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《RUM(ランクアップマジック)-七皇の剣(ザ・セブンス・ワン)》 通常魔法 (1):「CNo.」以外の「No.101」~「No.107」の いずれかをカード名に含むモンスター1体を、 自分のエクストラデッキ・墓地から特殊召喚し、 そのモンスターと同じ「No.」の数字を持つ「CNo.」と名のついたモンスターを その特殊召喚したモンスターの上に重ねてエクシーズ召喚扱いとしてエクストラデッキから特殊召喚する。 ボスは101から順に出していかなければならない
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人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には手書く事、むねとする事はなくとも、是を習ふべし。学問に便あらんためなり。次に医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出せり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、誠に欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌にたくみに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きにしかざるがごとし。 口語訳 人間の才能や知識は、経書(四書五経つまり儒教の大學・中庸・論語・孟子と易経・書経・詩経・春秋・礼記の称)などに通じていて、聖人の教えを知っているのを第一とする。次に字を書くことが大切で、専門にすることはなくても、これを習うがよい。文字を習うことで学問につながろうがためである。次に医術を習うがよい。わが身を養生して、人を助け、忠孝にいそしむのも、医術を知らなくては果たすことができない。次に弓を射、馬に乗ることで、これらは六芸の中に数えられている。必ずこれらをたしなむがよい。以上の文・武・医の道は、ほんとうに、どれ一つ欠けてもすまされるはずのないものである。これらを学ぶような人を、無用なことをする人と言うべきではない。次に食物は人間にとって、天のように、最もたいせつなものである。上手に調味することを心得ている人は、大きな長所があるとすべきである。次に手細工は、いろいろなことに役立つことが多い。 これらのほかのさまざまな末技に多能であるということは、君子として恥ずかしいところである。詩歌を作るに巧みで、管弦の楽にすぐれているのは、深遠玄妙な道で、君も臣もこれらを重要視するけれども、今のような時代では、これらでもって世を治めるのは、しだいにおろかなことになってきたようにみえる。金は上等なものであるけれども、鉄の実益が多いのに及ばないようなものである。 この段は、兼好がこれまでにどっぷり漬かってきた貴族社会の伝統に懐疑の眼を向けた興味ある一文として注目してみたい。徒然草でも既に語ってきたように、曰く、「ただひとり、灯火のもとに書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とすることこそ、何にもまして、心慰むわざである。」(十三段)として、書物に「文選・白氏文集・老子・荘子・わが国の博士たちの書いたもの」などの書物をあげたり、「和歌こそは、何といってもやはり趣の深いものである。身分の低い、賤しい者や山の木こりなどのすることも、歌に言いあらわしてしまえば趣があり、恐ろしげな猪も、『ふす猪の床』と言えば、優雅になってしまうものだ。」(十四段)として和歌を礼賛したり、「神楽というものは何といっても優雅なもので、また興趣のあるものである。」(十六段)として楽器の笛・琵琶・和琴などの音を聞きたいものだとしている。更に、「諒闇の年ほど感慨の深いことはあるまい。」(二十八段)として、朝廷の喪に服する期間でさえも、通常とは異なって特別な雰囲気の厳粛さが感ぜられて、感慨深いものだとしている。更に、「雪が趣きのあるさまに降っていた朝、ある人のもとへ、言ってやらねばならぬ用事があって、手紙をやるというのに、雪のことをひとことも言ってやらなかった、その返事に、『この雪を、どんな気持で見ているのかと、一筆もお書きにならないほどの、心のひねくれているようなお方の仰せになることを、どうしてお聞き入れすることができましょうか。かさねがさね、なさけない御心です』と書いてあったのは、実におもしろいことであった。」(三十一段)として、今は亡き人なので、これほどのことも忘れがたい思い出あるとしている。貴族社会に生きる双方の美意識が雪を介して火花を散らしている一文であると言えよう。このように徒然草の前半には、宮廷や貴族社会の思い出につながるような内容が随所に述べられていて、貴族社会の伝統を憧憬する強い思いが発散されている。正に貴族文化の原点たるべき幽玄の道を賛歌している。しかし、この百二十二段になると貴族社会賛美のトーンが一転してがくんと下がるのである。見事までにである。 百二十二段では書いている。先ず前半では、従来通りの持論である四書五経などの書物に精通して、また文字を習い、医術を習い、養生して、人を助け、忠孝にもいそしむ。弓や馬術もならって文・武・医の道は不可欠のものであるとしている。貴族としてのたしなみなのである。詩歌を作るのに巧みで、管弦の楽にすぐれているのは、深遠玄妙な道で、君臣ともにこれらを重要視するけれども、今のような時代では、これらでもって世を治めるのは、しだいにおろかなことになってきたようにみえる。金は上等なものであるけれども、鉄(刀や槍などの武器)の実益が多いのに遠く及ばないようなものである。 いつの頃かさだかではないが、おそらく鎌倉幕府が倒れて、次は後醍醐天皇と足利尊氏の対立が顕在化して武家側がいっそう鮮明に貴族側を圧倒しだした情況をみつめての感慨ではなかろうか。雅の貴族時代の支配の終焉をかぎとったからであろう。それまでの鎌倉と京都の二極支配(秩序)が崩れて、武による一極支配がより明確になってきたからであろう。 太平記では、後醍醐天皇は念願のというか宿願の打倒鎌倉を果たして(1333年)、京都に還幸したものの、即席の寄り合い所帯の悲しさか早速にひび割れが生じてくる。それは天皇の皇子・護良親王の処遇にについて深刻に現れてくる。護良親王は出家し天台宗宗門に入り、法名を尊雲といった。尊雲は天皇の意向により天台座主として山門の僧兵をある程度組織化して倒幕運動に尽力した。後醍醐天皇が隠岐に流されて、倒幕運動が頓挫しかけたときも、河内の楠木正成や播磨の赤松円心らの力をかりて、倒幕の旗じるしはおろさなかった。尊雲座主は天皇が隠岐に流されたのを機に、還俗して再び護良親王となり、天皇の命令伝達たる令旨を親王の名により多く発給して、反幕府分子を倒幕勢力に転化させ、結集させるのに大いに役立った。親王は後醍醐天皇が捕らわれて隠岐より出雲に脱出するまでのおよそ一年間、倒幕諸勢力のエネルギーを高め・持続させて時間稼ぎをするのに計りしれない功労があった。天皇気取りで令旨を乱発気味で発給したとの評判もあるが、親王の突出がなければ各地での倒幕気運はしぼんでしまったかもしれなかった。倒幕の最大功労者の一人に十分数えられてよかった。しかし乱世のこの時期、さまざまな形での倒幕の功労者はたくさんいた。中でも抜きんでいたのは先の親王と足利尊氏(高氏)であろう。片や武門の実力者であり、片や天皇の皇子で公家方の代表であり、両者の利害は全く相容れなかった。親王は政権の中枢の側に居ていろいろなものが見え、自分の思い描く政権構想とは違った流れになっていく情況に焦りを深め、尊氏との対決は時間の問題であった。 元弘三年(1333)に鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇が強力な中央集権をめざして晴の建武の新政がスタートしたが、先ず論功行賞をめぐってつまずいてしまった。露骨な分捕り合戦に終始したのである。公家一統の天下とはいえ全国規模での組織をどう立て直すかとの視点はぼやけ己の利害に走り回った。旧北条の広大な領地は、北条高時の分は天皇がとり、高時の弟泰家の分は護良親王がとり、北条一族の分は寵姫阿野廉子に、という具合に、大部分は天皇近辺で独占の状態であった。側近たちも多くの領地を分け与えられて有頂天になっていた。天皇は公家や僧に手厚い沙汰をした反面、武士には概して冷淡であった。尊氏の武蔵・相模・伊豆の知行国の任命、新田義貞の越後守となって、播磨・上野介の兼任、楠木正成の河内守の任命が例外的に武士の処遇として特筆されるぐらいである。特に、赤松円心も倒幕の功労者ではあるが、恩賞に与るどころか逆に根拠地の播磨の守護職を奪われて、佐用荘一か所を与えられたに過ぎなかった。大方の理解の苦しむ沙汰の与えかたであった。土地の分け前の不公平感が地方の武士たちに広がり、その分武家の実力者・足利尊氏に期待を寄せる声が日に日に高まっていった。共通の敵である北条氏が倒れると、内包していた矛盾が浮き彫りになり、新たな対立・抗争が生まれてくる。それに恩賞の与え方が極端な不公平さで対立が深刻化していった。そのあたりを太平記によれば、兵武卿(護良)親王は、「天下の乱向ふ程は、力無く(やむなく)その身の難を遁れんために御法体を変えらるるといへども、四海すでに静謐せば、元の如く三千貫長(天台座主)の位に復し、仏法・王法の紹隆いたしたまはんこそ、仏意にも叶ひ、叡慮にも違はせたまふまじかりしを、征夷将軍の位に備はり天下の武道を守るべしとて、すなはち勅許を申されしかば、聖慮(天皇)穏やかならざりしかども、(親王の)御望みにまかせ、つひに征夷将軍の宣旨を下さる。」そうして、親王は四海の依頼として征夷将軍の位にふさわしい慎重な振る舞いをするべきなのに、どいうわけか心は奢り極め、世の謗りを忘れて淫楽をのみ事として耽られたので、天下の人皆再び天下が乱れるであろうと危ぶんだ。親王の周辺には強弓を射る者、大太刀を使う者が大した功績がなくとも目をかけられ使われるようになった。毎夜京や郊外に出没して辻斬りをしかけて、路上で行き交う幼い男児や女児がここかしこに切り倒され、斬殺される者が絶えなかった。これも尊氏を討たんがための武技をみがく振る舞いであるとしていた。何とも無謀な動機であった。と同時に尊氏に親王追い落としの立派な口実を与えるようなものであった。親王が尊氏に対して深く意趣返しのような行動をとるようになったそもそもの根元は、去年五月の六波羅を攻め落としたみぎりに、親王側の殿法印(関白二条良実の孫・良忠)の家来たちが京中の土蔵を打ち破って、財宝を略奪して乱暴狼藉を働いているのを取り締まるために、尊氏側の兵がこれを召し捕って、二十人余りを六条河原で切って首を晒す措置に出た。そうして、高札に「大塔宮(親王)の候人(僧)、殿法印良忠が手の者ども、在々所々において、昼強盗をいたすあひだ、誅するところなり」と実名いりで書いて掲げた。面目を失った殿法印は、さまざまな讒言を大将である親王に訴え出た。親王もそれに同調して前々から尊氏を討とうと思っていた矢先で、密やかに諸国に令旨を撒いて兵を募った。 尊氏もこのことを察知して、内々准后の阿野廉子と連絡を取り合って、彼女を通して「兵部卿親王、帝位を奪ひたてまつらんために、諸国の兵を召し候ふなり。その証拠分明(明らか)に候ふ」とて、兵部卿が国々へ下されたところの令旨を取って、帝にお見せ申しあげて讒言したのである。帝は大層お怒りになって、この宮を流罪に処せよと命じ、清涼殿での和歌・管弦の御遊会に事寄せて大塔宮(親王)を呼び寄せたのである。まさか父帝から裏切られるとは夢にも思わぬ宮は十数人の僅かな共廻りで、忍びやかに御参内したところ、待ち受けていた結城親光、名和長年らにより勅命によって取り押さえられて、馬場殿の中に押し込められてしまった。無実の弁明の手紙を書くにも、(廉子のか)後難を恐れて帝に取り次ぐものは誰もいなかった。「龍駕(帝)まさに都に還り、鳳暦(天皇の治世)永く天に則ること、おそらくは微臣(親王)が忠功にあらずんばそれたれとかせんや」と宮の功績無くば今の天皇の座はないのだとばかりに血の吐くような思いで強調すれども空しく、忠義を致して賞を待つ宮の身内の候人三十余人も密かに処罰され消されてしまった。帝の少々の怒りを最大限に利用して、大塔宮に対立する勢力・尊氏はじめ阿野廉子らが結託して可能な限りの罰をくだしたのである。大塔宮は尊氏の弟・直義に託されて鎌倉送りとなるのであるが、これによって宮の命運は事実上決まったと言っても過言ではなかった。天皇は尊氏・阿野廉子の讒言を信じて、我が子たる大塔宮の忠誠心を踏みにじってしまった。天皇は尊氏の強大な武力や強力な人望を恐れていたのであろうか。 阿野廉子が同じ範疇に属する貴族の護良親王と手を組まないで敵対するはずの武家の尊氏と手を組んだのは何故なのだろうか。将来我が子の皇子を天皇に就けるためには護良親王が障害になると計算して尊氏と組んで、護良親王排斥に乗り出したとの観方がある。後の彼女の軌跡を辿れば例え縮小された南朝の世界とはいえ、吉野で南朝第二代目の天皇に即位したのは彼女所生の皇子義良親王であれば、あながち的外れの解釈でもないことは確かだ。しかし、別の目からすれば大きな過ちをしたといえる。護良親王の失脚は武家側には利することがあっても、公家方には利することは何もないからである。余りのにも狭窄な視野に立っての行動だったのである。折角苦労して復活した公家の政権を全国的な視野で再び構築するという理念はなかった。彼女にはある意味で北条政子のような政治的な役割を果たすことはできなかった。大きな利害より小さな利害にとらわれて、大塔宮を抹殺して公家側の力を大きく削いでしまった。建武の新政で阿野廉子が果たした役割で最大の功労は大塔宮(護良親王)を抹殺したことだとの指摘が皮肉ぽっく語られているが、これは皮肉でも何でもなく正解と言わざるを得ない。 兼好がこの段で語っている、「詩歌にたくみに、糸竹(管弦)に妙なるは幽玄(優雅で深遠)の道、君臣これを重くすといへども、今の世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし」と、貴族の特権である詩歌管弦では武士の武器に敵う筈もないと喝破しているのだ。我が子をむざむざ敵である武家に手渡してもどうすることも出来なかったのだ。正に新しい南北朝時代の到来を予感しているのである。 参考文献 日本古典文学大系 太平記 岩波書店刊 太平記の群像 森 茂暁 角川書店刊 後醍醐天皇 森 茂暁 中央公論新社刊 「人ごとに、我が身にうとき事のみぞ好める。(八十段) 」に続く。
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真竜皇の復活(OCG) 永続罠 「真竜皇の復活」の(1)(2)(3)の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できず、 (1)(2)の効果は同一チェーン上では発動できない。 (1):自分の墓地の「真竜」モンスター1体を対象として発動できる。 そのモンスターを守備表示で特殊召喚する。 この効果の発動後、ターン終了時まで自分はモンスターを特殊召喚できない。 (2):相手メインフェイズに発動できる。 「真竜」モンスター1体を表側表示でアドバンス召喚する。 (3):このカードが魔法&罠ゾーンから墓地へ送られた場合、 フィールドのモンスター1体を対象として発動できる。 そのモンスターを破壊する。 モンスター破壊 永続 真竜補助 罠 蘇生
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竜皇の崩御(アニメ) 通常魔法 自分フィールド上のモンスターを全てリリースし、 そのリリースしたドラゴン族モンスターの攻撃力の合計分のダメージをお互いのライフに与える。 ドラゴン族補助 直接ダメージ 魔法
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<丘(おか)の意味> ①元ネタのひとつ、漫画版『機神兵団』の作者、岡(おか)昌平 ・機神(キシン)→巨人(キョジン)というダジャレ。 ・ウソ予告の「巨人兵団(キョジンヘイダン)」は『機神兵団(キシンヘイダン)』というダジャレ。 ・『機神兵団』は途中で「仲間が実は機神(キシン)だった」ことが判明する。『進撃の巨人』も途中で「ライナー達が実は巨人だった」ことが判明する。 ・同じく岡昌平の漫画版『ギガンティック・フォーミュラー』では「海に行く」のが主人公達と天才少女の重要な約束として登場。『進撃の巨人』も「海を見る」のがエレンとアルミンの重要な約束として登場。 ・『ギガンティック・フォーミュラー』は最終回で主人公達は天才を失って普通の子供に戻った少女とともに3人で海に行く。エレン、ミカサ、アルミンはパラディ島の無垢の巨人をほぼ駆逐して調査兵団とともに海に行き、最終回では巨人の力を失って普通の人に戻った世界で、エレンとアルミン(描かれていないが他の者も?)は精神の世界で海に行っていたことが語られる。 ②キリストが磔刑に処されたゴルゴダの丘であり、エレンの居眠りする丘 ・エレンは「桓武天皇」。 唯一のページ数「-13-」の伏線。「-13-」の上の絵は「木に寄りかかって眠るエレンとミカサ」であり、左から「木・エレン・ミカサ」の順番で並んでいる。 13をデジタル表記にして合体させると「日」という漢字になる。 日の上下に2つのハイフン「-」を付けると「亘」になる。 「-13-」の真上にエレンがいるので、「亘」はエレンを表す。 ミカサはアッカーマンであり、アッカーマンは作中で王家を守る武力担当と説明されているので、「武」と考える。 (※武をムと読み、△と考えると、ミカサの右手の「○に△」のイレズミにもなる) これを「木・エレン・ミカサ」の順番で並べると「木亘武」=「桓武」となる。 すなわち、桓武天皇である。 桓武天皇の父は光仁天皇であり、光仁天皇の諱(イミナ)は「白壁王(シロカベノオオキミ)」である。 だからエレンとミカサの直後に「巨大な白壁」が見開きで描かれている。 つまり壁は天皇であり皇室(コウシツ)である。 エレンやライナーの鎧の巨人が皮膚を硬くすることを、硬化(コウカ hardening)と書かずに「硬質(コウシツ)化」と不自然な表現にしているのは「硬質化(コウシツカ)=皇室化(コウシツカ)」というダジャレだから。 桓武天皇の母は渡来人と言われる「高野新笠(タカノノニイガサ)」であり、ダジャレでニイガサを「2ィカサ」と考えると、その次は「3ィカサ」=ミカサとなる。 最終回で判明したように、第1話「二千年後の君」の「君」は日本の国歌「君が代」と天皇・皇室を指す。 『進撃の巨人』および第1話のタイトル「二千年後の君へ」が、「君が代」と関係する可能性については繰り返し指摘してきたが、最終回でこの予想がほぼ的中していたこともほぼ確定した。 日本の国歌「君が代」は、①「国民が天皇陛下の治める平和な世がいつまでもでも続きますように、という願いを込めて皇室を祝った歌」であるのと同時に、②「君=恋人」への想いを歌った「恋の歌、愛の歌」でもある。 ①については、仁徳天皇の「民の竈(カマド)」のエピソードや、第二次世界大戦での敗戦後、昭和天皇が自分の命と財産をなげうってGHQから日本国民を救ったエピソードが、その証明である。 「民の竈(カマド)」とは、国民の生活が困窮していることを知った仁徳天皇が3年間税金を取るのをやめ、皇居が壊れても直すこともできず、見かねた国民がどうか税を取ってくださいと頼むと、逆にさらに3年税を取らない期間を延長したというエピソードである。 税金が再開された時、国民の生活は非常に向上しており、国民は仁徳天皇への感謝を込めて自発的に皇居を修繕したと今に伝えられている。 仁徳天皇を葬ったとされる仁徳天皇陵は世界最大の面積を誇るが、その大きさは国民の敬意の表れとも言われ、世界遺産にもなっている。 ちなみに『鬼滅の刃』の主人公の名前「竈門(カマド)炭次郎」の元ネタのひとつとも言われる。 『鬼滅の刃』は『桃太郎』の鬼退治がモチーフであり、日本人(天皇)による鬼=チャイナ退治とされる。 実際に、チャイナが情報を隠したために武漢熱が世界中に拡散し、世界中で大量の死者が続出。 2021年5月4日現在、すでにアメリカでは武漢熱=アメリカの言うチャイナ・ウイルスのために、第一次・第二次世界大戦とベトナム戦争の死者の合計を超える数のアメリカ国民が殺されている。 しかもチャイナは反省するどころか、粗悪なウイルスを弱小国に売りつけて金儲けをしたり、ウイルスを与える代わりに自分の言うことを聞けと脅迫している。 要するに、毒を飲ませて「解毒薬が欲しければ言うことを聞け」と脅しているのである。 そして最悪なのは、チャイナのせいで世界中の経済がボロボロになり、家族や隣人が死に続けているのに、チャイナは「うちの国だけこんなに経済成長したぞ」と自慢していることである。 これらの異常行動により、ついに世界中がチャイナの正体に気付いた結果、「チャイナの悪行や暴走を止められるのは、すぐ近くの日本しかいない」と、日本が世界中から期待されるようになっている。 今、憲法改正の話が急にテレビで大きく報道されだしたのも、世界中、特にアメリカやイギリスから「日本は早く憲法9条を改正して一緒にチャイナと戦ってくれ、チャイナ禍を止めてくれ」と要求されているからだと、テレビなどでも解説されている。 つまり、今、日本は「鬼退治をお願いされている桃太郎」なのである。 最近チャイナが非常に焦っているのはそのため。 ②については、恋は日本人にとって非常に重要な人間の営みであり、それは世界最初の小説『源氏物語』が恋の物語であることからも明らかである。 この「君が代」をわざと残酷にして漫画化したのが『進撃の巨人』である。 要するに『本当はこわい○○』と同じ発想である。 「君が代」との最大の違いは、元の「君が代」は「国民の願いの歌」であるのに対し、『進撃の巨人』は「独裁者の欲望の歌」として描いている点である。 分かり易やすく言えば、「君が代」は国民を幸福にしようとする日本の天皇の歌または恋が大好きな日本人の歌であり、『進撃の巨人』は自分の血筋で権力を独占し、国民を奴隷にして虐待するチャイナの皇帝の歌である。 『進撃の巨人』最終話の第139話「あの丘の木に向かって」で、始祖ユミルは自分を奴隷として虐げ使役した初代フリッツ王を愛していたとエレンの口から語られる。 始祖ユミルは初代フリッツ王に恋をしていた。 つまり『進撃の巨人』は王と奴隷の「支配と差別」&「恋」の漫画なのである。 ・漫画版第1話で、背景の草がやたらに強調されている。「いってらっしゃい」と言っている人物の背景も、草、海(の波)、カビのどれにも見えるような描き方をされている。 ・草は「草葉の陰=死者の国」であり、エレンが死者である事を意味する。アニメ版第1話ではエレンは草の中に寝ており、さらに死のイメージが強調されている。(「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと」松尾芭蕉) ・草は鳥の嘴(クチバシ)も表現している。 ・エレンはゴルゴダの丘で死んでいる=キリストである。 ・エレンが居眠りしていた木に十字架が刻まれているのは、この木の根元でエレンが死んでいる=最終回でエレンの墓がひっそり置かれていることを表現している。 ③メギドの丘=ハルマゲドン=アル(マゲー)ミン=アルミン ・そもそも壁の内側全体が丘であり、メギドの丘=ハルマゲドン(最終戦争)を意味する。 ・作中では季節も描かれており、 第1話のエレンとミカサの周囲を落ち葉が舞うのは「秋」、 壁襲撃後にエレン達が雪が降る中で農作業をさせられているのは「冬」、 海に到達するのは「夏」、 そしてミカサがエレンの墓の傍で佇む最終回はおそらく「春」であり、 春を破字(※漢字を分解すること)すれば「三人の日」となる。 春=ハルは、ヘブライ語で「丘」。 メギドの丘は「ハルマゲドン」。 ハルマゲドンは「最終戦争」を意味する言葉。 ハルマゲドンはアルマゲドンとも読む。 アルマゲドンを縦書きにして、「ド」を破字して「|ミ」にする(|は「オー」などの伸ばし棒)。 アルマゲーミン→最初と最後の2文字ずつを繋げるとアル・ミン=アルミンになる。 (ゲーミン→ゲーミング、ゲーム。第1巻巻末の「制作環境」イラストにPS2が描かれているのも伏線。○△×□ボタンも伏線) つまり、『進撃の巨人』の最終決戦はハルマゲドンであり、アルミンが勝者、戦争を終わらせる者になることを暗示している。 <木の意味> 木は英語でツリー(TREE)→トゥリー→トリー→鳥。 つまり、木は鳥を意味する暗号。 鳥はチョウとも読むので、朝鮮(チョウセン)の隠語。 最近のアニメや漫画でやたらに鳥が出てくるのは、朝鮮系プロパガンダだから。 巨大樹の森も朝鮮を意味する記号。 だから「物語状の伏線ではなくプロパガンダで出しているだけで実は意味がほとんど無い」。
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天下絶世の美女に化けることで国々を乱すことを続けていた大白狐。三大妖怪の一つとして知られる。 禁彩の保霊庫 【九尾の狐(きゅうびのきつね)】 殷王朝の紂王の時代、蘇の妲己(だつき)という美女の姿に化けて国を傾け、その後の各国の王朝の皇帝を誑かし悪政をもたらした。日東へは吉備真備の帰朝の船に若藻(わかも)という少女に化けて紛れ込み、渡って来たと語られる。 北面の武士(*1)であった坂部庄司行綱は、悪狐を射よという命令を受けたが弓弦が切れて射ち損なうという失態を犯して罷免された。子の無かった行綱が寺参りの帰路に拾ったのが若藻で、その美しさが評判を呼び、内裏へ上がることになり、若藻は藻女(みくずめ)と名乗るようになる。藻女は幅広い教養を認められ鳥羽天皇の寵愛を受け、藻女という名にちなみ玉藻(たまも)という名をも賜った。 陰陽師の安倍泰成(あるいは安倍泰親(*2))が調伏の真言を唱えると玉藻は大白狐の正体を顕わし、平安京から逃亡した。玉藻の呪縛から解放された鳥羽天皇は三浦介、上総介、千葉介の三人の武士に悪狐討伐を命じ、栃木県の那須で九尾の狐は退治された。 白玉面 その顔は初雪のように白く、日月星のように光を発していると語られる。 金九尾 九つの尾は金色に輝いている。『春秋元命苞』には「天文王ニ命ズルニ、九尾ノ狐ヲ以テス」とある。 【王法と玉藻】 「藻」は西土では帝王の威を示す象徴の一つとして知られて来た。皇帝の冠の「旒」と言う十二本の飾りに見られる五色の絹玉は「玉藻」と呼ばれる(*3)。つまり九尾の狐が用いていた「藻」という名は、「玉藻」という名を賜る以前から、自らが帝王を狙って射ることを暗に表明していたものであるとも考えられる。これは、天照(東姫・明界)に対する月読(西王・幽界)の勢力の侵入を意味していた。 「藻」を象徴の一つとして用いた皇帝の装束は王政復古以前は日東でも用いられていた。後醍醐天皇の御像が着けている冠の旒飾りもこの「玉藻」である。 王法そのものに侵入して世を乱そうとする妖怪は、三大妖怪中唯一の存在である。 入場口
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玉皇の官服 セット効果 天上(0/2~6) 編集 伝説 神話 英雄 レア 高級 一般 +値 防御力 経験値 霊魂の粉 防御力 経験値 防御力 経験値 防御力 経験値 防御力 経験値 防御力 経験値 +0 11,487 223,256 - 9,189 139,440 7,352 87,221 5,881 54,489 ? exp ? exp +1 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +2 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +3 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +4 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +5 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +6 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +7 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +8 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +9 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +10 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +11 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +12 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +13 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +14 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +15 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +16 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +17 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +18 ? exp - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +19 34,460 32,628,296 - ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp 超越強化 +20 37,907 42,416,748 257,627 ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +21 41,353 55,141,960 334,915 ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +22 44,799 71,684,472 435,389 ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +23 48,245 exp 566,007 ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +24 51,691 121,146,648 735,808 ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp +25 55,137 exp 956,550 ? exp ? exp ? exp ? exp ? exp
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[教皇の傀儡]アイオリア タイプ スピード 必要コスモ 16 初期攻撃力/防御力 5530/4440 初期総パラメータ 9970 最大攻撃力/防御力 13825/11100 最大総パラメータ 24925 必殺技 ライトニングプラズマ 効果 スピードタイプの攻守 特大アップ 【解説】 獅子宮を守る熱き血潮滾る正義の黄金聖闘士。かつて日本でアテナに忠誠を誓ったその男が、再び星矢の目の前に現れた時、まるで人が変わったように凶暴になっていた。 「苦しいか星矢…今楽にしてやるぞ!!」 [教皇の傀儡]アイオリア+ タイプ スピード 必要コスモ 16 初期攻撃力/防御力 6636/5328 初期総パラメータ 11964 最大攻撃力/防御力 16590/13320 最大総パラメータ 29910 必殺技 ライトニングプラズマ 効果 スピードタイプの攻守 特大アップ MAX覚醒時 初期攻撃力/防御力 9402/7548 初期総パラメータ 16950 最大攻撃力/防御力 19356/15540 最大総パラメータ 34896 【解説】 獅子宮を守る熱き血潮滾る正義の黄金聖闘士。教皇の幻朧魔皇拳により、操り人形と成り果てたアイオリア。一秒間に一億発が打ち込まれる光速の拳で、先を急ぐ星矢を追いつめる!!
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【元ネタ】日本・伝説 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】神夏磯媛 【性別】女 【身長・体重】cm・kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力C+ 耐久C 敏捷C 魔力C+ 幸運D 宝具C+ 【クラス別スキル】 対魔力:C 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。 騎乗:B 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせる。 今の日本列島では見られない、霊威ある巨獣でも対象となる。 また、自ら船に乗って景行天皇の軍勢の前に姿を見せたという。 【固有スキル】 魔術:B 卑弥呼と系統を同じくする、古代日本の巫女王の魔術。 白旗の持ち手:B 敵意がない場合、相手の警戒心を解いて交渉を優位に進める雰囲気。 白旗を降伏の証とすることは古来より東洋にも存在しており、日本史上で最初に使用したのが セイバーである。 麗しの姫君:C 古代の民を惹きつけた、女王としてのカリスマ。 圏境:D 周辺を感知するスキル。景行天皇に周辺の四人の王の名を挙げ、討伐を促した。 【宝具】 『三種宝賢木(みくさのたからのさかき)』 ランク:C+ 種別:対城宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 現在の北九州市一帯を治めていた、セイバーの王権の象徴。 現地で神聖視されていたと思われる山で根から採取した榊の枝に、一番上に八拳剣、 二番目に八咫鏡、三番目に八尺瓊(の勾玉)を懸けて、景行天皇に服属を誓った。 八云々は単に大きくて立派という意味であり、『日本書紀』には所謂三種の神器以外にも八咫鏡や八尺瓊勾玉が登場しており、 草薙剣も複数の剣の伝説を合わせたものと考えられている。 古墳からもこの三種が組で出土している、当時の王権の象徴。 当時の日本には、まだ大和政権を差し置いて朝鮮半島の王国に対し、倭王を名乗る王たちが存在していたが、彼らも同様の宝物を所有していた筈である。 セイバーの王権が大和の王権に勝利していれば、これが日本の三種の神器になりえていたかもしれない。 榊全体を振るい、武器として使用する。 【Weapon】 『磯津山の賢木』 磯津山(現在の北九州市辺りの山か)に自生していた榊の木を根から掘り起こした物。 これに三種の宝物を懸け、大和政権への服属を誓った。 【解説】 『日本書紀』に登場する、現在の福岡県あたりを治めていた女王。 『日本書紀』や『風土記』逸文には、古代の九州北部に複数の女王がいたことが記されており、 セイバーもその一人であったが、景行天皇の西征に当って大和政権に服属した。 しかし、南九州の熊襲はなかなか従わなかった為、天皇に代わって小碓尊が派遣される。 討ち取った熊襲の王から名を献じられたこの尊こそ、後の日本武尊であった。
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Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)に赴任。 1914年(大正3年) - 陸軍砲兵少尉任官。 1917年(大正6年) - 陸軍砲工学校卒業。 1918年(大正7年) - 陸軍中尉任官。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)に赴任。 1919年(大正8年) - 陸軍大学校入学(34期生)。 1922年(大正11年) - 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊に帰任。 1923年(大正12年) - 陸軍大尉任官。参謀本部に赴任。 1924年(大正13年) - 参謀本部支那班に所属。この頃、大川周明と関係。 1927年(昭和2年)7月 - 参謀本部付・支那研究生として北京・張家口に駐在(特務機関任務)。 1929年(昭和4年)8月 - 陸軍砲兵少佐任官。参謀本部支那課兵要地誌班に異動。 1930年(昭和5年)10月 - 上海公使館附武官として上海に赴任。川島芳子と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き入れる。 1932年(昭和7年) 1月 - 上海事変。田中と川島は共謀し、上海事変を引き起こす謀略を実行する。 8月 - 野砲兵第4連隊の大隊長に着任。 1934年(昭和9年)3月 - 陸軍中佐任官。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は下村定)に着任。 1935年(昭和10年)3月 - 関東軍参謀部第2課(情報課)兵要地誌班長(蒙古工作担当)の参謀として満州に赴任。 1936年(昭和11年)8月 - 徳化特務機関長を兼務(~1937年1月)。対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。徳王と連携して綏遠事件を起こす。 1937年(昭和12年)8月 - 陸軍大佐任官。第19師団(朝鮮)山砲兵第25連隊長に着任。 1938年(昭和13年)8月 - 張鼓峰事件の戦闘に参加。 1939年(昭和14年)1月 - 陸軍省兵務局兵務課長に着任。 1940年(昭和15年) 3月 - 少将に昇進、第1軍(中国)参謀長として閻錫山工作に従事。 12月 - 陸軍省兵務局長。 1941年(昭和16年) 6月 - 陸軍中野学校長を兼ねる。 10月、兼職を免ぜられる。 1942年(昭和17年) 9月 - 東部軍司令部付に異動。 11月~12月 - 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。 1943年(昭和18年)3月 - 予備役編入。 1945年(昭和20年)3月 - 召集され羅津要塞司令官を任命されるが、阿南惟幾を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。終戦後は、宇垣一成を担いで新政党を発足させようとするが、宇垣の公職追放のため失敗。 1946年(昭和21年) 1月 - 陸軍の内情を明かした『敗因を衝く』を刊行。これによって田中は東京裁判に巻き込まれる事となる。 7月5日 - 国際検事団に出頭させられる。 1948年(昭和23年)11月 - 東京裁判終了。 1949年(昭和24年) - 戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲する。 9月15日 - 短刀による自殺未遂。 1972年(昭和47年)6月5日 - 直腸癌のため死去。享年78。 川島芳子との関係 1930年(昭和5年)10月、田中は関東軍中佐として上海の公使館付武官として赴任した。そこで田中は川島芳子と知り合い、ほどなく男女の関係になる。そして川島の語学力や明晰な頭脳・行動力を利用し、謀略工作の世界に引き込んだ。 第1次上海事変は1932年(昭和7年)1月に始まる。しかし、上海事変は関東軍の謀略で、その真相は戦後になって田中が自ら公表した。日本人僧侶襲撃以降の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人を扇動し、日本人僧侶を襲わせた。 その後も、国民党軍のスパイ活動を川島に行わせていたが、小説『男装の麗人』などで川島の名が有名になると、逆に2人の仲は冷えていき、しばしば口論するようになったため田中と川島は別れることになった(その後も田中は川島にラブレターのような手紙を送っているので、完全にふっきれたのではないようである)。 東京裁判 東京裁判において、田中は数人の軍人に責任を押し付け、昭和天皇の戦争責任を回避させるために検事側に協力した。しかし人間関係の不満により、旧陸軍の内部告発をしたとする批判もある。かつての上司である東條英機、木村兵太郎にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対して「裏切り者!」「日本のユダ!」という罵声を浴びせる者もいた。特に、7月6日の公判において、橋本欣五郎・板垣征四郎・南次郎・土肥原賢二・梅津美治郎などを名指しで証言した際には、鈴木貞一はその日の日誌に「田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ」と記し、板垣征四郎も日記に二重丸をつけて「◎人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ」と書き、重光葵はその時の心境を「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし」と歌に詠んだ。 田中の行為に、天皇の免責と自らの責任回避のどちらの要素が多いかは論議が分かれるところであるが、次のようなエピソードがある。1947年(昭和22年)の暮れ、木戸幸一担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかどうか」と質問をしたところ、東條は「いやしくも日本人たるもの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においてをや」と大見得を切ってしまった。 これを受けて、アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてた。これを受けてさらに、ソ連の検事が正式に天皇追起訴を提言してジョセフ・キーナン主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。東條への工作は成功した。 1948年(昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりとも天皇の命令に従わないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」と発言させることに成功したのだった。これにより、この危機は救われた。 東京裁判の席上、田中隆吉が東條を指差し、東條を激怒させた。特に武藤章においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という田中の証言により、死刑が確定したとも言われている。武藤は対米開戦には慎重派であった。田中は上海事変に関与しており、戦犯行為を行なっているので、検事側に協力しなければ起訴されていたという説もある。一説では、武藤が軍務局長の頃に、田中は武藤の地位を狙って策謀したが、未遂に終わって予備役に回された事から、武藤を逆恨みしていたと言われている。だが、田中には終戦間際中将への昇進の話があったが、自ら断ったというエピソードがある。裁判後、田中は武藤の幽霊が現れると言う精神錯乱に陥ったとも言われている。 しかし、元外務省主任分析官佐藤優は「田中の軍歴が示す通り、全てが計算された戦後における謀略であった」と指摘している。真に売国奴であるならば、戦後においても継続された陸軍中野学校の国土遊撃戦計画(泉工作)などをGHQに売り払うはずであり、A級戦犯に対する告発も「被害者」を「最小限」に食い止める為の一つの手段であったと、考えることもできる。また、田中の目的が、絶対に国体護持を念頭していたことも、中野学校の戦後潜伏活動の目的と一致している(中野戦士たちは、占領軍が国体を毀損した場合に、ゲリラ戦へ移行すると決定していた)。真の愛国者は売国奴の汚名も着るとの言葉を、田中は実際にやって見せたと考えられる。 戦後、田中に対し非公式ながら宮中から御下賜があり、田中は涙を流してこれを拝受したという。 田中自身の戦争責任感 他人に対して好悪の激しかった田中は、東京裁判で上司・同僚に不利な証言をしたというだけでなく、戦後期の著述でも様々な自説を論じている。そのため特に非難が集まりやすく、周囲の証言からだけでは田中隆吉の人物像というものが見えにくくなりがちである。だが、東京裁判の終了直後の1949年(昭和24年)に田中が自殺未遂をした際の遺書には、下記の記述がある。 日本の軍閥の一員として大東亜戦争中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。 既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の1人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず また、晩年は鬱病状態であった。 著作 『敗因を衝く 軍閥専横の実相』 (山水社、1946年) (中公文庫、1988年、2006年) ISBN 4-12-204720-X 終戦直後に出版された本で、戦争末期においても上層部で政治闘争が続いていたことを明らかにした。ただし、この本を書いたことによってGHQから呼び出しを受けることとなる(後書きを参照)。 『日本軍閥暗闘史』 (静和堂書店、1947年) (中公文庫、1988年、2005年) ISBN 4-12-204563-0 『裁かれる歴史 敗戦秘話』 (新風社、1948年) (長崎出版、1985年) ISBN 4-930695-59-7 参考文献 粟屋憲太郎 編\岡田良之助 訳『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年) ISBN 4-272-52028-8 田中稔「東京裁判と父田中隆吉」 田中隆吉『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫、2006年) p188 - p209 伊藤隆「『日本軍閥暗闘史』解説」 田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(中公文庫、2005年) p175 - p186。 保阪正康『戦後の肖像 その栄光と挫折』(中公文庫、2005年) ISBN 4-12-204557-6 「裏切りの軍人という烙印……田中隆吉」 p325 - p351 〔初出:「日本のユダ 田中隆吉の虚実」 『諸君!』1983年8月号〕 田中隆吉を演じた人物 佐藤慶(『山河燃ゆ』、NHK大河ドラマ、1984年) 島木譲二(『プライド・運命の瞬間』、東映、1998年) 吹越満(『男装の麗人〜川島芳子の生涯〜』、テレビ朝日、2008年) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 02 31。