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闇の天使 堕天使の王 セントの天使時代の呼び名。 彼の能力の詳細・バースト技などを知る者はほとんどいない・・・ 現在、天使界に闇の天使は存在はしているが、セントの穴埋めにはならない。
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目次 1.いつの時代にも、天使軍団のような、聖霊たちの集団があった 2.各国にある天使団 3.仏教系では、天使を諸如来、諸菩薩という 4.現在の日本にも数多くの天使たちが生きている 5.明治時代に生まれた私も、光の天使のひとりであった 6.矢内原忠雄は、イエスの十二使徒のひとり、ペテロであった 7.私は今、あの世で、キリスト教系の思想流布のために働いている 8.現在、アメリカには、キリスト教系の光の天使たちが多く出ている 9.現在の地獄の帝主ルシフェルは、かつて七人天使のひとりであった 10.天使長ミカエルの役割は、他の天使たちの指揮、統制である 11.ガブリエル大天使の役割には、通信役、芸術、政治、文学などがある 12.ラファエルは、芸術の神様であり、哲学、文学の指導もしている 13.サリエルの役割は、医学、薬、医事関係での人びとの救済である 14.パヌエルの役割は、政治関係である 15.ウリエルは、旧約のマラキという名で肉体を持ったことがある 16.ラグエルの役割は、点灯者であり、シュバイツァー博士として肉体を持った (一九八六年十二月十九日の霊示) 1.いつの時代にも、天使軍団のような、聖霊たちの集団があった 内村鑑三です。今日は、第6章ですが、「七大天使の働き」ということで、お話をしていきたいと思います。日本で生き、生活していらっしゃる皆様は、「天使」という言葉にそれほど馴染(なじ)みがあるわけではないでしょう。天使というと、西の方のイスラエルなどの地にだけいるようなものであって、日本には天使がいないような感じがするかもしれません。また、天使というと、背中に羽が生えて、空を飛んでいる姿、こういうものばかりを心に描くかもしれません。 ところが、天使とは、特定の宗教とか、特定の文化圏、あるいは、特定の地域だけにいるものではないのです。天使と言われるものの実体は、アメリカであろうが、イギリスであろうが、ソヴィエトであろうが、同じなのです。すなわち、その呼び名が、キリスト教的に感ずるかどうかということだけなのです。 私のこの霊言集の読者には、おそらくクリスチャンが多いのでしょうが、このことについて、あえて初歩的な説明をしておきましょう。キリスト教系に「天使」と言われている存在は、仏教系では、如来とか、菩薩とか言われている魂の境涯(きょうがい)のことを指しているのです。 では、そうした特別な役職を持った霊たちが、昔からいるのかどうか。まあ、確かに昔から、そうした聖霊、天使というものはおりました。彼らもやはり地上に何度か生まれてきて、輪廻転生を繰り返している以上は、そのなかで、さまざまな魂の進歩もあれば、後退もあるのです。 つまり、かつては、平凡な魂であったものが、何千年、何万年の努力の結果、天使のなかに列せられる人もおれば、かつて天使であっても、転生輪廻の過程でだんだん心に曇(くも)りをつくって、次第に平凡人となり、平凡人から平凡人以下へと、落ちていった人もなきにしもあらずです。しかし、いつの時代においても、天使という、天使軍団というような、大きな聖霊たちの集団があったことは事実です。 2.各国にある天使団 そして、その聖霊たちの集団にも、やはりそれぞれの長(おさ)、長(ちょう)というのがあって、その周りに、ひとつの会社とか、国の政治と同じでしてね、いろんな天使たちが集まっているのです。たとえば、キリスト教系で言えば、そのなかで中心となっているりーダーは、もちろん、イエス・キリストという偉大な神霊であります。この人を中心として、キリスト教系の天使団というのができております。 あるいは、たとえば、中国では、今から二千数百年前に、孔子という偉大な光の大指導霊が出ました。中国三千年、四千年の歴史のなかには、たくさんの偉大な人たちが出て来ましたし、偉大な天使たちも地上に肉を持って、さまざまな活躍をされました。しかし、彼らの中心となっているのはだれかというと、やはり孔子という方です。そして、この孔子を中心として、中国文化、文明の基礎づくりに励んだ天使たちが数多く活躍したのです。 西洋的に言えば、天使というのは、羽が生えて、空を飛んでいるというイメージがあります。ところが、中国の天使たちはどうかというと、霊眼で見れば、人民服とは言わないにしても、やはり中華用の服を着て、天使をやっておるわけです。 あるいは、日本にも、また、そういう天使軍団があります。日本という国は、皆さんも知っているように、今から何十万年か前に日本列島ができた。そして、教万年前から、次第に、人びとが住みはじめて、ここ数千年の間、とくに民族的に繁栄を見た民族であります。しかし、この日本の国においても、やはり天国というのがあるのです。 今、日本の天使団の中心になっているのは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)と言われる方です。この方が、中心神です。その他にも、主宰神としての天照大御神という方がいらっしゃいます。主宰神とは、すなわち、役割を持って司る神、ある程度、人間的な人格を持っている神のことです。 天之御中主之神のほうが、霊格自体は、高いのですけれども、昔から信仰の対象としては、天照大御神がそうなっていらしたようです。御中主之神は、もう人間とは思われずに、宇宙の根本神か何かのように思われていたために、主宰神としては、天照大御神が最高神であるかのように、日本の歴史では言われてきました。 ですから、天照大御神にしても、西洋的に話をすれば、女神のひとりであろうけれども、日本という国では、非常に神格の高い神様となっております。このように、彼らを中心として、日本神道系の天使団というのがおるわけですが、これもけっこう強い力を持っています。 3.仏教系では、天使を諸如来、諸菩薩という あるいは、仏教では、ゴーダマ・ブッダ、すなわち、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、これを中心として、仏教系の多数の天使たちが輩出しました。 仏教系では、これを諸如来、諸菩薩と言います。これは、魂の境涯、悟りの段階についての言葉です。ゴーダマ・ブッダの世界というのは、救世主の世界であり、今様に言うならば、九次元世界の住人であります。ただし、こういう少数の人は除いて、たいていは、八次元世界に住んでいるりーダーたちを、如来、如来界の人たちと言います。菩薩とは、七次元世界に住んでいる人たちのことです。 キリスト数的に言えば、八次元の如来のことを大天使と言います。そして、七次元の菩薩のことを天使と言いますね。天使の軍団というのは、六次元の上段階にいる人たちで、彼らも光の天使の一部と言っていいでしょう。仏教系で言うと、この六次元神界とでも言うのでしょうか。この上段階の境涯というのは、菩薩に至るための境涯、つまり、阿羅漢(あらはん)の境地と言われる境地でしょう。この阿羅漢と言うのがね、天使の予備軍か、あるいは、天使の卵、天使そのものと言ってもいいでしょう。 旧約の世界では、セラヒムとか、エロヒムとかいう言葉が出ていますが、これらはすべて天使のことです。ただ、セラヒムとか、エロヒムとか言うのは、最高の天使のことを言っているのではなくて、いわば、天使の予備軍です。ですから、仏数的に言うならば、阿羅漢の境地に達している方がた、これは天の使いの一員ですね。使いとして、いろんなことをする人たちがおるわけです。回教のほうでも、マホメットを中心として、天使団があることは事実ですけれども、仏教系やキリスト教系から比べると、少し勢力的には弱いように思います。 このように、ここ数千年を採れば、それぞれのりーダーを中心とした纏(まと)まりがあります。そして、これも長い歴史のなかで見れば、さまざまな組み替えがあったことは事実です。そのリーダーのもとに、いろんな天使たちが組み替えをして、役割集団をつくって、魂修行をしてきたと言えます。 ですから、イエス・キリストを中心としての天使軍団をつくっている方がたは、イエス様の述べられる神の国づくりのために、ここ二千年間、努力してきたわけです。地上に教会をつくり、さまざまな牧師たちを指導し、あるいは、キリスト教思想の流布のために、日向(ひなた)になり、蔭になり、いろいろと努力をしてきた。まあ、こういう事実があったわけです。そこで、こういう天使団という高級霊界があるということを、まず、地上の人たちは知ってほしいと思います。 4.現在の日本にも数多くの天使たちが生きている こうした天使というのは、必ずしも特別な、遙か人智を越えた存在ではありません。つまり、地上に生きているあなた方のなかにも、天使と呼ばれる人たちはいるんです。それは、いわゆる高級霊と言われる方がたであって、そういう高級霊が、目的をはたすために、肉体に宿って修行していることがあるのです。 ですから、現在の日本で言うならば、天使と言われる人も、数多く生きております。そのなかには、科学者もおれば、政治家はちょっと少ないようだけれども、政治的なことをやっている人もおれば、あるいは、経済のなかで活躍しておる人、あるいはまた、学者といった人たちも数多くいます。 このように、さまざまな分野に降りて、肉体を特って、日本という国を、引っ張っている人たちのなかに、数多くの天使たちがいるのです。彼らは、もちろん自分が天使であるということを知りません。天使であっても、人間として生まれた以上、零から、もう一度スタートしているのですね。 母の胎内に宿って、オギャーといった以上、二本の足、二本の手、ひとつのロ、二つの目、ひとつの鼻、二つの耳、これ以上は何も持っていないのです。皆さん、平等です。天使であっても、人間として零としてスタートして、だんだん、その天使としての神性に目覚めていくのです。そして、本人が努力の結果、少しずつ悟っていって、かつての魂の輝きというのが出てくるのです。そういうものです。 5.明治時代に生まれた私も、光の天使のひとりであった 私は、下級武士の末裔(まつえい)として生まれました。明治という時代に学問をして、北海道の札幌農学校で勉強。「青年よ大志を抱け」と言ったあのクラーク博士、この方が校長をやっていた学校です。クラークが去った翌年、私たちが学んだわけですけれども、クラーク博士の影響がたくさん札幌農学校に残っており、私たちに非常に感銘を与えました。 当時、新渡戸稲造(にとべいなぞう)などもおりました。最近、五千円札の肖像画になっていますが、その新渡戸稲造は、私の同級生だったのです。彼は、後に、第一高等学校の校長になりました。新渡戸君とか、私とかは、自分では、もちろん知らなかったけれども、天使だったのです。何も知らずに、明治期に生まれたということでね、どうだひとつ、ちょっと北海道にできた新しい学校にでも行ってみるかということで、札幌まで出かけて行って、そこの農学校で、勉強したわけです。 私が専門に勉強したのは、水産学です。いろんな魚の生態とかね、卵を産む方法とか、どうやって孵化(ふか)するか、あるいは、養殖の方法など、こうしたことを専門にしていたのです。私の生涯から見れば、この世の人たちは、おそらく、奇妙な感じを持つでしょう。つまり、内村鑑三は、神学を専攻していたのではなくて、水産学を勉強していたのですから。 では、いつキリスト教と出合ったのか。農学校を卒業して、それから、だんだんに魂の世界に入って行ったのです。その後、アメリカに留学して、アマースト大学というところで神学の勉強をしました。当時、アメリカで流行(はや)っていた一種の神秘主義のキリスト教があった。静寂主義というか、そういう神秘的な、若干オカルト的な神学、キリス卜教があったんです。もちろん、そういうものにも触れたのですが、それではまだ納得できなくて、私は、日本へ帰ってきました。 それから、教会での仕事をいろいろとするようになったのです。しかし、私の生来の性格が、独立自由といったものを求める性格であったために、キリスト没後、千八百年、千九百年もたった末法のキリスト教会では、私は、人生のほんとうの意味というものをつかみ取ることができなかった。そこで、やがて、「聖書の研究」に従事するようになって、独自の勉強をはしめたわけです。これも、やむをえないことでした。というのは、教会の牧師をやっている人たちは、もちろんキリスト教が好きで、それを専門的に勉強した方がたであるけれども、彼らの魂の性質と私の魂の性質とがちがったからですね。 私自身は、生きていたときには、自分が、そうした光の天使のひとりだということに全然気がつきませんでした。先はども言ったように、魚の養殖といった勉強からはじめて、偶然、こういうキリスト教の思想にたどり着いたように思っていたわけです。しかし、よくよく考えてみると、私は旧約聖書のエレミヤの時代から、すでに何千年にもわたって、このキリスト教思想のなかに、どっぷりとつかっていて、私自身も、その中枢のメンバーのひとりであったわけです。ですから、キリスト教思想を地上に伝道していくためのやはり中心的な役割を持っていた人間のひとりであったのだということを、あの世に環ってから悟リました。 6.矢内原忠雄は、イエスの十二使徒のひとり、ペテロであった 私の弟子筋にあたる矢内原忠雄君なども、生前は、悟っていなかったけれども、実は、二千年前にナザレの地に生まれていた。そして、イエス・キリストの十二弟子の筆頭の弟子、ペテロであった。そのことを、彼は、あの世へ環ってから知って、ショックのような、嬉しいような気持ちを持ったようです。 ペテロだった矢内原忠雄君は、東大の総長をしていたわけですが、今世では、霊的な能力は持っていなかった。前世で、ペテロとして生きていたときに、彼は、聖書を書いてはいなかった。手紙文ぐらいは書いていたけれども、学問をしなかったので、伝道に大変苦労をした。そういうこともあって、今度は、一生懸命、勉強したいと思ったようですね。つまり、しっかりと知識をつけていれば、地上でも伝道に力を発揮できるし、あの世に環ってきてからも、その知識を生かして、地上の人たちを指導できると考えたようです。 そういうことで、近代の日本にも、キリスト教系からは、かつてエレミヤとして生まれた内村鑑三が出た。また、かつてペテロだった矢内原忠雄が出たというような形であったわけです。 7.私は今、あの世で、キリスト教系の思想流布のために働いている 矢内原忠雄君も、私も、いわば同僚であり、共に光の天使として、現在は、キリスト教系の思想流布のために、あの世で頑張っているわけです。 地上で、キリスト教が布教されているだけではなくて、あの世でも、さまざまな役割を分けて、分担しているのです。というのは、ひとりの人がすべての世界の人を教えるには、やはり霊人口が多すぎるからです。そこで、あの世の人でも、生前、本人が生きていた国の宗教にあわせて、さまざまな霊教育をされておるわけです。死んであの世に環った人たちでも、キリスト教系の国から来た人に対しては、やはりクリスチャンたちが行って指導をしている。仏教に馴染んでいる人たちに対しては、仏教徒が行って、指導している。 ただし、お前はクリスチャンだから僧侶と話をしないのかと言われたら、まあ、話をせぬわけではありません。あの世では、もちろん、僧侶たちとも話をしています。ですから、仏教の思想について、勉強もしております。私たちの仕事という面では、やはり地上を去った方がたに封する霊的な救済と指導というものが、主なる仕事であります。ですから、どうしても役割の分担というのが生じて、キリスト教系関係の方がたを指導しています。 また、それ以外にも、ときどきは、地上に出ているクリスチャン、もちろんクリスチャン全体というわけにはいきませんけれども、とくに牧師であるとか、指導的な仕事をしている人たちを指導したりしているのです。 8.現在、アメリカには、キリスト教系の光の天使たちが多く出ている アメリカにも、キリスト教系の光の天使たちが数多く出ています。たとえば、ノーマン・ビンセント・ピール。彼は、・『積極的考え方の力』という本を出していますが、積極的思考というのを打ち出した牧師さんです。ロバート・シュラーというような牧師さんもいます。光明思想について説いている牧師さんたちは、過去世において皆、キリスト教系で活躍した方たちなのです。 ノーマン・ビンセント・ピール博士の過去世はだれかというと、イエスの弟子のなかにいるんですよ。いたんです。ちょっと年を取っていたけれども、ゼベダイという人がおりました。イエスが三十歳のときに、ゼべダイは、五十代だったでしょうか。このゼべダイという人の子供たちがイエスの弟子で、よく活躍したのですが、そういう人がおりました。そして、ピールという人はイエスの信念の力を、ずいぶんと学んだ方です。 ロバート・シュラーも、やはり信念の力を売りものにして、光明思想を伝えている人ですが、彼も過去世は、キリスト教系の魂です。キリスト教系の魂で、かつては預言者のひとりとして、地上に出たこともある方です。シュラーがだれかということを知りたいと思うでしょうが、聖書のなかにも出ている方です。聖書のなかで、シュラーが、かつて何をやっていたのかというと、ここに聖書があるけれども、いろいろと書いてあります。 レビ記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、エズラ記、ネヘミア記、エステル記、ヨブ記、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、ヨナ書、ミカ書、といろいろあります。ロバート・シュラーは、日本ではあまり知られていない預言者かもしれませんが、このホセア書というのを書いた方です。つまり、ホセアという人が、かつての彼の名前なんです。そういうことで、彼自身も、非常にキリスト教系は長い魂です。私たちの仲間です。今、アメリカに出ていますが、私たちの仲間です。まあ、このように、天使というものの働きがあるということを、まず皆さんに知っていただきたいと思っております。 さて、天使たちの働きということで、その概略を述べたわけですが、今日の主題は、「七大天使の働き」ということですので、天使のなかでも、とくに力を持った方たちの働きについて、お話をしたいと思います。 9.現在の地獄の帝主ルシフェルは、かつて七人天使のひとりであった 今、七大天使としてよく世に知られているのは、ミカエルでしょう。ミカエルは、天使長です。そのほかに、ガブリエル、ラファエル、サリエル、パヌエル、ウリエル、そして、ラグエルといて、全部で七人の天使がおります。 かつてルシフェルというのがいました。暁の子・ルシフェルといって、非常に知性と美貌を備えた天使でした。このルシフェルは、今から一億年近く前に、サタンという名前で地上に降りたのですが、欲望に身を焦(こ)がして、後のエホバの神、ヤーヴェに対する嫉妬、羨望のために戦いを起こし、天上界に戻って来ることができなくなり、やがて地獄をつくっていったのです。 ルシフェルについては、ミルトンという人が、かの有名な『失楽園』という本のなかに書いています。ルシフェルが、天使の軍団に敗れて、地に堕ちていく姿を描写しておりますが、まさしく、あのとおりです。 かつての大天使ルシフェルは、地上を去ったときに、天使の国へ、もといた天国に戻ろうとしたけれども、それを許されなかった。欲望のままに生きたためです。だから、天使の軍団、とくにミカエルが、それを許さなかったのです。 そのため、ミカエルの天使軍団と、ルシフェルを擁護する、天使と言っていいかどうかはわかりませんが、つまり、勢力ですね、それが、天上界でも、霊界でもぶつかった。そして、戦いがはじまったのです。これが、聖書のなかにもありますが、ミカエルとドラゴン、すなわち、竜との戦いです。その結果、ルシフェルは、ミカエルに討伐された。だから、地獄というところに叩き落とされ、二度と天上界に環って来れなくなったのです。 当時、地獄という不調和な霊域があったわけです。これは、まだ小さな霊域であったのですが、このルシフェルというのが、地獄に封じ込められて以来、彼は天使たちへの反乱ということを企てて、手下どもを使って、地獄を大変拡張した。地獄をどんどん増やしていったわけです。ルシフェルは、知恵があり、また、霊的な力も非常に強かったので、いろんな霊たちを従えて、地獄づくりをやったのです。 単に霊的に、霊界において、天上界と闘うだけではもの足りない、と。そこで、地上にいる人たちを引きずり込もうとした。今、地獄の数が増えています。地獄へ行く人たちの数が増えていますが、これも、彼らの計略なのです。 地獄のほうの勢力を天上界より増やせば、やがて彼らの天下になると思って、地獄へ来る人を増やしているわけです。その方法として、地上にいる人たちをさまざまな形で迷わしている。迷わし方の方法は、物質的誘惑であり、地位や名誉、金銭欲、こうしたものが原因です。この地上的なもので迷わして、生きている人を地獄に引きずり込もうとしている。そして、彼らの力を増やそうとしているのです。 そのための手段のひとつとして、悪霊の憑依(ひょうい)というものをやっている。つまり、さまざまな宗教に取り入っては教祖に取り憑(つ)いて、それを狂わしております。宗教というのは、多くの人を集めますから、その教祖に取り憑くと、非常に大きな力を持って、人びとを迷わし、狂わすことができるのです。こういうことによって、今、末法の世の中において、世の中を乱しておるようです。 一方では、今、天使たちが、地上の浄化という大きな使命のもとに、つぎからつぎへと生まれて活躍をしているわけです。これは、すでに、あなた方がご存知のとおりであります。 10.天使長ミカエルの役割は、他の天使たちの指揮、統制である この七大天使の役割について、少しお話をしましょう。まず、天使長のミカエル。ミカエルは、ルシフェルを地獄に封じ込めたわけですが、このミカエルの力は、いくつかあります。ひとつは、天上界における軍事的な役割です。 つまり、悪魔の軍団、地獄霊たちを掃討するための総指揮官としての役割です。これは、力のひとつの象徴です。 それ以外には、たとえば、指揮、指令、統制。これも、ミカエルの仕事です。事務的役割と同じですけれども、他の天使たちを指揮する役割、命令する役割、統制する役割、そういう役割を持っております。 ミカエルの本体そのものが、地上に出るようなことはありません。しかし、ミカエルの生命体は、何度も何度も地上に出ております。新しい例では、宗教改革をやったマルチン・ルーテル、つまり、ルター。ルターも、ミカエルの魂のひとりです。それ以外にも、旧約の時代にも出ておりますが、これもすべて、ミカエルの生命体の一部が出ているのです。 現代においても、ミカエルが出たと言っている人がおりますが、ミカエル自体の生命体が肉体に宿ったことはありません。ただ、ミカエルが指導したことがある人というのはおります。 ミカエルの力は、今、二十世紀の後半、非常に強くなってきております。すなわち、今、魔が競い立って、魔界の者たちが、地上を混乱させようと総力をあげてきているからです。ですから、ミカエルの力が、非常に強くなってきているのです。 11.ガブリエル大天使の役割には、通信役、芸術、政治、文学などがある つぎに、ガブリエル。大天使として、ガブリエルも有名です。「受胎告知」という絵がありますが、イエス・キリストが生まれるときに、マリアに受胎を告知した天使、これが、ガブリエルです。ガブリエルは、主としてそういう通俗的な役割をやっておりました。 天上と地上との通信役。それから、マホメットのときにも、通信役を買って出たのは、このガブリエルです。ガブリエルが、主としてマホメットを指導しておりました。あるいは、昔、ゾロアスター、ツァラツーストラと言ってもいいけれども、その人が、ペルシャに生まれたときにも、ゾロアスターを指導していたのは、ガブリエルです。そういうことで、ガブリエルは、通信役として、いろいろな働きをしていました。 また、ガブリエルは、芸術の方面にも力を持っています。芸術、それから政治関係、文学の関係でも、少し役割を持っている。ガブリエルが地上に現われたのは、最近では、ルネッサンス期です。レオナルド・ダ・ビンチ。こういう形で、ガブリエルが出たことがあります。ダ・ビンチ自体は、ガブリエルの生命体のすべてではありませんが、その一部として出たことがあります。 12.ラファエルは、芸術の神様であり、哲学、文学の指導もしている 天使団の三番手といえば、ラファエルになるでしょう。ラファエルと言えば、やはリルネッサンス期のラファエロではないかと言うような人もおりますが、これは、まあ語呂が似ているというだけで、画家のラファエロとは、ちがいます。天使のラファエルは、芸術の神様でもあるわけですが、芸術以外に指導しているのは、哲学関係です。哲学、文学のほうも多少入っております。 このラファエルは、ダンテとして、地上に出たことがあります。天国、地獄をいろいろと訪徨(わまよ)った、あの世の記録についてつづった『神曲』を書いたのが、ダンテです。実際、ダンテも、幽体離脱というか、光子体離脱をして、あの世に来て、そうした見聞をしていたのですが、そのダンテが、実は、ラファエルの生命体の部分だったのです。 13.サリエルの役割は、医学、薬、医事関係での人びとの救済である それから、ミカ、ガブリ、ラファ。そのつぎに霊恪が高いとすれば、サリエルですね。サリエルは、医学、医事関係、薬、そして、人を救済するといったことを中心に活躍していました。サリエルは、近年に、肉体を持ったことがあります。 二十世紀の前半にアメリカで活躍したエドガー・ケイシーという人がいます。このエドガー・ケイシーの魂というのが、実は、この七大天使のひとり、サリエルの魂の一部なのです。 また、サリエルは、かつて預言者としても出たことがあります。旧約の預言者にイザヤという名前が出てきますが、このイザヤも、サリエルの生命体です。そして、サリエルの魂系統の一部分は、仏教系のほうへ出ております。つまり、薬師如来として出て来ております。 14.パヌエルの役割は、政治関係である そのつぎに出るのが、順序からいくと、パヌエルになるでしょう。パヌエルは、一度、政治家として出ております。千六百年代のイギリスにおいてです。すなわち、清教徒の政治家として、クロムウェルという名前で出ていたのですが、これがパヌエルです。 クロムウェルは、非常に熱血のある、清らかな政治を説いた人で、当時、それがために誤解されたりもしました。つまり、護民卿、護民官ということで、クロムウェルのプロテクターの政治ということで、改撃のまとにされた。クロムウェルが、パヌエルだということは、現代の日本でも知る人は教少ないでしょう。 15.ウリエルは、旧約のマラキという名で肉体を持ったことがある それから、ウリエルという人がいますが、この人が順番からいくと六番手になるでしょうか。ウリエルという人も、地上に出たことがあります。聖書のなかに出ている名前でいうとね、ウリエルというのは、皆さん、『マラキ書』というものをお読みになったことがあるかもしれませんが、旧約の預言者です。このマラキという名前で、肉体を持った方の生命体がウリエルです。 16.ラグエルの役割は、点灯者であり、シュバイツァー博士として肉体を持った 最後にラグエル、この天使が七番手としております。ラグエルもまた、最近肉体を持ちました。あなた方は、アフリカの聖者と言われた、かの有名なシュバイツァー博士という方を知っているでしょう。キリスト教系で伝道をし、音楽を広め、聖書を広めた方です。医者でもありました。このシュバイツァー博士として肉体を持ったのがラグエルです。これも、ラグエルの働きとしては一部分ですけれどもね。ラグエルは、やはり光を灯(とも)す役割をしているのです。点灯者の役割ですね。 今まで紹介してきたのは七人天使ですけれども、これ以外にも旧約のダニエルであるとか、あるいは、日本で聖徳太子として生まれたシュバンツェルであるとか、これに続く方がたというのも数多くおります。こういう方たちについては、また改めてお話する機会もあるでしょう。 私だって、自分では言ってはいけませんけれども、近いところにおるわけです。まあ、これは秘密でしょうからね、自分で語るのも、何ですから、他の方が言って下さることを希望しておりますが。 本日は、七大天使の働きについて話をいたしました。七人天使の働きも縦横無尽で、明確につかむことは不可能なのですが、歴史上いろんな形で出たということをね、この際に、知っておいていただきたいと思います。
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目次 1.キリスト教と仏教 2.日本と神理 3.自力と他力 4.内在する神 5.キリストの使命 6.地獄最期の日 7.天使の役割 8.大黒天の役割 1.キリスト教と仏教(1986年5月14日の霊訓) さて、何日もお休みいたしました。今日は、先日予告しておきましたように、「キリスト教と仏教」という題でお話ししたいと思います。 あなたもご心配のとおり、はたして小桜にこんな難しい話ができますやら心配ですが、少なくともこの書物は〈神霊世界入門〉的な書物ですので、内容的にやさしいものはやさしいものなりに、読者に訴えかけるものもあると思います。 さて、あたな方は、キリスト教や仏教が同根であることも、当然のこととして信じておられます。けれども一般の方々の考えは、必ずしもそうではありません。一般の人びとは、キリスト教は神様を拝むもの、仏教は仏様を拝むもの、といった具合に違っているふうに考えています。ですからまず、キリスト教と仏教という代表的な二つの世界的宗教を引き合いに出して話す必要があると思います。 まず、神様と仏様が違うものかどうかから話したいと思います。キリスト教では、イエス様は神様のことを、「天の父」とか「わが父」といっておられるようです。これはニつのことを意味していると思います。 その一つは、霊天上界には、イエス様が尊敬するような、一段と高い霊がおられることです。そして、いま一つは、そのイエス様よりも一段と霊格の高い霊でさえも、人格霊としての性質を持っておられるということです。 おそらくは、宇宙の根源の生命を神とするならば、その神が人間的な知覚理解能力を有しているにせよ、大宇宙の創造の神が、イエス・キリストのような、一個の人間の肉体に宿るわけではないことは、ある意味ではあたりまえだと思うのです。ですから宇宙の本源の神というような、人間の認識を超越したような、大エネルギー体はさておき、普通の人間でさえ、すぐれた人とそうでない人との差があるのですから、まして霊の世界では、心の世界が純粋に反映されますから、偉大な霊とそうでない霊との区別、境涯の差は歴然としたものであると思われるのです。ですから、一般霊からするなら、イエス・キリストのごとき人は、まさに神が肉身をまとって出現したもののようでもあろうし、イエスみずからが父と仰ぐような霊人は、ほとんど神そのものといってよいほどの高級霊であります。 同じようなことは仏教でもいえると思うのです。仏教というのが何を指すのか釈然とはしませんが、そもそもの意味は、ブッタ、悟った方という意味であったと思うのです。ですから、悟った方という意味での仏様は、お釈迦様その人といってもよいし、他の方をいってもよいですが、少なくとも、大宇宙の根源の神様にはほど遠いといわざるをえません。 やはり仏様というのも、人並みはずれた高級霊ということです。 ですからキリスト教は神様を信仰する、仏教は仏様を信仰するといっても、もともと異ったものを信仰しているわけではなく、究極的には、大宇宙本源の神を信仰しているにしても、直接の信仰の対象となっているのは、神に近き高級霊、高度な発達を遂げた人格霊ということです。 これでいちばん根本的な話は、し終えたと思います。第二点目として、キリスト教と仏教の思想的違いを話しておこうと思います。 キリスト教の中心思想は、いうまでもなく愛の思想であり、「心を尽くして汝の主なる神を愛せよ」、「汝自身を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ」に代表される愛の思想、また、許しの思想があったのだと思います。 他方釈迦の仏教は、八正道を中心とした自己完成の道を説き、また、慈悲というものの大切さを説きました。 この違いというものを考えてみると、結局教えを受ける側の人間の事情がかなり影響しているように思います。 イエスの愛の思想は、すでに形式に堕(だ)していたモーゼの律法の根本的な立て直しのために、万人にわかる本質的な愛ということを力強く訴えかける必要があったのだと思います。つまり、イエスは形式に対する実質の大切さを人びとに教えたのではないでしょうか。また、人びとも、それほど身分の高くない方が中心であったため、理性や知性に訴えかけるよりも、主として悟性と感性に訴えかけたものだと思うのです。 これに反して、釈迦の弟子たち、釈迦教団の人びとは、当時のインテリ層に近かったといえます。釈迦の当時はいろいろな宗教が百花繚乱(ひゃっかりょうらん)で、人びとは我を先にと争って解脱(げだつ)しよう、悟ろうとしていたのです。ちょうど、第三次宗教ブームともいわれている現代の日本の状態にも似ています。ですから当時の修行者たちを対象としていたため、釈迦の教えはどうしても、個人の努力を重視し、理性的・知性的な面に重きをおいたのです。 ですから、キリスト教、仏教の思想的な違いも、ひとつには、教団を構成する人びとの違いが問題とされましょう。もちろん、決して釈迦が、人を愛することの重要さを無視したわけではないのですが、当時の仏弟子たちは宗数的な知性が高かったため、単に隣人を愛しなさいということぐらいでは通用しなかったのです。 ここまで話を進めてくれば、現代はどのような宗教が説かれるべきなのか、おわかりになってきたことと思います。やはり、現代は、知性と理性に訴えかけて神の道というものが人びとに説かれねばならないということなのです。 では今日はこのへんで。 2.日本と神理(1986年5月20日の霊訓) さて、今日私は、目先を変えて、「日本と神理」という題でお話させていただきたいと思います。かなり小桜の限界を越えた内容でございますので、もし、疑問に思われることがあれば、何なりとご質問くださいませ。 ところで、すでにお気づきになっておられるように、今回の正法神理の伝道ということに関しては、この日本の地が、第一番の柱として選ばれました。正法神理の流布は、時代を変え、所を変えて種がまかれて来たわけですが、とうとう、私たちの愛するこの日本が世界の宗教の中心となるべきときが来たのです。 日本の人びとは、やがて誇りに思うようになってきます。この国に、救世の偉業をなす人が生まれたということを。ああ、やっとこの日本の空に、待ちに待った救世の星が煌(きら)めき始めたのです。この日が来るのを、日本の歴史を造ってこられた高級霊、神々はいかほど久しく待ち望んできたことでしょう。ああ、やっと日本がその聖なる地として選ばれたのです。 思えば古事記、日本書紀が編まれてより、あなた方の霊言集が世に出されるまで千数百年、この日々が、いかに久しかったことでしょう。 単に宗教的な面での神理の流布だけではありません。日本の歴史の、時代時代を創るために血を流した幾多の英雄たちの努力も、今後日本が世界の盟主となってゆくことによって報いられるのです。 世界の盟主日本――この言葉に、あなたはいったい何を思い浮かべられることでしょう。 これから約百年の間、日本には、かつて地上にはなかったような、黄金の時代が訪れます。 科学文明はもちろん世界一の発展をみ、日本から宇宙へと旅立つ人びともたくさん出てきます。が、一方、国際政治、経済でも、日本はまさしく世界のよきリーダーとなります。各国の政界、経済界の重鎮(じゅうちん)が、毎日のように日本を訪れ、東京は「外交の都」と呼ばれるようになります。 他方、宗教のほうも、日本を核とした新たな明晰かつ合理的な教えが、ヨーロッパに、北米に、そして東南アジア、中国にと広がってゆきます。産業界でもトップの国が、宗教でもトップの国へと変貌してゆきます。こうして二十一世紀には、日本は「神と太陽の国」と呼ばれるようになりますでしょう。そしてあなたが説かれた教えが、「太陽の法」として、諸外国に知られてゆきます。それはまさしく、日本の国の象徴が太陽であるとともに、あなたの説かれる法が、太陽のごとく人びとに注ぎかけるときでもあるからです。 ときにこれからの十年間は、第一次の変革の波が訪れるときであり、これは、主として、一大宗教改革の様相を呈(てい)することとなりましょう。第二次の変革の波は、今後十年を経たころ、ひじょうに明確な形で現われてくるでしょう。そしてそれは、日本の政財界をも立て直す一大変革となりましょう。第三次の波は、今後二十年を過ぎたころに明瞭になってきましょう。日本が盟主として世界に号令をかけるべき時が来るということです。 よいですか。どのような大きな波も、最初は小さな波紋でしかないのです。今あなたのやっている仕事は、広大な太平洋に、一粒の雫(しずく)をたらすように見えるかもしれませんが、やがては逆巻く怒濤(どとう)として世界各国の湾岸に押し寄せるのです。どうかその日のことを忘れずにご精進ください。 3.自力と他力(1986年7月12日の霊訓) しばらくぶりでまた、この霊界通信を再開させていただけることを幸せに思います。 さて今日は、「自力と他力」ということについてお話させていただきます。 あなた方が、こうして多次元世界の霊たちと語るにあたって、いちばん困惑するのは、いわゆる、「自力と他力」の問題であろうと思います。自力論者はあくまでも、みずからの苦境を自力で切り拓いてゆきなさいといわれるし、他方、他力論者は、すべてを神の御心に委(ゆだ)ねなさいといわれます。単純な人間なら、いったいどちらを信じたらよいのかがわからなくなってしまいます。また、あなたにしても自力と他力の間(はざま)で随分と心揺れていることと思います。あなたの思想としていったいどうのように考えるかということです。 同じことは「予言」についてもいえます。 あなた方が高級霊の方々と話す過程において、さまざまな予言がなされることでしょう。しかしこの予言をすでに決定したもの、不変のものと考えてゆくならば、自力論者はまったく立つ瀬がなくなってしまいます。 そこでこれは小桜の試案ではありますが、次のように考えてみてはいかがでしょうか。 まず第一に、自力と他力の問題を悟りの問題と、行動の問題に分けて考えてみる必要があります。 悟りということに関しては、八割が自力、残り二割が他力です。まずたいていの人間はみずから努力して悟ろうとする心、菩提心(ぼだいしん)を起こさなければ、高級霊たちの協力を受けることはまずありません。この例外はほんのわずかで、たとえば、イエス様のお弟子を迫害していたのに、ある日突然に、イエス様の天上からの声を聞いて翻然(ほんぜん)、悟りを開いたパウロなどがその例外ですが、たいていの人間は、みずから努力して修行しようとする心、すなわち、菩提心を起こさねば、悟りへの道はまず開けてこないのです。まず悟ろうとする心、次に心の修行の実践があります。ある人は禅をやり、ある人は神想観をやり、ある人は内観をやり、ある人は瞑想をやりということで、その方法なり、名称なりは異なりますが、心を高級神霊と同通させようとする実践行為が必要です。この意味でここの段階でも自力が必要です。 他力がかかわってくるのは、この次の段階です。すなわち、本人の内観が深まり、また反省が進んで、やがて壁にぶつかることになるのです。この悟りの前に立ちはだかる壁を打ち破ることが、高級神霊に課せられた役割です。言葉を換えていうならば、神界下段階、中段階ぐらいまでの悟りなら、ある程度自力による観法(かんぽう)で悟りうるということです。しかし、神界上段階、いわゆる光の天使の候補生になってきますと、守護・指導霊たちの特別の指導を受けないと、諸天善神の境地には到達しえないのです。 この意味で私は、「悟り」の問題に限っていうならば、菩提心―観法―高級霊の啓示の段階になっており、やはり八割が自力、二割が他力だと思います。 では次に「行動」の問題について考えてみましょう。 人間が自力と他力の間(はざま)で揺れる場合には、ある行動をとるかどうか、言葉を換えれば、一つの判断なり決断なりを求められている場合だと思います。それがある場合には個人の人生設計であるし、ある場合には企業の経営であろうし、ある場合には伝道の方法でもありましょう。このときに考えるに、あくまでも自力でやっていくなら、あまり信仰の領域の問題にはならないと思います。 ではなぜ、自力でやるにしても「高度な判断」ができるのでしょうか。結局のところ、決断なり判断なりというのは、インスピレーションの問題だと思うのです。インスピレーションという言葉がわかりにくければ、「ふと心に思いつくこと」といってもよろしい。なぜ、ふと重要な結論を考えつくのでしょうか。それはやはり、八割方はその人が現在までに培(つちか)ってきた教養・人格・人生観・交友関係によって決定されるのです。いかに高級霊がインスピレーションを与えようとしても、その人の培(つちか)ってきた人生観が低次元のものであるならば、そのインスピレーションを受け入れることは不可能なのです。 ですからやはり人間は、悟りを得るときばかりではなく、一つの重大決断として行動をするときにも、やはり八割の自力が重視されるのです。そうして初めて、残り二割の他力が生きてくるのです。力となるのです。 これは決して他人事ではなく、あなたにとっても同じことです。あなたに八割自力の気概(きがい)があってこそ、高級霊たちの、残り二割の指導が生きてくるのです。あくまでも悟りを求め続け、みずからの人格を高め続けてください。 4.内在する神(1986年7月13日の霊訓) 本日は、「内在する神」ということでお話ししたいと思います。 あなたがたの書物の読者でも、神棚の祭り方がどうだとか、仏壇への配慮のしかたが重要なのではないかとか、神や仏の礼拝のしかたに迷っている人の数は尽きないことだと思います。 しかし、こうした行為の裏には、何かしらの偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)の匂いがつきまとっています。要するに、神仏はどこか遠くかなたにいらっしゃるもので、それを何らかの形を通して崇拝するという気持ちです。 しかし、考えてもみてください。人間は、神様が「是(よ)し」と思われて創られた神の分御霊(わけみたま)なのです。つまり二人ひとりの人間の心の奥、魂の聖なる秘部には、神の生命が鼓動しているのです。そうであるならば、ほんとうの信仰とは、どこか遠くかなたにいる神仏を尊ぶことではなく、みずから自身のなかにある神なる心、神聖な自我、神仏の心そのものである大我を見つけ出し、これを尊ぶことではないでしょうか。 「内観(ないかん)」という修行方法があります。これは内なる自我を見つめ、真我と偽我とを峻別してゆく方法です。そして偽我を否定し去り、ほんとうの自己の真我を見出したときに、悟るという考え方です。 また、「止観瞑想(しかんめいそう)」という修法があります。止観とは、決して心を止(と)めることではありません。心を静めるという意味です。つまり止観瞑想とは、心を静めることによって、みずからの内に潜む、澄み切った神理の湖を思い出す方法といってもよろしい。あるいは、真我を見出すために、探し出すために、幾重もの偽我の堆積層(たいせきそう)を据り下げていって、ついに、本物の鉱脈を探りあてるという方法でもあります。 結局のところ、「内観」にしても、「止観瞑想」にしても、みずからの心のなかにある、真我、神なる我を探りあて、それと一体になろうとする方法論にほかなりません。 ここで、あなたは、昨日お話しした自力と他力の問題を想起されることと思います。 他力とは、どこかはるかかなたに居ます神なる実体に祈りの橋をかけて、一体となろうとする姿であり、自力とは、みずからの内なる神を発見して、それと一体となろうとする試みにほかなりません。結局、自力といい他力といい、その思考の志向性が若干異なるものの、「ほんとうの神」を探究し、これと一体となろうとする試みなのです。 ただ私は、ここにまったく異なった人間観が派生する恐れを感じます。つまり、他力を主とする信仰は、どうしても、人間を煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫とみて、あるいは、極悪罪重(ごくあくざいじゅう)の悪人とみて、外なる光によって救われようとしているのではないでしょうか。 これに対して、自力を中心とする信仰は、やはり自分の中に偽りの我を発見して、これを取り除き、真我を見出すのですから、結局、根本的に人間を「是(よ)し」と観ている、あるいは、「人間神の子」を前提としているといえます。 やはり私としては、外なるいろいろな神を信仰することも大切ではあるが、みずからの内なる神を見出すことこそが、だれにも課された、悟りの方法ではないかと思います。 あなたにおかれましても、今後、さまざまな悟りの方法論を展開されるのでしょうが、どうかこの「内なる神」という考え方、これを忘れないでほしいのです。人間が一人ひとり内なる神を秘めた存在ならば、決してほんとうの悪人とか、ほんとうの罪人とかはありえないのです。そして、「内なる神」に目覚めることが、究極において、ほんとうの意味において、人間を生かすことになるのではないでしょうか。 5.キリストの使命(1986年7月14日の霊訓) まもなくこの霊界通信を始めて一年になります。ほんとうに私たちの勉強も遅々として進まず、いったいいつになったらこの本が出版されるのやら、小桜も本当に不安になってきました。何とかこの七月いっぱいで、一冊の書物になるぐらいの通信文を送りたいと思いますので、あなたもどうか精一杯努力してください。 さて今日は、多少目先を変えて、「キリストの使命」ということに関してお話いたします。 あなたから見たら、神道系の人間と思われる、八百万(やおよろず)の神々(かみがみ)の一人でもある私から「キリストの使命」というテーマを出されたことは、不思議な思いがされることと思います。 けれどもそれは決して不思議でも何でもありません。今あなた方がやろうとしている事業を思い返してみればよいと思います。あなたがたの仕事は、過去のすべての宗教を一堂に会(かい)して、さらにそれを乗り越えてゆくという内容を持つものです。また、それだからこそ、イエス・キリストという人が、指導霊を務めているのではないのでしょうか。 さて、それでは、過日、イエス様のご講演が神界(六次元)上段階で行なわれたときの内容をかいつまんでご報告いたします。 私たち六次元の人間に対しては、ふつう七次元菩薩界の人が出てきて常時指導してくださっているのですが、月に一回ぐらいは、八次元如来界の方が来てご講演くださり、さらに年に一回ぐらいは九次元太陽界の方々のうちのお一人がご降臨され、私ども光の天使の一年生に対してご訓示をくださるのです。 そう、あなた方の時間でいうと、ちょうど七月七日にあたります日、イエス・キリスト様がご降臨になり、約一時間ほどお話をされるというので、小桜たちは、そのご講演の演壇を造ったり、世話役の方を決めたり、聴衆を集めたりでたいへんでした。その日のイエス様のご講演を一声でも聞こうと集まった光の天使の数は、およそ一万人にも達したでしょうか。如来界からも、おつきそい役としてエリヤ様、ミカエル様、ラファエル様、ガブリエル様などキリスト教系の大天使が、続々私たちの世界に舞い降りてこられる姿は、さながら夢物語のようでございました。みなさま、天使の象徴であるまっ白の羽根をピンと伸ばされ、それはそれは神のご光栄をまさしく体現(たいげん)しておられる方々でした。 七月七日の午後七時に始まったイエス様のお話は次のような内容でありました。 「いよいよ戦いの日は来た。みなの者、三次元に神の国を今回こそ打ち建てようではないか。この機をのがしては、二度とこのようなチャンスは巡ってこない。しかも、今地上界では、歴史上かつてなかった未曾有(みぞう)の大危機が迫っている。 しかしこの大危機を決してサタンの襲来と考えてはならない。新しき神の国が地上に打ち建てられることを讃(たた)えるファンファーレなのだ。決して悪の勢力に怯(おび)えてはならない。怯えは彼らが恰好の餌食(えじき)とするところなのだ。地上に降りた光の天使たちの力を分散させることなく、一致団結させ、天と地に黄金の架橋をつくるためにも、私たちは祈ろう。光の天使たちの総力をあげて。 イエスのキリスト(救世主)としての使命は、ナザレで十字架にかけられたときに終わったのではない。むしろ、そのときよりこのかた、キリストとしての使命は始まったのである。今、地上に降りた光の軍団をキリスト(救世主)の力の再来とするためにも、私たちは、悪の力を徹底的に粉砕し、光の輪を地上に投げ続けよう。かつて光の大指導霊が地上に降りたときにも、形の上では光の軍勢が闇の軍勢に破れたかに見えたときもある。 しかし、今回は決して、形の上でも光の軍勢は闇の軍勢に負けてはならない。私イエスみずからが陣頭指導をとって、地上の者どもを指導しているのだ。幾千幾万の光の天使たちよ、あなた方も力の限りを尽くしなさい。今回は悪の勢力をこの地上から一掃するための、徹底的な総力戦なのだ。」 だいたい、イエス様のお話は以上のようなものでしたが、そのお言葉は、まさに神の生命力に溢(あふ)れ、私たち、幾千幾万の天使たちも、感激のあまり涙を流しておりました。 どうか地上のみなさま方も、決して孤立無援の想いにとらわれることなく、天上界でもこれだけ力の結集がなされていることをお忘れなく。小桜の力は微々たるものですが、天上界の人びとの想(おも)いの一端なりともお伝えすることができれば、これにすぎる喜びはございません。 ではまた。 6.地獄最期の日(1986年7月16日の霊訓) さて、本日は、「地獄最期の日」という演題で、少々お話ししようと思います。 ご存じのように、あらゆる世界中の宗教には、一致する共通項があります。その共通項のなかで、生きている人が地獄に堕ちないようにする、あるいは、地獄に堕ちた人びとがいかにしたら救われるのか、といった方法論があると思います。そこで小桜は、第一の問題として、生きている人はどうすれば地獄に堕ちなくてすむのか。第二の問題として、どうすれば現在地獄にいる人びとを救い出せるのか、を考えてみたいと思います。 まず、第一の問題から取りかかりましょう。生きている人間はどうしたら地獄に堕ちずにすむか。簡単にいえば、もちろん神の心を心として生きれば、絶対に地獄など行きません。しかし、生身の人間にとって、神様のような心を持って生きるのは難しいですから、少し条件を緩めて、高級霊の生き方を手本として生きるべきだと申しておきましょう。つまり手近な例が、偉人の生涯を手本として生きているということです。 偉人の生涯の特徴を、私はできるだけあげてみたいと思います。 まず一番目は、自分に厳しいということです。この自分に厳しいということは、一つの面として、努力、精進、ということであるし、他の面をとれば、謙虚さということであろうと思います。 二番目は、他人への思いやり、優しさであろうと思います。これが他の人への愛であり、慈悲であり、親切であり、配慮であります。この他人への思いやりの欠けた人は、どれだけ大きな事業を成し遂げたとしても、所詮、自分だけがかわいい、自己保存欲の強い人間であり、偉人の範疇(はんちゅう)には入りません。ですからこの二番目の要点を別の言葉でいうと、無私ということだと思います。 第三番目を申し上げます。それは清らかさです。その人の言葉に触れると、あるいはその人の行動に接すると、何かしらハッとさせられるような清らかさです。言葉を換えれば人びとの心の琴線に触れるような何か、人の心のなかに潜んだ聖なるものを共鳴させる何かです。物質に対する無欲さといってもいいし、執着心が少なく、行雲流水(こううんりゅうすい)のごとき生き方をしているといってもよいでしょう。聖なる内流を持っている人、ということです。 第四番目は、心の広さです。偉人に共通しているのは心の広さです。あらゆるものを包容するがごとき、青空のごとき、広さ、大きさです。どんなに精進、努力をしたとしても、その結果、他人を寄せつけないような心の狭さを身につけたような人は、決して偉人とはいえません。 第五番目は、内省(ないせい)ということです。偉人は常づねみずからの心を内省し、さらなる発展を心に期しています。この内省のなかには、いわゆる反省や瞑想も含みますし、広義の内省には、神と心を一体にするという意味での、祈りも含まれています。しかし、この場合の祈りは、多勢で集団で祈るのではなく、人知れず、静かに祈るということです。つまり、偉人の条件の五番目は、人知れず神と相対座する時間を意図的に持っている人という意味です。 私は以上で、偉人の条件として(1)自分に厳しいこと (2)他人への優しさ (3)清らかさ (4)心の広さ (5)内省する習慣、の五つをあげました。これがすべてではありませんが、神に近き人の共通した性質だと思います。少なくとも地上に生きている人間は、この五つの徳目を身につけるべく努力して生きれば、決して地獄などへ堕(お)ちることはありません。 さて、第二の問題として、現在地獄に堕ちている人びとをどうしたら救えるかという問題に入ります。 一口でいうならば、この地上界が神の国ユートピアになれば、地獄は自然に消滅してしまいます。その理由は、ひとつには、この地上からあの世へと旅立つ人びとが地獄に行くことがなくなるため、地獄の人口は決して供給されないということ、つまり、減りはしても増えないということです。いまひとつの理由は、地獄の住人たちのエネルギー源は、この地上界の悪想念であるため、この地上界をユートピアにすることによって、悪のエネルギーの供給をやめてしまえば、彼らは活動を停止してしまうからです。 つまり、この地上を神の光に満ちた楽園とすることによって、地獄はなくなってゆくのです。ですから、仏壇や神棚を祭って拝むことよりも、この地上で生きている残された家族が、楽しく豊かで調和された生活を送っておれば、自然と地獄霊たちも心が調和され、天上界へと旅立ってゆくのです。この方法がいちばん確実で間違いのない方法です。 第二の方法は、祈りの方法です。天上界の高級霊たちも、日々、地獄霊救済のために努力しておりますが、地上からの祈りの力を送ってやることによって、彼らも勇気づけられ、パワーが増してゆくのです。生きている人が神理を悟れば悟るほど、この祈りの力も強くなり、悪霊たちに神理を知らしめる力となるのです。 以上で、第一の問題と第二の問題について語りましたが、こういうことが、あなた方の努力によって良い方向へと進めば、地獄最後の日はもうそこまできています。 7.天使の役割(1986年7月18日の霊訓) さて、前回は地獄をなくす方法論について語りました。そこで今日は、「天使の役割」ということについてお話ししましょう。あなた方の霊言集のなかで、天台智覬(ちぎ)さんが、地獄を病院に譬(たと)え、地獄霊は患者、天使を医者や看護婦に見立てていました。 だいたいこの比喩は的を射ています。ただ惜しむらくは、天使たちの積極的役割に触れていない点です。 確かに天使達は、地獄霊救済のための医師や看護婦であるかもしれませんが、それは病人が出てきた場合の受身的役割だと思うのです。けれども実際はそのような受身的役割をしている天使の数は少数で、むしろ大多数の天使たちは、積極的に、神の国実現のために努力しているといって間違いないと思います。 その努力の現われの一つが、地上に次々と降誕している光の天使たちの存在であり、他の一つが、各次元において光の天使が駐留して、多くの霊たちを導いている光景でありましょう。 先日のイエス様の言葉にあったとおり、キリストの使命は肉体イエスが十字架にかかったときに終わったのではなく、さらにそのときから、より一層強力なキリストの使命が発揮され始めたのだということです。 いかなる光の大指導霊がこの地上に降誕しようとも、やはり肉体を持てば盲目に近くなり、その人の本来の使命の一〇パーセントも発揮できないまま終わってしまうことがままあるのです。それゆえ、あの世に還って、自由自在の身になって、地上にあったときの失敗を埋めるべく、大車輪の活躍をされる人も多いのです。 昔からよく話されることで、時代が人を創るのか、人が時代を創るのか、といった問題があるはずです。結論から先に言うと、やはり人が時代を創っているようです。というのも、時代の節目、節目には、天上界の計画によって、さまざまな光の天使が地上に生まれているからです。そうした人たちが束(たば)になって出て、新しい時代というものができるのです。それは古代ギリシャに哲学が栄えた時もそうですし、古代中国に孔子、孟子などが生まれて、百家争鳴(ひゃっかそうめい)といわれた時もそう、また釈迦の時代も、イエスの時代もそうです。 時代時代の転換期には、偉大な光の天使たちが群れをなして出現して、時代の気運を創り出しているのです。そうしてそういった新しい時代の到来は、千年二千年に一回ですから、その間に正法の灯を絶やさず守り伝えるために、中継ぎの光の天使たちが、何百年かおきに出現しているのです。 現代という時代も、イエス出現以来のここ二千年間で最大の時代の転換期であり、後世において「霊的奇蹟と科学の時代」と称(よ)ばれるようになりましょう。現にあなた方の時代にも諸如来、諸菩薩が相競って地上に生まれているのですから、それがいったい、肉を持った身でだれであるかは、あなた方にはわかりかねるかもしれませんが、私たちから見ると、あの「南総里見八犬伝」の八犬士のように、天上から散らばって地上に降りた天使たちは、やがてあなた方のもとへと、間違いなく集(つど)ってくるのです。ここ数年のうちに、あなた方の集まりのなかに、間違いなく散りばめられた光の玉、天使たちが引き寄せられてくるでしょう。 あなた方も、今後一つの宗派を創るのではなく、相集って、一つの時代を創造していくのだという気持でもって神理伝道に励んでください。 では今日はこのへんで。 8.大黒天の役割(1986年7月19日の霊訓) 今日は、「大黒天の役割」ということでお話をしようと思います。 みなさま方はよく、正月などに、七福神の乗った宝船の絵をご覧になったことがおありでしょう。あれを単なる伝承とか昔話、作り話として一笑に付すのは簡単ですが、真実はそうではありません。福の神というのは現実にいるのです。あなた方地上世界を見渡しても、あちこちに繁栄している会社があり、衰退していく会社があり、また、どんどん豊かになってゆく人があり、どんどん貧乏になってゆく人もおります。それも、多少の貧富の差ぐらいなら偶然で片づけられるでしょうが、あまりにも目ざましい発展や成功を遂げる企業や人を見ると、そこに目に見えない力が働いているのではないかと想像されることと思います。 実際、実在界には、神から供給される無限の富をコントロールする役割をしている光の天使たちがいるのです。その人たちのことを福の神といいます。古くは、日本では大国主之命(おおくにぬしのみこと)という方がいらっしゃいました。 では、なぜ福の神の存在があるのでしょうか。それは、神の世界計画のなかで、「繁栄」ということも、一つの重要な鍵となっているからです。各時代の文化興隆の諸都市を考えてみると、いつの時代にも、経済的に目まぐるしい繁栄があったはずなのです。それは神理伝道のための、舞台装置、音響効果として、無限の富の供給がなされているからなのです。これが一般的な場合です。 もうひとつ特殊な場合があります。それは、光の大指導霊が地上に降誕した場合です。イエス様は、富と神とに共に仕えることはできないと言われたそうですが、それは、現実にイエス様の教えを聞かれた方々が貧しかったので、時の圧政者たちへの批判をこめて言われたことであって、実際に貧乏でなければ神に仕えることができないわけではありません。けれども、光の大指導霊たちは、神理伝道に熱心なあまり、どうしても世俗的な、現実的な経済生活への配慮がおろそかになってゆくのです。 このため、神は特別な役割を待った福の神を創りました。これがいわゆる「大黒天(だいこくてん)」といわれる人びとです。「大黒様」といわれる人は、特定の人ではなく、そうした使命を持った一群の人びとがいるということなのです。 日蓮様にしてもそうです。政治的、経済的に日蓮様を庇護した武士がおります。釈迦の時代にも、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を寄進した人がおります。 いつの時代にも神理伝道の際には、光の指導霊たちが経済的なことにのみ腐心(ふしん)しなくてもよいように、大黒天が助けてくれるのです。 おそらくあなた方の時代にも、今後続々と神理伝道のための経済的協力者が出てくるでありましょう。ともすれば、法の研究、実践のみが尊いことのように思われがちですが、こうした方々の縁の下の力持ちとしての使命の重大さをも、あなたは十分に認めてあげる必要があると思うのです。 近くは日本に、光の指導霊として高橋信次という偉大な方が出られましたが、この方は、あまりにも自主独立の気性のはっきりした方で、ご自分の経済的自立は自分でまかなわねばならないという信条の方でありました。そのために、ご自分の経済的基盤を固めるのに時間がかかりすぎ、肝心の法を伝える時間がひじょうに少なくなってしまい、天上界からもたいへん惜(お)しまれています。みずからが悟るための環境として貧しい生活環境を選んでお生まれになったのですが、その反作用として、経済的自立に力を注ぎすぎたといえるかもしれません。 あなたにおかれましても、他人の協力に身を任せることを潔しとしていないあまり、ご自身が経済基盤確立に奔走されると、法の中身が薄くなり、後世に悔いを残すこととなってしまいます。 やはり第一番の目標は、この時代に、できる限り多くの人びとに神理を伝えることですから、その他のことは、大黒天たちの力を信頼して任せることです。できるだけ効率のよい人生を生きることをお祈り申し上げます。
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目次 1.驚異の科学文明 2.現代文明との比較 3.救世主トス 4.トスの教え 5.アトランティス大陸の沈没 1.驚異の科学文明 さて、本章では、ムー文明に続いて、アトランティス文明について、話をしてみたいと思います。 アトランティスについては、私もすでに刊行しました霊訓集のなかで何回か言及しているところもありますので、くり返しはできるだけ避けたいと思っていますが、これもね、やはり、人類史上では非常に誇るべき文明であったのではないか。まあそのように思います。 驚異の科学文明を誇っていた文明です。まあアトランティスにも飛行船があったという話、いわゆる飛行機のようなものがあったという話、潜水艦のようなものがあったという話、こういうことも、もうすでに読んでおられる方もいると思いますが、相当なものです。相当な科学文明があったし、その部分的なもの、一部分は現代文明をも凌駕(りょうが)するような、そうした面があったのです。 それは、アトランティスの文明の時代には、科学技術系統の方も相当出てこられた。銀色光線ですね、銀色の光線もだいぶ照射して、地上にそうした科学者としての偉大な魂も数多く出た。まあこうしたことが言えると思いますが、やはり、文明の実験室として、その後の現代文明のもとになるもの、モデルがこの時代に創られた、というように言うこともできると思います。 まあアトランティスというのは、もうみなさんご存じかと思いますが、現在の北米大陸とヨーロッパとの間に、大西洋というのがありますけれども、この大西洋上の島であったわけです。島というか、大陸であったわけです。そして、ここに一大文明圈を築いていたわけです。 この文明圈は、もちろん海洋文明でもあったんでしょうが、やはり位置的に現在のヨーロッパ、アメリカに匹敵するところですから、気候、風土的に見ても、かなり文化的な生活ができるような、そうした気候風土でもあったと、まあこのように言えるのではないかと思います。 その科学文明のなかで、潜水艦や飛行船の話はもうすでに出ているから、私は今回はちょっと違った話もしておきたいと思うんだけれども、面白い機械がいくつかあったのです。 ひとつ言ってみましょうか。それはね、たとえば、今、植物とかが今四季折おりに育っていたり、あるいは夏の果物が、もう冬場にね、温室で取れたりとか、いろんなことをやっていますが、こうした方法なんかは、現代よりもアトランティスの時代の方がもっと進んでいましたね。すなわち、植物なんかでも、早期に栽培できる。そういう方法があったんです。 たとえば、トマトなんかも何ヵ月もかかって作るものだと思いますが、トマトなんかもね、一日ぐらいで作ってしまうようなね、そうした方法があったんです。それは、特殊な光線を当てるのですね。そういう発育を良くするための、発育促進光線みたいなのが当時開発されてまして、そうしたものを照射していると、トマトが一日ぐらいでみるみる大きくなっていくんですね。そして食べられるようになる。 こういう発育促進法というのがあって、それを当てるといろんなものが急速に成長するんですね。ですから、トマトのような植物、きゅうり、かぼちゃ、まあこんなものがあったかどうか知らないけれど、そうしたものの成長がどんどん早くなるし、稲のような、ああしたものであってもね、極めて短い速度で生成、生育するという方法があったんです。 それゆえに、たとえば今、稲だと、たいていのところは田植えをしてから刈り入れするまで半年かかりますね。五、六月頃か知りませんが田植えをして、秋頃刈り入れということで、一年に一回お米を採るのが普通であって、温暖な地域では二期作とかいって、一年に二回お米を作る。あるいは、なかには三期作と言って、三回作るところもあります。ただそうすると、土地がだんだんやせてくるために、採れが悪くなってくる。あまりお米が採れなくなってくる。それで、まあ、土地を休ませたりする必要がありますね。 こういうことがありますが、こうした一年にせいぜい二期作ぐらいしかできないようなお米ですが、アトランティスの時代では、こうした発育促進光線というものが開発されていたために、全然事情が違ってくるんです。そうした温室のなかに、たとえば稲なら稲を植えて、そして発育促進光線をかけながら育てるとどうなるかというと、もう一週間ぐらいでお米ができちゃうんです。一週間ぐらいでできちゃう。驚異の速度です。 そうするとどうなるかというと、まず土地の節約になるんですね。今だと水田というのはものすごく広い土地がいりますね。山形地方だ、秋田地方だ、いろんなところで水田が随分あって、そしてお米を作ってますけど、何ヵ月も寝かして作ってますが、これが一週間でできるとなるとどうなるかというと、土地がいらなくなってくるのです。すなわち、ハウス栽培みたいに小さいとこで稲を作っても、一週間でできちゃいますから、一週間ごとに作っていけばいいんであって、一年中作れるんです。だから「ジャスト・イン・タイム」、トヨタのカンバン方式じゃないけど、ジャスト・イン・タイムで、お米が毎週、毎週できるんです。そして採れ立てのお米が毎週、毎週市場に流れていく。こういうことなんですね。一年中、お米ができたわけです。だから、それほど広い空間がいらないんですね。 だから現代、これからの社会、農業の改革にあたって、このアトランティス方式がやがて出てくる必要があると思います。こうすれば、日本なんかの土地問題、解決されちゃいますね。そんな水田いらないんですね。畑もいらないのです。こういう企業として大会社をつくって、農場をつくってね、体育館みたいな農場持っていたらね、たとえばそれを農場にして、そのなかでこの発育促進光線でどんどん、どんどん大きくしていけば、一年中作れるわけですから土地がいらないんです。だから大きめの建物のなかで、農作物ができるんです。こういう方法がありました。 こうするとね、現代の日本の土地不足は解消しますよ。あなた方は非常に地価の高いところで、堂々と野菜作ったりしているでしょう。東京近郊で、あんなの高いですよ。何億もする上地で野菜作ってるんでしょう。もったいないね。まあこうしたことがあります。 ただこれはね、動物には使えなかったみたいだね。動物にやっちゃうと、やっぱりいろいろ奇形児が生まれたり、いろいろするもんだから、植物だけにしかできなかった。 こうした、驚異の発育促進光線なんていうのもありましたし、これ以外にも、いろんなエネルギー源としては、現代と違うようなエネルギー源もあったことは事実です。まあこうしたことが、文明の特色として、言えるのではないかと思います。 2.現代文明との比較 さて、このアトランティスの文明を、現代文明と多少比較してみたいと思うのですが、これはね、やはり文明として見ると、見てみる角度が多少違うっていう感じはするね。 現代の文明はどっちかと言うと、どうだろうね、まあペーパーワーク文明だね。書類文明があって、そして株式会社なんかつくってね、こういう株式会社なんていうのが流行(はや)ってますが、このアトランティスの文明ではどうだったかというと、株式会社みたいなのがなかったんです。そうではないけども、ひとつの面白い社会システムがありました。 それは何かっていうと、まあ貨幣にあたるようなものは、もちろんあったわけです。お金にあたるようなものはもちろんあったんですが、これが、まあ政府から与えられるわけなんです。それぞれの企業でも個人商売でもなんでもいいのですが、与えられるわけだけど、毎年一回、今日本では、あるいは世界でも税金の申告やって納めていますが、この逆がやられていたんです。一年間の働きを提出するんです。今年いっぱいこういう仕事をしましたという、申告をするんですね。そうすると、それに対して役所の審査があって、確かにこの者は申告通りの仕事をしたと、こういう認定がされるのです。 あなたは申告以上の仕事をした、あるいは申告以下の仕事をした、という認定をするところがあって、そして個人の申請に、たとえばよく働いた人は一・五倍をかけたり、働きが少ない人は〇・五になったりしますが、そうした乗数かけた分だけのお金が、毎年一回支給されるんです。面白いでしょう。税金の逆なんですね。税金の逆で、毎年一回そういうお金の支給がされるんです。そして、それで翌年一年、それをもとにして生活できるんですね。 こうすると、政府というのは非常に有り難いね。今の政府は、税金を国民から取るだけだろう。非常に悔しいね。一生懸命儲(もう)けたのに、政府にピンハネされちゃうんですね。そしてお役人に使われちゃう。ああ悔しい。何に使っているのかさっぱりわかんない。こういうことが非常に我慢がならない人は、数多いと思います。 ところが、アトランティスだと逆だね、政府はお金をくれるんです。面白いですね、一年に一回、その年の働きに応じたお金をくれる。そして、そのお金をくれるわけだから、その働きを確かにしたという証人がいるんだな。証人、その証人をしているのは誰かっていうとね、これが面白いんだけども、牧師さんみたいな人なんだねえ。聖職者、僧侶と言ってもよい、お坊さんだな。こうした、お金に全然関係がなく道を求めている人、法を求めている人、悟りを求めている人、こういうふうにお金に無頓着(むとんちゃく)であるというところが、非常に評価されるわけだな。こういう人の判断は公明正大であろう、利害が何もないであろうということでね。 まあこういうことで、その一年に一回の申告書を書いたら、このお坊さんがね、毎年、いつでもいいけど、十二月なら十二月に、そういう仕事があるんだよ。年に一ヵ月だけ、そうした仕事があって、そうした自己申告、町民の各人、あるいは村人の自己申告に目を通して、そして心を調和して見て、これが偽りがないと思ったら、判子(はんこ)をポコポコッと押すんだね。ポインポインポインと、判子を押すんです。そして証人ができる。だから、お坊さんに判子押してもらったら、これを役所に届けにいくんだな。そして、まあお坊さんの方は、その書類に偽りがないか、その人の心に間違いがないかというようなことを見ながら、判子を押すわけで、あとの役所の方はそれをテクニカルに判断していく。その仕事がどれだけの価値を生むかっていうことを判断していって、そして支給額を決めていく。こういうことなんだよ。 だから、日本の政府もこんなことをすると、人気が上がるんだな。政府が、要するにお金をくれるんだったら、みんな一生懸命働くよね。そして、国民の信頼が厚くなる。政府がとにかく、お金をくれるんだから。大蔵省なんていうのは、お金くれるんだったらいいけど、お金取っていくだろう。だから人気が悪いね。威張っているけど人気が悪い。 お金くれるところだったらね、あなた、大蔵省がお金くれるんだったら、みんな大蔵省さまさまですよね。そうじゃないでしょうか。そうでしょう、ね。こうしたこともあったんだよ。だから、政府というのは、取ることばかり考えないで、与えることもあるってことを知らなきゃいけないですよ。そういうことなんです。まあそういう給料の支給を、国家がやっていたんです。 こういうところが現代文明と違うと思うし、その意味では資本主義社会でもないし、共産主義社会でもない。なんかへんてこりんだけども、そういう社会だったと思いますね。職業や資本源は全部国にあったわけだけれども、ただ各人が自由にやって、自由競争の結果を国が判定してくれる。こういうことなんだね。押しつけの、画一的な共産主義じゃない。収入は一定、みんな一緒だというんではない。収入に格差はあります。あるけれども、そうしたような査定をするんだね、査定をする。そういうことがあるんですね。 では役人たち、じゃあ役人がいるだろうけど、役人の給料は一体どうなってるのかと、まあ、それが気になる人もいるでしょう。 役人の給料っていうのは、またこれがね、面白いんだけれども、国民投票で決まるんだよ。面白いだろう。たとえば、役所の名前はもちろん違うけど、大蔵省や通産省や外務省みたいな、そういう役割を果たしている役所かあるわけだ。あるいは、県庁のような役割を果たしているところがあるんだね。 それで、たとえば、前年度の予算が決まっているでしょ。たとえば県庁なら県庁で、ある県庁で人件費として、前年度たとえば二十億円の予算があったとするね。これに対して、その住民のなかに識者がいて、たとえばなんとか県でもいいけど、なんとか県の識者が、たとえば五百人に調査アンケートを配るわけですね。そして点数を入れるのです。その一年間において、その県庁が県の行政としてやったこと、評価を前年度と比べてみんなが査定するんです。査定をして点数を入れていく。 そして、前年度の平均点が八十点だった時に、今年度やった時にその行政の効率が、たとえば八十二点と出たとする。平均がね、五百人の識者の平均が八十二点と出ると、これが上乗せされて、たとえば前年度、二十億だったその人件費予算が、二十億かける八十分の八十二になる。だから、約ニパーセントだけ増えるわけです。そうすると、役人の収入が増えるわけですね。 ところがその一年の総決算で査定受けて下がった場合には、全体の予算が減る。そして分け前が滅る。こういうふうになっていて、役人の給料がやはり国民の審査受けて決まっていたのです。それで上がり下がりしたのです。だから悪い行政すると収入が滅るんですね。いい行政をすると収入が上がる。こういうふうになっていて、現在の自由競争の原理が逆に働いていたのです。公務員社会、役人の社会にも働いている。 だから、裁判所みたいなものももちろんあったけれど、裁判についても、やはりそういう国民審査があった。現在でも最高裁判所の裁判官の国民審査があるけども、あんなの給料に響いてないね、全然。過半数かなんか知らないけど、×が多くなけりゃいいんだろう。ところが、裁判についても国民審査がちゃんとあって、それで毎年、裁判官の給料が変わるんだね。いい裁判するとよくなるけど、悪い裁判すると下がる。こういうことが安全弁になっていたんだね。こういう制度もあるんだよ。 だから、現代の社会制度が当然と思ってはいけないよ。こういう面白い逆転の発想もあるということを、知って下さい。 3.救世主トス さて、このアトランティス文明に、救世主として、「トス」と言われる方が生まれました。これは今から一万二千年、あるいは一万三千年前という時代ですね。アトランティスが滅亡する、千年から二千年ぐらい前と言われています。 このトスと言う方は、先ほど述べたラ・ムーの生命体の一部なんです。そして、トスは、科学的な素質もあったし、政治家でもあったし、そして宗教家でもあるというような、いわゆる万能の天才でありました。 この方はね、まあその風貌を現在語ってみるとするならば、まあ随分、温厚な顔立ちをしているところはその通りですが、面白い特徴がありました。それはいったい何かというとね、まあ現在でも霊視なんかきく人は、人に後光が射しているなんていうのがよく分かるんでしょうが、このトスという人は、その後光というのが現象化して出る方だったんです。すなわち、トスの話を聞いていると、トスの周りが本当パッと明るくなってくるんですね。百燭光(ひゃくしょくこう)、百ワット、二百ワットの電球つけたようにパッと明るくなって、顔色が虹(にじ)色に変わってくるんです。この方はこういうのを現象として現す能力があったんです。 だから、トスと会って話しているうちに、もうだんだん眩(まぶ)しくなってくる。周りが明るくなってくる。こういう人間発電機みたいな、東京電力みたいな人だったんですね。こういう人です。そういう特徴がありました。その人が来ると、周りが本当に物理的にも明るくなるんです。光輝いている。まあこういう能力を持った方でありました。 この人の面白かったところはね、すなわち、なんでもやる人だったんです。なんでもこいっていうか、いわゆるそういう超天才です。なんでもこいの人であって、レオナルド・ダ・ヴィンチが万能の天才っていうけど、あんなのはトスに比べるともう数段小さいです。このトスっていうのは、もうなんでもできる人なんです。この人にとっては、学問の領域、こんなものはなんにもないです。理科系も文科系もないんです。技術もなければ、英語もなければ、哲学もない。何もないんです。なんでもこいなんです。 これはパーニャパラミタと言って、心の奥底が開いて、そして、大宇宙の英知、光の大指導霊たちと交信することができていたからです。したがって、大多数のそうした専門家集団を自分の背後にひかえていたために、どんなことでも答えられるという能力を持っていたのです。驚異の霊能力です。こういう超天才で、それゆえに人びとから畏(おそ)れもされ、また畏敬(いけい)もされていました。非常な天才です。まあこういうことで、なんでもこいという人で、天才のはしり、万能型天才のはしりでもありました。 もちろん、病気治しなんかもしたり、あるいは、あらゆるものからね、あらゆるものと言ってもあれだけども、まったく予期もされないような物から薬を作っちゃったりするんですね。まあ不思議な、誠に不思議な能力ですが、山のなかに入って、いろんな薬草をつんできたかと思うと、それを調合して、あっと言う間にいろんな薬を作ってしまう。まあこんな人であったんです。まあそういう医者のような役割もできた。また、発明特許じゃないけども、いろんな発明もした。政治についても、どんどん新手法を編み出していった。まあこういう方です。 だから、救世主と言っても、単に法を説くだけではなくて、なんでもこいの人であって、そういう形でもって世の中の人びとの尊敬を集め、また自らの力を増していった。発言力を増していった方であった。そう思います。 4.トスの教え さて、このトスの教えは、いったいどんなものであったかということが、みなさんの興味のあるところだと思います。 これはね、お釈迦様の生命体の一部というだけあって、やはり基本的な線ではズレてないんですね。ズレてない。すなわち、法の骨格そのものは、ほとんど変わっていません。ただ現象面としてね、そうした万能の天才型でいろんなことができる、そういう人であったという、そのような現象があったということです。 トスの教えでね、私が見ていて、その根本となるのはいったい何かと言うと、まあそうだね、やっぱりこれも三つぐらいに分けて、言えるのではないかと思います。 第一は、人間は心の開拓に応じて、いくらでも能力が引き出せるというような教えであったんです。心を開拓していけば、いくらでも能力をアップしていける。そして、いわゆる観自在能力だけれどもいろんなことがわかるようになり、そして、いろんな知恵がどんどん出て来る。このパーニャパラミタの思想、こうぃう考え方が、第一にありました。 これは、釈迦の「心の窓を開けばパーニャパラミタが出て来る」という思想と、それとヘルメスの発展の思想、この両方を合わしたような思想だと思います。心の開拓によって、無限の力を出して来れる。そして、無限の可能性が拓けていく。まあこういうことだ。心の開拓の方法論を随分説したし、その能力の駆使の実際論、これをも教えたということだね。まあ自己実現の先駆者かも知れません。そうぃう自己実現の法も教えていました。これが第一であったと思います。 第二は、やはりこの人の本来の魂の方向としまして、「神の偉大性」ということを教えました。神がいかに偉大であるか。その宇宙の英知としての神の偉大性を教えました。それは、自分の霊能力の多面的展開、さまざまな万能の天才として現れたことを通して、「神の僕(しもべ)である私でさえ、これだけの力を持っているのだ。全能の神は、いかほどの力を持っているかわかるか」と、このように教えていたのです。これが、トスの神の偉大性を教えた面です。 三番目の特色はいったい何かと言うと、これは「統治の原理」だね。政治の原理について、だいぶ言ったわけだな。これはユートピアの原点でもあるけれども、どのようにして人びとを治めていくか、この徳治政治だね。徳治政治の原理と、この人は合理主義と効率主義、これを交ぜ合わしたような原理を登用しておりました。 徳治主義、徳ある者が人の上に立つということと同時に、その人を立てることによって、どれほど効率的に運営できるか、こういう西洋合理主義の原点みたいなこともやっていたのです。両方をやっていました。交ぜ合わせていたのですね。単に徳あるだけでは駄目で、徳がある人に適材適所を与えていって、そしてやる気を引き出して、どんどん効率をあげていく。こういう方法を取っていたのです。 まあその意味で、釈迦が後代、非常に優れた教育者として現れるけれども、教育者の側面というのが、随分あると思います。徳治主義をやる人は、ふつう教育者という側面が弱くて、人間はもともとそういう光輝いたもんという考えを持っている人が多いのだけれども、教育者としての側面をこの人は非常に多く持っていたと思います。そして多くの人たちの能力をアップするということを、最大限の力をはらって実現した。まあそういうふうに思います。非常に優れた方です。 だから、その魂の原形のなかに、やはり、将来の釈迦やヘルメスとして出た方の姿が見えますね。チラチラと見えます。まあこうした万能の天才も、またやがて、地上に現れてくると思いますが、同時代にいた人にとっては、やはり神聖な人、神そのもののように言われていたように思います。 やがて、アトランティスは没していくわけだけれども、アガシャー大王が出るまでの間、トスというのは万能の天才のように言われていましたし、「主・トス」ということで、言われていました。やがて、アガシャーが生まれてきた時に、このトスが天地創造の神の如く敬われていたわけであります。 5.アトランティス大陸の沈没 まあこうしたアトランティスも、今から一万年あまり前、一万一千年近い昔でしょうか、やがて、ムーと同じで海没していく運命にあったわけであります。 この点については、もうすでに私も何度も触れておきましたけれども、やはり、唯物信仰がだいぶ流行(はや)ってきて、想念の曇りが相当、文明あるいは大陸を覆ってきた。それと末法の世に出した光の大指導霊たち大多数を、なんと言いますかね、イエス様の時のように殺害するっていうような、こういう暴挙をしたために、大陸自体が不調和の想念に包まれて、反作用によって沈んでいくという、まあ前代未聞の事件が起きたわけです。 この最後の光の大指導霊として出たのが、アガシャー大王と言われた方です。トスから時代が下がること千何百年ぐらいでしょうか。アガシャー大王というのが出まして、これがイエス様の前身の部分です。こういう偉大な方が出ましたが、やがてそのアガシャー系一族も滅びていくという、悲運のまた指導霊だったと言えるかと思います。 まあアトランティスの末期のありかたは、やはり、今後現代文明を待ちかまえているさまざまな危機を思わせるものがあります。アトランティスの末期は、現代と非常によく似ている点があるのです。 文明は非常に発達し、そして、神理は説かれていたけれども、その神理がいろいろにまげられてきていた。そしてまた、新興宗教のようなものがいっぱい起きてきて、そして、本当の法を説く人を迫害するような現象も出ていた。この意味において、アトランティスは、非常に現代に酷似しているところがあります。 だから、このアトランティスの愚をくリ返さないためには、どうしたらいいかというと、やはり、真実の法というものを一日も早く広げて、多くの人たちに納得してもらうことですね。これがいちばん大事である。私はそのように思います。この真実の法が一日も早く広がることが、アトランティスのような不幸を妨げる効果があるのではないか。そして、現代の文明をさらに押し進めていく「黄金の時代」を創っていくのではないか。まあこう思います。 ただ、アトランティスという悲劇の大陸、悲運の大陸、文明であったとしても、やはりそこになんらかのユートピアの原形があったことは事実です。このユートピアの原形としてのアトランティス文明、これから何かを私たちは学ばねばならん。彼らの文明が私たちの文明より優れている面もある。それは事実です。こういうところをやはりしっかり学んで、今後の文明に活かしていきたい。まあそういうふうに感じます。
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天使酔い 紀子による造語 天使に掴まって空を飛んだ結果、その勢いで酔ってしまった場合を言うらしい もっとも、裕の経験上背負っている人間が酔わないように飛ぶのはほとんど無理
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格闘天使一覧 最高位順に並んでいます。太字は引退し、キャッスルマスター(つまり、親方)になっている人、下線はM.B.7021年現在、既に消失している(人間で言う故人)天使です 大天使 ドルジ(大天使) ハクホウ ミツグ 熾天使 ダイスケ ドルジ(熾天使) リュウジ 準熾天使 アミ 智天使 シュウ 力天使 アソー サンチル チクバ 能天使 カネチカ バサルサ 下級天使 その他 セッツ
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白文明は月光や義賊団の団員など自分の最大マナを増やすことで早めに大型ユニットを出せるようにするいわゆるランプ、 天使シナジーやソルジャーシナジー、騎士の誇りなどを使った強化があります。
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天使界決戦 2000年に1度だけ開かれる天使界の王を決めるための戦い。 始まったのは、約4000万年前とされている・・・ 天使達が鍛錬を怠るため、やる気を出させるために開いた大会。 基本的に、鍛錬を怠らないような天使のみが、上のランクまで上ることがきる。 勝者が敗者よりもランクが下の場合、勝者が敗者とランクが入れ替わる。 JOKERランクの天使が参加するには、ランクを持つ天使の推薦か、JOKER予選に勝ち抜かなければならない。 ちなみに、出場できるJOKERの人数は328人までなので、それを越す推薦がもしあった場合は、AAの推薦から優先して扱う。
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ここでは天使の掟について説明します。 第1条 ギルドマスター(熾天使さやん)を貶すべからず 第2条 他人の人格否定をすべからず 第3条 向上することをやめるべからず 第4条 勝ち目が残っている場合に諦めるべからず 第5条 暴言を吐くべからず 第6条 世間体を気にするべからず 第7条 嫌な物事を無理して良いと言うべからず 第8条 反省会で反省しないまま抜けるべからず 第9条 誰か一人のせいにすべからず 第10条 愛を囁くことを怠るべからず 以上第10条でした。きちんと守りましょう。 尚、天使の掟を破った者は天使界からの追放・称号取り消しになります
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黒文明は悪魔シナジーや魔法使いシナジー、アミルでは天使をグレンデルに変えるデッキなどがあります。 ニャルラトホテプや祭壇の解放など自分の墓地の枚数を活用するカードが存在するのも特徴です。