rde des Menschen)にコミットしている(1条参照)。人間の尊厳という場合、人間以外のものとの対比を含意するから、人間の尊厳を侵してはならないという基本法の命令は、人間を非人間的に扱ってはならないこと、人間としてふさわしい扱いをすべきことを意味する。ナチスによる非人間的な扱いの経験が背景にある。これに対し、個人の尊厳は、個人と全体(社会・集団)との関係を頭に置いた観念であり、全体を構成する個々人に価値の根源をみる思想を表現している。この言葉が、特に結婚・家族に関する原則を定めた24条で用いられたのは、偶然ではない。戦前には、社会における最も基礎的な集団である家族関係が、個人より集団(家族)を重視する価値観を基礎に形成されていた。この反省が背景となっているのである。このように、個人の尊厳と人間の尊厳とは、直接的な問題意識を異にする。とはいえ、個人の尊厳は、個人を全体の犠牲にすることを禁ずるのみならず、非人間的に扱うことも当然に禁じていると解すべきであるし、また、人間の尊厳も、個々の人間を全体の犠牲にすることを禁じているはずであるから、その意味で両者の価値観に基本的な差異があるわけではない。 (**)個人と全体(団体・集団)の関係個人は、通常、何らかの社会集団に所属し、それに多かれ少なかれ依存しながら生きており、そうである以上、その集団のルール(紀律)に従わざるをえないのは当然である。しかも、個人にとって、自己の帰属する社会集団は、単に生きるための手段という以上に、個人のアイデンティティーの一部をも構成するのであり、特に日本人は、いかなる社会集団に帰属しているかを自己のアイデンティティーの要素として重視する傾向が強いといわれる。それだけに、社会集団の紀律が個人に及ぼす影響は増幅されて現れ、ともすれば集団が個人を呑み込み個人の自律性を圧殺してしまうことになりやすい。それを阻止するために、個人こそが価値の根源であることを絶えず意識し強調する必要があるのである。社会集団には、家族、学校、各種同好会、会社、地域共同体、国家等々、様々なものが存在するが、これらの社会集団とそのメンバーである個人の関係を考える場合、その団体(社会集団)への加入・脱退が完全に自由な「任意的団体」と何らかの制約のある「非任意的団体」の区別が重要である。任意的団体の場合、その団体の紀律に従うのは、メンバーの自由な選択によるのであるから、個人の尊厳と矛盾することはない。むしろ、個人は複数の様々な任意的団体に加入することを通じて、自律的生の内容を豊富にすることができるし、また、一つの集団に全面的に捕捉されて狭い視野に閉じ込められてしまうことを避けることができる。ゆえに、任意団体は自律的生の可能性を高めてくれるのであり、憲法はそれを「結社の自由」により保障している。問題は、家族や地域共同体、国家などの非任意的団体である。こうした社会集団の場合、個人はそこに生まれ落ちるのであって、自分で選択して加入するわけではない。しかも、ものごころのついたときには、すでにその集団の価値を植えつけられており、それだけにその集団の体現する価値と紀律がいかなるものかが、個人にとって重要な意味をもつことになる。仮に全体主義により個人と非任意的団体との関係が規律されるとすれば、集団に捕捉された個人は集団の圧力に押し潰され、自律的生を生きることは不可能となろう。それゆえに、憲法は個人と家族や国家との関係を個人主義の原理に基づいて構成するよう命じたのである。個人主義を表現する「個人の尊厳」という言葉が、家族法の拠るべき新たな原理を定めた憲法24条2項で用いられたのは、決して偶然ではない。まさに戦前の旧民法が定めた「家制度」は全体主義的な家父長制の原理により構成されていたのである。そこでは「家」は戸主と家族(戸主権に服する者を指し、現在の親子のみからなる「核家族」より広い)から成り、戸籍上一つの家として登録された。戸主の地位と家の財産は、長男単独相続の「家督相続」で継承され、戸主には家族を統率するために戸主権が与えられるとともに、家族の扶養義務を課された。戸主権は、家族のメンバーの居所指定権、婚姻・養子縁組・分家の同意権等を内容としたが、戸主は、自己の命令に従わない家族に対しては、その者を離縁して扶養義務を免れることができ、これが家の財産に対する独占的な支配権と相まって大きな力をもったのである。さらに、夫婦間においては夫権を認め、妻を財産上無能力者とし、子に対する親権についても夫権優位とするなど、男女間を不平等に扱っていた。総じて、家族メンバー個々人を尊重するというより、全体としての家を重視する思想の表現であったといってよい。憲法24条は、かかる制度を否定したのである。しかし、個人と社会の関係で個人の側を重視するということは、社会を軽視するということではない。様々な社会集団は個人のアイデンティティーの構成要素であり、個人が自律的生を構想する基礎となる。特に個人が生まれ育った共同体(家族、宗教的集団、国家等)の体現する価値は、個人に「負荷」されており、それが攻撃され動揺させられるときには、個人の自我崩壊の危機が生ずることもありうる。そうなれば、自律的生自体が困難となろう。しかし、個人は共同体の価値により全面的に負荷されているわけではない。人間は、未来に向かって新しい価値を創造していく能力を授かっており、過去に負荷された価値を踏み台にしつつ、それを意識化し、その反省・批判を通じて自己固有の自律的生を切り拓いていく存在である。たしかに踏み台なしには新たな価値創造はできないから、踏み台を破壊するような行為を自由に許すわけにはいかないであろう。しかし、既存の価値に対する反省・批判を一切許さないのでは、伝統的価値に拘束されるだけで、新たな価値を発見・創出し、自己の自律的生を構想・展開する営みは不可能となる。要は両者のバランスの問題であるが、バランスをとるに際して個人こそが価値の根源であるということを指針とすべきだということである。この個人主義においては、個々人は、自己にとっての「善き生」を自律的に選択し実践していく主体と想定されており、社会は個々の構成員すべてにそのような生き方を承認し助成する社会でなければならないとされる。すべての個人に「自律的生」が承認されねばならないから、この個人主義は、自己の利益のために他人を利用してはばからない利己主義とはまったく異なる。この点、よく混同されるので注意が肝要である。日本国憲法13条前段が「すべて国民は、個人として尊重される」と規定したのは、このような基本価値へのコミットメントの表明なのである。「個人として尊重」するとは、個々人が自律的に自己の生き方を選択・実践していくことをあるべき個人像として前提し、個人にそのようなあり方を尊重するということなのである。 (3) 幸福追求権 13条後段は、前段が個人の尊重を宣言したのに続けて、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(略して「幸福追求権」と呼ぶ)に言及するが、ここで幸福追求権は、個人が自律的生を生きるのに不可欠の権利という位置づけを与えられているのであり、これこそが日本国憲法の保障する基本的人権をなす。 この権利を尊重することが、個人を「個人として尊重」するということの具体的意味なのである。 自律的生にとって不可欠の人権が具体的にいかなるものかは、表現の自由等の個別人権として規定されているが、そこには参政権(15条)も社会権(25条)も含まれる。 人権の観念にとって、それが前国家的性格を有するかどうかは重要ではない。 憲法の基本価値としての「個人の尊厳」から直接的に流出するものかどうかが重要なのである。 日本国憲法は、「個人の尊厳」を憲法を支える基本価値として採用し、それゆえに、個人を「個人として尊重」することを憲法上の原則として宣言し、そのことの具体的意味として「幸福追求権」を最大限に尊重すべき「憲法上の(抽象的)権利」として規定し、その幸福追求権をさらに具体化する個別人権を「憲法上の権利」として列挙しているのである。 なお、憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利」という表現を用いており、ここでいう「自由及び権利」は11条・97条でいう「基本的人権」とは異なり、国家賠償請求権(17条)や刑事補償請求権(40条)は前者には含まれるが後者には含まれないという理解も有力である。 しかし、賠償・補償請求権も、個人の犠牲において全体が利益を得るという点において「個人の尊重」に反することから直接に帰結する権利であり、人権というべきであろう。 「自由及び権利」と「基本的人権」は同じ意味に解して差し支えない。 3 人権の類型 人権とは、抽象的には、個人の自律的生に不可欠なものであるが、それが具体的には何かについて憲法自体が個別人権として列挙している。 それらの個別人権の特質を一層深く理解すると同時に思考を整理するために、人権を類型化し全体を体系的に把握する努力がなされている。 類型化・体系化は常に一定の観点からなされるので、観点の相違により様々な体系が提示されてきたが、どれか一つが正しい体系ということではなく、重要なことはそれぞれの体系がいかなる観点から何を明らかにするためになされているかを理解して利用することである。 ここでは、まず四つの観点からの分類論を説明し、その後、「制度保障論」と呼ばれている考えに触れておく。 制度保障は人権とは性格を異にするので、人権の分類には属さないが、通常、人権の章で規定されることが多く、人権との関連で論じられているからである。 (1) 人権の構造的類型論 日本で広く受け入れられてきた分類は、イェリネックによりなされたものである。 イェリネックは、国民が国家との関係でどのような地位に置かれているかを分析し、四つの地位を区別した。 第一が、国民が国家に服し、義務を負うという関係における地位であり、「受動的地位」と呼ばれる。 第二は、国家から自由な「消極的地位」であり、次の請求権に支えられて自由《権》となる。 第三は、国民が自己のために国家の積極的な活動を要求しうる「積極的地位」であり、たとえば裁判を請求する権利などの「受益権」がこれにあたる。 第四は、国民が国家のために活動する「能動的地位」であり、参政権が該当する。 このうち第一の受動的地位は義務に対応し、第二ないし四が人権の分類に対応することになる。 この分類は、美濃部達吉に代表される戦前の理論はいうに及ばず、戦後の日本の憲法学にも大きな影響を与えてきたが、イェリネックの法実証主義的国法学を前提に構成されたものであり、国家権力のアプリオリな存在を出発点に置いている点で、今日では受け入れがたい面を有している。 のみならず、内容的には、平等権や適正手続権の位置づけが不明確であるとか、社会権が登場する以前になされた分類なので、社会権の位置づけが困難であるといった批判がなされている。 しかし、これを権力と自由との構造的な関係の分類に純化して理解するなら、人権の分析装置として今日でも十分役に立つ。 たとえば、表現の自由は近代の段階では主として「権力からの自由」の側面で捉えられたが、現代においてはその「権力への自由」の側面が重要視されるようになり、さらに、情報公開の問題にみられるように「権力による自由」の側面においても問題が指摘されるようになってきているが、それがこの分析装置によりうまく説明できるのである。 しかし、注意すべきは、この表現の自由の例でも分かるように、個々の個別人権が「権力からの自由」、「権力への自由」、「権力による自由」のいずれかに振り分けられるということではなく、個々の個別人権がこの三つのうちのどれを中心的な性格としているかという問題なのである。 このようにイェリネックの分類を権力と自由の構造的関係を表現するものと理解する場合、社会権は構造的には「権力による自由」と理解することができるが、平等権と適正手続権は、三種の構造的関係のいずれによっても的確に捉えることはできない。 そこで「権力により適正な処遇を受ける権利」(適正処遇権)という第四のカテゴリーをこの類型論に付加するのがよいであろう(78頁参照)。 (2) 人権の内容的類型論 人権が保障する内容は様々であり、内容のいかなる側面を重視するかにより様々な分類が可能になる。 たとえば、近代から現代への人権内容の歴史的展開を重視した自由権的基本権と生存権的基本権の分類(我妻栄)や、鵜飼信成が提案した①個人権的基本権(精神的自由権・人身の自由)、②社会権的基本権(経済的自由権・社会権)、③基本権を確保するための基本権(参政権・受益権)、④基本権の前提となる諸原則(個人の尊重・法の下の平等)という分類などが有名であるが、ここでは次のような分類を提示しておく。 第一が、個人の活動の自由。ここでは精神活動の自由、経済活動の自由、人身の自由が含まれる。新しい現代的な人権として議論されているプライバシーの権利や自己決定権も基本的にはこの類型に属する。 第二が、参政権で、選挙権が中心である。 第三が、国務請求権あるいは受益権で、裁判を受ける権利がその典型である。 第四が、社会権で、生存権、教育を受ける権利、勤労の権利がここに含まれる。労働基本権は、結社の自由と同様に自由権的性格をもつ面も否定できないが、それを生み出した思想的側面を強調して、日本では通常社会権として位置づけられることが多い。 第五が、適正処遇権とでも呼ぶべき権利で、平等権と適正手続権がここに含まれる。第一ないし四の権利が、権利・利益の実体的側面に着目しているのに対し、適正処遇権は、国家が国民の権利・利益を制約する場合に守るべき手続・方法に着目している。個人を個人として尊重したといいうるためには、すべての個人を平等に扱わねばならないし、不利益処分を受ける個人には適正な手続を保障しなければならないのである。 本書の人権論の構成は、適正処遇権の扱いを除き、ほぼこの分類を基礎に行っている。 (3) 審査基準を基礎にした分類 現代人権の大きな特徴として、裁判所に違憲審査権を与えて人権保障の実効性を強化しようとするに至ったことを指摘した。 ところが裁判所による違憲審査とは、政治部門(立法権・行政権)が合憲と判断して行った行為を裁判所が審査するということを意味する。 このために、裁判所はどの程度厳格な規準で審査すべきかという問題が生ずるが、その厳格度は人権の種類により異なりうるという見解が今日では支配的となっている。 そこで、この厳格度の違いを基準に人権を分類するという考えが生じたのである。 たとえば、伊藤正己は、次のような分類を提唱している。 裁判所による審査が緩やかな方から、まず第一に生存権的基本権が挙げられ、この類型の権利保障は、裁判規範としてよりもむしろ国政の指導原理としての機能を果たすプログラム規定であるとされる。 第二は経済的自由権であり、現代国家においてはこの権利の制約立法は合憲性の推定を受け、緩やかな審査が行われるのみである。 第三は内面にあるものを外部に表出する外面性の精神的自由権であり、これは精神活動の自由の保障であるから厳格な審査が必要であるが、他者の人権と衝突する可能性がある限度で制限されることもありうる。 これに対し、第四の内面性の精神的自由権は、内面の自由を保障するものであり、絶対的自由というほどに強い保障が与えられなければならない。 これ以外の人権類型については、以上の四類型のどれに近似するかを考えて審査の厳格度を考える、というのである。 伊藤説をそのまま受け入れるかどうかは別にして(生存権をプログラム規定と解する点については反対が強い)、審査基準論との関連で類型を考える点は今後ますます重要となっていくと思われる。 (4) 審査方法を基準とする分類 憲法の規定する人権には、保障内容が憲法上確定されている人権(内容確定型人権)と保障内容が憲法上完全には確定されておらず、多かれ少なかれ法律による確定に委ねている人権(内容形成型人権)が存在する。 たとえば、精神的自由権に属する人権は内容確定型であり、生存権や裁判を受ける権利などは内容形成型である。 内容確定型の人権は、憲法上保障の範囲が決まっているから、その人権との関連で法律が問題となるのは、法律が人権を制限しているのかどうか、制限しているとした場合それは正当化されるかどうかである。 したがって、裁判所が審査するのは、人権の保障内容を憲法解釈として確定し、法律がその人権を制限しているのかどうか、制限している場合それは公共の福祉による制限として正当化しうるかどうかである。 これに対して、内容形成型人権の場合は、具体的保障内容は、憲法上想定された核心的部分と法律による具体化に委ねられた部分に分かれることになる。 前者については、裁判所はそれを解釈により確定したうえで事案がその制限となっているかどうか、なっているとして正当化されるかどうかを審査することになり、審査の仕方としては内容確定型人権と同様になる。 しかし、後者については、内容形成を行う権限は、少なくとも第一次的には立法府にあるから、裁判所が憲法解釈権を口実に内容形成を行うことは原則的には許されない。 憲法が保障内容の具体化(内容形成)を法律に委ねた限度において、立法裁量の問題となるのであり、人権侵害の主張に対して裁判所が行う審査は、立法府が憲法により与えられた立法裁量の範囲を逸脱しあるいは濫用したのではないかに限られることになる。 (5) 制度保障 人権規定の中には、個別の人権を保障する規定と並んで、人権そのものではなくて特定の制度を保障するとみられる規定も存在するが、ドイツの公法学者カール・シュミット(Carl Schmitt, 1888-1985)は、ワイマール憲法の定める人権条項の解釈に際して、基本権の保障と制度の保障を厳格に区別した。 彼によれば、基本権という思想は、「個人の自由の領域は原則として無限定であり、国家の権能は原則として限定されている」という「配分原理」を基礎にもち、真の基本権は、原則として無限定な自由領域をもつ個人を所与として前提するが、制度はそのような所与ではなく、本質上国家内存在であり、無限定な自由領域という観念を基礎にするものではなく、一定の使命・目的に奉仕すべく限定・画定された存在だとされる。 シュミットは制度保障の例として、地方団体の基本権、法律上の裁判官による裁判を受ける権利、家族生活の基礎としての婚姻、相続権、職業官僚制などを挙げているが(*)、これらの制度の保障は、通常の法律によってその制度を除去することを禁止するものであるにすぎず、憲法改正手続により変更可能な「憲法律」に属し、その意味で、改正不可能な「憲法」に属する基本権の保障とはまったく論理を異にするものであると論じた。 (*)シュミットは、制度保障に①制度体(公法上の制度)の保障と②(私法上の)法制度の保障を区別したが、前者は、伝統的な特権の保障を内実としていた職業官僚制の保障に典型的にみられたように、シュミットの理解する近代憲法の論理とは整合しない旧制度の存続を憲法上保障するという性格が強いものであった。そのため、その制度の本質的な核心を害さない限り広範な制限も認められるべきだと主張した。我が国でも、シュミットの議論に影響を受けて、人権保障と制度保障を区別する見解が支配的となっているが、その場合のポイントは、制度保障も憲法上の保障であり、制度が法律による侵害から保護されているということである。ただ、問題は、憲法が保障する制度の内容は何かであり、憲法自体がそれを明確に規定している場合には問題は少ないが、多くの場合、保障する制度の具体的内容形成を法律に委ねており、この場合には、法律によって侵害されてはならない制度の本質・核心とは何かを解釈により確定せねばならないという困難に逢着するのである。日本国憲法における制度保障の例として、政教分離、大学の自治、私有財産制などが挙げられている。たしかに、たとえば憲法20条1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」という人権規定は、後段の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という政教分離規定とは性格を異にする。前者は人権の実体そのものを規定しているのに対し、後者は人権をよりよく保障するために必要な手段を規定したというニュアンスの違いがある。その違いを捉えること自体は無意味ではないが、しかし、制度保障を援用する論者の中には、制度保障は人権保障と異なるから、制度の本質を維持する限り法律により大幅な制限を行うことも許されるという結論を導く者もいる。実際、最高裁は津地鎮祭事件判決(最大判昭和52年7月13日民集31巻4号533頁)で政教分離を制度保障と捉え、そこから政教分離を緩和する結論を導き出している。しかしながら、制度保障の観念そのものが、制度の本質・核心さえ保持すれば法律によりその保障を緩和することも許されるという意味を内包しているわけではないし、政教分離の場合には憲法が制度形成を法律に委ねているわけでもないのに、日本でそのような使われ方がされるのであれば、少なくとも政教分離に関しては制度保障の概念は避けた方がよいであろう。br()重要なのは人権の保障内容なのであり、個別の人権が実体(自由領域)のみならず手段・制度を含めてどこまで保障しているかを明らかにすることである。後に見るように、信教の自由においては、自由の保障規定のみでは政教分離まで保障すると解することが困難だと考えられたからこそ、それに加えて政教分離規定も置かれたのである。これに対し、学問の自由(23条)については、特に大学の自治を保障する規定は明示されていないが、学問の自由の保障内容として、大学の自治まで含むものと《解されている》。しかし、大学の自治の内容については憲法に規定がないから、制度形成は法律により行わざるをえず、法律が侵すことのできない大学の自治の本質・核心は何かが問題となるのである。財産権の保障(29条1項)が私有財産制の保障まで含んでいると解釈される場合も同様の問題が生じる。財産権の場合は、その内容を法律で定めることにしている(29条2項参照)ため、この一種の「法律の留保」に対する制約として私有財産制度の保障が意味をもつとされるのである。 4 人権の主体 人権が「人」に固有な権利だとすれば、すべての人が人権の主体となることは自明のはずである。 ところが、日本国憲法は人権保障を規定した第3章を「国民の権利及び義務」と題し、人権の主体を国民に限定する外観を与えている。 このため、外国人に人権が保障されるのかどうかの問題が生じることになった。 また、日本国憲法は、天皇および皇族という世襲に基づく身分を認めているために、これらの人々を人権の主体と考えるべきかどうかの問題を生ぜしめている。 さらに、現代社会において団体が重要な活動主体となってくると、人権は自然人たる個人にしか認められないのか、それとも団体(法人)もそれを享有するのかが問われることになった。 (1) 国民の範囲 (ア) 「人」としての国民 憲法は「国民の権利」と述べているので、国民が人権を享有することに疑いはない。 しかし、ここでいう「国民」とはどの範囲の人々を指すのかは、必ずしも自明ではない。 憲法10条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と規定するが、人権が憲法により保障されたものであり、国民はその当然の主体であるとすれば、憲法の下位にある法律が国民の範囲を自由に定めうると考えることはできない。 人権が憲法により与えられたものではなく、論理上は憲法に先行するものであるとすれば、なおさらのことである。 そこで、論理上は国民の範囲は「社会構成員」として憲法以前に定まっていると想定しなければならない。 そのような国民には、天皇・皇族も含まれる。 より正確には、ここでの「社会構成員」は憲法以前の存在であるから、いまだに天皇・皇族自体が存在しないのである。 憲法の制定により、天皇・皇族と国民が分離された。 憲法10条のいう国民とは、この段階の国民であり、天皇・皇族は含まれない。 そのような国民の範囲を法律で定めることとされたのであるが、自由に定めるというよりは、論理上法律制定以前に想定されている国民をいわば確認する規定を置くという趣旨に解される。 そうである以上、憲法が想定したはずの国民(憲法上の国民)がいかなる者であるかを憲法解釈として明らかにすることが必要となる。 諸外国が国民を決める方法として採用しているものに生地主義(生まれた場所が帰属する国家の国籍を取得する)と血統主義(親の国籍を取得する)があり、日本国憲法がそのいずれかを明示的に選択していない以上、そのいずれかにより国民となりうる者が憲法の想定する国民であると解するべきではなかろうか。 それが近代国家が領土と国民団体を構成要素としていることとも調和すると思われる。 それを前提に、憲法10条に基づき法律で国民の要件を定めるのであるが、その立法は憲法上の国民を「確認」すると同時に国籍の抵触を避ける等の目的から「限定」するという意味をもつものと解される。 ゆえに、その「限定」に合理性がなければ違憲・無効となり、限定のない状態が回復されることになる。 なお、天皇・皇族をこの国民から除く理由は、それが世襲の身分に基礎を置くからである。 人権主体の個人は、身分から解放された存在でなければならない。 身分を受け入れるという選択をする限り、近代人権の論理として、人権主体としての国民にはなりえない。 ただし、身分の選択以前には個人としての資質を有するから、身分選択の自由は完全に認められなければならないであろう。 憲法10条の委任を受けて日本国民の要件を定めているのは国籍法である。 国籍の定め方には、生地主義と血統主義があるが、日本の国籍法は血統主義を採用した。 この選択により、生地主義からは国民となるべき者が国籍取得を限定されることになるが、国籍の抵触を避けるためにはいずれかを選択することに合理性は認められるから、これは立法裁量の範囲内である。 血統主義からは、両親が日本国籍をもつ場合に子どもが日本国籍を取得するのは当然であるが、問題は親の一方のみが日本国籍をもつ場合である。 この場合に、国籍法は、当初、子どもが自動的に日本国籍を取得するのは父親が日本国籍を有する場合のみであるとし(父系優先主義)、裁判所もこれを合憲としていた(東京高判昭和57年6月23日行集33巻6号1367頁)が、女子差別撤廃条約の批准を契機とした1984年の国籍法改正により両親のいずれか一方が日本国籍を有すればよいことになった(父母両系平等主義)。 国籍法はこのような原則の下に国籍取得を様々な形で限定しているが、その一つであった生後認知を受けた子に対する国籍取得の否定につき、最高裁は違憲の判断をしている(最大判平成20年6月4日民集62巻6号1367頁)。 当時の国籍法3条1項は、生後に父により認知されても国籍は取得できないが、父母の婚姻により準正嫡出子となった場合には、法務大臣に届け出ることにより国籍を取得できると定めていた。 この規定が非準正子に対する不合理な差別であるとされたが、では裁判所は、生後認知だけで国籍を取得するという判決を出しうるのか。 反対意見は、それは新たな立法となり裁判所の権限を越えると主張したが、多数意見は、父母の婚姻という要件が違憲無効となれば、残りの生後認知という要件だけで国籍が取得できることになると解した。 多数意見の解釈は、国籍取得の要件をどのように定めるかは原則的には立法裁量の問題であるという前提をとる以上、やや強引の感を免れないが、国籍法が憲法上の国民の範囲を限定しているという前提に立てば、限定した規定が違憲である以上、限定のない状態にもどるのは当然ということになる。 (イ) 女性と子ども 人権の論理からは、社会構成員(国民)としての個人は、すべて人権主体性を認められねばならないはずであるが、現実の歴史においては必ずしもそうではなかった。 近代において完全な主体性を認められたのは、国家に対置された家長のみであり、女性や子どもは家長の庇護の下に置かれるべきものとされ、市民としての地位のみならず人としての地位も完全には認められなかったのである。 現代においては、女性は人権主体性を完全に承認され、性に基づく差別は禁止されている(14条1項)。 もっとも、女性の現実の地位が真に平等となっているかは問題で、今後の重要な課題として意識されてきている(154頁参照)。 他方、子どもについては、その人権主体性は承認されるに至っているが、人権の行使に関しては、成熟した判断能力を常に有するとは限らないことに鑑み、本人の利益を保護するために必要な場合(パターナリズム)、あるいは、未熟な判断による行為が社会にとって好ましくない場合には、一定の制限が許されると解されている。 参政権については憲法自身が成年者に限定している(15条3項)が、法律による制限として婚姻の年齢制限(民731条)、職業選択の制限(たとえば公証人・弁護士・公認会計士・税理士・医師・薬剤師)などがあり、また、条例により制限を行っている例もある(たとえば青少年保護育成条例)。 校則による髪型や服装の規制、自動車やバイクの運転免許取得の規制などが青少年の人権規制として問題となることもあるが、そもそも人権なのかどうかにつき見解の対立がある(145頁以下参照)。 (2) 外国人 (ア) 考え方 憲法第3章が国民を権利の主体とする表現をとっていることは、国民には当然主体性が認められることを意味するのみで、外国人に主体性を否定する趣旨まで含むものではない。 国民と外国人の区別は、国籍を有するかどうかの区別である。 人権が人の生来の権利であり、その意味で前国家的な権利である以上、その主体性が後国家的な国籍の有無に依存すると考えることはできない。 国籍は、人権をもつ者ともたない者を区別するためではなく、国家権力の及ぶ範囲を人的側面から捉えるために考案された制度である。 つまり、国家は国民を統治する権利を有し、かつ、保護する義務を負うのである。 しかし、国家権力の及ぶ範囲は、他方で、領域的にも画定される。 したがって、日本の領土上に存在する限り、外国人にも支配は及ぶのである。 そして、人権が問題となるのは、権力との関係においてなのであるから、外国人も権力の支配下に置かれる以上、人権の主体となりうるはずである。 たしかに、憲法上の権利としての人権の論理からは、国家がその人権を保護する義務を負う個人の範囲は、国家の構成員に限定されるという論理は、成り立ちえないわけではない。 しかし、かかる論理を承認する場合にも、次の点に留意が必要である。 まず第一に、その場合の「国家の構成員」とは、国籍の保有者と同じではない。 社会契約の論理を借りていえば、人権を護るために社会契約に参加した者がその構成員であり、その中には、その後の「法律」により国籍を有さないことになった「外国人」も含まれている可能性が、論理上はありうる。 日本で特に問題となるのは、日本に永住権を有する在日外国人(大半は出入国管理に関する特例法(平成3年5月10日法71号)により「特別永住者」とされている人達で、一般には在日韓国人・朝鮮人・中国人と呼ばれている)の存在である。 こうした人々は、日本に生活の本拠を有し、生活実態は日本人と異ならず、「国家の構成員」として扱われてよい資格を有しているといえるであろう。 したがって、少なくともこうした人々については、日本人と同様の人権主体性を承認し、そのうえで、国籍の違いが人権制約の違いをどの程度まで正当化しうるかを吟味するというアプローチをとるのがよいと思われる。 第二に、日本国憲法は国際協調主義を採用し(前文参照)、確立された国際法規の誠実な遵守を義務づけている(98条2項)が、国際人権規約等にみられるように国籍による差別の禁止が国際法上次第に確立されてきていることを考慮すると、いまや外国人にも人権の主体性を原則的に承認するのが憲法の要請であると解すべきと思われる。 以上を考慮すれば、外国人にも人権が保障されることを出発点において、国民との異なる扱いがいかなる理由により、どの限度で正当化されうるかを考えていくのが実際的だと思われる。 もっとも、そのように考えるのであれば、外国人の人権という問題は、体系上は人権享有主体性の問題としてではなく、外国人であることを理由とする差別の合理性の問題として平等権を論ずるところで扱うべきではないかという疑問も生じうる。 しかし、人権観念が国によっては自然権的な「人間の権利」から「国民の権利」へと転換されたという歴史を踏まえて、外国人の人権を総論の人権享有主体性の問題の一つとして扱ってきたという経緯があり、また、今日外国人にも人権保障が広範に認められるようになってきたとはいえ、たとえば入国の自由のように外国人に対して原理的に否定されたり、あるいは参政権のように否定され、もしくは広範に制限されたりする種類の人権もあることから、平等権における外国人差別の問題に解消することはできないとするのが一般である。 そこで、ここでも人権総論における人権享有主体性の問題と位置づけたうえで、しかし分析の中身は外国人差別の分析と近似するので、具体的な区別がどのように正当化されうるかという観点から見ておきたい。 理論上は人権享有主体性は有るか無いかの問題であるのに対し、平等権の問題は享有主体性が有ることを前提に外国人であることを理由にどこまでの制限が可能かという問題であり、両者はまったく異なるが、前者の問題を真正面から解決しようとするよりは、後者の問題としてアプローチした方が実際的ではないかという配慮である。 その際、考慮すべき主要な要素としては、まず第一に、問題となっている人権の性質の違いがある。 自由権・社会権・参政権などの性質の違いがどのように影響しうるかの検討が必要なのである。 第二に、外国人の種類も重要な要素である。 一口に外国人といっても多様であり、先述の在日外国人以外の外国人に関しても、永住権をもつ者から観光等で来日した短期滞在者まで様々である。 そういった違いの検討も必要となる。 (イ) 具体的事例 今日では、通説・判例ともに、権利の性質上日本国民のみを対象としている人権以外は、外国人にも保障されるという点で一致しており、その考えを最初に提示した判例が、マクリーン事件判決(最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁)であった。 それを前提にすれば、理論的な分析の手順としては、まず外国人に保障されない人権類型を明らかにし、次いで保障される人権に関して、外国人であることを理由にどのような制約が許されるかを検討するということになる。 しかし、外国人に保障されない人権を類型的に特定することは、学説も揺らいできている今日、容易ではないので、ここでは一応すべての人権が保障の対象になりうるという前提の下に、それぞれの人権につきどのような制約が可能かを検討するというアプローチをとりたい。 それは、考え方としては、先に述べたように、平等権の享有を前提に、外国人であることを理由とする差別の合理性を検討するのと同じに帰す。 なお、人権が保障されると考える以上、その制約には法律が必要なことは当然である。 a) 入国・在留・再入国の権利 外国人には入国の自由は保障されないというのが通説・判例(最大判昭和32年6月19日刑集11巻6号1663頁)である。 この原則は、国際法上も承認されている。 もっとも、外国人の人権が問題となりうるのは、入国した後のことであると考えれば、入国の自由を外国人の人権として議論すること自体、誤りだということにもなろう。 いずれにせよ、入国の権利は存在せず、そうである以上在留の権利も存在しないというのが判例の立場である(前出マクリーン事件判決)。 ただし、憲法上の保障がないからといって、政府が法律なしに規制しうるということではない。 政府の行為には常に法律の根拠が必要であり(123頁、345頁、358頁参照)、在留に関する法律上の権利は外国人も当然有する。 とはいうものの、法律が在留に関する権利を豊富に定めているというわけではない。 むしろ逆で、出入国管理及び難民認定法は在留資格を決めて入国を認める法制をとっており、資格に含まれる活動を行う権利は認められるが、資格外の活動は一般的に禁止されている。 憲法問題となるのは、資格外の活動が憲法上の人権の保護領域に含まれる場合で、法律によるその制限が許されるかどうかという形で論じられることになる。 マクリーン判決は、資格外の政治的活動も表現の自由により一定程度保障されるが、その保障された政治的活動を行ったことを在留の更新を許可するかどうかの決定に際して不利益に考慮することも許されるとした。 なお、永住者(これには日本人の配偶者等の一般の永住者と、平和条約に基づき日本国籍を離脱したいわゆる在日韓国人・朝鮮人・台湾人等の「特別永住者」が存在する)の在留資格は一定の活動とは関連づけられていないから、活動内容に在留資格からくる制限はない。 人権保障の問題が生ずるのは、多くは特別永住者に関してであり、これらの人々のほとんどは日本に「定住」しており、外見上日本人と変わらない生活を送っている。 そのために、彼(女)らが日本に定住するに至った歴史的経緯をも考慮して、これらの定住外国人については最大限日本人と同様の権利保障を行うべきであるという見解が有力である。 なお、定住外国人については、入国の自由という問題自体がそもそもありえず、ゆえに在留の権利も当然に有すると解さねばならない。 では、再入国の自由はどうか。 一般の外国人については、再入国の自由も法律上あるいは条約上の権利にすぎないということになろうが、定住外国人については、在留の権利を認めるべきである以上、再入国の自由も保障されると解さねばならず、ゆえに、この自由の制限は厳格な審査に服すべきである。 最高裁は、再入国申請不許可処分を争った森川キャサリーン事件で、外国人に入国の自由・在留の自由が保障されない以上「外国へ一時旅行する自由」(22条)も保障されないとした原審判決を是認した(最一判平成4年11月16日民集166号575頁)が、事案が日本人と結婚し日本に定住していた外国人に関するものであっただけに、問題を残した。 b) 自由権・受益権 一般にこれらの権利については、外国人であることを理由に制約が許されることは少ない。 ただし、経済的自由権(職業や財産取得)については若干の制限立法(公証12条、銀行47条、電波5条等)が存在するが、いずれも合理的な理由があり、問題とはされていない。 議論があるのは、政治活動の自由(表現・集会・結社の自由)である。 これは参政権的な意味をもち、参政権が後述のように外国人には保障されないと解する場合には、日本の政治に重大な影響を与えるような活動を制限することは許されるということになろう。 しかし、政治活動と参政権そのものとは同じではなく、参政権を行使する国民にとって外国人の発信する政治的表現も有益でありうるから、集会・結社につき純粋な表現を超える側面を規制することは別にして、表現の自由自体は最大限に保障すべきであろう。 マクリーン事件は、原告の政治活動(ベトナム反戦活動等)を在留期間更新の不許可処分に際してマイナスに考慮したのを争った行政処分取消訴訟であったが、最高裁は、政治活動の自由は承認しながら、そのマイナス評価を裁量の範囲内で合憲とした。 これを、「権利の行使」を不利益に評価してもよいとした判決と読むのは問題で、政治活動の自由という権利も制限されうるとした判決と読むべきであろうが、その場合には、どのような政治活動が制限されうるか(不利益に評価されうるか)がより明確に判示されるべきであろう。 安易に裁量論に委ねるべきではない。 c) 社会権 社会権は、従来、自己の帰属する国家により保障されるべきものであるという観念が一般的で、外国人には認められなかった。 しかし、最近では、社会権は、その国で共同生活を営み、税金等により社会的な負担も果たしているすべての個人に、国籍に関係なく保障されるべき権利であるとする考えが有力となっている。 もっとも、前説でも、法律により外国人に社会権を認めることが否定されるわけではなく、実際には、日本が外国人差別を原則的に禁止した国際人権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約2条2項参照)等を批准したのに伴い、それまで社会保障関係法令に存在した国籍要件は原則として撤廃されたので、今日では特にこの問題を論ずる実益はなくなっている。 d) 参政権 外国人の人権に関し最も大きな議論を呼んでいるのは、参政権の問題である。 従来、参政権は、その性質上、外国人には認められないと考えられてきた。 参政権が主権の行使の意味をもつことを考えると、国民主権の下においては、参政権は国民にしか認められず、外国人に認めるのは憲法違反であるという見解も存在する。 しかし、国民主権にいう「国民」は、前述のように、国籍をもつ国民とは異なるレベルの「国家構成員」(国家以前の社会構成員)である。 仮に定住外国人がこの意味での国家構成員であるとすれば、主権者として当然に参政権をもつということになるはずであり、その参政権が国籍を有しないということを理由に奪われてもよいのかという問題となるであろう。 また、仮に国民主権にいう国民が国籍保有者を指すとしても、外国人に参政権を認めることが国民主権の原理に反するとまでいえるのかは疑問である。 たしかに、外国人は憲法上の権利として参政権をもつものではないとはいえるであろうが、主権者国民が外国人に参政権を与える決定を法律により行うことを憲法が全面的に禁止しているとまではいえないであろう。 現実に、北欧諸国をはじめとして、少なくとも地方政治については外国人にも参政権を認めている国が存在することを考えれば、外国人に参政権を与えるかどうかは立法政策の問題と考えるべきであろう。 最高裁も、地方参政権については、このような見解を表明している(最三判平成7年2月28日民集49巻2号639頁)。 e) 公務就任権 公務にも様々な種類がある。 たとえば国会議員、国務大臣、自治体の長や議員の職務も公務である。 そのためもあって、従来、公務就任権を参政権とパラレルに理解し、外国人には参政権(被選挙権)が認められないのと同様に公務就任権も認められないとする見解が支配的であった。 しかし、政治的な政策決定に携わる公務員と執行を本務とする公務員(国家公務員法2条2項にいう一般職の公務員が中心)は、職務の性質をまったく異にするから、両者を同じに扱うべきではない。 一般職に関しては、公務就任権は憲法上の権利の問題としては参政権ではなく職業選択の自由(22条1項)の問題と捉え、それを外国人に制限するのは平等権・職業選択の自由の侵害にならないかどうかを考えていくべきだと思われる。 参政権については、国民主権の原理により外国人にそれを認めることは憲法上禁止されているという議論も成り立ちえないわけではない。 少なくとも、主権原理が国家の自律的統治を困難とするような事態の作出を禁止していることは疑いないのであり、たとえば憲法改正の国民投票権を外国人に認めることは、原則的には違憲である。 しかし、一般職の公務に関しては、外国人が就任すると自律的統治が困難となるという事態は、ほとんど想定できない。 一般職の公務にも広範な裁量権を含むものから、定められたルール・基準に従って事務を処理するだけでほとんど裁量の余地のないものまで色々であるが、裁量権の広範な公務であっても、主任の大臣等の上位の任免権者・監督権者のコントロールの下にあり、上位者が特定外国人の能力を認めて任務に就け、自己の監督の下にその任務を遂行させる限り問題は生じえないと思われる。 ゆえに、憲法が外国人に公務就任を禁止しているということはない。 従来、政府の公定解釈(昭和28年3月25日法制局一発第29号)は「公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員」は日本国民に限るとしていた(「当然の法理」と呼ばれることがある)が、外国人に公務就任権を認めることは憲法に反するという趣旨ではないであろう。 実際、その後1982年の立法で外国人の国立大学教員への任用を許容した例がある(公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法参照)。 問題は、憲法は外国人に公務就任権(憲法上の権利としては、職業選択の自由と平等権)を認めているかどうかである。 先に基本的な考え方として述べたように、外国人の人権主体性という問題に関しては、人権主体性があるかどうかという議論を抽象的にするよりは、人権主体性を前提にして、具体的事例において外国人であることを理由にその享有を制限することに合理性があるかどうかを考える方が生産的である。 かかる観点から問題を考察するとき、次の二つの設問が区別される。 一つは、外国人に公務就任を否定することに合理性があるかであり、他の一つは、外国人であることを理由に昇格を否定することに合理性があるかである。 前者の問題につき、仮に上述の政府見解にある「公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員」という定式を外国人への制限が合理性をもつ場合と理解するとすれば、範囲が広範かつ漠然にすぎ支持しがたい。 職務の内容・性質に応じた具体的・類型的な基準設定が望まれる。 なお、外国人に公務員試験の受験資格を一般的に否定するのは、公務就任を一般的に否定することを意味するから、当然許されない。 後者の昇格差別の問題は、公務就任が原則的に許されることを前提にして生ずる問題である。 外国人公務員に対する昇格差別は、公務が階層性の上部に位置し裁量権限が大きくなればなるほど、合理性の認められることが多くなろう。 政府見解にいう「公権力の行使または国家意思の形成への参画」という定式が捉えているのも、このような公務と理解すべきであると思われる。 管理職とされているポストには、そのような性格のものが多いが、では管理職に就く資格要件として管理職試験に合格することを要求し、外国人にはその受験資格を認めない制度をつくることは許されるか。 管理職とされたポストのすべてが外国人に否定してもよい性格のものならば問題はない。 しかし、そのポストのいくつかは、外国人に拒否することの合理性が認められないような性格のものであるという場合はどうか。 東京都がそのような制度を設置・運用していたのを在日外国人が争った事件で、最高裁判所は、これを違憲とした原審判決を覆して合憲の判断を下している(最大判平成17年1月26日民集59巻1号128頁)。 「公権力行使等地方公務員の職(外国人に否定するのに合理性がある職 - 筆者)とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職(それ自体としては外国人に否定するのが必ずしも合理性があるとはいえない職 - 筆者)とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ること」も、裁量の範囲内であり、「この理は、前記の特別永住者についても異なるものではない」というのである。 しかし、在日外国人に関しては、可能な限り日本人と同様に扱うべきであり、そのような制度設計がどうしても困難だとする事情があったかどうかを独自に審査すべきではなかったであろうか。 f) 人格権 「新しい権利」として承認されるべき人格権・自己情報コントロール権・自己決定権は、今日では個人の自律を支える核心的権利となってきており、特に外国人に対して制限する合理性は一般的にはない。 この権利に関して争われた問題に、指紋押捺の強制がある。 かつて外国人登録法は、外国人に対し外国人登録原票等への指紋押捺を義務づけていた。 押捺を拒否し登録法違反で起訴された事件において、最高裁は「個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有」し、「右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ」と述べた(最三判平成7年12月15日刑集49巻10号842頁)。 しかし、結論的には、指紋は「外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できる」し、その「方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであ」るとして合憲の判断を下した。 手段審査に後述のLRA基準(131頁参照)を採用しなかったが、LRA基準を適用した場合、人物特定の手段として他のより権利制限の少ない方法がないといえるのかどうか、疑問なしとしない。 なお、外国人登録法の指紋押捺制度は、1987年以降数度の改正を経て今日では全面的に廃止され、署名と写真を中心に人物特定をする制度に改正された。 なお、外登法は2009年に廃止され、入管法および住基法の改正により2012年以降外国人の在留管理に新たな制度が導入されたが、人物特定を署名と写真を中心に行う点は基本的に維持されている。 (3) 法人・団体 (ア) 基本的考え方 人権は、本来自然人の権利であり、法人が当然に人権を享有すると考えることはできない。 ここでいう法人とは複数の自然人を統一・組織した団体を指し、法人格をもつかもたないかは問わないが、現代社会においてかかる団体が国家と個人の間に介在し大きな役割を果たしていることは否定できない。 ここから、たとえば株式会社に財産権の主張を認め、新聞社や放送局に表現の自由の主張を認めることが必要ではないか、また、それを認めることが公益に資するのではないかなどといわれたりする。 しかし、たとえ団体が社会的実在として無視しえない機能を果たしているとしても、そのことから直ちに自然人と同様に人権を享有すべきだということにはならないし、公益のために人権を認めるという議論は、人権の根拠づけとしては受け入れがたい。 人権が個人の尊厳という基本価値に由来することからいえば、団体が人権を享有しうるのは、それが個人の尊重につながる場合に限られる。 ところが、団体は常に個人の側に立つわけではない。 国家と個人の中間に介在する団体は、国家と対峙して個人を保護することもあれば、逆に、個人と対峙して個人を抑圧することもある。 人権論の構図からいえば、団体が人権を主張しうるのは国家と対峙する場合であり、団体がその構成員と対峙する場合には人権を主張する立場にはない。 団体が外部の個人と対立する場合には、団体も(構成員の人権の代位主張として)人権を主張する適格をもちうるが、これは後に見る人権の私人間適用の問題である(101頁参照)。 要するに、団体には固有の人権主体性はなく、構成員の人権を代表して主張することができるにすぎないと考えるべきである。 したがって、団体が外部に向かって主張する場合には、構成員の人権を援用しうるが、構成員(の一部)と対立するときには、そこで団体が構成員に対して主張しうるのは団体の紀律権であり、それが内部の少数派の人権と対立する構図となるのである。 (イ) 判例 上述の観点から判例を整理すると、①団体が外部との関係で人権を援用する場合と、②団体が自己の構成員との関係で人権を援用する場合を区別しうる。 ①は、さらに、国家と対抗する場合と私人と対抗する場合が区別される。 たとえば、博多駅事件(最大判昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁)で放送局が報道の自由を援用したのが前者の例であり、サンケイ新聞事件(最二判昭和62年4月24日民集41巻3号490頁)で共産党が反論権、サンケイ新聞社が表現の自由を援用したのが後者の例である。 これらの場合は、それぞれの団体の構成員がもつ人権を団体が代位主張したと理解すればよく、団体にこの代位主張のスタンディングを認めるのに、憲法訴訟論上特に問題はないはずである。 これに対し、②の事例では、団体は構成員に対し紀律権(団体の権力)を行使しているのであり、構成員が人権を主張しうるのは(後述の私人間適用の問題を別にすれば)当然であるが、団体は人権を援用しうる立場にはない。 団体が主張する紀律権の根拠は結社の自由であり、ゆえに構成員に対し結社の自由を主張しうるのだという説明もあるが、結社の自由は国家に対する権利であり、構成員に対する紀律権の根拠となるものではない。 にもかかわらず、従来、団体と構成員の対立に際して団体が人権を援用することに疑問を提起する見解は少なかった。 人権論の構造理解として重要な点なので、関連判例を検討しておこう。 a) 八幡製鉄政治献金事件 八幡製鉄(新日本製鉄の前身)が自由民主党に政治献金を行ったのに対し、一株主が代表取締役の責任を追及して起こした株主代表訴訟である。 原告は、本件の政治献金が、①定款の定める目的の範囲を超えること、②株主や国民の参政権等を侵害すること、③取締役の忠実義務に違反することを主張したが、最高裁はいずれの主張も退けて棄却した(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)。 その行論の中で、最高裁が「憲法第3章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきである・・・・・・」と述べたために、本件は法人の人権主体性を認めた先例と一般に理解されてきた。 しかし、本件の対立は株主(会社構成員)と会社の間で起こっていると見ることができ、そうだとすれば、会社(代表取締役)がその権限行使(本件では政治献金という行為であり紀律権の行使とは異なるが)を株主との関係で人権(政治活動の自由)行使として構成しうるわけではない。 政治活動の自由を主張するなら国家との関係においてであるが、しかし、本件の政治献金は、当時の政治資金規正法の許容する範囲内のものであったから、仮に政治献金が表現の自由の保護を受けるものであるとしても、政治資金規正法による制限が合憲かどうかは争点にはなっておらず(献金が《合法》である以上、法律の違憲を主張する必要はない)、ゆえに会社が人権の主体かどうかも争点とはなっていなかった。 してみれば、最高裁の上記論述は争点への応答ではないから、傍論にすぎない。 ただし、最高裁も国家権力の一部と見て、最高裁が代表取締役の責任を認めることは、国家権力が会社の政治活動を制限することになるのだと理解するなら、その限度で、国家との関係における会社の人権主体性を認めた先例という読み方も可能であるかもしれない。 b) 南九州税理士会政治献金事件 被告の南九州税理士会は税理士法に基づき設立された強制加入の団体であり、原告はその会員税理士である。 原告は、被告が税理士に有利な税理士法改正を実現するための政治献金に充てるためと称して決定した特別会費の徴収に反対し、その納入を行わなかったために、被告の役員選挙に際し選挙権・被選挙権の行使を認められなかった。 そこで、原告は、本件の特別会費徴収決議は会の目的の範囲外で無効であり、原告の思想・信条の自由を侵害する等と主張し、特別会費納入義務の不存在確認と慰謝料を請求して出訴した。 最高裁は、強制加入団体である被告による政治献金は通常の会社によるそれ(前出八幡製鉄政治献金事件判決参照)とは同一に論ずることはできず、税理士会の目的の範囲も会員の思想・信条の自由との関連で限界があり、政治団体への寄付は目的の範囲外であると判示した(最三判平成8年3月19日民集50巻3号615頁)。 この判決では、税理士会が会員との関係で政治活動の自由を享有するかは争点となっていない。 争点は、会の決定が会員の人権を侵害しないかどうかなのである。 たしかに、税理士会は、国家(裁判所)が原告の主張を認める判決を下すことは、被告税理士会の政治活動の自由を制約する意味をもつ、と主張することはできよう。 問題がそのように提起されたならば、そのとき初めて、税理士会が政治活動の自由を享有するのかどうかが、少なくとも理論上は争点となり、裁判所の判断を(黙示的にであれ)得ることになろう。 しかし、それはあくまでも国家との関係における問題であり、会員との関係ではない。 c) 群馬司法書士会事件 強制加入団体である群馬司法書士会は、阪神・淡路大震災により被災した兵庫県司法書士会に3千万円の復興支援拠出金を寄附することにし、その資金に充てるために一般会計からの繰入金のほかに会員から登記申請事件一件あたり50円の復興支援特別負担金を徴収する旨の総会決議を行った。 これに対して、ある会員が本件総会決議は会の目的の範囲外の行為で無効であり、また、強制加入団体である司法書士会が本件負担金への協力義務を会員に課すことは会員の思想・良心の自由を侵害するから公序良俗に反して無効であると主張し、支払義務不存在の確認を求めた(最一判平成14年4月25日判時1785号31頁)。 ここでも議論の構図は南九州税理士会政治献金事件と同じであり、司法書士会が会員との関係で援用しうる何らかの人権を享有するかどうかは争点となっていない。 中心的争点は、本件総会決議を会員に対し強制しうるかどうかであり、強制しうるとすればその根拠は団体の存立に法的根拠を提供している民法34条および司法書士法に求められる。 要するに、団体が会員に対して行使する紀律権(強制権)は法律に根拠をもつものなのである。 本件では、南九州税理士会政治献金事件判決とは異なり、目的の範囲の画定に思想・良心の自由を考慮するという手法は採用せず、目的の範囲を広くとって決議は目的の範囲内で合法としたうえで、それを会員に強制することが公序良俗に反しないかを検討するという構成をとっているが、その違いは私人間効力論との関連で問題となりうるとしても、法人・団体の人権享有主体性の問題に異同を及ぼすものではない。
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第3場 (会場設営が終了すると舞台は次のような形になっている。まず舞台右側では、背もたれ付きのベンチが並べられ、やや半円状に中央に向けて並べられている。舞台中央、ベンチの途切れる所には、先ほど組み立てられた「審査席」と呼ばれる足場がある。舞台左側には、高い背もたれの教会風の椅子(「歌手の椅子」)が、聴衆に向かい合うように置かれている。舞台後方には、大きなカーテンに沿って、徒弟用の長くて低いベンチが一つだけ置かれている。ヴァルターは、若者たちの嘲ける声にうんざりしたように、ベンチの最前列に腰掛けたところである。ポーグナーとベックメッサーは、言葉を交わしながら祭具室から出てくる。徒弟たちはベンチの最後列に起立して、うやうやしく彼らを待っているので、初めから祭具室の入口で彼らを出迎えるのはダーフィトのみである) ポーグナー (ベックメッサーに) 私の誠意をお疑いなきように。 これはあなたにとって有利な決定なのです。 歌合戦となれば、勝者はあなたとなるはず。 あなたほどのマイスターを誰が阻むと言うのでしょう? ベックメッサー ですが、先ほどの論点を忘れてはなりませんぞ。 それこそが、この私を憂慮させているのです。 仮にエーファどのの意向で求婚者を拒否できるとなれば、 私のマイスターとしての威光など何の役に立ちましょう? ポーグナー これはなんと!愚考するに、それこそ何にも増して、 あなたにとっての一大事。 あなたが我が娘の意向を曲げられないとなれば、 どうして娘と契りを結べるはずがありましょう? ベックメッサー はいはい!そうですとも!だからこそ頼んでいるのです。 あなたが私に有利なよう娘さんに口添えし、 いかにこのベックメッサーが、心細やかに誠実に求婚しているか、またあなたを尊重しているかを伝えてほしいのです。 ポーグナー 喜んでいたしますとも。 ベックメッサー (独り言で) 譲歩してくれない! どうすれば最悪の事態を避けられるだろう? ヴァルター (ポーグナーに気付き、立ち上がって出迎えに行き、目の前でお辞儀をする) 失礼をば!親方様! ポーグナー 何と!騎士殿ではありませんか? 我が「歌学校」の見学にいらしたのですかな? (二人は挨拶を交わす) ベックメッサー (相変わらず独り言を続けている) 女に何が分かると言うのだ!女にとっては、 くだらないホラ話のほうが、詩学よりも価値が高いときている。(うんざりしたように舞台後方を行きつ戻りつする) ヴァルター まさに打ってつけの場所にたどり着きました。 率直に申し上げますと、 国を出て、このニュルンベルクへと私を駆り立てたものは、 ひとえに芸術に対する愛情だったのです。 昨日はあなたに申し上げるのを忘れておりましたが、 今日はあえてはっきりと申し上げずにはいられません。 私はマイスタージンガーになりたいのです。 (きわめて切実な思いを込めて) 親方様!私を貴殿の組合の一員としてください! (クンツ・フォーゲルゲザンクとコンラート・ナハティガルが 入ってくる) ポーグナー (入って来た二人に向かって嬉しそうに) クンツ・フォーゲルゲザンクよ!我が友ナハティガルよ! 聞いてください!全くもって珍しいことです! これなる私の知人の騎士殿は、 マイスター芸術に造詣が深いと言うのです。 (互いの紹介と挨拶のうちに、他のマイスター達も入場してくる) ベックメッサー (再び舞台前面に進み出て、独り言で) もう一押ししてみるか。 だが、それもうまく行かぬのなら、 あの娘の心を歌で奪ってみてもいいな。 静かな夜、あの娘にだけ聞こえるようにすれば、 私の歌になびくかどうか確かめられるはずだ。 (ヴァルターの姿に気付いて) 誰だ?あの男は? ポーグナー (きわめて温かく、ヴァルターに話し続ける) 私がどんなに嬉しいか、お分かりでしょうか! まるで古き良き時代が還ってきたようです。 ベックメッサー 気に入らん若造だ! ポーグナー 騎士殿のお望みならば… ベックメッサー 何が狙いなんだ? ポーグナー 私のできる限り… ベックメッサー あんなにでれっと見つめやがって! ポーグナー 何でも叶えて差し上げましょう。 ご領地の売却の際、喜んでお手伝いしたのと同様に、 ベックメッサー さあ!ジクストゥス! ポーグナー 組合にも喜んでお迎えいたしましょう。 ベックメッサー この男に気を付けるのだ! ヴァルター 心からのご厚意、ありがとうございます! ですがもし希望を申し上げて宜しければ、私が賞を勝ち取り、 マイスタージンガーとなることは、今日にも可能でしょうか? ベックメッサー 何だと!これは謙虚なことで!円錐を逆さに立てるつもりか! ポーグナー 騎士殿、そのことなら、しきたりに従うのがよろしいでしょう。ですが本日は資格試験ですから、 私があなたを推挙いたしましょう。 私の言うことなら、マイスター達も喜んで耳を貸してくれるはずです。 (マイスタージンガー達が全員到着し、最後にハンス・ザックスが現れる) ザックス こんにちは。マイスターの皆さん! フォーゲルゲザンク 一同揃いましたかな? ベックメッサー ザックス殿もおりますからな! ナハティガル 点呼してごらんなさい! コートナー (名簿を取り出し、舞台の袖に立つと、大声で呼ばわる) 資格試験と組合会議に、 マイスターの皆様は召集されております。 新参のこの私が、どなた様がいらっしゃったかを、 お名前で呼ばわりましょう。 かく言う私は、フリッツ・コートナー。 ご出席ですか、ファイト・ポーグナーは? ポーグナー 手前にてございます。 (着席する) コートナー クンツ・フォーゲルゲザンクは? フォーゲルゲザンク 1名にて。 (着席する) コートナー ヘルマン・オルテルは? オルテル いつでも、おるよ。 (着席する) コートナー バルタザール・ツォルンは? ツォルン 無欠勤ですとも。 (着席する) コートナー コンラート・ナハティガルは? ナハティガル ナハティガル(夜鳴き鶯)の習性通りです。 (着席する) コートナー アウグスティン・モーザーは? モーザー 欠席は嫌いです。 (着席する) コートナー ニクラウス・フォーゲルは?…返事無しですかな? 1人の徒弟 (ベンチから立ち上がって) 病気でございます。 コートナー マイスターのご快癒を! マイスターたち (コートナーを除いて声を揃えて) お大事にどうぞ! その徒弟 有難うございます! (着席する) コートナー ハンス・ザックスは? ダーフィト (機先を制するように立ち上がり、ザックスを指差して) あちらに! ザックス (ダーフィトを脅しつけるように) お前、また殴られたいのか? お許しを!マイスター方!ザックス出席でございます。 (着席する) コートナー ジクストゥス・ベックメッサーは? ベックメッサー はなからザックスとともに。 (着席しながら) 「花咲き育ちゆく」の韻を学んでおりますからには。 (ザックスは声を立てて笑う) コートナー ウルリヒ・アイスリンガーは? アイスリンガー ここに。 (着席する) コートナー ハンス・フォルツは? フォルツ おります。 (着席する) コートナー ハンス・シュヴァルツは? シュヴァルツ ようやく、しんがりですな。 やれやれ! (着席する) コートナー 会議の定足数は満たしております。 よろしければ、審判の選挙に移りましょうか? フォーゲルゲザンク 祭りの後でも良いではないか。 ベックメッサー お急ぎの理由でも? 私は何ら審判の地位にこだわりませんが。 ポーグナー マイスターの皆様!今はその件はおいておきましょう。 私は重要な動議を提出させていただきたいのです。 (マイスター達は全員立ち上がり、コートナーにうなずきかけると、再び腰を下ろす) コートナー 採択されました。マイスターよ、お話し下さい! ポーグナー では、私の話をよくお聞きください! 皆様もご存知の通り、明日私達は、 美しきヨハネの祭日を祝うことになります。 緑の沃野に、花咲く丘に、 人々が踊り戯れ、楽しき宴が開かれ、 愉快さに胸をはずませ、 心を塞ぐ事も忘れて、 誰もが思い思いに楽しむことでしょう。 マイスター達でさえ、教会の歌学校で見せていた しかめっ面を脱ぎ捨てます。 ラララと楽音を奏でながら市門を出て、 広い野原を渡り、 晴れやかな祝祭のざわめきと一つになり、 一般民衆の耳をもそばだてる 世俗の歌を歌って聞かせるのです。 歌合戦への懸賞歌には、 優勝者のための賞が設けられ、 その賞も、その際に歌われた節回しも、 人々から末永く称えられるのです。 さて、私は今、神の思し召しにより、大きな富を得たからには、誰もが分に応じてするように、 自分に何ができるかを思いめぐらさずにはいられませんでした。世の恥さらしとならぬためには、 私はどんな貢献をすれば良いのかと。 では、お聞きください…私が何を思い付いたか。 ドイツの諸国を旅するごとに、 私が幾度となく失望させられたのは、 人々が市民というものを見下し、 ケチで閉鎖的だと悪口を叩いていることでした。 宮廷でも、庶民の暮らす場所でも、 私がイヤというほど味わったのは、 市民の頭の中は、がめつい取引や金のことばかりだという 手厳しい非難の嵐だったのです。 それゆえ、この広大なドイツ帝国において 芸術を保護しているのは、独り我らのみだということなど、 ほとんど彼らの念頭にはありません。 さればこそ私は、我らこそが栄誉にふさわしいこと、 また、我らが高貴なる志を抱いて、 美なるもの、善なるものを評価していること、 そして、芸術こそが美と善にふさわしい価値を持つことを、 世に明らかにせんと欲したのです。 ゆえに、マイスターの皆様… 私が賞として考えた贈り物を聞いてください。 聖ヨハネの祭日に、 全ての民衆を前にして、 芸術歌唱の賞を勝ち取った優勝者には、 その者が誰であろうとも、 芸術愛好家である ニュルンベルクのファイト・ポーグナーは、 あらん限りの私の財産とともに、 一人娘エーファを娶わせるつもりなのです。 マイスターたち (立ち上がり、きわめて活発に、口々に叫ぶ) これぞ男子の一言というものだ! 見るがいい、ニュルンベルクっ子ここにあり! あまねく広くあなたは賞賛を受けますぞ、 勇気ある市民、ポーグナー・ファイトよ! 徒弟たち (陽気に飛び跳ねながら) いつまでも、あまねく広く称えられよ! ポーグナー・ファイト!ポーグナー・ファイト! フォーゲルゲザンク もう誰も独身を嫌がらないのでは? ザックス 妻を捨てても…とまで思いつめる輩も出そうですな! コートナー さあ、独身者よ!ここは一つ挑戦ですぞ! ポーグナー お聞きください…もう一つ重大な話が残っているのです! (マイスター達が次第に腰を下ろすと、徒弟たちも同様に着席する) 私が提供する贈り物は、命無き物体ではありません。 ゆえに、審判の場には、娘も同席するものといたします。 賞の判定は、マイスター組合が行いますが、 こと結婚に関しては、理性の声に従い、 マイスターの方々の協議結果に対して、 花嫁が決定権を持つことといたします。 ベックメッサー (コートナーの方を向いて) はてさて、これは賢明と言えましょうかね? コートナー (大声で) 私の理解が正しければ、 あなたは我々を娘さんの傘下に置こうというわけですか? ベックメッサー なんと危険な! コートナー 仮に娘さんの同意が得られなければ、 マイスターの下した判断に傷が付いてしまいませんか? ベックメッサー それぐらいなら、娘さんの心のままに決めてもらって、 あえてマイスター歌唱と絡めずとも良いでしょう! ポーグナー とんでもない!どうしてそうなるのです?よく聞いてください!あなた方マイスターが決めた受賞者を、 私の娘は拒むことができますが、 他の誰かを望むことはできないのです。 受賞者はマイスタージンガーでなければなりません… あなた方が栄冠を与えた者に、娘は嫁ぐ定めなのです。 ザックス (立ち上がって) 失礼をば! あるいは、いささか議論が先走っているように存じます。 乙女の心と、マイスター芸術とは、 いつも同じ熱意に満たされているとは限りません。 思うに、女性の気持ちとは、特に学識を積まぬものであれば、 民衆の気持ちと同等の価値があるものです。 あなた方は、いかに高く芸術を崇めているかを 民衆の目の前で示そうとおっしゃる。 そして、あの娘に選択権は与えるけれど、 あの娘が決定を覆すのは望まないとおっしゃる。 それなら、民衆も審判として加えてみてはいかがでしょう?民衆の意見は、あの娘の意見と、きっと一致するでしょうから。 フォーゲルゲザンク、ナハティガル 何と! 全てのマイスター (ザックスとポーグナーを除いて) 民衆だって?これは何とも結構なことで!そんなことをすれば、芸術もマイスターの調べも、おしまいだ! コートナー いかんぞ!ザックス!明らかな暴論だ。 民衆に規則を譲り渡すようなものではないか? ザックス よくお聞きください!いつも通りに! 僭越ながら、私は規則を良く存じております。 我が組合の規則が守られるよう、 何年も努力を重ねて来たのは、この私自身です。 しかし、今回に関しては賢明なやり方と考えます… 年に一度、その規則自体を点検し、 習慣という名の怠惰なレールに乗って、 規則本来の生命力が失われていないか見直すことは。 あなた方が自然に則った正しい道を 歩んでいるのか告げるのは、 難解な規則表など何一つ知らない者だけなのです。 (徒弟たちは飛び上がって喜んで、歓迎の揉み手をする) ベックメッサー へっ!徒弟たちが喜んでやがる! ザックス (熱を帯びて話し続ける) ですから、後悔するようなことはないでしょう。 毎年、聖ヨハネの祝祭日には、 民衆をこちらに来させる代わりに、 あなた方ご自身が、マイスターの雲の高みから降りて行き、 民衆に顔向けするとしても。 あなた方が民衆に気に入られることを望むなら、 何よりも必要なことは、 どうすれば楽しく感じられるかを、 当の民衆自身に語ってもらうことです。 民衆と芸術とが「共に花咲き育ちゆく」ことこそ、 あなた方の望みだと、私、ハンス・ザックスは思量しますが。 フォーゲルゲザンク 言っていることは確かに立派だが! コートナー だが、だからこそ、怪しいのだ。 ナハティガル 民衆が口出しするぐらいなら、もう口を利くまい。 コートナー 芸術は常に没落と恥辱の危険にさらされることになるぞ。 民衆の人気を追い求めるようになれば。 ベックメッサー すでに手広くやっておられるお方は不遜極まりないですな。 街の流行歌もどっさり作っておいでだ。 ポーグナー ザックス殿…私の発言でさえ、すでに新しい提案なのです。 いちどきに二兎を追うことは悔いを残しましょう。 (ポーグナーはマイスター達の方を向く) お諮りします…私の提案した賞と規則を、 マイスターの皆様はご了承いただけますか? (マイスター達は起立して同意を示す) ザックス 私とて、娘さんに決定権さえ残れば、それで充分です。 ベックメッサー 靴屋め…いつも俺をムカムカさせやがる! コートナー 誰が志願者として手を上げるのでしょうなあ? ここはぜひとも若者でなくてはなりますまい。 ベックメッサー 男やもめでも良いのでは?ザックスに聞いてごらんなさい! ザックス とんでもない、審判殿! 志願者は、あなたや私よりもずっと若い人でなくては。 エーファさんが賞を与えるのですからな。 ベックメッサー 私まであなたと一緒にする気ですか?何と無礼な! コートナー 資格試験を希望する方は、すぐに参られよ! どなたかご希望の方はおられぬか? ポーグナー さあ、マイスターの皆様!議事に戻りましょう! 私から報告があります。 私は、マイスターとしての義務に従い、 年若き騎士を紹介いたします。 この騎士の望みは、人々から選抜され、 今日のうちにもマイスタージンガーとして独り立ちすることです。さあ、我が友、騎士シュトルツィング殿、参られよ! (ヴァルターは進み出て、お辞儀をする) ベックメッサー (独り言で) ほら、思った通りじゃないか!そこまでやるのか?ファイトよ。(大声で) マイスターの皆様、今日は時間も遅いことですし… シュヴァルツとフォルツ これは喜ぶべきことか? その他のマイスター しかも騎士だと? フォーゲルゲザンク、モーザー、アイスリンガー 喜ぶべきことか? ツォルン、コートナー、ナハティガル、オルテル 危険ではないか? フォーゲルゲザンク あるいは危険なことか? 全てのマイスター いずれにせよ、重要なのは、 ポーグナー親方がこの男を推挙したということだ。 コートナー 騎士殿は歓迎するとしても、 まずは身元確認が必要ですな。 ポーグナー どうぞお尋ねください!私はこの方の活躍を願っておりますが、規則をないがしろにする積りは毛頭ありません。 マイスターよ!どうぞご質問を! コートナー では、騎士殿よ、お答えいただきたい。 あなたは自由民にして、嫡出子ですかな? ポーグナー そのような問いは無用です。 この私が、あなた方に保証します。 この方は自由民にして、正当な婚姻の子です。 フランケン地方、シュトルツィング家のヴァルター殿として、 私は手紙や文書で、良く存じ上げておるのです。 このお方は、その家系の末裔でありますが、 このたび屋敷や城を手放し、 ニュルンベルクに移り住み、 この地で市民となろうとしているのです。 ベックメッサー また騎士くずれのクズか!ロクなことはない! ナハティガル ポーグナー殿のお口添えであれば十分です。 ザックス 古くからのマイスター達の定めに従うと、 領主であるか、農民であるかが、決め手ではありません。 マイスタージンガーになりたいのが誰であろうと、 ここで決め手になるのは、芸術のみです。 コートナー では、早速次の質問へ。 あなたが師事したマイスターはどなたですか? ヴァルター 冬、しんと静まり返った暖炉の傍で、 城も屋敷も、雪に埋もれていた時、 間もなく春が愛らしく笑いかけ、 再び目覚めの時を迎えるだろうと、 私にたびたび教えてくれたのは、 先祖伝来の古い書物でした。 ですから、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ殿こそ、私のマイスターであったのです。 ザックス これは良き師匠を得たものだ! ベックメッサー だが、とっくの昔に死んだ人間じゃないか。 どうして規則や禁則が学べるというんだ!? コートナー それにしても、どの学校で、 あなたは歌を習得する機会を得たのです? ヴァルター 川から氷が溶け去り、 夏の日々が帰って来ると、 かつて長い冬の夜に、 古い書物が教えてくれた知恵が、 森の輝きを浴びて高らかに鳴り響き、 朗らかな歌声となって聞こえてきたのです。 ですから私は、森の鳥たちが集う草原(フォーゲルヴァイデ)で 歌を学んだのです。 ベックメッサー うほっ!スズメやシジュウカラの鳴き声から、 マイスターの歌を習得しただと? 確かに、そんな歌しか歌えなさそうだ! フォーゲルゲザンク ですが、2つの詩節をうまくつなぎ合わせましたよ。 ベックメッサー フォーゲルゲザンク親方が誉めるのは、 あなたも同じように鳥から歌を習った口だからですかな? コートナー マイスターの皆様、いかがです?まだご質問がありますか? 私見では、この場は騎士殿には場違いに思われるのですが。 ザックス それは間もなく分かることです。 このお方が正しい芸術を身につけて、 それを保持しているのなら、 誰に教わったかなど、どうでも良いことではありませんか? コートナー (ヴァルターに) ご準備はよろしいでしょうか? 新たな着想に基づき、 詞も曲も独自なマイスター歌曲を、 今すぐご披露いただけますか? ヴァルター かつて、冬の夜と森の輝き、 物の本と聖なる森が、私に教えてくれました。 詩人の歌の不思議な力が、 私にひそやかに示してくれました。 武具を付けた馬の蹄の音や、 明るい丘の上での踊りの音が、 私にじっと耳を澄まさせました。 今や一世一代の賞を得るために、 歌を交わそうとする時、 私が生み出す詩と節回しは、 この体から一つの奔流となってほとばしり、 考えうる限りのマイスターの歌として、 あなた方マイスター達の心に注がれるのです。 ベックメッサー 今の言葉の洪水から何か聞き取れましたか? フォーゲルゲザンク 何とまあ、大胆な! ナハティガル 奇妙な感じだ! コートナー では、マイスターの皆様、 よろしければ審判の準備をしましょうか… (ヴァルターに) 騎士殿は、神聖な題材を選ばれるのですか? ヴァルター 私にとって神聖なのは愛の旗印。 それを振るって、希望に溢れた歌を歌います。 コートナー 当方では、それは世俗の題材です。 では、ベックメッサー名人よ、お入りください! ベックメッサー (立ち上がり、いかにも嫌そうに審判席へと歩いて行く) つらい仕事だ、特に今日は! チョークも、いっぱい痛めつけられることじゃろうて。 (ヴァルターにお辞儀をする) 騎士殿、よろしいか… ジクストゥス・ベックメッサーが審判です。 この審判席にて、 無言で厳格に、業務にいそしみます。 間違いは7つまでは許されますので、 チョークでそこに記入します。 7つを超えて間違った時には、 騎士殿は歌いそこねとなります。 (審判席に腰掛ける) 審判はじっと聞き耳を立てておりますぞ。 とはいえ、審判の姿が目に入って、 気を紛らわさないために、 つまりはあなたを安心させるため、ここに閉じ篭るわけです。 では、神のご加護がありますように。 (嘲るように親しげにうなずきながら首を突き出していたが、審判席を取り囲むカーテンの奥に完全に姿を隠す) コートナー (徒弟たちに合図する。ヴァルターに向かって) あなたの歌の導きの糸とするべく、 規則表からの朗読をお聞きください。 (二人の徒弟が壁にかけてあった「規則要覧」の黒板を取り外し、コートナーの面前に差し出し、 コートナーはそれを読み上げる) 「全てのマイスター歌曲の詩節は、 異なる詩行から成る 規則正しき形を表し、 何人もこれに違反すること許されず。 詩は、同じ旋律を持つ 二つの詩連から構成され、 一つの連は、数行の組み合わせから成り、 その末尾では韻を踏むべし。 詩連の後に続く後楽節は、 同じく数行の詩行から成るも、 先の詩連には無い 独自の旋律を持つべし。 かくの如きまとまりを持つ詩節から、 全てのマイスター歌曲は成る。 また、新たな歌を作る者は、 別のマイスターの節回しを 四音節を超えて使うこと許されず。 かくなる歌こそ、マイスターの賞を得べし。」 (コートナーが返した黒板を、徒弟たちは壁に掛け直す) では、歌唱席にお掛け下さい! ヴァルター (一瞬怖じ気づきながら) この…椅子にですか? コートナー 歌学校のしきたりです。 ヴァルター (椅子の壇に上がり、嫌々ながら腰掛ける。独り言で) 愛しい人よ…君のためにこそ! コートナー (非常に大きな声で) 歌い手が着席します。 ベックメッサー (見えない審判席の中から、甲高い声を張りあげる) 始めよ! ヴァルター 始めよ! そう春が森に呼びかけると、 その響きは森の隅々にまで沁み渡る。 遙か彼方でざわめく波のように、 内側から響きがあふれ出る。 音は彼方からふくらみ、 ますます勢いを増すと、 盛り上がり、鳴り響く。 森の隅々にまで、 幾つもの優しい声が満ちていく。 高らかな晴れやかな響きは、すぐそこに近づき、 凄まじいまでに膨れ上がる! 鐘の音のように、歓喜が響き出す! するとすぐさま森は、 自らを甦らせた その呼びかけに答える。 「さあ、声を合わせ、歌おう! 甘美な春の歌を!」と。 (審判席の中から、審判ベックメッサーのうんざりしたような溜息と、チョークを激しくこすりつける音が聞こえてくる。ヴァルターもその音を聞くが、短い中断の後、彼は歌い続ける) 茨の生け垣の奥には、 妬みと恨みに身を焦がす 怒りに満ちた冬が 隠れていたに違いない。 枯れた枝のざわめきの陰で、 冬は覗き見て、聞き耳を立てている。 どうやったら、あの陽気な歌を 台無しにできるだろうかと…。 (ヴァルターは椅子から立ち上がる) だが… 始めよ! そう胸に呼びかけるものがあったのだ。 それは私が愛をまだ知らなかった時…。 心の奥深く、まるで夢を破るかのように、 動き出すものがあった。 心臓の震える鼓動が 胸を一杯に満たしていった。 全能の力に血潮は沸き立ち、 新たな感情を得てふくらんでいく。 温かな夜に力を得て、 数え切れない溜息が 海の如く、荒々しい歓喜の渦に揉まれていく。 するとすぐさま胸は、 自らを甦らせた その呼びかけに答える。 「さあ、声を合わせ、歌おう! 気高き愛の歌を!」と。 ベックメッサー (カーテンをがばっと開けて) これで終わりですかな? ヴァルター なぜです? ベックメッサー 黒板の方は、もう終わりかけてるんでね。 (ベックメッサーがチョークの線でいっぱいになった黒板を取り出すと、マイスター達は大笑いする) ヴァルター そのまま聞いてください!女性を賛美する箇所に、 私はようやくたどり着いた所なのです。 ベックメッサー (審判席を後にして) お望みなら歌いなさい!ですがここでは歌いそこねです。 マイスターの皆様、黒板をご覧あれ。 生まれてこの方、聞いたこともない歌だ。 皆様がどうおっしゃろうが、私は聞いたこともない。 ヴァルター マイスターの皆様、こんな邪魔立てを黙認するのですか? 私の歌はどなたにも聞いてもらえないのですか? ポーグナー もし!審判殿!興奮し過ぎですぞ! ベックメッサー 審判なんぞ、やりたい人がやってください! だが騎士殿が歌いそこねであることは、 マイスターの協議を待つまでもなく、証明してあげますよ。 これほど難しい仕事がありますか? どこから始まって、どう終わるのか皆目分からない歌なんて? 数の間違いや、韻の踏み方の間違いは、 この際不問に付すとしても、 短かすぎたり長すぎたりでは、誰が終わりだと分かるでしょう!真面目な話、こんなものを誰が詩だと思うでしょう? ここでは「意図不明」の誤りのみを指摘しますが… どうです?これ以上のナンセンスがあり得るでしょうか? マイスターたち (ザックスとポーグナーを除いて) 良く分からなかったぞ!そう言わねばなるまいて。 終わりがどこなのか誰にも分からなかった。 ベックメッサー おまけにあの節回し!全く馬鹿げたごたまぜだ。 「冒険の節回し」と「青いデルフィニューム」と、「高いモミの木の調べ」と「誇り高い若者の調べ」とのごたまぜだ! コートナー その通り!私にもまるで理解できなかった! ベックメッサー 段落もなければ、コロラトゥーラもなく、 メロディーの影も形もない! オルテル、その後フォルツ 誰がこんなものを歌と言うだろう? モーザー 不安でたまらなくなったぞ! ナハティガル まったくだ。不安でいたたまれなくなった! フォーゲルゲザンク 空虚な耳いじめにすぎない! ツォルン しかも中味も全くない! コートナー ましてや椅子から飛び上がるなど! ベックメッサー まずは間違い探しをやりましょうかな? それとも直ちに、歌いそこねと宣告しましょうか? ザックス (歌が始まるなり次第に真剣に耳を傾けていたザックスは、ここで進み出る) お待ち下さい、マイスターの皆様!そう急いではなりません! 誰もが同じ意見というわけではないでしょう。 騎士殿の歌と節回しは、 新奇ではありますが、混乱してはいませんでした。 確かに我らの流儀とは異なっておりましたが、 しっかりと、迷うことなく、歩みを進めておりました。 自分たちの規則にそぐわない事柄を、 なおも規則で判定しようとするなら、 規則の運用についてはひとたび忘れ、 規則の本来の意味を探し求めなければ! ベックメッサー ハハハ、ごもっとも!さあ、皆さん、お聞きあれ! ザックスが、下手くそ連中のための抜け穴を作るつもりです。 連中が思いつくまま気の向くまま、 気軽に好き勝手を仕出かすための抜け穴をね。 しかし、それならば、市場や路地で歌えばいいでしょう。 この場では、規則に従う歌のみが許されているのです! ザックス 審判殿、どうしてそんなにムキになるのです? なぜ余裕が持てないのですか? 私が思うに、じっくり耳を傾ければ、 あなたの判断も、より深まっていくでしょう。 私の今のところの結論は、 騎士殿の歌を最後まで聞くべし、ということです。 ベックメッサー マイスター組合も、全ての歌学校も、 ザックスには取るに足らずと言うわけか。 ザックス とんでもない!私の願いは、 規則を無視しないでほしいということです! だってこう書いてあるじゃありませんか。 「審判たる者は、 好悪に左右されることなく、 その判定を執り行うべし」とね。 何といっても、審判殿ご自身が嫁を探しているからには、 こんな気持ちにならないとも限りませんからね… 「あの椅子に座る恋敵を、歌学校の全員が居合わせる前で、 こき下ろしてやろう」という気持ちにね。 (ヴァルターの心に再び火が付く) ナハティガル それは言い過ぎですぞ! コートナー 私事を持ち出すとは! ポーグナー マイスターの皆さん、喧嘩はおやめ下さい! ベックメッサー 何ですと?私が何を探していようと、 ザックス名人に何の関係があるのでしょう? それぐらいなら、もっと心配してほしいものですよ、 私の足指が圧迫されないようにね! 靴屋殿が大層な詩人になってからというもの、 私の靴は大層具合が悪いんですよ。 ブカブカなくせに、至る所で指に当たる! 詩人殿の全ての詩、全ての韻、 物語も悲劇も喜劇も、私は喜んで受け入れますがね… その前にまずは明日の朝、新しい靴を家に持って来てほしいもんだ! ザックス (耳の後ろを掻く) これはこれは親切なご忠告を… ですが、マイスターよ、果たして礼にかなったことでしょうか? 何でもない男の靴底にさえ、 一言書き記さずにはいられないこの私が、 学識広大なるニュルンベルク市の書記殿に、 何も書き付けずに済ませたとしたら。 私の乏しい詩才だけでは、 あなたにふさわしい一文を、 すぐに見つけることはできません。 ですが、騎士殿の歌を聞き終えた後ならば。 きっとひらめくのではないでしょうか。 ですから騎士殿、邪魔は気にせず歌い続けてください! (ヴァルターは非常に興奮したまま椅子の上に昇ると、そこから周囲を見下ろす) ベックメッサー もうやめろ!終わりにしろ! オルテル、モーザー、フォーゲルゲザング、ナハティガル (次々に) もう沢山だ! ツォルン、アイスリンガー 終わりにしろ! コートナー 沢山だ!終わりにしろ。 ザックス (ヴァルターに) 歌うのです!審判殿が音を上げるまで! ベックメッサー こんなものを聞かにゃならんのか? 頭をヘンにする気か? (ベックメッサーは審判席から黒板を引っ張り出し、続くヴァルターの歌の間、次から次へとマイスターに向かって黒板を差し出し、試験の結果を見せて回る) ヴァルター 茨の生垣の闇の中から、 ガサガサと姿を現すフクロウが、 金切り声を張り上げると、 湧き上がるのは、カラス達のかすれ声の合唱。 ベックメッサー 大から小までの間違いを記した この黒板を、とくとご覧あれ。 マイスターたち (ザックスとポーグナーを除いて) そうだ!まさにその通り! ヴァルター 真っ黒な群れをなして、 みんなでキーキー鳴き騒ぎ、 虚ろな声をとどろかす カササギ、カラス、コクマルガラス! ベックメッサー 「誤った押韻」「読めない単語」 「粘着音節」、さらには「悪習」までも。 マイスターたち (ザックスとポーグナーを除いて) もう良く分かった! この騎士殿は失敗だ。 ザックスだけが味方して、その意を汲もうとしているが、 この歌学校では、もう静かにしなさい! ザックス (感動しながらヴァルターを見つめる) おお、何という勇気だ! 感極まって燃え立つ炎のようだ! ヴァルター ちょうどその時、 大空へ羽ばたく 金色の翼の美しい鳥。 明るく輝くその羽が、 風を切って、きらめいている。 ベックメッサー 「曖昧」「間違った箇所での押韻」 「あべこべ」「並べそこね」…詩行全体にわたっているぞ。 詩連の間には、「継ぎはぎ」も見られる。 ポーグナー 確かに…都合の悪いことだが、 我が騎士殿は不利な状況! マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) 同志に誰を選ぶかは、 あくまで各自が自由に決めること。 ザックス マイスターの皆さん!お喋りせずに耳を傾けてください! ヴァルター 鳥は、悠々と空を舞いながら、 私にも飛び去れと合図を送る。 甘き苦痛に 心はふくらみ… ポーグナー だが、ここで負けてしまっては、 この先はもっと心配の種ばかりだ。 マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) 初心者大歓迎などということになったら、 マイスターになぞ何の価値があろうか? ザックス (懇願するように) このザックスが頼むのです!どうかお聞きください! ベックメッサー 「意図不明」だらけだ。 ザックス 審判殿、落ち着いてください! ベックメッサー 「不明瞭な単語」や「食い違い」もあれば、 「言葉のかたまり」もある。 「誤った息継ぎ」もあれば、「不意打ち」もある。 ヴァルター 今や苦しみが翼を得る。 空へと羽ばたき、 血気にあふれて、 墓場のような街におさらばを告げ、 風を切って飛翔していく… はるか故郷の丘の上へと。 ザックス せめて他人に聞かせることぐらい許してはいかがです! だが無駄か!全て無益な試みか! 自分の声すらほとんど聞こえないのだから! ベックメッサー まるで訳の分からぬ旋律だ! あらゆる調べのごった煮だ! ザックス この騎士を誰一人相手にしないというのに。 見上げた勇気だ!まだ歌い続けるとは! ポーグナー 合格してくれる所が見たいものだ… ヴァルター 鳥たちの緑の草原へ… ヴァルター・フォーゲルヴァイデ師が私を受け入れた草原へ。 私は晴れやかながらも厳かに歌う… 愛する女性を称える歌を。 ダーフィトと徒弟たち (すでにベンチから立ち上がっていたダーフィトと徒弟たちは、審査席に近づくと、輪になって審査席を取り巻き、輪舞を踊るべく整列していく) どうかマイスターらしい歌をご披露ください! 花の冠を、見事手に入れてください! (徒弟たちは手をつなぎ、ますます陽気に、審査席を取り巻いて輪舞を踊る) ベックメッサー マイスターの皆様、もしもご苦労を厭わぬならば、 私が数え上げた誤りをもう一度数え直してみてください! マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) 見たか!あの騎士、あんなにも身をよじって! ポーグナー 婿にできれば、極めて値打ちの高い若者なのだが… ザックス さても肝の据わった若者だ… これぞまことに、詩人にして勇士! ヴァルター 天高く羽ばたくがいい… マイスターというカラス達の気には召さぬとも、 誇らしき愛の歌よ、羽ばたくがいい… ダーフィトと徒弟たち 果たして、見事な絹で出来た花冠が、 めでたく騎士殿に与えられるでありましょうか? ベックメッサー 8回ミスを犯せば、もう失敗だと言うのに、 これだけミスした者は前代未聞! ポーグナー 勝者の側を迎え入れても、 娘がその男を選ぶとは限らぬものなあ…。 マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) なるほど、あのザックスが選んだだけのことはある! (大笑いする) アッハッハ! ザックス このハンス・ザックスが、同時に詩と靴とをものするように、 あの騎士もまた、騎士にして詩人。 マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) もういらいらするぞ! いい加減やめないか! ベックメッサー 50のミスを優に超えていますぞ! 皆様はこんな男をマイスターに選ぶお積りですか? ポーグナー 正直言って、胸がふさいでたまらないのだ… あんなマイスターを、エーファは婿に選ぶだろうか! マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) さあ、マイスター達よ、 ご賛同ならば挙手を願います! (マイスター達は、賛同の挙手をする) ヴァルター さらばだ、マイスター達!この地上をさまよい続けよ! ベックメッサー ではマイスターの皆様、ご宣告願います! マイスターたち (ザックスとポーグナーを除く) 歌いそこね!失敗だ! (ヴァルターは誇り高く軽蔑的な身振りで歌唱席から離れ、身を翻すと急いで退場する) (全員、興奮して右往左往する。徒弟たちは陽気に騒ぎ回りながら、審査席や歌手席、マイスターの座っていたベンチを片付けようとするが、彼らの流れと、出口に向かおうとするマイスター達の流れとが合流して混雑と混乱が生じる。一人前景に残ったまま、物思いにふけりながら、今は誰も座っていない歌唱席を見つめていたザックスだったが、その椅子すら徒弟が運び去っていく。喜劇役者風の不機嫌そうな大仰な身振りでザックスが身を翻すと、幕が下りる) DRITTE SZENE Die Einrichtung ist nun folgendermassen beendigt Zur Seite rechts sind gepolsterte Bänke in der Weise ausgestellt, dass sie einen schwachen Halbkreis nach der Mitte zu bilden. Am Ende der Bänke, in der Mitte der Bühne, befindet sich das »Gemerk« benannte Gerüst, welches zuvor hergerichtet worden. Zur linken Seite steht nun der erhöhte, kathederartige Stuhl (»der Singstuhl«) der Versammlung gegenüber. Im Hintergrunde, den grossen Vorhang entlang, steht eine lange niedere Bank für die Lehrlinge. Walther, verdriesslich über das Gespött der Knaben, hat sich auf die vordere Bank niedergelassen. Pogner und Beckmesser sind im Gespräch aus der Sakristei aufgetreten. Die Lehrbuben harren, ehrerbietig vor der hinteren Bank stehend. Nur David stellt sich anfänglich am Eingang der Sakristei auf POGNER zu Beckmesser Seid meiner Treue wohl versehen. Was ich bestimmt, ist Euch zu Nutz im Wettgesang müsst Ihr bestehen; wer böte Euch als Meister Trutz? BECKMESSER Doch wollt Ihr von dem Punkt nicht weichen, der mich - ich sag s - bedenklich macht; kann Evchens Wunsch den Werber streichen, was nützt mir meine Meisterpracht? POGNER Ei sagt! Ich mein, vor allen Dingen sollt Euch an dem gelegen sein. Könnt Ihr der Tochter Wunsch nicht zwingen, wie möchtet Ihr wohl um sie frei n? BECKMESSER Ei ja! Gar wohl! Drum eben bitt ich, dass bei dem Kind Ihr für mich sprecht, wie ich geworben zart und sittig und wie Beckmesser grad Euch recht. POGNER Das tu ich gern. BECKMESSER beiseite Er lässt nicht nach! Wie wehrt ich da nem Ungemach? WALTHER der, als er Pogner gewahrt, aufgestanden und ihm entgegengegangen ist, verneigt sich vor ihm Gestattet, Meister! POGNER Wie, mein Junker? Ihr sucht mich in der Singschul hie? Sie wechseln die Begrüssungen BECKMESSER immer beiseite Verstünden s die Frau n! Doch schlechtes Geflunker gilt ihnen mehr als all Poesie. Er geht verdriesslich im Hintergrunde auf und ab WALTHER Hier eben bin ich am rechten Ort. Gesteh ich s frei, vom Lande fort was mich nach Nürnberg trieb, war nur zur Kunst die Lieb . Vergass ich s gestern Euch zu sagen, heut muss ich s laut zu künden wagen ein Meistersinger möcht ich sein. Sehr innig Schliesst, Meister, in die Zunft mich ein! Kunz Vogelgesang und Konrad Nachtigall sind eingetreten POGNER freudig zu den Hinzutretenden Kunz Vogelgesang! Freund Nachtigall! Hört doch, welch ganz besondrer Fall! Der Ritter hier, mir wohlbekannt, hat der Meisterkunst sich zugewandt. Vorstellungen, Begrüssungen, andere Meister treten noch dazu BECKMESSER wieder in den Vordergrund tretend, für sich Noch such ich s zu wenden; doch sollt s nicht gelingen, versuch ich des Mädchens Herz zu ersingen. In stiller Nacht, von ihr nur gehört, erfahr ich, ob auf mein Lied sie schwört. Walther erblickend Wer ist der Mensch? POGNER sehr warm zu Walther fortfahrend Glaubt, wie mich s freut! Die alte Zeit dünkt mich erneut. BECKMESSER Er gefällt mir nicht! POGNER Was Ihr begehrt, BECKMESSER Was will er hier? - POGNER ...soviel an mir.... BECKMESSER Wie der Blick ihm lacht! POGNER ... sei s Euch gewährt. Half ich Euch gern bei des Guts Verkauf, BECKMESSER Holla, Sixtus! POGNER in die Zunft nun nehm ich Euch gleich gern auf. BECKMESSER Auf den hab acht! WALTHER Habt Dank der Güte aus tiefstem Gemüte! Und darf ich denn hoffen, steht heut mir noch offen, zu werben um den Preis, dass Meistersinger ich heiss ? BECKMESSER Oho! Fein sacht! Auf dem Kopf steht kein Kegel! POGNER Herr Ritter, dies geh nun nach der Regel. Doch heut ist Freiung ich schlag Euch vor; mir leihen die Meister ein willig Ohr. Die Meistersinger sind nun alle angelangt, zuletzt Hans Sachs SACHS Gott grüss Euch, Meister! VOGELGESANG Sind wir beisammen? BECKMESSER Der Sachs ist ja da! NACHTIGALL So ruft die Namen! KOTHNER zieht eine Liste hervor, stellt sich zur Seite auf und ruft laut Zu einer Freiung und Zunftberatung ging an die Meister ein Einladung bei Nenn und Nam , ob jeder kam, ruf ich nun auf als letztentbot ner, der ich mich nenn und bin Fritz Kothner. Seid Ihr da, Veit Pogner? POGNER Hier zur Hand. Er setzt sich KOTHNER Kunz Vogelgesang? VOGELGESANG Ein sich fand. Er setzt sich KOTHNER Hermann Ortel? ORTEL Immer am Ort. Er setzt sich KOTHNER Balthasar Zorn? ZORN Bleibt niemals fort. Er setzt sich KOTHNER Konrad Nachtigall? NACHTIGALL Treu seinem Schlag. Er setzt sich KOTHNER Augustin Moser? MOSER Nie fehlen mag. Er setzt sich KOTHNER Niklaus Vogel? - Schweigt? EIN LEHRBUBE von der Bank aufstehend Ist krank. KOTHNER Gut Bess rung dem Meister! DIE MEISTER ausser Kothner Walt s Gott! DER LEHRBUBE Schön Dank! Er setzt sich wieder nieder KOTHNER Hans Sachs? DAVID vorlaut sich erhebend und auf Sachs zeigend Da steht er! SACHS drohend zu David Juckt dich das Fell? Verzeiht, Meister! Sachs ist zur Stell . Er setzt sich KOTHNER Sixtus Beckmesser? BECKMESSER Immer bei Sachs während er sich setzt dass den Reim ich lern von »blüh und wachs«. Sachs lacht KOTHNER Ulrich Eisslinger? EISSLINGER Hier. Er setzt sich KOTHNER Hans Foltz? FOLTZ Bin da. Er setzt sich KOTHNER Hans Schwarz? SCHWARZ Zuletzt Gott wollt s! Setzt sich KOTHNER Zur Sitzung gut und voll die Zahl. Beliebt s, wir schreiten zur Merkerwahl? VOGELGESANG Wohl eh r nach dem Fest. BECKMESSER Pressiert s dem Herrn? Mein Stell und Amt lass ich ihm gern. POGNER Nicht doch, Ihr Meister! Lasst das jetzt fort. Für wichtigen Antrag bitt ich ums Wort. Alle Meister stehen auf, nicken Kothner zu und setzen sich wieder KOTHNER Das habt Ihr, Meister, sprecht! POGNER Nun hört und versteht mich recht! - Das schöne Fest, Johannistag, Ihr wisst, begeh n wir morgen. Auf grüner Au , am Blumenhang, bei Spiel und Tanz im Lustgelag, an froher Brust geborgen, vergessen seiner Sorgen, ein jeder freut sich, wie er mag. Die Singschul ernst im Kirchenchor die Meister selbst vertauschen; mit Kling und Klang hinaus zum Tor auf offne Wiese ziehn sie vor bei hellen Festes Rauschen; das Volk sie lassen lauschen dem Freigesang mit Laienohr. Zu einem Werb- und Wettgesang gestellt sind Siegespreise, und beide preist man weit und lang, die Gabe wie die Weise. Nun schuf mich Gott zum reichen Mann; und gibt ein jeder, wie er kann, so musste ich wohl sinnen, was ich gäb zu gewinnen, dass ich nicht käm zu Schand so hört denn, was ich fand. In deutschen Landen viel gereist, hat oft es mich verdrossen, dass man den Bürger wenig preist, ihn karg nennt und verschlossen. An Höfen wie an nied rer Statt des bitt ren Tadels ward ich satt, dass nur auf Schacher und Geld sein Merk der Bürger stellt. Dass wir im weiten deutschen Reich die Kunst einzig noch pflegen, dran dünkt ihnen wenig gelegen. Doch wie uns das zur Ehre gereich , und dass mit hohem Mut wir schätzen, was schön und gut, was wert die Kunst und was sie gilt, das ward ich der Welt zu zeigen gewillt. Drum hört, Meister, die Gab , die als Preis bestimmt ich hab. Dem Sieger, der im Kunstgesang vor allem Volk den Preis errang am Sankt-Johannis-Tag, sei er, wer er auch mag, dem geh ich, ein Kunstgewogner, von Nürnberg Veit Pogner, mit all meinem Gut, wie s geh und steh , Eva, mein einzig Kind, zur Eh . DIE MEISTER sich erhebend und sehr lebhaft durcheinander Das heisst ein Wort! Ein Mann! Da sieht man, was ein Nürnberger kann! Drob preist man Euch noch weit und breit, den wack ren Bürger Pogner Veit! Die LEHRBUBEN lustig aufspringend Alle Zeit, weit und breit Pogner Veit! Pogner Veit! VOGELGESANG Wer möchte da nicht ledig sein? SACHS Sein Weib gäb mancher gern wohl drein! KOTHNER Auf, ledig Mann! Jetzt macht euch ran! POGNER Nun hört noch, wie ich s ernstlich mein ! Die Meister setzen sich allmählich wieder nieder, die Lehrbuben ebenfalls Ein leblos Gabe geh ich nicht ein Mägdlein sitzt mit zu Gericht. Den Preis erkennt die Meisterzunft; doch gilt s der Eh , so will s Vernunft, dass ob der Meister Rat die Braut den Ausschlag hat. BECKMESSER zu Kothner gewandt Dünkt Euch das klug? KOTHNER laut Versteh ich gut, Ihr gebt uns in des Mägdleins Hut? BECKMESSER Gefährlich das! KOTHNER Stimmt es nicht bei, wie wäre dann der Meister Urteil frei? BECKMESSER Lasst s gleich wählen nach Herzensziel und lasst den Meistergesang aus dem Spiel! POGNER Nicht so! Wie doch? Versteht mich recht! Wem Ihr Meister den Preis zusprecht, die Maid kann dem verwehren, doch nie einen andren begehren. Ein Meistersinger muss er sein nur wen Ihr krönt, den soll sie frei n. SACHS erhebt sich Verzeiht! Vielleicht schon ginget Ihr zu weit. Ein Mädchenherz und Meisterkunst erglüh n nicht stets in gleicher Brunst; der Frauen Sinn, gar unbelehrt, dünkt mich dem Sinn des Volks gleich wert. Wollt Ihr nun vor dem Volke zeigen, wie hoch die Kunst Ihr ehrt, und lasst Ihr dem Kind die Wahl zu eigen, wollt nicht, dass dem Spruch es wehrt so lasst das Volk auch Richter sein; mit dem Kinde sicher stimmt s überein. VOGELGESANG, NACHTIGAL Oho! ALLE MEISTER ausser Sachs und Pogner Das Volk? Ja, das wäre schön! Ade dann Kunst und Meistertön ! KOTHNER Nein, Sachs! Gewiss, das hat keinen Sinn, gäbt Ihr dem Volk die Regeln hin? SACHS Vernehmt mich recht! Wie Ihr doch tut! Gesteht, ich kenn die Regeln gut; und dass die Zunft die Regeln bewahr , bemüh ich mich selbst schon manches Jahr. Doch einmal im Jahre fänd ich s weise, dass man die Regeln selbst probier , ob in der Gewohnheit trägem Gleise ihr Kraft und Leben nicht sich verlier und ob Ihr der Natur noch seid auf rechter Spur, das sagt Euch nur, wer nichts weiss von der Tabulatur. Die Lehrbuben springen auf und reiben sich die Hände BECKMESSER Hei! Wie sich die Buben freuen! SACHS eifrig fortfahrend Drum möcht es Euch nie gereuen, dass jährlich am Sankt-Johannis-Fest, statt dass das Volk man kommen lässt, herab aus hoher Meister Wolk Ihr selbst Euch wendet zu dem Volk. Dem Volke wollt Ihr behagen; nun dächt ich, läg es nah, Ihr liesst es selbst Euch auch sagen, ob das ihm zur Lust geschah. Dass Volk und Kunst gleich blüh und wachs , bestellt Ihr so, mein ich, Hans Sachs. VOGELGESANG Ihr meint s wohl recht! KOTHNER Doch steht s drum faul. NACHTIGALL Wenn spricht das Volk, halt ich das Maul. KOTHNER Der Kunst droht allweil Fall und Schmach, läuft sie der Gunst des Volkes nach. BECKMESSER Drin bracht er s weit, der hier so dreist Gassenhauer dichtet er meist. POGNER Freund Sachs, was ich mein , ist schon neu zuviel auf einmal brächte Reu ! Er wendet sich zu den Meistern. So frag ich, ob den Meistern gefällt Gab und Regel, so wie ich s gestellt? Die Meister erheben sich beistimmend. SACHS Mir genügt der Jungfer Ausschlagstimm . BECKMESSER Der Schuster weckt doch stets mir Grimm! KOTHNER Wer schreibt sich als Werber ein? Ein Junggesell muss es sein. BECKMESSER Vielleicht auch ein Witwer? Fragt nur den Sachs! SACHS Nicht doch, Herr Merker! Aus jüng rem Wachs als ich und Ihr muss der Freier sein, soll Evchen ihm den Preis verleih n. BECKMESSER Als wie auch ich? Grober Gesell! KOTHNER Begehrt wer Freiung, der komm zur Stell ! Ist jemand gemeld t, der Freiung begehrt? POGNER Wohl, Meister! Zur Tagesordnung kehrt! Und nehmt von mir Bericht, wie ich auf Meisterpflicht einen jungen Ritter empfehle, der will, dass man ihn wähle und heut als Meistersinger frei . - Mein Junker Stolzing, kommt herbei! Walther tritt hervor und verneigt sich BECKMESSER bei Seite Dacht ich mir s doch! Geht s da hinaus, Veit? Laut Meister, ich mein , zu spät ist s der Zeit. SCHWARZ und FOLTZ Der Fall Soll man sich freu n? DIE ÜBRIGEN MEISTER Ein Ritter gar? VOGELGESANG, MOSER, EISSLINGER Soll man sich freu n? ZORN, KOTHNER, NACHTIGALL, ORTEL Wäre da Gefahr? VOGELGESANG Oder wär Gefahr? ALLE MEISTER Immerhin hat s ein gross Gewicht, dass Meister Pogner für ihn spricht. KOTHNER Soll uns der Junker willkommen sein, zuvor muss er wohl vernommen sein. POGNER Vernehmt ihn wohl! Wünsch ich ihm Glück, nicht bleib ich doch hinter der Regel zurück. Tut,Meister, die Fragen! KOTHNER So mög uns der Junker sagen ist er frei und ehrlich geboren? POGNER Die Frage gebt verloren, da ich Euch selbst des Bürge steh , dass er aus frei und edler Eh von Stolzing Walther aus Frankenland, nach Brief und Urkund mir wohlbekannt. Als seines Stammes letzter Spross verliess er neulich Hof und Schloss und zog nach Nürnberg her, dass er hier Bürger wär . BECKMESSER Neu Junker-Unkraut! Tut nicht gut! NACHTIGALL Freund Pogners Wort Genüge tut. SACHS Wie längst von den Meistern beschlossen ist, ob Herr, ob Bauer, hier nichts beschiesst hier fragt sich s nach der Kunst allein, wer will ein Meistersinger sein. KOTHNER Drum nun frag ich zur Stell welch Meisters seid Ihr Gesell ? WALTHER Am stillen Herd in Winterszeit, wann Burg und Hof mir eingeschneit, wie einst der Lenz so lieblich lacht und wie er bald wohl neu erwacht, ein altes Buch, vom Ahn vermacht, gab das mir oft zu lesen Herr Walther von der Vogelweid , der ist mein Meister gewesen. SACHS Ein guter Meister! BECKMESSER Doch lang schon tot; wie lehrt ihn der wohl der Regeln Gebot? KOTHNER Doch in welcher Schul das Singen mocht Euch zu lernen gelingen? WALTHER Wann dann die Flur vom Frost befreit und wiederkehrt die Sommerszeit, was einst in langer Winternacht das alte Buch mir kundgemacht, das schallte laut in Waldespracht, das hört ich hell erklingen im Wald dort auf der Vogelweid , da lernt ich auch das Singen. BECKMESSER Oho! Von Finken und Meisen lerntet Ihr Meisterweisen? Das wird dann wohl auch darnach sein! VOGELGESANG Zwei art ge Stollen fasst er da ein. BECKMESSER Ihr lobt ihn, Meister Vogelgesang, wohl weil vom Vogel er lernt den Gesang? KOTHNER Was meint Ihr, Meister? Frag ich noch fort? Mich dünkt, der Junker ist fehl am Ort. SACHS Das wird sich bäldlich zeigen. Wenn rechte Kunst ihm eigen und gut er sie bewährt, was gilt s, wer sie ihn gelehrt? KOTHNER zu Walther Seid Ihr bereit, ob Euch geriet mit neuer Find ein Meisterlied, nach Dicht und Weis Eu r eigen, zur Stunde jetzt zu zeigen? WALTHER Was Winternacht, was Waldespracht, was Buch und Hain mich wiesen; was Dichtersanges Wundermacht mir heimlich wollt erschliessen; was Rosses Schritt beim Waffenritt, was Reihentanz bei heit rem Schanz mir sinnend gab zu lauschen gilt es des Lebens höchsten Preis, um Sang mir einzutauschen, zu eignem Wort und eigner Weis will einig mir es fliessen, als Meistersang, ob den ich weiss, Euch Meistern sich ergiessen. BECKMESSER Entnahmt Ihr was der Worte Schwall? VOGELGESANG Ei nun, er wagt s! NACHTIGALL Merkwürd ger Fall! KOTHNER Nun, Meister, wenn s gefällt, werd das Gemerk bestellt. - zu Walther Wählt der Herr einen heiligen Stoff? WALTHER Was heilig mir, der Liebe Panier schwing und sing ich mir zu Hoff . KOTHNER Das gilt uns weltlich. Drum allein, Meister Beckmesser, schliesst Euch ein! BECKMESSER erhebt sich und schreitet wie widerwillig dem Gemerke zu Ein sau res Amt, und heut zumal! Wohl gibt s mit der Kreide manche Qual. Er verneigt sich gegen Walther. Herr Ritter, wisst Sixtus Beckmesser Merker ist. Hier im Gemerk verrichtet er still sein strenges Werk. Sieben Fehler gibt er Euch vor, die merkt er mit Kreide dort an wenn er über sieben Fehler verlor, dann versang der Herr Rittersmann. Er setzt sich im Gemerk Gar fein er hört; doch dass er Euch den Mut nicht stört, säht Ihr ihm zu, so gibt er Euch Ruh und schliesst sich gar hier ein - lässt Gott Euch befohlen sein. Er streckt den Kopf höhnisch freundlich nickend heraus und verschwindet hinter dem zugezogenen Vorhange des Gemerks gänzlich KOTHNER winkt den Lehrbuben. Zu Walther Was Euch zum Liede Richt und Schnur, vernehmt nun aus der Tabulatur. Zwei Lehrbuben haben die an der Wand aufgehängte Tafel der »Leges Tabulaturae« herabgenommen und halten sie Kothner vor; dieser liest daraus »Ein jedes Meistergesanges Bar stell ordentlich ein Gemässe dar aus unterschiedlichen Gesätzen, die keiner soll verletzen. Ein Gesätz besteht aus zweenen Stollen, die gleiche Melodei haben sollen; der Stoll aus etlicher Vers Gebänd , der Vers hat seinen Reim am End . Darauf erfolgt der Abgesang, der sei auch etlich Verse lang und hab sein besond re Melodei, als nicht im Stollen zu finden sei. Derlei Gemässes mehre Baren soll ein jed Meisterlied bewahren; und wer ein neues Lied gericht t, das über vier der Silben nicht eingreift in andrer Meister Weis , dess Lied erwerb sich Meisterpreis.« - Er gibt die Tafel den Lehrbuben zurück; diese hängen sie wieder auf Nun setzt Euch in den Singestuhl! WALTHER mit einem Schauer Hier - in den Stuhl? KOTHNER Wie s Brauch der Schul . WALTHER besteigt den Stuhl und setzt sich mit Widerstreben. Beiseite Für dich, Geliebte, sei s getan! KOTHNER sehr laut Der Sänger sitzt. BECKMESSER unsichtbar im Gemerk, sehr grell Fanget an! WALTHER Fanget an! So rief der Lenz in den Wald, dass laut es ihn durchhallt; und wie in fern ren Wellen der Hall von dannen flieht, von weither naht ein Schwellen, das mächtig näher zieht; es schwillt und schallt, es tönt der Wald von holder Stimmen Gemenge; nun laut und hell schon nah zur Stell , wie wächst der Schwall! Wie Glockenhall ertost des Jubels Gedränge! Der Wald, wie bald antwortet er dem Ruf, der neu ihm Leben schuf, stimmte an das süsse Lenzeslied! - Man hört aus dem Gemerk unmutige Seufzer des Merkers und heftiges Anstreichen mit der Kreide. Auch Walther hat es gehört; nach kurzer Störung fährt er fort In einer Dornenhecken, von Neid und Gram verzehrt, musst er sich da verstecken, der Winter, grimm-bewehrt. Von dürrem Laub umrauscht er lauert da und lauscht, wie er das frohe Singen zu Schaden könnte bringen. - Er steht vom Stuhle auf Doch fanget an! So rief es mir in der Brust, als noch ich von Liebe nicht wusst . Da fühlt ich s tief sich regen, als weckt es mich aus dem Traum; mein Herz mit bebenden Schlägen erfüllte des Busens Raum das Blut, es wallt mit Allgewalt, geschwellt von neuem Gefühle; aus warmer Nacht mit Übermacht schwillt mir zum Meer der Seufzer Heer im wilden Wonnegewühle. Die Brust wie bald antwortet sie dem Ruf, der neu ihr Leben schuf; stimmt nun an das hehre Liebeslied! BECKMESSER den Vorhang aufreissend Seid Ihr nun fertig? WALTHER Wie fraget Ihr? BECKMESSER Mit der Tafel ward ich fertig schier. Er hält die ganz mit Kreidestrichen bedeckte Tafel heraus; die Meister brechen in ein Gelächter aus WALTHER Hört doch! Zu meiner Frauen Preis gelang ich jetzt erst mit der Weis . BECKMESSER das Gemerk verlassend Singt, wo Ihr wollt! Hier habt Ihr vertan. Ihr Meister, schaut die Tafel Euch an so lang ich leb , ward s nicht erhört; ich glaubt s nicht, wenn Ihr s all auch schwört! WALTHER Erlaubt Ihr s, Meister, dass er mich stört? Blieb ich von allen ungehört? POGNER Ein Wort, Herr Merker! Ihr seid gereizt! BECKMESSER Sei Merker fortan, wer danach geizt! Doch dass der Junker hier versungen hat, beleg ich erst noch vor der Meister Rat. Zwar wird s ne harte Arbeit sein wo beginnen, da wo nicht aus noch ein? Von falscher Zahl und falschem Gebänd schweig ich schon ganz und gar; zu kurz, zu lang, wer ein End da fänd ! Wer meint hier im Ernst einen Bar? Auf »blinde Meinung« klag ich allein sagt, konnt ein Sinn unsinniger sein? DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Man ward nicht klug! Ich muss gestehn. Ein Ende konnte keiner erseh n. BECKMESSER Und dann die Weis ! Welch tolles Gekreis aus »Abenteuer«-, »blau Rittersporn«-Weis , »hoch Tannen«- und »stolz Jüngling«-Ton! KOTHNER Ja, ich verstand gar nichts davon! BECKMESSER Kein Absatz wo, kein Koloratur, von Melodei auch nicht eine Spur! ORTEL, dann FOLTZ Wer nennt das Gesang? MOSER Es ward einem bang ! NACHTIGALL Ja, s ward einem bang! VOGELGESANG Eitel Ohrgeschinder! ZORN Auch gar nichts dahinter! KOTHNER Und gar vom Singstuhl ist er gesprungen! BECKMESSER Wird erst auf die Fehlerprobe gedrungen? Oder gleich erklärt, dass er versungen? SACHS der vom Beginne an Walther mit wachsendem Ernst zugehört hat, schreitet vor Halt Meister! Nicht so geeilt! Nicht jeder Eure Meinung teilt. Des Ritters Lied und Weise, sie fand ich neu, doch nicht verwirrt; verliess er unsre Gleise, schritt er doch fest und unbeirrt. Wollt Ihr nach Regeln messen, was nicht nach Eurer Regeln Lauf, der eig nen Spur vergessen, sucht davon erst die Regeln auf! BECKMESSER Aha, schon recht! Nun hört Ihr s doch den Stümpern öffnet Sachs ein Loch, da aus und ein nach Belieben ihr Wesen leicht sie trieben. Singet dem Volk auf Markt und Gassen; hier wird nach den Regeln nur eingelassen! SACHS Herr Merker, was doch solch ein Eifer? Was doch so wenig Ruh ? Eu r Urteil, dünkt mich, wäre reifer, hörtet Ihr besser zu. Darum, so komm ich jetzt zum Schluss, dass den Junker man zu End hören muss. BECKMESSER Der Meister Zunft, die ganze Schul , gegen den Sachs da sind wir Null. SACHS Verhüt es Gott, was ich begehr , dass das nicht nach den Gesetzen wär ! Doch da nun steht geschrieben »Der Merker werde so bestellt, dass weder Hass noch Lieben das Urteil trübe, das er fällt« - Geht der nun gar auf Freiersfüssen, wie sollt er da die Lust nicht büssen, den Nebenbuhler auf dem Stuhl zu schmähen vor der ganzen Schul ? Walther flammt auf. NACHTIGALL Ihr geht zu weit! KOTHNER Persönlichkeit! POGNER Vermeidet, Meister, Zwist und Streit! BECKMESSER Ei, was kümmert doch Meister Sachsen, auf was für Füssen ich geh? Liess er doch lieber Sorge sich wachsen, dass mir nichts drück die Zeh ! Doch seit mein Schuster ein grosser Poet, gar übel es um mein Schuhwerk steht. Da seht, wie s schlappt und überall klappt! All seine Vers und Reim liess ich ihm gern daheim, Historien, Spiel und Schwänke dazu, brächt er mir morgen die neuen Schuh ! SACHS kratzt sich hinter den Ohren Ihr mahnt mich da gar recht doch schickt sich s, Meister, sprecht, dass, find ich selbst dem Eseltreiber ein Sprüchlein auf die Sohl , dem hochgelahrten Herrn Stadtschreiber ich nichts drauf schreiben soll? Das Sprüchlein, das Eu r würdig sei, mit all meiner armen Poeterei fand ich noch nicht zur Stund ; doch wird s wohl jetzt mir kund, wenn ich des Ritters Lied gehört drum sing er nun weiter ungestört! Walther steigt in grosser Aufregung auf den Singstuhl und blickt stehend herab BECKMESSER Nicht weiter! Zum Schluss! ORTEL, MOSER, VOGELGESANG, NACHTIGALL nacheinander Genug! ZORN, EISSLINGER Zum Schluss! KOTHNER Genug! Zum Schluss. SACHS zu Walther Singt dem Herrn Merker zum Verdruss! BECKMESSER Was sollte man da noch hören? Wär s nicht Euch zu betören? Er holt aus dem Gemerk die Tafel herbei und hält sie während des Folgenden, von einem zum andern sich wendend, zur Prüfung den Meistern vor WALTHER Aus finst rer Dornenhecken die Eule rauscht hervor, tät rings mit Kreischen wecken der Raben heis ren Chor BECKMESSER Jeden Fehler gross und klein seht genau auf der Tafel ein. DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Jawohl, so ist s! WALTHER in nächt gem Heer zu Hauf wie krächzen all da auf mit ihren Stimmen, den hohlen, die Elstern, Kräh n und Dohlen! BECKMESSER »Falsch Gebänd«, »unredbare Worte«, »Klebsilben«, hier »Laster« gar; DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Ich seh es recht! Mit dem Herrn Ritter steht es schlecht. Mag Sachs von ihm halten, was er will, hier in der Singschul schweig er still! SACHS beobachtet Walther entzückt Ha, welch ein Mut! Begeisterungsglut! - WALTHER Auf da steigt mit gold nem Flügelpaar ein Vogel wunderbar sein strahlend hell Gefieder licht in den Lüften blinkt; BECKMESSER »Äquivoca«, »Reim am falschen Orte«, »verkehrt«, »verstellt« der ganze Bar; ein »Flickgesang« hier zwischen den Stollen; POGNER Jawohl, ich seh s, was mir nicht recht mit meinem Junker steht es schlecht! DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Bleibt einem jeden doch unbenommen, wen er sich zum Genossen begehrt! SACHS Ihr Meister, schweigt doch und hört! WALTHER schwebt selig hin und wider, zu Flug und Flucht mir winkt. Es schwillt das Herz vor süssem Schmerz, POGNER Weich ich hier der Übermacht, mir ahnet, dass mir s Sorge macht. DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Wär uns der erste best willkommen, was blieben die Meister dann wert? SACHS inständig Hört, wenn Sachs Euch beschwört! BECKMESSER »blinde Meinung« allüberall; SACHS Herr Merker da, gönnt doch nur Ruh ! BECKMESSER »unklare Wort «, »Differenz«, hier »Schrollen«, da »falscher Atem«, hier »Überfall«. WALTHER der Not entwachsen Flügel; es schwingt sich auf zum kühnen Lauf, aus der Städte Gruft zum Flug durch die Luft, dahin zum heimischen Hügel; SACHS Lasst and re hören, gebt das nur zu! Umsonst! All eitel Trachten! Kaum vernimmt man sein eig nes Wort! BECKMESSER Ganz unverständliche Melodei! Aus allen Tönen ein Mischgebräu! SACHS Des Junkers will keiner achten. Das nenn ich Mut, singt der noch fort! POGNER Wie gern säh ich ihn angenommen, WALTHER dahin zur grünen Vogelweid , wo Meister Walther einst mich freit ; da sing ich hell und hehr der liebsten Frauen Ehr ; DAVID und die LEHRBUBEN sind von der Bank aufgestanden und nähern sich dem Gemerk, um welches sie einen Ring schliessen und sich zum Reigen ordnen Glück auf zum Meistersingen, mögt Ihr Euch das Kränzlein erschwingen! Sie fassen sich an und tanzen im Ringe immer lustiger um das Gemerk BECKMESSER Scheutet Ihr nicht das Ungemach, Meister, zählt mir die Fehler nach! DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Hei wie sich der Ritter da quält! POGNER als Eidam wär er mir gar wert; SACHS Das Herz auf dem rechten Fleck ein wahrer Dichter-Reck ! WALTHER auf dann steigt, ob Meister-Kräh n ihm ungeneigt, das stolze Minnelied. - DAVID und die LEHRBUBEN Das Blumenkränzlein aus Seiden fein wird das dem Herrn Ritter beschieden sein? BECKMESSER Verloren hätt er schon mit dem acht doch so weit wie der hat s noch keiner gebracht! POGNER nenn ich den Sieger jetzt willkommen, wer weiss, ob ihn mein Kind erwählt? DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Der Sachs hat ihn sich erwählt! - lachend Hahaha! SACHS Mach ich, Hans Sachs, wohl Vers und Schuh , ist Ritter der und Poet dazu. DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner s ist ärgerlich gar! Drum macht ein End ! BECKMESSER Wohl über fünfzig, schlecht gezählt! Sagt, ob Ihr Euch den zum Meister wählt? POGNER Gesteh ich s, dass mich das quält, ob Eva den Meister wählt! DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Auf, Meister, stimmt und erhebt die Händ ! Die Meister erheben die Hände WALTHER Ade, Ihr Meister, hienied ! BECKMESSER Nun, Meister, kündet s an! DIE MEISTER ohne Sachs und Pogner Versungen und vertan! Er verlässt mit einer stolzen verächtlichen Gebärde den Stuhl und wendet sich rasch zum Fortgehen. Alles geht in Aufregung auseinander; lustiger Tumult der Lehrbuben, welche sich des Gemerks, des Singstuhls und der Meisterbänke bemächtigen, wodurch Gedränge und Durcheinander der nach dem Ausgange sich wendenden Meister entsteht. Sachs, der allein im Vordergrunde geblieben, blickt noch gedankenvoll nach dem leeren Singestuhl, als die Lehrbuben auch diesen erfassen. Während Sachs mit humoristisch-unmutiger Gebärde sich abwendet, fällt der Vorhang この日本語テキストは、 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス の下でライセンスされています。@wagnerianchan Wagner,Richard/Die Meistersinger von Nürnberg/ActⅡ-1
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登録日:2021/01/24 Sun 06 32 54 更新日:2024/05/21 Tue 13 56 09NEW! 所要時間:約 50 分で読めます ▽タグ一覧 RISE OF THE DUELIST アルバスの落胤 スプライト スプリガンズ セリオンズ デスピア トライブリゲード ドラグマ ドラゴン族 ビーステッド ボーイミーツガール レアコレ再録 主人公 俺とお前で融合召喚 所要時間30分以上の項目 教導の聖女エクレシア 氷水 烙印 烙印世界 相剣 融合モンスター 融合素材 超融合 遊戯王OCG 闇属性 その真っ白な心に、これからたくさんの思い出を。 未来を想い、少女は少年に名を贈る。 その名が示すは、闇に閉ざされし過去か、光輝く未来か。 閉ざされた大地を渡り歩く 少年と少女の物語-。 《アルバスの落胤(らくいん)》とは、遊戯王OCGに登場するモンスターカードである。 また、この項目ではアルバスの落胤を融合素材として要求する融合モンスター(以下、融合体)と、アルバスの落胤に関する効果を持つモンスターについても解説する。 テキスト 概要 効果について 対応カード融合体 烙印魔法・罠 「アルバスの落胤」モンスター 関連カード 相性のいいカード融合モンスター その他のカード 余談 テキスト 効果モンスター 星4/闇属性/ドラゴン族/攻1800/守 0 このカード名の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードが召喚・特殊召喚に成功した場合、手札を1枚捨てて発動できる。 融合モンスターカードによって決められた、このカードを含む融合素材モンスターを自分・相手フィールドから墓地へ送り、 その融合モンスター1体をEXデッキから融合召喚する。 この効果で融合召喚する場合、このカード以外の自分フィールドのモンスターを融合素材にできない。 概要 11期第1弾のブースターパック「RISE OF THE DUELIST」でドラグマと共に登場した。 このときは『ドラグマカテゴリには直接属してはいないが、関連するカードが互いにサポートし合っている』という特殊な関係にあった。 その後のパックでもトライブリゲード、スプリガンズといったドラグマと同じ背景ストーリーに登場するカテゴリのカードイラストにこのモンスターが登場していたり、そのカテゴリに関連する効果を持つ融合体やアルバスの落胤やその融合体を指定するカードを持つカテゴリが存在したりするなど、11期の1つの軸となっているカードであり、教導の聖女エクレシアと並ぶ11期のストーリーの主人公と言える存在である。 闇属性・ドラゴン族ではあるが、アルバス自身の見た目にはあまりドラゴン要素は見られない。見た目と種族が一致しない事態は遊戯王において今に始まった話ではないが。 しかし、設定では竜の姿になる「竜化」の力を持っており、融合召喚効果=竜化と考えればこの種族も納得できる…かもしれない。 公式Twitterにおいて設定画が公開されており、それによると身長と年齢はエクレシアと同じくらい(約160cm、15歳くらい)のようだ。 なお、「アルバスの落胤」という字面をそのまま受け取ると、「アルバス」というのは彼の名前ではないはずである。 「落胤」=「(おもに身分の高い男性の)私生児」という意味なので、この場合彼は「アルバスという男の息子」ということになる。ファンタジーな世界観なので、父親にあたる「アルバス」が人間であるとは限らないが……。 実際、ザ・ヴァリュアブル・ブックEX.のストーリー解説では一貫して『少年』としか呼ばれていない。 とはいえ名前が無いのも面倒なため、当初からプレイヤーには便宜上「アルバス」と呼ばれていた。 その後、ストラクチャーデッキ-ALBA STRIKE-付属の運命の追憶パックにて《黒衣のアルバス》という彼が描かれたトークンが登場した。 同パックに収録された《追放者エクレシア》のフレーバーテキストからして彼女から「アルバス」の名を贈られた模様。 11期のストーリーの中で彼の父親(に相当する存在)がフィーチャーされるわけでもなかったため、 今となってはあまり深く考えずつけたカード名と考えるのが妥当なところだろうか。 効果について 効果はCIP効果として手札1枚をコストに俺とお前を超融合するもの。 ただし、超融合とは違って自身以外の自分モンスターを融合素材にすることができず、魔法・罠・モンスター効果によるチェーン妨害を防ぐ効果はない。 後述する融合体が指定しているアルバス自身以外の融合素材は比較的条件が緩いので、除去ついでに強力な融合モンスターを出すことができる。 さらに闇ドラゴン特有の豊富なサポートも受けられる。 相手ターン中にこのカードを特殊召喚する手段を用意しておけば、相手の展開を妨害する手段としても利用可能。 しかし、アルバス自身への除去や相手のサクリファイスエスケープなどが致命的になる性質のため妨害を受けやすく、しかも受けた時のディスアドが大きいため、妨害の可能性がある時には軽率に使いにくいのが難点。 そのため、この効果がこのカードの要かというとそういうわけでもない。 対応カード 融合体 アルバスの落胤を融合素材として指定している融合モンスターは一部例外を除きレベル8の闇属性、攻撃力2500、守備力2000で統一されており、ほとんどがどこからでも墓地に送られたターンのエンドフェイズに関連するカテゴリのモンスターかアルバス自身をサーチまたはリクルートする効果を持つ。 これによって普通に融合召喚する以外にも、EXデッキから直接墓地に送ることでそのカテゴリの展開手段として活用するという使い方も可能。 灰燼竜(かいじんりゅう)バスタード 融合・効果モンスター 星8/闇属性/ドラゴン族/攻2500/守2000 「アルバスの落胤」+攻撃力2500以上のモンスター このカード名の(3)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードの攻撃力は、このカードの融合素材としたモンスターの元々のレベルの合計×100アップする。 (2):このカードが融合召喚に成功したターン、このカードはEXデッキから特殊召喚された他のモンスターが発動した効果を受けない。 (3):このカードが墓地へ送られたターンのエンドフェイズに発動できる。 デッキから「ドラグマ」モンスターまたは「アルバスの落胤」1体を選び、手札に加えるか特殊召喚する。 アルバスの融合体その1。 対応テーマは深淵大陸を支配する宗教国家「ドラグマ」。 もう一つの素材は攻撃力2500以上のモンスターで、相手の切り札級のモンスターは大抵当てはまるためアルバスの効果で簡単に融合召喚できる。 素材にしたモンスターのレベルの合計に対応したパンプアップ効果と出たターン限定のEXモンスターの効果耐性を持つ。 アルバスがレベル4なので、素材にした相手モンスターがエクシーズやリンクだったとしても攻撃力2900は確保できる。 EXモンスターの効果を受けないので、相手ターンに出せればその攻撃力もあって強固な壁として機能してくれるだろう。 ただ、出たターンにしか適用されないのには注意。 墓地に送られてもドラグマかアルバスのサーチorリクルートができ、エクレシアのサーチやフルルドリスの効果無効、アルバスによる融合など様々な状況に対応できる。 「バスタード(bastard)」には「雑種・嫌な奴・偽物」と言う意味もあるが、素材となっているアルバスの「落胤(身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子)」と言う名前からすると「非嫡出子、庶子、私生児」の方の意味であると思われる。 ストーリーではドラグマとトライブリゲードの戦闘中に「ホール」から突如現れる形で登場した。記念すべき最初の融合体だが出オチとも言う速さでフルルドリスに討伐され、墜落。 そして竜の落下地点に赴いたエクレシアは、傷つき膝をついた黒衣の少年と邂逅する。 痕喰竜(こんじきりゅう)ブリガンド 融合・効果モンスター 星8/闇属性/獣族/攻2500/守2000 「アルバスの落胤」+レベル8以上のモンスター このカード名の(3)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードは戦闘では破壊されない。 (2):融合召喚したこのカードがモンスターゾーンに存在する限り、相手は自分フィールドの他のモンスターをモンスターの効果の対象にできない。 (3):このカードが墓地へ送られたターンのエンドフェイズに発動できる。 デッキから「トライブリゲード」モンスターまたは「アルバスの落胤」1体を選び、手札にえるか特殊召喚する。 アルバスの融合体その2。 対応テーマはドラグマの支配に抗う獣人達のレジスタンス組織「鉄獣戦線(トライブリゲード)」。 融合素材はレベル8以上のモンスター。エクシーズ、リンク召喚を扱うデッキには入っていないことも多いので、相手モンスターを素材にして出す難度は他の融合体よりも高い。 戦闘破壊耐性の他、自分のモンスターを相手の効果から守ることができるのでそれなりの壁として機能する。 真っ先に除去されてしまいはするが、こちらも墓地効果があるのである程度のリカバリーは可能。 ただ、トライブリゲードモンスターはメインデッキに入るのが5種類しかないため、バスタードより自由度が低いのがネック。 前足に器用に乗せている聖痕を失ったエクレシアとブリガンドの額の痕の意味するものとは… 「ブリガンド(brigand)」には「山賊、略奪者」と言う意味があり、エクレシアの聖痕を奪ってアルバスが身に付けたと言う事だろうか。 のちに登場した深淵の『獣』(ビーステッド)の存在から、獣族なのは元々は彼らの陣営にいたであろうアルバスが、烙印の力を得て本来の姿に戻りつつあったからではという説が一部の決闘者の間で囁かれている 鉄駆竜(てっくりゅう)スプリンド 融合・効果モンスター 星8/闇属性/機械族/攻2500/守2000 「アルバスの落胤」+このターンに特殊召喚された効果モンスター このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):自分メインフェイズに発動できる。 自分フィールドのこのカードの位置を、他の自分のメインモンスターゾーンへ移動する。 その後、移動したこのカードと同じ縦列の他の表側表示のカードを全て破壊できる。 (2):このカードが墓地へ送られたターンのエンドフェイズに発動できる。 デッキから「スプリガンズ」モンスターまたは「アルバスの落胤」1体を選び、手札に加えるか特殊召喚する。 アルバスの融合体その3。 対応テーマは機械の体を操るススの精霊達によるアウトロー軍団「スプリガンズ」。 融合素材はそのターン中に特殊召喚されたモンスターでなければならない。 アルバスの効果で融合するには基本的に相手ターンにアルバスを出す必要がある。 使うのであれば相手ターンにアルバスを出せるようなカードと併用したいところ。 アルバスの融合体では現状唯一のノーコスト起動効果持ち。 ジャックナイツ等の存在もあり相手が同じ縦列に2枚以上表向きのカードを配置することは少ないため2枚以上の破壊は難しいが、ゾーン封鎖系カードを活用すればいけるかもしれない。 墓地効果に対応しているスプリガンズはデッキからのサーチ・リクルート効果に乏しいので、展開の手段としての役割は十分に果たせる。 融合体ではあるがアルバスが変化した姿ではなく。竜型の戦闘機をアルバスとエクレシアが操縦しているイラストとなっている。文字通りの乗っただけ融合。 『鉄駆』というのも機械を意味する『テック』のもじりだろう。 イラストについては当初はスプリガンズの下から逃げ出しているシーンだと思われていたが、ザ・ヴァリュアブル・ブックEXによれば、スプリガンズの母艦エクスブロウラーに不審者として囚われるもシュライグが託したメカモズの存在に気付いたキットの手助けで解放されたアルバスとエクレシアが、入団テストと称した危険でスリリングなミッションに挑んでいるワンシーンである模様。 この後無事にクリアし沢山のお宝を入手した二人はスプリガンズの一員として認められたのだった。このあたりは「スプリガンズ・ブラスト!」「スプリガンズ・ブーティー」のカードイラストでより詳しい一幕が見られる。 烙印竜(らくいんりゅう)アルビオン 融合・効果モンスター 星8/闇属性/ドラゴン族/攻2500/守2000 「アルバスの落胤」+光属性モンスター このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードが融合召喚に成功した場合に発動できる。 自分の手札・フィールド・墓地から、「烙印竜アルビオン」を除くレベル8以下の融合モンスターカードによって決められた融合素材モンスターを除外し、その融合モンスター1体をEXデッキから融合召喚する。 (2):このカードが墓地へ送られたターンのエンドフェイズに発動できる。 デッキから「烙印」魔法・罠カード1枚を選んで手札に加えるか自分フィールドにセットする アルバスの融合体その4。 融合素材は光属性モンスターとかなり緩い。たとえ相手が光属性モンスター中心のデッキでなくてもEXデッキに光属性が入っている可能性はあるので、相手モンスターを素材にする場合はそこが狙い目になるか。 融合召喚成功時の効果でさらにレベル8以下のモンスターの融合召喚が行える。 墓地のアルバスを素材として他の融合体を融合召喚してもいいし、他カテゴリの融合素材がそろっていればそれを出してもいい。 墓地に送られた時の効果は後述する「烙印」魔法・罠をセットまたはサーチするもの。 セットした場合は次ターン以降に普通に使うことができ、サーチした場合でもアルバスの効果のコストにすることでもう一つの効果に繋げることができる。 ザ・ヴァリュアブル・ブックEXによると、突如出現した覇蛇大公ゴルゴンダが放つ強大なエネルギーに当てられたアルバスが「竜化」し、暴走した姿のようだ。 「アルビオン(Albion)」とは「白亜の国、白い国」を意味するイギリスの古い地名で、ラテン語で「白」を意味する「アルバス」が由来。 巨いなる揺籠の上で 深淵の落とし仔は対峙する 赫焉の力は白き闇を喰らい 神の炎ならしめん 神炎竜(しんえんりゅう)ルベリオン 融合・効果モンスター 星8/光属性/ドラゴン族/攻2500/守3000 闇属性モンスター+「アルバスの落胤」 このカード名の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードが融合召喚に成功した場合、手札を1枚捨てて発動できる。 自分のフィールド・墓地のモンスター及び除外されている自分のモンスターの中から、 「神炎竜ルベリオン」を除くレベル8以下の融合モンスターカードによって決められた融合素材モンスターを持ち主のデッキに戻し、その融合モンスター1体をEXデッキから融合召喚する。 このターン、このカードは攻撃できず、自分は融合モンスターしかEXデッキから特殊召喚できない。 アルバスの融合体その5。 「アルバスの落胤を融合素材に指定している」という意味では確かに融合体なのだが、アルバス本人かと言われると疑問符が浮かぶ。詳しくは後述。 素材となる闇属性モンスターは遊戯王では最もメジャーな属性であり、相手が闇属性を使わないデッキであっても白の烙印や烙印融合などで自分のモンスターを素材に出すのも容易い。 烙印竜アルビオンと同じく融合召喚時にさらにレベル8以下の融合召喚ができるが、こちらは手札コストが必要な代わりに場・墓地・除外ゾーンの素材をデッキに戻すことで融合できるため、白の烙印や烙印竜の効果などで除外されたモンスターを戻して再利用できるようにしつつ融合召喚ができる。 その代わりにそのターン中自身が攻撃できなくなり、融合モンスターしかEXデッキから出せなくなるため、自分ターンで出した後は別のモンスターの融合素材にするのが望ましい。 アルバスの落胤を融合素材としているが、他の融合体と違いアルバスの名前は後の方に記載されている。 まるでその前の「闇属性モンスター」がこのモンスターの主体であるかのような書かれ方や、名前が「アルベル」+「アルビオン」と読めること、そして後述する《失烙印》、《烙印融合》のイラストから、アルベルがアルビオンの力を取り込むことによって変化した存在ではないかと推測されており、実際にザ・ヴァリュアブル・ブックEX2においてアルベルがアルバスの「竜化」の力を奪い変貌した姿であることが明かされた。 焼かれし身は煤のごとく なれど心は氷炎を纏い その力は残火のごとく されど想いを剣に宿す 氷剣竜(ひけんりゅう)ミラジェイド 融合・効果モンスター 星8/闇属性/幻竜族/攻3000/守2500 「アルバスの落胤」+融合・S・X・リンクモンスター (1):「氷剣竜ミラジェイド」は自分フィールドに1体しか表側表示で存在できない。 (2):自分・相手ターンに1度、「アルバスの落胤」を融合素材とする融合モンスター1体をEXデッキから墓地へ送って発動できる。 フィールドのモンスター1体を選んで除外する。 次のターン、このカードはこの効果を使用できない。 (3):融合召喚したこのカードが相手によってフィールドから離れた場合に発動できる。 このターンのエンドフェイズに相手フィールドのモンスターを全て破壊する。 アルバスの融合体その6。 他の融合体と違い攻守が500ずつ上がっている。融合素材はEXモンスターであればステータス・属性を問わないため非常に範囲が広い。 そのため、アルバスの効果で相手の切り札級のモンスターを素材として除去しやすくなった。 フリーチェーンでEXデッキからアルバスの融合体をコストに対象をとらない除外ができる。 高品質の除去なうえ、コストにした融合体の効果により二重にアドが取れるというインチキ効果である。 発動した次のターンは使用できず、同名ターン1制限こそないが同名モンスターが1体しか存在できないため、何らかの方法でミラジェイドを退かした後に2体目のミラジェイドを出さない限り(*1)は自分ターンか相手ターンのどちらかに1度しか使えないことになる。 そのため、効果の使いどころには要注意。 また、特定のカテゴリをサーチ・リクルートする効果の代わりに、相手によって除去されたエンドフェイズに相手モンスターを全破壊する豪快な効果も持つ。 この効果、相手によって除去されたら何でもいいので戦闘・効果による破壊や除外はもちろんの事、壊獣のリリースや《閉ザサレシ世界ノ冥神》のリンク素材にしても発動する。 そのターンのエンドフェイズに発動する効果ではないというのも重要で、破壊する時にチェーンブロックを作らない。つまり発動しない効果による除去が可能となり、発動を無効にするカードを後から出しても意味がなく、発動した効果を受けない耐性も無視できる(*2)。 ただし、バウンスや《No.101 S・H・Ark Knight》などによるX素材化には無力なので注意。 この効果により、相手はこのモンスターを除去するためにはその後エンドフェイズに壊滅する自分の場のことも考えなければならず、間接的な除去耐性として機能する。 マスターデュエルでは(2)の効果をエンドフェイズに使用した場合、チェーンブロックを作らない効果として処理されるという不具合が発生していた。要するに強力な除去をチェーンを許さずに放てるという正真正銘のぶっ壊れと化していたが、幸いすぐに修正された。 ザ・ヴァリュアブル・ブックEX2によると「竜化」の力を失ってなお諦めないアルバスの思いに応えた《氷水帝コスモクロア》と《相剣大公―承影》が与えた力によって実現した姿。承影とはポーズも一致している。 深淵竜(しんえんりゅう)アルバ・レナトゥス 融合・効果モンスター 星8/闇属性/ドラゴン族/攻2500/守2500 「アルバスの落胤」+ドラゴン族モンスター1体以上 このカードは融合素材にできない。 このカードは融合召喚及び以下の方法でのみ特殊召喚できる。 ●自分・相手のモンスターゾーンの上記カードを墓地へ送った場合にEXデッキから特殊召喚できる。 (1):このカードは1度のバトルフェイズ中に、このカードの融合素材としたモンスターの数までモンスターに攻撃できる。 (2):このカードが墓地へ送られたターンのエンドフェイズに発動できる。 デッキから「融合」通常魔法カードまたは「フュージョン」通常魔法カード1枚を手札に加える。 アルバスの融合体その7。 融合素材はドラゴン族モンスター。さらに他と違い2体以上と融合できる。 さらに通常の融合召喚以外に、フォートレスと同様自分・相手モンスターをフィールドから素材として融合召喚することが可能。 そのため、対峙するドラゴン族中心デッキはアルバスの効果ですべて除去されてしまうばかりか、効果を使うまでもなく融合素材として全て除去されてしまうリスクを背負うこととなった。 また相手のモンスターを素材にする以外にも、烙印融合で任意のドラゴン族を落とすのに使う、竜の鏡や白の烙印で墓地融合。未来融合で(うまくいけば)デッキのドラゴン族を大量に落とすのに使うなど、様々な活用法が期待できる。 固有の効果は素材数に対応したモンスターに対する連続攻撃。召喚方法はフォートレスなのに効果はオーバーの方。 素材がいくつあろうが攻撃力は2500でしかない。言い換えれば素材が少なくても2500は保証されている、効果が無効になっても攻撃力が0にならないというのがオーバー・フォートレスと異なる点。 墓地融合や未来融合を使う、相手のモンスターを複数素材として巻き込むなどすればグォレンダァも可能。 ただし相手のモンスターを巻き込んで出した場合その分相手モンスターが減っているということで、連続攻撃が腐ってしまうという欠点がある。 また、墓地効果で融合・フュージョン通常魔法をサーチできる。 通常魔法しかサーチできない点で捕食植物キメラフレシアに劣るが、アルバス融合体なのでミラジェイドなどで墓地に送れる。 他、あちらとはサーチのタイミングが微妙に違うことが影響する場合もたまにある。 イラストは色が黒くなった神炎竜ルベリオンそのもの。 烙印融合、烙印喪失のイラストからアルバスとアルベルが融合し生まれたものと思われるが… 撃鉄竜(げきてつりゅう)リンドブルム 融合・効果モンスター 星8/闇属性/鳥獣族/攻2500/守2000 「アルバスの落胤」+獣族・獣戦士族・鳥獣族モンスター このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):融合・S・X・リンクモンスターの効果が発動した時に発動できる。 その効果を無効にする。 その後、フィールドのモンスター1体を選んで持ち主の手札に戻す事ができる。 (2):相手ターンに、このカードが墓地に存在する場合、自分の墓地の「アルバスの落胤」1体を対象として発動できる。 そのモンスターとこのカードの内、1体を特殊召喚し、もう1体を除外する。 アルバスの融合体その8。 融合素材はビースト系モンスター。実は初となる壊獣を使って出すことのできない融合体でもある。 相手のモンスターを素材にして出せるかはこれまでの融合体以上に相手のデッキ内容に依存するため、自分のモンスターを素材にして出す場合が多くなる。 アルバスサポートの中では後述するメルクーリエとキットが素材にできるので、これらを使うことが多いだろう。 アルバスの融合体では初のカウンター効果持ち。EXモンスターの効果の発動を無効にした後でモンスター1体を対象を取らずバウンスできる。 効果を無効にしたモンスターを戻す必要がないのもそうだが、無効化もバウンスも相手のモンスターに限定されていないため、自分のミラジェイドの効果にチェーンして無効化し、コストにした融合体の効果を使いつつ次のターンもミラジェイドの効果を使えるようにする、相手の効果を無効にしつつ自分のモンスターを戻して使いまわすといったテクニカルな動きもできる。 墓地効果で墓地の自身かアルバスのうち、どちらか一方を犠牲にもう一方を特殊召喚できる。 自身を特殊召喚する場合はカウンター効果が、アルバスを特殊召喚する場合は融合効果が使えるためどちらを出すにせよ相手への牽制として機能する。 他の融合体同様、この効果でアルバスを出す目的でEXデッキから直接落とすという使い方もできる。 イラストはキットが駆る黒い竜型マシンと、その前足に器用に乗る灰燼のアルバスというもの。 トライブリゲードとスプリガンズ両方に関わりのあるキットの協力を得ていることもあるのか、ブリガンドとスプリンドの要素を組み合わせたような構図となっている。 「リンドブルム(Lindwurm)」とはゲルマン系の伝承に登場するワイバーンの様な竜を表す。 また、スプ「リンド」+ベア「ブルム」とアルバスとキットがそれぞれ乗っていたマシンの名前を組み合わせた物となっており、恐らくは2機のパーツを利用して完成させたと思われる。 たとえ灰におちようとも たとえ塵にかえろうとも 二人の心に灯された篝火が いつか真の炎にならんことを 真炎竜(しんえんりゅう)アルビオン 融合・効果モンスター 星8/光属性/ドラゴン族/攻3000/守2500 「アルバスの落胤」+魔法使い族・光属性モンスター このカードは融合素材にできない。 このカード名の(2)(3)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードは相手の効果の対象にならない。 (2):相手ターンに、自分・相手の墓地のモンスターを合計2体対象として発動できる。 そのモンスターをお互いのフィールドに1体ずつ特殊召喚する。 (3):このカードが墓地に存在する場合に発動できる。 EXモンスターゾーン及びお互いの中央のメインモンスターゾーンに存在するモンスター4体をリリースし、このカードを特殊召喚する。 アルバスの融合体その9。 融合素材は光属性・魔法使い族モンスター。これまでと比べると指定が若干厳しくなっているのでこれまでがゆるゆるすぎただけだが、アルバスの効果で出すのは難しい。 アルバスサポートとしてはドラグマモンスターやエクレシアシリーズはだいたい素材に出来るので、自分のカードで出すぶんには簡単である。 お互いの墓地から合計2体のモンスターを選び、お互いのフィールドに1体ずつ蘇生するという一風変わった効果を持つ。 蘇生するモンスターに縛りはなく、更に自分の墓地だけまたは相手の墓地だけを対象とすることも可能であり、活用する手段は非常に多彩。 例えば素材にした自分のアルバスと相手の使用済みのリンクモンスターを蘇生してミラジェイドになったり、烙印融合で墓地に送ったジョウゲンを相手に押し付けてロックをかけるというコンボも可能。 ついでに対象耐性もあるので、相手の妨害も受けにくい。 (3)の効果はこれまた独特な自己蘇生効果。 一見すると分かりづらいが、お互いの真ん中のモンスターゾーンとEXモンスターゾーンのカードで菱形──もといホールの形を描くようにモンスターをリリースすることで蘇生が可能という訳である。 もっとも、このカードがいる時点で相手は不用意に真ん中にモンスターを出さなくなるので、そのままでは使いづらい。壊獣を活用するか、(2)の効果で真ん中にモンスターを押し付けるといった工夫が必要。 EXモンスターゾーンに至っては(こいつを使うようなデッキがエクストラリンクなど出来るはずないので)完全に相手依存である。基本的には発動出来たらラッキー程度に思った方がいいだろう。 ちなみに融合素材に出来ない制約があるので、赫の烙印などとのコンボは不可能である。 その素材指定や白や金を基調としたイラストから見て分かる通り、遂に登場したアルバスとエクレシアの融合体と見て間違いないだろう。 全身にはドラグマ時代のエクレシアの鎧のような意匠がみられ、更にミラジェイドの破片と思しき角やテオ・アディンの武器のような刃状の突起があり、これまでの旅路を思わせるデザインとなっている。 融合素材に出来ない制約もアルベルにも奪われないほどの強い2人の絆を表しているとも考えられる。 発表された時はこれまで2人の旅路を追いかけてきた決闘者がこぞって限界化し、「エクレシア」「アルエク」といったワードが半日ほどトレンド入りしていた。 烙印魔法・罠 アルバスの落胤とその融合体をサポートする魔法・罠カード。それが「烙印」である。 その詳細はこちらにて。 「アルバスの落胤」モンスター 主に『「アルバスの落胤」として扱う』という効果を持つモンスター。 設定上はアルバス本人の別の姿がこれに当たる。 黒衣竜(くろごりゅう)アルビオン 効果モンスター 星8/闇属性/ドラゴン族/攻2500/守2000 このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードのカード名は、フィールド・墓地に存在する限り「アルバスの落胤」として扱う。 (2):このカードが手札・墓地に存在する場合、 「アルバスの落胤」1体または「烙印」魔法・罠カード1枚を手札・デッキから墓地へ送って発動できる。 そのカードをどこから墓地へ送ったかによって以下の効果を適用する。 ●手札:このカードを特殊召喚する。 ●デッキ:このカードをデッキの一番下に戻す。 手札から戻した場合、さらに自分はデッキから1枚ドローする。 ゴルゴンダに共鳴し烙印竜アルビオンとして暴走するしていたアルバスが、エクレシアとの絆により「竜化」した己を制御できるようになった姿。 ただ、人の姿に戻れなくなったらしく、以降はこの姿のままで行動している。 場・墓地でアルバスとして扱われるため、アルバスの代わりとしてフィールドからの融合素材や白の烙印による墓地融合の素材に使える。 そして一番の特徴は手札・デッキのアルバスか「烙印」魔法・罠をコストとする効果。 どこからコストを支払ったかによって効果が変わるという今までになかった効果を持つ。 手札からコストにした場合は自身の特殊召喚。 この手の効果にありがちな除外デメリットも特殊召喚後の制約もない上、自身が闇属性・ドラゴン族・レベル8と色々と恵まれているので融合素材のみならずエクシーズ・リンク召喚の素材として使いまわすのを目的に採用してもいい。 デッキからコストにした場合は自身をデッキボトムに戻し、手札からこの効果を発動した場合に更に1ドロー。 手札で発動した場合はシンプルに手札交換+墓地肥やし、墓地から使った場合は墓地交換となる。 さらにこの効果を墓地から発動した場合、墓地の「アルバスの落胤」のコストとして手札orデッキから烙印魔法・罠が墓地に送られたことになるのでその烙印カードのセット効果の条件を満たせる。 そのため、デッキからコストにする方の効果は烙印魔法・罠をデッキから間接的にセットする効果として使うことになる。 「黒衣」とは所謂「黒子」として知られている、劇の手助けをする黒装束の係。 劇をモチーフにしたデスピアとの関連性が疑われるが…?「落胤」=「認知されない私生児」とかけて「どちらも居ないものとして扱う」と言うブラック(黒衣だけに)ジョークも 灰燼(かいじん)のアルバス 効果モンスター 星4/闇属性/ドラゴン族/攻1800/守 0 このカード名の(3)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードのカード名は、フィールド・墓地に存在する限り「アルバスの落胤」として扱う。 (2):自分の墓地にレベル8の融合モンスターが存在する限り、このカードの攻撃力は自分の墓地のモンスターの数×200アップし、このカード以外の自分フィールドのモンスターは相手の効果の対象にならない。 (3):このカードと融合モンスターが自分の墓地に存在する状態で、自分フィールドのモンスターが相手の効果でフィールドから離れた場合に発動できる。 このカードを特殊召喚する。 黒衣竜アルビオン同様、場・墓地でアルバスとして扱われるモンスター。 各種サポートカードの恩恵を受けられるのもアルビオンと同じだが、他の効果は墓地に融合モンスターがいることを条件とする自己再生と自己強化、そして他のモンスターに対象耐性付与と毛色が大きく異なる。 自己再生のトリガーは相手依存で自己強化の上昇値もそこまで高くはないが、除外デメリットがなく条件さえ満たせば毎ターン蘇るため相手にとっては厄介に思われるかもしれない。 《分かつ烙印》でアルバ・レナトゥスから分離したアルバスの落胤。 竜化の力を完全にアルバ・レナトゥスに持っていかれたのか、額の宝珠が無くなるなど見た目が若干変わっており、満身創痍の様子。 それでもなお、ミラジェイドまたは《氷水艇エーギロカシス》の欠片と思しき小さな氷柱を持つ彼の瞳には消えることない闘志が宿っていた。 深淵の獣(ザ・ビーステッド)アルベル チューナー・効果モンスター 星4/闇属性/ドラゴン族/攻1800/守 0 このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードのカード名は、フィールド・墓地に存在する限り「アルバスの落胤」として扱う。 (2):このカードが召喚・特殊召喚に成功した場合、手札を1枚捨て、相手のフィールド・墓地のドラゴン族モンスター1体を対象とし、以下の効果から1つを選択して発動できる。 ●このカードを墓地へ送り、対象のフィールドのモンスターのコントロールをエンドフェイズまで得る。 ●このカードを墓地へ送り、対象の墓地のモンスターを自分フィールドに特殊召喚する。 実に3体目となる場・墓地でアルバスとして扱われるモンスター。 ただ、名前を見てもわかる通りこのカードはアルバスではなくアルベル。ストーリー上でアルベルがアルバスの力を奪ったためこのような効果になっているのだろう。 cipとして手札1枚をコストに発動するというアルバスと同じ条件の効果を持つが、出来るのは相手モンスターを巻き込んだ融合召喚ではなく、自身を墓地に送っての相手の場・墓地のドラゴン族モンスターのコントロール奪取。 メジャーな種族とはいえ奪えるモンスターがいるかどうかは相手次第なので、基本は闇属性・ドラゴン族・レベル4チューナーとして運用し、ドラゴン族を奪うのは出来たらラッキー程度に考えておくのがいいだろう。 また上記2種と異なり「ビーステッド」にも属しているのだが、フィールド・墓地では「アルバスの落胤」になるため「ビーステッド」サポートを受けられない。『「アルバスの落胤」としても扱う』だったなら良かったのに、とはよく言われる。 イラストは無数の『ホール』をバックに玉座に腰掛けるアルベル。 …なのだが、これまでのイラストのそれに比べて幾分か大人っぽくなっているように見える。 黒衣のアルバス その名が示すは、闇に閉ざされし過去か、光輝く未来か。 ストラクチャーデッキで収録されたトークン兼カウンターとして使えるアルバス。 同デッキの《追放者エクレシア》とイラストが繋がっており、エクレシアから「アルバス」の名を贈られたことがあちらのフレーバーテキストで言及されている。 その真っ白な心に、これからたくさんの思い出を。 未来を想い、少女は少年に名を贈る。 関連カード アルバスに関連する効果を持つ効果モンスター達。 『テキストに「アルバスの落胤」のカード名が記されたモンスター』として一部烙印魔法・罠などによるサポートを受けることができる。(*3) 白の聖女エクレシア チューナー・効果モンスター 星4/光属性/魔法使い族/攻1500/守1500 このカード名の、(1)の方法による特殊召喚は1ターンに1度しかできず、(2)(3)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):相手フィールドのモンスターの数が自分フィールドのモンスターより多い場合、このカードは手札から特殊召喚できる。 (2):自分・相手のメインフェイズに、このカードをリリースして発動できる。 手札・デッキから「相剣」モンスターか「アルバスの落胤」1体を特殊召喚する。 (3):このターンに融合モンスターが自分の墓地へ送られている場合、エンドフェイズに発動できる。 墓地のこのカードを手札に加える。 相手の方がモンスターが多ければ良いと言う緩い特殊召喚条件を持ったデメリットなし光属性・魔法使い族・レベル4チューナーと言う汎用性の高さを誇るカード。 更に自身をリリースする事で相剣モンスターかアルバスをリクルート可能。 【相剣】における初動になるだけでなく、《妖眼の相剣士》を呼び出して相手を牽制したり、アルバスをリクルートすれば彼の効果で相手モンスターを除去しつつ融合体を呼び出せる。 また、このターン中に融合モンスターが墓地に送られていれば自己サルベージも可能。《烙印の気炎》は融合モンスターを墓地に送りつつこのカードをサーチ出来るので非常に相性が良い。 スプリガンズの下から旅立った頃の元・《教導の聖女エクレシア》。 《鉄獣戦線 キット》から貰ったお揃いのゴーグルと《鉄獣戦線 徒花のフェリジット》のお下がりのジャケットを身につけ、《スプリガンズ・ブーティー》で手に入れたモンスターの頭骨から作られたハンマー(スプリガンズ入り)を装備している。髪型は自力でセット出来ないためか編み込みもみあげは左側のみとなっている。 鉄獣鳥(トライブリゲード) メルクーリエ 効果モンスター 星4/闇属性/鳥獣族/攻 800/守 0 このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):自分フィールドに「アルバスの落胤」を融合素材とする融合モンスターが存在し、相手がモンスターの効果を発動した時、手札・フィールドのこのカードを墓地へ送って発動できる。 その効果を無効にする。 (2):このカードが除外された場合に発動できる。 「鉄獣鳥 メルクーリエ」を除く、「アルバスの落胤」1体またはそのカード名が記されたモンスター1体をデッキから手札に加える。 《鉄獣の誓い》で《鉄獣戦線 凶鳥のシュライグ》がアルバスに託したメカモズ。 アルバスの融合体が場にいる時にモンスター効果に対するカウンターができる。 わざわざ場に出す意義は薄いので、手札に抱えておいて相手を牽制するのがいいだろう。 何らかの効果でブリガンドをEXデッキから落とせば、エンドフェイズにこのカードをサーチできる。 除外されるとアルバスかその関連モンスターのサーチができる。 前半の効果で墓地に送ったのを融合素材として除外するのが一番手っ取り早いが、アルバスと一緒に素材にして出せる融合体はルベルオンしかないため、他の除外ギミックも採用しておきたい。 スプリガンズ・キット 効果モンスター 星4/闇属性/獣族/攻1700/守1000 このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):自分のフィールド・墓地に「アルバスの落胤」を融合素材とする融合モンスターが存在する場合に発動できる。 このカードを手札から特殊召喚する。 (2):このカードが召喚・特殊召喚に成功した場合に発動できる。 自分のデッキ・墓地のカード及び除外されている自分のカードの中から、「烙印」魔法・罠カード1枚を選んで手札に加える。 その後、手札を1枚選んでデッキの一番下に戻す。 《鉄獣戦線 塊劇のベアブルム》で乗っていた獣型マシンと《鉄駆竜スプリンド》の一部をパワードスーツに改造し纏った《鉄獣戦線 キット》。 場か墓地にアルバスの融合体がいると特殊召喚でき、さらにCIP効果で烙印魔法・罠のサーチorサルベージができる。 特殊召喚の条件はアルバスを中心としたデッキであれば簡単に満たせる。 烙印魔法・罠はデッキや墓地のものだけでなく除外されたものももってくることが可能だが、他に手札が1枚以上ないといけないことには注意。 「烙印」魔法・罠サーチと融合体の素材に使いやすい闇属性なのでデスピアとの相性が非常に良く、闇属性になった事も併せて「実はデスピアの回し者」なんてジョークもある。 軒轅(けんえん)の相剣師(そうけんし) チューナー・効果モンスター 星4/光属性/魔法使い族/攻1800/守1500 このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):モンスターの攻撃宣言時に発動できる。 このカードを手札から特殊召喚し、その攻撃を無効にする。 自分フィールドに「アルバスの落胤」を融合素材とする融合モンスターが存在する場合、さらにその攻撃宣言したモンスターを破壊できる。 (2):モンスターが表側表示で除外された場合、フィールド・墓地のこのカードを除外して発動できる。 攻撃力と守備力の数値が同じ魔法使い族・光属性モンスター1体を自分の手札・墓地から選んで特殊召喚する。 ドラグマ陣営を離れ相剣の一員となった元・《教導の鉄槌テオ》と《教導の天啓アディン》のコンビ。 攻撃宣言時に自身を特殊召喚してその攻撃を無効化できる。 似た効果でも直接攻撃しか止められない《バトルフェーダー》と比べてモンスターへの攻撃も止められ、さらに除外デメリットもない点で優れている。 さらに場にアルバスの融合体がいれば攻撃モンスターを破壊することができる。 レベル4の魔法使い族チューナーとステータスにも恵まれているため、次のターンまで生き残ってくれれば各種素材としても活用可能。 もう1つの効果はアルバスを中心をするデッキであれば白の聖女エクレシアを特殊召喚することになるだろう。 その他、《妖眼の相剣士》や《エフェクト・ヴェーラー》などの汎用的光魔法族も蘇生できる。 赫(あか)の聖女(せいじょ)カルテシア チューナー・効果モンスター 星4/光属性/魔法使い族/攻1500/守1500 このカード名の(1)(2)(3)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):自分のフィールドまたは墓地に「アルバスの落胤」が存在する場合に発動できる。 このカードを手札から特殊召喚する。 (2):お互いのメインフェイズに発動できる。 自分の手札・フィールドから、レベル8以上の融合モンスターカードによって決められた融合素材モンスターを墓地へ送り、その融合モンスター1体をEXデッキから融合召喚する。 (3):このターンに融合モンスターが自分の墓地へ送られている場合、エンドフェイズに発動できる。 墓地のこのカードを手札に加える。 白の聖女エクレシアと同様、レベル4・光属性・魔法使い族チューナーという汎用性に富んだステータスに、場か墓地にアルバスが存在するという比較的ゆるい特殊召喚条件を持つ。 さらにお互いのメインフェイズに融合召喚を行う効果を持ち、レベル以外の制限が存在しないためアルバスの融合体以外にも様々な融合モンスターを相手ターンに繰り出すことが可能となる。 さらに融合モンスターが墓地に送られたターンのエンドフェイズに自身をサルベージする効果もあり、何らかの形で条件を満たせば毎ターン特殊召喚から融合・シンクロ召喚につなげることができる。 …と、ここまで読んだ方はお気づきだろうが、その名前、ステータス、効果は白の聖女エクレシアとほとんど同じである。 このことから、この聖女は、烙印の命数を経た先の、闇堕ちしたエクレシアである可能性が非常に高い。 このカードの存在が発表された瞬間、TLはついに起こってしまったエクレシアの闇堕ちに脳が破壊された者、「エクレシアにしては胸が大きいから別人だ」と現実逃避する者、待ち望んだ展開に歓喜する闇堕ちスキーなどによって混迷を極めることとなった。 後述する融合体・グランギニョルの登場と共に公開された設定画では「ガワはほぼエクレシア?」と記載されており、また《烙印の光》のイラストからも『カルテシア≒エクレシア』が確定した形となったことで、別人説を推していた人は絶望することとなった。 ちなみにこの設定画やグランギニョルのイラストをよく見ると、服の下にあるはずの足がないことが分かる。 導(みちび)きの聖女(せいじょ)クエム チューナー・効果モンスター 星4/光属性/魔法使い族/攻1500/守1500 このカード名はルール上「ドラグマ」カード、「デスピア」カードとしても扱う。 このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードが召喚・特殊召喚に成功した場合に発動できる。 「アルバスの落胤」1体またはそのカード名が記されたカード1枚をデッキから墓地へ送る。 (2):自分・相手のカードがEXデッキから離れた場合、「導きの聖女クエム」を除く自分の墓地の、「アルバスの落胤」1体またはそのカード名が記されたモンスター1体を対象として発動できる。 そのモンスターを特殊召喚する。 アルバスまたはその名前が記載されているカードの墓地肥やしと、それらのモンスターを蘇生する効果を持つ。 墓地肥やしは単純にモンスターを落としてそのモンスターの墓地効果や自身の蘇生効果につなぐだけでなく、魔法・罠も落とせるので墓地効果持ちの烙印魔法・罠などを落とし活用することもできる。 蘇生効果は自身の墓地肥やし効果で落としたモンスターを蘇生できるのは勿論のこと、蘇生制限さえ満たしていればアルバスの融合体も蘇生することもできる。 トリガーである「EXデッキからカード離れる」も、自分がEXデッキからモンスターを特殊召喚するのはもちろんドラグマ特有のEXデッキ破壊でも能動的に満たせるほか、相手がEXデッキからモンスターを特殊召喚しても満たせるため、それでアルバスを蘇生するなどして相手の展開へのけん制にもなりうる。 他のエクレシア関係と違い自前で特殊召喚効果を持たないのがネックだが、自身がドラグマおよびデスピアとして扱われる効果外テキストを活かしバスタードの墓地効果や烙印開幕でのリクルートは可能なのでそれらを活かしたい イラストには《凶導の白聖骸》やカルテシアに似た格好の少女が描かれている。 「クエム」という名は白聖骸を依り代としたドラグマの初代聖女の名前としてザ・ヴァリュアブル・ブックEX2で言及されており、恐らく彼女が実体をもって完全復活した初代聖女その人なのだろう。 また、これまで何度かイラストに登場しており、彼女の周りにも描かれている目玉状の物体は歴代聖女の成れの果てであることが別のカードの設定画で明かされている。 同時に彼女の周りからエクレシアやフルルドリス以外の聖女がどこかに行ってしまったことが示唆されており…? デスピアン・クエリティス 融合・効果モンスター 星8/光属性/悪魔族/攻2500/守2500 「デスピア」モンスター+光・闇属性モンスター このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):自分・相手のメインフェイズに発動できる。 レベル8以上の融合モンスターを除く、フィールドの全てのモンスターの攻撃力はターン終了時まで0になる。 (2):表側表示のこのカードが相手の効果でフィールドから離れた場合に発動できる。 デッキから「デスピア」モンスターまたは「アルバスの落胤」1体を選び、手札に加えるか特殊召喚する。 ターン終了時までレベル8以上の融合モンスター以外の攻撃力を0にする効果を持つデスピアの融合モンスター。 背景ストーリーでは「教導の騎士フルルドリスの鎧の成れの果て」との事。(*4) …しかし、アルバスと直接関与せず登場し、カードでもアルバスを融合素材に指定していないにもかかわらず、相手に除去された場合にデスピアモンスターかアルバスの落胤をサーチorリクルートとアルバスの融合体の様な効果を持つのが特徴。 一応デスピア+アルバスの組み合わせでも融合召喚が可能である辺り何らかの関係性が疑われるが…? 以下、『テキストに「アルバスの落胤」のカード名が記されたモンスター』ではないがイラスト的に関連があると思われるモンスター。 デスピアの導化(どうけ)アルベル 効果モンスター 星4/闇属性/天使族/攻1800/守 0 このカード名の(1)(2)の効果は1ターンに1度、いずれか1つしか使用できない。 (1):このカードが召喚・特殊召喚に成功した場合に発動できる。 デッキから「烙印」魔法・罠カード1枚を手札に加える。 (2):このカードが墓地に存在する状態で、自分フィールドの表側表示の融合モンスターが相手の効果でフィールドから離れた場合、 または戦闘で破壊された場合、相手フィールドの効果モンスター1体を対象として発動できる。 このカードを特殊召喚し、対象のモンスターの効果をターン終了時まで無効にする。 召喚・特殊召喚時に「烙印」魔法・罠をサーチし、自分の場の融合モンスターが相手によって除去されるか戦闘破壊されるかをトリガーに墓地から復活しつつ相手のモンスター効果を無効にする。 白の烙印か烙印劇城デスピアをサーチして融合素材として墓地に落とせば(2)の効果発動の準備も出来る。 アルバスに似通った名前と外見、種族以外が一致しているステータスからしてアルバスと深い関係が窺えるが…? + その素顔 その仮面の下に隠された素顔はストラクチャーデッキ『ALBA STRIKE』に収録されたトークン兼カウンターカード《凶導者アルベル》にて明かされており、案の定アルバスと瓜二つのものであった。 さらにそのフレーバーテキストには『深淵より分かたれしもの』という意味深な一文が存在し… 赫灼竜(かくしゃくりゅう)マスカレイド 融合・効果モンスター 星8/闇属性/悪魔族/攻2500/守2000 「デスピア」モンスター+光・闇属性モンスター このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):融合召喚したこのカードがモンスターゾーンに存在する限り、相手は600LPを払わなければ、カードの効果を発動できない。 (2):このカードが墓地に存在し、相手フィールドに儀式・融合・S・X・リンクモンスターのいずれかが存在する場合に発動できる。 このカードを特殊召喚する。 この効果で特殊召喚したこのカードは、フィールドから離れた場合に除外される。 この効果は相手ターンでも発動できる。 相手にカードの効果を発動させる度に600ライフを追加コストを強要する融合モンスター。 600と数値だけならやや物足りなく思えるが、少ない効果発動で2500打点を処理出来るデッキは少なく、1回につき600の追加コストが予想以上に響く。 ライフの多い序盤でも少なくなった終盤でも相手の行動を制限させられ、デスピア+光か闇と言う緩くて出しやすい素材指定も相まって相手をジワジワと追い込める。 とは言え大抵は強引に突破して来るので彼を徹底サポートしたり、彼以外にも二の矢・三の矢を用意しておきたい所。 また、相手の場に儀式・融合・S・X・リンクの内いずれかが居れば自己再生も可能。追加コスト強要はなくなり除外デメリットは付くものの、非常に緩い条件で復活して来る2500打点はやはりありがたい。 赫の烙印のイラストからして恐らくは竜化したアルベル。 名前・ステータスがアルバス融合体と似通っている辺りやはり深い関係性が窺えるが果たして…? 赫焉竜(かくえんりゅう)グランギニョル 融合・効果モンスター 星8/光属性/魔法使い族/攻2500/守2500 「赫の聖女カルテシア」+光・闇属性モンスター このカード名の(1)(2)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。 (1):このカードが融合召喚に成功した場合に発動できる。 デッキ・EXデッキからレベル6以上の光・闇属性モンスター1体を墓地へ送る。 (2):相手が発動したモンスターの効果でモンスターが特殊召喚された場合、フィールド・墓地のこのカードを除外して発動できる。 デッキから「ドラグマ」モンスター1体、またはEXデッキから「デスピア」モンスター1体を特殊召喚する。 前述のカルテシアを融合素材として指定する融合モンスター。 カルテシア自身が特殊召喚効果やサルベージ効果を持ち、もう一方の素材も光・闇属性モンスターと非常に緩いためカルテシアさえ採用しているならば非常に出しやすいモンスターである。 融合召喚時の効果でさらにデッキ・EXデッキからレベル6以上の光・闇属性モンスターを墓地に落とす効果を持ち、そこからさらなる展開につなげることができる。 シンプルながら活用の幅は広く、烙印世界関係でもアルバスの融合体を落としてその効果を使ったり、上級、最上級ビーステッドを落として展開の布石とするなどでき、他にもシャドールなどEXデッキから落としてうま味のあるモンスターを擁するテーマと組み合わせることも可能。 一方でこの効果を使った後に場で果たせる役割はそこまで無く、後半の効果目当てで場に残してもバウンスで処理される可能性もあるので、できるなら早々に墓地に送っておきたい。 その後半の効果というのが、相手のモンスター効果による特殊召喚に反応して場・墓地の自身をコストにデッキからドラグマモンスターかEXからデスピアモンスターを特殊召喚するというもの。 ドラグマならエクレシアからフルルドリスをサーチして妨害を構えることができ、デスピアならこれまで素材指定が重くて敬遠されていたプロスケニオンを出してシンプル打点+直火焼きでトドメを刺しにいくことができる。 条件が相手依存のため狙ってだせるわけではないが、逆にこのカードが場か墓地にあるだけで相手にそれを警戒させられるというメリットにもつながる。 イラストは土気色のおぞましい竜がカルテシアの背後に立っている…というよりもカルテシアのヴェールや服と融け合い1つになっているというもの。 この竜は翼から《デスピアン・クエリティス》の腕と同じものが生えているため、同一のものであると考えられる。 そしてこの竜は全身のいたるところに棘状のものが生えているがよく見るとそれは腕であり、それらがドラグマの上層部がイラストで度々やっていた腕を交差させるポーズをしている。 これらの腕は設定画によると、ドラグマ陣営が秘めていた野望の犠牲となった歴代の聖女たちのものであるという… アルギロスの落胤(らくいん) 効果モンスター 星2/闇属性/雷族/攻 700/守 700 このカード名の、(1)の方法による特殊召喚は1ターンに1度しかできず、 (3)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):フィールドにレベル2・ランク2・リンク2のモンスターのいずれかが存在する場合、このカードは手札から自分または相手フィールドに特殊召喚できる。 (2):このカードをリンク先とするリンクモンスターは効果を発動できない。 (3):相手ターンに、フィールドのXモンスター1体を対象として発動できる。 そのモンスターのX素材を2つまで取り除く。 アルバスと同様に『落胤』の名を冠するモンスター。 レベル・ランク・リンク2のモンスターの存在を条件とする特殊召喚効果と、リンクモンスター・Xモンスターの効果を実質的に封じる効果を持ち。全体的にスプライトに対するメタカードとしての性質が強い。 イラストにはスプライトと同じように人型になった稲妻のような生物が《深淵の獣ルベリオン》に似た鎧と《スプライト・スプリンド》のジャケットを纏ったような姿の存在が砂海に佇んでいるのが描かれており、その手には《スプリガンズ・キャプテン サルガス》が付けていたネックレスが握られている。 その姿からスプライトに関係した何かと思われるが、いきなり登場したこの存在については数々の推測が立てられている。 相性のいいカード 融合モンスター 融合体以外で、素材指定が緩くアルバスの効果で融合召喚できる融合モンスターがコチラ スターヴ・ヴェノム・フュージョン・ドラゴン +闇属性モンスター1体 闇属性モンスターは遊戯王で最もメジャーな属性なので、出せる機会は多いはず。 神炎竜ルベリオンとの使い分けを想定してEXデッキに入れておいてもいいだろう。 捕食植物トリフィオヴェルトゥム +闇属性モンスター2体 スターヴ・ヴェノムよりも要求される素材が多いが、その分相手モンスターの複数除去に繋がる。 1ターンに1度だけだが相手のEXデッキからの展開を阻止できるのでこちらも入れておく価値はある。 ヴァレルロード・F・ドラゴン +闇属性・ドラゴン族 スターヴ・ヴェノムより素材指定が厳しいが、打点要因になれるだけでなくフリチェ破壊効果で相手の展開を妨害したりできる。 墓地効果を活かすためにも、採用する場合はドラゴン族リンクモンスターを併用したい。 アルビオンの効果でアルバスと他の闇ドラゴンで融合するのもいい。 守備力2500なので《烙印の気炎》のコストとしても有用。 ミュステリオンの竜冠 融合・効果モンスター 星8/光属性/魔法使い族/攻3000/守1500 魔法使い族モンスター+ドラゴン族モンスター このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 このカードは融合素材にできない。 (1):このカードの攻撃力は除外されている自分のカードの数×100ダウンする。 (2):発動したモンスターの効果によって、 そのモンスターまたはそのモンスターと元々の種族が同じモンスターが特殊召喚された場合、 その特殊召喚されたモンスター1体を対象として発動できる。 対象のモンスター及びそのモンスターと元々の種族が同じフィールドのモンスターを全て除外する。 +魔法使い族モンスター 強力な全体除去を持ち、相手のデッキが種族統一デッキであれば大きなプレッシャーになる。 アルバスとドラグマモンスターで融合召喚できる素材指定だが、このモンスター自身がアルバスのストーリーと関連があるかどうかは現状不明。 ただ、効果外テキストで融合素材にならない=アルバスの効果で吸えない上、アルバスの効果で融合した場合出て来たそいつが除外される+こいつ自身は魔法使いなのでそれに巻き込まれないと、アルバスへのメタとしてデザインされていることがわかる(ブリガンドとスプリンドは対象外だが)。 実はこいつはステータスが攻守逆である以外、一連のストーリーの大ボスと思しき「教導の大神祇官」と全く同じであり、ドラグマ側のモンスターである可能性は濃厚。(*5) その他のカード 融合派兵 アルバスを直接リクルートできるカード。 使った後は融合モンスターしか出せなくなるが、アルバスをデッキから直接引っ張り出す手段の一つとして有用。 竜の鏡 ドラゴン族専用の墓地融合魔法。 4枚目以降の白の落胤としての採用や、他のドラゴン族融合モンスターと融合魔法を共有したい場合に採用できる。 壊獣 完全耐性持ち、あるいは低攻撃力、(勝鬨的な意味も含め)低レベル、このターンに特殊召喚されてない、属性が違うなどでアルバスの効果で狙った融合体の素材にできない相手モンスターを バスタードの素材になれる高攻撃力 ブリガンドの素材にでき、バスタードの打点を大幅にアップできる高レベル スプリンドの素材に必要な「このターンに特殊召喚された」という情報 アルビオンの素材になれる光属性 ルベリオンの素材になれる闇属性 という5つの融合体の条件に合致するモンスターに変換できる。 アルビオンかルベリオンを経由すればミラジェイドもアルバ・レナトゥスも出せるので実質的にリンドブルム以外のアルバス融合体にアクセス可能。 その相性の良さを買われてかストラクチャーデッキ-ALBA STRIKE-ではサンダー・ザ・キングが再録された。 妨げられた壊獣の眠りで相手の場に特殊召喚した壊獣を融合素材にして出したモンスターと自分の場に出した壊獣でダイレクトアタックを仕掛ければワンキルも夢じゃない。 ヴァレット・リチャージャー EXから出た闇属性が破壊された時に他の闇属性を蘇生できるカード。 このカードを手札に持っておけば相手に融合体を破壊されたときにアルバスを蘇生して除去と融合が行える。 ヴァレット自体がアルバスと同じ闇属性・ドラゴン族でサポートを共有できるのもポイント。 余談 11期の主役的存在のため多数のカードイラストに登場しているが… 《教導神理》でエクレシアが「粛正」されている横でめっちゃ驚いている。 《鉄獣の邂逅》でエクレシアと共に捕まっており、ジタバタしている彼女の横で呆れている。 《スプリガンズ・コール!》で《鉄獣戦線 キット》に無表情で引っ張られている。 《スプリガンズ・ブーティー》でお宝を自慢してドヤ顔している(ように見える)。 と、変にクールを気取っているせいかどこかコミカルな印象を与える。(《教導神理》はどちらかというとシリアスな展開だが) しかし《スプリガンズ・ウォッチ》では危険な道を先に行き、エクレシアのサポートをするなど優しさも見せている。 ある意味ではエクレシア共々、15歳前後の少年らしい姿と言えるだろう。 遊戯王カードゲーム25周年特別映像「Yu-Gi-Oh! CARD GAME THE CHRONICLES」にて題材として選ばれ、「アルバスの落胤」パートを担当。『《天底の使徒》→《ドラグマ・パニッシュメント》→《ドラグマ・エンカウンター》』まで、短いながらもアルバスとエクレシアの出会いが高クオリティの作画でアニメ化されたことに多くのデュエリストが喚起した。同時にホールから落ちて約3秒で左目を潰され叩き落されたアルバスの不憫っぷりとフルルドリスのゴリラっぷりがネタにされた。 追記、修正はアルバスのプリズマティックを3枚集めてからお願いします。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- これまでの傾向からブースターパック「CYBERSTORM ACCESS」で完結を迎えると思われていた烙印ストーリー。 しかし発売目前となっても《真炎竜アルビオン》以降のアルバスやエクレシアが描かれたカードが発表されておらず、彼らが最終的にどうなったかやきもきする決闘者が数多く存在していた。 そして「CYBERSTORM ACCESS」発売3日前の2023年1月11日。 公式Twitterにて公開されたそのカードは。 そのやきもきしていた決闘者達をこぞって限界化させた。 開かれし大地を渡り歩く 少年と少女の物語―。 開(ひら)かれし大地(だいち) フィールド魔法 (1):相手が儀式・融合・S・X・リンクモンスターの特殊召喚に成功した場合、 以下の効果から1つを選択して発動できる。 「開かれし大地」の以下の効果はそれぞれ1ターンに1度しか選択できない。 ●デッキから「アルバスの落胤」1体またはそのカード名が記されたモンスター1体を手札に加える。 ●手札から「アルバスの落胤」1体またはそのカード名が記されたモンスター1体を特殊召喚する。 ▽効果について 相手のEXモンスターの特殊召喚に対してアルバス関係のモンスターのサーチと特殊召喚のどちらかをそれぞれ1回ずつ行えるようになるフィールド魔法。 相手がEXモンスターの展開を2回行えばアルバス関連の実質的なリクルートとなり、それでアルバスを出せば相手のEXモンスターをミラジェイドなどの融合素材として除去できる。 すでに場にアルバスの融合体がいるなら、メルクーリエや軒轅の相剣師といった手札誘発効果持ちをサーチするだけで相手への牽制として機能する。 自分ターン中に相手がEXモンスターを展開する手段を持っていた場合、このカードの存在によってその展開を躊躇させることもできるかもしれない。 効果を2回使うまでに相手に2回のEXデッキからの展開を許すことになり、それまでにこのカードが除去される可能性は高いため、このカードだけに頼ることない展開が求められる。 1番のネックはこのカードが烙印カードでない関係上サーチ・サルベージがしにくいこと。 某問題児のおかげで汎用フィールド魔法サポートには規制がかかったままだが、2023年から《エンシェント・フェアリー・ドラゴン》がエラッタされて帰ってきたので、これを絡めてみるのもいいかもしれない。 ▽イラストについて 本題はここから。 イラストは小さい飛空艇に乗って砂海から旅立つアルバスとエクレシア、そしてそれを見送るキットが描かれている。 さらに良くみると、フェリジットとシュライグ、スプリガンズの面々に《二人の聖女》で描かれていたエクレシア達のお付きのドラグマの人らしき人影が描かれており、このカードの判明によって アルバスの無事 エクレシアが無事カルテシアから戻れた(分離できた?)こと これまでのイラストで死亡フラグが立っていたシュライグが無事生還できたこと デスピア化したドラグマの人々がもとに戻れたこと がほぼ確定となり、味方側の犠牲をほとんど出すことなく無事ビーステッドとの闘いが終結し、そして主人公たちが新たに旅立つという遊戯王らしからぬハッピーエンドを描いたこのカードは、人々を熱狂の渦に巻き込んだ。 ただ、これに至るまでの過程は他のカードから読み取ることはできず、アルベルやクエム、アルギロスの落胤など、この弾で新たに撒かれた伏線から「来期に第二部が始まるのではないか」という声もあるため、マスターガイドなどによる続報が待たれるところではある。 少なくとも、今の我々には祈ることしかできない。 これからの2人の旅路が、希望に満ちたものであることを。 ▽設定画について カードの公開から2日後、公式Twitterにてこのカードの設定画が公開されており、その中には興味深い記述がいくつかある。 まずアルバスについて、以前の設定画ではエクレシアと同じくらいとされていた身長が少し伸びており、宝珠があったり無くなったりしていた額には新たに金属カバーが付けられている。 エクレシアは、髪型がこれまでの三つ編みではなくポニーテールになっている。曰く「みつあみはしてもらうまでナシ」とのこと。 また飛空艇の先端には目玉のような装飾がなされているが、これはアルバス達が拾った317番目の聖女のなれ果てであり、普段は手足のようなものを生やしてこれまで一緒に旅していたスプリガンズのススとわちゃわちゃしているらしい。 常にある方向を見ているため船の羅針盤替わりに活用しているようだ。 その他、《烙印の光》で伸ばした手がきちんとエクレシアを掴んでいた様子や戦いから帰還したアルバスとエクレシアをキットが迎える様子、二人が317番目の聖女を発見した様子などをメルクーリエが撮った映像を鉄獣式映写機で出力して思い出ムービーにしているのが描かれている。 しかしVBEX3ではそれらの思い出を嘲るように見据えるアルベルの横顔が映されており… ▽二人の旅の目的について この設定画のうち、エクレシアに関する記述を見ると、二人の旅の目的が見えてくる。 もともとドラグマ時代の髪型は複雑すぎて自分ではセットできないことが過去の設定画に記載されており、追放されてから白の聖女になるまで髪はラフなものだった。 そして《二人の聖女》のイラストや白の聖女になる直前にフルルドリスと再会していることから、この髪型のセットをしていたのはフルルドリスと思われる。 その髪型を「してもらうまでナシ」としていることから、二人の旅の目的は戦いの過程でどこかに行ってしまったと思われるフルルドリスを見つけ出すことである可能性が高い。 ▽名前について 項目冒頭にもある通り、これまでの烙印関係のカードを公式Twitter上で紹介される際の煽り文句として「閉ざされし大地」というワードが用いられ、マスターデュエル上でドラグマ、トライブリゲード、スプリガンズが主に収録されたシークレットパックの名前も『閉ざされた地に生きるもの』だった。このカード名は、教導国家ドラグマの支配とその裏に潜んでいたデスピアの野望によって閉ざされていた深淵大陸が、戦いの決着によって開かれたものとなったことを示しているのだろう。 このカードのみ、公式Twitterで紹介される際の煽り文句が上述の通り「開かれし大地を~」に変わっている。 追記・修正は2人の旅の無事を祈りながらお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] おお、ドラグマの項目から個別になったのか。片割れであるエクレシアちゃんの人となりが割とはっきりしてるのと対照的にこの子の人物像はまだけっこう謎めいてるから公式が補完してくれるといいな -- 名無しさん (2021-01-24 08 14 19) ゴルゴンダと凶導の騎士の件からするとエクレシアの聖痕をアルバス君が食べた(痕喰竜ブリガンド)のはファインプレーの可能性が出て来てるな… -- 名無しさん (2021-01-24 08 30 04) 彼をアルバス君と呼ぶべきか落胤君と呼ぶべきか。意味的にはアルバスって父親の名前だろうし、そもそも彼に名前自体が無さそう… -- 名無しさん (2021-01-24 11 39 17) ↑本当の名前を取り戻してパワーアップって展開もありそう。「我が名は〇〇〇!!」って言って力を解放する展開は遊戯王の原点回帰感あるし -- 名無しさん (2021-01-25 06 42 24) 教導神理の彼からはボーボボみを感じる -- 名無しさん (2021-01-25 09 39 24) 教導神理の顔がイヴと一緒にコラにされてるの草生える -- 名無しさん (2021-01-25 11 46 13) ↑3むしろ白堕して、ドラグマ・〇〇がきそう -- 名無しさん (2021-01-25 12 31 43) ↑2それの左側にアークリベリオンドラゴンも大体いる -- 名無しさん (2021-01-25 13 00 10) アルバスくんとエクレシアちゃんのボーイミーツガール感好き、こういう王道展開をアニメで観たいよ… -- 名無しさん (2021-01-25 13 14 26) 無愛想ではあるが女の子を守ったりエスコートしたりと -- 名無しさん (2021-01-27 09 27 22) 11期のニーサン枠かな。ある意味でクリスタ枠かもしれない。 -- 名無しさん (2021-01-27 14 30 27) シリアスな覚醒イベントの次はギャグタッチな集団にあっさり捕まるという緩急が昔のアニメみたいで好印象。端末世界のストーリーは陰鬱過ぎたのでこれぐらいが丁度いい -- 名無しさん (2021-01-30 20 08 02) イヴとアルバスがメルフィーズの森より出撃するアーゼウスに驚愕してるコラ好き -- 名無しさん (2021-01-30 20 13 34) 祝ストラク化決定!!ドラグマ、トライブリゲード、スプリガンズを抑えつけての大抜擢…他の3つのカテゴリもストラク化が近いのかもしれない。 -- 名無しさん (2021-08-17 16 37 48) 無から機体またはエクレシアが湧いて出る新時代の乗っただけ融合、それがスプリンド -- 名無しさん (2021-09-01 22 36 03) 名乗る名前自体はアルバスで確定みたいね。エクレシアが名付けただけで本当の名前はまだわかってないけど、アルビオン辺りだろうか -- 名無しさん (2021-11-30 07 13 12) デッキ融合で特にデメリットもなしのカードを連発とは、世紀末環境を止める気はコナミにカケラもないようだな -- 名無しさん (2021-12-01 19 21 29) ブーティのイラストは画像が潰れてるからドヤ顔してるように見えるけど、実は「なんだコレ」って不思議そうな顔で見てるんだよね -- 名無しさん (2021-12-11 00 45 06) アルバス君がドラゴンメイドを食い散らかせる様になったと聞いて(風評被害) -- 名無しさん (2022-01-16 18 22 11) エクレシアちゃんははよアルバス君と子供作って既成事実作らんと、他の美少女ドラゴンに寝取られるぞ -- 名無しさん (2022-01-18 08 02 28) 中二病だからこういうキャラが好きすぎる -- 名無しさん (2022-02-22 01 17 02) ↑5 EXデッキを狙い撃つかのような新弾のカードが出るらしいぞ…。 -- 名無しさん (2022-04-01 01 17 50) 竜化の力を失ってもなお立ち上がり、倒れた仲間の力を借りて大切な人を守り抜こうとする姿はまごう事なき主人公だよ… -- 名無しさん (2022-04-17 23 39 47) 自身以外の自分モンスターを融合素材にすることができない。 このテキストからこれ読み取るの無理だろ。 -- 名無しさん (2022-04-30 00 18 33) エクレシアなら軍貫で寿司食べてるから… 寿司にも融合テーマ欲しいなぁ、そしたらアルバス君にも寿司をふるまえるのに -- 名無しさん (2022-05-18 11 27 35) ファンタビのクリーデンスがアルバス(・ダンブルドア)の落胤かと思ってたら、最新作でそうでなかったことが判明 -- 名無しさん (2022-05-18 11 43 29) ついに深淵から色んなものが出て来たけど未だにアルバスとアルベルが分かれた理由が不明なんだよな…たぶんアルバスの元ネタは黙示録の白い騎士なんだろうけど -- 名無しさん (2022-07-02 11 46 49) そして新たなサポートカードが…しかし…あれは… -- 名無しさん (2022-07-05 09 46 40) 鉄獣の死線のアルバスが格好良すぎる…好き… -- 名無しさん (2022-07-06 23 24 02) マスカレイド、誰が呼んだか「商標登録竜」 効果を使いたければ600ライフ払いな!」 -- 名無しさん (2022-08-17 11 38 24) ↑1 うまく居座り続けさせれば相手は悶死する…壊獣等の特殊召喚モンスターやアルバ・ロスはマジでカンベンだが。 -- 名無しさん (2022-08-18 03 23 53) ビーズテッドの「自分か相手の墓地の光か闇を除外して特殊召喚」って、アルバスの融合体の墓地効果を殺す事を想定した効果の可能性 -- 名無しさん (2022-10-12 06 06 59) ↑ビーステッドだった -- 名無しさん (2022-10-12 06 07 56) 烙印の光のイラストエモいな…!そしてカルテシアの正体はやっぱりエクレシアだったみたいね -- 名無しさん (2022-10-12 21 41 24) 烙印の光でやっと大切な人を取り戻せたんやなって… -- 名無しさん (2022-10-12 22 13 21) 星遺物ストーリーのイヴ死亡に比べると悲劇解決がずいぶんあっさりしてるな。取り戻してからが本番なんか? -- 名無しさん (2022-10-15 15 59 59) リンドブルム、「撃鉄」の名前と効果の通りに「アルバスをエクレシアの下に送り出すための機体」って事なんだろうけど、スプ「リンド」+ベア「ブルム」な名前なのエモいけど「キットちゃんひょっとして…?」な疑惑も浮かんじゃうの上手いな。 -- 名無しさん (2022-10-15 16 05 11) カルテシアは現状唯一の「融合素材として指定されているチューナー」なのか。なんか悪用できそうだな -- 名無しさん (2022-10-15 22 29 26) カルテシア=エクレシア説もカルテシア別人説も何も確定してないのに現状、記事内で一方の説だけ否定してんのがよくわからん -- 名無しさん (2022-10-27 16 06 27) ↑カルテシアとエクレシアが別人だったら烙印の光でカルテシアに向けて必死に手を伸ばす(しかもエクレシアの名を叫んでそうな表情で)アルバス君が哀れすぎるし、カルテシア=エクレシアはほぼ確定と見て良いんじゃない? -- 名無しさん (2022-11-05 18 53 23) ヴァリュアブル・ブックで解説入んだろ。それまで憶測だらけの情報載せてるFFwikiみたいにいこうや -- 名無しさん (2022-11-22 17 34 37) 2人は幸せな融合(キス)をして終了。融合素材に出来ない制約があるからアルベル君の竜化の力でも奪われない程強い2人の絆を表してるの上手い -- 名無しさん (2022-12-29 22 42 22) たとえ灰におちようともたとえ塵にかえろうとも二人の心に灯された篝火がいつか真の炎にならんことを -- 名無しさん (2022-12-30 01 49 38) イラストやら何ならの描写等を踏まえるに、カルテシアはエクレシア+フルルドリス+αという存在自体が超融合な存在…の様だ。 -- 名無しさん (2022-12-30 02 08 30) 真炎竜すごくエモいカードなのに、早速ジョウゲンが素材にされてて草 -- 名無しさん (2022-12-30 07 50 07) 今度のパックで更に踏み込んだ所まで話は進むか… -- 名無しさん (2023-01-11 02 15 02) アルギロスの落胤とビーステッドアルベルが戦って生まれたのがアルバスなんかね…? それはそうとクエムがアルバス主軸にしたデッキですごい使い勝手が良すぎる -- 名無しさん (2023-01-11 06 54 55) ラストバトルの結果より先にエンディングの一枚絵を見せられて困惑。いや、文句なしのハッピーエンドっぽいイラストだから良いんだけどね -- 名無しさん (2023-01-11 22 06 25) ↑これから第二シーズンの可能性 -- 名無しさん (2023-01-12 16 43 44) 神炎竜+ジョウゲンの攻略は強力な通常召喚モンスターやプレイヤー強要型の効果で木っ端微塵にする戦術も必要になってくるな。 -- 名無しさん (2023-01-14 17 32 40) ↑3 ラスボスや最終決戦カードは目玉になるから紹介後にしてたら、先に決着後の世界観が公開されちゃうというのはTCG背景ストーリーあるあるだ -- 名無しさん (2023-01-14 18 46 41) せっかくの正ヒロインとの融合形態を素材縛りのせいで三蔵法師と融合させられる羽目に。……というか『西遊記』モチーフのテーマってありそうでまだないのか……多分『水滸伝』や『三国志演義』よりピンとくる人もずっと多いだろうに……(戦華の再現度の高さは凄く好きだけど) -- 名無しさん (2023-01-22 17 41 02) 最終形態が「真紅の眼」で、そして「白い龍」なの、遊戯王的にアツい。まあ設定的にはどっちとも全く関係ないんだろうけど、でもなんか嬉しい。 -- 名無しさん (2023-01-23 21 19 20) リンドブルム、実は初となる壊獣を使って出すことのできない融合体。ミラ・レナ「そんなこと、知らなかったな…」 -- 名無しさん (2023-03-01 19 52 36) アルギロスはアルバ・ロスの残骸にスプライトの電気が宿って再起動したものらしい ビーステッドかつスプライトという不思議な存在だとか -- 名無しさん (2023-03-19 19 25 44) ↑4 そんな時は禁じられた一滴…三蔵法師や某超魔神もコストでイチコロに出来るぞ。 -- 名無しさん (2023-05-22 12 14 18) アルバ・ロスは絵ではルベリオンが合体してるけど、本来はそこにアルバス(言わば深淵の獣アルビオン)が収まるはずで、そこから分かれて落ちてきたアルバスを「アルバ・ロスの落とし子」に例えて「落胤」って呼んでるんだろうか。だからこそアルバ・ロスと合体したアルギロスも同じく「落胤」 -- 名無しさん (2023-08-02 12 05 12) KONAMIアニメーションでアニメ化された部分でもフルルドリス姉さんに眼を傷つけられた事が分かって驚いた。その速さよ…凄すぎない? -- 名無しさん (2024-02-05 05 46 45) 白の枢機竜、ロマンカードかと思ったらティアラメンツで早速悪用されそうなの草も生えない -- 名無しさん (2024-04-08 13 36 10) 信じて良いよねKONAMI君?「実はこれまでの物語はこの白の枢機竜が見てた夢でーすw」とかそう言うオチじゃないよね?素材指定の墓地のモンスター6種類ってドラグマ側じゃない烙印ストーリーのカテゴリの数(鉄獣戦線・スプリガンズ・相剣・氷水・セリオンズ・スプライト)と一致してるけど偶然だよね…? -- 名無しさん (2024-04-08 18 01 19) 豪快な効果を持った新規カードが御目見得か… -- 名無しさん (2024-04-09 00 04 08) 正直、アルバスを主人公にしてSRPG -- 名無しさん (2024-05-19 00 04 48) ↑途中で送ってしまった。アルバスを主人公にしてこのストーリーをSRPGで作ってくれないかなって思う。ドラゴンの主人公が様々な仲間たちと協力しながら悪いドラゴンを倒すって最近のFEシリーズでもよくある流れだし、各種族との共闘で変身できるドラゴンの種類が増えていくのも面白いと思う -- 名無しさん (2024-05-19 00 09 04) 名前 コメント
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■1.はじめに 当サイトでは自由で寛容な価値多元的社会を支える憲法論の基礎となる法概念論として、H. L. A. ハートの法=社会的ルール説を幾つかのページで紹介している。 ※「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1961年にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。(以下のモデル図参照。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照) 当ページは、この①ハートの法概念論(ルール論)と密接に関連しつつ、同じく自由主義社会を支える基礎理論を提供している②ハイエク(自生的秩序論)、③J. L. オースティン(言語行為論)、さらに④ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム論)といった各々の理論の相互的な関連性を鋭く分析した落合仁司氏(同志社大学教授)の論説を紹介し、現代保守主義の社会理論について考察を深めることを目的とする。 関連ページ法と権利の本質 <目次> ■1.はじめに ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋▼まえがき ▼第一章 世紀末の新しい保守主義◆1.世紀末の《近代》 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 ▼第二章 合理と個体◆1.産業主義と合理主義 ◆2.実証主義と記述主義 ◆3.民主主義と個体主義 ◆4.主権主義と表出主義 ▼第三章 暗黙の言及◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - ◆2.外的視点 - ハート - ◆3.発語的行為 - オースティン - ▼第四章 規範の文脈◆1.規範的秩序 - ハイエク - ◆2.内的視点 - ハート - ◆3.発語内の力 - オースティン - ▼第五章 慣行と遂行◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 ◆2.新しい保守主義 ◆3.保守主義とは何でないか ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義◆1.解釈学的社会学へ ◆2.自己関係性の構造 ◆3.基礎付けの不可能 ◆4.《選択肢》の不在 ◆5.再び伝統とは何か ▼原注 ■3.まとめ ■4.ご意見、情報提供 ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋 『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン 』(落合 仁司:著) ①F.A.ハイエクの自生的秩序論、②H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)、③J.L.オースティンの言語行為論という20世紀哲学の諸潮流の内的関連性を、④ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と絡めながら解説し、社会哲学の観点から「20世紀以降の保守主義の社会哲学」を論じた名著。書中に多々登場する哲学・思想用語を一つ一つ辞書等でチェックしていく根気さえあれば、論旨明快で読みやすいはず。 ▼まえがき ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 本書は、現代における保守主義についての、社会哲学的な論述である。 従って、現代の保守主義を対象とした、政治学を始めとする社会科学的な分析とは、差し当たり、関係ない。 本書は、現代の保守主義を、経済哲学や法哲学さらには言語哲学を含む、社会哲学の地平において解釈する試みなのである。 しかし、20世紀末の現代において、何故に、保守主義を、しかも、社会科学ならぬ社会哲学の地平において、取り上げねばならぬのか。 今世紀末は、人間の《或るもの》からの離脱不能性と、人間による《或るもの》の操作不能性とを、倦むことなく語り続けて来た保守の精神からは、恐らく最も遠い処に漂い着いた時代である。 すなわち、今世紀末は、人間の《総てのもの》からの個体的な解放と、人間による《総てのもの》の合理的な制御とを、飽くことなく欲し続けて来た啓蒙の精神が、人類の最も誇るべき価値であるかの如き高みに昇り詰めた時代なのである。 そのような啓蒙主義への、最大の敵対者であった筈の保守主義を、今、何故に、しかも、社会哲学などという非科学的な地平において、取り上げねばならぬのか。 言い換えれば、あたかも啓蒙の進歩主義によって完全に領導されているかに見える、近代社会の唯中にあって、伝統の持続とその解釈などという営為が、果たして、いかなる意味を持ち、また、いかにして可能であるのか。 保守主義の社会哲学、すなわち、伝統の持続とその解釈という営為を引き受けるに当たって、これらの問いを避けて通る訳にはいかない。 しかし、これらの問いに答えることは、外ならぬ本論の課題である。 ▼第一章 世紀末の新しい保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.世紀末の《近代》 我々の時代は、機械と快楽の時代に見える。 産業技術と消費大衆の支配の時代である。 なるほど、この二世紀の間に、産業技術は、蒸気機関と鉄道輸送から電気機器と自動車交通へ、さらには情報処理機器とデータ通信へと大きく移行し、消費大衆は、ブルジョワジーとプロレタリアートから豊かな中間大衆へ、さらには新しい快楽的個人へと激しく変遷してきている。 しかし、技術的な合理主義と大衆的な個人主義の一貫した進展という意味において、この二世紀は、むしろ連続した平面の上にある。 すなわち、我々の時代は、フランス革命と、産業革命さらにはそれに引き続く民主革命とによって解き放たれた、合理主義と個体主義、あるいは産業主義と民主主義という、加速度運動の相の下に捉えられるのである。 言い換えれば、我々の時代は、19世紀と20世紀の200年間を通じて、あらゆる世界を席巻してきた、産業化と民主化という激浪の波頭に位置しているのである。 ここでは、この産業主義と民主主義の二世紀を、《近代》と呼ぶことにしたい。 従って、我々の時代は、20世紀末の《近代》と言うことになる。 この産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義の《近代》を称揚する思想は枚挙に暇がない。 近代自然法論や社会契約論、さらには啓蒙思想は言うに及ばず、19世紀以降に限っても、功利主義やマルクス主義、さらにはそれに引き続く、実証主義的な社会科学(たとえば分析法学、新古典派及びケインズ派経済学、機能主義社会学など)やマルクス主義的な社会科学、といった社会思想が、産業化(合理化)と民主化(固体化)の双方あるいはいずれか一方を、積極的に推進すべく、その言論を展開している。 産業主義(合理主義)あるいは民主主義(個体主義)を称揚する、これらの社会思想こそ、このニ世紀を通じて、進歩主義と呼び習わされて来た思想に外ならない。 《近代》の進歩主義は、功利主義とマルクス主義とに端を発する、《近代》社会科学によって担われて来たと言っても、決して言い過ぎではないのである。 《近代》の進歩主義は、言うまでもなく、極めて多様な傾向を孕んでいる。 そこには、自由主義的な傾向も存在すれば、社会主義的な傾向も存在する。 しかし、いずれの傾向も、その力点の置き方に多少の違いはあるとしても、合理主義と個体主義を信奉することにおいて、いささかも選ぶ処はない。 《近代》進歩主義は、人間とその社会を、理性によって目的合理的に制御し得るし、また、そうすべきである、と考える合理主義と、人間とその社会を、個体的な欲求充足に還元し得るし、また、そうすべきである、と考える個体主義とを、その共通の前提としているのである。 進歩主義は、このニ世紀に亘って、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放という二つのスローガンを、倦むこと無く主張し続けてきた。 このニ世紀に亘って進行した、産業化あるいは管理化と、民主化あるいは大衆化という二重革命は、このような進歩主義を、その思想的な前提とし、また帰結ともしているのである。 しかし、このような産業化と民主化の進行、あるいは進歩主義の哲学に対する懐疑もまた跡を絶たない。 合理主義と個体主義の哲学に対する懐疑は、《近代》思想史のいわば裏面を形成している。 たとえば、20世紀を代表する、ウィトゲンシュタインや日常言語学派、あるいは現象学や解釈学、さらには構造主義やポスト構造主義の哲学は、多かれ少なかれ、合理主義と個体主義に対する懐疑を、その発条(バネ)として展開されている。 しかし、合理主義と個体主義に対する懐疑の歴史において、決して逸することの許されないのは、フランス革命の産み落とした合理主義と個体主義の狂気に対して、敢然と立ち向かったバーク以来の保守主義の伝統である。 保守主義は、産業化と民主化の進行とともに、怒涛の如く進撃してきた進歩主義の哲学に抗して、200年このかた、《近代》への懐疑の哲学を守り続けてきた。 合理主義と個体主義に対する懐疑の伝統は、取りも直さず、《近代》保守主義の伝統に外ならないのである。 この意味において、ウィトゲンシュタインや日常言語学派の哲学といった20世紀思想もまた、《近代》保守主義の伝統の現代的な表現である、と言って言えなくもない。 本書もまた、このような《近代》保守主義の伝統に棹さして、20世紀末における、その今日的な表現を模索する試みに外ならないのである。 《近代》の保守主義は、人間とその社会を、理性によって意識的に制御する可能性を疑う。 人間の行為は、合理的には言及し得ない偏見や暗黙知を前提として始めて可能になるのであって、意識的には制御し尽くせないからである。 また、保守主義は、人間とその社会を、個体の意図に還元する可能性を疑う。 人間の行為は、個体には帰属し得ない権威やルールに依存して始めて可能になるのであって、その意図に還元し尽くせないからである。 このように合理主義と個体主義を懐疑する立脚点こそ、伝統あるいは慣習と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統あるいは慣習とは、行為の持続的な遂行の結果として生成される秩序であるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御不能であり(偏見あるいは暗黙知)、かつ、行為の主観的な意図には還元不能である(権威あるいはルール)何ものかである。 言い換えれば、伝統あるいは慣習とは、人間の行為によって生成される秩序であって、自らの存在を理由付けるいかなる根拠も持ち得ない(偏見あるいは暗黙知)にも拘わらず、自らは行為の当否を判定する根拠となり得る(権威あるいはルール)というものなのである。 保守主義は、このような伝統あるいは慣習こそが、人間とその社会の存在を辛くも可能にするのである、と主張する。 保守主義から見れば、合理主義は、人間とその社会の制御不能性を閉脚した、理性の専制支配に外ならず、また、個体主義は、人間とその社会の還元不能性を無視した、個体のアナーキーに外ならない。 《近代》保守主義は、このように合理主義と個体主義とを懐疑することによって、《近代》進歩主義の蛇蝎の如く忌み嫌う、伝統や偏見や権威やへの信仰を擁護するのである。 本書は、このような保守主義の、20世紀における新たな相貌を彫塑してみたい。 元来、保守主義は、その時代における進歩主義の様々な意匠に応じて、幾度となく変貌を繰り返しながら、進歩への疑いを懐き続けて来た。 保守主義の歴史は、進歩への懐疑という動機による、変奏曲の歴史なのである。 従って、我々の時代の保守主義もまた、進歩主義の新機軸に応じて、新たな衣装を纏いつつ立ち現われている筈である。 本書は、そのような20世紀末の新しい保守主義の容貌を、明瞭に写し撮ってみたいのである。 何故ならば、保守主義を論ずることは、産業化と民主化の行き着く処まで行き着いてしまったかに見えるこの時代、技術的な管理と快楽的な大衆ばかりが跳梁跋扈するこの時代を懐疑する、最も確かな立脚点となり得るからである。 さらにまた、保守主義を論ずることは、合理主義と個体主義とによって塗り固められた、《近代》社会科学の城壁に、蟻の一穴を穿つ社会哲学の、最も確かな橋頭堡となり得るからである。 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 我々の時代の保守主義を論ずることは、しかし、かなり逆説的な課題である。 バークが《近代》保守主義の生誕を高らかに宣言した時代には、その背景に、土地と議会を支配したジェントルマン達の貴族主義が、確固として存在していた。 保守主義は、ブルジョワ的産業主義と大衆的民主主義に反対する、ジェントルマンのイデオロギー足り得たのである。 しかし、ニ世紀に亘る、産業化と民主化の津波のような進撃が、あらゆる種類の貴族主義を粉砕し尽くし、技術と大衆が完全に勝利を収めた、我々の時代の保守主義には、いかなる階層的な基盤も期待し得ない。 我々の時代の保守主義は、支配階層のイデオロギーといったものではあり得ないのである。 我々の時代を支配しているのは、むしろ技術と大衆なのであって、それらを称揚する思想は、進歩主義でこそあれ、保守主義などでは全くあり得ない。 我々の時代の支配的なイデオロギーは、支配的であるがゆえに保守的であるという訳には、必ずしもいかないのである。 しかし、支配的であるものを擁護することが、必ずしも保守的であるとは限らないという状況は、かなり逆説的であると言う外はない。 このような状況において、保守主義は、いかに立ち現われるのであろうか。 我々の時代の保守主義を論ずるためには、この問いを避けて通る訳にはいかない。 これが、保守主義を20世紀末の今日において論ずることの引き起こす、差し当たりの困難である。 保守主義を論ずることは、しかし、より根本的な困難を孕んでいる。 保守主義を論ずることは、取りも直さず、自然発生的に形成される伝統や、合理的には言及し得ない偏見や、個体的には帰属し得ない権威やを論ずることに外ならないが、これらの伝統や偏見や権威やは、むしろ言葉によっては語り得ず、ただ行為において示される類いのものなのである。 すなわち、保守主義を論ずることは、語り得ぬものを語らねばならぬという困難を抱え込むことに等しいのである。 しかし、この困難は、保守主義が、合理主義と個体主義を否定することにおいて始めて成立したという、その出生の秘密の内に、既に孕まれたアポリア(※注釈:aporia 論理的正解を見出し辛い難問)である。 すなわち、保守主義は、客観的には言及し得ず、主観的には帰属し得ない、主客いずれでもあり得ない、言い換えれば、「~ではない」としか語り得ないものとして、この世に産み落とされたのである。 従って、保守主義を論ずることは、極めて逆説的な作業となる。 すなわち、保守主義は、進歩主義の称揚する諸価値を否定する作業の積み重ねの彼方に、いわば描き残された空白として、立ち現われて来るのである。 この意味において、保守主義の擁護する伝統は、《空の玉座》である。 すなわち、一切の存在は玉座を指し示しているにも拘わらず、そこに鎮座すべき王は永遠に不在なのである。 現代の保守主義を論ずることに纏わる、これらの困難を切り抜けるために、本書は、20世紀における、必ずしも保守主義者とは自認していない、合理主義と個体主義の批判者達の言説を取り上げてみたい。 何故ならば、現代の保守主義は、支配的なイデオロギーを喧伝している、自称保守主義者達の言説によく現れているとは考え難いからであり、また、現代の保守主義と言えども、合理主義と個体主義とを否定する言説の隙間にしか、決して立ち現われ得ないからである。 本書は、このような現代における啓蒙の批判者として、F・A・ハイエク、H・L・A・ハート、J・L・オースティンの三者を取り上げることにする。 言うまでもなく、現代における合理主義と個体主義の批判は、この三者のような、ウィトゲンシュタインに近い筋や日常言語学派からのそれのみならず、現象学や解釈学からのそれ、あるいは、構造主義やポスト構造主義からのそれといった、様々な潮流によって担われている。 20世紀思想の主だった潮流は、押しなべて合理主義と個体主義の批判に従事していると言っても、決して過言ではないのである。 それらの諸潮流の中から、主としてイギリス(あるいは英米圏)をその活躍の舞台とした、ハイエク・ハート・オースティンの三者を選択する理由は外でもない。 このニ世紀の間、《近代》進歩主義に抗して、最も激しく戦い抜いてきた、イギリス保守主義の伝統に、ささやかな敬意を表したいからである。 イギリスは、産業革命と民主革命の祖国であるとともに、《近代》保守主義のいつかは還るべき《イェルサレム》なのである。 1 フリードリヒ・A・ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国爛熟期のウィーンに生まれた。ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが母親の又従姉妹に当たる家系の出自である。ウィーン大学で法学、政治学、オーストリア学派の経済学を学ぶとともに、1927年よりオーストリア景気変動研究所の所長を勤めた。しかし、オーストリアの政治状況下では教授職を得難く、英米圏に渡り、1931年よりロンドン大学、1950年よりシカゴ大学に奉職する。その後、1962年に西ドイツのフライブルグ大学に戻った後、1967年に退職した。1974年にはノーベル経済学賞を受賞している。主著『法・立法・自由』の出版は、第一巻「規則と秩序」が1973年、第二巻「社会的正義の幻想」が1976年、第三巻「自由人達の政治秩序」が1979年である。ハイエクは、社会の全体を合理的に管理し得るとする技術的合理主義あるいは産業主義と、その政治経済的表現であるあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉主義、行政国家など)を、理性の思い上がりであるとして根底的に論駁するとともに、大衆の意志に絶対の主権を授与する無制限な民主主義こそが、隷従への隧道(※注釈:すいどう、①墓場へと降りていく道、②トンネル)であるとして厳しく批判する。ハイエクは、この技術的合理主義と大衆的民主主義への反駁の立脚点として、行為の累積的な結果として生成されるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御され得ず、また、行為の主観的な意図にも還元され得ない(行為の)秩序としての、自生的秩序(spontaneous order)の概念を提出する。この自生的秩序という概念こそが、保守主義を論ずるに当たって、是非とも参照されねばならないキー・コンセプトなのである。 2 ハーバート・L・A・ハートは、1907年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、弁護士を経て、1954年より母校に戻り、1968年に退職した。主著『法の概念』の出版は1961年である。言うまでもなくハートは、英米圏の法哲学を代表する社会哲学者であるとともに、オックスフォード日常言語学派の最も重要なメンバーの一人である。ハートは、法を含むルールを、最高、無制限の主権者の命令あるいは意志に帰属させる、個体主義的な社会論の不可能性を緻密に論証する。ハートにとって、(内的視点から見た)ルールとは、個体の行為の妥当性を判定する理由となるものであって、個体の意志にはついに帰属させ得ない存在なのである。しかし、ハートは、ルールについての個体主義的あるいは主観主義的な理解を拒絶するからと言って、当為判断の理由たるルールについての客観主義的あるいは自然主義的な理解に与する訳ではいささかもない。ハートにとって、(外的視点から見た)ルールとは、あくまでルールに従っているという慣習的な行為の中にのみ見出されるものであって、いまここに遂行されているという事実以外の、いかなる客観的あるいは絶対的な根拠も持ち得ない存在なのである。すなわち、ハートにとって、ルールとは、自らはあらゆる行為の妥当性を判定する理由となるにも拘わらず、自らの妥当性を根拠付けるいかなる理由も持ち得ずに、ただ慣習的に従われている存在に外ならないのである。このようなハートのルール論が、保守主義の論ずべき点について、極めて大きな示唆を与えることは明らかであろう。このようなルール論の形成に当たって、日常言語学派の哲学、わけてもジョン・L・オースティンとの交流が、決定的な役割を果たしたことは言うまでもない。 3 ジョン・L・オースティンは、1911年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、1933年より母校に奉職し、1960年に没した。主著『いかにして言語とともに行為するか』(※注釈:『How to Do Things with Words』)は、1962年の出版である。言うまでもなくオースティンは、20世紀後半のイギリス哲学を代表する日常言語学派の第一人者である。オースティンは、言語は何等かの事実を記述するものであり、言葉の意味はその記述対象である、従って、事実によってその真偽を検証し得ない言明は無意味であるとする、実証主義(※この文脈では論理実証主義 logical positivism の「意味の検証可能性テーゼ/原理 verifiability principle」 を指すものと思われる)あるいは記述主義の呪縛から言語を解放する。オースティンによれば、言語は、命令や判定や約束やの発話に見られるように、それ自体が社会的な行為の遂行なのであって、事実の記述に帰着し得るものではなく、その真偽を検証し得なくとも有意義なのである。しかし、オースティンは、言語は客観的な事実の記述ではなく行為の遂行であると主張することによって、あらゆる発話は発話する個体の主観的な意図や情緒や欲求やの表出である(※注釈:情緒主義 emotivism)と主張したい訳ではない。オースティンによれば、発話の社会的な行為としての効力は、その発話の適切性を判定する慣習的なルールに依存するのであって、発話する個体の主観的な意図には帰属し尽くせないのである。このようなオースティンの言語行為(speech act)論は、保守主義を論ずることの複雑な様相を照らし出す。保守主義を問うには、人間にとって最大の伝統あるいは慣習である言語への問いを、その射程に入れねばならないのである。 彼ら三者は、無視し得ない差異を留保しつつも、合理主義あるいは実証主義と、個体主義あるいは主権主義とに対する懐疑を共有している。 すなわち、彼らは、その力点の置き方にかなりの相違を認めるとしても、世界に対する、合理的な制御あるいは言及の可能性を疑い、また、社会の、個体的な意志への還元あるいは帰属の可能性を疑っているのである。 さらに、彼らが、そのような懐疑の立脚点として提出する、自生的秩序、ルール、言語行為の諸概念もまた、ある幾つかの特徴を共有している。 すなわち、これらの諸概念は、行為の結果として慣習的に生成されるにも拘わらず、(制御や言及やといった)行為の対象とはなり得ない暗黙的な事態であり、かつ行為を妥当させる規範的な根拠となる、といった諸特徴のいずれかを、必ず指し示しているのである。 このような自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念が、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念と、言わば家族的に類似していることは、注目されてよい。 言語ゲームは、人間の行為の遂行は総て言語ゲームの遂行とならざるを得ないという意味において、行為を拘束する(規範的な)事態であり、また、自らの総体を対象とした(その正当化をも含む)いかなる言及をも許さないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、言語ゲームとは、自らにあらゆる行為を従属させるとともに、自らは如何なる根拠をも保持し得ない、いわば慣習的な事態なのである。 このような言語ゲームの概念は、自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念と、そのかなりの特徴を共有している。 保守主義を論ずるに当たって、言語ゲーム論は、極めて魅力的な題材を提供しているのである。 しかし、本書は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を、明示的には取り扱わない。 一つには、ウィトゲンシュタインのテクストを解釈する作業が、解釈の可能性それ自体をも含めて、かなりの錯綜した課題と見受けられるからであり、二つには、言語ゲーム論と、わけてもハートのルール論との相互関係をめぐる、極めて鮮やかな分析が、近年、橋爪大三郎によって為されているからである(※原注1:橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論-ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』勁草書房 1985)。 従って、本書に現れる言語ゲーム論は、ハイエク・ハート・オースティンのテクストの解釈に投影された、その射影に過ぎない。 しかし読者は、本書に落とされた、ウィトゲンシュタインの長い影を、やはり鮮やかに見いだす筈である。 何故ならば、ウィトゲンシュタインこそが、20世紀思想の諸結果と、保守主義の伝統とを結び付ける、あの《失われた環》(※注釈:missing link)に外ならないと想われるからである。 以上のような、ハイエクの自生的秩序論、ハートのルール論、オースティンの言語行為論、さらには、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が、現代における保守主義の在処(ありか)を発見する、最も有力な手掛かりとなることは明らかであろう。 保守主義の変わらぬ拠り処は、遂行的に生成される伝統であり、合理的には言及し得ぬ偏見であり、個体的には帰属し得ぬ権威であった。 自生的秩序やルールや言語行為やさらに言語ゲームといった、20世紀思想の指し示すものは、遂行的に生成される慣習的な事態であり、合理的には言及し得ぬ暗黙的な事態であり、個体的には帰属し得ぬ規範的な事態である。 従って、保守主義とこれら20世紀思想の間には、ほとんど完全な同型対応が存在していることになる。 あるいは、これら20世紀思想は、むしろ保守主義の現代における新たな表現であると言ってもよい。 すなわち、保守主義は、これら20世紀思想に身を託して、この20世紀末の現代に立ち現われた、と言って言えないことはないのである。 しかし、これらの議論の当否は、本論に委ねることにしよう ▼第二章 合理と個体 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.産業主義と合理主義 産業主義と民主主義を懐疑することなど、しかし、この20世紀末の現代において、果たして可能なのだろうか。 我々の日々の生は、産業化と民主化の奔流の中で、ただ木の葉のように翻弄されているに過ぎないのではないか。 我々は誰しも、もちろん私自身をも含めて、何程かは、効率的な経済人であり、また、快楽的な大衆人なのである。 このような我々の日常を懐疑することは、つまるところ、我々の日常の一切を否定し去ることになるのではないか。 しかし、およそ保守主義を論じようとする姿勢の内に、我々の日常の一切を否定し去ろうとする態度の含まれよう筈もない。 いやしくも保守主義と呼びうる思想には、いまここに生きられている現実への肯定が、何程かは含まれている筈である。 従って、現代における保守主義もまた、この産業主義と民主主義に魅入られた20世紀末の現実の唯中に、肯定すべき某(なにがし)かの価値を見い出していることになる。 あるいは、そのように肯定されるべき現実こそが、産業主義と民主主義に対する懐疑の疑い得ぬ立脚点なのである、と言い換えてもよい。 保守主義とは、いまここに生きられる世界に定位して、この世界の合理的な制御や個体的な還元やの、むしろ幻影であることを暴き出す営為に外ならないのである。 それでは、産業主義と民主主義の幻影は、何故に疑い得ぬ現実の姿を取って、立ち現れ得るのであろうか。 言うまでもなく、産業主義とは、絶えざる技術革新を起爆力とする、人間と社会の不断の再組織の運動である。 この運動によって追求されているのは、自然や社会や人間自身に対する制御能力の拡大、生産力の増強、効率の上昇、合理化といった、目的達成のために利用可能な手段の拡大と、その有効適切な選択の推進である。 この手段的な可能性の拡大と、その効率的な利用を追求する態度こそ、合理主義と呼ばれるに相応しい。 マックス・ウェーバーの言う目的合理性であり、タルコット・パーソンズの言う能動的手段主義である。 すなわち、産業革命によって解き放たれたこの産業主義という運動は、合理主義をその中核的な価値としているのである。 もっとも、合理主義という言葉は、効率的な手段の追求という意味に限定されている訳ではない。 元来、合理主義とは、人間理性の尊重、あるいは理性による支配の貫徹の謂であって、その理性をどのように捉えるかによって、様々な意味に分散し得る。 理性を、目的に対して効果的な手段を選択する能力として捉えるならば、いまここで述べた合理主義の意味が出て来よう。 この意味における合理主義を、他と区別する場合には、手段的あるいは機能的合理主義と呼ぶことが多い。 この手段的合理主義と、いわゆる近代合理主義との関係は、いささか微妙である。 なるほど、手段的合理主義は、主体がその目的い適合するように客体を制御する能力を良しとするのであるから、主体と客体の分離を前提するという意味においては、近代合理主義と軌を一にしている。 しかし、手段的合理主義は、必ずしも論理整合的に推論する能力としての理性のみによって、効率的な手段を選択し得るとは考えないのであって、近代経験主義と対立する意味における近代合理主義とは、一線を画しているのである。 この意味においては、手段的合理主義は、むしろ近代経験主義の後裔をもって自認している、各種の実証主義に近しい。 主観とは分離された客観的な事実によって、その真偽を検証し得る命題のみが有意味であるとする実証主義(※注釈:論理実証主義 logocal positivism)は、選択した手段のもたらす結果についての実証的な知識こそが、効果的な手段の選択には不可欠であると考える手段的合理主義の、認識論的な前提となっているのである。 あるいは、むしろ検証可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える実証主義は、制御可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える手段的合理主義の、最も典型的な現れであるとも言えよう。 行為論における手段的合理主義と、認識論における実証主義とは、言わば同型的に対応しているのである。 ハイエクが批判するのは、このような手段的合理主義である。 ハイエクの用語系では、手段的合理主義は、構成的合理主義(constructivist rationalism)と呼ばれる(※注釈:ハイエク著『法と立法と自由』では「設計主義的合理主義」と翻訳されているが、こちらの方が良訳である)。 構成的合理主義とは、およそ人間の行為と社会は、何等かの目的の達成のために、意識的に組織され管理され計画され操作され制御され構成されており、また、そうされるべきだとする考え方である。 すなわち、人間の行為と社会は、それを対象として捉える人間の理性によって、意識的に構成し得るし、また、すべきだと言うのである。 ハイエクによれば、この構成的合理主義の淵源は、デカルトの合理主義に遡り得る。 デカルトによる思考する主体と思考される客体の分離は、構成的合理主義の必要条件を準備するものであり、また、明証的な前提から論理的に演繹された知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとするデカルトの合理主義的確証主義は、意識的に計画され構成された行為のみが、目的達成にとって有効な行為であるとする構成的合理主義と、その精神の態度を共有するものである。 すなわち、明晰で意識的な理性によって根拠付けられたもののみを信仰するという態度において、構成的合理主義は、デカルト的合理主義の紛れもない後裔なのである。 しかし、そうであるからといって、この構成的合理主義が、実証主義と対立する訳ではいささかもない。 実証主義とは、客観的な事実によって検証可能な知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとする経験主義的確証主義なのであって、明晰な理性によっても疑い得ぬ絶対確実な知識を希求する確証主義という意味においては、デカルト的合理主義と選ぶ処はないのである。 従って、構成的合理主義とは、意識的な理性によっては確証され得ない一切のものを懐疑する、過激な懐疑主義の運動なのであるともいえよう。 このような構成的合理主義から見れば、伝統や慣習といった、必ずしも意識的に設計された訳ではない社会制度は、合理的な根拠のない偏見や因習として侮辱される。 伝統や慣習の軛(くびき)から解き放たれて、社会を合理的に再編成していく能力こそ、人間の理性には相応しいと言うのである。 ハイエクは、何等かの具体的な目的を達成すべく意識的に設計された社会秩序を、組織(organization)あるいはタクシス(taxis)と呼ぶ。 すなわち、組織とは、あらゆる行為を、達成されるべき目的によって評価し、配列する社会である。 ハイエクによれば、社会主義はもとより、ケインズ的なマクロ経済政策や規制などのミクロ経済政策といった、市場経済への政府介入もまた、たとえば経済的福祉という目的を達成するために、社会を一つの組織に再編成しようとする試みに外ならない。 すなわち、福祉主義をも含むあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉国家、行政国家など)は、社会の総ての行為を、組織の目的に対する貢献によって評価し、配列しようとする試みなのである。 構成的合理主義、あるいは様々なタイプの社会主義は、社会を制御するための政策や手段をも含む総ての社会的行為を、それが社会にもたらすであろう帰結の、達成すべき目的に照らした優劣によって評価するのであるから、行為をその帰結によって評価するという意味における帰結主義(※注釈:consequentialism 結果主義。倫理学 ethics において、ある行為の価値は結果の良し悪しによって定まるとする学説)を含意している。 因みに、福祉主義あるいは功利主義は、典型的な帰結主義である。 この帰結主義が成功し得るためには、様々な行為のもたらす社会的な帰結の予測し得ることが不可欠である。 社会の制御を目指す政策や手段を含む様々な行為が、如何なる帰結を社会にもたらすかを予測し得て始めて、その合目的的な評価も可能になるのである。 従って、帰結主義、さらには構成的合理主義が、社会を合目的的に組織し得るか否かは、社会現象の予測可能性に懸かっていることになる。 言うまでもなく、意識的な理性に全幅の信頼を置く構成的合理主義は、社会現象の具体的な予測も原理的には可能であると、誇らしげに主張するのである。 この社会現象についての予測能力こそ、実証主義を標榜する社会科学の求めて止まぬものである。 実証主義的な社会科学は、社会を合理的に組織するための前提として役に立つ、社会予測を提供することを、その最終的な目的としているのである。 このような社会科学が標榜する実証主義とは、科学的な命題は、明証的な前提から論理的に演繹し得る命題か、あるいは、客観的な事実によって検証可能な命題のいずれかのみであるとする知識論である。 すなわち、社会をめぐる知識に対しても、真なる知識は、明晰な理性によっても疑い得ない絶対確実な根拠に基づいて判定されねばならぬとする、確証主義を要請しているのである。 ハイエクは、社会をめぐる知識に対する、このような実証主義あるいは確証主義の要請を、科学主義(scientism)と呼ぶ。 ハイエクによれば、経済学を始めとして、あらゆる近代社会科学は、この科学主義によって色濃く染め上げられている。 しかし、社会についての実証(確証)的な知識は、果たして可能なのであろうか。 あるいは、社会を、科学(主義)的な認識の対象となり得る、客観的な事実として把握することは、そもそも適切なのであろうか。 すなわち、社会制御の不可欠な前提である社会予測は、原理的に可能な行為なのであろうか。 ◆2.実証主義と記述主義 ここで、社会哲学においてしばしば混乱を引き起こす、認識論上の実証主義といわゆる法実証主義との関連について触れておきたい。 認識論上の実証主義とは、言うまでもなく、これまで述べてきた実証主義のことである。 これに対して、法実証主義(legal positivism)とは、最広義には、自然法(natural law)に対立する実定法(positive law)のみが法であるとする立場を意味する。 この最広義の意味における法実証主義は、自然法論の対抗思想という以上の意味を持たないので、むしろ、自然法論に対立させて、実定法論と呼ぶべきである。 この実定法論と呼ぶべき法実証主義は、自然法あるいは実定法の様々な解釈に依存して、極めて多義的であり得る。 その内には、ハートの擁護する法実証主義も、また、ハイエクの批判する法実証主義も含まれる。 次節以降に述べるように、ハートの擁護する法実証主義はより広義の、また、ハイエクの批判する法実証主義はより狭義のそれである。 このハイエクの批判するより狭義の法実証主義こそが、認識論上の実証主義と密接に関連しているのである。 詳しい議論は次節に譲るが、ハイエクの批判する法実証主義は、あらゆる法は人間が意図的に設定したものであるとする立場のことであり、さらには、それと関連したいわゆる価値相対主義のことである。 前者の立場は、言うまでもなく、構成的合理主義の法領域における現れであり、従って、認識論上の実証主義とは、意識的な理性の支配を貫徹させるという意味において、その精神の態度を共有している。 また、後者の価値相対主義は、事実と価値の峻別をさしあたり前提とすれば、認識論上の実証主義の、価値論における論理的な帰結となっている。 ハイエクの批判する法実証主義は、まさに法的な実証主義と呼ばれるに相応しいのである。 しかし、ハートの擁護する法実証主義は、必ずしも認識論上の実証主義と関連している訳ではない。 ハートの擁護する法実証主義は、むしろ実定法論と呼ばれるに相応しいのである。 ハートの擁護する法実証主義は、法が、人々の行為の当否を判定する法的な理由として有効でるか否か、あるいは、法が、現行の法体系の下で法としての効力を持つか否かという問題と、法が、道徳や慣習やさらには自然法やといった、実定法以外の当為規範から見て正しいものであるか否かという問題とを峻別する立場である。 すなわち、法が(その法体系の究極の承認のルールによる承認によって)法として妥当することと、それが道徳的に不正でないこととは、まったく別の問題だと言うのである。 この立場は、法の妥当性を、実定法体系の内部問題として捉えるという意味において、典型的な実定法論となっている。 しかし、ハートの言う実定法体系は、後に述べるように、実は慣習の一種である究極の承認のルールを含む、様々なルールの体系のことであって、制定法や判例法やあるいは慣習法やといった、普通にイメージされる実定法を、遥かに超えたものなのである。 このように拡張された実定法論は、認識論上の実証主義(あるいは確証主義)とは、関連がないと言うよりも、むしろ対立するものである。 何故ならば、後に詳しく議論するように、究極の承認のルールは、意識的な理性によっては語り得ぬ、ただ行為において示されるのみ(従って確証不能)のルールをも含んでいるからである。 ハートは、法の妥当性とその道徳的な価値を峻別するからといって、法の正邪についての道徳的な批判を認めない訳では些(いささ)かもない。 むしろ、そのような批判を明晰に行うためにこそ、法と道徳を峻別するのである。 言うまでもなく、自然法論は、法の妥当性をその道徳的な価値によって判断する。 すなわち、道徳的に不正な法は法ではないと言うのである。 従って、道徳的に不正な法には、それが法ではないから従わないということになる。 これに対して、ハートは、道徳的に不正な法も法である、しかし、それに従うか否かは(法的ではなく)道徳的な選択の問題である、と主張する。 ハートにとって、問われるべきは、不正な行為は為すべからずという一つの道徳的要請と、妥当な法には従うべしというもう一つの道徳的要請との間の選択である。 ハートによれば、自然法論は、このような道徳的選択の問題を、法の妥当性という問題にすり替えることによって、議論を混乱させていることになる。 自然法論の誤りは、以上に尽きるものではない。 自然法論は、法の妥当性を判断する根拠となる道徳的な価値規範を、自然法と呼ぶ。 この自然法は、自然法則と同様に、意識的な理性によって発見され得る客観的な存在であると見做されている。 しかし、客観的な存在事実から当為規範を発見し得るとする目論見は、事実命題「~である」から当為命題「~すべし」は演繹し得ないとするいわゆる方法二元論によって、容易に挫折させられる。 いわゆる自然主義的誤謬である(※注釈:naturalistic fallacy 非倫理的な[事実的]前提から倫理的結論を導くことができるとする誤謬。G. E. ムーアの仮説)。 ハートの批判する自然法論は、およそこのようなものである。 しかし、ハートは、法理論における重要な対立が、自然法論と実定法論との対立に限られると主張したい訳ではない。 むしろハートは、法理論における主要な対立を、実定法論の内部にあると見ている。 ハートは、広義の法実証主義の一部に、誤れる法理論が存在すると見ているのである。 このハートの批判する法理論は、次節以降に述べるように、ハイエクの批判する狭義の法実証主義と極めて近い。 ハートも、そしてまたハイエクも、自然法論ではなく、狭義の法実証主義でもない、第三の法理論を探求しているのである。 それはさておき、(認識論上の)実証主義は、極めて素朴なレベルでかなりの信頼を得ているようである。 たとえば、実証主義は、経験に学ぶ謙虚な態度であって、極めて当然のことだといった具合である。 実証主義が、経験に学ぶ謙虚な態度であるどころか、生きられる経験を閑却した理性の傲慢以外の何ものでもないことは、次章において詳しく展開するが、しかし、実証主義が、一見、当然のことに思えてくる事情については、少しく検討するに値しよう。 確かに、実証主義は、手段的合理主義の認識論における現れである。 認識もまた人間の行為の一つなのであるから、意識的な理性によって操作可能な行為のみが有効な行為であるとする手段的合理主義が、意識的な理性によって確証可能な認識のみが有効な認識であるとする実証主義を含意することは見やすい。 しかし、実証主義への素朴な信頼は、それが手段的合理主義の現れであることのみによる訳ではない。 そこには、認識に、わけても言語による認識に固有の事情が介在する。 我々は、言語を、何等かの事実を記述するものであると素朴に考えている。 あるいは、言葉の意味は、その言葉が指示する対象的な事実にあると考えている。 従って、ある言葉が意味を持つためには、その言葉が何等かの事実(ある事態が存在しないという事実も含む)と対応していなければならぬと考えていることになる。 さらに、ある言葉が真実であるか否かを判定するためには、その言葉と対応する事実が存在するか否かを確かめればよいと考えていることも多い。 このような言語に対する考え方を、オースティンは、記述主義と呼ぶ。 この記述主義こそが、実証主義への素朴な信頼を支える言語観なのである。 オースティンによれば、記述主義(descriptivism)とは、あらゆる言明は何等かの事実の記述であるかあるいは無意味であり、かつ、有意味な言明は真か偽のいずれかであるとする立場である。 言うまでもなく、この立場は、真偽の検証可能な言明のみが有意味であるとする、実証主義とほとんど同じ立場である。 あるいは、むしろ各種の実証主義に共通する言明観を抽象したものが記述主義であると言ってもよい。 オースティンは、次章で見るように、この記述主義の言語観を、まず、徹底的に解体するのである。 オースティンは、また、記述主義の批判と並行して、記述主義的な言語観が何処からよって来るのかについても検討している。 この記述主義の由来についての検討は、素朴な実証主義の蔓延を、よく説明するように思われる。 オースティンによれば、我々が「言葉を発する」あるいは「何かを言う」ということは、以下の三つの行為を同時に遂行することに外ならない。 一つは、ある一定の音声を発する行為(音声行為)であり、 二つは、ある一定の語彙に属し、ある一定の文法に適った、ある一定の音声すなわち語を発する行為(用語行為)であり、 三つは、ある程度明確な意味(sense)と指示対象(reference)とを伴って語あるいはその連鎖としての文を発する行為(意味行為)である。 オースティンは、この三つの行為を同時に遂行する「何かを言う」という行為を、発語行為(locutionary act)と呼ぶ。 しかし、ここでは、さしあたり意味行為のみが問題になるので、音声行為及び用語行為を捨象して、発語行為の意味を、意味内容のみを指示対象とするように限定して用いることにする。 すなわち、発語行為という語によって、意味行為という語を指示するのである。 このような発語行為という概念によって言及されているのは、我々が「何かを言う」行為は、取りも直さず、何かを指示する行為に外ならないという事態である。 すなわち、発語することは、何等かの事態を指示することなのである。 このような指示機能は、我々の言語に、紛れもなく存在している。 たとえば、ウィトゲンシュタインのように、言葉の意味は他の意味との関係の内でしか決定し得ず、言葉によって指示される事態は、言葉に先立って存在するのではなく、言葉の意味と同時に分節されると考えたとしても、言葉が、何等かの事態(言葉とは独立の客観的な事実である必要はいささかもない)を指示するということは認められる。 オースティンによれば、この紛れもなく存在する言葉の指示機能すなわち発語行為の位相のみにおいて、言語を巡るあらゆる問題を取り扱おうとする所に、記述主義が生じるのである。 すなわち、あらゆる発話は何等かの事態を指示するか、さもなくば無意味である、記述主義風に言い換えれば、あらゆる発話は何等かの事実を記述するか、さもなくば無意味である、ここまでは必ずしも誤りではない。 しかし、ここから、従って、発話を巡るあらゆる問題は、事態の指示あるいは事実の記述のみを巡る問題である、と結論する処に、記述主義が始まる 記述主義は、発話を巡るあらゆる問題を、発語行為の位相に還元し尽くそうとするのである。 しかし、オースティンによれば、発話という行為は、発語行為に還元し尽くされるものではない。 後に詳しく述べるように、発話行為は、「何かを言う」ことすなわち何等かの事態を指示することである発語行為の遂行であるのみならず、「何かを言う」ことが慣習的な文脈の下で何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自体とは別の)行為でもある発語内行為(illocutionary act)の遂行でもあり、さらに、「何かを言う」ことを手段あるいは原因として何等かの目的あるいは結果を達成する行為でもある発語媒介行為(perlocutionary act)の遂行でもある。 発話行為は、以上の三つの行為を同時に遂行しているのである。 従って、オースティンによれば、発話行為を発語行為あるいは事実の記述に還元する試みは、発話行為が慣習的(発語内的)あるいは意図的(発語媒介的)な行為の遂行でもあるという事態を、全く等閑視することになる。 言い換えれば、あらゆる発話を事実の記述に還元する記述主義の成否は、発話を巡る諸問題が、発話に伴う、しかし発話それ自体とは区別される行為の遂行に、どこまで拘わっているかに依存することになる。 果たして、発話は、その社会的な文脈や話者の意図とは独立に、その意味あるいは指示機能のみによって、どこまで理解し得るのであろうか。 ◆3.民主主義と個体主義 手段的合理主義は、与えられた目的を最大限に達成すべく社会を組織する。 すなわち、社会のあらゆる行為を、与えられた目的に対する手段としての有効性によって評価する。 しかし、達成されるべき目的そのものは、いかにして与えられるのであろうか。 そもそも、手段的合理主義とは、手段としてのある行為が帰結する社会状態についての知識と、様々な社会状態を評価する規準としての目的とを前提して、目的に照らして最も高く評価される社会状態をもたらす手段を選択するという立場である。 さらに、行為の社会的な帰結についての知識の拡大それ自体を目的とする立場も、(そのような知識はいかなる目的にとっても手段になり得るとすれば)、手段的合理主義に含まれる。 しかし、最終的に達成されるべき社会状態を決定する目的そのものは、手段的合理主義にとって、その外部から与えられざるを得ないのである。 何故なら、手段的合理主義によれば、手段とその帰結についての知識は、実証主義的な手続きによってその真偽を確証し得る客観的な知識である。 これに対し、目的による社会の評価は、価値判断あるいは当為判断「~すべし」なのであって、客観的な知識としての事実判断「~である」とは峻別される。 従って、万人によって受け容れられる確証可能な知識は、事実判断と演繹論理のみであるとする実証(確証)主義と、事実判断から当為判断は演繹し得ないとする方法二元論とを認めるとすれば、当為としての目的は、万人によって受け容れられ得る客観的(確証可能)な知識ではありえないことになる。 言うまでもなく、手段的合理主義は、実証主義(と方法二元論)をその認識論的(あるいは価値論的)な前提としているのであるから、達成すべき目的は、万人によって受容され得る客観的な知識ではあり得ない。 すなわち、手段的合理主義は、意識的な理性によって確証し得ない一切のものを拒絶するがゆえに、その達成すべき目的を、自らの内部からは原理的に導き出し得ないのである。 それでは、達成されるべき目的は、いかにして与えられるのであろうか。 手段的合理主義によれば、およそ行為の目的は、主観的あるいは個体に相対的なものである。 何故なら、手段的合理主義が前提している主客二元論に基けば、およそ客観的でないものは主観的であらざるを得ないからである。 このような立場は、ほとんどの場合、行為の目的を、個体の意志や情緒や欲求やに帰着させる。 言い換えれば、このような立場は、行為を、個体の意志や情緒や欲求やの表出であると捉えるのである。 個体の意志や欲求やは、言うまでもなく個体に相対的、主観的なものであって、もとより普遍的、絶対的、客観的なものではあり得ない。 このような個体の意志から、少なくとも複数の個体によって構成される社会の全体が達成すべき目的が、果たして導出し得るであろうか。 この問題は、近代合理主義に特有の問題である。 あるいは、近代合理主義と主客二元論という卵を同じくする一卵性双生児である、近代個体主義に特有の問題であると言ってもよい。 すなわち、目的や価値や当為やは、客観的、普遍的、絶対的なものでは全くあり得ず、主観的、個体的、相対的なものに外ならない(価値相対主義)。 さらに、目的志向的な行為や価値判断や当為言明やは、個体の意志や情緒や欲求やの表出として捉えられる(表出主義)。 従って、社会全体の目的や価値や当為やは、個体の意志や情緒や欲求やに還元し得るし、また、されねばならぬ(個体主義)。 以上の条件を総て充たすような社会全体の目的を導出せよ。 これが問題である。 この問いに対する、近代特有の答えが、近代民主主義なのである。 民主主義とは、言うまでもなく、多数者すなわち大衆の支配のことである。 民主主義にあっては、個体の意志の集計において多数を占めた者が、究極的には無制限の権力を掌握する。 最高、無制限の権力を主権(sovereignty)と呼ぶことにすれば、民主主義とは、個体の意志の集計にこそ主権が存すると見る立場に外ならない。 従って、民主主義においては、社会全体の達成すべき目的は、もしそれがあるとするならば、個体の意志の集計に還元されねばならないのである。 何故なら、社会のあらゆる行為をその達成への貢献によって評価し得る目的とは、その社会における主権者(sovereign)の意志であると言ってもほとんど言い過ぎではないからである。 言い換えれば、民主主義とは、個体の意志の集計によって、社会全体の目的を選択する、社会的選択の装置なのである。 ハイエクが批判するのは、多数者の意志に主権を付与する、このような無制限の民主主義である。 元来、近代の立憲主義は、権力の制限を目的としていた筈である。 なるほど、近代憲法は、人権の保障と権力の分立とを規定することによって、権力の制限を目指してはいる。 しかし、近代立憲主義は、憲法をも含めたあらゆる法を制定し得る究極的な権力としての(いわゆる憲法制定権力をも含めた)主権の制限という問題に対して、確定した解答をほとんど持ち合わせていない。 そもそも、最高、無制限の権力としての主権の制限を云々すること自体が自己矛盾なのである。 ハイエクによれば、このような自己矛盾が生じて来るのは、あらゆる法は人間によって意図的に制定し得るし、また、すべきであると考えることによる。 すなわち、あらゆる法に立法者が存在すると考えるならば、その立法者自身が従う法にも立法者が存在する筈である。 従って、ある立法者が従う法の立法者をその立法者より上位の立法者と呼ぶことにすれば、より上位の立法者の存在しない立法者、言い換えれば、究極(最上位)の立法者は、いかなる法にも従わないことになる。 何故なら、究極の立法者の従う法が存在するならば、その法の立法者も存在することになり、より上位の立法者の不在という究極の立法者の定義に矛盾するからである。 言い換えれば、あらゆる法が人間によって意図的に制定されると考えるならば、究極的な法制定主体の(立法)権力を法によって制限することは、論理的に不可能となるのである。 従って、究極的な立法者は、無制限であらざるを得ない。 すなわち、最高(究極)かつ無制限の(立法)権力としての主権の存在は、あらゆる法は人間によって意図的に制定されるとする立場の、必然的な帰結なのである。 従って、たとえ憲法といえども、いずれかの主体によって意図的に制定されたとする限り、(究極的な立法者としての)主権者を制限することなど不可能なのである。 近代立憲主義は、あらゆる法に制定主体が存在すると考える限り、主権者の権力の制限に、原理的に失敗するのである。 このような主権者すなわち究極的かつ無制限な立法者の存在を必然的に帰結する、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする立場は、言うまでもなく、構成的合理主義のコロラリー(※注釈:corollary 必然的に推論される帰結)となっている。 すなわち、法もまた、社会一般と同じように、理性によって意図的に制御されるべきだ、あるいは、社会全体の目的を達成する手段として有効に設定されるべきだ、という訳である。 さらに、究極的に法を設定するのは主権者なのであるから、このような法の捉え方は、法とは主権者の目的あるいは意志の表出に外ならないと主張していることになる。 言い換えれば、このような立場は、法とは主権者の命令であると主張しているのである。 確かに、命令は当為言明の一種であると言い得るので、当為言明としての法を命令として捉えることは一見尤(もっと)もらしい。 しかし、法を命令わけても主権者の命令と見ることに、何の不都合も生じ得ないのであろうか。 次節で詳しく述べるように、ハートもまた、この問いとほとんど同じ問いを問うのである。 ところで、民主主義においては、主権者とは、言うまでもなく、多数者大衆である。 すなわち、民主主義における主権は、大衆の意志の集計に存するのである。 従って、国民主権を標榜する民主主義においては、国民大衆の(究極的な)権力は原理的に無制限である。 言い換えれば、民主主義とは、大衆が無制限の権力を掌握した社会なのである。 究極かつ無制限の権力としての主権概念そのものは、確かに、構成的合理主義の論理的帰結である。 しかし、大衆の意志に主権を付与する民主主義的な主権概念は、必ずしも合理主義のみから帰結する訳ではない。 民主主義の前提には、近代合理主義の精神的な双生児である近代個体主義が準備されている筈である。 ハイエクによれば、無制限な民主主義の前提には、価値相対主義が準備されていることになる。 ハイエクは、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする考え方を、法実証主義と呼ぶ。 すなわち、ハイエクは、構成的合理主義の法への適用を、法実証主義と呼ぶのである。 このような法実証主義によって、ハイエクは、ベンサムやオースティン(本書で取り上げるJ・L・オースティンではなく、19世紀のイギリスの法理学者で、ベンサムの友人のJ・オースティン)、あるいはケルゼンの法実証主義を指示している。 このハイエクの言う法実証主義、わけてもケルゼンの法実証主義こそが、価値相対主義を明らかに含意しているのである。 このような法実証主義が前提している、認識論上の実証主義、あるいはより広く確証主義の立場に立てば、法命題を含むあらゆる当為命題は、万人によって一致して受け容れられ得る、確実に証明された命題ではあり得ない。 当為言明は、意識的な理性によっては、その正当性を確証し得ないのである。 このように客観的、普遍妥当的ではあり得ない当為言明は、つまるところ、個体の意志や情緒や欲求やの表出なのであって、主観的、相対的であらざるを得ない。 従って、法あるいは当為をめぐる問題は、客観的、普遍的な理性の問題であると言うよりも、むしろ主観的、個体的な意志の問題であると言うことになる。 しかし、法といい当為といい、ある社会を構成する総ての個体の行為を拘束する規範の問題である。 個体的な意志の問題として法や当為やを取り扱う視点から、いかにして社会的な規範の問題としての法や当為やを捉えるか。 ここに、価値相対主義を民主主義に結び付ける契機が存在するのである。 民主主義とは、社会を構成する諸個体の意志を集計することによって、社会全体の意志を形成する社会的装置である。 従って、法や当為の言明を、民主主義的に形成された社会全体の意志の表出であると考えるならば、価値相対主義は、社会規範としての法や当為の問題をも一貫して取り扱えることになる。 すなわち、社会規範としての法や当為を、その時点における多数者の意志に相対的なものとして捉えるのである。 言い換えれば、価値相対主義は、民主主義と結び付くことによって、あらゆる法や社会的当為は、(究極的には)多数者大衆の意志に還元されると主張するのである。 もっとも、価値相対主義は、必ずしも常に民主主義と結び付く訳ではない。 価値相対主義とは、価値あるいは当為の問題は、客観的、普遍的な認識あるいは理性の問題ではなく、主観的、個体的な実践あるいは意志の問題であるという主張以上のものではない。 従って、価値相対主義は、個体的な意志から、いかにして社会的な規範あるいは社会全体の意志が形成されるかという問題に対して、その幾通りもの解答と両立し得るのである。 しかし、価値相対主義は、万人が一致して受け容れ得る理性的な論証のみによっては、社会規範あるいは社会全体の意志が形成されることは、決して有り得ないと考えるのであるから、理性的な論証以外の方法によって社会全体の意志を形成する解答としか両立し得ないことは言うまでもない。 そもそも、個体の意志や情緒や欲求やは、さらには、個体の価値や利益や目的やは、一致するどころか、一般的には共存さえしていない。 従って、このように対立する価値や利益や目的やが犠牲にされざるを得ないことになる。 理性的な論証によるこの問題(社会全体の意志を形成する問題)の解決は不可能だというのであるから、そこでは、何等かの実力による解決が要請されることになろう。 まさに、民主主義とは、この問題を、人間の頭数の多寡という実力によって解決しようとする試みなのである。 もちろん、票数以外にも様々な実力があり得る。 その究極的な形態は、いうまでもなく、赤裸々な暴力に外ならない。 いずれにせよ、価値相対主義は、社会全体の意志を形成するという問題に対して、何等かの実力による決着という解答を帰結せざるを得ないのである。 言うまでもなく、民主主義は、そのような解答の有力な一つとして位置付けられる。 すなわち、民主主義とは、多数者大衆の実力によって、社会全体の意志や利益や目的を決定Sる、パワー・ポリティックスに外ならないのである。 このような、何等かの実力による社会的意志決定を帰結する、価値相対主義と、究極かつ無制限の主権を帰結する、あらゆる法は意図的に設定されるとする考え方が、互いに結び付けられることによって始めて、多数者大衆は無制限の権力を掌握するのである。 何故なら、価値相対主義の下では、究極の社会的意志決定者である主権者とは、自らの実力によって社会全体の意志を決定し得る者に外ならないからである。 まさに、カール・シュミットの言うように、主権者とは、(実力行使をも辞さない)非常事態において、全体的な決断を下し得る者なのである。 それが、多数者大衆自身であるか、あるいは大衆の歓呼によって迎えられたその指導者であるかは、問題ではない。 構成的合理主義の法への適用と、その一卵性双生児である価値相対主義との結合が、大衆に無制限の権力を委ねるという事態を帰結することに、いささかの変りも無いからである。 ハイエクは、構成的合理主義の法への適用とともに価値相対主義をも含意する言葉として、法実証主義を用いることがある。 このように用いられた法実証主義が、大衆を主権者の高みに昇らせる、充分な前提となっていることは言うまでもない。 ハイエクが、根底的に批判するのは、まさに、このような意味における法実証主義なのである。 しかし、ハイエクは、このような法実証主義を批判するからといって、必ずしも自然法論に与する訳ではない。 ハイエクは、ハートによる自然法論の批判に、ほとんど全く同意している。 この意味においては、ハイエクもまた、ハートの言う実定法論者なのである。 ハイエクは、さらに、法実証主義と自然法論という二分法それ自体が、そもそも誤りなのであると主張する。 ハイエクは、(次節に述べるように、ハートもまた)法実証主義でも自然法論でもない、第三の法理論を指向しているのである。 ◆4.主権主義と表出主義 人間によって意図される対象としての客観的なものと、意図する人間主体の在りかとしての主観的なものとを峻別する、いわゆる方法二元論は、近代合理主義と同時に、近代個体主義をも産み落とした。 すなわち、主客二元論は、近代合理主義、わけても、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものに根拠付けられねばならぬとする客観主義と、近代個体主義、わけても、あらゆる行為はそれを意図する主観的なものに帰属されねばならぬとする主観主義という、一卵性双生児の母なのである。 認識論上の実証主義がこのような客観主義の、また、ハイエクの言う法実証主義がこのような主観主義のコロラリー(※注釈:必然的帰結)であることは言うまでもない。 ハートの批判する法の主権理論もまた、このような主観主義のコロラリーなのである。 ハートの批判する法理論は、法とは、主権者によって発せられた威嚇を背景とする命令であるとする立場である。 縮めて言えば、法とは、主権者の強制命令であるとする立場、あるいは、法の主権者命令説である。 ここで言う主権者が、最高かつ無制限の立法権力を有する者であることは言うまでもない。 このハートの批判する法の主権者命令説は、あらゆる法体系には、それを設定する最高、無制限の主権者が存在すると考える主権理論と、あらゆる法は、その逸脱に対する制裁の威嚇によって強制された命令であると考える命令理論との、大きく二つの部分に分けられる。 この法の主権理論こそが、近代個体主義あるいは主観主義の論理的帰結なのである。 あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場から、最高かつ無制限の主権の存在が論理的に帰結することは、既に前節において見た通りである。 この、あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場は、あらゆる行為は、それを意図する主体あるいは主観の存在を含意しているとする主観主義(主体主義)の、法における現れであると見ることが出来る。 何故なら、法もまた、人間の(必ずしも意図的とは限らない)行為の帰結であることに変わりは無いからである。 従って、最高かつ無制限の主権の存在は、このような主観主義の論理的な帰結であるとも考え得るのである。 すなわち、ハイエクの批判する法実証主義も、ハートの批判する法の主権理論も、このような主観主義の論理的な帰結となっているのである。 ハートは、法の主権理論に対して、様々な角度から疑問を提出する。 法とは、最高かつ無制限の立法権力を有する主権者によって、意図的に設定されたものであるとしよう。 このとき、主権者を主権者たらしめる根拠は、もはや法ではあり得ない。 何故なら、主権者が法によって主権者たり得るとするならば、その法を設定した主権者が存在することになり、主権の最高性と矛盾するからである。 あるいは、そもそも法を根拠とする主権は、主権の法的無制限性に矛盾すると言ってもよい。 いずれにせよ、主権者は、法以外の根拠によって主権者たり得るのである。 従って、憲法などの法によって立法権力を付与される立法府のような主体が、主権者たり得ることはあり得ない。 それでは、主権者とは一体誰であるのか。 それは、立法府を選挙する国民であるのか。 あるいは、何が法であるかを最終的に判定し得る司法府であるのか。 あるいは、大衆の歓呼によって推戴された大統領であるのか。 しかし、司法府はもとより、選挙民もまた、憲法によって授権された機関なのであって、主権者たり得よう筈もない。 なるほど、(憲法上の機関としての選挙民とは区別される)国民大衆あるいはその指導者は、主権者たり得るかも知れないが、このとき、大衆に主権を付与する根拠は一体何なのか。 言うまでもなく、主権理論は、ここで、自然法論(あるいは自然権論)を持ち出す訳にはいかない。 主権理論によれば、自然法もまた法である限り、いずれかの主権者によって設定された筈のものだからである。 それでは、大衆を主権者に推戴し得るのは、一体いかなる根拠によるのか。 主権理論の内部においては、そのような根拠は遂に示し得ない。 主権理論は、この、誰が主権者たり得るのかという問題を、常に開かれた疑問として留め置かざるを得ないのである。 主権者は、いかなる法によっても制限され得ないのであるから、当然、自己自身の設定した法によっても制限され得ない。 主権者は、自己自身を法的には制限し得ないのである。 従って、たとえば、主権者が、過去において制定した立法手続を、未来において遵守しなかったとしても、それは法的な責務に対する違反とはなり得ないし、また、主権者が、過去において締結した条約を、未来において履行しなかったとしても、それも法的な責務に対する違反とはなり得ない。 主権者が、過去において設定した法を、未来において無視したとしても、それは主権者の意志が変更された、つまりは気が変わったということに過ぎない。 主権者の意志の変更が、立法の名宛人や条約の相手方との約束に、たとえ違背することになったとしても、それは決して法的な責務に対する違反とはなり得ないのである。 すなわち、主権理論によれば、主権者の行為に対して、法を根拠として責務を問う可能性は、決して存在し得ないのである。 主権理論をめぐるこれらの問題、すなわち、主権者を主権者たらしめる法的な根拠は存在し得ないという問題、あるいは、主権者は自己自身を法的には制限し得ないという問題は、主権者という存在が、法体系の内部においては、遂に根拠を持ち得ないということを指し示している。 むしろ、主権者とは、法体系の外部から、法体系それ自体を根拠づけるものとして与えられて来たのである。 従って、主権者が、法体系の内部にその根拠を持ち得ないのはむしろ当然である。 主権者とは、法体系の外部にあって、法体系そのものを根拠づける、たとえば政治的な存在なのである。 しかし、法体系の根拠を問うに際して、このような主権者の存在は、果たして必然なのであろうか。 言い換えれば、法の根拠には、それを意図的に設定する主体が、不可避的に要請されるのであろうか。 言うまでもなく、このような主体の要請は、あらゆる行為には、これを意図する主観が不可避的に要請されるとする主観主義の必然的な帰結である。 ハートは、法の根拠を問うに際して、このような主観主義の要請が、全く不要であることを明らかにする。 法の主権理論は、法現象の最も中核的な部分を把握することに失敗すると言うのである。 しかし、ハートの法理論は積極的な展開は、以下の諸章の課題である。 ハートは、また、法とは威嚇を背景とした命令である、すなわち、法とは強制的命令であるとする法の命令理論を徹底的に批判している。 ハートによれば、法は、 第一に、その制定者自身にも適用されるという点において、 第二に、責務のみではなく権能をも付与するという点において、 第三に、慣習法のように意図的な立法にはよらないものが存在するという点において、 強制的命令と同一視する訳にはいかない。 さらに、ハートは、これらの問題点を踏まえて修正された命令理論をも一蹴する。 すなわち、第三の問題点を修正した、黙示の命令という考え方、第二の問題点を修正した、あらゆる法は公機関に向けられた命令であるとする立場、第一の問題点を修正した、公的資格において命令する立法者と私的資格において命令されるそれとを区別する試みの、一切を否定し去るのである。 しかし、ハートの命令理論批判それ自体は、本書の主題と必ずしも密接に関連する訳ではないので、主権理論批判に必要な限りにおいて触れることに留めたい。 ハートの批判する法の主権理論、あるいはハイエクの批判する法実証主義を帰結する主観主義は、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものによって根拠付けられねばならぬとする客観主義の、一卵性の兄弟/姉妹であった。 オースティンの批判する言語の記述主義が、この意味における客観主義のコロラリーであることは言うまでもない。 オースティンもまた、ハイエクやハートと同じように、客観主義と切り結んだ刀で、主観主義とも渡り合っている。 この客観主義と主観主義という、近代のロムルスとレムスとの闘いにおいては、二正面作戦以外の如何なる戦力もあり得ないのである。 オースティンの批判する記述主義は、言葉とは何等かの事実を記述するものであり、その真偽はそれが記述する事実の存否によって検証し得るとする考え方であった。 オースティンによれば、このような記述主義の淵源には、何等かの事態を指示する(言及する、記述する)という言葉の機能、すなわち言葉の指示機能のみに、言葉の持つあらゆる機能を還元しようとする態度が存在していた。 あるいは、オースティンの用語系に即して言い換えれば、記述主義とは、発話という行為を、指示行為(意味行為)という意味における発語行為に還元し尽くそうとする態度なのであった。 このような記述主義が、言葉についての客観主義であることは明らかであろう。 すなわち、言葉は、客観的な事実を記述することによって始めて意味を持つという訳である。 これに対して、オースティンの批判する、言葉についての主観主義とは、言葉とは(発話主体の)主観的な意図や情緒や欲求やの表出であると考える、言語の表出主義(expressivism)に外ならない。 言うまでもなく、言語には、発話主体に係わる何等かの事情(必ずしも主観的な心理とは限らない)を表現するという機能が、紛れもなく存在している。 従って、ある発話を了解するに当たって、その発話に表現されている発話主体の主観的な意図を無視してよい訳では些かもない。 しかし、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図に還元して理解するとなると、問題はまた別である。 表出主義とは、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図の表出に還元し尽くそうとする、言い換えれば、言葉の持つあらゆる機能を、その表現機能に還元し尽くそうとする態度に外ならないのである。 このような表出主義が、発話という行為には、それを意図する主観が必ず存在せねばならないと考える点において、言葉についての主観主義であることは明らかであろう。 オースティンは、記述主義とともに、このような表出主義をも根底的に批判するのである。 オースティンの用語系に即して言い換えれば、表出行為とは、発話という行為を、発話を手段として何ごとかを達成する行為である、発語媒介行為に還元し尽くそうとする態度に外ならない。 もっとも、オースティンの言う発語媒介行為は、必ずしも発話主体によって意図された行為のみに限られる訳ではない。 オースティンの言う発語媒介行為は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、発語の帰結として何等かの効果を達成する行為なのである。 もちろん、オースティンにおいても、何等かの帰結あるいは目的を達成すべく意図された発語媒介行為が重要であることは言うまでもない。 しかし、オースティンは、意図されざる帰結をもたらす発語媒介行為をも、その射程に捉えているのである。 それでは、発語によって何等かの帰結を達成する(発語それ自身とは区別された)行為は、総て、発語媒介行為となるのであろうか。 発語が何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別された)行為である発語内行為と、発語媒介行為は一体どこが違うのであろうか。 オースティンによれば、発語によって何等かの効果を達成する発語媒介行為と、発語が何等かの効力を獲得する発語内行為とは、発語のもたらす効果が、慣習的(conventional)なものであるか否かによって区別されるのである。 すなわち、発語媒介行為において達成される効果は、発語に後続することが、必ずしも慣習的には期待され得ないのに対して、発語内行為において獲得される効力は、発語に随伴することが、慣習的な規則によって支持されているのである。 言い換えれば、発語媒介行為の効果は、慣習以外の何ものか(たとえば威嚇や強制や)によって達成されるのに対して、発語内行為の効力は、それを有効適切なものとする慣習の存在を俟ってはじめて獲得されるのである。 オースティンの言う慣習(convention)は、もちろん、本書の問う慣習と密接に関連するものであるが、後に述べるように、むしろ、ハートの言うルールに極めて近い概念である。 従って、オースティンの言う発語媒介行為とは、発語によって何等かの帰結を達成する行為の内で、いかなる慣習にも依存せず、またルールにも従わない類いのものを指し示していることになる。 このような発語媒介行為は、確かに、発話行為によって意図された行為である場合が最も重要なのではあるが、しかし、意図されない行為をも明らかに含むものである。 従って、あらゆる発話を発語媒介行為に還元しようとする態度と、あらゆる発話を(発話主体の)主観的な意図の表出に帰着しようとする表出主義とは、必ずしも正確に一致する訳ではない。 発語媒介行為一元論は、表出主義をも包含する、より広い概念なのである。 このような発語媒介行為一元論を批判することによって、オースティンは、表出主義をもその批判の射程に収めていると言うことも出来よう。 しかし、慣習あるいはルールに依存も服従もしない行為(発語媒介行為)の内で、その主観的な意図のみによって了解し得る行為(表出行為)を除いたものが、差し当たり緊要であるとも思われないので、以下の行論においては、誤解の怖れの生じない限り、発語媒介行為一元論と表出主義とを互換的に用いることにしたい。(このことについては、後に再び述べる機会があると思われる。) すなわち、発語媒介行為一元論の批判は、取りも直さず表出主義の批判に外ならないのである。 以上に見てきたように、産業主義と民主主義、あるいは、合理主義と個体主義は、我々の近代社会において、極めて当然のこととして受け容れられている。 しかし、以上に見てきたことが示しているのは、我々が当然のこととして受け容れている合理主義と個体主義には、ある特徴的な前提が共有されているということである。 その前提とは、およそ人間とその社会は、目的志向的(intentional)な理性の客体であるか或いは主体であるとするものの見方である。 このようなものの見方に立って、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、手段的合理主義や実証主義あるいは確証主義、さらには記述主義といった、一連の客体主義あるいは客観主義(objectivism)が生じるのであり、また、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、個体主義や主権主義あるいは価値相対主義、さらには表出主義といった、一連の主体主義あるいは主観主義(subjectivism)が生じるのである。 このようなものの見方それ自体を、(近代)合理主義と呼ぶことも、かなり一般的ではあるが、合理主義は広狭様々な意味に用いられるので、ここでは、このようなものの見方を、志向主義(intentionalism)と呼ぶことにしたい。 いかにも熟さない命名であるが、本書の立場である慣習主義(conventionalism)との対比を意識してのことである。 従って、産業主義と民主主義の近代は、志向主義をその哲学的な前提としていることになる。 産業主義と民主主義は、志向主義という双面神の二つの顔である客観主義と主観主義の、もう一つの《ペルソナ》なのである。 ▼第三章 暗黙の言及 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - 人間とその社会を、理性によって意図的に制御し得る対象であると考える、構成的合理主義や、また、人間とその社会についての知識を、客観的な事実によって確証し得る言明であると考える、実証主義やは、我々の社会のほとんど自明な前提となっている。 しかし、果たして社会は、意図的に制御し得る対象であり得るのか。 あるいは、社会についての知識は、客観的に確証し得る言明であり得るのか。 ハイエクの問いは、ここから始まる。 ハイエクによれば、社会は、目的を達成すべく意図的に構成された秩序、すなわち彼の言う組織には留まり得ない。 社会には、意識的な目的を持たず、また、意図的に設計された訳でもない秩序が、必ず存在しているのである。 言い換えれば、社会には、差し当たり何に役立つのか(当の本人達にも)分からない、自然発生的(spontaneous)に生成された秩序が、常に存在しているのである。 ハイエクは、このような秩序を、自生的秩序(spontaneous order)あるいはコスモス(cosmos)と呼ぶ。 ハイエクによれば、自生的秩序は、通常の個体の行為はもとより、組織それ自体の行為をも含んだ秩序として、社会全域を覆っている。 すなわち、構成的合理主義の、社会全域を一個の組織によって覆い尽くし得るとする考え方に対して、ハイエクは、社会とは、一個の組織によってはついに覆い尽くせない、(組織をその要素として含み得る)自生的秩序に外ならないと主張するのである。 自生的秩序は、自然発生的に生成された秩序である。 しかし、言うまでもなく、自生的秩序は、人間の行為から独立した、自然と同様の、客観的な事実ではあり得ない。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行が、(意図せざる)結果として秩序を生成しているという事態に外ならないのである。 しかし、自生的秩序が、行為の遂行的な結果に外ならないからと言って、必ずしも、それが、行為の主観的な意図に還元され得る訳ではない。 自生的秩序は、それを結果する行為の主観的な意図を超越し、それに先行するのみならず、行為を規範的に拘束しさえするのである。 しかし、自生的秩序のこの側面については、次章で詳しく検討したい。 この章では、自生的秩序の、行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成されるという特徴から導かれる、もう一つの側面のみに、議論を限定したい。 自生的秩序のこの側面こそ、構成的合理主義さらには実証主義との闘いに際して、最も有力な橋頭堡となり得るからである。 行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成される秩序を、手短に、遂行的(performative)な秩序と呼ぶことにしょう。 すなわち、自生的秩序は、遂行的な秩序として特徴付けられるのである。 遂行的な秩序としての自生的秩序には、たとえば、市場、貨幣、法、権威、社交、言語、技能、偏見、儀礼、流行、慣習、伝統などといった社会秩序が含まれる。 これらの社会秩序は、それぞれの領域における人々の行為の持続的な遂行が、結果的に、それらの行為の従うべき何等かのルールを生成し、従ってルールに従う行為の集合としての秩序を生成するという意味において、明らかに遂行的な秩序となっている。 さらに、これらの社会秩序は、それぞれの領域において秩序を形成するルールに、人々が従うべき理由あるいは根拠が、人々がそれらのルールに従うという行為を持続的に遂行していること以外には、(究極的には)存在し得ないという意味においても、紛れもなく遂行的である。 言い換えれば、こられの社会秩序は、(それらの秩序を形成する)ルールに従う行為の持続的な遂行によって、ルール(あるいはそれが形成する秩序)それ自体が繰り返し生成されているという事態のみを、ルール(あるいはそれが形成する秩序)の存立する究極的な根拠としているという意味において、まさに遂行的な秩序と呼ぶべきなのである。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行の結果として生成されるのみならず、行為の持続的な遂行をその究極の根拠として存立する社会秩序なのである。 このような遂行的秩序としての自生的秩序が、いわゆる自然と同じ意味における客観的実在性、あるいは、理性によっては疑い得ない絶対的確実性を持ち得ないことは言うまでもない。 自生的秩序は、そのような秩序を生成する行為が繰り返し遂行されているという事態以外の何ものであもないのであって、遂行されている行為が変化すればそれに伴って変化する、行為の遂行に相対的なものである。 すなわち、自生的秩序は、歴史的あるいは地域的な行為の遂行に相対的な秩序なのである。 (このことから、必ずしも価値相対主義が帰結される訳ではないことは、次章に詳しく述べるが、さらに、このことから、いわゆる文化相対主義が帰結される訳ではないことも、次章以降に述べる機会があると思われる。) 従って、このような自生的秩序に、自然法則と同じ意味における、客観的、普遍的な法則を見い出そうとする試みの、挫折せざるを得ないことは、もはや旧聞に属そう。 ところで、遂行的秩序においては、行為の遂行によって生成される秩序が、いかなるものであるかについて、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序は、行為遂行の意図せざる結果として生成されるのであって、行為主体は、そのような結果について意識し得る筈もないのである。 さらに、自生的秩序においては、行為の遂行において事実上従われているルールが、いかなるものであるかについても、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序を形成するルールは、その遂行において実践的、経験的に従われているのであって、行為主体が意識的、合理的に従っている訳ではないのである。 言い換えれば、自生的秩序のルールは、言葉(あるいは意識的な理性)によっては語り得ぬ、行為において示し得るのみの、暗黙的(tacit)な事態なのである。 たとえば、典型的な自生的秩序である言語について見るならば、我々は、言語のルールについてほとんど意識せず、またその総てを語り得ないとしても、正しいルールに従った発話を遂行し得るのであり、ましてや、我々の遂行する個々の発話が、言語総体にいかなる結果をもたらすかなどということは、通常全く意識しておらず、またし得るものでもない。 このことは、その他の典型的な自生的秩序である技能や慣習においても、全く同様である。 技能とは、言葉によっては遂に説明し得ず、実践的(遂行的)にのみ従い得る、従って、実践的(遂行的)にのみ学び得るルールに外ならないし、慣習とは、まさに暗黙的、遂行的な事態そのものであって、それを繰り返し生成する行為が、そもそも如何なる意図の下に為されたものであったかが忘却されることによって、益々その安定を強めるといった代物である。 すなわち、行為の遂行によって繰り返し生成される、遂行的な秩序とは、取りも直さず、言葉(あるいは意識的な理性)によってはその全体をついに把握し得ない、暗黙的な秩序に外ならないのである。 従って、我々は、言語によっては分節し得ないが、行為においては遂行し得るルールを知っていることになる。 この意味において、我々は、語り得る以上のことを知っているのである。 この語り得ぬ、ただ示されるのみの、暗黙的あるいは遂行的な知識は、意識的あるいは理性的な認識のみによっては獲得し得ない。 何故なら、意識的、理性的な認識といえども、人間の行為には違いないのであるから、何等かの自生的秩序(あるいはそのルール)を繰り返し生成している筈である。 このことは、意識的、理性的な認識も、他の行為と同様に、自生的秩序のルールに遂行的に従っていることを意味する。 すなわち、意識的、理性的な認識もまた、自生的秩序(あるいはそのルール)に規範的に拘束されているのである。(この点については、次章で改めて述べる。) 従って、ある特定の自生的秩序とそのルールが、意識的、理性的な認識によってたとえ分節され得たとしても、当の意識的、理性的な認識それ自身の従うルールは、分節され得ないままにただ遂行されるものとして残ることになる。 すなわち、自生的秩序とそのルールを、意識的、理性的に認識し尽くそうとする試みは、いかなる認識といえども、自分自身が遂行的に従っているルールを(自分自身によっては)ついに分節し得ないという事情によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、ある特定の自生的秩序とそのルールならいざ知らず、総ての自生的秩序とそのルールを、意識的な理性によって分節し尽くすことは原理的に不可能なのである。 このような訳で、自生的秩序とそのルールは、(究極的には)語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であらざるを得ない。 遂行的な秩序は、暗黙的な秩序であらざるを得ないのである。 ハイエクは、このような自生的秩序として、社会を捉える。 自生的秩序としての社会が、構成的合理主義やあるいは実証主義やの対象となり得ないことは、容易に理解し得よう。 自生的秩序としての社会は、理性によって意図的に制御し得る対象ともなり得ないし、また、それについての言明を客観的に確証し得る対象ともなり得ないのである。 何故なら、自生的秩序とは、語り得ぬ、暗黙的な秩序なのであって、それ(その全体)を意図的に制御するための情報を、制御主体が獲得することは、原理的に不可能だからであり、ましてや、それ(その全体)についての言明を、客観的に確証することなど、ほとんど形容矛盾だからである。 あるいは、意図的、合理的な制御もまた、人間の行為には違いないのであって、何等かのルールに遂行的に従っている筈なのであるから、意識的、理性的な認識の場合と全く同様に、自生的秩序(あるいはそのルール)の全体を、意図的、合理的に制御し尽くすことは、原理的に不可能なのである。 自生的秩序としての社会は、遂行的あるいは暗黙的な秩序であるがゆえに、構成的合理主義やあるいは実証主義やといった客観主義の対象には、決してなり得ないのである。 このようなハイエクの自生的秩序論が、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に極めて接近していることは、注目に値する。 ウィトゲンシュタインの言う言語ゲームは、ここで言う遂行的あるいは暗黙的な事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、言語ゲームは、そのようなゲームが遂行されているという事態以外のいかなる根拠も持ち得ず、また、その全体を対象にして言及する可能性を原理的に拒否しているのである。 さらに、言語ゲームは、人間のあらゆる行為は、何等かの言語ゲームの遂行とならざるを得ないという特徴を、自生的秩序と分け持っている。 すなわち、自生的秩序もまた、人間のあらゆる行為は、何等かの(自生的秩序を形成する)ルールの遂行とならざるを得ないという特徴を持っているのである。 自生的秩序のこの特徴は、その規範的(normative)な側面と呼ばれる。(この側面の検討は次章の課題である。) この意味において、言語ゲームは、また、規範的な事態とも重なり合っているのである。 このように、ハイエクの自生的秩序論と、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、家族的類似と言い得る程度にも親しい関係にある。 ハイエクとウィトゲンシュタインは、その思想圏における最も中心的な領域を、ほとんど同じくしているのである。 しかし、ハイエクとウィトゲンシュタインの思想圏は、必ずしも完全に重なり合っている訳ではない。 彼らの思想圏は、その周辺的な領域において、かなりのずれを見せている。 わけても、このずれは、ハイエクの、進化への傾斜において著しい。 ハイエクによれば、自生的秩序としての社会を形成するルールは、変化する環境への適応や、他のルールの形成する(自生的秩序としての)社会との競合やを通じて、淘汰され選択される。 すなわち、ルールは、それが形成する(自生的秩序としての)社会に、勝利と繁栄をもたらすか否かによって、淘汰され選択されるのである。 ハイエクは、このような淘汰と選択を経て、ルールとそれが形成する(自生的秩序としての)社会が、進化し発展すると主張する。 ルールを遺伝子に置き換え、(自生的秩序としての)社会をそれによって形成される生命体に置き換えれば、この主張は、生命進化論とほとんど異ならない。 ハイエクの社会進化論とは、およそこのようなものである。 しかし、社会進化論を主張するからといって、ハイエクは、社会を意図的に進化させ得ると考えている訳では些かもない。 あるルールに従うことが、その社会にいかなる帰結をもたらすかは、自生的秩序としての社会においては原理的に不可知である。 すなわち、あるルールが、社会にとって何の役に立つかは、事前には知り得ないのである。 従って、あるルールに従うことが、社会に成功をもたらすか否かは、そのルールを暗黙的に遂行した結果として始めて知られ得ることになる。 言い換えれば、ルールは、それに従う社会が成功することによってはじめて、その進化論的な優位を証明し得るのであって、進化論的な優位が予知されることによって、それに従う社会が成功する訳ではないのである。 それゆえに、あるルールの採否を、それが社会にもたらす得失の予測に基づいて決定するといった、(たとえばルール功利主義のような)意図的な社会進化の試みは、不可避的に失敗するのである。 もっとも、ハイエクは、ある特定のルールを意図的に改良する可能性までも否定する訳ではない。 ある特定のルールに限るのであれば、それを対象として意識的に言及したり、意図的に改良したりすることは、もちろん可能である。 むしろ、何が従うべきルールであるのかをめぐって紛争が生じた場合など、遂行的に従われているルールを意識的に分節し、その不確定な部分を確定すべく、新しいルールを意図的に設定すべきでさえある。 しかし、このような分節や設定やが可能なのは、あくまで、ある特定のルールについてのみであって、決して、ルールの全体についてではあり得ない。 ルールを分節し設定する行為もまた、何等かのルールに従っているのであって、分節あるいは設定行為自体の従うルールを、当の行為者自身が分節しあるいは設定することは不可能だからである。 (あるいは、そのようなルールの分節/設定は、また別のルールに従っているのであって、いずれにせよ、すべてのルールを分節/設定し尽くすことは不可能なのである。) 言い換えれば、ある特定のルールを意識的に分節し意図的に設定する行為は、その他の総てのルールを暗黙的、遂行的に前提して始めて可能になるのである。 すなわち、ルールのあらゆる改良は、遂行的に従われているルールの全体を、無批判的に受け容れることによって始めて可能になるのである。 さらに、ルールの改良は、それが(自生的秩序としての)社会にいかなる帰結をもたらすかを予測しつつ為されるものでは、決してあり得ない。 そんなことが不可能であることは、既に述べた通りである。 ここで言うルールの改良とは、何が従うべきルールであるかを巡って紛争が生じた場合に、そのような紛争を解決すべく、ルールの不確定な部分を確定するということ以上のものではない。 このようなルールの境界確定において考慮されるのは、それが社会全体にもたらすであろう便益の予測ではなく、たとえばそれが現行のルールの総体と整合するか否かといった原理である。 すなわち、ルールの改良において考慮されるのは、その社会的な帰結ではあり得ず、その内在的な整合なのである。 なるほど、その社会的な効果に配慮しつつ、ルールを改定することもあるには違いない。 しかし、そのルールがいかなる意図によって設定されたかということと、果たしてそれがいかなる自生的秩序を形成するのかということは、(自生的秩序は意図的には構成し得ないのであるから)実は全く無関係なのであって、むしろ、その設定の意図が忘却されることによって始めて、ルールは安定した自生的秩序を形成し得るとも言い得るのである。 従って、ルールの改良は、遂行的に前提されているルールの総体との、内在的な整合性のみを考慮しつつ、言わば(社会的な)結果を顧みずに為されざるを得ないのである。 これが、ハイエクの言う、ルールの意図的な改良における整合性(coherency)の原理に外ならない。 ◆2.外的視点 - ハート - 人間の行為の集合に秩序(order)が存在するということは、そこに何等かの規則性(regularity)、構造(structure)、型(pattern)といったものが見い出されることに外ならない。 同様に、人間の行為の集合がルールに従っているということも、差し当たり、そこに何等かの規則性が見い出されることを意味している。 すなわち、行為の集合にルールが存在するということは、差し当たり、行為が整然と規則正しく(regularly)遂行されていることに外ならないのである。 ハートの言うルールもまた、差し当たり、行為が規則性を持って遂行されている事態として捉え得る。 ハートによれば、ある人間の集団がルールに従っているという事態は、その集団の外部に立って観察するならば、そこでは行為が規則性を持って遂行されているという事態として見えて来る筈である。 言い換えれば、あるルールが存在するということは、そのルールには従っていない外部の視点から見るならば、そこで遂行されている行為に、何等かの規則性が観察されるということ以外の何ものでもないのである。 このように、ルールの存在を、そこにおける行為の規則性として観察する、外部からの観察者の視点を、ハートは、外的視点(external point of view)と呼んでいる。 すなわち、外的視点とは、観察の対象となるルールには従わない、あるいは、そのルールの形成する社会的秩序には内属しない、いわば異邦人の視点なのである。 このような異邦人の視点(外的視点)から見た、ルールの、行為における規則性の存在として観察される側面を、ハートは、ルールの外的側面(external aspect)と呼ぶ。 従って、ルールが、単なる行為の観察可能な規則性に見えることがあるとすれば、それは、外的視点に立って、その外的側面のみを見ている場合なのである。 あるルールの形成する秩序に内属しない外的視点、あるいは、そのような外的視点から観察される、ルールの外的側面という概念を立てるからには、ルールの形成する秩序に内属する内的視点、あるいは、そのような内的視点から把握される、ルールの内的側面という概念もまた反射的に立てられよう。 ハートは、あるルールに従っている人々の視点、すなわち、そのルールを根拠あるいは理由として、自らの行為の当否を判定している人々の視点を、そのルールについての内的視点(internal point of view)と呼んでいる。 この内的視点から見るならば、ルールは、単に行為の規則性を持った遂行として観察されるのではなく、自らの行為の妥当性を理由付ける(根拠付ける)規範として把握されることになる。 このように規範として把握されるルールの側面こそが、ルールの内的側面(internal aspect)に外ならない。 しかし、ルールについての内的視点、あるいは、ルールの内的側面の検討は、次章の課題である。 本章では、ルールについての外的視点、あるいは、ルールの外的側面の検討に、議論を限定したい。 ルールわけても法的なルールについての客観主義的理論を論駁するに際しては、ルールについての外的視点に立つことが、最も効果的であると思われるからである。 ところで、あるルールについて、その外的視点に立つことは、そのルールを自らの従うべき規範とは見なさずに、そのルールの形成する秩序の外側に身を置いて、そのルールを観察する、言わば異邦人の立場を取ることである。 この異邦人の視点からは、ルールは、繰り返し観察される行為の規則性、あるいは単なる習慣と見なされるに過ぎない。 しかし、このような視点に立つことによって、あるルールに従っている人々の行為を、かなりの蓋然性を持って予測することが可能になる。 すなわち、行為における規則性の認識は、たとえば、ある条件の下では、いかなる行為が遂行され易いか、さらには、ある行為の遂行は、どの程度の(敵対的な)反作用を被るかといった予測を、かなりの精度において可能にするのである。 ここに、ルールわけても法的ルールについての客観主義的な理論の可能性を見い出す向きも、あるいはあるかも知れない。 しかし、ある特定のルールに対して外的視点を取る観察者は、如何なるルールにも内属しないという訳ではない。 観察もまた一つの行為である以上、如何なるルールについての内的視点も取らない、すなわち、あらゆるルールに対して外的視点を取る観察者など、決して存在し得ないのである。 従って、何等かの予測が可能になるのは、ある特定のルールに従う行為(とその行為に帰責可能な範囲の帰結)についてのみであって、任意のルールに従う総ての行為(さらにはその社会全体に対する帰結)についてでは、全くあり得ないのである。 そのうえ、ルール一般とは区別される、法的ルールにおいては、人々の行為の当否を判定する根拠となるルール(一次ルール)に対して、意識的に外的視点を取ることによって、そのルールを変更したり、解釈したり、あるいは(ルールそれ自体の妥当性を)承認したりする行為が本質的に重要となる。 しかし、それらの行為もまた、何等かのルール(二次ルール)に遂行的に従っているのであって、自らの従っているルールについては、内的視点以外取り得ようもないのである。 いずれにせよ、あるルールに対して外的視点に立ついかなる者も、何等かのルールに従った内的視点に立たざるを得ないのである。 ハートは、人々の行為の当否を判定する理由となるルールそれ自体を対象として、それに変更を加えたり、それに基づいて裁定を下したり、さらには、それがルールとして妥当することに承認を与えたりする行為と、そのような行為自身の従うルールの存在が、法あるいは法体系の概念を定式化するに当たって、不可欠の要件であると考えている。 すなわち、ハートは、通常の行為の従うルールを一次ルール(primary rule)と呼び、一次ルールを対象とする変更や裁定や承認やの行為の従うルールを二次ルール(secondary rule)と呼んで、法(体系)とは、一次ルールと二次ルールとの結合であると定式化する。 法わけても一次ルールは、変更や裁定や承認やという意図的な行為の対象になることを、その本質としているという訳である。 しかし、法体系を構成する二次ルールは、(変更や裁定や承認やという)意図的な行為の対象とは、ついになり得ない。 このことを、二次ルールの内でも際立って重要な位置を占めている、承認という行為の従うルール、すなわち、ハートの言う、承認のルール(rule of recognition)について見てみよう。 あるルールを承認するとは、そのルールが人々によって従われるべきであると判定する、言い換えれば、そのルールがルールとして妥当(valid)であると評価することに外ならない。 従って、承認のルールは、何が妥当な(一次)ルールであるかを評価する規準を与えることになる。 すなわち、(一次)ルールは、承認のルールの与える規準を充たすことによって始めて、ルールとして妥当し得るのである。 言い換えれば、承認のルールは、(一次)ルールを妥当させる根拠となっているのである。 それでは、承認のルールそれ自体は、如何なる根拠によって、妥当し得るのであろうか。 容易に確かめられるように、この問いに答えることは、どこかで断念されざるを得ない。 すなわち、あるルールの妥当性を、他のルールの与える規準によって評価しようとする試みは、どこかで断念されない限り、無限後退に陥るのである。 ハートは、その妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在しない、従って、その妥当性を全く評価し得ない承認のルールを、究極の(ultimate)承認のルールと呼ぶ。 すなわち、究極の承認のルールとは、それ自体の妥当性を承認する根拠は決して持ち得ないが、その法体系に属する如何なるルールの妥当性をも承認する(究極的な)根拠となり得るルールなのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないルールなのである。 それでは、このような究極の承認のルールは、何故に、その他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールは、自らを妥当させる如何なる根拠も持ち得ないという意味において、まさしく無根拠である。 このように自らは無根拠な究極の承認のルールが、如何にして、他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールといえども、ルールである以上、その外的側面を持っている筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、その外的視点(承認の視点ではなく、単なる観察の視点)から見るならば、繰り返し遂行される行為の規則性、あるいは慣習(practice)以外の何ものでもないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、その法体系に属するルールの妥当性を承認する行為において、繰り返し示される規則性、あるいは習慣的に遂行される慣習として捉え得る側面を持っているのである。 この、究極の承認のルールの、慣習(practice)としての側面、すなわち遂行的(performative)な事態としての側面こそが、その(法体系に属する)他のルールを妥当させる根拠としての側面、すなわち規範的(normative)な事態としての側面と、表裏一体をなしているのである。 あらゆる法体系には、それに属するルールが、ルールとして妥当するか否かを決定し得る、承認(recognition)という行為が必ず存在している。 自らに属する一切のルールの当否を決定し得て始めて、一個の法体系と呼び得るという訳である。 この承認という行為が、繰り返し遂行されることの内に、何がルールとして妥当し得るかを決定する規準、すなわち承認のルールが示されるのである。 言い換えれば、承認という行為は、その持続的な遂行を通じて、何等かのルールを、自らの従うべきルールとして、受容していることを示すのである。 このことは、究極の承認のルールが、その外的視点から見るならば、承認という行為の持続的な遂行に外ならないにもかかわらず、承認という行為を遂行する側、すなわちその内的視点から見るならば、他のルールを妥当させる根拠として、自らが従うべき規範でもあり得る事態を指し示している。 すなわち、究極の承認のルールは、承認という行為の持続的な遂行であると同時に、その同じ事態が、他のルールの妥当性を根拠付け得る、(承認という行為の当否を判定し得る)規範ともなっているのである。 従って、究極の承認のルールが、その法体系に属する他の総てのルールの妥当性を根拠付け得るのは、それが、承認という行為の持続的な遂行の内に、繰り返し示されているからに外ならないことになる。 言い換えれば、究極の承認のルールが、他のルールの当否を決定し得る規範たるにおいては、それに従う行為が持続的に遂行されていること以外の、いかなる根拠もあり得ないのである。 究極の承認のルールは、その内的視点から見れば、他のルールを妥当させる根拠となる規範であるが、その外的視点から見れば、承認という行為の持続的な遂行であるという二つの側面を持つ、一個の事態に外ならない。 究極の承認のルールは、その持続的な遂行において始めて、他のルールの妥当根拠たり得るのである。 これに対して、承認のルールを含む二次ルールと対比される、一次ルールは、それが(通常の)行為の当否を判定する根拠となるに当たって、その持続的な遂行を必ずしも前提とされる訳ではない。 一次ルールが、行為の当否を判定する根拠たり得る、言い換えれば、ルールとして妥当し得るのは、それが、持続的に遂行されているからではなく、承認という行為によって意識的に承認されているからなのである。 すなわち、一次ルールは、たとえ、かつて一度も遂行されたことが無いとしても、承認されている限り、行為の自らに従うべきことを正当化し得るのである。 しかし、このように、承認という意図的な行為によって正当化し得るルールは、一次ルールと二次ルールの結合としての法体系における、一次ルール以外にはあり得ない。 一般のルールは、その妥当性を、如何なる(意図的な)行為によっても、根拠付け得ないのである。 この意味において、一般のルールは、究極の承認のルールとその位相を同じくしている。 あるいは、むしろ究極の承認のルールこそが、法体系に属するルールの内で(究極的であるがゆえに)唯一その外部に開かれているという意味において、一般のルールと同相なのである。 一般のルールと、究極の承認のルールとの違いは、前者が、(一般の)行為の当否を判定する根拠となっているのに対して、後者が、(一次)ルールの当否を判定する根拠となっているという点のみにある。 いずれのルールも、その持続的な遂行によって始めて、当否判定の根拠たり得るという点においては、いささかの違いもないのである。 従って、究極の承認のルールについて、これまでに述べてきた議論は、一般のあらゆるルールについても、ほとんどそのままの形で成立し得ることになる。 すなわち、法体系として構成される以前の法的ルールはもとより、社交や言語や技能や儀礼や流行や道徳や慣習や伝統やといった、あらゆるルールに対して、究極の承認のルールをめぐるハートの理論は、適切な議論となり得るのである。 加えて、ハートは、究極の承認のルールが、従ってまた(二次ルールの対象としての一次ルールを含まない)一般のルールも、語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であることを強調している。 すなわち、ハートは、究極の承認のルール、さらには一般のルールが、慣習(practice)という遂行的な事態であるとともに、言明し得ぬ暗黙的な事態でもあると主張するのである。 究極の承認のルールは、承認という行為の習慣的な遂行を通じて、経験的(遂行的)に従われているのであって、対象として言及されることによって、意識的に従われている訳ではない。 すなわち、究極の承認のルールには、それを客観的な対象として言及し、その上で、それを従うべきルールとして意識的に受容する、いかなる手続きも存在し得ないのである。 これは、究極の承認のルールが究極的であることの、ほとんど自明な帰結である。(因みに、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないのであった。) 従って、究極の承認のルールは、遂行的に従われていることによって、暗黙的に受け容れられているのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、遂行的な事態であるがゆえに、暗黙的な事態ともなっているのである。 このような遂行的かつ暗黙的な事態としての究極の承認のルールが、いずれかの主体による意図的な制御の対象となり得ないことは、言うまでもなかろう。 究極の承認のルールを、意図的に設定したり変更したり廃棄したりする試みは、不可避的に失敗するのである。 (もっとも、究極の承認のルールといえども、部分的には、意図的な制御の対象となり得る場合のあることを、ハートは指摘している。これは、ハイエクの言う、整合性の原理が適用される場合と、ほとんど同じである。しかし、この場合についての検討は、次章に委ねたい。) 従って、究極の承認のルールは、それが遂行的に示されている行為の変化に伴って、変化することになる。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の習慣的な遂行の(意図せざる)結果として、生成し、また消滅するのである。 ところで、究極の承認のルールについて、その外的視点に立つ観察者が、それを対象として言及することは、もちろん可能である。 もし、このことが不可能であるならば、そもそも、社会哲学など存立し得る筈もない。 しかし、そうであるからと言って、究極の承認のルールが暗黙的であることに、些かの変りもない。 差し当たり、外的視点に立つ観察者といえども何等かのルールに従わざるを得ないという問題は措くとしても、究極の承認のルールは暗黙的なのである。 何故ならば、観測者が、究極の承認のルールを、いかに正確に分節し得たとしても、観察者の分節という行為によっては、究極の承認のルールの従われるべきことは、少しも正当化され得ないからである。 すなわち、観察者の行為は、あくまで観察に過ぎないのであって、その対象となるルールの妥当性を根拠付け得る(承認の)行為とは、決してなり得ない。 従って、そのルールが観察者によって如何に正確に言明され得たとしても、自らがそのルールに従うべき根拠は、少しも対象として意識され得ないのである。 言い換えれば、あるルールに遂行的に従っている行為者にとっては、観察者がそのルールを分節し得るか否かに拘わらず、そのルールを暗黙的に受け容れさるを得ないのである。 それゆえに、その外的視点にたつ観察者が、たとえ、何等かのルールを対象として分節し得たとしても、その内的視点に立つ行為者にとっては、そのルールに従うことは、依然として暗黙的な事態なのである。 ◆3.発語的行為 - オースティン - 言葉は、つまるところ、何等かの事実を記述している。 あるいは、言葉の意味は、それが記述する対象である、さらには、言葉は、それが記述する事実の存否によって、その真偽を確定しうる、あるいは、言葉は、その真偽の確定し得る場合にのみ、有意味である、といった記述主義の言語観を、オースティンは批判する。 オースティンの用語系によれば、記述主義とは、差し当たり、言葉を発すること、すなわち発言(発話)の総ては、事実を記述し、真偽を確定し得る、事実確認的(constattive)発言に還元されるか、さもなくば、ナンセンスに帰着するという主張に外ならない。 しかし、あらゆる発言を、事実確認的発言に還元し尽くすことは、果たして可能なのだろうか。 たとえば、何等かの権能に基づいて指図する場合の指図や、あるいは、何等かの判定理由を明らかにして審判する場合の審判の発言や、さらには、何等かの行為の履歴を約束する場合の約束の発言やは、事実を記述している訳でもないし、また、その真偽が問題となっている訳でもない。 しかし、これらの発言が、社会生活において、極めて重要な種類の発言であることは論を俟たない。 財産権や人格権の行使や、契約や、あるいは、それらを巡る裁判やは、社会生活の根幹を成している。 記述主義は、このような指図や審判や約束やの発言を、その焦点から外してしまっているのである。 (もちろん、記述主義が、これらの発言に、何の位置付けも与えていない訳ではない。前章で述べたように、記述主義から見れば、これらの発言は、主観的な意図の表出に外ならないことになる。しかし、この点についての検討は、次章の課題である。) 指図や審判や約束やの発言は、その発言を遂行することそれ自体が、指図や審判や約束やといった、社会的行為そのものを遂行することになる種類の発言である。 たとえば、「~を約束します」と発言することは、取りも直さず、約束という社会的行為を遂行することに外ならない。 すなわち、これらの発言においては、言うことが、行うこととなっているのである。 このように、発言することが、(発言という行為とは区別される)社会的行為を遂行することになる種類の発言を、オースティンは、差し当たり、行為遂行的(performative)発言と呼ぶ。 事実確認的発言に焦点を合わせている記述主義は、この行為遂行的発言を捕捉し得ないのである。 行為遂行的発言は、もとより、事実を記述している訳ではなく、従って、その真偽も確定し得ない。 行為遂行的発言は、真偽いずれでもないのである。 しかし、行為遂行的発言であれば、いかなるものでも、社会的行為として効力を発揮するという訳でもない。 たとえば、指図する権限のない者による指図や、判定理由を示し得ない審判は無効であり、約束された行為が履行されない約束は不実である。 すなわち、行為遂行的発言は、何等かの条件を充たすことによって始めて、社会的行為としての効力を獲得するのである。 オースティンは、この、行為遂行的発言を社会的行為として発効させる条件を、行為遂行的発言の適切性(felicity)の条件あるいはルールと呼んでいる。 従って、行為遂行的発言は、それを発効させるルールを根拠として、適切あるいは不適切のいずれかに判定されるのである。 しかし、いかなる行為遂行的発言が適切であるかを決定するルールの検討は、次章に委ねられる。 ここでは、事実確認的発言と対比される意味での行為遂行的発言の検討に議論を限定したい。 行為遂行的発言の概念こそが、記述主義の批判に対して、最も有力な手掛かりを与え得るからである。 この行為遂行的発言の概念と、言語行為(speech act)の一般理論との関係は、オースティン本人においても、かなり微妙である。 もちろん、行為遂行的発言の発見なしには、言語行為の一般理論が構想され得なかったであろうことは言うまでもない。 しかし、言語行為の一般理論が構成されるに及んで、行為遂行的発言の概念が後景に退けられたこともまた明らかである。 行為遂行的発言と言語行為とは、果たして、如何なる関係に置かれているのであろうか。 前章で述べたように、オースティンによれば、言葉を発すること、すなわち発言(発話、発語)することは、以下の三種の行為を同時に遂行することに外ならない。 言い換えれば、言うことは、以下の三種の位相において、行うことなのである。 その第一は、発語という行為それ自体が、何等かの事態を意味する、すなわち何等かの事態を指示する行為に外ならないという発語行為(簡単のために、ここでは、音声行為および用語行為を捨象して、発語行為を意味行為あるいは指示行為に限定している)の位相であり、 第二は、発語することが、何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別される)行為を遂行することになるという発語内行為の位相であり、 第三は、発語することを手段として、発語主体の意図する、何等かの結果を達成することが目指されるという発語媒介行為(ここでは、発語主体の意図せざる結果を捨象している)の位相である。 オースティンは、以上の三種の行為を総称して、言語行為と呼んでいる。 すなわち、言語を発話することは、以上の三種の位相において、行為を遂行することなのである。 行為遂行的発言と発語内行為、さらには、事実確認的発言と発語行為が密接に関連していることは一見して明らかであろう。 しかし、両者は同じものではあり得ない。 何故なら、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別は、ある一つの発言をいずれかのカテゴリーに分類するための区別であるのに対して、発語内行為と発語行為との区別は、ある一つの発言を幾つかの(行為の)位相に分解するための区別だからである。 すなわち、ある一つの発言が、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言のいずれに分類されたとしても、その発言には、発語内行為および発語行為(さらには発語媒介行為)の位相が常に存在し得るのである。 従って、行為遂行的発言も、発語行為の位相を持つという意味において、何等かの事実を指し示していることになるし、また、事実確認的発言も発語内行為の位相を持つという意味において、何等かの行為を遂行していることになる。 このような、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為あるいは発語行為との関係を、つぶさに検討することによって、記述主義を乗り越える言語行為論の射程が、詳(つまび)らかにされるのである。 ところで、何等かの社会的効果を帰結する点においては共通している、発語内行為と発語媒介行為との相違は、前章で述べたように、発語内行為の効力が、そのような効力を発生させる根拠となる、何等かの慣習によって支えられているのに対して、発語媒介行為の結果は、そのような慣習に支えられなくとも達成され得るという点にある。 言い換えれば、発語内行為は、慣習に従う限りにおいて、その社会的な効力を発揮し得る言語行為の位相であるのに対して、発語媒介行為は、慣習に従うか否かに拘わらず、その(発語主体の意図する)社会的な結果を達成し得る言語行為の位相なのである。 ここに言う慣習が、すでに述べた、行為遂行的発言にちての適切性のルールと同じものであることは、確認されねばならない。 すなわち、発語内行為の効力の存否を判定する根拠は、(行為遂行的発言についての)適切性のルールなのである。 従って、発語媒介行為は、発語行為のように、それが指示する事実に基づいて、その真偽を判定し得る訳ではなく、また、発語内行為のようにそれが従うルールに基づいて、その当否(適切・不適切)を判定し得る訳でもない、言語行為の第三の位相ということになる。(実は、発語媒介行為は、それが達成しようとする発語主体の意図に基づいて、その成否を判定し得るのであるが、この点についてはここでは触れない。) しかし、発語内行為の当否を判定し、また、発語内行為と発語媒介行為とを区別する、慣習あるいは適切性のルールについての検討は、次章の課題である。 ここでは、発語内行為と行為遂行的発言との関連、および、発語内行為と発語行為との区別に議論を限定したい。 それでは、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為および発語行為とは、いかなる関係に置かれているのであろうか。 まず、事実確認的発言は、言うまでもなく、事実を記述し、その真偽を、それが記述する事実の存否に基づいて判定し得る種類の発言なのであるから、紛れもなく、発語行為の位相を保有している。 このような事実確認的発言は、果たして、発語内行為の位相をも保有しているのであろうか。 たとえば、「現在のフランス国王は禿である。」という発言を考えてみよう。 この発言は、典型的な記述命題であって、明らかに事実確認的発言である。 しかし、現在のフランスに国王など存在しないのであるから、その国王が禿であるか否か、言い換えれば、この発言の真偽を、事実に基づいて判定することは不可能である。 それでは、この発言は、無意味であろうか。 否である。 この発言の指示する対象は(それが事実として存在しているか否かに拘わらず)明瞭である。 この発言が奇異な感じを与えるのは、それが無意味だからではなく、むしろ、事実として存在していない対象についての記述命題が、発言として不適切だからである。 すなわち、記述命題という事実確認的発言は、それが術定する対象(ここでは現在のフランス国王)が、事実として存在し得るという条件を充たすことによって始めて、有効あるいは適切な発言として遂行されるのである。 これは、たとえば指図という行為遂行的発言が、指図する権能が存在するという条件を充たすことによって始めて、社会的な効力を有する適切な発言として遂行されるという場合に類似している。 言い換えれば、事実確認的発言と言えども、その真偽が問題とされる以前に、事実確認あるいは記述という社会的行為を遂行する発言として、有効/適切であるか否かが問題とされるのである。 従って、事実確認的発言においても、行為遂行的発言と同様に、その発言が、社会的な効力を持つか否か、あるいは、適切であるか否かが問われる位相が存在することになる。 すなわち、事実確認的発言にも、発語内行為の位相が、確かに存在するのである。 また、「現在のフランス国王は禿である。」という発言は、「禿でないならば現在のフランス国王ではない。」という発言を論理的に帰結する。 従って、ひとたび前者の発言を遂行したならば、後者の発言を拒否することは、論理のルールに違反することになる。 これは、ある行為の履行を約束する発言を遂行したならば、その行為を履行しないことは、約束のルールに違反することになる場合に類似している。 すなわち、いずれの場合においても、ある発言の遂行が、何等かの行為の遂行を義務付け、その行為の遂行を拒否した場合、何等かのルール違反に問われるのである。 言い換えれば、約束と言う行為遂行的発言が、その目的あるいは帰結としての行為の履行されなかった場合に、不誠実あるいは不適切(ルール違反)になるのと同様に、記述という事実確認的発言もまた、その(論理的な)帰結としての行為の履行されなかった場合、不適切(ルール違反)になるのである。 従って、ここでもまた、事実確認的発言は、その真偽を問われる以前に、社会的行為を遂行する発言として、適切であるか否かを問われることになる。 すなわち、事実確認的発言には、発語内行為の位相が、確かに存在しているのである。 続いて、行為遂行的発言を取り上げよう。 行為遂行的発言に、発語内行為の位相が存在していることは、言うまでもなかろう。 それでは、行為遂行的発言に、果たして、発語行為の位相は存在するのであろうか。 たとえば、判決という行為遂行的発言を考えてみよう。 判決という発言は、言うまでもなく、ある行為の当否を、潜在的には明示し得る判定理由に基づいて判定するという社会的行為の遂行である。 通常の場合、この判決理由は、あるカテゴリーに属する行為の当否を規定している一般ルールと、問題となっている行為がそのカテゴリーに属するか否かについての判断から構成されている。 すなわち、当該行為は、ある一般的なルールの違反に該当する故に、妥当ではないと判決するといった具合である。 このとき、問題となっている行為が、一般的なルールに違反するカテゴリーの行為に該当するか否かについての判断は、記述命題の真偽についての判断と極めて類似している。 いずれの判断も、それが指示する事実に基づいて、その分類が決定されるからである。 因みに、前者の判断は、後者の判断と同じく、事前判断と呼ばれることも多い。 従って、判決という行為遂行的発言は、その社会的な効力を根拠付ける判定理由の核心において、事実確認的発言あるいは発語行為を常に前提せざるを得ないのである。 また、判決という行為遂行的発言は、たとえば、「甲は乙に損害賠償を支払うべし。」といった当為命題であることが多い。 このような当為命題は、「甲は乙に損害賠償を支払う。」という記述的あるいは指示的(phrastic)と、「~すべし」という指図的あるいは承認的部分(neustic)とに分解することが常に可能である。 ここで言う記述的あるいは指示的部分が、発語行為の位相を持っていることは明らかであろう。 すなわち、当為命題という行為遂行的発言は、その記述的あるいは指示的部分が常に存在するが故に、発語行為の位相を必ず内包しているのである。 行為遂行的発言における発語行為の位相の存在についてのこのような説明は、オースティン本人のそれと言うよりも、むしろ、ヘアあるいはサールによるものである。 他の点はいざ知らず、この点に関しては、ヘアあるいはサールの議論は、オースティンの言語行為論の理解にとって、極めて有効な視座を提供していると思われる。 行為遂行的発言を、記述的あるいは指示的部分という発語行為の意味を指定する核心部分と、指図的あるいは承認的部分という発語内行為の効力を指定する境界部分に分解して理解することは、ある一つの言語行為には、常に三種類の(行為の)位相が存在していると考える、言語行為論の着眼を、より明晰な分析枠組みに高めるものである。 記述主義は、このような分析枠組みの獲得によって、ようやく乗り越えられることになるのである。 これまで述べてきたように、事実確認的発言もあるいは行為遂行的発言も、発語内行為および発語行為の位相を同時に保有していることが明らかになった。 従って、事実確認的発言と行為遂行的発言との区別は、実は相対的なものであって、むしろ、両者は、発語行為の位相をその核心部分に持ち、各々に種類の異なる発語内行為の位相をその境界部分に持つ、一連の言語行為の二つの種類であると考えられるのである。 言い換えれば、事実確認的発言は、記述(言明解説)という発語内行為を遂行する言語行為なのであり、行為遂行的発言は、指図(権能行使)や判決(判定宣告)や約束(行為拘束)やという発語内行為を遂行する言語行為なのであって、また、いずれも、何等かの事態を指示する部分として発語行為を内包する言語行為なのである。 このような言語行為論の視点から見れば、記述行為は、言語行為という多元的な現実を、その記述的あるいは指示的な部分のみに一元化して把握しようとする、対象指示一元論あるいは意味行為一元論であることが明らかになる。 記述主義は、言語行為の唯一つの位相しか捉えていないのである。 しかし、我々の言語の現実の在り方である言語行為は、対象指示に還元し尽くされる筈もない。 如何なる対象指示と言えども、発語内行為の種類が指定されることによって始めて、言語行為、すなわち、発話として社会的に発効するのである。 従って、記述の発話と言えども、それが社会的な効力を有する適切な発話であるためには、何等かのルールに従っていなければならないことになる。 しかし、言語行為の従うルールについての検討は、次章の課題である。 ▼第四章 規範の文脈 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.規範的秩序 - ハイエク - あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。 多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。 しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。 あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。 ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。 すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。 ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。 言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。 従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。 すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。 この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。 ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。 抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。 言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。 従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。 しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。 ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。 前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。 すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。 ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。 行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。 しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。 ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。 さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。 すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。 ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。 自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。 従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。 すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。 言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。 このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。 あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。 すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。 この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。 しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。 従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。 たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。 すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。 それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。 それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。 すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。 このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。 何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。 すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。 主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。 すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。 言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。 従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。 しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。 ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。 すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。 言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。 このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。 言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。 ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。 すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。 従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。 今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。 この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。 すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。 この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。 何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。 それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。 すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。 あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。 すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。 このような疑いには、充分な根拠がある。 何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。 たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。 このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。 すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。 従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。 このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。 すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。 従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。 すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。 しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。 すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。 言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。 従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。 すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。 言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。 以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。 言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。 ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。 すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。 従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。 しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。 ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。 なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。 しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。 何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。 従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。 言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。 あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。 すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。 いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。 自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。 ◆2.内的視点 - ハート - ルールが存在するということは、取りも直さず、行為に何等かの秩序あるいは規則性が見い出されるということに外ならなかった。 前章で述べたように、ハートは、この、行為に何等かの規則性を見い出す視点を、ルールに対する外的視点と呼んだのであった。 また、ハートは、ルールの、行為に規則性が存在する事態として捉えられる側面を、その外的側面と呼んだのであった。 しかし、ハートによれば、ルールがルールとして存在し得るためには、行為に規則性が見い出される以外に、ルールが行為の当否を判定する根拠あるいは理由として、(行為主体に)受け容れられておらねばならないのである。 言い換えれば、ハートの言うルールは、その外的側面が観察される以外に、行為の妥当性を評価する規準となる、その内的側面が確認されて始めて、ルールとして存在し得るのである。 ルールは、そのルールには従わない、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームには内属しない外的視点によって、行為に規則性が存在する事実として観察されるその外的側面と、そのルールに従う、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームに内属する内的視点によって、行為の妥当性を判定する当為として受容されるその内的側面と言う、二つの側面が合わさって始めてルールと呼び得る。 すなわち、ハートによるルールの概念は、ルールの事実として従われていることが観察されることのみならず、ルールの当為として従われるべきことが受容されていることをも、その構成要件とするのである。 この、事実としてのルール、すなわち、ルールの外的側面と、当為としてのルール、すなわち、ルールの内的側面とは、いずれか一方から他方が導き出されるといった関係にはなく、ルールという一つの事態を、外的/内的という二つの視点から見ることによって現れた、その二つの側面なのである。 従って、その外的視点から見るならば、ルールは、それが従われているという単なる事実に過ぎず、従うべき当為では些かもあり得ないのに対して、その内的視点から見るならば、それは、自らの従うべき当為なのであって、それが事実として従われているか否かは、規範逸脱の事実認定においてのみ問題とされるのである。 いずれにせよ、ルールが、行為の当否を判定する根拠あるいは理由となり得るのは、その内的視点から見た場合なのである。 ところで、行為の妥当性を判定する根拠となる内的側面を持つ、ルールそれ自体の妥当性は、いかなる根拠によって正当化されるのであろうか。 法的ルールの場合、前章で述べたように、あらゆる法体系には、それに属する総てのルールの妥当性を根拠付け得る承認のルールが、常に存在しているというのが、この問いに対するハートの答えであった。 すなわち、法体系を構成する(一次)ルールは、承認の(二次)ルールによって、その妥当性を理由付け得るのである。 しかし、ルールの妥当性の、このような正当化の方法は、無限後退に陥らない限り、どこかで断念されざるを得ない。 言い換えれば、無限後退を避けるためには、他のあらゆるルールを正当化し得るが、自らは如何なるルールによっても正当化され得ない承認のルールが、どこかで要請されざるを得ないのである。 前章で述べたように、ハートは、このような承認のルールを、究極の承認のルールと呼んだのであった。 すなわち、究極の承認のルールは、そのルールの妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在し得ないという意味において、究極的なのである。 究極の承認のルール、あるいは、法体系には属さない一般のルールは、その妥当性を判定し得る如何なる根拠も持ち得ない。 言い換えれば、このようなルールは、それ自体を対象として規範的に評価し得る、如何なる内的視点をも持ち得ないのである。 従って、このようなルールそれ自体を対象とし得るのは、それが遂行的に存在しているという事態を認識し得る、その外的視点以外にはあり得ない。 すなわち、このようなルールは、(それ自体を対象として見れば)ただ事実として遂行されているという事態以外ではあり得ないのである。 しかし、このようなルールの規範性と遂行性との関係については、前章に詳しく検討したので、ここでは触れない。 むしろ、本節では、ルールわけても究極の承認のルールに従う内的視点の存在が、ハートの批判する法の主権者意志説に対して、果たして如何なる含意を持ち得るのかを問題としたい。 あらゆる法は、主権者の意図的に設定したものである、さらに、その論理的な帰結として、そのような主権者は、法的に無制限な主体である、これが法の主権者意志説であった。 これに対して、究極の承認のルールは、あらゆる法に、それが法として妥当するための根拠を与えるルールである。 従って、たとえば、主権者の制定した法は妥当するといったルールもまた、究極の承認のルールであり得る。 因みに、ある法が主権者によって制定されたものであるか否かを、その法の妥当性を判定する究極的な規準とする法体系は、近代国家においてはむしろ通例である。 しかし、この場合、主権者は決して無制限ではあり得ない。 このような法体系においては、主権者は、主権者の設定する法は有効であるという、究極の承認のルールを根拠として始めて、自らの設定する法の妥当性を理由付け得るのであり、さらに、そもそも自らの主権者たり得た根拠それ自体も、主権者たるの要件を規定する、究極の承認のルールを待って始めて与えられるのである。 言い換えれば、主権者は、自らの行為の法的な効力のみならず、自らの存在それ自体をも、究極の承認のルールによって与えられているのである。 すなわち、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者はついに無制限ではあり得ず、究極の承認のルールに従う、その内的視点を取らざるを得ないのである。 あるいは、このことを、主権者によって制定された法が、法として妥当し得るか否かは、究極の承認のルールに依存する、と言い換えてもよい。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的に)発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存しているのである。 この命題は次節に述べる(発語内)行為の文脈依存(context-dependence)性という命題と、全く同型の構造を持っている。 たとえば、主権者の「私は~を法とする」という発話が、法を制定する行為として発効し得る(~を法として妥当せしめる)ためには、立法の権限が主権者にあらかじめ与えられていることや、立法の発話が適切な手続きに従って為されていることなどといった、様々な条件が充たされておらねばならない。 次節では、このような条件を、(発話内)行為の文脈と呼ぶことにするが、究極の承認のルールとは、まさに、この意味における(法の妥当性の承認という)行為の文脈に外ならないのである。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的な)行為として発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存している、という事態は、発話という行為が、(社会的な)行為として発効し得るか否かは、その文脈に依存している、という事態(発語内行為の文脈依存性)の、法領域における現れとして捉え得るのである (発語内)行為は、その主観的な意図とは独立に、何等かの文脈が与えられて始めて、自らの社会的な効力を確定し得る。(この命題については次節で詳しく検討する。) 同様に、主権者による法の制定は、その主観的な意図とは独立に、究極の承認のルールが与えられて始めて、自らの法的な効力を確定し得る。 すなわち、主権者の行為の(法的な)効力は、その主観的な意志ではなく、その社会的な文脈に規定され、あるいは、制限されているのである。 従って、究極の承認のルールの存在は、あらゆる法を主権者の意図的に設定したものであると考える、法の主権者意志説を、真っ向から否定することになる。 何故ならば、究極の承認のルールの存在は、法の主権者意志説の論理的帰結である、主権者の法的無制限という事態と、全く両立し得ないからである。 すなわち、法の主権者意志説に従えば、第一章で見たように、主権者の法的無制限を帰結せざるを得ないのであるが、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者は法的に無制限ではあり得ないのであって、その必要条件を否定される法の主権者意志説は、棄却されざるを得ないのである。 言い換えれば、主権者の行為が、究極の承認のルールに依存せざるを得ないとするならば、法を主権者の意志の表出としてのみ捉えることは、もはや不可能となるのである。 また、法の主権者意志説においては、あらゆる法は、究極的には主権者によって意図的に設定されたと考えるのであるから、法が、法として妥当し得る根拠もまた、それが、究極的には主権者によって意図的に設定されたという事実以外にはあり得ない。 すなわち、法の主権者意志説は、法の究極的な制定目的が主権者の意志にあると主張するのみならず、法の究極的な妥当根拠もまた主権者の意志にあると主張するのである。 このような主権者は、いかなる法によっても決して制限され得ず、従って、如何なる法体系の内部においても、その(主権者たる)根拠を持ち得ない存在である。 言い換えれば、このような主権者は、あらゆる法体系の外部にある、いわば超法規的あるいは政治的な存在なのである。 従って、法の主権者意志説は、法の究極的な妥当根拠を、法によっては制限も根拠も与えられ得ない、超法規的あるいは政治的な存在である主権者の意志に、委ねざるを得ないことになる。 これに対して、究極の承認のルールは、言うまでもなく、法の究極的な妥当根拠となる、法的なルールである。 従って、究極の承認のルールが存在しさえすれば、法を究極的に妥当させる、法的に無制限な主権者の存在など、些かも必要とされないことになる。 言い換えれば、たとえ法の主権者意志説を取らないとしても、究極の承認のルールさえ存在するならば、法体系の理解にとって、些かの支障もないのである。 従って、法の主権者意志説は、究極の承認のルールの存在と両立し得ないばかりではなく、それが全くの誤りであるか否かはいざ知らず、究極の承認のルールが存在しさえするならば、少なくとも不必要な議論なのである。 しかし、究極の承認のルールそれ自体は、いかなる法的な根拠も持ち得ない、いわば法体系の外部に開かれているルールであった。 このような究極の承認のルールの存在と、法的な根拠を持ち得ない、言わば超法規的な主権者の存在とは、一体どこが違うというのであろうか。 そもそも、法の妥当し得るか否かを究極的に確定するためには、法によってはついに根拠付け得ない存在が、不可避的に要請されるのではなかったのか。 この問いに答えるためには、主権者の行為は究極の承認のルールに依存している、という命題の成立していることが、まず確認されねばならない。 すなわち、主権者の行為は、その当否を、究極の承認のルールによって始めて決定され得る、という事態である。 それでは、その逆である、究極の承認のルールは、その妥当根拠を、主権者の行為によって始めて付与され得る、という事態は、果たして成立し得るのであろうか。 この問いに対して、もし、究極の承認のルールにその妥当根拠を与え得る主権者の行為があるとするならば、その主権者の行為に妥当根拠を与える究極の承認のルールが存在することになり、究極の承認のルールの究極性に矛盾する、といった答えを与えることも、確かに適切である。 しかし、ここでは、この問題を、別の角度から検討してみたい。 すなわち、この問題を、たとえば、「私(主権者)の制定する法は妥当しない」という法(究極の承認のルール)を私(主権者)は制定する、といった自己言及の問題として捉えるのである。 このように問題を捉えてみるならば、究極の承認のルールが、主権者の、(たとえば法の制定という)行為によってその妥当根拠を与えられる、という主張は、まさに、前節に述べた、自己言及の非決定性を帰結することが明らかとなろう。 従って、前節の議論を援用すれば、究極の承認のルールは、主権者の行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的であることが結論されるのである。 すなわち、究極の承認のルールは、主権者の意図的な行為によっては、その妥当根拠をついに与え得ない、根拠付け不能な事態なのである。 しかし、(承認という)行為の持続的な遂行においてのみ存在し得る、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的な事態でもあることは、既に前章において詳しく見た処である。 むしろ、本章において見るべきは、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、(承認という)行為の法的に発効し得るか否かを決定するという意味において、まさに、規範的な事態でもあることなのである。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の社会的(法的)な効力を、その主観的な意図とは独立に決定する、まさしく慣習的な文脈に外ならないのである。 ところで、究極の承認のルールは、人々の行為の当否を判定する根拠となる(一次)ルールそれ自体の、妥当性を判定する根拠となる(二次)ルールであった。 従って、ある行為の当否判定において、その根拠となるルールをめぐる紛争の生じた場合に、究極の承認のルールは、いかなるルールが従われるべきかを決定することのよって、その紛争を常に解決し得ることになる。 たとえば、ある行為の当否について、現行のルールがいかようにも解釈し得る場合、究極の承認のルールは、ある一つの解釈をルールとして妥当させる根拠を与え得るのである。 すなわち、現行のルールに、行為の当否について、何等かの不確定な部分が存在する場合、究極の承認のルールは、その部分を確定することによって、事実上新たなルールを設定する根拠を与え得るのである。 ハートは、ルールがこのように不確定な部分を常に有していることを、ルールの開かれた構造(open texture of rule)と呼んでいる。 従って、究極の承認のルールは、(一次)ルールの開かれた構造を、常に閉じ得る装置であるとも言い得ることになる。 しかし、究極の承認のルールもルールである以上、ルールの開かれた構造の例外ではあり得ない筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、何等かの不確定な部分を常に有しているのである。 そこでは、究極の承認のルールの不確定な部分は、如何にして確定されるのであろうか。 たとえば、そのような確定が、いずれかの主体によって意図的に遂行されるとしてみよう。 この場合、究極の承認のルールの不確定な部分を確定する行為は、究極の承認のルールの(部分的な)不在という場面において、それを意図的に設定する行為となってはいないか。 言い換えれば、そのような行為の主体は、究極の承認のルールによっては制限され得ない、無制限な主権者と呼び得る存在ではないか。 すなわち、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じるためには、つまりところ無制限な主権者の存在が要請されるのではあいか。 究極の承認のルールの開かれた構造は、このような一連の疑問を当然に生み出すのである。 しかし、究極の承認のルールが、たとえ開かれた構造を持っているとしても、そのことから直ちに、究極の承認のルールそれ自体を設定する、無制限な主権者が要請されるとは限らない。 究極の承認のルールが不確定なのは、あくまでその一部分なのであって、残りの大部分においては、何が妥当なルールであるかの規準は、差し当たり充分に確定しているのである。 ハートは、ルールの不確定な部分を、その不確定な半影部分(penumbra of uncertainty)と呼び、また、ルールの確定している部分を、その確定した核心部分(core of certainty)と呼んでいる。 究極の承認のルールにも、このような半影部分と核心部分の両方が備わっているのである。 従って、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、残りの確定した核心部分を不問の前提にしていると考えてよい。 すなわち、そのような行為は、その対象とはならない部分の究極の承認のルールに従っている、という意味において、決して無制限ではあり得ないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じる行為は、あくまで究極の承認のルールの一部分のみを対象とするのであって、その全体を対象とすることは決してあり得ず、従って、究極の承認のルールに、たとえ開かれた構造が存在したとしても、それを閉じるために、無制限な主権者が要請される必要は、必ずしもない訳である。 しかし、それにしても、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、極めて微妙な行為である。 それは、自らの従うルールの一部分を、自らの対象として言及する行為に外ならない。 このような行為が、自らの従うルールの全体に対してはついに不可能であることは、前章において、ルールの暗黙性として詳しく検討した処である。 すなわち、自らの従うルールの全体を、自らが意図的に変更することは不可能なのである。 しかし、ここで述べられたことは、たとえ自らの従うルールであっても、その一部分であるならば、自らの意図的に変更することが必ずしも不可能ではない、ということである。 ルールの一部分に変更が要請される場合とは、新たに生じた問題に対して、現行のルールが確定した解答を与えられない場合なのであるから、ルールの一部分が変更可能であることは、新たな状況に対するルールの適応のためには、むしろ必要でさえある。 しかし、自らの従うルールを、たとえ部分的であったとしても、自らが意図的に変更する行為は、依然として、かなり微妙な行為であることに変わりはない。 このような行為は、果たして、如何なる根拠あるいは規準によって、新たなルールを生成し得るのか、あるいは、このような行為の意図と、結果として生成されるルールとの間には、(行為の意図が達成されることは全くあり得ないが)果たして、如何なる関係があるのか、といった様々な疑問がすぐにでも涌いてくる。 これらの問題は、実のところ、前章で述べた、ハイエクの言う整合性の原理の問題と、全く同型の構造を持っている。 すなわち、これらの問題に対する回答こそが、まさに、ハイエクの言う整合性の原理に外ならないのである。 ◆3.発語内の力 - オースティン - 言葉を発する、すなわち発話するという行為は、既に見たように、それ自身とは区別される社会的な行為の遂行でもある。 すなわち、発話行為(言語行為)は、発語行為の遂行であるとともに、発語内行為の遂行でもある。 しかし、あらゆる発話行為が、常に社会的な行為としての効力を持つ訳ではない。 発話行為が、何等かの発語内行為の有効適切な遂行であり得るためには、ある慣習的なルールを充たさねばならないのである。 それでは、発話行為を、社会的な行為として発効させる慣習的なルールとは、いかなるルールであるのか。 また、そのようなルールには、いかなる分類があり得るのか。 ところで、ある発話行為が、そのようなルールから見て、たとえ不適切であったとしても、それが何等かの社会的な結果を発生させ得ることまで否定される訳ではない。 すなわち、発話行為は、慣習的なルールに従っているか否かに拘わらず、自らを原因とする何等かの社会的な結果を発生させ得るのである。 このような発話行為の社会的な結果と、その社会的な効力とは、果たして、如何なる関係にあるのか。 言い換えれば、発話によって社会的な結果を達成する発語媒介行為と、発話が社会的な効力を獲得する発語内行為とは、どのように区別され得るのか。 これら一連の問いが、本節で問われる問いに外ならない。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、言語における主観主義としての表出主義に対する、決定的な論駁を準備するのである。 オースティンによれば、発話行為が、それ自身とは区別される何等かの社会的な行為として発効する条件は、大きく三つに分類される。 その第一は、ある発話が、何等かの社会的な効力を持つ行為の遂行であるために充たすべき、慣習的な手続きあるいはルールが存在していることである。 たとえば、「~せよ」という発話が、従うべき命令として社会的な効力を持ち得るのは、そこに何等かの手続きに根拠付けられた命令権限が存在し、そのような命令権限を持つ者によって、その発話が遂行される場合に限られる、といった具合である。 従って、「~せよ」という発話が、命令権限の存在しない領域において、あるいは、命令権限のない者によって、遂行されたとしたならば、そのような発話は、命令としての社会的な効力を持ち得ない。 すなわち、何等かの手続きあるいはルールがその背景に存在しない発話行為は、それ自身とは区別される社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 その第二は、発話を社会的な効力を持つ行為の遂行とするための手続きが、正しくかつ完全に従われることである。 たとえ、発話を社会的な行為として発効させる手続きが、疑いもなく存在していたとしても、それが正しくかつ完全に従わないような発話は、(それ自身とは区別される)社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 そもそも、ルールが存在するということは、それに従っているか否かによって、行為の当否あるいは適切/不適切が判定され得るということなのであるから、ルールの従われていることを要請する、この第二の条件は、(第一の条件が成り立っているならば)当然と言えばあまりに当然な条件である。 しかし、この条件を敢えて独立させた背景には、司法的な判断に代表される判定宣告型の発語内行為(後述する)が、主としてこの条件の成否に拘わる社会的な行為であることへの配慮があったと思われる。 その第三は、発話がある手続きを充たすことによって社会的な効力を獲得したとき、何等かの後続する行為が義務付けられる場合、そのような行為が引き続き遂行されることである。 たとえば、「私は~を約束します」という発話が、約束を巡って存在するルールに正しくかつ完全に従うことによって、約束という社会的な行為として発効するとき、そこには、約束した行為を引き続いて遂行する責務が生じることになる。 もし、このように義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、「私は~を約束します」という発話は、約束という社会的な行為の遂行としては不適切である。 もちろん、このような発話は、約束という社会的な行為を発効させはする。 すなわち、このような発話は、前期の二つの条件を充たすことによって社会的な行為としての約束を成立させはする。 従って、このような発話は、社会的な行為として無効である訳ではない。 しかし、義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、約束という社会的な行為は、確かに成立してはいるが、完了していない、あるいは履行されてはいない。 このように未完了あるいは不履行となる約束を成立させる発話は、無効ではないが、不適切あるいは義務違反なのである。 すなわち、義務付けられた後続行為の遂行されないような行為を発効させる発話は、社会的な行為の遂行としては不適切なのである。 さらに、オースティンは、この第三の条件に、後続行為の遂行が、発話主体によって、主観的に意図されていることをも含めている。 たとえば、約束の発話が為される場合、約束の履行が発話主体によって主観的に意図されていることが、その発話が社会的な行為として適切であるための必要条件になる、と言うのである。 しかし、後続行為が事実として遂行されることと、それが主観的に意図されることとの間には、厳密に区別されるべき、重大な相違が存在する。 すなわち、行為の事実的な遂行は、たとえば外的視点から観察可能であるが、行為の主観的な意図は、行為と独立には観察不能であるという相違である。 行為の主観的な意図は、観察される行為の原因として、その背後に仮設される存在なのである。 このような発話主体の意図は、発話が社会的な行為の適切な遂行であるための条件に対して、果たして、どこまで相関的なのであろうか。 むしろ、発話主体の意図の如何に拘わらず、後続行為が事実として遂行されるのであれば、発話は社会的な行為の適切な遂行となるのではないか。 これらの問題は、発話の慣習的なルールに基づく効力と、その主観的に意図された結果との区別と密接に関係している。 従って、これらの問題は、発語内行為と発語媒介行為との区別を検討する過程において、始めてその解答を見い出し得ると思われる。 そのために、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているという事態を、また別の角度から検討してみよう。 たとえば、「私は陳謝します」という発語を伴う(後に態度表明型と分類される)発語内行為を考えてみる。 「私は陳謝します」という発語が、陳謝という社会的な行為として発効するためには、前述の三条件に分類される、様々な条件が充たされていなければならない。 ととえば、第一の条件に分類される、私の行為が(陳謝の)相手に何等かの不利益を与えたという事実の存在、また、その不利益が私の行為によっては回避し得ない不可抗力によるものではないこと、さらに、相手に不利益を与えたとしてもなお私の行為を正当化し得る理由のないこと、といった様々な条件が充たされて始めて、「私は陳謝します」という発語は、陳謝という社会的な行為として発効するのである。 これらの条件のどれか一つ、あるいはその幾つかが充たされていない場合、「私は陳謝します」という発語は、社会的な行為としては、無効あるいは不適切となる。 たとえば、相手に何の不利益も与えていないのに、「私は陳謝します」と繰り返すことは、滑稽な錯誤でなければ、不幸な病気である。 言い換えれば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な効力を有するためには、発語をめぐる、発語自身とは独立な状況の、既述のような条件を充たしていることが、必要不可欠なのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力は、それに伴う発語行為の遂行される状況あるいは文脈に、決定的に依存しているのである。 従って、発語内行為は、それをめぐる状況あるいは文脈を参照することなしには、その効力を全く確定し得ないことになる。 この事態を、発語内行為の文脈依存性と呼ぶことにしよう。 発語内行為は、自らの内属する文脈が与えられて始めて、その効力を決定し得るのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているというオースティンの指摘は、取りも直さず、発語内行為は文脈依存的であるという事態の発見に外ならないのである。 ここで留意すべきは、発語内行為が、社会的に発効するための条件には、当の行為の主観的な意図は、必ずしも含まれていないということである。 たとえば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な行為として発効するためには、陳謝の主観的な意図は、必ずしも前提されないといった具合である。 すなわち、「私は陳謝します」という発語が、既述のような条件を充たす状況あるいは文脈において遂行されているのであれば、たとえ陳謝の主観的な意図が全く存在しないとしても、陳謝という社会的な行為は成立し得るのである。 あるいは、「私は陳謝します」という発語が、たとえば、私の行為によって相手が如何なる不利益も被っていない状況において、遂行されているとするならば、それが陳謝の主観的な意図に満ち溢れているものであったとしても、陳謝という社会的な行為は決して発効し得ないのである。 すなわち、発語内行為の効力は、それに伴う発語行為が遂行される文脈にのみ依存しているのであって、その主観的な意図からは全く独立しているのである。 陳謝のような、個体の主観的な情緒の表出であると普通は考えられている発話が、その主観的な情緒とは独立に、その社会的な文脈にのみ依存して、自らの効力を確定し得るという事態は、一見、意外に見えよう。 しかし、文脈依存的な発語内行為と、言わば意図あるいは情緒表出的な発語媒介行為とが、共に何等かの社会的な効果を発生させるにも拘わらず、互いに区別されねばならないのは、まさに、このような事態が見い出されるからに外ならないのである。 発語内行為と発語行為との関係については、前章に詳しく検討した。 そこで明らかになったことは、陳述の発話といった事実確認的発話にも、前述の三条件を充たしているか否かによって、その適切性を判定し得る発語内行為の位相が存在すること、また、命令や判定や約束やの発話といった行為遂行的発話と言えども、何等かの事態を指示するという意味において、発語行為の位相が存在することであった。 すなわち、発語内行為と発語行為は、同時に一つの発話の内に存在し得る、発話行為(言語行為)の二つの位相なのである。 この意味においては、発語媒介行為もまた、発語内行為や発語行為やと同様の、発話行為の一つの位相に外ならない。 あらゆる発話は、慣習的に根拠付けられた効力を発揮する行為(発語内行為)の遂行であり、かつ、客観的に対象化された事態を指示する行為(発語行為)の遂行である、と同時に、主観的に意図された結果を達成する行為(発語媒介行為)の遂行でもあり得るのである。 それでは、発語内行為と発語媒介行為とは、如何にして区別されるのであろうか。 両者が、何等かの社会的な効果を発生させる行為である、という点においては共通するにも拘わらず、前者が慣習的なルールによって根拠付けられる行為であるのに対して、後者はそうではない、という点において区別されるということは既に述べた。 オースティン自身は、両者の区別について、実はこれ以上立ち入った検討を加えてはいない。 しかし、このままでは、社会的な効果を発生させる発話行為の内で、慣習的なルールによって根拠付けられる部分以外の総ての残余が、発語媒介行為であるということになる。 これでは、ある発話が、その意図の如何に拘わらず、言わば偶然に何等かの社会的な結果をもたらす場合でも、それは発語媒介行為の概念に包摂されることになり、概念として広きに失すると思われる。 むしろ、発語媒介行為は、発話主体によって主観的に意図された何等かの社会的な結果を、効果的に達成する手段として遂行される発話行為を指示する概念として、より限定的に使用されるべきであると思われる。 すなわち、発語内行為と発語媒介行為とを区別するメルクマールは、前者の社会的な効力を発効させる根拠が、慣習的なルールであるのに対して、後者の社会的な結果を発生させる原因は、(発話主体の)主観的な意図であるという点に求められると考えるのである。 言い換えれば、発語内行為の純粋型が、その慣習的な適切性の問われる、行為の遂行(行為遂行的発話)であり、発語行為の純粋型が、その客観的な真理性の問われる、事態の記述(事実確認的発話)であるのに対して、発語媒介行為の純粋型は、その主観的な誠実性の問われる意図の表出(言わば意図あるいは情緒表出的発話か)であると分類してみるのである。 このように考えてみるならば、あらゆる発話を、発語主体の主観的な意図や情緒や目的やの表出に帰着し尽くし得るとする、言語の表出主義が、如何なる限界をもつ主張であるかが明らかとなる。 すなわち、表出主義は、発話行為の総てを、発語媒介行為の位相に還元し尽くし得るとする主張なのである。 しかし、これまで述べてきたこおから明らかなように、発話行為は、発語行為と発語媒介行為の位相の直和には、ついに分割され得ない。 発話行為には、発語内行為の位相が、紛れもなく存在するのである。 すなわち、記述主義という、いわば言語の物理主義的な理解も、また、表出主義という、いわば言語の心理主義的な理解も、慣習的なルールに従った社会的な行為の遂行としての言語の位相を、ついに捉え切れないのである。 言い換えれば、客観的な事実でもなく、あるいは、主観的な情緒でもなく、ただ、社会的な文脈にのみ依存して、その当否を決定される言語行為の位相の、確かに存在し得ることが、捉え切られねばならないのである。 このように、発語行為とも発語媒介行為とも区別される発語内行為は、それ自身幾つかの類型に区分し得る。 言い換えれば、発話行為の発揮し得る慣習的な効力は、幾つかの種類に分割し得る。 オースティンは、この発話行為の発揮し得る慣習的な効力を、発語内の力(illocutionary forces)と呼び、その分類を、発語内の力の分類と呼んでいる。 以下に見るように、発語内の力の分類は、本節の前半に述べた、発語内行為の適切性の条件の分類と、密接に関係しているとともに、一つの発話行為が、同時に三つの位相を持つという事態とも、深く拘わっているのである。 それでは、発話行為を、それが発揮する発語内の力の類型に対応させて、言い換えれば、それが遂行する発語内行為の類型に対応させて、以下に分類してみよう。 第一の類型は、権限行使型(exercitives)である。 これは、何等かの権能を行使する発話であり、たとえば、命令や許可の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第一の条件である、(権能を付与する)ルールの存在という条件を、その発語内の力の根拠とすることは明らかであろう。 第二の類型は、行為拘束型(commissives)である。 これは、何等かの後続行為を義務付けられる発話であり、たとえば、約束や支持の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第三の条件である、(義務付けられた)後続行為の遂行という条件を、その発語内の力の根拠とすることは言うまでもなかろう。 第三の類型は、判定宣告型(verdictives)である。 これは、事実的な証拠や規範的な理由といった根拠に基づいて、何等かの判断を述べる発話であり、たとえば、判定や評価の発話に代表される。 この類型は、証拠や理由の開示といった論理的な手続きの充足を、その判断の根拠とするという意味において、発語内行為が適切であるための第二の条件である、手続きの充足という条件を、その発語内の力の根拠としていると考えられる。 第四の類型は、言明解説型(expositives)である。 これは、陳述や記述の発話に代表される類型であるが、オースティン自身の定義は極めて曖昧である むしろ、この類型は、事実確認的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えた方がよいのではないか。 すなわち、この類型は、事実確認的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 第五の類型は、態度表明型(behabitives)である。 これは、発話主体の主観的な態度や情緒を表出する発話であり、たとえば、陳謝や祝福の発話に代表される。 しかし、この類型は、あくまで発話の持つ発話内の力の分類なのであるから、事実確認的発話や行為遂行的発話と同一平面上において対比される、情緒(あるいは意図)表出的発話それ自体ではあり得ない。 むしろ、この類型は、(発語媒介行為の純粋型である)情緒表出的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えるべきではないか。 すなわち、この類型は、情緒表出的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 ▼第五章 慣行と遂行 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 近代産業を推進する中心的な価値態度としての産業主義や手段主義、あるいは、近代科学を招来した価値態度とされている実証主義や記述主義といった、一連の合理主義とも言うべき世界の捉え方と、近代民主政治あるいは近代主権国家を支持する価値態度としての民主主義や主権主義、さらには、近代的自我あるいは「内面的意識」を析出する価値態度としての情緒主義や表出主義といった、一連の個体主義とも言うべき世界の捉え方とを、同時に懐疑し得る立脚点として、我々は、自生的秩序やルール、あるいは言語行為といった、遂行的に生成される社会秩序の概念を定礎してきた。 本節では、この《遂行的なるもの》とも言うべき概念の持つポテンシャルを、改めて評価してみたい。 すなわち、《遂行的なるもの》が、合理主義や個体主義を含めた概念のシステムの中で、如何なる位置価を持ち得るかを、正確に測定してみたいのである。 まず、合理主義によれば、世界は、ここでは差し当たり人間とその社会は、理性による意識的な制御あるいは言及の対象として捉えられる。 すなわち、世界は、合理的に制御可能あるいは言及可能な客体として把握されるのである。 何等かの目的を達成するために、世界を効率的に制御せんとする産業主義や手段主義、あるいは、総ての発話の真偽を、それが言及する対象の存否によって決定し得るとする実証主義や記述主義が、この意味における合理主義を、その共通の前提としていることは言うまでもない。 しかし、世界を、わけても人間とその社会を、合理的な制御あるいは言及の対象として捉え得るとする態度は、飽くまで一つの価値態度に過ぎないのであって、世界と我々との関係が、この態度のみによって覆い尽くされる筈のないことは、容易に理解されよう。 もちろん、このような態度によって捉え得る世界が、全く存在しないと言う訳ではない。 ただ、そのような世界が、世界の総てである筈はないと言っているのである。 この合理主義によって捉えられる世界を、世界の一つの捉えられ方であることに留意して、ここでは、《世界Ⅰ》と呼ぶことにしよう。 すなわち、《世界Ⅰ》とは、合理的に制御可能あるいは言及可能な対象として捉えられる世界の謂である。 次に、個体主義によれば、世界は、わけても人間の行為とそれによって形成される社会は、行為を遂行する個体の主観的な意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属され尽くし得る事態として捉えられる。 すなわち、人間の行為とそれによって形成される社会は、その個体的な意図や情緒や目的やに還元可能あるいは帰属可能な事態として把握されるのである。 この意味における個体主義が、社会の全体的な意志決定は、その社会を構成する諸個人の合意あるいは主権者の意志に還元され得るし、また、されるべきだと考える、民主主義あるいは主権主義の前提となっていることは言うまでもない。 さらに、このような個体主義は、人間の行為を、その主観的な意図に帰属させて理解する、言い換えれば、人間の行為を、その内面的な意識の表出として解釈する、情緒主義あるいは表出主義の前提をなす世界の捉え方でもある。 すなわち、個体主義は、人間の行為を帰属させ得る場所として、それを遂行する個体の内面に、「自我」と呼ばれる何ものかを仮設し、そのような「自我」の表現として、人間の行為を解釈するのである。 しかし、世界を、あるいは少なくとも人間とその社会を、個体に内蔵された意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属させて捉え得るとする態度によっては、たとえ世界を人間とその社会に限定してみたとしても、世界と我々の関係の、ついに覆い尽くされる筈のないことも、また、少し考えれば明らかであろう。 個体主義も、また、世界の一つの捉え方に過ぎないのである。 この個体主義の態度によって捉えられる世界を、ここでは、《世界Ⅱ》と呼ぶことにしよう、すなわち、《世界Ⅱ》とは、個体的な意識に還元可能あるいは帰属可能な事態として捉えられる世界の謂である。 この合理主義と個体主義とは、人間の行為を、何ものかを目指す志向的な事態であると見なす志向主義の産み落とした、一卵性双生児であると考えられる。 何故ならば、志向主義は、人間の行為を、志向的な事態であると捉えることによって、人間の行為に拘わる世界を、志向のベクトルの吸い込み口である、志向される対象(客体)と、志向のベクトルの涌き出し口である、志向する意識(主体)とに、二分して把握するからである。 すなわち、志向主義は、世界を、合理的な制御あるいは言及という志向的な行為の対象と、その志向的な行為が還元あるいは帰属される個体的な意識とに、二元的に分割するのである。 言い換えれば、志向主義は、世界を、《世界Ⅰ》と《世界Ⅱ》とによって、完全に分割し尽くし得ると主張するのである。 志向主義のもたらす、このような主客二元論こそ、近代の産業主義や科学主義、あるいは民主主義や自我主義に通底する、《近代的なるもの》それ自体に外ならないのである。 従って、志向主義として特徴付けられる、このような《近代的なるもの》から見るならば、世界は、客観的(あるいは合理的に制御可能)な《世界Ⅰ》であるか、さもなくば、主観的(あるいは個体的に還元可能)な《世界Ⅱ》であるかのいずれかであり、また、そのいずれかしかあり得ないことになる。 しかし、世界は、本当に主客いずれかでしかあり得ないのか。 あるいは、行為は、全くの志向的な事態であり得るのか。 この問いに答えるためには、世界を、わけても人間とその社会を、遂行的な事態として捉える視点が、改めて導入されねばならない。 《遂行的なるもの》とは、行為遂行の累積的な帰結として生成される秩序の謂である。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、行為自らの生成する秩序なのである。 人間とその社会を、この意味における《遂行的なるもの》として把握する態度は、《近代的なるもの》あるいは志向主義による人間と社会の捉え方を懐疑する、最も確かな立脚点となり得る。 すなわち、《遂行的なるもの》として捉えられる人間と社会は、合理的に制御可能(あるいは客観的)な《世界Ⅰ》でもあり得ず、かつ、個体的に還元可能(あるいは主観的)な《世界Ⅱ》でもあり得ない、世界の第三の可能性を示しているのである。 このような《遂行的なるもの》が、いかなる意味において、制御可能ではあり得ず、また、還元可能でもあり得ないかについては、続いて述べる。 ここでは、客観的でもなく、主観的でもない、遂行的な事態として捉えられる世界を、《世界Ⅲ》と呼ぶことにしよう。 人間の行為を、志向的な事態として把握する態度によっては、ついに捉え得ない人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》という在り方に外ならない。 すなわち、《近代的なるもの》と真っ向から対立する人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》に外ならないのである。 それでは、《世界Ⅲ》すなわち《遂行的なるもの》としての人間と社会は、何故に、合理的に制御可能な事態とも、さらには、個体的に還元可能な事態ともなり得ないのか。 あるいは、人間の行為は、如何なる意味において、志向的な事態ではあり得ないのか。 これらの問いが答えられねばならない。 《遂行的なるもの》は、個体の意図や情緒や目的やに還元あるいは帰属され得ず、むしろ、個体の行為が行為として発効するための根拠となるという意味において、規範的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図には、ついに還元不能あるいは帰属不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》を生成する行為それ自体の、行為として発効し得るか否かは、その主観的な意図とは全く独立に、その社会的な文脈にのみ依存して決定されるからである。 すなわち、行為の文脈依存的であることとは、取りも直さず、行為の発効し得るか否かが、自らの生成する《遂行的なるもの》を根拠として決定されることに外ならない。 しかし、《遂行的なるもの》の還元不能性を帰結する、行為の文脈依存性という命題において、行為の依存する文脈それ自体が《遂行的なるもの》であるとするならば、そこには、何等かの循環論あるいは論理的なパラドックスをが発生するのではないか。 しかし、この問題の検討は、後段に委ねることにして、差し当たり、行為の依存する文脈それ自体は、行為と独立に与えられていると仮定して置くことにしたい。 行為は、何故に、その主観的な意図に還元あるいは帰属され得ない、文脈依存的な事態であるのか。 たとえば、陳謝という行為のように、主観的な意図の表出以外の何ものでもないと見なされる行為ですら、陳謝の行為として発効しうるためには、その主観的な意図とは全く独立な、幾つかの条件 - 自己の行為によって他者に損害が生じたという事実の存在、他者に損害を与えたとしてもなお自己の行為を正当化し得る理由(たとえば正当防衛など)の不在等々 - を充たさねばならない。 自分が相手に何の危害も加えていない場合や、相手の暴力を避けるため相手に触れた場合やに、陳謝の言葉を発する行為は、たとえ、それが陳謝の主観的な意図に充ち溢れたものであったとしても、滑稽な錯誤の行為であるか、さもなくば、卑屈な追従の行為である、と見なされるのが落ちなのであって、真摯な陳謝の行為としては、決して発効し得ないのである。 あるいは、むしろ、陳謝の主観的な意図そのものでさえ、陳謝という行為が、ある文脈の下で発効することによって始めて、その文脈に応じた内容を持つものとして確定されるといった、文脈依存的な事態なのであると言ってもよい。 すなわち、行為を遂行する個体の内面的な意識は、行為の遂行される文脈が与えられて始めて、その内容を決定し得るのである。 従って、行為は、その主観的な意図に帰属させて解釈し得る筈もなく、その社会的な文脈に依存させて始めて、その効力(あるいは「意味」)の何たるかを決定し得るのである。 ゆえに、行為とそれによって生成される秩序は、個体的に還元可能ではあり得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅱ》ではあり得ないのである。 それでは、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》であり得るのか。 《遂行的なるもの》は、合理的に制御あるいは言及し得る対象とは、ついになり得ないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その意識的な対象としては、制御不能あるいは言及不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》とは、何等かの文脈あるいはルールに依存して、自らの発効し得る否かを決定される、行為の秩序に外ならないのであるから、その全体を対象として制御あるいは言及する行為は、自らの依存しているルールそれ自体をも、その対象として制御あるいは言及せざるを得ないことになる。 すなわち、《遂行的なるもの》を対象として制御あるいは言及せんとする行為は、自らを妥当させる根拠としてのルールそれ自体を、その対象とせざるを得ないという意味において、まさに自己組織(制御)あるいは自己言及の行為に外ならないのである。 従って、《遂行的なるもの》に対する制御あるいは言及は、いわゆる自己組織あるいは自己言及のパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、それを対象として意識的に制御あるいは言及せんとするならば、制御の効率や言及の真偽をも含む、あらゆる行為の当否を、全く決定し得なくなるという意味において、制御不能あるいは言及不能とならざるを得ないのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、それに対する制御あるいは言及が、自己組織あるいは自己言及とならざるを得ないがゆえに、暗黙的となるのである。 行為の当否を決定するルールに対する制御あるいは言及の行為、すなわち、自己組織あるいは自己言及の行為は、何故に、行為の当否を決定不能に、従って、それが生成する秩序を制御不能に陥れるのであろうか。 たとえば、「私の決定は妥当しない」と私は決定する、といった典型的な自己言及(決定)の場合を考えてみる。 この場合、私の決定は妥当すると仮定すれば、私の決定は妥当しないことが帰結され、逆に、私の決定は妥当しないと仮定すれば、私の決定は妥当することが帰結される。 すなわち、この場合、私の決定の妥当するか否かは、決定不能い陥っているのである。 一般に、自己組織、自己言及、あるいは自己回帰といった循環的な事態は、この種の論理的なパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体への制御あるいは言及である。 自己組織あるいは自己言及の試みは、自らの妥当し得るか否かの決定不能を帰結することによって、挫折せざるを得ないのである。 従って、制御や言及やをも含む行為の秩序である《遂行的なるもの》は、合理的に制御可能とも言及可能ともなり得ない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》では、決してあり得ないのである。 これまでの考察から明らかなように、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》でも、あるいは、《世界Ⅱ》でもあり得ない。 《遂行的なるもの》は、《遂行的なるもの》によってはついに捉え得ない、世界の第三の可能性としての《世界Ⅲ》なのである。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為遂行の累積的な帰結として、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図にも還元され得ず、また、その意識的な対象としても制御され得ない、規範的かつ暗黙的な事態なのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、その構成要素たる行為の文脈依存的であるがゆえに、また、それを対象とする行為の自己言及的であるがゆえに、個体的に還元不能かつ合理的に制御不能となるのである。 行為は、何等かの文脈あるいはルールに従うことによって始めて、行為として発効し得る。 言い換えれば、行為は、自らを妥当させる根拠として、何等かの文脈あるいはルールを前提せざるを得ない(文脈依存性)。 この意味において、行為は、文脈やルールやといった秩序から、ついに逃れ得ないのである。 すなわち、行為にとっては、従うべきいかなる文脈やルールやをも見い出し得ない、秩序の全き「外部」など、決して存在し得ないのである。 しかし、行為に、その妥当根拠を与える、文脈あるいはルールそれ自体には、いかなる妥当根拠も在り得ない。 ルールの妥当し得るか否かを決定する根拠を、ルールそれ自体に委ねたとしても、あるいは、ルールを根拠として、自らの妥当し得るか否かの決定される、行為に委ねたとしても、ルールの妥当し得るか否かは、ついに決定し得ないからである(自己言及性)。 すなわち、ルールは、自らの発効し得るか否かを、その「内部」においては、ついに決定し得ない秩序なのである。 しかし、そのような秩序は、《遂行的なるもの》としてしか在り得ない。 すなわち、そのようなルールは、行為遂行の累積的な帰結としてしか在り得ないのである(行為累積性)。 従って、ルールは、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によっては設定され得ない秩序であることが明らかになる。 言い換えれば、ルールは、行為によって意識的には語り得ず、ただ、行為において遂行的に示される秩序なのである。 《遂行的なるもの》は、行為の当否を決定する根拠であるとともに、自らは如何なる根拠も持ち得ず、行為の意図的な設定にもよらない、行為の累積的な帰結として生成される秩序である。 このような《遂行的なるもの》は、日常言語において、慣習(convention or practice)と呼ばれる事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、慣習とは、規範的、暗黙的かつ累積的な事態に外ならないのである。 あるいは、慣習とは、個体的に還元不能であり、合理的に制御不能でもある、世界の第三の可能性であると言ってもよい。 従って、個体的な主観としての《世界Ⅱ》や、合理的な客観としての《世界Ⅰ》やに対して、《世界Ⅲ》は、慣習的な遂行として捉えられることになる。 個体主義と合理主義とを共に懐疑し得る、《遂行的なるもの》の視点は、いわば慣習主義とでも呼ぶべき視点なのである。 この慣習という概念こそ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール論、さらにはオースティンの言語行為論を通底する、キー・コンセプトに外ならない。 すなわち、自生的秩序論においては、その自己言及性(制御不能性)が、また、ルール論においては、その外的視点から見た自己言及性(無根拠性)とその内的視点から見た文脈依存性(従根拠性)の双方が、さらに、言語行為論においては、その文脈依存性(還元不能性)が強調されつつも、慣習という概念の三つの構成要素である、文脈依存性、自己言及性、行為累積性の総てが、いずれの議論においても等しく登場している。 自生的秩序もルールも言語行為も、文脈依存性、自己言及性、行為累積性のトリニティを、その不可欠の構成要素としているのである。 市場も貨幣も法も権力も社交も言語も技能も儀礼も流行も、およそ社会あるいは文化と呼び得る総ての事態は、人間という事態をも含めて、《遂行的なるもの》として捉えられる。 すなわち、社会も文化もさらには人間それ自体も、慣習という事態に外ならないのである。 この発見は、あまりに当然と思われるかも知れないが、その含意は、極めて重大である。 しかし、その検討は、次節に委ねたい。 ◆2.新しい保守主義 保守主義とは、近代啓蒙の批判に外ならない。 近代自然法思想を含めた啓蒙の哲学は、社会と人間の、合理的に制御し得ること、あるいは、個体的に還元し得ることを主張して止まない。 啓蒙の哲学は、社会と人間の合理化と個体化(rationalization and individualization)を称揚する、近代進歩主義の原型なのである。 このような啓蒙の哲学が、その淵源をどこまで遡り得るかについては、様々な議論があり得よう。 しかし、ここでは、それが、17・18世紀の200年を通じて形作られて来た、ある精神の型に過ぎないことを確認しておけば、差し当たり充分である。 むしろ、ここで問題にしたいのは、その啓蒙の精神が、フランス革命、さらには産業革命と民主革命の進行に伴って、我々の文明の最も誇るべき価値であるかのように、この世界に拡散して来たという事態である。 合理化と個体化を称揚する精神は、産業化と民主化の激流に翻弄された19世紀はもとより、20世紀末の今日においても、なお我々の文明の中心に位置するかのように見受けられる。 「情報化」という名の新たな産業化と、「差異化」という名の新たな民主化は、我々の時代を画する進歩の旗印として持てはやされている。 啓蒙の精神は、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放というスローガンを高く掲げた、近代進歩主義の運動を、このニ世紀に亘って導いて来たのである。 もちろん、このニ世紀に亘る進歩主義の運動が、極めて多様な傾向を孕んでいることは言うまでもない。 そこには、いわゆる啓蒙主義によって導かれた、自然人権と国家集権を求めるフランス革命の運動もあれば、功利主義によって導かれた、自由化あるいは社会化を目指す漸進の運動もあり、さらには、マルクス主義によって導かれた、人間解放と社会管理のための革命運動もある。 しかし、これらの運動は、社会と人間の、産業化あるいは合理化と、民主化あるいは個体化を、意図的にあるいは結果的に推進したという点において、ほとんど選ぶ処はない。 いわゆる啓蒙主義はもとより、功利主義も、さらにはマルクス主義もまた、近代啓蒙の嫡出子なのである。 保守主義は、このような近代啓蒙の一貫した批判者である。 言うまでもなく、近代保守主義は、フランス革命のもたらした、社会の、理性による専制支配と、原子的個人への平準化の危機に抗して、「自由で秩序ある社会」を擁護すべく、エドモンド・バークによって創唱されたものである。 もちろん、保守主義的な態度が、バーク以前に存在しなかった訳ではない。 未知の変化に抗して、既知の安定を擁護しようとする態度は、むしろ人類と共に古いとも考えられ得るし、啓蒙の精神が形を成して来た、17・18世紀においても、それに対抗する態度は常に存在していたのである。 通俗的に言われるよりも遥かに深く、キリスト教を始めとする中世的あるいは近世的な伝統の内に生きていた、17・18世紀においては、むしろ啓蒙の精神こそが、西欧一千年の伝統から逸脱した、その対抗思想に過ぎなかったとも言えよう。 従って、17・18世紀においては、保守主義の、敢えて名乗りを挙げる必要は、必ずしもなかったのである。 何故ならば、保守主義とは、進歩主義の侵攻が、無視し得ぬまでに拡大して始めて、それを迎撃すべく、自らの重い腰を上げる性質のものだからである。 しかし、フランス革命を境として、進歩主義の侵攻は、もはや何人によっても無視し得ぬ段階に立ち至った。 フランス革命以降、産業主義と民主主義の進行に従って、進歩主義は、貴族制度や大土地所有やキリスト教やといった、あらゆる中世的(あるいは近世的)な伝統に次々と攻撃を加え、「自由で秩序ある社会」を決定的な危機に陥れたのである。 バークの闘った闘いは、このような進歩主義との闘いの緒戦を成すものであった。 フランス革命の啓蒙主義と闘ったバークを皮切りに、進歩主義のもたらす、合理的な専制と個体的なアノミーに抗する闘いは、このニ世紀に亘って、陸続と闘い継がれて来た。 近代保守主義とは、合理化と個体化という革命運動に抗する、不断の闘いそれ自体なのである。 言い換えれば、保守主義とは、啓蒙の精神の産み落とした、合理主義と個体主義の狂気に抗して、何等かの伝統に係留された、「正気の社会」を擁護する、終わりなき闘いの中にしかあり得ないのである。 それでは、保守主義は、何故に合理主義と個体主義を拒絶するのであろうか。 あるいは、また、保守主義は、如何にして啓蒙の精神を否定するのであろうか。 さらに、保守主義は、そのような拒絶や否定を通じて、何故に伝統を擁護することに至るのであろうか。 あるいは、そもそも、保守主義にとって、その擁護すべき伝統とは何であるのか。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、前節までの議論と保守主義とを結び付ける、《失われた環》を見い出すことに外ならないのである。 保守主義は、社会と人間の、理性によって制御し得ることを否定する。 社会と人間が存続していくためには、理性によっては認識し得ないが、行為においては服従し得る、何等かの暗黙的な知識が不可欠なのであって、社会と人間の全体を、理性によって制御することなど、自分の乗っている木枝の根元を、自分で切る類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、理性の行使をも含めて、語り得ずただ従い得るのみの知識を前提として、始めて可能となるのであって、その暗黙的な前提をも含めた、自らの総体を制御することなど、全く不可能なのである。 人間の行為の不可欠な前提である、このような暗黙的知識は、理性的な行為の対象とならないがゆえに、その正当性を合理的には根拠付け得ない。 すなわち、このような暗黙的知識は、正当化し得ない無根拠な知識であるという意味において、まさしく偏見(prejudice)に過ぎないのである。 従って、人間の行為は、自らは何の根拠も持ち得ない偏見を前提として、始めて可能であることになる。 保守主義は、人間の生きていくために、暗黙的で無根拠な偏見に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、合理主義とは、合理的に制御し得ないものを制御せんとする、言わば暴力的な試みなのである。 そのような試みを、敢えて実行しようとするならば、制御の主体は、社会に対して、自らの意志を盲目的に強制する以外の、いかなる手段も持ち得ないことになる フランス革命やロシア革命、さらにはナチス・ドイツの経験が明らかにしたように、合理主義の行き着く先は、効率的な暴力を背景とする、野蛮な専制支配の外ではあり得ないのである。 保守主義は、社会と人間の、個人へと還元し得ることを否定する。 人間の行為は、それを取り巻く社会的、文化的な状況が与えられて、始めてその意味を決定し得るのであって、人間の行為の意味を、個人の内面的な意識へと還元することなど、言葉の意味を、他の言葉の意味との対比関係から切り離して、単独に決定する類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、他者の行為との関係をも含む、全体的な状況の中に位置付けられて、始めて成立し得るのであって、その全体的な状況が、個人の行為に還元し尽くされることなど、決してあり得ないのである。 人間の行為の成立/不成立を決定する。このような全体的状況は、行為の成否を決定する根拠となる、あるいは、行為の成立を正当化する理由となる、という意味において、規範的と言い得るものである。 すなわち、このような全体的状況は、行為を根拠付け、行為を正当化し得る、という意味において、まさしく権威(authority)と呼ぶべき事態なのである。 従って、人間の行為は、その根拠として服従すべき権威を前提として、始めて成立することになる。 保守主義は、人間の生きていくために、全体的で規範的な権威に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、個体主義とは、自らの拠って立つ不可避の基盤を見失った、個体の自己過信の外ではない。 個体主義とは、個体的に還元し得ないものを還元せんとする、いわば?神的な営みなのである。 そのような営みを、敢えて遂行しようとするならば、個人は、他者の、従って自己の行為の何であるかを全く了解し得ない、アノミーの深淵に立ちすくむことになるだけではない。 19世紀には絶望とともに予感され、20世紀には希望とともに実現された、高度大衆社会の実現が明らかにしたように、個体主義の精神がもたあすものは、無神論の深淵ではなく、神でも何でも手軽に信じて気軽に忘れる、多幸症の浅薄というアノミーに外ならないのである。 このように合理主義と個体主義を拒絶する、保守主義の橋頭堡としての偏見と権威が、理性によって意図的に設定されたものでも、個人によって意識的に合意されたものでもあり得ないことは言うまでもない。 偏見と権威は、行為の持続的な遂行の累積的な帰結として、自然発生的に生成されるものなのである。 すなわち、偏見と権威は、合理的な設定によらず、個体的な合意によらず、ただ遂行的にのみ生成される、まさに伝統(tradition)と呼ばれるべき事態なのである。 偏見とは、いかなる合理的な根拠も持ち得ない、俗なる伝統に外ならず、権威とは、あらゆる個体の根拠として従うべき、聖なる伝統に外ならない。 伝統とは、自らの如何なる根拠も持ち得ずに、他の一切の根拠として従われるべき、俗にして聖となる歴史の堆積なのである。 言い換えれば、伝統とは、歴史の試練に辛くも耐えて、偏見と権威の内に記憶される、生きられた経験に外ならないのである。 従って、偏見と権威に支えられて始めて成立し得る、人間とその社会は、このような伝統に従うことを、その不可避の条件とすることになる。 保守主義は、人間と社会の生きていくことが、つまるところ、伝統に回帰する以外にはあり得ないことを、強く主張するのである。 近代啓蒙の精神は、このような伝統や偏見や権威やを、蛇蝎の如く忌み嫌う。 因習や俗信や抑圧やから、人間を救済し、理性と自我との赴くままに、世界を革新すること、これが啓蒙の企てなのである。 しかし、保守主義から見るならば、このような啓蒙の企てこそが、合理主義的な抑圧と個体主義的な俗信とをもたらす当のものに外ならない。 近代啓蒙の精神は、不断に進歩することを、まさに因習となすことによって、専制的な抑圧とアノミックな俗信とを、常に帰結せざるを得ないのである。 保守主義のこのような回帰する伝統とは、合理的に制御し得る客観的なものではあり得ず、また、個体的に還元し得る主観的なものでもあり得ない、遂行的に生成される、言わば第三のものであった。 すなわち、伝統とは、客観的な自然でもあり得ず、主観的な意識でもあり得ない、第三の領域なのである。 このような第三の領域は、日常言語において、社会、文化、あるいは制度と呼ばれる領域に外ならない。 保守主義は、伝統に回帰することによって、客観的な自然法に根拠付けられる訳でもなく、主観的な社会契約に還元される訳でもない、社会という領域を再発見したのである。 言い換えれば、保守主義は、啓蒙思想による、理性と個人の発見に幻惑されて、一度は忘却の淵に立たされた、社会という現象を、再び見い出したのである。 社会の発見は、17・18世紀思想における理性と個人の発見に鋭く対比される、19・20世紀思想の鮮やかな特徴をなしている。 もちろん、合理主義と個体主義の哲学は、20世紀末の今日においてもなお有力なのではあるが、18世紀と19世紀の境に起こった転換以来、社会の、合理主義と個体主義によっては、ついに捉え得ない、という了解もまた、我々の共有財産となっているのである。 この意味において、保守主義は、社会についての哲学を、近代において始めて可能とした思想であると言えよう。 保守主義の歴史とは、取りも直さず、近代社会哲学の歴史に外ならないのである。 保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、合理的な客観としての自然でもなく、個体的な主観としての意識でもない、慣習的な遂行としての社会を、近代において始めて発見した。 すなわち、保守主義は、社会を、自らは如何なる合理的な根拠も保持せずに、自らにあらゆる個体的な行為を従属させる、遂行的な秩序として捉えることによって、近代社会哲学を創始したのである。 保守主義のこのように発見した社会が、前節に述べた《遂行的なるもの》と、ほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 《遂行的なるもの》とは、あらゆる行為がその成立/不成立を依存せざるを得ない文脈であり、また、いかなる根拠付けも自己に回帰する言及となるがゆえに不能である、遂行的な秩序のことであった。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、個体的に帰属し得ず、合理的に言及し得ない、慣習的な秩序のことである。 従って、保守主義の発見した社会は、《遂行的なるもの》と、極めて正確に一致していることになる。 すなわち、保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、取りも直さず、《遂行的なるもの》を発見していたのである。 あるいは、むしろ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール、オースティンの言語行為、さらにはウィトゲンシュタインの言語ゲームを通底する、《遂行的なるもの》こそが、保守主義のニ世紀に亘って護り続けて来た伝統の、現代における再発見なのであるとも言い得よう。 20世紀哲学の到達した地点は、保守主義の歴史の新たな一ページなのである。 すなわち、ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインの到達した哲学は、20世紀末における新しい保守主義に外ならないのである。 もちろん、ハイエクもハートもオースティンも、さらにはウィトゲンシュタインも、自らを保守主義者と名乗っている訳では些かもない。 従って、現代における新しい保守主義を考察するためには、彼らの哲学よりも、むしろ、現代における正統的な保守主義者、たとえばマイケル・オークショットなどの哲学を検討すべきではないのか、という指摘も尤もである。 わけてもオークショットの社会哲学は、イギリス保守主義の掉尾を飾るものとして、是非とも検討されねばならない。 しかし、現代においては、保守主義者を名乗る人々の哲学が、必ずしも保守主義の哲学であるとは限らない。 啓蒙の哲学が、あたかも正統思想であるかのように流布されている現代においては、保守主義を騙って啓蒙を喧伝する輩が、跡を絶たないのである。 保守主義とは、まず何よりも啓蒙の批判に外ならない。 従って、現代における新しい保守主義の探求とは、取りも直さず、現代における反啓蒙の哲学の検討であらねばならぬのである。 ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインが、このような現代における反啓蒙の急先鋒であることは紛れもない。 本書は、経済哲学、法哲学、言語哲学を含む社会哲学の、20世紀における大立者達の言説の内に、現代における反啓蒙の、従ってまた、現代における新しい保守主義の可能性を探って見たのである。 20世紀末の保守主義は、自生的秩序やルールや言語行為や、さらには言語ゲームの哲学の内に、その新たな表現様式を見い出しているのである。 このような20世紀末の新しい保守主義が、ニ世紀に亘る保守主義の歴史に、何か付け加えたものがあるとするならば、それは、啓蒙の運動が不可能であることの、新しい表現様式である。 新しい保守主義は、社会と人間が、自らの要素である行為の文脈依存的であるがゆえに、個体的に還元され得ず、また、自らを対象とする行為の自己言及的となるがゆえに、合理的に制御され得ないことを主張する。 すなわち、新しい保守主義は、社会と人間の個体化と合理化という、啓蒙の運動の不可能であることを、言語行為論あるいは言語ゲーム論に準拠して主張するのである。 保守主義は、その誕生以来、時代の進歩主義に対応する、様々な表現様式に身を託して、合理化と個体化の不可能であることを主張し続けて来た。 新しい保守主義の準拠する、言語行為論あるいは言語ゲーム論もまた、20世紀末の進歩主義に対応する、そのような表現様式に外ならないのである。 いずれにせよ、保守主義によれば、社会と人間の合理化と個体化は、原理的に不可能である。 社会と人間に対する、進歩主義の貫徹は、所詮出来ない相談なのである。 そのような進歩主義を、敢えて貫徹しようとするならば、社会と人間は、暴力的な専制と涜神的なアノミーとへの分解によって、破壊し尽くされざるを得ない。 進歩主義は、その建設への意志とは裏腹に、社会と人間を、ついに崩壊へと導かざるを得ないのである。 まさしく、滅びへの道は、善意によって敷き詰められている。 従って、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の生き方についての、可能な二つの道の対立などでは全くない。 進歩主義の道は、社会と人間の死滅に至る、不可能な道なのであって、社会と人間の辛くも生存し得る、唯一の可能な道は、保守主義の道なのである。 すなわち、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の存続し得るか否かを賭けた、全く抜き差しならぬ対立なのである。 この命題は、もとより、一般の社会と人間についても成立し得ると思われるが、ここでは、その近代の社会と人間についての成立が確認されねばならない。 すなわち、近代の社会と人間は、あたかも近代の正統思想であるかのように見なされている、進歩主義のみによっては、自らの存続すらをも保証し得ないのである。 言い換えれば、近代の社会と人間が、数世紀に亘って辛くも存続しているとするならば、それは、金ぢあの社会と人間が、己の意識するとしないとに拘わらず、保守主義を、事実として生きてしまっているからに外ならない。 近代の社会と人間は、あたかも反近代の異端思想であるかのように見なされている、保守主義を生きることによって始めて、自らの存続を辛くも保ち得るのである。 これは、何の逆説でもない。 社会と人間は、まさにそのようなものとして、生きられているのである。 ◆3.保守主義とは何でないか 前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。 ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.解釈学的社会学へ 本書のこれまでの諸章は、オースティンの言語行為論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、保守主義の社会哲学との関連を述べている。 主としてイギリスの20世紀哲学と保守主義との関連を述べて来たのである。 尤も、オースティンとハートは、確かにオックスフォードの人であるが、ウィトゲンシュタインとハイエクは、言うまでもなくウィーンの人である。 しかし、今世紀初頭のウィーン哲学は、必ずしもドイツ哲学の本流とは言い得ず、むしろイギリスにおいて活躍する人々の方が多かったと言っても過言ではない。 ウィーンの哲学は、ドイツにおけるイギリス哲学なのである。 いずれにせよ、本書のこれまでの諸章は、イギリス哲学に焦点を絞って来たのである。 ところが、これまでの論述において、20世紀イギリス哲学の行き着いた地平を辿って行く内に、それが、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学の行き着いた地平と、極めて類似していることに幾度となく気付かされざるを得なかった。 村上泰亮の言葉を借りれば、「後期のウィトゲンシュタインは、ほとんど現象学への - 言わば裏側からの - 復帰を果たしているように映るのである」。 従って、20世紀イギリス哲学の帰結に、保守主義の社会哲学を読み込む本書としては、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学と、それがもたらす社会哲学上の帰結に目を向けない訳にはいかない。 本書は、解釈学的社会学の方へと、呼ばれざるを得ないのである。 しかし、19・20世紀におけるドイツの社会哲学を取り上げるには、いささかの勇気が必要とされる。 それは、私自身が、これまで主としてイギリスの社会哲学を読み継いで来たという、研究経歴上の問題のためだけではない。 19・20世紀ドイツの社会哲学が輝かしいものであればある程、何故にドイツは、今世紀の二つの大戦において、あのように凄惨な敗北を喫さねばならなかったのか、という問いが否応なく覆い被さって来るからである。 もとより、ある言語による社会哲学に、その言語圏に属する国家社会の歴史的運命への、直接の責任が有り得よう筈もない。 しかし、ある社会における思想の在り様が、その社会の歴史的な運命に全く無関係であることもまた有り得ない。 ドイツの社会哲学は、ドイツの運命的な敗北に、何等かの関係を持っている筈なのである。 それでは、近代ドイツ思想と近代ドイツ社会の運命は、如何ように交錯するのであろうか。 この問いを問い切るためにこそ、些かの勇気が必要とされるのである。 何故ならば、この問いに対する答え方によっては、いわゆる戦後的な「常識」に、真っ正面から対立せざるを得なくなる場合も、充分に想像し得るからである。 このような勇気は、決定的な敗北ということをついぞ知らない、近代イギリスの社会哲学を取り上げるに当たっては、必ずしも必要とはされない。 しかし、たとえば近代日本の社会哲学を取り上げようとするならば、是が非でも必要とされるものである。 蓋し、近代日本社会もまた、過ぐる大戦において歴史的な敗北を喫したのであり、そのことと、近代日本思想との関係もまた、避けては通れない問いだからである。 いずれにせよ、近代ドイツの社会哲学あるいは近代日本の社会哲学を取り上げんとする試みは、少なくとも私には、些かの勇気を必要とする試みであるように思えてならないのである。 従って、以下の試みは、ささやかな覚悟を秘めてのことである。 20世紀末の時点に立って、ドイツの哲学を概観するならば、そこには、大きく三つの潮流の存在していることが見て取れる。 一つは、現象学あるいは解釈学に代表される潮流であり、二つは、フランクフルト学派あるいは批判理論に代表される潮流であり、三つは、分析哲学あるいは批判的合理主義に代表される潮流である。 これらの三潮流は、それぞれに社会哲学上の帰結を含意している。 すなわち、第一の潮流は、解釈学的社会学を、第二の潮流は、批判社会学を、第三の潮流は、機能主義社会学を含意しているのである。 これら三潮流を、その相互連関に留意しつつ、大胆に要約するならば、まず、第二の批判理論とは、たとえば人間の解放といった普遍妥当的とされる根拠に基づいて、社会の総体を批判しさらには変革し得るとする哲学であって、マルクスとフロイトの継承線上に位置することを、自他共に認める立場である。 次に、第三の批判的合理主義あるいは機能主義とは、人間の知識に普遍妥当的な根拠付けなど可能ではなく、知識とは、自らを妥当させる根拠(たとえば反証可能性基準)それ自体の選択をも含めた、自由な決断に外ならないとする哲学であって、三潮流の中で唯一、現代的な科学の方法論であり得ることを自負している立場である。 これらに対して、第一の解釈学とは、人間とその社会あるいは文化の解釈は、たとえば社会の伝統といった自らを妥当させる根拠をも、自らの対象とせざるを得ないのであるから、自らの普遍妥当性を根拠付け得る筈もなく、しかし、自らの妥当根拠を自由に選択し得る訳でもないとする哲学であって、19世紀以来のテクストあるいはコンテクスト解釈学の伝統に棹さす立場である。 言い換えれば、 批判理論とは、価値と認識についての普遍主義あるいは客観主義の視点に立つ、実践の哲学であり、 批判的合理主義とは、価値と認識についての相対主義あるいは主観主義の視点に立つ、科学の哲学であるのに対して、 解釈学とは、客観主義あるいは主観主義のいずれでもない言わば第三の視点に立つ、伝統の哲学なのである。 このような大胆な要約を示されれば即座に、幾つもの疑問が涌き上がって来て当然である。 たとえば、解釈学のいう伝統と、現象学の言う《生活世界》とは、果たして如何なる関係にあるのか、また、実践哲学の復権が言われる中で、批判理論は、果たして如何なる位置を占めるのか、さらに、批判的合理主義の言う仮説選択と、機能主義の言う《システム》選択とは、果たして異なった概念であるのか、等々の疑問である。 しかし、本論においては、これらの疑問にこれ以上立ち入ることはしない。 これらの疑問を詳細に検討するためには、遥かに充分な準備が必要とされるからである。 むしろ、本論においては、人間とその社会あるいは文化を解釈するという、解釈学的な問題の構造を解析することによって、何故に、批判理論と機能主義(批判的合理主義)が社会理論として不可能となり、解釈学的な社会理論のみが可能となるのかを検討してみたい。 さらに本論においては、そのような解釈学的社会学が、何故に保守主義であらねばならぬのかも検討してみたい。 これらの検討を通じて、伝統へ回帰することが、社会を解釈することの、逃れ得ぬ条件であり、かつ、避けられぬ帰結であることが、明らかになると思われる。 ◆2.自己関係性の構造 人間や社会や文化を解釈するという行為は、一体、いかなる特徴を持った行為であるのか。 この問いを問う前に、まず、社会という事態を如何に把握すべきかについて、多少なりとも議論して措く必要がある。 社会とは、差し当たり、人間の行為の集合である。 しかし、このような行為空間に、何等かの構造、形式あるいは秩序が導入されて始めて、社会は、社会として発見され得る。 すなわち、社会とは、何等かの構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間なのである。 ここに言う、行為空間に何等かの構造、形式あるいは秩序が存在するとは、ある行為空間に内属する行為が、何等かの根拠に基づいて、その妥当であるか否か、あるいは、その有効であるか否かを、ほとんどあらゆる場合に決定され得る、という事態に外ならない。 言い換えれば、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間とは、自らに内属する殆どあらゆる行為の、妥当であるか否か、あるいは、有効であるか否かを、常に決定し得る行為空間なのである。 ここでは、この意味において、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間を、秩序付けられた行為空間と呼び、そのように行為空間を秩序付ける、すなわち、行為の妥当性あるいは有効性を決定する根拠となるものを、行為のノルム(規範)、ルール(規則)あるいはコンテクスト(文脈)と呼ぶことにしたい。 すなわち、行為は、何等かの規範、規則あるいは文脈に依することによって始めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのであり、また、行為空間は、何等かの規範、規則あるいは文脈が導入されて始めて、秩序付けられるのである。 従って、社会とは、何等かの文脈によって秩序付けられた、行為空間に外ならないことになる。 言い換えれば、社会とは、何等かの文脈に依存することによって始めて、自らの妥当しうるか否かを決定し得る、行為の集合に外ならないのである。 このような社会という事態を解釈する行為は、一体、如何なる特徴を持つのであろうか。 行為という事態を、一篇のテクストに譬えることが許されるならば、ある文脈に依存することによって始めて、自らの当否を決定し得る場合、すなわち社会を解釈する行為は、あるコンテクストに依拠することによって始めて、自らの意味を決定し得るテクストの集合を解釈する行為に外ならない。 言い換えれば、社会の解釈とは、あるコンテクストを共に織り成している、テクストの束を解する行為に外ならないのである。 さらに言えば、この解釈する行為それ自身もまた、一篇のテクストに外ならず、何等かのコンテクストに依拠することによって初めて、自らの意味を決定し得る。 すなわち、解釈する行為それ自身もまた、行為である以上、何等かの文脈に依存することによって初めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのである。 従って、社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会、すなわち秩序付けられた行為空間とは差し当たり区別される、何等かの秩序付けられた行為空間に内属することになる。 すなわち、社会を解釈する行為は、それ自身もまた行為であるがゆえに、言わばメタ社会とでも呼ぶべき社会に内属せざるを得ないのである。 この解釈行為の内属する(メタ)社会と、解釈行為の対象とする(対象)社会とが、同一ではないとするならば、社会を解釈するに当たって特徴的な問題は生じ得ない。 言い換えれば、解釈行為の依存する文脈と、対象社会を秩序付ける文脈とが、異なるものであるとするならば、次節以降に述べるような問題は生じ得ないのである。 しかし、社会を解釈するという課題は、対象社会とメタ社会との峻別を、ついに許さない。 対象社会を秩序付ける文脈と、メタ社会を秩序付ける文脈とは、究極的には一致せざるを得ないのである。 何故ならば、秩序付けられた解釈行為の空間としてのメタ社会もまた、社会である以上、当然に解釈行為の対象となり得るのであって、社会の全体を解釈せんとする行為は、自らの内属する社会をも、自らの対象とせざるを得ないからである。 すなわち、社会の全体を解釈せんとするならば、対象社会は、メタ社会それ自体をも包含せざるを得ないのである。 従って、メタ社会を秩序付ける文脈、すなわち解釈行為の依存する文脈は、対象社会を秩序付ける文脈の一部分とならざるを得ない。 言い換えれば、社会全体を解釈せんとする行為は、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体をも、自らの対象とせざるを得ないのである。 このように、解釈行為の対象となっている社会に内属する行為の妥当根拠が、同時に、解釈行為それ自身の妥当根拠でもある事態を、ブプナーに従って、自己関係的な事態、あるいは、自己関係性と呼ぶことにしよう。 すなわち、社会全体を対象とする解釈行為は、自らの根拠を自らの対象とせざるを得ないという意味において、自己関係性の構造を余儀なくされるのである。 もっとも、解釈の行為が、必ずしも社会の全体を対象とする必然はない。 従って、社会の部分を対象としている限り、解釈の行為が、自己関係性の構造を引き受けなくとも済む場合もあり得よう。 しかし、解釈の行為が、自らの内属する社会、すなわち秩序付けられた解釈空間それ自体を対象とする場合には、依然として、自己関係性の構造を避け得ない。 そのような場合とは、解釈の行為とその妥当根拠とを反省的に解釈する場合、言い換えれば、解釈学的な行為の遂行される場合である。 すなわち、解釈学的行為は、その対象である解釈行為の妥当根拠と、それ自身の妥当根拠が厳密に一致するという意味において、まさに自己関係性の構造を遂行しているのである。 従って、自己関係性の構造が問題とされるのは、社会全体を対象とする解釈行為の場合と、解釈行為それ自体を対象とする解釈行為、すなわち解釈学的行為の場合とに限られることになる。 このような自己関係性の構造、すなわち自らの妥当根拠を自らの解釈対象とする構造こそ、解釈学的循環と呼ばれる構造に外ならない。 言い換えれば、自らのコンテクストを自らのテクストとする処に、解釈学的循環が生じるのである。 解釈学的循環は、解釈学の全歴史を通底する根本構造である。 解釈学の主要なメッセージは、押し並べて、この解釈学的循環から帰結されると言っても過言ではない。 本論の以下の諸節もまた、この解釈学的循環あるいは自己関係性の諸帰結を検討することに費やされる。 そこでは、自己関係性の帰結として、批判理論と機能主義あるいは批判的合理主義の不可能であることが、明らかにされると共に、解釈学的循環の帰結として、保守主義あるいは伝統再生の不可避であることが、示される筈である。 ◆3.基礎付けの不可能 自己関係性を引き受ける解釈行為、すなわち、社会全体を対象とする解釈行為、あるいは、自己自身の妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当し得るか否かを、如何にして決定し得るのであろうか。 言い換えれば、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、如何にして根拠付け得るのであろうか。 たとえば、自らの妥当根拠に対する解釈を遂行して、そこには「自らの妥当根拠に対する解釈は妥当でない」という準則が含まれている、と解釈する場合を考えてみよう。 この場合、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当であるとするならば、その解釈の妥当でないことが帰結され、逆に、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当でないとするならば、その解釈の妥当であることが帰結される。 従って、この場合、自らの妥当根拠に対する解釈の妥当であるか否かは、全く決定し得ないことになる。 すなわち、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないのである。 このような決定不能性あるいは根拠付けの不可能は、自らの当否を自らが決定する構造、言い換えれば、自らを根拠として自らを正当化する構造の存在する処では、何処にでも生じ得るパラドックスである。 従って、自己関係性の構造の存在が、自らの妥当根拠に対する解釈の決定不能あるいは根拠付けの不可能を帰結するのは、このような自己決定あるいは自己正当化のパラドックスの、一つの例であるとも言い得るのである。 いずれにせよ、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、自らの妥当性の決定不能あるいは根拠付けの不可能に陥らさるを得ない。 言い換えれば、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、そもそも、合理的な行為としては成立し得ないのである。 社会の全体あるいは自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為が、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ないという事態は、批判理論の遂行せんとしている、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判の行為が、必ずしも可能ではあり得ないことを示唆している。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判は、自らの妥当根拠それ自体をも批判の対象とせざるを得ず、そのような批判は、自らの妥当し得るか否かを、ついに決定し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判には、自らを妥当させる究極的な根拠など、決して存在し得ないのである。 従って、批判理論は、ついに可能ではあり得ない。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会に対する、疑い得ぬ確実な根拠に基づいた、普遍妥当的な批判など、全く不可能なのである。 このことは、同時に、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、合理的な言及や制御や変革やの、不可能であることも含意している。 何故ならば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、批判の行為と同様に、自らの妥当根拠を自らの行為対象とせざるを得ず、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないからである。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、合理的な行為としては決して成立し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会は、合理的な言及や制御や変革やといった行為の対象とは、ついになり得ないのである。 従って、社会の全体あるいは当該行為の内属する社会は、言及/制御/変革不能という意味において、まさに暗黙的となるのである。 社会の全体あるいは制御行為の内属する社会が、制御不能であるということは、取りも直さず、社会の全体を秩序付けている文脈、あるいは、制御行為の依存している文脈もまた、制御不能であるということに外ならない。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。 従って、社会全体を秩序付ける文脈は、意図的に設定される事態ではあり得ない。 そのような文脈は、行為の意図にはよらず、行為の結果として、自生的に生成される事態なのである。 また、制御の行為は、自らの意識的には制御し得ない文脈に依存して初めて、自らの行為を可能にし得ることになる。 この制御行為の依存する文脈もまた、制御行為の遂行の累積的な帰結として、自生的に生成される事態なのである。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的であるがゆえに、ただ遂行的となるのである。 言い換えれば、そのような文脈は、意識的に語り得ないがゆえに、ただ遂行的に示されるのみなのである。 ◆4.《選択肢》の不在 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ない。 自らの内属する社会を解釈する行為には、究極的な妥当根拠など、決して存在し得ないのである。 それでは、自らの内属する社会を解釈する行為に、言わば暫定的な妥当根拠を付与する試みは可能であろうか。 なるほど、自らの内属する社会への解釈に、究極的な妥当根拠など存在し得ない。 しかし、そのような解釈に、暫定的な妥当根拠を付与することによって、そのような解釈の、差し当たり妥当し得るか否かを決定することは可能ではないか。 ただし、ここに言う妥当根拠の暫定的であるとは取りも直さず、自らの内属する社会への解釈の、妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体には、その妥当であるか否かを決定し得る、いかなる根拠も存在し得ない、ということに外ならない。 すなわち、暫定的な妥当根拠とは、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を与えつつ、それ自体は、いかなる妥当根拠をも持ち得ない事態なのである。 言い換えれば、暫定的な妥当根拠は、自らの妥当根拠それ自体への遡行を、言わば中断することによって、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を付与するのである。 自らの内属する社会への解釈は、このように、自らの妥当根拠を暫定的に付与されることによって、差し当たり、自らの妥当し得るか否かを決定し得るかも知れない。 従って、そのような解釈は、差し当たり、自らの妥当性を根拠付け得る、いわゆる科学的な言明として遂行され得るかも知れない。 しかし、そのような科学的言明の妥当性を根拠付けている、その妥当根拠は、あくまでも暫定的なものであって、自らの妥当性を根拠付ける、いかなる妥当根拠も存在し得ない。 科学的言明とは、さらなる根拠への遡行を中断することによって初めて可能となる、暫定的に根拠付けられた解釈の行為なのである。 それでは、自らの内属する社会への解釈を暫定的に根拠付ける、妥当根拠それ自体は、どのようにして与えられるのであろうか。 もとより、そのような妥当根拠それ自体には、いかなる妥当根拠も存在し得ないのであるから、そのような妥当根拠を、何等かの根拠に基づいて選択することは不可能である。 従って、そのような妥当根拠は、もし選択することが可能であるとするならば、いかなる根拠にも囚われない、いわば自由な決断によって選択されざるを得ない。 すなわち、暫定的な妥当根拠は、その選択可能を前提とするならば、解釈主体の自由な決断によって与えられるのである。 この意味において、科学的な言明とは、究極的には自由な決断に依存している行為に外ならない。 普遍的な妥当根拠の果てる処、自由な決断あるのみ、という訳である。 しかし、暫定的な妥当根拠を選択する、解釈主体の自由な決断が可能であるためには、そもそも、暫定的な妥当根拠それ自体を選択することが可能であらねばならない。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。 ところが、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の、暫定的な妥当根拠には、いかなる選択肢も存在し得ないことが示され得る。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。自己関係的な解釈行為は、たとえ暫定的なそれであったとしても、些かの選択可能性も持ち得ないのである。 何故ならば、自己関係的な解釈行為においては、自らの行為の妥当根拠と、自らの対象の妥当根拠とが一致せざるを得ない。 従って、社会の全体なり、あるいは、解釈行為自らの内属する社会なりを、解釈の対象とするならば、自らの対象としての社会全体を秩序付ける文脈(妥当根拠)、あるいは、自らの対象としての自らの内属する社会を秩序付ける文脈(妥当根拠)それ自体を、自らの行為の依存する文脈(妥当根拠)とせざるを得ないことになる。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする解釈の行為は、自らの行為の妥当根拠として、自らの対象の妥当根拠以外の、いかなる選択肢も持ち得ないのである。 言い換えれば、自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠は、些かも選択可能ではあり得ないのである。 従って、自らの内属する社会に対する解釈の妥当根拠を、解釈。主体の自由な決断に委ねることは、全く不可能となる 何故ならば、そのような解釈の妥当根拠には、選択肢が全く不在であるために、解釈主体による自由な決断の余地は、些かも残されてはいないからである。 このことは、科学的言明の妥当根拠(たとえば反証可能性基準)を、自由な決断に委任する、批判的合理主義の、必ずしも可能ではあり得ないことを示している。 すなわち、科学的言明の妥当根拠を、如何なる根拠にも囚われない自由な決断に委ねることによって、そのような妥当根拠によって秩序付けられた、科学的言明のゲームを展開せんとする、批判的合理主義の試みは、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする言明の妥当根拠に、如何なる選択肢も存在し得ないという事態によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、批判的合理主義の含意する、科学的言明の妥当根拠それ自体についての相対主義、いわゆるパラダイム相対主義は、社会の全体あるいは言明行為自らの内蔵する社会を対象とするパラダイムに、選択可能性の全く不在であるがゆえに、失敗せざるを得ないのである。 従って、批判的合理主義によるパラダイムの選択は、全く不可能となる。 このことは、機能主義による社会システムの選択が不可能であることと、ほとんど同型的に対応する事態であると思われる。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠が、解釈主体の自由な決断によっては選択され得ないという事態は、そのような解釈の行為が、自らの対象とする社会を秩序付けている文脈から、ついに自由ではあり得ないことを示している。 すなわち、そのような解釈の行為は、自らの対象とする文脈、従って、自らの依存する文脈から、ついに離脱し得ないのである。 言い換えれば、解釈行為という(メタ)テクストは、自らのテクストでありかつ自らも織り込まれているコンテクストから、決して離脱し得ないのである。 そのようなコンテクストは、解釈の行為(メタ・テクスト)に先立って遂行されている、言わば先行的な解釈(テクスト)の累積であるとも言えよう。 従って、解釈の行為は、先行的な解釈に拘束されて初めて可能であることになる。 すなわち、解釈の行為とは、言わば先行解釈の地平に投げ出されて在る行為に外ならないのである。 ◆5.再び伝統とは何か 社会の伝統あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの妥当し得るか否かを究極的には決定し得ず、また、自らの妥当性を根拠付ける文脈を暫定的にすら選択し得ない。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会を秩序付ける文脈を、究極的には操作し得ず、しかも、そのような文脈から、暫定的にすら離脱し得ないのである。 すなわち、解釈の行為が、自らの対象とし、従って、自らの依存する文脈は、究極的には操作不能であり、暫定的にも離脱不能である、何ものかなのである。 このような解釈行為の文脈こそ、伝統と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統とは、操作不能という意味において拘束的であり、解釈行為の遂行において従われる外はない事態なのである。 言い換えれば、伝統とは、解釈行為の語り得ず、ただ示し得る事態であると共に、解釈行為の逃れ得ず、ただ従うべき事態なのである。 従って、解釈の行為とは、このような伝統に従いつつ、このような伝統を示す、すなわち、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないことになる。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を秩序付ける文脈、すなわち、伝統を解釈する行為とは、伝統から離脱するのではなく、伝統に依拠しつつ、伝統を操作するのではなく、伝統を再生する行為に外ならないのである。 このように、伝統に依拠しつつ、伝統を再生する行為の遂行を、保守主義と呼ばずして、一体、何を保守疑義と呼び得るのか。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の遂行は、保守主義以外の何ものでもないのである。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統を普遍的に批判し得る根拠を持ち得ないが故に、伝統を生成し、また、伝統を自由に選択し得る選択肢を持ち得ないがゆえに、伝統に依存する行為であらざるを得ない。 すなわち、唯一可能な社会理論として、批判理論や機能主義と決別する解釈学的社会学の遂行は、取りも直さず、保守主義の外ではあり得ない。 解釈学的社会学の保守主義たる所以である。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為である、という命題は、解釈学的社会学の根本命題である。 本論は、この根本命題の含意を、簡単にスケッチしたに留まる。 論じ残された問題は数多い。 たとえば、ある歴史的な社会を解釈の対象に据えた場合、その歴史的な社会を秩序付けている文脈と、解釈の行為の内在する社会を秩序付けている文脈とは、必ずしも常には一致しない。 従って、そこには、解釈の対象とする(対象)社会の文脈と、解釈の内蔵する(メタ)社会の文脈とが一致する、いわゆる自己関係性の構造は、必ずしも見い出されない。 しかし、そもそも、解釈の行為は、対象社会の文脈とメタ社会の文脈との間に、何等かの一致を前提することによって、初めて可能になるとも考えられるし、あるいは、それらの間に、何等かの一致を帰結することによって、初めて実現し得るとも考えられる。 すなわち、解釈の行為は、自己関係性の構造を、その前提とも帰結ともしているのではないか、と考えられるのである。 この場合、解釈を遂行する過程において、対象社会の文脈とメタ社会の文脈とは、どのように離反し、あるいは、どのように一致していくのか、このことが問われねばならない。 この問いは、解釈の遂行課程において、自己関係性の構造が、どのように生成されて来るのかを問うことに外ならない。 ガーダマーの言う、地平融合の問題である。 しかし、本論は、この問いに答えない。 解釈学的社会学の理論的彫塑は、今後の課題である。 解釈学的社会学が、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないとするあらば、日本における解釈学的社会学は、日本の伝統を生成する行為を閉却する訳にはいかない。 もっとも、日本の伝統というと、即座に、古代以来の天皇制や、中世以来のイエ社会やを思い浮かべ、中国文明やあるいは近代文明の影響を受けていない、言わばナショナリスティックな伝統を考える向きがしばしば見受けられるが、ここに言う伝統は、必ずしもそのようなものではあり得ない。 日本において解釈学的社会学を遂行する場合、私の差し当たり対象としたい伝統は、17世紀ないし19世紀以降の近世あるいは近代日本の伝統である。 すなわち、近代文明の一翼を担う地域文化としての日本の伝統を対象としたいのである。 この間の事情は、ドイツにおいて解釈学的社会学の遂行される場合と大した違いはない。 ドイツの解釈学もまた、17世紀ないし19世紀以降の近代ドイツの哲学的な伝統を、差し当たり継承しているのである。 いずれにせよ、日本における解釈学的社会学を遂行するに当たって、差し当たり対象としたいのは、近世あるいは近代日本における哲学的な伝統である。 そのような伝統を解釈することによって、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為の一端を担ってみたいのである。 このこともまた、今後の課題に外ならない。 ▼原注 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 第一章 世紀末の新しい保守主義 (省略) 第二章 合理と個体 (省略) 第三章 暗黙の言及 (*6) Polanyi, Michael ("Personal Knowledge"1958 長尾史郎訳 『個人的知識』1985) ハイエクは、ポランニーから多くの影響を受けている。 たとえば、自生的秩序の概念は、ポランニーから譲り受けたものである。 確かに、ハイエクは、ポランニーの暗黙知の概念を、言葉としては用いていないが、内容的には同様の考え方に立っている。 (*7) 橋爪大三郎 (『言語ゲームと社会理論 -ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』 1985) ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、ハイエクが直接の示唆を受けているか否かは定かでない。 従って、ここに言う家族的類似は、両者の理論が結果として類似しているという主張以上のものではない。 なお、ハイエクは、ウィトゲンシュタインの伝記を手掛けたことがあるそうである。 (他は省略) 第四章 規範の文脈 (*5) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 自己言及性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*8) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 文脈依存性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*18) 土屋俊 (「何種類の言語行為があるか -言語ゲームとしての言語行為-」 講座『思考の関数1 ゲームの臨界 -アゴーンとシステム-』 1983) 発語内行為の分類に関しては、土屋(1983)に示唆を受けた。 (他は省略) 第五章 慣習と遂行 (*1) Popper, Karl R. ("Objective Knowledge"1972 森博訳 『客観的知識 -進化論的アプローチ-』1974) 《世界Ⅰ》 《世界Ⅱ》 《世界Ⅲ》 の概念については、Popper に示唆を受けた。 (*2) これは、行為の累積的な帰結として生成される秩序が、何故に、行為の発効し得るか否かを決定する根拠すなわち、行為の依存する文脈となり得るのか、という問題である。 もし、行為の依存する文脈が、行為によって意図的に設定されるとするならば、そこには、自己言及あるいは自己回帰のパラドックスが生ずることになり、行為の発効し得るか否かは決定不能に陥らざるを得ない。 従って、行為の発効し得るか否かが決定可能である、すなわち、行為の依存する文脈が存在し得るとするならば、それは、たとえ行為の累積的な帰結として生成される秩序であったとしても、行為の意図的な設定にはよらないことが明らかになる。 言い換えれば、行為の依存する文脈は、もしそれが存在し得るとするならば、行為の累積的な帰結からは必ずしも独立していないにも拘わらず、行為の意図的な帰結からは全く独立しているのである。 (*3) 行為の発効し得るか否かを決定する根拠、言い換えれば、行為を根拠付けあるいは正当化する文脈に対する言及の総てが、自己言及あるいは自己回帰の行為となる訳では必ずしもない。 ある特定の行為秩序を正当化する文脈、すなわち、ある特定の社会ゲームを構成するルールに対する言及は、必ずしも自己に回帰する言及とはならず、ある特定の行為秩序あるいは社会ゲームを制御さらには設定する行為は常に可能である。 しかし、この場合、ある特定の文脈あるいはルールに言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールは、差し当たり、言及の対象になっていない。 もちろん、ある特定の文脈に言及する行為を正当化する文脈それ自体に対する言及も、常に可能である。 しかも、そのような言及は無限に遡及し得る。 何故ならば、文脈あるいはルールの全体に言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールに対する、新たな言及が、常に可能なのであるから、もとの言及は、文脈あるいはルールの全体を対象とする言及とは決してなり得ないのである。 このことは、文脈あるいはルールの全体に対する言及が、もし存在し得るとするならば、それは、自らを正当化する文脈あるいはルールそれ自体をも対象とする言及、すなわち、自己言及あるいは自己回帰の行為とならざるを得ず、そのような言及の発効し得るか否かを決定することは、すなわち、そのような言及の行為そのものが、原理的に不可能となるのである。 従って、ある特定の文脈によって正当化される行為秩序、あるいは、ある特定のルールによって構成される社会ゲームの制御さらには設定ならばいざ知らず、行為秩序あるいは社会ゲームの全体を対象とする制御さらには設定の行為は、原理的に不可能とならざるを得ない。 すなわち、行為秩序あるいは社会ゲームの全体に対する制御さらには設定は、自己回帰的な行為であらざるを得ないがゆえに、不可能となるのである。 (*4) 自生的秩序やルール、あるいは言語ゲームといった、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な遂行としてのみ示されるという意味において、行為累積的である。 行為は、自らの文脈としての《遂行的なるもの》に、自らの発効し得るか否かを依存しているという意味において、文脈依存的である。 しかし、《遂行的なるもの》の全体を対象とする行為は、自らの依存する文脈をも対象とせざるを得ないという意味において、自己回帰的であり、自らの発効し得るか否かを決定し得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》全体を対象とする行為は、自己回帰的であるがゆえに不可能なのである。 従って、行為の累積である《遂行的なるもの》に、行為が自らの発効し得るか否かを依存したとしても、《遂行的なるもの》の全体は行為の対象とはなり得ないのであるから、必ずしも矛盾は生じない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な帰結であるにも拘わらず、行為の意図的な対象とはなり得ないがゆえに、行為の規範的な文脈となり得るのである。 (*14) 累積的、規範的、暗黙的な事態としての《遂行的なるもの》と、社会との同一性は、本書に述べた社会哲学の最も基本的な命題である。 すなわち、社会は、《遂行的なるもの》と同様に、行為の累積的な遂行それ自体であるという意味において、累積的であり、また、行為の発効し得るか否かの依存する文脈であるという意味において、規範的であり、さらに、その全体を対象とする行為の自己に回帰するがゆえに不可能であるという意味において、暗黙的である。 保守主義は、累積的な伝統と、規範的な権威と、暗黙的な偏見との擁護し得ること、あるいは、擁護すべきことを見出すことによって、この意味における社会を、近代において初めて発見したのである。 保守主義のこのような捉え方は、保守主義を、言わば社会学として捉えることに外ならない。 言い換えれば、本書は、保守主義の伝統の中に、社会学の最良の部分を見出そうとする試みなのである。 なお、保守主義の社会学的な側面以外の諸相については、次節において簡単に検討したい。 (他は省略) 第六章 解釈学的社会学としての保守主義 (省略) ■3.まとめ (作成中) ■4.ご意見、情報提供 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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■1.はじめに 当サイトでは自由で寛容な価値多元的社会を支える憲法論の基礎となる法概念論として、H. L. A. ハートの法=社会的ルール説を幾つかのページで紹介している。 ※「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1961年にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。(以下のモデル図参照。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照) 当ページは、この①ハートの法概念論(ルール論)と密接に関連しつつ、同じく自由主義社会を支える基礎理論を提供している②ハイエク(自生的秩序論)、③J. L. オースティン(言語行為論)、さらに④ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム論)といった各々の理論の相互的な関連性を鋭く分析した落合仁司氏(同志社大学教授)の論説を紹介し、現代保守主義の社会理論について考察を深めることを目的とする。 関連ページ法と権利の本質 <目次> ■1.はじめに ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋▼まえがき ▼第一章 世紀末の新しい保守主義◆1.世紀末の《近代》 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 ▼第二章 合理と個体◆1.産業主義と合理主義 ◆2.実証主義と記述主義 ◆3.民主主義と個体主義 ◆4.主権主義と表出主義 ▼第三章 暗黙の言及◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - ◆2.外的視点 - ハート - ◆3.発語的行為 - オースティン - ▼第四章 規範の文脈◆1.規範的秩序 - ハイエク - ◆2.内的視点 - ハート - ◆3.発語内の力 - オースティン - ▼第五章 慣行と遂行◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 ◆2.新しい保守主義 ◆3.保守主義とは何でないか ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義◆1.解釈学的社会学へ ◆2.自己関係性の構造 ◆3.基礎付けの不可能 ◆4.《選択肢》の不在 ◆5.再び伝統とは何か ▼原注 ■3.まとめ ■4.ご意見、情報提供 ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋 『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン 』(落合 仁司:著) ①F.A.ハイエクの自生的秩序論、②H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)、③J.L.オースティンの言語行為論という20世紀哲学の諸潮流の内的関連性を、④ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と絡めながら解説し、社会哲学の観点から「20世紀以降の保守主義の社会哲学」を論じた名著。書中に多々登場する哲学・思想用語を一つ一つ辞書等でチェックしていく根気さえあれば、論旨明快で読みやすいはず。 ▼まえがき ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 本書は、現代における保守主義についての、社会哲学的な論述である。 従って、現代の保守主義を対象とした、政治学を始めとする社会科学的な分析とは、差し当たり、関係ない。 本書は、現代の保守主義を、経済哲学や法哲学さらには言語哲学を含む、社会哲学の地平において解釈する試みなのである。 しかし、20世紀末の現代において、何故に、保守主義を、しかも、社会科学ならぬ社会哲学の地平において、取り上げねばならぬのか。 今世紀末は、人間の《或るもの》からの離脱不能性と、人間による《或るもの》の操作不能性とを、倦むことなく語り続けて来た保守の精神からは、恐らく最も遠い処に漂い着いた時代である。 すなわち、今世紀末は、人間の《総てのもの》からの個体的な解放と、人間による《総てのもの》の合理的な制御とを、飽くことなく欲し続けて来た啓蒙の精神が、人類の最も誇るべき価値であるかの如き高みに昇り詰めた時代なのである。 そのような啓蒙主義への、最大の敵対者であった筈の保守主義を、今、何故に、しかも、社会哲学などという非科学的な地平において、取り上げねばならぬのか。 言い換えれば、あたかも啓蒙の進歩主義によって完全に領導されているかに見える、近代社会の唯中にあって、伝統の持続とその解釈などという営為が、果たして、いかなる意味を持ち、また、いかにして可能であるのか。 保守主義の社会哲学、すなわち、伝統の持続とその解釈という営為を引き受けるに当たって、これらの問いを避けて通る訳にはいかない。 しかし、これらの問いに答えることは、外ならぬ本論の課題である。 ▼第一章 世紀末の新しい保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.世紀末の《近代》 我々の時代は、機械と快楽の時代に見える。 産業技術と消費大衆の支配の時代である。 なるほど、この二世紀の間に、産業技術は、蒸気機関と鉄道輸送から電気機器と自動車交通へ、さらには情報処理機器とデータ通信へと大きく移行し、消費大衆は、ブルジョワジーとプロレタリアートから豊かな中間大衆へ、さらには新しい快楽的個人へと激しく変遷してきている。 しかし、技術的な合理主義と大衆的な個人主義の一貫した進展という意味において、この二世紀は、むしろ連続した平面の上にある。 すなわち、我々の時代は、フランス革命と、産業革命さらにはそれに引き続く民主革命とによって解き放たれた、合理主義と個体主義、あるいは産業主義と民主主義という、加速度運動の相の下に捉えられるのである。 言い換えれば、我々の時代は、19世紀と20世紀の200年間を通じて、あらゆる世界を席巻してきた、産業化と民主化という激浪の波頭に位置しているのである。 ここでは、この産業主義と民主主義の二世紀を、《近代》と呼ぶことにしたい。 従って、我々の時代は、20世紀末の《近代》と言うことになる。 この産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義の《近代》を称揚する思想は枚挙に暇がない。 近代自然法論や社会契約論、さらには啓蒙思想は言うに及ばず、19世紀以降に限っても、功利主義やマルクス主義、さらにはそれに引き続く、実証主義的な社会科学(たとえば分析法学、新古典派及びケインズ派経済学、機能主義社会学など)やマルクス主義的な社会科学、といった社会思想が、産業化(合理化)と民主化(固体化)の双方あるいはいずれか一方を、積極的に推進すべく、その言論を展開している。 産業主義(合理主義)あるいは民主主義(個体主義)を称揚する、これらの社会思想こそ、このニ世紀を通じて、進歩主義と呼び習わされて来た思想に外ならない。 《近代》の進歩主義は、功利主義とマルクス主義とに端を発する、《近代》社会科学によって担われて来たと言っても、決して言い過ぎではないのである。 《近代》の進歩主義は、言うまでもなく、極めて多様な傾向を孕んでいる。 そこには、自由主義的な傾向も存在すれば、社会主義的な傾向も存在する。 しかし、いずれの傾向も、その力点の置き方に多少の違いはあるとしても、合理主義と個体主義を信奉することにおいて、いささかも選ぶ処はない。 《近代》進歩主義は、人間とその社会を、理性によって目的合理的に制御し得るし、また、そうすべきである、と考える合理主義と、人間とその社会を、個体的な欲求充足に還元し得るし、また、そうすべきである、と考える個体主義とを、その共通の前提としているのである。 進歩主義は、このニ世紀に亘って、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放という二つのスローガンを、倦むこと無く主張し続けてきた。 このニ世紀に亘って進行した、産業化あるいは管理化と、民主化あるいは大衆化という二重革命は、このような進歩主義を、その思想的な前提とし、また帰結ともしているのである。 しかし、このような産業化と民主化の進行、あるいは進歩主義の哲学に対する懐疑もまた跡を絶たない。 合理主義と個体主義の哲学に対する懐疑は、《近代》思想史のいわば裏面を形成している。 たとえば、20世紀を代表する、ウィトゲンシュタインや日常言語学派、あるいは現象学や解釈学、さらには構造主義やポスト構造主義の哲学は、多かれ少なかれ、合理主義と個体主義に対する懐疑を、その発条(バネ)として展開されている。 しかし、合理主義と個体主義に対する懐疑の歴史において、決して逸することの許されないのは、フランス革命の産み落とした合理主義と個体主義の狂気に対して、敢然と立ち向かったバーク以来の保守主義の伝統である。 保守主義は、産業化と民主化の進行とともに、怒涛の如く進撃してきた進歩主義の哲学に抗して、200年このかた、《近代》への懐疑の哲学を守り続けてきた。 合理主義と個体主義に対する懐疑の伝統は、取りも直さず、《近代》保守主義の伝統に外ならないのである。 この意味において、ウィトゲンシュタインや日常言語学派の哲学といった20世紀思想もまた、《近代》保守主義の伝統の現代的な表現である、と言って言えなくもない。 本書もまた、このような《近代》保守主義の伝統に棹さして、20世紀末における、その今日的な表現を模索する試みに外ならないのである。 《近代》の保守主義は、人間とその社会を、理性によって意識的に制御する可能性を疑う。 人間の行為は、合理的には言及し得ない偏見や暗黙知を前提として始めて可能になるのであって、意識的には制御し尽くせないからである。 また、保守主義は、人間とその社会を、個体の意図に還元する可能性を疑う。 人間の行為は、個体には帰属し得ない権威やルールに依存して始めて可能になるのであって、その意図に還元し尽くせないからである。 このように合理主義と個体主義を懐疑する立脚点こそ、伝統あるいは慣習と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統あるいは慣習とは、行為の持続的な遂行の結果として生成される秩序であるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御不能であり(偏見あるいは暗黙知)、かつ、行為の主観的な意図には還元不能である(権威あるいはルール)何ものかである。 言い換えれば、伝統あるいは慣習とは、人間の行為によって生成される秩序であって、自らの存在を理由付けるいかなる根拠も持ち得ない(偏見あるいは暗黙知)にも拘わらず、自らは行為の当否を判定する根拠となり得る(権威あるいはルール)というものなのである。 保守主義は、このような伝統あるいは慣習こそが、人間とその社会の存在を辛くも可能にするのである、と主張する。 保守主義から見れば、合理主義は、人間とその社会の制御不能性を閉脚した、理性の専制支配に外ならず、また、個体主義は、人間とその社会の還元不能性を無視した、個体のアナーキーに外ならない。 《近代》保守主義は、このように合理主義と個体主義とを懐疑することによって、《近代》進歩主義の蛇蝎の如く忌み嫌う、伝統や偏見や権威やへの信仰を擁護するのである。 本書は、このような保守主義の、20世紀における新たな相貌を彫塑してみたい。 元来、保守主義は、その時代における進歩主義の様々な意匠に応じて、幾度となく変貌を繰り返しながら、進歩への疑いを懐き続けて来た。 保守主義の歴史は、進歩への懐疑という動機による、変奏曲の歴史なのである。 従って、我々の時代の保守主義もまた、進歩主義の新機軸に応じて、新たな衣装を纏いつつ立ち現われている筈である。 本書は、そのような20世紀末の新しい保守主義の容貌を、明瞭に写し撮ってみたいのである。 何故ならば、保守主義を論ずることは、産業化と民主化の行き着く処まで行き着いてしまったかに見えるこの時代、技術的な管理と快楽的な大衆ばかりが跳梁跋扈するこの時代を懐疑する、最も確かな立脚点となり得るからである。 さらにまた、保守主義を論ずることは、合理主義と個体主義とによって塗り固められた、《近代》社会科学の城壁に、蟻の一穴を穿つ社会哲学の、最も確かな橋頭堡となり得るからである。 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 我々の時代の保守主義を論ずることは、しかし、かなり逆説的な課題である。 バークが《近代》保守主義の生誕を高らかに宣言した時代には、その背景に、土地と議会を支配したジェントルマン達の貴族主義が、確固として存在していた。 保守主義は、ブルジョワ的産業主義と大衆的民主主義に反対する、ジェントルマンのイデオロギー足り得たのである。 しかし、ニ世紀に亘る、産業化と民主化の津波のような進撃が、あらゆる種類の貴族主義を粉砕し尽くし、技術と大衆が完全に勝利を収めた、我々の時代の保守主義には、いかなる階層的な基盤も期待し得ない。 我々の時代の保守主義は、支配階層のイデオロギーといったものではあり得ないのである。 我々の時代を支配しているのは、むしろ技術と大衆なのであって、それらを称揚する思想は、進歩主義でこそあれ、保守主義などでは全くあり得ない。 我々の時代の支配的なイデオロギーは、支配的であるがゆえに保守的であるという訳には、必ずしもいかないのである。 しかし、支配的であるものを擁護することが、必ずしも保守的であるとは限らないという状況は、かなり逆説的であると言う外はない。 このような状況において、保守主義は、いかに立ち現われるのであろうか。 我々の時代の保守主義を論ずるためには、この問いを避けて通る訳にはいかない。 これが、保守主義を20世紀末の今日において論ずることの引き起こす、差し当たりの困難である。 保守主義を論ずることは、しかし、より根本的な困難を孕んでいる。 保守主義を論ずることは、取りも直さず、自然発生的に形成される伝統や、合理的には言及し得ない偏見や、個体的には帰属し得ない権威やを論ずることに外ならないが、これらの伝統や偏見や権威やは、むしろ言葉によっては語り得ず、ただ行為において示される類いのものなのである。 すなわち、保守主義を論ずることは、語り得ぬものを語らねばならぬという困難を抱え込むことに等しいのである。 しかし、この困難は、保守主義が、合理主義と個体主義を否定することにおいて始めて成立したという、その出生の秘密の内に、既に孕まれたアポリア(※注釈:aporia 論理的正解を見出し辛い難問)である。 すなわち、保守主義は、客観的には言及し得ず、主観的には帰属し得ない、主客いずれでもあり得ない、言い換えれば、「~ではない」としか語り得ないものとして、この世に産み落とされたのである。 従って、保守主義を論ずることは、極めて逆説的な作業となる。 すなわち、保守主義は、進歩主義の称揚する諸価値を否定する作業の積み重ねの彼方に、いわば描き残された空白として、立ち現われて来るのである。 この意味において、保守主義の擁護する伝統は、《空の玉座》である。 すなわち、一切の存在は玉座を指し示しているにも拘わらず、そこに鎮座すべき王は永遠に不在なのである。 現代の保守主義を論ずることに纏わる、これらの困難を切り抜けるために、本書は、20世紀における、必ずしも保守主義者とは自認していない、合理主義と個体主義の批判者達の言説を取り上げてみたい。 何故ならば、現代の保守主義は、支配的なイデオロギーを喧伝している、自称保守主義者達の言説によく現れているとは考え難いからであり、また、現代の保守主義と言えども、合理主義と個体主義とを否定する言説の隙間にしか、決して立ち現われ得ないからである。 本書は、このような現代における啓蒙の批判者として、F・A・ハイエク、H・L・A・ハート、J・L・オースティンの三者を取り上げることにする。 言うまでもなく、現代における合理主義と個体主義の批判は、この三者のような、ウィトゲンシュタインに近い筋や日常言語学派からのそれのみならず、現象学や解釈学からのそれ、あるいは、構造主義やポスト構造主義からのそれといった、様々な潮流によって担われている。 20世紀思想の主だった潮流は、押しなべて合理主義と個体主義の批判に従事していると言っても、決して過言ではないのである。 それらの諸潮流の中から、主としてイギリス(あるいは英米圏)をその活躍の舞台とした、ハイエク・ハート・オースティンの三者を選択する理由は外でもない。 このニ世紀の間、《近代》進歩主義に抗して、最も激しく戦い抜いてきた、イギリス保守主義の伝統に、ささやかな敬意を表したいからである。 イギリスは、産業革命と民主革命の祖国であるとともに、《近代》保守主義のいつかは還るべき《イェルサレム》なのである。 1 フリードリヒ・A・ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国爛熟期のウィーンに生まれた。ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが母親の又従姉妹に当たる家系の出自である。ウィーン大学で法学、政治学、オーストリア学派の経済学を学ぶとともに、1927年よりオーストリア景気変動研究所の所長を勤めた。しかし、オーストリアの政治状況下では教授職を得難く、英米圏に渡り、1931年よりロンドン大学、1950年よりシカゴ大学に奉職する。その後、1962年に西ドイツのフライブルグ大学に戻った後、1967年に退職した。1974年にはノーベル経済学賞を受賞している。主著『法・立法・自由』の出版は、第一巻「規則と秩序」が1973年、第二巻「社会的正義の幻想」が1976年、第三巻「自由人達の政治秩序」が1979年である。ハイエクは、社会の全体を合理的に管理し得るとする技術的合理主義あるいは産業主義と、その政治経済的表現であるあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉主義、行政国家など)を、理性の思い上がりであるとして根底的に論駁するとともに、大衆の意志に絶対の主権を授与する無制限な民主主義こそが、隷従への隧道(※注釈:すいどう、①墓場へと降りていく道、②トンネル)であるとして厳しく批判する。ハイエクは、この技術的合理主義と大衆的民主主義への反駁の立脚点として、行為の累積的な結果として生成されるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御され得ず、また、行為の主観的な意図にも還元され得ない(行為の)秩序としての、自生的秩序(spontaneous order)の概念を提出する。この自生的秩序という概念こそが、保守主義を論ずるに当たって、是非とも参照されねばならないキー・コンセプトなのである。 2 ハーバート・L・A・ハートは、1907年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、弁護士を経て、1954年より母校に戻り、1968年に退職した。主著『法の概念』の出版は1961年である。言うまでもなくハートは、英米圏の法哲学を代表する社会哲学者であるとともに、オックスフォード日常言語学派の最も重要なメンバーの一人である。ハートは、法を含むルールを、最高、無制限の主権者の命令あるいは意志に帰属させる、個体主義的な社会論の不可能性を緻密に論証する。ハートにとって、(内的視点から見た)ルールとは、個体の行為の妥当性を判定する理由となるものであって、個体の意志にはついに帰属させ得ない存在なのである。しかし、ハートは、ルールについての個体主義的あるいは主観主義的な理解を拒絶するからと言って、当為判断の理由たるルールについての客観主義的あるいは自然主義的な理解に与する訳ではいささかもない。ハートにとって、(外的視点から見た)ルールとは、あくまでルールに従っているという慣習的な行為の中にのみ見出されるものであって、いまここに遂行されているという事実以外の、いかなる客観的あるいは絶対的な根拠も持ち得ない存在なのである。すなわち、ハートにとって、ルールとは、自らはあらゆる行為の妥当性を判定する理由となるにも拘わらず、自らの妥当性を根拠付けるいかなる理由も持ち得ずに、ただ慣習的に従われている存在に外ならないのである。このようなハートのルール論が、保守主義の論ずべき点について、極めて大きな示唆を与えることは明らかであろう。このようなルール論の形成に当たって、日常言語学派の哲学、わけてもジョン・L・オースティンとの交流が、決定的な役割を果たしたことは言うまでもない。 3 ジョン・L・オースティンは、1911年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、1933年より母校に奉職し、1960年に没した。主著『いかにして言語とともに行為するか』(※注釈:『How to Do Things with Words』)は、1962年の出版である。言うまでもなくオースティンは、20世紀後半のイギリス哲学を代表する日常言語学派の第一人者である。オースティンは、言語は何等かの事実を記述するものであり、言葉の意味はその記述対象である、従って、事実によってその真偽を検証し得ない言明は無意味であるとする、実証主義(※この文脈では論理実証主義 logical positivism の「意味の検証可能性テーゼ/原理 verifiability principle」 を指すものと思われる)あるいは記述主義の呪縛から言語を解放する。オースティンによれば、言語は、命令や判定や約束やの発話に見られるように、それ自体が社会的な行為の遂行なのであって、事実の記述に帰着し得るものではなく、その真偽を検証し得なくとも有意義なのである。しかし、オースティンは、言語は客観的な事実の記述ではなく行為の遂行であると主張することによって、あらゆる発話は発話する個体の主観的な意図や情緒や欲求やの表出である(※注釈:情緒主義 emotivism)と主張したい訳ではない。オースティンによれば、発話の社会的な行為としての効力は、その発話の適切性を判定する慣習的なルールに依存するのであって、発話する個体の主観的な意図には帰属し尽くせないのである。このようなオースティンの言語行為(speech act)論は、保守主義を論ずることの複雑な様相を照らし出す。保守主義を問うには、人間にとって最大の伝統あるいは慣習である言語への問いを、その射程に入れねばならないのである。 彼ら三者は、無視し得ない差異を留保しつつも、合理主義あるいは実証主義と、個体主義あるいは主権主義とに対する懐疑を共有している。 すなわち、彼らは、その力点の置き方にかなりの相違を認めるとしても、世界に対する、合理的な制御あるいは言及の可能性を疑い、また、社会の、個体的な意志への還元あるいは帰属の可能性を疑っているのである。 さらに、彼らが、そのような懐疑の立脚点として提出する、自生的秩序、ルール、言語行為の諸概念もまた、ある幾つかの特徴を共有している。 すなわち、これらの諸概念は、行為の結果として慣習的に生成されるにも拘わらず、(制御や言及やといった)行為の対象とはなり得ない暗黙的な事態であり、かつ行為を妥当させる規範的な根拠となる、といった諸特徴のいずれかを、必ず指し示しているのである。 このような自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念が、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念と、言わば家族的に類似していることは、注目されてよい。 言語ゲームは、人間の行為の遂行は総て言語ゲームの遂行とならざるを得ないという意味において、行為を拘束する(規範的な)事態であり、また、自らの総体を対象とした(その正当化をも含む)いかなる言及をも許さないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、言語ゲームとは、自らにあらゆる行為を従属させるとともに、自らは如何なる根拠をも保持し得ない、いわば慣習的な事態なのである。 このような言語ゲームの概念は、自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念と、そのかなりの特徴を共有している。 保守主義を論ずるに当たって、言語ゲーム論は、極めて魅力的な題材を提供しているのである。 しかし、本書は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を、明示的には取り扱わない。 一つには、ウィトゲンシュタインのテクストを解釈する作業が、解釈の可能性それ自体をも含めて、かなりの錯綜した課題と見受けられるからであり、二つには、言語ゲーム論と、わけてもハートのルール論との相互関係をめぐる、極めて鮮やかな分析が、近年、橋爪大三郎によって為されているからである(※原注1:橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論-ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』勁草書房 1985)。 従って、本書に現れる言語ゲーム論は、ハイエク・ハート・オースティンのテクストの解釈に投影された、その射影に過ぎない。 しかし読者は、本書に落とされた、ウィトゲンシュタインの長い影を、やはり鮮やかに見いだす筈である。 何故ならば、ウィトゲンシュタインこそが、20世紀思想の諸結果と、保守主義の伝統とを結び付ける、あの《失われた環》(※注釈:missing link)に外ならないと想われるからである。 以上のような、ハイエクの自生的秩序論、ハートのルール論、オースティンの言語行為論、さらには、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が、現代における保守主義の在処(ありか)を発見する、最も有力な手掛かりとなることは明らかであろう。 保守主義の変わらぬ拠り処は、遂行的に生成される伝統であり、合理的には言及し得ぬ偏見であり、個体的には帰属し得ぬ権威であった。 自生的秩序やルールや言語行為やさらに言語ゲームといった、20世紀思想の指し示すものは、遂行的に生成される慣習的な事態であり、合理的には言及し得ぬ暗黙的な事態であり、個体的には帰属し得ぬ規範的な事態である。 従って、保守主義とこれら20世紀思想の間には、ほとんど完全な同型対応が存在していることになる。 あるいは、これら20世紀思想は、むしろ保守主義の現代における新たな表現であると言ってもよい。 すなわち、保守主義は、これら20世紀思想に身を託して、この20世紀末の現代に立ち現われた、と言って言えないことはないのである。 しかし、これらの議論の当否は、本論に委ねることにしよう。 ▼第二章 合理と個体 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.産業主義と合理主義 産業主義と民主主義を懐疑することなど、しかし、この20世紀末の現代において、果たして可能なのだろうか。 我々の日々の生は、産業化と民主化の奔流の中で、ただ木の葉のように翻弄されているに過ぎないのではないか。 我々は誰しも、もちろん私自身をも含めて、何程かは、効率的な経済人であり、また、快楽的な大衆人なのである。 このような我々の日常を懐疑することは、つまるところ、我々の日常の一切を否定し去ることになるのではないか。 しかし、およそ保守主義を論じようとする姿勢の内に、我々の日常の一切を否定し去ろうとする態度の含まれよう筈もない。 いやしくも保守主義と呼びうる思想には、いまここに生きられている現実への肯定が、何程かは含まれている筈である。 従って、現代における保守主義もまた、この産業主義と民主主義に魅入られた20世紀末の現実の唯中に、肯定すべき某(なにがし)かの価値を見い出していることになる。 あるいは、そのように肯定されるべき現実こそが、産業主義と民主主義に対する懐疑の疑い得ぬ立脚点なのである、と言い換えてもよい。 保守主義とは、いまここに生きられる世界に定位して、この世界の合理的な制御や個体的な還元やの、むしろ幻影であることを暴き出す営為に外ならないのである。 それでは、産業主義と民主主義の幻影は、何故に疑い得ぬ現実の姿を取って、立ち現れ得るのであろうか。 言うまでもなく、産業主義とは、絶えざる技術革新を起爆力とする、人間と社会の不断の再組織の運動である。 この運動によって追求されているのは、自然や社会や人間自身に対する制御能力の拡大、生産力の増強、効率の上昇、合理化といった、目的達成のために利用可能な手段の拡大と、その有効適切な選択の推進である。 この手段的な可能性の拡大と、その効率的な利用を追求する態度こそ、合理主義と呼ばれるに相応しい。 マックス・ウェーバーの言う目的合理性であり、タルコット・パーソンズの言う能動的手段主義である。 すなわち、産業革命によって解き放たれたこの産業主義という運動は、合理主義をその中核的な価値としているのである。 もっとも、合理主義という言葉は、効率的な手段の追求という意味に限定されている訳ではない。 元来、合理主義とは、人間理性の尊重、あるいは理性による支配の貫徹の謂であって、その理性をどのように捉えるかによって、様々な意味に分散し得る。 理性を、目的に対して効果的な手段を選択する能力として捉えるならば、いまここで述べた合理主義の意味が出て来よう。 この意味における合理主義を、他と区別する場合には、手段的あるいは機能的合理主義と呼ぶことが多い。 この手段的合理主義と、いわゆる近代合理主義との関係は、いささか微妙である。 なるほど、手段的合理主義は、主体がその目的い適合するように客体を制御する能力を良しとするのであるから、主体と客体の分離を前提するという意味においては、近代合理主義と軌を一にしている。 しかし、手段的合理主義は、必ずしも論理整合的に推論する能力としての理性のみによって、効率的な手段を選択し得るとは考えないのであって、近代経験主義と対立する意味における近代合理主義とは、一線を画しているのである。 この意味においては、手段的合理主義は、むしろ近代経験主義の後裔をもって自認している、各種の実証主義に近しい。 主観とは分離された客観的な事実によって、その真偽を検証し得る命題のみが有意味であるとする実証主義(※注釈:論理実証主義 logocal positivism)は、選択した手段のもたらす結果についての実証的な知識こそが、効果的な手段の選択には不可欠であると考える手段的合理主義の、認識論的な前提となっているのである。 あるいは、むしろ検証可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える実証主義は、制御可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える手段的合理主義の、最も典型的な現れであるとも言えよう。 行為論における手段的合理主義と、認識論における実証主義とは、言わば同型的に対応しているのである。 ハイエクが批判するのは、このような手段的合理主義である。 ハイエクの用語系では、手段的合理主義は、構成的合理主義(constructivist rationalism)と呼ばれる(※注釈:ハイエク著『法と立法と自由』では「設計主義的合理主義」と翻訳されているが、こちらの方が良訳である)。 構成的合理主義とは、およそ人間の行為と社会は、何等かの目的の達成のために、意識的に組織され管理され計画され操作され制御され構成されており、また、そうされるべきだとする考え方である。 すなわち、人間の行為と社会は、それを対象として捉える人間の理性によって、意識的に構成し得るし、また、すべきだと言うのである。 ハイエクによれば、この構成的合理主義の淵源は、デカルトの合理主義に遡り得る。 デカルトによる思考する主体と思考される客体の分離は、構成的合理主義の必要条件を準備するものであり、また、明証的な前提から論理的に演繹された知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとするデカルトの合理主義的確証主義は、意識的に計画され構成された行為のみが、目的達成にとって有効な行為であるとする構成的合理主義と、その精神の態度を共有するものである。 すなわち、明晰で意識的な理性によって根拠付けられたもののみを信仰するという態度において、構成的合理主義は、デカルト的合理主義の紛れもない後裔なのである。 しかし、そうであるからといって、この構成的合理主義が、実証主義と対立する訳ではいささかもない。 実証主義とは、客観的な事実によって検証可能な知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとする経験主義的確証主義なのであって、明晰な理性によっても疑い得ぬ絶対確実な知識を希求する確証主義という意味においては、デカルト的合理主義と選ぶ処はないのである。 従って、構成的合理主義とは、意識的な理性によっては確証され得ない一切のものを懐疑する、過激な懐疑主義の運動なのであるともいえよう。 このような構成的合理主義から見れば、伝統や慣習といった、必ずしも意識的に設計された訳ではない社会制度は、合理的な根拠のない偏見や因習として侮辱される。 伝統や慣習の軛(くびき)から解き放たれて、社会を合理的に再編成していく能力こそ、人間の理性には相応しいと言うのである。 ハイエクは、何等かの具体的な目的を達成すべく意識的に設計された社会秩序を、組織(organization)あるいはタクシス(taxis)と呼ぶ。 すなわち、組織とは、あらゆる行為を、達成されるべき目的によって評価し、配列する社会である。 ハイエクによれば、社会主義はもとより、ケインズ的なマクロ経済政策や規制などのミクロ経済政策といった、市場経済への政府介入もまた、たとえば経済的福祉という目的を達成するために、社会を一つの組織に再編成しようとする試みに外ならない。 すなわち、福祉主義をも含むあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉国家、行政国家など)は、社会の総ての行為を、組織の目的に対する貢献によって評価し、配列しようとする試みなのである。 構成的合理主義、あるいは様々なタイプの社会主義は、社会を制御するための政策や手段をも含む総ての社会的行為を、それが社会にもたらすであろう帰結の、達成すべき目的に照らした優劣によって評価するのであるから、行為をその帰結によって評価するという意味における帰結主義(※注釈:consequentialism 結果主義。倫理学 ethics において、ある行為の価値は結果の良し悪しによって定まるとする学説)を含意している。 因みに、福祉主義あるいは功利主義は、典型的な帰結主義である。 この帰結主義が成功し得るためには、様々な行為のもたらす社会的な帰結の予測し得ることが不可欠である。 社会の制御を目指す政策や手段を含む様々な行為が、如何なる帰結を社会にもたらすかを予測し得て始めて、その合目的的な評価も可能になるのである。 従って、帰結主義、さらには構成的合理主義が、社会を合目的的に組織し得るか否かは、社会現象の予測可能性に懸かっていることになる。 言うまでもなく、意識的な理性に全幅の信頼を置く構成的合理主義は、社会現象の具体的な予測も原理的には可能であると、誇らしげに主張するのである。 この社会現象についての予測能力こそ、実証主義を標榜する社会科学の求めて止まぬものである。 実証主義的な社会科学は、社会を合理的に組織するための前提として役に立つ、社会予測を提供することを、その最終的な目的としているのである。 このような社会科学が標榜する実証主義とは、科学的な命題は、明証的な前提から論理的に演繹し得る命題か、あるいは、客観的な事実によって検証可能な命題のいずれかのみであるとする知識論である。 すなわち、社会をめぐる知識に対しても、真なる知識は、明晰な理性によっても疑い得ない絶対確実な根拠に基づいて判定されねばならぬとする、確証主義を要請しているのである。 ハイエクは、社会をめぐる知識に対する、このような実証主義あるいは確証主義の要請を、科学主義(scientism)と呼ぶ。 ハイエクによれば、経済学を始めとして、あらゆる近代社会科学は、この科学主義によって色濃く染め上げられている。 しかし、社会についての実証(確証)的な知識は、果たして可能なのであろうか。 あるいは、社会を、科学(主義)的な認識の対象となり得る、客観的な事実として把握することは、そもそも適切なのであろうか。 すなわち、社会制御の不可欠な前提である社会予測は、原理的に可能な行為なのであろうか。 ◆2.実証主義と記述主義 ここで、社会哲学においてしばしば混乱を引き起こす、認識論上の実証主義といわゆる法実証主義との関連について触れておきたい。 認識論上の実証主義とは、言うまでもなく、これまで述べてきた実証主義のことである。 これに対して、法実証主義(legal positivism)とは、最広義には、自然法(natural law)に対立する実定法(positive law)のみが法であるとする立場を意味する。 この最広義の意味における法実証主義は、自然法論の対抗思想という以上の意味を持たないので、むしろ、自然法論に対立させて、実定法論と呼ぶべきである。 この実定法論と呼ぶべき法実証主義は、自然法あるいは実定法の様々な解釈に依存して、極めて多義的であり得る。 その内には、ハートの擁護する法実証主義も、また、ハイエクの批判する法実証主義も含まれる。 次節以降に述べるように、ハートの擁護する法実証主義はより広義の、また、ハイエクの批判する法実証主義はより狭義のそれである。 このハイエクの批判するより狭義の法実証主義こそが、認識論上の実証主義と密接に関連しているのである。 詳しい議論は次節に譲るが、ハイエクの批判する法実証主義は、あらゆる法は人間が意図的に設定したものであるとする立場のことであり、さらには、それと関連したいわゆる価値相対主義のことである。 前者の立場は、言うまでもなく、構成的合理主義の法領域における現れであり、従って、認識論上の実証主義とは、意識的な理性の支配を貫徹させるという意味において、その精神の態度を共有している。 また、後者の価値相対主義は、事実と価値の峻別をさしあたり前提とすれば、認識論上の実証主義の、価値論における論理的な帰結となっている。 ハイエクの批判する法実証主義は、まさに法的な実証主義と呼ばれるに相応しいのである。 しかし、ハートの擁護する法実証主義は、必ずしも認識論上の実証主義と関連している訳ではない。 ハートの擁護する法実証主義は、むしろ実定法論と呼ばれるに相応しいのである。 ハートの擁護する法実証主義は、法が、人々の行為の当否を判定する法的な理由として有効でるか否か、あるいは、法が、現行の法体系の下で法としての効力を持つか否かという問題と、法が、道徳や慣習やさらには自然法やといった、実定法以外の当為規範から見て正しいものであるか否かという問題とを峻別する立場である。 すなわち、法が(その法体系の究極の承認のルールによる承認によって)法として妥当することと、それが道徳的に不正でないこととは、まったく別の問題だと言うのである。 この立場は、法の妥当性を、実定法体系の内部問題として捉えるという意味において、典型的な実定法論となっている。 しかし、ハートの言う実定法体系は、後に述べるように、実は慣習の一種である究極の承認のルールを含む、様々なルールの体系のことであって、制定法や判例法やあるいは慣習法やといった、普通にイメージされる実定法を、遥かに超えたものなのである。 このように拡張された実定法論は、認識論上の実証主義(あるいは確証主義)とは、関連がないと言うよりも、むしろ対立するものである。 何故ならば、後に詳しく議論するように、究極の承認のルールは、意識的な理性によっては語り得ぬ、ただ行為において示されるのみ(従って確証不能)のルールをも含んでいるからである。 ハートは、法の妥当性とその道徳的な価値を峻別するからといって、法の正邪についての道徳的な批判を認めない訳では些(いささ)かもない。 むしろ、そのような批判を明晰に行うためにこそ、法と道徳を峻別するのである。 言うまでもなく、自然法論は、法の妥当性をその道徳的な価値によって判断する。 すなわち、道徳的に不正な法は法ではないと言うのである。 従って、道徳的に不正な法には、それが法ではないから従わないということになる。 これに対して、ハートは、道徳的に不正な法も法である、しかし、それに従うか否かは(法的ではなく)道徳的な選択の問題である、と主張する。 ハートにとって、問われるべきは、不正な行為は為すべからずという一つの道徳的要請と、妥当な法には従うべしというもう一つの道徳的要請との間の選択である。 ハートによれば、自然法論は、このような道徳的選択の問題を、法の妥当性という問題にすり替えることによって、議論を混乱させていることになる。 自然法論の誤りは、以上に尽きるものではない。 自然法論は、法の妥当性を判断する根拠となる道徳的な価値規範を、自然法と呼ぶ。 この自然法は、自然法則と同様に、意識的な理性によって発見され得る客観的な存在であると見做されている。 しかし、客観的な存在事実から当為規範を発見し得るとする目論見は、事実命題「~である」から当為命題「~すべし」は演繹し得ないとするいわゆる方法二元論によって、容易に挫折させられる。 いわゆる自然主義的誤謬である(※注釈:naturalistic fallacy 非倫理的な[事実的]前提から倫理的結論を導くことができるとする誤謬。G. E. ムーアの仮説)。 ハートの批判する自然法論は、およそこのようなものである。 しかし、ハートは、法理論における重要な対立が、自然法論と実定法論との対立に限られると主張したい訳ではない。 むしろハートは、法理論における主要な対立を、実定法論の内部にあると見ている。 ハートは、広義の法実証主義の一部に、誤れる法理論が存在すると見ているのである。 このハートの批判する法理論は、次節以降に述べるように、ハイエクの批判する狭義の法実証主義と極めて近い。 ハートも、そしてまたハイエクも、自然法論ではなく、狭義の法実証主義でもない、第三の法理論を探求しているのである。 それはさておき、(認識論上の)実証主義は、極めて素朴なレベルでかなりの信頼を得ているようである。 たとえば、実証主義は、経験に学ぶ謙虚な態度であって、極めて当然のことだといった具合である。 実証主義が、経験に学ぶ謙虚な態度であるどころか、生きられる経験を閑却した理性の傲慢以外の何ものでもないことは、次章において詳しく展開するが、しかし、実証主義が、一見、当然のことに思えてくる事情については、少しく検討するに値しよう。 確かに、実証主義は、手段的合理主義の認識論における現れである。 認識もまた人間の行為の一つなのであるから、意識的な理性によって操作可能な行為のみが有効な行為であるとする手段的合理主義が、意識的な理性によって確証可能な認識のみが有効な認識であるとする実証主義を含意することは見やすい。 しかし、実証主義への素朴な信頼は、それが手段的合理主義の現れであることのみによる訳ではない。 そこには、認識に、わけても言語による認識に固有の事情が介在する。 我々は、言語を、何等かの事実を記述するものであると素朴に考えている。 あるいは、言葉の意味は、その言葉が指示する対象的な事実にあると考えている。 従って、ある言葉が意味を持つためには、その言葉が何等かの事実(ある事態が存在しないという事実も含む)と対応していなければならぬと考えていることになる。 さらに、ある言葉が真実であるか否かを判定するためには、その言葉と対応する事実が存在するか否かを確かめればよいと考えていることも多い。 このような言語に対する考え方を、オースティンは、記述主義と呼ぶ。 この記述主義こそが、実証主義への素朴な信頼を支える言語観なのである。 オースティンによれば、記述主義(descriptivism)とは、あらゆる言明は何等かの事実の記述であるかあるいは無意味であり、かつ、有意味な言明は真か偽のいずれかであるとする立場である。 言うまでもなく、この立場は、真偽の検証可能な言明のみが有意味であるとする、実証主義とほとんど同じ立場である。 あるいは、むしろ各種の実証主義に共通する言明観を抽象したものが記述主義であると言ってもよい。 オースティンは、次章で見るように、この記述主義の言語観を、まず、徹底的に解体するのである。 オースティンは、また、記述主義の批判と並行して、記述主義的な言語観が何処からよって来るのかについても検討している。 この記述主義の由来についての検討は、素朴な実証主義の蔓延を、よく説明するように思われる。 オースティンによれば、我々が「言葉を発する」あるいは「何かを言う」ということは、以下の三つの行為を同時に遂行することに外ならない。 一つは、ある一定の音声を発する行為(音声行為)であり、 二つは、ある一定の語彙に属し、ある一定の文法に適った、ある一定の音声すなわち語を発する行為(用語行為)であり、 三つは、ある程度明確な意味(sense)と指示対象(reference)とを伴って語あるいはその連鎖としての文を発する行為(意味行為)である。 オースティンは、この三つの行為を同時に遂行する「何かを言う」という行為を、発語行為(locutionary act)と呼ぶ。 しかし、ここでは、さしあたり意味行為のみが問題になるので、音声行為及び用語行為を捨象して、発語行為の意味を、意味内容のみを指示対象とするように限定して用いることにする。 すなわち、発語行為という語によって、意味行為という語を指示するのである。 このような発語行為という概念によって言及されているのは、我々が「何かを言う」行為は、取りも直さず、何かを指示する行為に外ならないという事態である。 すなわち、発語することは、何等かの事態を指示することなのである。 このような指示機能は、我々の言語に、紛れもなく存在している。 たとえば、ウィトゲンシュタインのように、言葉の意味は他の意味との関係の内でしか決定し得ず、言葉によって指示される事態は、言葉に先立って存在するのではなく、言葉の意味と同時に分節されると考えたとしても、言葉が、何等かの事態(言葉とは独立の客観的な事実である必要はいささかもない)を指示するということは認められる。 オースティンによれば、この紛れもなく存在する言葉の指示機能すなわち発語行為の位相のみにおいて、言語を巡るあらゆる問題を取り扱おうとする所に、記述主義が生じるのである。 すなわち、あらゆる発話は何等かの事態を指示するか、さもなくば無意味である、記述主義風に言い換えれば、あらゆる発話は何等かの事実を記述するか、さもなくば無意味である、ここまでは必ずしも誤りではない。 しかし、ここから、従って、発話を巡るあらゆる問題は、事態の指示あるいは事実の記述のみを巡る問題である、と結論する処に、記述主義が始まる 記述主義は、発話を巡るあらゆる問題を、発語行為の位相に還元し尽くそうとするのである。 しかし、オースティンによれば、発話という行為は、発語行為に還元し尽くされるものではない。 後に詳しく述べるように、発話行為は、「何かを言う」ことすなわち何等かの事態を指示することである発語行為の遂行であるのみならず、「何かを言う」ことが慣習的な文脈の下で何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自体とは別の)行為でもある発語内行為(illocutionary act)の遂行でもあり、さらに、「何かを言う」ことを手段あるいは原因として何等かの目的あるいは結果を達成する行為でもある発語媒介行為(perlocutionary act)の遂行でもある。 発話行為は、以上の三つの行為を同時に遂行しているのである。 従って、オースティンによれば、発話行為を発語行為あるいは事実の記述に還元する試みは、発話行為が慣習的(発語内的)あるいは意図的(発語媒介的)な行為の遂行でもあるという事態を、全く等閑視することになる。 言い換えれば、あらゆる発話を事実の記述に還元する記述主義の成否は、発話を巡る諸問題が、発話に伴う、しかし発話それ自体とは区別される行為の遂行に、どこまで拘わっているかに依存することになる。 果たして、発話は、その社会的な文脈や話者の意図とは独立に、その意味あるいは指示機能のみによって、どこまで理解し得るのであろうか。 ◆3.民主主義と個体主義 手段的合理主義は、与えられた目的を最大限に達成すべく社会を組織する。 すなわち、社会のあらゆる行為を、与えられた目的に対する手段としての有効性によって評価する。 しかし、達成されるべき目的そのものは、いかにして与えられるのであろうか。 そもそも、手段的合理主義とは、手段としてのある行為が帰結する社会状態についての知識と、様々な社会状態を評価する規準としての目的とを前提して、目的に照らして最も高く評価される社会状態をもたらす手段を選択するという立場である。 さらに、行為の社会的な帰結についての知識の拡大それ自体を目的とする立場も、(そのような知識はいかなる目的にとっても手段になり得るとすれば)、手段的合理主義に含まれる。 しかし、最終的に達成されるべき社会状態を決定する目的そのものは、手段的合理主義にとって、その外部から与えられざるを得ないのである。 何故なら、手段的合理主義によれば、手段とその帰結についての知識は、実証主義的な手続きによってその真偽を確証し得る客観的な知識である。 これに対し、目的による社会の評価は、価値判断あるいは当為判断「~すべし」なのであって、客観的な知識としての事実判断「~である」とは峻別される。 従って、万人によって受け容れられる確証可能な知識は、事実判断と演繹論理のみであるとする実証(確証)主義と、事実判断から当為判断は演繹し得ないとする方法二元論とを認めるとすれば、当為としての目的は、万人によって受け容れられ得る客観的(確証可能)な知識ではありえないことになる。 言うまでもなく、手段的合理主義は、実証主義(と方法二元論)をその認識論的(あるいは価値論的)な前提としているのであるから、達成すべき目的は、万人によって受容され得る客観的な知識ではあり得ない。 すなわち、手段的合理主義は、意識的な理性によって確証し得ない一切のものを拒絶するがゆえに、その達成すべき目的を、自らの内部からは原理的に導き出し得ないのである。 それでは、達成されるべき目的は、いかにして与えられるのであろうか。 手段的合理主義によれば、およそ行為の目的は、主観的あるいは個体に相対的なものである。 何故なら、手段的合理主義が前提している主客二元論に基けば、およそ客観的でないものは主観的であらざるを得ないからである。 このような立場は、ほとんどの場合、行為の目的を、個体の意志や情緒や欲求やに帰着させる。 言い換えれば、このような立場は、行為を、個体の意志や情緒や欲求やの表出であると捉えるのである。 個体の意志や欲求やは、言うまでもなく個体に相対的、主観的なものであって、もとより普遍的、絶対的、客観的なものではあり得ない。 このような個体の意志から、少なくとも複数の個体によって構成される社会の全体が達成すべき目的が、果たして導出し得るであろうか。 この問題は、近代合理主義に特有の問題である。 あるいは、近代合理主義と主客二元論という卵を同じくする一卵性双生児である、近代個体主義に特有の問題であると言ってもよい。 すなわち、目的や価値や当為やは、客観的、普遍的、絶対的なものでは全くあり得ず、主観的、個体的、相対的なものに外ならない(価値相対主義)。 さらに、目的志向的な行為や価値判断や当為言明やは、個体の意志や情緒や欲求やの表出として捉えられる(表出主義)。 従って、社会全体の目的や価値や当為やは、個体の意志や情緒や欲求やに還元し得るし、また、されねばならぬ(個体主義)。 以上の条件を総て充たすような社会全体の目的を導出せよ。 これが問題である。 この問いに対する、近代特有の答えが、近代民主主義なのである。 民主主義とは、言うまでもなく、多数者すなわち大衆の支配のことである。 民主主義にあっては、個体の意志の集計において多数を占めた者が、究極的には無制限の権力を掌握する。 最高、無制限の権力を主権(sovereignty)と呼ぶことにすれば、民主主義とは、個体の意志の集計にこそ主権が存すると見る立場に外ならない。 従って、民主主義においては、社会全体の達成すべき目的は、もしそれがあるとするならば、個体の意志の集計に還元されねばならないのである。 何故なら、社会のあらゆる行為をその達成への貢献によって評価し得る目的とは、その社会における主権者(sovereign)の意志であると言ってもほとんど言い過ぎではないからである。 言い換えれば、民主主義とは、個体の意志の集計によって、社会全体の目的を選択する、社会的選択の装置なのである。 ハイエクが批判するのは、多数者の意志に主権を付与する、このような無制限の民主主義である。 元来、近代の立憲主義は、権力の制限を目的としていた筈である。 なるほど、近代憲法は、人権の保障と権力の分立とを規定することによって、権力の制限を目指してはいる。 しかし、近代立憲主義は、憲法をも含めたあらゆる法を制定し得る究極的な権力としての(いわゆる憲法制定権力をも含めた)主権の制限という問題に対して、確定した解答をほとんど持ち合わせていない。 そもそも、最高、無制限の権力としての主権の制限を云々すること自体が自己矛盾なのである。 ハイエクによれば、このような自己矛盾が生じて来るのは、あらゆる法は人間によって意図的に制定し得るし、また、すべきであると考えることによる。 すなわち、あらゆる法に立法者が存在すると考えるならば、その立法者自身が従う法にも立法者が存在する筈である。 従って、ある立法者が従う法の立法者をその立法者より上位の立法者と呼ぶことにすれば、より上位の立法者の存在しない立法者、言い換えれば、究極(最上位)の立法者は、いかなる法にも従わないことになる。 何故なら、究極の立法者の従う法が存在するならば、その法の立法者も存在することになり、より上位の立法者の不在という究極の立法者の定義に矛盾するからである。 言い換えれば、あらゆる法が人間によって意図的に制定されると考えるならば、究極的な法制定主体の(立法)権力を法によって制限することは、論理的に不可能となるのである。 従って、究極的な立法者は、無制限であらざるを得ない。 すなわち、最高(究極)かつ無制限の(立法)権力としての主権の存在は、あらゆる法は人間によって意図的に制定されるとする立場の、必然的な帰結なのである。 従って、たとえ憲法といえども、いずれかの主体によって意図的に制定されたとする限り、(究極的な立法者としての)主権者を制限することなど不可能なのである。 近代立憲主義は、あらゆる法に制定主体が存在すると考える限り、主権者の権力の制限に、原理的に失敗するのである。 このような主権者すなわち究極的かつ無制限な立法者の存在を必然的に帰結する、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする立場は、言うまでもなく、構成的合理主義のコロラリー(※注釈:corollary 必然的に推論される帰結)となっている。 すなわち、法もまた、社会一般と同じように、理性によって意図的に制御されるべきだ、あるいは、社会全体の目的を達成する手段として有効に設定されるべきだ、という訳である。 さらに、究極的に法を設定するのは主権者なのであるから、このような法の捉え方は、法とは主権者の目的あるいは意志の表出に外ならないと主張していることになる。 言い換えれば、このような立場は、法とは主権者の命令であると主張しているのである。 確かに、命令は当為言明の一種であると言い得るので、当為言明としての法を命令として捉えることは一見尤(もっと)もらしい。 しかし、法を命令わけても主権者の命令と見ることに、何の不都合も生じ得ないのであろうか。 次節で詳しく述べるように、ハートもまた、この問いとほとんど同じ問いを問うのである。 ところで、民主主義においては、主権者とは、言うまでもなく、多数者大衆である。 すなわち、民主主義における主権は、大衆の意志の集計に存するのである。 従って、国民主権を標榜する民主主義においては、国民大衆の(究極的な)権力は原理的に無制限である。 言い換えれば、民主主義とは、大衆が無制限の権力を掌握した社会なのである。 究極かつ無制限の権力としての主権概念そのものは、確かに、構成的合理主義の論理的帰結である。 しかし、大衆の意志に主権を付与する民主主義的な主権概念は、必ずしも合理主義のみから帰結する訳ではない。 民主主義の前提には、近代合理主義の精神的な双生児である近代個体主義が準備されている筈である。 ハイエクによれば、無制限な民主主義の前提には、価値相対主義が準備されていることになる。 ハイエクは、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする考え方を、法実証主義と呼ぶ。 すなわち、ハイエクは、構成的合理主義の法への適用を、法実証主義と呼ぶのである。 このような法実証主義によって、ハイエクは、ベンサムやオースティン(本書で取り上げるJ・L・オースティンではなく、19世紀のイギリスの法理学者で、ベンサムの友人のJ・オースティン)、あるいはケルゼンの法実証主義を指示している。 このハイエクの言う法実証主義、わけてもケルゼンの法実証主義こそが、価値相対主義を明らかに含意しているのである。 このような法実証主義が前提している、認識論上の実証主義、あるいはより広く確証主義の立場に立てば、法命題を含むあらゆる当為命題は、万人によって一致して受け容れられ得る、確実に証明された命題ではあり得ない。 当為言明は、意識的な理性によっては、その正当性を確証し得ないのである。 このように客観的、普遍妥当的ではあり得ない当為言明は、つまるところ、個体の意志や情緒や欲求やの表出なのであって、主観的、相対的であらざるを得ない。 従って、法あるいは当為をめぐる問題は、客観的、普遍的な理性の問題であると言うよりも、むしろ主観的、個体的な意志の問題であると言うことになる。 しかし、法といい当為といい、ある社会を構成する総ての個体の行為を拘束する規範の問題である。 個体的な意志の問題として法や当為やを取り扱う視点から、いかにして社会的な規範の問題としての法や当為やを捉えるか。 ここに、価値相対主義を民主主義に結び付ける契機が存在するのである。 民主主義とは、社会を構成する諸個体の意志を集計することによって、社会全体の意志を形成する社会的装置である。 従って、法や当為の言明を、民主主義的に形成された社会全体の意志の表出であると考えるならば、価値相対主義は、社会規範としての法や当為の問題をも一貫して取り扱えることになる。 すなわち、社会規範としての法や当為を、その時点における多数者の意志に相対的なものとして捉えるのである。 言い換えれば、価値相対主義は、民主主義と結び付くことによって、あらゆる法や社会的当為は、(究極的には)多数者大衆の意志に還元されると主張するのである。 もっとも、価値相対主義は、必ずしも常に民主主義と結び付く訳ではない。 価値相対主義とは、価値あるいは当為の問題は、客観的、普遍的な認識あるいは理性の問題ではなく、主観的、個体的な実践あるいは意志の問題であるという主張以上のものではない。 従って、価値相対主義は、個体的な意志から、いかにして社会的な規範あるいは社会全体の意志が形成されるかという問題に対して、その幾通りもの解答と両立し得るのである。 しかし、価値相対主義は、万人が一致して受け容れ得る理性的な論証のみによっては、社会規範あるいは社会全体の意志が形成されることは、決して有り得ないと考えるのであるから、理性的な論証以外の方法によって社会全体の意志を形成する解答としか両立し得ないことは言うまでもない。 そもそも、個体の意志や情緒や欲求やは、さらには、個体の価値や利益や目的やは、一致するどころか、一般的には共存さえしていない。 従って、このように対立する価値や利益や目的やが犠牲にされざるを得ないことになる。 理性的な論証によるこの問題(社会全体の意志を形成する問題)の解決は不可能だというのであるから、そこでは、何等かの実力による解決が要請されることになろう。 まさに、民主主義とは、この問題を、人間の頭数の多寡という実力によって解決しようとする試みなのである。 もちろん、票数以外にも様々な実力があり得る。 その究極的な形態は、いうまでもなく、赤裸々な暴力に外ならない。 いずれにせよ、価値相対主義は、社会全体の意志を形成するという問題に対して、何等かの実力による決着という解答を帰結せざるを得ないのである。 言うまでもなく、民主主義は、そのような解答の有力な一つとして位置付けられる。 すなわち、民主主義とは、多数者大衆の実力によって、社会全体の意志や利益や目的を決定Sる、パワー・ポリティックスに外ならないのである。 このような、何等かの実力による社会的意志決定を帰結する、価値相対主義と、究極かつ無制限の主権を帰結する、あらゆる法は意図的に設定されるとする考え方が、互いに結び付けられることによって始めて、多数者大衆は無制限の権力を掌握するのである。 何故なら、価値相対主義の下では、究極の社会的意志決定者である主権者とは、自らの実力によって社会全体の意志を決定し得る者に外ならないからである。 まさに、カール・シュミットの言うように、主権者とは、(実力行使をも辞さない)非常事態において、全体的な決断を下し得る者なのである。 それが、多数者大衆自身であるか、あるいは大衆の歓呼によって迎えられたその指導者であるかは、問題ではない。 構成的合理主義の法への適用と、その一卵性双生児である価値相対主義との結合が、大衆に無制限の権力を委ねるという事態を帰結することに、いささかの変りも無いからである。 ハイエクは、構成的合理主義の法への適用とともに価値相対主義をも含意する言葉として、法実証主義を用いることがある。 このように用いられた法実証主義が、大衆を主権者の高みに昇らせる、充分な前提となっていることは言うまでもない。 ハイエクが、根底的に批判するのは、まさに、このような意味における法実証主義なのである。 しかし、ハイエクは、このような法実証主義を批判するからといって、必ずしも自然法論に与する訳ではない。 ハイエクは、ハートによる自然法論の批判に、ほとんど全く同意している。 この意味においては、ハイエクもまた、ハートの言う実定法論者なのである。 ハイエクは、さらに、法実証主義と自然法論という二分法それ自体が、そもそも誤りなのであると主張する。 ハイエクは、(次節に述べるように、ハートもまた)法実証主義でも自然法論でもない、第三の法理論を指向しているのである。 ◆4.主権主義と表出主義 人間によって意図される対象としての客観的なものと、意図する人間主体の在りかとしての主観的なものとを峻別する、いわゆる方法二元論は、近代合理主義と同時に、近代個体主義をも産み落とした。 すなわち、主客二元論は、近代合理主義、わけても、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものに根拠付けられねばならぬとする客観主義と、近代個体主義、わけても、あらゆる行為はそれを意図する主観的なものに帰属されねばならぬとする主観主義という、一卵性双生児の母なのである。 認識論上の実証主義がこのような客観主義の、また、ハイエクの言う法実証主義がこのような主観主義のコロラリー(※注釈:必然的帰結)であることは言うまでもない。 ハートの批判する法の主権理論もまた、このような主観主義のコロラリーなのである。 ハートの批判する法理論は、法とは、主権者によって発せられた威嚇を背景とする命令であるとする立場である。 縮めて言えば、法とは、主権者の強制命令であるとする立場、あるいは、法の主権者命令説である。 ここで言う主権者が、最高かつ無制限の立法権力を有する者であることは言うまでもない。 このハートの批判する法の主権者命令説は、あらゆる法体系には、それを設定する最高、無制限の主権者が存在すると考える主権理論と、あらゆる法は、その逸脱に対する制裁の威嚇によって強制された命令であると考える命令理論との、大きく二つの部分に分けられる。 この法の主権理論こそが、近代個体主義あるいは主観主義の論理的帰結なのである。 あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場から、最高かつ無制限の主権の存在が論理的に帰結することは、既に前節において見た通りである。 この、あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場は、あらゆる行為は、それを意図する主体あるいは主観の存在を含意しているとする主観主義(主体主義)の、法における現れであると見ることが出来る。 何故なら、法もまた、人間の(必ずしも意図的とは限らない)行為の帰結であることに変わりは無いからである。 従って、最高かつ無制限の主権の存在は、このような主観主義の論理的な帰結であるとも考え得るのである。 すなわち、ハイエクの批判する法実証主義も、ハートの批判する法の主権理論も、このような主観主義の論理的な帰結となっているのである。 ハートは、法の主権理論に対して、様々な角度から疑問を提出する。 法とは、最高かつ無制限の立法権力を有する主権者によって、意図的に設定されたものであるとしよう。 このとき、主権者を主権者たらしめる根拠は、もはや法ではあり得ない。 何故なら、主権者が法によって主権者たり得るとするならば、その法を設定した主権者が存在することになり、主権の最高性と矛盾するからである。 あるいは、そもそも法を根拠とする主権は、主権の法的無制限性に矛盾すると言ってもよい。 いずれにせよ、主権者は、法以外の根拠によって主権者たり得るのである。 従って、憲法などの法によって立法権力を付与される立法府のような主体が、主権者たり得ることはあり得ない。 それでは、主権者とは一体誰であるのか。 それは、立法府を選挙する国民であるのか。 あるいは、何が法であるかを最終的に判定し得る司法府であるのか。 あるいは、大衆の歓呼によって推戴された大統領であるのか。 しかし、司法府はもとより、選挙民もまた、憲法によって授権された機関なのであって、主権者たり得よう筈もない。 なるほど、(憲法上の機関としての選挙民とは区別される)国民大衆あるいはその指導者は、主権者たり得るかも知れないが、このとき、大衆に主権を付与する根拠は一体何なのか。 言うまでもなく、主権理論は、ここで、自然法論(あるいは自然権論)を持ち出す訳にはいかない。 主権理論によれば、自然法もまた法である限り、いずれかの主権者によって設定された筈のものだからである。 それでは、大衆を主権者に推戴し得るのは、一体いかなる根拠によるのか。 主権理論の内部においては、そのような根拠は遂に示し得ない。 主権理論は、この、誰が主権者たり得るのかという問題を、常に開かれた疑問として留め置かざるを得ないのである。 主権者は、いかなる法によっても制限され得ないのであるから、当然、自己自身の設定した法によっても制限され得ない。 主権者は、自己自身を法的には制限し得ないのである。 従って、たとえば、主権者が、過去において制定した立法手続を、未来において遵守しなかったとしても、それは法的な責務に対する違反とはなり得ないし、また、主権者が、過去において締結した条約を、未来において履行しなかったとしても、それも法的な責務に対する違反とはなり得ない。 主権者が、過去において設定した法を、未来において無視したとしても、それは主権者の意志が変更された、つまりは気が変わったということに過ぎない。 主権者の意志の変更が、立法の名宛人や条約の相手方との約束に、たとえ違背することになったとしても、それは決して法的な責務に対する違反とはなり得ないのである。 すなわち、主権理論によれば、主権者の行為に対して、法を根拠として責務を問う可能性は、決して存在し得ないのである。 主権理論をめぐるこれらの問題、すなわち、主権者を主権者たらしめる法的な根拠は存在し得ないという問題、あるいは、主権者は自己自身を法的には制限し得ないという問題は、主権者という存在が、法体系の内部においては、遂に根拠を持ち得ないということを指し示している。 むしろ、主権者とは、法体系の外部から、法体系それ自体を根拠づけるものとして与えられて来たのである。 従って、主権者が、法体系の内部にその根拠を持ち得ないのはむしろ当然である。 主権者とは、法体系の外部にあって、法体系そのものを根拠づける、たとえば政治的な存在なのである。 しかし、法体系の根拠を問うに際して、このような主権者の存在は、果たして必然なのであろうか。 言い換えれば、法の根拠には、それを意図的に設定する主体が、不可避的に要請されるのであろうか。 言うまでもなく、このような主体の要請は、あらゆる行為には、これを意図する主観が不可避的に要請されるとする主観主義の必然的な帰結である。 ハートは、法の根拠を問うに際して、このような主観主義の要請が、全く不要であることを明らかにする。 法の主権理論は、法現象の最も中核的な部分を把握することに失敗すると言うのである。 しかし、ハートの法理論は積極的な展開は、以下の諸章の課題である。 ハートは、また、法とは威嚇を背景とした命令である、すなわち、法とは強制的命令であるとする法の命令理論を徹底的に批判している。 ハートによれば、法は、 第一に、その制定者自身にも適用されるという点において、 第二に、責務のみではなく権能をも付与するという点において、 第三に、慣習法のように意図的な立法にはよらないものが存在するという点において、 強制的命令と同一視する訳にはいかない。 さらに、ハートは、これらの問題点を踏まえて修正された命令理論をも一蹴する。 すなわち、第三の問題点を修正した、黙示の命令という考え方、第二の問題点を修正した、あらゆる法は公機関に向けられた命令であるとする立場、第一の問題点を修正した、公的資格において命令する立法者と私的資格において命令されるそれとを区別する試みの、一切を否定し去るのである。 しかし、ハートの命令理論批判それ自体は、本書の主題と必ずしも密接に関連する訳ではないので、主権理論批判に必要な限りにおいて触れることに留めたい。 ハートの批判する法の主権理論、あるいはハイエクの批判する法実証主義を帰結する主観主義は、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものによって根拠付けられねばならぬとする客観主義の、一卵性の兄弟/姉妹であった。 オースティンの批判する言語の記述主義が、この意味における客観主義のコロラリーであることは言うまでもない。 オースティンもまた、ハイエクやハートと同じように、客観主義と切り結んだ刀で、主観主義とも渡り合っている。 この客観主義と主観主義という、近代のロムルスとレムスとの闘いにおいては、二正面作戦以外の如何なる戦力もあり得ないのである。 オースティンの批判する記述主義は、言葉とは何等かの事実を記述するものであり、その真偽はそれが記述する事実の存否によって検証し得るとする考え方であった。 オースティンによれば、このような記述主義の淵源には、何等かの事態を指示する(言及する、記述する)という言葉の機能、すなわち言葉の指示機能のみに、言葉の持つあらゆる機能を還元しようとする態度が存在していた。 あるいは、オースティンの用語系に即して言い換えれば、記述主義とは、発話という行為を、指示行為(意味行為)という意味における発語行為に還元し尽くそうとする態度なのであった。 このような記述主義が、言葉についての客観主義であることは明らかであろう。 すなわち、言葉は、客観的な事実を記述することによって始めて意味を持つという訳である。 これに対して、オースティンの批判する、言葉についての主観主義とは、言葉とは(発話主体の)主観的な意図や情緒や欲求やの表出であると考える、言語の表出主義(expressivism)に外ならない。 言うまでもなく、言語には、発話主体に係わる何等かの事情(必ずしも主観的な心理とは限らない)を表現するという機能が、紛れもなく存在している。 従って、ある発話を了解するに当たって、その発話に表現されている発話主体の主観的な意図を無視してよい訳では些かもない。 しかし、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図に還元して理解するとなると、問題はまた別である。 表出主義とは、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図の表出に還元し尽くそうとする、言い換えれば、言葉の持つあらゆる機能を、その表現機能に還元し尽くそうとする態度に外ならないのである。 このような表出主義が、発話という行為には、それを意図する主観が必ず存在せねばならないと考える点において、言葉についての主観主義であることは明らかであろう。 オースティンは、記述主義とともに、このような表出主義をも根底的に批判するのである。 オースティンの用語系に即して言い換えれば、表出行為とは、発話という行為を、発話を手段として何ごとかを達成する行為である、発語媒介行為に還元し尽くそうとする態度に外ならない。 もっとも、オースティンの言う発語媒介行為は、必ずしも発話主体によって意図された行為のみに限られる訳ではない。 オースティンの言う発語媒介行為は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、発語の帰結として何等かの効果を達成する行為なのである。 もちろん、オースティンにおいても、何等かの帰結あるいは目的を達成すべく意図された発語媒介行為が重要であることは言うまでもない。 しかし、オースティンは、意図されざる帰結をもたらす発語媒介行為をも、その射程に捉えているのである。 それでは、発語によって何等かの帰結を達成する(発語それ自身とは区別された)行為は、総て、発語媒介行為となるのであろうか。 発語が何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別された)行為である発語内行為と、発語媒介行為は一体どこが違うのであろうか。 オースティンによれば、発語によって何等かの効果を達成する発語媒介行為と、発語が何等かの効力を獲得する発語内行為とは、発語のもたらす効果が、慣習的(conventional)なものであるか否かによって区別されるのである。 すなわち、発語媒介行為において達成される効果は、発語に後続することが、必ずしも慣習的には期待され得ないのに対して、発語内行為において獲得される効力は、発語に随伴することが、慣習的な規則によって支持されているのである。 言い換えれば、発語媒介行為の効果は、慣習以外の何ものか(たとえば威嚇や強制や)によって達成されるのに対して、発語内行為の効力は、それを有効適切なものとする慣習の存在を俟ってはじめて獲得されるのである。 オースティンの言う慣習(convention)は、もちろん、本書の問う慣習と密接に関連するものであるが、後に述べるように、むしろ、ハートの言うルールに極めて近い概念である。 従って、オースティンの言う発語媒介行為とは、発語によって何等かの帰結を達成する行為の内で、いかなる慣習にも依存せず、またルールにも従わない類いのものを指し示していることになる。 このような発語媒介行為は、確かに、発話行為によって意図された行為である場合が最も重要なのではあるが、しかし、意図されない行為をも明らかに含むものである。 従って、あらゆる発話を発語媒介行為に還元しようとする態度と、あらゆる発話を(発話主体の)主観的な意図の表出に帰着しようとする表出主義とは、必ずしも正確に一致する訳ではない。 発語媒介行為一元論は、表出主義をも包含する、より広い概念なのである。 このような発語媒介行為一元論を批判することによって、オースティンは、表出主義をもその批判の射程に収めていると言うことも出来よう。 しかし、慣習あるいはルールに依存も服従もしない行為(発語媒介行為)の内で、その主観的な意図のみによって了解し得る行為(表出行為)を除いたものが、差し当たり緊要であるとも思われないので、以下の行論においては、誤解の怖れの生じない限り、発語媒介行為一元論と表出主義とを互換的に用いることにしたい。(このことについては、後に再び述べる機会があると思われる。) すなわち、発語媒介行為一元論の批判は、取りも直さず表出主義の批判に外ならないのである。 以上に見てきたように、産業主義と民主主義、あるいは、合理主義と個体主義は、我々の近代社会において、極めて当然のこととして受け容れられている。 しかし、以上に見てきたことが示しているのは、我々が当然のこととして受け容れている合理主義と個体主義には、ある特徴的な前提が共有されているということである。 その前提とは、およそ人間とその社会は、目的志向的(intentional)な理性の客体であるか或いは主体であるとするものの見方である。 このようなものの見方に立って、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、手段的合理主義や実証主義あるいは確証主義、さらには記述主義といった、一連の客体主義あるいは客観主義(objectivism)が生じるのであり、また、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、個体主義や主権主義あるいは価値相対主義、さらには表出主義といった、一連の主体主義あるいは主観主義(subjectivism)が生じるのである。 このようなものの見方それ自体を、(近代)合理主義と呼ぶことも、かなり一般的ではあるが、合理主義は広狭様々な意味に用いられるので、ここでは、このようなものの見方を、志向主義(intentionalism)と呼ぶことにしたい。 いかにも熟さない命名であるが、本書の立場である慣習主義(conventionalism)との対比を意識してのことである。 従って、産業主義と民主主義の近代は、志向主義をその哲学的な前提としていることになる。 産業主義と民主主義は、志向主義という双面神の二つの顔である客観主義と主観主義の、もう一つの《ペルソナ》なのである。 ▼第三章 暗黙の言及 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - 人間とその社会を、理性によって意図的に制御し得る対象であると考える、構成的合理主義や、また、人間とその社会についての知識を、客観的な事実によって確証し得る言明であると考える、実証主義やは、我々の社会のほとんど自明な前提となっている。 しかし、果たして社会は、意図的に制御し得る対象であり得るのか。 あるいは、社会についての知識は、客観的に確証し得る言明であり得るのか。 ハイエクの問いは、ここから始まる。 ハイエクによれば、社会は、目的を達成すべく意図的に構成された秩序、すなわち彼の言う組織には留まり得ない。 社会には、意識的な目的を持たず、また、意図的に設計された訳でもない秩序が、必ず存在しているのである。 言い換えれば、社会には、差し当たり何に役立つのか(当の本人達にも)分からない、自然発生的(spontaneous)に生成された秩序が、常に存在しているのである。 ハイエクは、このような秩序を、自生的秩序(spontaneous order)あるいはコスモス(cosmos)と呼ぶ。 ハイエクによれば、自生的秩序は、通常の個体の行為はもとより、組織それ自体の行為をも含んだ秩序として、社会全域を覆っている。 すなわち、構成的合理主義の、社会全域を一個の組織によって覆い尽くし得るとする考え方に対して、ハイエクは、社会とは、一個の組織によってはついに覆い尽くせない、(組織をその要素として含み得る)自生的秩序に外ならないと主張するのである。 自生的秩序は、自然発生的に生成された秩序である。 しかし、言うまでもなく、自生的秩序は、人間の行為から独立した、自然と同様の、客観的な事実ではあり得ない。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行が、(意図せざる)結果として秩序を生成しているという事態に外ならないのである。 しかし、自生的秩序が、行為の遂行的な結果に外ならないからと言って、必ずしも、それが、行為の主観的な意図に還元され得る訳ではない。 自生的秩序は、それを結果する行為の主観的な意図を超越し、それに先行するのみならず、行為を規範的に拘束しさえするのである。 しかし、自生的秩序のこの側面については、次章で詳しく検討したい。 この章では、自生的秩序の、行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成されるという特徴から導かれる、もう一つの側面のみに、議論を限定したい。 自生的秩序のこの側面こそ、構成的合理主義さらには実証主義との闘いに際して、最も有力な橋頭堡となり得るからである。 行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成される秩序を、手短に、遂行的(performative)な秩序と呼ぶことにしょう。 すなわち、自生的秩序は、遂行的な秩序として特徴付けられるのである。 遂行的な秩序としての自生的秩序には、たとえば、市場、貨幣、法、権威、社交、言語、技能、偏見、儀礼、流行、慣習、伝統などといった社会秩序が含まれる。 これらの社会秩序は、それぞれの領域における人々の行為の持続的な遂行が、結果的に、それらの行為の従うべき何等かのルールを生成し、従ってルールに従う行為の集合としての秩序を生成するという意味において、明らかに遂行的な秩序となっている。 さらに、これらの社会秩序は、それぞれの領域において秩序を形成するルールに、人々が従うべき理由あるいは根拠が、人々がそれらのルールに従うという行為を持続的に遂行していること以外には、(究極的には)存在し得ないという意味においても、紛れもなく遂行的である。 言い換えれば、こられの社会秩序は、(それらの秩序を形成する)ルールに従う行為の持続的な遂行によって、ルール(あるいはそれが形成する秩序)それ自体が繰り返し生成されているという事態のみを、ルール(あるいはそれが形成する秩序)の存立する究極的な根拠としているという意味において、まさに遂行的な秩序と呼ぶべきなのである。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行の結果として生成されるのみならず、行為の持続的な遂行をその究極の根拠として存立する社会秩序なのである。 このような遂行的秩序としての自生的秩序が、いわゆる自然と同じ意味における客観的実在性、あるいは、理性によっては疑い得ない絶対的確実性を持ち得ないことは言うまでもない。 自生的秩序は、そのような秩序を生成する行為が繰り返し遂行されているという事態以外の何ものであもないのであって、遂行されている行為が変化すればそれに伴って変化する、行為の遂行に相対的なものである。 すなわち、自生的秩序は、歴史的あるいは地域的な行為の遂行に相対的な秩序なのである。 (このことから、必ずしも価値相対主義が帰結される訳ではないことは、次章に詳しく述べるが、さらに、このことから、いわゆる文化相対主義が帰結される訳ではないことも、次章以降に述べる機会があると思われる。) 従って、このような自生的秩序に、自然法則と同じ意味における、客観的、普遍的な法則を見い出そうとする試みの、挫折せざるを得ないことは、もはや旧聞に属そう。 ところで、遂行的秩序においては、行為の遂行によって生成される秩序が、いかなるものであるかについて、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序は、行為遂行の意図せざる結果として生成されるのであって、行為主体は、そのような結果について意識し得る筈もないのである。 さらに、自生的秩序においては、行為の遂行において事実上従われているルールが、いかなるものであるかについても、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序を形成するルールは、その遂行において実践的、経験的に従われているのであって、行為主体が意識的、合理的に従っている訳ではないのである。 言い換えれば、自生的秩序のルールは、言葉(あるいは意識的な理性)によっては語り得ぬ、行為において示し得るのみの、暗黙的(tacit)な事態なのである。 たとえば、典型的な自生的秩序である言語について見るならば、我々は、言語のルールについてほとんど意識せず、またその総てを語り得ないとしても、正しいルールに従った発話を遂行し得るのであり、ましてや、我々の遂行する個々の発話が、言語総体にいかなる結果をもたらすかなどということは、通常全く意識しておらず、またし得るものでもない。 このことは、その他の典型的な自生的秩序である技能や慣習においても、全く同様である。 技能とは、言葉によっては遂に説明し得ず、実践的(遂行的)にのみ従い得る、従って、実践的(遂行的)にのみ学び得るルールに外ならないし、慣習とは、まさに暗黙的、遂行的な事態そのものであって、それを繰り返し生成する行為が、そもそも如何なる意図の下に為されたものであったかが忘却されることによって、益々その安定を強めるといった代物である。 すなわち、行為の遂行によって繰り返し生成される、遂行的な秩序とは、取りも直さず、言葉(あるいは意識的な理性)によってはその全体をついに把握し得ない、暗黙的な秩序に外ならないのである。 従って、我々は、言語によっては分節し得ないが、行為においては遂行し得るルールを知っていることになる。 この意味において、我々は、語り得る以上のことを知っているのである。 この語り得ぬ、ただ示されるのみの、暗黙的あるいは遂行的な知識は、意識的あるいは理性的な認識のみによっては獲得し得ない。 何故なら、意識的、理性的な認識といえども、人間の行為には違いないのであるから、何等かの自生的秩序(あるいはそのルール)を繰り返し生成している筈である。 このことは、意識的、理性的な認識も、他の行為と同様に、自生的秩序のルールに遂行的に従っていることを意味する。 すなわち、意識的、理性的な認識もまた、自生的秩序(あるいはそのルール)に規範的に拘束されているのである。(この点については、次章で改めて述べる。) 従って、ある特定の自生的秩序とそのルールが、意識的、理性的な認識によってたとえ分節され得たとしても、当の意識的、理性的な認識それ自身の従うルールは、分節され得ないままにただ遂行されるものとして残ることになる。 すなわち、自生的秩序とそのルールを、意識的、理性的に認識し尽くそうとする試みは、いかなる認識といえども、自分自身が遂行的に従っているルールを(自分自身によっては)ついに分節し得ないという事情によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、ある特定の自生的秩序とそのルールならいざ知らず、総ての自生的秩序とそのルールを、意識的な理性によって分節し尽くすことは原理的に不可能なのである。 このような訳で、自生的秩序とそのルールは、(究極的には)語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であらざるを得ない。 遂行的な秩序は、暗黙的な秩序であらざるを得ないのである。 ハイエクは、このような自生的秩序として、社会を捉える。 自生的秩序としての社会が、構成的合理主義やあるいは実証主義やの対象となり得ないことは、容易に理解し得よう。 自生的秩序としての社会は、理性によって意図的に制御し得る対象ともなり得ないし、また、それについての言明を客観的に確証し得る対象ともなり得ないのである。 何故なら、自生的秩序とは、語り得ぬ、暗黙的な秩序なのであって、それ(その全体)を意図的に制御するための情報を、制御主体が獲得することは、原理的に不可能だからであり、ましてや、それ(その全体)についての言明を、客観的に確証することなど、ほとんど形容矛盾だからである。 あるいは、意図的、合理的な制御もまた、人間の行為には違いないのであって、何等かのルールに遂行的に従っている筈なのであるから、意識的、理性的な認識の場合と全く同様に、自生的秩序(あるいはそのルール)の全体を、意図的、合理的に制御し尽くすことは、原理的に不可能なのである。 自生的秩序としての社会は、遂行的あるいは暗黙的な秩序であるがゆえに、構成的合理主義やあるいは実証主義やといった客観主義の対象には、決してなり得ないのである。 このようなハイエクの自生的秩序論が、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に極めて接近していることは、注目に値する。 ウィトゲンシュタインの言う言語ゲームは、ここで言う遂行的あるいは暗黙的な事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、言語ゲームは、そのようなゲームが遂行されているという事態以外のいかなる根拠も持ち得ず、また、その全体を対象にして言及する可能性を原理的に拒否しているのである。 さらに、言語ゲームは、人間のあらゆる行為は、何等かの言語ゲームの遂行とならざるを得ないという特徴を、自生的秩序と分け持っている。 すなわち、自生的秩序もまた、人間のあらゆる行為は、何等かの(自生的秩序を形成する)ルールの遂行とならざるを得ないという特徴を持っているのである。 自生的秩序のこの特徴は、その規範的(normative)な側面と呼ばれる。(この側面の検討は次章の課題である。) この意味において、言語ゲームは、また、規範的な事態とも重なり合っているのである。 このように、ハイエクの自生的秩序論と、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、家族的類似と言い得る程度にも親しい関係にある。 ハイエクとウィトゲンシュタインは、その思想圏における最も中心的な領域を、ほとんど同じくしているのである。 しかし、ハイエクとウィトゲンシュタインの思想圏は、必ずしも完全に重なり合っている訳ではない。 彼らの思想圏は、その周辺的な領域において、かなりのずれを見せている。 わけても、このずれは、ハイエクの、進化への傾斜において著しい。 ハイエクによれば、自生的秩序としての社会を形成するルールは、変化する環境への適応や、他のルールの形成する(自生的秩序としての)社会との競合やを通じて、淘汰され選択される。 すなわち、ルールは、それが形成する(自生的秩序としての)社会に、勝利と繁栄をもたらすか否かによって、淘汰され選択されるのである。 ハイエクは、このような淘汰と選択を経て、ルールとそれが形成する(自生的秩序としての)社会が、進化し発展すると主張する。 ルールを遺伝子に置き換え、(自生的秩序としての)社会をそれによって形成される生命体に置き換えれば、この主張は、生命進化論とほとんど異ならない。 ハイエクの社会進化論とは、およそこのようなものである。 しかし、社会進化論を主張するからといって、ハイエクは、社会を意図的に進化させ得ると考えている訳では些かもない。 あるルールに従うことが、その社会にいかなる帰結をもたらすかは、自生的秩序としての社会においては原理的に不可知である。 すなわち、あるルールが、社会にとって何の役に立つかは、事前には知り得ないのである。 従って、あるルールに従うことが、社会に成功をもたらすか否かは、そのルールを暗黙的に遂行した結果として始めて知られ得ることになる。 言い換えれば、ルールは、それに従う社会が成功することによってはじめて、その進化論的な優位を証明し得るのであって、進化論的な優位が予知されることによって、それに従う社会が成功する訳ではないのである。 それゆえに、あるルールの採否を、それが社会にもたらす得失の予測に基づいて決定するといった、(たとえばルール功利主義のような)意図的な社会進化の試みは、不可避的に失敗するのである。 もっとも、ハイエクは、ある特定のルールを意図的に改良する可能性までも否定する訳ではない。 ある特定のルールに限るのであれば、それを対象として意識的に言及したり、意図的に改良したりすることは、もちろん可能である。 むしろ、何が従うべきルールであるのかをめぐって紛争が生じた場合など、遂行的に従われているルールを意識的に分節し、その不確定な部分を確定すべく、新しいルールを意図的に設定すべきでさえある。 しかし、このような分節や設定やが可能なのは、あくまで、ある特定のルールについてのみであって、決して、ルールの全体についてではあり得ない。 ルールを分節し設定する行為もまた、何等かのルールに従っているのであって、分節あるいは設定行為自体の従うルールを、当の行為者自身が分節しあるいは設定することは不可能だからである。 (あるいは、そのようなルールの分節/設定は、また別のルールに従っているのであって、いずれにせよ、すべてのルールを分節/設定し尽くすことは不可能なのである。) 言い換えれば、ある特定のルールを意識的に分節し意図的に設定する行為は、その他の総てのルールを暗黙的、遂行的に前提して始めて可能になるのである。 すなわち、ルールのあらゆる改良は、遂行的に従われているルールの全体を、無批判的に受け容れることによって始めて可能になるのである。 さらに、ルールの改良は、それが(自生的秩序としての)社会にいかなる帰結をもたらすかを予測しつつ為されるものでは、決してあり得ない。 そんなことが不可能であることは、既に述べた通りである。 ここで言うルールの改良とは、何が従うべきルールであるかを巡って紛争が生じた場合に、そのような紛争を解決すべく、ルールの不確定な部分を確定するということ以上のものではない。 このようなルールの境界確定において考慮されるのは、それが社会全体にもたらすであろう便益の予測ではなく、たとえばそれが現行のルールの総体と整合するか否かといった原理である。 すなわち、ルールの改良において考慮されるのは、その社会的な帰結ではあり得ず、その内在的な整合なのである。 なるほど、その社会的な効果に配慮しつつ、ルールを改定することもあるには違いない。 しかし、そのルールがいかなる意図によって設定されたかということと、果たしてそれがいかなる自生的秩序を形成するのかということは、(自生的秩序は意図的には構成し得ないのであるから)実は全く無関係なのであって、むしろ、その設定の意図が忘却されることによって始めて、ルールは安定した自生的秩序を形成し得るとも言い得るのである。 従って、ルールの改良は、遂行的に前提されているルールの総体との、内在的な整合性のみを考慮しつつ、言わば(社会的な)結果を顧みずに為されざるを得ないのである。 これが、ハイエクの言う、ルールの意図的な改良における整合性(coherency)の原理に外ならない。 ◆2.外的視点 - ハート - 人間の行為の集合に秩序(order)が存在するということは、そこに何等かの規則性(regularity)、構造(structure)、型(pattern)といったものが見い出されることに外ならない。 同様に、人間の行為の集合がルールに従っているということも、差し当たり、そこに何等かの規則性が見い出されることを意味している。 すなわち、行為の集合にルールが存在するということは、差し当たり、行為が整然と規則正しく(regularly)遂行されていることに外ならないのである。 ハートの言うルールもまた、差し当たり、行為が規則性を持って遂行されている事態として捉え得る。 ハートによれば、ある人間の集団がルールに従っているという事態は、その集団の外部に立って観察するならば、そこでは行為が規則性を持って遂行されているという事態として見えて来る筈である。 言い換えれば、あるルールが存在するということは、そのルールには従っていない外部の視点から見るならば、そこで遂行されている行為に、何等かの規則性が観察されるということ以外の何ものでもないのである。 このように、ルールの存在を、そこにおける行為の規則性として観察する、外部からの観察者の視点を、ハートは、外的視点(external point of view)と呼んでいる。 すなわち、外的視点とは、観察の対象となるルールには従わない、あるいは、そのルールの形成する社会的秩序には内属しない、いわば異邦人の視点なのである。 このような異邦人の視点(外的視点)から見た、ルールの、行為における規則性の存在として観察される側面を、ハートは、ルールの外的側面(external aspect)と呼ぶ。 従って、ルールが、単なる行為の観察可能な規則性に見えることがあるとすれば、それは、外的視点に立って、その外的側面のみを見ている場合なのである。 あるルールの形成する秩序に内属しない外的視点、あるいは、そのような外的視点から観察される、ルールの外的側面という概念を立てるからには、ルールの形成する秩序に内属する内的視点、あるいは、そのような内的視点から把握される、ルールの内的側面という概念もまた反射的に立てられよう。 ハートは、あるルールに従っている人々の視点、すなわち、そのルールを根拠あるいは理由として、自らの行為の当否を判定している人々の視点を、そのルールについての内的視点(internal point of view)と呼んでいる。 この内的視点から見るならば、ルールは、単に行為の規則性を持った遂行として観察されるのではなく、自らの行為の妥当性を理由付ける(根拠付ける)規範として把握されることになる。 このように規範として把握されるルールの側面こそが、ルールの内的側面(internal aspect)に外ならない。 しかし、ルールについての内的視点、あるいは、ルールの内的側面の検討は、次章の課題である。 本章では、ルールについての外的視点、あるいは、ルールの外的側面の検討に、議論を限定したい。 ルールわけても法的なルールについての客観主義的理論を論駁するに際しては、ルールについての外的視点に立つことが、最も効果的であると思われるからである。 ところで、あるルールについて、その外的視点に立つことは、そのルールを自らの従うべき規範とは見なさずに、そのルールの形成する秩序の外側に身を置いて、そのルールを観察する、言わば異邦人の立場を取ることである。 この異邦人の視点からは、ルールは、繰り返し観察される行為の規則性、あるいは単なる習慣と見なされるに過ぎない。 しかし、このような視点に立つことによって、あるルールに従っている人々の行為を、かなりの蓋然性を持って予測することが可能になる。 すなわち、行為における規則性の認識は、たとえば、ある条件の下では、いかなる行為が遂行され易いか、さらには、ある行為の遂行は、どの程度の(敵対的な)反作用を被るかといった予測を、かなりの精度において可能にするのである。 ここに、ルールわけても法的ルールについての客観主義的な理論の可能性を見い出す向きも、あるいはあるかも知れない。 しかし、ある特定のルールに対して外的視点を取る観察者は、如何なるルールにも内属しないという訳ではない。 観察もまた一つの行為である以上、如何なるルールについての内的視点も取らない、すなわち、あらゆるルールに対して外的視点を取る観察者など、決して存在し得ないのである。 従って、何等かの予測が可能になるのは、ある特定のルールに従う行為(とその行為に帰責可能な範囲の帰結)についてのみであって、任意のルールに従う総ての行為(さらにはその社会全体に対する帰結)についてでは、全くあり得ないのである。 そのうえ、ルール一般とは区別される、法的ルールにおいては、人々の行為の当否を判定する根拠となるルール(一次ルール)に対して、意識的に外的視点を取ることによって、そのルールを変更したり、解釈したり、あるいは(ルールそれ自体の妥当性を)承認したりする行為が本質的に重要となる。 しかし、それらの行為もまた、何等かのルール(二次ルール)に遂行的に従っているのであって、自らの従っているルールについては、内的視点以外取り得ようもないのである。 いずれにせよ、あるルールに対して外的視点に立ついかなる者も、何等かのルールに従った内的視点に立たざるを得ないのである。 ハートは、人々の行為の当否を判定する理由となるルールそれ自体を対象として、それに変更を加えたり、それに基づいて裁定を下したり、さらには、それがルールとして妥当することに承認を与えたりする行為と、そのような行為自身の従うルールの存在が、法あるいは法体系の概念を定式化するに当たって、不可欠の要件であると考えている。 すなわち、ハートは、通常の行為の従うルールを一次ルール(primary rule)と呼び、一次ルールを対象とする変更や裁定や承認やの行為の従うルールを二次ルール(secondary rule)と呼んで、法(体系)とは、一次ルールと二次ルールとの結合であると定式化する。 法わけても一次ルールは、変更や裁定や承認やという意図的な行為の対象になることを、その本質としているという訳である。 しかし、法体系を構成する二次ルールは、(変更や裁定や承認やという)意図的な行為の対象とは、ついになり得ない。 このことを、二次ルールの内でも際立って重要な位置を占めている、承認という行為の従うルール、すなわち、ハートの言う、承認のルール(rule of recognition)について見てみよう。 あるルールを承認するとは、そのルールが人々によって従われるべきであると判定する、言い換えれば、そのルールがルールとして妥当(valid)であると評価することに外ならない。 従って、承認のルールは、何が妥当な(一次)ルールであるかを評価する規準を与えることになる。 すなわち、(一次)ルールは、承認のルールの与える規準を充たすことによって始めて、ルールとして妥当し得るのである。 言い換えれば、承認のルールは、(一次)ルールを妥当させる根拠となっているのである。 それでは、承認のルールそれ自体は、如何なる根拠によって、妥当し得るのであろうか。 容易に確かめられるように、この問いに答えることは、どこかで断念されざるを得ない。 すなわち、あるルールの妥当性を、他のルールの与える規準によって評価しようとする試みは、どこかで断念されない限り、無限後退に陥るのである。 ハートは、その妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在しない、従って、その妥当性を全く評価し得ない承認のルールを、究極の(ultimate)承認のルールと呼ぶ。 すなわち、究極の承認のルールとは、それ自体の妥当性を承認する根拠は決して持ち得ないが、その法体系に属する如何なるルールの妥当性をも承認する(究極的な)根拠となり得るルールなのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないルールなのである。 それでは、このような究極の承認のルールは、何故に、その他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールは、自らを妥当させる如何なる根拠も持ち得ないという意味において、まさしく無根拠である。 このように自らは無根拠な究極の承認のルールが、如何にして、他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールといえども、ルールである以上、その外的側面を持っている筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、その外的視点(承認の視点ではなく、単なる観察の視点)から見るならば、繰り返し遂行される行為の規則性、あるいは慣習(practice)以外の何ものでもないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、その法体系に属するルールの妥当性を承認する行為において、繰り返し示される規則性、あるいは習慣的に遂行される慣習として捉え得る側面を持っているのである。 この、究極の承認のルールの、慣習(practice)としての側面、すなわち遂行的(performative)な事態としての側面こそが、その(法体系に属する)他のルールを妥当させる根拠としての側面、すなわち規範的(normative)な事態としての側面と、表裏一体をなしているのである。 あらゆる法体系には、それに属するルールが、ルールとして妥当するか否かを決定し得る、承認(recognition)という行為が必ず存在している。 自らに属する一切のルールの当否を決定し得て始めて、一個の法体系と呼び得るという訳である。 この承認という行為が、繰り返し遂行されることの内に、何がルールとして妥当し得るかを決定する規準、すなわち承認のルールが示されるのである。 言い換えれば、承認という行為は、その持続的な遂行を通じて、何等かのルールを、自らの従うべきルールとして、受容していることを示すのである。 このことは、究極の承認のルールが、その外的視点から見るならば、承認という行為の持続的な遂行に外ならないにもかかわらず、承認という行為を遂行する側、すなわちその内的視点から見るならば、他のルールを妥当させる根拠として、自らが従うべき規範でもあり得る事態を指し示している。 すなわち、究極の承認のルールは、承認という行為の持続的な遂行であると同時に、その同じ事態が、他のルールの妥当性を根拠付け得る、(承認という行為の当否を判定し得る)規範ともなっているのである。 従って、究極の承認のルールが、その法体系に属する他の総てのルールの妥当性を根拠付け得るのは、それが、承認という行為の持続的な遂行の内に、繰り返し示されているからに外ならないことになる。 言い換えれば、究極の承認のルールが、他のルールの当否を決定し得る規範たるにおいては、それに従う行為が持続的に遂行されていること以外の、いかなる根拠もあり得ないのである。 究極の承認のルールは、その内的視点から見れば、他のルールを妥当させる根拠となる規範であるが、その外的視点から見れば、承認という行為の持続的な遂行であるという二つの側面を持つ、一個の事態に外ならない。 究極の承認のルールは、その持続的な遂行において始めて、他のルールの妥当根拠たり得るのである。 これに対して、承認のルールを含む二次ルールと対比される、一次ルールは、それが(通常の)行為の当否を判定する根拠となるに当たって、その持続的な遂行を必ずしも前提とされる訳ではない。 一次ルールが、行為の当否を判定する根拠たり得る、言い換えれば、ルールとして妥当し得るのは、それが、持続的に遂行されているからではなく、承認という行為によって意識的に承認されているからなのである。 すなわち、一次ルールは、たとえ、かつて一度も遂行されたことが無いとしても、承認されている限り、行為の自らに従うべきことを正当化し得るのである。 しかし、このように、承認という意図的な行為によって正当化し得るルールは、一次ルールと二次ルールの結合としての法体系における、一次ルール以外にはあり得ない。 一般のルールは、その妥当性を、如何なる(意図的な)行為によっても、根拠付け得ないのである。 この意味において、一般のルールは、究極の承認のルールとその位相を同じくしている。 あるいは、むしろ究極の承認のルールこそが、法体系に属するルールの内で(究極的であるがゆえに)唯一その外部に開かれているという意味において、一般のルールと同相なのである。 一般のルールと、究極の承認のルールとの違いは、前者が、(一般の)行為の当否を判定する根拠となっているのに対して、後者が、(一次)ルールの当否を判定する根拠となっているという点のみにある。 いずれのルールも、その持続的な遂行によって始めて、当否判定の根拠たり得るという点においては、いささかの違いもないのである。 従って、究極の承認のルールについて、これまでに述べてきた議論は、一般のあらゆるルールについても、ほとんどそのままの形で成立し得ることになる。 すなわち、法体系として構成される以前の法的ルールはもとより、社交や言語や技能や儀礼や流行や道徳や慣習や伝統やといった、あらゆるルールに対して、究極の承認のルールをめぐるハートの理論は、適切な議論となり得るのである。 加えて、ハートは、究極の承認のルールが、従ってまた(二次ルールの対象としての一次ルールを含まない)一般のルールも、語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であることを強調している。 すなわち、ハートは、究極の承認のルール、さらには一般のルールが、慣習(practice)という遂行的な事態であるとともに、言明し得ぬ暗黙的な事態でもあると主張するのである。 究極の承認のルールは、承認という行為の習慣的な遂行を通じて、経験的(遂行的)に従われているのであって、対象として言及されることによって、意識的に従われている訳ではない。 すなわち、究極の承認のルールには、それを客観的な対象として言及し、その上で、それを従うべきルールとして意識的に受容する、いかなる手続きも存在し得ないのである。 これは、究極の承認のルールが究極的であることの、ほとんど自明な帰結である。(因みに、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないのであった。) 従って、究極の承認のルールは、遂行的に従われていることによって、暗黙的に受け容れられているのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、遂行的な事態であるがゆえに、暗黙的な事態ともなっているのである。 このような遂行的かつ暗黙的な事態としての究極の承認のルールが、いずれかの主体による意図的な制御の対象となり得ないことは、言うまでもなかろう。 究極の承認のルールを、意図的に設定したり変更したり廃棄したりする試みは、不可避的に失敗するのである。 (もっとも、究極の承認のルールといえども、部分的には、意図的な制御の対象となり得る場合のあることを、ハートは指摘している。これは、ハイエクの言う、整合性の原理が適用される場合と、ほとんど同じである。しかし、この場合についての検討は、次章に委ねたい。) 従って、究極の承認のルールは、それが遂行的に示されている行為の変化に伴って、変化することになる。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の習慣的な遂行の(意図せざる)結果として、生成し、また消滅するのである。 ところで、究極の承認のルールについて、その外的視点に立つ観察者が、それを対象として言及することは、もちろん可能である。 もし、このことが不可能であるならば、そもそも、社会哲学など存立し得る筈もない。 しかし、そうであるからと言って、究極の承認のルールが暗黙的であることに、些かの変りもない。 差し当たり、外的視点に立つ観察者といえども何等かのルールに従わざるを得ないという問題は措くとしても、究極の承認のルールは暗黙的なのである。 何故ならば、観測者が、究極の承認のルールを、いかに正確に分節し得たとしても、観察者の分節という行為によっては、究極の承認のルールの従われるべきことは、少しも正当化され得ないからである。 すなわち、観察者の行為は、あくまで観察に過ぎないのであって、その対象となるルールの妥当性を根拠付け得る(承認の)行為とは、決してなり得ない。 従って、そのルールが観察者によって如何に正確に言明され得たとしても、自らがそのルールに従うべき根拠は、少しも対象として意識され得ないのである。 言い換えれば、あるルールに遂行的に従っている行為者にとっては、観察者がそのルールを分節し得るか否かに拘わらず、そのルールを暗黙的に受け容れさるを得ないのである。 それゆえに、その外的視点にたつ観察者が、たとえ、何等かのルールを対象として分節し得たとしても、その内的視点に立つ行為者にとっては、そのルールに従うことは、依然として暗黙的な事態なのである。 ◆3.発語的行為 - オースティン - 言葉は、つまるところ、何等かの事実を記述している。 あるいは、言葉の意味は、それが記述する対象である、さらには、言葉は、それが記述する事実の存否によって、その真偽を確定しうる、あるいは、言葉は、その真偽の確定し得る場合にのみ、有意味である、といった記述主義の言語観を、オースティンは批判する。 オースティンの用語系によれば、記述主義とは、差し当たり、言葉を発すること、すなわち発言(発話)の総ては、事実を記述し、真偽を確定し得る、事実確認的(constattive)発言に還元されるか、さもなくば、ナンセンスに帰着するという主張に外ならない。 しかし、あらゆる発言を、事実確認的発言に還元し尽くすことは、果たして可能なのだろうか。 たとえば、何等かの権能に基づいて指図する場合の指図や、あるいは、何等かの判定理由を明らかにして審判する場合の審判の発言や、さらには、何等かの行為の履歴を約束する場合の約束の発言やは、事実を記述している訳でもないし、また、その真偽が問題となっている訳でもない。 しかし、これらの発言が、社会生活において、極めて重要な種類の発言であることは論を俟たない。 財産権や人格権の行使や、契約や、あるいは、それらを巡る裁判やは、社会生活の根幹を成している。 記述主義は、このような指図や審判や約束やの発言を、その焦点から外してしまっているのである。 (もちろん、記述主義が、これらの発言に、何の位置付けも与えていない訳ではない。前章で述べたように、記述主義から見れば、これらの発言は、主観的な意図の表出に外ならないことになる。しかし、この点についての検討は、次章の課題である。) 指図や審判や約束やの発言は、その発言を遂行することそれ自体が、指図や審判や約束やといった、社会的行為そのものを遂行することになる種類の発言である。 たとえば、「~を約束します」と発言することは、取りも直さず、約束という社会的行為を遂行することに外ならない。 すなわち、これらの発言においては、言うことが、行うこととなっているのである。 このように、発言することが、(発言という行為とは区別される)社会的行為を遂行することになる種類の発言を、オースティンは、差し当たり、行為遂行的(performative)発言と呼ぶ。 事実確認的発言に焦点を合わせている記述主義は、この行為遂行的発言を捕捉し得ないのである。 行為遂行的発言は、もとより、事実を記述している訳ではなく、従って、その真偽も確定し得ない。 行為遂行的発言は、真偽いずれでもないのである。 しかし、行為遂行的発言であれば、いかなるものでも、社会的行為として効力を発揮するという訳でもない。 たとえば、指図する権限のない者による指図や、判定理由を示し得ない審判は無効であり、約束された行為が履行されない約束は不実である。 すなわち、行為遂行的発言は、何等かの条件を充たすことによって始めて、社会的行為としての効力を獲得するのである。 オースティンは、この、行為遂行的発言を社会的行為として発効させる条件を、行為遂行的発言の適切性(felicity)の条件あるいはルールと呼んでいる。 従って、行為遂行的発言は、それを発効させるルールを根拠として、適切あるいは不適切のいずれかに判定されるのである。 しかし、いかなる行為遂行的発言が適切であるかを決定するルールの検討は、次章に委ねられる。 ここでは、事実確認的発言と対比される意味での行為遂行的発言の検討に議論を限定したい。 行為遂行的発言の概念こそが、記述主義の批判に対して、最も有力な手掛かりを与え得るからである。 この行為遂行的発言の概念と、言語行為(speech act)の一般理論との関係は、オースティン本人においても、かなり微妙である。 もちろん、行為遂行的発言の発見なしには、言語行為の一般理論が構想され得なかったであろうことは言うまでもない。 しかし、言語行為の一般理論が構成されるに及んで、行為遂行的発言の概念が後景に退けられたこともまた明らかである。 行為遂行的発言と言語行為とは、果たして、如何なる関係に置かれているのであろうか。 前章で述べたように、オースティンによれば、言葉を発すること、すなわち発言(発話、発語)することは、以下の三種の行為を同時に遂行することに外ならない。 言い換えれば、言うことは、以下の三種の位相において、行うことなのである。 その第一は、発語という行為それ自体が、何等かの事態を意味する、すなわち何等かの事態を指示する行為に外ならないという発語行為(簡単のために、ここでは、音声行為および用語行為を捨象して、発語行為を意味行為あるいは指示行為に限定している)の位相であり、 第二は、発語することが、何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別される)行為を遂行することになるという発語内行為の位相であり、 第三は、発語することを手段として、発語主体の意図する、何等かの結果を達成することが目指されるという発語媒介行為(ここでは、発語主体の意図せざる結果を捨象している)の位相である。 オースティンは、以上の三種の行為を総称して、言語行為と呼んでいる。 すなわち、言語を発話することは、以上の三種の位相において、行為を遂行することなのである。 行為遂行的発言と発語内行為、さらには、事実確認的発言と発語行為が密接に関連していることは一見して明らかであろう。 しかし、両者は同じものではあり得ない。 何故なら、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別は、ある一つの発言をいずれかのカテゴリーに分類するための区別であるのに対して、発語内行為と発語行為との区別は、ある一つの発言を幾つかの(行為の)位相に分解するための区別だからである。 すなわち、ある一つの発言が、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言のいずれに分類されたとしても、その発言には、発語内行為および発語行為(さらには発語媒介行為)の位相が常に存在し得るのである。 従って、行為遂行的発言も、発語行為の位相を持つという意味において、何等かの事実を指し示していることになるし、また、事実確認的発言も発語内行為の位相を持つという意味において、何等かの行為を遂行していることになる。 このような、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為あるいは発語行為との関係を、つぶさに検討することによって、記述主義を乗り越える言語行為論の射程が、詳(つまび)らかにされるのである。 ところで、何等かの社会的効果を帰結する点においては共通している、発語内行為と発語媒介行為との相違は、前章で述べたように、発語内行為の効力が、そのような効力を発生させる根拠となる、何等かの慣習によって支えられているのに対して、発語媒介行為の結果は、そのような慣習に支えられなくとも達成され得るという点にある。 言い換えれば、発語内行為は、慣習に従う限りにおいて、その社会的な効力を発揮し得る言語行為の位相であるのに対して、発語媒介行為は、慣習に従うか否かに拘わらず、その(発語主体の意図する)社会的な結果を達成し得る言語行為の位相なのである。 ここに言う慣習が、すでに述べた、行為遂行的発言にちての適切性のルールと同じものであることは、確認されねばならない。 すなわち、発語内行為の効力の存否を判定する根拠は、(行為遂行的発言についての)適切性のルールなのである。 従って、発語媒介行為は、発語行為のように、それが指示する事実に基づいて、その真偽を判定し得る訳ではなく、また、発語内行為のようにそれが従うルールに基づいて、その当否(適切・不適切)を判定し得る訳でもない、言語行為の第三の位相ということになる。(実は、発語媒介行為は、それが達成しようとする発語主体の意図に基づいて、その成否を判定し得るのであるが、この点についてはここでは触れない。) しかし、発語内行為の当否を判定し、また、発語内行為と発語媒介行為とを区別する、慣習あるいは適切性のルールについての検討は、次章の課題である。 ここでは、発語内行為と行為遂行的発言との関連、および、発語内行為と発語行為との区別に議論を限定したい。 それでは、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為および発語行為とは、いかなる関係に置かれているのであろうか。 まず、事実確認的発言は、言うまでもなく、事実を記述し、その真偽を、それが記述する事実の存否に基づいて判定し得る種類の発言なのであるから、紛れもなく、発語行為の位相を保有している。 このような事実確認的発言は、果たして、発語内行為の位相をも保有しているのであろうか。 たとえば、「現在のフランス国王は禿である。」という発言を考えてみよう。 この発言は、典型的な記述命題であって、明らかに事実確認的発言である。 しかし、現在のフランスに国王など存在しないのであるから、その国王が禿であるか否か、言い換えれば、この発言の真偽を、事実に基づいて判定することは不可能である。 それでは、この発言は、無意味であろうか。 否である。 この発言の指示する対象は(それが事実として存在しているか否かに拘わらず)明瞭である。 この発言が奇異な感じを与えるのは、それが無意味だからではなく、むしろ、事実として存在していない対象についての記述命題が、発言として不適切だからである。 すなわち、記述命題という事実確認的発言は、それが術定する対象(ここでは現在のフランス国王)が、事実として存在し得るという条件を充たすことによって始めて、有効あるいは適切な発言として遂行されるのである。 これは、たとえば指図という行為遂行的発言が、指図する権能が存在するという条件を充たすことによって始めて、社会的な効力を有する適切な発言として遂行されるという場合に類似している。 言い換えれば、事実確認的発言と言えども、その真偽が問題とされる以前に、事実確認あるいは記述という社会的行為を遂行する発言として、有効/適切であるか否かが問題とされるのである。 従って、事実確認的発言においても、行為遂行的発言と同様に、その発言が、社会的な効力を持つか否か、あるいは、適切であるか否かが問われる位相が存在することになる。 すなわち、事実確認的発言にも、発語内行為の位相が、確かに存在するのである。 また、「現在のフランス国王は禿である。」という発言は、「禿でないならば現在のフランス国王ではない。」という発言を論理的に帰結する。 従って、ひとたび前者の発言を遂行したならば、後者の発言を拒否することは、論理のルールに違反することになる。 これは、ある行為の履行を約束する発言を遂行したならば、その行為を履行しないことは、約束のルールに違反することになる場合に類似している。 すなわち、いずれの場合においても、ある発言の遂行が、何等かの行為の遂行を義務付け、その行為の遂行を拒否した場合、何等かのルール違反に問われるのである。 言い換えれば、約束と言う行為遂行的発言が、その目的あるいは帰結としての行為の履行されなかった場合に、不誠実あるいは不適切(ルール違反)になるのと同様に、記述という事実確認的発言もまた、その(論理的な)帰結としての行為の履行されなかった場合、不適切(ルール違反)になるのである。 従って、ここでもまた、事実確認的発言は、その真偽を問われる以前に、社会的行為を遂行する発言として、適切であるか否かを問われることになる。 すなわち、事実確認的発言には、発語内行為の位相が、確かに存在しているのである。 続いて、行為遂行的発言を取り上げよう。 行為遂行的発言に、発語内行為の位相が存在していることは、言うまでもなかろう。 それでは、行為遂行的発言に、果たして、発語行為の位相は存在するのであろうか。 たとえば、判決という行為遂行的発言を考えてみよう。 判決という発言は、言うまでもなく、ある行為の当否を、潜在的には明示し得る判定理由に基づいて判定するという社会的行為の遂行である。 通常の場合、この判決理由は、あるカテゴリーに属する行為の当否を規定している一般ルールと、問題となっている行為がそのカテゴリーに属するか否かについての判断から構成されている。 すなわち、当該行為は、ある一般的なルールの違反に該当する故に、妥当ではないと判決するといった具合である。 このとき、問題となっている行為が、一般的なルールに違反するカテゴリーの行為に該当するか否かについての判断は、記述命題の真偽についての判断と極めて類似している。 いずれの判断も、それが指示する事実に基づいて、その分類が決定されるからである。 因みに、前者の判断は、後者の判断と同じく、事前判断と呼ばれることも多い。 従って、判決という行為遂行的発言は、その社会的な効力を根拠付ける判定理由の核心において、事実確認的発言あるいは発語行為を常に前提せざるを得ないのである。 また、判決という行為遂行的発言は、たとえば、「甲は乙に損害賠償を支払うべし。」といった当為命題であることが多い。 このような当為命題は、「甲は乙に損害賠償を支払う。」という記述的あるいは指示的(phrastic)と、「~すべし」という指図的あるいは承認的部分(neustic)とに分解することが常に可能である。 ここで言う記述的あるいは指示的部分が、発語行為の位相を持っていることは明らかであろう。 すなわち、当為命題という行為遂行的発言は、その記述的あるいは指示的部分が常に存在するが故に、発語行為の位相を必ず内包しているのである。 行為遂行的発言における発語行為の位相の存在についてのこのような説明は、オースティン本人のそれと言うよりも、むしろ、ヘアあるいはサールによるものである。 他の点はいざ知らず、この点に関しては、ヘアあるいはサールの議論は、オースティンの言語行為論の理解にとって、極めて有効な視座を提供していると思われる。 行為遂行的発言を、記述的あるいは指示的部分という発語行為の意味を指定する核心部分と、指図的あるいは承認的部分という発語内行為の効力を指定する境界部分に分解して理解することは、ある一つの言語行為には、常に三種類の(行為の)位相が存在していると考える、言語行為論の着眼を、より明晰な分析枠組みに高めるものである。 記述主義は、このような分析枠組みの獲得によって、ようやく乗り越えられることになるのである。 これまで述べてきたように、事実確認的発言もあるいは行為遂行的発言も、発語内行為および発語行為の位相を同時に保有していることが明らかになった。 従って、事実確認的発言と行為遂行的発言との区別は、実は相対的なものであって、むしろ、両者は、発語行為の位相をその核心部分に持ち、各々に種類の異なる発語内行為の位相をその境界部分に持つ、一連の言語行為の二つの種類であると考えられるのである。 言い換えれば、事実確認的発言は、記述(言明解説)という発語内行為を遂行する言語行為なのであり、行為遂行的発言は、指図(権能行使)や判決(判定宣告)や約束(行為拘束)やという発語内行為を遂行する言語行為なのであって、また、いずれも、何等かの事態を指示する部分として発語行為を内包する言語行為なのである。 このような言語行為論の視点から見れば、記述行為は、言語行為という多元的な現実を、その記述的あるいは指示的な部分のみに一元化して把握しようとする、対象指示一元論あるいは意味行為一元論であることが明らかになる。 記述主義は、言語行為の唯一つの位相しか捉えていないのである。 しかし、我々の言語の現実の在り方である言語行為は、対象指示に還元し尽くされる筈もない。 如何なる対象指示と言えども、発語内行為の種類が指定されることによって始めて、言語行為、すなわち、発話として社会的に発効するのである。 従って、記述の発話と言えども、それが社会的な効力を有する適切な発話であるためには、何等かのルールに従っていなければならないことになる。 しかし、言語行為の従うルールについての検討は、次章の課題である。 ▼第四章 規範の文脈 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.規範的秩序 - ハイエク - あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。 多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。 しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。 あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。 ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。 すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。 ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。 言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。 従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。 すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。 この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。 ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。 抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。 言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。 従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。 しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。 ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。 前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。 すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。 ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。 行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。 しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。 ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。 さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。 すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。 ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。 自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。 従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。 すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。 言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。 このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。 あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。 すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。 この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。 しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。 従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。 たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。 すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。 それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。 それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。 すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。 このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。 何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。 すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。 主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。 すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。 言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。 従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。 しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。 ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。 すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。 言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。 このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。 言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。 ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。 すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。 従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。 今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。 この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。 すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。 この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。 何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。 それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。 すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。 あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。 すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。 このような疑いには、充分な根拠がある。 何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。 たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。 このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。 すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。 従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。 このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。 すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。 従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。 すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。 しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。 すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。 言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。 従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。 すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。 言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。 以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。 言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。 ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。 すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。 従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。 しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。 ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。 なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。 しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。 何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。 従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。 言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。 あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。 すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。 いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。 自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。 ◆2.内的視点 - ハート - ルールが存在するということは、取りも直さず、行為に何等かの秩序あるいは規則性が見い出されるということに外ならなかった。 前章で述べたように、ハートは、この、行為に何等かの規則性を見い出す視点を、ルールに対する外的視点と呼んだのであった。 また、ハートは、ルールの、行為に規則性が存在する事態として捉えられる側面を、その外的側面と呼んだのであった。 しかし、ハートによれば、ルールがルールとして存在し得るためには、行為に規則性が見い出される以外に、ルールが行為の当否を判定する根拠あるいは理由として、(行為主体に)受け容れられておらねばならないのである。 言い換えれば、ハートの言うルールは、その外的側面が観察される以外に、行為の妥当性を評価する規準となる、その内的側面が確認されて始めて、ルールとして存在し得るのである。 ルールは、そのルールには従わない、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームには内属しない外的視点によって、行為に規則性が存在する事実として観察されるその外的側面と、そのルールに従う、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームに内属する内的視点によって、行為の妥当性を判定する当為として受容されるその内的側面と言う、二つの側面が合わさって始めてルールと呼び得る。 すなわち、ハートによるルールの概念は、ルールの事実として従われていることが観察されることのみならず、ルールの当為として従われるべきことが受容されていることをも、その構成要件とするのである。 この、事実としてのルール、すなわち、ルールの外的側面と、当為としてのルール、すなわち、ルールの内的側面とは、いずれか一方から他方が導き出されるといった関係にはなく、ルールという一つの事態を、外的/内的という二つの視点から見ることによって現れた、その二つの側面なのである。 従って、その外的視点から見るならば、ルールは、それが従われているという単なる事実に過ぎず、従うべき当為では些かもあり得ないのに対して、その内的視点から見るならば、それは、自らの従うべき当為なのであって、それが事実として従われているか否かは、規範逸脱の事実認定においてのみ問題とされるのである。 いずれにせよ、ルールが、行為の当否を判定する根拠あるいは理由となり得るのは、その内的視点から見た場合なのである。 ところで、行為の妥当性を判定する根拠となる内的側面を持つ、ルールそれ自体の妥当性は、いかなる根拠によって正当化されるのであろうか。 法的ルールの場合、前章で述べたように、あらゆる法体系には、それに属する総てのルールの妥当性を根拠付け得る承認のルールが、常に存在しているというのが、この問いに対するハートの答えであった。 すなわち、法体系を構成する(一次)ルールは、承認の(二次)ルールによって、その妥当性を理由付け得るのである。 しかし、ルールの妥当性の、このような正当化の方法は、無限後退に陥らない限り、どこかで断念されざるを得ない。 言い換えれば、無限後退を避けるためには、他のあらゆるルールを正当化し得るが、自らは如何なるルールによっても正当化され得ない承認のルールが、どこかで要請されざるを得ないのである。 前章で述べたように、ハートは、このような承認のルールを、究極の承認のルールと呼んだのであった。 すなわち、究極の承認のルールは、そのルールの妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在し得ないという意味において、究極的なのである。 究極の承認のルール、あるいは、法体系には属さない一般のルールは、その妥当性を判定し得る如何なる根拠も持ち得ない。 言い換えれば、このようなルールは、それ自体を対象として規範的に評価し得る、如何なる内的視点をも持ち得ないのである。 従って、このようなルールそれ自体を対象とし得るのは、それが遂行的に存在しているという事態を認識し得る、その外的視点以外にはあり得ない。 すなわち、このようなルールは、(それ自体を対象として見れば)ただ事実として遂行されているという事態以外ではあり得ないのである。 しかし、このようなルールの規範性と遂行性との関係については、前章に詳しく検討したので、ここでは触れない。 むしろ、本節では、ルールわけても究極の承認のルールに従う内的視点の存在が、ハートの批判する法の主権者意志説に対して、果たして如何なる含意を持ち得るのかを問題としたい。 あらゆる法は、主権者の意図的に設定したものである、さらに、その論理的な帰結として、そのような主権者は、法的に無制限な主体である、これが法の主権者意志説であった。 これに対して、究極の承認のルールは、あらゆる法に、それが法として妥当するための根拠を与えるルールである。 従って、たとえば、主権者の制定した法は妥当するといったルールもまた、究極の承認のルールであり得る。 因みに、ある法が主権者によって制定されたものであるか否かを、その法の妥当性を判定する究極的な規準とする法体系は、近代国家においてはむしろ通例である。 しかし、この場合、主権者は決して無制限ではあり得ない。 このような法体系においては、主権者は、主権者の設定する法は有効であるという、究極の承認のルールを根拠として始めて、自らの設定する法の妥当性を理由付け得るのであり、さらに、そもそも自らの主権者たり得た根拠それ自体も、主権者たるの要件を規定する、究極の承認のルールを待って始めて与えられるのである。 言い換えれば、主権者は、自らの行為の法的な効力のみならず、自らの存在それ自体をも、究極の承認のルールによって与えられているのである。 すなわち、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者はついに無制限ではあり得ず、究極の承認のルールに従う、その内的視点を取らざるを得ないのである。 あるいは、このことを、主権者によって制定された法が、法として妥当し得るか否かは、究極の承認のルールに依存する、と言い換えてもよい。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的に)発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存しているのである。 この命題は次節に述べる(発語内)行為の文脈依存(context-dependence)性という命題と、全く同型の構造を持っている。 たとえば、主権者の「私は~を法とする」という発話が、法を制定する行為として発効し得る(~を法として妥当せしめる)ためには、立法の権限が主権者にあらかじめ与えられていることや、立法の発話が適切な手続きに従って為されていることなどといった、様々な条件が充たされておらねばならない。 次節では、このような条件を、(発話内)行為の文脈と呼ぶことにするが、究極の承認のルールとは、まさに、この意味における(法の妥当性の承認という)行為の文脈に外ならないのである。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的な)行為として発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存している、という事態は、発話という行為が、(社会的な)行為として発効し得るか否かは、その文脈に依存している、という事態(発語内行為の文脈依存性)の、法領域における現れとして捉え得るのである (発語内)行為は、その主観的な意図とは独立に、何等かの文脈が与えられて始めて、自らの社会的な効力を確定し得る。(この命題については次節で詳しく検討する。) 同様に、主権者による法の制定は、その主観的な意図とは独立に、究極の承認のルールが与えられて始めて、自らの法的な効力を確定し得る。 すなわち、主権者の行為の(法的な)効力は、その主観的な意志ではなく、その社会的な文脈に規定され、あるいは、制限されているのである。 従って、究極の承認のルールの存在は、あらゆる法を主権者の意図的に設定したものであると考える、法の主権者意志説を、真っ向から否定することになる。 何故ならば、究極の承認のルールの存在は、法の主権者意志説の論理的帰結である、主権者の法的無制限という事態と、全く両立し得ないからである。 すなわち、法の主権者意志説に従えば、第一章で見たように、主権者の法的無制限を帰結せざるを得ないのであるが、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者は法的に無制限ではあり得ないのであって、その必要条件を否定される法の主権者意志説は、棄却されざるを得ないのである。 言い換えれば、主権者の行為が、究極の承認のルールに依存せざるを得ないとするならば、法を主権者の意志の表出としてのみ捉えることは、もはや不可能となるのである。 また、法の主権者意志説においては、あらゆる法は、究極的には主権者によって意図的に設定されたと考えるのであるから、法が、法として妥当し得る根拠もまた、それが、究極的には主権者によって意図的に設定されたという事実以外にはあり得ない。 すなわち、法の主権者意志説は、法の究極的な制定目的が主権者の意志にあると主張するのみならず、法の究極的な妥当根拠もまた主権者の意志にあると主張するのである。 このような主権者は、いかなる法によっても決して制限され得ず、従って、如何なる法体系の内部においても、その(主権者たる)根拠を持ち得ない存在である。 言い換えれば、このような主権者は、あらゆる法体系の外部にある、いわば超法規的あるいは政治的な存在なのである。 従って、法の主権者意志説は、法の究極的な妥当根拠を、法によっては制限も根拠も与えられ得ない、超法規的あるいは政治的な存在である主権者の意志に、委ねざるを得ないことになる。 これに対して、究極の承認のルールは、言うまでもなく、法の究極的な妥当根拠となる、法的なルールである。 従って、究極の承認のルールが存在しさえすれば、法を究極的に妥当させる、法的に無制限な主権者の存在など、些かも必要とされないことになる。 言い換えれば、たとえ法の主権者意志説を取らないとしても、究極の承認のルールさえ存在するならば、法体系の理解にとって、些かの支障もないのである。 従って、法の主権者意志説は、究極の承認のルールの存在と両立し得ないばかりではなく、それが全くの誤りであるか否かはいざ知らず、究極の承認のルールが存在しさえするならば、少なくとも不必要な議論なのである。 しかし、究極の承認のルールそれ自体は、いかなる法的な根拠も持ち得ない、いわば法体系の外部に開かれているルールであった。 このような究極の承認のルールの存在と、法的な根拠を持ち得ない、言わば超法規的な主権者の存在とは、一体どこが違うというのであろうか。 そもそも、法の妥当し得るか否かを究極的に確定するためには、法によってはついに根拠付け得ない存在が、不可避的に要請されるのではなかったのか。 この問いに答えるためには、主権者の行為は究極の承認のルールに依存している、という命題の成立していることが、まず確認されねばならない。 すなわち、主権者の行為は、その当否を、究極の承認のルールによって始めて決定され得る、という事態である。 それでは、その逆である、究極の承認のルールは、その妥当根拠を、主権者の行為によって始めて付与され得る、という事態は、果たして成立し得るのであろうか。 この問いに対して、もし、究極の承認のルールにその妥当根拠を与え得る主権者の行為があるとするならば、その主権者の行為に妥当根拠を与える究極の承認のルールが存在することになり、究極の承認のルールの究極性に矛盾する、といった答えを与えることも、確かに適切である。 しかし、ここでは、この問題を、別の角度から検討してみたい。 すなわち、この問題を、たとえば、「私(主権者)の制定する法は妥当しない」という法(究極の承認のルール)を私(主権者)は制定する、といった自己言及の問題として捉えるのである。 このように問題を捉えてみるならば、究極の承認のルールが、主権者の、(たとえば法の制定という)行為によってその妥当根拠を与えられる、という主張は、まさに、前節に述べた、自己言及の非決定性を帰結することが明らかとなろう。 従って、前節の議論を援用すれば、究極の承認のルールは、主権者の行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的であることが結論されるのである。 すなわち、究極の承認のルールは、主権者の意図的な行為によっては、その妥当根拠をついに与え得ない、根拠付け不能な事態なのである。 しかし、(承認という)行為の持続的な遂行においてのみ存在し得る、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的な事態でもあることは、既に前章において詳しく見た処である。 むしろ、本章において見るべきは、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、(承認という)行為の法的に発効し得るか否かを決定するという意味において、まさに、規範的な事態でもあることなのである。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の社会的(法的)な効力を、その主観的な意図とは独立に決定する、まさしく慣習的な文脈に外ならないのである。 ところで、究極の承認のルールは、人々の行為の当否を判定する根拠となる(一次)ルールそれ自体の、妥当性を判定する根拠となる(二次)ルールであった。 従って、ある行為の当否判定において、その根拠となるルールをめぐる紛争の生じた場合に、究極の承認のルールは、いかなるルールが従われるべきかを決定することのよって、その紛争を常に解決し得ることになる。 たとえば、ある行為の当否について、現行のルールがいかようにも解釈し得る場合、究極の承認のルールは、ある一つの解釈をルールとして妥当させる根拠を与え得るのである。 すなわち、現行のルールに、行為の当否について、何等かの不確定な部分が存在する場合、究極の承認のルールは、その部分を確定することによって、事実上新たなルールを設定する根拠を与え得るのである。 ハートは、ルールがこのように不確定な部分を常に有していることを、ルールの開かれた構造(open texture of rule)と呼んでいる。 従って、究極の承認のルールは、(一次)ルールの開かれた構造を、常に閉じ得る装置であるとも言い得ることになる。 しかし、究極の承認のルールもルールである以上、ルールの開かれた構造の例外ではあり得ない筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、何等かの不確定な部分を常に有しているのである。 そこでは、究極の承認のルールの不確定な部分は、如何にして確定されるのであろうか。 たとえば、そのような確定が、いずれかの主体によって意図的に遂行されるとしてみよう。 この場合、究極の承認のルールの不確定な部分を確定する行為は、究極の承認のルールの(部分的な)不在という場面において、それを意図的に設定する行為となってはいないか。 言い換えれば、そのような行為の主体は、究極の承認のルールによっては制限され得ない、無制限な主権者と呼び得る存在ではないか。 すなわち、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じるためには、つまりところ無制限な主権者の存在が要請されるのではあいか。 究極の承認のルールの開かれた構造は、このような一連の疑問を当然に生み出すのである。 しかし、究極の承認のルールが、たとえ開かれた構造を持っているとしても、そのことから直ちに、究極の承認のルールそれ自体を設定する、無制限な主権者が要請されるとは限らない。 究極の承認のルールが不確定なのは、あくまでその一部分なのであって、残りの大部分においては、何が妥当なルールであるかの規準は、差し当たり充分に確定しているのである。 ハートは、ルールの不確定な部分を、その不確定な半影部分(penumbra of uncertainty)と呼び、また、ルールの確定している部分を、その確定した核心部分(core of certainty)と呼んでいる。 究極の承認のルールにも、このような半影部分と核心部分の両方が備わっているのである。 従って、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、残りの確定した核心部分を不問の前提にしていると考えてよい。 すなわち、そのような行為は、その対象とはならない部分の究極の承認のルールに従っている、という意味において、決して無制限ではあり得ないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じる行為は、あくまで究極の承認のルールの一部分のみを対象とするのであって、その全体を対象とすることは決してあり得ず、従って、究極の承認のルールに、たとえ開かれた構造が存在したとしても、それを閉じるために、無制限な主権者が要請される必要は、必ずしもない訳である。 しかし、それにしても、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、極めて微妙な行為である。 それは、自らの従うルールの一部分を、自らの対象として言及する行為に外ならない。 このような行為が、自らの従うルールの全体に対してはついに不可能であることは、前章において、ルールの暗黙性として詳しく検討した処である。 すなわち、自らの従うルールの全体を、自らが意図的に変更することは不可能なのである。 しかし、ここで述べられたことは、たとえ自らの従うルールであっても、その一部分であるならば、自らの意図的に変更することが必ずしも不可能ではない、ということである。 ルールの一部分に変更が要請される場合とは、新たに生じた問題に対して、現行のルールが確定した解答を与えられない場合なのであるから、ルールの一部分が変更可能であることは、新たな状況に対するルールの適応のためには、むしろ必要でさえある。 しかし、自らの従うルールを、たとえ部分的であったとしても、自らが意図的に変更する行為は、依然として、かなり微妙な行為であることに変わりはない。 このような行為は、果たして、如何なる根拠あるいは規準によって、新たなルールを生成し得るのか、あるいは、このような行為の意図と、結果として生成されるルールとの間には、(行為の意図が達成されることは全くあり得ないが)果たして、如何なる関係があるのか、といった様々な疑問がすぐにでも涌いてくる。 これらの問題は、実のところ、前章で述べた、ハイエクの言う整合性の原理の問題と、全く同型の構造を持っている。 すなわち、これらの問題に対する回答こそが、まさに、ハイエクの言う整合性の原理に外ならないのである。 ◆3.発語内の力 - オースティン - 言葉を発する、すなわち発話するという行為は、既に見たように、それ自身とは区別される社会的な行為の遂行でもある。 すなわち、発話行為(言語行為)は、発語行為の遂行であるとともに、発語内行為の遂行でもある。 しかし、あらゆる発話行為が、常に社会的な行為としての効力を持つ訳ではない。 発話行為が、何等かの発語内行為の有効適切な遂行であり得るためには、ある慣習的なルールを充たさねばならないのである。 それでは、発話行為を、社会的な行為として発効させる慣習的なルールとは、いかなるルールであるのか。 また、そのようなルールには、いかなる分類があり得るのか。 ところで、ある発話行為が、そのようなルールから見て、たとえ不適切であったとしても、それが何等かの社会的な結果を発生させ得ることまで否定される訳ではない。 すなわち、発話行為は、慣習的なルールに従っているか否かに拘わらず、自らを原因とする何等かの社会的な結果を発生させ得るのである。 このような発話行為の社会的な結果と、その社会的な効力とは、果たして、如何なる関係にあるのか。 言い換えれば、発話によって社会的な結果を達成する発語媒介行為と、発話が社会的な効力を獲得する発語内行為とは、どのように区別され得るのか。 これら一連の問いが、本節で問われる問いに外ならない。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、言語における主観主義としての表出主義に対する、決定的な論駁を準備するのである。 オースティンによれば、発話行為が、それ自身とは区別される何等かの社会的な行為として発効する条件は、大きく三つに分類される。 その第一は、ある発話が、何等かの社会的な効力を持つ行為の遂行であるために充たすべき、慣習的な手続きあるいはルールが存在していることである。 たとえば、「~せよ」という発話が、従うべき命令として社会的な効力を持ち得るのは、そこに何等かの手続きに根拠付けられた命令権限が存在し、そのような命令権限を持つ者によって、その発話が遂行される場合に限られる、といった具合である。 従って、「~せよ」という発話が、命令権限の存在しない領域において、あるいは、命令権限のない者によって、遂行されたとしたならば、そのような発話は、命令としての社会的な効力を持ち得ない。 すなわち、何等かの手続きあるいはルールがその背景に存在しない発話行為は、それ自身とは区別される社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 その第二は、発話を社会的な効力を持つ行為の遂行とするための手続きが、正しくかつ完全に従われることである。 たとえ、発話を社会的な行為として発効させる手続きが、疑いもなく存在していたとしても、それが正しくかつ完全に従わないような発話は、(それ自身とは区別される)社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 そもそも、ルールが存在するということは、それに従っているか否かによって、行為の当否あるいは適切/不適切が判定され得るということなのであるから、ルールの従われていることを要請する、この第二の条件は、(第一の条件が成り立っているならば)当然と言えばあまりに当然な条件である。 しかし、この条件を敢えて独立させた背景には、司法的な判断に代表される判定宣告型の発語内行為(後述する)が、主としてこの条件の成否に拘わる社会的な行為であることへの配慮があったと思われる。 その第三は、発話がある手続きを充たすことによって社会的な効力を獲得したとき、何等かの後続する行為が義務付けられる場合、そのような行為が引き続き遂行されることである。 たとえば、「私は~を約束します」という発話が、約束を巡って存在するルールに正しくかつ完全に従うことによって、約束という社会的な行為として発効するとき、そこには、約束した行為を引き続いて遂行する責務が生じることになる。 もし、このように義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、「私は~を約束します」という発話は、約束という社会的な行為の遂行としては不適切である。 もちろん、このような発話は、約束という社会的な行為を発効させはする。 すなわち、このような発話は、前期の二つの条件を充たすことによって社会的な行為としての約束を成立させはする。 従って、このような発話は、社会的な行為として無効である訳ではない。 しかし、義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、約束という社会的な行為は、確かに成立してはいるが、完了していない、あるいは履行されてはいない。 このように未完了あるいは不履行となる約束を成立させる発話は、無効ではないが、不適切あるいは義務違反なのである。 すなわち、義務付けられた後続行為の遂行されないような行為を発効させる発話は、社会的な行為の遂行としては不適切なのである。 さらに、オースティンは、この第三の条件に、後続行為の遂行が、発話主体によって、主観的に意図されていることをも含めている。 たとえば、約束の発話が為される場合、約束の履行が発話主体によって主観的に意図されていることが、その発話が社会的な行為として適切であるための必要条件になる、と言うのである。 しかし、後続行為が事実として遂行されることと、それが主観的に意図されることとの間には、厳密に区別されるべき、重大な相違が存在する。 すなわち、行為の事実的な遂行は、たとえば外的視点から観察可能であるが、行為の主観的な意図は、行為と独立には観察不能であるという相違である。 行為の主観的な意図は、観察される行為の原因として、その背後に仮設される存在なのである。 このような発話主体の意図は、発話が社会的な行為の適切な遂行であるための条件に対して、果たして、どこまで相関的なのであろうか。 むしろ、発話主体の意図の如何に拘わらず、後続行為が事実として遂行されるのであれば、発話は社会的な行為の適切な遂行となるのではないか。 これらの問題は、発話の慣習的なルールに基づく効力と、その主観的に意図された結果との区別と密接に関係している。 従って、これらの問題は、発語内行為と発語媒介行為との区別を検討する過程において、始めてその解答を見い出し得ると思われる。 そのために、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているという事態を、また別の角度から検討してみよう。 たとえば、「私は陳謝します」という発語を伴う(後に態度表明型と分類される)発語内行為を考えてみる。 「私は陳謝します」という発語が、陳謝という社会的な行為として発効するためには、前述の三条件に分類される、様々な条件が充たされていなければならない。 ととえば、第一の条件に分類される、私の行為が(陳謝の)相手に何等かの不利益を与えたという事実の存在、また、その不利益が私の行為によっては回避し得ない不可抗力によるものではないこと、さらに、相手に不利益を与えたとしてもなお私の行為を正当化し得る理由のないこと、といった様々な条件が充たされて始めて、「私は陳謝します」という発語は、陳謝という社会的な行為として発効するのである。 これらの条件のどれか一つ、あるいはその幾つかが充たされていない場合、「私は陳謝します」という発語は、社会的な行為としては、無効あるいは不適切となる。 たとえば、相手に何の不利益も与えていないのに、「私は陳謝します」と繰り返すことは、滑稽な錯誤でなければ、不幸な病気である。 言い換えれば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な効力を有するためには、発語をめぐる、発語自身とは独立な状況の、既述のような条件を充たしていることが、必要不可欠なのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力は、それに伴う発語行為の遂行される状況あるいは文脈に、決定的に依存しているのである。 従って、発語内行為は、それをめぐる状況あるいは文脈を参照することなしには、その効力を全く確定し得ないことになる。 この事態を、発語内行為の文脈依存性と呼ぶことにしよう。 発語内行為は、自らの内属する文脈が与えられて始めて、その効力を決定し得るのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているというオースティンの指摘は、取りも直さず、発語内行為は文脈依存的であるという事態の発見に外ならないのである。 ここで留意すべきは、発語内行為が、社会的に発効するための条件には、当の行為の主観的な意図は、必ずしも含まれていないということである。 たとえば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な行為として発効するためには、陳謝の主観的な意図は、必ずしも前提されないといった具合である。 すなわち、「私は陳謝します」という発語が、既述のような条件を充たす状況あるいは文脈において遂行されているのであれば、たとえ陳謝の主観的な意図が全く存在しないとしても、陳謝という社会的な行為は成立し得るのである。 あるいは、「私は陳謝します」という発語が、たとえば、私の行為によって相手が如何なる不利益も被っていない状況において、遂行されているとするならば、それが陳謝の主観的な意図に満ち溢れているものであったとしても、陳謝という社会的な行為は決して発効し得ないのである。 すなわち、発語内行為の効力は、それに伴う発語行為が遂行される文脈にのみ依存しているのであって、その主観的な意図からは全く独立しているのである。 陳謝のような、個体の主観的な情緒の表出であると普通は考えられている発話が、その主観的な情緒とは独立に、その社会的な文脈にのみ依存して、自らの効力を確定し得るという事態は、一見、意外に見えよう。 しかし、文脈依存的な発語内行為と、言わば意図あるいは情緒表出的な発語媒介行為とが、共に何等かの社会的な効果を発生させるにも拘わらず、互いに区別されねばならないのは、まさに、このような事態が見い出されるからに外ならないのである。 発語内行為と発語行為との関係については、前章に詳しく検討した。 そこで明らかになったことは、陳述の発話といった事実確認的発話にも、前述の三条件を充たしているか否かによって、その適切性を判定し得る発語内行為の位相が存在すること、また、命令や判定や約束やの発話といった行為遂行的発話と言えども、何等かの事態を指示するという意味において、発語行為の位相が存在することであった。 すなわち、発語内行為と発語行為は、同時に一つの発話の内に存在し得る、発話行為(言語行為)の二つの位相なのである。 この意味においては、発語媒介行為もまた、発語内行為や発語行為やと同様の、発話行為の一つの位相に外ならない。 あらゆる発話は、慣習的に根拠付けられた効力を発揮する行為(発語内行為)の遂行であり、かつ、客観的に対象化された事態を指示する行為(発語行為)の遂行である、と同時に、主観的に意図された結果を達成する行為(発語媒介行為)の遂行でもあり得るのである。 それでは、発語内行為と発語媒介行為とは、如何にして区別されるのであろうか。 両者が、何等かの社会的な効果を発生させる行為である、という点においては共通するにも拘わらず、前者が慣習的なルールによって根拠付けられる行為であるのに対して、後者はそうではない、という点において区別されるということは既に述べた。 オースティン自身は、両者の区別について、実はこれ以上立ち入った検討を加えてはいない。 しかし、このままでは、社会的な効果を発生させる発話行為の内で、慣習的なルールによって根拠付けられる部分以外の総ての残余が、発語媒介行為であるということになる。 これでは、ある発話が、その意図の如何に拘わらず、言わば偶然に何等かの社会的な結果をもたらす場合でも、それは発語媒介行為の概念に包摂されることになり、概念として広きに失すると思われる。 むしろ、発語媒介行為は、発話主体によって主観的に意図された何等かの社会的な結果を、効果的に達成する手段として遂行される発話行為を指示する概念として、より限定的に使用されるべきであると思われる。 すなわち、発語内行為と発語媒介行為とを区別するメルクマールは、前者の社会的な効力を発効させる根拠が、慣習的なルールであるのに対して、後者の社会的な結果を発生させる原因は、(発話主体の)主観的な意図であるという点に求められると考えるのである。 言い換えれば、発語内行為の純粋型が、その慣習的な適切性の問われる、行為の遂行(行為遂行的発話)であり、発語行為の純粋型が、その客観的な真理性の問われる、事態の記述(事実確認的発話)であるのに対して、発語媒介行為の純粋型は、その主観的な誠実性の問われる意図の表出(言わば意図あるいは情緒表出的発話か)であると分類してみるのである。 このように考えてみるならば、あらゆる発話を、発語主体の主観的な意図や情緒や目的やの表出に帰着し尽くし得るとする、言語の表出主義が、如何なる限界をもつ主張であるかが明らかとなる。 すなわち、表出主義は、発話行為の総てを、発語媒介行為の位相に還元し尽くし得るとする主張なのである。 しかし、これまで述べてきたこおから明らかなように、発話行為は、発語行為と発語媒介行為の位相の直和には、ついに分割され得ない。 発話行為には、発語内行為の位相が、紛れもなく存在するのである。 すなわち、記述主義という、いわば言語の物理主義的な理解も、また、表出主義という、いわば言語の心理主義的な理解も、慣習的なルールに従った社会的な行為の遂行としての言語の位相を、ついに捉え切れないのである。 言い換えれば、客観的な事実でもなく、あるいは、主観的な情緒でもなく、ただ、社会的な文脈にのみ依存して、その当否を決定される言語行為の位相の、確かに存在し得ることが、捉え切られねばならないのである。 このように、発語行為とも発語媒介行為とも区別される発語内行為は、それ自身幾つかの類型に区分し得る。 言い換えれば、発話行為の発揮し得る慣習的な効力は、幾つかの種類に分割し得る。 オースティンは、この発話行為の発揮し得る慣習的な効力を、発語内の力(illocutionary forces)と呼び、その分類を、発語内の力の分類と呼んでいる。 以下に見るように、発語内の力の分類は、本節の前半に述べた、発語内行為の適切性の条件の分類と、密接に関係しているとともに、一つの発話行為が、同時に三つの位相を持つという事態とも、深く拘わっているのである。 それでは、発話行為を、それが発揮する発語内の力の類型に対応させて、言い換えれば、それが遂行する発語内行為の類型に対応させて、以下に分類してみよう。 第一の類型は、権限行使型(exercitives)である。 これは、何等かの権能を行使する発話であり、たとえば、命令や許可の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第一の条件である、(権能を付与する)ルールの存在という条件を、その発語内の力の根拠とすることは明らかであろう。 第二の類型は、行為拘束型(commissives)である。 これは、何等かの後続行為を義務付けられる発話であり、たとえば、約束や支持の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第三の条件である、(義務付けられた)後続行為の遂行という条件を、その発語内の力の根拠とすることは言うまでもなかろう。 第三の類型は、判定宣告型(verdictives)である。 これは、事実的な証拠や規範的な理由といった根拠に基づいて、何等かの判断を述べる発話であり、たとえば、判定や評価の発話に代表される。 この類型は、証拠や理由の開示といった論理的な手続きの充足を、その判断の根拠とするという意味において、発語内行為が適切であるための第二の条件である、手続きの充足という条件を、その発語内の力の根拠としていると考えられる。 第四の類型は、言明解説型(expositives)である。 これは、陳述や記述の発話に代表される類型であるが、オースティン自身の定義は極めて曖昧である むしろ、この類型は、事実確認的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えた方がよいのではないか。 すなわち、この類型は、事実確認的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 第五の類型は、態度表明型(behabitives)である。 これは、発話主体の主観的な態度や情緒を表出する発話であり、たとえば、陳謝や祝福の発話に代表される。 しかし、この類型は、あくまで発話の持つ発話内の力の分類なのであるから、事実確認的発話や行為遂行的発話と同一平面上において対比される、情緒(あるいは意図)表出的発話それ自体ではあり得ない。 むしろ、この類型は、(発語媒介行為の純粋型である)情緒表出的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えるべきではないか。 すなわち、この類型は、情緒表出的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 ▼第五章 慣行と遂行 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 近代産業を推進する中心的な価値態度としての産業主義や手段主義、あるいは、近代科学を招来した価値態度とされている実証主義や記述主義といった、一連の合理主義とも言うべき世界の捉え方と、近代民主政治あるいは近代主権国家を支持する価値態度としての民主主義や主権主義、さらには、近代的自我あるいは「内面的意識」を析出する価値態度としての情緒主義や表出主義といった、一連の個体主義とも言うべき世界の捉え方とを、同時に懐疑し得る立脚点として、我々は、自生的秩序やルール、あるいは言語行為といった、遂行的に生成される社会秩序の概念を定礎してきた。 本節では、この《遂行的なるもの》とも言うべき概念の持つポテンシャルを、改めて評価してみたい。 すなわち、《遂行的なるもの》が、合理主義や個体主義を含めた概念のシステムの中で、如何なる位置価を持ち得るかを、正確に測定してみたいのである。 まず、合理主義によれば、世界は、ここでは差し当たり人間とその社会は、理性による意識的な制御あるいは言及の対象として捉えられる。 すなわち、世界は、合理的に制御可能あるいは言及可能な客体として把握されるのである。 何等かの目的を達成するために、世界を効率的に制御せんとする産業主義や手段主義、あるいは、総ての発話の真偽を、それが言及する対象の存否によって決定し得るとする実証主義や記述主義が、この意味における合理主義を、その共通の前提としていることは言うまでもない。 しかし、世界を、わけても人間とその社会を、合理的な制御あるいは言及の対象として捉え得るとする態度は、飽くまで一つの価値態度に過ぎないのであって、世界と我々との関係が、この態度のみによって覆い尽くされる筈のないことは、容易に理解されよう。 もちろん、このような態度によって捉え得る世界が、全く存在しないと言う訳ではない。 ただ、そのような世界が、世界の総てである筈はないと言っているのである。 この合理主義によって捉えられる世界を、世界の一つの捉えられ方であることに留意して、ここでは、《世界Ⅰ》と呼ぶことにしよう。 すなわち、《世界Ⅰ》とは、合理的に制御可能あるいは言及可能な対象として捉えられる世界の謂である。 次に、個体主義によれば、世界は、わけても人間の行為とそれによって形成される社会は、行為を遂行する個体の主観的な意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属され尽くし得る事態として捉えられる。 すなわち、人間の行為とそれによって形成される社会は、その個体的な意図や情緒や目的やに還元可能あるいは帰属可能な事態として把握されるのである。 この意味における個体主義が、社会の全体的な意志決定は、その社会を構成する諸個人の合意あるいは主権者の意志に還元され得るし、また、されるべきだと考える、民主主義あるいは主権主義の前提となっていることは言うまでもない。 さらに、このような個体主義は、人間の行為を、その主観的な意図に帰属させて理解する、言い換えれば、人間の行為を、その内面的な意識の表出として解釈する、情緒主義あるいは表出主義の前提をなす世界の捉え方でもある。 すなわち、個体主義は、人間の行為を帰属させ得る場所として、それを遂行する個体の内面に、「自我」と呼ばれる何ものかを仮設し、そのような「自我」の表現として、人間の行為を解釈するのである。 しかし、世界を、あるいは少なくとも人間とその社会を、個体に内蔵された意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属させて捉え得るとする態度によっては、たとえ世界を人間とその社会に限定してみたとしても、世界と我々の関係の、ついに覆い尽くされる筈のないことも、また、少し考えれば明らかであろう。 個体主義も、また、世界の一つの捉え方に過ぎないのである。 この個体主義の態度によって捉えられる世界を、ここでは、《世界Ⅱ》と呼ぶことにしよう、すなわち、《世界Ⅱ》とは、個体的な意識に還元可能あるいは帰属可能な事態として捉えられる世界の謂である。 この合理主義と個体主義とは、人間の行為を、何ものかを目指す志向的な事態であると見なす志向主義の産み落とした、一卵性双生児であると考えられる。 何故ならば、志向主義は、人間の行為を、志向的な事態であると捉えることによって、人間の行為に拘わる世界を、志向のベクトルの吸い込み口である、志向される対象(客体)と、志向のベクトルの涌き出し口である、志向する意識(主体)とに、二分して把握するからである。 すなわち、志向主義は、世界を、合理的な制御あるいは言及という志向的な行為の対象と、その志向的な行為が還元あるいは帰属される個体的な意識とに、二元的に分割するのである。 言い換えれば、志向主義は、世界を、《世界Ⅰ》と《世界Ⅱ》とによって、完全に分割し尽くし得ると主張するのである。 志向主義のもたらす、このような主客二元論こそ、近代の産業主義や科学主義、あるいは民主主義や自我主義に通底する、《近代的なるもの》それ自体に外ならないのである。 従って、志向主義として特徴付けられる、このような《近代的なるもの》から見るならば、世界は、客観的(あるいは合理的に制御可能)な《世界Ⅰ》であるか、さもなくば、主観的(あるいは個体的に還元可能)な《世界Ⅱ》であるかのいずれかであり、また、そのいずれかしかあり得ないことになる。 しかし、世界は、本当に主客いずれかでしかあり得ないのか。 あるいは、行為は、全くの志向的な事態であり得るのか。 この問いに答えるためには、世界を、わけても人間とその社会を、遂行的な事態として捉える視点が、改めて導入されねばならない。 《遂行的なるもの》とは、行為遂行の累積的な帰結として生成される秩序の謂である。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、行為自らの生成する秩序なのである。 人間とその社会を、この意味における《遂行的なるもの》として把握する態度は、《近代的なるもの》あるいは志向主義による人間と社会の捉え方を懐疑する、最も確かな立脚点となり得る。 すなわち、《遂行的なるもの》として捉えられる人間と社会は、合理的に制御可能(あるいは客観的)な《世界Ⅰ》でもあり得ず、かつ、個体的に還元可能(あるいは主観的)な《世界Ⅱ》でもあり得ない、世界の第三の可能性を示しているのである。 このような《遂行的なるもの》が、いかなる意味において、制御可能ではあり得ず、また、還元可能でもあり得ないかについては、続いて述べる。 ここでは、客観的でもなく、主観的でもない、遂行的な事態として捉えられる世界を、《世界Ⅲ》と呼ぶことにしよう。 人間の行為を、志向的な事態として把握する態度によっては、ついに捉え得ない人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》という在り方に外ならない。 すなわち、《近代的なるもの》と真っ向から対立する人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》に外ならないのである。 それでは、《世界Ⅲ》すなわち《遂行的なるもの》としての人間と社会は、何故に、合理的に制御可能な事態とも、さらには、個体的に還元可能な事態ともなり得ないのか。 あるいは、人間の行為は、如何なる意味において、志向的な事態ではあり得ないのか。 これらの問いが答えられねばならない。 《遂行的なるもの》は、個体の意図や情緒や目的やに還元あるいは帰属され得ず、むしろ、個体の行為が行為として発効するための根拠となるという意味において、規範的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図には、ついに還元不能あるいは帰属不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》を生成する行為それ自体の、行為として発効し得るか否かは、その主観的な意図とは全く独立に、その社会的な文脈にのみ依存して決定されるからである。 すなわち、行為の文脈依存的であることとは、取りも直さず、行為の発効し得るか否かが、自らの生成する《遂行的なるもの》を根拠として決定されることに外ならない。 しかし、《遂行的なるもの》の還元不能性を帰結する、行為の文脈依存性という命題において、行為の依存する文脈それ自体が《遂行的なるもの》であるとするならば、そこには、何等かの循環論あるいは論理的なパラドックスをが発生するのではないか。 しかし、この問題の検討は、後段に委ねることにして、差し当たり、行為の依存する文脈それ自体は、行為と独立に与えられていると仮定して置くことにしたい。 行為は、何故に、その主観的な意図に還元あるいは帰属され得ない、文脈依存的な事態であるのか。 たとえば、陳謝という行為のように、主観的な意図の表出以外の何ものでもないと見なされる行為ですら、陳謝の行為として発効しうるためには、その主観的な意図とは全く独立な、幾つかの条件 - 自己の行為によって他者に損害が生じたという事実の存在、他者に損害を与えたとしてもなお自己の行為を正当化し得る理由(たとえば正当防衛など)の不在等々 - を充たさねばならない。 自分が相手に何の危害も加えていない場合や、相手の暴力を避けるため相手に触れた場合やに、陳謝の言葉を発する行為は、たとえ、それが陳謝の主観的な意図に充ち溢れたものであったとしても、滑稽な錯誤の行為であるか、さもなくば、卑屈な追従の行為である、と見なされるのが落ちなのであって、真摯な陳謝の行為としては、決して発効し得ないのである。 あるいは、むしろ、陳謝の主観的な意図そのものでさえ、陳謝という行為が、ある文脈の下で発効することによって始めて、その文脈に応じた内容を持つものとして確定されるといった、文脈依存的な事態なのであると言ってもよい。 すなわち、行為を遂行する個体の内面的な意識は、行為の遂行される文脈が与えられて始めて、その内容を決定し得るのである。 従って、行為は、その主観的な意図に帰属させて解釈し得る筈もなく、その社会的な文脈に依存させて始めて、その効力(あるいは「意味」)の何たるかを決定し得るのである。 ゆえに、行為とそれによって生成される秩序は、個体的に還元可能ではあり得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅱ》ではあり得ないのである。 それでは、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》であり得るのか。 《遂行的なるもの》は、合理的に制御あるいは言及し得る対象とは、ついになり得ないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その意識的な対象としては、制御不能あるいは言及不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》とは、何等かの文脈あるいはルールに依存して、自らの発効し得る否かを決定される、行為の秩序に外ならないのであるから、その全体を対象として制御あるいは言及する行為は、自らの依存しているルールそれ自体をも、その対象として制御あるいは言及せざるを得ないことになる。 すなわち、《遂行的なるもの》を対象として制御あるいは言及せんとする行為は、自らを妥当させる根拠としてのルールそれ自体を、その対象とせざるを得ないという意味において、まさに自己組織(制御)あるいは自己言及の行為に外ならないのである。 従って、《遂行的なるもの》に対する制御あるいは言及は、いわゆる自己組織あるいは自己言及のパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、それを対象として意識的に制御あるいは言及せんとするならば、制御の効率や言及の真偽をも含む、あらゆる行為の当否を、全く決定し得なくなるという意味において、制御不能あるいは言及不能とならざるを得ないのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、それに対する制御あるいは言及が、自己組織あるいは自己言及とならざるを得ないがゆえに、暗黙的となるのである。 行為の当否を決定するルールに対する制御あるいは言及の行為、すなわち、自己組織あるいは自己言及の行為は、何故に、行為の当否を決定不能に、従って、それが生成する秩序を制御不能に陥れるのであろうか。 たとえば、「私の決定は妥当しない」と私は決定する、といった典型的な自己言及(決定)の場合を考えてみる。 この場合、私の決定は妥当すると仮定すれば、私の決定は妥当しないことが帰結され、逆に、私の決定は妥当しないと仮定すれば、私の決定は妥当することが帰結される。 すなわち、この場合、私の決定の妥当するか否かは、決定不能い陥っているのである。 一般に、自己組織、自己言及、あるいは自己回帰といった循環的な事態は、この種の論理的なパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体への制御あるいは言及である。 自己組織あるいは自己言及の試みは、自らの妥当し得るか否かの決定不能を帰結することによって、挫折せざるを得ないのである。 従って、制御や言及やをも含む行為の秩序である《遂行的なるもの》は、合理的に制御可能とも言及可能ともなり得ない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》では、決してあり得ないのである。 これまでの考察から明らかなように、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》でも、あるいは、《世界Ⅱ》でもあり得ない。 《遂行的なるもの》は、《遂行的なるもの》によってはついに捉え得ない、世界の第三の可能性としての《世界Ⅲ》なのである。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為遂行の累積的な帰結として、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図にも還元され得ず、また、その意識的な対象としても制御され得ない、規範的かつ暗黙的な事態なのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、その構成要素たる行為の文脈依存的であるがゆえに、また、それを対象とする行為の自己言及的であるがゆえに、個体的に還元不能かつ合理的に制御不能となるのである。 行為は、何等かの文脈あるいはルールに従うことによって始めて、行為として発効し得る。 言い換えれば、行為は、自らを妥当させる根拠として、何等かの文脈あるいはルールを前提せざるを得ない(文脈依存性)。 この意味において、行為は、文脈やルールやといった秩序から、ついに逃れ得ないのである。 すなわち、行為にとっては、従うべきいかなる文脈やルールやをも見い出し得ない、秩序の全き「外部」など、決して存在し得ないのである。 しかし、行為に、その妥当根拠を与える、文脈あるいはルールそれ自体には、いかなる妥当根拠も在り得ない。 ルールの妥当し得るか否かを決定する根拠を、ルールそれ自体に委ねたとしても、あるいは、ルールを根拠として、自らの妥当し得るか否かの決定される、行為に委ねたとしても、ルールの妥当し得るか否かは、ついに決定し得ないからである(自己言及性)。 すなわち、ルールは、自らの発効し得るか否かを、その「内部」においては、ついに決定し得ない秩序なのである。 しかし、そのような秩序は、《遂行的なるもの》としてしか在り得ない。 すなわち、そのようなルールは、行為遂行の累積的な帰結としてしか在り得ないのである(行為累積性)。 従って、ルールは、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によっては設定され得ない秩序であることが明らかになる。 言い換えれば、ルールは、行為によって意識的には語り得ず、ただ、行為において遂行的に示される秩序なのである。 《遂行的なるもの》は、行為の当否を決定する根拠であるとともに、自らは如何なる根拠も持ち得ず、行為の意図的な設定にもよらない、行為の累積的な帰結として生成される秩序である。 このような《遂行的なるもの》は、日常言語において、慣習(convention or practice)と呼ばれる事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、慣習とは、規範的、暗黙的かつ累積的な事態に外ならないのである。 あるいは、慣習とは、個体的に還元不能であり、合理的に制御不能でもある、世界の第三の可能性であると言ってもよい。 従って、個体的な主観としての《世界Ⅱ》や、合理的な客観としての《世界Ⅰ》やに対して、《世界Ⅲ》は、慣習的な遂行として捉えられることになる。 個体主義と合理主義とを共に懐疑し得る、《遂行的なるもの》の視点は、いわば慣習主義とでも呼ぶべき視点なのである。 この慣習という概念こそ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール論、さらにはオースティンの言語行為論を通底する、キー・コンセプトに外ならない。 すなわち、自生的秩序論においては、その自己言及性(制御不能性)が、また、ルール論においては、その外的視点から見た自己言及性(無根拠性)とその内的視点から見た文脈依存性(従根拠性)の双方が、さらに、言語行為論においては、その文脈依存性(還元不能性)が強調されつつも、慣習という概念の三つの構成要素である、文脈依存性、自己言及性、行為累積性の総てが、いずれの議論においても等しく登場している。 自生的秩序もルールも言語行為も、文脈依存性、自己言及性、行為累積性のトリニティを、その不可欠の構成要素としているのである。 市場も貨幣も法も権力も社交も言語も技能も儀礼も流行も、およそ社会あるいは文化と呼び得る総ての事態は、人間という事態をも含めて、《遂行的なるもの》として捉えられる。 すなわち、社会も文化もさらには人間それ自体も、慣習という事態に外ならないのである。 この発見は、あまりに当然と思われるかも知れないが、その含意は、極めて重大である。 しかし、その検討は、次節に委ねたい。 ◆2.新しい保守主義 保守主義とは、近代啓蒙の批判に外ならない。 近代自然法思想を含めた啓蒙の哲学は、社会と人間の、合理的に制御し得ること、あるいは、個体的に還元し得ることを主張して止まない。 啓蒙の哲学は、社会と人間の合理化と個体化(rationalization and individualization)を称揚する、近代進歩主義の原型なのである。 このような啓蒙の哲学が、その淵源をどこまで遡り得るかについては、様々な議論があり得よう。 しかし、ここでは、それが、17・18世紀の200年を通じて形作られて来た、ある精神の型に過ぎないことを確認しておけば、差し当たり充分である。 むしろ、ここで問題にしたいのは、その啓蒙の精神が、フランス革命、さらには産業革命と民主革命の進行に伴って、我々の文明の最も誇るべき価値であるかのように、この世界に拡散して来たという事態である。 合理化と個体化を称揚する精神は、産業化と民主化の激流に翻弄された19世紀はもとより、20世紀末の今日においても、なお我々の文明の中心に位置するかのように見受けられる。 「情報化」という名の新たな産業化と、「差異化」という名の新たな民主化は、我々の時代を画する進歩の旗印として持てはやされている。 啓蒙の精神は、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放というスローガンを高く掲げた、近代進歩主義の運動を、このニ世紀に亘って導いて来たのである。 もちろん、このニ世紀に亘る進歩主義の運動が、極めて多様な傾向を孕んでいることは言うまでもない。 そこには、いわゆる啓蒙主義によって導かれた、自然人権と国家集権を求めるフランス革命の運動もあれば、功利主義によって導かれた、自由化あるいは社会化を目指す漸進の運動もあり、さらには、マルクス主義によって導かれた、人間解放と社会管理のための革命運動もある。 しかし、これらの運動は、社会と人間の、産業化あるいは合理化と、民主化あるいは個体化を、意図的にあるいは結果的に推進したという点において、ほとんど選ぶ処はない。 いわゆる啓蒙主義はもとより、功利主義も、さらにはマルクス主義もまた、近代啓蒙の嫡出子なのである。 保守主義は、このような近代啓蒙の一貫した批判者である。 言うまでもなく、近代保守主義は、フランス革命のもたらした、社会の、理性による専制支配と、原子的個人への平準化の危機に抗して、「自由で秩序ある社会」を擁護すべく、エドモンド・バークによって創唱されたものである。 もちろん、保守主義的な態度が、バーク以前に存在しなかった訳ではない。 未知の変化に抗して、既知の安定を擁護しようとする態度は、むしろ人類と共に古いとも考えられ得るし、啓蒙の精神が形を成して来た、17・18世紀においても、それに対抗する態度は常に存在していたのである。 通俗的に言われるよりも遥かに深く、キリスト教を始めとする中世的あるいは近世的な伝統の内に生きていた、17・18世紀においては、むしろ啓蒙の精神こそが、西欧一千年の伝統から逸脱した、その対抗思想に過ぎなかったとも言えよう。 従って、17・18世紀においては、保守主義の、敢えて名乗りを挙げる必要は、必ずしもなかったのである。 何故ならば、保守主義とは、進歩主義の侵攻が、無視し得ぬまでに拡大して始めて、それを迎撃すべく、自らの重い腰を上げる性質のものだからである。 しかし、フランス革命を境として、進歩主義の侵攻は、もはや何人によっても無視し得ぬ段階に立ち至った。 フランス革命以降、産業主義と民主主義の進行に従って、進歩主義は、貴族制度や大土地所有やキリスト教やといった、あらゆる中世的(あるいは近世的)な伝統に次々と攻撃を加え、「自由で秩序ある社会」を決定的な危機に陥れたのである。 バークの闘った闘いは、このような進歩主義との闘いの緒戦を成すものであった。 フランス革命の啓蒙主義と闘ったバークを皮切りに、進歩主義のもたらす、合理的な専制と個体的なアノミーに抗する闘いは、このニ世紀に亘って、陸続と闘い継がれて来た。 近代保守主義とは、合理化と個体化という革命運動に抗する、不断の闘いそれ自体なのである。 言い換えれば、保守主義とは、啓蒙の精神の産み落とした、合理主義と個体主義の狂気に抗して、何等かの伝統に係留された、「正気の社会」を擁護する、終わりなき闘いの中にしかあり得ないのである。 それでは、保守主義は、何故に合理主義と個体主義を拒絶するのであろうか。 あるいは、また、保守主義は、如何にして啓蒙の精神を否定するのであろうか。 さらに、保守主義は、そのような拒絶や否定を通じて、何故に伝統を擁護することに至るのであろうか。 あるいは、そもそも、保守主義にとって、その擁護すべき伝統とは何であるのか。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、前節までの議論と保守主義とを結び付ける、《失われた環》を見い出すことに外ならないのである。 保守主義は、社会と人間の、理性によって制御し得ることを否定する。 社会と人間が存続していくためには、理性によっては認識し得ないが、行為においては服従し得る、何等かの暗黙的な知識が不可欠なのであって、社会と人間の全体を、理性によって制御することなど、自分の乗っている木枝の根元を、自分で切る類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、理性の行使をも含めて、語り得ずただ従い得るのみの知識を前提として、始めて可能となるのであって、その暗黙的な前提をも含めた、自らの総体を制御することなど、全く不可能なのである。 人間の行為の不可欠な前提である、このような暗黙的知識は、理性的な行為の対象とならないがゆえに、その正当性を合理的には根拠付け得ない。 すなわち、このような暗黙的知識は、正当化し得ない無根拠な知識であるという意味において、まさしく偏見(prejudice)に過ぎないのである。 従って、人間の行為は、自らは何の根拠も持ち得ない偏見を前提として、始めて可能であることになる。 保守主義は、人間の生きていくために、暗黙的で無根拠な偏見に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、合理主義とは、合理的に制御し得ないものを制御せんとする、言わば暴力的な試みなのである。 そのような試みを、敢えて実行しようとするならば、制御の主体は、社会に対して、自らの意志を盲目的に強制する以外の、いかなる手段も持ち得ないことになる フランス革命やロシア革命、さらにはナチス・ドイツの経験が明らかにしたように、合理主義の行き着く先は、効率的な暴力を背景とする、野蛮な専制支配の外ではあり得ないのである。 保守主義は、社会と人間の、個人へと還元し得ることを否定する。 人間の行為は、それを取り巻く社会的、文化的な状況が与えられて、始めてその意味を決定し得るのであって、人間の行為の意味を、個人の内面的な意識へと還元することなど、言葉の意味を、他の言葉の意味との対比関係から切り離して、単独に決定する類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、他者の行為との関係をも含む、全体的な状況の中に位置付けられて、始めて成立し得るのであって、その全体的な状況が、個人の行為に還元し尽くされることなど、決してあり得ないのである。 人間の行為の成立/不成立を決定する。このような全体的状況は、行為の成否を決定する根拠となる、あるいは、行為の成立を正当化する理由となる、という意味において、規範的と言い得るものである。 すなわち、このような全体的状況は、行為を根拠付け、行為を正当化し得る、という意味において、まさしく権威(authority)と呼ぶべき事態なのである。 従って、人間の行為は、その根拠として服従すべき権威を前提として、始めて成立することになる。 保守主義は、人間の生きていくために、全体的で規範的な権威に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、個体主義とは、自らの拠って立つ不可避の基盤を見失った、個体の自己過信の外ではない。 個体主義とは、個体的に還元し得ないものを還元せんとする、いわば?神的な営みなのである。 そのような営みを、敢えて遂行しようとするならば、個人は、他者の、従って自己の行為の何であるかを全く了解し得ない、アノミーの深淵に立ちすくむことになるだけではない。 19世紀には絶望とともに予感され、20世紀には希望とともに実現された、高度大衆社会の実現が明らかにしたように、個体主義の精神がもたあすものは、無神論の深淵ではなく、神でも何でも手軽に信じて気軽に忘れる、多幸症の浅薄というアノミーに外ならないのである。 このように合理主義と個体主義を拒絶する、保守主義の橋頭堡としての偏見と権威が、理性によって意図的に設定されたものでも、個人によって意識的に合意されたものでもあり得ないことは言うまでもない。 偏見と権威は、行為の持続的な遂行の累積的な帰結として、自然発生的に生成されるものなのである。 すなわち、偏見と権威は、合理的な設定によらず、個体的な合意によらず、ただ遂行的にのみ生成される、まさに伝統(tradition)と呼ばれるべき事態なのである。 偏見とは、いかなる合理的な根拠も持ち得ない、俗なる伝統に外ならず、権威とは、あらゆる個体の根拠として従うべき、聖なる伝統に外ならない。 伝統とは、自らの如何なる根拠も持ち得ずに、他の一切の根拠として従われるべき、俗にして聖となる歴史の堆積なのである。 言い換えれば、伝統とは、歴史の試練に辛くも耐えて、偏見と権威の内に記憶される、生きられた経験に外ならないのである。 従って、偏見と権威に支えられて始めて成立し得る、人間とその社会は、このような伝統に従うことを、その不可避の条件とすることになる。 保守主義は、人間と社会の生きていくことが、つまるところ、伝統に回帰する以外にはあり得ないことを、強く主張するのである。 近代啓蒙の精神は、このような伝統や偏見や権威やを、蛇蝎の如く忌み嫌う。 因習や俗信や抑圧やから、人間を救済し、理性と自我との赴くままに、世界を革新すること、これが啓蒙の企てなのである。 しかし、保守主義から見るならば、このような啓蒙の企てこそが、合理主義的な抑圧と個体主義的な俗信とをもたらす当のものに外ならない。 近代啓蒙の精神は、不断に進歩することを、まさに因習となすことによって、専制的な抑圧とアノミックな俗信とを、常に帰結せざるを得ないのである。 保守主義のこのような回帰する伝統とは、合理的に制御し得る客観的なものではあり得ず、また、個体的に還元し得る主観的なものでもあり得ない、遂行的に生成される、言わば第三のものであった。 すなわち、伝統とは、客観的な自然でもあり得ず、主観的な意識でもあり得ない、第三の領域なのである。 このような第三の領域は、日常言語において、社会、文化、あるいは制度と呼ばれる領域に外ならない。 保守主義は、伝統に回帰することによって、客観的な自然法に根拠付けられる訳でもなく、主観的な社会契約に還元される訳でもない、社会という領域を再発見したのである。 言い換えれば、保守主義は、啓蒙思想による、理性と個人の発見に幻惑されて、一度は忘却の淵に立たされた、社会という現象を、再び見い出したのである。 社会の発見は、17・18世紀思想における理性と個人の発見に鋭く対比される、19・20世紀思想の鮮やかな特徴をなしている。 もちろん、合理主義と個体主義の哲学は、20世紀末の今日においてもなお有力なのではあるが、18世紀と19世紀の境に起こった転換以来、社会の、合理主義と個体主義によっては、ついに捉え得ない、という了解もまた、我々の共有財産となっているのである。 この意味において、保守主義は、社会についての哲学を、近代において始めて可能とした思想であると言えよう。 保守主義の歴史とは、取りも直さず、近代社会哲学の歴史に外ならないのである。 保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、合理的な客観としての自然でもなく、個体的な主観としての意識でもない、慣習的な遂行としての社会を、近代において始めて発見した。 すなわち、保守主義は、社会を、自らは如何なる合理的な根拠も保持せずに、自らにあらゆる個体的な行為を従属させる、遂行的な秩序として捉えることによって、近代社会哲学を創始したのである。 保守主義のこのように発見した社会が、前節に述べた《遂行的なるもの》と、ほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 《遂行的なるもの》とは、あらゆる行為がその成立/不成立を依存せざるを得ない文脈であり、また、いかなる根拠付けも自己に回帰する言及となるがゆえに不能である、遂行的な秩序のことであった。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、個体的に帰属し得ず、合理的に言及し得ない、慣習的な秩序のことである。 従って、保守主義の発見した社会は、《遂行的なるもの》と、極めて正確に一致していることになる。 すなわち、保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、取りも直さず、《遂行的なるもの》を発見していたのである。 あるいは、むしろ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール、オースティンの言語行為、さらにはウィトゲンシュタインの言語ゲームを通底する、《遂行的なるもの》こそが、保守主義のニ世紀に亘って護り続けて来た伝統の、現代における再発見なのであるとも言い得よう。 20世紀哲学の到達した地点は、保守主義の歴史の新たな一ページなのである。 すなわち、ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインの到達した哲学は、20世紀末における新しい保守主義に外ならないのである。 もちろん、ハイエクもハートもオースティンも、さらにはウィトゲンシュタインも、自らを保守主義者と名乗っている訳では些かもない。 従って、現代における新しい保守主義を考察するためには、彼らの哲学よりも、むしろ、現代における正統的な保守主義者、たとえばマイケル・オークショットなどの哲学を検討すべきではないのか、という指摘も尤もである。 わけてもオークショットの社会哲学は、イギリス保守主義の掉尾を飾るものとして、是非とも検討されねばならない。 しかし、現代においては、保守主義者を名乗る人々の哲学が、必ずしも保守主義の哲学であるとは限らない。 啓蒙の哲学が、あたかも正統思想であるかのように流布されている現代においては、保守主義を騙って啓蒙を喧伝する輩が、跡を絶たないのである。 保守主義とは、まず何よりも啓蒙の批判に外ならない。 従って、現代における新しい保守主義の探求とは、取りも直さず、現代における反啓蒙の哲学の検討であらねばならぬのである。 ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインが、このような現代における反啓蒙の急先鋒であることは紛れもない。 本書は、経済哲学、法哲学、言語哲学を含む社会哲学の、20世紀における大立者達の言説の内に、現代における反啓蒙の、従ってまた、現代における新しい保守主義の可能性を探って見たのである。 20世紀末の保守主義は、自生的秩序やルールや言語行為や、さらには言語ゲームの哲学の内に、その新たな表現様式を見い出しているのである。 このような20世紀末の新しい保守主義が、ニ世紀に亘る保守主義の歴史に、何か付け加えたものがあるとするならば、それは、啓蒙の運動が不可能であることの、新しい表現様式である。 新しい保守主義は、社会と人間が、自らの要素である行為の文脈依存的であるがゆえに、個体的に還元され得ず、また、自らを対象とする行為の自己言及的となるがゆえに、合理的に制御され得ないことを主張する。 すなわち、新しい保守主義は、社会と人間の個体化と合理化という、啓蒙の運動の不可能であることを、言語行為論あるいは言語ゲーム論に準拠して主張するのである。 保守主義は、その誕生以来、時代の進歩主義に対応する、様々な表現様式に身を託して、合理化と個体化の不可能であることを主張し続けて来た。 新しい保守主義の準拠する、言語行為論あるいは言語ゲーム論もまた、20世紀末の進歩主義に対応する、そのような表現様式に外ならないのである。 いずれにせよ、保守主義によれば、社会と人間の合理化と個体化は、原理的に不可能である。 社会と人間に対する、進歩主義の貫徹は、所詮出来ない相談なのである。 そのような進歩主義を、敢えて貫徹しようとするならば、社会と人間は、暴力的な専制と涜神的なアノミーとへの分解によって、破壊し尽くされざるを得ない。 進歩主義は、その建設への意志とは裏腹に、社会と人間を、ついに崩壊へと導かざるを得ないのである。 まさしく、滅びへの道は、善意によって敷き詰められている。 従って、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の生き方についての、可能な二つの道の対立などでは全くない。 進歩主義の道は、社会と人間の死滅に至る、不可能な道なのであって、社会と人間の辛くも生存し得る、唯一の可能な道は、保守主義の道なのである。 すなわち、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の存続し得るか否かを賭けた、全く抜き差しならぬ対立なのである。 この命題は、もとより、一般の社会と人間についても成立し得ると思われるが、ここでは、その近代の社会と人間についての成立が確認されねばならない。 すなわち、近代の社会と人間は、あたかも近代の正統思想であるかのように見なされている、進歩主義のみによっては、自らの存続すらをも保証し得ないのである。 言い換えれば、近代の社会と人間が、数世紀に亘って辛くも存続しているとするならば、それは、金ぢあの社会と人間が、己の意識するとしないとに拘わらず、保守主義を、事実として生きてしまっているからに外ならない。 近代の社会と人間は、あたかも反近代の異端思想であるかのように見なされている、保守主義を生きることによって始めて、自らの存続を辛くも保ち得るのである。 これは、何の逆説でもない。 社会と人間は、まさにそのようなものとして、生きられているのである。 ◆3.保守主義とは何でないか 前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。 ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.解釈学的社会学へ 本書のこれまでの諸章は、オースティンの言語行為論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、保守主義の社会哲学との関連を述べている。 主としてイギリスの20世紀哲学と保守主義との関連を述べて来たのである。 尤も、オースティンとハートは、確かにオックスフォードの人であるが、ウィトゲンシュタインとハイエクは、言うまでもなくウィーンの人である。 しかし、今世紀初頭のウィーン哲学は、必ずしもドイツ哲学の本流とは言い得ず、むしろイギリスにおいて活躍する人々の方が多かったと言っても過言ではない。 ウィーンの哲学は、ドイツにおけるイギリス哲学なのである。 いずれにせよ、本書のこれまでの諸章は、イギリス哲学に焦点を絞って来たのである。 ところが、これまでの論述において、20世紀イギリス哲学の行き着いた地平を辿って行く内に、それが、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学の行き着いた地平と、極めて類似していることに幾度となく気付かされざるを得なかった。 村上泰亮の言葉を借りれば、「後期のウィトゲンシュタインは、ほとんど現象学への - 言わば裏側からの - 復帰を果たしているように映るのである」。 従って、20世紀イギリス哲学の帰結に、保守主義の社会哲学を読み込む本書としては、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学と、それがもたらす社会哲学上の帰結に目を向けない訳にはいかない。 本書は、解釈学的社会学の方へと、呼ばれざるを得ないのである。 しかし、19・20世紀におけるドイツの社会哲学を取り上げるには、いささかの勇気が必要とされる。 それは、私自身が、これまで主としてイギリスの社会哲学を読み継いで来たという、研究経歴上の問題のためだけではない。 19・20世紀ドイツの社会哲学が輝かしいものであればある程、何故にドイツは、今世紀の二つの大戦において、あのように凄惨な敗北を喫さねばならなかったのか、という問いが否応なく覆い被さって来るからである。 もとより、ある言語による社会哲学に、その言語圏に属する国家社会の歴史的運命への、直接の責任が有り得よう筈もない。 しかし、ある社会における思想の在り様が、その社会の歴史的な運命に全く無関係であることもまた有り得ない。 ドイツの社会哲学は、ドイツの運命的な敗北に、何等かの関係を持っている筈なのである。 それでは、近代ドイツ思想と近代ドイツ社会の運命は、如何ように交錯するのであろうか。 この問いを問い切るためにこそ、些かの勇気が必要とされるのである。 何故ならば、この問いに対する答え方によっては、いわゆる戦後的な「常識」に、真っ正面から対立せざるを得なくなる場合も、充分に想像し得るからである。 このような勇気は、決定的な敗北ということをついぞ知らない、近代イギリスの社会哲学を取り上げるに当たっては、必ずしも必要とはされない。 しかし、たとえば近代日本の社会哲学を取り上げようとするならば、是が非でも必要とされるものである。 蓋し、近代日本社会もまた、過ぐる大戦において歴史的な敗北を喫したのであり、そのことと、近代日本思想との関係もまた、避けては通れない問いだからである。 いずれにせよ、近代ドイツの社会哲学あるいは近代日本の社会哲学を取り上げんとする試みは、少なくとも私には、些かの勇気を必要とする試みであるように思えてならないのである。 従って、以下の試みは、ささやかな覚悟を秘めてのことである。 20世紀末の時点に立って、ドイツの哲学を概観するならば、そこには、大きく三つの潮流の存在していることが見て取れる。 一つは、現象学あるいは解釈学に代表される潮流であり、二つは、フランクフルト学派あるいは批判理論に代表される潮流であり、三つは、分析哲学あるいは批判的合理主義に代表される潮流である。 これらの三潮流は、それぞれに社会哲学上の帰結を含意している。 すなわち、第一の潮流は、解釈学的社会学を、第二の潮流は、批判社会学を、第三の潮流は、機能主義社会学を含意しているのである。 これら三潮流を、その相互連関に留意しつつ、大胆に要約するならば、まず、第二の批判理論とは、たとえば人間の解放といった普遍妥当的とされる根拠に基づいて、社会の総体を批判しさらには変革し得るとする哲学であって、マルクスとフロイトの継承線上に位置することを、自他共に認める立場である。 次に、第三の批判的合理主義あるいは機能主義とは、人間の知識に普遍妥当的な根拠付けなど可能ではなく、知識とは、自らを妥当させる根拠(たとえば反証可能性基準)それ自体の選択をも含めた、自由な決断に外ならないとする哲学であって、三潮流の中で唯一、現代的な科学の方法論であり得ることを自負している立場である。 これらに対して、第一の解釈学とは、人間とその社会あるいは文化の解釈は、たとえば社会の伝統といった自らを妥当させる根拠をも、自らの対象とせざるを得ないのであるから、自らの普遍妥当性を根拠付け得る筈もなく、しかし、自らの妥当根拠を自由に選択し得る訳でもないとする哲学であって、19世紀以来のテクストあるいはコンテクスト解釈学の伝統に棹さす立場である。 言い換えれば、 批判理論とは、価値と認識についての普遍主義あるいは客観主義の視点に立つ、実践の哲学であり、 批判的合理主義とは、価値と認識についての相対主義あるいは主観主義の視点に立つ、科学の哲学であるのに対して、 解釈学とは、客観主義あるいは主観主義のいずれでもない言わば第三の視点に立つ、伝統の哲学なのである。 このような大胆な要約を示されれば即座に、幾つもの疑問が涌き上がって来て当然である。 たとえば、解釈学のいう伝統と、現象学の言う《生活世界》とは、果たして如何なる関係にあるのか、また、実践哲学の復権が言われる中で、批判理論は、果たして如何なる位置を占めるのか、さらに、批判的合理主義の言う仮説選択と、機能主義の言う《システム》選択とは、果たして異なった概念であるのか、等々の疑問である。 しかし、本論においては、これらの疑問にこれ以上立ち入ることはしない。 これらの疑問を詳細に検討するためには、遥かに充分な準備が必要とされるからである。 むしろ、本論においては、人間とその社会あるいは文化を解釈するという、解釈学的な問題の構造を解析することによって、何故に、批判理論と機能主義(批判的合理主義)が社会理論として不可能となり、解釈学的な社会理論のみが可能となるのかを検討してみたい。 さらに本論においては、そのような解釈学的社会学が、何故に保守主義であらねばならぬのかも検討してみたい。 これらの検討を通じて、伝統へ回帰することが、社会を解釈することの、逃れ得ぬ条件であり、かつ、避けられぬ帰結であることが、明らかになると思われる。 ◆2.自己関係性の構造 人間や社会や文化を解釈するという行為は、一体、いかなる特徴を持った行為であるのか。 この問いを問う前に、まず、社会という事態を如何に把握すべきかについて、多少なりとも議論して措く必要がある。 社会とは、差し当たり、人間の行為の集合である。 しかし、このような行為空間に、何等かの構造、形式あるいは秩序が導入されて始めて、社会は、社会として発見され得る。 すなわち、社会とは、何等かの構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間なのである。 ここに言う、行為空間に何等かの構造、形式あるいは秩序が存在するとは、ある行為空間に内属する行為が、何等かの根拠に基づいて、その妥当であるか否か、あるいは、その有効であるか否かを、ほとんどあらゆる場合に決定され得る、という事態に外ならない。 言い換えれば、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間とは、自らに内属する殆どあらゆる行為の、妥当であるか否か、あるいは、有効であるか否かを、常に決定し得る行為空間なのである。 ここでは、この意味において、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間を、秩序付けられた行為空間と呼び、そのように行為空間を秩序付ける、すなわち、行為の妥当性あるいは有効性を決定する根拠となるものを、行為のノルム(規範)、ルール(規則)あるいはコンテクスト(文脈)と呼ぶことにしたい。 すなわち、行為は、何等かの規範、規則あるいは文脈に依することによって始めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのであり、また、行為空間は、何等かの規範、規則あるいは文脈が導入されて始めて、秩序付けられるのである。 従って、社会とは、何等かの文脈によって秩序付けられた、行為空間に外ならないことになる。 言い換えれば、社会とは、何等かの文脈に依存することによって始めて、自らの妥当しうるか否かを決定し得る、行為の集合に外ならないのである。 このような社会という事態を解釈する行為は、一体、如何なる特徴を持つのであろうか。 行為という事態を、一篇のテクストに譬えることが許されるならば、ある文脈に依存することによって始めて、自らの当否を決定し得る場合、すなわち社会を解釈する行為は、あるコンテクストに依拠することによって始めて、自らの意味を決定し得るテクストの集合を解釈する行為に外ならない。 言い換えれば、社会の解釈とは、あるコンテクストを共に織り成している、テクストの束を解する行為に外ならないのである。 さらに言えば、この解釈する行為それ自身もまた、一篇のテクストに外ならず、何等かのコンテクストに依拠することによって初めて、自らの意味を決定し得る。 すなわち、解釈する行為それ自身もまた、行為である以上、何等かの文脈に依存することによって初めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのである。 従って、社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会、すなわち秩序付けられた行為空間とは差し当たり区別される、何等かの秩序付けられた行為空間に内属することになる。 すなわち、社会を解釈する行為は、それ自身もまた行為であるがゆえに、言わばメタ社会とでも呼ぶべき社会に内属せざるを得ないのである。 この解釈行為の内属する(メタ)社会と、解釈行為の対象とする(対象)社会とが、同一ではないとするならば、社会を解釈するに当たって特徴的な問題は生じ得ない。 言い換えれば、解釈行為の依存する文脈と、対象社会を秩序付ける文脈とが、異なるものであるとするならば、次節以降に述べるような問題は生じ得ないのである。 しかし、社会を解釈するという課題は、対象社会とメタ社会との峻別を、ついに許さない。 対象社会を秩序付ける文脈と、メタ社会を秩序付ける文脈とは、究極的には一致せざるを得ないのである。 何故ならば、秩序付けられた解釈行為の空間としてのメタ社会もまた、社会である以上、当然に解釈行為の対象となり得るのであって、社会の全体を解釈せんとする行為は、自らの内属する社会をも、自らの対象とせざるを得ないからである。 すなわち、社会の全体を解釈せんとするならば、対象社会は、メタ社会それ自体をも包含せざるを得ないのである。 従って、メタ社会を秩序付ける文脈、すなわち解釈行為の依存する文脈は、対象社会を秩序付ける文脈の一部分とならざるを得ない。 言い換えれば、社会全体を解釈せんとする行為は、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体をも、自らの対象とせざるを得ないのである。 このように、解釈行為の対象となっている社会に内属する行為の妥当根拠が、同時に、解釈行為それ自身の妥当根拠でもある事態を、ブプナーに従って、自己関係的な事態、あるいは、自己関係性と呼ぶことにしよう。 すなわち、社会全体を対象とする解釈行為は、自らの根拠を自らの対象とせざるを得ないという意味において、自己関係性の構造を余儀なくされるのである。 もっとも、解釈の行為が、必ずしも社会の全体を対象とする必然はない。 従って、社会の部分を対象としている限り、解釈の行為が、自己関係性の構造を引き受けなくとも済む場合もあり得よう。 しかし、解釈の行為が、自らの内属する社会、すなわち秩序付けられた解釈空間それ自体を対象とする場合には、依然として、自己関係性の構造を避け得ない。 そのような場合とは、解釈の行為とその妥当根拠とを反省的に解釈する場合、言い換えれば、解釈学的な行為の遂行される場合である。 すなわち、解釈学的行為は、その対象である解釈行為の妥当根拠と、それ自身の妥当根拠が厳密に一致するという意味において、まさに自己関係性の構造を遂行しているのである。 従って、自己関係性の構造が問題とされるのは、社会全体を対象とする解釈行為の場合と、解釈行為それ自体を対象とする解釈行為、すなわち解釈学的行為の場合とに限られることになる。 このような自己関係性の構造、すなわち自らの妥当根拠を自らの解釈対象とする構造こそ、解釈学的循環と呼ばれる構造に外ならない。 言い換えれば、自らのコンテクストを自らのテクストとする処に、解釈学的循環が生じるのである。 解釈学的循環は、解釈学の全歴史を通底する根本構造である。 解釈学の主要なメッセージは、押し並べて、この解釈学的循環から帰結されると言っても過言ではない。 本論の以下の諸節もまた、この解釈学的循環あるいは自己関係性の諸帰結を検討することに費やされる。 そこでは、自己関係性の帰結として、批判理論と機能主義あるいは批判的合理主義の不可能であることが、明らかにされると共に、解釈学的循環の帰結として、保守主義あるいは伝統再生の不可避であることが、示される筈である。 ◆3.基礎付けの不可能 自己関係性を引き受ける解釈行為、すなわち、社会全体を対象とする解釈行為、あるいは、自己自身の妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当し得るか否かを、如何にして決定し得るのであろうか。 言い換えれば、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、如何にして根拠付け得るのであろうか。 たとえば、自らの妥当根拠に対する解釈を遂行して、そこには「自らの妥当根拠に対する解釈は妥当でない」という準則が含まれている、と解釈する場合を考えてみよう。 この場合、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当であるとするならば、その解釈の妥当でないことが帰結され、逆に、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当でないとするならば、その解釈の妥当であることが帰結される。 従って、この場合、自らの妥当根拠に対する解釈の妥当であるか否かは、全く決定し得ないことになる。 すなわち、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないのである。 このような決定不能性あるいは根拠付けの不可能は、自らの当否を自らが決定する構造、言い換えれば、自らを根拠として自らを正当化する構造の存在する処では、何処にでも生じ得るパラドックスである。 従って、自己関係性の構造の存在が、自らの妥当根拠に対する解釈の決定不能あるいは根拠付けの不可能を帰結するのは、このような自己決定あるいは自己正当化のパラドックスの、一つの例であるとも言い得るのである。 いずれにせよ、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、自らの妥当性の決定不能あるいは根拠付けの不可能に陥らさるを得ない。 言い換えれば、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、そもそも、合理的な行為としては成立し得ないのである。 社会の全体あるいは自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為が、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ないという事態は、批判理論の遂行せんとしている、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判の行為が、必ずしも可能ではあり得ないことを示唆している。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判は、自らの妥当根拠それ自体をも批判の対象とせざるを得ず、そのような批判は、自らの妥当し得るか否かを、ついに決定し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判には、自らを妥当させる究極的な根拠など、決して存在し得ないのである。 従って、批判理論は、ついに可能ではあり得ない。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会に対する、疑い得ぬ確実な根拠に基づいた、普遍妥当的な批判など、全く不可能なのである。 このことは、同時に、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、合理的な言及や制御や変革やの、不可能であることも含意している。 何故ならば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、批判の行為と同様に、自らの妥当根拠を自らの行為対象とせざるを得ず、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないからである。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、合理的な行為としては決して成立し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会は、合理的な言及や制御や変革やといった行為の対象とは、ついになり得ないのである。 従って、社会の全体あるいは当該行為の内属する社会は、言及/制御/変革不能という意味において、まさに暗黙的となるのである。 社会の全体あるいは制御行為の内属する社会が、制御不能であるということは、取りも直さず、社会の全体を秩序付けている文脈、あるいは、制御行為の依存している文脈もまた、制御不能であるということに外ならない。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。 従って、社会全体を秩序付ける文脈は、意図的に設定される事態ではあり得ない。 そのような文脈は、行為の意図にはよらず、行為の結果として、自生的に生成される事態なのである。 また、制御の行為は、自らの意識的には制御し得ない文脈に依存して初めて、自らの行為を可能にし得ることになる。 この制御行為の依存する文脈もまた、制御行為の遂行の累積的な帰結として、自生的に生成される事態なのである。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的であるがゆえに、ただ遂行的となるのである。 言い換えれば、そのような文脈は、意識的に語り得ないがゆえに、ただ遂行的に示されるのみなのである。 ◆4.《選択肢》の不在 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ない。 自らの内属する社会を解釈する行為には、究極的な妥当根拠など、決して存在し得ないのである。 それでは、自らの内属する社会を解釈する行為に、言わば暫定的な妥当根拠を付与する試みは可能であろうか。 なるほど、自らの内属する社会への解釈に、究極的な妥当根拠など存在し得ない。 しかし、そのような解釈に、暫定的な妥当根拠を付与することによって、そのような解釈の、差し当たり妥当し得るか否かを決定することは可能ではないか。 ただし、ここに言う妥当根拠の暫定的であるとは取りも直さず、自らの内属する社会への解釈の、妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体には、その妥当であるか否かを決定し得る、いかなる根拠も存在し得ない、ということに外ならない。 すなわち、暫定的な妥当根拠とは、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を与えつつ、それ自体は、いかなる妥当根拠をも持ち得ない事態なのである。 言い換えれば、暫定的な妥当根拠は、自らの妥当根拠それ自体への遡行を、言わば中断することによって、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を付与するのである。 自らの内属する社会への解釈は、このように、自らの妥当根拠を暫定的に付与されることによって、差し当たり、自らの妥当し得るか否かを決定し得るかも知れない。 従って、そのような解釈は、差し当たり、自らの妥当性を根拠付け得る、いわゆる科学的な言明として遂行され得るかも知れない。 しかし、そのような科学的言明の妥当性を根拠付けている、その妥当根拠は、あくまでも暫定的なものであって、自らの妥当性を根拠付ける、いかなる妥当根拠も存在し得ない。 科学的言明とは、さらなる根拠への遡行を中断することによって初めて可能となる、暫定的に根拠付けられた解釈の行為なのである。 それでは、自らの内属する社会への解釈を暫定的に根拠付ける、妥当根拠それ自体は、どのようにして与えられるのであろうか。 もとより、そのような妥当根拠それ自体には、いかなる妥当根拠も存在し得ないのであるから、そのような妥当根拠を、何等かの根拠に基づいて選択することは不可能である。 従って、そのような妥当根拠は、もし選択することが可能であるとするならば、いかなる根拠にも囚われない、いわば自由な決断によって選択されざるを得ない。 すなわち、暫定的な妥当根拠は、その選択可能を前提とするならば、解釈主体の自由な決断によって与えられるのである。 この意味において、科学的な言明とは、究極的には自由な決断に依存している行為に外ならない。 普遍的な妥当根拠の果てる処、自由な決断あるのみ、という訳である。 しかし、暫定的な妥当根拠を選択する、解釈主体の自由な決断が可能であるためには、そもそも、暫定的な妥当根拠それ自体を選択することが可能であらねばならない。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。 ところが、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の、暫定的な妥当根拠には、いかなる選択肢も存在し得ないことが示され得る。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。自己関係的な解釈行為は、たとえ暫定的なそれであったとしても、些かの選択可能性も持ち得ないのである。 何故ならば、自己関係的な解釈行為においては、自らの行為の妥当根拠と、自らの対象の妥当根拠とが一致せざるを得ない。 従って、社会の全体なり、あるいは、解釈行為自らの内属する社会なりを、解釈の対象とするならば、自らの対象としての社会全体を秩序付ける文脈(妥当根拠)、あるいは、自らの対象としての自らの内属する社会を秩序付ける文脈(妥当根拠)それ自体を、自らの行為の依存する文脈(妥当根拠)とせざるを得ないことになる。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする解釈の行為は、自らの行為の妥当根拠として、自らの対象の妥当根拠以外の、いかなる選択肢も持ち得ないのである。 言い換えれば、自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠は、些かも選択可能ではあり得ないのである。 従って、自らの内属する社会に対する解釈の妥当根拠を、解釈。主体の自由な決断に委ねることは、全く不可能となる 何故ならば、そのような解釈の妥当根拠には、選択肢が全く不在であるために、解釈主体による自由な決断の余地は、些かも残されてはいないからである。 このことは、科学的言明の妥当根拠(たとえば反証可能性基準)を、自由な決断に委任する、批判的合理主義の、必ずしも可能ではあり得ないことを示している。 すなわち、科学的言明の妥当根拠を、如何なる根拠にも囚われない自由な決断に委ねることによって、そのような妥当根拠によって秩序付けられた、科学的言明のゲームを展開せんとする、批判的合理主義の試みは、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする言明の妥当根拠に、如何なる選択肢も存在し得ないという事態によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、批判的合理主義の含意する、科学的言明の妥当根拠それ自体についての相対主義、いわゆるパラダイム相対主義は、社会の全体あるいは言明行為自らの内蔵する社会を対象とするパラダイムに、選択可能性の全く不在であるがゆえに、失敗せざるを得ないのである。 従って、批判的合理主義によるパラダイムの選択は、全く不可能となる。 このことは、機能主義による社会システムの選択が不可能であることと、ほとんど同型的に対応する事態であると思われる。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠が、解釈主体の自由な決断によっては選択され得ないという事態は、そのような解釈の行為が、自らの対象とする社会を秩序付けている文脈から、ついに自由ではあり得ないことを示している。 すなわち、そのような解釈の行為は、自らの対象とする文脈、従って、自らの依存する文脈から、ついに離脱し得ないのである。 言い換えれば、解釈行為という(メタ)テクストは、自らのテクストでありかつ自らも織り込まれているコンテクストから、決して離脱し得ないのである。 そのようなコンテクストは、解釈の行為(メタ・テクスト)に先立って遂行されている、言わば先行的な解釈(テクスト)の累積であるとも言えよう。 従って、解釈の行為は、先行的な解釈に拘束されて初めて可能であることになる。 すなわち、解釈の行為とは、言わば先行解釈の地平に投げ出されて在る行為に外ならないのである。 ◆5.再び伝統とは何か 社会の伝統あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの妥当し得るか否かを究極的には決定し得ず、また、自らの妥当性を根拠付ける文脈を暫定的にすら選択し得ない。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会を秩序付ける文脈を、究極的には操作し得ず、しかも、そのような文脈から、暫定的にすら離脱し得ないのである。 すなわち、解釈の行為が、自らの対象とし、従って、自らの依存する文脈は、究極的には操作不能であり、暫定的にも離脱不能である、何ものかなのである。 このような解釈行為の文脈こそ、伝統と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統とは、操作不能という意味において拘束的であり、解釈行為の遂行において従われる外はない事態なのである。 言い換えれば、伝統とは、解釈行為の語り得ず、ただ示し得る事態であると共に、解釈行為の逃れ得ず、ただ従うべき事態なのである。 従って、解釈の行為とは、このような伝統に従いつつ、このような伝統を示す、すなわち、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないことになる。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を秩序付ける文脈、すなわち、伝統を解釈する行為とは、伝統から離脱するのではなく、伝統に依拠しつつ、伝統を操作するのではなく、伝統を再生する行為に外ならないのである。 このように、伝統に依拠しつつ、伝統を再生する行為の遂行を、保守主義と呼ばずして、一体、何を保守疑義と呼び得るのか。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の遂行は、保守主義以外の何ものでもないのである。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統を普遍的に批判し得る根拠を持ち得ないが故に、伝統を生成し、また、伝統を自由に選択し得る選択肢を持ち得ないがゆえに、伝統に依存する行為であらざるを得ない。 すなわち、唯一可能な社会理論として、批判理論や機能主義と決別する解釈学的社会学の遂行は、取りも直さず、保守主義の外ではあり得ない。 解釈学的社会学の保守主義たる所以である。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為である、という命題は、解釈学的社会学の根本命題である。 本論は、この根本命題の含意を、簡単にスケッチしたに留まる。 論じ残された問題は数多い。 たとえば、ある歴史的な社会を解釈の対象に据えた場合、その歴史的な社会を秩序付けている文脈と、解釈の行為の内在する社会を秩序付けている文脈とは、必ずしも常には一致しない。 従って、そこには、解釈の対象とする(対象)社会の文脈と、解釈の内蔵する(メタ)社会の文脈とが一致する、いわゆる自己関係性の構造は、必ずしも見い出されない。 しかし、そもそも、解釈の行為は、対象社会の文脈とメタ社会の文脈との間に、何等かの一致を前提することによって、初めて可能になるとも考えられるし、あるいは、それらの間に、何等かの一致を帰結することによって、初めて実現し得るとも考えられる。 すなわち、解釈の行為は、自己関係性の構造を、その前提とも帰結ともしているのではないか、と考えられるのである。 この場合、解釈を遂行する過程において、対象社会の文脈とメタ社会の文脈とは、どのように離反し、あるいは、どのように一致していくのか、このことが問われねばならない。 この問いは、解釈の遂行課程において、自己関係性の構造が、どのように生成されて来るのかを問うことに外ならない。 ガーダマーの言う、地平融合の問題である。 しかし、本論は、この問いに答えない。 解釈学的社会学の理論的彫塑は、今後の課題である。 解釈学的社会学が、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないとするあらば、日本における解釈学的社会学は、日本の伝統を生成する行為を閉却する訳にはいかない。 もっとも、日本の伝統というと、即座に、古代以来の天皇制や、中世以来のイエ社会やを思い浮かべ、中国文明やあるいは近代文明の影響を受けていない、言わばナショナリスティックな伝統を考える向きがしばしば見受けられるが、ここに言う伝統は、必ずしもそのようなものではあり得ない。 日本において解釈学的社会学を遂行する場合、私の差し当たり対象としたい伝統は、17世紀ないし19世紀以降の近世あるいは近代日本の伝統である。 すなわち、近代文明の一翼を担う地域文化としての日本の伝統を対象としたいのである。 この間の事情は、ドイツにおいて解釈学的社会学の遂行される場合と大した違いはない。 ドイツの解釈学もまた、17世紀ないし19世紀以降の近代ドイツの哲学的な伝統を、差し当たり継承しているのである。 いずれにせよ、日本における解釈学的社会学を遂行するに当たって、差し当たり対象としたいのは、近世あるいは近代日本における哲学的な伝統である。 そのような伝統を解釈することによって、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為の一端を担ってみたいのである。 このこともまた、今後の課題に外ならない。 ▼原注 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 第一章 世紀末の新しい保守主義 (省略) 第二章 合理と個体 (省略) 第三章 暗黙の言及 (*6) Polanyi, Michael ("Personal Knowledge"1958 長尾史郎訳 『個人的知識』1985) ハイエクは、ポランニーから多くの影響を受けている。 たとえば、自生的秩序の概念は、ポランニーから譲り受けたものである。 確かに、ハイエクは、ポランニーの暗黙知の概念を、言葉としては用いていないが、内容的には同様の考え方に立っている。 (*7) 橋爪大三郎 (『言語ゲームと社会理論 -ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』 1985) ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、ハイエクが直接の示唆を受けているか否かは定かでない。 従って、ここに言う家族的類似は、両者の理論が結果として類似しているという主張以上のものではない。 なお、ハイエクは、ウィトゲンシュタインの伝記を手掛けたことがあるそうである。 (他は省略) 第四章 規範の文脈 (*5) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 自己言及性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*8) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 文脈依存性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*18) 土屋俊 (「何種類の言語行為があるか -言語ゲームとしての言語行為-」 講座『思考の関数1 ゲームの臨界 -アゴーンとシステム-』 1983) 発語内行為の分類に関しては、土屋(1983)に示唆を受けた。 (他は省略) 第五章 慣習と遂行 (*1) Popper, Karl R. ("Objective Knowledge"1972 森博訳 『客観的知識 -進化論的アプローチ-』1974) 《世界Ⅰ》 《世界Ⅱ》 《世界Ⅲ》 の概念については、Popper に示唆を受けた。 (*2) これは、行為の累積的な帰結として生成される秩序が、何故に、行為の発効し得るか否かを決定する根拠すなわち、行為の依存する文脈となり得るのか、という問題である。 もし、行為の依存する文脈が、行為によって意図的に設定されるとするならば、そこには、自己言及あるいは自己回帰のパラドックスが生ずることになり、行為の発効し得るか否かは決定不能に陥らざるを得ない。 従って、行為の発効し得るか否かが決定可能である、すなわち、行為の依存する文脈が存在し得るとするならば、それは、たとえ行為の累積的な帰結として生成される秩序であったとしても、行為の意図的な設定にはよらないことが明らかになる。 言い換えれば、行為の依存する文脈は、もしそれが存在し得るとするならば、行為の累積的な帰結からは必ずしも独立していないにも拘わらず、行為の意図的な帰結からは全く独立しているのである。 (*3) 行為の発効し得るか否かを決定する根拠、言い換えれば、行為を根拠付けあるいは正当化する文脈に対する言及の総てが、自己言及あるいは自己回帰の行為となる訳では必ずしもない。 ある特定の行為秩序を正当化する文脈、すなわち、ある特定の社会ゲームを構成するルールに対する言及は、必ずしも自己に回帰する言及とはならず、ある特定の行為秩序あるいは社会ゲームを制御さらには設定する行為は常に可能である。 しかし、この場合、ある特定の文脈あるいはルールに言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールは、差し当たり、言及の対象になっていない。 もちろん、ある特定の文脈に言及する行為を正当化する文脈それ自体に対する言及も、常に可能である。 しかも、そのような言及は無限に遡及し得る。 何故ならば、文脈あるいはルールの全体に言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールに対する、新たな言及が、常に可能なのであるから、もとの言及は、文脈あるいはルールの全体を対象とする言及とは決してなり得ないのである。 このことは、文脈あるいはルールの全体に対する言及が、もし存在し得るとするならば、それは、自らを正当化する文脈あるいはルールそれ自体をも対象とする言及、すなわち、自己言及あるいは自己回帰の行為とならざるを得ず、そのような言及の発効し得るか否かを決定することは、すなわち、そのような言及の行為そのものが、原理的に不可能となるのである。 従って、ある特定の文脈によって正当化される行為秩序、あるいは、ある特定のルールによって構成される社会ゲームの制御さらには設定ならばいざ知らず、行為秩序あるいは社会ゲームの全体を対象とする制御さらには設定の行為は、原理的に不可能とならざるを得ない。 すなわち、行為秩序あるいは社会ゲームの全体に対する制御さらには設定は、自己回帰的な行為であらざるを得ないがゆえに、不可能となるのである。 (*4) 自生的秩序やルール、あるいは言語ゲームといった、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な遂行としてのみ示されるという意味において、行為累積的である。 行為は、自らの文脈としての《遂行的なるもの》に、自らの発効し得るか否かを依存しているという意味において、文脈依存的である。 しかし、《遂行的なるもの》の全体を対象とする行為は、自らの依存する文脈をも対象とせざるを得ないという意味において、自己回帰的であり、自らの発効し得るか否かを決定し得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》全体を対象とする行為は、自己回帰的であるがゆえに不可能なのである。 従って、行為の累積である《遂行的なるもの》に、行為が自らの発効し得るか否かを依存したとしても、《遂行的なるもの》の全体は行為の対象とはなり得ないのであるから、必ずしも矛盾は生じない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な帰結であるにも拘わらず、行為の意図的な対象とはなり得ないがゆえに、行為の規範的な文脈となり得るのである。 (*14) 累積的、規範的、暗黙的な事態としての《遂行的なるもの》と、社会との同一性は、本書に述べた社会哲学の最も基本的な命題である。 すなわち、社会は、《遂行的なるもの》と同様に、行為の累積的な遂行それ自体であるという意味において、累積的であり、また、行為の発効し得るか否かの依存する文脈であるという意味において、規範的であり、さらに、その全体を対象とする行為の自己に回帰するがゆえに不可能であるという意味において、暗黙的である。 保守主義は、累積的な伝統と、規範的な権威と、暗黙的な偏見との擁護し得ること、あるいは、擁護すべきことを見出すことによって、この意味における社会を、近代において初めて発見したのである。 保守主義のこのような捉え方は、保守主義を、言わば社会学として捉えることに外ならない。 言い換えれば、本書は、保守主義の伝統の中に、社会学の最良の部分を見出そうとする試みなのである。 なお、保守主義の社会学的な側面以外の諸相については、次節において簡単に検討したい。 (他は省略) 第六章 解釈学的社会学としての保守主義 (省略) ■3.まとめ (作成中) ■4.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 以下は最新コメント表示 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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■1.はじめに 当サイトでは自由で寛容な価値多元的社会を支える憲法論の基礎となる法概念論として、H. L. A. ハートの法=社会的ルール説を幾つかのページで紹介している。 ※「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1961年にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。(以下のモデル図参照。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照) 当ページは、この①ハートの法概念論(ルール論)と密接に関連しつつ、同じく自由主義社会を支える基礎理論を提供している②ハイエク(自生的秩序論)、③J. L. オースティン(言語行為論)、さらに④ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム論)といった各々の理論の相互的な関連性を鋭く分析した落合仁司氏(同志社大学教授)の論説を紹介し、現代保守主義の社会理論について考察を深めることを目的とする。 関連ページ 法と権利の本質 ※サイズが画面に合わない場合は こちら 及び こちら をクリック願います。 <目次> ■1.はじめに ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋▼まえがき ▼第一章 世紀末の新しい保守主義◆1.世紀末の《近代》 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 ▼第二章 合理と個体◆1.産業主義と合理主義 ◆2.実証主義と記述主義 ◆3.民主主義と個体主義 ◆4.主権主義と表出主義 ▼第三章 暗黙の言及◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - ◆2.外的視点 - ハート - ◆3.発語的行為 - オースティン - ▼第四章 規範の文脈◆1.規範的秩序 - ハイエク - ◆2.内的視点 - ハート - ◆3.発語内の力 - オースティン - ▼第五章 慣行と遂行◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 ◆2.新しい保守主義 ◆3.保守主義とは何でないか ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義◆1.解釈学的社会学へ ◆2.自己関係性の構造 ◆3.基礎付けの不可能 ◆4.《選択肢》の不在 ◆5.再び伝統とは何か ▼原注 ■3.まとめ ■4.ご意見、情報提供 ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋 『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン 』(落合 仁司:著) ①F.A.ハイエクの自生的秩序論、②H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)、③J.L.オースティンの言語行為論という20世紀哲学の諸潮流の内的関連性を、④ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と絡めながら解説し、社会哲学の観点から「20世紀以降の保守主義の社会哲学」を論じた名著。書中に多々登場する哲学・思想用語を一つ一つ辞書等でチェックしていく根気さえあれば、論旨明快で読みやすいはず。 ▼まえがき ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 本書は、現代における保守主義についての、社会哲学的な論述である。 従って、現代の保守主義を対象とした、政治学を始めとする社会科学的な分析とは、差し当たり、関係ない。 本書は、現代の保守主義を、経済哲学や法哲学さらには言語哲学を含む、社会哲学の地平において解釈する試みなのである。 しかし、20世紀末の現代において、何故に、保守主義を、しかも、社会科学ならぬ社会哲学の地平において、取り上げねばならぬのか。 今世紀末は、人間の《或るもの》からの離脱不能性と、人間による《或るもの》の操作不能性とを、倦むことなく語り続けて来た保守の精神からは、恐らく最も遠い処に漂い着いた時代である。 すなわち、今世紀末は、人間の《総てのもの》からの個体的な解放と、人間による《総てのもの》の合理的な制御とを、飽くことなく欲し続けて来た啓蒙の精神が、人類の最も誇るべき価値であるかの如き高みに昇り詰めた時代なのである。 そのような啓蒙主義への、最大の敵対者であった筈の保守主義を、今、何故に、しかも、社会哲学などという非科学的な地平において、取り上げねばならぬのか。 言い換えれば、あたかも啓蒙の進歩主義によって完全に領導されているかに見える、近代社会の唯中にあって、伝統の持続とその解釈などという営為が、果たして、いかなる意味を持ち、また、いかにして可能であるのか。 保守主義の社会哲学、すなわち、伝統の持続とその解釈という営為を引き受けるに当たって、これらの問いを避けて通る訳にはいかない。 しかし、これらの問いに答えることは、外ならぬ本論の課題である。 ▼第一章 世紀末の新しい保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.世紀末の《近代》 我々の時代は、機械と快楽の時代に見える。 産業技術と消費大衆の支配の時代である。 なるほど、この二世紀の間に、産業技術は、蒸気機関と鉄道輸送から電気機器と自動車交通へ、さらには情報処理機器とデータ通信へと大きく移行し、消費大衆は、ブルジョワジーとプロレタリアートから豊かな中間大衆へ、さらには新しい快楽的個人へと激しく変遷してきている。 しかし、技術的な合理主義と大衆的な個人主義の一貫した進展という意味において、この二世紀は、むしろ連続した平面の上にある。 すなわち、我々の時代は、フランス革命と、産業革命さらにはそれに引き続く民主革命とによって解き放たれた、合理主義と個体主義、あるいは産業主義と民主主義という、加速度運動の相の下に捉えられるのである。 言い換えれば、我々の時代は、19世紀と20世紀の200年間を通じて、あらゆる世界を席巻してきた、産業化と民主化という激浪の波頭に位置しているのである。 ここでは、この産業主義と民主主義の二世紀を、《近代》と呼ぶことにしたい。 従って、我々の時代は、20世紀末の《近代》と言うことになる。 この産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義の《近代》を称揚する思想は枚挙に暇がない。 近代自然法論や社会契約論、さらには啓蒙思想は言うに及ばず、19世紀以降に限っても、功利主義やマルクス主義、さらにはそれに引き続く、実証主義的な社会科学(たとえば分析法学、新古典派及びケインズ派経済学、機能主義社会学など)やマルクス主義的な社会科学、といった社会思想が、産業化(合理化)と民主化(固体化)の双方あるいはいずれか一方を、積極的に推進すべく、その言論を展開している。 産業主義(合理主義)あるいは民主主義(個体主義)を称揚する、これらの社会思想こそ、このニ世紀を通じて、進歩主義と呼び習わされて来た思想に外ならない。 《近代》の進歩主義は、功利主義とマルクス主義とに端を発する、《近代》社会科学によって担われて来たと言っても、決して言い過ぎではないのである。 《近代》の進歩主義は、言うまでもなく、極めて多様な傾向を孕んでいる。 そこには、自由主義的な傾向も存在すれば、社会主義的な傾向も存在する。 しかし、いずれの傾向も、その力点の置き方に多少の違いはあるとしても、合理主義と個体主義を信奉することにおいて、いささかも選ぶ処はない。 《近代》進歩主義は、人間とその社会を、理性によって目的合理的に制御し得るし、また、そうすべきである、と考える合理主義と、人間とその社会を、個体的な欲求充足に還元し得るし、また、そうすべきである、と考える個体主義とを、その共通の前提としているのである。 進歩主義は、このニ世紀に亘って、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放という二つのスローガンを、倦むこと無く主張し続けてきた。 このニ世紀に亘って進行した、産業化あるいは管理化と、民主化あるいは大衆化という二重革命は、このような進歩主義を、その思想的な前提とし、また帰結ともしているのである。 しかし、このような産業化と民主化の進行、あるいは進歩主義の哲学に対する懐疑もまた跡を絶たない。 合理主義と個体主義の哲学に対する懐疑は、《近代》思想史のいわば裏面を形成している。 たとえば、20世紀を代表する、ウィトゲンシュタインや日常言語学派、あるいは現象学や解釈学、さらには構造主義やポスト構造主義の哲学は、多かれ少なかれ、合理主義と個体主義に対する懐疑を、その発条(バネ)として展開されている。 しかし、合理主義と個体主義に対する懐疑の歴史において、決して逸することの許されないのは、フランス革命の産み落とした合理主義と個体主義の狂気に対して、敢然と立ち向かったバーク以来の保守主義の伝統である。 保守主義は、産業化と民主化の進行とともに、怒涛の如く進撃してきた進歩主義の哲学に抗して、200年このかた、《近代》への懐疑の哲学を守り続けてきた。 合理主義と個体主義に対する懐疑の伝統は、取りも直さず、《近代》保守主義の伝統に外ならないのである。 この意味において、ウィトゲンシュタインや日常言語学派の哲学といった20世紀思想もまた、《近代》保守主義の伝統の現代的な表現である、と言って言えなくもない。 本書もまた、このような《近代》保守主義の伝統に棹さして、20世紀末における、その今日的な表現を模索する試みに外ならないのである。 《近代》の保守主義は、人間とその社会を、理性によって意識的に制御する可能性を疑う。 人間の行為は、合理的には言及し得ない偏見や暗黙知を前提として始めて可能になるのであって、意識的には制御し尽くせないからである。 また、保守主義は、人間とその社会を、個体の意図に還元する可能性を疑う。 人間の行為は、個体には帰属し得ない権威やルールに依存して始めて可能になるのであって、その意図に還元し尽くせないからである。 このように合理主義と個体主義を懐疑する立脚点こそ、伝統あるいは慣習と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統あるいは慣習とは、行為の持続的な遂行の結果として生成される秩序であるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御不能であり(偏見あるいは暗黙知)、かつ、行為の主観的な意図には還元不能である(権威あるいはルール)何ものかである。 言い換えれば、伝統あるいは慣習とは、人間の行為によって生成される秩序であって、自らの存在を理由付けるいかなる根拠も持ち得ない(偏見あるいは暗黙知)にも拘わらず、自らは行為の当否を判定する根拠となり得る(権威あるいはルール)というものなのである。 保守主義は、このような伝統あるいは慣習こそが、人間とその社会の存在を辛くも可能にするのである、と主張する。 保守主義から見れば、合理主義は、人間とその社会の制御不能性を閉脚した、理性の専制支配に外ならず、また、個体主義は、人間とその社会の還元不能性を無視した、個体のアナーキーに外ならない。 《近代》保守主義は、このように合理主義と個体主義とを懐疑することによって、《近代》進歩主義の蛇蝎の如く忌み嫌う、伝統や偏見や権威やへの信仰を擁護するのである。 本書は、このような保守主義の、20世紀における新たな相貌を彫塑してみたい。 元来、保守主義は、その時代における進歩主義の様々な意匠に応じて、幾度となく変貌を繰り返しながら、進歩への疑いを懐き続けて来た。 保守主義の歴史は、進歩への懐疑という動機による、変奏曲の歴史なのである。 従って、我々の時代の保守主義もまた、進歩主義の新機軸に応じて、新たな衣装を纏いつつ立ち現われている筈である。 本書は、そのような20世紀末の新しい保守主義の容貌を、明瞭に写し撮ってみたいのである。 何故ならば、保守主義を論ずることは、産業化と民主化の行き着く処まで行き着いてしまったかに見えるこの時代、技術的な管理と快楽的な大衆ばかりが跳梁跋扈するこの時代を懐疑する、最も確かな立脚点となり得るからである。 さらにまた、保守主義を論ずることは、合理主義と個体主義とによって塗り固められた、《近代》社会科学の城壁に、蟻の一穴を穿つ社会哲学の、最も確かな橋頭堡となり得るからである。 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 我々の時代の保守主義を論ずることは、しかし、かなり逆説的な課題である。 バークが《近代》保守主義の生誕を高らかに宣言した時代には、その背景に、土地と議会を支配したジェントルマン達の貴族主義が、確固として存在していた。 保守主義は、ブルジョワ的産業主義と大衆的民主主義に反対する、ジェントルマンのイデオロギー足り得たのである。 しかし、ニ世紀に亘る、産業化と民主化の津波のような進撃が、あらゆる種類の貴族主義を粉砕し尽くし、技術と大衆が完全に勝利を収めた、我々の時代の保守主義には、いかなる階層的な基盤も期待し得ない。 我々の時代の保守主義は、支配階層のイデオロギーといったものではあり得ないのである。 我々の時代を支配しているのは、むしろ技術と大衆なのであって、それらを称揚する思想は、進歩主義でこそあれ、保守主義などでは全くあり得ない。 我々の時代の支配的なイデオロギーは、支配的であるがゆえに保守的であるという訳には、必ずしもいかないのである。 しかし、支配的であるものを擁護することが、必ずしも保守的であるとは限らないという状況は、かなり逆説的であると言う外はない。 このような状況において、保守主義は、いかに立ち現われるのであろうか。 我々の時代の保守主義を論ずるためには、この問いを避けて通る訳にはいかない。 これが、保守主義を20世紀末の今日において論ずることの引き起こす、差し当たりの困難である。 保守主義を論ずることは、しかし、より根本的な困難を孕んでいる。 保守主義を論ずることは、取りも直さず、自然発生的に形成される伝統や、合理的には言及し得ない偏見や、個体的には帰属し得ない権威やを論ずることに外ならないが、これらの伝統や偏見や権威やは、むしろ言葉によっては語り得ず、ただ行為において示される類いのものなのである。 すなわち、保守主義を論ずることは、語り得ぬものを語らねばならぬという困難を抱え込むことに等しいのである。 しかし、この困難は、保守主義が、合理主義と個体主義を否定することにおいて始めて成立したという、その出生の秘密の内に、既に孕まれたアポリア(※注釈:aporia 論理的正解を見出し辛い難問)である。 すなわち、保守主義は、客観的には言及し得ず、主観的には帰属し得ない、主客いずれでもあり得ない、言い換えれば、「~ではない」としか語り得ないものとして、この世に産み落とされたのである。 従って、保守主義を論ずることは、極めて逆説的な作業となる。 すなわち、保守主義は、進歩主義の称揚する諸価値を否定する作業の積み重ねの彼方に、いわば描き残された空白として、立ち現われて来るのである。 この意味において、保守主義の擁護する伝統は、《空の玉座》である。 すなわち、一切の存在は玉座を指し示しているにも拘わらず、そこに鎮座すべき王は永遠に不在なのである。 現代の保守主義を論ずることに纏わる、これらの困難を切り抜けるために、本書は、20世紀における、必ずしも保守主義者とは自認していない、合理主義と個体主義の批判者達の言説を取り上げてみたい。 何故ならば、現代の保守主義は、支配的なイデオロギーを喧伝している、自称保守主義者達の言説によく現れているとは考え難いからであり、また、現代の保守主義と言えども、合理主義と個体主義とを否定する言説の隙間にしか、決して立ち現われ得ないからである。 本書は、このような現代における啓蒙の批判者として、F・A・ハイエク、H・L・A・ハート、J・L・オースティンの三者を取り上げることにする。 言うまでもなく、現代における合理主義と個体主義の批判は、この三者のような、ウィトゲンシュタインに近い筋や日常言語学派からのそれのみならず、現象学や解釈学からのそれ、あるいは、構造主義やポスト構造主義からのそれといった、様々な潮流によって担われている。 20世紀思想の主だった潮流は、押しなべて合理主義と個体主義の批判に従事していると言っても、決して過言ではないのである。 それらの諸潮流の中から、主としてイギリス(あるいは英米圏)をその活躍の舞台とした、ハイエク・ハート・オースティンの三者を選択する理由は外でもない。 このニ世紀の間、《近代》進歩主義に抗して、最も激しく戦い抜いてきた、イギリス保守主義の伝統に、ささやかな敬意を表したいからである。 イギリスは、産業革命と民主革命の祖国であるとともに、《近代》保守主義のいつかは還るべき《イェルサレム》なのである。 1 フリードリヒ・A・ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国爛熟期のウィーンに生まれた。ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが母親の又従姉妹に当たる家系の出自である。ウィーン大学で法学、政治学、オーストリア学派の経済学を学ぶとともに、1927年よりオーストリア景気変動研究所の所長を勤めた。しかし、オーストリアの政治状況下では教授職を得難く、英米圏に渡り、1931年よりロンドン大学、1950年よりシカゴ大学に奉職する。その後、1962年に西ドイツのフライブルグ大学に戻った後、1967年に退職した。1974年にはノーベル経済学賞を受賞している。主著『法・立法・自由』の出版は、第一巻「規則と秩序」が1973年、第二巻「社会的正義の幻想」が1976年、第三巻「自由人達の政治秩序」が1979年である。ハイエクは、社会の全体を合理的に管理し得るとする技術的合理主義あるいは産業主義と、その政治経済的表現であるあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉主義、行政国家など)を、理性の思い上がりであるとして根底的に論駁するとともに、大衆の意志に絶対の主権を授与する無制限な民主主義こそが、隷従への隧道(※注釈:すいどう、①墓場へと降りていく道、②トンネル)であるとして厳しく批判する。ハイエクは、この技術的合理主義と大衆的民主主義への反駁の立脚点として、行為の累積的な結果として生成されるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御され得ず、また、行為の主観的な意図にも還元され得ない(行為の)秩序としての、自生的秩序(spontaneous order)の概念を提出する。この自生的秩序という概念こそが、保守主義を論ずるに当たって、是非とも参照されねばならないキー・コンセプトなのである。 2 ハーバート・L・A・ハートは、1907年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、弁護士を経て、1954年より母校に戻り、1968年に退職した。主著『法の概念』の出版は1961年である。言うまでもなくハートは、英米圏の法哲学を代表する社会哲学者であるとともに、オックスフォード日常言語学派の最も重要なメンバーの一人である。ハートは、法を含むルールを、最高、無制限の主権者の命令あるいは意志に帰属させる、個体主義的な社会論の不可能性を緻密に論証する。ハートにとって、(内的視点から見た)ルールとは、個体の行為の妥当性を判定する理由となるものであって、個体の意志にはついに帰属させ得ない存在なのである。しかし、ハートは、ルールについての個体主義的あるいは主観主義的な理解を拒絶するからと言って、当為判断の理由たるルールについての客観主義的あるいは自然主義的な理解に与する訳ではいささかもない。ハートにとって、(外的視点から見た)ルールとは、あくまでルールに従っているという慣習的な行為の中にのみ見出されるものであって、いまここに遂行されているという事実以外の、いかなる客観的あるいは絶対的な根拠も持ち得ない存在なのである。すなわち、ハートにとって、ルールとは、自らはあらゆる行為の妥当性を判定する理由となるにも拘わらず、自らの妥当性を根拠付けるいかなる理由も持ち得ずに、ただ慣習的に従われている存在に外ならないのである。このようなハートのルール論が、保守主義の論ずべき点について、極めて大きな示唆を与えることは明らかであろう。このようなルール論の形成に当たって、日常言語学派の哲学、わけてもジョン・L・オースティンとの交流が、決定的な役割を果たしたことは言うまでもない。 3 ジョン・L・オースティンは、1911年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、1933年より母校に奉職し、1960年に没した。主著『いかにして言語とともに行為するか』(※注釈:『How to Do Things with Words』)は、1962年の出版である。言うまでもなくオースティンは、20世紀後半のイギリス哲学を代表する日常言語学派の第一人者である。オースティンは、言語は何等かの事実を記述するものであり、言葉の意味はその記述対象である、従って、事実によってその真偽を検証し得ない言明は無意味であるとする、実証主義(※この文脈では論理実証主義 logical positivism の「意味の検証可能性テーゼ/原理 verifiability principle」 を指すものと思われる)あるいは記述主義の呪縛から言語を解放する。オースティンによれば、言語は、命令や判定や約束やの発話に見られるように、それ自体が社会的な行為の遂行なのであって、事実の記述に帰着し得るものではなく、その真偽を検証し得なくとも有意義なのである。しかし、オースティンは、言語は客観的な事実の記述ではなく行為の遂行であると主張することによって、あらゆる発話は発話する個体の主観的な意図や情緒や欲求やの表出である(※注釈:情緒主義 emotivism)と主張したい訳ではない。オースティンによれば、発話の社会的な行為としての効力は、その発話の適切性を判定する慣習的なルールに依存するのであって、発話する個体の主観的な意図には帰属し尽くせないのである。このようなオースティンの言語行為(speech act)論は、保守主義を論ずることの複雑な様相を照らし出す。保守主義を問うには、人間にとって最大の伝統あるいは慣習である言語への問いを、その射程に入れねばならないのである。 彼ら三者は、無視し得ない差異を留保しつつも、合理主義あるいは実証主義と、個体主義あるいは主権主義とに対する懐疑を共有している。 すなわち、彼らは、その力点の置き方にかなりの相違を認めるとしても、世界に対する、合理的な制御あるいは言及の可能性を疑い、また、社会の、個体的な意志への還元あるいは帰属の可能性を疑っているのである。 さらに、彼らが、そのような懐疑の立脚点として提出する、自生的秩序、ルール、言語行為の諸概念もまた、ある幾つかの特徴を共有している。 すなわち、これらの諸概念は、行為の結果として慣習的に生成されるにも拘わらず、(制御や言及やといった)行為の対象とはなり得ない暗黙的な事態であり、かつ行為を妥当させる規範的な根拠となる、といった諸特徴のいずれかを、必ず指し示しているのである。 このような自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念が、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念と、言わば家族的に類似していることは、注目されてよい。 言語ゲームは、人間の行為の遂行は総て言語ゲームの遂行とならざるを得ないという意味において、行為を拘束する(規範的な)事態であり、また、自らの総体を対象とした(その正当化をも含む)いかなる言及をも許さないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、言語ゲームとは、自らにあらゆる行為を従属させるとともに、自らは如何なる根拠をも保持し得ない、いわば慣習的な事態なのである。 このような言語ゲームの概念は、自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念と、そのかなりの特徴を共有している。 保守主義を論ずるに当たって、言語ゲーム論は、極めて魅力的な題材を提供しているのである。 しかし、本書は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を、明示的には取り扱わない。 一つには、ウィトゲンシュタインのテクストを解釈する作業が、解釈の可能性それ自体をも含めて、かなりの錯綜した課題と見受けられるからであり、二つには、言語ゲーム論と、わけてもハートのルール論との相互関係をめぐる、極めて鮮やかな分析が、近年、橋爪大三郎によって為されているからである(※原注1:橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論-ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』勁草書房 1985)。 従って、本書に現れる言語ゲーム論は、ハイエク・ハート・オースティンのテクストの解釈に投影された、その射影に過ぎない。 しかし読者は、本書に落とされた、ウィトゲンシュタインの長い影を、やはり鮮やかに見いだす筈である。 何故ならば、ウィトゲンシュタインこそが、20世紀思想の諸結果と、保守主義の伝統とを結び付ける、あの《失われた環》(※注釈:missing link)に外ならないと想われるからである。 以上のような、ハイエクの自生的秩序論、ハートのルール論、オースティンの言語行為論、さらには、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が、現代における保守主義の在処(ありか)を発見する、最も有力な手掛かりとなることは明らかであろう。 保守主義の変わらぬ拠り処は、遂行的に生成される伝統であり、合理的には言及し得ぬ偏見であり、個体的には帰属し得ぬ権威であった。 自生的秩序やルールや言語行為やさらに言語ゲームといった、20世紀思想の指し示すものは、遂行的に生成される慣習的な事態であり、合理的には言及し得ぬ暗黙的な事態であり、個体的には帰属し得ぬ規範的な事態である。 従って、保守主義とこれら20世紀思想の間には、ほとんど完全な同型対応が存在していることになる。 あるいは、これら20世紀思想は、むしろ保守主義の現代における新たな表現であると言ってもよい。 すなわち、保守主義は、これら20世紀思想に身を託して、この20世紀末の現代に立ち現われた、と言って言えないことはないのである。 しかし、これらの議論の当否は、本論に委ねることにしよう。 ▼第二章 合理と個体 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.産業主義と合理主義 産業主義と民主主義を懐疑することなど、しかし、この20世紀末の現代において、果たして可能なのだろうか。 我々の日々の生は、産業化と民主化の奔流の中で、ただ木の葉のように翻弄されているに過ぎないのではないか。 我々は誰しも、もちろん私自身をも含めて、何程かは、効率的な経済人であり、また、快楽的な大衆人なのである。 このような我々の日常を懐疑することは、つまるところ、我々の日常の一切を否定し去ることになるのではないか。 しかし、およそ保守主義を論じようとする姿勢の内に、我々の日常の一切を否定し去ろうとする態度の含まれよう筈もない。 いやしくも保守主義と呼びうる思想には、いまここに生きられている現実への肯定が、何程かは含まれている筈である。 従って、現代における保守主義もまた、この産業主義と民主主義に魅入られた20世紀末の現実の唯中に、肯定すべき某(なにがし)かの価値を見い出していることになる。 あるいは、そのように肯定されるべき現実こそが、産業主義と民主主義に対する懐疑の疑い得ぬ立脚点なのである、と言い換えてもよい。 保守主義とは、いまここに生きられる世界に定位して、この世界の合理的な制御や個体的な還元やの、むしろ幻影であることを暴き出す営為に外ならないのである。 それでは、産業主義と民主主義の幻影は、何故に疑い得ぬ現実の姿を取って、立ち現れ得るのであろうか。 言うまでもなく、産業主義とは、絶えざる技術革新を起爆力とする、人間と社会の不断の再組織の運動である。 この運動によって追求されているのは、自然や社会や人間自身に対する制御能力の拡大、生産力の増強、効率の上昇、合理化といった、目的達成のために利用可能な手段の拡大と、その有効適切な選択の推進である。 この手段的な可能性の拡大と、その効率的な利用を追求する態度こそ、合理主義と呼ばれるに相応しい。 マックス・ウェーバーの言う目的合理性であり、タルコット・パーソンズの言う能動的手段主義である。 すなわち、産業革命によって解き放たれたこの産業主義という運動は、合理主義をその中核的な価値としているのである。 もっとも、合理主義という言葉は、効率的な手段の追求という意味に限定されている訳ではない。 元来、合理主義とは、人間理性の尊重、あるいは理性による支配の貫徹の謂であって、その理性をどのように捉えるかによって、様々な意味に分散し得る。 理性を、目的に対して効果的な手段を選択する能力として捉えるならば、いまここで述べた合理主義の意味が出て来よう。 この意味における合理主義を、他と区別する場合には、手段的あるいは機能的合理主義と呼ぶことが多い。 この手段的合理主義と、いわゆる近代合理主義との関係は、いささか微妙である。 なるほど、手段的合理主義は、主体がその目的い適合するように客体を制御する能力を良しとするのであるから、主体と客体の分離を前提するという意味においては、近代合理主義と軌を一にしている。 しかし、手段的合理主義は、必ずしも論理整合的に推論する能力としての理性のみによって、効率的な手段を選択し得るとは考えないのであって、近代経験主義と対立する意味における近代合理主義とは、一線を画しているのである。 この意味においては、手段的合理主義は、むしろ近代経験主義の後裔をもって自認している、各種の実証主義に近しい。 主観とは分離された客観的な事実によって、その真偽を検証し得る命題のみが有意味であるとする実証主義(※注釈:論理実証主義 logocal positivism)は、選択した手段のもたらす結果についての実証的な知識こそが、効果的な手段の選択には不可欠であると考える手段的合理主義の、認識論的な前提となっているのである。 あるいは、むしろ検証可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える実証主義は、制御可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える手段的合理主義の、最も典型的な現れであるとも言えよう。 行為論における手段的合理主義と、認識論における実証主義とは、言わば同型的に対応しているのである。 ハイエクが批判するのは、このような手段的合理主義である。 ハイエクの用語系では、手段的合理主義は、構成的合理主義(constructivist rationalism)と呼ばれる(※注釈:ハイエク著『法と立法と自由』では「設計主義的合理主義」と翻訳されているが、こちらの方が良訳である)。 構成的合理主義とは、およそ人間の行為と社会は、何等かの目的の達成のために、意識的に組織され管理され計画され操作され制御され構成されており、また、そうされるべきだとする考え方である。 すなわち、人間の行為と社会は、それを対象として捉える人間の理性によって、意識的に構成し得るし、また、すべきだと言うのである。 ハイエクによれば、この構成的合理主義の淵源は、デカルトの合理主義に遡り得る。 デカルトによる思考する主体と思考される客体の分離は、構成的合理主義の必要条件を準備するものであり、また、明証的な前提から論理的に演繹された知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとするデカルトの合理主義的確証主義は、意識的に計画され構成された行為のみが、目的達成にとって有効な行為であるとする構成的合理主義と、その精神の態度を共有するものである。 すなわち、明晰で意識的な理性によって根拠付けられたもののみを信仰するという態度において、構成的合理主義は、デカルト的合理主義の紛れもない後裔なのである。 しかし、そうであるからといって、この構成的合理主義が、実証主義と対立する訳ではいささかもない。 実証主義とは、客観的な事実によって検証可能な知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとする経験主義的確証主義なのであって、明晰な理性によっても疑い得ぬ絶対確実な知識を希求する確証主義という意味においては、デカルト的合理主義と選ぶ処はないのである。 従って、構成的合理主義とは、意識的な理性によっては確証され得ない一切のものを懐疑する、過激な懐疑主義の運動なのであるともいえよう。 このような構成的合理主義から見れば、伝統や慣習といった、必ずしも意識的に設計された訳ではない社会制度は、合理的な根拠のない偏見や因習として侮辱される。 伝統や慣習の軛(くびき)から解き放たれて、社会を合理的に再編成していく能力こそ、人間の理性には相応しいと言うのである。 ハイエクは、何等かの具体的な目的を達成すべく意識的に設計された社会秩序を、組織(organization)あるいはタクシス(taxis)と呼ぶ。 すなわち、組織とは、あらゆる行為を、達成されるべき目的によって評価し、配列する社会である。 ハイエクによれば、社会主義はもとより、ケインズ的なマクロ経済政策や規制などのミクロ経済政策といった、市場経済への政府介入もまた、たとえば経済的福祉という目的を達成するために、社会を一つの組織に再編成しようとする試みに外ならない。 すなわち、福祉主義をも含むあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉国家、行政国家など)は、社会の総ての行為を、組織の目的に対する貢献によって評価し、配列しようとする試みなのである。 構成的合理主義、あるいは様々なタイプの社会主義は、社会を制御するための政策や手段をも含む総ての社会的行為を、それが社会にもたらすであろう帰結の、達成すべき目的に照らした優劣によって評価するのであるから、行為をその帰結によって評価するという意味における帰結主義(※注釈:consequentialism 結果主義。倫理学 ethics において、ある行為の価値は結果の良し悪しによって定まるとする学説)を含意している。 因みに、福祉主義あるいは功利主義は、典型的な帰結主義である。 この帰結主義が成功し得るためには、様々な行為のもたらす社会的な帰結の予測し得ることが不可欠である。 社会の制御を目指す政策や手段を含む様々な行為が、如何なる帰結を社会にもたらすかを予測し得て始めて、その合目的的な評価も可能になるのである。 従って、帰結主義、さらには構成的合理主義が、社会を合目的的に組織し得るか否かは、社会現象の予測可能性に懸かっていることになる。 言うまでもなく、意識的な理性に全幅の信頼を置く構成的合理主義は、社会現象の具体的な予測も原理的には可能であると、誇らしげに主張するのである。 この社会現象についての予測能力こそ、実証主義を標榜する社会科学の求めて止まぬものである。 実証主義的な社会科学は、社会を合理的に組織するための前提として役に立つ、社会予測を提供することを、その最終的な目的としているのである。 このような社会科学が標榜する実証主義とは、科学的な命題は、明証的な前提から論理的に演繹し得る命題か、あるいは、客観的な事実によって検証可能な命題のいずれかのみであるとする知識論である。 すなわち、社会をめぐる知識に対しても、真なる知識は、明晰な理性によっても疑い得ない絶対確実な根拠に基づいて判定されねばならぬとする、確証主義を要請しているのである。 ハイエクは、社会をめぐる知識に対する、このような実証主義あるいは確証主義の要請を、科学主義(scientism)と呼ぶ。 ハイエクによれば、経済学を始めとして、あらゆる近代社会科学は、この科学主義によって色濃く染め上げられている。 しかし、社会についての実証(確証)的な知識は、果たして可能なのであろうか。 あるいは、社会を、科学(主義)的な認識の対象となり得る、客観的な事実として把握することは、そもそも適切なのであろうか。 すなわち、社会制御の不可欠な前提である社会予測は、原理的に可能な行為なのであろうか。 ◆2.実証主義と記述主義 ここで、社会哲学においてしばしば混乱を引き起こす、認識論上の実証主義といわゆる法実証主義との関連について触れておきたい。 認識論上の実証主義とは、言うまでもなく、これまで述べてきた実証主義のことである。 これに対して、法実証主義(legal positivism)とは、最広義には、自然法(natural law)に対立する実定法(positive law)のみが法であるとする立場を意味する。 この最広義の意味における法実証主義は、自然法論の対抗思想という以上の意味を持たないので、むしろ、自然法論に対立させて、実定法論と呼ぶべきである。 この実定法論と呼ぶべき法実証主義は、自然法あるいは実定法の様々な解釈に依存して、極めて多義的であり得る。 その内には、ハートの擁護する法実証主義も、また、ハイエクの批判する法実証主義も含まれる。 次節以降に述べるように、ハートの擁護する法実証主義はより広義の、また、ハイエクの批判する法実証主義はより狭義のそれである。 このハイエクの批判するより狭義の法実証主義こそが、認識論上の実証主義と密接に関連しているのである。 詳しい議論は次節に譲るが、ハイエクの批判する法実証主義は、あらゆる法は人間が意図的に設定したものであるとする立場のことであり、さらには、それと関連したいわゆる価値相対主義のことである。 前者の立場は、言うまでもなく、構成的合理主義の法領域における現れであり、従って、認識論上の実証主義とは、意識的な理性の支配を貫徹させるという意味において、その精神の態度を共有している。 また、後者の価値相対主義は、事実と価値の峻別をさしあたり前提とすれば、認識論上の実証主義の、価値論における論理的な帰結となっている。 ハイエクの批判する法実証主義は、まさに法的な実証主義と呼ばれるに相応しいのである。 しかし、ハートの擁護する法実証主義は、必ずしも認識論上の実証主義と関連している訳ではない。 ハートの擁護する法実証主義は、むしろ実定法論と呼ばれるに相応しいのである。 ハートの擁護する法実証主義は、法が、人々の行為の当否を判定する法的な理由として有効でるか否か、あるいは、法が、現行の法体系の下で法としての効力を持つか否かという問題と、法が、道徳や慣習やさらには自然法やといった、実定法以外の当為規範から見て正しいものであるか否かという問題とを峻別する立場である。 すなわち、法が(その法体系の究極の承認のルールによる承認によって)法として妥当することと、それが道徳的に不正でないこととは、まったく別の問題だと言うのである。 この立場は、法の妥当性を、実定法体系の内部問題として捉えるという意味において、典型的な実定法論となっている。 しかし、ハートの言う実定法体系は、後に述べるように、実は慣習の一種である究極の承認のルールを含む、様々なルールの体系のことであって、制定法や判例法やあるいは慣習法やといった、普通にイメージされる実定法を、遥かに超えたものなのである。 このように拡張された実定法論は、認識論上の実証主義(あるいは確証主義)とは、関連がないと言うよりも、むしろ対立するものである。 何故ならば、後に詳しく議論するように、究極の承認のルールは、意識的な理性によっては語り得ぬ、ただ行為において示されるのみ(従って確証不能)のルールをも含んでいるからである。 ハートは、法の妥当性とその道徳的な価値を峻別するからといって、法の正邪についての道徳的な批判を認めない訳では些(いささ)かもない。 むしろ、そのような批判を明晰に行うためにこそ、法と道徳を峻別するのである。 言うまでもなく、自然法論は、法の妥当性をその道徳的な価値によって判断する。 すなわち、道徳的に不正な法は法ではないと言うのである。 従って、道徳的に不正な法には、それが法ではないから従わないということになる。 これに対して、ハートは、道徳的に不正な法も法である、しかし、それに従うか否かは(法的ではなく)道徳的な選択の問題である、と主張する。 ハートにとって、問われるべきは、不正な行為は為すべからずという一つの道徳的要請と、妥当な法には従うべしというもう一つの道徳的要請との間の選択である。 ハートによれば、自然法論は、このような道徳的選択の問題を、法の妥当性という問題にすり替えることによって、議論を混乱させていることになる。 自然法論の誤りは、以上に尽きるものではない。 自然法論は、法の妥当性を判断する根拠となる道徳的な価値規範を、自然法と呼ぶ。 この自然法は、自然法則と同様に、意識的な理性によって発見され得る客観的な存在であると見做されている。 しかし、客観的な存在事実から当為規範を発見し得るとする目論見は、事実命題「~である」から当為命題「~すべし」は演繹し得ないとするいわゆる方法二元論によって、容易に挫折させられる。 いわゆる自然主義的誤謬である(※注釈:naturalistic fallacy 非倫理的な[事実的]前提から倫理的結論を導くことができるとする誤謬。G. E. ムーアの仮説)。 ハートの批判する自然法論は、およそこのようなものである。 しかし、ハートは、法理論における重要な対立が、自然法論と実定法論との対立に限られると主張したい訳ではない。 むしろハートは、法理論における主要な対立を、実定法論の内部にあると見ている。 ハートは、広義の法実証主義の一部に、誤れる法理論が存在すると見ているのである。 このハートの批判する法理論は、次節以降に述べるように、ハイエクの批判する狭義の法実証主義と極めて近い。 ハートも、そしてまたハイエクも、自然法論ではなく、狭義の法実証主義でもない、第三の法理論を探求しているのである。 それはさておき、(認識論上の)実証主義は、極めて素朴なレベルでかなりの信頼を得ているようである。 たとえば、実証主義は、経験に学ぶ謙虚な態度であって、極めて当然のことだといった具合である。 実証主義が、経験に学ぶ謙虚な態度であるどころか、生きられる経験を閑却した理性の傲慢以外の何ものでもないことは、次章において詳しく展開するが、しかし、実証主義が、一見、当然のことに思えてくる事情については、少しく検討するに値しよう。 確かに、実証主義は、手段的合理主義の認識論における現れである。 認識もまた人間の行為の一つなのであるから、意識的な理性によって操作可能な行為のみが有効な行為であるとする手段的合理主義が、意識的な理性によって確証可能な認識のみが有効な認識であるとする実証主義を含意することは見やすい。 しかし、実証主義への素朴な信頼は、それが手段的合理主義の現れであることのみによる訳ではない。 そこには、認識に、わけても言語による認識に固有の事情が介在する。 我々は、言語を、何等かの事実を記述するものであると素朴に考えている。 あるいは、言葉の意味は、その言葉が指示する対象的な事実にあると考えている。 従って、ある言葉が意味を持つためには、その言葉が何等かの事実(ある事態が存在しないという事実も含む)と対応していなければならぬと考えていることになる。 さらに、ある言葉が真実であるか否かを判定するためには、その言葉と対応する事実が存在するか否かを確かめればよいと考えていることも多い。 このような言語に対する考え方を、オースティンは、記述主義と呼ぶ。 この記述主義こそが、実証主義への素朴な信頼を支える言語観なのである。 オースティンによれば、記述主義(descriptivism)とは、あらゆる言明は何等かの事実の記述であるかあるいは無意味であり、かつ、有意味な言明は真か偽のいずれかであるとする立場である。 言うまでもなく、この立場は、真偽の検証可能な言明のみが有意味であるとする、実証主義とほとんど同じ立場である。 あるいは、むしろ各種の実証主義に共通する言明観を抽象したものが記述主義であると言ってもよい。 オースティンは、次章で見るように、この記述主義の言語観を、まず、徹底的に解体するのである。 オースティンは、また、記述主義の批判と並行して、記述主義的な言語観が何処からよって来るのかについても検討している。 この記述主義の由来についての検討は、素朴な実証主義の蔓延を、よく説明するように思われる。 オースティンによれば、我々が「言葉を発する」あるいは「何かを言う」ということは、以下の三つの行為を同時に遂行することに外ならない。 一つは、ある一定の音声を発する行為(音声行為)であり、 二つは、ある一定の語彙に属し、ある一定の文法に適った、ある一定の音声すなわち語を発する行為(用語行為)であり、 三つは、ある程度明確な意味(sense)と指示対象(reference)とを伴って語あるいはその連鎖としての文を発する行為(意味行為)である。 オースティンは、この三つの行為を同時に遂行する「何かを言う」という行為を、発語行為(locutionary act)と呼ぶ。 しかし、ここでは、さしあたり意味行為のみが問題になるので、音声行為及び用語行為を捨象して、発語行為の意味を、意味内容のみを指示対象とするように限定して用いることにする。 すなわち、発語行為という語によって、意味行為という語を指示するのである。 このような発語行為という概念によって言及されているのは、我々が「何かを言う」行為は、取りも直さず、何かを指示する行為に外ならないという事態である。 すなわち、発語することは、何等かの事態を指示することなのである。 このような指示機能は、我々の言語に、紛れもなく存在している。 たとえば、ウィトゲンシュタインのように、言葉の意味は他の意味との関係の内でしか決定し得ず、言葉によって指示される事態は、言葉に先立って存在するのではなく、言葉の意味と同時に分節されると考えたとしても、言葉が、何等かの事態(言葉とは独立の客観的な事実である必要はいささかもない)を指示するということは認められる。 オースティンによれば、この紛れもなく存在する言葉の指示機能すなわち発語行為の位相のみにおいて、言語を巡るあらゆる問題を取り扱おうとする所に、記述主義が生じるのである。 すなわち、あらゆる発話は何等かの事態を指示するか、さもなくば無意味である、記述主義風に言い換えれば、あらゆる発話は何等かの事実を記述するか、さもなくば無意味である、ここまでは必ずしも誤りではない。 しかし、ここから、従って、発話を巡るあらゆる問題は、事態の指示あるいは事実の記述のみを巡る問題である、と結論する処に、記述主義が始まる 記述主義は、発話を巡るあらゆる問題を、発語行為の位相に還元し尽くそうとするのである。 しかし、オースティンによれば、発話という行為は、発語行為に還元し尽くされるものではない。 後に詳しく述べるように、発話行為は、「何かを言う」ことすなわち何等かの事態を指示することである発語行為の遂行であるのみならず、「何かを言う」ことが慣習的な文脈の下で何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自体とは別の)行為でもある発語内行為(illocutionary act)の遂行でもあり、さらに、「何かを言う」ことを手段あるいは原因として何等かの目的あるいは結果を達成する行為でもある発語媒介行為(perlocutionary act)の遂行でもある。 発話行為は、以上の三つの行為を同時に遂行しているのである。 従って、オースティンによれば、発話行為を発語行為あるいは事実の記述に還元する試みは、発話行為が慣習的(発語内的)あるいは意図的(発語媒介的)な行為の遂行でもあるという事態を、全く等閑視することになる。 言い換えれば、あらゆる発話を事実の記述に還元する記述主義の成否は、発話を巡る諸問題が、発話に伴う、しかし発話それ自体とは区別される行為の遂行に、どこまで拘わっているかに依存することになる。 果たして、発話は、その社会的な文脈や話者の意図とは独立に、その意味あるいは指示機能のみによって、どこまで理解し得るのであろうか。 ◆3.民主主義と個体主義 手段的合理主義は、与えられた目的を最大限に達成すべく社会を組織する。 すなわち、社会のあらゆる行為を、与えられた目的に対する手段としての有効性によって評価する。 しかし、達成されるべき目的そのものは、いかにして与えられるのであろうか。 そもそも、手段的合理主義とは、手段としてのある行為が帰結する社会状態についての知識と、様々な社会状態を評価する規準としての目的とを前提して、目的に照らして最も高く評価される社会状態をもたらす手段を選択するという立場である。 さらに、行為の社会的な帰結についての知識の拡大それ自体を目的とする立場も、(そのような知識はいかなる目的にとっても手段になり得るとすれば)、手段的合理主義に含まれる。 しかし、最終的に達成されるべき社会状態を決定する目的そのものは、手段的合理主義にとって、その外部から与えられざるを得ないのである。 何故なら、手段的合理主義によれば、手段とその帰結についての知識は、実証主義的な手続きによってその真偽を確証し得る客観的な知識である。 これに対し、目的による社会の評価は、価値判断あるいは当為判断「~すべし」なのであって、客観的な知識としての事実判断「~である」とは峻別される。 従って、万人によって受け容れられる確証可能な知識は、事実判断と演繹論理のみであるとする実証(確証)主義と、事実判断から当為判断は演繹し得ないとする方法二元論とを認めるとすれば、当為としての目的は、万人によって受け容れられ得る客観的(確証可能)な知識ではありえないことになる。 言うまでもなく、手段的合理主義は、実証主義(と方法二元論)をその認識論的(あるいは価値論的)な前提としているのであるから、達成すべき目的は、万人によって受容され得る客観的な知識ではあり得ない。 すなわち、手段的合理主義は、意識的な理性によって確証し得ない一切のものを拒絶するがゆえに、その達成すべき目的を、自らの内部からは原理的に導き出し得ないのである。 それでは、達成されるべき目的は、いかにして与えられるのであろうか。 手段的合理主義によれば、およそ行為の目的は、主観的あるいは個体に相対的なものである。 何故なら、手段的合理主義が前提している主客二元論に基けば、およそ客観的でないものは主観的であらざるを得ないからである。 このような立場は、ほとんどの場合、行為の目的を、個体の意志や情緒や欲求やに帰着させる。 言い換えれば、このような立場は、行為を、個体の意志や情緒や欲求やの表出であると捉えるのである。 個体の意志や欲求やは、言うまでもなく個体に相対的、主観的なものであって、もとより普遍的、絶対的、客観的なものではあり得ない。 このような個体の意志から、少なくとも複数の個体によって構成される社会の全体が達成すべき目的が、果たして導出し得るであろうか。 この問題は、近代合理主義に特有の問題である。 あるいは、近代合理主義と主客二元論という卵を同じくする一卵性双生児である、近代個体主義に特有の問題であると言ってもよい。 すなわち、目的や価値や当為やは、客観的、普遍的、絶対的なものでは全くあり得ず、主観的、個体的、相対的なものに外ならない(価値相対主義)。 さらに、目的志向的な行為や価値判断や当為言明やは、個体の意志や情緒や欲求やの表出として捉えられる(表出主義)。 従って、社会全体の目的や価値や当為やは、個体の意志や情緒や欲求やに還元し得るし、また、されねばならぬ(個体主義)。 以上の条件を総て充たすような社会全体の目的を導出せよ。 これが問題である。 この問いに対する、近代特有の答えが、近代民主主義なのである。 民主主義とは、言うまでもなく、多数者すなわち大衆の支配のことである。 民主主義にあっては、個体の意志の集計において多数を占めた者が、究極的には無制限の権力を掌握する。 最高、無制限の権力を主権(sovereignty)と呼ぶことにすれば、民主主義とは、個体の意志の集計にこそ主権が存すると見る立場に外ならない。 従って、民主主義においては、社会全体の達成すべき目的は、もしそれがあるとするならば、個体の意志の集計に還元されねばならないのである。 何故なら、社会のあらゆる行為をその達成への貢献によって評価し得る目的とは、その社会における主権者(sovereign)の意志であると言ってもほとんど言い過ぎではないからである。 言い換えれば、民主主義とは、個体の意志の集計によって、社会全体の目的を選択する、社会的選択の装置なのである。 ハイエクが批判するのは、多数者の意志に主権を付与する、このような無制限の民主主義である。 元来、近代の立憲主義は、権力の制限を目的としていた筈である。 なるほど、近代憲法は、人権の保障と権力の分立とを規定することによって、権力の制限を目指してはいる。 しかし、近代立憲主義は、憲法をも含めたあらゆる法を制定し得る究極的な権力としての(いわゆる憲法制定権力をも含めた)主権の制限という問題に対して、確定した解答をほとんど持ち合わせていない。 そもそも、最高、無制限の権力としての主権の制限を云々すること自体が自己矛盾なのである。 ハイエクによれば、このような自己矛盾が生じて来るのは、あらゆる法は人間によって意図的に制定し得るし、また、すべきであると考えることによる。 すなわち、あらゆる法に立法者が存在すると考えるならば、その立法者自身が従う法にも立法者が存在する筈である。 従って、ある立法者が従う法の立法者をその立法者より上位の立法者と呼ぶことにすれば、より上位の立法者の存在しない立法者、言い換えれば、究極(最上位)の立法者は、いかなる法にも従わないことになる。 何故なら、究極の立法者の従う法が存在するならば、その法の立法者も存在することになり、より上位の立法者の不在という究極の立法者の定義に矛盾するからである。 言い換えれば、あらゆる法が人間によって意図的に制定されると考えるならば、究極的な法制定主体の(立法)権力を法によって制限することは、論理的に不可能となるのである。 従って、究極的な立法者は、無制限であらざるを得ない。 すなわち、最高(究極)かつ無制限の(立法)権力としての主権の存在は、あらゆる法は人間によって意図的に制定されるとする立場の、必然的な帰結なのである。 従って、たとえ憲法といえども、いずれかの主体によって意図的に制定されたとする限り、(究極的な立法者としての)主権者を制限することなど不可能なのである。 近代立憲主義は、あらゆる法に制定主体が存在すると考える限り、主権者の権力の制限に、原理的に失敗するのである。 このような主権者すなわち究極的かつ無制限な立法者の存在を必然的に帰結する、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする立場は、言うまでもなく、構成的合理主義のコロラリー(※注釈:corollary 必然的に推論される帰結)となっている。 すなわち、法もまた、社会一般と同じように、理性によって意図的に制御されるべきだ、あるいは、社会全体の目的を達成する手段として有効に設定されるべきだ、という訳である。 さらに、究極的に法を設定するのは主権者なのであるから、このような法の捉え方は、法とは主権者の目的あるいは意志の表出に外ならないと主張していることになる。 言い換えれば、このような立場は、法とは主権者の命令であると主張しているのである。 確かに、命令は当為言明の一種であると言い得るので、当為言明としての法を命令として捉えることは一見尤(もっと)もらしい。 しかし、法を命令わけても主権者の命令と見ることに、何の不都合も生じ得ないのであろうか。 次節で詳しく述べるように、ハートもまた、この問いとほとんど同じ問いを問うのである。 ところで、民主主義においては、主権者とは、言うまでもなく、多数者大衆である。 すなわち、民主主義における主権は、大衆の意志の集計に存するのである。 従って、国民主権を標榜する民主主義においては、国民大衆の(究極的な)権力は原理的に無制限である。 言い換えれば、民主主義とは、大衆が無制限の権力を掌握した社会なのである。 究極かつ無制限の権力としての主権概念そのものは、確かに、構成的合理主義の論理的帰結である。 しかし、大衆の意志に主権を付与する民主主義的な主権概念は、必ずしも合理主義のみから帰結する訳ではない。 民主主義の前提には、近代合理主義の精神的な双生児である近代個体主義が準備されている筈である。 ハイエクによれば、無制限な民主主義の前提には、価値相対主義が準備されていることになる。 ハイエクは、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする考え方を、法実証主義と呼ぶ。 すなわち、ハイエクは、構成的合理主義の法への適用を、法実証主義と呼ぶのである。 このような法実証主義によって、ハイエクは、ベンサムやオースティン(本書で取り上げるJ・L・オースティンではなく、19世紀のイギリスの法理学者で、ベンサムの友人のJ・オースティン)、あるいはケルゼンの法実証主義を指示している。 このハイエクの言う法実証主義、わけてもケルゼンの法実証主義こそが、価値相対主義を明らかに含意しているのである。 このような法実証主義が前提している、認識論上の実証主義、あるいはより広く確証主義の立場に立てば、法命題を含むあらゆる当為命題は、万人によって一致して受け容れられ得る、確実に証明された命題ではあり得ない。 当為言明は、意識的な理性によっては、その正当性を確証し得ないのである。 このように客観的、普遍妥当的ではあり得ない当為言明は、つまるところ、個体の意志や情緒や欲求やの表出なのであって、主観的、相対的であらざるを得ない。 従って、法あるいは当為をめぐる問題は、客観的、普遍的な理性の問題であると言うよりも、むしろ主観的、個体的な意志の問題であると言うことになる。 しかし、法といい当為といい、ある社会を構成する総ての個体の行為を拘束する規範の問題である。 個体的な意志の問題として法や当為やを取り扱う視点から、いかにして社会的な規範の問題としての法や当為やを捉えるか。 ここに、価値相対主義を民主主義に結び付ける契機が存在するのである。 民主主義とは、社会を構成する諸個体の意志を集計することによって、社会全体の意志を形成する社会的装置である。 従って、法や当為の言明を、民主主義的に形成された社会全体の意志の表出であると考えるならば、価値相対主義は、社会規範としての法や当為の問題をも一貫して取り扱えることになる。 すなわち、社会規範としての法や当為を、その時点における多数者の意志に相対的なものとして捉えるのである。 言い換えれば、価値相対主義は、民主主義と結び付くことによって、あらゆる法や社会的当為は、(究極的には)多数者大衆の意志に還元されると主張するのである。 もっとも、価値相対主義は、必ずしも常に民主主義と結び付く訳ではない。 価値相対主義とは、価値あるいは当為の問題は、客観的、普遍的な認識あるいは理性の問題ではなく、主観的、個体的な実践あるいは意志の問題であるという主張以上のものではない。 従って、価値相対主義は、個体的な意志から、いかにして社会的な規範あるいは社会全体の意志が形成されるかという問題に対して、その幾通りもの解答と両立し得るのである。 しかし、価値相対主義は、万人が一致して受け容れ得る理性的な論証のみによっては、社会規範あるいは社会全体の意志が形成されることは、決して有り得ないと考えるのであるから、理性的な論証以外の方法によって社会全体の意志を形成する解答としか両立し得ないことは言うまでもない。 そもそも、個体の意志や情緒や欲求やは、さらには、個体の価値や利益や目的やは、一致するどころか、一般的には共存さえしていない。 従って、このように対立する価値や利益や目的やが犠牲にされざるを得ないことになる。 理性的な論証によるこの問題(社会全体の意志を形成する問題)の解決は不可能だというのであるから、そこでは、何等かの実力による解決が要請されることになろう。 まさに、民主主義とは、この問題を、人間の頭数の多寡という実力によって解決しようとする試みなのである。 もちろん、票数以外にも様々な実力があり得る。 その究極的な形態は、いうまでもなく、赤裸々な暴力に外ならない。 いずれにせよ、価値相対主義は、社会全体の意志を形成するという問題に対して、何等かの実力による決着という解答を帰結せざるを得ないのである。 言うまでもなく、民主主義は、そのような解答の有力な一つとして位置付けられる。 すなわち、民主主義とは、多数者大衆の実力によって、社会全体の意志や利益や目的を決定Sる、パワー・ポリティックスに外ならないのである。 このような、何等かの実力による社会的意志決定を帰結する、価値相対主義と、究極かつ無制限の主権を帰結する、あらゆる法は意図的に設定されるとする考え方が、互いに結び付けられることによって始めて、多数者大衆は無制限の権力を掌握するのである。 何故なら、価値相対主義の下では、究極の社会的意志決定者である主権者とは、自らの実力によって社会全体の意志を決定し得る者に外ならないからである。 まさに、カール・シュミットの言うように、主権者とは、(実力行使をも辞さない)非常事態において、全体的な決断を下し得る者なのである。 それが、多数者大衆自身であるか、あるいは大衆の歓呼によって迎えられたその指導者であるかは、問題ではない。 構成的合理主義の法への適用と、その一卵性双生児である価値相対主義との結合が、大衆に無制限の権力を委ねるという事態を帰結することに、いささかの変りも無いからである。 ハイエクは、構成的合理主義の法への適用とともに価値相対主義をも含意する言葉として、法実証主義を用いることがある。 このように用いられた法実証主義が、大衆を主権者の高みに昇らせる、充分な前提となっていることは言うまでもない。 ハイエクが、根底的に批判するのは、まさに、このような意味における法実証主義なのである。 しかし、ハイエクは、このような法実証主義を批判するからといって、必ずしも自然法論に与する訳ではない。 ハイエクは、ハートによる自然法論の批判に、ほとんど全く同意している。 この意味においては、ハイエクもまた、ハートの言う実定法論者なのである。 ハイエクは、さらに、法実証主義と自然法論という二分法それ自体が、そもそも誤りなのであると主張する。 ハイエクは、(次節に述べるように、ハートもまた)法実証主義でも自然法論でもない、第三の法理論を指向しているのである。 ◆4.主権主義と表出主義 人間によって意図される対象としての客観的なものと、意図する人間主体の在りかとしての主観的なものとを峻別する、いわゆる方法二元論は、近代合理主義と同時に、近代個体主義をも産み落とした。 すなわち、主客二元論は、近代合理主義、わけても、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものに根拠付けられねばならぬとする客観主義と、近代個体主義、わけても、あらゆる行為はそれを意図する主観的なものに帰属されねばならぬとする主観主義という、一卵性双生児の母なのである。 認識論上の実証主義がこのような客観主義の、また、ハイエクの言う法実証主義がこのような主観主義のコロラリー(※注釈:必然的帰結)であることは言うまでもない。 ハートの批判する法の主権理論もまた、このような主観主義のコロラリーなのである。 ハートの批判する法理論は、法とは、主権者によって発せられた威嚇を背景とする命令であるとする立場である。 縮めて言えば、法とは、主権者の強制命令であるとする立場、あるいは、法の主権者命令説である。 ここで言う主権者が、最高かつ無制限の立法権力を有する者であることは言うまでもない。 このハートの批判する法の主権者命令説は、あらゆる法体系には、それを設定する最高、無制限の主権者が存在すると考える主権理論と、あらゆる法は、その逸脱に対する制裁の威嚇によって強制された命令であると考える命令理論との、大きく二つの部分に分けられる。 この法の主権理論こそが、近代個体主義あるいは主観主義の論理的帰結なのである。 あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場から、最高かつ無制限の主権の存在が論理的に帰結することは、既に前節において見た通りである。 この、あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場は、あらゆる行為は、それを意図する主体あるいは主観の存在を含意しているとする主観主義(主体主義)の、法における現れであると見ることが出来る。 何故なら、法もまた、人間の(必ずしも意図的とは限らない)行為の帰結であることに変わりは無いからである。 従って、最高かつ無制限の主権の存在は、このような主観主義の論理的な帰結であるとも考え得るのである。 すなわち、ハイエクの批判する法実証主義も、ハートの批判する法の主権理論も、このような主観主義の論理的な帰結となっているのである。 ハートは、法の主権理論に対して、様々な角度から疑問を提出する。 法とは、最高かつ無制限の立法権力を有する主権者によって、意図的に設定されたものであるとしよう。 このとき、主権者を主権者たらしめる根拠は、もはや法ではあり得ない。 何故なら、主権者が法によって主権者たり得るとするならば、その法を設定した主権者が存在することになり、主権の最高性と矛盾するからである。 あるいは、そもそも法を根拠とする主権は、主権の法的無制限性に矛盾すると言ってもよい。 いずれにせよ、主権者は、法以外の根拠によって主権者たり得るのである。 従って、憲法などの法によって立法権力を付与される立法府のような主体が、主権者たり得ることはあり得ない。 それでは、主権者とは一体誰であるのか。 それは、立法府を選挙する国民であるのか。 あるいは、何が法であるかを最終的に判定し得る司法府であるのか。 あるいは、大衆の歓呼によって推戴された大統領であるのか。 しかし、司法府はもとより、選挙民もまた、憲法によって授権された機関なのであって、主権者たり得よう筈もない。 なるほど、(憲法上の機関としての選挙民とは区別される)国民大衆あるいはその指導者は、主権者たり得るかも知れないが、このとき、大衆に主権を付与する根拠は一体何なのか。 言うまでもなく、主権理論は、ここで、自然法論(あるいは自然権論)を持ち出す訳にはいかない。 主権理論によれば、自然法もまた法である限り、いずれかの主権者によって設定された筈のものだからである。 それでは、大衆を主権者に推戴し得るのは、一体いかなる根拠によるのか。 主権理論の内部においては、そのような根拠は遂に示し得ない。 主権理論は、この、誰が主権者たり得るのかという問題を、常に開かれた疑問として留め置かざるを得ないのである。 主権者は、いかなる法によっても制限され得ないのであるから、当然、自己自身の設定した法によっても制限され得ない。 主権者は、自己自身を法的には制限し得ないのである。 従って、たとえば、主権者が、過去において制定した立法手続を、未来において遵守しなかったとしても、それは法的な責務に対する違反とはなり得ないし、また、主権者が、過去において締結した条約を、未来において履行しなかったとしても、それも法的な責務に対する違反とはなり得ない。 主権者が、過去において設定した法を、未来において無視したとしても、それは主権者の意志が変更された、つまりは気が変わったということに過ぎない。 主権者の意志の変更が、立法の名宛人や条約の相手方との約束に、たとえ違背することになったとしても、それは決して法的な責務に対する違反とはなり得ないのである。 すなわち、主権理論によれば、主権者の行為に対して、法を根拠として責務を問う可能性は、決して存在し得ないのである。 主権理論をめぐるこれらの問題、すなわち、主権者を主権者たらしめる法的な根拠は存在し得ないという問題、あるいは、主権者は自己自身を法的には制限し得ないという問題は、主権者という存在が、法体系の内部においては、遂に根拠を持ち得ないということを指し示している。 むしろ、主権者とは、法体系の外部から、法体系それ自体を根拠づけるものとして与えられて来たのである。 従って、主権者が、法体系の内部にその根拠を持ち得ないのはむしろ当然である。 主権者とは、法体系の外部にあって、法体系そのものを根拠づける、たとえば政治的な存在なのである。 しかし、法体系の根拠を問うに際して、このような主権者の存在は、果たして必然なのであろうか。 言い換えれば、法の根拠には、それを意図的に設定する主体が、不可避的に要請されるのであろうか。 言うまでもなく、このような主体の要請は、あらゆる行為には、これを意図する主観が不可避的に要請されるとする主観主義の必然的な帰結である。 ハートは、法の根拠を問うに際して、このような主観主義の要請が、全く不要であることを明らかにする。 法の主権理論は、法現象の最も中核的な部分を把握することに失敗すると言うのである。 しかし、ハートの法理論は積極的な展開は、以下の諸章の課題である。 ハートは、また、法とは威嚇を背景とした命令である、すなわち、法とは強制的命令であるとする法の命令理論を徹底的に批判している。 ハートによれば、法は、 第一に、その制定者自身にも適用されるという点において、 第二に、責務のみではなく権能をも付与するという点において、 第三に、慣習法のように意図的な立法にはよらないものが存在するという点において、 強制的命令と同一視する訳にはいかない。 さらに、ハートは、これらの問題点を踏まえて修正された命令理論をも一蹴する。 すなわち、第三の問題点を修正した、黙示の命令という考え方、第二の問題点を修正した、あらゆる法は公機関に向けられた命令であるとする立場、第一の問題点を修正した、公的資格において命令する立法者と私的資格において命令されるそれとを区別する試みの、一切を否定し去るのである。 しかし、ハートの命令理論批判それ自体は、本書の主題と必ずしも密接に関連する訳ではないので、主権理論批判に必要な限りにおいて触れることに留めたい。 ハートの批判する法の主権理論、あるいはハイエクの批判する法実証主義を帰結する主観主義は、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものによって根拠付けられねばならぬとする客観主義の、一卵性の兄弟/姉妹であった。 オースティンの批判する言語の記述主義が、この意味における客観主義のコロラリーであることは言うまでもない。 オースティンもまた、ハイエクやハートと同じように、客観主義と切り結んだ刀で、主観主義とも渡り合っている。 この客観主義と主観主義という、近代のロムルスとレムスとの闘いにおいては、二正面作戦以外の如何なる戦力もあり得ないのである。 オースティンの批判する記述主義は、言葉とは何等かの事実を記述するものであり、その真偽はそれが記述する事実の存否によって検証し得るとする考え方であった。 オースティンによれば、このような記述主義の淵源には、何等かの事態を指示する(言及する、記述する)という言葉の機能、すなわち言葉の指示機能のみに、言葉の持つあらゆる機能を還元しようとする態度が存在していた。 あるいは、オースティンの用語系に即して言い換えれば、記述主義とは、発話という行為を、指示行為(意味行為)という意味における発語行為に還元し尽くそうとする態度なのであった。 このような記述主義が、言葉についての客観主義であることは明らかであろう。 すなわち、言葉は、客観的な事実を記述することによって始めて意味を持つという訳である。 これに対して、オースティンの批判する、言葉についての主観主義とは、言葉とは(発話主体の)主観的な意図や情緒や欲求やの表出であると考える、言語の表出主義(expressivism)に外ならない。 言うまでもなく、言語には、発話主体に係わる何等かの事情(必ずしも主観的な心理とは限らない)を表現するという機能が、紛れもなく存在している。 従って、ある発話を了解するに当たって、その発話に表現されている発話主体の主観的な意図を無視してよい訳では些かもない。 しかし、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図に還元して理解するとなると、問題はまた別である。 表出主義とは、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図の表出に還元し尽くそうとする、言い換えれば、言葉の持つあらゆる機能を、その表現機能に還元し尽くそうとする態度に外ならないのである。 このような表出主義が、発話という行為には、それを意図する主観が必ず存在せねばならないと考える点において、言葉についての主観主義であることは明らかであろう。 オースティンは、記述主義とともに、このような表出主義をも根底的に批判するのである。 オースティンの用語系に即して言い換えれば、表出行為とは、発話という行為を、発話を手段として何ごとかを達成する行為である、発語媒介行為に還元し尽くそうとする態度に外ならない。 もっとも、オースティンの言う発語媒介行為は、必ずしも発話主体によって意図された行為のみに限られる訳ではない。 オースティンの言う発語媒介行為は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、発語の帰結として何等かの効果を達成する行為なのである。 もちろん、オースティンにおいても、何等かの帰結あるいは目的を達成すべく意図された発語媒介行為が重要であることは言うまでもない。 しかし、オースティンは、意図されざる帰結をもたらす発語媒介行為をも、その射程に捉えているのである。 それでは、発語によって何等かの帰結を達成する(発語それ自身とは区別された)行為は、総て、発語媒介行為となるのであろうか。 発語が何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別された)行為である発語内行為と、発語媒介行為は一体どこが違うのであろうか。 オースティンによれば、発語によって何等かの効果を達成する発語媒介行為と、発語が何等かの効力を獲得する発語内行為とは、発語のもたらす効果が、慣習的(conventional)なものであるか否かによって区別されるのである。 すなわち、発語媒介行為において達成される効果は、発語に後続することが、必ずしも慣習的には期待され得ないのに対して、発語内行為において獲得される効力は、発語に随伴することが、慣習的な規則によって支持されているのである。 言い換えれば、発語媒介行為の効果は、慣習以外の何ものか(たとえば威嚇や強制や)によって達成されるのに対して、発語内行為の効力は、それを有効適切なものとする慣習の存在を俟ってはじめて獲得されるのである。 オースティンの言う慣習(convention)は、もちろん、本書の問う慣習と密接に関連するものであるが、後に述べるように、むしろ、ハートの言うルールに極めて近い概念である。 従って、オースティンの言う発語媒介行為とは、発語によって何等かの帰結を達成する行為の内で、いかなる慣習にも依存せず、またルールにも従わない類いのものを指し示していることになる。 このような発語媒介行為は、確かに、発話行為によって意図された行為である場合が最も重要なのではあるが、しかし、意図されない行為をも明らかに含むものである。 従って、あらゆる発話を発語媒介行為に還元しようとする態度と、あらゆる発話を(発話主体の)主観的な意図の表出に帰着しようとする表出主義とは、必ずしも正確に一致する訳ではない。 発語媒介行為一元論は、表出主義をも包含する、より広い概念なのである。 このような発語媒介行為一元論を批判することによって、オースティンは、表出主義をもその批判の射程に収めていると言うことも出来よう。 しかし、慣習あるいはルールに依存も服従もしない行為(発語媒介行為)の内で、その主観的な意図のみによって了解し得る行為(表出行為)を除いたものが、差し当たり緊要であるとも思われないので、以下の行論においては、誤解の怖れの生じない限り、発語媒介行為一元論と表出主義とを互換的に用いることにしたい。(このことについては、後に再び述べる機会があると思われる。) すなわち、発語媒介行為一元論の批判は、取りも直さず表出主義の批判に外ならないのである。 以上に見てきたように、産業主義と民主主義、あるいは、合理主義と個体主義は、我々の近代社会において、極めて当然のこととして受け容れられている。 しかし、以上に見てきたことが示しているのは、我々が当然のこととして受け容れている合理主義と個体主義には、ある特徴的な前提が共有されているということである。 その前提とは、およそ人間とその社会は、目的志向的(intentional)な理性の客体であるか或いは主体であるとするものの見方である。 このようなものの見方に立って、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、手段的合理主義や実証主義あるいは確証主義、さらには記述主義といった、一連の客体主義あるいは客観主義(objectivism)が生じるのであり、また、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、個体主義や主権主義あるいは価値相対主義、さらには表出主義といった、一連の主体主義あるいは主観主義(subjectivism)が生じるのである。 このようなものの見方それ自体を、(近代)合理主義と呼ぶことも、かなり一般的ではあるが、合理主義は広狭様々な意味に用いられるので、ここでは、このようなものの見方を、志向主義(intentionalism)と呼ぶことにしたい。 いかにも熟さない命名であるが、本書の立場である慣習主義(conventionalism)との対比を意識してのことである。 従って、産業主義と民主主義の近代は、志向主義をその哲学的な前提としていることになる。 産業主義と民主主義は、志向主義という双面神の二つの顔である客観主義と主観主義の、もう一つの《ペルソナ》なのである。 ▼第三章 暗黙の言及 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - 人間とその社会を、理性によって意図的に制御し得る対象であると考える、構成的合理主義や、また、人間とその社会についての知識を、客観的な事実によって確証し得る言明であると考える、実証主義やは、我々の社会のほとんど自明な前提となっている。 しかし、果たして社会は、意図的に制御し得る対象であり得るのか。 あるいは、社会についての知識は、客観的に確証し得る言明であり得るのか。 ハイエクの問いは、ここから始まる。 ハイエクによれば、社会は、目的を達成すべく意図的に構成された秩序、すなわち彼の言う組織には留まり得ない。 社会には、意識的な目的を持たず、また、意図的に設計された訳でもない秩序が、必ず存在しているのである。 言い換えれば、社会には、差し当たり何に役立つのか(当の本人達にも)分からない、自然発生的(spontaneous)に生成された秩序が、常に存在しているのである。 ハイエクは、このような秩序を、自生的秩序(spontaneous order)あるいはコスモス(cosmos)と呼ぶ。 ハイエクによれば、自生的秩序は、通常の個体の行為はもとより、組織それ自体の行為をも含んだ秩序として、社会全域を覆っている。 すなわち、構成的合理主義の、社会全域を一個の組織によって覆い尽くし得るとする考え方に対して、ハイエクは、社会とは、一個の組織によってはついに覆い尽くせない、(組織をその要素として含み得る)自生的秩序に外ならないと主張するのである。 自生的秩序は、自然発生的に生成された秩序である。 しかし、言うまでもなく、自生的秩序は、人間の行為から独立した、自然と同様の、客観的な事実ではあり得ない。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行が、(意図せざる)結果として秩序を生成しているという事態に外ならないのである。 しかし、自生的秩序が、行為の遂行的な結果に外ならないからと言って、必ずしも、それが、行為の主観的な意図に還元され得る訳ではない。 自生的秩序は、それを結果する行為の主観的な意図を超越し、それに先行するのみならず、行為を規範的に拘束しさえするのである。 しかし、自生的秩序のこの側面については、次章で詳しく検討したい。 この章では、自生的秩序の、行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成されるという特徴から導かれる、もう一つの側面のみに、議論を限定したい。 自生的秩序のこの側面こそ、構成的合理主義さらには実証主義との闘いに際して、最も有力な橋頭堡となり得るからである。 行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成される秩序を、手短に、遂行的(performative)な秩序と呼ぶことにしょう。 すなわち、自生的秩序は、遂行的な秩序として特徴付けられるのである。 遂行的な秩序としての自生的秩序には、たとえば、市場、貨幣、法、権威、社交、言語、技能、偏見、儀礼、流行、慣習、伝統などといった社会秩序が含まれる。 これらの社会秩序は、それぞれの領域における人々の行為の持続的な遂行が、結果的に、それらの行為の従うべき何等かのルールを生成し、従ってルールに従う行為の集合としての秩序を生成するという意味において、明らかに遂行的な秩序となっている。 さらに、これらの社会秩序は、それぞれの領域において秩序を形成するルールに、人々が従うべき理由あるいは根拠が、人々がそれらのルールに従うという行為を持続的に遂行していること以外には、(究極的には)存在し得ないという意味においても、紛れもなく遂行的である。 言い換えれば、こられの社会秩序は、(それらの秩序を形成する)ルールに従う行為の持続的な遂行によって、ルール(あるいはそれが形成する秩序)それ自体が繰り返し生成されているという事態のみを、ルール(あるいはそれが形成する秩序)の存立する究極的な根拠としているという意味において、まさに遂行的な秩序と呼ぶべきなのである。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行の結果として生成されるのみならず、行為の持続的な遂行をその究極の根拠として存立する社会秩序なのである。 このような遂行的秩序としての自生的秩序が、いわゆる自然と同じ意味における客観的実在性、あるいは、理性によっては疑い得ない絶対的確実性を持ち得ないことは言うまでもない。 自生的秩序は、そのような秩序を生成する行為が繰り返し遂行されているという事態以外の何ものであもないのであって、遂行されている行為が変化すればそれに伴って変化する、行為の遂行に相対的なものである。 すなわち、自生的秩序は、歴史的あるいは地域的な行為の遂行に相対的な秩序なのである。 (このことから、必ずしも価値相対主義が帰結される訳ではないことは、次章に詳しく述べるが、さらに、このことから、いわゆる文化相対主義が帰結される訳ではないことも、次章以降に述べる機会があると思われる。) 従って、このような自生的秩序に、自然法則と同じ意味における、客観的、普遍的な法則を見い出そうとする試みの、挫折せざるを得ないことは、もはや旧聞に属そう。 ところで、遂行的秩序においては、行為の遂行によって生成される秩序が、いかなるものであるかについて、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序は、行為遂行の意図せざる結果として生成されるのであって、行為主体は、そのような結果について意識し得る筈もないのである。 さらに、自生的秩序においては、行為の遂行において事実上従われているルールが、いかなるものであるかについても、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序を形成するルールは、その遂行において実践的、経験的に従われているのであって、行為主体が意識的、合理的に従っている訳ではないのである。 言い換えれば、自生的秩序のルールは、言葉(あるいは意識的な理性)によっては語り得ぬ、行為において示し得るのみの、暗黙的(tacit)な事態なのである。 たとえば、典型的な自生的秩序である言語について見るならば、我々は、言語のルールについてほとんど意識せず、またその総てを語り得ないとしても、正しいルールに従った発話を遂行し得るのであり、ましてや、我々の遂行する個々の発話が、言語総体にいかなる結果をもたらすかなどということは、通常全く意識しておらず、またし得るものでもない。 このことは、その他の典型的な自生的秩序である技能や慣習においても、全く同様である。 技能とは、言葉によっては遂に説明し得ず、実践的(遂行的)にのみ従い得る、従って、実践的(遂行的)にのみ学び得るルールに外ならないし、慣習とは、まさに暗黙的、遂行的な事態そのものであって、それを繰り返し生成する行為が、そもそも如何なる意図の下に為されたものであったかが忘却されることによって、益々その安定を強めるといった代物である。 すなわち、行為の遂行によって繰り返し生成される、遂行的な秩序とは、取りも直さず、言葉(あるいは意識的な理性)によってはその全体をついに把握し得ない、暗黙的な秩序に外ならないのである。 従って、我々は、言語によっては分節し得ないが、行為においては遂行し得るルールを知っていることになる。 この意味において、我々は、語り得る以上のことを知っているのである。 この語り得ぬ、ただ示されるのみの、暗黙的あるいは遂行的な知識は、意識的あるいは理性的な認識のみによっては獲得し得ない。 何故なら、意識的、理性的な認識といえども、人間の行為には違いないのであるから、何等かの自生的秩序(あるいはそのルール)を繰り返し生成している筈である。 このことは、意識的、理性的な認識も、他の行為と同様に、自生的秩序のルールに遂行的に従っていることを意味する。 すなわち、意識的、理性的な認識もまた、自生的秩序(あるいはそのルール)に規範的に拘束されているのである。(この点については、次章で改めて述べる。) 従って、ある特定の自生的秩序とそのルールが、意識的、理性的な認識によってたとえ分節され得たとしても、当の意識的、理性的な認識それ自身の従うルールは、分節され得ないままにただ遂行されるものとして残ることになる。 すなわち、自生的秩序とそのルールを、意識的、理性的に認識し尽くそうとする試みは、いかなる認識といえども、自分自身が遂行的に従っているルールを(自分自身によっては)ついに分節し得ないという事情によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、ある特定の自生的秩序とそのルールならいざ知らず、総ての自生的秩序とそのルールを、意識的な理性によって分節し尽くすことは原理的に不可能なのである。 このような訳で、自生的秩序とそのルールは、(究極的には)語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であらざるを得ない。 遂行的な秩序は、暗黙的な秩序であらざるを得ないのである。 ハイエクは、このような自生的秩序として、社会を捉える。 自生的秩序としての社会が、構成的合理主義やあるいは実証主義やの対象となり得ないことは、容易に理解し得よう。 自生的秩序としての社会は、理性によって意図的に制御し得る対象ともなり得ないし、また、それについての言明を客観的に確証し得る対象ともなり得ないのである。 何故なら、自生的秩序とは、語り得ぬ、暗黙的な秩序なのであって、それ(その全体)を意図的に制御するための情報を、制御主体が獲得することは、原理的に不可能だからであり、ましてや、それ(その全体)についての言明を、客観的に確証することなど、ほとんど形容矛盾だからである。 あるいは、意図的、合理的な制御もまた、人間の行為には違いないのであって、何等かのルールに遂行的に従っている筈なのであるから、意識的、理性的な認識の場合と全く同様に、自生的秩序(あるいはそのルール)の全体を、意図的、合理的に制御し尽くすことは、原理的に不可能なのである。 自生的秩序としての社会は、遂行的あるいは暗黙的な秩序であるがゆえに、構成的合理主義やあるいは実証主義やといった客観主義の対象には、決してなり得ないのである。 このようなハイエクの自生的秩序論が、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に極めて接近していることは、注目に値する。 ウィトゲンシュタインの言う言語ゲームは、ここで言う遂行的あるいは暗黙的な事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、言語ゲームは、そのようなゲームが遂行されているという事態以外のいかなる根拠も持ち得ず、また、その全体を対象にして言及する可能性を原理的に拒否しているのである。 さらに、言語ゲームは、人間のあらゆる行為は、何等かの言語ゲームの遂行とならざるを得ないという特徴を、自生的秩序と分け持っている。 すなわち、自生的秩序もまた、人間のあらゆる行為は、何等かの(自生的秩序を形成する)ルールの遂行とならざるを得ないという特徴を持っているのである。 自生的秩序のこの特徴は、その規範的(normative)な側面と呼ばれる。(この側面の検討は次章の課題である。) この意味において、言語ゲームは、また、規範的な事態とも重なり合っているのである。 このように、ハイエクの自生的秩序論と、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、家族的類似と言い得る程度にも親しい関係にある。 ハイエクとウィトゲンシュタインは、その思想圏における最も中心的な領域を、ほとんど同じくしているのである。 しかし、ハイエクとウィトゲンシュタインの思想圏は、必ずしも完全に重なり合っている訳ではない。 彼らの思想圏は、その周辺的な領域において、かなりのずれを見せている。 わけても、このずれは、ハイエクの、進化への傾斜において著しい。 ハイエクによれば、自生的秩序としての社会を形成するルールは、変化する環境への適応や、他のルールの形成する(自生的秩序としての)社会との競合やを通じて、淘汰され選択される。 すなわち、ルールは、それが形成する(自生的秩序としての)社会に、勝利と繁栄をもたらすか否かによって、淘汰され選択されるのである。 ハイエクは、このような淘汰と選択を経て、ルールとそれが形成する(自生的秩序としての)社会が、進化し発展すると主張する。 ルールを遺伝子に置き換え、(自生的秩序としての)社会をそれによって形成される生命体に置き換えれば、この主張は、生命進化論とほとんど異ならない。 ハイエクの社会進化論とは、およそこのようなものである。 しかし、社会進化論を主張するからといって、ハイエクは、社会を意図的に進化させ得ると考えている訳では些かもない。 あるルールに従うことが、その社会にいかなる帰結をもたらすかは、自生的秩序としての社会においては原理的に不可知である。 すなわち、あるルールが、社会にとって何の役に立つかは、事前には知り得ないのである。 従って、あるルールに従うことが、社会に成功をもたらすか否かは、そのルールを暗黙的に遂行した結果として始めて知られ得ることになる。 言い換えれば、ルールは、それに従う社会が成功することによってはじめて、その進化論的な優位を証明し得るのであって、進化論的な優位が予知されることによって、それに従う社会が成功する訳ではないのである。 それゆえに、あるルールの採否を、それが社会にもたらす得失の予測に基づいて決定するといった、(たとえばルール功利主義のような)意図的な社会進化の試みは、不可避的に失敗するのである。 もっとも、ハイエクは、ある特定のルールを意図的に改良する可能性までも否定する訳ではない。 ある特定のルールに限るのであれば、それを対象として意識的に言及したり、意図的に改良したりすることは、もちろん可能である。 むしろ、何が従うべきルールであるのかをめぐって紛争が生じた場合など、遂行的に従われているルールを意識的に分節し、その不確定な部分を確定すべく、新しいルールを意図的に設定すべきでさえある。 しかし、このような分節や設定やが可能なのは、あくまで、ある特定のルールについてのみであって、決して、ルールの全体についてではあり得ない。 ルールを分節し設定する行為もまた、何等かのルールに従っているのであって、分節あるいは設定行為自体の従うルールを、当の行為者自身が分節しあるいは設定することは不可能だからである。 (あるいは、そのようなルールの分節/設定は、また別のルールに従っているのであって、いずれにせよ、すべてのルールを分節/設定し尽くすことは不可能なのである。) 言い換えれば、ある特定のルールを意識的に分節し意図的に設定する行為は、その他の総てのルールを暗黙的、遂行的に前提して始めて可能になるのである。 すなわち、ルールのあらゆる改良は、遂行的に従われているルールの全体を、無批判的に受け容れることによって始めて可能になるのである。 さらに、ルールの改良は、それが(自生的秩序としての)社会にいかなる帰結をもたらすかを予測しつつ為されるものでは、決してあり得ない。 そんなことが不可能であることは、既に述べた通りである。 ここで言うルールの改良とは、何が従うべきルールであるかを巡って紛争が生じた場合に、そのような紛争を解決すべく、ルールの不確定な部分を確定するということ以上のものではない。 このようなルールの境界確定において考慮されるのは、それが社会全体にもたらすであろう便益の予測ではなく、たとえばそれが現行のルールの総体と整合するか否かといった原理である。 すなわち、ルールの改良において考慮されるのは、その社会的な帰結ではあり得ず、その内在的な整合なのである。 なるほど、その社会的な効果に配慮しつつ、ルールを改定することもあるには違いない。 しかし、そのルールがいかなる意図によって設定されたかということと、果たしてそれがいかなる自生的秩序を形成するのかということは、(自生的秩序は意図的には構成し得ないのであるから)実は全く無関係なのであって、むしろ、その設定の意図が忘却されることによって始めて、ルールは安定した自生的秩序を形成し得るとも言い得るのである。 従って、ルールの改良は、遂行的に前提されているルールの総体との、内在的な整合性のみを考慮しつつ、言わば(社会的な)結果を顧みずに為されざるを得ないのである。 これが、ハイエクの言う、ルールの意図的な改良における整合性(coherency)の原理に外ならない。 ◆2.外的視点 - ハート - 人間の行為の集合に秩序(order)が存在するということは、そこに何等かの規則性(regularity)、構造(structure)、型(pattern)といったものが見い出されることに外ならない。 同様に、人間の行為の集合がルールに従っているということも、差し当たり、そこに何等かの規則性が見い出されることを意味している。 すなわち、行為の集合にルールが存在するということは、差し当たり、行為が整然と規則正しく(regularly)遂行されていることに外ならないのである。 ハートの言うルールもまた、差し当たり、行為が規則性を持って遂行されている事態として捉え得る。 ハートによれば、ある人間の集団がルールに従っているという事態は、その集団の外部に立って観察するならば、そこでは行為が規則性を持って遂行されているという事態として見えて来る筈である。 言い換えれば、あるルールが存在するということは、そのルールには従っていない外部の視点から見るならば、そこで遂行されている行為に、何等かの規則性が観察されるということ以外の何ものでもないのである。 このように、ルールの存在を、そこにおける行為の規則性として観察する、外部からの観察者の視点を、ハートは、外的視点(external point of view)と呼んでいる。 すなわち、外的視点とは、観察の対象となるルールには従わない、あるいは、そのルールの形成する社会的秩序には内属しない、いわば異邦人の視点なのである。 このような異邦人の視点(外的視点)から見た、ルールの、行為における規則性の存在として観察される側面を、ハートは、ルールの外的側面(external aspect)と呼ぶ。 従って、ルールが、単なる行為の観察可能な規則性に見えることがあるとすれば、それは、外的視点に立って、その外的側面のみを見ている場合なのである。 あるルールの形成する秩序に内属しない外的視点、あるいは、そのような外的視点から観察される、ルールの外的側面という概念を立てるからには、ルールの形成する秩序に内属する内的視点、あるいは、そのような内的視点から把握される、ルールの内的側面という概念もまた反射的に立てられよう。 ハートは、あるルールに従っている人々の視点、すなわち、そのルールを根拠あるいは理由として、自らの行為の当否を判定している人々の視点を、そのルールについての内的視点(internal point of view)と呼んでいる。 この内的視点から見るならば、ルールは、単に行為の規則性を持った遂行として観察されるのではなく、自らの行為の妥当性を理由付ける(根拠付ける)規範として把握されることになる。 このように規範として把握されるルールの側面こそが、ルールの内的側面(internal aspect)に外ならない。 しかし、ルールについての内的視点、あるいは、ルールの内的側面の検討は、次章の課題である。 本章では、ルールについての外的視点、あるいは、ルールの外的側面の検討に、議論を限定したい。 ルールわけても法的なルールについての客観主義的理論を論駁するに際しては、ルールについての外的視点に立つことが、最も効果的であると思われるからである。 ところで、あるルールについて、その外的視点に立つことは、そのルールを自らの従うべき規範とは見なさずに、そのルールの形成する秩序の外側に身を置いて、そのルールを観察する、言わば異邦人の立場を取ることである。 この異邦人の視点からは、ルールは、繰り返し観察される行為の規則性、あるいは単なる習慣と見なされるに過ぎない。 しかし、このような視点に立つことによって、あるルールに従っている人々の行為を、かなりの蓋然性を持って予測することが可能になる。 すなわち、行為における規則性の認識は、たとえば、ある条件の下では、いかなる行為が遂行され易いか、さらには、ある行為の遂行は、どの程度の(敵対的な)反作用を被るかといった予測を、かなりの精度において可能にするのである。 ここに、ルールわけても法的ルールについての客観主義的な理論の可能性を見い出す向きも、あるいはあるかも知れない。 しかし、ある特定のルールに対して外的視点を取る観察者は、如何なるルールにも内属しないという訳ではない。 観察もまた一つの行為である以上、如何なるルールについての内的視点も取らない、すなわち、あらゆるルールに対して外的視点を取る観察者など、決して存在し得ないのである。 従って、何等かの予測が可能になるのは、ある特定のルールに従う行為(とその行為に帰責可能な範囲の帰結)についてのみであって、任意のルールに従う総ての行為(さらにはその社会全体に対する帰結)についてでは、全くあり得ないのである。 そのうえ、ルール一般とは区別される、法的ルールにおいては、人々の行為の当否を判定する根拠となるルール(一次ルール)に対して、意識的に外的視点を取ることによって、そのルールを変更したり、解釈したり、あるいは(ルールそれ自体の妥当性を)承認したりする行為が本質的に重要となる。 しかし、それらの行為もまた、何等かのルール(二次ルール)に遂行的に従っているのであって、自らの従っているルールについては、内的視点以外取り得ようもないのである。 いずれにせよ、あるルールに対して外的視点に立ついかなる者も、何等かのルールに従った内的視点に立たざるを得ないのである。 ハートは、人々の行為の当否を判定する理由となるルールそれ自体を対象として、それに変更を加えたり、それに基づいて裁定を下したり、さらには、それがルールとして妥当することに承認を与えたりする行為と、そのような行為自身の従うルールの存在が、法あるいは法体系の概念を定式化するに当たって、不可欠の要件であると考えている。 すなわち、ハートは、通常の行為の従うルールを一次ルール(primary rule)と呼び、一次ルールを対象とする変更や裁定や承認やの行為の従うルールを二次ルール(secondary rule)と呼んで、法(体系)とは、一次ルールと二次ルールとの結合であると定式化する。 法わけても一次ルールは、変更や裁定や承認やという意図的な行為の対象になることを、その本質としているという訳である。 しかし、法体系を構成する二次ルールは、(変更や裁定や承認やという)意図的な行為の対象とは、ついになり得ない。 このことを、二次ルールの内でも際立って重要な位置を占めている、承認という行為の従うルール、すなわち、ハートの言う、承認のルール(rule of recognition)について見てみよう。 あるルールを承認するとは、そのルールが人々によって従われるべきであると判定する、言い換えれば、そのルールがルールとして妥当(valid)であると評価することに外ならない。 従って、承認のルールは、何が妥当な(一次)ルールであるかを評価する規準を与えることになる。 すなわち、(一次)ルールは、承認のルールの与える規準を充たすことによって始めて、ルールとして妥当し得るのである。 言い換えれば、承認のルールは、(一次)ルールを妥当させる根拠となっているのである。 それでは、承認のルールそれ自体は、如何なる根拠によって、妥当し得るのであろうか。 容易に確かめられるように、この問いに答えることは、どこかで断念されざるを得ない。 すなわち、あるルールの妥当性を、他のルールの与える規準によって評価しようとする試みは、どこかで断念されない限り、無限後退に陥るのである。 ハートは、その妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在しない、従って、その妥当性を全く評価し得ない承認のルールを、究極の(ultimate)承認のルールと呼ぶ。 すなわち、究極の承認のルールとは、それ自体の妥当性を承認する根拠は決して持ち得ないが、その法体系に属する如何なるルールの妥当性をも承認する(究極的な)根拠となり得るルールなのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないルールなのである。 それでは、このような究極の承認のルールは、何故に、その他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールは、自らを妥当させる如何なる根拠も持ち得ないという意味において、まさしく無根拠である。 このように自らは無根拠な究極の承認のルールが、如何にして、他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールといえども、ルールである以上、その外的側面を持っている筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、その外的視点(承認の視点ではなく、単なる観察の視点)から見るならば、繰り返し遂行される行為の規則性、あるいは慣習(practice)以外の何ものでもないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、その法体系に属するルールの妥当性を承認する行為において、繰り返し示される規則性、あるいは習慣的に遂行される慣習として捉え得る側面を持っているのである。 この、究極の承認のルールの、慣習(practice)としての側面、すなわち遂行的(performative)な事態としての側面こそが、その(法体系に属する)他のルールを妥当させる根拠としての側面、すなわち規範的(normative)な事態としての側面と、表裏一体をなしているのである。 あらゆる法体系には、それに属するルールが、ルールとして妥当するか否かを決定し得る、承認(recognition)という行為が必ず存在している。 自らに属する一切のルールの当否を決定し得て始めて、一個の法体系と呼び得るという訳である。 この承認という行為が、繰り返し遂行されることの内に、何がルールとして妥当し得るかを決定する規準、すなわち承認のルールが示されるのである。 言い換えれば、承認という行為は、その持続的な遂行を通じて、何等かのルールを、自らの従うべきルールとして、受容していることを示すのである。 このことは、究極の承認のルールが、その外的視点から見るならば、承認という行為の持続的な遂行に外ならないにもかかわらず、承認という行為を遂行する側、すなわちその内的視点から見るならば、他のルールを妥当させる根拠として、自らが従うべき規範でもあり得る事態を指し示している。 すなわち、究極の承認のルールは、承認という行為の持続的な遂行であると同時に、その同じ事態が、他のルールの妥当性を根拠付け得る、(承認という行為の当否を判定し得る)規範ともなっているのである。 従って、究極の承認のルールが、その法体系に属する他の総てのルールの妥当性を根拠付け得るのは、それが、承認という行為の持続的な遂行の内に、繰り返し示されているからに外ならないことになる。 言い換えれば、究極の承認のルールが、他のルールの当否を決定し得る規範たるにおいては、それに従う行為が持続的に遂行されていること以外の、いかなる根拠もあり得ないのである。 究極の承認のルールは、その内的視点から見れば、他のルールを妥当させる根拠となる規範であるが、その外的視点から見れば、承認という行為の持続的な遂行であるという二つの側面を持つ、一個の事態に外ならない。 究極の承認のルールは、その持続的な遂行において始めて、他のルールの妥当根拠たり得るのである。 これに対して、承認のルールを含む二次ルールと対比される、一次ルールは、それが(通常の)行為の当否を判定する根拠となるに当たって、その持続的な遂行を必ずしも前提とされる訳ではない。 一次ルールが、行為の当否を判定する根拠たり得る、言い換えれば、ルールとして妥当し得るのは、それが、持続的に遂行されているからではなく、承認という行為によって意識的に承認されているからなのである。 すなわち、一次ルールは、たとえ、かつて一度も遂行されたことが無いとしても、承認されている限り、行為の自らに従うべきことを正当化し得るのである。 しかし、このように、承認という意図的な行為によって正当化し得るルールは、一次ルールと二次ルールの結合としての法体系における、一次ルール以外にはあり得ない。 一般のルールは、その妥当性を、如何なる(意図的な)行為によっても、根拠付け得ないのである。 この意味において、一般のルールは、究極の承認のルールとその位相を同じくしている。 あるいは、むしろ究極の承認のルールこそが、法体系に属するルールの内で(究極的であるがゆえに)唯一その外部に開かれているという意味において、一般のルールと同相なのである。 一般のルールと、究極の承認のルールとの違いは、前者が、(一般の)行為の当否を判定する根拠となっているのに対して、後者が、(一次)ルールの当否を判定する根拠となっているという点のみにある。 いずれのルールも、その持続的な遂行によって始めて、当否判定の根拠たり得るという点においては、いささかの違いもないのである。 従って、究極の承認のルールについて、これまでに述べてきた議論は、一般のあらゆるルールについても、ほとんどそのままの形で成立し得ることになる。 すなわち、法体系として構成される以前の法的ルールはもとより、社交や言語や技能や儀礼や流行や道徳や慣習や伝統やといった、あらゆるルールに対して、究極の承認のルールをめぐるハートの理論は、適切な議論となり得るのである。 加えて、ハートは、究極の承認のルールが、従ってまた(二次ルールの対象としての一次ルールを含まない)一般のルールも、語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であることを強調している。 すなわち、ハートは、究極の承認のルール、さらには一般のルールが、慣習(practice)という遂行的な事態であるとともに、言明し得ぬ暗黙的な事態でもあると主張するのである。 究極の承認のルールは、承認という行為の習慣的な遂行を通じて、経験的(遂行的)に従われているのであって、対象として言及されることによって、意識的に従われている訳ではない。 すなわち、究極の承認のルールには、それを客観的な対象として言及し、その上で、それを従うべきルールとして意識的に受容する、いかなる手続きも存在し得ないのである。 これは、究極の承認のルールが究極的であることの、ほとんど自明な帰結である。(因みに、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないのであった。) 従って、究極の承認のルールは、遂行的に従われていることによって、暗黙的に受け容れられているのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、遂行的な事態であるがゆえに、暗黙的な事態ともなっているのである。 このような遂行的かつ暗黙的な事態としての究極の承認のルールが、いずれかの主体による意図的な制御の対象となり得ないことは、言うまでもなかろう。 究極の承認のルールを、意図的に設定したり変更したり廃棄したりする試みは、不可避的に失敗するのである。 (もっとも、究極の承認のルールといえども、部分的には、意図的な制御の対象となり得る場合のあることを、ハートは指摘している。これは、ハイエクの言う、整合性の原理が適用される場合と、ほとんど同じである。しかし、この場合についての検討は、次章に委ねたい。) 従って、究極の承認のルールは、それが遂行的に示されている行為の変化に伴って、変化することになる。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の習慣的な遂行の(意図せざる)結果として、生成し、また消滅するのである。 ところで、究極の承認のルールについて、その外的視点に立つ観察者が、それを対象として言及することは、もちろん可能である。 もし、このことが不可能であるならば、そもそも、社会哲学など存立し得る筈もない。 しかし、そうであるからと言って、究極の承認のルールが暗黙的であることに、些かの変りもない。 差し当たり、外的視点に立つ観察者といえども何等かのルールに従わざるを得ないという問題は措くとしても、究極の承認のルールは暗黙的なのである。 何故ならば、観測者が、究極の承認のルールを、いかに正確に分節し得たとしても、観察者の分節という行為によっては、究極の承認のルールの従われるべきことは、少しも正当化され得ないからである。 すなわち、観察者の行為は、あくまで観察に過ぎないのであって、その対象となるルールの妥当性を根拠付け得る(承認の)行為とは、決してなり得ない。 従って、そのルールが観察者によって如何に正確に言明され得たとしても、自らがそのルールに従うべき根拠は、少しも対象として意識され得ないのである。 言い換えれば、あるルールに遂行的に従っている行為者にとっては、観察者がそのルールを分節し得るか否かに拘わらず、そのルールを暗黙的に受け容れさるを得ないのである。 それゆえに、その外的視点にたつ観察者が、たとえ、何等かのルールを対象として分節し得たとしても、その内的視点に立つ行為者にとっては、そのルールに従うことは、依然として暗黙的な事態なのである。 ◆3.発語的行為 - オースティン - 言葉は、つまるところ、何等かの事実を記述している。 あるいは、言葉の意味は、それが記述する対象である、さらには、言葉は、それが記述する事実の存否によって、その真偽を確定しうる、あるいは、言葉は、その真偽の確定し得る場合にのみ、有意味である、といった記述主義の言語観を、オースティンは批判する。 オースティンの用語系によれば、記述主義とは、差し当たり、言葉を発すること、すなわち発言(発話)の総ては、事実を記述し、真偽を確定し得る、事実確認的(constattive)発言に還元されるか、さもなくば、ナンセンスに帰着するという主張に外ならない。 しかし、あらゆる発言を、事実確認的発言に還元し尽くすことは、果たして可能なのだろうか。 たとえば、何等かの権能に基づいて指図する場合の指図や、あるいは、何等かの判定理由を明らかにして審判する場合の審判の発言や、さらには、何等かの行為の履歴を約束する場合の約束の発言やは、事実を記述している訳でもないし、また、その真偽が問題となっている訳でもない。 しかし、これらの発言が、社会生活において、極めて重要な種類の発言であることは論を俟たない。 財産権や人格権の行使や、契約や、あるいは、それらを巡る裁判やは、社会生活の根幹を成している。 記述主義は、このような指図や審判や約束やの発言を、その焦点から外してしまっているのである。 (もちろん、記述主義が、これらの発言に、何の位置付けも与えていない訳ではない。前章で述べたように、記述主義から見れば、これらの発言は、主観的な意図の表出に外ならないことになる。しかし、この点についての検討は、次章の課題である。) 指図や審判や約束やの発言は、その発言を遂行することそれ自体が、指図や審判や約束やといった、社会的行為そのものを遂行することになる種類の発言である。 たとえば、「~を約束します」と発言することは、取りも直さず、約束という社会的行為を遂行することに外ならない。 すなわち、これらの発言においては、言うことが、行うこととなっているのである。 このように、発言することが、(発言という行為とは区別される)社会的行為を遂行することになる種類の発言を、オースティンは、差し当たり、行為遂行的(performative)発言と呼ぶ。 事実確認的発言に焦点を合わせている記述主義は、この行為遂行的発言を捕捉し得ないのである。 行為遂行的発言は、もとより、事実を記述している訳ではなく、従って、その真偽も確定し得ない。 行為遂行的発言は、真偽いずれでもないのである。 しかし、行為遂行的発言であれば、いかなるものでも、社会的行為として効力を発揮するという訳でもない。 たとえば、指図する権限のない者による指図や、判定理由を示し得ない審判は無効であり、約束された行為が履行されない約束は不実である。 すなわち、行為遂行的発言は、何等かの条件を充たすことによって始めて、社会的行為としての効力を獲得するのである。 オースティンは、この、行為遂行的発言を社会的行為として発効させる条件を、行為遂行的発言の適切性(felicity)の条件あるいはルールと呼んでいる。 従って、行為遂行的発言は、それを発効させるルールを根拠として、適切あるいは不適切のいずれかに判定されるのである。 しかし、いかなる行為遂行的発言が適切であるかを決定するルールの検討は、次章に委ねられる。 ここでは、事実確認的発言と対比される意味での行為遂行的発言の検討に議論を限定したい。 行為遂行的発言の概念こそが、記述主義の批判に対して、最も有力な手掛かりを与え得るからである。 この行為遂行的発言の概念と、言語行為(speech act)の一般理論との関係は、オースティン本人においても、かなり微妙である。 もちろん、行為遂行的発言の発見なしには、言語行為の一般理論が構想され得なかったであろうことは言うまでもない。 しかし、言語行為の一般理論が構成されるに及んで、行為遂行的発言の概念が後景に退けられたこともまた明らかである。 行為遂行的発言と言語行為とは、果たして、如何なる関係に置かれているのであろうか。 前章で述べたように、オースティンによれば、言葉を発すること、すなわち発言(発話、発語)することは、以下の三種の行為を同時に遂行することに外ならない。 言い換えれば、言うことは、以下の三種の位相において、行うことなのである。 その第一は、発語という行為それ自体が、何等かの事態を意味する、すなわち何等かの事態を指示する行為に外ならないという発語行為(簡単のために、ここでは、音声行為および用語行為を捨象して、発語行為を意味行為あるいは指示行為に限定している)の位相であり、 第二は、発語することが、何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別される)行為を遂行することになるという発語内行為の位相であり、 第三は、発語することを手段として、発語主体の意図する、何等かの結果を達成することが目指されるという発語媒介行為(ここでは、発語主体の意図せざる結果を捨象している)の位相である。 オースティンは、以上の三種の行為を総称して、言語行為と呼んでいる。 すなわち、言語を発話することは、以上の三種の位相において、行為を遂行することなのである。 行為遂行的発言と発語内行為、さらには、事実確認的発言と発語行為が密接に関連していることは一見して明らかであろう。 しかし、両者は同じものではあり得ない。 何故なら、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別は、ある一つの発言をいずれかのカテゴリーに分類するための区別であるのに対して、発語内行為と発語行為との区別は、ある一つの発言を幾つかの(行為の)位相に分解するための区別だからである。 すなわち、ある一つの発言が、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言のいずれに分類されたとしても、その発言には、発語内行為および発語行為(さらには発語媒介行為)の位相が常に存在し得るのである。 従って、行為遂行的発言も、発語行為の位相を持つという意味において、何等かの事実を指し示していることになるし、また、事実確認的発言も発語内行為の位相を持つという意味において、何等かの行為を遂行していることになる。 このような、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為あるいは発語行為との関係を、つぶさに検討することによって、記述主義を乗り越える言語行為論の射程が、詳(つまび)らかにされるのである。 ところで、何等かの社会的効果を帰結する点においては共通している、発語内行為と発語媒介行為との相違は、前章で述べたように、発語内行為の効力が、そのような効力を発生させる根拠となる、何等かの慣習によって支えられているのに対して、発語媒介行為の結果は、そのような慣習に支えられなくとも達成され得るという点にある。 言い換えれば、発語内行為は、慣習に従う限りにおいて、その社会的な効力を発揮し得る言語行為の位相であるのに対して、発語媒介行為は、慣習に従うか否かに拘わらず、その(発語主体の意図する)社会的な結果を達成し得る言語行為の位相なのである。 ここに言う慣習が、すでに述べた、行為遂行的発言にちての適切性のルールと同じものであることは、確認されねばならない。 すなわち、発語内行為の効力の存否を判定する根拠は、(行為遂行的発言についての)適切性のルールなのである。 従って、発語媒介行為は、発語行為のように、それが指示する事実に基づいて、その真偽を判定し得る訳ではなく、また、発語内行為のようにそれが従うルールに基づいて、その当否(適切・不適切)を判定し得る訳でもない、言語行為の第三の位相ということになる。(実は、発語媒介行為は、それが達成しようとする発語主体の意図に基づいて、その成否を判定し得るのであるが、この点についてはここでは触れない。) しかし、発語内行為の当否を判定し、また、発語内行為と発語媒介行為とを区別する、慣習あるいは適切性のルールについての検討は、次章の課題である。 ここでは、発語内行為と行為遂行的発言との関連、および、発語内行為と発語行為との区別に議論を限定したい。 それでは、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為および発語行為とは、いかなる関係に置かれているのであろうか。 まず、事実確認的発言は、言うまでもなく、事実を記述し、その真偽を、それが記述する事実の存否に基づいて判定し得る種類の発言なのであるから、紛れもなく、発語行為の位相を保有している。 このような事実確認的発言は、果たして、発語内行為の位相をも保有しているのであろうか。 たとえば、「現在のフランス国王は禿である。」という発言を考えてみよう。 この発言は、典型的な記述命題であって、明らかに事実確認的発言である。 しかし、現在のフランスに国王など存在しないのであるから、その国王が禿であるか否か、言い換えれば、この発言の真偽を、事実に基づいて判定することは不可能である。 それでは、この発言は、無意味であろうか。 否である。 この発言の指示する対象は(それが事実として存在しているか否かに拘わらず)明瞭である。 この発言が奇異な感じを与えるのは、それが無意味だからではなく、むしろ、事実として存在していない対象についての記述命題が、発言として不適切だからである。 すなわち、記述命題という事実確認的発言は、それが術定する対象(ここでは現在のフランス国王)が、事実として存在し得るという条件を充たすことによって始めて、有効あるいは適切な発言として遂行されるのである。 これは、たとえば指図という行為遂行的発言が、指図する権能が存在するという条件を充たすことによって始めて、社会的な効力を有する適切な発言として遂行されるという場合に類似している。 言い換えれば、事実確認的発言と言えども、その真偽が問題とされる以前に、事実確認あるいは記述という社会的行為を遂行する発言として、有効/適切であるか否かが問題とされるのである。 従って、事実確認的発言においても、行為遂行的発言と同様に、その発言が、社会的な効力を持つか否か、あるいは、適切であるか否かが問われる位相が存在することになる。 すなわち、事実確認的発言にも、発語内行為の位相が、確かに存在するのである。 また、「現在のフランス国王は禿である。」という発言は、「禿でないならば現在のフランス国王ではない。」という発言を論理的に帰結する。 従って、ひとたび前者の発言を遂行したならば、後者の発言を拒否することは、論理のルールに違反することになる。 これは、ある行為の履行を約束する発言を遂行したならば、その行為を履行しないことは、約束のルールに違反することになる場合に類似している。 すなわち、いずれの場合においても、ある発言の遂行が、何等かの行為の遂行を義務付け、その行為の遂行を拒否した場合、何等かのルール違反に問われるのである。 言い換えれば、約束と言う行為遂行的発言が、その目的あるいは帰結としての行為の履行されなかった場合に、不誠実あるいは不適切(ルール違反)になるのと同様に、記述という事実確認的発言もまた、その(論理的な)帰結としての行為の履行されなかった場合、不適切(ルール違反)になるのである。 従って、ここでもまた、事実確認的発言は、その真偽を問われる以前に、社会的行為を遂行する発言として、適切であるか否かを問われることになる。 すなわち、事実確認的発言には、発語内行為の位相が、確かに存在しているのである。 続いて、行為遂行的発言を取り上げよう。 行為遂行的発言に、発語内行為の位相が存在していることは、言うまでもなかろう。 それでは、行為遂行的発言に、果たして、発語行為の位相は存在するのであろうか。 たとえば、判決という行為遂行的発言を考えてみよう。 判決という発言は、言うまでもなく、ある行為の当否を、潜在的には明示し得る判定理由に基づいて判定するという社会的行為の遂行である。 通常の場合、この判決理由は、あるカテゴリーに属する行為の当否を規定している一般ルールと、問題となっている行為がそのカテゴリーに属するか否かについての判断から構成されている。 すなわち、当該行為は、ある一般的なルールの違反に該当する故に、妥当ではないと判決するといった具合である。 このとき、問題となっている行為が、一般的なルールに違反するカテゴリーの行為に該当するか否かについての判断は、記述命題の真偽についての判断と極めて類似している。 いずれの判断も、それが指示する事実に基づいて、その分類が決定されるからである。 因みに、前者の判断は、後者の判断と同じく、事前判断と呼ばれることも多い。 従って、判決という行為遂行的発言は、その社会的な効力を根拠付ける判定理由の核心において、事実確認的発言あるいは発語行為を常に前提せざるを得ないのである。 また、判決という行為遂行的発言は、たとえば、「甲は乙に損害賠償を支払うべし。」といった当為命題であることが多い。 このような当為命題は、「甲は乙に損害賠償を支払う。」という記述的あるいは指示的(phrastic)と、「~すべし」という指図的あるいは承認的部分(neustic)とに分解することが常に可能である。 ここで言う記述的あるいは指示的部分が、発語行為の位相を持っていることは明らかであろう。 すなわち、当為命題という行為遂行的発言は、その記述的あるいは指示的部分が常に存在するが故に、発語行為の位相を必ず内包しているのである。 行為遂行的発言における発語行為の位相の存在についてのこのような説明は、オースティン本人のそれと言うよりも、むしろ、ヘアあるいはサールによるものである。 他の点はいざ知らず、この点に関しては、ヘアあるいはサールの議論は、オースティンの言語行為論の理解にとって、極めて有効な視座を提供していると思われる。 行為遂行的発言を、記述的あるいは指示的部分という発語行為の意味を指定する核心部分と、指図的あるいは承認的部分という発語内行為の効力を指定する境界部分に分解して理解することは、ある一つの言語行為には、常に三種類の(行為の)位相が存在していると考える、言語行為論の着眼を、より明晰な分析枠組みに高めるものである。 記述主義は、このような分析枠組みの獲得によって、ようやく乗り越えられることになるのである。 これまで述べてきたように、事実確認的発言もあるいは行為遂行的発言も、発語内行為および発語行為の位相を同時に保有していることが明らかになった。 従って、事実確認的発言と行為遂行的発言との区別は、実は相対的なものであって、むしろ、両者は、発語行為の位相をその核心部分に持ち、各々に種類の異なる発語内行為の位相をその境界部分に持つ、一連の言語行為の二つの種類であると考えられるのである。 言い換えれば、事実確認的発言は、記述(言明解説)という発語内行為を遂行する言語行為なのであり、行為遂行的発言は、指図(権能行使)や判決(判定宣告)や約束(行為拘束)やという発語内行為を遂行する言語行為なのであって、また、いずれも、何等かの事態を指示する部分として発語行為を内包する言語行為なのである。 このような言語行為論の視点から見れば、記述行為は、言語行為という多元的な現実を、その記述的あるいは指示的な部分のみに一元化して把握しようとする、対象指示一元論あるいは意味行為一元論であることが明らかになる。 記述主義は、言語行為の唯一つの位相しか捉えていないのである。 しかし、我々の言語の現実の在り方である言語行為は、対象指示に還元し尽くされる筈もない。 如何なる対象指示と言えども、発語内行為の種類が指定されることによって始めて、言語行為、すなわち、発話として社会的に発効するのである。 従って、記述の発話と言えども、それが社会的な効力を有する適切な発話であるためには、何等かのルールに従っていなければならないことになる。 しかし、言語行為の従うルールについての検討は、次章の課題である。 ▼第四章 規範の文脈 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.規範的秩序 - ハイエク - あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。 多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。 しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。 あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。 ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。 すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。 ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。 言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。 従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。 すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。 この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。 ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。 抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。 言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。 従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。 しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。 ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。 前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。 すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。 ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。 行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。 しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。 ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。 さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。 すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。 ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。 自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。 従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。 すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。 言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。 このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。 あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。 すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。 この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。 しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。 従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。 たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。 すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。 それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。 それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。 すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。 このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。 何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。 すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。 主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。 すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。 言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。 従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。 しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。 ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。 すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。 言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。 このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。 言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。 ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。 すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。 従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。 今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。 この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。 すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。 この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。 何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。 それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。 すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。 あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。 すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。 このような疑いには、充分な根拠がある。 何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。 たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。 このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。 すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。 従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。 このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。 すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。 従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。 すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。 しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。 すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。 言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。 従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。 すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。 言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。 以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。 言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。 ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。 すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。 従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。 しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。 ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。 なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。 しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。 何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。 従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。 言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。 あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。 すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。 いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。 自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。 ◆2.内的視点 - ハート - ルールが存在するということは、取りも直さず、行為に何等かの秩序あるいは規則性が見い出されるということに外ならなかった。 前章で述べたように、ハートは、この、行為に何等かの規則性を見い出す視点を、ルールに対する外的視点と呼んだのであった。 また、ハートは、ルールの、行為に規則性が存在する事態として捉えられる側面を、その外的側面と呼んだのであった。 しかし、ハートによれば、ルールがルールとして存在し得るためには、行為に規則性が見い出される以外に、ルールが行為の当否を判定する根拠あるいは理由として、(行為主体に)受け容れられておらねばならないのである。 言い換えれば、ハートの言うルールは、その外的側面が観察される以外に、行為の妥当性を評価する規準となる、その内的側面が確認されて始めて、ルールとして存在し得るのである。 ルールは、そのルールには従わない、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームには内属しない外的視点によって、行為に規則性が存在する事実として観察されるその外的側面と、そのルールに従う、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームに内属する内的視点によって、行為の妥当性を判定する当為として受容されるその内的側面と言う、二つの側面が合わさって始めてルールと呼び得る。 すなわち、ハートによるルールの概念は、ルールの事実として従われていることが観察されることのみならず、ルールの当為として従われるべきことが受容されていることをも、その構成要件とするのである。 この、事実としてのルール、すなわち、ルールの外的側面と、当為としてのルール、すなわち、ルールの内的側面とは、いずれか一方から他方が導き出されるといった関係にはなく、ルールという一つの事態を、外的/内的という二つの視点から見ることによって現れた、その二つの側面なのである。 従って、その外的視点から見るならば、ルールは、それが従われているという単なる事実に過ぎず、従うべき当為では些かもあり得ないのに対して、その内的視点から見るならば、それは、自らの従うべき当為なのであって、それが事実として従われているか否かは、規範逸脱の事実認定においてのみ問題とされるのである。 いずれにせよ、ルールが、行為の当否を判定する根拠あるいは理由となり得るのは、その内的視点から見た場合なのである。 ところで、行為の妥当性を判定する根拠となる内的側面を持つ、ルールそれ自体の妥当性は、いかなる根拠によって正当化されるのであろうか。 法的ルールの場合、前章で述べたように、あらゆる法体系には、それに属する総てのルールの妥当性を根拠付け得る承認のルールが、常に存在しているというのが、この問いに対するハートの答えであった。 すなわち、法体系を構成する(一次)ルールは、承認の(二次)ルールによって、その妥当性を理由付け得るのである。 しかし、ルールの妥当性の、このような正当化の方法は、無限後退に陥らない限り、どこかで断念されざるを得ない。 言い換えれば、無限後退を避けるためには、他のあらゆるルールを正当化し得るが、自らは如何なるルールによっても正当化され得ない承認のルールが、どこかで要請されざるを得ないのである。 前章で述べたように、ハートは、このような承認のルールを、究極の承認のルールと呼んだのであった。 すなわち、究極の承認のルールは、そのルールの妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在し得ないという意味において、究極的なのである。 究極の承認のルール、あるいは、法体系には属さない一般のルールは、その妥当性を判定し得る如何なる根拠も持ち得ない。 言い換えれば、このようなルールは、それ自体を対象として規範的に評価し得る、如何なる内的視点をも持ち得ないのである。 従って、このようなルールそれ自体を対象とし得るのは、それが遂行的に存在しているという事態を認識し得る、その外的視点以外にはあり得ない。 すなわち、このようなルールは、(それ自体を対象として見れば)ただ事実として遂行されているという事態以外ではあり得ないのである。 しかし、このようなルールの規範性と遂行性との関係については、前章に詳しく検討したので、ここでは触れない。 むしろ、本節では、ルールわけても究極の承認のルールに従う内的視点の存在が、ハートの批判する法の主権者意志説に対して、果たして如何なる含意を持ち得るのかを問題としたい。 あらゆる法は、主権者の意図的に設定したものである、さらに、その論理的な帰結として、そのような主権者は、法的に無制限な主体である、これが法の主権者意志説であった。 これに対して、究極の承認のルールは、あらゆる法に、それが法として妥当するための根拠を与えるルールである。 従って、たとえば、主権者の制定した法は妥当するといったルールもまた、究極の承認のルールであり得る。 因みに、ある法が主権者によって制定されたものであるか否かを、その法の妥当性を判定する究極的な規準とする法体系は、近代国家においてはむしろ通例である。 しかし、この場合、主権者は決して無制限ではあり得ない。 このような法体系においては、主権者は、主権者の設定する法は有効であるという、究極の承認のルールを根拠として始めて、自らの設定する法の妥当性を理由付け得るのであり、さらに、そもそも自らの主権者たり得た根拠それ自体も、主権者たるの要件を規定する、究極の承認のルールを待って始めて与えられるのである。 言い換えれば、主権者は、自らの行為の法的な効力のみならず、自らの存在それ自体をも、究極の承認のルールによって与えられているのである。 すなわち、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者はついに無制限ではあり得ず、究極の承認のルールに従う、その内的視点を取らざるを得ないのである。 あるいは、このことを、主権者によって制定された法が、法として妥当し得るか否かは、究極の承認のルールに依存する、と言い換えてもよい。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的に)発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存しているのである。 この命題は次節に述べる(発語内)行為の文脈依存(context-dependence)性という命題と、全く同型の構造を持っている。 たとえば、主権者の「私は~を法とする」という発話が、法を制定する行為として発効し得る(~を法として妥当せしめる)ためには、立法の権限が主権者にあらかじめ与えられていることや、立法の発話が適切な手続きに従って為されていることなどといった、様々な条件が充たされておらねばならない。 次節では、このような条件を、(発話内)行為の文脈と呼ぶことにするが、究極の承認のルールとは、まさに、この意味における(法の妥当性の承認という)行為の文脈に外ならないのである。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的な)行為として発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存している、という事態は、発話という行為が、(社会的な)行為として発効し得るか否かは、その文脈に依存している、という事態(発語内行為の文脈依存性)の、法領域における現れとして捉え得るのである (発語内)行為は、その主観的な意図とは独立に、何等かの文脈が与えられて始めて、自らの社会的な効力を確定し得る。(この命題については次節で詳しく検討する。) 同様に、主権者による法の制定は、その主観的な意図とは独立に、究極の承認のルールが与えられて始めて、自らの法的な効力を確定し得る。 すなわち、主権者の行為の(法的な)効力は、その主観的な意志ではなく、その社会的な文脈に規定され、あるいは、制限されているのである。 従って、究極の承認のルールの存在は、あらゆる法を主権者の意図的に設定したものであると考える、法の主権者意志説を、真っ向から否定することになる。 何故ならば、究極の承認のルールの存在は、法の主権者意志説の論理的帰結である、主権者の法的無制限という事態と、全く両立し得ないからである。 すなわち、法の主権者意志説に従えば、第一章で見たように、主権者の法的無制限を帰結せざるを得ないのであるが、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者は法的に無制限ではあり得ないのであって、その必要条件を否定される法の主権者意志説は、棄却されざるを得ないのである。 言い換えれば、主権者の行為が、究極の承認のルールに依存せざるを得ないとするならば、法を主権者の意志の表出としてのみ捉えることは、もはや不可能となるのである。 また、法の主権者意志説においては、あらゆる法は、究極的には主権者によって意図的に設定されたと考えるのであるから、法が、法として妥当し得る根拠もまた、それが、究極的には主権者によって意図的に設定されたという事実以外にはあり得ない。 すなわち、法の主権者意志説は、法の究極的な制定目的が主権者の意志にあると主張するのみならず、法の究極的な妥当根拠もまた主権者の意志にあると主張するのである。 このような主権者は、いかなる法によっても決して制限され得ず、従って、如何なる法体系の内部においても、その(主権者たる)根拠を持ち得ない存在である。 言い換えれば、このような主権者は、あらゆる法体系の外部にある、いわば超法規的あるいは政治的な存在なのである。 従って、法の主権者意志説は、法の究極的な妥当根拠を、法によっては制限も根拠も与えられ得ない、超法規的あるいは政治的な存在である主権者の意志に、委ねざるを得ないことになる。 これに対して、究極の承認のルールは、言うまでもなく、法の究極的な妥当根拠となる、法的なルールである。 従って、究極の承認のルールが存在しさえすれば、法を究極的に妥当させる、法的に無制限な主権者の存在など、些かも必要とされないことになる。 言い換えれば、たとえ法の主権者意志説を取らないとしても、究極の承認のルールさえ存在するならば、法体系の理解にとって、些かの支障もないのである。 従って、法の主権者意志説は、究極の承認のルールの存在と両立し得ないばかりではなく、それが全くの誤りであるか否かはいざ知らず、究極の承認のルールが存在しさえするならば、少なくとも不必要な議論なのである。 しかし、究極の承認のルールそれ自体は、いかなる法的な根拠も持ち得ない、いわば法体系の外部に開かれているルールであった。 このような究極の承認のルールの存在と、法的な根拠を持ち得ない、言わば超法規的な主権者の存在とは、一体どこが違うというのであろうか。 そもそも、法の妥当し得るか否かを究極的に確定するためには、法によってはついに根拠付け得ない存在が、不可避的に要請されるのではなかったのか。 この問いに答えるためには、主権者の行為は究極の承認のルールに依存している、という命題の成立していることが、まず確認されねばならない。 すなわち、主権者の行為は、その当否を、究極の承認のルールによって始めて決定され得る、という事態である。 それでは、その逆である、究極の承認のルールは、その妥当根拠を、主権者の行為によって始めて付与され得る、という事態は、果たして成立し得るのであろうか。 この問いに対して、もし、究極の承認のルールにその妥当根拠を与え得る主権者の行為があるとするならば、その主権者の行為に妥当根拠を与える究極の承認のルールが存在することになり、究極の承認のルールの究極性に矛盾する、といった答えを与えることも、確かに適切である。 しかし、ここでは、この問題を、別の角度から検討してみたい。 すなわち、この問題を、たとえば、「私(主権者)の制定する法は妥当しない」という法(究極の承認のルール)を私(主権者)は制定する、といった自己言及の問題として捉えるのである。 このように問題を捉えてみるならば、究極の承認のルールが、主権者の、(たとえば法の制定という)行為によってその妥当根拠を与えられる、という主張は、まさに、前節に述べた、自己言及の非決定性を帰結することが明らかとなろう。 従って、前節の議論を援用すれば、究極の承認のルールは、主権者の行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的であることが結論されるのである。 すなわち、究極の承認のルールは、主権者の意図的な行為によっては、その妥当根拠をついに与え得ない、根拠付け不能な事態なのである。 しかし、(承認という)行為の持続的な遂行においてのみ存在し得る、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的な事態でもあることは、既に前章において詳しく見た処である。 むしろ、本章において見るべきは、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、(承認という)行為の法的に発効し得るか否かを決定するという意味において、まさに、規範的な事態でもあることなのである。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の社会的(法的)な効力を、その主観的な意図とは独立に決定する、まさしく慣習的な文脈に外ならないのである。 ところで、究極の承認のルールは、人々の行為の当否を判定する根拠となる(一次)ルールそれ自体の、妥当性を判定する根拠となる(二次)ルールであった。 従って、ある行為の当否判定において、その根拠となるルールをめぐる紛争の生じた場合に、究極の承認のルールは、いかなるルールが従われるべきかを決定することのよって、その紛争を常に解決し得ることになる。 たとえば、ある行為の当否について、現行のルールがいかようにも解釈し得る場合、究極の承認のルールは、ある一つの解釈をルールとして妥当させる根拠を与え得るのである。 すなわち、現行のルールに、行為の当否について、何等かの不確定な部分が存在する場合、究極の承認のルールは、その部分を確定することによって、事実上新たなルールを設定する根拠を与え得るのである。 ハートは、ルールがこのように不確定な部分を常に有していることを、ルールの開かれた構造(open texture of rule)と呼んでいる。 従って、究極の承認のルールは、(一次)ルールの開かれた構造を、常に閉じ得る装置であるとも言い得ることになる。 しかし、究極の承認のルールもルールである以上、ルールの開かれた構造の例外ではあり得ない筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、何等かの不確定な部分を常に有しているのである。 そこでは、究極の承認のルールの不確定な部分は、如何にして確定されるのであろうか。 たとえば、そのような確定が、いずれかの主体によって意図的に遂行されるとしてみよう。 この場合、究極の承認のルールの不確定な部分を確定する行為は、究極の承認のルールの(部分的な)不在という場面において、それを意図的に設定する行為となってはいないか。 言い換えれば、そのような行為の主体は、究極の承認のルールによっては制限され得ない、無制限な主権者と呼び得る存在ではないか。 すなわち、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じるためには、つまりところ無制限な主権者の存在が要請されるのではあいか。 究極の承認のルールの開かれた構造は、このような一連の疑問を当然に生み出すのである。 しかし、究極の承認のルールが、たとえ開かれた構造を持っているとしても、そのことから直ちに、究極の承認のルールそれ自体を設定する、無制限な主権者が要請されるとは限らない。 究極の承認のルールが不確定なのは、あくまでその一部分なのであって、残りの大部分においては、何が妥当なルールであるかの規準は、差し当たり充分に確定しているのである。 ハートは、ルールの不確定な部分を、その不確定な半影部分(penumbra of uncertainty)と呼び、また、ルールの確定している部分を、その確定した核心部分(core of certainty)と呼んでいる。 究極の承認のルールにも、このような半影部分と核心部分の両方が備わっているのである。 従って、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、残りの確定した核心部分を不問の前提にしていると考えてよい。 すなわち、そのような行為は、その対象とはならない部分の究極の承認のルールに従っている、という意味において、決して無制限ではあり得ないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じる行為は、あくまで究極の承認のルールの一部分のみを対象とするのであって、その全体を対象とすることは決してあり得ず、従って、究極の承認のルールに、たとえ開かれた構造が存在したとしても、それを閉じるために、無制限な主権者が要請される必要は、必ずしもない訳である。 しかし、それにしても、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、極めて微妙な行為である。 それは、自らの従うルールの一部分を、自らの対象として言及する行為に外ならない。 このような行為が、自らの従うルールの全体に対してはついに不可能であることは、前章において、ルールの暗黙性として詳しく検討した処である。 すなわち、自らの従うルールの全体を、自らが意図的に変更することは不可能なのである。 しかし、ここで述べられたことは、たとえ自らの従うルールであっても、その一部分であるならば、自らの意図的に変更することが必ずしも不可能ではない、ということである。 ルールの一部分に変更が要請される場合とは、新たに生じた問題に対して、現行のルールが確定した解答を与えられない場合なのであるから、ルールの一部分が変更可能であることは、新たな状況に対するルールの適応のためには、むしろ必要でさえある。 しかし、自らの従うルールを、たとえ部分的であったとしても、自らが意図的に変更する行為は、依然として、かなり微妙な行為であることに変わりはない。 このような行為は、果たして、如何なる根拠あるいは規準によって、新たなルールを生成し得るのか、あるいは、このような行為の意図と、結果として生成されるルールとの間には、(行為の意図が達成されることは全くあり得ないが)果たして、如何なる関係があるのか、といった様々な疑問がすぐにでも涌いてくる。 これらの問題は、実のところ、前章で述べた、ハイエクの言う整合性の原理の問題と、全く同型の構造を持っている。 すなわち、これらの問題に対する回答こそが、まさに、ハイエクの言う整合性の原理に外ならないのである。 ◆3.発語内の力 - オースティン - 言葉を発する、すなわち発話するという行為は、既に見たように、それ自身とは区別される社会的な行為の遂行でもある。 すなわち、発話行為(言語行為)は、発語行為の遂行であるとともに、発語内行為の遂行でもある。 しかし、あらゆる発話行為が、常に社会的な行為としての効力を持つ訳ではない。 発話行為が、何等かの発語内行為の有効適切な遂行であり得るためには、ある慣習的なルールを充たさねばならないのである。 それでは、発話行為を、社会的な行為として発効させる慣習的なルールとは、いかなるルールであるのか。 また、そのようなルールには、いかなる分類があり得るのか。 ところで、ある発話行為が、そのようなルールから見て、たとえ不適切であったとしても、それが何等かの社会的な結果を発生させ得ることまで否定される訳ではない。 すなわち、発話行為は、慣習的なルールに従っているか否かに拘わらず、自らを原因とする何等かの社会的な結果を発生させ得るのである。 このような発話行為の社会的な結果と、その社会的な効力とは、果たして、如何なる関係にあるのか。 言い換えれば、発話によって社会的な結果を達成する発語媒介行為と、発話が社会的な効力を獲得する発語内行為とは、どのように区別され得るのか。 これら一連の問いが、本節で問われる問いに外ならない。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、言語における主観主義としての表出主義に対する、決定的な論駁を準備するのである。 オースティンによれば、発話行為が、それ自身とは区別される何等かの社会的な行為として発効する条件は、大きく三つに分類される。 その第一は、ある発話が、何等かの社会的な効力を持つ行為の遂行であるために充たすべき、慣習的な手続きあるいはルールが存在していることである。 たとえば、「~せよ」という発話が、従うべき命令として社会的な効力を持ち得るのは、そこに何等かの手続きに根拠付けられた命令権限が存在し、そのような命令権限を持つ者によって、その発話が遂行される場合に限られる、といった具合である。 従って、「~せよ」という発話が、命令権限の存在しない領域において、あるいは、命令権限のない者によって、遂行されたとしたならば、そのような発話は、命令としての社会的な効力を持ち得ない。 すなわち、何等かの手続きあるいはルールがその背景に存在しない発話行為は、それ自身とは区別される社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 その第二は、発話を社会的な効力を持つ行為の遂行とするための手続きが、正しくかつ完全に従われることである。 たとえ、発話を社会的な行為として発効させる手続きが、疑いもなく存在していたとしても、それが正しくかつ完全に従わないような発話は、(それ自身とは区別される)社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 そもそも、ルールが存在するということは、それに従っているか否かによって、行為の当否あるいは適切/不適切が判定され得るということなのであるから、ルールの従われていることを要請する、この第二の条件は、(第一の条件が成り立っているならば)当然と言えばあまりに当然な条件である。 しかし、この条件を敢えて独立させた背景には、司法的な判断に代表される判定宣告型の発語内行為(後述する)が、主としてこの条件の成否に拘わる社会的な行為であることへの配慮があったと思われる。 その第三は、発話がある手続きを充たすことによって社会的な効力を獲得したとき、何等かの後続する行為が義務付けられる場合、そのような行為が引き続き遂行されることである。 たとえば、「私は~を約束します」という発話が、約束を巡って存在するルールに正しくかつ完全に従うことによって、約束という社会的な行為として発効するとき、そこには、約束した行為を引き続いて遂行する責務が生じることになる。 もし、このように義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、「私は~を約束します」という発話は、約束という社会的な行為の遂行としては不適切である。 もちろん、このような発話は、約束という社会的な行為を発効させはする。 すなわち、このような発話は、前期の二つの条件を充たすことによって社会的な行為としての約束を成立させはする。 従って、このような発話は、社会的な行為として無効である訳ではない。 しかし、義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、約束という社会的な行為は、確かに成立してはいるが、完了していない、あるいは履行されてはいない。 このように未完了あるいは不履行となる約束を成立させる発話は、無効ではないが、不適切あるいは義務違反なのである。 すなわち、義務付けられた後続行為の遂行されないような行為を発効させる発話は、社会的な行為の遂行としては不適切なのである。 さらに、オースティンは、この第三の条件に、後続行為の遂行が、発話主体によって、主観的に意図されていることをも含めている。 たとえば、約束の発話が為される場合、約束の履行が発話主体によって主観的に意図されていることが、その発話が社会的な行為として適切であるための必要条件になる、と言うのである。 しかし、後続行為が事実として遂行されることと、それが主観的に意図されることとの間には、厳密に区別されるべき、重大な相違が存在する。 すなわち、行為の事実的な遂行は、たとえば外的視点から観察可能であるが、行為の主観的な意図は、行為と独立には観察不能であるという相違である。 行為の主観的な意図は、観察される行為の原因として、その背後に仮設される存在なのである。 このような発話主体の意図は、発話が社会的な行為の適切な遂行であるための条件に対して、果たして、どこまで相関的なのであろうか。 むしろ、発話主体の意図の如何に拘わらず、後続行為が事実として遂行されるのであれば、発話は社会的な行為の適切な遂行となるのではないか。 これらの問題は、発話の慣習的なルールに基づく効力と、その主観的に意図された結果との区別と密接に関係している。 従って、これらの問題は、発語内行為と発語媒介行為との区別を検討する過程において、始めてその解答を見い出し得ると思われる。 そのために、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているという事態を、また別の角度から検討してみよう。 たとえば、「私は陳謝します」という発語を伴う(後に態度表明型と分類される)発語内行為を考えてみる。 「私は陳謝します」という発語が、陳謝という社会的な行為として発効するためには、前述の三条件に分類される、様々な条件が充たされていなければならない。 ととえば、第一の条件に分類される、私の行為が(陳謝の)相手に何等かの不利益を与えたという事実の存在、また、その不利益が私の行為によっては回避し得ない不可抗力によるものではないこと、さらに、相手に不利益を与えたとしてもなお私の行為を正当化し得る理由のないこと、といった様々な条件が充たされて始めて、「私は陳謝します」という発語は、陳謝という社会的な行為として発効するのである。 これらの条件のどれか一つ、あるいはその幾つかが充たされていない場合、「私は陳謝します」という発語は、社会的な行為としては、無効あるいは不適切となる。 たとえば、相手に何の不利益も与えていないのに、「私は陳謝します」と繰り返すことは、滑稽な錯誤でなければ、不幸な病気である。 言い換えれば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な効力を有するためには、発語をめぐる、発語自身とは独立な状況の、既述のような条件を充たしていることが、必要不可欠なのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力は、それに伴う発語行為の遂行される状況あるいは文脈に、決定的に依存しているのである。 従って、発語内行為は、それをめぐる状況あるいは文脈を参照することなしには、その効力を全く確定し得ないことになる。 この事態を、発語内行為の文脈依存性と呼ぶことにしよう。 発語内行為は、自らの内属する文脈が与えられて始めて、その効力を決定し得るのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているというオースティンの指摘は、取りも直さず、発語内行為は文脈依存的であるという事態の発見に外ならないのである。 ここで留意すべきは、発語内行為が、社会的に発効するための条件には、当の行為の主観的な意図は、必ずしも含まれていないということである。 たとえば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な行為として発効するためには、陳謝の主観的な意図は、必ずしも前提されないといった具合である。 すなわち、「私は陳謝します」という発語が、既述のような条件を充たす状況あるいは文脈において遂行されているのであれば、たとえ陳謝の主観的な意図が全く存在しないとしても、陳謝という社会的な行為は成立し得るのである。 あるいは、「私は陳謝します」という発語が、たとえば、私の行為によって相手が如何なる不利益も被っていない状況において、遂行されているとするならば、それが陳謝の主観的な意図に満ち溢れているものであったとしても、陳謝という社会的な行為は決して発効し得ないのである。 すなわち、発語内行為の効力は、それに伴う発語行為が遂行される文脈にのみ依存しているのであって、その主観的な意図からは全く独立しているのである。 陳謝のような、個体の主観的な情緒の表出であると普通は考えられている発話が、その主観的な情緒とは独立に、その社会的な文脈にのみ依存して、自らの効力を確定し得るという事態は、一見、意外に見えよう。 しかし、文脈依存的な発語内行為と、言わば意図あるいは情緒表出的な発語媒介行為とが、共に何等かの社会的な効果を発生させるにも拘わらず、互いに区別されねばならないのは、まさに、このような事態が見い出されるからに外ならないのである。 発語内行為と発語行為との関係については、前章に詳しく検討した。 そこで明らかになったことは、陳述の発話といった事実確認的発話にも、前述の三条件を充たしているか否かによって、その適切性を判定し得る発語内行為の位相が存在すること、また、命令や判定や約束やの発話といった行為遂行的発話と言えども、何等かの事態を指示するという意味において、発語行為の位相が存在することであった。 すなわち、発語内行為と発語行為は、同時に一つの発話の内に存在し得る、発話行為(言語行為)の二つの位相なのである。 この意味においては、発語媒介行為もまた、発語内行為や発語行為やと同様の、発話行為の一つの位相に外ならない。 あらゆる発話は、慣習的に根拠付けられた効力を発揮する行為(発語内行為)の遂行であり、かつ、客観的に対象化された事態を指示する行為(発語行為)の遂行である、と同時に、主観的に意図された結果を達成する行為(発語媒介行為)の遂行でもあり得るのである。 それでは、発語内行為と発語媒介行為とは、如何にして区別されるのであろうか。 両者が、何等かの社会的な効果を発生させる行為である、という点においては共通するにも拘わらず、前者が慣習的なルールによって根拠付けられる行為であるのに対して、後者はそうではない、という点において区別されるということは既に述べた。 オースティン自身は、両者の区別について、実はこれ以上立ち入った検討を加えてはいない。 しかし、このままでは、社会的な効果を発生させる発話行為の内で、慣習的なルールによって根拠付けられる部分以外の総ての残余が、発語媒介行為であるということになる。 これでは、ある発話が、その意図の如何に拘わらず、言わば偶然に何等かの社会的な結果をもたらす場合でも、それは発語媒介行為の概念に包摂されることになり、概念として広きに失すると思われる。 むしろ、発語媒介行為は、発話主体によって主観的に意図された何等かの社会的な結果を、効果的に達成する手段として遂行される発話行為を指示する概念として、より限定的に使用されるべきであると思われる。 すなわち、発語内行為と発語媒介行為とを区別するメルクマールは、前者の社会的な効力を発効させる根拠が、慣習的なルールであるのに対して、後者の社会的な結果を発生させる原因は、(発話主体の)主観的な意図であるという点に求められると考えるのである。 言い換えれば、発語内行為の純粋型が、その慣習的な適切性の問われる、行為の遂行(行為遂行的発話)であり、発語行為の純粋型が、その客観的な真理性の問われる、事態の記述(事実確認的発話)であるのに対して、発語媒介行為の純粋型は、その主観的な誠実性の問われる意図の表出(言わば意図あるいは情緒表出的発話か)であると分類してみるのである。 このように考えてみるならば、あらゆる発話を、発語主体の主観的な意図や情緒や目的やの表出に帰着し尽くし得るとする、言語の表出主義が、如何なる限界をもつ主張であるかが明らかとなる。 すなわち、表出主義は、発話行為の総てを、発語媒介行為の位相に還元し尽くし得るとする主張なのである。 しかし、これまで述べてきたこおから明らかなように、発話行為は、発語行為と発語媒介行為の位相の直和には、ついに分割され得ない。 発話行為には、発語内行為の位相が、紛れもなく存在するのである。 すなわち、記述主義という、いわば言語の物理主義的な理解も、また、表出主義という、いわば言語の心理主義的な理解も、慣習的なルールに従った社会的な行為の遂行としての言語の位相を、ついに捉え切れないのである。 言い換えれば、客観的な事実でもなく、あるいは、主観的な情緒でもなく、ただ、社会的な文脈にのみ依存して、その当否を決定される言語行為の位相の、確かに存在し得ることが、捉え切られねばならないのである。 このように、発語行為とも発語媒介行為とも区別される発語内行為は、それ自身幾つかの類型に区分し得る。 言い換えれば、発話行為の発揮し得る慣習的な効力は、幾つかの種類に分割し得る。 オースティンは、この発話行為の発揮し得る慣習的な効力を、発語内の力(illocutionary forces)と呼び、その分類を、発語内の力の分類と呼んでいる。 以下に見るように、発語内の力の分類は、本節の前半に述べた、発語内行為の適切性の条件の分類と、密接に関係しているとともに、一つの発話行為が、同時に三つの位相を持つという事態とも、深く拘わっているのである。 それでは、発話行為を、それが発揮する発語内の力の類型に対応させて、言い換えれば、それが遂行する発語内行為の類型に対応させて、以下に分類してみよう。 第一の類型は、権限行使型(exercitives)である。 これは、何等かの権能を行使する発話であり、たとえば、命令や許可の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第一の条件である、(権能を付与する)ルールの存在という条件を、その発語内の力の根拠とすることは明らかであろう。 第二の類型は、行為拘束型(commissives)である。 これは、何等かの後続行為を義務付けられる発話であり、たとえば、約束や支持の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第三の条件である、(義務付けられた)後続行為の遂行という条件を、その発語内の力の根拠とすることは言うまでもなかろう。 第三の類型は、判定宣告型(verdictives)である。 これは、事実的な証拠や規範的な理由といった根拠に基づいて、何等かの判断を述べる発話であり、たとえば、判定や評価の発話に代表される。 この類型は、証拠や理由の開示といった論理的な手続きの充足を、その判断の根拠とするという意味において、発語内行為が適切であるための第二の条件である、手続きの充足という条件を、その発語内の力の根拠としていると考えられる。 第四の類型は、言明解説型(expositives)である。 これは、陳述や記述の発話に代表される類型であるが、オースティン自身の定義は極めて曖昧である むしろ、この類型は、事実確認的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えた方がよいのではないか。 すなわち、この類型は、事実確認的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 第五の類型は、態度表明型(behabitives)である。 これは、発話主体の主観的な態度や情緒を表出する発話であり、たとえば、陳謝や祝福の発話に代表される。 しかし、この類型は、あくまで発話の持つ発話内の力の分類なのであるから、事実確認的発話や行為遂行的発話と同一平面上において対比される、情緒(あるいは意図)表出的発話それ自体ではあり得ない。 むしろ、この類型は、(発語媒介行為の純粋型である)情緒表出的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えるべきではないか。 すなわち、この類型は、情緒表出的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 ▼第五章 慣行と遂行 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 近代産業を推進する中心的な価値態度としての産業主義や手段主義、あるいは、近代科学を招来した価値態度とされている実証主義や記述主義といった、一連の合理主義とも言うべき世界の捉え方と、近代民主政治あるいは近代主権国家を支持する価値態度としての民主主義や主権主義、さらには、近代的自我あるいは「内面的意識」を析出する価値態度としての情緒主義や表出主義といった、一連の個体主義とも言うべき世界の捉え方とを、同時に懐疑し得る立脚点として、我々は、自生的秩序やルール、あるいは言語行為といった、遂行的に生成される社会秩序の概念を定礎してきた。 本節では、この《遂行的なるもの》とも言うべき概念の持つポテンシャルを、改めて評価してみたい。 すなわち、《遂行的なるもの》が、合理主義や個体主義を含めた概念のシステムの中で、如何なる位置価を持ち得るかを、正確に測定してみたいのである。 まず、合理主義によれば、世界は、ここでは差し当たり人間とその社会は、理性による意識的な制御あるいは言及の対象として捉えられる。 すなわち、世界は、合理的に制御可能あるいは言及可能な客体として把握されるのである。 何等かの目的を達成するために、世界を効率的に制御せんとする産業主義や手段主義、あるいは、総ての発話の真偽を、それが言及する対象の存否によって決定し得るとする実証主義や記述主義が、この意味における合理主義を、その共通の前提としていることは言うまでもない。 しかし、世界を、わけても人間とその社会を、合理的な制御あるいは言及の対象として捉え得るとする態度は、飽くまで一つの価値態度に過ぎないのであって、世界と我々との関係が、この態度のみによって覆い尽くされる筈のないことは、容易に理解されよう。 もちろん、このような態度によって捉え得る世界が、全く存在しないと言う訳ではない。 ただ、そのような世界が、世界の総てである筈はないと言っているのである。 この合理主義によって捉えられる世界を、世界の一つの捉えられ方であることに留意して、ここでは、《世界Ⅰ》と呼ぶことにしよう。 すなわち、《世界Ⅰ》とは、合理的に制御可能あるいは言及可能な対象として捉えられる世界の謂である。 次に、個体主義によれば、世界は、わけても人間の行為とそれによって形成される社会は、行為を遂行する個体の主観的な意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属され尽くし得る事態として捉えられる。 すなわち、人間の行為とそれによって形成される社会は、その個体的な意図や情緒や目的やに還元可能あるいは帰属可能な事態として把握されるのである。 この意味における個体主義が、社会の全体的な意志決定は、その社会を構成する諸個人の合意あるいは主権者の意志に還元され得るし、また、されるべきだと考える、民主主義あるいは主権主義の前提となっていることは言うまでもない。 さらに、このような個体主義は、人間の行為を、その主観的な意図に帰属させて理解する、言い換えれば、人間の行為を、その内面的な意識の表出として解釈する、情緒主義あるいは表出主義の前提をなす世界の捉え方でもある。 すなわち、個体主義は、人間の行為を帰属させ得る場所として、それを遂行する個体の内面に、「自我」と呼ばれる何ものかを仮設し、そのような「自我」の表現として、人間の行為を解釈するのである。 しかし、世界を、あるいは少なくとも人間とその社会を、個体に内蔵された意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属させて捉え得るとする態度によっては、たとえ世界を人間とその社会に限定してみたとしても、世界と我々の関係の、ついに覆い尽くされる筈のないことも、また、少し考えれば明らかであろう。 個体主義も、また、世界の一つの捉え方に過ぎないのである。 この個体主義の態度によって捉えられる世界を、ここでは、《世界Ⅱ》と呼ぶことにしよう、すなわち、《世界Ⅱ》とは、個体的な意識に還元可能あるいは帰属可能な事態として捉えられる世界の謂である。 この合理主義と個体主義とは、人間の行為を、何ものかを目指す志向的な事態であると見なす志向主義の産み落とした、一卵性双生児であると考えられる。 何故ならば、志向主義は、人間の行為を、志向的な事態であると捉えることによって、人間の行為に拘わる世界を、志向のベクトルの吸い込み口である、志向される対象(客体)と、志向のベクトルの涌き出し口である、志向する意識(主体)とに、二分して把握するからである。 すなわち、志向主義は、世界を、合理的な制御あるいは言及という志向的な行為の対象と、その志向的な行為が還元あるいは帰属される個体的な意識とに、二元的に分割するのである。 言い換えれば、志向主義は、世界を、《世界Ⅰ》と《世界Ⅱ》とによって、完全に分割し尽くし得ると主張するのである。 志向主義のもたらす、このような主客二元論こそ、近代の産業主義や科学主義、あるいは民主主義や自我主義に通底する、《近代的なるもの》それ自体に外ならないのである。 従って、志向主義として特徴付けられる、このような《近代的なるもの》から見るならば、世界は、客観的(あるいは合理的に制御可能)な《世界Ⅰ》であるか、さもなくば、主観的(あるいは個体的に還元可能)な《世界Ⅱ》であるかのいずれかであり、また、そのいずれかしかあり得ないことになる。 しかし、世界は、本当に主客いずれかでしかあり得ないのか。 あるいは、行為は、全くの志向的な事態であり得るのか。 この問いに答えるためには、世界を、わけても人間とその社会を、遂行的な事態として捉える視点が、改めて導入されねばならない。 《遂行的なるもの》とは、行為遂行の累積的な帰結として生成される秩序の謂である。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、行為自らの生成する秩序なのである。 人間とその社会を、この意味における《遂行的なるもの》として把握する態度は、《近代的なるもの》あるいは志向主義による人間と社会の捉え方を懐疑する、最も確かな立脚点となり得る。 すなわち、《遂行的なるもの》として捉えられる人間と社会は、合理的に制御可能(あるいは客観的)な《世界Ⅰ》でもあり得ず、かつ、個体的に還元可能(あるいは主観的)な《世界Ⅱ》でもあり得ない、世界の第三の可能性を示しているのである。 このような《遂行的なるもの》が、いかなる意味において、制御可能ではあり得ず、また、還元可能でもあり得ないかについては、続いて述べる。 ここでは、客観的でもなく、主観的でもない、遂行的な事態として捉えられる世界を、《世界Ⅲ》と呼ぶことにしよう。 人間の行為を、志向的な事態として把握する態度によっては、ついに捉え得ない人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》という在り方に外ならない。 すなわち、《近代的なるもの》と真っ向から対立する人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》に外ならないのである。 それでは、《世界Ⅲ》すなわち《遂行的なるもの》としての人間と社会は、何故に、合理的に制御可能な事態とも、さらには、個体的に還元可能な事態ともなり得ないのか。 あるいは、人間の行為は、如何なる意味において、志向的な事態ではあり得ないのか。 これらの問いが答えられねばならない。 《遂行的なるもの》は、個体の意図や情緒や目的やに還元あるいは帰属され得ず、むしろ、個体の行為が行為として発効するための根拠となるという意味において、規範的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図には、ついに還元不能あるいは帰属不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》を生成する行為それ自体の、行為として発効し得るか否かは、その主観的な意図とは全く独立に、その社会的な文脈にのみ依存して決定されるからである。 すなわち、行為の文脈依存的であることとは、取りも直さず、行為の発効し得るか否かが、自らの生成する《遂行的なるもの》を根拠として決定されることに外ならない。 しかし、《遂行的なるもの》の還元不能性を帰結する、行為の文脈依存性という命題において、行為の依存する文脈それ自体が《遂行的なるもの》であるとするならば、そこには、何等かの循環論あるいは論理的なパラドックスをが発生するのではないか。 しかし、この問題の検討は、後段に委ねることにして、差し当たり、行為の依存する文脈それ自体は、行為と独立に与えられていると仮定して置くことにしたい。 行為は、何故に、その主観的な意図に還元あるいは帰属され得ない、文脈依存的な事態であるのか。 たとえば、陳謝という行為のように、主観的な意図の表出以外の何ものでもないと見なされる行為ですら、陳謝の行為として発効しうるためには、その主観的な意図とは全く独立な、幾つかの条件 - 自己の行為によって他者に損害が生じたという事実の存在、他者に損害を与えたとしてもなお自己の行為を正当化し得る理由(たとえば正当防衛など)の不在等々 - を充たさねばならない。 自分が相手に何の危害も加えていない場合や、相手の暴力を避けるため相手に触れた場合やに、陳謝の言葉を発する行為は、たとえ、それが陳謝の主観的な意図に充ち溢れたものであったとしても、滑稽な錯誤の行為であるか、さもなくば、卑屈な追従の行為である、と見なされるのが落ちなのであって、真摯な陳謝の行為としては、決して発効し得ないのである。 あるいは、むしろ、陳謝の主観的な意図そのものでさえ、陳謝という行為が、ある文脈の下で発効することによって始めて、その文脈に応じた内容を持つものとして確定されるといった、文脈依存的な事態なのであると言ってもよい。 すなわち、行為を遂行する個体の内面的な意識は、行為の遂行される文脈が与えられて始めて、その内容を決定し得るのである。 従って、行為は、その主観的な意図に帰属させて解釈し得る筈もなく、その社会的な文脈に依存させて始めて、その効力(あるいは「意味」)の何たるかを決定し得るのである。 ゆえに、行為とそれによって生成される秩序は、個体的に還元可能ではあり得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅱ》ではあり得ないのである。 それでは、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》であり得るのか。 《遂行的なるもの》は、合理的に制御あるいは言及し得る対象とは、ついになり得ないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その意識的な対象としては、制御不能あるいは言及不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》とは、何等かの文脈あるいはルールに依存して、自らの発効し得る否かを決定される、行為の秩序に外ならないのであるから、その全体を対象として制御あるいは言及する行為は、自らの依存しているルールそれ自体をも、その対象として制御あるいは言及せざるを得ないことになる。 すなわち、《遂行的なるもの》を対象として制御あるいは言及せんとする行為は、自らを妥当させる根拠としてのルールそれ自体を、その対象とせざるを得ないという意味において、まさに自己組織(制御)あるいは自己言及の行為に外ならないのである。 従って、《遂行的なるもの》に対する制御あるいは言及は、いわゆる自己組織あるいは自己言及のパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、それを対象として意識的に制御あるいは言及せんとするならば、制御の効率や言及の真偽をも含む、あらゆる行為の当否を、全く決定し得なくなるという意味において、制御不能あるいは言及不能とならざるを得ないのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、それに対する制御あるいは言及が、自己組織あるいは自己言及とならざるを得ないがゆえに、暗黙的となるのである。 行為の当否を決定するルールに対する制御あるいは言及の行為、すなわち、自己組織あるいは自己言及の行為は、何故に、行為の当否を決定不能に、従って、それが生成する秩序を制御不能に陥れるのであろうか。 たとえば、「私の決定は妥当しない」と私は決定する、といった典型的な自己言及(決定)の場合を考えてみる。 この場合、私の決定は妥当すると仮定すれば、私の決定は妥当しないことが帰結され、逆に、私の決定は妥当しないと仮定すれば、私の決定は妥当することが帰結される。 すなわち、この場合、私の決定の妥当するか否かは、決定不能い陥っているのである。 一般に、自己組織、自己言及、あるいは自己回帰といった循環的な事態は、この種の論理的なパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体への制御あるいは言及である。 自己組織あるいは自己言及の試みは、自らの妥当し得るか否かの決定不能を帰結することによって、挫折せざるを得ないのである。 従って、制御や言及やをも含む行為の秩序である《遂行的なるもの》は、合理的に制御可能とも言及可能ともなり得ない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》では、決してあり得ないのである。 これまでの考察から明らかなように、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》でも、あるいは、《世界Ⅱ》でもあり得ない。 《遂行的なるもの》は、《遂行的なるもの》によってはついに捉え得ない、世界の第三の可能性としての《世界Ⅲ》なのである。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為遂行の累積的な帰結として、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図にも還元され得ず、また、その意識的な対象としても制御され得ない、規範的かつ暗黙的な事態なのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、その構成要素たる行為の文脈依存的であるがゆえに、また、それを対象とする行為の自己言及的であるがゆえに、個体的に還元不能かつ合理的に制御不能となるのである。 行為は、何等かの文脈あるいはルールに従うことによって始めて、行為として発効し得る。 言い換えれば、行為は、自らを妥当させる根拠として、何等かの文脈あるいはルールを前提せざるを得ない(文脈依存性)。 この意味において、行為は、文脈やルールやといった秩序から、ついに逃れ得ないのである。 すなわち、行為にとっては、従うべきいかなる文脈やルールやをも見い出し得ない、秩序の全き「外部」など、決して存在し得ないのである。 しかし、行為に、その妥当根拠を与える、文脈あるいはルールそれ自体には、いかなる妥当根拠も在り得ない。 ルールの妥当し得るか否かを決定する根拠を、ルールそれ自体に委ねたとしても、あるいは、ルールを根拠として、自らの妥当し得るか否かの決定される、行為に委ねたとしても、ルールの妥当し得るか否かは、ついに決定し得ないからである(自己言及性)。 すなわち、ルールは、自らの発効し得るか否かを、その「内部」においては、ついに決定し得ない秩序なのである。 しかし、そのような秩序は、《遂行的なるもの》としてしか在り得ない。 すなわち、そのようなルールは、行為遂行の累積的な帰結としてしか在り得ないのである(行為累積性)。 従って、ルールは、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によっては設定され得ない秩序であることが明らかになる。 言い換えれば、ルールは、行為によって意識的には語り得ず、ただ、行為において遂行的に示される秩序なのである。 《遂行的なるもの》は、行為の当否を決定する根拠であるとともに、自らは如何なる根拠も持ち得ず、行為の意図的な設定にもよらない、行為の累積的な帰結として生成される秩序である。 このような《遂行的なるもの》は、日常言語において、慣習(convention or practice)と呼ばれる事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、慣習とは、規範的、暗黙的かつ累積的な事態に外ならないのである。 あるいは、慣習とは、個体的に還元不能であり、合理的に制御不能でもある、世界の第三の可能性であると言ってもよい。 従って、個体的な主観としての《世界Ⅱ》や、合理的な客観としての《世界Ⅰ》やに対して、《世界Ⅲ》は、慣習的な遂行として捉えられることになる。 個体主義と合理主義とを共に懐疑し得る、《遂行的なるもの》の視点は、いわば慣習主義とでも呼ぶべき視点なのである。 この慣習という概念こそ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール論、さらにはオースティンの言語行為論を通底する、キー・コンセプトに外ならない。 すなわち、自生的秩序論においては、その自己言及性(制御不能性)が、また、ルール論においては、その外的視点から見た自己言及性(無根拠性)とその内的視点から見た文脈依存性(従根拠性)の双方が、さらに、言語行為論においては、その文脈依存性(還元不能性)が強調されつつも、慣習という概念の三つの構成要素である、文脈依存性、自己言及性、行為累積性の総てが、いずれの議論においても等しく登場している。 自生的秩序もルールも言語行為も、文脈依存性、自己言及性、行為累積性のトリニティを、その不可欠の構成要素としているのである。 市場も貨幣も法も権力も社交も言語も技能も儀礼も流行も、およそ社会あるいは文化と呼び得る総ての事態は、人間という事態をも含めて、《遂行的なるもの》として捉えられる。 すなわち、社会も文化もさらには人間それ自体も、慣習という事態に外ならないのである。 この発見は、あまりに当然と思われるかも知れないが、その含意は、極めて重大である。 しかし、その検討は、次節に委ねたい。 ◆2.新しい保守主義 保守主義とは、近代啓蒙の批判に外ならない。 近代自然法思想を含めた啓蒙の哲学は、社会と人間の、合理的に制御し得ること、あるいは、個体的に還元し得ることを主張して止まない。 啓蒙の哲学は、社会と人間の合理化と個体化(rationalization and individualization)を称揚する、近代進歩主義の原型なのである。 このような啓蒙の哲学が、その淵源をどこまで遡り得るかについては、様々な議論があり得よう。 しかし、ここでは、それが、17・18世紀の200年を通じて形作られて来た、ある精神の型に過ぎないことを確認しておけば、差し当たり充分である。 むしろ、ここで問題にしたいのは、その啓蒙の精神が、フランス革命、さらには産業革命と民主革命の進行に伴って、我々の文明の最も誇るべき価値であるかのように、この世界に拡散して来たという事態である。 合理化と個体化を称揚する精神は、産業化と民主化の激流に翻弄された19世紀はもとより、20世紀末の今日においても、なお我々の文明の中心に位置するかのように見受けられる。 「情報化」という名の新たな産業化と、「差異化」という名の新たな民主化は、我々の時代を画する進歩の旗印として持てはやされている。 啓蒙の精神は、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放というスローガンを高く掲げた、近代進歩主義の運動を、このニ世紀に亘って導いて来たのである。 もちろん、このニ世紀に亘る進歩主義の運動が、極めて多様な傾向を孕んでいることは言うまでもない。 そこには、いわゆる啓蒙主義によって導かれた、自然人権と国家集権を求めるフランス革命の運動もあれば、功利主義によって導かれた、自由化あるいは社会化を目指す漸進の運動もあり、さらには、マルクス主義によって導かれた、人間解放と社会管理のための革命運動もある。 しかし、これらの運動は、社会と人間の、産業化あるいは合理化と、民主化あるいは個体化を、意図的にあるいは結果的に推進したという点において、ほとんど選ぶ処はない。 いわゆる啓蒙主義はもとより、功利主義も、さらにはマルクス主義もまた、近代啓蒙の嫡出子なのである。 保守主義は、このような近代啓蒙の一貫した批判者である。 言うまでもなく、近代保守主義は、フランス革命のもたらした、社会の、理性による専制支配と、原子的個人への平準化の危機に抗して、「自由で秩序ある社会」を擁護すべく、エドモンド・バークによって創唱されたものである。 もちろん、保守主義的な態度が、バーク以前に存在しなかった訳ではない。 未知の変化に抗して、既知の安定を擁護しようとする態度は、むしろ人類と共に古いとも考えられ得るし、啓蒙の精神が形を成して来た、17・18世紀においても、それに対抗する態度は常に存在していたのである。 通俗的に言われるよりも遥かに深く、キリスト教を始めとする中世的あるいは近世的な伝統の内に生きていた、17・18世紀においては、むしろ啓蒙の精神こそが、西欧一千年の伝統から逸脱した、その対抗思想に過ぎなかったとも言えよう。 従って、17・18世紀においては、保守主義の、敢えて名乗りを挙げる必要は、必ずしもなかったのである。 何故ならば、保守主義とは、進歩主義の侵攻が、無視し得ぬまでに拡大して始めて、それを迎撃すべく、自らの重い腰を上げる性質のものだからである。 しかし、フランス革命を境として、進歩主義の侵攻は、もはや何人によっても無視し得ぬ段階に立ち至った。 フランス革命以降、産業主義と民主主義の進行に従って、進歩主義は、貴族制度や大土地所有やキリスト教やといった、あらゆる中世的(あるいは近世的)な伝統に次々と攻撃を加え、「自由で秩序ある社会」を決定的な危機に陥れたのである。 バークの闘った闘いは、このような進歩主義との闘いの緒戦を成すものであった。 フランス革命の啓蒙主義と闘ったバークを皮切りに、進歩主義のもたらす、合理的な専制と個体的なアノミーに抗する闘いは、このニ世紀に亘って、陸続と闘い継がれて来た。 近代保守主義とは、合理化と個体化という革命運動に抗する、不断の闘いそれ自体なのである。 言い換えれば、保守主義とは、啓蒙の精神の産み落とした、合理主義と個体主義の狂気に抗して、何等かの伝統に係留された、「正気の社会」を擁護する、終わりなき闘いの中にしかあり得ないのである。 それでは、保守主義は、何故に合理主義と個体主義を拒絶するのであろうか。 あるいは、また、保守主義は、如何にして啓蒙の精神を否定するのであろうか。 さらに、保守主義は、そのような拒絶や否定を通じて、何故に伝統を擁護することに至るのであろうか。 あるいは、そもそも、保守主義にとって、その擁護すべき伝統とは何であるのか。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、前節までの議論と保守主義とを結び付ける、《失われた環》を見い出すことに外ならないのである。 保守主義は、社会と人間の、理性によって制御し得ることを否定する。 社会と人間が存続していくためには、理性によっては認識し得ないが、行為においては服従し得る、何等かの暗黙的な知識が不可欠なのであって、社会と人間の全体を、理性によって制御することなど、自分の乗っている木枝の根元を、自分で切る類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、理性の行使をも含めて、語り得ずただ従い得るのみの知識を前提として、始めて可能となるのであって、その暗黙的な前提をも含めた、自らの総体を制御することなど、全く不可能なのである。 人間の行為の不可欠な前提である、このような暗黙的知識は、理性的な行為の対象とならないがゆえに、その正当性を合理的には根拠付け得ない。 すなわち、このような暗黙的知識は、正当化し得ない無根拠な知識であるという意味において、まさしく偏見(prejudice)に過ぎないのである。 従って、人間の行為は、自らは何の根拠も持ち得ない偏見を前提として、始めて可能であることになる。 保守主義は、人間の生きていくために、暗黙的で無根拠な偏見に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、合理主義とは、合理的に制御し得ないものを制御せんとする、言わば暴力的な試みなのである。 そのような試みを、敢えて実行しようとするならば、制御の主体は、社会に対して、自らの意志を盲目的に強制する以外の、いかなる手段も持ち得ないことになる フランス革命やロシア革命、さらにはナチス・ドイツの経験が明らかにしたように、合理主義の行き着く先は、効率的な暴力を背景とする、野蛮な専制支配の外ではあり得ないのである。 保守主義は、社会と人間の、個人へと還元し得ることを否定する。 人間の行為は、それを取り巻く社会的、文化的な状況が与えられて、始めてその意味を決定し得るのであって、人間の行為の意味を、個人の内面的な意識へと還元することなど、言葉の意味を、他の言葉の意味との対比関係から切り離して、単独に決定する類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、他者の行為との関係をも含む、全体的な状況の中に位置付けられて、始めて成立し得るのであって、その全体的な状況が、個人の行為に還元し尽くされることなど、決してあり得ないのである。 人間の行為の成立/不成立を決定する。このような全体的状況は、行為の成否を決定する根拠となる、あるいは、行為の成立を正当化する理由となる、という意味において、規範的と言い得るものである。 すなわち、このような全体的状況は、行為を根拠付け、行為を正当化し得る、という意味において、まさしく権威(authority)と呼ぶべき事態なのである。 従って、人間の行為は、その根拠として服従すべき権威を前提として、始めて成立することになる。 保守主義は、人間の生きていくために、全体的で規範的な権威に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、個体主義とは、自らの拠って立つ不可避の基盤を見失った、個体の自己過信の外ではない。 個体主義とは、個体的に還元し得ないものを還元せんとする、いわば?神的な営みなのである。 そのような営みを、敢えて遂行しようとするならば、個人は、他者の、従って自己の行為の何であるかを全く了解し得ない、アノミーの深淵に立ちすくむことになるだけではない。 19世紀には絶望とともに予感され、20世紀には希望とともに実現された、高度大衆社会の実現が明らかにしたように、個体主義の精神がもたあすものは、無神論の深淵ではなく、神でも何でも手軽に信じて気軽に忘れる、多幸症の浅薄というアノミーに外ならないのである。 このように合理主義と個体主義を拒絶する、保守主義の橋頭堡としての偏見と権威が、理性によって意図的に設定されたものでも、個人によって意識的に合意されたものでもあり得ないことは言うまでもない。 偏見と権威は、行為の持続的な遂行の累積的な帰結として、自然発生的に生成されるものなのである。 すなわち、偏見と権威は、合理的な設定によらず、個体的な合意によらず、ただ遂行的にのみ生成される、まさに伝統(tradition)と呼ばれるべき事態なのである。 偏見とは、いかなる合理的な根拠も持ち得ない、俗なる伝統に外ならず、権威とは、あらゆる個体の根拠として従うべき、聖なる伝統に外ならない。 伝統とは、自らの如何なる根拠も持ち得ずに、他の一切の根拠として従われるべき、俗にして聖となる歴史の堆積なのである。 言い換えれば、伝統とは、歴史の試練に辛くも耐えて、偏見と権威の内に記憶される、生きられた経験に外ならないのである。 従って、偏見と権威に支えられて始めて成立し得る、人間とその社会は、このような伝統に従うことを、その不可避の条件とすることになる。 保守主義は、人間と社会の生きていくことが、つまるところ、伝統に回帰する以外にはあり得ないことを、強く主張するのである。 近代啓蒙の精神は、このような伝統や偏見や権威やを、蛇蝎の如く忌み嫌う。 因習や俗信や抑圧やから、人間を救済し、理性と自我との赴くままに、世界を革新すること、これが啓蒙の企てなのである。 しかし、保守主義から見るならば、このような啓蒙の企てこそが、合理主義的な抑圧と個体主義的な俗信とをもたらす当のものに外ならない。 近代啓蒙の精神は、不断に進歩することを、まさに因習となすことによって、専制的な抑圧とアノミックな俗信とを、常に帰結せざるを得ないのである。 保守主義のこのような回帰する伝統とは、合理的に制御し得る客観的なものではあり得ず、また、個体的に還元し得る主観的なものでもあり得ない、遂行的に生成される、言わば第三のものであった。 すなわち、伝統とは、客観的な自然でもあり得ず、主観的な意識でもあり得ない、第三の領域なのである。 このような第三の領域は、日常言語において、社会、文化、あるいは制度と呼ばれる領域に外ならない。 保守主義は、伝統に回帰することによって、客観的な自然法に根拠付けられる訳でもなく、主観的な社会契約に還元される訳でもない、社会という領域を再発見したのである。 言い換えれば、保守主義は、啓蒙思想による、理性と個人の発見に幻惑されて、一度は忘却の淵に立たされた、社会という現象を、再び見い出したのである。 社会の発見は、17・18世紀思想における理性と個人の発見に鋭く対比される、19・20世紀思想の鮮やかな特徴をなしている。 もちろん、合理主義と個体主義の哲学は、20世紀末の今日においてもなお有力なのではあるが、18世紀と19世紀の境に起こった転換以来、社会の、合理主義と個体主義によっては、ついに捉え得ない、という了解もまた、我々の共有財産となっているのである。 この意味において、保守主義は、社会についての哲学を、近代において始めて可能とした思想であると言えよう。 保守主義の歴史とは、取りも直さず、近代社会哲学の歴史に外ならないのである。 保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、合理的な客観としての自然でもなく、個体的な主観としての意識でもない、慣習的な遂行としての社会を、近代において始めて発見した。 すなわち、保守主義は、社会を、自らは如何なる合理的な根拠も保持せずに、自らにあらゆる個体的な行為を従属させる、遂行的な秩序として捉えることによって、近代社会哲学を創始したのである。 保守主義のこのように発見した社会が、前節に述べた《遂行的なるもの》と、ほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 《遂行的なるもの》とは、あらゆる行為がその成立/不成立を依存せざるを得ない文脈であり、また、いかなる根拠付けも自己に回帰する言及となるがゆえに不能である、遂行的な秩序のことであった。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、個体的に帰属し得ず、合理的に言及し得ない、慣習的な秩序のことである。 従って、保守主義の発見した社会は、《遂行的なるもの》と、極めて正確に一致していることになる。 すなわち、保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、取りも直さず、《遂行的なるもの》を発見していたのである。 あるいは、むしろ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール、オースティンの言語行為、さらにはウィトゲンシュタインの言語ゲームを通底する、《遂行的なるもの》こそが、保守主義のニ世紀に亘って護り続けて来た伝統の、現代における再発見なのであるとも言い得よう。 20世紀哲学の到達した地点は、保守主義の歴史の新たな一ページなのである。 すなわち、ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインの到達した哲学は、20世紀末における新しい保守主義に外ならないのである。 もちろん、ハイエクもハートもオースティンも、さらにはウィトゲンシュタインも、自らを保守主義者と名乗っている訳では些かもない。 従って、現代における新しい保守主義を考察するためには、彼らの哲学よりも、むしろ、現代における正統的な保守主義者、たとえばマイケル・オークショットなどの哲学を検討すべきではないのか、という指摘も尤もである。 わけてもオークショットの社会哲学は、イギリス保守主義の掉尾を飾るものとして、是非とも検討されねばならない。 しかし、現代においては、保守主義者を名乗る人々の哲学が、必ずしも保守主義の哲学であるとは限らない。 啓蒙の哲学が、あたかも正統思想であるかのように流布されている現代においては、保守主義を騙って啓蒙を喧伝する輩が、跡を絶たないのである。 保守主義とは、まず何よりも啓蒙の批判に外ならない。 従って、現代における新しい保守主義の探求とは、取りも直さず、現代における反啓蒙の哲学の検討であらねばならぬのである。 ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインが、このような現代における反啓蒙の急先鋒であることは紛れもない。 本書は、経済哲学、法哲学、言語哲学を含む社会哲学の、20世紀における大立者達の言説の内に、現代における反啓蒙の、従ってまた、現代における新しい保守主義の可能性を探って見たのである。 20世紀末の保守主義は、自生的秩序やルールや言語行為や、さらには言語ゲームの哲学の内に、その新たな表現様式を見い出しているのである。 このような20世紀末の新しい保守主義が、ニ世紀に亘る保守主義の歴史に、何か付け加えたものがあるとするならば、それは、啓蒙の運動が不可能であることの、新しい表現様式である。 新しい保守主義は、社会と人間が、自らの要素である行為の文脈依存的であるがゆえに、個体的に還元され得ず、また、自らを対象とする行為の自己言及的となるがゆえに、合理的に制御され得ないことを主張する。 すなわち、新しい保守主義は、社会と人間の個体化と合理化という、啓蒙の運動の不可能であることを、言語行為論あるいは言語ゲーム論に準拠して主張するのである。 保守主義は、その誕生以来、時代の進歩主義に対応する、様々な表現様式に身を託して、合理化と個体化の不可能であることを主張し続けて来た。 新しい保守主義の準拠する、言語行為論あるいは言語ゲーム論もまた、20世紀末の進歩主義に対応する、そのような表現様式に外ならないのである。 いずれにせよ、保守主義によれば、社会と人間の合理化と個体化は、原理的に不可能である。 社会と人間に対する、進歩主義の貫徹は、所詮出来ない相談なのである。 そのような進歩主義を、敢えて貫徹しようとするならば、社会と人間は、暴力的な専制と涜神的なアノミーとへの分解によって、破壊し尽くされざるを得ない。 進歩主義は、その建設への意志とは裏腹に、社会と人間を、ついに崩壊へと導かざるを得ないのである。 まさしく、滅びへの道は、善意によって敷き詰められている。 従って、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の生き方についての、可能な二つの道の対立などでは全くない。 進歩主義の道は、社会と人間の死滅に至る、不可能な道なのであって、社会と人間の辛くも生存し得る、唯一の可能な道は、保守主義の道なのである。 すなわち、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の存続し得るか否かを賭けた、全く抜き差しならぬ対立なのである。 この命題は、もとより、一般の社会と人間についても成立し得ると思われるが、ここでは、その近代の社会と人間についての成立が確認されねばならない。 すなわち、近代の社会と人間は、あたかも近代の正統思想であるかのように見なされている、進歩主義のみによっては、自らの存続すらをも保証し得ないのである。 言い換えれば、近代の社会と人間が、数世紀に亘って辛くも存続しているとするならば、それは、金ぢあの社会と人間が、己の意識するとしないとに拘わらず、保守主義を、事実として生きてしまっているからに外ならない。 近代の社会と人間は、あたかも反近代の異端思想であるかのように見なされている、保守主義を生きることによって始めて、自らの存続を辛くも保ち得るのである。 これは、何の逆説でもない。 社会と人間は、まさにそのようなものとして、生きられているのである。 ◆3.保守主義とは何でないか 前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。 ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.解釈学的社会学へ 本書のこれまでの諸章は、オースティンの言語行為論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、保守主義の社会哲学との関連を述べている。 主としてイギリスの20世紀哲学と保守主義との関連を述べて来たのである。 尤も、オースティンとハートは、確かにオックスフォードの人であるが、ウィトゲンシュタインとハイエクは、言うまでもなくウィーンの人である。 しかし、今世紀初頭のウィーン哲学は、必ずしもドイツ哲学の本流とは言い得ず、むしろイギリスにおいて活躍する人々の方が多かったと言っても過言ではない。 ウィーンの哲学は、ドイツにおけるイギリス哲学なのである。 いずれにせよ、本書のこれまでの諸章は、イギリス哲学に焦点を絞って来たのである。 ところが、これまでの論述において、20世紀イギリス哲学の行き着いた地平を辿って行く内に、それが、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学の行き着いた地平と、極めて類似していることに幾度となく気付かされざるを得なかった。 村上泰亮の言葉を借りれば、「後期のウィトゲンシュタインは、ほとんど現象学への - 言わば裏側からの - 復帰を果たしているように映るのである」。 従って、20世紀イギリス哲学の帰結に、保守主義の社会哲学を読み込む本書としては、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学と、それがもたらす社会哲学上の帰結に目を向けない訳にはいかない。 本書は、解釈学的社会学の方へと、呼ばれざるを得ないのである。 しかし、19・20世紀におけるドイツの社会哲学を取り上げるには、いささかの勇気が必要とされる。 それは、私自身が、これまで主としてイギリスの社会哲学を読み継いで来たという、研究経歴上の問題のためだけではない。 19・20世紀ドイツの社会哲学が輝かしいものであればある程、何故にドイツは、今世紀の二つの大戦において、あのように凄惨な敗北を喫さねばならなかったのか、という問いが否応なく覆い被さって来るからである。 もとより、ある言語による社会哲学に、その言語圏に属する国家社会の歴史的運命への、直接の責任が有り得よう筈もない。 しかし、ある社会における思想の在り様が、その社会の歴史的な運命に全く無関係であることもまた有り得ない。 ドイツの社会哲学は、ドイツの運命的な敗北に、何等かの関係を持っている筈なのである。 それでは、近代ドイツ思想と近代ドイツ社会の運命は、如何ように交錯するのであろうか。 この問いを問い切るためにこそ、些かの勇気が必要とされるのである。 何故ならば、この問いに対する答え方によっては、いわゆる戦後的な「常識」に、真っ正面から対立せざるを得なくなる場合も、充分に想像し得るからである。 このような勇気は、決定的な敗北ということをついぞ知らない、近代イギリスの社会哲学を取り上げるに当たっては、必ずしも必要とはされない。 しかし、たとえば近代日本の社会哲学を取り上げようとするならば、是が非でも必要とされるものである。 蓋し、近代日本社会もまた、過ぐる大戦において歴史的な敗北を喫したのであり、そのことと、近代日本思想との関係もまた、避けては通れない問いだからである。 いずれにせよ、近代ドイツの社会哲学あるいは近代日本の社会哲学を取り上げんとする試みは、少なくとも私には、些かの勇気を必要とする試みであるように思えてならないのである。 従って、以下の試みは、ささやかな覚悟を秘めてのことである。 20世紀末の時点に立って、ドイツの哲学を概観するならば、そこには、大きく三つの潮流の存在していることが見て取れる。 一つは、現象学あるいは解釈学に代表される潮流であり、二つは、フランクフルト学派あるいは批判理論に代表される潮流であり、三つは、分析哲学あるいは批判的合理主義に代表される潮流である。 これらの三潮流は、それぞれに社会哲学上の帰結を含意している。 すなわち、第一の潮流は、解釈学的社会学を、第二の潮流は、批判社会学を、第三の潮流は、機能主義社会学を含意しているのである。 これら三潮流を、その相互連関に留意しつつ、大胆に要約するならば、まず、第二の批判理論とは、たとえば人間の解放といった普遍妥当的とされる根拠に基づいて、社会の総体を批判しさらには変革し得るとする哲学であって、マルクスとフロイトの継承線上に位置することを、自他共に認める立場である。 次に、第三の批判的合理主義あるいは機能主義とは、人間の知識に普遍妥当的な根拠付けなど可能ではなく、知識とは、自らを妥当させる根拠(たとえば反証可能性基準)それ自体の選択をも含めた、自由な決断に外ならないとする哲学であって、三潮流の中で唯一、現代的な科学の方法論であり得ることを自負している立場である。 これらに対して、第一の解釈学とは、人間とその社会あるいは文化の解釈は、たとえば社会の伝統といった自らを妥当させる根拠をも、自らの対象とせざるを得ないのであるから、自らの普遍妥当性を根拠付け得る筈もなく、しかし、自らの妥当根拠を自由に選択し得る訳でもないとする哲学であって、19世紀以来のテクストあるいはコンテクスト解釈学の伝統に棹さす立場である。 言い換えれば、 批判理論とは、価値と認識についての普遍主義あるいは客観主義の視点に立つ、実践の哲学であり、 批判的合理主義とは、価値と認識についての相対主義あるいは主観主義の視点に立つ、科学の哲学であるのに対して、 解釈学とは、客観主義あるいは主観主義のいずれでもない言わば第三の視点に立つ、伝統の哲学なのである。 このような大胆な要約を示されれば即座に、幾つもの疑問が涌き上がって来て当然である。 たとえば、解釈学のいう伝統と、現象学の言う《生活世界》とは、果たして如何なる関係にあるのか、また、実践哲学の復権が言われる中で、批判理論は、果たして如何なる位置を占めるのか、さらに、批判的合理主義の言う仮説選択と、機能主義の言う《システム》選択とは、果たして異なった概念であるのか、等々の疑問である。 しかし、本論においては、これらの疑問にこれ以上立ち入ることはしない。 これらの疑問を詳細に検討するためには、遥かに充分な準備が必要とされるからである。 むしろ、本論においては、人間とその社会あるいは文化を解釈するという、解釈学的な問題の構造を解析することによって、何故に、批判理論と機能主義(批判的合理主義)が社会理論として不可能となり、解釈学的な社会理論のみが可能となるのかを検討してみたい。 さらに本論においては、そのような解釈学的社会学が、何故に保守主義であらねばならぬのかも検討してみたい。 これらの検討を通じて、伝統へ回帰することが、社会を解釈することの、逃れ得ぬ条件であり、かつ、避けられぬ帰結であることが、明らかになると思われる。 ◆2.自己関係性の構造 人間や社会や文化を解釈するという行為は、一体、いかなる特徴を持った行為であるのか。 この問いを問う前に、まず、社会という事態を如何に把握すべきかについて、多少なりとも議論して措く必要がある。 社会とは、差し当たり、人間の行為の集合である。 しかし、このような行為空間に、何等かの構造、形式あるいは秩序が導入されて始めて、社会は、社会として発見され得る。 すなわち、社会とは、何等かの構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間なのである。 ここに言う、行為空間に何等かの構造、形式あるいは秩序が存在するとは、ある行為空間に内属する行為が、何等かの根拠に基づいて、その妥当であるか否か、あるいは、その有効であるか否かを、ほとんどあらゆる場合に決定され得る、という事態に外ならない。 言い換えれば、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間とは、自らに内属する殆どあらゆる行為の、妥当であるか否か、あるいは、有効であるか否かを、常に決定し得る行為空間なのである。 ここでは、この意味において、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間を、秩序付けられた行為空間と呼び、そのように行為空間を秩序付ける、すなわち、行為の妥当性あるいは有効性を決定する根拠となるものを、行為のノルム(規範)、ルール(規則)あるいはコンテクスト(文脈)と呼ぶことにしたい。 すなわち、行為は、何等かの規範、規則あるいは文脈に依することによって始めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのであり、また、行為空間は、何等かの規範、規則あるいは文脈が導入されて始めて、秩序付けられるのである。 従って、社会とは、何等かの文脈によって秩序付けられた、行為空間に外ならないことになる。 言い換えれば、社会とは、何等かの文脈に依存することによって始めて、自らの妥当しうるか否かを決定し得る、行為の集合に外ならないのである。 このような社会という事態を解釈する行為は、一体、如何なる特徴を持つのであろうか。 行為という事態を、一篇のテクストに譬えることが許されるならば、ある文脈に依存することによって始めて、自らの当否を決定し得る場合、すなわち社会を解釈する行為は、あるコンテクストに依拠することによって始めて、自らの意味を決定し得るテクストの集合を解釈する行為に外ならない。 言い換えれば、社会の解釈とは、あるコンテクストを共に織り成している、テクストの束を解する行為に外ならないのである。 さらに言えば、この解釈する行為それ自身もまた、一篇のテクストに外ならず、何等かのコンテクストに依拠することによって初めて、自らの意味を決定し得る。 すなわち、解釈する行為それ自身もまた、行為である以上、何等かの文脈に依存することによって初めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのである。 従って、社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会、すなわち秩序付けられた行為空間とは差し当たり区別される、何等かの秩序付けられた行為空間に内属することになる。 すなわち、社会を解釈する行為は、それ自身もまた行為であるがゆえに、言わばメタ社会とでも呼ぶべき社会に内属せざるを得ないのである。 この解釈行為の内属する(メタ)社会と、解釈行為の対象とする(対象)社会とが、同一ではないとするならば、社会を解釈するに当たって特徴的な問題は生じ得ない。 言い換えれば、解釈行為の依存する文脈と、対象社会を秩序付ける文脈とが、異なるものであるとするならば、次節以降に述べるような問題は生じ得ないのである。 しかし、社会を解釈するという課題は、対象社会とメタ社会との峻別を、ついに許さない。 対象社会を秩序付ける文脈と、メタ社会を秩序付ける文脈とは、究極的には一致せざるを得ないのである。 何故ならば、秩序付けられた解釈行為の空間としてのメタ社会もまた、社会である以上、当然に解釈行為の対象となり得るのであって、社会の全体を解釈せんとする行為は、自らの内属する社会をも、自らの対象とせざるを得ないからである。 すなわち、社会の全体を解釈せんとするならば、対象社会は、メタ社会それ自体をも包含せざるを得ないのである。 従って、メタ社会を秩序付ける文脈、すなわち解釈行為の依存する文脈は、対象社会を秩序付ける文脈の一部分とならざるを得ない。 言い換えれば、社会全体を解釈せんとする行為は、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体をも、自らの対象とせざるを得ないのである。 このように、解釈行為の対象となっている社会に内属する行為の妥当根拠が、同時に、解釈行為それ自身の妥当根拠でもある事態を、ブプナーに従って、自己関係的な事態、あるいは、自己関係性と呼ぶことにしよう。 すなわち、社会全体を対象とする解釈行為は、自らの根拠を自らの対象とせざるを得ないという意味において、自己関係性の構造を余儀なくされるのである。 もっとも、解釈の行為が、必ずしも社会の全体を対象とする必然はない。 従って、社会の部分を対象としている限り、解釈の行為が、自己関係性の構造を引き受けなくとも済む場合もあり得よう。 しかし、解釈の行為が、自らの内属する社会、すなわち秩序付けられた解釈空間それ自体を対象とする場合には、依然として、自己関係性の構造を避け得ない。 そのような場合とは、解釈の行為とその妥当根拠とを反省的に解釈する場合、言い換えれば、解釈学的な行為の遂行される場合である。 すなわち、解釈学的行為は、その対象である解釈行為の妥当根拠と、それ自身の妥当根拠が厳密に一致するという意味において、まさに自己関係性の構造を遂行しているのである。 従って、自己関係性の構造が問題とされるのは、社会全体を対象とする解釈行為の場合と、解釈行為それ自体を対象とする解釈行為、すなわち解釈学的行為の場合とに限られることになる。 このような自己関係性の構造、すなわち自らの妥当根拠を自らの解釈対象とする構造こそ、解釈学的循環と呼ばれる構造に外ならない。 言い換えれば、自らのコンテクストを自らのテクストとする処に、解釈学的循環が生じるのである。 解釈学的循環は、解釈学の全歴史を通底する根本構造である。 解釈学の主要なメッセージは、押し並べて、この解釈学的循環から帰結されると言っても過言ではない。 本論の以下の諸節もまた、この解釈学的循環あるいは自己関係性の諸帰結を検討することに費やされる。 そこでは、自己関係性の帰結として、批判理論と機能主義あるいは批判的合理主義の不可能であることが、明らかにされると共に、解釈学的循環の帰結として、保守主義あるいは伝統再生の不可避であることが、示される筈である。 ◆3.基礎付けの不可能 自己関係性を引き受ける解釈行為、すなわち、社会全体を対象とする解釈行為、あるいは、自己自身の妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当し得るか否かを、如何にして決定し得るのであろうか。 言い換えれば、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、如何にして根拠付け得るのであろうか。 たとえば、自らの妥当根拠に対する解釈を遂行して、そこには「自らの妥当根拠に対する解釈は妥当でない」という準則が含まれている、と解釈する場合を考えてみよう。 この場合、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当であるとするならば、その解釈の妥当でないことが帰結され、逆に、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当でないとするならば、その解釈の妥当であることが帰結される。 従って、この場合、自らの妥当根拠に対する解釈の妥当であるか否かは、全く決定し得ないことになる。 すなわち、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないのである。 このような決定不能性あるいは根拠付けの不可能は、自らの当否を自らが決定する構造、言い換えれば、自らを根拠として自らを正当化する構造の存在する処では、何処にでも生じ得るパラドックスである。 従って、自己関係性の構造の存在が、自らの妥当根拠に対する解釈の決定不能あるいは根拠付けの不可能を帰結するのは、このような自己決定あるいは自己正当化のパラドックスの、一つの例であるとも言い得るのである。 いずれにせよ、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、自らの妥当性の決定不能あるいは根拠付けの不可能に陥らさるを得ない。 言い換えれば、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、そもそも、合理的な行為としては成立し得ないのである。 社会の全体あるいは自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為が、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ないという事態は、批判理論の遂行せんとしている、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判の行為が、必ずしも可能ではあり得ないことを示唆している。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判は、自らの妥当根拠それ自体をも批判の対象とせざるを得ず、そのような批判は、自らの妥当し得るか否かを、ついに決定し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判には、自らを妥当させる究極的な根拠など、決して存在し得ないのである。 従って、批判理論は、ついに可能ではあり得ない。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会に対する、疑い得ぬ確実な根拠に基づいた、普遍妥当的な批判など、全く不可能なのである。 このことは、同時に、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、合理的な言及や制御や変革やの、不可能であることも含意している。 何故ならば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、批判の行為と同様に、自らの妥当根拠を自らの行為対象とせざるを得ず、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないからである。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、合理的な行為としては決して成立し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会は、合理的な言及や制御や変革やといった行為の対象とは、ついになり得ないのである。 従って、社会の全体あるいは当該行為の内属する社会は、言及/制御/変革不能という意味において、まさに暗黙的となるのである。 社会の全体あるいは制御行為の内属する社会が、制御不能であるということは、取りも直さず、社会の全体を秩序付けている文脈、あるいは、制御行為の依存している文脈もまた、制御不能であるということに外ならない。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。 従って、社会全体を秩序付ける文脈は、意図的に設定される事態ではあり得ない。 そのような文脈は、行為の意図にはよらず、行為の結果として、自生的に生成される事態なのである。 また、制御の行為は、自らの意識的には制御し得ない文脈に依存して初めて、自らの行為を可能にし得ることになる。 この制御行為の依存する文脈もまた、制御行為の遂行の累積的な帰結として、自生的に生成される事態なのである。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的であるがゆえに、ただ遂行的となるのである。 言い換えれば、そのような文脈は、意識的に語り得ないがゆえに、ただ遂行的に示されるのみなのである。 ◆4.《選択肢》の不在 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ない。 自らの内属する社会を解釈する行為には、究極的な妥当根拠など、決して存在し得ないのである。 それでは、自らの内属する社会を解釈する行為に、言わば暫定的な妥当根拠を付与する試みは可能であろうか。 なるほど、自らの内属する社会への解釈に、究極的な妥当根拠など存在し得ない。 しかし、そのような解釈に、暫定的な妥当根拠を付与することによって、そのような解釈の、差し当たり妥当し得るか否かを決定することは可能ではないか。 ただし、ここに言う妥当根拠の暫定的であるとは取りも直さず、自らの内属する社会への解釈の、妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体には、その妥当であるか否かを決定し得る、いかなる根拠も存在し得ない、ということに外ならない。 すなわち、暫定的な妥当根拠とは、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を与えつつ、それ自体は、いかなる妥当根拠をも持ち得ない事態なのである。 言い換えれば、暫定的な妥当根拠は、自らの妥当根拠それ自体への遡行を、言わば中断することによって、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を付与するのである。 自らの内属する社会への解釈は、このように、自らの妥当根拠を暫定的に付与されることによって、差し当たり、自らの妥当し得るか否かを決定し得るかも知れない。 従って、そのような解釈は、差し当たり、自らの妥当性を根拠付け得る、いわゆる科学的な言明として遂行され得るかも知れない。 しかし、そのような科学的言明の妥当性を根拠付けている、その妥当根拠は、あくまでも暫定的なものであって、自らの妥当性を根拠付ける、いかなる妥当根拠も存在し得ない。 科学的言明とは、さらなる根拠への遡行を中断することによって初めて可能となる、暫定的に根拠付けられた解釈の行為なのである。 それでは、自らの内属する社会への解釈を暫定的に根拠付ける、妥当根拠それ自体は、どのようにして与えられるのであろうか。 もとより、そのような妥当根拠それ自体には、いかなる妥当根拠も存在し得ないのであるから、そのような妥当根拠を、何等かの根拠に基づいて選択することは不可能である。 従って、そのような妥当根拠は、もし選択することが可能であるとするならば、いかなる根拠にも囚われない、いわば自由な決断によって選択されざるを得ない。 すなわち、暫定的な妥当根拠は、その選択可能を前提とするならば、解釈主体の自由な決断によって与えられるのである。 この意味において、科学的な言明とは、究極的には自由な決断に依存している行為に外ならない。 普遍的な妥当根拠の果てる処、自由な決断あるのみ、という訳である。 しかし、暫定的な妥当根拠を選択する、解釈主体の自由な決断が可能であるためには、そもそも、暫定的な妥当根拠それ自体を選択することが可能であらねばならない。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。 ところが、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の、暫定的な妥当根拠には、いかなる選択肢も存在し得ないことが示され得る。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。自己関係的な解釈行為は、たとえ暫定的なそれであったとしても、些かの選択可能性も持ち得ないのである。 何故ならば、自己関係的な解釈行為においては、自らの行為の妥当根拠と、自らの対象の妥当根拠とが一致せざるを得ない。 従って、社会の全体なり、あるいは、解釈行為自らの内属する社会なりを、解釈の対象とするならば、自らの対象としての社会全体を秩序付ける文脈(妥当根拠)、あるいは、自らの対象としての自らの内属する社会を秩序付ける文脈(妥当根拠)それ自体を、自らの行為の依存する文脈(妥当根拠)とせざるを得ないことになる。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする解釈の行為は、自らの行為の妥当根拠として、自らの対象の妥当根拠以外の、いかなる選択肢も持ち得ないのである。 言い換えれば、自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠は、些かも選択可能ではあり得ないのである。 従って、自らの内属する社会に対する解釈の妥当根拠を、解釈。主体の自由な決断に委ねることは、全く不可能となる 何故ならば、そのような解釈の妥当根拠には、選択肢が全く不在であるために、解釈主体による自由な決断の余地は、些かも残されてはいないからである。 このことは、科学的言明の妥当根拠(たとえば反証可能性基準)を、自由な決断に委任する、批判的合理主義の、必ずしも可能ではあり得ないことを示している。 すなわち、科学的言明の妥当根拠を、如何なる根拠にも囚われない自由な決断に委ねることによって、そのような妥当根拠によって秩序付けられた、科学的言明のゲームを展開せんとする、批判的合理主義の試みは、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする言明の妥当根拠に、如何なる選択肢も存在し得ないという事態によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、批判的合理主義の含意する、科学的言明の妥当根拠それ自体についての相対主義、いわゆるパラダイム相対主義は、社会の全体あるいは言明行為自らの内蔵する社会を対象とするパラダイムに、選択可能性の全く不在であるがゆえに、失敗せざるを得ないのである。 従って、批判的合理主義によるパラダイムの選択は、全く不可能となる。 このことは、機能主義による社会システムの選択が不可能であることと、ほとんど同型的に対応する事態であると思われる。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠が、解釈主体の自由な決断によっては選択され得ないという事態は、そのような解釈の行為が、自らの対象とする社会を秩序付けている文脈から、ついに自由ではあり得ないことを示している。 すなわち、そのような解釈の行為は、自らの対象とする文脈、従って、自らの依存する文脈から、ついに離脱し得ないのである。 言い換えれば、解釈行為という(メタ)テクストは、自らのテクストでありかつ自らも織り込まれているコンテクストから、決して離脱し得ないのである。 そのようなコンテクストは、解釈の行為(メタ・テクスト)に先立って遂行されている、言わば先行的な解釈(テクスト)の累積であるとも言えよう。 従って、解釈の行為は、先行的な解釈に拘束されて初めて可能であることになる。 すなわち、解釈の行為とは、言わば先行解釈の地平に投げ出されて在る行為に外ならないのである。 ◆5.再び伝統とは何か 社会の伝統あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの妥当し得るか否かを究極的には決定し得ず、また、自らの妥当性を根拠付ける文脈を暫定的にすら選択し得ない。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会を秩序付ける文脈を、究極的には操作し得ず、しかも、そのような文脈から、暫定的にすら離脱し得ないのである。 すなわち、解釈の行為が、自らの対象とし、従って、自らの依存する文脈は、究極的には操作不能であり、暫定的にも離脱不能である、何ものかなのである。 このような解釈行為の文脈こそ、伝統と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統とは、操作不能という意味において拘束的であり、解釈行為の遂行において従われる外はない事態なのである。 言い換えれば、伝統とは、解釈行為の語り得ず、ただ示し得る事態であると共に、解釈行為の逃れ得ず、ただ従うべき事態なのである。 従って、解釈の行為とは、このような伝統に従いつつ、このような伝統を示す、すなわち、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないことになる。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を秩序付ける文脈、すなわち、伝統を解釈する行為とは、伝統から離脱するのではなく、伝統に依拠しつつ、伝統を操作するのではなく、伝統を再生する行為に外ならないのである。 このように、伝統に依拠しつつ、伝統を再生する行為の遂行を、保守主義と呼ばずして、一体、何を保守疑義と呼び得るのか。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の遂行は、保守主義以外の何ものでもないのである。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統を普遍的に批判し得る根拠を持ち得ないが故に、伝統を生成し、また、伝統を自由に選択し得る選択肢を持ち得ないがゆえに、伝統に依存する行為であらざるを得ない。 すなわち、唯一可能な社会理論として、批判理論や機能主義と決別する解釈学的社会学の遂行は、取りも直さず、保守主義の外ではあり得ない。 解釈学的社会学の保守主義たる所以である。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為である、という命題は、解釈学的社会学の根本命題である。 本論は、この根本命題の含意を、簡単にスケッチしたに留まる。 論じ残された問題は数多い。 たとえば、ある歴史的な社会を解釈の対象に据えた場合、その歴史的な社会を秩序付けている文脈と、解釈の行為の内在する社会を秩序付けている文脈とは、必ずしも常には一致しない。 従って、そこには、解釈の対象とする(対象)社会の文脈と、解釈の内蔵する(メタ)社会の文脈とが一致する、いわゆる自己関係性の構造は、必ずしも見い出されない。 しかし、そもそも、解釈の行為は、対象社会の文脈とメタ社会の文脈との間に、何等かの一致を前提することによって、初めて可能になるとも考えられるし、あるいは、それらの間に、何等かの一致を帰結することによって、初めて実現し得るとも考えられる。 すなわち、解釈の行為は、自己関係性の構造を、その前提とも帰結ともしているのではないか、と考えられるのである。 この場合、解釈を遂行する過程において、対象社会の文脈とメタ社会の文脈とは、どのように離反し、あるいは、どのように一致していくのか、このことが問われねばならない。 この問いは、解釈の遂行課程において、自己関係性の構造が、どのように生成されて来るのかを問うことに外ならない。 ガーダマーの言う、地平融合の問題である。 しかし、本論は、この問いに答えない。 解釈学的社会学の理論的彫塑は、今後の課題である。 解釈学的社会学が、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないとするあらば、日本における解釈学的社会学は、日本の伝統を生成する行為を閉却する訳にはいかない。 もっとも、日本の伝統というと、即座に、古代以来の天皇制や、中世以来のイエ社会やを思い浮かべ、中国文明やあるいは近代文明の影響を受けていない、言わばナショナリスティックな伝統を考える向きがしばしば見受けられるが、ここに言う伝統は、必ずしもそのようなものではあり得ない。 日本において解釈学的社会学を遂行する場合、私の差し当たり対象としたい伝統は、17世紀ないし19世紀以降の近世あるいは近代日本の伝統である。 すなわち、近代文明の一翼を担う地域文化としての日本の伝統を対象としたいのである。 この間の事情は、ドイツにおいて解釈学的社会学の遂行される場合と大した違いはない。 ドイツの解釈学もまた、17世紀ないし19世紀以降の近代ドイツの哲学的な伝統を、差し当たり継承しているのである。 いずれにせよ、日本における解釈学的社会学を遂行するに当たって、差し当たり対象としたいのは、近世あるいは近代日本における哲学的な伝統である。 そのような伝統を解釈することによって、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為の一端を担ってみたいのである。 このこともまた、今後の課題に外ならない。 ▼原注 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 第一章 世紀末の新しい保守主義 (省略) 第二章 合理と個体 (省略) 第三章 暗黙の言及 (*6) Polanyi, Michael ("Personal Knowledge"1958 長尾史郎訳 『個人的知識』1985) ハイエクは、ポランニーから多くの影響を受けている。 たとえば、自生的秩序の概念は、ポランニーから譲り受けたものである。 確かに、ハイエクは、ポランニーの暗黙知の概念を、言葉としては用いていないが、内容的には同様の考え方に立っている。 (*7) 橋爪大三郎 (『言語ゲームと社会理論 -ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』 1985) ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、ハイエクが直接の示唆を受けているか否かは定かでない。 従って、ここに言う家族的類似は、両者の理論が結果として類似しているという主張以上のものではない。 なお、ハイエクは、ウィトゲンシュタインの伝記を手掛けたことがあるそうである。 (他は省略) 第四章 規範の文脈 (*5) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 自己言及性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*8) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 文脈依存性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*18) 土屋俊 (「何種類の言語行為があるか -言語ゲームとしての言語行為-」 講座『思考の関数1 ゲームの臨界 -アゴーンとシステム-』 1983) 発語内行為の分類に関しては、土屋(1983)に示唆を受けた。 (他は省略) 第五章 慣習と遂行 (*1) Popper, Karl R. ("Objective Knowledge"1972 森博訳 『客観的知識 -進化論的アプローチ-』1974) 《世界Ⅰ》 《世界Ⅱ》 《世界Ⅲ》 の概念については、Popper に示唆を受けた。 (*2) これは、行為の累積的な帰結として生成される秩序が、何故に、行為の発効し得るか否かを決定する根拠すなわち、行為の依存する文脈となり得るのか、という問題である。 もし、行為の依存する文脈が、行為によって意図的に設定されるとするならば、そこには、自己言及あるいは自己回帰のパラドックスが生ずることになり、行為の発効し得るか否かは決定不能に陥らざるを得ない。 従って、行為の発効し得るか否かが決定可能である、すなわち、行為の依存する文脈が存在し得るとするならば、それは、たとえ行為の累積的な帰結として生成される秩序であったとしても、行為の意図的な設定にはよらないことが明らかになる。 言い換えれば、行為の依存する文脈は、もしそれが存在し得るとするならば、行為の累積的な帰結からは必ずしも独立していないにも拘わらず、行為の意図的な帰結からは全く独立しているのである。 (*3) 行為の発効し得るか否かを決定する根拠、言い換えれば、行為を根拠付けあるいは正当化する文脈に対する言及の総てが、自己言及あるいは自己回帰の行為となる訳では必ずしもない。 ある特定の行為秩序を正当化する文脈、すなわち、ある特定の社会ゲームを構成するルールに対する言及は、必ずしも自己に回帰する言及とはならず、ある特定の行為秩序あるいは社会ゲームを制御さらには設定する行為は常に可能である。 しかし、この場合、ある特定の文脈あるいはルールに言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールは、差し当たり、言及の対象になっていない。 もちろん、ある特定の文脈に言及する行為を正当化する文脈それ自体に対する言及も、常に可能である。 しかも、そのような言及は無限に遡及し得る。 何故ならば、文脈あるいはルールの全体に言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールに対する、新たな言及が、常に可能なのであるから、もとの言及は、文脈あるいはルールの全体を対象とする言及とは決してなり得ないのである。 このことは、文脈あるいはルールの全体に対する言及が、もし存在し得るとするならば、それは、自らを正当化する文脈あるいはルールそれ自体をも対象とする言及、すなわち、自己言及あるいは自己回帰の行為とならざるを得ず、そのような言及の発効し得るか否かを決定することは、すなわち、そのような言及の行為そのものが、原理的に不可能となるのである。 従って、ある特定の文脈によって正当化される行為秩序、あるいは、ある特定のルールによって構成される社会ゲームの制御さらには設定ならばいざ知らず、行為秩序あるいは社会ゲームの全体を対象とする制御さらには設定の行為は、原理的に不可能とならざるを得ない。 すなわち、行為秩序あるいは社会ゲームの全体に対する制御さらには設定は、自己回帰的な行為であらざるを得ないがゆえに、不可能となるのである。 (*4) 自生的秩序やルール、あるいは言語ゲームといった、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な遂行としてのみ示されるという意味において、行為累積的である。 行為は、自らの文脈としての《遂行的なるもの》に、自らの発効し得るか否かを依存しているという意味において、文脈依存的である。 しかし、《遂行的なるもの》の全体を対象とする行為は、自らの依存する文脈をも対象とせざるを得ないという意味において、自己回帰的であり、自らの発効し得るか否かを決定し得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》全体を対象とする行為は、自己回帰的であるがゆえに不可能なのである。 従って、行為の累積である《遂行的なるもの》に、行為が自らの発効し得るか否かを依存したとしても、《遂行的なるもの》の全体は行為の対象とはなり得ないのであるから、必ずしも矛盾は生じない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な帰結であるにも拘わらず、行為の意図的な対象とはなり得ないがゆえに、行為の規範的な文脈となり得るのである。 (*14) 累積的、規範的、暗黙的な事態としての《遂行的なるもの》と、社会との同一性は、本書に述べた社会哲学の最も基本的な命題である。 すなわち、社会は、《遂行的なるもの》と同様に、行為の累積的な遂行それ自体であるという意味において、累積的であり、また、行為の発効し得るか否かの依存する文脈であるという意味において、規範的であり、さらに、その全体を対象とする行為の自己に回帰するがゆえに不可能であるという意味において、暗黙的である。 保守主義は、累積的な伝統と、規範的な権威と、暗黙的な偏見との擁護し得ること、あるいは、擁護すべきことを見出すことによって、この意味における社会を、近代において初めて発見したのである。 保守主義のこのような捉え方は、保守主義を、言わば社会学として捉えることに外ならない。 言い換えれば、本書は、保守主義の伝統の中に、社会学の最良の部分を見出そうとする試みなのである。 なお、保守主義の社会学的な側面以外の諸相については、次節において簡単に検討したい。 (他は省略) 第六章 解釈学的社会学としての保守主義 (省略) ■3.まとめ (作成中) ■4.ご意見、情報提供 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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足を全力で引っ張る身内 すぐ攫われる嫁 年中無休で訪れる暗殺者に 翻弄されて心労が止まらぬ 若きエジプトのファラオ メンフィス エジプトの王 [登場巻]1巻~ [国]エジプト [CV]神谷明 / 梶裕貴 [演] 浦井健治 / 海宝直人 初登場…17歳、(久遠の流れに7歳→17歳) 一人称…わたし 家族…父(ネフェルマアト/故人)、姉(アイシス)、妻(キャロル・リード) † 現在判明している情報 + ... 第18王朝~ 新王国時代の王 現代でキャロルが出会ったミイラはおそらく18歳で毒殺or暗殺(ブラウン教授談) ミイラは盗まれたまま手掛かりなし キャロルと出会う70日前に父王がなくなって17歳で即位 古代エジプト王朝の多くの歴代の王は先王の皇后から生まれた王女との結婚により王位継承権を得た。古代エジプト王朝には珍しく嫡出(皇后から生まれた)王子メンフィスは生まれながらに完全なる王位継承権をもっていたため幼少の頃より暗殺者に常に狙われている(久遠) 取り巻きは子供の頃から集められた荒くれ者ばかり(罪人の子供を遊び仲間に)(久遠) 父の死から、毎日少しずつ毒を飲みならし抵抗力を身につけてきた(久遠)けど睡眠薬はちょっと無理だったわ(9) 子供の時は前髪を切っていたが、現在はそのまま伸ばして王冠で留めている(おしゃべりタイム) メンフィスが女に興味をもったのはキャロルが初めて(アイシス談)(2) 男色への耐性はない めちゃめちゃ視力がいい † 性格 迅速な行動力。めちゃめちゃフットワークが軽い。 わりとすぐ人を信じちゃうタイプ。けっこううっかりしている。 + 幼少期 メンフィス様はきかん気で手に負えぬお方(臣下)(久遠) + キャロルと出会う前 荒々しい性質で恐ろしい方(セフォラ)(2) † 対人関係 ・キャロル・リード 最愛の嫁。もう全部好き。嫁の欠点が見つからない。急に暴走するところも気に入ってる。 + 軌跡(1巻~20巻) 巻数 出来事 メンフィス→ ←キャロル 1 ミイラ(後の旦那)に思いをはせる ・ミイラが盗まれる ・とても若くして殺された事を知る アイシスの幻覚ファーストコンタクト ・珍しいけど。まあ侵入者だから殺すね苦しまずに一気にいくよ ・ただただ怖い・アイシスの心臓掴みの方がインパクトがでかい 2 出会い ・いつか見たような黄金の髪。まぶしいほどの白い肌・捕獲したい・女に興味を持つのは初めて(アイシス談) ・やばい 捕獲 ・水責めでお肌クリーニングしてくる ・めっちゃ痛いし怖い。 足に接吻しろ ・いいもんが手にはいったぜ・姉上には渡さない・逆らうとセチをボコボコにするで? ・ふざけんなよこんな足・アイシスに用があるんですけど!?・人の心がないんか? ナフテラのスーパーコーディネート ・ナイルに咲く蓮の花のよう。最高 ・わがままで残忍なメンフィス。こんなん王者の行動じゃない アイシスとの婚儀決定発表 ・わが望みはエジプトを最大の強国にすることのみ結婚など意味などない。世嗣を産むだけの行為正直どうでもいい・ヒッタイトも欲しいし美女だしミタムンももらっていいかも ・はえ~やはり姉弟で結婚するんか~・くそどうでもいい。もうセチが心配でたまらん キスされてビンタ ・別にいい許す大人しく従うまでしばらく待ってやるよ ・なぜ殺されなかったんだろう ドキドキハラハラ侍女生活 ・他の侍女じゃ満足できないのキャロルじゃないとや~なの ・息が詰まりそうずっと怒鳴りつけばかり コブラDE深まるLOVE ・いつも目の前にキャロルの白い手があった・白い手をあんなに優しく思ったのは初めてだ・三日三晩の看病に胸キュンがとまらぬ ・周りの奴らがまだ死んだわけじゃないのにもう次の王の事を議題にあげてる。・うんと苦しんで死ねばいいとおもったのに!思わず助けちゃったわよ・あの目は私を憎んでたのに。メンフィスの心がわからん 死の家事件 ・お前を愛している!妻になれ。妃にする・断られたムカつく ・その満身創痍の体で私を助けてきてくれた!・あなたを愛してないし。結婚できない・めっちゃ怖いやん。助けてきてなんで乱暴すんのよ・優しい心があるなんて信じられない・残虐で奴隷の命など虫を殺すほどにしか思っていない・・わたし絶対好きになれない・なんで助けちゃったんだろう・日増しに狂暴になっていく 姉上と婚約破棄 ・やめてくださいキャロルが見ている(姉上と一緒の所をキャロルに見せたくない)・キャロルを愛してしまった。キャロルしかいらぬ何故私に従わぬ。なぜ微笑みかけぬ。なぜ腕に抱かれようとしない お前がほしい。この思いがなぜ分からぬ。どうすれば従えられる ・あいつくっそ怖い帰りたい イムホテップ帰還 ・プレゼントあげようとしたら断られてぶち切れ・槍+壁ドン・何故逆らう。どのような望みもかなえてやる・妻になれ。どこにもいかせぬ。必ず手に入れる ・なんて王者らしく誇らしく笑うのかしら・装飾品より今は鉄っしょ嫌ってるはずなのに鉄の事教えちゃった・私は古代人じゃねえ。帰りてえなぜかしら、恐ろしいのに胸が高鳴る・このままここにいたら自分が自分でなくなってしまう ナイル氾濫いまのうちに逃走すっぞ ・なぜ逃げるお前を愛しているのがなぜ分からぬなぜ嫌う 私の国で住めばよい ・住む世界がちがうのよ 3 キャロル現代満喫中 ・古代よりいなくなってからメンフィスは狂ったようにキャロルを探して夜も眠らない(アイシス談)・キャロルを助けわが腕にたまわれば神殿を建て永遠にたたえん 再会 ・生きててめっちゃウキウキでキャロルのもとまで行ったらめっちゃ悪口言われててつらい・わたしの命にかえてもと無事を願った。もう離さぬ・誰かと婚約しただと!?・もはや私からは逃れられぬ・お前の為に神殿建ててる・神が私にお前を与えてくれたのだ。これは神の意志だ ・まじで最悪。絶対会いたくない・婚約したジミーがいるんですけど!?・メンフィスがくっそこわいん。そばにたくない・ここにいるのは王家の呪いなんで・・・もしジミーがここにいたら絶対殺される 逆らうなら苦役な ・わたしをそれほどまでに嫌うのか・・・その白い手が切れ白い膚が泥にまみれ砂漠の熱風の苦しさにのたうち回ればよい助けて欲しくば私の前に跪き許しを請えば許す ・本性を現したわね。残虐な王メンフィスいいわ弱音は吐かないわ絶対跪かないわ 苦役中のキャロルを思って悶々とする男 ・苦しめ。その白い体を泥にまみれて苦しむがよい・愛している。なぜわたしを嫌う。お前がほしい・わたしのものにならないならいっそ死ねばいい・笑った顔見たことないのに思い浮かべる・一日中ずっとキャロルを心配している・キャロルを思いながら光合成・キャロルが砂漠で倒れたのか!?(頭真っ白)・決心した。キャロルを妃にする盛大な儀式をおこない正式な王妃ともなればキャロルも従うに違いない ・ほんと憎らしいメンフィス・あいつ私をハゲタカの食料にするつもりなんか?・絶対跪かないし、絶対許しをこわない かまわぬ ・かまわぬお前を愛している・熱いキッス・あらがえば力でもって妻にする・私の意に従え、私を怒らせるな ・私はかまうんよ・あなたを愛してない・メンフィスは恐ろしいほど真剣だわ逆らえばどうなるか分からないもう逃げられない テーベの町をみたいんですけど ・なぜそんな目で私を見る逃げ出そうと思っているのでは・・ ・自由をくれ 鉄拷問事変 ・腕輪のとめ金をつけてほしい(頬キッス)・そなたはまさに女神の娘私の妃にふさわしい ・ちょっと照れちゃったじゃねーの・まじあいつ残酷・まーた余計な事しちゃったわ 東門からの刺客初めての微笑み ・初めてわたしを見て笑ったなもう一度笑え。わたしの腕の中で・私とともに力をあわせてわが愛するエジプトを最大の王国にしよう ・もっとましな口の利き方はないんか・暖かい胸、たくましい腕、どうした私の胸メンフィスを嫌っているはずなのにメンフィスの腕の中から逃げ出せないメンフィスの胸に抱きしめられた時保護された子供のように胸が高鳴って!まだこんなにドキドキしてどうかしてるぜ 王子に拉致される ・私に対する恨みならなぜ私を狙わぬキャロルに罪はない戦も死も恐れぬ。だがキャロルが血を流し苦しんでいると思うだけでなぜこんなに胸が苦しい心乱れて国事に身が入らぬ ・エジプトから離れたら帰れんのよ 愛のテレパシー爆誕 ・キャロルが背から血を流している夢をみた ・結構クソでか感情が芽生えてきた 4 メンフィス出兵 ・これは運命かもしれぬキャロルしか妃に望まぬ私をよぶ声が聞こえる 誰にも渡さん ・わたし、どうしてメンフィスを呼ぶの?私が好きなのはジミーよあんな残虐な人じゃない・なぜ私の為に戦を始めるの メンフィス大負傷 ・ぶっ刺されて敗走 ・メンフィスのところへ行かせて!今やっと分かったわ私メンフィスを愛しているわ死んではいやよこんなにあなたが好きだったなんて自分の心が分からなかったあなたのことを思うと胸が痛くなるあなたのそばにいたい 地下で再会 ・そなたがイズミルの手の中にあれば私は手も足もでぬ 無事でよかった ・無事だったのね 心配したわ 好きよメンフィスあなたと3千年の時が離れていても私、あなたを愛してしまった命にかかわる危険を冒しまで、そんなにも私を思ってくれて今までにこれほど熱く幸せを感じたことはなかったわ・でもやっぱりメンフィスは恐ろしいわ 私が囮にならぁ! ・ウナスに追いかけえるのを全力で止められる ・私がきっとあなたを助ける 一騎打ち ・王子あの野郎嫁になにしてくれとんねん ・エジプトの為ならどう扱われようとかまわない。私のためにメンフィスが死ぬ事があってはならない。 満身創痍帰還 ・私はここにいるぞ 死なせはせぬぞ!私の断りもなく死ぬなど許さぬ!そなたはこの私エジプト王メンフィスのものだ黄金に輝く髪も白い膚も柔らかな唇もすべて私のものだそなたを愛しているもうどこへも行ってはならぬこれは命令だ! 暗い意識の中でメンフィスの呼ぶ声が聞こえたわ私はもう21世紀には帰らないわ私はあなたのそばにいるわあなたが好きよメンフィスこの古代にとどまってこのエジプトの土になるわ 5 上のやりとりは何だったのかライアンに激オコ ・意識がないから我慢していたがライアンばっかり呼んでまことに気に入らぬ他の男のことなど呼ぶなそなたは私が助けたのだ、そなたは私のものだ戦を起こしイズミル王子よりそなたを奪い返して死の淵から神の助力を受け私がそなたを助けたのだそなたは私の妃になるのだこの唇から私以外の男の名を呼ぶのはどうにも我慢ならぬ ・何をそんなに怒るの?・いてーよ・古代では兄妹の結婚が多かったから誤解してるんだわ・なんて乱暴なの。思いやりのかけらもないのね・私どうしてメンフィスなんか愛してしまったのかしら・傍にいようと決心したけれど間違ってたのかしら助けにきてくれたあの時の男らしい優しさはみせかけだったの? 女神の像をプレゼント ・女神の像が気に入ったならなぜそのように浮かぬ顔をしている。気に入らぬもっとにこやかな顔になれ。よいなはやく肩の傷をなおしてわたしの妻になれわたしはもう長くは待てぬ・キャロルを我が正妃にしてみせるぞ ・このすばらしい女神の像はメンフィスとみんなが私の為に堀ったというのこんな私をナイルの娘と信じて・・いまは素直にみんなの心を受けるわわたしのできる限りみんなの信頼に答えられるように努力するわ。喜びも悲しみもみんなと一緒に・でもとりあえずギザにいきてえ ギザにいきてえ ・行くのは許さぬまだライアンの事を考えておるのか禁じたはずだぞ・私がいるではないか。泣くのはやめろもっと元気になれば私がギザに連れていってやる ・どうしてもギザにいきてえ~・王だとてわたしの感情や心まで支配する事はできないんよ兄さんは私の大切な家族なんよ。・あなたがどんなに禁じても私の心の中まで踏み込むことはできないわ。生きてた今までのことを忘れることはできないのよ。私は我慢してるのよ。心の底から帰りたくなるのを私は古代で一人きりなのよ。この気持ちがあなたにわかるわけないわ。 墓荒らし ・嫁がめっちゃ震えててニコニコする・そのようにおびえるなそなたには私がついている ・めっちゃ強引やん・そういえば21世紀でメンフィスの墓にはいったわ・私が古代でメンフィスの身を守れば歴史は変わるのかしら・あなたは若くして命を絶ったのよメンフィスわたしこんなに粗暴なあなたを愛してしまった・・死んではいやよたとえどうなろうとそのためにどんなに思い罪をうけても私はあなたが死ぬのは見たくない私はきっとあなたを守る 殺しちゃいかんて ・なぜそんなに騒ぐ!そなたには縁もゆかりもない者ではないかこの私がエジプトの掟なのだ。わが手で罪人を処刑し何が悪い!このわたしに逆らい意見するというのかこの私をこれほどまでに罵倒しおって胸の中が煮えたぎる。・もう宮殿に閉じ込めたらぁ!・わたしに会いたくないだと 私の顔を見ろ二度とこの口から私に対して無礼はいわせぬ・押し倒しキッス 伝説の腕ぽき ・なぜこんなことになってしまうそなたの為なら死をも恐れぬ私の心がなぜ分からぬ奪い返した時わたしの腕の中で妃になると約束したではないか。ともにエジプトの為に戦い守ると申したではないかなぜこのように私を苦しめる。ナイルの女神がわたしにそなたを与えたのだ・婚儀は一日たりとも延ばさぬ新しい年の祝賀の日にキャロルを妻にするどのように拒もうとのその白い体も心も私のものにしてやる・私を拒否などさせぬ。今度は腕を折るだけではすまぬ ・ひどいメンフィス・恐ろしい性格だとは思っていたけれど説得すれば少しは変わるのではないかと望みをもっていたのに自分が気に入れなければわたしを殺すの?・ギザいきてえ~~~~・メンフィスむごい人ね。なんてひどいあなたを愛してるのにどうして私をこんな目にあわせるの心が痛いわあなたにはわたしの切ない心がわからない愛していても気に入らないならわたしを殺すの?・愛することは力で征服することじゃないわそれは愛じゃないわ・メンフィスのやり方についていけない 神の娘認定で上がるギザ行きたいゲージ ・キャロルとの結婚はエジプトに繁栄をもたらす・この結婚には重大な意味がある ・怖いわ。エジプトを守りたいという気持ちがどんどんちがう方向へ動いていくこのままでは私を神と信じて私の為に命をかけるメンフィスに殺すなと説きながらこの私が神の娘と信じさせて命をかけさせる。その方がはるかに恐ろしい罪やんけ私はここにいてはいけない ギザまでいってぎざーす ・わたしとの結婚を嫌って逃げた・・・?・苦しいほどに はやる心をおさえわが腕に抱くのを待ち望んでいたのに。これほどまでに欲しいと思う娘はいなかった。許せぬ こやつ、どうするか・狼狽えもしない。なぜ逃げぬ。なぜ泣き叫んで許しを請わぬ・この私の心を計り追ったな ・私が逃げ出したことを知ったらどんなに怒るかしら・え 待って 殺されるやん・めっちゃ怖い・ルカに罪はないわ。王に抵抗できない弱い召使よ無力なものを殺さないでこの行動の罪はすべて私にあるのもう私の為に誰の命も失いたくないルカを殺すなら私を先に・殺される。今度こそ。愛しているわ。愛しているから私はこの一瞬に命をあなたにかける 恋の駆け引き水面説教 ・こやつこの煮えたぎる思いをどうしてくれようどれほど愛しいと思っているのかこの私の心をはかりおってこの私がどれほど愛しいと思っているかどうすれば従順にさせることができるのかどうすれば意のままにさせることができるのかもっと苦しめ。うんと苦しめばよい ・メンフィスは殺さなかったあなたが言うようにあなたの心を計る結果になってしまったけれど。激情のままに人を殺すそんな人は嫌だからあの一瞬にわたしの命をかけたのでもあなたは殺さなかった私は卑怯だったわ心のどこかで激しく愛されていると信じてそれを利用したわ ルカを殺さなかった! ・半裸介抱キッス・なぜ狼狽える。そなたは間もなく私の妻になる娘わたしから逃げてはならぬ・もう拒否はさせぬそなたの持つ英知と未来をよむ神秘の力そして私の王としての統治力二つを結合すればわがエジプトは計り知れぬ強国となる。これ以上逆らえばエジプトの王としてそなたを力でもって妃にする・何故泣く。愛してるなら黙って妻になればいいわたしのそなたへの愛がどれほど熱いか今にこの身に思い知らせてやるぞ・この私に無力な者を殺すなと申したな今度そなたが逃げたらそなたに仕える全員死罪そなたが無力な者を殺す原因をつくらぬことだ王たるもの非情でなければこの強大なエジプトを統治することはできぬ ・あなたに人の命を尊さを知る古代の偉大な王になってほしいと願っている私は法を守る人間だから激情のままに人を殺すそんなそんな恐ろしい人の妻になれない・私だって逆らいたくないこんなに好きなのに愛してるのにあなたは奴隷のように力で所有しようとするわたしには心も意志もあるそんな愛され方は嫌・古代の王の前ではわたしは無力な存在でしかない・メンフィスがはじめて激情のままに殺さんかったよかった。嬉しい・暗殺の事全然考えてなかったわ何が正しいか分からなくなってきたわでも世界を治めるのは愛だと信じる 姉上下エジプト帰るってよ ・エジプトのため、民のため、いやちがう私が心の奥底から望んでいるんだ魂の底からキャロルを妃に望んでいる・(姉上が認めてくれなくて私から離れていく)わたしにもっと捕まってからみつけ!未来永劫はなさぬ ・メンフィスはアイシスを信じてるのねただ一人の姉だから。本当のことは言うまい・・ 6 婚儀3日前 ・婚儀を控えて毎日出歩いてばかりでメンフィス王がいら立っておられる(ウナス)・帰らねば無理にでもつれて帰れとのご命令王は心配してお怒りです(ミヌーエ)・キャロルを妃に迎えてわがエジプトをますます強国にしてやるぞ・婚儀を3日後に控えているのにキャロルめ出かけてばかりだ。わたしを避けているとしか思えぬおのれ妃にすればどうするか・もしや、また私に逆らい・・・もはやそなたが好むと好まざるにかかわらず私の妃にする ・もう迷わないメンフィスがルカを助けた時から私の心に希望の光がゆらぎはじめたわ。わたしは古代に生きる!メンフィスの妻になる!・メンフィスは逃げ出すのではないかと疑っているんだわ。もう逃げだしたりしないわ・王が怒鳴ってばかりはみっともなくなーい?・もう迷わないわ。心に決めたのよあなたの望むとおりにするあなたのそばで生きるわ・恐ろしいメンフィスでも私は迷いを捨てたのよ。あなたについていくわそんなあなたを愛してしまった にゃんこプレゼント(現在消息不明) ・キャロルの慰めになるだろうとおっしゃって農地の見回りに出かけられた時捕らえてお帰りになったのですよ(ナフテラ) ・あの恐ろしいメンフィスが私にこの猫を 嬉しい 下エジプトの襲来 ・そなたが無事でよかった暗殺者は何故わたしを狙わぬ!なぜ罪なきそなたを狙ったのだ殺すなら私を殺せ。なぜ抵抗できぬそなたを狙うのだそなたにもしものことがあればわたしは・・ ・メンフィスが震えているこの恐ろしいメンフィスが私を力で奴隷のように妻にしようとしているメンフィスが逆らえば激情のままわたしの骨を砕く恐ろしいメンフィスがわたしは愛されているわたしが愛している何倍も激しく深くあなたのたぎる胸の鼓動がわたしの体に伝わって恐れも不安も消し去り私をかすあなたが望むならわたしはあなたに命をあげるわたしをあなたにあげるわ 婚儀 ・今日の日を待ちかねたぞ・早くその身をわたしの妃にしなければすぐにすりぬけて行きそうな気がして目が離せぬ・逃がしはせぬ。こんど逃げようとしてみろ寝室にしばりつけ一歩も動けぬようにしてやるぞ・そなたは未来永劫わたしのものだ・予 エジプト王メンフィスはアメン神の前にてエジプト全土に宣言する ナイルの女神よりつかわされた聖なる娘 我が最愛なるキャロルを今ここにわが正妃とする・この日をどれほど待ち望んだか今日よりのちはそなたの髪の毛一筋たりとも誰にも渡さん。そなたのすべては私のものだ・この喜びの日になぜ泣く。・気に入らぬ。ほかの男を思うなど許せぬ今日からはそなたはわたしの妃だ私だけのことだけを思えばよいその口から他の男の名など呼ばせはせぬそなたの過去などこの私が忘れさせてやる ・もう逃げ出したりしないわよ・怖い顔 この性質はなおらないのかしら生まれながらの王者メンフィス なんて立派にみえるのかしら秀でた額、涼やかな凛とした目・わたしは今メンフィスと結婚するために神殿へ行くわたしは果てしない歴史の中に新しい人生を開こうとしてる!・もう逃げたりしないわ貴方を愛してしまったんだもの・愛してるわ わたしは古代であなたと共に生きるわ・わたしはあなたに命を懸ける・その激情はとどまることを知らないわ今その激情を私にむかって溢れさせるまわりの事など心にもとめず愛されている幸せを感じながら何だか怖い 一狩りしようぜ! ・ういやつだ。そなたがこうして私の胸にすがる日をどんなに待ったか。・はじめてだな。そなたがこのように身を摺り寄せて我儘を言うのはましてや私の身を案じて・ういやつ。そなたはやっと、私のものになったのだなあと数時間の辛抱だそなたが言わずとも今宵からはもうはなさぬライオン狩りは強さを授かる聖なる儀式エジプトとそなたを守るためにも強くならねばならぬ・今宵からこの私のことしか考えられぬようにしてやるぞ。ライオンをしとめたこの腕でそなたを抱こうぞ。 ・心が騒ぐ。わたし心配でたまらないのライオンやめよーぜ・ねえそばにいて。どうして真剣に聞いてくれないの・槍か剣を持って行ってもしもの時は私が助ける・死なせはしないわ・あなたを守りたいのに。逃げて 7 ライオンに狩られてられております ・このように深い傷を受けながらもまだ私の身を案じるのか・わたしのためにそなたが流したこの血にかけてわたしの愛は未来永劫そなたのものだ ・わたしのためにメンフィスを殺させたりしない・あなたは私のなによりも大切な人。私の命よりも 現代に戻ってまう ・罪人を殺そうとしたけどキャロルの言葉がよぎり殺せなかった・キャロルは生きている。死んではいない・どこにいるのだ。なぜ私のところに帰ってこぬ。神の御前で私の妃になると誓ったではないか・いったいどこにいるのだこれほどまでに探しているのに(超疲労)・キャロルは私をおいて死にはせぬ私をかばってライオンの前に飛び出したのだもう一度抱きしめるまでは諦めはせぬ ・なぜか幸せだった気がする・誰かが私の手を取ってヒエログリフを教えてくれたの・めっちゃ声が聞こえるんよ・わたしを呼ぶ声が胸にうずまいてとらえて離さない。・わたし声のするところへ行きたい・どこにいるの。あなたは誰。今行くわ。待っていて。 ジャマリ現れる ・キャロルの傷のようすは?苦しんではおらぬか!助かったのだな!ありがたい!我が母なるナイルの女神よ!心から御身はたたえん・あの傷ではもはや助からぬのではと昼も夜も心休まる時とてなかったが・・ありがてえ・・・ジャマリの阿保みたいな嘘への反応↓まちがいないキャロルだ!キャロルは優しいジャマリは嘘を言っておらぬ!・はやく はやく 帰ってこい!くそう!待つのは我慢できぬ!ふ~~~~~~~~~~(酒飲んで糞でか溜息) 鉱山の奴隷反逆でメンフィスヌビアへ ・むかむかしてやりきれぬ傷は癒えた頃だなぜ帰らぬなぜ私をこのように苦しめるそなたの所在がわかれば無理にでもひっさらってくるものを 8 キャロル古代へ ・いまキャロルの悲鳴が聞こえたキャロルが私に救いをもとめている ・わたしやっと来たわ古代のあなたの所へ・ああメンフィス!21世紀で私の心に響いた呼び声はあなたが呼びかける声だったのね・会いたいわ。早くあなたの顔が見たい声が聞きたい。待っていてすぐにあなたの傍へいくわ・私が帰ってくるのを知ったらメンフィスきっと迎えにきてくれるわね・この激動の古代エジプトの中で私の行く手にどんな運命が待っているか分からないけど私はメンフィスのもとへ行くわ! 王子に捕まる ・キャロルが呼んだ気がする・まったく腹が立つわこの私にこれほど心配させおって今だに便りひとつよこさぬとはなぜ帰ってこぬ!なぜこの私の腕の中で傷を癒そうとせぬ!・早く帰れ待つのはもう我慢ならぬぞ・おおキャロルが帰ってくる!・キャロルどれほど待ったか!今迎えにいくぞ・わたしをこんなに苦しめおってもう離さぬぞ ・あなたに会える喜びがこんなことになるなんて考えてもみなかった 行方不明発覚 ・あのおそろしいライオンから受けた傷がやっと癒えたばかりのはずそんな体でいまどうしているのかこの何か月もの間もえる心をおさえにおさえそなたの帰る日を そなたをこの胸にいだく時を一日千秋の思いでまちこがれていたというのになぜに思い通りにならぬそなたはわたしのものだ何者にも指一本ふれさせたくないそなたの身に何事があればおのれそやつをたたき殺してくれる! ・どうしてこんなことになってしまうの私はメンフィスの傍にいたいだけなのに・たとえ這ってでもあなたの傍へ行くわ 9 捜索中 ・どこへ行ったのだ。アラビア砂漠をこれほど探したのにキャロルのいた気配さえないあの傷が癒えたばかりの身でどこへ・もしやアッシリアに連れ去られたのでは・あの賢いキャロルがおめおめと連れ去られるはずはない ・なぜこんなことになっていくの。わたしはメンフィスの傍へ行きたいとただそれだけを望んだのに古代の人々は私をほうっておいてくれなくてわたしは古代の王メンフィスを愛してしまっただけなのに!歴史の中に引き込まれてますます身動きがとれなくなっていく アッシリアからの誘い ・黄金の麗しく貴重なもの・・キャロルか・・(即決)・わたしの妃だ 捕らえられているならば助けなければならぬ・キャロルはあの恐ろしい傷が癒えたばかりの身だ私のもとへ帰ろうと無理をしているのではないかこうしている間も案じられてならぬいま無理をしては取り返しがつかぬぞ早く助けねば ・まさか私を助けようとアルゴン王の居城へ。メンフィスが殺されてしまう。助けなければ。私はここにいるのよ!アッシリアじゃない! 10 メンフィス捕まるキャロル向かう ・キャロルに呼ばれた気がした・キャロルはいつも私の身を案じて守ろうとする。わたしが危険だと知ればここへ駆けつけるはずだ。よほど厳重に囚われているのか。それとも危害を加えられているのでは。アルゴン王などにわたしはせぬ!・わたしの身が危険だと聞けば、キャロルはどこにいようとわたしを助けるために命をかけて来る。わたしを助けるためにきっと来る! ・メンフィスが倒れている夢をみたわ。胸が騒ぐわ。・どうしたらいいの。こんなにこんなにあなたに会いたいのに。こんなに傍に行きたいのに心が騒ぐ・メンフィスがアッシリアの罠に落ちた!どうか無事でいて。メンフィスのところにどうしても行かなければ・わたしきっとあなたの傍へ行くわ。今度こそきっと。・はやく会いたい。どうか無事でいて・ナイル河の不思議な導きで私は21世紀の現代から愛するあなたのもとへきたのに共に生きるために私はきたのにあなたを危機に陥れることになってしまった愛しているわ どうか無事でいてね・会いたくて胸が震える。涙が止まらないわ。・やっとあなたの傍にきたわメンフィス どっちもアルゴン王に捕まる ・キャロルに逃げよ。そなたが無事であればなにも恐れるものはない。たとえどこにあろうとそなたが無事であればなにも恐れるものはない! ・やっとここまで来たのにあなたのそばにいけない。メンフィスに会いたい助けたいの一心でここまで来たのよ。同じ国の中いながらわたしの声が心があなたに届かないなんてせめて私がすぐそばにいることだけでも知らせたい。・会いたいの。会いたいの。どうか見破られませんように。どんなに危険とわかっていても私もうこれ以上会わずにはいられない。 牢屋で再会 ・愚か者めなぜここへ来たのだ。私に構わずなぜ逃げなかったのだ。逃げよキャロル・くっそう~~~そなたをそんな男に指一本ふれさせたくない~~ ・会いたかったわ。一日もあなたを忘れた時はないわ。遠くはるかに離れていてもいつもあなたを思っていたわ・もう離れ離れになるのは嫌。暖かいあなたの腕、あなたの胸。本当に本当にあなたなのね。・どこにいてもなにをしてもあなたの事を思うと胸が苦しくて胸が引きさかれる思いがしたわ・メンフィス我慢して。私が連れて行かれても今は我慢して。このアッシリアの城はチグリス河の支流のそば、ホルス将軍に河をせき止めて水を城へ逆流させるように命じたの。水が入れば日干し煉瓦作りの子の城は泥土とかすわ。この城は内側から崩れるわ。だから今は我慢して脱出の機会を狙って・メンフィス明日からはもう離れないわ 11 ジキタリスを飲んだぜ ・キャロルがアルゴン王から身を守るために毒の花を飲んだ!いま苦しんでいると!おのれアルゴン!うち殺してくれる!・今そなたを助けてやることができぬ!同じ城にいながら私のために毒を飲んだそなたのもとへ行くことができぬ。私の為に苦しんでいるそなたを助けわが腕に抱く事ができぬ。許せ。キャロル死んではんらぬぞ。けっして死んではならぬぞ!・このたぎる思い。アルゴン王に目にもの見せてやる!今日こそなんとしてもそなたを助けこのアッシリアを脱出するぞ ・わたしメンフィスを愛しているの。・アルゴンにふれられるくらいなら。愛しているわ。たとえ死んでも。あなたを。・たとえここで死んでも。心はあなたのそばへ行きたい。メンフィス・メンフィスが殺される こうしてはいられないなんとか状況を掴んで方法をみつけなければなにもかもがダメになってしまう アルゴンメンフィス一騎打ち(一騎打ちとは言ってない) ・おお・・助かったのか神よ・・心から御名をたたえんもはやなにをも恐れるものはない・キャロル 今日こそ其方を苦しめたにっくきアルゴンをたたき切りこの腕にそなたを抱いて脱出するぞもうそなたを苦しませぬ・なんとしてもそなたを助けずにおくものか ・メンフィス しっかりして卑怯なアルゴン王に負けないで 12 アッシリア脱出 ・もう離さぬ 離しはせぬ キャロル ・やっとやっとあなたに会えたのにもう離れるのはいやよ生きるも死ぬもあなたと一緒に・私これ以上力がでないの わたしを抱きしめてもっときつく 私を抱きしめてあなたの胸の鼓動が聞こえるわたしやっとあなたのもとへ帰ってきたわ3千年の時の彼方から来たのよ愛してるわメンフィス・あなたの傍にいたい ねえメンフィスお願いよもう離れたくない どんなにどんなに危険でも もう・メンフィスは全身に傷を受けている 誰の命も大切だと思ってもイズミル王子が無事ならメンフィスが殺されるどうして戦わなければいけないの私はあなたと共に幸せになりたいだけなのにどうして戦いに巻き込まれていくの・・ イエリコで休息 ・まことにそなたは油断がならぬからなそなたはそばにいないとまたどこかへ行きそうで目が離せぬわ・早くそなたをエジプトへつれて帰りたい一日もはやくそなたを妃にしたい待つのはもう 我慢ならぬはやくはやく元気になれいわたしから逃げ出せぬよう一時もはやくこの身も心もわたしのものにするぞ・元気になって私の妃となればもう我儘など言わせぬぞ ・わたしのことそんなに心配して 嬉しいわこれからはもっと一生心配させちゃうから・さっきはあんなに優しかったのに気に入らないわこのワンマンな性質はなおせないのかしら さっそく無断でヨルダン ・この馬鹿者め!熱が下がったばかりでまだロクに歩けもせぬ身でありながら出かけおってヒッタイト兵が潜伏しておればなんとする。今エジプト国民は長期間国を空けたそなたの無事な帰りを待ちわびているのだぞ。其方を慕う民の為にも軽率な行動をしてはならぬ・忘れてはならぬ婚儀なかばでよぎなく中断したとはいえそなたはこのエジプトの王であるわたしの妃だぞ。よいかキャロルこれ以上私を苛立たせるな ・ほんとに悪かったわ。ごめんなさい。・あ・・わたし本当に軽率すぎたわごめんなさい エジプトに帰還 ・見ろよメンフィス様の顔 溶けちまいそうだぜ(国民にも駄々洩れである)・アルゴン王からわたしのためにこの身を守ろうとしたのだ愛いやつだ・今度はそなたを気を失うほどに幸せにしてやる ・すぐに良くなってみせるわこれからはあなたのそばにいられるんですもの。もう二度と離れることはないもの。ああほんとにメンフィスの傍に帰ってくることができて良かった 13 ワニワニパニック ・もはや何者にも婚儀を妨害はさせぬぞ・姉上がキャロルを暗殺っするわけない‥よな? ・メンフィスの心にアイシスへの疑惑の心が芽生えたわメンフィスの心が揺れている今日までのアイシスは嫉妬深くてもメンフィスは良い姉と信じてきたわ 祝祭前日 ・誰よりもメンフィス様が明日の日を待ち焦がれておいでですよ(ナフテラ談)・もうどう喚こうが逃しはせぬぞ。明日こそそなたを妃に迎えるぞ。・誰でもそなたをひと目見れば欲しくなるわ。わたしだとてそなたを初めて見た時欲しくなった。・明日キャロルを正妃に向かえる。これほどに愛しいと思いこれほどにほしいと思った娘はなかった。やっとこの胸に抱く事ができる! ・気を付けるから大丈夫だっていってるのにワニワニパニックから一歩も外へ出してくれないわ。これじゃ息がつまってしまうわよ・わたしメンフィスを守りたいと思う気持ちでいっぱいだから神経質になりすぎるのね。でもやっぱりラガシュ王には十分気を付けてね・明日になると今度こそ私はメンフィスの妻になる明日になるとこの私のすべてがメンフィスのものになる花嫁になる時みんなこんな気持ちになるのかしらなぜか愛してるのにメンフィスが・・・怖い・・ 祝祭当日 ・待ちに待ったアメン神の祝祭がきた!今日こそ婚儀を完了させ名実ともに正妃にするぞ・もはや二度と婚儀を中案させはせぬぞ。・今後いつも私の事だけを考えきょろきょろするな・数ある儀式これからは私が前もって教えてやる。・愛いやつ、もう放さぬぞ。これで晴れてそなたは私のものだ。 ・古代のファラオらしくなんて雄々しい若い王なのに誰にも真似できない威厳と風格が備わって民の心を、わたしの心をとらえて離さないメンフィス初めてあなたに巡りあった時恐ろしさで震えた胸が今はあなたへ愛の思いに震えている。・メンフィスは国民の疑惑の渦からアイシスを守ろうとしている。弟して姉を守ろうとしている・なんでの前ライオン狩りの為に別れ別れになったのに同じことするの?バカなの?そういうとこ嫌いだわ~ 婚儀成立! ・この時をどれほど待ったか。そなたの髪、この目、この唇、この体今宵からはすべてわたしのものだ・聖なる王妃の誕生だ もはや何者もそなたとわたしの間を邪魔することはできぬ。・もう我儘は言わせぬぞ。今宵からは誓ってわたしのことだけを考えよ。もはやそばを離れてはならぬぞ!逆らうな命令だ・愛いやつめ・・おお・・どうしてくれよう・キャロル見つめてとろーーーーーーん ・わたしは21世紀を捨てたのよ。この古代であなたと生きるために21世紀のすべてを忘れたのよ。(そうでもない)・すっごい独裁者になりそう。少しは優しくなったと思って安心していたのに。荒々しい性格はちっともなおってないわっとっても幸せなんだけどなんだか前途多難・幸せよメンフィス。こんなにみんなが喜んでくれるなんて。・メンフィスがこんなに上機嫌なのははじめて見たわ・わたしはもうあなただけのもの・・・見つめられて胸がドキドキするわ・・ やっとこさ初夜 ・もう離さぬ。逃げようったって逃すものか。・このわたしのためにそなたはこの体を守ったのだな愛いやつよ・そなたを抱くこの日をどれほど待ったかやっとそなたを私のものに・もう生涯離さぬぞ・いま一度この口から私を愛すると言ってくれもうどこへも行かせぬと約束せよ・この時を待ちかねたぞ。この先何が起ころうとどんな運命が待ち受けようとわたしの妃は生涯かけてそなただけだ。わが妃よ・・・いとしい・・・ ・なぜか今とても不安で胸がふるえる・愛してるわ。もう離れ離れになるのは嫌よ・約束するわ。愛しているわメンフィス。もう私はあなたなしでは生きていけないもの。いつまでもあなたの傍にいるわ。 夜明けのピロートーク ・なにがダメなのだ。こやつだめとは言わせぬそなたは私のものだ わかっておろう・そなたは私のものだ ああまだ信じられぬ・もうどこにも行ってはならぬいつもわたしのそばにいよ ・まだ胸がときめいて夢の中にいるみたい。わたくしが古代のファラオの花嫁になったなんて・いじわるなんだからすぐに荒々しくなるんだから・メンフィスの胸ひろくって暖かい・わたしは古代にひとりぼっちなのよ。わたしにはあなただけが便りなのよ。肉親と別れてあなただけを信じてひとりここにいるの。気が付くととても寂しくて心細い時があるのよ。でも誰よりもあなたを愛しているから私はひとりでここにいるによ。・わたしはメンフィスの花嫁になったのよ。しっかり自覚してわたし良い王妃にならなければ 姉上バビロンへ ・そなたをどこへも行かせたくはなかったんだくそうっなんでバビロンにいかせなあかんのや ・どうしてそんなに怒るの 分かったアイシスがバビロンへ行くので寂しいんでしょっ。でなきゃそんなに怒ることはないでしょう意地っ張り・姉思いのメンフィス 大好きよ。アイシスは私にとってはとっても恐ろしい人だったわでもあなたにとってはたった一人の愛する姉わたしもあなたと心を合わせて幸せを祈るわ 14 バビロン出発 ・接見を秒ですましてちゅっちゅする・そなたとの時間を誰にも邪魔はさせぬ。バビロニアへなど行かせたくない。・このわたしがどれほどの思いでそなたを妃にする日を待ったか。やっと妃にしたというのにまだわたしのものになった実感がつかめぬ・くっそうバビロニアは遠すぎる!なぜか心が進まぬ!この白い胸にほかの男の事など思ってはならぬぞ・メンフィスの胸飾りげっと・それをそなたのその白い胸につけよ。それは私だ。(バビロンで燃えた‥)・バビロニアから一日も早く帰れ!そなたはそそっかしく王妃らしくない。長居すれば笑いものになるやもしれぬぞ。よいな!!早く帰れ!気を付けていけい ・一日も早くあなたのもとへ帰ってくるわ。私はあなただけを信じてあなたと共に行きたいと願いこの古代にいるんですもの バビロニア到着 ・気にいらぬくそっ。ウナスは毎日報告をよこすのにキャロルめ一度も便りをよこさぬ。無事だとか寂しいとかなんとか書いてよこせばよいものをこの私を忘れてバビロンで浮かれておるのではわが妃にしたばかりなのに帰ればただではおかぬぞ ・宮殿もとても立派だわ。でもやっぱりメンフィスの宮殿の方が素敵。なんたってメンフィスが素敵だもん。・早く帰りたいわ。メンフィスどうしているのかしら。私、あなたの傍じゃないとさみしいわ・さ 殺気・どーも誰かに睨みつけられてるみたい。メンフィスが早く帰れって怒っているよーな悪い予感っがするのメンフィスったらすっごいワンマンで怒りんぼうなんだからっでもわたしも早く会いたいわ 15 バビロン幽閉キレる旦那 ・キャロルから手紙だと(超絶おおはしゃぎ)キャロルがわたしに手紙を!はじめてわたしに手紙をよこした。一度も便りをよこさず私をいらいらさせおってわたしが恋しくなったのであろう。早く帰ってこい息も止まるほどに抱きしめてやろう国境の砂漠まで迎えに行ってやろう・早く帰りたいと申してきたかと思えば心行くまでバビロンの都に滞在したいと(びっくりしすぎて1p使う)わが腕に抱いたばかりの新婚の身でありながら一日も早く帰れと申したに!世辞者のラガシュ王の言葉に図に乗りおって!そなたはエジプトの民が忠誠をよせる王妃ぞ私よバビロンの都が気に入ったと申すのか!くっそう馬引けー灌漑工事の見回りにいくーっ!姉上の婚儀のことゆえ仕方なく行くことを許したにええい!はらのたつ!キャロルめ!わたしの妃ぞ!このわたしの傍よりバビロンの都にいたいと!(シナイの銅山の船を見に行ったはずなのにそんなこと忘れて工事現場まで爆走)バビロニアへなど行かせたくなかった!姉上の婚儀でなければ決して行かせはしなかった!この燃え立つ思いがなぜ分からぬ!くっそうキャロルめ!・なに!バビロンの都で月食がおこると予言!それでキャロルは帰ってこれぬのか!・月食がおこるという時!どうして早く帰ってこぬっ。ラガシュ王からは不吉なる時大事をとってもうしばらく滞在して頂くなどとしたためてきたが帰りたいと申せばいいではないか!姉上とて不吉だからこそ一刻も早く無事に送り届ければいいものを!これほどに愛しいと思いやっとわが胸に抱いたばかりなのに。私が恋しくはならぬのか。私は毎日国事に明け暮れているというに手紙一通よこそうとはせぬ。ええい 許せぬ ・塔の地下へ閉じ込められてしまったわ・こんな重大な事態を早く知らせなければ・こんな手紙を読めばメンフィスはかんかんになって怒るわっ。アイシスの幸せを願っているメンフィス。まさかラガシュ王が私たちを裏切っているなんて考えもおよばないはずあの激しいメンフィスのこと、烈火のごとく怒ってこのバビロンへくるかもしれない。・あなたの胸に帰りたい。せまりくる危機を知らせるすべもなくどうしたらいいのメンフィス。・寝言でメンフィス・ラガシュ王に無理に書かされたあの手紙がメンフィスに届くころよ。わけの知らないメンフィスはきっと火のように怒るわ。それは私の意志で書いた手紙じゃないのよ。・メンフィスが火のようになって凝っているのを感じるのあの手紙をわたしの心だと思って・・ラガシュ王の策略に乗らないで。バビロンに来ないで・「愚か者め!だから言ったのだ・・そなたは・・」という声がリフレイン。ほんとだわ!わたしまた失敗してしまったわ!どうしよう!エジプト帰りたい荒々しいメンフィスの胸の中にきつくきつく抱きしめられたいわ!いいえメンフィスにこの有様を知られてはいけない!この有様を知れば危険をものともせず疾風のようにバビロンへ駆けつけてくる!ラガシュ王の罠が待つバビロンに来させてはいけない!これ以上ラガシュ王の思い通りにさせてはいけないわっ!自力でバビロンを脱出しなければ、早くラガシュ王の正体を知らせなければ! 16 月食始まる ・キャロルが呼んだ!キャロルに何事かおこっている!遠いバビロンでわたしに助けを求めている! ・わたしこのバビロンで死ぬのかしらもうメンフィスに会えないの?いやよメンフィス死ぬならあなたの傍で 17 魔の砂漠へ ・いやナイルの姫は未来を読むかしこい姫だそうなメンフィス王が熱愛して無理矢理妃にしたそうだぜ(バビロニア国民)←を聞いて顔真っ赤・この燃える砂漠の中女の身でそう長くもつはずがない一刻も早く勝負をつけキャロルを魔の砂漠より助けねばならぬ・(何故か盗賊に捕まっているビジョンが見えて)キャロルはこの広大な砂漠のどこかの怪しげなる天幕の中にいるに違いない! ・あなたのところへ帰りたいあなたのそばへ帰れると万の一つの望みをかけて魔の砂漠へ向かうわ・こうして焼けるような砂漠を歩いていると以前砂漠の石切り場で働かされた時の事を思い出すわ。あの頃メンフィスは我儘で意地悪で強引ですっごい暴君だった いまもあんまり変わらんけど でも メンフィスの男らしい胸の中にいると不安も寂しさも消えて激しく愛されて守られているって王妃が泣いたり弱音を吐いちゃいけないでもわたしだめ 立派な王妃になれないわ とんでもねぇ不審者だと思ったら旦那だった件 ・くっそーっ こ このわたしがわからぬのかっな なんというやつだっ ゆ 許せぬっこやつ このわたしが恋しくはないのかっそなたを救わんと 夜を日についで砂漠をかけぬけて来たというのに・めっちゃ腕噛まれる・ばっ 馬鹿者めがーっ噛んでいるその手が誰の手が抱きしめているこの腕が誰なのかまだわからぬのかーっ 許せぬ~~~っそなたの身を案じてここまで来たというにそれを こやつめ~っ・無事でよかった!よく無事であった 心配したぞもはやそなたを誰の手にも渡しはせぬエジプトへ連れて帰るぞ ・きゃー全身黒装束の男!盗賊だわ!まっすぐこっちへくるわ!やっば・どうして私をほうっておいてくれないの どうしてみんなわたしを捕らえようとするの私はエジプトへ帰りたい なんとしても帰りたいのよ・その声は きゃー!メンフィス・会いたかったわメンフィス ほんとうにメンフィスなのね恐ろしかったのよメンフィス・助けに来てくれて嬉しい 再会で一息 ・まだしっかりと抱いておらぬがそなたを抱いた時少し痩せたぞ!・猫に噛みつかれたのだ・許せぬわ この私をよりによって盗賊と間違えるなどと!このバカ者めが~っ・覚えておれ 私が見分けがつかず噛みつく猫などうんと思い知らせてやらねばならぬいまに私の腕の中で存分に仕置きをしてやるぞ ・私ったら誰より会いたかったメンフィスから必死に逃げていたなんてでも怖かったわ絶対盗賊だと思ったわ・すぐに横暴になるんだからうんと優しくしてほしいのに 19 水中ランデブー 船に乗るまでほんのひと時二人きりぞ・やっと会えたというにそなたの温もりを感じながら日々馬上のことまして皆の中どうにもならぬ想いにこの身が燃え上がったぞ・胸が燃えて体が熱いそなたは私のものだ ・普通に苦しくてそれどころじゃないわよ馬鹿・これってハネムーンじゃないの!やったぜ なんちゃってハネムーンと戦の予感 ・妃でありながら何でも見たがる悪い癖がある。まったく大エジプト帝国の王の妃とも思えぬ!ふん だがまたそこも気に入っておる!・この機に我がエジプトを見せようと思う。富国我がエジプト、これからはそなたと共に守るのだ。我が民の生活をそなたに見せたい・戦が、起こるやもしれぬ 近い未来に・姉上は私を裏切った。バビロンに暗雲がたれこめている動くやもしれぬぞ。・今は戦の事など案ずるなたとえ戦が起ころうともそなたには私がついておる。そなたは私の胸の中におればよい。・黄金に波打つ髪 甘やかな頬と唇なんとなまめいて見せることかしばらく見ぬ間に美しくなった…・私がここにいるのがまだ信じられぬだとこれほどに近くにいるというに私の事を心にかけておらぬ証拠ぞならばしっかり信じさせてやる新婚間もないそなたが旅立ってからそなたの帰りを待ちどれほどに心痛めたか・ほんの数日前まで命の危険にさらされていたまして女の身でさぞや不安の日々であったろう ・メンフィスって素敵な王者だわねえテキパキ処理していく生まれながらの統治者だわ・バベルの塔をちょっと見たいと思ったけどでもそれが悪いとは思わないわ。私は考古学が大好きなのよ未知の世界を見たくて見たくてワクワクしちゃうのよ。がまんできなくなっちゃうのよ。この古代戦に乗っているのだってもードキドキしてるのよっすてきな船!もうスリスリしちゃう・戦なんて でもメンフィス アイシスは姉弟じゃなの・いやよメンフィス わたしがあなたを守るわ私の命をかけても!私はあなただけのためにここにいるのよ。遠い未来から私は来たのあなたのもとへ・はなれるのはいやよ わたしを離さないで・メンフィスの激しい愛に包まれてこうしていると数知れない恐ろしい思いが嘘のようこの幸せがどうかいつまでも続きますように‥ 下エジプト ・これからはそなたと力合わせて我がエジプトを守ろうぞ・今はキャロルの前では戦の事は口にするな・私に気遣って、詳しくは話さぬがぬが、バビロンでは辛い思いをしてきたのだいましばらく新婚の幸せの中に包みたい・どうしたのだ そんなに怯えてわたしはどうすればいいのだどうすれば安心させられるのかこうして抱きしめていればいいのか剣をとって戦うのならば何者をも恐れぬが愛しいそなたをどうすればいいのか分からぬ ・わたしもできるかぎりエジプトの役に立つよう努力するわ・いま、私はこのエジプトの王妃これからはできるかぎり人々の生活を知って少しでもメンフィスのためになりたい・メンフィス 私を離さないでね・このところ視察を兼ねているけど知りたかった古代の生活を見て回れて大満足だわ!ああもっともと色んな事見たい!知りたい!毎日がドキドキ感動のしどおしよ!ハネムーンとおんなじよね 信じられないほど幸せ・いつかメンフィスに私が作ったお料理食べさせてみたいなあ でも私のお料理のレパートリーは糞だわでもいつか何か作って食べさせたい!絶対に!たとえお腹をこわしても!いや壊したらまずいわ。あの怒り虫ものすごーく怒るわよ。・はなれない… 20 ぎゃあああ逃げろおおおカーフラだああ ・それそなたの仲間がいたぞどうだそなたにそっくりでろう(子鴨が) ・感動だわ!素敵だわ!胸がわくわくする!ありがとうこの神殿へ連れてきてくれて考古学を専攻してきた私にとって凄く嬉しい事なのよ・ひどいわ!メンフィスもメンフィスよカーフラ王女が側に寄ったらニコニコ笑って嫌いよっそんな不潔だわっ 初めてのジェラシー ・どうしたのだ機嫌が悪いが船ではあれほどに喜んでいたではないか・まていっ わたしに対するその態度はなんだっ・チューキャンセルされる・キャロルそれはわたしのカーフラ王女に対する態度に嫉妬していることだな。という事はそれほどに私を愛しているということだな。愛しいやつ…初めてだな、そなたが私の為にそれほどに嫉妬するのは・愛しい奴よ…・私は王はだ!王として心に染まぬこともやらねばならぬ時がある。そなたは私の最愛の妃ぞ。わたしだけを愛してくれ、私だけを愛してくれ わたしだけをっ ・カーフラ王女にべたべたしてっ嫌いだわ・ムカムカしてきたわっ・嫌いよ メンフィス・カーフラ王女に対するあの態度はなあに!行き過ぎよ! わたしの目の前でわたしは同盟国の王女だからメンフィスの立場を思って我慢してきたけれど。ナフテラ女官長から聞けばカーフラ王女はわたしが留守の間ずーっとメンフィスの側に居たって・メンフィスったらいつも必要以上にカーフラ王女にデレデレして。いやらしくって。不潔だわっ・わたしがどんなに気を悪くしているかメンフィスったら私怒ってるのよっ 力ずくでなんて嫌いよ 不公平だわっ プントが飢饉でメンフィスコプトスへ ・うむ わたしとて同じこと 手配が済み次第に帰る! ・すぐにでも出発するのね。すばらしいわメンフィス。なんて迅速な決断と実行力・一刻も早く食糧を送って一人でも多く助けてあげて!・救済の手配がすんだら早く帰ってきてね・ねえメンフィス わたし今ほんの少しでも離れていたくないのよ・なんて素晴らしい事でしょう。メンフィスには自分の決断ひとつで飢えに苦しむ一つの国を救うことができるんだわ!すごいことだわわたしが結婚したのは素晴らしい力を持った雄々しき古代の王!・でも欠点がいっぱいあるわ。まず我儘で横暴だわ。すぐに暴力を使いたがる。すっごい独裁者で、わたしに…うふ。でも優しいところもあるしやっぱりメンフィス大好き!愛してるわっ。 カプターの部屋を皆で燃やそう 多分一睡もせず仕事してる最中 ・カーフラ王女を メンフィスが‥今夜 コプトスの宮殿で!?・歴代の王がそうであろうとメンフィスは違う 違うわ!・何も聞いてないわメンフィス・歴代の王が政略の妃を何人も迎えているのは知っているわ。でもメンフィスは私に言ったわ。どんなことが起ころうとも愛する妃はそなた一人だって言ったわ・わたしがライオンに引き裂かれたあの日傷ついた私にあなたは言ったわ。「わたしのためにそなたが流したこの血にかけてわたしの愛は未来永劫そなたのものだ」 カーフラ王女と一緒だなんて嘘よ。嘘よね。私たちの愛を裏切らないで。お願いよメンフィスお願いよ。・もしやもしやと一縷の望みを分けていたのに・壊れていく‥‥心が‥‥壊れていく… ディスコミュニケーション夫婦喧嘩 ・なにをするっ キャロルっ 無礼なっ 私はエジプトの王ぞ!わたしが何をしようと王の私に向かって卑怯者呼ばわりはさせぬぞ・おのれ~~このわたしに刃向かいおっていったいなんだというのだ二度と‥二度と 逆らうことは許さんあとで思い知らせてやるぞ わたしは王だ!わたしの行動に誰も否やは言わせぬ ・卑怯者ーっ恥知らず~~~~~・ビンタ・王だって人の心を裏切って許されるはずないわ。心がどんなに傷つくか メンフィス卑怯よ~・嫌よ 耐えられないわ 私の心を引き裂くの…メンフィス心が痛い だれか助けて 胸がはりさけてしまいそうひどい人ねメンフィス 私はあなたを信じて この古代であなたと共に生き わたしの命よりも あなたを愛したのに・古代の世界では当然の事でも何人もの妻がいるなんて耐えられないでもそれがエジプト国家のために民のためと言われたら私はもう私ここにはいられない あなたを愛しているから・さようなら 国の為ならば何人もの妃を認めるのが王妃ならわたしは王の花嫁にはなれないわたしあなたを信じていたのに 誰よりも信じていたのにやっぱりわたしだけを愛してほしかったあなたを愛しているから わたしはもうここにはいれない・あなたを信じていたのに・こんなに心をずたずたに引き裂かれたのにあなたを忘れられない 胸にうずまくこの思いをどうして忘れたらいいの ナイルよ どうかわたしを20世紀へ連れて行って どうかメンフィスを諦める事ができるところへ連れて行って・さようなら わたしは古代に帰らない 実家に帰らせて頂きます ・なに キャロルがナイルへ 帰った?・キャロル なぜだ! ・あなたを信じていたのに 悲しくて心が張り裂けてしまいそう帰ります あなたを諦めるために あなたを思いきるため・熱砂の砂漠をわたり荒涼たる山河を超え国境を越えて何者をも恐れずに進んで来られたのはただ一筋にあなたを愛するが故だったでも愛したものは 信じたものはみんな消えていく ・アイシス 愛が重い異母姉。自分の言葉を全肯定してくれる人だと思ってたから、まさかキャロルとの結婚に反対されるとは思わなかったし、裏切られるとは露ほども思わなかった。彼女が煽れば煽るほどメンフィスとキャロルの愛は深まるので恋のキューピッドでもある。一緒にいた時間があまりにも長く、自分の一挙一動をつぶさに見知っている為、敵になるととても厄介で困る。 + 全力で空回りする姉上の軌跡(1巻~20巻) 巻数 出来事 アイシス→ ←メンフィス 久遠の流れに 7歳の頃 ・既に大きくなったらメンフィスの花嫁になる宣言。・弟のためにエブリデイ神に祈っている ・うるさいなあ だから女はきらいだ~~(ほぼお母さんに対するリアクション) 10年後 ・我儘を言う弟の域を乗り越えて、愛する妻として抱いてほしい・幼い日から身も心も弟のものと思い育ってきた。抱かれる準備はできている・(タヒリ王女の花嫁行列のありさまを見て)メンフィスならやりかねない・弟にキスする人が自分以外にいるはずないと確信している・私の心を知りながら、よりによって父上の妃と‥でも好き ・嫉妬は姉上らしくない・姉上に接吻されるのは普通の事 1 黄泉返り ・好きすぎてミイラを追ってやる気で蘇る 2 婚約 ・カプターをけしかけて婚約を強行・ミタムン王女も消しとくぜ ・結婚なんて子供作るためのくだらないものどうでもいい。 婚約破棄 ・キャロルを愛してしまっただと… ・姉上には悪いが結婚しない決心をした・姉上とキスしているのを誤解されたくないのでキャロルに見せたくない 3 キャロル行方不明 ・キャロルが古代にいなくなってからメンフィスは狂ったようにキャロルを探して夜も眠らないわたしの言葉さえ耳に入らんからキャロルの死体を目の前に差し出して諦めさせたろ ヒッタイトに助けに行く必要ないわ ・どうせ王子にヤられてっからもうやめとけよあんな女 ・いかに姉上といえどそれ以上言うことは許さぬ 5 ムカつくから下エジプトにいっちゃうんだからね ・メンフィスの為なら女王としての地位も名誉も誇りもすべて捨てられるけどキャロルには渡したくない。・メンフィスに遠くから冷ややかな目で見下されるようになったいっそ憎しみの炎でこの身を焼き尽くすがよいわ・キャロルとの婚儀、できる限り妨害宣言・いまにあなたにも同じ苦しみを味合わせましょう・権力も若さも美しさも持ち合わせているあなたから逃げるような娘おやめろや・キャロルを選ぶなら下エジプト行くわあなたが止めればここにとどまります・きっ弟は私を呼ぶという謎の自身 ・どのように妨害されようとこの愛はつらぬいてみせる・下エジプトにいきたきゃいきゃいい。止めねえから 6 婚儀は出席しません ・結婚阻止するためにヒッタイトと下エジプトの共謀を計画 ・姉上だとてエジプトを守ることにおいては心は一つ亡き父上がおいでの時から姉弟力を合わせてきた今は仲たがいしていようとも聡明な姉上だいまにきっとわかってくれる・姉上が暗殺者を送った?姉上がキャロルの命を狙うなどそのような事するはずがないどのように怒ろうとそのような愚かな行為をする姉上ではない。姉上を侮辱することは許さぬ 7 キャロル行方不明 ・キャロルが消えてうっきうきでテーベへ帰還し慰めてるのようで完全に煽っている言動連発・わたくしはあなたの身が心配で下エジプトからかけつけたのですwwwww(めっちゃ嬉しそうに言う。そういうとこやぞ)眠る暇もないほど国事に追われている身でありながら時間があればキャロルを探して馬をかけるわたくしがそばにいるのに、なぜキャロルを諦めないの 8 ・キャロルはきっと死んでるのに何故諦めないのですわたくしのあつい思いをどうしてわかってくれないの ・姉上はキャロルの死を望んでいるのであろうよるな姉上!!姉上は信じられぬ・ジャマリの話を信じない姉上とは話したくない! 9 アッシリアに行くと聞いて ・どうみても罠だろうが!! 10 アルゴンに捕まった知らせ ・弟が案じられてこの身を引き裂かれる思いがする 12 メンフィスの目の前でうっかりキャロルにおいた ・私を憎むほどにキャロルに心奪われてしまったのか ・キャロルは私の為に毒を飲み死ぬところだったのだ!姉上でなくば・・・アメン神の祝祭には中断した儀式を完了し名実ともにキャロルは私の妃となる。エジプトの王たる私の婚儀だ。今度こそは姉上にも祝福してもらいたい ラガシュ王の求婚 ・この私にラガシュ王のもとへ嫁げというのか。これほどにあなたを愛しているわたくしにほかの男のものになれというのか。・わたくしのこの体と引き換えにキャロルを殺してやるとラガシュ王は言う。でもメンフィスの腕に抱かれたい ・姉上がバビロニアの王妃に・・わたしはキャロルを妃に迎える。姉上のことを案じていた姉上の幸せのためにも決断せねばならぬかバビロニアの王妃ならば姉上にふさわしい・ラガシュ王、わたしからも姉上にすすめましょう。姉上にも幸せになってほしい 13 キャロル暗殺計画がばれかける ・メンフィスがわたくしの心を読もうとしている。あの目・・まさか気づいたのでは・おおメンフィスなぜわたくしを追い詰める。なぜみんなしてわたくしを追い詰める・このわたくしに神の前でキャロルを祝福せよと~~~~~~・おおメンフィスこの身が燃える・・なぜにキャロルを愛したのです!あなたの妃になるのはこのわたくしだったのに。あなたの暖かい胸に抱かれて若いあなたの愛を受けて、あなたの世継ぎを生むのはこのわたくしだったのに。あなたの心がわたくしに向けられる日を・・待って待って待ち続けててきたのに。わたくしの愛ははかない夢と消えるのか。・メンフィス なんとしてもあなたを諦めねばならぬのか。幾年月重ねてきたあなたへの思い・・・もはやこれまでメンフィス! ・姉上がキャロルとの婚儀に反対なのは分かっていた。だが、もしや姉上がキャロルを 我が国民が心から王妃にと望みこのわたしが命より愛しているキャロルをもしやもしや姉上が・・おお・・まさか・・姉上が・・キャロル殺害を企んだ犯人か・姉上!国民が不穏な噂を振りまき騒いでいる私とて噂を信じたくはないがなにやら落ち着かぬ。今、姉上の身の潔白を証言するには百万言の言葉より国民が望むエジプトの和平の道を選ぶことだと思うが・・・姉上の幸せのためにもラガシュ王との結婚を固めたい。さすれば民もそのうちおさまるだろう・幼き日より共に助け合ってきた姉上姉上は神殿の祭祀。わたしとキャロルの婚儀を神の前で祝福してもらいたい。さすれば姉上に対する噂も消え民も安堵するだろう。姉上さあ民の前で祝福を 嫁いで殺んよ ・メンフィスわたくしからもお願いよ。わたくしは我がエジプトの平和と繁栄を祈り愛するエジプトちバビロニアの友好としてラガシュ王に嫁ぐのです。わたくしはあなたの望み通り神殿であなたの婚儀を祝福したではありませぬか。今度はわたくしの婚儀にキャロルの祝福がほしいのです。あなたの大事な妃のキャロルは婚儀が済めばすぐにわたくしが大切に・・大切に送り返しますよ・メンフィス そなたしか愛しはせぬ! ・なに姉上がラガシュ王の妃となることを承知されたと!姉上!姉上には幸せになってほしい!わたしのただ一人の姉上だ!バビロニアの王妃ならば姉上にふさわしい・姉上への結婚の祝いは何がふさわしいか!・わかった姉上がそれほど望むならキャロルを行かせる・姉上が嫁ぐのだめでたい事ではないか。潜ませてある者たちの報告によればバビロニアは近年作物は豊かで平和だ姉上は幸せになれる・姉上 何かあればいつでも知らせをまた時にはエジプトに遊びにおいでを。姉上!きっと!幸せになってほしい! 14 キャロルをぶっ殺す(殺してない) ・おおメンフィスは・・・キャロルが死んだと知ればどのように怒り狂うであろう・・・おお・・メンフィス。幼い日から愛する・・わたくしのただ一人の弟よ。わたくしは今日!あなたの愛するキャロルの命を奪うのです。キャロルを再びあなたの胸には返さぬ。おおメンフィス。あなたの憎しみの炎をこの身に受けましょう。でも憎いキャロルが死ねばいつの日かあなたもキャロルを忘れる日がくるでしょう。その時わたくしはあなたの胸に戻るのです。いつの日か愛するあなたのもとに戻るために。わたくしは今日、ラガシュ王の妃となるのです。わたくしは女王アイシス。わたくしの心はいつまでもエジプトの女王。いつの日か・・・おおわたくしは幼い日からの夢破れて・・心ならずもラガシュ王と結婚しようとしている。これが夢に見続けていた愛しいメンフィスとの婚儀であれば天にも昇るほどに心ときめくであろうに・・・おおメンフィス。わが弟よキャロルはもはや生きてあなたには渡さないわ 15 どんな算段があって元鞘に収まろうとしているのか ・キャロルは死んだ!おお弟よ。あなたとの間を妨げるものはもはやいない!わが弟よ!今しばらく時を見てきっとあなたのもとへ帰ります。我が祖国エジプトへ・ああ はやくエジプトへ帰りたい メンフィス あなたが恋しいあなたを想うと胸がうずく メンフィスはキャロルが死んだことをいつ知るのであろ。おお愛するわが弟よ。わたくしはいつあなたの腕に抱かれる時がくるのであろうかメンフィスよ ・不吉な月食が起きるんだから早く嫁を返して! 16 キャロル生きてるし悪事もばれそうだし ・弟よ あなたゆえにわたくしは愚かにも騙されて取り換えしようのない事態にこの身が燃え尽きるほどに愛しい弟よあなたの心を奪ったキャロルが憎い! ・姉上は宮殿で幸せに暮らしていると・・・げせぬ!姉上はキャロルが塔へ閉じ込められたのを知らぬはずはあるまい! 17 絶縁 ・すべてを知られた!・これはあなたを愛したからなのですあなたやエジプトを裏切る気持ちなど毛頭ありませぬ幼い日から あなただけを見つめつづけいつからあなたの花嫁になって共にエジプトを繁栄させることを夢見て育ちましたあなたはキャロルに会う前にはわたくしを妻に迎えると定めていたではありませぬかわたくしは天にも昇るほどうれしかったなのにあなたはキャロルに心奪われたわたくしはキャロルが憎い!あなたを捕らえて離さないキャロルが憎い!キャロルさえ死ねば・いまわたくしが大声を出し人を呼べばあなたはたちまち囲まれ切り殺されるでしょう・くせ者じゃー・・・であえーーーーーっであえ~~~~~・弟よ わたくしはあなたを滅ぼしましょう 帰りたい わたくしはあなたを滅ぼしエジプトの女王となりましょう ・姉上はキャロルの命を奪うと事と引き換えにラガシュ王に嫁いだと申すのか信じられぬ 姉上はわがエジプトの王女!わたしの姉だ亡き父上の前でともにエジプトを守ろうと誓ったではないか姉上をひっとらえ しかと真偽を確かめる・なんという事態ぞーっ 姉上はこのたびの婚儀はわが国民のためにエジプトの平和と繁栄を祈りバビロニアとの友好の絆として嫁ぐと申した!ラガシュ王とそのような密約を結びエジプトの妃であるキャロルを殺すがためバビロンの都におびき寄せるとはっ・姉上!まさか まさかと思うたがこのたびの婚儀はバビロニアとの友好を結ぶためではなくエジプト国民を欺きキャロルをこのバビロンの都へおびき寄せ殺害する密約あってのことであったのかっ・姉上の裏切りを聞き信じられず馬を飛ばし来てみればキャロルは兵と砂漠へ逃れたとの揺るがせぬこの事実!姉上!エジプトの女王ともよばれた姉上がなぜこのような裏切りを!わたしを裏切り民を裏切り エジプトを裏切ったその身!もう二度と顔も見たくない!・もはやそなたはバビロニアの王妃この後は我が敵!我がエジプトの敵ぞー!! 18 キャロルが死んでももう私に振り向かないやんけ! ・おお弟よ あなたを愛するがゆえであったのにもはやメンフィスの心はわたくしへの怒りと憎しみであふれキャロルが魔の砂漠で死んだと知ってもわたくしの元へは戻らぬ!・いま わたくしはバビロニアの王妃なれどわが心はエジプトの女王 愛するエジプトは遙かに遠いもはやあなたの心にはわたくしへの怒りと憎しみだけがうずまいて共に生きたあの日にあなたの心が戻らぬ今あなたに刃を向けましょう。雄々しきあなたを守りその安全を神に祈り続けてきたわたくしがあなたに刃を向ける!おお…弟よ 19 ラガシュ王ににエジプトをねだる ・これでメンフィスはわたくしの敵もう後には戻れぬ ・姉上はラガシュ王と共に私を そなたをエジプトを裏切った。バビロンに雲がたれこめている…動くやもしれぬぞ。・バビロンの都の姉上は…どう動くであろう…我がエジプト帝国を狙い、策動する狡猾なるラガシュ王我が妃キャロルが生きて無事にエジプトへ帰ったと知れば…どう動くか ・ミヌーエ 幼少期からのおつき武官。忠臣。安心と信頼の男。太ももがいくらあっても足りない。いつでもいっしょ。一緒すぎてお忍びで行動しても、ミヌーエがいたらメンフィスの存在が秒でばれる。メンフィスがキャロルの次に名前を呼んでいる気がする男。 「お二人がご一緒であればどんなことでも切り抜けられる。お守りせねば。」 ・ウナス 幼少期罪人の冤罪をかけられたところを助けられる。メンフィスの忠臣。メンフィスの為なら死ねと命じられたら黙って死ぬが、おかしいと思ったらちゃんと意見を表明できる関係。キャロルとメンフィスがイチャイチャしている所を見ているのが至福の時。カーフラ王女の件ではメンフィスに意見したり、夜這いから守ったりと大活躍。 + 今日のワンコ 巻数 出来事 ウナス→ ←メンフィス 久遠 出会い 冤罪をかけられて奴隷落ちする所を助けられ部下になる。 ・一発腕をぶっ刺してみて良い反応だったので部下に引き入れる 父王暗殺の濡れ衣 ・王の杯に毒を入れたとタヒリに罪をなすりつけられる ・ウナスは私の部下だウナスの潔白は私が知っていると即否定。タヒリを張っ倒す 3 受難の始まり ・牢に入れられたキャロルの護衛の後お付き武官となる。 ・これからもキャロルのそばを片時も離れるなと命令 4 キャロル説得中 ・王は勇猛果敢なるエジプトの誇れる王。若くて美しい王に娘たちは一目で恋に落ちると とにかくメンフィスの良さをプレゼン 5 腕ポキについて全力フォロー (キャロルに)・死ねと命じられたら黙って死にますが、王は理由なくそのようなことはおっしゃいません王はあなたを愛しているから思いとどまられたのです王はあなたが連れ去られたとき助けようと炎のようになってヒッタイトに攻め込まれたあなたが妃になる日を待ち望んでおられるのに・どうかあまりお腹立ちのないようにキャロルは悪気で逆らったのではないと思いますが。どうか 9 キャロル捜索中 ・命にかえましても必ずお見つけします(キャロルを) ・砂漠の民に身をやつして足跡を追跡しろ 14 バビロンへ ・ウナス キャロルをしかと頼んだぞ 15 バビロンの塔に監禁されまして ・おお王、申し訳ありませぬわたくしが・・・・ ;(∩´﹏`∩); ・あいつからの手紙が全然来ないのはおかしい 21 おそらく初めての反発 ・恐れながらお手打ちは覚悟にてご意見申し上げまするあのようにお優しく叡智あるこの上なきキャロルさまがおわしまするになぜに第二の妃をお迎えになられたのでございますか。 ・まって第二の妃ってなんの事?何をたわけたことを申しておるかー! 22 カーフラの夜這いを阻止 ・普通に突入阻止したらうっかり国際問題になりかねないので無理矢理現場を火事に(手が大火傷)してメンフィスの窮地を救う ・イムホテップ メンフィス頼りにできる数少ない人間。メンフィスへの理解度SSS。国家の利益よりメンフィスの気持ちを一番に考えてくれる。「助けて・・・(´゚д゚`)」って顔ができる唯一の相手。 + 軌跡 巻数 出来事 イムホテップ→ ←メンフィス 2 イム帰還 ・王はあの娘に夢中だなぁ 3 キャロル説得中 ・若いメンフィス王のあの迅速な行動力とすぐれた統治力でエジプトは安泰 5 腕ポキについて (キャロルに)・あれも愛です。あまりにあなたを思うが故の王のもっとも王らしい激しい愛し方なのです。王はお若いゆえに激情に走られる政にも愛するあなたにも。 14 婚儀完了 ・メンフィス様は得難い王妃を迎えられ、賢明にそして正しく国を統治なされる ・ナフテラ メンフィスの乳母で女官長。嫁の事はおまかせ。メンフィスがまともな人間になってくれて嬉しい。 ・カプター スーパートラブルメーカー大神官。嫁と王の座を虎視眈々と狙う。人の嫁を勝手に突然報連相無しで決めるなど、余計な事しかしない男。完全に舐められている。 ・アリ アイシスの乳母。メンフィスとアイシスの子供を抱きたい人生だった。 ・ズアト サソリが好きです。でも、メンフィス様の方がも~っと好きです。 巻数 出来事 ズアト→ ←メンフィス 4 ヒッタイトで ・ヒッタイト戦中にサブリミナル的に隣にずっといたので、色々あって好感度が爆上げしたのではないだろうか ・なぜかあんなに怪しいのにキャロルを連れていかせようとする・急ぎ軍船へ泳ぎ帰りミヌーエに作戦通りに信仰しろと伝えろ 9 アッシリアで ・一人だけ無事だったので重宝される・いつみてもほれぼれするほど立派だなあ・ちくしょう俺の大切なメンフィス様を。アルゴン王め ・城外のホルス将軍に伝えよ。キャロルが捕らえられている今攻め込んではならぬ。いかなることがあっても我がエジプトの娘キャロルっを守れ。キャロルの居所をさぐれ ・ネフェルマアト 尊敬する親父。 ネフェルマアト→ ←メンフィス ・うろたえるなメンフィス もう間に合わぬ よく聞け わしの亡き後お前が王だ見苦しい様を見せてはならぬ国の長たる者暗殺を恐れていては統治できぬぞ。わが子よ、父は今お前にこの国を譲る くれぐれも同じ轍を踏まぬよう雄々しきエジプトの王となれ。心に残るのはタヒリの事 あれが不憫でならぬ。妃の事、くれぐれも頼むぞこも乱暴者め いつも いつもわしを困らせおって父はそなたを・・誇りに思っているぞ ・父上、なぜ油断された 冷静沈着なる父上が娘ほどのヌビアの女を迎えて心を緩ませられたのか暗殺を企てたのはあの女に違いない。父上の妃でありながらわたしに言い寄ったの女。あの女の誘いにのったとみせかけて 今にも父上の前で正体を暴いてやるつもりだったのに遅かったとは 父上・父上 あなたの最期の言葉がわたしを救った ・タヒリ 父親の嫁にして仇。メンフィスに毒の耐性がついたのは彼女のおかげ。 タヒリ→ ←メンフィス ・やっべー早まった!あんな美しい王子がいるなんて聞いてないよ~父王と結婚しちゃったじゃーんよ~あ~~~あの荒々しく美しい若者がほしい。諦める~?いやいやいや諦めるなど弱者のする事まだいける全然いけるまだ美しい王子を手に入れるチャンスあるよ~。この国の王妃となったし~これでメンフィスが手に入れば完璧~旦那殺しちゃお★・めっちゃキスしに行ったら、受け入れてくれるや~ん。しゅきピ~~~ えっ?あれ戯れだったの?嬲ったの?は~~~~?・え~めっちゃ疑ってくるや~んこんなことになるなら王を生かしおくべきだったわ~あのまま大人しくしてさえいればエジプトは手に入ったのにな~。メンフィスに心奪われたばかりにいやまあ別に諦めねーけど居座っちゃお!母国ヌビアでボコボコにしちゃえ★・やっば~~~~全部ばれたや~~~~んどうせ殺されるなら道ずれにしてやんよ★私と共に死んで~~~~♡ ・父上が待ち望んでいる二度目の妻あの女の居るところ災いありとの噂を聞いたやべー奴じゃねえか 気に入らぬ父上の心を魅了したという王女タヒリ はて どんな女か・聞きしに勝るなまめかしい女・わたしが行列の狼藉者だと知ったはずなのに。なぜ黙っているのか・あいつよくわたしがここにいるとよく来てキスしてくるで・化けの皮はがしていまに証拠をつかんでやるぞ・父上の葬儀がすめば古来どおりわたしは戴冠式を行いエジプトの王となる。あなたは70日後の葬儀が済めばヌビアへ帰られよ。父亡きあともはやあなたは不要な人だ もうそなたに用などない・しっぽを出さぬタヒリ これでどうでるか・おのれ・・図々しい女。私が王になればただではすまぬ・てめーのおかげで毎日毒を飲んで慣れさせてやったぜ! ・ミタムン 一瞬誑かそうとしたヒッタイトの王女。適当に挨拶程度に誑かしていたつもりだったが、ミタムン的には完全に脈ありで王妃にしてもらえると勝手に勘違いし、親元にもそう報告していたので話が死ぬほどややこしくなるのであった。 ミタムン→ ←メンフィス ・なんとお美しいお方。なんと凛々しい・愛しております・冷たく突き放されたように感じる(そもそも近づいてない) ・あんな女・この女と結婚すればヒッタイト王国は我が手の中・結婚など意味などない。世嗣を産むだけ。欲しい領土の中にヒッタイトがあるしなかなかの美女だから手に入れてもいいな。 ・イズミル 嫁のストーカー。イズミル的には宿命のライバルだが、メンフィス的にはあまり絡みがないので一応宿敵だけどよくわからないやべー奴という認識ではなかろうか。王子がキャロルにあれやこれやした事は詳しくしらないので、知った時が地獄。 + バトル記録 巻数 出来事 イズミル→ ←メンフィス 3 エジプト来訪 ・妹のミタムンを冷たく突き放したという 4 砦で初対面バトル ・てめえミタムンを殺しといてなんやねん ・しらんし 12 流砂でバトル罠にはまってメンフィスwinner ・メンフィス王はアルゴン王の策略にかかり多数のアッシリア兵と戦い傷を負っているはずエジプトの王を打ち取る千載一遇の機会ぞ!・今にみよ。世にも得難いナイルの娘を得て喜びの美酒に酔うメンフィス王よ!そなたに男として耐えがたき苦しい思いをさせてみせようぞ! ・ヒッタイトの大軍もろとも流砂におびきよせ全滅させてくれる 17 シリア砂漠でバトルアルゴン王介入でほぼ引分け ・おおメンフィス王がここに!ナイルの姫を助けにきたかっ疾風のごとく砂漠をわたるなんとすさまじき行動力よ!そなたを慕うわが妹ミタムン王女はそなたのもとへ行ったままいまだ行方知れず!あまつさえ我が海岸の城をも攻め炎上させ!度重なるこの恨み!いまここで!!・肩の傷がうっかり開く ・あの声は聞き覚えがある(ちゃんと覚えてる)この砂漠で再びそなたに会おうとは思いもかけぬことその息の根止めてくれる!ヒッタイト王は常に我がエジプトを隙あらばと狙い!そなたはキャロルに近づき力でもってわがものにせんとはかった!そなたは我がエジプトの宿敵ぞ!生かしては帰さぬ ・ルカ 嫁の召使。ストーカーの部下だけど、めちゃめちゃお世話になっている。ルカがメンフィスを「若い」と発言しているので、ルカの方が年上の可能性がある。 + あんまり絡まない二人 巻数 出来事 ルカ→ ←メンフィス 5 墓荒らしの現場にて ・若いが、メンフィス王はするどい目をもっている諸外国のうわさより、はるかにすぐれた若者かもしれぬこれは油断がならぬ。慎重にしなくては・メンフィスとアイシスはどうやら不仲のようだ。面白い ・墓荒らしを発見したルカに褒章をとらせよ・礼をいうぞルカ・・よくぞ守ってくれた 12 流砂バトル ・王子がまもなく追いつかれるとおいうのに砂漠でどうするというのだ。メンフィス王は油断ならぬ・ヒッタイト軍を流砂におびきよせるつもりなのか 13 キャロルをワニから救う 無事だったのかよくぞ守ってくれた。そなた砂漠の戦で戦死したかと思ったぞ ・アルゴン キャロルを餌に自分の城におびき寄せ毎日酒に苦しむ姿を肴にして愉悦に浸ったり監禁したりとやりたい放題。作品内で一番メンフィスに屈辱的行為をし、一番屈辱的なめに。メンフィスに腕をぶった切られて仕事そっちのけでメンフィスの命を狙いまくる。 + いつかペロペロする日まで 巻数 出来事 アルゴン→ ←メンフィス 9 おびきよせ隊 ・あのナイルの娘が命を懸けて愛している年若い美男 ・はて、どこかで見たような、この男が女好きと諸国に名高いアルゴン王か 蹂躙される ・さすがエジプトのメンフィス王、幾多の兵をしたがえ一分の隙もない。あのナイルの娘が命をかけて愛しているメンフィス王。こうして改めて見ると、女と見まごうばかりの美男だ。なんとも言えぬわ。ふるいつきたくなるような美少年たしかまだ年若のはず・さすがエジプトを統治する王よ。若者ながら堂々たる王者の風格。それになんと美しい。なんとみずみずしい美少年・美少年がもだえるのはなんとも言えぬな嬲り殺しにするにはおしい若者よ。なんて意思の強い若者よ。まだまだ若年おれの罠にうまうまと落ちよったそばで見れば女と見まごうんばかりの美少年よ ・アルゴン王めたばかりおって。卑怯者。私としたことがなんとしたことだ。魔が差した。おのれどうしてくれよう。殺してやる、叩き殺してやる。 10 酔い潰す ・それにしてもなんと美しい ほれぼれする美少年よのうナイルの娘が命をかけて愛するメンフィス王・美しい髪をしておられるなメンフィス王よおれの捕らわれの美しく王よ嬲られているとも知らず。ナイルの娘がここにいると信じて手も足も出せぬ年若い王よ・飲め飲め酔いつぶれるがよい なんとみずみずしい美しい少年王よ・さあどうしたメンフィス王、弟のシャルはくれてやると言ってるんだ。おもわく違いで手も足も出せぬか。 ・本心が掴めない・そなたじつの弟を殺せと!? キャロル捕獲メンフィス幽閉 ・この娘を熱愛するあの美しいメンフィス王が知ったらどんな顔をするだろう・まことに惜しい美少年だが殺すか・さすが年は若いがエジプトの王よ、囚われ鎖につながれ兵に囲まれてもなお誇り高い若者よのう。まこと傷ついた美しい獅子のようじゃな。見れば見るほど嬲り殺すにはまことに惜しい美少年よ。おお 一騎打ちの勝負!のぞむところよ受けてやるぞ。この生意気な若造め。おお明日!王宮の庭にて勝負をつけてやる!この俺を腰抜けだと!にっくきメンフィス嬲り殺しにしてくれる ・よくもエジプト王のこの私を鎖につなぎおったな!この屈辱は決してわすれん。この返礼は必ずいたすぞ!・アルゴン。臆病者め!そなたこの私が怖くて鎖で雁字搦めにしなければ殺せぬのか!アルゴン腰抜けでなければ王としてどうどうとこの私と一騎打ちの勝負をいたせ。試合を申し込むぞ。ふふんそれとも恐ろしくて受けられぬか腰抜けの臆病者め 11 一騎打ち詐欺 ・一騎打ちとみせかけて今日こそエジプトの王あの年若い少年王をなぶりものにし血祭りにあげる 12 腕切り落とされる ・よくもメンフィス王め 俺の腕を切り落したな!覚えていろ!どのような手段を取ろうとも必ずやそなたの大事にしているすべての者を奪ってやる・メンフィス王よおのれよくもこの腕を切り、我がアッシリア城を壊滅寸前まで陥らせたな!この恥辱!必ずや報復してやるぞ今に見ろ。その首切り落とし、我が城壁にさらしてやるぞ ・ええい どこまで卑怯者なのか それでも王か アルゴン・アルゴン 命あらば その身に負わせた傷の痛みに我が怒りを知れい 13 修復不可能な関係に ・アルゴン王がひそかに報復を計り始めたかアルゴン王の陰謀は阻止せねばならぬ ・ジャマリ 堕とそうと思って来てみたら自分が即堕ちさせられたけど。メンフィスへの執着心はそこそこな珍しい女。性癖がアルゴン王と似通っている。彼女の中ではアルゴン王とメンフィスが自分を取り合っている模様。 + 一人で盛り上がる女 巻数 出来事 ジャマリ→ ←メンフィス 8 ジャマリ潜入 ・王がじきじきに来るとは思わなかったなんと美しい若者。メンフィス王は残酷で猛々しく気に入らねばたちまち切り殺す恐ろしい王だと聞いていたがなんとこれほどに美しい若者は見たことないまだみずみずしい少年のようなわたしの口からでたでまかせをこれほどに信じるとはよほどナイルの娘を愛してるのねメンフィス王をわたしのものにしてみせる・帰るまでメンフィス王ををおなぐさめするようにとキャロルが言ってたwwwww・昼も夜もお仕えいたします。もうそばを離れませぬ・ああ うっとりするほど若く美しい王ナイルの娘よこのメンフィス王を私が奪ってやる・この私を殺すと!?アッシリア宮廷一の美女と謡われたこの私を!?・王と姉女王は仲が悪いのか・・なんと美しい王よ。思いつめた男らしい目が悩ましいこと。・なぜそんなにお怒りになりますのお美しいメンフィス様…・ナイルの娘が帰ればわたしの嘘がバレるアッシリアの回し者だと知れてしまう若く・・美しい王よ わたしを愛してくれぬならわたくしはあなたを・・・若く美しいメンフィスさま 早くお帰りをジャマリはもう恋しくて恋しくてなりませぬ早く 早くお帰りになって私をおそばへお召くださいませ(ジャマリ) ・宮殿へ参れ。どんなことでもよい。キャロルの事をはなしてくれそなたには礼を言わねばならぬ・この私に嘘を申さばその首たたっきる 9 アッシリアに行くと聞いて ・わたしもお連れくださいませ・美しい王よ わたしがここにいるのに一度も王はわたしに目もくれようとなさらぬナイルの娘をそれほどにならばいっそアルゴン様のもとへああ心がゆらぐでも愛しいメンフィス様もう離れているのは嫌ですどうか私もお傍にご一緒にわたしをお召くださらねば愛しいあなたを私はああくちおしい 私はアッシリア宮廷一の美女とうたわれた身 10 地下牢で おおメンフィスさまお労しい。お助けしたくても見張りが厳しくてここへ忍び込むのが精いっぱい。 ・わたしの事はいいからキャロルを逃してくれ。 12 自分の国の一応大事な人の腕が切り落とされてこのリアクション ・なんと雄々しいメンフィス様全身を地に染めてなんと美しい王よ・・ ・ハサン メンフィスが一番感謝すべき人物。メンフィスを「若い」と発言しているので、ハサンの方が年上の可能性がある。キャロルを至上主義なので、メンフィスへの義父視線を感じる。 + さすが、俺の推しに相応しい男だぜ! 巻数 出来事 ハサン→ ←メンフィス 12 ヨルダン事件 ・さすがエジプトの王 若いが迫力があるぜてっきりバッサリ切られると思ったぜああおっかねえ ・何者だ油断するな・そこへなおれー!成敗してくれる。よくもキャロルを連れ出しおったな許せぬ!・よしっ ハサン明日は旅立てるようキャロルを看護いたせ 18 死の砂漠で ・ふへ~~~さっすがメンフィス王命を狙う敵だらけの中をきさしに勝る行動力よあの若さで大エジプト王国を統治するだけのことはあるぜ 20 謎の義父目線 ・たいしたもんだぜ メンフィス王はたくみにあのバビロニアの追っ手を撒いちまったぜピシリと軍を引き締めて風のごとく砂漠を渡るおれも…砂漠の商人だ あの腕にホレたぜ ・ラガシュ 嫁を監禁した異母姉の旦那。戦争中。 + よろしいならば戦争だ 巻数 出来事 ラガシュ→ ←メンフィス 12 お姉さんを私に下さい ・なんとのう・・国民の喜びのさまはすさまじい。さて・・年若なるメンフィス王に挨拶をのべるとするか・・。・さっそくながらメンフィス王、バビロニアの王このラガシュが心からのお願いを持ってまいった。是非に叶えて頂きたい。私は恋焦がれているのです。昼も夜も・・。メンフィス王、ここにおられるお美しい女神アイシス様を是非我がバビロニアのこのラガシュの妃にお迎えしたい・いかがかなメンフィス王エジプトとわがバビロニア両国のために縁組により強い絆を結ぼうではありませぬかな・メンフィス王わがバビロニアはエジプトに永遠の誠意と友好を誓おう ・ラガシュ王、わたしからも姉上にすすめましょう。姉上にも幸せになってほしいまずは姉上の心を射止められよ。姉上の心が決まればこれ以上の良縁はない。エジプトとバビロニア両国のためにこの結婚は喜ばしいことだ 13 お姉さんあげる ・姉上を幸せにして頂きたい・なぜにキャロルを婚儀に?これまで他国の婚儀に出席する王の名代は臣下の者だ 15 お姉さん頂きました ・すでにアイシスは手に入れた。メンフィス王がこの手紙でこのバビロンへ命を落としにくるのもよし。こなくともあの若きメンフィス、新婚の花嫁を待ちわびてなんら混乱はきたすはず。もはやエジプトは牙のないライオンと同じ。引きずり回していずれわが手に! ・世辞者のラガシュ王にキャロルが誑かされてんのか? 16 ティムナ鉱山で ・暗殺者を差し向ける ・暗殺者がバビロンの者ではないかと気づく すべてを知る ・ラガシュ王は姉上と婚儀をあげたあとキャロルを塔の地下深く閉じ込めキャロルの衣をまとわせた身代わり女を殺しキャロルを死んだとみせかけてバビロンから帰さぬと姉上を妃にむかえ我がエジプトと深い血縁で結ばれてたというに!キャロルを死んだとみせかけ閉じ込めるなどと。我が妃を閉じ込めなんとする所存 17 ・ラガシュ王はキャロルを捕らえてそばに置いてみれば殺害するのが惜しくなり 塔へ幽閉したのであろうそして身代わりの女を殺しキャロルは事故で死んだとみせかけるつもりであったのか。やはり銅山での暗殺者たちはラガシュ王からつかわされた兵士わがエジプトを手中にせんと近づいたのだラガシュ王の真意は同盟ではない・ラガシュ王の追ってはユーフラテス河の河下からキャロルを追って魔の砂漠へ入った今の状況ではラガシュ王の兵にまともにぶつかってはまったく不利なんとしてもラガシュ王より先にキャロルを助けねばならぬ。 19 戦争前夜 ・ナイルの姫が生きていた。これはもう戦争やな ・わが妃を我がものにせんと塔の地下に閉じ込めるとは許しがたい男よ我がエジプト帝国を狙い、策動する狡猾なるラガシュ王我が妃キャロルが生きて無事にエジプトへ帰ったと知ればどう動くか 20 ・やつの一挙一動を見逃すな。いよいよ動くぞ。引き続き万全を期してバビロンの動静を探れ。要所要所にもっと間者を潜入させよ。どのような動きにも油断するなと心せよ。 ・カーフラ 夜這いをかけてくるリビアのアグレッシブ王女。この人のせいで嫁が実家に帰ってしまう。心に染まぬ人物だけど王としてめっちゃ頑張ってビジネススマイルと大人の対応で応戦する。 + 心に染まぬ女 巻数 出来事 カーフラ→ ←メンフィス 14 同盟の書を渡してはよ帰れ ・メンフィス王とはどのような男であろう。若く猛々しい王どのようにむくつけき男であろう・・・これがメンフィス王?これがうわさに高い猛々しいエジプトの王メンフィス!どんな乱暴者かと思ったのにこんなに美しい王とはしゅきぴ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~・このわたくしがあの美しいメンフィス王の第2の妻になれぬものか。エジプト王は代々多くの妻を持っている。ナイルの娘が消えればメンフィス王とエジプトは私のもの。 ・ようこそえ我がエジプトへこられた。そなたがリビア王の使者か。これはこれは女の身で遠路ごくろうでした。さあくつろがれよ。リビア王よりの親書を拝見しよう。では協議し明日同盟の調印をいたそう。おつかれでしょう今夜はゆるりとくつろがれるように 出会って初日の男の寝室を捜す女 ・今夜はどうかしている。あの美しいメンフィス王に会ったせいだわメンフィス王の寝室はどのあたりかしら・見事に王を惑わしてみせるわ。・メンフィス王よくご無事で・・命の縮む思いをしましたわ。なんと・・強い・・炎のような美しい王!その腕に抱かれればどのように幸せであろう。わたくしはあなたに愛されたい。もうリビアには帰りませぬ(帰って)・エジプトはとても素晴らしい国ねえ。この宮殿もわたくし気に入ったわ。あの美しい王に早く私をお見せしたいわ。一日も早くあの若く・・猛々しい王の妻になりたい・ぜひしばらくメンフィスさまのお傍に置いてくださいませ・ナイルの姫がお留守の折りおさみしゅうございましょう王。このカーフラ心からお慰め致しますわ。・メンフィス様、女王アイシスのご婚儀バビロニアとの同盟かさねてお喜びを申し上げまする。今宵のお祝いの宴にわたくしもお傍においてくださませ ・お怪我はないかカーフラ姫。あなたのおかげで危機を脱した。礼を言う。使者のあなたを危ない目にあわせて申し訳ない。許されよ。さあ落ち着いて下さい。・見事なる品々礼を申す手紙によるとあなたがとても我がエジプトが気に入られたとか。刺客に狙われた夜あなたのおかげで危機を脱した。あなたには恩義がある。心行くまでゆるりと滞在されよ。・(ナイルの姫の代わりにお慰めしますわ)これはおそれまいる 19 下エジプトまで迎えに来る ・テーベの都でお帰りを待ちきれず下エジプトまでお迎えにまいりましたわ・急に黙ってお出かけになってしまわれ、わたくしお留守の間とても心配致しましたわ。毎日ご無事のお帰りを心待ちにしておりました。 ・これはこれは恐れ入る。ご滞在になっているというのにテーベの都を留守にし失礼いたした。・それはご心配をかけて申し訳ない。お心遣いに礼を申す 20 召せ召せ召せ滅せ ・コプトスに行くメンフィスを追いかけて召されにいく(召されてない)・胸が躍るわ!今夜こそナイルの姫から勇猛なるエジプト帝国の若き王を奪ってみせるわ ・やれやれカーフラ姫、まったく困ったお方だ 21 伝説の夜這い ・キャロルの衣装を盗んで、キャロルのふりしてメンフィスに抱かれようとする ・なんか臭かったな‥ 22 戦についてこようとする ・うちの国から援軍だすわよ~・戦を前に血気にはやられ、いつにもましてなんと凛々しいことか。カーフラは胸がときめいてもはや御傍を離れられませぬ・戦の陣営にお供して御傍についてお世話するわ ・ご心配はいたみいるが援軍はご無用に ・ライアン・リード 会ったことは無いが一番の脅威的存在。メンフィスの地雷。 † 行動履歴 久遠の流れに 7歳・ウナスを臣下に加える エジプト 17歳・父が死亡 69日後・ヌビア戦未遂&タヒリ自殺 70日後・戴冠式 2巻 次の日・キャロルと出会う 3巻 ・古代よりいなくなってからメンフィスは狂ったようにキャロルを探して夜も眠らない 4巻 ・ヒッタイトと戦争 ヒッタイト 5巻 ・婚儀 エジプト 5巻 ・ライオンのせいで嫁行方不明 8巻 銅山奴隷反逆のためヌビアへ ヌビア 9巻 アルゴン王におびき寄せられる アッシリア 12巻 ・アッシリア脱出・シリア砂漠でVS王子 シリア砂漠 13巻 ・アメン神の祝祭のち婚儀成立 エジプト 14巻 ・キャロルバビロンへ・カーフラ襲来 下エジプトの見回り 下エジプト 15巻 ・ナイルの灌漑工事の指揮・下エジプトでの祭儀が完了 下エジプト シナイ銅山へ見回りに行く 地中海 16巻 シナイ銅山で暗殺者に遭遇 シナイ半島 17巻 バビロニアでアイシスと決別 バビロニア 18巻 イズミルとバトルキャロルを捜索 魔の砂漠 19巻 キャロルと再会 20巻 見回り兼ハネムーン 下エジプトタニス ギザ 帰還 テーベ プントが飢饉。対策に行く コプトス キャロル実家へ テーベ 21巻 キャロル捜しつつバビロニアとの戦の準備 22巻 バビロニアとの戦の準備 下エジプト 23巻 バビロンを急襲 シナイ銅山 † ダメージ一覧 久遠の流れに タヒリに毒盛られる 2巻 コブラ 3巻 東門からの刺客。左肩の肉がぶっ刺される 4巻 船でめった刺し 7巻 ちょっとライオンにやられた 9巻 睡眠薬もられる 10巻 酒責めのち鎖ではりつけ 11巻 武器無し一騎打ち。肩を弓で射られる。槍でずたずた 14巻 租税戦の労務者に化けて侵入したアッシリア兵に寝床を襲われる。 16巻 バビロニアの暗殺者にボコボコ 18巻 猫(キャロル)に腕を噛みつかれる
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■1.はじめに 当サイトでは自由で寛容な価値多元的社会を支える憲法論の基礎となる法概念論として、H. L. A. ハートの法=社会的ルール説を幾つかのページで紹介している。 ※「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1961年にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。(以下のモデル図参照。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照) 当ページは、この①ハートの法概念論(ルール論)と密接に関連しつつ、同じく自由主義社会を支える基礎理論を提供している②ハイエク(自生的秩序論)、③J. L. オースティン(言語行為論)、さらに④ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム論)といった各々の理論の相互的な関連性を鋭く分析した落合仁司氏(同志社大学教授)の論説を紹介し、現代保守主義の社会理論について考察を深めることを目的とする。 関連ページ法と権利の本質 <目次> ■1.はじめに ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋▼まえがき ▼第一章 世紀末の新しい保守主義◆1.世紀末の《近代》 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 ▼第二章 合理と個体◆1.産業主義と合理主義 ◆2.実証主義と記述主義 ◆3.民主主義と個体主義 ◆4.主権主義と表出主義 ▼第三章 暗黙の言及◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - ◆2.外的視点 - ハート - ◆3.発語的行為 - オースティン - ▼第四章 規範の文脈◆1.規範的秩序 - ハイエク - ◆2.内的視点 - ハート - ◆3.発語内の力 - オースティン - ▼第五章 慣行と遂行◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 ◆2.新しい保守主義 ◆3.保守主義とは何でないか ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義◆1.解釈学的社会学へ ◆2.自己関係性の構造 ◆3.基礎付けの不可能 ◆4.《選択肢》の不在 ◆5.再び伝統とは何か ▼原注 ■3.まとめ ■4.ご意見、情報提供 ■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋 『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン 』(落合 仁司:著) ①F.A.ハイエクの自生的秩序論、②H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)、③J.L.オースティンの言語行為論という20世紀哲学の諸潮流の内的関連性を、④ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と絡めながら解説し、社会哲学の観点から「20世紀以降の保守主義の社会哲学」を論じた名著。書中に多々登場する哲学・思想用語を一つ一つ辞書等でチェックしていく根気さえあれば、論旨明快で読みやすいはず。 ▼まえがき ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 本書は、現代における保守主義についての、社会哲学的な論述である。 従って、現代の保守主義を対象とした、政治学を始めとする社会科学的な分析とは、差し当たり、関係ない。 本書は、現代の保守主義を、経済哲学や法哲学さらには言語哲学を含む、社会哲学の地平において解釈する試みなのである。 しかし、20世紀末の現代において、何故に、保守主義を、しかも、社会科学ならぬ社会哲学の地平において、取り上げねばならぬのか。 今世紀末は、人間の《或るもの》からの離脱不能性と、人間による《或るもの》の操作不能性とを、倦むことなく語り続けて来た保守の精神からは、恐らく最も遠い処に漂い着いた時代である。 すなわち、今世紀末は、人間の《総てのもの》からの個体的な解放と、人間による《総てのもの》の合理的な制御とを、飽くことなく欲し続けて来た啓蒙の精神が、人類の最も誇るべき価値であるかの如き高みに昇り詰めた時代なのである。 そのような啓蒙主義への、最大の敵対者であった筈の保守主義を、今、何故に、しかも、社会哲学などという非科学的な地平において、取り上げねばならぬのか。 言い換えれば、あたかも啓蒙の進歩主義によって完全に領導されているかに見える、近代社会の唯中にあって、伝統の持続とその解釈などという営為が、果たして、いかなる意味を持ち、また、いかにして可能であるのか。 保守主義の社会哲学、すなわち、伝統の持続とその解釈という営為を引き受けるに当たって、これらの問いを避けて通る訳にはいかない。 しかし、これらの問いに答えることは、外ならぬ本論の課題である。 ▼第一章 世紀末の新しい保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.世紀末の《近代》 我々の時代は、機械と快楽の時代に見える。 産業技術と消費大衆の支配の時代である。 なるほど、この二世紀の間に、産業技術は、蒸気機関と鉄道輸送から電気機器と自動車交通へ、さらには情報処理機器とデータ通信へと大きく移行し、消費大衆は、ブルジョワジーとプロレタリアートから豊かな中間大衆へ、さらには新しい快楽的個人へと激しく変遷してきている。 しかし、技術的な合理主義と大衆的な個人主義の一貫した進展という意味において、この二世紀は、むしろ連続した平面の上にある。 すなわち、我々の時代は、フランス革命と、産業革命さらにはそれに引き続く民主革命とによって解き放たれた、合理主義と個体主義、あるいは産業主義と民主主義という、加速度運動の相の下に捉えられるのである。 言い換えれば、我々の時代は、19世紀と20世紀の200年間を通じて、あらゆる世界を席巻してきた、産業化と民主化という激浪の波頭に位置しているのである。 ここでは、この産業主義と民主主義の二世紀を、《近代》と呼ぶことにしたい。 従って、我々の時代は、20世紀末の《近代》と言うことになる。 この産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義の《近代》を称揚する思想は枚挙に暇がない。 近代自然法論や社会契約論、さらには啓蒙思想は言うに及ばず、19世紀以降に限っても、功利主義やマルクス主義、さらにはそれに引き続く、実証主義的な社会科学(たとえば分析法学、新古典派及びケインズ派経済学、機能主義社会学など)やマルクス主義的な社会科学、といった社会思想が、産業化(合理化)と民主化(固体化)の双方あるいはいずれか一方を、積極的に推進すべく、その言論を展開している。 産業主義(合理主義)あるいは民主主義(個体主義)を称揚する、これらの社会思想こそ、このニ世紀を通じて、進歩主義と呼び習わされて来た思想に外ならない。 《近代》の進歩主義は、功利主義とマルクス主義とに端を発する、《近代》社会科学によって担われて来たと言っても、決して言い過ぎではないのである。 《近代》の進歩主義は、言うまでもなく、極めて多様な傾向を孕んでいる。 そこには、自由主義的な傾向も存在すれば、社会主義的な傾向も存在する。 しかし、いずれの傾向も、その力点の置き方に多少の違いはあるとしても、合理主義と個体主義を信奉することにおいて、いささかも選ぶ処はない。 《近代》進歩主義は、人間とその社会を、理性によって目的合理的に制御し得るし、また、そうすべきである、と考える合理主義と、人間とその社会を、個体的な欲求充足に還元し得るし、また、そうすべきである、と考える個体主義とを、その共通の前提としているのである。 進歩主義は、このニ世紀に亘って、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放という二つのスローガンを、倦むこと無く主張し続けてきた。 このニ世紀に亘って進行した、産業化あるいは管理化と、民主化あるいは大衆化という二重革命は、このような進歩主義を、その思想的な前提とし、また帰結ともしているのである。 しかし、このような産業化と民主化の進行、あるいは進歩主義の哲学に対する懐疑もまた跡を絶たない。 合理主義と個体主義の哲学に対する懐疑は、《近代》思想史のいわば裏面を形成している。 たとえば、20世紀を代表する、ウィトゲンシュタインや日常言語学派、あるいは現象学や解釈学、さらには構造主義やポスト構造主義の哲学は、多かれ少なかれ、合理主義と個体主義に対する懐疑を、その発条(バネ)として展開されている。 しかし、合理主義と個体主義に対する懐疑の歴史において、決して逸することの許されないのは、フランス革命の産み落とした合理主義と個体主義の狂気に対して、敢然と立ち向かったバーク以来の保守主義の伝統である。 保守主義は、産業化と民主化の進行とともに、怒涛の如く進撃してきた進歩主義の哲学に抗して、200年このかた、《近代》への懐疑の哲学を守り続けてきた。 合理主義と個体主義に対する懐疑の伝統は、取りも直さず、《近代》保守主義の伝統に外ならないのである。 この意味において、ウィトゲンシュタインや日常言語学派の哲学といった20世紀思想もまた、《近代》保守主義の伝統の現代的な表現である、と言って言えなくもない。 本書もまた、このような《近代》保守主義の伝統に棹さして、20世紀末における、その今日的な表現を模索する試みに外ならないのである。 《近代》の保守主義は、人間とその社会を、理性によって意識的に制御する可能性を疑う。 人間の行為は、合理的には言及し得ない偏見や暗黙知を前提として始めて可能になるのであって、意識的には制御し尽くせないからである。 また、保守主義は、人間とその社会を、個体の意図に還元する可能性を疑う。 人間の行為は、個体には帰属し得ない権威やルールに依存して始めて可能になるのであって、その意図に還元し尽くせないからである。 このように合理主義と個体主義を懐疑する立脚点こそ、伝統あるいは慣習と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統あるいは慣習とは、行為の持続的な遂行の結果として生成される秩序であるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御不能であり(偏見あるいは暗黙知)、かつ、行為の主観的な意図には還元不能である(権威あるいはルール)何ものかである。 言い換えれば、伝統あるいは慣習とは、人間の行為によって生成される秩序であって、自らの存在を理由付けるいかなる根拠も持ち得ない(偏見あるいは暗黙知)にも拘わらず、自らは行為の当否を判定する根拠となり得る(権威あるいはルール)というものなのである。 保守主義は、このような伝統あるいは慣習こそが、人間とその社会の存在を辛くも可能にするのである、と主張する。 保守主義から見れば、合理主義は、人間とその社会の制御不能性を閉脚した、理性の専制支配に外ならず、また、個体主義は、人間とその社会の還元不能性を無視した、個体のアナーキーに外ならない。 《近代》保守主義は、このように合理主義と個体主義とを懐疑することによって、《近代》進歩主義の蛇蝎の如く忌み嫌う、伝統や偏見や権威やへの信仰を擁護するのである。 本書は、このような保守主義の、20世紀における新たな相貌を彫塑してみたい。 元来、保守主義は、その時代における進歩主義の様々な意匠に応じて、幾度となく変貌を繰り返しながら、進歩への疑いを懐き続けて来た。 保守主義の歴史は、進歩への懐疑という動機による、変奏曲の歴史なのである。 従って、我々の時代の保守主義もまた、進歩主義の新機軸に応じて、新たな衣装を纏いつつ立ち現われている筈である。 本書は、そのような20世紀末の新しい保守主義の容貌を、明瞭に写し撮ってみたいのである。 何故ならば、保守主義を論ずることは、産業化と民主化の行き着く処まで行き着いてしまったかに見えるこの時代、技術的な管理と快楽的な大衆ばかりが跳梁跋扈するこの時代を懐疑する、最も確かな立脚点となり得るからである。 さらにまた、保守主義を論ずることは、合理主義と個体主義とによって塗り固められた、《近代》社会科学の城壁に、蟻の一穴を穿つ社会哲学の、最も確かな橋頭堡となり得るからである。 ◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 我々の時代の保守主義を論ずることは、しかし、かなり逆説的な課題である。 バークが《近代》保守主義の生誕を高らかに宣言した時代には、その背景に、土地と議会を支配したジェントルマン達の貴族主義が、確固として存在していた。 保守主義は、ブルジョワ的産業主義と大衆的民主主義に反対する、ジェントルマンのイデオロギー足り得たのである。 しかし、ニ世紀に亘る、産業化と民主化の津波のような進撃が、あらゆる種類の貴族主義を粉砕し尽くし、技術と大衆が完全に勝利を収めた、我々の時代の保守主義には、いかなる階層的な基盤も期待し得ない。 我々の時代の保守主義は、支配階層のイデオロギーといったものではあり得ないのである。 我々の時代を支配しているのは、むしろ技術と大衆なのであって、それらを称揚する思想は、進歩主義でこそあれ、保守主義などでは全くあり得ない。 我々の時代の支配的なイデオロギーは、支配的であるがゆえに保守的であるという訳には、必ずしもいかないのである。 しかし、支配的であるものを擁護することが、必ずしも保守的であるとは限らないという状況は、かなり逆説的であると言う外はない。 このような状況において、保守主義は、いかに立ち現われるのであろうか。 我々の時代の保守主義を論ずるためには、この問いを避けて通る訳にはいかない。 これが、保守主義を20世紀末の今日において論ずることの引き起こす、差し当たりの困難である。 保守主義を論ずることは、しかし、より根本的な困難を孕んでいる。 保守主義を論ずることは、取りも直さず、自然発生的に形成される伝統や、合理的には言及し得ない偏見や、個体的には帰属し得ない権威やを論ずることに外ならないが、これらの伝統や偏見や権威やは、むしろ言葉によっては語り得ず、ただ行為において示される類いのものなのである。 すなわち、保守主義を論ずることは、語り得ぬものを語らねばならぬという困難を抱え込むことに等しいのである。 しかし、この困難は、保守主義が、合理主義と個体主義を否定することにおいて始めて成立したという、その出生の秘密の内に、既に孕まれたアポリア(※注釈:aporia 論理的正解を見出し辛い難問)である。 すなわち、保守主義は、客観的には言及し得ず、主観的には帰属し得ない、主客いずれでもあり得ない、言い換えれば、「~ではない」としか語り得ないものとして、この世に産み落とされたのである。 従って、保守主義を論ずることは、極めて逆説的な作業となる。 すなわち、保守主義は、進歩主義の称揚する諸価値を否定する作業の積み重ねの彼方に、いわば描き残された空白として、立ち現われて来るのである。 この意味において、保守主義の擁護する伝統は、《空の玉座》である。 すなわち、一切の存在は玉座を指し示しているにも拘わらず、そこに鎮座すべき王は永遠に不在なのである。 現代の保守主義を論ずることに纏わる、これらの困難を切り抜けるために、本書は、20世紀における、必ずしも保守主義者とは自認していない、合理主義と個体主義の批判者達の言説を取り上げてみたい。 何故ならば、現代の保守主義は、支配的なイデオロギーを喧伝している、自称保守主義者達の言説によく現れているとは考え難いからであり、また、現代の保守主義と言えども、合理主義と個体主義とを否定する言説の隙間にしか、決して立ち現われ得ないからである。 本書は、このような現代における啓蒙の批判者として、F・A・ハイエク、H・L・A・ハート、J・L・オースティンの三者を取り上げることにする。 言うまでもなく、現代における合理主義と個体主義の批判は、この三者のような、ウィトゲンシュタインに近い筋や日常言語学派からのそれのみならず、現象学や解釈学からのそれ、あるいは、構造主義やポスト構造主義からのそれといった、様々な潮流によって担われている。 20世紀思想の主だった潮流は、押しなべて合理主義と個体主義の批判に従事していると言っても、決して過言ではないのである。 それらの諸潮流の中から、主としてイギリス(あるいは英米圏)をその活躍の舞台とした、ハイエク・ハート・オースティンの三者を選択する理由は外でもない。 このニ世紀の間、《近代》進歩主義に抗して、最も激しく戦い抜いてきた、イギリス保守主義の伝統に、ささやかな敬意を表したいからである。 イギリスは、産業革命と民主革命の祖国であるとともに、《近代》保守主義のいつかは還るべき《イェルサレム》なのである。 1 フリードリヒ・A・ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国爛熟期のウィーンに生まれた。ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが母親の又従姉妹に当たる家系の出自である。ウィーン大学で法学、政治学、オーストリア学派の経済学を学ぶとともに、1927年よりオーストリア景気変動研究所の所長を勤めた。しかし、オーストリアの政治状況下では教授職を得難く、英米圏に渡り、1931年よりロンドン大学、1950年よりシカゴ大学に奉職する。その後、1962年に西ドイツのフライブルグ大学に戻った後、1967年に退職した。1974年にはノーベル経済学賞を受賞している。主著『法・立法・自由』の出版は、第一巻「規則と秩序」が1973年、第二巻「社会的正義の幻想」が1976年、第三巻「自由人達の政治秩序」が1979年である。ハイエクは、社会の全体を合理的に管理し得るとする技術的合理主義あるいは産業主義と、その政治経済的表現であるあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉主義、行政国家など)を、理性の思い上がりであるとして根底的に論駁するとともに、大衆の意志に絶対の主権を授与する無制限な民主主義こそが、隷従への隧道(※注釈:すいどう、①墓場へと降りていく道、②トンネル)であるとして厳しく批判する。ハイエクは、この技術的合理主義と大衆的民主主義への反駁の立脚点として、行為の累積的な結果として生成されるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御され得ず、また、行為の主観的な意図にも還元され得ない(行為の)秩序としての、自生的秩序(spontaneous order)の概念を提出する。この自生的秩序という概念こそが、保守主義を論ずるに当たって、是非とも参照されねばならないキー・コンセプトなのである。 2 ハーバート・L・A・ハートは、1907年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、弁護士を経て、1954年より母校に戻り、1968年に退職した。主著『法の概念』の出版は1961年である。言うまでもなくハートは、英米圏の法哲学を代表する社会哲学者であるとともに、オックスフォード日常言語学派の最も重要なメンバーの一人である。ハートは、法を含むルールを、最高、無制限の主権者の命令あるいは意志に帰属させる、個体主義的な社会論の不可能性を緻密に論証する。ハートにとって、(内的視点から見た)ルールとは、個体の行為の妥当性を判定する理由となるものであって、個体の意志にはついに帰属させ得ない存在なのである。しかし、ハートは、ルールについての個体主義的あるいは主観主義的な理解を拒絶するからと言って、当為判断の理由たるルールについての客観主義的あるいは自然主義的な理解に与する訳ではいささかもない。ハートにとって、(外的視点から見た)ルールとは、あくまでルールに従っているという慣習的な行為の中にのみ見出されるものであって、いまここに遂行されているという事実以外の、いかなる客観的あるいは絶対的な根拠も持ち得ない存在なのである。すなわち、ハートにとって、ルールとは、自らはあらゆる行為の妥当性を判定する理由となるにも拘わらず、自らの妥当性を根拠付けるいかなる理由も持ち得ずに、ただ慣習的に従われている存在に外ならないのである。このようなハートのルール論が、保守主義の論ずべき点について、極めて大きな示唆を与えることは明らかであろう。このようなルール論の形成に当たって、日常言語学派の哲学、わけてもジョン・L・オースティンとの交流が、決定的な役割を果たしたことは言うまでもない。 3 ジョン・L・オースティンは、1911年、イギリスに生まれた。オックスフォード大学卒業後、1933年より母校に奉職し、1960年に没した。主著『いかにして言語とともに行為するか』(※注釈:『How to Do Things with Words』)は、1962年の出版である。言うまでもなくオースティンは、20世紀後半のイギリス哲学を代表する日常言語学派の第一人者である。オースティンは、言語は何等かの事実を記述するものであり、言葉の意味はその記述対象である、従って、事実によってその真偽を検証し得ない言明は無意味であるとする、実証主義(※この文脈では論理実証主義 logical positivism の「意味の検証可能性テーゼ/原理 verifiability principle」 を指すものと思われる)あるいは記述主義の呪縛から言語を解放する。オースティンによれば、言語は、命令や判定や約束やの発話に見られるように、それ自体が社会的な行為の遂行なのであって、事実の記述に帰着し得るものではなく、その真偽を検証し得なくとも有意義なのである。しかし、オースティンは、言語は客観的な事実の記述ではなく行為の遂行であると主張することによって、あらゆる発話は発話する個体の主観的な意図や情緒や欲求やの表出である(※注釈:情緒主義 emotivism)と主張したい訳ではない。オースティンによれば、発話の社会的な行為としての効力は、その発話の適切性を判定する慣習的なルールに依存するのであって、発話する個体の主観的な意図には帰属し尽くせないのである。このようなオースティンの言語行為(speech act)論は、保守主義を論ずることの複雑な様相を照らし出す。保守主義を問うには、人間にとって最大の伝統あるいは慣習である言語への問いを、その射程に入れねばならないのである。 彼ら三者は、無視し得ない差異を留保しつつも、合理主義あるいは実証主義と、個体主義あるいは主権主義とに対する懐疑を共有している。 すなわち、彼らは、その力点の置き方にかなりの相違を認めるとしても、世界に対する、合理的な制御あるいは言及の可能性を疑い、また、社会の、個体的な意志への還元あるいは帰属の可能性を疑っているのである。 さらに、彼らが、そのような懐疑の立脚点として提出する、自生的秩序、ルール、言語行為の諸概念もまた、ある幾つかの特徴を共有している。 すなわち、これらの諸概念は、行為の結果として慣習的に生成されるにも拘わらず、(制御や言及やといった)行為の対象とはなり得ない暗黙的な事態であり、かつ行為を妥当させる規範的な根拠となる、といった諸特徴のいずれかを、必ず指し示しているのである。 このような自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念が、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念と、言わば家族的に類似していることは、注目されてよい。 言語ゲームは、人間の行為の遂行は総て言語ゲームの遂行とならざるを得ないという意味において、行為を拘束する(規範的な)事態であり、また、自らの総体を対象とした(その正当化をも含む)いかなる言及をも許さないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、言語ゲームとは、自らにあらゆる行為を従属させるとともに、自らは如何なる根拠をも保持し得ない、いわば慣習的な事態なのである。 このような言語ゲームの概念は、自生的秩序・ルール・言語行為の諸概念と、そのかなりの特徴を共有している。 保守主義を論ずるに当たって、言語ゲーム論は、極めて魅力的な題材を提供しているのである。 しかし、本書は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を、明示的には取り扱わない。 一つには、ウィトゲンシュタインのテクストを解釈する作業が、解釈の可能性それ自体をも含めて、かなりの錯綜した課題と見受けられるからであり、二つには、言語ゲーム論と、わけてもハートのルール論との相互関係をめぐる、極めて鮮やかな分析が、近年、橋爪大三郎によって為されているからである(※原注1:橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論-ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』勁草書房 1985)。 従って、本書に現れる言語ゲーム論は、ハイエク・ハート・オースティンのテクストの解釈に投影された、その射影に過ぎない。 しかし読者は、本書に落とされた、ウィトゲンシュタインの長い影を、やはり鮮やかに見いだす筈である。 何故ならば、ウィトゲンシュタインこそが、20世紀思想の諸結果と、保守主義の伝統とを結び付ける、あの《失われた環》(※注釈:missing link)に外ならないと想われるからである。 以上のような、ハイエクの自生的秩序論、ハートのルール論、オースティンの言語行為論、さらには、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が、現代における保守主義の在処(ありか)を発見する、最も有力な手掛かりとなることは明らかであろう。 保守主義の変わらぬ拠り処は、遂行的に生成される伝統であり、合理的には言及し得ぬ偏見であり、個体的には帰属し得ぬ権威であった。 自生的秩序やルールや言語行為やさらに言語ゲームといった、20世紀思想の指し示すものは、遂行的に生成される慣習的な事態であり、合理的には言及し得ぬ暗黙的な事態であり、個体的には帰属し得ぬ規範的な事態である。 従って、保守主義とこれら20世紀思想の間には、ほとんど完全な同型対応が存在していることになる。 あるいは、これら20世紀思想は、むしろ保守主義の現代における新たな表現であると言ってもよい。 すなわち、保守主義は、これら20世紀思想に身を託して、この20世紀末の現代に立ち現われた、と言って言えないことはないのである。 しかし、これらの議論の当否は、本論に委ねることにしよう ▼第二章 合理と個体 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.産業主義と合理主義 産業主義と民主主義を懐疑することなど、しかし、この20世紀末の現代において、果たして可能なのだろうか。 我々の日々の生は、産業化と民主化の奔流の中で、ただ木の葉のように翻弄されているに過ぎないのではないか。 我々は誰しも、もちろん私自身をも含めて、何程かは、効率的な経済人であり、また、快楽的な大衆人なのである。 このような我々の日常を懐疑することは、つまるところ、我々の日常の一切を否定し去ることになるのではないか。 しかし、およそ保守主義を論じようとする姿勢の内に、我々の日常の一切を否定し去ろうとする態度の含まれよう筈もない。 いやしくも保守主義と呼びうる思想には、いまここに生きられている現実への肯定が、何程かは含まれている筈である。 従って、現代における保守主義もまた、この産業主義と民主主義に魅入られた20世紀末の現実の唯中に、肯定すべき某(なにがし)かの価値を見い出していることになる。 あるいは、そのように肯定されるべき現実こそが、産業主義と民主主義に対する懐疑の疑い得ぬ立脚点なのである、と言い換えてもよい。 保守主義とは、いまここに生きられる世界に定位して、この世界の合理的な制御や個体的な還元やの、むしろ幻影であることを暴き出す営為に外ならないのである。 それでは、産業主義と民主主義の幻影は、何故に疑い得ぬ現実の姿を取って、立ち現れ得るのであろうか。 言うまでもなく、産業主義とは、絶えざる技術革新を起爆力とする、人間と社会の不断の再組織の運動である。 この運動によって追求されているのは、自然や社会や人間自身に対する制御能力の拡大、生産力の増強、効率の上昇、合理化といった、目的達成のために利用可能な手段の拡大と、その有効適切な選択の推進である。 この手段的な可能性の拡大と、その効率的な利用を追求する態度こそ、合理主義と呼ばれるに相応しい。 マックス・ウェーバーの言う目的合理性であり、タルコット・パーソンズの言う能動的手段主義である。 すなわち、産業革命によって解き放たれたこの産業主義という運動は、合理主義をその中核的な価値としているのである。 もっとも、合理主義という言葉は、効率的な手段の追求という意味に限定されている訳ではない。 元来、合理主義とは、人間理性の尊重、あるいは理性による支配の貫徹の謂であって、その理性をどのように捉えるかによって、様々な意味に分散し得る。 理性を、目的に対して効果的な手段を選択する能力として捉えるならば、いまここで述べた合理主義の意味が出て来よう。 この意味における合理主義を、他と区別する場合には、手段的あるいは機能的合理主義と呼ぶことが多い。 この手段的合理主義と、いわゆる近代合理主義との関係は、いささか微妙である。 なるほど、手段的合理主義は、主体がその目的い適合するように客体を制御する能力を良しとするのであるから、主体と客体の分離を前提するという意味においては、近代合理主義と軌を一にしている。 しかし、手段的合理主義は、必ずしも論理整合的に推論する能力としての理性のみによって、効率的な手段を選択し得るとは考えないのであって、近代経験主義と対立する意味における近代合理主義とは、一線を画しているのである。 この意味においては、手段的合理主義は、むしろ近代経験主義の後裔をもって自認している、各種の実証主義に近しい。 主観とは分離された客観的な事実によって、その真偽を検証し得る命題のみが有意味であるとする実証主義(※注釈:論理実証主義 logocal positivism)は、選択した手段のもたらす結果についての実証的な知識こそが、効果的な手段の選択には不可欠であると考える手段的合理主義の、認識論的な前提となっているのである。 あるいは、むしろ検証可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える実証主義は、制御可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える手段的合理主義の、最も典型的な現れであるとも言えよう。 行為論における手段的合理主義と、認識論における実証主義とは、言わば同型的に対応しているのである。 ハイエクが批判するのは、このような手段的合理主義である。 ハイエクの用語系では、手段的合理主義は、構成的合理主義(constructivist rationalism)と呼ばれる(※注釈:ハイエク著『法と立法と自由』では「設計主義的合理主義」と翻訳されているが、こちらの方が良訳である)。 構成的合理主義とは、およそ人間の行為と社会は、何等かの目的の達成のために、意識的に組織され管理され計画され操作され制御され構成されており、また、そうされるべきだとする考え方である。 すなわち、人間の行為と社会は、それを対象として捉える人間の理性によって、意識的に構成し得るし、また、すべきだと言うのである。 ハイエクによれば、この構成的合理主義の淵源は、デカルトの合理主義に遡り得る。 デカルトによる思考する主体と思考される客体の分離は、構成的合理主義の必要条件を準備するものであり、また、明証的な前提から論理的に演繹された知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとするデカルトの合理主義的確証主義は、意識的に計画され構成された行為のみが、目的達成にとって有効な行為であるとする構成的合理主義と、その精神の態度を共有するものである。 すなわち、明晰で意識的な理性によって根拠付けられたもののみを信仰するという態度において、構成的合理主義は、デカルト的合理主義の紛れもない後裔なのである。 しかし、そうであるからといって、この構成的合理主義が、実証主義と対立する訳ではいささかもない。 実証主義とは、客観的な事実によって検証可能な知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとする経験主義的確証主義なのであって、明晰な理性によっても疑い得ぬ絶対確実な知識を希求する確証主義という意味においては、デカルト的合理主義と選ぶ処はないのである。 従って、構成的合理主義とは、意識的な理性によっては確証され得ない一切のものを懐疑する、過激な懐疑主義の運動なのであるともいえよう。 このような構成的合理主義から見れば、伝統や慣習といった、必ずしも意識的に設計された訳ではない社会制度は、合理的な根拠のない偏見や因習として侮辱される。 伝統や慣習の軛(くびき)から解き放たれて、社会を合理的に再編成していく能力こそ、人間の理性には相応しいと言うのである。 ハイエクは、何等かの具体的な目的を達成すべく意識的に設計された社会秩序を、組織(organization)あるいはタクシス(taxis)と呼ぶ。 すなわち、組織とは、あらゆる行為を、達成されるべき目的によって評価し、配列する社会である。 ハイエクによれば、社会主義はもとより、ケインズ的なマクロ経済政策や規制などのミクロ経済政策といった、市場経済への政府介入もまた、たとえば経済的福祉という目的を達成するために、社会を一つの組織に再編成しようとする試みに外ならない。 すなわち、福祉主義をも含むあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉国家、行政国家など)は、社会の総ての行為を、組織の目的に対する貢献によって評価し、配列しようとする試みなのである。 構成的合理主義、あるいは様々なタイプの社会主義は、社会を制御するための政策や手段をも含む総ての社会的行為を、それが社会にもたらすであろう帰結の、達成すべき目的に照らした優劣によって評価するのであるから、行為をその帰結によって評価するという意味における帰結主義(※注釈:consequentialism 結果主義。倫理学 ethics において、ある行為の価値は結果の良し悪しによって定まるとする学説)を含意している。 因みに、福祉主義あるいは功利主義は、典型的な帰結主義である。 この帰結主義が成功し得るためには、様々な行為のもたらす社会的な帰結の予測し得ることが不可欠である。 社会の制御を目指す政策や手段を含む様々な行為が、如何なる帰結を社会にもたらすかを予測し得て始めて、その合目的的な評価も可能になるのである。 従って、帰結主義、さらには構成的合理主義が、社会を合目的的に組織し得るか否かは、社会現象の予測可能性に懸かっていることになる。 言うまでもなく、意識的な理性に全幅の信頼を置く構成的合理主義は、社会現象の具体的な予測も原理的には可能であると、誇らしげに主張するのである。 この社会現象についての予測能力こそ、実証主義を標榜する社会科学の求めて止まぬものである。 実証主義的な社会科学は、社会を合理的に組織するための前提として役に立つ、社会予測を提供することを、その最終的な目的としているのである。 このような社会科学が標榜する実証主義とは、科学的な命題は、明証的な前提から論理的に演繹し得る命題か、あるいは、客観的な事実によって検証可能な命題のいずれかのみであるとする知識論である。 すなわち、社会をめぐる知識に対しても、真なる知識は、明晰な理性によっても疑い得ない絶対確実な根拠に基づいて判定されねばならぬとする、確証主義を要請しているのである。 ハイエクは、社会をめぐる知識に対する、このような実証主義あるいは確証主義の要請を、科学主義(scientism)と呼ぶ。 ハイエクによれば、経済学を始めとして、あらゆる近代社会科学は、この科学主義によって色濃く染め上げられている。 しかし、社会についての実証(確証)的な知識は、果たして可能なのであろうか。 あるいは、社会を、科学(主義)的な認識の対象となり得る、客観的な事実として把握することは、そもそも適切なのであろうか。 すなわち、社会制御の不可欠な前提である社会予測は、原理的に可能な行為なのであろうか。 ◆2.実証主義と記述主義 ここで、社会哲学においてしばしば混乱を引き起こす、認識論上の実証主義といわゆる法実証主義との関連について触れておきたい。 認識論上の実証主義とは、言うまでもなく、これまで述べてきた実証主義のことである。 これに対して、法実証主義(legal positivism)とは、最広義には、自然法(natural law)に対立する実定法(positive law)のみが法であるとする立場を意味する。 この最広義の意味における法実証主義は、自然法論の対抗思想という以上の意味を持たないので、むしろ、自然法論に対立させて、実定法論と呼ぶべきである。 この実定法論と呼ぶべき法実証主義は、自然法あるいは実定法の様々な解釈に依存して、極めて多義的であり得る。 その内には、ハートの擁護する法実証主義も、また、ハイエクの批判する法実証主義も含まれる。 次節以降に述べるように、ハートの擁護する法実証主義はより広義の、また、ハイエクの批判する法実証主義はより狭義のそれである。 このハイエクの批判するより狭義の法実証主義こそが、認識論上の実証主義と密接に関連しているのである。 詳しい議論は次節に譲るが、ハイエクの批判する法実証主義は、あらゆる法は人間が意図的に設定したものであるとする立場のことであり、さらには、それと関連したいわゆる価値相対主義のことである。 前者の立場は、言うまでもなく、構成的合理主義の法領域における現れであり、従って、認識論上の実証主義とは、意識的な理性の支配を貫徹させるという意味において、その精神の態度を共有している。 また、後者の価値相対主義は、事実と価値の峻別をさしあたり前提とすれば、認識論上の実証主義の、価値論における論理的な帰結となっている。 ハイエクの批判する法実証主義は、まさに法的な実証主義と呼ばれるに相応しいのである。 しかし、ハートの擁護する法実証主義は、必ずしも認識論上の実証主義と関連している訳ではない。 ハートの擁護する法実証主義は、むしろ実定法論と呼ばれるに相応しいのである。 ハートの擁護する法実証主義は、法が、人々の行為の当否を判定する法的な理由として有効でるか否か、あるいは、法が、現行の法体系の下で法としての効力を持つか否かという問題と、法が、道徳や慣習やさらには自然法やといった、実定法以外の当為規範から見て正しいものであるか否かという問題とを峻別する立場である。 すなわち、法が(その法体系の究極の承認のルールによる承認によって)法として妥当することと、それが道徳的に不正でないこととは、まったく別の問題だと言うのである。 この立場は、法の妥当性を、実定法体系の内部問題として捉えるという意味において、典型的な実定法論となっている。 しかし、ハートの言う実定法体系は、後に述べるように、実は慣習の一種である究極の承認のルールを含む、様々なルールの体系のことであって、制定法や判例法やあるいは慣習法やといった、普通にイメージされる実定法を、遥かに超えたものなのである。 このように拡張された実定法論は、認識論上の実証主義(あるいは確証主義)とは、関連がないと言うよりも、むしろ対立するものである。 何故ならば、後に詳しく議論するように、究極の承認のルールは、意識的な理性によっては語り得ぬ、ただ行為において示されるのみ(従って確証不能)のルールをも含んでいるからである。 ハートは、法の妥当性とその道徳的な価値を峻別するからといって、法の正邪についての道徳的な批判を認めない訳では些(いささ)かもない。 むしろ、そのような批判を明晰に行うためにこそ、法と道徳を峻別するのである。 言うまでもなく、自然法論は、法の妥当性をその道徳的な価値によって判断する。 すなわち、道徳的に不正な法は法ではないと言うのである。 従って、道徳的に不正な法には、それが法ではないから従わないということになる。 これに対して、ハートは、道徳的に不正な法も法である、しかし、それに従うか否かは(法的ではなく)道徳的な選択の問題である、と主張する。 ハートにとって、問われるべきは、不正な行為は為すべからずという一つの道徳的要請と、妥当な法には従うべしというもう一つの道徳的要請との間の選択である。 ハートによれば、自然法論は、このような道徳的選択の問題を、法の妥当性という問題にすり替えることによって、議論を混乱させていることになる。 自然法論の誤りは、以上に尽きるものではない。 自然法論は、法の妥当性を判断する根拠となる道徳的な価値規範を、自然法と呼ぶ。 この自然法は、自然法則と同様に、意識的な理性によって発見され得る客観的な存在であると見做されている。 しかし、客観的な存在事実から当為規範を発見し得るとする目論見は、事実命題「~である」から当為命題「~すべし」は演繹し得ないとするいわゆる方法二元論によって、容易に挫折させられる。 いわゆる自然主義的誤謬である(※注釈:naturalistic fallacy 非倫理的な[事実的]前提から倫理的結論を導くことができるとする誤謬。G. E. ムーアの仮説)。 ハートの批判する自然法論は、およそこのようなものである。 しかし、ハートは、法理論における重要な対立が、自然法論と実定法論との対立に限られると主張したい訳ではない。 むしろハートは、法理論における主要な対立を、実定法論の内部にあると見ている。 ハートは、広義の法実証主義の一部に、誤れる法理論が存在すると見ているのである。 このハートの批判する法理論は、次節以降に述べるように、ハイエクの批判する狭義の法実証主義と極めて近い。 ハートも、そしてまたハイエクも、自然法論ではなく、狭義の法実証主義でもない、第三の法理論を探求しているのである。 それはさておき、(認識論上の)実証主義は、極めて素朴なレベルでかなりの信頼を得ているようである。 たとえば、実証主義は、経験に学ぶ謙虚な態度であって、極めて当然のことだといった具合である。 実証主義が、経験に学ぶ謙虚な態度であるどころか、生きられる経験を閑却した理性の傲慢以外の何ものでもないことは、次章において詳しく展開するが、しかし、実証主義が、一見、当然のことに思えてくる事情については、少しく検討するに値しよう。 確かに、実証主義は、手段的合理主義の認識論における現れである。 認識もまた人間の行為の一つなのであるから、意識的な理性によって操作可能な行為のみが有効な行為であるとする手段的合理主義が、意識的な理性によって確証可能な認識のみが有効な認識であるとする実証主義を含意することは見やすい。 しかし、実証主義への素朴な信頼は、それが手段的合理主義の現れであることのみによる訳ではない。 そこには、認識に、わけても言語による認識に固有の事情が介在する。 我々は、言語を、何等かの事実を記述するものであると素朴に考えている。 あるいは、言葉の意味は、その言葉が指示する対象的な事実にあると考えている。 従って、ある言葉が意味を持つためには、その言葉が何等かの事実(ある事態が存在しないという事実も含む)と対応していなければならぬと考えていることになる。 さらに、ある言葉が真実であるか否かを判定するためには、その言葉と対応する事実が存在するか否かを確かめればよいと考えていることも多い。 このような言語に対する考え方を、オースティンは、記述主義と呼ぶ。 この記述主義こそが、実証主義への素朴な信頼を支える言語観なのである。 オースティンによれば、記述主義(descriptivism)とは、あらゆる言明は何等かの事実の記述であるかあるいは無意味であり、かつ、有意味な言明は真か偽のいずれかであるとする立場である。 言うまでもなく、この立場は、真偽の検証可能な言明のみが有意味であるとする、実証主義とほとんど同じ立場である。 あるいは、むしろ各種の実証主義に共通する言明観を抽象したものが記述主義であると言ってもよい。 オースティンは、次章で見るように、この記述主義の言語観を、まず、徹底的に解体するのである。 オースティンは、また、記述主義の批判と並行して、記述主義的な言語観が何処からよって来るのかについても検討している。 この記述主義の由来についての検討は、素朴な実証主義の蔓延を、よく説明するように思われる。 オースティンによれば、我々が「言葉を発する」あるいは「何かを言う」ということは、以下の三つの行為を同時に遂行することに外ならない。 一つは、ある一定の音声を発する行為(音声行為)であり、 二つは、ある一定の語彙に属し、ある一定の文法に適った、ある一定の音声すなわち語を発する行為(用語行為)であり、 三つは、ある程度明確な意味(sense)と指示対象(reference)とを伴って語あるいはその連鎖としての文を発する行為(意味行為)である。 オースティンは、この三つの行為を同時に遂行する「何かを言う」という行為を、発語行為(locutionary act)と呼ぶ。 しかし、ここでは、さしあたり意味行為のみが問題になるので、音声行為及び用語行為を捨象して、発語行為の意味を、意味内容のみを指示対象とするように限定して用いることにする。 すなわち、発語行為という語によって、意味行為という語を指示するのである。 このような発語行為という概念によって言及されているのは、我々が「何かを言う」行為は、取りも直さず、何かを指示する行為に外ならないという事態である。 すなわち、発語することは、何等かの事態を指示することなのである。 このような指示機能は、我々の言語に、紛れもなく存在している。 たとえば、ウィトゲンシュタインのように、言葉の意味は他の意味との関係の内でしか決定し得ず、言葉によって指示される事態は、言葉に先立って存在するのではなく、言葉の意味と同時に分節されると考えたとしても、言葉が、何等かの事態(言葉とは独立の客観的な事実である必要はいささかもない)を指示するということは認められる。 オースティンによれば、この紛れもなく存在する言葉の指示機能すなわち発語行為の位相のみにおいて、言語を巡るあらゆる問題を取り扱おうとする所に、記述主義が生じるのである。 すなわち、あらゆる発話は何等かの事態を指示するか、さもなくば無意味である、記述主義風に言い換えれば、あらゆる発話は何等かの事実を記述するか、さもなくば無意味である、ここまでは必ずしも誤りではない。 しかし、ここから、従って、発話を巡るあらゆる問題は、事態の指示あるいは事実の記述のみを巡る問題である、と結論する処に、記述主義が始まる 記述主義は、発話を巡るあらゆる問題を、発語行為の位相に還元し尽くそうとするのである。 しかし、オースティンによれば、発話という行為は、発語行為に還元し尽くされるものではない。 後に詳しく述べるように、発話行為は、「何かを言う」ことすなわち何等かの事態を指示することである発語行為の遂行であるのみならず、「何かを言う」ことが慣習的な文脈の下で何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自体とは別の)行為でもある発語内行為(illocutionary act)の遂行でもあり、さらに、「何かを言う」ことを手段あるいは原因として何等かの目的あるいは結果を達成する行為でもある発語媒介行為(perlocutionary act)の遂行でもある。 発話行為は、以上の三つの行為を同時に遂行しているのである。 従って、オースティンによれば、発話行為を発語行為あるいは事実の記述に還元する試みは、発話行為が慣習的(発語内的)あるいは意図的(発語媒介的)な行為の遂行でもあるという事態を、全く等閑視することになる。 言い換えれば、あらゆる発話を事実の記述に還元する記述主義の成否は、発話を巡る諸問題が、発話に伴う、しかし発話それ自体とは区別される行為の遂行に、どこまで拘わっているかに依存することになる。 果たして、発話は、その社会的な文脈や話者の意図とは独立に、その意味あるいは指示機能のみによって、どこまで理解し得るのであろうか。 ◆3.民主主義と個体主義 手段的合理主義は、与えられた目的を最大限に達成すべく社会を組織する。 すなわち、社会のあらゆる行為を、与えられた目的に対する手段としての有効性によって評価する。 しかし、達成されるべき目的そのものは、いかにして与えられるのであろうか。 そもそも、手段的合理主義とは、手段としてのある行為が帰結する社会状態についての知識と、様々な社会状態を評価する規準としての目的とを前提して、目的に照らして最も高く評価される社会状態をもたらす手段を選択するという立場である。 さらに、行為の社会的な帰結についての知識の拡大それ自体を目的とする立場も、(そのような知識はいかなる目的にとっても手段になり得るとすれば)、手段的合理主義に含まれる。 しかし、最終的に達成されるべき社会状態を決定する目的そのものは、手段的合理主義にとって、その外部から与えられざるを得ないのである。 何故なら、手段的合理主義によれば、手段とその帰結についての知識は、実証主義的な手続きによってその真偽を確証し得る客観的な知識である。 これに対し、目的による社会の評価は、価値判断あるいは当為判断「~すべし」なのであって、客観的な知識としての事実判断「~である」とは峻別される。 従って、万人によって受け容れられる確証可能な知識は、事実判断と演繹論理のみであるとする実証(確証)主義と、事実判断から当為判断は演繹し得ないとする方法二元論とを認めるとすれば、当為としての目的は、万人によって受け容れられ得る客観的(確証可能)な知識ではありえないことになる。 言うまでもなく、手段的合理主義は、実証主義(と方法二元論)をその認識論的(あるいは価値論的)な前提としているのであるから、達成すべき目的は、万人によって受容され得る客観的な知識ではあり得ない。 すなわち、手段的合理主義は、意識的な理性によって確証し得ない一切のものを拒絶するがゆえに、その達成すべき目的を、自らの内部からは原理的に導き出し得ないのである。 それでは、達成されるべき目的は、いかにして与えられるのであろうか。 手段的合理主義によれば、およそ行為の目的は、主観的あるいは個体に相対的なものである。 何故なら、手段的合理主義が前提している主客二元論に基けば、およそ客観的でないものは主観的であらざるを得ないからである。 このような立場は、ほとんどの場合、行為の目的を、個体の意志や情緒や欲求やに帰着させる。 言い換えれば、このような立場は、行為を、個体の意志や情緒や欲求やの表出であると捉えるのである。 個体の意志や欲求やは、言うまでもなく個体に相対的、主観的なものであって、もとより普遍的、絶対的、客観的なものではあり得ない。 このような個体の意志から、少なくとも複数の個体によって構成される社会の全体が達成すべき目的が、果たして導出し得るであろうか。 この問題は、近代合理主義に特有の問題である。 あるいは、近代合理主義と主客二元論という卵を同じくする一卵性双生児である、近代個体主義に特有の問題であると言ってもよい。 すなわち、目的や価値や当為やは、客観的、普遍的、絶対的なものでは全くあり得ず、主観的、個体的、相対的なものに外ならない(価値相対主義)。 さらに、目的志向的な行為や価値判断や当為言明やは、個体の意志や情緒や欲求やの表出として捉えられる(表出主義)。 従って、社会全体の目的や価値や当為やは、個体の意志や情緒や欲求やに還元し得るし、また、されねばならぬ(個体主義)。 以上の条件を総て充たすような社会全体の目的を導出せよ。 これが問題である。 この問いに対する、近代特有の答えが、近代民主主義なのである。 民主主義とは、言うまでもなく、多数者すなわち大衆の支配のことである。 民主主義にあっては、個体の意志の集計において多数を占めた者が、究極的には無制限の権力を掌握する。 最高、無制限の権力を主権(sovereignty)と呼ぶことにすれば、民主主義とは、個体の意志の集計にこそ主権が存すると見る立場に外ならない。 従って、民主主義においては、社会全体の達成すべき目的は、もしそれがあるとするならば、個体の意志の集計に還元されねばならないのである。 何故なら、社会のあらゆる行為をその達成への貢献によって評価し得る目的とは、その社会における主権者(sovereign)の意志であると言ってもほとんど言い過ぎではないからである。 言い換えれば、民主主義とは、個体の意志の集計によって、社会全体の目的を選択する、社会的選択の装置なのである。 ハイエクが批判するのは、多数者の意志に主権を付与する、このような無制限の民主主義である。 元来、近代の立憲主義は、権力の制限を目的としていた筈である。 なるほど、近代憲法は、人権の保障と権力の分立とを規定することによって、権力の制限を目指してはいる。 しかし、近代立憲主義は、憲法をも含めたあらゆる法を制定し得る究極的な権力としての(いわゆる憲法制定権力をも含めた)主権の制限という問題に対して、確定した解答をほとんど持ち合わせていない。 そもそも、最高、無制限の権力としての主権の制限を云々すること自体が自己矛盾なのである。 ハイエクによれば、このような自己矛盾が生じて来るのは、あらゆる法は人間によって意図的に制定し得るし、また、すべきであると考えることによる。 すなわち、あらゆる法に立法者が存在すると考えるならば、その立法者自身が従う法にも立法者が存在する筈である。 従って、ある立法者が従う法の立法者をその立法者より上位の立法者と呼ぶことにすれば、より上位の立法者の存在しない立法者、言い換えれば、究極(最上位)の立法者は、いかなる法にも従わないことになる。 何故なら、究極の立法者の従う法が存在するならば、その法の立法者も存在することになり、より上位の立法者の不在という究極の立法者の定義に矛盾するからである。 言い換えれば、あらゆる法が人間によって意図的に制定されると考えるならば、究極的な法制定主体の(立法)権力を法によって制限することは、論理的に不可能となるのである。 従って、究極的な立法者は、無制限であらざるを得ない。 すなわち、最高(究極)かつ無制限の(立法)権力としての主権の存在は、あらゆる法は人間によって意図的に制定されるとする立場の、必然的な帰結なのである。 従って、たとえ憲法といえども、いずれかの主体によって意図的に制定されたとする限り、(究極的な立法者としての)主権者を制限することなど不可能なのである。 近代立憲主義は、あらゆる法に制定主体が存在すると考える限り、主権者の権力の制限に、原理的に失敗するのである。 このような主権者すなわち究極的かつ無制限な立法者の存在を必然的に帰結する、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする立場は、言うまでもなく、構成的合理主義のコロラリー(※注釈:corollary 必然的に推論される帰結)となっている。 すなわち、法もまた、社会一般と同じように、理性によって意図的に制御されるべきだ、あるいは、社会全体の目的を達成する手段として有効に設定されるべきだ、という訳である。 さらに、究極的に法を設定するのは主権者なのであるから、このような法の捉え方は、法とは主権者の目的あるいは意志の表出に外ならないと主張していることになる。 言い換えれば、このような立場は、法とは主権者の命令であると主張しているのである。 確かに、命令は当為言明の一種であると言い得るので、当為言明としての法を命令として捉えることは一見尤(もっと)もらしい。 しかし、法を命令わけても主権者の命令と見ることに、何の不都合も生じ得ないのであろうか。 次節で詳しく述べるように、ハートもまた、この問いとほとんど同じ問いを問うのである。 ところで、民主主義においては、主権者とは、言うまでもなく、多数者大衆である。 すなわち、民主主義における主権は、大衆の意志の集計に存するのである。 従って、国民主権を標榜する民主主義においては、国民大衆の(究極的な)権力は原理的に無制限である。 言い換えれば、民主主義とは、大衆が無制限の権力を掌握した社会なのである。 究極かつ無制限の権力としての主権概念そのものは、確かに、構成的合理主義の論理的帰結である。 しかし、大衆の意志に主権を付与する民主主義的な主権概念は、必ずしも合理主義のみから帰結する訳ではない。 民主主義の前提には、近代合理主義の精神的な双生児である近代個体主義が準備されている筈である。 ハイエクによれば、無制限な民主主義の前提には、価値相対主義が準備されていることになる。 ハイエクは、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする考え方を、法実証主義と呼ぶ。 すなわち、ハイエクは、構成的合理主義の法への適用を、法実証主義と呼ぶのである。 このような法実証主義によって、ハイエクは、ベンサムやオースティン(本書で取り上げるJ・L・オースティンではなく、19世紀のイギリスの法理学者で、ベンサムの友人のJ・オースティン)、あるいはケルゼンの法実証主義を指示している。 このハイエクの言う法実証主義、わけてもケルゼンの法実証主義こそが、価値相対主義を明らかに含意しているのである。 このような法実証主義が前提している、認識論上の実証主義、あるいはより広く確証主義の立場に立てば、法命題を含むあらゆる当為命題は、万人によって一致して受け容れられ得る、確実に証明された命題ではあり得ない。 当為言明は、意識的な理性によっては、その正当性を確証し得ないのである。 このように客観的、普遍妥当的ではあり得ない当為言明は、つまるところ、個体の意志や情緒や欲求やの表出なのであって、主観的、相対的であらざるを得ない。 従って、法あるいは当為をめぐる問題は、客観的、普遍的な理性の問題であると言うよりも、むしろ主観的、個体的な意志の問題であると言うことになる。 しかし、法といい当為といい、ある社会を構成する総ての個体の行為を拘束する規範の問題である。 個体的な意志の問題として法や当為やを取り扱う視点から、いかにして社会的な規範の問題としての法や当為やを捉えるか。 ここに、価値相対主義を民主主義に結び付ける契機が存在するのである。 民主主義とは、社会を構成する諸個体の意志を集計することによって、社会全体の意志を形成する社会的装置である。 従って、法や当為の言明を、民主主義的に形成された社会全体の意志の表出であると考えるならば、価値相対主義は、社会規範としての法や当為の問題をも一貫して取り扱えることになる。 すなわち、社会規範としての法や当為を、その時点における多数者の意志に相対的なものとして捉えるのである。 言い換えれば、価値相対主義は、民主主義と結び付くことによって、あらゆる法や社会的当為は、(究極的には)多数者大衆の意志に還元されると主張するのである。 もっとも、価値相対主義は、必ずしも常に民主主義と結び付く訳ではない。 価値相対主義とは、価値あるいは当為の問題は、客観的、普遍的な認識あるいは理性の問題ではなく、主観的、個体的な実践あるいは意志の問題であるという主張以上のものではない。 従って、価値相対主義は、個体的な意志から、いかにして社会的な規範あるいは社会全体の意志が形成されるかという問題に対して、その幾通りもの解答と両立し得るのである。 しかし、価値相対主義は、万人が一致して受け容れ得る理性的な論証のみによっては、社会規範あるいは社会全体の意志が形成されることは、決して有り得ないと考えるのであるから、理性的な論証以外の方法によって社会全体の意志を形成する解答としか両立し得ないことは言うまでもない。 そもそも、個体の意志や情緒や欲求やは、さらには、個体の価値や利益や目的やは、一致するどころか、一般的には共存さえしていない。 従って、このように対立する価値や利益や目的やが犠牲にされざるを得ないことになる。 理性的な論証によるこの問題(社会全体の意志を形成する問題)の解決は不可能だというのであるから、そこでは、何等かの実力による解決が要請されることになろう。 まさに、民主主義とは、この問題を、人間の頭数の多寡という実力によって解決しようとする試みなのである。 もちろん、票数以外にも様々な実力があり得る。 その究極的な形態は、いうまでもなく、赤裸々な暴力に外ならない。 いずれにせよ、価値相対主義は、社会全体の意志を形成するという問題に対して、何等かの実力による決着という解答を帰結せざるを得ないのである。 言うまでもなく、民主主義は、そのような解答の有力な一つとして位置付けられる。 すなわち、民主主義とは、多数者大衆の実力によって、社会全体の意志や利益や目的を決定Sる、パワー・ポリティックスに外ならないのである。 このような、何等かの実力による社会的意志決定を帰結する、価値相対主義と、究極かつ無制限の主権を帰結する、あらゆる法は意図的に設定されるとする考え方が、互いに結び付けられることによって始めて、多数者大衆は無制限の権力を掌握するのである。 何故なら、価値相対主義の下では、究極の社会的意志決定者である主権者とは、自らの実力によって社会全体の意志を決定し得る者に外ならないからである。 まさに、カール・シュミットの言うように、主権者とは、(実力行使をも辞さない)非常事態において、全体的な決断を下し得る者なのである。 それが、多数者大衆自身であるか、あるいは大衆の歓呼によって迎えられたその指導者であるかは、問題ではない。 構成的合理主義の法への適用と、その一卵性双生児である価値相対主義との結合が、大衆に無制限の権力を委ねるという事態を帰結することに、いささかの変りも無いからである。 ハイエクは、構成的合理主義の法への適用とともに価値相対主義をも含意する言葉として、法実証主義を用いることがある。 このように用いられた法実証主義が、大衆を主権者の高みに昇らせる、充分な前提となっていることは言うまでもない。 ハイエクが、根底的に批判するのは、まさに、このような意味における法実証主義なのである。 しかし、ハイエクは、このような法実証主義を批判するからといって、必ずしも自然法論に与する訳ではない。 ハイエクは、ハートによる自然法論の批判に、ほとんど全く同意している。 この意味においては、ハイエクもまた、ハートの言う実定法論者なのである。 ハイエクは、さらに、法実証主義と自然法論という二分法それ自体が、そもそも誤りなのであると主張する。 ハイエクは、(次節に述べるように、ハートもまた)法実証主義でも自然法論でもない、第三の法理論を指向しているのである。 ◆4.主権主義と表出主義 人間によって意図される対象としての客観的なものと、意図する人間主体の在りかとしての主観的なものとを峻別する、いわゆる方法二元論は、近代合理主義と同時に、近代個体主義をも産み落とした。 すなわち、主客二元論は、近代合理主義、わけても、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものに根拠付けられねばならぬとする客観主義と、近代個体主義、わけても、あらゆる行為はそれを意図する主観的なものに帰属されねばならぬとする主観主義という、一卵性双生児の母なのである。 認識論上の実証主義がこのような客観主義の、また、ハイエクの言う法実証主義がこのような主観主義のコロラリー(※注釈:必然的帰結)であることは言うまでもない。 ハートの批判する法の主権理論もまた、このような主観主義のコロラリーなのである。 ハートの批判する法理論は、法とは、主権者によって発せられた威嚇を背景とする命令であるとする立場である。 縮めて言えば、法とは、主権者の強制命令であるとする立場、あるいは、法の主権者命令説である。 ここで言う主権者が、最高かつ無制限の立法権力を有する者であることは言うまでもない。 このハートの批判する法の主権者命令説は、あらゆる法体系には、それを設定する最高、無制限の主権者が存在すると考える主権理論と、あらゆる法は、その逸脱に対する制裁の威嚇によって強制された命令であると考える命令理論との、大きく二つの部分に分けられる。 この法の主権理論こそが、近代個体主義あるいは主観主義の論理的帰結なのである。 あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場から、最高かつ無制限の主権の存在が論理的に帰結することは、既に前節において見た通りである。 この、あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場は、あらゆる行為は、それを意図する主体あるいは主観の存在を含意しているとする主観主義(主体主義)の、法における現れであると見ることが出来る。 何故なら、法もまた、人間の(必ずしも意図的とは限らない)行為の帰結であることに変わりは無いからである。 従って、最高かつ無制限の主権の存在は、このような主観主義の論理的な帰結であるとも考え得るのである。 すなわち、ハイエクの批判する法実証主義も、ハートの批判する法の主権理論も、このような主観主義の論理的な帰結となっているのである。 ハートは、法の主権理論に対して、様々な角度から疑問を提出する。 法とは、最高かつ無制限の立法権力を有する主権者によって、意図的に設定されたものであるとしよう。 このとき、主権者を主権者たらしめる根拠は、もはや法ではあり得ない。 何故なら、主権者が法によって主権者たり得るとするならば、その法を設定した主権者が存在することになり、主権の最高性と矛盾するからである。 あるいは、そもそも法を根拠とする主権は、主権の法的無制限性に矛盾すると言ってもよい。 いずれにせよ、主権者は、法以外の根拠によって主権者たり得るのである。 従って、憲法などの法によって立法権力を付与される立法府のような主体が、主権者たり得ることはあり得ない。 それでは、主権者とは一体誰であるのか。 それは、立法府を選挙する国民であるのか。 あるいは、何が法であるかを最終的に判定し得る司法府であるのか。 あるいは、大衆の歓呼によって推戴された大統領であるのか。 しかし、司法府はもとより、選挙民もまた、憲法によって授権された機関なのであって、主権者たり得よう筈もない。 なるほど、(憲法上の機関としての選挙民とは区別される)国民大衆あるいはその指導者は、主権者たり得るかも知れないが、このとき、大衆に主権を付与する根拠は一体何なのか。 言うまでもなく、主権理論は、ここで、自然法論(あるいは自然権論)を持ち出す訳にはいかない。 主権理論によれば、自然法もまた法である限り、いずれかの主権者によって設定された筈のものだからである。 それでは、大衆を主権者に推戴し得るのは、一体いかなる根拠によるのか。 主権理論の内部においては、そのような根拠は遂に示し得ない。 主権理論は、この、誰が主権者たり得るのかという問題を、常に開かれた疑問として留め置かざるを得ないのである。 主権者は、いかなる法によっても制限され得ないのであるから、当然、自己自身の設定した法によっても制限され得ない。 主権者は、自己自身を法的には制限し得ないのである。 従って、たとえば、主権者が、過去において制定した立法手続を、未来において遵守しなかったとしても、それは法的な責務に対する違反とはなり得ないし、また、主権者が、過去において締結した条約を、未来において履行しなかったとしても、それも法的な責務に対する違反とはなり得ない。 主権者が、過去において設定した法を、未来において無視したとしても、それは主権者の意志が変更された、つまりは気が変わったということに過ぎない。 主権者の意志の変更が、立法の名宛人や条約の相手方との約束に、たとえ違背することになったとしても、それは決して法的な責務に対する違反とはなり得ないのである。 すなわち、主権理論によれば、主権者の行為に対して、法を根拠として責務を問う可能性は、決して存在し得ないのである。 主権理論をめぐるこれらの問題、すなわち、主権者を主権者たらしめる法的な根拠は存在し得ないという問題、あるいは、主権者は自己自身を法的には制限し得ないという問題は、主権者という存在が、法体系の内部においては、遂に根拠を持ち得ないということを指し示している。 むしろ、主権者とは、法体系の外部から、法体系それ自体を根拠づけるものとして与えられて来たのである。 従って、主権者が、法体系の内部にその根拠を持ち得ないのはむしろ当然である。 主権者とは、法体系の外部にあって、法体系そのものを根拠づける、たとえば政治的な存在なのである。 しかし、法体系の根拠を問うに際して、このような主権者の存在は、果たして必然なのであろうか。 言い換えれば、法の根拠には、それを意図的に設定する主体が、不可避的に要請されるのであろうか。 言うまでもなく、このような主体の要請は、あらゆる行為には、これを意図する主観が不可避的に要請されるとする主観主義の必然的な帰結である。 ハートは、法の根拠を問うに際して、このような主観主義の要請が、全く不要であることを明らかにする。 法の主権理論は、法現象の最も中核的な部分を把握することに失敗すると言うのである。 しかし、ハートの法理論は積極的な展開は、以下の諸章の課題である。 ハートは、また、法とは威嚇を背景とした命令である、すなわち、法とは強制的命令であるとする法の命令理論を徹底的に批判している。 ハートによれば、法は、 第一に、その制定者自身にも適用されるという点において、 第二に、責務のみではなく権能をも付与するという点において、 第三に、慣習法のように意図的な立法にはよらないものが存在するという点において、 強制的命令と同一視する訳にはいかない。 さらに、ハートは、これらの問題点を踏まえて修正された命令理論をも一蹴する。 すなわち、第三の問題点を修正した、黙示の命令という考え方、第二の問題点を修正した、あらゆる法は公機関に向けられた命令であるとする立場、第一の問題点を修正した、公的資格において命令する立法者と私的資格において命令されるそれとを区別する試みの、一切を否定し去るのである。 しかし、ハートの命令理論批判それ自体は、本書の主題と必ずしも密接に関連する訳ではないので、主権理論批判に必要な限りにおいて触れることに留めたい。 ハートの批判する法の主権理論、あるいはハイエクの批判する法実証主義を帰結する主観主義は、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものによって根拠付けられねばならぬとする客観主義の、一卵性の兄弟/姉妹であった。 オースティンの批判する言語の記述主義が、この意味における客観主義のコロラリーであることは言うまでもない。 オースティンもまた、ハイエクやハートと同じように、客観主義と切り結んだ刀で、主観主義とも渡り合っている。 この客観主義と主観主義という、近代のロムルスとレムスとの闘いにおいては、二正面作戦以外の如何なる戦力もあり得ないのである。 オースティンの批判する記述主義は、言葉とは何等かの事実を記述するものであり、その真偽はそれが記述する事実の存否によって検証し得るとする考え方であった。 オースティンによれば、このような記述主義の淵源には、何等かの事態を指示する(言及する、記述する)という言葉の機能、すなわち言葉の指示機能のみに、言葉の持つあらゆる機能を還元しようとする態度が存在していた。 あるいは、オースティンの用語系に即して言い換えれば、記述主義とは、発話という行為を、指示行為(意味行為)という意味における発語行為に還元し尽くそうとする態度なのであった。 このような記述主義が、言葉についての客観主義であることは明らかであろう。 すなわち、言葉は、客観的な事実を記述することによって始めて意味を持つという訳である。 これに対して、オースティンの批判する、言葉についての主観主義とは、言葉とは(発話主体の)主観的な意図や情緒や欲求やの表出であると考える、言語の表出主義(expressivism)に外ならない。 言うまでもなく、言語には、発話主体に係わる何等かの事情(必ずしも主観的な心理とは限らない)を表現するという機能が、紛れもなく存在している。 従って、ある発話を了解するに当たって、その発話に表現されている発話主体の主観的な意図を無視してよい訳では些かもない。 しかし、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図に還元して理解するとなると、問題はまた別である。 表出主義とは、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図の表出に還元し尽くそうとする、言い換えれば、言葉の持つあらゆる機能を、その表現機能に還元し尽くそうとする態度に外ならないのである。 このような表出主義が、発話という行為には、それを意図する主観が必ず存在せねばならないと考える点において、言葉についての主観主義であることは明らかであろう。 オースティンは、記述主義とともに、このような表出主義をも根底的に批判するのである。 オースティンの用語系に即して言い換えれば、表出行為とは、発話という行為を、発話を手段として何ごとかを達成する行為である、発語媒介行為に還元し尽くそうとする態度に外ならない。 もっとも、オースティンの言う発語媒介行為は、必ずしも発話主体によって意図された行為のみに限られる訳ではない。 オースティンの言う発語媒介行為は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、発語の帰結として何等かの効果を達成する行為なのである。 もちろん、オースティンにおいても、何等かの帰結あるいは目的を達成すべく意図された発語媒介行為が重要であることは言うまでもない。 しかし、オースティンは、意図されざる帰結をもたらす発語媒介行為をも、その射程に捉えているのである。 それでは、発語によって何等かの帰結を達成する(発語それ自身とは区別された)行為は、総て、発語媒介行為となるのであろうか。 発語が何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別された)行為である発語内行為と、発語媒介行為は一体どこが違うのであろうか。 オースティンによれば、発語によって何等かの効果を達成する発語媒介行為と、発語が何等かの効力を獲得する発語内行為とは、発語のもたらす効果が、慣習的(conventional)なものであるか否かによって区別されるのである。 すなわち、発語媒介行為において達成される効果は、発語に後続することが、必ずしも慣習的には期待され得ないのに対して、発語内行為において獲得される効力は、発語に随伴することが、慣習的な規則によって支持されているのである。 言い換えれば、発語媒介行為の効果は、慣習以外の何ものか(たとえば威嚇や強制や)によって達成されるのに対して、発語内行為の効力は、それを有効適切なものとする慣習の存在を俟ってはじめて獲得されるのである。 オースティンの言う慣習(convention)は、もちろん、本書の問う慣習と密接に関連するものであるが、後に述べるように、むしろ、ハートの言うルールに極めて近い概念である。 従って、オースティンの言う発語媒介行為とは、発語によって何等かの帰結を達成する行為の内で、いかなる慣習にも依存せず、またルールにも従わない類いのものを指し示していることになる。 このような発語媒介行為は、確かに、発話行為によって意図された行為である場合が最も重要なのではあるが、しかし、意図されない行為をも明らかに含むものである。 従って、あらゆる発話を発語媒介行為に還元しようとする態度と、あらゆる発話を(発話主体の)主観的な意図の表出に帰着しようとする表出主義とは、必ずしも正確に一致する訳ではない。 発語媒介行為一元論は、表出主義をも包含する、より広い概念なのである。 このような発語媒介行為一元論を批判することによって、オースティンは、表出主義をもその批判の射程に収めていると言うことも出来よう。 しかし、慣習あるいはルールに依存も服従もしない行為(発語媒介行為)の内で、その主観的な意図のみによって了解し得る行為(表出行為)を除いたものが、差し当たり緊要であるとも思われないので、以下の行論においては、誤解の怖れの生じない限り、発語媒介行為一元論と表出主義とを互換的に用いることにしたい。(このことについては、後に再び述べる機会があると思われる。) すなわち、発語媒介行為一元論の批判は、取りも直さず表出主義の批判に外ならないのである。 以上に見てきたように、産業主義と民主主義、あるいは、合理主義と個体主義は、我々の近代社会において、極めて当然のこととして受け容れられている。 しかし、以上に見てきたことが示しているのは、我々が当然のこととして受け容れている合理主義と個体主義には、ある特徴的な前提が共有されているということである。 その前提とは、およそ人間とその社会は、目的志向的(intentional)な理性の客体であるか或いは主体であるとするものの見方である。 このようなものの見方に立って、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、手段的合理主義や実証主義あるいは確証主義、さらには記述主義といった、一連の客体主義あるいは客観主義(objectivism)が生じるのであり、また、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、個体主義や主権主義あるいは価値相対主義、さらには表出主義といった、一連の主体主義あるいは主観主義(subjectivism)が生じるのである。 このようなものの見方それ自体を、(近代)合理主義と呼ぶことも、かなり一般的ではあるが、合理主義は広狭様々な意味に用いられるので、ここでは、このようなものの見方を、志向主義(intentionalism)と呼ぶことにしたい。 いかにも熟さない命名であるが、本書の立場である慣習主義(conventionalism)との対比を意識してのことである。 従って、産業主義と民主主義の近代は、志向主義をその哲学的な前提としていることになる。 産業主義と民主主義は、志向主義という双面神の二つの顔である客観主義と主観主義の、もう一つの《ペルソナ》なのである。 ▼第三章 暗黙の言及 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - 人間とその社会を、理性によって意図的に制御し得る対象であると考える、構成的合理主義や、また、人間とその社会についての知識を、客観的な事実によって確証し得る言明であると考える、実証主義やは、我々の社会のほとんど自明な前提となっている。 しかし、果たして社会は、意図的に制御し得る対象であり得るのか。 あるいは、社会についての知識は、客観的に確証し得る言明であり得るのか。 ハイエクの問いは、ここから始まる。 ハイエクによれば、社会は、目的を達成すべく意図的に構成された秩序、すなわち彼の言う組織には留まり得ない。 社会には、意識的な目的を持たず、また、意図的に設計された訳でもない秩序が、必ず存在しているのである。 言い換えれば、社会には、差し当たり何に役立つのか(当の本人達にも)分からない、自然発生的(spontaneous)に生成された秩序が、常に存在しているのである。 ハイエクは、このような秩序を、自生的秩序(spontaneous order)あるいはコスモス(cosmos)と呼ぶ。 ハイエクによれば、自生的秩序は、通常の個体の行為はもとより、組織それ自体の行為をも含んだ秩序として、社会全域を覆っている。 すなわち、構成的合理主義の、社会全域を一個の組織によって覆い尽くし得るとする考え方に対して、ハイエクは、社会とは、一個の組織によってはついに覆い尽くせない、(組織をその要素として含み得る)自生的秩序に外ならないと主張するのである。 自生的秩序は、自然発生的に生成された秩序である。 しかし、言うまでもなく、自生的秩序は、人間の行為から独立した、自然と同様の、客観的な事実ではあり得ない。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行が、(意図せざる)結果として秩序を生成しているという事態に外ならないのである。 しかし、自生的秩序が、行為の遂行的な結果に外ならないからと言って、必ずしも、それが、行為の主観的な意図に還元され得る訳ではない。 自生的秩序は、それを結果する行為の主観的な意図を超越し、それに先行するのみならず、行為を規範的に拘束しさえするのである。 しかし、自生的秩序のこの側面については、次章で詳しく検討したい。 この章では、自生的秩序の、行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成されるという特徴から導かれる、もう一つの側面のみに、議論を限定したい。 自生的秩序のこの側面こそ、構成的合理主義さらには実証主義との闘いに際して、最も有力な橋頭堡となり得るからである。 行為の持続的な遂行の(意図せざる)結果として生成される秩序を、手短に、遂行的(performative)な秩序と呼ぶことにしょう。 すなわち、自生的秩序は、遂行的な秩序として特徴付けられるのである。 遂行的な秩序としての自生的秩序には、たとえば、市場、貨幣、法、権威、社交、言語、技能、偏見、儀礼、流行、慣習、伝統などといった社会秩序が含まれる。 これらの社会秩序は、それぞれの領域における人々の行為の持続的な遂行が、結果的に、それらの行為の従うべき何等かのルールを生成し、従ってルールに従う行為の集合としての秩序を生成するという意味において、明らかに遂行的な秩序となっている。 さらに、これらの社会秩序は、それぞれの領域において秩序を形成するルールに、人々が従うべき理由あるいは根拠が、人々がそれらのルールに従うという行為を持続的に遂行していること以外には、(究極的には)存在し得ないという意味においても、紛れもなく遂行的である。 言い換えれば、こられの社会秩序は、(それらの秩序を形成する)ルールに従う行為の持続的な遂行によって、ルール(あるいはそれが形成する秩序)それ自体が繰り返し生成されているという事態のみを、ルール(あるいはそれが形成する秩序)の存立する究極的な根拠としているという意味において、まさに遂行的な秩序と呼ぶべきなのである。 すなわち、自生的秩序とは、行為の持続的な遂行の結果として生成されるのみならず、行為の持続的な遂行をその究極の根拠として存立する社会秩序なのである。 このような遂行的秩序としての自生的秩序が、いわゆる自然と同じ意味における客観的実在性、あるいは、理性によっては疑い得ない絶対的確実性を持ち得ないことは言うまでもない。 自生的秩序は、そのような秩序を生成する行為が繰り返し遂行されているという事態以外の何ものであもないのであって、遂行されている行為が変化すればそれに伴って変化する、行為の遂行に相対的なものである。 すなわち、自生的秩序は、歴史的あるいは地域的な行為の遂行に相対的な秩序なのである。 (このことから、必ずしも価値相対主義が帰結される訳ではないことは、次章に詳しく述べるが、さらに、このことから、いわゆる文化相対主義が帰結される訳ではないことも、次章以降に述べる機会があると思われる。) 従って、このような自生的秩序に、自然法則と同じ意味における、客観的、普遍的な法則を見い出そうとする試みの、挫折せざるを得ないことは、もはや旧聞に属そう。 ところで、遂行的秩序においては、行為の遂行によって生成される秩序が、いかなるものであるかについて、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序は、行為遂行の意図せざる結果として生成されるのであって、行為主体は、そのような結果について意識し得る筈もないのである。 さらに、自生的秩序においては、行為の遂行において事実上従われているルールが、いかなるものであるかについても、行為者自身が意識している必要は些かもない。 自生的秩序を形成するルールは、その遂行において実践的、経験的に従われているのであって、行為主体が意識的、合理的に従っている訳ではないのである。 言い換えれば、自生的秩序のルールは、言葉(あるいは意識的な理性)によっては語り得ぬ、行為において示し得るのみの、暗黙的(tacit)な事態なのである。 たとえば、典型的な自生的秩序である言語について見るならば、我々は、言語のルールについてほとんど意識せず、またその総てを語り得ないとしても、正しいルールに従った発話を遂行し得るのであり、ましてや、我々の遂行する個々の発話が、言語総体にいかなる結果をもたらすかなどということは、通常全く意識しておらず、またし得るものでもない。 このことは、その他の典型的な自生的秩序である技能や慣習においても、全く同様である。 技能とは、言葉によっては遂に説明し得ず、実践的(遂行的)にのみ従い得る、従って、実践的(遂行的)にのみ学び得るルールに外ならないし、慣習とは、まさに暗黙的、遂行的な事態そのものであって、それを繰り返し生成する行為が、そもそも如何なる意図の下に為されたものであったかが忘却されることによって、益々その安定を強めるといった代物である。 すなわち、行為の遂行によって繰り返し生成される、遂行的な秩序とは、取りも直さず、言葉(あるいは意識的な理性)によってはその全体をついに把握し得ない、暗黙的な秩序に外ならないのである。 従って、我々は、言語によっては分節し得ないが、行為においては遂行し得るルールを知っていることになる。 この意味において、我々は、語り得る以上のことを知っているのである。 この語り得ぬ、ただ示されるのみの、暗黙的あるいは遂行的な知識は、意識的あるいは理性的な認識のみによっては獲得し得ない。 何故なら、意識的、理性的な認識といえども、人間の行為には違いないのであるから、何等かの自生的秩序(あるいはそのルール)を繰り返し生成している筈である。 このことは、意識的、理性的な認識も、他の行為と同様に、自生的秩序のルールに遂行的に従っていることを意味する。 すなわち、意識的、理性的な認識もまた、自生的秩序(あるいはそのルール)に規範的に拘束されているのである。(この点については、次章で改めて述べる。) 従って、ある特定の自生的秩序とそのルールが、意識的、理性的な認識によってたとえ分節され得たとしても、当の意識的、理性的な認識それ自身の従うルールは、分節され得ないままにただ遂行されるものとして残ることになる。 すなわち、自生的秩序とそのルールを、意識的、理性的に認識し尽くそうとする試みは、いかなる認識といえども、自分自身が遂行的に従っているルールを(自分自身によっては)ついに分節し得ないという事情によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、ある特定の自生的秩序とそのルールならいざ知らず、総ての自生的秩序とそのルールを、意識的な理性によって分節し尽くすことは原理的に不可能なのである。 このような訳で、自生的秩序とそのルールは、(究極的には)語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であらざるを得ない。 遂行的な秩序は、暗黙的な秩序であらざるを得ないのである。 ハイエクは、このような自生的秩序として、社会を捉える。 自生的秩序としての社会が、構成的合理主義やあるいは実証主義やの対象となり得ないことは、容易に理解し得よう。 自生的秩序としての社会は、理性によって意図的に制御し得る対象ともなり得ないし、また、それについての言明を客観的に確証し得る対象ともなり得ないのである。 何故なら、自生的秩序とは、語り得ぬ、暗黙的な秩序なのであって、それ(その全体)を意図的に制御するための情報を、制御主体が獲得することは、原理的に不可能だからであり、ましてや、それ(その全体)についての言明を、客観的に確証することなど、ほとんど形容矛盾だからである。 あるいは、意図的、合理的な制御もまた、人間の行為には違いないのであって、何等かのルールに遂行的に従っている筈なのであるから、意識的、理性的な認識の場合と全く同様に、自生的秩序(あるいはそのルール)の全体を、意図的、合理的に制御し尽くすことは、原理的に不可能なのである。 自生的秩序としての社会は、遂行的あるいは暗黙的な秩序であるがゆえに、構成的合理主義やあるいは実証主義やといった客観主義の対象には、決してなり得ないのである。 このようなハイエクの自生的秩序論が、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に極めて接近していることは、注目に値する。 ウィトゲンシュタインの言う言語ゲームは、ここで言う遂行的あるいは暗黙的な事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、言語ゲームは、そのようなゲームが遂行されているという事態以外のいかなる根拠も持ち得ず、また、その全体を対象にして言及する可能性を原理的に拒否しているのである。 さらに、言語ゲームは、人間のあらゆる行為は、何等かの言語ゲームの遂行とならざるを得ないという特徴を、自生的秩序と分け持っている。 すなわち、自生的秩序もまた、人間のあらゆる行為は、何等かの(自生的秩序を形成する)ルールの遂行とならざるを得ないという特徴を持っているのである。 自生的秩序のこの特徴は、その規範的(normative)な側面と呼ばれる。(この側面の検討は次章の課題である。) この意味において、言語ゲームは、また、規範的な事態とも重なり合っているのである。 このように、ハイエクの自生的秩序論と、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、家族的類似と言い得る程度にも親しい関係にある。 ハイエクとウィトゲンシュタインは、その思想圏における最も中心的な領域を、ほとんど同じくしているのである。 しかし、ハイエクとウィトゲンシュタインの思想圏は、必ずしも完全に重なり合っている訳ではない。 彼らの思想圏は、その周辺的な領域において、かなりのずれを見せている。 わけても、このずれは、ハイエクの、進化への傾斜において著しい。 ハイエクによれば、自生的秩序としての社会を形成するルールは、変化する環境への適応や、他のルールの形成する(自生的秩序としての)社会との競合やを通じて、淘汰され選択される。 すなわち、ルールは、それが形成する(自生的秩序としての)社会に、勝利と繁栄をもたらすか否かによって、淘汰され選択されるのである。 ハイエクは、このような淘汰と選択を経て、ルールとそれが形成する(自生的秩序としての)社会が、進化し発展すると主張する。 ルールを遺伝子に置き換え、(自生的秩序としての)社会をそれによって形成される生命体に置き換えれば、この主張は、生命進化論とほとんど異ならない。 ハイエクの社会進化論とは、およそこのようなものである。 しかし、社会進化論を主張するからといって、ハイエクは、社会を意図的に進化させ得ると考えている訳では些かもない。 あるルールに従うことが、その社会にいかなる帰結をもたらすかは、自生的秩序としての社会においては原理的に不可知である。 すなわち、あるルールが、社会にとって何の役に立つかは、事前には知り得ないのである。 従って、あるルールに従うことが、社会に成功をもたらすか否かは、そのルールを暗黙的に遂行した結果として始めて知られ得ることになる。 言い換えれば、ルールは、それに従う社会が成功することによってはじめて、その進化論的な優位を証明し得るのであって、進化論的な優位が予知されることによって、それに従う社会が成功する訳ではないのである。 それゆえに、あるルールの採否を、それが社会にもたらす得失の予測に基づいて決定するといった、(たとえばルール功利主義のような)意図的な社会進化の試みは、不可避的に失敗するのである。 もっとも、ハイエクは、ある特定のルールを意図的に改良する可能性までも否定する訳ではない。 ある特定のルールに限るのであれば、それを対象として意識的に言及したり、意図的に改良したりすることは、もちろん可能である。 むしろ、何が従うべきルールであるのかをめぐって紛争が生じた場合など、遂行的に従われているルールを意識的に分節し、その不確定な部分を確定すべく、新しいルールを意図的に設定すべきでさえある。 しかし、このような分節や設定やが可能なのは、あくまで、ある特定のルールについてのみであって、決して、ルールの全体についてではあり得ない。 ルールを分節し設定する行為もまた、何等かのルールに従っているのであって、分節あるいは設定行為自体の従うルールを、当の行為者自身が分節しあるいは設定することは不可能だからである。 (あるいは、そのようなルールの分節/設定は、また別のルールに従っているのであって、いずれにせよ、すべてのルールを分節/設定し尽くすことは不可能なのである。) 言い換えれば、ある特定のルールを意識的に分節し意図的に設定する行為は、その他の総てのルールを暗黙的、遂行的に前提して始めて可能になるのである。 すなわち、ルールのあらゆる改良は、遂行的に従われているルールの全体を、無批判的に受け容れることによって始めて可能になるのである。 さらに、ルールの改良は、それが(自生的秩序としての)社会にいかなる帰結をもたらすかを予測しつつ為されるものでは、決してあり得ない。 そんなことが不可能であることは、既に述べた通りである。 ここで言うルールの改良とは、何が従うべきルールであるかを巡って紛争が生じた場合に、そのような紛争を解決すべく、ルールの不確定な部分を確定するということ以上のものではない。 このようなルールの境界確定において考慮されるのは、それが社会全体にもたらすであろう便益の予測ではなく、たとえばそれが現行のルールの総体と整合するか否かといった原理である。 すなわち、ルールの改良において考慮されるのは、その社会的な帰結ではあり得ず、その内在的な整合なのである。 なるほど、その社会的な効果に配慮しつつ、ルールを改定することもあるには違いない。 しかし、そのルールがいかなる意図によって設定されたかということと、果たしてそれがいかなる自生的秩序を形成するのかということは、(自生的秩序は意図的には構成し得ないのであるから)実は全く無関係なのであって、むしろ、その設定の意図が忘却されることによって始めて、ルールは安定した自生的秩序を形成し得るとも言い得るのである。 従って、ルールの改良は、遂行的に前提されているルールの総体との、内在的な整合性のみを考慮しつつ、言わば(社会的な)結果を顧みずに為されざるを得ないのである。 これが、ハイエクの言う、ルールの意図的な改良における整合性(coherency)の原理に外ならない。 ◆2.外的視点 - ハート - 人間の行為の集合に秩序(order)が存在するということは、そこに何等かの規則性(regularity)、構造(structure)、型(pattern)といったものが見い出されることに外ならない。 同様に、人間の行為の集合がルールに従っているということも、差し当たり、そこに何等かの規則性が見い出されることを意味している。 すなわち、行為の集合にルールが存在するということは、差し当たり、行為が整然と規則正しく(regularly)遂行されていることに外ならないのである。 ハートの言うルールもまた、差し当たり、行為が規則性を持って遂行されている事態として捉え得る。 ハートによれば、ある人間の集団がルールに従っているという事態は、その集団の外部に立って観察するならば、そこでは行為が規則性を持って遂行されているという事態として見えて来る筈である。 言い換えれば、あるルールが存在するということは、そのルールには従っていない外部の視点から見るならば、そこで遂行されている行為に、何等かの規則性が観察されるということ以外の何ものでもないのである。 このように、ルールの存在を、そこにおける行為の規則性として観察する、外部からの観察者の視点を、ハートは、外的視点(external point of view)と呼んでいる。 すなわち、外的視点とは、観察の対象となるルールには従わない、あるいは、そのルールの形成する社会的秩序には内属しない、いわば異邦人の視点なのである。 このような異邦人の視点(外的視点)から見た、ルールの、行為における規則性の存在として観察される側面を、ハートは、ルールの外的側面(external aspect)と呼ぶ。 従って、ルールが、単なる行為の観察可能な規則性に見えることがあるとすれば、それは、外的視点に立って、その外的側面のみを見ている場合なのである。 あるルールの形成する秩序に内属しない外的視点、あるいは、そのような外的視点から観察される、ルールの外的側面という概念を立てるからには、ルールの形成する秩序に内属する内的視点、あるいは、そのような内的視点から把握される、ルールの内的側面という概念もまた反射的に立てられよう。 ハートは、あるルールに従っている人々の視点、すなわち、そのルールを根拠あるいは理由として、自らの行為の当否を判定している人々の視点を、そのルールについての内的視点(internal point of view)と呼んでいる。 この内的視点から見るならば、ルールは、単に行為の規則性を持った遂行として観察されるのではなく、自らの行為の妥当性を理由付ける(根拠付ける)規範として把握されることになる。 このように規範として把握されるルールの側面こそが、ルールの内的側面(internal aspect)に外ならない。 しかし、ルールについての内的視点、あるいは、ルールの内的側面の検討は、次章の課題である。 本章では、ルールについての外的視点、あるいは、ルールの外的側面の検討に、議論を限定したい。 ルールわけても法的なルールについての客観主義的理論を論駁するに際しては、ルールについての外的視点に立つことが、最も効果的であると思われるからである。 ところで、あるルールについて、その外的視点に立つことは、そのルールを自らの従うべき規範とは見なさずに、そのルールの形成する秩序の外側に身を置いて、そのルールを観察する、言わば異邦人の立場を取ることである。 この異邦人の視点からは、ルールは、繰り返し観察される行為の規則性、あるいは単なる習慣と見なされるに過ぎない。 しかし、このような視点に立つことによって、あるルールに従っている人々の行為を、かなりの蓋然性を持って予測することが可能になる。 すなわち、行為における規則性の認識は、たとえば、ある条件の下では、いかなる行為が遂行され易いか、さらには、ある行為の遂行は、どの程度の(敵対的な)反作用を被るかといった予測を、かなりの精度において可能にするのである。 ここに、ルールわけても法的ルールについての客観主義的な理論の可能性を見い出す向きも、あるいはあるかも知れない。 しかし、ある特定のルールに対して外的視点を取る観察者は、如何なるルールにも内属しないという訳ではない。 観察もまた一つの行為である以上、如何なるルールについての内的視点も取らない、すなわち、あらゆるルールに対して外的視点を取る観察者など、決して存在し得ないのである。 従って、何等かの予測が可能になるのは、ある特定のルールに従う行為(とその行為に帰責可能な範囲の帰結)についてのみであって、任意のルールに従う総ての行為(さらにはその社会全体に対する帰結)についてでは、全くあり得ないのである。 そのうえ、ルール一般とは区別される、法的ルールにおいては、人々の行為の当否を判定する根拠となるルール(一次ルール)に対して、意識的に外的視点を取ることによって、そのルールを変更したり、解釈したり、あるいは(ルールそれ自体の妥当性を)承認したりする行為が本質的に重要となる。 しかし、それらの行為もまた、何等かのルール(二次ルール)に遂行的に従っているのであって、自らの従っているルールについては、内的視点以外取り得ようもないのである。 いずれにせよ、あるルールに対して外的視点に立ついかなる者も、何等かのルールに従った内的視点に立たざるを得ないのである。 ハートは、人々の行為の当否を判定する理由となるルールそれ自体を対象として、それに変更を加えたり、それに基づいて裁定を下したり、さらには、それがルールとして妥当することに承認を与えたりする行為と、そのような行為自身の従うルールの存在が、法あるいは法体系の概念を定式化するに当たって、不可欠の要件であると考えている。 すなわち、ハートは、通常の行為の従うルールを一次ルール(primary rule)と呼び、一次ルールを対象とする変更や裁定や承認やの行為の従うルールを二次ルール(secondary rule)と呼んで、法(体系)とは、一次ルールと二次ルールとの結合であると定式化する。 法わけても一次ルールは、変更や裁定や承認やという意図的な行為の対象になることを、その本質としているという訳である。 しかし、法体系を構成する二次ルールは、(変更や裁定や承認やという)意図的な行為の対象とは、ついになり得ない。 このことを、二次ルールの内でも際立って重要な位置を占めている、承認という行為の従うルール、すなわち、ハートの言う、承認のルール(rule of recognition)について見てみよう。 あるルールを承認するとは、そのルールが人々によって従われるべきであると判定する、言い換えれば、そのルールがルールとして妥当(valid)であると評価することに外ならない。 従って、承認のルールは、何が妥当な(一次)ルールであるかを評価する規準を与えることになる。 すなわち、(一次)ルールは、承認のルールの与える規準を充たすことによって始めて、ルールとして妥当し得るのである。 言い換えれば、承認のルールは、(一次)ルールを妥当させる根拠となっているのである。 それでは、承認のルールそれ自体は、如何なる根拠によって、妥当し得るのであろうか。 容易に確かめられるように、この問いに答えることは、どこかで断念されざるを得ない。 すなわち、あるルールの妥当性を、他のルールの与える規準によって評価しようとする試みは、どこかで断念されない限り、無限後退に陥るのである。 ハートは、その妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在しない、従って、その妥当性を全く評価し得ない承認のルールを、究極の(ultimate)承認のルールと呼ぶ。 すなわち、究極の承認のルールとは、それ自体の妥当性を承認する根拠は決して持ち得ないが、その法体系に属する如何なるルールの妥当性をも承認する(究極的な)根拠となり得るルールなのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないルールなのである。 それでは、このような究極の承認のルールは、何故に、その他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールは、自らを妥当させる如何なる根拠も持ち得ないという意味において、まさしく無根拠である。 このように自らは無根拠な究極の承認のルールが、如何にして、他のルールを妥当させる根拠となり得るのであろうか。 究極の承認のルールといえども、ルールである以上、その外的側面を持っている筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、その外的視点(承認の視点ではなく、単なる観察の視点)から見るならば、繰り返し遂行される行為の規則性、あるいは慣習(practice)以外の何ものでもないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、その法体系に属するルールの妥当性を承認する行為において、繰り返し示される規則性、あるいは習慣的に遂行される慣習として捉え得る側面を持っているのである。 この、究極の承認のルールの、慣習(practice)としての側面、すなわち遂行的(performative)な事態としての側面こそが、その(法体系に属する)他のルールを妥当させる根拠としての側面、すなわち規範的(normative)な事態としての側面と、表裏一体をなしているのである。 あらゆる法体系には、それに属するルールが、ルールとして妥当するか否かを決定し得る、承認(recognition)という行為が必ず存在している。 自らに属する一切のルールの当否を決定し得て始めて、一個の法体系と呼び得るという訳である。 この承認という行為が、繰り返し遂行されることの内に、何がルールとして妥当し得るかを決定する規準、すなわち承認のルールが示されるのである。 言い換えれば、承認という行為は、その持続的な遂行を通じて、何等かのルールを、自らの従うべきルールとして、受容していることを示すのである。 このことは、究極の承認のルールが、その外的視点から見るならば、承認という行為の持続的な遂行に外ならないにもかかわらず、承認という行為を遂行する側、すなわちその内的視点から見るならば、他のルールを妥当させる根拠として、自らが従うべき規範でもあり得る事態を指し示している。 すなわち、究極の承認のルールは、承認という行為の持続的な遂行であると同時に、その同じ事態が、他のルールの妥当性を根拠付け得る、(承認という行為の当否を判定し得る)規範ともなっているのである。 従って、究極の承認のルールが、その法体系に属する他の総てのルールの妥当性を根拠付け得るのは、それが、承認という行為の持続的な遂行の内に、繰り返し示されているからに外ならないことになる。 言い換えれば、究極の承認のルールが、他のルールの当否を決定し得る規範たるにおいては、それに従う行為が持続的に遂行されていること以外の、いかなる根拠もあり得ないのである。 究極の承認のルールは、その内的視点から見れば、他のルールを妥当させる根拠となる規範であるが、その外的視点から見れば、承認という行為の持続的な遂行であるという二つの側面を持つ、一個の事態に外ならない。 究極の承認のルールは、その持続的な遂行において始めて、他のルールの妥当根拠たり得るのである。 これに対して、承認のルールを含む二次ルールと対比される、一次ルールは、それが(通常の)行為の当否を判定する根拠となるに当たって、その持続的な遂行を必ずしも前提とされる訳ではない。 一次ルールが、行為の当否を判定する根拠たり得る、言い換えれば、ルールとして妥当し得るのは、それが、持続的に遂行されているからではなく、承認という行為によって意識的に承認されているからなのである。 すなわち、一次ルールは、たとえ、かつて一度も遂行されたことが無いとしても、承認されている限り、行為の自らに従うべきことを正当化し得るのである。 しかし、このように、承認という意図的な行為によって正当化し得るルールは、一次ルールと二次ルールの結合としての法体系における、一次ルール以外にはあり得ない。 一般のルールは、その妥当性を、如何なる(意図的な)行為によっても、根拠付け得ないのである。 この意味において、一般のルールは、究極の承認のルールとその位相を同じくしている。 あるいは、むしろ究極の承認のルールこそが、法体系に属するルールの内で(究極的であるがゆえに)唯一その外部に開かれているという意味において、一般のルールと同相なのである。 一般のルールと、究極の承認のルールとの違いは、前者が、(一般の)行為の当否を判定する根拠となっているのに対して、後者が、(一次)ルールの当否を判定する根拠となっているという点のみにある。 いずれのルールも、その持続的な遂行によって始めて、当否判定の根拠たり得るという点においては、いささかの違いもないのである。 従って、究極の承認のルールについて、これまでに述べてきた議論は、一般のあらゆるルールについても、ほとんどそのままの形で成立し得ることになる。 すなわち、法体系として構成される以前の法的ルールはもとより、社交や言語や技能や儀礼や流行や道徳や慣習や伝統やといった、あらゆるルールに対して、究極の承認のルールをめぐるハートの理論は、適切な議論となり得るのである。 加えて、ハートは、究極の承認のルールが、従ってまた(二次ルールの対象としての一次ルールを含まない)一般のルールも、語り得ぬ、ただ示されるのみの事態であることを強調している。 すなわち、ハートは、究極の承認のルール、さらには一般のルールが、慣習(practice)という遂行的な事態であるとともに、言明し得ぬ暗黙的な事態でもあると主張するのである。 究極の承認のルールは、承認という行為の習慣的な遂行を通じて、経験的(遂行的)に従われているのであって、対象として言及されることによって、意識的に従われている訳ではない。 すなわち、究極の承認のルールには、それを客観的な対象として言及し、その上で、それを従うべきルールとして意識的に受容する、いかなる手続きも存在し得ないのである。 これは、究極の承認のルールが究極的であることの、ほとんど自明な帰結である。(因みに、究極の承認のルールは、承認という意図的な行為の対象とは、ついになり得ないのであった。) 従って、究極の承認のルールは、遂行的に従われていることによって、暗黙的に受け容れられているのである。 言い換えれば、究極の承認のルールは、遂行的な事態であるがゆえに、暗黙的な事態ともなっているのである。 このような遂行的かつ暗黙的な事態としての究極の承認のルールが、いずれかの主体による意図的な制御の対象となり得ないことは、言うまでもなかろう。 究極の承認のルールを、意図的に設定したり変更したり廃棄したりする試みは、不可避的に失敗するのである。 (もっとも、究極の承認のルールといえども、部分的には、意図的な制御の対象となり得る場合のあることを、ハートは指摘している。これは、ハイエクの言う、整合性の原理が適用される場合と、ほとんど同じである。しかし、この場合についての検討は、次章に委ねたい。) 従って、究極の承認のルールは、それが遂行的に示されている行為の変化に伴って、変化することになる。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の習慣的な遂行の(意図せざる)結果として、生成し、また消滅するのである。 ところで、究極の承認のルールについて、その外的視点に立つ観察者が、それを対象として言及することは、もちろん可能である。 もし、このことが不可能であるならば、そもそも、社会哲学など存立し得る筈もない。 しかし、そうであるからと言って、究極の承認のルールが暗黙的であることに、些かの変りもない。 差し当たり、外的視点に立つ観察者といえども何等かのルールに従わざるを得ないという問題は措くとしても、究極の承認のルールは暗黙的なのである。 何故ならば、観測者が、究極の承認のルールを、いかに正確に分節し得たとしても、観察者の分節という行為によっては、究極の承認のルールの従われるべきことは、少しも正当化され得ないからである。 すなわち、観察者の行為は、あくまで観察に過ぎないのであって、その対象となるルールの妥当性を根拠付け得る(承認の)行為とは、決してなり得ない。 従って、そのルールが観察者によって如何に正確に言明され得たとしても、自らがそのルールに従うべき根拠は、少しも対象として意識され得ないのである。 言い換えれば、あるルールに遂行的に従っている行為者にとっては、観察者がそのルールを分節し得るか否かに拘わらず、そのルールを暗黙的に受け容れさるを得ないのである。 それゆえに、その外的視点にたつ観察者が、たとえ、何等かのルールを対象として分節し得たとしても、その内的視点に立つ行為者にとっては、そのルールに従うことは、依然として暗黙的な事態なのである。 ◆3.発語的行為 - オースティン - 言葉は、つまるところ、何等かの事実を記述している。 あるいは、言葉の意味は、それが記述する対象である、さらには、言葉は、それが記述する事実の存否によって、その真偽を確定しうる、あるいは、言葉は、その真偽の確定し得る場合にのみ、有意味である、といった記述主義の言語観を、オースティンは批判する。 オースティンの用語系によれば、記述主義とは、差し当たり、言葉を発すること、すなわち発言(発話)の総ては、事実を記述し、真偽を確定し得る、事実確認的(constattive)発言に還元されるか、さもなくば、ナンセンスに帰着するという主張に外ならない。 しかし、あらゆる発言を、事実確認的発言に還元し尽くすことは、果たして可能なのだろうか。 たとえば、何等かの権能に基づいて指図する場合の指図や、あるいは、何等かの判定理由を明らかにして審判する場合の審判の発言や、さらには、何等かの行為の履歴を約束する場合の約束の発言やは、事実を記述している訳でもないし、また、その真偽が問題となっている訳でもない。 しかし、これらの発言が、社会生活において、極めて重要な種類の発言であることは論を俟たない。 財産権や人格権の行使や、契約や、あるいは、それらを巡る裁判やは、社会生活の根幹を成している。 記述主義は、このような指図や審判や約束やの発言を、その焦点から外してしまっているのである。 (もちろん、記述主義が、これらの発言に、何の位置付けも与えていない訳ではない。前章で述べたように、記述主義から見れば、これらの発言は、主観的な意図の表出に外ならないことになる。しかし、この点についての検討は、次章の課題である。) 指図や審判や約束やの発言は、その発言を遂行することそれ自体が、指図や審判や約束やといった、社会的行為そのものを遂行することになる種類の発言である。 たとえば、「~を約束します」と発言することは、取りも直さず、約束という社会的行為を遂行することに外ならない。 すなわち、これらの発言においては、言うことが、行うこととなっているのである。 このように、発言することが、(発言という行為とは区別される)社会的行為を遂行することになる種類の発言を、オースティンは、差し当たり、行為遂行的(performative)発言と呼ぶ。 事実確認的発言に焦点を合わせている記述主義は、この行為遂行的発言を捕捉し得ないのである。 行為遂行的発言は、もとより、事実を記述している訳ではなく、従って、その真偽も確定し得ない。 行為遂行的発言は、真偽いずれでもないのである。 しかし、行為遂行的発言であれば、いかなるものでも、社会的行為として効力を発揮するという訳でもない。 たとえば、指図する権限のない者による指図や、判定理由を示し得ない審判は無効であり、約束された行為が履行されない約束は不実である。 すなわち、行為遂行的発言は、何等かの条件を充たすことによって始めて、社会的行為としての効力を獲得するのである。 オースティンは、この、行為遂行的発言を社会的行為として発効させる条件を、行為遂行的発言の適切性(felicity)の条件あるいはルールと呼んでいる。 従って、行為遂行的発言は、それを発効させるルールを根拠として、適切あるいは不適切のいずれかに判定されるのである。 しかし、いかなる行為遂行的発言が適切であるかを決定するルールの検討は、次章に委ねられる。 ここでは、事実確認的発言と対比される意味での行為遂行的発言の検討に議論を限定したい。 行為遂行的発言の概念こそが、記述主義の批判に対して、最も有力な手掛かりを与え得るからである。 この行為遂行的発言の概念と、言語行為(speech act)の一般理論との関係は、オースティン本人においても、かなり微妙である。 もちろん、行為遂行的発言の発見なしには、言語行為の一般理論が構想され得なかったであろうことは言うまでもない。 しかし、言語行為の一般理論が構成されるに及んで、行為遂行的発言の概念が後景に退けられたこともまた明らかである。 行為遂行的発言と言語行為とは、果たして、如何なる関係に置かれているのであろうか。 前章で述べたように、オースティンによれば、言葉を発すること、すなわち発言(発話、発語)することは、以下の三種の行為を同時に遂行することに外ならない。 言い換えれば、言うことは、以下の三種の位相において、行うことなのである。 その第一は、発語という行為それ自体が、何等かの事態を意味する、すなわち何等かの事態を指示する行為に外ならないという発語行為(簡単のために、ここでは、音声行為および用語行為を捨象して、発語行為を意味行為あるいは指示行為に限定している)の位相であり、 第二は、発語することが、何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別される)行為を遂行することになるという発語内行為の位相であり、 第三は、発語することを手段として、発語主体の意図する、何等かの結果を達成することが目指されるという発語媒介行為(ここでは、発語主体の意図せざる結果を捨象している)の位相である。 オースティンは、以上の三種の行為を総称して、言語行為と呼んでいる。 すなわち、言語を発話することは、以上の三種の位相において、行為を遂行することなのである。 行為遂行的発言と発語内行為、さらには、事実確認的発言と発語行為が密接に関連していることは一見して明らかであろう。 しかし、両者は同じものではあり得ない。 何故なら、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別は、ある一つの発言をいずれかのカテゴリーに分類するための区別であるのに対して、発語内行為と発語行為との区別は、ある一つの発言を幾つかの(行為の)位相に分解するための区別だからである。 すなわち、ある一つの発言が、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言のいずれに分類されたとしても、その発言には、発語内行為および発語行為(さらには発語媒介行為)の位相が常に存在し得るのである。 従って、行為遂行的発言も、発語行為の位相を持つという意味において、何等かの事実を指し示していることになるし、また、事実確認的発言も発語内行為の位相を持つという意味において、何等かの行為を遂行していることになる。 このような、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為あるいは発語行為との関係を、つぶさに検討することによって、記述主義を乗り越える言語行為論の射程が、詳(つまび)らかにされるのである。 ところで、何等かの社会的効果を帰結する点においては共通している、発語内行為と発語媒介行為との相違は、前章で述べたように、発語内行為の効力が、そのような効力を発生させる根拠となる、何等かの慣習によって支えられているのに対して、発語媒介行為の結果は、そのような慣習に支えられなくとも達成され得るという点にある。 言い換えれば、発語内行為は、慣習に従う限りにおいて、その社会的な効力を発揮し得る言語行為の位相であるのに対して、発語媒介行為は、慣習に従うか否かに拘わらず、その(発語主体の意図する)社会的な結果を達成し得る言語行為の位相なのである。 ここに言う慣習が、すでに述べた、行為遂行的発言にちての適切性のルールと同じものであることは、確認されねばならない。 すなわち、発語内行為の効力の存否を判定する根拠は、(行為遂行的発言についての)適切性のルールなのである。 従って、発語媒介行為は、発語行為のように、それが指示する事実に基づいて、その真偽を判定し得る訳ではなく、また、発語内行為のようにそれが従うルールに基づいて、その当否(適切・不適切)を判定し得る訳でもない、言語行為の第三の位相ということになる。(実は、発語媒介行為は、それが達成しようとする発語主体の意図に基づいて、その成否を判定し得るのであるが、この点についてはここでは触れない。) しかし、発語内行為の当否を判定し、また、発語内行為と発語媒介行為とを区別する、慣習あるいは適切性のルールについての検討は、次章の課題である。 ここでは、発語内行為と行為遂行的発言との関連、および、発語内行為と発語行為との区別に議論を限定したい。 それでは、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為および発語行為とは、いかなる関係に置かれているのであろうか。 まず、事実確認的発言は、言うまでもなく、事実を記述し、その真偽を、それが記述する事実の存否に基づいて判定し得る種類の発言なのであるから、紛れもなく、発語行為の位相を保有している。 このような事実確認的発言は、果たして、発語内行為の位相をも保有しているのであろうか。 たとえば、「現在のフランス国王は禿である。」という発言を考えてみよう。 この発言は、典型的な記述命題であって、明らかに事実確認的発言である。 しかし、現在のフランスに国王など存在しないのであるから、その国王が禿であるか否か、言い換えれば、この発言の真偽を、事実に基づいて判定することは不可能である。 それでは、この発言は、無意味であろうか。 否である。 この発言の指示する対象は(それが事実として存在しているか否かに拘わらず)明瞭である。 この発言が奇異な感じを与えるのは、それが無意味だからではなく、むしろ、事実として存在していない対象についての記述命題が、発言として不適切だからである。 すなわち、記述命題という事実確認的発言は、それが術定する対象(ここでは現在のフランス国王)が、事実として存在し得るという条件を充たすことによって始めて、有効あるいは適切な発言として遂行されるのである。 これは、たとえば指図という行為遂行的発言が、指図する権能が存在するという条件を充たすことによって始めて、社会的な効力を有する適切な発言として遂行されるという場合に類似している。 言い換えれば、事実確認的発言と言えども、その真偽が問題とされる以前に、事実確認あるいは記述という社会的行為を遂行する発言として、有効/適切であるか否かが問題とされるのである。 従って、事実確認的発言においても、行為遂行的発言と同様に、その発言が、社会的な効力を持つか否か、あるいは、適切であるか否かが問われる位相が存在することになる。 すなわち、事実確認的発言にも、発語内行為の位相が、確かに存在するのである。 また、「現在のフランス国王は禿である。」という発言は、「禿でないならば現在のフランス国王ではない。」という発言を論理的に帰結する。 従って、ひとたび前者の発言を遂行したならば、後者の発言を拒否することは、論理のルールに違反することになる。 これは、ある行為の履行を約束する発言を遂行したならば、その行為を履行しないことは、約束のルールに違反することになる場合に類似している。 すなわち、いずれの場合においても、ある発言の遂行が、何等かの行為の遂行を義務付け、その行為の遂行を拒否した場合、何等かのルール違反に問われるのである。 言い換えれば、約束と言う行為遂行的発言が、その目的あるいは帰結としての行為の履行されなかった場合に、不誠実あるいは不適切(ルール違反)になるのと同様に、記述という事実確認的発言もまた、その(論理的な)帰結としての行為の履行されなかった場合、不適切(ルール違反)になるのである。 従って、ここでもまた、事実確認的発言は、その真偽を問われる以前に、社会的行為を遂行する発言として、適切であるか否かを問われることになる。 すなわち、事実確認的発言には、発語内行為の位相が、確かに存在しているのである。 続いて、行為遂行的発言を取り上げよう。 行為遂行的発言に、発語内行為の位相が存在していることは、言うまでもなかろう。 それでは、行為遂行的発言に、果たして、発語行為の位相は存在するのであろうか。 たとえば、判決という行為遂行的発言を考えてみよう。 判決という発言は、言うまでもなく、ある行為の当否を、潜在的には明示し得る判定理由に基づいて判定するという社会的行為の遂行である。 通常の場合、この判決理由は、あるカテゴリーに属する行為の当否を規定している一般ルールと、問題となっている行為がそのカテゴリーに属するか否かについての判断から構成されている。 すなわち、当該行為は、ある一般的なルールの違反に該当する故に、妥当ではないと判決するといった具合である。 このとき、問題となっている行為が、一般的なルールに違反するカテゴリーの行為に該当するか否かについての判断は、記述命題の真偽についての判断と極めて類似している。 いずれの判断も、それが指示する事実に基づいて、その分類が決定されるからである。 因みに、前者の判断は、後者の判断と同じく、事前判断と呼ばれることも多い。 従って、判決という行為遂行的発言は、その社会的な効力を根拠付ける判定理由の核心において、事実確認的発言あるいは発語行為を常に前提せざるを得ないのである。 また、判決という行為遂行的発言は、たとえば、「甲は乙に損害賠償を支払うべし。」といった当為命題であることが多い。 このような当為命題は、「甲は乙に損害賠償を支払う。」という記述的あるいは指示的(phrastic)と、「~すべし」という指図的あるいは承認的部分(neustic)とに分解することが常に可能である。 ここで言う記述的あるいは指示的部分が、発語行為の位相を持っていることは明らかであろう。 すなわち、当為命題という行為遂行的発言は、その記述的あるいは指示的部分が常に存在するが故に、発語行為の位相を必ず内包しているのである。 行為遂行的発言における発語行為の位相の存在についてのこのような説明は、オースティン本人のそれと言うよりも、むしろ、ヘアあるいはサールによるものである。 他の点はいざ知らず、この点に関しては、ヘアあるいはサールの議論は、オースティンの言語行為論の理解にとって、極めて有効な視座を提供していると思われる。 行為遂行的発言を、記述的あるいは指示的部分という発語行為の意味を指定する核心部分と、指図的あるいは承認的部分という発語内行為の効力を指定する境界部分に分解して理解することは、ある一つの言語行為には、常に三種類の(行為の)位相が存在していると考える、言語行為論の着眼を、より明晰な分析枠組みに高めるものである。 記述主義は、このような分析枠組みの獲得によって、ようやく乗り越えられることになるのである。 これまで述べてきたように、事実確認的発言もあるいは行為遂行的発言も、発語内行為および発語行為の位相を同時に保有していることが明らかになった。 従って、事実確認的発言と行為遂行的発言との区別は、実は相対的なものであって、むしろ、両者は、発語行為の位相をその核心部分に持ち、各々に種類の異なる発語内行為の位相をその境界部分に持つ、一連の言語行為の二つの種類であると考えられるのである。 言い換えれば、事実確認的発言は、記述(言明解説)という発語内行為を遂行する言語行為なのであり、行為遂行的発言は、指図(権能行使)や判決(判定宣告)や約束(行為拘束)やという発語内行為を遂行する言語行為なのであって、また、いずれも、何等かの事態を指示する部分として発語行為を内包する言語行為なのである。 このような言語行為論の視点から見れば、記述行為は、言語行為という多元的な現実を、その記述的あるいは指示的な部分のみに一元化して把握しようとする、対象指示一元論あるいは意味行為一元論であることが明らかになる。 記述主義は、言語行為の唯一つの位相しか捉えていないのである。 しかし、我々の言語の現実の在り方である言語行為は、対象指示に還元し尽くされる筈もない。 如何なる対象指示と言えども、発語内行為の種類が指定されることによって始めて、言語行為、すなわち、発話として社会的に発効するのである。 従って、記述の発話と言えども、それが社会的な効力を有する適切な発話であるためには、何等かのルールに従っていなければならないことになる。 しかし、言語行為の従うルールについての検討は、次章の課題である。 ▼第四章 規範の文脈 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.規範的秩序 - ハイエク - あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。 多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。 しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。 あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。 ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。 すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。 ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。 言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。 従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。 すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。 この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。 ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。 抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。 言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。 従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。 しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。 ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。 前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。 すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。 ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。 行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。 しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。 ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。 さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。 すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。 ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。 自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。 従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。 すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。 言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。 このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。 あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。 すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。 この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。 しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。 従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。 たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。 すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。 それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。 それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。 すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。 このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。 何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。 すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。 主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。 すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。 言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。 従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。 しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。 ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。 すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。 言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。 このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。 言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。 ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。 すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。 従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。 今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。 この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。 すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。 この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。 何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。 それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。 すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。 あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。 すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。 このような疑いには、充分な根拠がある。 何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。 たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。 このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。 すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。 従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。 このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。 すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。 従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。 すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。 しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。 すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。 言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。 従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。 すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。 言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。 以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。 言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。 ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。 すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。 従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。 しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。 ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。 なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。 しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。 何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。 従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。 言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。 あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。 すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。 いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。 自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。 ◆2.内的視点 - ハート - ルールが存在するということは、取りも直さず、行為に何等かの秩序あるいは規則性が見い出されるということに外ならなかった。 前章で述べたように、ハートは、この、行為に何等かの規則性を見い出す視点を、ルールに対する外的視点と呼んだのであった。 また、ハートは、ルールの、行為に規則性が存在する事態として捉えられる側面を、その外的側面と呼んだのであった。 しかし、ハートによれば、ルールがルールとして存在し得るためには、行為に規則性が見い出される以外に、ルールが行為の当否を判定する根拠あるいは理由として、(行為主体に)受け容れられておらねばならないのである。 言い換えれば、ハートの言うルールは、その外的側面が観察される以外に、行為の妥当性を評価する規準となる、その内的側面が確認されて始めて、ルールとして存在し得るのである。 ルールは、そのルールには従わない、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームには内属しない外的視点によって、行為に規則性が存在する事実として観察されるその外的側面と、そのルールに従う、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームに内属する内的視点によって、行為の妥当性を判定する当為として受容されるその内的側面と言う、二つの側面が合わさって始めてルールと呼び得る。 すなわち、ハートによるルールの概念は、ルールの事実として従われていることが観察されることのみならず、ルールの当為として従われるべきことが受容されていることをも、その構成要件とするのである。 この、事実としてのルール、すなわち、ルールの外的側面と、当為としてのルール、すなわち、ルールの内的側面とは、いずれか一方から他方が導き出されるといった関係にはなく、ルールという一つの事態を、外的/内的という二つの視点から見ることによって現れた、その二つの側面なのである。 従って、その外的視点から見るならば、ルールは、それが従われているという単なる事実に過ぎず、従うべき当為では些かもあり得ないのに対して、その内的視点から見るならば、それは、自らの従うべき当為なのであって、それが事実として従われているか否かは、規範逸脱の事実認定においてのみ問題とされるのである。 いずれにせよ、ルールが、行為の当否を判定する根拠あるいは理由となり得るのは、その内的視点から見た場合なのである。 ところで、行為の妥当性を判定する根拠となる内的側面を持つ、ルールそれ自体の妥当性は、いかなる根拠によって正当化されるのであろうか。 法的ルールの場合、前章で述べたように、あらゆる法体系には、それに属する総てのルールの妥当性を根拠付け得る承認のルールが、常に存在しているというのが、この問いに対するハートの答えであった。 すなわち、法体系を構成する(一次)ルールは、承認の(二次)ルールによって、その妥当性を理由付け得るのである。 しかし、ルールの妥当性の、このような正当化の方法は、無限後退に陥らない限り、どこかで断念されざるを得ない。 言い換えれば、無限後退を避けるためには、他のあらゆるルールを正当化し得るが、自らは如何なるルールによっても正当化され得ない承認のルールが、どこかで要請されざるを得ないのである。 前章で述べたように、ハートは、このような承認のルールを、究極の承認のルールと呼んだのであった。 すなわち、究極の承認のルールは、そのルールの妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在し得ないという意味において、究極的なのである。 究極の承認のルール、あるいは、法体系には属さない一般のルールは、その妥当性を判定し得る如何なる根拠も持ち得ない。 言い換えれば、このようなルールは、それ自体を対象として規範的に評価し得る、如何なる内的視点をも持ち得ないのである。 従って、このようなルールそれ自体を対象とし得るのは、それが遂行的に存在しているという事態を認識し得る、その外的視点以外にはあり得ない。 すなわち、このようなルールは、(それ自体を対象として見れば)ただ事実として遂行されているという事態以外ではあり得ないのである。 しかし、このようなルールの規範性と遂行性との関係については、前章に詳しく検討したので、ここでは触れない。 むしろ、本節では、ルールわけても究極の承認のルールに従う内的視点の存在が、ハートの批判する法の主権者意志説に対して、果たして如何なる含意を持ち得るのかを問題としたい。 あらゆる法は、主権者の意図的に設定したものである、さらに、その論理的な帰結として、そのような主権者は、法的に無制限な主体である、これが法の主権者意志説であった。 これに対して、究極の承認のルールは、あらゆる法に、それが法として妥当するための根拠を与えるルールである。 従って、たとえば、主権者の制定した法は妥当するといったルールもまた、究極の承認のルールであり得る。 因みに、ある法が主権者によって制定されたものであるか否かを、その法の妥当性を判定する究極的な規準とする法体系は、近代国家においてはむしろ通例である。 しかし、この場合、主権者は決して無制限ではあり得ない。 このような法体系においては、主権者は、主権者の設定する法は有効であるという、究極の承認のルールを根拠として始めて、自らの設定する法の妥当性を理由付け得るのであり、さらに、そもそも自らの主権者たり得た根拠それ自体も、主権者たるの要件を規定する、究極の承認のルールを待って始めて与えられるのである。 言い換えれば、主権者は、自らの行為の法的な効力のみならず、自らの存在それ自体をも、究極の承認のルールによって与えられているのである。 すなわち、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者はついに無制限ではあり得ず、究極の承認のルールに従う、その内的視点を取らざるを得ないのである。 あるいは、このことを、主権者によって制定された法が、法として妥当し得るか否かは、究極の承認のルールに依存する、と言い換えてもよい。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的に)発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存しているのである。 この命題は次節に述べる(発語内)行為の文脈依存(context-dependence)性という命題と、全く同型の構造を持っている。 たとえば、主権者の「私は~を法とする」という発話が、法を制定する行為として発効し得る(~を法として妥当せしめる)ためには、立法の権限が主権者にあらかじめ与えられていることや、立法の発話が適切な手続きに従って為されていることなどといった、様々な条件が充たされておらねばならない。 次節では、このような条件を、(発話内)行為の文脈と呼ぶことにするが、究極の承認のルールとは、まさに、この意味における(法の妥当性の承認という)行為の文脈に外ならないのである。 すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的な)行為として発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存している、という事態は、発話という行為が、(社会的な)行為として発効し得るか否かは、その文脈に依存している、という事態(発語内行為の文脈依存性)の、法領域における現れとして捉え得るのである (発語内)行為は、その主観的な意図とは独立に、何等かの文脈が与えられて始めて、自らの社会的な効力を確定し得る。(この命題については次節で詳しく検討する。) 同様に、主権者による法の制定は、その主観的な意図とは独立に、究極の承認のルールが与えられて始めて、自らの法的な効力を確定し得る。 すなわち、主権者の行為の(法的な)効力は、その主観的な意志ではなく、その社会的な文脈に規定され、あるいは、制限されているのである。 従って、究極の承認のルールの存在は、あらゆる法を主権者の意図的に設定したものであると考える、法の主権者意志説を、真っ向から否定することになる。 何故ならば、究極の承認のルールの存在は、法の主権者意志説の論理的帰結である、主権者の法的無制限という事態と、全く両立し得ないからである。 すなわち、法の主権者意志説に従えば、第一章で見たように、主権者の法的無制限を帰結せざるを得ないのであるが、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者は法的に無制限ではあり得ないのであって、その必要条件を否定される法の主権者意志説は、棄却されざるを得ないのである。 言い換えれば、主権者の行為が、究極の承認のルールに依存せざるを得ないとするならば、法を主権者の意志の表出としてのみ捉えることは、もはや不可能となるのである。 また、法の主権者意志説においては、あらゆる法は、究極的には主権者によって意図的に設定されたと考えるのであるから、法が、法として妥当し得る根拠もまた、それが、究極的には主権者によって意図的に設定されたという事実以外にはあり得ない。 すなわち、法の主権者意志説は、法の究極的な制定目的が主権者の意志にあると主張するのみならず、法の究極的な妥当根拠もまた主権者の意志にあると主張するのである。 このような主権者は、いかなる法によっても決して制限され得ず、従って、如何なる法体系の内部においても、その(主権者たる)根拠を持ち得ない存在である。 言い換えれば、このような主権者は、あらゆる法体系の外部にある、いわば超法規的あるいは政治的な存在なのである。 従って、法の主権者意志説は、法の究極的な妥当根拠を、法によっては制限も根拠も与えられ得ない、超法規的あるいは政治的な存在である主権者の意志に、委ねざるを得ないことになる。 これに対して、究極の承認のルールは、言うまでもなく、法の究極的な妥当根拠となる、法的なルールである。 従って、究極の承認のルールが存在しさえすれば、法を究極的に妥当させる、法的に無制限な主権者の存在など、些かも必要とされないことになる。 言い換えれば、たとえ法の主権者意志説を取らないとしても、究極の承認のルールさえ存在するならば、法体系の理解にとって、些かの支障もないのである。 従って、法の主権者意志説は、究極の承認のルールの存在と両立し得ないばかりではなく、それが全くの誤りであるか否かはいざ知らず、究極の承認のルールが存在しさえするならば、少なくとも不必要な議論なのである。 しかし、究極の承認のルールそれ自体は、いかなる法的な根拠も持ち得ない、いわば法体系の外部に開かれているルールであった。 このような究極の承認のルールの存在と、法的な根拠を持ち得ない、言わば超法規的な主権者の存在とは、一体どこが違うというのであろうか。 そもそも、法の妥当し得るか否かを究極的に確定するためには、法によってはついに根拠付け得ない存在が、不可避的に要請されるのではなかったのか。 この問いに答えるためには、主権者の行為は究極の承認のルールに依存している、という命題の成立していることが、まず確認されねばならない。 すなわち、主権者の行為は、その当否を、究極の承認のルールによって始めて決定され得る、という事態である。 それでは、その逆である、究極の承認のルールは、その妥当根拠を、主権者の行為によって始めて付与され得る、という事態は、果たして成立し得るのであろうか。 この問いに対して、もし、究極の承認のルールにその妥当根拠を与え得る主権者の行為があるとするならば、その主権者の行為に妥当根拠を与える究極の承認のルールが存在することになり、究極の承認のルールの究極性に矛盾する、といった答えを与えることも、確かに適切である。 しかし、ここでは、この問題を、別の角度から検討してみたい。 すなわち、この問題を、たとえば、「私(主権者)の制定する法は妥当しない」という法(究極の承認のルール)を私(主権者)は制定する、といった自己言及の問題として捉えるのである。 このように問題を捉えてみるならば、究極の承認のルールが、主権者の、(たとえば法の制定という)行為によってその妥当根拠を与えられる、という主張は、まさに、前節に述べた、自己言及の非決定性を帰結することが明らかとなろう。 従って、前節の議論を援用すれば、究極の承認のルールは、主権者の行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的であることが結論されるのである。 すなわち、究極の承認のルールは、主権者の意図的な行為によっては、その妥当根拠をついに与え得ない、根拠付け不能な事態なのである。 しかし、(承認という)行為の持続的な遂行においてのみ存在し得る、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的な事態でもあることは、既に前章において詳しく見た処である。 むしろ、本章において見るべきは、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、(承認という)行為の法的に発効し得るか否かを決定するという意味において、まさに、規範的な事態でもあることなのである。 すなわち、究極の承認のルールは、行為の社会的(法的)な効力を、その主観的な意図とは独立に決定する、まさしく慣習的な文脈に外ならないのである。 ところで、究極の承認のルールは、人々の行為の当否を判定する根拠となる(一次)ルールそれ自体の、妥当性を判定する根拠となる(二次)ルールであった。 従って、ある行為の当否判定において、その根拠となるルールをめぐる紛争の生じた場合に、究極の承認のルールは、いかなるルールが従われるべきかを決定することのよって、その紛争を常に解決し得ることになる。 たとえば、ある行為の当否について、現行のルールがいかようにも解釈し得る場合、究極の承認のルールは、ある一つの解釈をルールとして妥当させる根拠を与え得るのである。 すなわち、現行のルールに、行為の当否について、何等かの不確定な部分が存在する場合、究極の承認のルールは、その部分を確定することによって、事実上新たなルールを設定する根拠を与え得るのである。 ハートは、ルールがこのように不確定な部分を常に有していることを、ルールの開かれた構造(open texture of rule)と呼んでいる。 従って、究極の承認のルールは、(一次)ルールの開かれた構造を、常に閉じ得る装置であるとも言い得ることになる。 しかし、究極の承認のルールもルールである以上、ルールの開かれた構造の例外ではあり得ない筈である。 すなわち、究極の承認のルールもまた、何等かの不確定な部分を常に有しているのである。 そこでは、究極の承認のルールの不確定な部分は、如何にして確定されるのであろうか。 たとえば、そのような確定が、いずれかの主体によって意図的に遂行されるとしてみよう。 この場合、究極の承認のルールの不確定な部分を確定する行為は、究極の承認のルールの(部分的な)不在という場面において、それを意図的に設定する行為となってはいないか。 言い換えれば、そのような行為の主体は、究極の承認のルールによっては制限され得ない、無制限な主権者と呼び得る存在ではないか。 すなわち、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じるためには、つまりところ無制限な主権者の存在が要請されるのではあいか。 究極の承認のルールの開かれた構造は、このような一連の疑問を当然に生み出すのである。 しかし、究極の承認のルールが、たとえ開かれた構造を持っているとしても、そのことから直ちに、究極の承認のルールそれ自体を設定する、無制限な主権者が要請されるとは限らない。 究極の承認のルールが不確定なのは、あくまでその一部分なのであって、残りの大部分においては、何が妥当なルールであるかの規準は、差し当たり充分に確定しているのである。 ハートは、ルールの不確定な部分を、その不確定な半影部分(penumbra of uncertainty)と呼び、また、ルールの確定している部分を、その確定した核心部分(core of certainty)と呼んでいる。 究極の承認のルールにも、このような半影部分と核心部分の両方が備わっているのである。 従って、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、残りの確定した核心部分を不問の前提にしていると考えてよい。 すなわち、そのような行為は、その対象とはならない部分の究極の承認のルールに従っている、という意味において、決して無制限ではあり得ないのである。 言い換えれば、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じる行為は、あくまで究極の承認のルールの一部分のみを対象とするのであって、その全体を対象とすることは決してあり得ず、従って、究極の承認のルールに、たとえ開かれた構造が存在したとしても、それを閉じるために、無制限な主権者が要請される必要は、必ずしもない訳である。 しかし、それにしても、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、極めて微妙な行為である。 それは、自らの従うルールの一部分を、自らの対象として言及する行為に外ならない。 このような行為が、自らの従うルールの全体に対してはついに不可能であることは、前章において、ルールの暗黙性として詳しく検討した処である。 すなわち、自らの従うルールの全体を、自らが意図的に変更することは不可能なのである。 しかし、ここで述べられたことは、たとえ自らの従うルールであっても、その一部分であるならば、自らの意図的に変更することが必ずしも不可能ではない、ということである。 ルールの一部分に変更が要請される場合とは、新たに生じた問題に対して、現行のルールが確定した解答を与えられない場合なのであるから、ルールの一部分が変更可能であることは、新たな状況に対するルールの適応のためには、むしろ必要でさえある。 しかし、自らの従うルールを、たとえ部分的であったとしても、自らが意図的に変更する行為は、依然として、かなり微妙な行為であることに変わりはない。 このような行為は、果たして、如何なる根拠あるいは規準によって、新たなルールを生成し得るのか、あるいは、このような行為の意図と、結果として生成されるルールとの間には、(行為の意図が達成されることは全くあり得ないが)果たして、如何なる関係があるのか、といった様々な疑問がすぐにでも涌いてくる。 これらの問題は、実のところ、前章で述べた、ハイエクの言う整合性の原理の問題と、全く同型の構造を持っている。 すなわち、これらの問題に対する回答こそが、まさに、ハイエクの言う整合性の原理に外ならないのである。 ◆3.発語内の力 - オースティン - 言葉を発する、すなわち発話するという行為は、既に見たように、それ自身とは区別される社会的な行為の遂行でもある。 すなわち、発話行為(言語行為)は、発語行為の遂行であるとともに、発語内行為の遂行でもある。 しかし、あらゆる発話行為が、常に社会的な行為としての効力を持つ訳ではない。 発話行為が、何等かの発語内行為の有効適切な遂行であり得るためには、ある慣習的なルールを充たさねばならないのである。 それでは、発話行為を、社会的な行為として発効させる慣習的なルールとは、いかなるルールであるのか。 また、そのようなルールには、いかなる分類があり得るのか。 ところで、ある発話行為が、そのようなルールから見て、たとえ不適切であったとしても、それが何等かの社会的な結果を発生させ得ることまで否定される訳ではない。 すなわち、発話行為は、慣習的なルールに従っているか否かに拘わらず、自らを原因とする何等かの社会的な結果を発生させ得るのである。 このような発話行為の社会的な結果と、その社会的な効力とは、果たして、如何なる関係にあるのか。 言い換えれば、発話によって社会的な結果を達成する発語媒介行為と、発話が社会的な効力を獲得する発語内行為とは、どのように区別され得るのか。 これら一連の問いが、本節で問われる問いに外ならない。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、言語における主観主義としての表出主義に対する、決定的な論駁を準備するのである。 オースティンによれば、発話行為が、それ自身とは区別される何等かの社会的な行為として発効する条件は、大きく三つに分類される。 その第一は、ある発話が、何等かの社会的な効力を持つ行為の遂行であるために充たすべき、慣習的な手続きあるいはルールが存在していることである。 たとえば、「~せよ」という発話が、従うべき命令として社会的な効力を持ち得るのは、そこに何等かの手続きに根拠付けられた命令権限が存在し、そのような命令権限を持つ者によって、その発話が遂行される場合に限られる、といった具合である。 従って、「~せよ」という発話が、命令権限の存在しない領域において、あるいは、命令権限のない者によって、遂行されたとしたならば、そのような発話は、命令としての社会的な効力を持ち得ない。 すなわち、何等かの手続きあるいはルールがその背景に存在しない発話行為は、それ自身とは区別される社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 その第二は、発話を社会的な効力を持つ行為の遂行とするための手続きが、正しくかつ完全に従われることである。 たとえ、発話を社会的な行為として発効させる手続きが、疑いもなく存在していたとしても、それが正しくかつ完全に従わないような発話は、(それ自身とは区別される)社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。 そもそも、ルールが存在するということは、それに従っているか否かによって、行為の当否あるいは適切/不適切が判定され得るということなのであるから、ルールの従われていることを要請する、この第二の条件は、(第一の条件が成り立っているならば)当然と言えばあまりに当然な条件である。 しかし、この条件を敢えて独立させた背景には、司法的な判断に代表される判定宣告型の発語内行為(後述する)が、主としてこの条件の成否に拘わる社会的な行為であることへの配慮があったと思われる。 その第三は、発話がある手続きを充たすことによって社会的な効力を獲得したとき、何等かの後続する行為が義務付けられる場合、そのような行為が引き続き遂行されることである。 たとえば、「私は~を約束します」という発話が、約束を巡って存在するルールに正しくかつ完全に従うことによって、約束という社会的な行為として発効するとき、そこには、約束した行為を引き続いて遂行する責務が生じることになる。 もし、このように義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、「私は~を約束します」という発話は、約束という社会的な行為の遂行としては不適切である。 もちろん、このような発話は、約束という社会的な行為を発効させはする。 すなわち、このような発話は、前期の二つの条件を充たすことによって社会的な行為としての約束を成立させはする。 従って、このような発話は、社会的な行為として無効である訳ではない。 しかし、義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、約束という社会的な行為は、確かに成立してはいるが、完了していない、あるいは履行されてはいない。 このように未完了あるいは不履行となる約束を成立させる発話は、無効ではないが、不適切あるいは義務違反なのである。 すなわち、義務付けられた後続行為の遂行されないような行為を発効させる発話は、社会的な行為の遂行としては不適切なのである。 さらに、オースティンは、この第三の条件に、後続行為の遂行が、発話主体によって、主観的に意図されていることをも含めている。 たとえば、約束の発話が為される場合、約束の履行が発話主体によって主観的に意図されていることが、その発話が社会的な行為として適切であるための必要条件になる、と言うのである。 しかし、後続行為が事実として遂行されることと、それが主観的に意図されることとの間には、厳密に区別されるべき、重大な相違が存在する。 すなわち、行為の事実的な遂行は、たとえば外的視点から観察可能であるが、行為の主観的な意図は、行為と独立には観察不能であるという相違である。 行為の主観的な意図は、観察される行為の原因として、その背後に仮設される存在なのである。 このような発話主体の意図は、発話が社会的な行為の適切な遂行であるための条件に対して、果たして、どこまで相関的なのであろうか。 むしろ、発話主体の意図の如何に拘わらず、後続行為が事実として遂行されるのであれば、発話は社会的な行為の適切な遂行となるのではないか。 これらの問題は、発話の慣習的なルールに基づく効力と、その主観的に意図された結果との区別と密接に関係している。 従って、これらの問題は、発語内行為と発語媒介行為との区別を検討する過程において、始めてその解答を見い出し得ると思われる。 そのために、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているという事態を、また別の角度から検討してみよう。 たとえば、「私は陳謝します」という発語を伴う(後に態度表明型と分類される)発語内行為を考えてみる。 「私は陳謝します」という発語が、陳謝という社会的な行為として発効するためには、前述の三条件に分類される、様々な条件が充たされていなければならない。 ととえば、第一の条件に分類される、私の行為が(陳謝の)相手に何等かの不利益を与えたという事実の存在、また、その不利益が私の行為によっては回避し得ない不可抗力によるものではないこと、さらに、相手に不利益を与えたとしてもなお私の行為を正当化し得る理由のないこと、といった様々な条件が充たされて始めて、「私は陳謝します」という発語は、陳謝という社会的な行為として発効するのである。 これらの条件のどれか一つ、あるいはその幾つかが充たされていない場合、「私は陳謝します」という発語は、社会的な行為としては、無効あるいは不適切となる。 たとえば、相手に何の不利益も与えていないのに、「私は陳謝します」と繰り返すことは、滑稽な錯誤でなければ、不幸な病気である。 言い換えれば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な効力を有するためには、発語をめぐる、発語自身とは独立な状況の、既述のような条件を充たしていることが、必要不可欠なのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力は、それに伴う発語行為の遂行される状況あるいは文脈に、決定的に依存しているのである。 従って、発語内行為は、それをめぐる状況あるいは文脈を参照することなしには、その効力を全く確定し得ないことになる。 この事態を、発語内行為の文脈依存性と呼ぶことにしよう。 発語内行為は、自らの内属する文脈が与えられて始めて、その効力を決定し得るのである。 すなわち、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているというオースティンの指摘は、取りも直さず、発語内行為は文脈依存的であるという事態の発見に外ならないのである。 ここで留意すべきは、発語内行為が、社会的に発効するための条件には、当の行為の主観的な意図は、必ずしも含まれていないということである。 たとえば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な行為として発効するためには、陳謝の主観的な意図は、必ずしも前提されないといった具合である。 すなわち、「私は陳謝します」という発語が、既述のような条件を充たす状況あるいは文脈において遂行されているのであれば、たとえ陳謝の主観的な意図が全く存在しないとしても、陳謝という社会的な行為は成立し得るのである。 あるいは、「私は陳謝します」という発語が、たとえば、私の行為によって相手が如何なる不利益も被っていない状況において、遂行されているとするならば、それが陳謝の主観的な意図に満ち溢れているものであったとしても、陳謝という社会的な行為は決して発効し得ないのである。 すなわち、発語内行為の効力は、それに伴う発語行為が遂行される文脈にのみ依存しているのであって、その主観的な意図からは全く独立しているのである。 陳謝のような、個体の主観的な情緒の表出であると普通は考えられている発話が、その主観的な情緒とは独立に、その社会的な文脈にのみ依存して、自らの効力を確定し得るという事態は、一見、意外に見えよう。 しかし、文脈依存的な発語内行為と、言わば意図あるいは情緒表出的な発語媒介行為とが、共に何等かの社会的な効果を発生させるにも拘わらず、互いに区別されねばならないのは、まさに、このような事態が見い出されるからに外ならないのである。 発語内行為と発語行為との関係については、前章に詳しく検討した。 そこで明らかになったことは、陳述の発話といった事実確認的発話にも、前述の三条件を充たしているか否かによって、その適切性を判定し得る発語内行為の位相が存在すること、また、命令や判定や約束やの発話といった行為遂行的発話と言えども、何等かの事態を指示するという意味において、発語行為の位相が存在することであった。 すなわち、発語内行為と発語行為は、同時に一つの発話の内に存在し得る、発話行為(言語行為)の二つの位相なのである。 この意味においては、発語媒介行為もまた、発語内行為や発語行為やと同様の、発話行為の一つの位相に外ならない。 あらゆる発話は、慣習的に根拠付けられた効力を発揮する行為(発語内行為)の遂行であり、かつ、客観的に対象化された事態を指示する行為(発語行為)の遂行である、と同時に、主観的に意図された結果を達成する行為(発語媒介行為)の遂行でもあり得るのである。 それでは、発語内行為と発語媒介行為とは、如何にして区別されるのであろうか。 両者が、何等かの社会的な効果を発生させる行為である、という点においては共通するにも拘わらず、前者が慣習的なルールによって根拠付けられる行為であるのに対して、後者はそうではない、という点において区別されるということは既に述べた。 オースティン自身は、両者の区別について、実はこれ以上立ち入った検討を加えてはいない。 しかし、このままでは、社会的な効果を発生させる発話行為の内で、慣習的なルールによって根拠付けられる部分以外の総ての残余が、発語媒介行為であるということになる。 これでは、ある発話が、その意図の如何に拘わらず、言わば偶然に何等かの社会的な結果をもたらす場合でも、それは発語媒介行為の概念に包摂されることになり、概念として広きに失すると思われる。 むしろ、発語媒介行為は、発話主体によって主観的に意図された何等かの社会的な結果を、効果的に達成する手段として遂行される発話行為を指示する概念として、より限定的に使用されるべきであると思われる。 すなわち、発語内行為と発語媒介行為とを区別するメルクマールは、前者の社会的な効力を発効させる根拠が、慣習的なルールであるのに対して、後者の社会的な結果を発生させる原因は、(発話主体の)主観的な意図であるという点に求められると考えるのである。 言い換えれば、発語内行為の純粋型が、その慣習的な適切性の問われる、行為の遂行(行為遂行的発話)であり、発語行為の純粋型が、その客観的な真理性の問われる、事態の記述(事実確認的発話)であるのに対して、発語媒介行為の純粋型は、その主観的な誠実性の問われる意図の表出(言わば意図あるいは情緒表出的発話か)であると分類してみるのである。 このように考えてみるならば、あらゆる発話を、発語主体の主観的な意図や情緒や目的やの表出に帰着し尽くし得るとする、言語の表出主義が、如何なる限界をもつ主張であるかが明らかとなる。 すなわち、表出主義は、発話行為の総てを、発語媒介行為の位相に還元し尽くし得るとする主張なのである。 しかし、これまで述べてきたこおから明らかなように、発話行為は、発語行為と発語媒介行為の位相の直和には、ついに分割され得ない。 発話行為には、発語内行為の位相が、紛れもなく存在するのである。 すなわち、記述主義という、いわば言語の物理主義的な理解も、また、表出主義という、いわば言語の心理主義的な理解も、慣習的なルールに従った社会的な行為の遂行としての言語の位相を、ついに捉え切れないのである。 言い換えれば、客観的な事実でもなく、あるいは、主観的な情緒でもなく、ただ、社会的な文脈にのみ依存して、その当否を決定される言語行為の位相の、確かに存在し得ることが、捉え切られねばならないのである。 このように、発語行為とも発語媒介行為とも区別される発語内行為は、それ自身幾つかの類型に区分し得る。 言い換えれば、発話行為の発揮し得る慣習的な効力は、幾つかの種類に分割し得る。 オースティンは、この発話行為の発揮し得る慣習的な効力を、発語内の力(illocutionary forces)と呼び、その分類を、発語内の力の分類と呼んでいる。 以下に見るように、発語内の力の分類は、本節の前半に述べた、発語内行為の適切性の条件の分類と、密接に関係しているとともに、一つの発話行為が、同時に三つの位相を持つという事態とも、深く拘わっているのである。 それでは、発話行為を、それが発揮する発語内の力の類型に対応させて、言い換えれば、それが遂行する発語内行為の類型に対応させて、以下に分類してみよう。 第一の類型は、権限行使型(exercitives)である。 これは、何等かの権能を行使する発話であり、たとえば、命令や許可の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第一の条件である、(権能を付与する)ルールの存在という条件を、その発語内の力の根拠とすることは明らかであろう。 第二の類型は、行為拘束型(commissives)である。 これは、何等かの後続行為を義務付けられる発話であり、たとえば、約束や支持の発話に代表される。 この類型が、発語内行為が適切であるための第三の条件である、(義務付けられた)後続行為の遂行という条件を、その発語内の力の根拠とすることは言うまでもなかろう。 第三の類型は、判定宣告型(verdictives)である。 これは、事実的な証拠や規範的な理由といった根拠に基づいて、何等かの判断を述べる発話であり、たとえば、判定や評価の発話に代表される。 この類型は、証拠や理由の開示といった論理的な手続きの充足を、その判断の根拠とするという意味において、発語内行為が適切であるための第二の条件である、手続きの充足という条件を、その発語内の力の根拠としていると考えられる。 第四の類型は、言明解説型(expositives)である。 これは、陳述や記述の発話に代表される類型であるが、オースティン自身の定義は極めて曖昧である むしろ、この類型は、事実確認的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えた方がよいのではないか。 すなわち、この類型は、事実確認的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 第五の類型は、態度表明型(behabitives)である。 これは、発話主体の主観的な態度や情緒を表出する発話であり、たとえば、陳謝や祝福の発話に代表される。 しかし、この類型は、あくまで発話の持つ発話内の力の分類なのであるから、事実確認的発話や行為遂行的発話と同一平面上において対比される、情緒(あるいは意図)表出的発話それ自体ではあり得ない。 むしろ、この類型は、(発語媒介行為の純粋型である)情緒表出的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えるべきではないか。 すなわち、この類型は、情緒表出的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。 ▼第五章 慣行と遂行 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 近代産業を推進する中心的な価値態度としての産業主義や手段主義、あるいは、近代科学を招来した価値態度とされている実証主義や記述主義といった、一連の合理主義とも言うべき世界の捉え方と、近代民主政治あるいは近代主権国家を支持する価値態度としての民主主義や主権主義、さらには、近代的自我あるいは「内面的意識」を析出する価値態度としての情緒主義や表出主義といった、一連の個体主義とも言うべき世界の捉え方とを、同時に懐疑し得る立脚点として、我々は、自生的秩序やルール、あるいは言語行為といった、遂行的に生成される社会秩序の概念を定礎してきた。 本節では、この《遂行的なるもの》とも言うべき概念の持つポテンシャルを、改めて評価してみたい。 すなわち、《遂行的なるもの》が、合理主義や個体主義を含めた概念のシステムの中で、如何なる位置価を持ち得るかを、正確に測定してみたいのである。 まず、合理主義によれば、世界は、ここでは差し当たり人間とその社会は、理性による意識的な制御あるいは言及の対象として捉えられる。 すなわち、世界は、合理的に制御可能あるいは言及可能な客体として把握されるのである。 何等かの目的を達成するために、世界を効率的に制御せんとする産業主義や手段主義、あるいは、総ての発話の真偽を、それが言及する対象の存否によって決定し得るとする実証主義や記述主義が、この意味における合理主義を、その共通の前提としていることは言うまでもない。 しかし、世界を、わけても人間とその社会を、合理的な制御あるいは言及の対象として捉え得るとする態度は、飽くまで一つの価値態度に過ぎないのであって、世界と我々との関係が、この態度のみによって覆い尽くされる筈のないことは、容易に理解されよう。 もちろん、このような態度によって捉え得る世界が、全く存在しないと言う訳ではない。 ただ、そのような世界が、世界の総てである筈はないと言っているのである。 この合理主義によって捉えられる世界を、世界の一つの捉えられ方であることに留意して、ここでは、《世界Ⅰ》と呼ぶことにしよう。 すなわち、《世界Ⅰ》とは、合理的に制御可能あるいは言及可能な対象として捉えられる世界の謂である。 次に、個体主義によれば、世界は、わけても人間の行為とそれによって形成される社会は、行為を遂行する個体の主観的な意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属され尽くし得る事態として捉えられる。 すなわち、人間の行為とそれによって形成される社会は、その個体的な意図や情緒や目的やに還元可能あるいは帰属可能な事態として把握されるのである。 この意味における個体主義が、社会の全体的な意志決定は、その社会を構成する諸個人の合意あるいは主権者の意志に還元され得るし、また、されるべきだと考える、民主主義あるいは主権主義の前提となっていることは言うまでもない。 さらに、このような個体主義は、人間の行為を、その主観的な意図に帰属させて理解する、言い換えれば、人間の行為を、その内面的な意識の表出として解釈する、情緒主義あるいは表出主義の前提をなす世界の捉え方でもある。 すなわち、個体主義は、人間の行為を帰属させ得る場所として、それを遂行する個体の内面に、「自我」と呼ばれる何ものかを仮設し、そのような「自我」の表現として、人間の行為を解釈するのである。 しかし、世界を、あるいは少なくとも人間とその社会を、個体に内蔵された意図や情緒や目的やに、還元あるいは帰属させて捉え得るとする態度によっては、たとえ世界を人間とその社会に限定してみたとしても、世界と我々の関係の、ついに覆い尽くされる筈のないことも、また、少し考えれば明らかであろう。 個体主義も、また、世界の一つの捉え方に過ぎないのである。 この個体主義の態度によって捉えられる世界を、ここでは、《世界Ⅱ》と呼ぶことにしよう、すなわち、《世界Ⅱ》とは、個体的な意識に還元可能あるいは帰属可能な事態として捉えられる世界の謂である。 この合理主義と個体主義とは、人間の行為を、何ものかを目指す志向的な事態であると見なす志向主義の産み落とした、一卵性双生児であると考えられる。 何故ならば、志向主義は、人間の行為を、志向的な事態であると捉えることによって、人間の行為に拘わる世界を、志向のベクトルの吸い込み口である、志向される対象(客体)と、志向のベクトルの涌き出し口である、志向する意識(主体)とに、二分して把握するからである。 すなわち、志向主義は、世界を、合理的な制御あるいは言及という志向的な行為の対象と、その志向的な行為が還元あるいは帰属される個体的な意識とに、二元的に分割するのである。 言い換えれば、志向主義は、世界を、《世界Ⅰ》と《世界Ⅱ》とによって、完全に分割し尽くし得ると主張するのである。 志向主義のもたらす、このような主客二元論こそ、近代の産業主義や科学主義、あるいは民主主義や自我主義に通底する、《近代的なるもの》それ自体に外ならないのである。 従って、志向主義として特徴付けられる、このような《近代的なるもの》から見るならば、世界は、客観的(あるいは合理的に制御可能)な《世界Ⅰ》であるか、さもなくば、主観的(あるいは個体的に還元可能)な《世界Ⅱ》であるかのいずれかであり、また、そのいずれかしかあり得ないことになる。 しかし、世界は、本当に主客いずれかでしかあり得ないのか。 あるいは、行為は、全くの志向的な事態であり得るのか。 この問いに答えるためには、世界を、わけても人間とその社会を、遂行的な事態として捉える視点が、改めて導入されねばならない。 《遂行的なるもの》とは、行為遂行の累積的な帰結として生成される秩序の謂である。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、行為自らの生成する秩序なのである。 人間とその社会を、この意味における《遂行的なるもの》として把握する態度は、《近代的なるもの》あるいは志向主義による人間と社会の捉え方を懐疑する、最も確かな立脚点となり得る。 すなわち、《遂行的なるもの》として捉えられる人間と社会は、合理的に制御可能(あるいは客観的)な《世界Ⅰ》でもあり得ず、かつ、個体的に還元可能(あるいは主観的)な《世界Ⅱ》でもあり得ない、世界の第三の可能性を示しているのである。 このような《遂行的なるもの》が、いかなる意味において、制御可能ではあり得ず、また、還元可能でもあり得ないかについては、続いて述べる。 ここでは、客観的でもなく、主観的でもない、遂行的な事態として捉えられる世界を、《世界Ⅲ》と呼ぶことにしよう。 人間の行為を、志向的な事態として把握する態度によっては、ついに捉え得ない人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》という在り方に外ならない。 すなわち、《近代的なるもの》と真っ向から対立する人間と社会の在り方こそ、この《世界Ⅲ》に外ならないのである。 それでは、《世界Ⅲ》すなわち《遂行的なるもの》としての人間と社会は、何故に、合理的に制御可能な事態とも、さらには、個体的に還元可能な事態ともなり得ないのか。 あるいは、人間の行為は、如何なる意味において、志向的な事態ではあり得ないのか。 これらの問いが答えられねばならない。 《遂行的なるもの》は、個体の意図や情緒や目的やに還元あるいは帰属され得ず、むしろ、個体の行為が行為として発効するための根拠となるという意味において、規範的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図には、ついに還元不能あるいは帰属不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》を生成する行為それ自体の、行為として発効し得るか否かは、その主観的な意図とは全く独立に、その社会的な文脈にのみ依存して決定されるからである。 すなわち、行為の文脈依存的であることとは、取りも直さず、行為の発効し得るか否かが、自らの生成する《遂行的なるもの》を根拠として決定されることに外ならない。 しかし、《遂行的なるもの》の還元不能性を帰結する、行為の文脈依存性という命題において、行為の依存する文脈それ自体が《遂行的なるもの》であるとするならば、そこには、何等かの循環論あるいは論理的なパラドックスをが発生するのではないか。 しかし、この問題の検討は、後段に委ねることにして、差し当たり、行為の依存する文脈それ自体は、行為と独立に与えられていると仮定して置くことにしたい。 行為は、何故に、その主観的な意図に還元あるいは帰属され得ない、文脈依存的な事態であるのか。 たとえば、陳謝という行為のように、主観的な意図の表出以外の何ものでもないと見なされる行為ですら、陳謝の行為として発効しうるためには、その主観的な意図とは全く独立な、幾つかの条件 - 自己の行為によって他者に損害が生じたという事実の存在、他者に損害を与えたとしてもなお自己の行為を正当化し得る理由(たとえば正当防衛など)の不在等々 - を充たさねばならない。 自分が相手に何の危害も加えていない場合や、相手の暴力を避けるため相手に触れた場合やに、陳謝の言葉を発する行為は、たとえ、それが陳謝の主観的な意図に充ち溢れたものであったとしても、滑稽な錯誤の行為であるか、さもなくば、卑屈な追従の行為である、と見なされるのが落ちなのであって、真摯な陳謝の行為としては、決して発効し得ないのである。 あるいは、むしろ、陳謝の主観的な意図そのものでさえ、陳謝という行為が、ある文脈の下で発効することによって始めて、その文脈に応じた内容を持つものとして確定されるといった、文脈依存的な事態なのであると言ってもよい。 すなわち、行為を遂行する個体の内面的な意識は、行為の遂行される文脈が与えられて始めて、その内容を決定し得るのである。 従って、行為は、その主観的な意図に帰属させて解釈し得る筈もなく、その社会的な文脈に依存させて始めて、その効力(あるいは「意味」)の何たるかを決定し得るのである。 ゆえに、行為とそれによって生成される秩序は、個体的に還元可能ではあり得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅱ》ではあり得ないのである。 それでは、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》であり得るのか。 《遂行的なるもの》は、合理的に制御あるいは言及し得る対象とは、ついになり得ないという意味において、暗黙的な事態である。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その意識的な対象としては、制御不能あるいは言及不能な事態なのである。 何故ならば、《遂行的なるもの》とは、何等かの文脈あるいはルールに依存して、自らの発効し得る否かを決定される、行為の秩序に外ならないのであるから、その全体を対象として制御あるいは言及する行為は、自らの依存しているルールそれ自体をも、その対象として制御あるいは言及せざるを得ないことになる。 すなわち、《遂行的なるもの》を対象として制御あるいは言及せんとする行為は、自らを妥当させる根拠としてのルールそれ自体を、その対象とせざるを得ないという意味において、まさに自己組織(制御)あるいは自己言及の行為に外ならないのである。 従って、《遂行的なるもの》に対する制御あるいは言及は、いわゆる自己組織あるいは自己言及のパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》は、それを対象として意識的に制御あるいは言及せんとするならば、制御の効率や言及の真偽をも含む、あらゆる行為の当否を、全く決定し得なくなるという意味において、制御不能あるいは言及不能とならざるを得ないのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、それに対する制御あるいは言及が、自己組織あるいは自己言及とならざるを得ないがゆえに、暗黙的となるのである。 行為の当否を決定するルールに対する制御あるいは言及の行為、すなわち、自己組織あるいは自己言及の行為は、何故に、行為の当否を決定不能に、従って、それが生成する秩序を制御不能に陥れるのであろうか。 たとえば、「私の決定は妥当しない」と私は決定する、といった典型的な自己言及(決定)の場合を考えてみる。 この場合、私の決定は妥当すると仮定すれば、私の決定は妥当しないことが帰結され、逆に、私の決定は妥当しないと仮定すれば、私の決定は妥当することが帰結される。 すなわち、この場合、私の決定の妥当するか否かは、決定不能い陥っているのである。 一般に、自己組織、自己言及、あるいは自己回帰といった循環的な事態は、この種の論理的なパラドックスに陥らざるを得ない。 すなわち、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体への制御あるいは言及である。 自己組織あるいは自己言及の試みは、自らの妥当し得るか否かの決定不能を帰結することによって、挫折せざるを得ないのである。 従って、制御や言及やをも含む行為の秩序である《遂行的なるもの》は、合理的に制御可能とも言及可能ともなり得ない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》では、決してあり得ないのである。 これまでの考察から明らかなように、《遂行的なるもの》は、《世界Ⅰ》でも、あるいは、《世界Ⅱ》でもあり得ない。 《遂行的なるもの》は、《遂行的なるもの》によってはついに捉え得ない、世界の第三の可能性としての《世界Ⅲ》なのである。 すなわち、《遂行的なるもの》は、行為遂行の累積的な帰結として、行為自らによって生成される秩序であるにも拘わらず、その主観的な意図にも還元され得ず、また、その意識的な対象としても制御され得ない、規範的かつ暗黙的な事態なのである。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、その構成要素たる行為の文脈依存的であるがゆえに、また、それを対象とする行為の自己言及的であるがゆえに、個体的に還元不能かつ合理的に制御不能となるのである。 行為は、何等かの文脈あるいはルールに従うことによって始めて、行為として発効し得る。 言い換えれば、行為は、自らを妥当させる根拠として、何等かの文脈あるいはルールを前提せざるを得ない(文脈依存性)。 この意味において、行為は、文脈やルールやといった秩序から、ついに逃れ得ないのである。 すなわち、行為にとっては、従うべきいかなる文脈やルールやをも見い出し得ない、秩序の全き「外部」など、決して存在し得ないのである。 しかし、行為に、その妥当根拠を与える、文脈あるいはルールそれ自体には、いかなる妥当根拠も在り得ない。 ルールの妥当し得るか否かを決定する根拠を、ルールそれ自体に委ねたとしても、あるいは、ルールを根拠として、自らの妥当し得るか否かの決定される、行為に委ねたとしても、ルールの妥当し得るか否かは、ついに決定し得ないからである(自己言及性)。 すなわち、ルールは、自らの発効し得るか否かを、その「内部」においては、ついに決定し得ない秩序なのである。 しかし、そのような秩序は、《遂行的なるもの》としてしか在り得ない。 すなわち、そのようなルールは、行為遂行の累積的な帰結としてしか在り得ないのである(行為累積性)。 従って、ルールは、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によっては設定され得ない秩序であることが明らかになる。 言い換えれば、ルールは、行為によって意識的には語り得ず、ただ、行為において遂行的に示される秩序なのである。 《遂行的なるもの》は、行為の当否を決定する根拠であるとともに、自らは如何なる根拠も持ち得ず、行為の意図的な設定にもよらない、行為の累積的な帰結として生成される秩序である。 このような《遂行的なるもの》は、日常言語において、慣習(convention or practice)と呼ばれる事態と、ほとんど過不足なく重なり合っている。 すなわち、慣習とは、規範的、暗黙的かつ累積的な事態に外ならないのである。 あるいは、慣習とは、個体的に還元不能であり、合理的に制御不能でもある、世界の第三の可能性であると言ってもよい。 従って、個体的な主観としての《世界Ⅱ》や、合理的な客観としての《世界Ⅰ》やに対して、《世界Ⅲ》は、慣習的な遂行として捉えられることになる。 個体主義と合理主義とを共に懐疑し得る、《遂行的なるもの》の視点は、いわば慣習主義とでも呼ぶべき視点なのである。 この慣習という概念こそ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール論、さらにはオースティンの言語行為論を通底する、キー・コンセプトに外ならない。 すなわち、自生的秩序論においては、その自己言及性(制御不能性)が、また、ルール論においては、その外的視点から見た自己言及性(無根拠性)とその内的視点から見た文脈依存性(従根拠性)の双方が、さらに、言語行為論においては、その文脈依存性(還元不能性)が強調されつつも、慣習という概念の三つの構成要素である、文脈依存性、自己言及性、行為累積性の総てが、いずれの議論においても等しく登場している。 自生的秩序もルールも言語行為も、文脈依存性、自己言及性、行為累積性のトリニティを、その不可欠の構成要素としているのである。 市場も貨幣も法も権力も社交も言語も技能も儀礼も流行も、およそ社会あるいは文化と呼び得る総ての事態は、人間という事態をも含めて、《遂行的なるもの》として捉えられる。 すなわち、社会も文化もさらには人間それ自体も、慣習という事態に外ならないのである。 この発見は、あまりに当然と思われるかも知れないが、その含意は、極めて重大である。 しかし、その検討は、次節に委ねたい。 ◆2.新しい保守主義 保守主義とは、近代啓蒙の批判に外ならない。 近代自然法思想を含めた啓蒙の哲学は、社会と人間の、合理的に制御し得ること、あるいは、個体的に還元し得ることを主張して止まない。 啓蒙の哲学は、社会と人間の合理化と個体化(rationalization and individualization)を称揚する、近代進歩主義の原型なのである。 このような啓蒙の哲学が、その淵源をどこまで遡り得るかについては、様々な議論があり得よう。 しかし、ここでは、それが、17・18世紀の200年を通じて形作られて来た、ある精神の型に過ぎないことを確認しておけば、差し当たり充分である。 むしろ、ここで問題にしたいのは、その啓蒙の精神が、フランス革命、さらには産業革命と民主革命の進行に伴って、我々の文明の最も誇るべき価値であるかのように、この世界に拡散して来たという事態である。 合理化と個体化を称揚する精神は、産業化と民主化の激流に翻弄された19世紀はもとより、20世紀末の今日においても、なお我々の文明の中心に位置するかのように見受けられる。 「情報化」という名の新たな産業化と、「差異化」という名の新たな民主化は、我々の時代を画する進歩の旗印として持てはやされている。 啓蒙の精神は、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放というスローガンを高く掲げた、近代進歩主義の運動を、このニ世紀に亘って導いて来たのである。 もちろん、このニ世紀に亘る進歩主義の運動が、極めて多様な傾向を孕んでいることは言うまでもない。 そこには、いわゆる啓蒙主義によって導かれた、自然人権と国家集権を求めるフランス革命の運動もあれば、功利主義によって導かれた、自由化あるいは社会化を目指す漸進の運動もあり、さらには、マルクス主義によって導かれた、人間解放と社会管理のための革命運動もある。 しかし、これらの運動は、社会と人間の、産業化あるいは合理化と、民主化あるいは個体化を、意図的にあるいは結果的に推進したという点において、ほとんど選ぶ処はない。 いわゆる啓蒙主義はもとより、功利主義も、さらにはマルクス主義もまた、近代啓蒙の嫡出子なのである。 保守主義は、このような近代啓蒙の一貫した批判者である。 言うまでもなく、近代保守主義は、フランス革命のもたらした、社会の、理性による専制支配と、原子的個人への平準化の危機に抗して、「自由で秩序ある社会」を擁護すべく、エドモンド・バークによって創唱されたものである。 もちろん、保守主義的な態度が、バーク以前に存在しなかった訳ではない。 未知の変化に抗して、既知の安定を擁護しようとする態度は、むしろ人類と共に古いとも考えられ得るし、啓蒙の精神が形を成して来た、17・18世紀においても、それに対抗する態度は常に存在していたのである。 通俗的に言われるよりも遥かに深く、キリスト教を始めとする中世的あるいは近世的な伝統の内に生きていた、17・18世紀においては、むしろ啓蒙の精神こそが、西欧一千年の伝統から逸脱した、その対抗思想に過ぎなかったとも言えよう。 従って、17・18世紀においては、保守主義の、敢えて名乗りを挙げる必要は、必ずしもなかったのである。 何故ならば、保守主義とは、進歩主義の侵攻が、無視し得ぬまでに拡大して始めて、それを迎撃すべく、自らの重い腰を上げる性質のものだからである。 しかし、フランス革命を境として、進歩主義の侵攻は、もはや何人によっても無視し得ぬ段階に立ち至った。 フランス革命以降、産業主義と民主主義の進行に従って、進歩主義は、貴族制度や大土地所有やキリスト教やといった、あらゆる中世的(あるいは近世的)な伝統に次々と攻撃を加え、「自由で秩序ある社会」を決定的な危機に陥れたのである。 バークの闘った闘いは、このような進歩主義との闘いの緒戦を成すものであった。 フランス革命の啓蒙主義と闘ったバークを皮切りに、進歩主義のもたらす、合理的な専制と個体的なアノミーに抗する闘いは、このニ世紀に亘って、陸続と闘い継がれて来た。 近代保守主義とは、合理化と個体化という革命運動に抗する、不断の闘いそれ自体なのである。 言い換えれば、保守主義とは、啓蒙の精神の産み落とした、合理主義と個体主義の狂気に抗して、何等かの伝統に係留された、「正気の社会」を擁護する、終わりなき闘いの中にしかあり得ないのである。 それでは、保守主義は、何故に合理主義と個体主義を拒絶するのであろうか。 あるいは、また、保守主義は、如何にして啓蒙の精神を否定するのであろうか。 さらに、保守主義は、そのような拒絶や否定を通じて、何故に伝統を擁護することに至るのであろうか。 あるいは、そもそも、保守主義にとって、その擁護すべき伝統とは何であるのか。 これらの問いに答えることが、取りも直さず、前節までの議論と保守主義とを結び付ける、《失われた環》を見い出すことに外ならないのである。 保守主義は、社会と人間の、理性によって制御し得ることを否定する。 社会と人間が存続していくためには、理性によっては認識し得ないが、行為においては服従し得る、何等かの暗黙的な知識が不可欠なのであって、社会と人間の全体を、理性によって制御することなど、自分の乗っている木枝の根元を、自分で切る類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、理性の行使をも含めて、語り得ずただ従い得るのみの知識を前提として、始めて可能となるのであって、その暗黙的な前提をも含めた、自らの総体を制御することなど、全く不可能なのである。 人間の行為の不可欠な前提である、このような暗黙的知識は、理性的な行為の対象とならないがゆえに、その正当性を合理的には根拠付け得ない。 すなわち、このような暗黙的知識は、正当化し得ない無根拠な知識であるという意味において、まさしく偏見(prejudice)に過ぎないのである。 従って、人間の行為は、自らは何の根拠も持ち得ない偏見を前提として、始めて可能であることになる。 保守主義は、人間の生きていくために、暗黙的で無根拠な偏見に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、合理主義とは、合理的に制御し得ないものを制御せんとする、言わば暴力的な試みなのである。 そのような試みを、敢えて実行しようとするならば、制御の主体は、社会に対して、自らの意志を盲目的に強制する以外の、いかなる手段も持ち得ないことになる フランス革命やロシア革命、さらにはナチス・ドイツの経験が明らかにしたように、合理主義の行き着く先は、効率的な暴力を背景とする、野蛮な専制支配の外ではあり得ないのである。 保守主義は、社会と人間の、個人へと還元し得ることを否定する。 人間の行為は、それを取り巻く社会的、文化的な状況が与えられて、始めてその意味を決定し得るのであって、人間の行為の意味を、個人の内面的な意識へと還元することなど、言葉の意味を、他の言葉の意味との対比関係から切り離して、単独に決定する類いの所業に等しいからである。 言い換えれば、人間の行為は、他者の行為との関係をも含む、全体的な状況の中に位置付けられて、始めて成立し得るのであって、その全体的な状況が、個人の行為に還元し尽くされることなど、決してあり得ないのである。 人間の行為の成立/不成立を決定する。このような全体的状況は、行為の成否を決定する根拠となる、あるいは、行為の成立を正当化する理由となる、という意味において、規範的と言い得るものである。 すなわち、このような全体的状況は、行為を根拠付け、行為を正当化し得る、という意味において、まさしく権威(authority)と呼ぶべき事態なのである。 従って、人間の行為は、その根拠として服従すべき権威を前提として、始めて成立することになる。 保守主義は、人間の生きていくために、全体的で規範的な権威に従うことの不可避であることを、強く主張するのである。 このような保守主義から見るならば、個体主義とは、自らの拠って立つ不可避の基盤を見失った、個体の自己過信の外ではない。 個体主義とは、個体的に還元し得ないものを還元せんとする、いわば?神的な営みなのである。 そのような営みを、敢えて遂行しようとするならば、個人は、他者の、従って自己の行為の何であるかを全く了解し得ない、アノミーの深淵に立ちすくむことになるだけではない。 19世紀には絶望とともに予感され、20世紀には希望とともに実現された、高度大衆社会の実現が明らかにしたように、個体主義の精神がもたあすものは、無神論の深淵ではなく、神でも何でも手軽に信じて気軽に忘れる、多幸症の浅薄というアノミーに外ならないのである。 このように合理主義と個体主義を拒絶する、保守主義の橋頭堡としての偏見と権威が、理性によって意図的に設定されたものでも、個人によって意識的に合意されたものでもあり得ないことは言うまでもない。 偏見と権威は、行為の持続的な遂行の累積的な帰結として、自然発生的に生成されるものなのである。 すなわち、偏見と権威は、合理的な設定によらず、個体的な合意によらず、ただ遂行的にのみ生成される、まさに伝統(tradition)と呼ばれるべき事態なのである。 偏見とは、いかなる合理的な根拠も持ち得ない、俗なる伝統に外ならず、権威とは、あらゆる個体の根拠として従うべき、聖なる伝統に外ならない。 伝統とは、自らの如何なる根拠も持ち得ずに、他の一切の根拠として従われるべき、俗にして聖となる歴史の堆積なのである。 言い換えれば、伝統とは、歴史の試練に辛くも耐えて、偏見と権威の内に記憶される、生きられた経験に外ならないのである。 従って、偏見と権威に支えられて始めて成立し得る、人間とその社会は、このような伝統に従うことを、その不可避の条件とすることになる。 保守主義は、人間と社会の生きていくことが、つまるところ、伝統に回帰する以外にはあり得ないことを、強く主張するのである。 近代啓蒙の精神は、このような伝統や偏見や権威やを、蛇蝎の如く忌み嫌う。 因習や俗信や抑圧やから、人間を救済し、理性と自我との赴くままに、世界を革新すること、これが啓蒙の企てなのである。 しかし、保守主義から見るならば、このような啓蒙の企てこそが、合理主義的な抑圧と個体主義的な俗信とをもたらす当のものに外ならない。 近代啓蒙の精神は、不断に進歩することを、まさに因習となすことによって、専制的な抑圧とアノミックな俗信とを、常に帰結せざるを得ないのである。 保守主義のこのような回帰する伝統とは、合理的に制御し得る客観的なものではあり得ず、また、個体的に還元し得る主観的なものでもあり得ない、遂行的に生成される、言わば第三のものであった。 すなわち、伝統とは、客観的な自然でもあり得ず、主観的な意識でもあり得ない、第三の領域なのである。 このような第三の領域は、日常言語において、社会、文化、あるいは制度と呼ばれる領域に外ならない。 保守主義は、伝統に回帰することによって、客観的な自然法に根拠付けられる訳でもなく、主観的な社会契約に還元される訳でもない、社会という領域を再発見したのである。 言い換えれば、保守主義は、啓蒙思想による、理性と個人の発見に幻惑されて、一度は忘却の淵に立たされた、社会という現象を、再び見い出したのである。 社会の発見は、17・18世紀思想における理性と個人の発見に鋭く対比される、19・20世紀思想の鮮やかな特徴をなしている。 もちろん、合理主義と個体主義の哲学は、20世紀末の今日においてもなお有力なのではあるが、18世紀と19世紀の境に起こった転換以来、社会の、合理主義と個体主義によっては、ついに捉え得ない、という了解もまた、我々の共有財産となっているのである。 この意味において、保守主義は、社会についての哲学を、近代において始めて可能とした思想であると言えよう。 保守主義の歴史とは、取りも直さず、近代社会哲学の歴史に外ならないのである。 保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、合理的な客観としての自然でもなく、個体的な主観としての意識でもない、慣習的な遂行としての社会を、近代において始めて発見した。 すなわち、保守主義は、社会を、自らは如何なる合理的な根拠も保持せずに、自らにあらゆる個体的な行為を従属させる、遂行的な秩序として捉えることによって、近代社会哲学を創始したのである。 保守主義のこのように発見した社会が、前節に述べた《遂行的なるもの》と、ほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 《遂行的なるもの》とは、あらゆる行為がその成立/不成立を依存せざるを得ない文脈であり、また、いかなる根拠付けも自己に回帰する言及となるがゆえに不能である、遂行的な秩序のことであった。 すなわち、《遂行的なるもの》とは、個体的に帰属し得ず、合理的に言及し得ない、慣習的な秩序のことである。 従って、保守主義の発見した社会は、《遂行的なるもの》と、極めて正確に一致していることになる。 すなわち、保守主義は、偏見と権威と伝統とを擁護することによって、取りも直さず、《遂行的なるもの》を発見していたのである。 あるいは、むしろ、ハイエクの自生的秩序、ハートのルール、オースティンの言語行為、さらにはウィトゲンシュタインの言語ゲームを通底する、《遂行的なるもの》こそが、保守主義のニ世紀に亘って護り続けて来た伝統の、現代における再発見なのであるとも言い得よう。 20世紀哲学の到達した地点は、保守主義の歴史の新たな一ページなのである。 すなわち、ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインの到達した哲学は、20世紀末における新しい保守主義に外ならないのである。 もちろん、ハイエクもハートもオースティンも、さらにはウィトゲンシュタインも、自らを保守主義者と名乗っている訳では些かもない。 従って、現代における新しい保守主義を考察するためには、彼らの哲学よりも、むしろ、現代における正統的な保守主義者、たとえばマイケル・オークショットなどの哲学を検討すべきではないのか、という指摘も尤もである。 わけてもオークショットの社会哲学は、イギリス保守主義の掉尾を飾るものとして、是非とも検討されねばならない。 しかし、現代においては、保守主義者を名乗る人々の哲学が、必ずしも保守主義の哲学であるとは限らない。 啓蒙の哲学が、あたかも正統思想であるかのように流布されている現代においては、保守主義を騙って啓蒙を喧伝する輩が、跡を絶たないのである。 保守主義とは、まず何よりも啓蒙の批判に外ならない。 従って、現代における新しい保守主義の探求とは、取りも直さず、現代における反啓蒙の哲学の検討であらねばならぬのである。 ハイエク、ハート、オースティン、さらにはウィトゲンシュタインが、このような現代における反啓蒙の急先鋒であることは紛れもない。 本書は、経済哲学、法哲学、言語哲学を含む社会哲学の、20世紀における大立者達の言説の内に、現代における反啓蒙の、従ってまた、現代における新しい保守主義の可能性を探って見たのである。 20世紀末の保守主義は、自生的秩序やルールや言語行為や、さらには言語ゲームの哲学の内に、その新たな表現様式を見い出しているのである。 このような20世紀末の新しい保守主義が、ニ世紀に亘る保守主義の歴史に、何か付け加えたものがあるとするならば、それは、啓蒙の運動が不可能であることの、新しい表現様式である。 新しい保守主義は、社会と人間が、自らの要素である行為の文脈依存的であるがゆえに、個体的に還元され得ず、また、自らを対象とする行為の自己言及的となるがゆえに、合理的に制御され得ないことを主張する。 すなわち、新しい保守主義は、社会と人間の個体化と合理化という、啓蒙の運動の不可能であることを、言語行為論あるいは言語ゲーム論に準拠して主張するのである。 保守主義は、その誕生以来、時代の進歩主義に対応する、様々な表現様式に身を託して、合理化と個体化の不可能であることを主張し続けて来た。 新しい保守主義の準拠する、言語行為論あるいは言語ゲーム論もまた、20世紀末の進歩主義に対応する、そのような表現様式に外ならないのである。 いずれにせよ、保守主義によれば、社会と人間の合理化と個体化は、原理的に不可能である。 社会と人間に対する、進歩主義の貫徹は、所詮出来ない相談なのである。 そのような進歩主義を、敢えて貫徹しようとするならば、社会と人間は、暴力的な専制と涜神的なアノミーとへの分解によって、破壊し尽くされざるを得ない。 進歩主義は、その建設への意志とは裏腹に、社会と人間を、ついに崩壊へと導かざるを得ないのである。 まさしく、滅びへの道は、善意によって敷き詰められている。 従って、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の生き方についての、可能な二つの道の対立などでは全くない。 進歩主義の道は、社会と人間の死滅に至る、不可能な道なのであって、社会と人間の辛くも生存し得る、唯一の可能な道は、保守主義の道なのである。 すなわち、進歩主義と保守主義の対立は、社会と人間の存続し得るか否かを賭けた、全く抜き差しならぬ対立なのである。 この命題は、もとより、一般の社会と人間についても成立し得ると思われるが、ここでは、その近代の社会と人間についての成立が確認されねばならない。 すなわち、近代の社会と人間は、あたかも近代の正統思想であるかのように見なされている、進歩主義のみによっては、自らの存続すらをも保証し得ないのである。 言い換えれば、近代の社会と人間が、数世紀に亘って辛くも存続しているとするならば、それは、金ぢあの社会と人間が、己の意識するとしないとに拘わらず、保守主義を、事実として生きてしまっているからに外ならない。 近代の社会と人間は、あたかも反近代の異端思想であるかのように見なされている、保守主義を生きることによって始めて、自らの存続を辛くも保ち得るのである。 これは、何の逆説でもない。 社会と人間は、まさにそのようなものとして、生きられているのである。 ◆3.保守主義とは何でないか 前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。 ▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... ◆1.解釈学的社会学へ 本書のこれまでの諸章は、オースティンの言語行為論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、保守主義の社会哲学との関連を述べている。 主としてイギリスの20世紀哲学と保守主義との関連を述べて来たのである。 尤も、オースティンとハートは、確かにオックスフォードの人であるが、ウィトゲンシュタインとハイエクは、言うまでもなくウィーンの人である。 しかし、今世紀初頭のウィーン哲学は、必ずしもドイツ哲学の本流とは言い得ず、むしろイギリスにおいて活躍する人々の方が多かったと言っても過言ではない。 ウィーンの哲学は、ドイツにおけるイギリス哲学なのである。 いずれにせよ、本書のこれまでの諸章は、イギリス哲学に焦点を絞って来たのである。 ところが、これまでの論述において、20世紀イギリス哲学の行き着いた地平を辿って行く内に、それが、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学の行き着いた地平と、極めて類似していることに幾度となく気付かされざるを得なかった。 村上泰亮の言葉を借りれば、「後期のウィトゲンシュタインは、ほとんど現象学への - 言わば裏側からの - 復帰を果たしているように映るのである」。 従って、20世紀イギリス哲学の帰結に、保守主義の社会哲学を読み込む本書としては、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学と、それがもたらす社会哲学上の帰結に目を向けない訳にはいかない。 本書は、解釈学的社会学の方へと、呼ばれざるを得ないのである。 しかし、19・20世紀におけるドイツの社会哲学を取り上げるには、いささかの勇気が必要とされる。 それは、私自身が、これまで主としてイギリスの社会哲学を読み継いで来たという、研究経歴上の問題のためだけではない。 19・20世紀ドイツの社会哲学が輝かしいものであればある程、何故にドイツは、今世紀の二つの大戦において、あのように凄惨な敗北を喫さねばならなかったのか、という問いが否応なく覆い被さって来るからである。 もとより、ある言語による社会哲学に、その言語圏に属する国家社会の歴史的運命への、直接の責任が有り得よう筈もない。 しかし、ある社会における思想の在り様が、その社会の歴史的な運命に全く無関係であることもまた有り得ない。 ドイツの社会哲学は、ドイツの運命的な敗北に、何等かの関係を持っている筈なのである。 それでは、近代ドイツ思想と近代ドイツ社会の運命は、如何ように交錯するのであろうか。 この問いを問い切るためにこそ、些かの勇気が必要とされるのである。 何故ならば、この問いに対する答え方によっては、いわゆる戦後的な「常識」に、真っ正面から対立せざるを得なくなる場合も、充分に想像し得るからである。 このような勇気は、決定的な敗北ということをついぞ知らない、近代イギリスの社会哲学を取り上げるに当たっては、必ずしも必要とはされない。 しかし、たとえば近代日本の社会哲学を取り上げようとするならば、是が非でも必要とされるものである。 蓋し、近代日本社会もまた、過ぐる大戦において歴史的な敗北を喫したのであり、そのことと、近代日本思想との関係もまた、避けては通れない問いだからである。 いずれにせよ、近代ドイツの社会哲学あるいは近代日本の社会哲学を取り上げんとする試みは、少なくとも私には、些かの勇気を必要とする試みであるように思えてならないのである。 従って、以下の試みは、ささやかな覚悟を秘めてのことである。 20世紀末の時点に立って、ドイツの哲学を概観するならば、そこには、大きく三つの潮流の存在していることが見て取れる。 一つは、現象学あるいは解釈学に代表される潮流であり、二つは、フランクフルト学派あるいは批判理論に代表される潮流であり、三つは、分析哲学あるいは批判的合理主義に代表される潮流である。 これらの三潮流は、それぞれに社会哲学上の帰結を含意している。 すなわち、第一の潮流は、解釈学的社会学を、第二の潮流は、批判社会学を、第三の潮流は、機能主義社会学を含意しているのである。 これら三潮流を、その相互連関に留意しつつ、大胆に要約するならば、まず、第二の批判理論とは、たとえば人間の解放といった普遍妥当的とされる根拠に基づいて、社会の総体を批判しさらには変革し得るとする哲学であって、マルクスとフロイトの継承線上に位置することを、自他共に認める立場である。 次に、第三の批判的合理主義あるいは機能主義とは、人間の知識に普遍妥当的な根拠付けなど可能ではなく、知識とは、自らを妥当させる根拠(たとえば反証可能性基準)それ自体の選択をも含めた、自由な決断に外ならないとする哲学であって、三潮流の中で唯一、現代的な科学の方法論であり得ることを自負している立場である。 これらに対して、第一の解釈学とは、人間とその社会あるいは文化の解釈は、たとえば社会の伝統といった自らを妥当させる根拠をも、自らの対象とせざるを得ないのであるから、自らの普遍妥当性を根拠付け得る筈もなく、しかし、自らの妥当根拠を自由に選択し得る訳でもないとする哲学であって、19世紀以来のテクストあるいはコンテクスト解釈学の伝統に棹さす立場である。 言い換えれば、 批判理論とは、価値と認識についての普遍主義あるいは客観主義の視点に立つ、実践の哲学であり、 批判的合理主義とは、価値と認識についての相対主義あるいは主観主義の視点に立つ、科学の哲学であるのに対して、 解釈学とは、客観主義あるいは主観主義のいずれでもない言わば第三の視点に立つ、伝統の哲学なのである。 このような大胆な要約を示されれば即座に、幾つもの疑問が涌き上がって来て当然である。 たとえば、解釈学のいう伝統と、現象学の言う《生活世界》とは、果たして如何なる関係にあるのか、また、実践哲学の復権が言われる中で、批判理論は、果たして如何なる位置を占めるのか、さらに、批判的合理主義の言う仮説選択と、機能主義の言う《システム》選択とは、果たして異なった概念であるのか、等々の疑問である。 しかし、本論においては、これらの疑問にこれ以上立ち入ることはしない。 これらの疑問を詳細に検討するためには、遥かに充分な準備が必要とされるからである。 むしろ、本論においては、人間とその社会あるいは文化を解釈するという、解釈学的な問題の構造を解析することによって、何故に、批判理論と機能主義(批判的合理主義)が社会理論として不可能となり、解釈学的な社会理論のみが可能となるのかを検討してみたい。 さらに本論においては、そのような解釈学的社会学が、何故に保守主義であらねばならぬのかも検討してみたい。 これらの検討を通じて、伝統へ回帰することが、社会を解釈することの、逃れ得ぬ条件であり、かつ、避けられぬ帰結であることが、明らかになると思われる。 ◆2.自己関係性の構造 人間や社会や文化を解釈するという行為は、一体、いかなる特徴を持った行為であるのか。 この問いを問う前に、まず、社会という事態を如何に把握すべきかについて、多少なりとも議論して措く必要がある。 社会とは、差し当たり、人間の行為の集合である。 しかし、このような行為空間に、何等かの構造、形式あるいは秩序が導入されて始めて、社会は、社会として発見され得る。 すなわち、社会とは、何等かの構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間なのである。 ここに言う、行為空間に何等かの構造、形式あるいは秩序が存在するとは、ある行為空間に内属する行為が、何等かの根拠に基づいて、その妥当であるか否か、あるいは、その有効であるか否かを、ほとんどあらゆる場合に決定され得る、という事態に外ならない。 言い換えれば、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間とは、自らに内属する殆どあらゆる行為の、妥当であるか否か、あるいは、有効であるか否かを、常に決定し得る行為空間なのである。 ここでは、この意味において、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間を、秩序付けられた行為空間と呼び、そのように行為空間を秩序付ける、すなわち、行為の妥当性あるいは有効性を決定する根拠となるものを、行為のノルム(規範)、ルール(規則)あるいはコンテクスト(文脈)と呼ぶことにしたい。 すなわち、行為は、何等かの規範、規則あるいは文脈に依することによって始めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのであり、また、行為空間は、何等かの規範、規則あるいは文脈が導入されて始めて、秩序付けられるのである。 従って、社会とは、何等かの文脈によって秩序付けられた、行為空間に外ならないことになる。 言い換えれば、社会とは、何等かの文脈に依存することによって始めて、自らの妥当しうるか否かを決定し得る、行為の集合に外ならないのである。 このような社会という事態を解釈する行為は、一体、如何なる特徴を持つのであろうか。 行為という事態を、一篇のテクストに譬えることが許されるならば、ある文脈に依存することによって始めて、自らの当否を決定し得る場合、すなわち社会を解釈する行為は、あるコンテクストに依拠することによって始めて、自らの意味を決定し得るテクストの集合を解釈する行為に外ならない。 言い換えれば、社会の解釈とは、あるコンテクストを共に織り成している、テクストの束を解する行為に外ならないのである。 さらに言えば、この解釈する行為それ自身もまた、一篇のテクストに外ならず、何等かのコンテクストに依拠することによって初めて、自らの意味を決定し得る。 すなわち、解釈する行為それ自身もまた、行為である以上、何等かの文脈に依存することによって初めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのである。 従って、社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会、すなわち秩序付けられた行為空間とは差し当たり区別される、何等かの秩序付けられた行為空間に内属することになる。 すなわち、社会を解釈する行為は、それ自身もまた行為であるがゆえに、言わばメタ社会とでも呼ぶべき社会に内属せざるを得ないのである。 この解釈行為の内属する(メタ)社会と、解釈行為の対象とする(対象)社会とが、同一ではないとするならば、社会を解釈するに当たって特徴的な問題は生じ得ない。 言い換えれば、解釈行為の依存する文脈と、対象社会を秩序付ける文脈とが、異なるものであるとするならば、次節以降に述べるような問題は生じ得ないのである。 しかし、社会を解釈するという課題は、対象社会とメタ社会との峻別を、ついに許さない。 対象社会を秩序付ける文脈と、メタ社会を秩序付ける文脈とは、究極的には一致せざるを得ないのである。 何故ならば、秩序付けられた解釈行為の空間としてのメタ社会もまた、社会である以上、当然に解釈行為の対象となり得るのであって、社会の全体を解釈せんとする行為は、自らの内属する社会をも、自らの対象とせざるを得ないからである。 すなわち、社会の全体を解釈せんとするならば、対象社会は、メタ社会それ自体をも包含せざるを得ないのである。 従って、メタ社会を秩序付ける文脈、すなわち解釈行為の依存する文脈は、対象社会を秩序付ける文脈の一部分とならざるを得ない。 言い換えれば、社会全体を解釈せんとする行為は、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体をも、自らの対象とせざるを得ないのである。 このように、解釈行為の対象となっている社会に内属する行為の妥当根拠が、同時に、解釈行為それ自身の妥当根拠でもある事態を、ブプナーに従って、自己関係的な事態、あるいは、自己関係性と呼ぶことにしよう。 すなわち、社会全体を対象とする解釈行為は、自らの根拠を自らの対象とせざるを得ないという意味において、自己関係性の構造を余儀なくされるのである。 もっとも、解釈の行為が、必ずしも社会の全体を対象とする必然はない。 従って、社会の部分を対象としている限り、解釈の行為が、自己関係性の構造を引き受けなくとも済む場合もあり得よう。 しかし、解釈の行為が、自らの内属する社会、すなわち秩序付けられた解釈空間それ自体を対象とする場合には、依然として、自己関係性の構造を避け得ない。 そのような場合とは、解釈の行為とその妥当根拠とを反省的に解釈する場合、言い換えれば、解釈学的な行為の遂行される場合である。 すなわち、解釈学的行為は、その対象である解釈行為の妥当根拠と、それ自身の妥当根拠が厳密に一致するという意味において、まさに自己関係性の構造を遂行しているのである。 従って、自己関係性の構造が問題とされるのは、社会全体を対象とする解釈行為の場合と、解釈行為それ自体を対象とする解釈行為、すなわち解釈学的行為の場合とに限られることになる。 このような自己関係性の構造、すなわち自らの妥当根拠を自らの解釈対象とする構造こそ、解釈学的循環と呼ばれる構造に外ならない。 言い換えれば、自らのコンテクストを自らのテクストとする処に、解釈学的循環が生じるのである。 解釈学的循環は、解釈学の全歴史を通底する根本構造である。 解釈学の主要なメッセージは、押し並べて、この解釈学的循環から帰結されると言っても過言ではない。 本論の以下の諸節もまた、この解釈学的循環あるいは自己関係性の諸帰結を検討することに費やされる。 そこでは、自己関係性の帰結として、批判理論と機能主義あるいは批判的合理主義の不可能であることが、明らかにされると共に、解釈学的循環の帰結として、保守主義あるいは伝統再生の不可避であることが、示される筈である。 ◆3.基礎付けの不可能 自己関係性を引き受ける解釈行為、すなわち、社会全体を対象とする解釈行為、あるいは、自己自身の妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当し得るか否かを、如何にして決定し得るのであろうか。 言い換えれば、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、如何にして根拠付け得るのであろうか。 たとえば、自らの妥当根拠に対する解釈を遂行して、そこには「自らの妥当根拠に対する解釈は妥当でない」という準則が含まれている、と解釈する場合を考えてみよう。 この場合、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当であるとするならば、その解釈の妥当でないことが帰結され、逆に、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当でないとするならば、その解釈の妥当であることが帰結される。 従って、この場合、自らの妥当根拠に対する解釈の妥当であるか否かは、全く決定し得ないことになる。 すなわち、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないのである。 このような決定不能性あるいは根拠付けの不可能は、自らの当否を自らが決定する構造、言い換えれば、自らを根拠として自らを正当化する構造の存在する処では、何処にでも生じ得るパラドックスである。 従って、自己関係性の構造の存在が、自らの妥当根拠に対する解釈の決定不能あるいは根拠付けの不可能を帰結するのは、このような自己決定あるいは自己正当化のパラドックスの、一つの例であるとも言い得るのである。 いずれにせよ、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、自らの妥当性の決定不能あるいは根拠付けの不可能に陥らさるを得ない。 言い換えれば、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、そもそも、合理的な行為としては成立し得ないのである。 社会の全体あるいは自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為が、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ないという事態は、批判理論の遂行せんとしている、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判の行為が、必ずしも可能ではあり得ないことを示唆している。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判は、自らの妥当根拠それ自体をも批判の対象とせざるを得ず、そのような批判は、自らの妥当し得るか否かを、ついに決定し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判には、自らを妥当させる究極的な根拠など、決して存在し得ないのである。 従って、批判理論は、ついに可能ではあり得ない。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会に対する、疑い得ぬ確実な根拠に基づいた、普遍妥当的な批判など、全く不可能なのである。 このことは、同時に、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、合理的な言及や制御や変革やの、不可能であることも含意している。 何故ならば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、批判の行為と同様に、自らの妥当根拠を自らの行為対象とせざるを得ず、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないからである。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、合理的な行為としては決して成立し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会は、合理的な言及や制御や変革やといった行為の対象とは、ついになり得ないのである。 従って、社会の全体あるいは当該行為の内属する社会は、言及/制御/変革不能という意味において、まさに暗黙的となるのである。 社会の全体あるいは制御行為の内属する社会が、制御不能であるということは、取りも直さず、社会の全体を秩序付けている文脈、あるいは、制御行為の依存している文脈もまた、制御不能であるということに外ならない。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。 従って、社会全体を秩序付ける文脈は、意図的に設定される事態ではあり得ない。 そのような文脈は、行為の意図にはよらず、行為の結果として、自生的に生成される事態なのである。 また、制御の行為は、自らの意識的には制御し得ない文脈に依存して初めて、自らの行為を可能にし得ることになる。 この制御行為の依存する文脈もまた、制御行為の遂行の累積的な帰結として、自生的に生成される事態なのである。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的であるがゆえに、ただ遂行的となるのである。 言い換えれば、そのような文脈は、意識的に語り得ないがゆえに、ただ遂行的に示されるのみなのである。 ◆4.《選択肢》の不在 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ない。 自らの内属する社会を解釈する行為には、究極的な妥当根拠など、決して存在し得ないのである。 それでは、自らの内属する社会を解釈する行為に、言わば暫定的な妥当根拠を付与する試みは可能であろうか。 なるほど、自らの内属する社会への解釈に、究極的な妥当根拠など存在し得ない。 しかし、そのような解釈に、暫定的な妥当根拠を付与することによって、そのような解釈の、差し当たり妥当し得るか否かを決定することは可能ではないか。 ただし、ここに言う妥当根拠の暫定的であるとは取りも直さず、自らの内属する社会への解釈の、妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体には、その妥当であるか否かを決定し得る、いかなる根拠も存在し得ない、ということに外ならない。 すなわち、暫定的な妥当根拠とは、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を与えつつ、それ自体は、いかなる妥当根拠をも持ち得ない事態なのである。 言い換えれば、暫定的な妥当根拠は、自らの妥当根拠それ自体への遡行を、言わば中断することによって、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を付与するのである。 自らの内属する社会への解釈は、このように、自らの妥当根拠を暫定的に付与されることによって、差し当たり、自らの妥当し得るか否かを決定し得るかも知れない。 従って、そのような解釈は、差し当たり、自らの妥当性を根拠付け得る、いわゆる科学的な言明として遂行され得るかも知れない。 しかし、そのような科学的言明の妥当性を根拠付けている、その妥当根拠は、あくまでも暫定的なものであって、自らの妥当性を根拠付ける、いかなる妥当根拠も存在し得ない。 科学的言明とは、さらなる根拠への遡行を中断することによって初めて可能となる、暫定的に根拠付けられた解釈の行為なのである。 それでは、自らの内属する社会への解釈を暫定的に根拠付ける、妥当根拠それ自体は、どのようにして与えられるのであろうか。 もとより、そのような妥当根拠それ自体には、いかなる妥当根拠も存在し得ないのであるから、そのような妥当根拠を、何等かの根拠に基づいて選択することは不可能である。 従って、そのような妥当根拠は、もし選択することが可能であるとするならば、いかなる根拠にも囚われない、いわば自由な決断によって選択されざるを得ない。 すなわち、暫定的な妥当根拠は、その選択可能を前提とするならば、解釈主体の自由な決断によって与えられるのである。 この意味において、科学的な言明とは、究極的には自由な決断に依存している行為に外ならない。 普遍的な妥当根拠の果てる処、自由な決断あるのみ、という訳である。 しかし、暫定的な妥当根拠を選択する、解釈主体の自由な決断が可能であるためには、そもそも、暫定的な妥当根拠それ自体を選択することが可能であらねばならない。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。 ところが、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の、暫定的な妥当根拠には、いかなる選択肢も存在し得ないことが示され得る。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。自己関係的な解釈行為は、たとえ暫定的なそれであったとしても、些かの選択可能性も持ち得ないのである。 何故ならば、自己関係的な解釈行為においては、自らの行為の妥当根拠と、自らの対象の妥当根拠とが一致せざるを得ない。 従って、社会の全体なり、あるいは、解釈行為自らの内属する社会なりを、解釈の対象とするならば、自らの対象としての社会全体を秩序付ける文脈(妥当根拠)、あるいは、自らの対象としての自らの内属する社会を秩序付ける文脈(妥当根拠)それ自体を、自らの行為の依存する文脈(妥当根拠)とせざるを得ないことになる。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする解釈の行為は、自らの行為の妥当根拠として、自らの対象の妥当根拠以外の、いかなる選択肢も持ち得ないのである。 言い換えれば、自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠は、些かも選択可能ではあり得ないのである。 従って、自らの内属する社会に対する解釈の妥当根拠を、解釈。主体の自由な決断に委ねることは、全く不可能となる 何故ならば、そのような解釈の妥当根拠には、選択肢が全く不在であるために、解釈主体による自由な決断の余地は、些かも残されてはいないからである。 このことは、科学的言明の妥当根拠(たとえば反証可能性基準)を、自由な決断に委任する、批判的合理主義の、必ずしも可能ではあり得ないことを示している。 すなわち、科学的言明の妥当根拠を、如何なる根拠にも囚われない自由な決断に委ねることによって、そのような妥当根拠によって秩序付けられた、科学的言明のゲームを展開せんとする、批判的合理主義の試みは、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする言明の妥当根拠に、如何なる選択肢も存在し得ないという事態によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、批判的合理主義の含意する、科学的言明の妥当根拠それ自体についての相対主義、いわゆるパラダイム相対主義は、社会の全体あるいは言明行為自らの内蔵する社会を対象とするパラダイムに、選択可能性の全く不在であるがゆえに、失敗せざるを得ないのである。 従って、批判的合理主義によるパラダイムの選択は、全く不可能となる。 このことは、機能主義による社会システムの選択が不可能であることと、ほとんど同型的に対応する事態であると思われる。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠が、解釈主体の自由な決断によっては選択され得ないという事態は、そのような解釈の行為が、自らの対象とする社会を秩序付けている文脈から、ついに自由ではあり得ないことを示している。 すなわち、そのような解釈の行為は、自らの対象とする文脈、従って、自らの依存する文脈から、ついに離脱し得ないのである。 言い換えれば、解釈行為という(メタ)テクストは、自らのテクストでありかつ自らも織り込まれているコンテクストから、決して離脱し得ないのである。 そのようなコンテクストは、解釈の行為(メタ・テクスト)に先立って遂行されている、言わば先行的な解釈(テクスト)の累積であるとも言えよう。 従って、解釈の行為は、先行的な解釈に拘束されて初めて可能であることになる。 すなわち、解釈の行為とは、言わば先行解釈の地平に投げ出されて在る行為に外ならないのである。 ◆5.再び伝統とは何か 社会の伝統あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの妥当し得るか否かを究極的には決定し得ず、また、自らの妥当性を根拠付ける文脈を暫定的にすら選択し得ない。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会を秩序付ける文脈を、究極的には操作し得ず、しかも、そのような文脈から、暫定的にすら離脱し得ないのである。 すなわち、解釈の行為が、自らの対象とし、従って、自らの依存する文脈は、究極的には操作不能であり、暫定的にも離脱不能である、何ものかなのである。 このような解釈行為の文脈こそ、伝統と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統とは、操作不能という意味において拘束的であり、解釈行為の遂行において従われる外はない事態なのである。 言い換えれば、伝統とは、解釈行為の語り得ず、ただ示し得る事態であると共に、解釈行為の逃れ得ず、ただ従うべき事態なのである。 従って、解釈の行為とは、このような伝統に従いつつ、このような伝統を示す、すなわち、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないことになる。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を秩序付ける文脈、すなわち、伝統を解釈する行為とは、伝統から離脱するのではなく、伝統に依拠しつつ、伝統を操作するのではなく、伝統を再生する行為に外ならないのである。 このように、伝統に依拠しつつ、伝統を再生する行為の遂行を、保守主義と呼ばずして、一体、何を保守疑義と呼び得るのか。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の遂行は、保守主義以外の何ものでもないのである。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統を普遍的に批判し得る根拠を持ち得ないが故に、伝統を生成し、また、伝統を自由に選択し得る選択肢を持ち得ないがゆえに、伝統に依存する行為であらざるを得ない。 すなわち、唯一可能な社会理論として、批判理論や機能主義と決別する解釈学的社会学の遂行は、取りも直さず、保守主義の外ではあり得ない。 解釈学的社会学の保守主義たる所以である。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為である、という命題は、解釈学的社会学の根本命題である。 本論は、この根本命題の含意を、簡単にスケッチしたに留まる。 論じ残された問題は数多い。 たとえば、ある歴史的な社会を解釈の対象に据えた場合、その歴史的な社会を秩序付けている文脈と、解釈の行為の内在する社会を秩序付けている文脈とは、必ずしも常には一致しない。 従って、そこには、解釈の対象とする(対象)社会の文脈と、解釈の内蔵する(メタ)社会の文脈とが一致する、いわゆる自己関係性の構造は、必ずしも見い出されない。 しかし、そもそも、解釈の行為は、対象社会の文脈とメタ社会の文脈との間に、何等かの一致を前提することによって、初めて可能になるとも考えられるし、あるいは、それらの間に、何等かの一致を帰結することによって、初めて実現し得るとも考えられる。 すなわち、解釈の行為は、自己関係性の構造を、その前提とも帰結ともしているのではないか、と考えられるのである。 この場合、解釈を遂行する過程において、対象社会の文脈とメタ社会の文脈とは、どのように離反し、あるいは、どのように一致していくのか、このことが問われねばならない。 この問いは、解釈の遂行課程において、自己関係性の構造が、どのように生成されて来るのかを問うことに外ならない。 ガーダマーの言う、地平融合の問題である。 しかし、本論は、この問いに答えない。 解釈学的社会学の理論的彫塑は、今後の課題である。 解釈学的社会学が、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないとするあらば、日本における解釈学的社会学は、日本の伝統を生成する行為を閉却する訳にはいかない。 もっとも、日本の伝統というと、即座に、古代以来の天皇制や、中世以来のイエ社会やを思い浮かべ、中国文明やあるいは近代文明の影響を受けていない、言わばナショナリスティックな伝統を考える向きがしばしば見受けられるが、ここに言う伝統は、必ずしもそのようなものではあり得ない。 日本において解釈学的社会学を遂行する場合、私の差し当たり対象としたい伝統は、17世紀ないし19世紀以降の近世あるいは近代日本の伝統である。 すなわち、近代文明の一翼を担う地域文化としての日本の伝統を対象としたいのである。 この間の事情は、ドイツにおいて解釈学的社会学の遂行される場合と大した違いはない。 ドイツの解釈学もまた、17世紀ないし19世紀以降の近代ドイツの哲学的な伝統を、差し当たり継承しているのである。 いずれにせよ、日本における解釈学的社会学を遂行するに当たって、差し当たり対象としたいのは、近世あるいは近代日本における哲学的な伝統である。 そのような伝統を解釈することによって、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為の一端を担ってみたいのである。 このこともまた、今後の課題に外ならない。 ▼原注 ↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 第一章 世紀末の新しい保守主義 (省略) 第二章 合理と個体 (省略) 第三章 暗黙の言及 (*6) Polanyi, Michael ("Personal Knowledge"1958 長尾史郎訳 『個人的知識』1985) ハイエクは、ポランニーから多くの影響を受けている。 たとえば、自生的秩序の概念は、ポランニーから譲り受けたものである。 確かに、ハイエクは、ポランニーの暗黙知の概念を、言葉としては用いていないが、内容的には同様の考え方に立っている。 (*7) 橋爪大三郎 (『言語ゲームと社会理論 -ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』 1985) ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、ハイエクが直接の示唆を受けているか否かは定かでない。 従って、ここに言う家族的類似は、両者の理論が結果として類似しているという主張以上のものではない。 なお、ハイエクは、ウィトゲンシュタインの伝記を手掛けたことがあるそうである。 (他は省略) 第四章 規範の文脈 (*5) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 自己言及性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*8) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 文脈依存性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*18) 土屋俊 (「何種類の言語行為があるか -言語ゲームとしての言語行為-」 講座『思考の関数1 ゲームの臨界 -アゴーンとシステム-』 1983) 発語内行為の分類に関しては、土屋(1983)に示唆を受けた。 (他は省略) 第五章 慣習と遂行 (*1) Popper, Karl R. ("Objective Knowledge"1972 森博訳 『客観的知識 -進化論的アプローチ-』1974) 《世界Ⅰ》 《世界Ⅱ》 《世界Ⅲ》 の概念については、Popper に示唆を受けた。 (*2) これは、行為の累積的な帰結として生成される秩序が、何故に、行為の発効し得るか否かを決定する根拠すなわち、行為の依存する文脈となり得るのか、という問題である。 もし、行為の依存する文脈が、行為によって意図的に設定されるとするならば、そこには、自己言及あるいは自己回帰のパラドックスが生ずることになり、行為の発効し得るか否かは決定不能に陥らざるを得ない。 従って、行為の発効し得るか否かが決定可能である、すなわち、行為の依存する文脈が存在し得るとするならば、それは、たとえ行為の累積的な帰結として生成される秩序であったとしても、行為の意図的な設定にはよらないことが明らかになる。 言い換えれば、行為の依存する文脈は、もしそれが存在し得るとするならば、行為の累積的な帰結からは必ずしも独立していないにも拘わらず、行為の意図的な帰結からは全く独立しているのである。 (*3) 行為の発効し得るか否かを決定する根拠、言い換えれば、行為を根拠付けあるいは正当化する文脈に対する言及の総てが、自己言及あるいは自己回帰の行為となる訳では必ずしもない。 ある特定の行為秩序を正当化する文脈、すなわち、ある特定の社会ゲームを構成するルールに対する言及は、必ずしも自己に回帰する言及とはならず、ある特定の行為秩序あるいは社会ゲームを制御さらには設定する行為は常に可能である。 しかし、この場合、ある特定の文脈あるいはルールに言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールは、差し当たり、言及の対象になっていない。 もちろん、ある特定の文脈に言及する行為を正当化する文脈それ自体に対する言及も、常に可能である。 しかも、そのような言及は無限に遡及し得る。 何故ならば、文脈あるいはルールの全体に言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールに対する、新たな言及が、常に可能なのであるから、もとの言及は、文脈あるいはルールの全体を対象とする言及とは決してなり得ないのである。 このことは、文脈あるいはルールの全体に対する言及が、もし存在し得るとするならば、それは、自らを正当化する文脈あるいはルールそれ自体をも対象とする言及、すなわち、自己言及あるいは自己回帰の行為とならざるを得ず、そのような言及の発効し得るか否かを決定することは、すなわち、そのような言及の行為そのものが、原理的に不可能となるのである。 従って、ある特定の文脈によって正当化される行為秩序、あるいは、ある特定のルールによって構成される社会ゲームの制御さらには設定ならばいざ知らず、行為秩序あるいは社会ゲームの全体を対象とする制御さらには設定の行為は、原理的に不可能とならざるを得ない。 すなわち、行為秩序あるいは社会ゲームの全体に対する制御さらには設定は、自己回帰的な行為であらざるを得ないがゆえに、不可能となるのである。 (*4) 自生的秩序やルール、あるいは言語ゲームといった、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な遂行としてのみ示されるという意味において、行為累積的である。 行為は、自らの文脈としての《遂行的なるもの》に、自らの発効し得るか否かを依存しているという意味において、文脈依存的である。 しかし、《遂行的なるもの》の全体を対象とする行為は、自らの依存する文脈をも対象とせざるを得ないという意味において、自己回帰的であり、自らの発効し得るか否かを決定し得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》全体を対象とする行為は、自己回帰的であるがゆえに不可能なのである。 従って、行為の累積である《遂行的なるもの》に、行為が自らの発効し得るか否かを依存したとしても、《遂行的なるもの》の全体は行為の対象とはなり得ないのであるから、必ずしも矛盾は生じない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な帰結であるにも拘わらず、行為の意図的な対象とはなり得ないがゆえに、行為の規範的な文脈となり得るのである。 (*14) 累積的、規範的、暗黙的な事態としての《遂行的なるもの》と、社会との同一性は、本書に述べた社会哲学の最も基本的な命題である。 すなわち、社会は、《遂行的なるもの》と同様に、行為の累積的な遂行それ自体であるという意味において、累積的であり、また、行為の発効し得るか否かの依存する文脈であるという意味において、規範的であり、さらに、その全体を対象とする行為の自己に回帰するがゆえに不可能であるという意味において、暗黙的である。 保守主義は、累積的な伝統と、規範的な権威と、暗黙的な偏見との擁護し得ること、あるいは、擁護すべきことを見出すことによって、この意味における社会を、近代において初めて発見したのである。 保守主義のこのような捉え方は、保守主義を、言わば社会学として捉えることに外ならない。 言い換えれば、本書は、保守主義の伝統の中に、社会学の最良の部分を見出そうとする試みなのである。 なお、保守主義の社会学的な側面以外の諸相については、次節において簡単に検討したい。 (他は省略) 第六章 解釈学的社会学としての保守主義 (省略) ■3.まとめ (作成中) ■4.ご意見、情報提供 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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1 名前:*´○ヮ○[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 04 56 17 ・ヲチ凸晒し禁止 ・自治厨、ルール押し付けは無用 ・学級会は自重 ・次スレは 950、950から次スレまで雑談自重 ・次ヌレ立てに行く時あ一声「行ってくる」声かけよろ ・立てられなかったあ正直に申告 ・本気汁、股男一族、ANA一族は自重 ・にょたりあとへたりあは別物で同じ国れも別人 ・茶民はキャンプ ・混ぜるな危険 ・他板に出張厳禁、出張報告もっと厳禁 ・アニメは土曜深夜子供駅8分 ・´○ヮ○;<いろいろあったけど今はそれなりに幸せです ANA2nd(過去ログ倉庫) ttp //www40.atwiki.jp/ana2nd/ フリーダム ttp //jbbs.livedoor.jp/otaku/10108/ 難民絵板 ttp //kitayume.net78.net/poti/index.htm トレカ交換掲示板 ttp //kitayume.net78.net/sktopic/pc.php チャット状態になったら字茶への移動を ttp //kitayume.carbon.cgiboy.com/ わからない事はフリーダムの質問スレへ ttp //jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/10108/1205114530/ 厳冬叩きはこちらでどうぞ ttp //jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/10108/1214928067/ 喜多由愛土人=@難民914 ttp //jfk.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1228660093/ 2 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 04 57 32 難 民 に 新 し く 来 た み ん な へ 告 ぐ !  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ≡ ≡ τリ*‘-‘) (*´д`) *[]∀[]) ζノリ*´、ゝ`) (*^J^) *[]∀[])<やあ!俺達は通りすがりのヒーローなんだぞ! (*^J^)<去年のログを全部読む必要はないけど ある程度は過去ログを読んでから書き込んでね ζノリ*´、ゝ`)<ヘタを知ってから初めて2chを見始めた子が ここに来るとは思えないが、書き込む時は 他板スレを見てからにしてくれな τリ ‘-‘)<本家ネタについて質問したい時は フリーダムに質問スレがあるからそっちで訊くある ttp //jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/10108/1205114530/ ≡ ≡ (*´д`)<お前たちみんな仲良くしろよ! ばかぁ! 3 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 07 42 28 915スレ? 4 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 09 04 51 いちもちゅらけろ915らね きゃなたんしっかりしておねっぺんぺんっ 5 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 09 09 10 もう少しれ発売らから久しぶりにきたお なんかあったら産業よろ ざほん予約してないけろ買えるかしあ… ま、遂にもれケプの天下がくるとももうと楽しみら^^* 6 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 09 11 44 いちもちゅ いぎすがおこめときゃなたん間違えてなんだきゃなだかよ…ガッカリ みたいなネタ見るとばびれぬかつくお 本家れも間違ってたけろちゃんと謝ってたらない 7 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 09 41 48 いちもちゅー 昨日コンブニれこももがおつかいに来て せーのっにしほんしんぶんくださいって声をあわせて 言ったのばびきゃわわらったお…ちびきゃんとちびめりにやらせたいお 8 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 09 54 50 ([]_ゝ[])<おはよう諸君!さあ跪いて挨拶をしたまえ! 9 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 03 02 ´○ヮ○。o○( 8ガッシ!ボカッ) 10 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 12 40 いちもちゅ 三日ぶりにきたけろ前ヌレを見る限り ログあ見なくてもよさそうらのあ とりあえず寒いかあぽちくんもふる 11 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 17 06 ちびきゃなに新しいお洋服買ってあげたい そんでその代償としていやらちい事しようと企むんらけろ ちびきゃながすごくきゃわいい顔れありがとうって言って 嬉しそうにぎゅっともれの買ってあげた服を抱きしめてにこにこするもんらから なんかどきーんってなっちゃっていやらちい事とかそういうの全部すっとんで 結局何もしない所かお靴も買ってあげちゃう そんれちびきゃながまたえっそんなに…いいの…?ってこんなに優しくしてもらえるなんて 信じられないって顔でこっちを上目遣いでみつめるから いいんだよ、アメリカによく似合ってるぞ って言ってあげる そんな夢のような生活がしたいれす 12 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 17 38 便器の蓋に座って冷たくておひゃああああなあの子きゃわわっ 13 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 27 05 もはー 今日あたりフラゲ組でるかしあ 漏れのあの子の出番たっぽし欲しいけろ 多すぎらと厳冬贔屓ケラ認定くらうかもしれんかあ複雑らー 14 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 32 32 1分 2巻れあのこのちんぽゅが新品れあることが証明される 15 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 33 52 花たまもっふもふ 16 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 34 22 いちもちゅ 17 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 35 48 こんらけ人がいないときに1分とか 18 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 36 54 11 マリアナ海溝に沈め お前らけはゆゆさない 19 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 37 50 もう襖さんは出なくていいお 露たまくらいがちょうどいいお 20 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 37 51 11 これコプペかしあ まんか前に似たような文見たももえが 21 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 39 06 20 コプペらお 22 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 42 59 ちびめりに新しいお洋服買ってあげたい プレレントに慣れてるちびめりは わーいありがとう!嬉しいよ!ってにこにこ笑顔れす ブルマを半分らけずりおろして後ろからいれたい 23 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 50 40 _ノ( 、 ,、-――ー-- 、ノノ て やだあっ!! // / __,ノノノ、 く ( いぎりちゅ助けて!やっ!やぁ! / ,/ 、_, 从 | |/l/,- o=,、 、!|l|ノ i |l | l|(イ ` , l;;メ|リ 、,, ハVl| " (`ヽ "| " ー- 、,, _ モミ ゛ト、_ `´ ノ |  ̄`l モミ ノノ _ ´⌒ヽ ,-、 | | / / nノ´ ´ l´)_,ヽ .| | | l l´ ) r; Y ノ / | | . ズッ `/ ゙ | / /● | | . ズッ // / ̄`ヽ / / | __ / /i~)´ / ヽノ /// / / /´  ̄ ̄ ,l .} ´ l⌒l ヽ /_ / / // ( )( ) ヽ \ ヽー " _) / ノー------ `、_ _,ノ `ー`ヽ ヽ― "´ / / , ` ‐- 、/ / ゚。 ̄/// ( \ ヾ / / /`) 、 ‐- 、,, / `ヽ、つ_) l | / u`" // " ヽ/ / ノ ノ ` - 、,, J r‐、 , / " - / / , / ズッ 24 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 56 14 もは しといないのれそっともいもいもちゅる 25 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 58 36 3 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。 楽しかったです。, 2008/10/30 By レゼ - レビューをすべて見る 話自体は面白かったです。 特にアメリカの倉庫掃除は少し涙が出そうになりました。 イギリス…切ないです。 それにしてもBLがどうとか言ってる人は何なんでしょうかね。 そもそもこの本はBLのカテゴリーに入っています。ちゃんと確認しなかった証拠ですね。 26 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 10 58 56 そしだっぺ!がっぺむかつく! 27 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 04 21 そういえば漏れのざ本、ページの端っこでコマが切れてたんらけろ不良品なのかしあ? そういう仕様なのかとももってたんらけろ 印刷ミスの気がしてきたお 28 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 06 14 27 漏れのあろうらったかのあ 何ページ目くらいら? 29 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 08 16 27 漏れのも切れてたおたぬん仕様 糞編集すぐるのあ 30 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 14 15 28 ちびたりあのとこらお 31 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 18 03 厳冬<チビタリアとか超ジャマなんですけどwwwwwwwwww 32 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 18 04 もし今日休みらったら本屋巡りしたかったのあ 三毛カタログもまら買ってないしお 33 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 19 20 チビタリア(笑) 34 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 19 41 バイト行ってくるお 通りすがりにもいもいのおしりもみもみ 35 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 19 53 密林のレビューあたまに見るとももろいお 工作員っぽいのがいたりして 36 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 21 44 厳冬<神ロ伊はホモっぽいからカット 37 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 23 08 30 まりまー 家に帰ったら確認してみるお 38 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 23 33 なんというダブスタ 39 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 24 48 厳冬<汚染米まよげとカマえな以外の非公式ケプは排除 40 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 25 53 厳冬<汚染米まよげとカマえなは公式ですので 41 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 27 03 厳冬同士のケコーンかお 42 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 28 19 34 ´ヮ`*b<もーえっちー 43 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 28 51 ジンギスカンうめえ 44 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 29 48 神ロ伊はほとんどノーマルみたいなもんじょのい ぱんちゅはともかくほのぼのらし 45 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 30 35 電車に乗ったら目の前のむっちりヒップな子がろうみても漏れにお尻おしつけてくるようにしかももえないかあ しかたなくもみもみしてやったらぴくってふるふるして ものたりないのかしあ?とももっておちりわりひらいて谷間のあたりこしこしすりすりしてあげたら こっち振り向いて睨んできたかあ なんらおまらたりないのかしあ大胆らのあとももってジッパーずらして前の方にぎにぎしてあげたあ 手つかまれておろされてお便所れ本番かしあ><*とももってたあ 駅員につきだされたよぉ>< 46 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 31 07 42 モイモイは心もおおらかサイズらな 47 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 32 39 46 ふしだらなだけら 48 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 33 24 トムソーヤおこめ 49 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 34 34 風呂CDの汚染米がThe本に逆輸入されてたらどうしおう;; 50 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 36 21 仮にも魔王が書いてるんらからそんなことあありえないお ありえないはずらお 51 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 36 53 49 もまいにできる事は 何もないお 52 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 37 05 もはー よく寝たお 53 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 38 47 50 リク厨の凸をホイホイ受け入れてる魔王が 厳冬の「指導」を拒否できるかしあ… 54 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 39 41 ダブスタとみるとちまうとももいつつどうも馬が 55 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 39 44 45 裁判傍聴しにいくかあ待っててね^^* 56 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 40 03 いぎりちゅっおなかが苦しいよぉ 57 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 40 49 ≡<まさかあの時の…!? 58 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 41 22 55 証言席れうなじまで真っ赤にしたあの子が どんな風に触られたか証言するんらね 肝心の場面れ声が小さくなるあの子に 裁判長は声が小さい!とか触られてどんな気持ちになりましたか? とかきくんらね><** 59 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 42 32 47 ´ヮ`*b<僕はふしだらなんかじゃありませんっ 60 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 43 40 53 リクを受け入れるのも魔王の自由らし 厳冬の指導があっても描くのあ魔王らお 61 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 43 55 男の警官数人に囲まれて調書を取られたり 実況見聞で現地で実演させられたり 62 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 45 20 58 流石に自重しろお 63 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 46 00 60 つまり凸したモン勝ち 厳冬に気に入られたケプの勝ち らおね 64 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 46 16 53 魔王あアホホかお><; リクらって描きたい気持ちがちょっとれも なければ描かないらろ 65 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 46 42 レ*甘ヮ甘 <実況見聞カモン 66 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 46 45 58 そんな事まで聞かれんのかお…ばびれ? 67 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 47 00 トムソーヤおこめ ハックフィンきゃなたん 68 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 48 22 66 一応傍聴席とかから見えないように仕切りが二重三重にあるはずら 69 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 49 06 (~) γ´⌒ヽ {i i i i i i } レ*甘ヮ甘) ( ) し─J 70 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 49 41 ハックって黒人のホームレスじゃなかったかお 71 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 49 44 66 まあばびれ聞かれますね 警察の時点れ結構聞かれますね 抵抗あしたの?とか 72 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 49 54 レ*甘ヮ甘≡ 73 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 50 14 68 のんかそれあテレビれ見た事ある気がするお れも詳細まれ聞かれるなあ泣き寝入り多いわけら 74 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 51 34 69 冬服ANAきゃわわハウス えーん神ぃ;;;;日記かいてよお><。 75 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 52 00 せめて女の警官に聴取されたいのあ 76 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 52 02 ANA姫たちハウス 77 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 52 46 74 今ハラシマ地獄三丁目れす 78 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 53 42 ここにハラシマ中のヤシなんかいないおね^^ 79 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 53 54 77 わかってるけろ心配なんらもん せめて今夜は一言だけでも>< 80 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 54 16 ^^ 81 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 55 55 79 神<ハラシア中に日記書いたら難民れ経過報告イラネって言われるかあ書かないお 82 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 56 29 ° _,,--⌒^`` 、 ο ,r " ` ‐-、 _,,._ ,,r "~⌒^` 、 _,,..-‐ " ^` `、 __,, --‐ ⌒^~ ` ‐- --‐ ""`⌒^.、..,,__ __ ,... .-‐`‐ -‐‐ "" ,i ⌒ヽ シ ‐-,‐‐ ⌒^~ ,( )ο // ο ° "" ⌒-- ,, , ;; ,,, ,,,;; \ | ゛-、 /./ -- \`ー \// ο ° ο `\ ",ノ o | /゚ ,i ⌒ヽ、 ο ° ゙、\_ノ i o ( ) ° ` 、゙ ノ /`;;;;;_ノ ο (~) \ i,//´ γ´⌒`ヽ ,. -一; 、 i / {i i i i i i i i } (⌒) (⌒) ミ;; ;,. _,.; ゙ミ i | r d*[]∀[] ( ) ( ) (^し^* ) i |ノ ( : .r ) (=ニ彡 ) /ο i ο l l │ │ i | し--J し- -J ー.^ノ、.......,iー.⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒^~⌒ 83 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 57 06 81 ぴいい;; 難民ちえ^^### 84 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 57 20 82 はぁんきゃわっきゃわ><* 露ったまのおぼうしもふもふさせてくらしあ 外出たくないよお 85 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 57 39 82 かまいいけろズレズレお 86 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 58 31 85 ばびれ? AAエディタれつくったんらけろ 87 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 59 12 85 ズレらなくて息らない? 88 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 59 26 82 きゃわあああああああああああああああああ 89 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 11 59 40 86 あれ?じゃあ漏れらけかも><。 木綿ね 90 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 00 01 ずれてないお こめろぎゃわわん 91 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 01 34 まんか月曜の昼らおにしと多いおね しとのこと言えないんらけろね^^* 92 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 03 25 つ昼休み 93 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 03 28 今週末世界会議ら はぉん行きたいけお我慢ら 94 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 04 12 おこめと露たまに雪合戦やらせたらちょっときょわわ>< 95 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 04 49 89 漏れも腰のとこズレてるお なんれら><。 96 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 05 08 94 石とか入ってそうらね 97 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 07 57 95 らおね;;なんれかしあ 98 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 10 15 厨ちゃんが騒がないといいのあ 99 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 10 19 めヮめ<このスレッドはシーランド公国によって監視されています 100 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 10 52 会議どれらけ厨ちゃんいるか楽しみら 企業主催のイベベらときっちりできるものかしあ? 101 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 11 58 原稿修羅場のわけわかんなくなってる日記が好きらお もっと皆アホホになってかいてよぉ^^ 102 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 13 18 頼むお貴方;;; 三毛前に2度目のK出動は脂肪フラグら>< 103 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 14 09 様子見に行ってみたいけろ めぼしいサクルもいないしアンヌロはアレらし ヲチらけれ行くのもなんらかのあ 104 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 14 57 なんとなくらけろ漏れ神は原稿終わってるような気がするお 原稿明けってぼーっとして日記かくのもまんどいのかしあ 105 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 15 03 3の倍数と3がつくページらけアホになる原稿 106 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 17 02 105 それ茄子れあったお 107 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 18 02 106 ばびかお><; 茄子ぬごいのあ 108 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 18 51 世界会議ってまだパンフの価格決まってないんらな 貴方イベって毎回結構ボッタらかあ1000円ぐらいいくかしあ 109 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 20 13 貴方の委託販売方式っていつもうんこらおね ティアみたいに工夫すりゃいいのに何度もやってんらかあ 110 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 20 14 80P1000円らってお 111 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 20 44 110 それはアンヌロらろ 貴方にしたらまだ安いほうらない 112 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 20 58 110 それアンヌロじょのいこ 113 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 21 54 ちびしょた18禁アンソロ欲しいよぉ><; 早く企画しまいとショタ禁止法案ができそうらよお 114 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 22 24 ミ´」`]<こんとんじょのいこ 115 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 22 53 虹ゲンショタペド禁止になったあ漏れのヨネケン同人とか ちゅなたん同人とかテヌプリ同人とか全部処分しなきゃいけないのかのあ 116 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 23 23 115 ちゅなたんは高校生らかあ大丈夫れす^^ テヌプリは中学生らかあらめぇ 117 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 23 37 まんかだんだんえなりが愛しく見えてきたお… 118 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 27 22 69 殴られてタンコブ出来て縛られてるのかとももった… 119 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 28 04 117 ミ´」`]<すまん…身も心も俺はカマスのもの… 120 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 28 11 70 ちげえ><; ハックあ親に虐待されてた白人ホームレスれす 121 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 28 12 悪魔(あくま)・・・役所で受理されず父親は覚せい剤で逮捕 海月彰(かるあ)海聖亮(かしす)・・・火事でどっちかが焼死 凱鳳(がお)・・・親類と遊びに来た川で 稀夕(きせき)・・・祖母に殺害される 豪憲(ごうけん)・・・近所の女に殺害される 柊羽(しゅう)・・・スペルマン病院から誘拐される 聖那(せな)・・・父親の車に轢かれ死亡(セナの死亡事故後に命名) 斗夢(とむ)・・・脱輪したトラックのタイヤに轢かれる 騎士(ないと)・・・父親の知人に誘拐される 楽(のの)原始(げんし)・・・母子家庭半焼で焼死 日々太(びいた)智足(ちたる)・・・温泉地の毒ガスで一家全滅 晴日(はるひ)・・・旅行先で父親がボディプレス、死亡←new 愛彩(まなせ)・・・母親ともども、車ごと池に転落、死亡 黛華(まやか)・・ベランダに置かれたポリバケツに乗り、4階から転落死 真琳(まりん)・・・母親の元カレに刺され死亡 真鈴(まりん)・・・両親がパチンコ中に自宅が火災になり焼死 悠海(ゆうあ)・・・防波堤から海に転落し、水死 優亜(ゆうあ)・・・キチガイ同級生に殺される 優民(ゆうみん)・・・火事で母と兄とともに焼死(母の名前は民香) 俐緒(りお)・・・両親パチンコ中、駐車場で5時間車内放置され熱射病死 龍櫻(りゅうおう)・・・犬触れなくて家出し、湖で水死 龍翔(りゅうしょう)・・・母親に埋められる 夢路(メロ)…夢に向かってフルパワー→デリヘル 122 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 30 30 イベベよりもザホンらおお 予約してない漏れが当日手に入ったあ奇跡 123 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 31 19 ツナ中学生らろ ちびたりと神ロああの時れも何百歳のはずらかあ もちゅってもおkおね^^ 124 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 32 37 予約した本屋かあ電話がきて入荷かお!とももったら 確保れきませんでしたあ という夢を見て沖田お 寝汗びっしょり 125 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 32 47 123 残念ながらあえ外見かあ判断されうお 126 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 32 48 122 通常版らったらぬつーに手に入るんらない? 特捜版も案外ぽこっと置いてあったりしてのあ 127 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 32 53 しっこ我慢しすぎてちぬかとももったお>< 128 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 33 09 123 そんなこと言うとヲチれ叩かれるお^^ ちびりすは推定200歳ぐらいなのれショタペドらありません>< って冗談でほんに書いたやしが法律に触れるってまかってやってたんら!逮捕ら逮捕! って大騒ぎになってたもも 129 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 33 59 つまりかばでぃやあとべたまやてづらあ中学生に見えないかあもちゅってMOKEかお 130 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 34 03 127 なんれ我慢しちゃうんらもまいのばや 131 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 34 09 122 首都圏の大型書店なあらいたい積んでそうなイマゲ 132 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 34 38 さなだ副部長も余裕らな 133 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 34 45 あめちびの深遠な瞳はどうみても幼児のそれれはないのれ もちゅってももけれすね ちょっと体が小さいらけれすし 134 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 35 46 133 警察のしとが理解してくえるといいのあ^^ 135 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 36 33 132 副部長なら今もれのしたで喘いでるお? 吹きすさぶ風のように喘ぎ林のようにうごめき火のように熱いケシ穴に 山…山のようなおちんこら! 136 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 36 40 130 おこめてんてーの話が終わらなくて><; てんてーほっほーいばっか言ってて殴りたくなったお><;; 137 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 37 45 135 ちんぽゅてんこもり怖いよぉ>< 138 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 38 02 ざほんあ特装版狙いじゃなきゃぬつーに山積みらろ 明日はぬつーに並んでそうら 139 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 38 06 エロいだけの小説は嫌! って誰もが見れる所によく書けるのあ さすが第一人者(笑) 140 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 38 08 ポケモソ事件のレポ読むと今れも鬱になるのあ 141 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 39 04 135 アイシラテニスれあんな死闘なんらから 69らとどうなるんら? 空飛んだりするのかお 142 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 39 20 特装版も積んであるイマゲらけろのあ 女性向けと男性向けらとちまうのかお 143 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 40 32 男性向けの特装版は半年後れもらいたい入手可らおな 144 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 40 41 さっき朝もはん食べたばっかりなおに もうもなか空きまくってるお^^; ちびりすと一緒にりんご食べてくるおっ 145 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 42 06 144 むらやましいのあ まんか胃がシクシクしてて食欲湧かないお もれのカップヌードルカレー><。 146 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 43 10 正面きって可愛いれすねって言われると嬉しいよりキョドるのあ もれ今人生一度のモテ期かもらけお何もない人生のが面倒らないのあ… 147 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 43 53 145 144らけお 漏れ土日に胃がシクシクして 胃薬と素うどん以外あほとんろ口にしなかったんら なおに卿あこの有り様ら もまいの胃も早く治るといいのあ 148 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 44 04 児ポ通ったのかお? 149 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 46 14 ケプ表記にABAれす って書いてるのって 八割くらいぬつーのABらおな 150 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 46 37 146 藻舞のレス見てももいだしたけお 可愛いって言われ慣れてる子あ 今更きゃわわって言われても飽きててむれしくないらろうとももって きゃわわっれすねって褒めなかったら ぬげー不機嫌になる子が多いらしいお まあ漏れにあ関係ない話れすが^^。 151 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 47 59 露ったまきゃわわっ 152 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 48 22 149 ぬこぬこしてないかあ ABって言い切るのあれかしあ? ぐらいな心持れつけてるとももっといた方がいいおね 何度騙されたことか><;;; 153 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 49 39 ABA表記はせっくるしてないなら別に気にならないお 一応せっくるしてるような描写があるおにABAは???らけろ 154 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 50 23 150 藻舞もかあいいお^^* 155 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 50 29 151 (*^J^)<ありがとう 156 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 51 27 149みたいにももって信じないで開いたら 本当にAとBが刺しつ刺されつぬこぬこしてて ああもれリバ苦手らと管理人さんに申し訳ない気分になりますた ABA表記が狼少年化しない事を祈るお 157 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 52 51 149 四割 ももらち以上ケプ未満 セクロスなし 三割 自称精神的リバもしくあ逆 実質ABオンリー 二割五分 AB・BA混在 五分 ガチリバ こんなイマゲ 158 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 53 03 155 きゃわわわわわ><* 漏れの嫁になってお露ったまぁ 159 名前:名無し草[] 投稿日:2008/12/08(月) 12 53 17 ですね ageますね 160 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 53 38 まんかバイオレンスな誤字してるけろ気にしない 161 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 54 05 漏れの過去ザンルのももらちあ ドジン板のビズン作家を探せヌレれ何度も晒されて ファッソンモデルのバイトもやってるぬげービズンなんらけお 本人にビズンって言ったら嫌がってたのあ オタ友とあオタ話がしたいおにいつも容姿の話されて 嫌れたまらないって言ってたお まあ漏れにあ関係ない話れすが^^。 162 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 55 40 161 藻舞もビズンらお^^* 163 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 55 46 150 そうらとまかっていても漏れはびゅーてぃぷりちィちびめりに きゃわわきゃわわきゃわわきゃわわきゃわわっきゃわわわわわっ!^^* と想いを伝えなければならないのれすなぜなら漏れがちびめりの愛の奴隷らかられす 漏れ<ちゅびめりは今日もきゃわわれすね!レロレロしたいれすっ><* *・o・)<うん、俺が可愛いことなんて知ってるんだぞ! はああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!! ちびめりグチャグチャにしたいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! 164 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 56 31 163 24した 165 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 12 59 00 もひる休みに電車れカタログ買ってきたおに お隣チェックするまえにも休み終わっちょった><。 166 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 01 00 職場のお姉様方にもけしょうなさい髪伸ばしなさい染めなさいて色々突っ込まれちょった>< すいましぇんもれ今一応薄化粧してますう^^。 誰かもれの顔にあった化粧の仕方もしえてええ 167 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 02 24 166 じゃあ顔晒せお バビレスすると化粧板池はい次 168 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 02 25 165 仕事に戻る前に漏れのお隣を教えてよお>< 169 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 02 40 ハラシアやるとぬげー太るお 制服のスカートがむっちりちてきちょった>< 170 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 03 27 168 喪前の隣あ漏れら^^* よろしく頼むおっ 171 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 03 34 おにゃのこは心がければ誰れも きゃわわっになれるとももってるおに 自分がきゃわわって言われても建前まり^^*ってももっちょうお 172 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 03 46 168 サクル名もしえてくれたあすぐもしえてあげるお^^^ 173 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 04 03 もれの隣別ケプらった 174 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 04 04 157 もれ的には1~2行目の会わせ技七割らとももいますお 二人は精神的には対等なんれすって主張が後半BA部分にこめられてるイマゲ 受けBが攻めAぬきぬきらったりするらけれもABA表記されるしお 175 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 04 26 170 もまいもケベかお^^ 優しくしておね^^* 176 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 05 23 172 ちびめりdeぐちゅぐちゅ 177 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 05 40 もれの隣別ザンルらった 178 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 06 01 もれ固定ももらからABA表記らと読まないお そんな当てにならない表記らったのかお 179 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 06 57 177 六個くらいに限定されるお 180 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 07 20 175 茄子しゃま茄子しゃま!! 厳冬CDについて一言もねがいします! 181 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 08 17 180 どぅるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるほっほーい☆ 182 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 08 41 180 もれケプ 一人 勝ち 183 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 09 25 177 身バレもちゅ 184 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 09 29 米露米はがちでさしつさされつがいいよぉ ワォ!次は俺の番なんだぞっ! もう、あめりかくんったら…お尻から僕の出したのがたれてるよ? さしつさされつって大変らね 185 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 10 53 こんなにキャラがいっぱいいるおに 一つのケプらけ突出って ヘタ以外れああんもし見たことないお 古キョソあぬげー割合高いけお全体的にキャラ少ないし 無能豆も多かったけおキャラ少なry 186 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 13 31 親知らず抜いたお ばびれ疲れた 顎外れるかとももった 187 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 13 34 182 茄子ううううううう^^## 188 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 13 53 184 リアルに想像するとあまりふつくしくないのあ 801はファンタジーれいいお 189 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 14 40 186 某主しゃまれすか? 190 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 15 07 ケケイルとかサンゾロあザンル内割合ぬごい高かったんらない? 191 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 15 12 モノカルチャーは外部との競争や情勢の変化に弱いと習いますた つまり はいはい誰れすかー 192 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 15 22 181 虎馬らめぇ;; 193 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 15 52 185 キャラの人数と突出っぷりは不利にちかいかしあ 194 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 15 59 茄子は茄子ってザンルらしのあ あのしとたち本家は倉庫掃除しか読まないってばび? 195 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 16 24 茄子の流行れももうのあ 身長差萌えの層あ厚いということれす これ同身長らったら絶対海老の方が多かったともも 196 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 16 27 189 もれは海鮮れすお>< 某しゃまなんて恐れ多いれす あー昼もはん食べたいお 197 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 16 54 193 あー近いかものあ れも不利あ主人公ケプらし 198 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 17 42 リバ表記らないけおもれAB単一れBAあ嫌いらないけお読まなかったんら そしたあAB知り合いの間れ「あの斉藤萌えますおね」みたいな話になって AB斉藤かとももって行ってみたあBA斉藤れ話に乗れなかったお そのしとBAらおにABに進出してるみたいれもにょったお なんれ逆ケプ侵攻するんら? 199 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 18 46 茄子しゃまは倉庫掃除しか読まない ちぃおぼえた 200 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 18 52 そーーーーなんっっっすっ! 201 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 18 59 198 逆も好きらから 以外に何の理由があるのん 202 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 19 02 195 そうかお? 同身長れも童顔ツンデレのが受けになりそうらけろ 203 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 20 56 195 同身長ら変わんねーらろ いぎすより頭いっこぶんおこめが低かったら海老流行るとももうお 漏れにあ低身長受けぬっきな子の気持ちあまからんけろ 204 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 21 58 のあのあ通常版と特装版って何が違うんら? 締切の息抜きに来たあ海老だの啓蒙サイトらの 相変わらず藻舞ら訳わかんないお 205 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 22 04 そうかのあ ・矢印が眉毛→おこめ ・陽気×陰気の方が逆より受けがいい これ王道ケプ好き層狙えるお 206 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 22 38 201 斉藤あBAごり押しらおに好きっていあれても 絵チャとかれ話したことあるしとしかまかんないお 207 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 22 45 あ、逆ら><; ・陰気×陽気の方が逆より受けがいい ら 208 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 22 58 204 特捜版にあ通常版にあつかない豪華特典がつくんらお それもずばりまよげとカマストリアさんの着せ替え絵本ら 209 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 23 17 204 小冊子がつく 表紙がちまう あとあ知らない 210 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 23 19 今年もファミマに無印のしゅんぺいんちの雪玉きたお ウママウママ 紅茶に合うおおお 211 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 23 33 天然×つんでれはいつの時代もウケがよい 212 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 24 01 208 ネタらと分かってあいるおに 心の底からイラネーってももった 213 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 24 03 206 あー確かにABの集まりれ逆斉藤萌え語るのあKYらのあ それあもにょるお 214 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 25 11 210 あえコーヒー向けの菓子なキガスお ウママらおなあれ 215 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 25 46 211 いあ卿しゃまのスーパー攻めしゃまぶりも負けてない 216 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 27 14 ざほん出たあまた鉄板厨のみなしゃまがここれグチグチするのかしあ 楽しみらおお^^ 茄子と独襖満載らといいのあ 217 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 27 25 paipan 218 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 28 13 !!!!ベラたんの指バッキバキももしやツンデレ故の…!?!? 219 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 29 07 218 えあ様もちゅ 220 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 29 22 218 様乙 221 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 29 28 218 様もちゅ 222 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 30 22 へさべさに目を凝らさなくても 様のレヌが見えたお 223 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 30 43 リヒ総受け厨ぬぜえええええええええええ 224 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 30 55 219-221 重婚かお おめめ*^^* 225 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 31 26 とりゅとりゅに白スク着せたい全身にいい匂いのするオイルをとろっとろにかけた後に まらここにはかかってないおね…?って後ろから詰め寄って脇の横から手を差し込んで 「…っあ、やめっ」と喘ぐとりゅとりゅのもっぱいを揉みしだきない 股間に溜まったオイルともとりゅとりゅの白濁した烏賊水ともとれる液体を ゆびでとろりと掬いとって乳首の先を擦りたい 226 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 31 47 ぽべら見たいお 227 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 32 36 208、209 親切にまりまー 表紙違うのって困るのあ 間違えて買うしといたあどうするんら出版社のアホホめ まよげとカマストリアってなんら ちょっといない間に進化しててぬげーのあ じょあ原稿に戻るおっモイモイ! 228 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 33 50 227 待てお>< おまけの小冊子は魔王謹製らから四天王はいないはずら! #8230; #8230;たぬん^^; 229 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 34 18 223 リヒに限らずこのザンルのノマ総受け厨は痛いお れんれん空気読まないし 230 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 35 06 もひるごはんむままらったお デザートあもいもいかきゃなたんろっちにしようかしあ 231 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 35 15 あのことあのこ魔王最近セットにしてくれないお…… 232 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 36 02 眠いお れも寝たら死亡フラグが 233 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 36 16 225 とりゅとりゅはぁん^^*** 234 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 36 30 漏れ世界×世界の肉便器リヒたんなら見たい 235 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 36 31 売れ売れっぽくしてるあのオヴァ様 大阪へいくのが夜行バスとからかあ 実はあんまり売れてないってバレバレなんらけろのあ 236 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 36 42 231 それおんもれ茄子しゃまが言ってるとギギギってなるお 237 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 38 18 漏れのあの子達がセットれ登場したのあどんくらい前かしあ あの子が最後に出てきたのあ4月れす^^。 238 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 38 25 236 そえは漏れもぬかつくお…… 茄子くあい一緒らったら漏れはパライソらお 239 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 38 26 あの子単品のほうが少ないかもしれんお 240 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 38 41 深夜バスはウトウトしだしたところれSAにつくのがきっついお れも結構ぬっき こんろ大阪行く時乗ろうかしあ行きらけ 241 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 38 51 235 大手らけろ夜行バスたのちいお? 242 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 39 53 ガチムチらなくて身長170センチないおこめなんてやらあああああああああ むちむち二の腕でむちむちなお尻で笑顔がきゅーとれ元気いっぱいのおこめがすちれす 243 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 40 08 234 って話を他ノマケプに押し付けすうしと多いからうざがられるんら 244 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 40 45 240 そら便所がついてない安いバスにのってっかららろ 245 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 40 54 お米はムキムキ お米はデブ 246 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 41 20 245 デブらありませんー がちむちれすぅ むっちりれすぅ 247 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 41 27 よし決めたおろっちももちゅる^^ もいもいときゃなたんのほのぼのコンビをもちゅもっちゅもちゅちゅっちゅ 248 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 41 36 お米はデブ 249 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 42 11 244 こんろは3列シートに座ろうかのあ… 250 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 42 22 きゃなは魔王の嫁候補らったけろそうれもなかったのあ 251 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 42 37 レ*甘ヮ甘 <帝都に住めない貧乏人どもめ 252 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 42 46 248はおこめの耳にそう執拗にささやきました いい加減にしてくれよっ泣いてしまうおこめに248はいいダイエット方法があるんらお、 とお薬と運動療法を提案するのれす 253 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 43 02 250 常に「さん」付けなところを見ると聖域かもしれんお^^ 254 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 43 21 魔王の嫁ってほのぼののんびりオトメンくさい地味メンが多いおね 255 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 43 31 251 ばびれしえ…ばびれ 256 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 44 45 251 ^^##### 257 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 45 07 (*=ヮ=)←ほのぼの (;゚д゚)←オトメン d*´ヮ`←地味メン 258 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 45 34 漏れ帝都民れ日曜暇らけろ行かないお ……別に本がなかったかららないお なかったけろ ないのはあのこ達が人気ないかららないお 行かないお 259 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 46 00 243 えー、らって総受けって〇〇が愛されてればそれでいい☆って傾向れそ? 漏れ愛も無しにたらの肉穴として扱われてグショグショになったレイポ目のリヒたんに 欲情して手を出しかけるけろ理性で圧し殺したブレネリを誘うびっちリヒたんなら見たい 兄さま…汚れてしまった私を抱けますか? …もうずっと兄さまに触れていない気がするのです みたいなお清めもちゅもちゅ有みたいなの 260 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 46 49 259 はぁん><*兄妹最高らおっ 261 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 46 57 258 ミアナがんばってお またおらって冬はがんばったんら! 262 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 48 08 のあれもリヒたんとブレネリってほんろに兄妹なのかお 263 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 48 44 〓<あめりかぁ…きもちいよぉ…あっあっ 264 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 48 46 ブレネリとリヒたんあ清い兄弟れす>< 胸…あったほうがいいのか? 兄さまにはわからないんですっぽこぽこ な感じの 265 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 49 28 262 露たまとベラたんぐあいの兄妹らとももう 266 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 50 15 ネタバレあここれいいのかしあ? スットコ兄さんいたお 眉毛受けあ大歓喜の悪寒 267 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 50 31 漏れはべべべ兄弟みたいな感じの兄妹れはないともも よく見るとあんもりリヒたんとブレネリ似てのいし 268 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 50 41 263 厳冬へ帰れ^^^ 269 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 04 ろうしてここでいいとももえるのかがまからんお フリーダムにバレヌレあったんらない 270 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 05 266 ぴいいいばびかおっまりまー 一応フリーダムがいいのかしあ 271 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 08 266 ほっほーい!ほっほーい!ほっほーい! 272 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 22 266 フラゲかお 独襖はろうらった? 273 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 33 266 他には? 274 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 41 266 もちゅん れもほっほーいショックから抜け出せないのれ 自分の目で見るまでは信じないお^^。 275 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 42 露たまとベラたんより他人らない らってリヒたん前あ襖さんとこにいたんらろ 276 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 51 53 263 回∀回<君じこみのふぇらちおだからねっ!次は俺にもやってくれよっ! 汚染米のそそりたつ巨大なロッキー山脈をつきつけられてまよげあ思わず 277 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 52 11 スットコ捏造早漏斉藤壊滅セヨ 278 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 52 28 バレヌレによろろん 279 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 52 34 まゆげ厨大歓喜かお… スットコあ楽しみらけろ複雑 280 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 53 12 漏れまよげ受けらけろ 茄子単一らかあ…らのあ… むしろきゃなたん登場時のような焦りを覚えるのあ… いっそ海老にいこうかしあ おこめと他の子がくっつく分にはあまり気にしないし 281 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 53 17 266 オタ系本屋とかれもう入荷してるのかお? 282 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 53 27 まゆげ厨てかまゆげ総受け厨らけらないかしあ 283 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 53 37 こう考えるんら バビネタならバレヌレに書く れもここに書いたということは #8230;? 284 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 53 44 276 ロッキー山脈てきゃなたんちまれあるおね 共同ちんぽゅ… 285 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 53 44 275 リヒたんあゲルマンみんなのいももらったらきゃわわ pお兄様 襖お兄様 どいちゅお兄様 286 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 13 280 かあってるのあ 攻めあ単一れ受けは浮気おけのしとのが普通多いかあ 他の眉毛受けは大寒気らとももうお 287 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 32 266 早売りろこれ買った? 288 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 38 280 280 280 289 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 38 信じないもれは信じない 発売日明後日らおね 明後日まれ信じない 290 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 39 280 なんれわざわざここれじぬんのケプを言うのかしあ 291 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 53 283 これあ釣りらな!やふっ 292 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 54 54 280 茄子メッセヨ 子きゃなはいらない子なネタ書いて喜んでた茄子メッセヨ 293 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 55 19 284 *[]∀[]<もっと激しくこすりたててくれよっ君のロッキー山脈! *´○ヮ○<あめりかが激しすぎるから力が抜けちゃうよぉ! 294 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 55 21 282 まゆげ厨てほとんろまゆげ総受け厨らけろね 295 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 56 24 ネタバレ ベベべたんが童貞捨ててた^^ 296 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 56 37 294 そうかしあ 茄子単一とJK単一と茄子・JKかけもちで8割な芋毛 297 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 56 52 きゃなたん出現れ焦ったのあ めりきゃなを警戒してた茄子たんらとももったお 298 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 57 00 ネタバレ 襖さんがどいちゅに告白してた 299 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 57 08 挿入なしでちんこすりつけあいっこがいいのあ~ 300 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 57 14 295 えーっ!マジー!?ほーんとー!? 301 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 57 17 295 ほっほーい!ほっほーい!ほっほーい! 302 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 57 46 よしんばすっとこ兄がバビらとしても 漏れはいぎす #215;すっとこ兄になるららのれ無問題^^^ 下克上萌えを標榜してるしとは当たり前れすおね^^^^^ 303 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 58 01 ネタバレ あのこがもれにもちゅられてた^^ 304 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 58 02 また眉毛受けかお…もうやらやらリヒたんもちゅるやらやら 305 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 58 11 ネタバレ ハンガリーしゃんが男の子らった 306 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 58 12 297 漏れあきゃな眉当て馬モードがいやらったんれす まちまえてきゃなと寝る眉毛とか増えそうらとももったし 実際あったし ビッチ眉毛とかちらいれす 307 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 59 00 306 海老になったらしああせになれるお*^^* 308 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 59 01 ネタバレ 眉毛がぬほんと駆け落ち 眉毛がふらんしゅと結婚 おこめの誕生日に眉毛主催でパーティする 309 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 59 11 ネタバレ リヒたん非処女らった 310 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 59 37 306 茄子あ黙ってろお 311 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 13 59 53 じょあもう1つネタバレしとくお p燃料と襖燃料が多めらったかしあ ビモウに独pの燃料に繋がるかもしんのい 312 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 02 こ の ヌ レ は ほ っ ほ ー い に 占 拠 さ れ ま し た 313 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 05 リヒたんの穴は指いっぽんれもきゅうきゅうに締め付けてくるおっ 314 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 07 ネタバレ やまとあボーボー のとやまセックル 315 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 09 あからさまなガセが増えたけろ 295らけ信じとくお 316 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 13 ネタバレ 襖さんがどいちゅのしゃぶってた 317 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 40 306 もっともらしいこと書いてるけろ 茄子が減るかもとももってきゃな叩きしたんらろ^^ 318 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 47 311 また信憑性の高そうな… 319 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 00 48 ネタバレ 三巻からアドリア海の女王とバルト海の乙女主人公れヘタキュア^^^ 320 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 01 14 ほっほーい!ほっほーい! 321 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 01 29 独pとうとう接点来たのかしあ 一気に増えそうらのあ 322 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 01 49 ネタバレの子どこれ買ったかもしえてお 323 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 01 54 ネタバレ ベベたんが童貞を捨て どいちゅが処女を捨てまちた;; 324 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 02 09 250 魔王の恩師らしのあ 325 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 02 17 独p第一人者(笑)目指すおっ 326 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 02 42 323 漏れケプ勝利…だと…? 327 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 02 50 フラゲした子はバレヌレに投下しやがれよ!!111 328 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 03 01 またおメッセヨ!メッセヨ?ほっほーい! 329 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 03 05 314 ばびれ?むれしい^^* 330 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 03 11 ネタバレ たぬん独襖とか普受けとか茄子大歓喜 反対に独伊襖洪はたぬん吊るかザンル抜けるこ出そうらなこれ 331 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 03 17 のとたんに精通がきますおうに 332 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 03 28 まゆげ厨と襖厨歓喜かお ももしろみがない結果らのあ 333 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 03 31 バレスレ行かないネタバレは信じないお 334 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 04 05 330 ほっほーいっぽいっけろ もれの予想と同じら 335 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 04 10 321 接点というか互いの感情というかp→どいちゅが本家れあったけろ どいちゅ→pも匂わせる感じらった 336 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 04 49 335 それあ来るのあ 337 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 04 56 襖厨の漏れはメディア展開のたびに心臓が痛いお 338 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 00 332 眉毛厨襖厨らからこそ 厳冬の息がかかった改悪に萎えるのれす 339 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 17 アヌメのブレリヒの布陣を見るに 2巻れてこ入れされてそうなんらけろのあ^^^ 340 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 26 ほっほーい;;ほっほーい;;;;;; 341 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 49 茄子しえ 342 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 50 トレカ組はどうかしあ 捏造厨はメッセヨ 343 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 50 ネタバレ おこめが日本に怒られて暗転アッー!ってなってた 344 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 05 58 新刊出せない精神状態になりそうらかあ脱稿後にしようかしあ^^。 345 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 06 14 レ*甘ヮ甘 <ほっほーい 346 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 06 28 おこめはくぎゅがいいれすううううううううううううううううううううううううう><;;; 347 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 06 40 とりあえず独伊襖洪の子は心の準備して読んでね 折れる覚悟してれば折れても立ってられるお 348 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 06 41 338 れもろうせざ本れは楽しんでるんれそ 349 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 06 42 203 頭いっこ分低くても腕力の差がのあ 車引きずって歩く受けあ流行るらおか… 350 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 06 51 みんながあたふたしてる間にもいもいもちゅった 351 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 07 02 339 うん、らから襖関連れブレリヒの燃料はあったと言っていいとももう 352 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 07 11 きゃんはまたはぶかしあ 353 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 07 14 346 別に変らないおね くぎゅおこめ なんであんなおっさんがお米の声なんらおちえ 354 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 07 23 347 そのケプらないけろそこ折れるのあみり 355 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 08 02 349 盾れは初期に車引きずって歩くガチムチ低身長受けが流行ったお 356 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 08 08 襖さんちらいら 357 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 08 28 343 ぬほんがおこめにキスされて暗転アッー? 358 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 09 09 354 いあ鉄板の子あ魔王に準ずる子が多そうらから 魔王が書かなくなったらあっさり折れそうらお 359 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 09 12 レ*甘ヮ甘<ネタバレ レ*甘ヮ甘<本田しゃんとANAが事故キスれしゅ…/// 360 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 09 15 おこめ~エンジェル~おこめ~ヒロイン~ 361 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 09 18 漏れも最近襖ちらいら ぬぜえおあいつ 362 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 09 20 352 きゃんはハブらけろロリ仙はそこそこらな そんあに大活躍れはないけろ 香たんは出てこなかった 363 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 09 56 風邪ひきベベベたんが唯一独と伊が同じコマにいる漫画とかかしあ 364 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 02 魔王もやっぽし独襖らったんらな べべべざまあ 365 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 02 ネタバレネタしてる子一応言っておくけお 引き際あ見極めろお 366 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 04 359 それを見ていた卿しゃま =<ふしだらな雌豚め!不潔だ! 367 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 22 もれカマスのおかげれ襖さん贔屓気にならなくなったお^^ 368 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 27 とりゅとりゅは1コマらけでもでてますか 369 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 36 漏れ独伊襖洪厨じょのいけろ その2ケプは聖域みたいなものらかあ 厳冬改悪されると泣けるお とくに前者無視られたあタイトルに偽りありらない 370 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 44 365 もめん そろそろ黙るお 371 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 52 いぎすさせたい子がアップをはじめたお><; 372 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 10 52 363 そんな感じ べべべたんはほとんどどいちゅと絡まないお 373 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 11 36 362 えええええええ 漏れの香たんがあああああああ 吊ってくるお… 374 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 11 46 369 改悪らないお 魔王直筆ら 375 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 12 28 独伊襖洪たんあメディア展開以降ずっと冬の時代らのあ 376 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 12 32 べべべたん…単独でアホホ担当 377 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 12 36 魔王が書いたの気に入らないなあ出てけばいいおに 378 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 12 52 前回出番のすくなかった バルトと波とスーさん埃あたりは出るかしあ 個人的にはおにゃのこの出番欲しいお 魔王のおにゃのこかわいいお 379 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 12 57 371 カマスショック以来もとなしかった層がこれから暴れる予感ら 退避しとこうかしあ 380 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 13 22 373 捏造香たんもちゅ 381 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 13 47 378 ……まあ頑張って読んでね 382 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 13 50 370 なんでバレスレいかないの? 頭腐ってんの?今すぐ死ねば? 383 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 15 374 編集改悪ってことら 厳冬はタイトル900回見直せお 384 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 22 382 基地害にかまうなお 385 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 48 のんのかのネタバレも悪意の透けて見える切り取り方らったしのあ 昨夜も鉄板気取りぬざざって言ってはばからない子もわいてたしお 386 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 50 らってバレスレの場所知らないんらもん 387 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 52 事故キスれ唇切れるの萌えるお 388 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 56 383 れも書いたのは魔王らろ 魔王否定すんなお 389 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 15 22 383 べべべがへたれならいいらない別に 390 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 15 40 381 沈黙が藻前の答えなんらな… 締切明けるまで封印しておくお 独伊襖洪じょのくても心が折れそうら 391 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 16 04 382 方言><; あとしとに死ねとか言っちゃらめれす 392 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 16 04 独伊ざまあ 早くメッセヨ 393 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 16 29 ベベベ主人公じょのくなるのあ寂しいのあ;; 394 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 17 08 誘導 the本バレヌレ http //jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/10108/1206539458 395 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 17 15 釣りばっかりらよお><; 396 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 17 19 入手先言えないって事はこっそり早売りしてる書店員かお 397 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 17 32 魔王あ気分屋らし独襖がよくなってきたんらない ちびたりあも消したい過去かもしれんお 398 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 18 03 萎えたお 漏れ冬れ撤退するかも 三大らし漏れ一人いなくなっても何も変わらんけろね 399 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 18 20 まあまあ皆さん…あの子リンカーンして落ち着こうよ 400 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 18 31 もまいらゲスパーしすぎら 落ち込むのあ読んでからにしろお 401 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 18 52 先に言っておくお 独伊襖洪ももはじぬんれ読む前に嘆くの禁止 402 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 19 13 まあ途中れ作風変わったらファンの入れ替えもあるおね 再生とかお 403 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 19 24 漏れも…続ける自信ないお… いぎす関係らけろ…アヌメの絵もノラマCDも いぎすがちもすぎてミリ 404 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 19 36 397 ありそうらのあ あんな編集になったのあ事実らし 405 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 19 46 ここれ嘆かれても困るから嘆きスレれも立てようかしあ 406 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 20 00 レ*甘ヮ甘 <卿しゃま愛してましゅ 407 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 20 23 399 もれ正義の味方らから落ち着けない もまいをガシッボカ!するっ 408 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 20 26 新しい旬ザンルさえれきればこんなやばいネタのジャンルいませんしー><; 409 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 20 24 396 今回も書籍扱いなら別に悪いことらないお? 410 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 21 36 406 やーっ><。もめんなさい!もうしないから許してぇっ 411 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 21 42 405 それがいいと思うお 自分で見てから考えればいいおに バレ情報で嘆かれるとぬざいお 412 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 21 44 66 名前:下手[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 14 26 ID K4HyHQU8O 空気読まず携帯で長文スマン あ…ありのまま昨夜バイト中起こった事を話すぜ! うちのバイト先は誕生日に予約するとケーキとちょっとしたバースデーソングのサービスがあるんだが、今日その名前が『アーサー・カークランド』(イギリスの人名)だった。 最初は純粋に外人かと思っていたが、実際席まで行ってみるとそいつ(自称アーサー)はどう見ても日本人の女だ。 な、何を言っているのかわからねーと思うが、 俺も最初は目を疑った… 本当に信じられなかった…予約の名前がアルフレッド・F・ジョーンズ(アメリカの(ry)だっただとか、大声で米英萌えー!のエロトークをしでかすだとか、そんなチャチなもんだけじゃあ断じてねえ。 もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ… ちなみにバイト先の店はちょっと小洒落た居酒屋と言うかバーみたいな店で、値段もそこそこだし土地柄もあってかあまりヲタやら喧しい連中は来ない。故にそいつらの話は周りに筒抜けだったし、予約を取った店長も一緒にケーキを出した同僚も不思議な顔をしてた。 …おかげで数組「聞いてた評判と違うね」と皮肉を残して帰って行かれましたとさ。 うちの店の評判を返せ 413 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 23 07 バレ情報れ煽る子もうざいお 414 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 23 12 漏れスカパー入ってなくてよかったお 無理して見なくてもいいもも 見てないからDVD出るまで話題厳禁にしておけば アニメ話題に触れなくていいもも 漏れって幸せももら…ほんとに 415 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 24 59 ネガキャン⊂レ*甘ヮ甘⊃終了 416 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 25 10 そんなにザンルの状況が嫌ならでていけばいいのにお 417 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 26 45 そして誰もいなくなった 418 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 26 47 露たまとおこめの噛み付くようなチッスがみたぁい 肉食獣ろうしの激しいもちゅりあいがみたぁい 419 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 27 24 414 もれこもも駅見れるんらけろ 家族と同居中れ居間にしかテレビ無いからろうしようかと ヲタなの隠してたんなら諦めもつくけろヲタ全開れ生きてるしのあ 国擬人化にはまってる事あバレてないからびもうに悩むお 420 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 27 25 おこめはうさぎさんれす 草食れす 421 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 27 34 412 そんれ最後にショーウィンドウ割って国辱だ!って叫ぶ 外人のもきゃくさんれもいたんらな 422 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 27 56 419 DVDレコーダーもない貧乏人もつ 423 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 28 06 *´○ヮ○<(二巻はきゅーばさんが活躍しますように) 424 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 28 43 422 うるせー^^。 やり方聞いてVHSに録画するかのあ 425 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 30 26 プププ難民どもよ漏れの手のひられ踊るがいい^^ 426 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 30 51 きゅーばさんのパンツが落ちてたんらけろどうしようかしあ 427 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 31 05 425 デデデ大王めー ゆるさないぞー 428 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 31 14 もれもう本家らけれいいや^^ ミナゲンさーがそっ 429 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 31 19 ネタバレしてた子、ネタバレ板によろしくらお 買ったお店も書いてくれお 430 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 33 07 買ったお店って実名表示するのかお? 431 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 33 35 一応分かる程度に伏せるのがマナーじょのいかお 432 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 33 38 しと殺到するかあやめた方がいいお 433 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 34 20 424 スカパーのない漏れの分までがんがっ メディアミックス敵視するつもりあないけろ 魔王の話以外興味ないんら アニメ化やドラマCDではしゃげる子裏山 434 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 34 40 あんまり遠いようならわざわざ買いに行かないお そもそも難民見てるの何人くらいなんら 435 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 34 56 432 それ以前に2に晒される本屋とかかあいそうらお 436 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 36 43 書籍扱いは早売りとかないんらっけ? 発売日は目安って1巻れ知ったお 437 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 37 04 個人書店ならまらしも兄とか虎なら別にいいんらない 438 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 37 42 175ヌレのおぬぬめ欄がぬげーのあ 175メッセヨ 439 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 37 57 買った本屋示すにしても○区内とか□市内とか大まかな地域らけれいいんらない メイトとかとららったらまからん 440 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 38 10 437 そーゆーとこれ早売りがれきるとはももえないけろのあ 441 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 38 16 秋葉のとらで買ったおーとかが晒しなのかお^^; 442 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 39 08 440 もまい新規たんらな 443 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 41 11 今日あ帰りに三毛カタログ買うおー サクルチェックして落胆するのが楽しみらwktk 444 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 42 03 もういいや ろうせ漏れのあのこあ出ても1コマあるかどうからろうし 昼寝れもするお 445 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 43 01 444 1コマれも出ててしかもちょっとれも喋ってたら万々歳らのあ もやすみ~何時に起こせばいいかしあ? 446 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 44 02 漏れあのこの書きおろしがちょっとれもあったあそえで嬉しいお たぬんケプフラグはボキボキらけろそえは仕方ないもも 447 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 44 13 今北 ハイパーおつやタイムかお?おやつむまま 448 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 45 05 出かけるのまんどくさいかあ書店から電話きたら行くお ついでに向かいの書店れカタログ買う 449 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 45 50 漏れもすこーし寝るお 三時半になったらもいもいがちっすれもこしてくれるんらっ 450 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 46 33 漏れのあの子もちょっとでも出てあの子と一緒のコマが1コマでもあったら祭りら… 451 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 46 34 175スレぬかつくおおおおおお 175しえ175しえ><。 452 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 46 52 漏れ前ここれ漏れケプ燃料くるかどうかおみくじしたあ大吉らったんら らかあ漏れケプ燃料たっぽしなんら たっぽしなんらっっっ 453 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 47 20 パーン ( □言□) ⊂彡☆))Д´) 449 454 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 49 24 440 ざほんのときは前日には売ってたお で、メイト特典しおりのぬほんは発売日当日の午前れ品切れ メイトは他の本でも発売日前から売ってるのあるお もれのバイト先の書店れも基本発売日守るけろ書籍扱いは入荷時点で品出ししちゃうお 455 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 49 33 もれあもう本家らけれいいお… 厳冬臭いあの子ちらい><。 456 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 50 23 455 回∀回<ほっほーい? 457 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 50 36 今からバイト面接らお…どちどちするおぉ 458 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 50 43 453 あれ?まだ二分しかたってないれす>< 459 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 53 09 455 ◇ 460 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 53 12 456 犯す 461 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 53 59 スーさん暴力はダメです>(;´っ`)y=-)言□;)<す、すまね… 462 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 56 29 一分であのこもちゅる 463 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 57 01 めえ 464 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 57 08 462 らめえ 465 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 57 09 そし 466 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 58 16 藻前らいるなら何か話そうお 467 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 58 17 とらから発送メールがまら来ないおおおおお 三毛カタログうううううう 漏れのお隣いいいいいいいいい>< 468 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 58 21 やっぽしバレあ釣りかお まかってたけろ 469 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 14 58 36 461 そんなもいもいはもいもいじゃねーお>< 470 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 00 16 466 もい墓の話がいいれす^^ 471 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 00 31 1分 バルヨナの母のままもちゅる 472 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 00 32 ぬこさまとおこたれぬくぬくしややせ 473 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 00 32 漏れは2巻の発送メールがこないのら バレは釣りなら釣りで安心らなっ 474 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 00 43 471 めっ 475 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 00 55 467 漏れ漏れ 476 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 01 46 一秒れしかも二人かあそしされた 471 477 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 02 12 みんな! 印象操作れ踊らされないように気をつけようのあ! 自分の目れ見たももれ判断しようのあ 478 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 02 22 よく考えたあ300くあいのサクルが ヘタスペれ三毛出るのがはじめてなんらのあ そらお隣も気になるのあ 479 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 02 53 もれもとなり別ケプらったけお優しそうなしとれ安心したお とももったあリンクはってくれてたしとらった 挨拶緊張するのあ 新刊交換あるかしあ もみやげって渡すしといるのかしあ 480 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 03 08 ※がほちいけお今描いてる絵じゃれったい※もらえないなと まかりつつその絵を完成させる漏れ 481 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 03 31 殺されかけた尾 482 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 03 38 墓もいがいいお 483 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 03 47 478 漏れケプですら知らないサクルがいる不思議 みんな斎藤しないのかしあ 484 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 04 58 いぎぎぎ のままもちゅれなかったのれ ちょっくら厳冬祝ってくるお^^^ エロイギエッサイムー エロイギエッサイムー 485 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 05 05 482 しょうがないのあ じょあリバれもはなししようよお 486 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 05 17 479 交換あ必ず相手が言い出してくるまれ待てお こっちから言い出したら相手もしなくちゃいけなくなるお もみやげはなるべくさらっと渡せるものにしろお チョコあとけるお、重量的にも重いものはNGらお そのしとのためらけに用意したんならヌペ出て、お隣さんらなくて1ファンとして いつもらいぬきれす、これもらってくらしあって渡せお 487 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 05 48 おこめむみゅる 488 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 06 10 480 じぬんのかきたいものかけばいいとももうお それれ反応もらえるのが一番れすけおね 489 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 06 26 487 なすっグシャ 490 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 06 46 486 隣から渡してもいいんらない わざわざ机の前来てもらうと緊張しちょうお 491 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 07 58 485 じょあ何かネタふってくれお 492 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 08 55 486 まりまりがんばるお 493 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 09 12 ≡≡≡≡ ≡*[]∀[])≡ <ワオ!ちょっとちくちくするけどふかふかなんだぞ! ≡≡≡≡ 494 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 09 56 491 もい墓もい 495 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 10 00 お腹いたいよおおおおおおおおおおおおおおお 女になんて生まれてくるんじょなかったよおおおおおおおおおお ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおお 496 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 10 57 493 独立して自由にやってきたつもりのおこめ しかしそれは全ていぎすの眉毛の上で遊ばされていたらけらったのれす 497 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 11 04 495 もまいの母ちゃんもその痛みに耐えて、もっともっとぬごい痛みにも耐えて、 もまいを産んでくれたんらお 498 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 11 32 墓さまのメガネを使ってメガネプレイとかどうら? 499 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 11 58 491 ひっくり返しても使えるリバーシブルジャケットて 実際リバって着た事あるかお? もれ片面しか使わないんらおね 500 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 12 54 495 そのうちちんちん生えてくるかあ 気にすんなお 501 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 13 01 477 そうらおのあ 先に○○が多いとか聞くとそれに目がいって なんとなく多く感じちゃう時あるもも 502 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 13 36 499 小学生のころきてたチェック柄とベージュのリバコートはかまいかったお^^* 503 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 13 37 499 漏れも片面しか着ないけろ なんか話が飛んだ気がするお 504 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 13 40 497 藻舞カクイイ;; 505 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 14 44 501 え、もれ先に○○が多いって聞くと 実際あなんら少ないらないってももう派 506 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 16 06 ウニクロのデニムひっかいたら爪青くなった><; これ漏れの洗い方がわるいのかしあ 507 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 17 14 505 藻前厳冬CD楽しく聴けたクチかお 508 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 18 38 なけなしの1万使って帽子とコート手にいれたお 新しい服買うとのんか楽しいおね 509 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 21 03 507 しでえのあwとあももったけろショックあ受けなかったお ここれ散々悪評判聞いた後らったから ももったより悪くないらないの^^って感じらった 510 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 21 16 506 漏れそのジーンズ履いてソファー座ったらソファーが青くなった 逆"ペンキ塗り立て"かーい♪とももった 511 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 21 42 506 デニムあ色落ちや色移りが激しいかあ 着る前に何回か水洗いして余分な染料を落としておくといいお 512 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 22 53 「なあ、お前女に抜いてもらったことあるか?」 「な、何いってるんだい君じゃないんだからそんな不潔なこと…」 「はっ!やっぱりな…お前は男じゃねぇと勃たないんだもんな」 「バカな事言わないでほしいんだぞ!誰が………っ!」 「恥ずかしがるなよ、まだウブのつもりか?あんなに俺にすがって、腰をふって… …散々教えてやったもんな、ケツにぶち込まれる良さってやつ」 「君って人は…相変わらず最低な人なんだね、よくわかったよ」 「何いってんだよ、その最低なやつに触られてガチガチにしてるやつに言われたくねーよ」 「…っもう、やめてくれ」 「抵抗、できるだろ?いつでも俺を殴り飛ばして逃げればいい」 「っ…やめてくれ」 「ほら、テメーのケツ穴いじくってる変態男を殴れよ、正義のヒーロー?」 「…そういう、のを、やめてくれって言ってるんだ…」 「はは、ははは…!お前泣いてんのか、そうかそうか可愛いアメリカ 意地悪言って悪かったな」 「う、うぅっ……ぉ、俺は…俺はこんな、こんな汚い生き物じゃないんだぞ… ちゃんと、きれいな女の子と恋をして、キスをして……ぅ、神様…」 「わかってるわかってる、よしよし…神様の目なら俺がえぐっておいてやるから 安心して淫乱なケツをふって存分に喘げ、ビッチヒーローさん」 「ぅ、ぅあ…ああああああっ」 こういう子茄が見たいお 513 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 23 15 ばびれ腹痛きついお… 試験勉強とバイトの電話しようとももってたけろミリら 514 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 24 22 512 女に抜いてもらう→不潔 おこめガチホモ? とももったらガチホモれした><; 515 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 24 31 513 つバファリンルナ つ湯たんぽ 516 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 24 43 513 もくすり飲んだ?よくあっためた? 一旦もふろ浸かるとよくなることもあるお も大事に 517 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 25 12 512 ちょっと萌えちゃったお^^* 518 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 25 35 512 夢みがちな清らかヒーローおこめきゃわわらけろ いぎすが偽者すぐるのあ…もうちょっとかわいい俺の弟ちゅっちゅ的な要素が欲しいのあ… 519 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 26 01 505 もまもれ ここれ感想見てたからCDもそこまれ茄子じょのいのあってももえたお カマスは無理れしたけろ… 520 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 27 11 518 そう言われてモブ×おこめれ見たら気が狂うほろ萌えた 521 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 27 19 漏れカマスはむしろ平気らったのあ 蟹苦手なのも神経質らって思えばなんとか… むしろこぬすの猫名で声が想像以上でぞわっときた あそこらけ情感こめすぎ><; 522 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 28 37 520 はぉはぉ><*それなら萌えるおっ 523 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 29 49 512 色気がない喘ぎ声らな 524 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 30 27 512 まんとなくいぎす部分をふらんしゅときゃなたんに脳内変換してみたおっ まんか謝りたくなったお 525 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 30 31 523 くっ…やめろ貴様ぁっ…ぐぁっあがっ…ひっ… みたいなのがすっちなのかお 526 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 30 54 521 お婿に行けませんろうらった? 耐えられたならぬごい 527 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 32 41 526 別に平気らったお そうらねー洪さんに蟹に挟まれたおちんぽなんて見せられないもんのあ^^^ って感じれす 528 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 33 10 525 まんでか野菜王子がももいうかんだお 529 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 33 22 527 むしろ喜びそうらお イカにぬるぬるされる襖さんなんてっはぁはぁっ><* って 530 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 33 52 528 やめろカカロット…!お前にはチチという妻が…! 531 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 34 39 511 おーまりまり そうするお^^* 532 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 38 26 やまとってパイパンなの? 533 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 39 02 パイパンだった 534 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 40 10 漏れも襖さんあこぬし程イヤれもないのあ いんたぶーの中のしとの役作り見たけろ 方法あまちまってないかあもうちっと軌道修正してもらいたいお 535 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 40 16 たままれぼーぼーらった 536 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 41 52 もれ襖さんあ役作り以前にシナリオれ愕然としたお 537 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 43 01 もれあ総合点れ襖さん>こぬしらのあ 僅差らけろ ぬんかあまりにもケラがちまいすぎるのと なぜか枢軸にいるのとれ 538 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 43 24 512 某主しゃまの茄子茄あこんな感じらお^^ 某主しゃまの斎藤いけお^^二つあるかあ^^ 539 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 45 45 536 まああのシナリオならああいう役作りれあってるおな 蟹にはさまれてきゃぁぁれイカにもちゅられてお婿にいけませぇんらもん あらぁもお釜くさくなるお こぬしらけあ許せん 540 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 46 51 539 一応本家も見たらしいおになんれあの解釈になるのかしあ^^; 541 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 47 29 こにしらってがんがったんら! 厳冬しゃまにイケイケ攻めれいぎすのことが好きらけろ素直になれないツンデレれって 指定うけて一生懸命おっさんなのに19歳のわかもも外人っぽさを追及したんら 多分 542 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 49 20 541 指導あったのかしあ #8230; 「何をやってもおこめになるとももいますた」ってインタブーれ言ってたんらけろ 543 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 49 26 声優よりも脚本監督厳冬をぶったたきたいお、あれあ 544 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 49 31 どうせおっさん声なあ大塚芳忠がいいよぉ しぇくしー芳忠声のおこめにドルッフー♪とか言われたいよぉ 545 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 50 49 大塚さんあじいちゃんかとりゅりゅがいいんらも>< 546 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 51 09 543 脚本と編集は陣痛になるよう祈っておきますた^^^ 少子化にも貢献できて一石二鳥れす^^^^^ 547 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 51 17 544 ぶりぶりざえもん声とかれもいいおねっ>< はぁんしおじゃわさんお亡くなりになる前にお休み羊歌ロクオンしてほしかったよぉ 548 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 52 09 モリトジコらっけ? あの脚本携帯斎藤運営の素人腐が書いてそうなレバルらったお 549 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 52 18 512 そのシチュらったあ泣いてるおこめに 大丈夫大丈夫俺わかってるから気持ちよくしてやるからなって ぬげーいい笑顔れ言ういぎすがぬっきら 550 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 52 23 547 いあしおじゃわさん声のおこめはさすがにねーらろ… 想像つかない 551 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 53 44 542 真面目に書いてる西友の中れこぬしのフリーダム云々見て 少しギギギってなったお 552 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 54 00 549 それいいのあ 攻めれありつついぎすらしさを失ってないお 藻舞何ケプかしらんけろキャラを掴んだいい作品をかけるんらろうのあ 553 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 54 36 どいちゅの中のしとがどいちゅキレすぐらって言ってた気がす 554 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 57 20 553 ざ本しか読んでなかったらちょっとそうももっちゃうかものあ… 本家のwebも見て欲しいお 555 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 15 59 56 襖さんお嬢様れ萌えるって感想良く見たかあここ来てびっくらしたお 556 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 01 58 555 おのこらおにな… 557 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 05 55 おんもれあおおむね好評なのがこあいお><。 558 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 07 18 ついにあのこの新品ちんぽゅが中古になる日がきました 559 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 08 53 558 なぜか更新ktkrとももっちゃったお 560 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 11 01 554 本家も見てそうももったんらったらろうしようもないけろのあ 561 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 13 11 558 本家も見てそうももったんらったらろうしようもないけろのあ 562 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 14 07 一瞬漏れの目がもかしくなったのかと 563 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 14 40 ぎぎぎ… 7&Yで頼んだんらけど、いつまで経っても発送メールがこないお 発売日に買えなかったあどうしてくれるんら 564 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 14 42 え、漏れ一回しか打ち込んでないお 565 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 15 31 563 もまもれ れもたぬん10日の発送らとももうお^^; 566 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 18 39 565 ばびれ…当日発送だったら上手くいけば翌日買えるのあ でもやっぱり当日読みたいかあ通常版を買ってしまう気がすうのら 567 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 19 01 561わろす 568 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 20 56 566 漏れ1巻も7&Yれ予約したんらけろ いつまでも確定メールこなかったからキャンセルしちょったんら それれ今回は早めに確定メール送ってきたんらないかとももうお 569 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 22 13 もはー また今日も寝すぎたお もい墓もちゅる 570 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 25 03 568 確定メールてなんらお ご注文控えメールしか来てないのら 発送状況を見るとずっと梱包準備中なのらあああああああ 571 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 26 17 きゃあああああああああ三時半大幅にすぎてるっ もいもい何やって…ぴいいいい 572 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 26 55 もはお でももいもいは漏れの隣にいるかあもちゅれないおっ^^ 573 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 27 44 572 □言□<kwsk 574 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 27 47 570 それら<ご注文控えメール それが来るとキャンセルれきなくなるんらお 漏れは通常版も買うことにするお^^ 小冊子は週末のお楽しみらっ 575 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 28 16 茄子の物量に押しつぶされて殲滅されるのが好きだ 576 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 29 53 すーさんも隣に来たらいいのあ^^ もいもいとすーさんもちゅる 577 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 29 55 575 コミケれオンリれ都市れ通販れオンれ この地上れおこなわれるありとあらゆるフォモ活動が大スキらっ 578 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 31 16 577 ジャンピングする厨ちゃんが近隣住民に呼ばれた警察に職質されるさまなど 感動を覚えるぅっ><; 579 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 31 19 574 漏れもそうしようかしあ… でも2000円の出費あ痛いのあ… 580 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 31 46 今日の晩もはんは焼き茄子らっ 581 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 31 57 なんれホモがすちなんかのあ 三次とおりりなるBLはすちらないんらけろ 582 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 32 42 575 ぽん受けのキャラ改変にめちゃくちゃにされるのが好きだ 583 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 33 09 冬の新刊の印刷代らけれ新車買えそうら;; 読んでくれるしとがたくさんいるのあむれしいけお のんか怖くなっちょうのあ… 584 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 33 16 581 おのこキャラのかわゆいところがみたいから ラヌラヌな恋愛がみたかあ 585 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 33 27 漏れがホモが好きな理由あ背徳感だお 586 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 34 21 もちゅられてきゃわゆく感じちゃうあの子はぁん 587 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 34 24 虹フォモが好かれる三つの理由 588 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 35 02 583 再録本+新刊2種を各2000部とかかお ケベしゃまもちゅかれさまれす^^ 589 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 35 48 585 漏れは報われない感がぬっきらのあ らのでもっぱら虹専れす^^ 590 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 36 31 587 ち ん こ 591 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 39 27 583 神!?神なの!!!??? 日記かいてお 592 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 39 31 ああ…ちんこは素晴らしいおね… れもキンタマもすばらしいとももうし乳首もすばらしいお 593 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 44 06 587 公式とはいえあんな女とまんかくっつけたくないから もれのかあいい○○たんはちんぽゅぬっこむよりぬっこまれたいから ねむいから 594 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 46 34 漏れあちんこより乳首派 乳首イキ書きたいんらけろあの子のアンアン悶える姿を克明に記す表現力が足りないおっ 595 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 49 09 594 胸の飾りをいじられてあの子ああんあんと真珠のなみだを流すのれす 漏れにあミリら>< 596 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 50 34 594 回∀回<君の乳首可愛いね!ちゅっ 〓<あぁんあめりかぁ…///気持ちいいっ気持ちいいよぉっオゥッオフゥッファック!ファックミー!! 597 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 51 09 587 おにゃのこへの嫉妬とか劣等感とか過剰な投影から自由れいられるから 作られたホモれないものをホモにするのが萌えるから 原作の世界に広がりがあって妄想しがいがあるから 598 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 51 50 あんな女とお前じゃ、勝負になんねぇよ。格が違いすぎら 誤字れ萎えたお 難民ぽくて吹いたけお 599 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 52 28 596 tkb つ◎ ◎ 600 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 52 50 587 お人形遊びら 601 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 54 11 漏れ7&Yれ予約したけろ発送状況確認したら送りますたって書いてあったのあ 着くのあ10日らけろ漏れんち田舎らから早いほうらっ7ちゅっちゅ^^* 602 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 54 21 漏れあ1粒れ2度おいしいからホモがぬき 603 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 54 36 598 「格が違いすぎらぁ(とりゅとりゅ風に)」 らないのん? 604 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 57 02 まゆ受けって乙女にしろビッチにしろスイーツにしろ愛されまゆげが基本かと思ってたけろ 斎藤回ってたあ陰気れ根性曲がりれ笑えない系の孤独なまゆげ受けけっこうな数見て驚いたお やっぱ母体がでかいらけあって幅広いのあ…ちょっと村山ら 605 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 58 27 601 漏れも調べたあ昨日の日付で梱包中→発送になってたおっ 楽しみらのあ 606 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 59 07 死にたいお ろうして見返りを求めてしまうのかしあ 自分の卑しさが嫌ら 人に親切にしたり、困ってたら助けても感謝はされないんら なんれそれがいつまでたってもわからないんらバヤ あーしにたい 607 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 01 36 いきろ 608 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 01 53 606 に し の 切 れ い にしのきれい→西野きれい 偶然らな、漏れも苺あつかさたん派ら 609 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 02 20 卑しくても いいじゃない 人間だもの ナンミン 610 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 02 33 606 生Kiroro 611 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 02 40 今北適当に300くあいチラ見したあバレきてたっぽいけおろうなんら? 襖好きのもれにあまんて胃がキリキリすう状態>< 主に出番や扱いに報われないキャラぬっきなこと多かったけお、逆のが辛いおお 612 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 02 48 ハラシアおわらないお ヌクモリティAAくれお>< 613 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 03 07 到着予定日 2008/12/10 午前10時以降 セブンアンドワイあこうなってるのあ 当たり前らけおフラゲあ無理そうら れもちゃんと発売日に読めそうらっ 614 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 03 32 606 漏れのそばにおいれ 615 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 03 40 609 みつをの偽ももしえっ;; 616 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 04 33 614 > 漏れのそばにおといれ かと>< 617 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 04 55 あーもなかいたい…なんらこれスーさんの呪いかしあいてて 618 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 05 44 Jブックはいつ発想なのかしあ><; 619 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 06 48 606 バビレヌするとしとに親切することまんて自己満 しとに親切にして疲れるくあいならフリーダムに生きろお 回∀回<こぬしのごとく!どぅるるるるるほっほーい 620 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 07 58 しとに親切にして善いことを積み重ねてけば巡り巡って良いことがあるおってじっちゃが 621 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 08 00 618 漏れ二回目受付れ申し込んだけどまだ商品手配中って… セブンにすればよかったおorz 622 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 08 23 618 もれまだ手配中らのあ 2回目くらいの予約受付れ注文したし 届くとしたら再販後かのあ 623 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 08 36 べべべたんになりたいお 624 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 09 23 606 もまいあろうなん? 事細かに感謝してるのん? 人のこと言えるのん? 625 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 10 00 ・∀・×<のとさまのエッチ///////// 626 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 11 26 今日の難民はちょっと優しい難民 627 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 11 37 人に親切をして善いことを積み重ねていけば、 きっと巡り巡って良いことがあるよってローマ爺ちゃんがいってたんだ そうじゃなくてもその人が笑顔になったら嬉しいよねっ _ ____________________________________________________ ∨ (=ヮ=*) 628 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 13 43 601,605,613 ぎぎぎ^^# 梱包準備中な上に到着予定日あ「決まり次第連絡するお」な漏れに謝れお 629 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 13 44 627 巡りめぐってなんて絶対こねーお もまいは恵まれて育ってるのあ 630 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 14 31 627 べべべたんもれもいいことすうおおお 631 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 14 43 629 そうやって根暗れ陰気らから運が逃げていくんら いつも唱えよ私はついてる ら 632 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 15 12 629 藻舞あ本当に恵まれてないのかお 自分れありがたみに気付いてないらけらないのかお 漏れが巡りめぐらせてあげるお><今日は特別にきゃなたんもちゅらせてあげるっ 633 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 15 33 漏れあ近くの見るからに弱小本屋しゃんれ予約しちょったお 634 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 16 07 ロママひねくれるなお^^ 635 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 16 12 おこめええええええええええええええええええええええええおこめもちゅる 636 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 16 22 632はももいました こうして今日人にやさしくしたから、きっといつか巡り巡って自分も きゃなたんをもちゅらせてもらえると… しかし632の元へ巡り巡ってくる頃にあきゃなたんは老い果て 637 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 16 33 漏れの呑気が悩んでる難民ももに届きますよーに☆ 638 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 17 03 637 もまいのもかげれハラシマ間に合わなくてもらいじょーぶな気がしてきたお!^^まりま 639 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 17 12 きゃなたんは公衆便所なのん 640 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 17 48 629 こんな時間に難民に書き込んでられるもまいも十分恵まれてるとももう 641 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 18 04 漏れ割としとに親切にするのぬきらけろ漏れはしとが喜ぶのがぬきなんらなくて 自己犠牲れしと助けしてるじぬがぬきなんらないかと ふと落ち込むこともあるけれど、好きなひとが できました 642 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 18 11 629 もまいはここれかまってもらえるらけ超しやわせらともも 643 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 18 14 漏れしとに親切するのらいぬっき ただの自己満足らけろにこにこして親切したらみんな 喜んでくれるしたまにうざがられてしえっとかももっても やっぱやめらんないお…人生損してそうな気もするけろ 644 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 18 44 638 よくない方向に作用しちょったよお神い><; 645 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 19 19 []∀[]<人に親切にしたらみんな喜んでくれるんだぞ!親切にされて喜ばない人なんていないはずだぞ! 646 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 19 31 635 おこめらったら漏れの隣れ寝てるお 647 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 19 41 おつまみケプ回ったらやたらむままに会ったお このしとの絵見たことあるんらけおプロロしゃまかしあ… 漏れケプにも神あいるけろ漏れあ灰汁禁されっぱなしら 648 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 19 49 645 悲しいお話禁止 649 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 20 34 親切にする事自体に満足感や嬉しさを全然感じないならしないお それでもやらなきゃいけない時はじぬんの評価を高める為とでも割り切るお 見返りはあったらラッキーぐらいの気持ちら 650 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 21 08 645 もまいらのそういうところがぬほん人を追い詰めるんら…モーア? 651 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 21 23 645 たまに明るいキャラにこういうこと言わせて 周りのキャラに真っ向から反論させてお前の独りよがりら! もっとまわりのこと考えろ!って集団で叩きまくる話 色んなジャンルの虹れみるんらけろ 書いた子は性格ねじくれてるのあとももうお 652 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 22 24 あの子をザーメンづけにしたい 653 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 22 29 646 保母さんれすか^^おこめがいつもお世話になっておりますぅ さあおこめ帰ろうね 今日のおやつはミスドらお^^ 654 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 22 35 相手に親切にすることれ余裕を持つこともあるお あいしああれしてくれないこれしてくれないじゃカリカリしちょうも 655 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 23 13 612 ハ,_,ハ , レ廿_廿 u ^ハu ,ハ (( ~(⌒(*=ヮ=* )) ヴェー l^ヽ "ヾ/^i ツソ, ; ;" " O, ミ -」-]/) " ミ と ,. ," , _ ,,ミつ モサモサ~ "゙ ~"^~ ` " " ゙ "" ""´ 656 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 23 23 651 厨ニ病がやりがちらなお話しらね^^ 657 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 23 44 漏れ普段から優しいしとといつも愛想なくてツンケンしてるしとが困ってたあ優しいしとを優先して助けちゃうかも 親切さあいざというとききっと役に立つお 658 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 23 52 。[]д[]<皆が苛めるんだぞっ! 659 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 24 07 今更らけろプロローグ2のジャケット結局あの絵使うんらな まんか購買意欲の失せる…いあ今まれも買った事ないけろ 660 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 24 36 651 それ中二病らないのん 661 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 24 41 658 撫でる 662 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 24 51 2回もプロローグやるのん?意味不明ら 663 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 25 01 難民はろんろん変わってゆくけろ やまとがパイパンなのあ いつまれたっても変わらないのあ…^^ 664 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 25 08 651 漏れの前ザンルれあ明るい子がそう言うことゆって暗い子がひねくれた反論して 明るい子が男前に丸め込んで暗い子がきゅんとするっていう天麩羅が大流行れした 665 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 25 33 もしかして毎回プロローグが出て六回だか続くのかお 666 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 25 38 ´○ヮ○<しない善よりする偽善だよ 667 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 25 47 658 露ったまのもっぱいに顔をうずめて泣けお 668 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 26 34 8話まで出る予定なんらっけ?てことあ プロローグ1~4と本編1~4れ計8種 669 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 26 37 664 それあよい天麩羅><* 670 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 27 23 664 君と響き合うRPGももいだしたお 671 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 27 31 668 8話らと プロローグ1~8 本編1~8らない 672 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 28 45 計六枚くらいなあとももったけお もう買うのやめおうかのあ ジャケットもあれらし 673 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 28 49 米独米がみたいよぉ 学級委員長のどいちゅが おこめが素晴らしい提案らとももってしたのに叩かれてみんながいじめるんだぞ!って 倉庫にかくれて泣いちゃうおこめを慰めるんら>< 674 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 28 58 今せっかくメイトの近くきてるのに まだ店頭にはおいてないおね 今から予約れきるかしあ 675 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 29 58 674 漏れの地元のメイトあ特捜あ予約れきないって言われたお 676 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 32 16 670 まさにそれが前ザンルら>< 藻前さてはマシーンらな><>< 677 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 33 11 漏れあ あの子の 恋奴隷 678 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 33 19 メイトあ発売日の開店時間に電話したあ取り置きしてくれるお 679 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 35 11 今北 子茄しゃま自重しろお 680 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 35 14 673 たまにこんあ感じの全部人のせいにするわがままなおこめ見るけろ まんかぬるぽガッとしたくなるお 681 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 35 21 676 ロイド攻ならほぼ万能天麩羅らったおな… 682 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 37 23 生まれた意味をしるRPG 683 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 37 24 326 名前: アロエ(兵庫県)[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 16 31 29.27 ID STxzM4Sw http //www3.uploda.org/uporg1841054.jpg http //www3.uploda.org/uporg1841045.jpg http //www2.uploda.org/uporg1841050.jpg http //www2.uploda.org/uporg1841047.jpg http //www2.uploda.org/uporg1841053.jpg http //www2.uploda.org/uporg1841056.jpg 684 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 37 43 胃がきりきりと痛むお 襖さん…<> 685 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 38 28 681 小西の話をするなああああ 686 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 38 57 変わらぬ強さ 変われる思い 687 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 39 38 682 そっちあ 651が天麩羅らな 688 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 40 06 681 天麩羅Dあまちまいねーお 攻略王の決め技ら 689 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 41 13 687 藻前さては主人公厨? 690 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 41 50 もれ主人公厨らかあやまととのとたんらいすっき><* 691 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 42 17 685 漏れのDたんに文句れもあんのかお^^### 692 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 42 57 漏れの近所の本屋れ 特装版と通常版のろっちも予約れきたおおお>< こんな田舎の本屋らから無理らろってももってたおに 693 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 44 26 689 使用人厨ら 2のスレにあ二度と近づきたくねーお^^ 694 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 44 31 690 葉子ぷーとヴェヴェヴェちゃんとセーたんは? 695 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 45 19 ■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★ このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) 希/多/愉/目同人ヲ4 [ネットwatch] 戸田リア書店委託ヲ [ネットwatch] 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名前:ヘタ[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 19 42 ID lnNEG4SE0 トップが会談→お見合い 戦争→ヤンデレとかツンデレとか痴話喧嘩とかそういうの 条約に署名→婚姻届に(ry ※もちろん細かい知識はありません みたいなもんなんだろうな この前は喋ってただけでスペインぽい言われるし勘弁してほしい… 関西人=スペインってどんな理論だよ 知らない人が聞いたらポカーンとする以外出来ないだろと 正月はかつて神都と呼ばれた土地だから何かありそうで怖い この前伊のトップが米の新トップに失言、とかあったけど あれも萌えちゃうんだろうな 最近公開始めた「貝に~」も下手すりゃ萌えちゃうんだろうな それか米ひどい!って怒りだすんだろうな もういっそ大使館に突撃して捕まるくらいしてくれりゃ目が覚める人もいるだろうに もうほんと関西人だからってスペインはやめてほしい お好み焼きとご飯食べるの?って聞かれる方がまだマシ この前別ジャンルで関西弁教えて教えてと食い下がられたばっかりなのに 神都とか京都人はほんと自意識過剰だなw大政奉還してろ 708 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 55 39 ジャケットといいザ本といい 厳冬あ本当に漏れをカモネギにする気あんのかしあ 709 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 58 14 675 まりまり 行ったら発売日にきた人優先ってかいてあったお 遊佐のでてるBLでも買って帰るお 710 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 17 58 54 707 アンチヌレの厨体験談って 結局あもまいのももらちとか知り合いが厨ならけらおな 類友って言ったらもこられるかしあ 711 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 03 05 タリアたんのイギリス人のももらちを持つしとの厨報告あすごかったお 本当にこのザンル厨いるんらな 712 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 04 21 710 漏れが許す 713 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 04 28 厨報告あ嘘おおげさ紛らわしいがほとんろ 714 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 04 34 なにをイマサラ 715 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 05 14 711 kwsk 皿を割っちゃうのよりすごいのかお? 716 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 08 26 708 カモ(魔王)れネギ(厨たん)を釣ってるんら 717 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 09 35 ネギイラヌェ! 718 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 12 19 τリ*‘-‘)<ネギうめえある 719 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 13 05 乗っ取りヌレとか俺女被害ヌレとかと一緒れ ほとんどネタら 漏れもぬかしちまうザンルれ 安置ヌレに架空の信者イタタ行為書き込んだことあるお 昔の話らから許してねっ 720 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 13 07 いつかサイトを作りたいが為に絵の練習をしてるんら でも全然上手くならないおっ^^。 ヘタレあ相手にしてもらえないおね… 721 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 13 10 飛翔れ新連載の時期がくるたびヒットでてくらしあ厨たん175しゃま連れてってくらしあ とももってしまう心の汚さ>< 722 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 16 16 720 漏れケプらったあへryとかれもちやっほやするお^^* 来てお^^* 723 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 16 33 たらいまー 特捜発送されたかあ届いたかとももって早く帰ってきちょったお>< もちろん届いてませんれしたけお^^; やっぱり明日らな 724 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 17 01 720 漏れへryれ相手にされないけろ じぬんが楽しいからもk 725 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 17 17 厨イベンター(笑)もどっか行ってくらしあ 同人界からメッセヨ>< 726 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 17 18 720 漏れの日参斎藤は掃除機絵はへryらけろ ネタあももしろいし愛があるお 大事なのあ萌えるか萌えないかれす 727 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 18 02 721 まあまあももろいとももうけろ虜がプチれバスケもサッカーもミリらろ 728 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 19 49 うーんみんなまりま! 頑張ってみるお その時になったらよろしく>< 729 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 21 43 アーセラ厨うぜえええええええええええ ブログでやってろっ ブックストアのレビューにまでくんじゃねええええええええええええええ アーグラ以外ありえねえええええええええええし 730 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 22 25 虜が次のブームになるおっ>< 虜のもっぱいたまらんよぉ>< 731 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 23 04 729 らおねー らいたいセラスにあベルナドットさんがいるのになんれアーセラなんら 732 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 23 39 虜ロン毛イケメンしゃま登場しそうらかあちょっと腐人気上がるかしあ… れもねーお 733 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 24 26 もなか空いたお… 卿ロッテリアかKFCよって帰ろうかしあ… もなか空いたお… 734 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 25 01 とりこの食べてるシーンはエロスすら感じるおっ 735 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 25 17 バルトと雪合戦したい リヒたんのスカートめくりたい ぎりさとお昼寝したい ロリ仙かじりたい ふらんしゅと結婚した たらいまー 736 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 26 00 明日開店直後に行けば特装版ゲットできるかしあ 737 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 26 39 735 色々まとめてダショーン 738 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 26 51 7&Yに「発送メール遅いお^^#」てメールを送ったら「在庫ないんらもーん」て返ってきたお 注文する時あ当日~2日らったおに でもキャンセルもkらしいのら どうしよう 739 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 27 09 発売って10日らないかしあ 早売ヌレれ報告あがってるけお そんなん帝都ぐらいら>< 740 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 27 41 735 つ「い」^^^ 741 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 27 45 もいもいが起こしてくれなかったから予定がとち狂ったお^^。 今日あいつもの倍ぐらいひどくもちゅるお 742 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 28 03 738 のらたんは巣にもかえり^^^ 743 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 29 00 738 ろこの子らもまい? 744 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 29 26 早売りヌレってろこら 745 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 29 49 漏れあッ!!もはんをッ!!食べてくるッ!! もなかすいたお 746 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 30 31 743 都内の区外らお 747 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 31 23 もなかがすきました…誰かわたくしめにもはんをくらしあ… できればだご汁が食べたい… 748 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 31 26 746 ヌレのことれすお 749 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 32 10 747 漏れの薄汚い顔れよければ… つD 750 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 32 18 漏れはJブックらから早くて11日かのあ まぁ読めればいいお 751 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 32 24 747 だご汁がまかんないおぉ つハイチュウ 752 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 32 28 漏れのセブンたんあ発送してくれてるお^^; 釣りかしあ 753 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 33 15 748 ここのヌレらけど 754 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 33 31 738 今かららったら発売日に直接書店行ったほうがいいんらない? 今その状態なら確実に発売日には手に入らないお? 特装版らとびもうらけろ 755 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 34 07 753 よしよち つハイチュウ 756 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 34 37 749 わーいまりまはむはむ 751 郷土料理なのかしあ…だんごが入った汁らおむままなんらおー 757 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 34 54 Jブはいつになるんらろう… 朝書店めぐりしようかのあ 758 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 35 05 マテマテ~ ・・・・・( /^q^)/ 。。゛(ノ )ノ ヒィ 759 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 35 22 ろこも年齢層さがってきててもれあもれあ 同人サイトをまわるのさえマナーサイトを何軒も回ってかららった あの頃がなつかしいお 760 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 35 56 れも一応発売日明後日らおね 明日の朝巡ってもぼみょうかもお 761 名前:751[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 36 15 だご汁調べたおっ なんらなんらあれの事なんらね^^ つすいとん 762 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 36 45 ひいいいいいイワコテジマイワコテジマ 763 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 36 57 釣りらないお^^# 754 らおね… じょあキャンセルしようかしら ちなみに特捜版らお 764 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 37 17 すいとんもだごもしらんお もれあひっつみ一択 765 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 37 18 たらいま 今日放送部のふおおおおってしてる漫画ももいだして仕事中にフヒヒって笑っちょって 漏れ不審者満載らったお もうoverなのに^^。 766 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 37 29 漏れんとこあ発売日+三日ら… はぁ田舎やらぁ 767 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 39 23 766 漏れと同棲するかお? 家族もいていいなら^^ 768 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 39 48 たらいもー (*´フ`)あ今日もいいこれしたか? ひもじくてこももちんぽゅしゃぶったりしてませんれしたか? 769 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 39 54 767 わーい漏れも漏れも ぎゅっぎゅっ 770 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 39 56 漏れ<あーはいはいあれね、ちぃおぼえた 姉<え?ちぃたけお? そっちらねぇお^^^ 771 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 40 21 767 らめっ 766は漏れと暮らすんらお>< 快適オタクライフが待ってるおっ^^* 772 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 40 27 768 もかー 物欲しそうに剥いたり眺めたりしてたけろしゃぶってなかったお 良い子れした 773 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 40 46 768 (*´~`) <はむはむいいこやったで! 774 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 41 34 ちぃさんぽ さぃちんぽ 775 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 41 38 760 今回も書籍扱いならぬつーに出てる可能性高いお 発売日はゲンミツらないもも 776 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 42 11 767 いいおっ漏れ洗濯あがんがるからおっ! ママンさんとパパンに気に入ってもらえるようがんがるおっおっ 777 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 42 48 ビッチのアナルをクリッククリック! 778 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 43 58 ペム入れします 779 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 44 27 763 もまいの懐に余裕があって且つ本だけでも先に読みたいなら キャンセル無しで当日書店へ通常版を買いに行けばいいお 無理らったら発売日に読むのを諦めるか特捜版を諦めるか 我慢の子するしかないのあ 780 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 44 53 あの子にバイブ入れます 781 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 45 24 768 もれがもなかいっぱいもはん与えたからいいこれしたお^^* 782 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 45 37 じゃあ漏れあの子のコスプレして 766んち行ってあげるおっ^^* 766はいいしとらから喜んで泊めてくれるおね☆ 783 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 45 58 776 パソコンも支給してあげるお! ネットあ光らし無線LANも完備らかあ 771の所より漏れんとこ来 784 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 46 15 782 裸ガムテかお><* 風邪ひかないようにね^^ 785 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 46 16 777 /⌒*⌒\ 6 *[]А[] ∂ ∧ やさしくするんだぞ!! 786 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 46 54 782 いいれすおっ自家製の柿と銀杏とぼたもち振る舞いますっ 787 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 47 32 785 ニコちゃん星人がきたお 788 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 49 08 783 そんなに漏れによくしてくれて/// らいぬっきれす! 789 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 49 12 785 たわわなもっぱいなANAがあああああああ 790 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 49 33 785 頭のてっぺんにお花のぼんぼんつけて さきっちょくるんのツインテールなおこめかお 萌え系になるにあ体型がちょっと残念らのあ 791 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 50 57 786 ο ≡<やったおっやっぽしいいしとらっ^^* 良かったらお正月まれシクヨロ*^^b 792 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 51 47 漏れケプらないれんれんちまう系統のあのこたち描いたらホト数ぬげー減りました れも漏れあたのちいのれ別にいいれす 793 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 53 43 791 田舎れ過ごすお正月あいいおー 一緒に鐘つきにいって煮染め作ってこたつれぬくぬくしようね^^ 794 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 53 45 792 茄子の対抗らったのかお 795 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 54 37 ホト数まんて飾りれす 796 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 55 00 上あ完全に着たままれ下半身らけ裸にぬげー萌えるお ちょっとおまぬけなのがまたいいんらお 797 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 55 50 まんこゆ付近にぬげー痒いイボ的なももができたお ずっと座ってハラシマってたからかしあ 798 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 56 29 797 コンジロームらね子宮癌になるお 799 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 56 42 796 上軍服下裸が良いおっ 完全にストパンれすけお 800 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 57 04 796 漏れのあのこで想像したら最高れした まりまり 801 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 58 25 799 リーネたんがきゃなたんに見えるお>< 802 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 18 59 43 798 漏れ処女らからちげえのあ あのこあ上黒タンクトップ下裸がいいお 803 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 00 05 じぇろいいのあ… 不覚にも泣いたお 804 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 00 35 ちんぽゅ見えない様にシャツをぐいーとひっぱるの萌えるお 後ろからあぷりけつが見えてるんらっ 805 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 00 39 ストパンって少し前まれ苺十割の新しい略称らとももってたお>< 806 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 01 47 715 遅レヌらけろ いぎすののしととタリアのとこに書き込んだしとが 厨たん複数にあとをつけられたらしいのあ 他にも厨たんあ書き込んだしとの 容姿叩きや大声れ茄子話してたらしいお れもあのタリアたんらからのあ… 807 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 01 54 794 フェイク入れるけろ 漏れケプ…北欧 系統ちまうあのこたち…地中海 みたいな感じれす ミアナらからこそ斎藤きてくれるしとがいるんらろうけろ ケプ移ったらやっぽし要らない子なのかお>< 808 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 02 09 ストライクウィッチー図はマジ基地アニメ日本の恥 809 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 02 17 805 パンストの業界語らろ 810 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 03 19 のんか今日あ方言もかしい子とか誤爆系多いお><。 誤爆あわざとかもしれないけお 811 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 04 13 べべべたんれすら上きっちりれ下丸出しはやってないおね 黒シャツはおはお 812 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 04 39 おーんたんのあたんなのあたん あと何かいたっけ 813 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 05 05 時計を二時間まちまえて読んれたお>< 中学生のもとうとに「帰り遅すぎない?何かあったの?」ってしつこくメールしたうえにもう寝る準備に入るとこらったお… 814 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 05 27 なのらたん 舞妓Haaaaaaaaaaaan だおたん まらいそうら 815 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 05 31 812 だおたん 816 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 05 50 812 のらとなのららろ>< 817 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 06 17 おーんたん最近見てない気がするおーん 818 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 06 35 のらたんももしろいかったお^^ 819 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 08 14 漏れが見たいの ・上きっちり下なしれぷにぷに足なもいもい ・上が少しはだけてて下履いてない美脚ロリ仙 ・服の裾をくわえて乳首さらしてるヴェヴェヴェたんあああああ 820 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 08 50 810 ひさしぶりに難民に来たもれのことかお^^ 半年前も「今日は方言おかしいこいるお」って毎日言ってる子いたお ここは変わってないんらと安心したお 821 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 09 49 あーもうあの子ばびれきょわわわっだお><* きょわわすがるのら かまいいおーん 822 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 10 45 816 いあ語尾ののあとかなのあとかがもかしいしとのことら 823 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 13 01 漏れが見たいの ・襟元乱れて鎖骨見えてる墓さま ・ロングチャイナドレスのスリットから美脚がチラ見えするロリ仙 ・タンクトップ+ホットパンツ+アームウォーマーラトちゃん ・ホットパンツむちむちもいもい ・ホットパンツスレンダー襖 824 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 13 19 おこめときゃなたん同時にもちゅる 825 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 14 08 もれの見たいの ・本家のおこめ 826 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 14 50 見たいの ・本家ののとたん 827 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 14 58 825 よちよち 泣いていいのよ 828 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 16 05 7&Y<特装版入荷☆梱包準備中れす←金曜日 もう月曜らない今日中にメールくれないと漏れは… 焦らしプレイらめええええ目覚めちゃうおおおお 829 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 16 11 ホットパンツ履いたもいもいとラトもちゅるしかNEEEEEEED 830 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 16 43 ちびpにゴマだれかけてくる 831 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 16 58 漏れが見たいの わんぴーすの裾をお口でくわえてしゃがんでおしっこしてるちびめり 832 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 17 46 831 よしよし ちね 833 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 17 55 829 そしいいいいいいいいいいいいいいいいい 834 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 18 58 漏れのみたいの あのことあのことあのこのらぬらぬしーん 835 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 20 55 833 もう遅いおっ!ホットパンツをずりおろすともいもいあ期待に満ちた目れ するんですか…?と漏れに聞いてきてラトも次は僕ですねと期待してるんらっ 836 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 21 24 806 つかタリアたんって誰ら? 意味まかんない 837 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 21 26 これあしどいお 838 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 22 10 824 q<片方は助けるが片方は放置 839 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 23 14 836 381 名前:名無し草[sage] 投稿日:2007/08/11(土) 11 32 23 こんな暑い日はイタリアたんのケツマンコをクスコでくぱぁしてアイスキャンディー食べさせてあげたいお 840 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 25 44 839 まりまり 過去ログ抽出したあ安置ヌレ住民=タリアたんなのかしあ 安置ネタなんてちもいからヌルーしてたかあまかんなかったおん 「いぎすのの」とかもよくまからんけろ安置ヌレの基地害たんたちの話なら気にしないことにするおん 841 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 26 05 822 もまいよく見てるんらな 842 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 29 48 いつもイタリアとやりまくってんだろ? いぎすあそういうとドイツの尻を撫で回しそのデイジーサークルに 指をつぷつぷと挿入さえしたのです どいつあまだイタリヤとチッスすら…好きだと言っただけ、それも友達としてらのれす やめろ! なんだよビッチのくせに貞淑ぶってんなよ いぎすのたけり狂ったいちもちゅが 843 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 30 35 842 デイジーデイジー 844 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 31 02 ぽん受れデイジーしゃまって呼ばれてるのももいだした 845 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 31 35 たらいも 2巻フラゲしたしとあいるかお 846 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 31 51 いぎすのの・・・ いぎす×いなかのののたんかお!? 847 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 32 33 もれのエンジェル もれのワイフ もれのスウィート それあやまと^^* 848 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 32 52 こちらスネーク アキバにあまだありませんれした どうぞ 849 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 33 06 秘密の子育て マイエンジェルちびめり 850 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 33 40 こちらセブンアンドワイ 漏れの調べれあまら梱包準備中とのこと 851 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 33 55 848 アキバないんら すんずく書店も無かったれすかお? 852 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 34 20 前の方れスットコ兄登場情報が出てるけろ ほっほーい警報らのあ 楽しみにしておくお^^ 853 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 34 32 漏れが見たいの ・上トレーナーれジーンズを脱ぎかけてるおこめ ・ぱんちゅとワイシャツ一枚のきゃなたん ・かっちりスーツれネクタイらけ外してるべべべたん ・ちょっと小さいシャツ来てるせいれ何かするたびに袖口から手首が見えるどいちゅ 854 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 34 41 もなじく7&Y 11月上旬の発注分はいまだ梱包準備中 855 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 36 27 明日あ昼から暇らから小さい本屋巡りするんら… 一応首都圏らしどこかに積まれてないかしあ>< 856 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 36 35 もれの7&Yあ既に発送済となってるお どうぞ 857 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 36 58 エヴァwwwwwwwwwwwwww 858 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 37 07 池袋もなし とらと兄めいとれす 859 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 37 37 ほんのちょこっとなんだけど名前をかえてみた♪ ほんのちょこっとなんだけどそこに気がついてほしーぞ♪ 愛しのくくくくまじろ♪ イマイチ 860 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 38 11 859 歌ヌレ逝くよろし 861 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 38 34 853 脱ぎかけはよいね よいものら 862 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 39 32 856 宅急便かお? 店頭受け取りかお? 863 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 41 36 866 ろっろろロリ仙っもちゅる 864 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 42 12 863 もまいちょっともちけつ 865 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 43 15 あのこあパイパン もれのあのこあられれしょう 866 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 44 18 862 店頭ら 867 名前:名無し草[] 投稿日:2008/12/08(月) 19 45 30 868 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 45 54 たった今もしごともわった本屋勤めの漏れ参上 取次ぎかあ聞いたけろ少なくとも漏れの勤め先の系列は 10日発売の雑誌と一緒にしか2巻入ってこない事になってるみたいら これの事れ書店からの問い合わせ多いんらって言ってたかあ 早売り狙い厨たんに凸されてる店あるみたいら… フライング狙いの子ばびれ自重してくらしあ 869 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 47 12 866 まりまり 特捜版はまったり待つことにするお^^。 870 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 47 42 868 もちゅもちゅ 漏れんとこの本屋あ11日にしか入んないけろ入れてくれたらけれありがたいれす やっぽし本屋あ大変なんらのあ 871 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 48 00 2巻が来るまれこまきだおなほれはぉはぉすることにしよっと^^ 漏れが政治家になったらこまきだとおなほを結婚できる法律作るお 872 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 49 15 868 おつれす つ旦 厨たんもそろしいお・・・別に本あ逃げのいんらかあ待ってりゃ見れるおに 873 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 49 50 871 一緒に非嫡出子も嫡出子ともなじ扱いれきるようにと 戸籍の表示をもうちょっとなんとかしてくらしあ^^ 874 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 50 08 871 漏れとあのこを結婚させる法律も作ってくらしあ><>< 875 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 50 20 871 支持する 876 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 50 49 もれあやまとなっちゃんにはぉはぉするお><* 877 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 51 49 こまきだもおなほも何なのか未だにまかんない漏れにくあしく 878 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 54 12 なんれあのここんなにきゃわわなの はぁん 879 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 55 43 皆漏れを支持してくれてまりまとう 漏れが立候補したら演説れもちゅもちゅって言うから気付いておね^^* おなほあいい嫁になるお 874 まずもまいが2次元にならないとミリ 2次元と2次元れももいあってるしとたちが結婚出来る法律らもん 880 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 57 46 877 のとさまがすんきを手放さなくてあならなくなりおなほとしてオク出品 それを買った駒木田さんとおなほのらぬらぬストーリーがあったんらおっ すん駒公式><* 881 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 58 25 あのしとあケプ二つやってて幸登録して1万 漏れあケプひとつれ幸登録なしれ2万 882 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 19 59 10 880 対抗ちえっ^^# 883 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 00 27 880 藻前やさしいのあ 877 こまきださん=藻前ら おなほ=オナホ あとは…まかるおな? 884 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 00 50 まる三重ハジマタ あの子にドッキリしかけたいのあ>< 885 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 01 14 881 そういう些細なこと気にするようなあカウンター撤去をオヌヌメ 886 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 01 33 のとおならろっ><*のとおな公式 887 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 02 16 漏れあ今日も元気にこめやまとぎりボスを応援 888 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 02 26 今北産業 889 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 02 47 885 木綿、さっきのあ漏れが些細な優越感に浸るための呪文れすのれ気にしないでくだしあ 890 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 03 21 きめえのあ… 891 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 03 28 889 売上かお すくねーのあ 892 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 03 46 889 こまおな公式 のままあ受け やまとも受け 893 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 04 23 888 100円のたこ焼き むまま れしたお 894 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 04 46 888 ハラシマ おわ らない 895 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 05 44 ぴゃあああああああ おととい洗濯して洗濯機の中に入れたまんまらああああ 896 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 06 22 まら一冊ももわってないおに二冊目のヌーコー予約したもろメッセヨ 897 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 06 27 まりまり 893 安いたこ焼きはまずいこれ漏れのJKらから村山 898 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 06 54 895 あーあ^^^ 湯たんぽばびれあったかいお 考えたしとぬげえ 899 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 07 44 おなゲー 駒木田さんとなってすんき犬を立派なおなほに育てる育成型エロゲ …に見えるが実は泣きゲとしても有名 900 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 07 48 896 まら一冊もおあってないというか下書きもしてないのに 斉藤れ入稿しました^^ってふりしてる漏れ^^* 901 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 07 55 ケプ2つメインのところあ片方が地雷らったりするかああんもし行かないのあ 902 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 07 57 漏れにはぽちくんがいるから湯たんぽなんかいらないお^^ あーぬくぬくら 903 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 08 19 899 いつ発売れすか><* 904 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 08 46 899 つ[10000][10000][10000] 最高五万まで出すお 905 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 09 46 たらいまあ きゃなたんいい子にしてたかお とりあえずちび仙のフワッフワほっぺしゃぶる 906 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 09 56 900 それのんかメリットあるのかお? 907 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 10 41 本田←すんき 908 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 10 45 899 ハォハォ 10万まで出すお><* 909 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 11 06 メールの返信こないお もしかしてちゃんと送れてなかったかしあ 910 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 11 28 906 別にないけろ自分へのプレッシャーがぬごいお ハラシアしてくる^^。 911 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 11 58 909 漏れかしあ 今書いてるから待っててねっ^^ 912 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 13 12 897 貧乏舌らから高い物も安い物も同じくあいむままれす^^ 913 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 13 33 910 もまいドMらね もれも見習いたいお 914 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 14 14 903-904 908 数量限定らったからのあプレミアついてるんじょのい? クライマックスれ自宅警備員を卒業した駒木田さんがおなほを迎えに行くシーンは感動的れした 915 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 14 16 896 JKJKマダム<あら?わたくしのことかしら?いけなくって? 916 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 14 36 909 漏れかもしんまい 今から返信するおー 917 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 14 47 911 ぴゃあっもまい難民ももらったのかお;; 918 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 15 07 のあのあ マダムJKの事JKJKマダムって書いてる子最近見るけろまちまってるお 919 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 15 45 914 もう発売してるのかおっばやばやっ もっとたくさん作ってくらしあ 920 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 16 20 よしっ、みんなにネタバレしてあげる為にパパ明日書店巡りしちゃうおっ 921 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 16 57 918 JKでありながらJKマダムなんらおきっと 922 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 17 15 920 フラゲれきなかったら #8230;まかってるおね? 923 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 17 43 918 常識的に考えてるんじょない? 924 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 18 09 JKJKマダム<マダムJKと一緒にしないでくださるかしら? マダムJK<あらあら。 925 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 18 30 922 ぴあああああ><; れも多分あるはずらオタクタウンらから 926 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 18 33 JKマダムってJKないんらおね? 927 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 18 35 JKJKたんのセーラー服を着てみるマダムJKれすか 928 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 18 38 921 奥さまは女子高生*><* 929 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 19 32 907 混危 930 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 20 01 JKマダムとマダムJKのちまい誰か説明してお 931 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 20 29 じゃあ漏れのどいちゅが処女を捨てたというのは嘘バレ…? 932 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 21 36 JKマダム→JKJKの進化系 マダムJK→生まれた時からマダムJK らないかお? 933 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 21 53 931 いやばびらお 漏れ今そのページ開いてるもん 934 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 22 14 漏れが今日もしごと中に考えていたこと ちびめり厨=いぎす ちびめり厨の毛深いかのうじ=ふらんしゅ つまりちびめり厨はマダムJKらったんら!! 935 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 22 38 フラゲのために寒空のヲタウンを走り回る 925 冬の日没は早く辺りはもう真っ暗ですが2巻は見つかりません 寒いはずなのにじっとりと嫌な汗が背中を伝います フラゲできなければもちゅられてしまう 925は必死でした 936 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 23 03 934 それらとマダムJK=いぎすっていうかマダムJKがふらんしゅと付き合ってることになるお 937 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 23 33 なっちゃんのおぱんちゅもーらいっ 938 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 23 57 937 そし>< 漏れあやまとのハートのおぱんちゅもーらいっ 939 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 24 19 すんきの上履き隠す 940 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 25 22 939 なんらそれ楽しそう^^* 941 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 25 25 じょあ漏れはあの子のおぱんちゅの後ろに挿入口って落書きする 942 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 26 04 936 事故東映ら 943 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 27 05 マダムあ自己投影しなさそうらお JKJKたんあしそう 944 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 27 37 すんきをいじめないで 945 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 27 48 JKJKたんのおまんちょぺろぺろ 946 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 28 00 れもJKれJK描いてるのあ自己投影にあ入らないのかしあ 947 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 28 54 945 ゆるさん 948 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 29 39 おなほ抱っこしてハラシマしてくるおっ もまいらまたね^^ 949 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 30 08 950かしあ 950 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 30 12 950ならいってくるお 951 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 32 10 よろしくたのむお 952 名前:950[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 32 10 もめんなしあインポれした><。 次のしとよろれす 953 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 34 17 いってみるお 954 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 38 37 漏れはいつれもぼっきぼき^^ http //jfk.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1228736214/ 955 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 39 55 954 もちゅもちゅ 956 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 40 01 954 もちゅもちゅ ノーパンなあの子もちゅるっ 957 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 40 16 精力旺盛な 954もちゅもちゅ 958 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 40 20 954 もちゅもちゅ 959 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 41 03 954 もちゅもちゅ ノーパンの藻前のあの子をすれ違いざまにもちゅる 960 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 41 24 954 もちゅもちゅ 漏れのカマンベールチーズ分けてやるお 食べかけらけろ 961 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 41 26 954 もちゅもちゅ 神保の中古K店れ特捜ハケーン 約4000円れした 漏れあギギギしながあ誘惑のマーラを退けまちた 962 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 43 24 4000円とか>< ぼったくりら 963 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 43 26 954 もちゅもちゅ あの子あノーパンミリらのあいやがっちゃって><。 964 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 44 23 フライングれゲトしたらけれそんな値が付くのかお 漏れにあマカンネ 965 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 44 38 946 なるほろ ≡<ふらんすは悪い奴じゃないんだがやっぱり子供はちびめりみたいなとぅるっとぅるがいいんだよな 966 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 47 20 腹減ったけお食うももがないかあ斎藤更新して紛らわす 967 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 47 46 買う書店もろうかしてるのあ もちゅもちゅ 968 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 47 54 1分れおこめもちゅる 969 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 48 01 そうか JKJKたんあ自己投影したいけろ実際の経験がないかあ自己投影れきないんらな 970 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 48 14 966 漏れのアーモンドチョコ分けてあげるお^^ つ● 971 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 50 02 ´○ヮ○<ただいまぁ 972 名前:名無し草[] 投稿日:2008/12/08(月) 20 50 08 1 1 973 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 51 56 特捜版の表紙がチョコレート色でおいしそうら… 974 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 52 17 971 ´ヮ`*b<おかえりなさーい 975 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 53 00 もはん終わったあとに ちょっともふとんでごろごろするしやわせ はふぅ 976 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 53 00 もいきゃなもいきゃわわ 977 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 53 26 970 まりまりマリアたんは腐食の魔女 それは本当にチョコらおね? 978 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 54 14 968 早漏すぎらお おこめ物足りなくて泣いてるお 979 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 55 43 もいもいときゃなたん一緒に住んでんのかお 980 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 55 49 さっさと売り払いたくなるほろの編集らとしたら… 981 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 56 10 きゃなたんならいま漏れの横で寝てるけお? 982 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 56 12 ロゴロあみんな列作りに必死らのあ アンヌロで列作るしかケベに居続ける方法ないしのあ 983 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 56 38 978 じょあおこめが泣いて頼んできたら続きしてやってもいいお 984 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 56 46 ;[]A[]<ワオ…早漏にも程があるんだぞ…何かの病気かい? 985 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 00 漏れの足ちべたい… 986 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 19 980 購入即手放したくなるほろのかお><; 987 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 25 寒いよお きゅーたんのメタボ腹れあっためてもらうお 988 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 37 数ヶ月ぶりに来たけお漏れがいない間になんかももろいことあったかお? 989 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 38 1000ならきたこーも単行本化 厳冬以外のむまま出版れ 990 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 51 明日予約した本屋さん覗いてみようかのあ 991 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 57 55 そんなに寒いのかお 家に暖房ないなあコンブニに居座ったらろうら 992 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 22 ´〇ヮ〇<外は寒いねー ´ヮ`*b<ご飯できてるよー ´〇ヮ〇<わーい ´ヮ`*b<あっスイッチ入ってない ´〇ヮ〇<まー待てばいいよー ´ヮ`*b<そうだねー 993 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 26 1000なら 魔王健康 漏れ健康 994 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 31 988 もまいのあの子ミナゲンれもちゅられまくり^^b 995 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 35 儲け第一でまわりの迷惑考えないアホあちね ダミスペの時点で救いようないお 996 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 51 1000ならぽちくんもふる 997 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 51 1000じょなかったら放送部厳冬以外れ書籍化 出印以外のむままれアニメ化 998 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 58 58 さむいよおもいもいあっためてっ>< 999 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 59 01 1000なら みんな幸せれ2巻あまさかの神編集 1000 名前:名無し草[sage] 投稿日:2008/12/08(月) 20 59 03 1000ならほっほーい!ほっほーい!ほっほーい! 1001 名前:1001[] 投稿日:Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。