約 221,131 件
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平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。この二つの文書は、1901年に幸徳らによって結成されながらも、ただちに禁止された社会民主党の「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぎ、その後の日本における社会主義運動に大きな影響を与えたものであった。 週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)には、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載された。翻訳はサミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳。日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。 週刊『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、さらに日本にとっては敵国であるロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果のひとつは、戦争中の1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフがともに副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。この握手は、国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』はもちろん、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された。 関連文献 荒畑寒村『平民社時代-日本社会主義運動の揺籃』、中央公論社、1973年8月/Reprint 中央公論新社、ISBN 4120002438 荒畑寒村著『平民社時代』(『中公文庫』)、中央公論社、1977年2月/Reprint 中央公論新社 ISBN 4122004187 荒畑寒村著『平民社時代 続』、中央公論社、1979年11月。 李京錫「平民社における階級と民族-亜洲和親会との関連を中心に」、『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』第43号、2004年1月。 絲屋寿雄著『菅野すが-平民社の婦人革命家像』(『岩波新書』)、岩波書店、1970年1月。ISBN 400413126X 梅森直之編著『帝国を撃て-平民社100年国際シンポジウム』、論創社、2005年3月。ISBN 4-8460-0342-6 太田雅夫『初期社会主義史の研究-明治三〇年代の人と組織と運動』、新泉社、1991年3月。 柏木隆法ほか著『大逆事件の周辺-平民社地方同志の人びと』、論創社、1980年6月 幸徳秋水 / 山泉進編集・解題『幸徳秋水』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第1巻)、論創社、2002年10月。ISBN 4846003531 堺利彦 / 堀切利高編・解題『堺利彦』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第2巻)、論創社、2002年10月。ISBN 484600354X シンポジウム‘平民社100年と「熊本評論」’事務局編『非戦・自由・人権-平民社100年と「熊本評論」(シンポジウム報告集)』、熊本近代史研究会・熊本歴史学研究会・田中正造研究会・熊本県歴史教育者協議会・「平民社100年」全国実行委員会、2004年5月。 鈴木裕子編『資料 平民社の女たち』、不二出版、1986年3月。 西川文子 / 天野茂編『平民社の女-西川文子自伝』、青山館、1984年12月。 林尚男『平民社の人びと-秋水・枯川・尚江・栄』、朝日新聞社、1990年9月。ISBN 4022562056 松本三之介『明治精神の構造』(『同時代ライブラリー』165)、岩波書店、1993年11月。ISBN 400260165X 山泉進編著『社会主義事始-「明治」における直訳と自生』(『思想の海へ「解放と変革」』8)、社会評論社、1990年5月。 山泉進『平民社の時代-非戦の源流』、論創社、2003年11月。ISBN 4-8460-0336-1 『初期社会主義研究』第7号(特集=平民社90年)、初期社会主義研究会、1994年3月。 『初期社会主義研究』第16号(特集=平民社百年)、初期社会主義研究会、2003年11月。 関連項目 非戦論 社会主義 リダイレクトページ「平民新聞」に関するカテゴリ。 日本の新聞 (廃刊) 外部リンク 初期社会主義研究会公式ウェブ・サイト ※データベースのページで平民社関連の史料を公開している。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月3日 (日) 10 22。
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戦争と表象(表現)不可能性について ■歴史平行論 日本史において。 60年周期。 1995年オウム真理教事件 1935年(昭和10年)12月8日第二次大本教弾圧事件 翌年 二・二六事件 柄谷行人「明治昭和平行説」 1972年連合赤軍事件 1910年大逆事件 昭和26年日米安保条約、サンフランシスコ講和条約 明治27年日清戦争 昭和21年日本国憲法 明治22年大日本帝国憲法 昭和35年 60年安保 昭和39年 東京オリンピック 明治37年 日露戦争 明治44年不平等条約改定 昭和45年沖縄返還 1945年 ■ 伊藤博文「天皇の国民」 : 大正時代「天皇なき国民」 : 北一輝「国民の天皇」 1980年代末以降の「日本共同体」への回帰 ■ 大澤真幸「戦後の思想空間」pp35- 「戦争」という経験は、「戦後」、「排除」される。 「排除」とは精神分析において、あることが心的表象化されることすらなく、したがって、無意識の領域へと抑圧されることもなく、そもそも表象のなかで記述されることすらない。 「戦争の体験は、まるでなかったかのように、後の歴史が体験される」 戦争とは排除であるが、敗戦とは、排除と抑圧とが重なる。 … 加藤典洋「敗戦後論」→敗戦の抑圧の問題を扱っている 太宰治トカトントン サリンジャー 敗戦が強いる自己否定 →「自己」の構成について。 アイデンティティ論。 同一性、共同性、帰属集団
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クーラーボックスに氷を入れてはいけない。 さもなくば氷が解けて、底の穴から水が漏れ、 農部室のマットをびしょびしょにして、床の下まで水浸しになり、 試験期間の貴重な時間を費やして、 部室のマットの2/3をはがして武道場前で干したり、ローペで床を拭いたりしなければならくなる。 そう、クーラーボックスには氷ではなく保冷剤を入れなければならない。
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書名 秘密結社の日本史 書誌情報 出版社(叢書・シリーズ名)平凡社(平凡社新書389) 発行年月日2007年9月10日 版型 造本データ ページ数新書判 並製 226ページ 定価780円 装丁菊地信義 目次 プロローグ――日本に秘密結社はあるか? 7秘密結社とは 秘密結社の分類 日本に秘密結社はあるか? 岡正雄の秘密結社論 血縁・地縁・社縁 第一章 古代――神話の中の秘密結社 17死と再生の密議 折口信夫の〈まれびと〉論 金属神の結社 仏教伝来と聖徳太子の結社 密教と道教 第二章 中世――遊行する神々と新仏教 39私度僧と行基集団 役小角と修験道 観学会と二十五三昧会 源信の迎講と釈迦講 人神と秘密結社 法然の浄土宗の禁止 親鸞の結社 日蓮とアポカリプス 時衆阿弥教団 第三章 近世――異形者・職人・芸能民 83南北朝大陰謀時代 邪教立川流 職人と芸能民の結社 穢れと差別 立川流と「ぼろぼろ」 一向一揆 蓮如と本願寺教団 〈講〉と〈組〉 加賀から三河、近畿へ 鑓講とワタリ職人 秘事法門 日蓮宗の異端、不受不施派 茶道と秘伝 第四章 江戸――巨大なアンダーワールド 129男伊達の世界 天草四郎の伝説 由井正雪の慶安事件 赤穂浪士の結社 兵法伝授という秘密 安藤昌益と転真敬会 〈かくれ〉と〈かくし〉 大塩平八郎の乱 蛮社の獄 大原幽学の先祖株組合 水戸天狗党 幕末の結社 第五章 近代――天皇制と近代化の呪縛 183近代日本の結社 神風連 秩父困民党 右翼の源流――玄洋社と黒龍会 大逆事件 アナキズムの結社――ギロチン社 大本教事件 血盟団 死なう団 芸術の結社 相対会 超古代史の秘密結社 ゾルゲ事件 ヤクザの組 三島由紀夫と盾の会 連合赤軍 エピローグ 221 主要参考文献 224 主な初出 書き下ろし
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★Point ①1900年 義和団事件 by清 →鎮圧 by8か国連合軍 ↓ ②ロシアの満州進出 ※南下政策 ↓それを阻止しようとして ③1902年 日英同盟 ↓日本国内で、ロシアとの開戦を望む声が高まり ④1904年 日露戦争(活躍…東郷平八郎) ※反対:与謝野晶子『きみしにたまうことなかれ』、幸徳秋水→大逆事件で暗殺 ↓ ⑤1905年 ポーツマス条約(結果…日本の勝利!) (1)韓国における日本の優越権 →1905韓国統監府設置(伊藤博文←安重根に暗殺)→1910韓国併合・朝鮮総督府設置 (2)遼東半島(旅順・大連)の租借権 (3)南満州鉄道(旅順~長春) (4)南樺太get ※賠償金:なし→日比谷焼き討ち事件 ↓不平等条約廃止の好機となり ⑥1911年 関税自主権の完全回復 ★詳説 ①なぜ日比谷焼き討ち事件が起きたか 「賠償金がなかったから不満が高まった」だけでは納得がいかない生徒も多いです。 賠償金がない→( )→不満。この間を埋める必要があります。 そこで、背景として、 日露戦争中、日本は、戦争に使う多額のお金を集めるために、 増税をしたり、借金(国債)を抱えたりした。その結果、国民の生活を圧迫した。 という内容を伝えましょう。 生徒に余力があれば、 日比谷焼き討ち事件はデモクラシーの萌芽であることを伝えると、 明治と大正との時代の流れの断絶性を感じなくなるかもしれません。 ②韓国併合の様子 韓国併合の様子(土地事業政策など)に関しては、日本語教育の様子が社会科の教科書に載ってあります。 ★練習問題
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【山崎の論文等備忘録】 この項では、未入力の山崎の論文等を記録しておくこととする。 山田富太郎著『文官高等判事検事登用弁護士試驗及第者答案集』(博文館・1902年)に収録(未確認)・・・国立国会図書館が運営する国立国会図書館サーチで「山崎今朝弥」で検索すると、本書がヒットする(ただし、館内限定公開)。同サーチの詳細情報によると、本書には山崎の「判検事登用試験」の再現答案(筆記試験:憲法、行政法、商法、民法、民事訴訟法、刑事訴訟法、国際私法)、「弁護士試験」の再現答案(筆記試験:憲法、行政法、民法、民事訴訟法、商法、刑法、刑事訴訟法、国際公法、国際私法)が掲載されているようである。これらは山崎の最初期の公刊文である(なお、山崎による最古の公刊文は、学生時代に雑誌『筆戦場』の「論説と陣幕」欄に掲載された(号数等不明)「節倹と吝嗇」なる投稿文と思われる(森長英三郎著『山崎今朝弥』(紀伊国屋書店)33頁)。 「弁護士の品位」『へちまの花』(売文社)第10号3頁(大正3年(1914年)11月1日発行)・・・東京法律事務所『月報』第2号4頁(大正3年(1914年)10月20日号)に掲載の同題論文と同一。弁護士の品位 「北里博士告発状(書式文例三)」『東京法律』(東京法律事務所)25号6頁(大正5年(1916年)11月1日発行)に収録。・・・『弁護士大安売』に転載。北里博士告発状 「弁護士改正論(一)」「弁護士改正論(二)」『東京法律』(東京法律事務所)25号1頁(大正5年(1916年)11月1日発行)、同26号3頁(同年12月1日発行)に収録。・・・著作権(翻案権)の所在が不明なため未公表。論文『弁護士改正論』参照。 「弁護士改正論」『新社会』(由分社)3巻5号40頁(大正6年(1917年)1月1日発行)に収録。・・・著作権(翻案権)の所在が不明なため未公表。論文『弁護士改正論』参照。 「奇人変人ソラツンボ並に変死記事取消請求広告書」『中外』(中外社)2巻11 号235頁(大正7年(1918年)10月1日発行)に収録。・・・『弁護士大安売』に転載。奇人変人ソラツンボ並に変死記事取消請求書(山崎今朝彌) 「米国伯爵平民弁護士山崎今朝彌君」『法律新聞』(法律新聞社)1485号(大正7年(1918年)12月13日発行)に収録・・・山崎のインタビュー記事。 「珍品事件上告状」『中外』(中外社)4巻1号202頁(大正10年(1921年)6月1日発行)に収録。・・・『弁護士大安売』に転載。珍品事件上告状 「保釈歎願書」「保釈願」「告訴状」大杉栄著『悪戯』(アルス)(大正10年(1921年)3月1日発行)に収録。・・・弁護士大安売に転載。尾行事件の保釈願、正力事件の告訴状 「労働争議の「工場管理」は法律上正当の「事務管理」なり」『労働』(友愛会本部)10巻8号6頁(大正10年(1921年)8月1日発行)に収録。・・・『弁護士大安売』に転載。労働争議の「工場管理」は法律上正当の「事務管理」なり 「剽軽文句の不罹災通告」宮武外骨著『震災画報』(半狂堂)第3冊(大正12年(1923年)11月5日発行)・・・山崎が宮武外骨に出した関東大震災の不罹災通告の印刷葉書の全文が掲載されている。宮武は山崎を「当代の奇人、米国伯爵と自称す不逞漢」と称している。ちくま学芸文庫版『震災画報』114頁にて確認。 「四つの解決策」『新人』(新人社)25巻5号27頁(1924年6月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「馬鹿野郞及其他―(時評)」『事業之日本』(事業之日本社)5巻10号44頁(1926年10月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「私の現在に於ける、一 最大の欲望、二 最大の満足、三 最大の不満、四 最大の好物、五 最大の嫌な物(アンケート)」『事業之日本』(事業之日本社)6巻1号60頁(1927年1月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「セン・カタヤマの帰国問題」『号外』(東京記者連盟)1巻3号25頁(1927年9月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「年頭所感 商買気は永遠的に」『日本医事新報』(日本医事新報社)282号51頁(1928年1月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「批論家より」『全人・教育問題研究』(成城学園)28号63頁(1928年11月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「大正十五年度出版界所感」国際思潮研究会・編『出版年鑑1927』(国際思潮研究会・1929年)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「発売禁止に就て」国際思潮研究会・編『出版年鑑1929』(国際思潮研究会・1929年)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「裁判廷に於ける煙突男」『サラリーマン』(サラリーマン社)3巻12号36頁(1930年12月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 茂木実臣編著『高畠素之先生の思想と人物-急進愛国主義の理論的根拠』(津久井書店・1930年)に収録?(未確認)・・・国立国会図書館運営の近代デジタルライブラリーの検索による。おそらく高畠素之の回顧録と思われる。 「犬養内閣に何を望むか(百名士回答)」『政界往来-Political jounral』(政界往来社)3巻2号42頁(1932年2月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「日本のメーデー」『政界往来-Political jounral』(政界往来社)3巻5号32頁(1932年5月)に収録(未確認)。・・・国立国会図書館運営の国立国会図書館サーチの検索による。 「片山潜君の思ひ出」『人物評論』(人物評論社)1年10号23頁(昭和8年(1933年)12月号)に収録。・・・著者名義は山崎となっているが、文末に「文責在記者」とあるので未公表。 「立禁判例集(?)」「借家事件の大審院指定判例集」「小作問題判例集」いずれも『無産者法律』(号数不明)に収録(未確認)・・・「明治・大正・昭和前期雑誌記事索引集成」による。 「発刊に際して」『借地借家新聞』(全国借地借家人同盟)1号1頁(昭和22年(1947年)4月11日発行)に収録。・・・全国借地借家人同盟の機関紙への発刊挨拶の会長寄稿文。全借同の性格として、この団体は政治団体ではなく経済団体であること、特定の政党を支持するものではなく政党の指示不支持参加不参加は絶対に自由であるべきであること、裁判事件は弁護士に一任し事件屋集団に転落すべきではないこと、無理な不当要求はとりあげないことの意見を述べている。会長就任の挨拶として「一旦其の任に当つた以上条件のロボツトを信条として、衆ぎに之れ服し敢て異をたてず私をもうけず、只管同盟の隆興発展ボスと鴨と顔との発展防止に身を捧げ、萬一不明朗や不ゆ快の事で厭気がさし到底辛棒しきれずと見極めたら最後、任期に構はずサツサと身をひく」と書いている。(注1) 「免災全国家屋の解放論」『全国借地借家新聞』(全国借地借家人同盟)2号2頁(昭和22年(1947年)4月21日発行)に収録。・・・毎日新聞への投稿文(免災財産共用(免災財産を収用せよ))の転載。(注1) 「広告」『全国借地借家新聞』(全国借地借家人同盟)3号1頁(昭和22年(1947年)5月1日発行)に収録。・・・近況報告及び新しく開設した法律事務所の移転広告。(注1) 「第二回全国大会に直面して」『借地借家新聞』(全国借地借家人同盟)5号1頁(昭和22年(1947年)10月1日発行)に収録。・・・全国借地借家人同盟の機関紙への全借同一周年記念の会長寄稿文。近況として毎日阿佐ヶ谷から新橋まで通っていること、同盟の活動として県支部約二十、新橋に事務所も設けることができたこと、及び罹災都市借地借家臨時処理法一年延期その他の改正運動に成功したことを同盟及び会員諸君に感謝すること、同盟のこれからの活動は若い活動的の人々によって政治的に遂行されなければならないため規約の一部改正を提案すること、同盟の拡大強化が必要であること、国民大衆への宣伝教育が必要であること、借地借家調停の委員は三分の二以上も借地借家人の代表者から選出すべきであるとの声は民主主義法律後の各種委員選出方法と比べてみても道理であること、自身の「広告」として、大会前日に古稀祝賀演芸会をやる筈であったが会場の都合がつかず中止になったこと、盟友の杉並区長新居格の好意で「杉並区法律顧問嘱託」として杉並区区長公舎に転入したこと、毎週日曜日は同自宅で区民のため人事法律無料相談をしていること、を書いている。(注1) 「朴烈事件の真相(その一)-実説大逆事件三代記(第四回)-」(1947年)・・・雑誌『真相』(人民社)12号に掲載される予定であったが、GHQの検閲(もしくは検閲による自粛)により掲載されることのなかった幻の連載である。大逆事件の一つである朴烈事件を題材とし、被告人朴烈、金子ふみ子の書翰、供述調書の概要、判決書などを掲載している。(注2)(注3) 「公私の愉快話」『日米ガイド』(日米ガイド社)13号5頁(昭和23年(1948年)1月1日発行)に収録。・・・新年あいさつ。全国借地借家人同盟の当局への働きかけにより借地借家人側からも調停委員に多数就任することになったこと、「全国同盟主催片山首相、松岡議長、近藤総長外約三百名の年少友人の発起」で、「私の人生生活満七十年、法律生活満五十年、社会運動並に弁護士生活満四十年の古希祝賀大演芸会」を明治大学記念講堂で12月27日に開催してもらえることになったこと、を公私の愉快話としてあげている。(注2)(注4) 「訪問記・第42回・山崎今朝彌氏」『自由と正義』4巻6号29頁(昭和28年(1953年)6月1日発行)に収録。・・・山崎に対するインタビュー記事。 「身辺雑記」『東京弁護士会報』(昭和28年(1953年)12月号)に収録(未確認) (注1)本情報については、国立国会図書館憲政資料室の所管資料プランゲ文庫収録の『借地借家新聞』(資料番号:VH3-Sha16)を参照させて頂いた。 (注2)本情報については、占領期メディア データベース化 プロジェクト委員会(代表・山本武利)作成「占領期新聞・雑誌記事情報データベース」を参照させて頂いた。 (注3)本情報については、国立国会図書館憲政資料室の所管資料プランゲ文庫収録の『真相』(資料番号:VH1-S1719 )を参照させて頂いた。 (注4)本情報については、国立国会図書館憲政資料室の所管資料プランゲ文庫収録の『日米ガイド』(資料番号:VH1-N216 )を参照させて頂いた。
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赤旗事件(あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」、「錦輝館赤旗事件(きんきかんあかはたじけん)」。 背景 明治期の日本では、極めて過酷な労働環境への反発から労働組合期成会が結成されるなど、社会運動が高まりを見せていた。これに対し、政府側は1900年に治安警察法を制定して運動の規制に乗り出した。1901年5月20日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎ら6名を発起人として、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが、第4次伊藤内閣は直後にこれを禁止した。1900年にやはり安部らが結成した社会主義協会は、4年後に第1次桂内閣により解散の憂き目に遭っている。 1906年1月7日、桂太郎に替わって西園寺公望が首相に就任、第1次西園寺内閣が発足した。西園寺は社会主義をみだりに弾圧することを避け、穏健派の存在は容認する方針を打ち出した。これに乗じて1月28日、初の合法的社会主義政党「日本社会党」が結成された。しかし同党は、暴力革命を主張する幸徳ら「直接行動派(硬派)」と、議会を通じた合法的政権奪取を主張する田添鉄二ら「議会政策派(軟派)」とに分裂。両者の対立、殊に硬派の存在は政府に危険視され、結党から1年で治安警察法違反による結社禁止命令が下される。このような中にあって、1908年6月22日、東京・神田の映画館「錦輝館(きんきかん)」に社会主義者数十名が集い、山口孤剣の出獄歓迎会が開催された。 山口は1907年3月、封建的家族制度を痛烈に批判する論考「父母を蹴れ」を平民新聞(第59号)に寄稿した。これにより山口は新聞紙条例違反の罪に問われ、3ヶ月(余罪も含めて1年2ヶ月)の禁錮刑に処せられていたが、翌年6月18日に出獄した。この筆禍事件で山口と同じく投獄され、先んじて出獄を果たした平民新聞編集者の石川三四郎は、自らの出獄歓迎会を硬派と軟派が別々に催したことに寂しさを覚え、共同で同志の出獄を祝うよう両派に働きかけた。硬派と軟派の相克はなお継続していたが、当時獄中にいた山口がこの問題に直接関与していなかったこともあり、両派合同の歓迎会が実現したのである。 発生 6月22日午後(時刻は資料により異なる)、歓迎会は発起人の石川による開会の辞から始まった。続いて西川と堺利彦が挨拶した後余興に入り、夕刻終了した。しかし散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗(本数は資料により異なる)を翻し、革命歌を歌い始めた。石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出した。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は、街頭に現れた硬派の面々を認めるや駆け寄って赤旗を奪おうとし、これを拒んだ彼らともみ合った。 この格闘の末、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋のほか、女性4名(大須賀里子、管野スガ、小暮礼子、神川松子)が検挙され、またこれを止めに入った堺と山川も同じく検挙された。さらに、周囲に群がっていた野次馬の中からも2名の逮捕者が出た。 神田署に連行された逮捕者は、腹を蹴られるなどの拷問を受けた。堺は「檻房中にて唯(ただ)昏睡し居り」、小暮は「房内にて突然癪を起して苦しみ居るも、何等の手術も施さず其儘(そのまま)に打捨て置」かれた(6月26日付け東京二六新聞)。 社会主義運動の指導者層が一挙に拘束されたことで、社会主義者らは動揺し、警察に反発した。7月7日には、電柱に「来る十日日比谷公園にて大会を開き錦輝館の復讐を為す。来会者は石油、棍棒、燐寸携帯の事」などと書かれた張り紙が発見された(7月8日付け東京日日新聞)。 裁判 8月15日午前9時、官吏抗拒罪及び治安警察法違反に問われた逮捕者14名に対する裁判が東京地裁で開かれた。 堺は、赤旗を持っていた数名は目立たぬように旗を巻いて帰路に就こうとしたのに、躍り出た警官が暴力に訴えたと主張。佐藤は、自らが率先して革命歌を高唱し、「無政府主義万歳」と叫んだことを認めると共に、無政府主義も社会主義も究極の目的は一致するかもしれぬと答えた。また大杉は、待ち伏せた警官が「旗を巻け」と叫んで赤旗を奪おうとしたので、「理由なく所有権を取るのは強盗である」と叫んで争った旨を主張した。 大杉の妻らを証人として喚問した8月22日の第2回公判を経て、判決は8月29日に下された。無罪となった神川と管野は9月1日に、また執行猶予の付いた徳永と小暮は4日にそれぞれ出獄したが、大杉には重禁錮2年6ヶ月と罰金25円、堺、山川、森岡には重禁錮2年と罰金20円、荒畑、宇都宮には重禁錮1年6ヶ月と罰金15円が科せられた。 荒畑ら当事者がのちに明かしたところによれば、赤旗を翻したのは軟派に対する示威行動に過ぎなかった。判決は、大した罰を受けるとは考えていなかった彼らの楽観を裏切る内容であった。 影響 事件発生から5日後の6月27日、西園寺は内務大臣原敬らに辞意を表明。7月4日、内閣は総辞職した。景気の悪化など大きな不安要素はあったものの、5月に行われた衆院選で、与党政友会が歴史的大勝を果たした矢先の退陣は憶測を呼んだ。表向きは健康上の問題によるとされたが、山縣有朋が「事件は社会主義者に対する融和の結果発生した。これは西園寺内閣の失策である」と奏上したのが直接の原因といわれている。 事件発生時、幸徳は郷里の高知県にいたため難を逃れたが、事件を知るや直ちに上京し、勢力の建て直しに奔走した。この結果、無政府主義者やそれに近い者が社会運動の主流派を占めるに至った。新たに成立した第2次桂内閣による取締り強化もこの流れに拍車をかけ、1910年の大逆事件(幸徳事件)へと発展した。 外部リンク 堺利彦 赤旗事件の回顧 赤旗事件関連記事 赤旗事件公判筆記 『熊本評論』掲載 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月13日 (日) 03 25。
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危険人物の弁解にあらず 明治四十何年か、大逆事件頃、一方僕は甲府で三百円余も貯めて東京は帝都の真只中、銀座大通裏へ移転した。巣拵へが出来ぬ前に隣家へ交番所が出来上つたには少からず驚いたが、何却つて愉快を感じた。 其後事件の話は益々拡大する、一日偶六法全書を見ると刑法第七十三条には危害を加へんとしたる者は死刑に処すとある。甲府検事局で諏訪の秘密結社事件と僕及び新村忠雄の関係、新村忠雄が途中僕の処に泊まつた事等取調べられた事が浮び出す、其以来警察の活動状態は遂日本の生糸王片倉兼太郞翁をして、ナーニ、今朝彌なら金の番の外出来るもんジヤー、ねーに、役人ニヤー、人は使へねーナー、と嘆せしめたと謂ふ事に思ひ付く、流石平素官僚裁判の危険を信用する僕丈に、一時に氷の中へ突落され首丈冷蔵庫へ入れられた様にヒヤリとし、我知らず手で頭を撫でて見た。若しあの時新村が僕に一言何か話したら如何。逆謀を告げらるるに会ふも敢て之を拒まずと云ふ同一判決文になるは、陪審なき官僚裁判当然の帰結である。併し優れて臆病の僕だが持前の意地張を廃めて弁解をする勇気は出なかつた。 然るに其後明治大正年間日本社会党を届出で自ら総裁となり原敬、加藤高明、犬養毅等に総裁会議の招集状迄出して見たが結社には解散も禁止もなく会議には政府も政党もテンデ相手にせず、大臣等も白昼公然日本に社会党なる政社も結社もなしと声言し、警視庁にも遂見限られたる今日の身分となる迄には色々ベラ棒の面白い話があるが行数終り。 <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
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→「金子恵理ちゃん失踪事件」と記事がダブっていたため削除しました。
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名稱:子文 伺服器及顏色:5服綠類型:文 性別:男 生命值:407 武力:33 智力:22 防禦:12 敏捷:35 運勢:83 敘述:據《左傳·宣公四年》,楚國大夫若敖娶鄖國妻子,生了鬥伯比。若敖死後,鬥伯比和其母歸於鄖國。後來鬥伯比和鄖子的女兒私通,生了一個孩子,於是鄖 夫人派人把這個孩子遺棄在雲夢澤。但出乎意料,一只母老虎收養了這個孩子,給他餵奶。某日,鄖子去打獵,看到這種景象,深感恐懼,趕緊回宮,鄖夫人便把事 情始末告訴崿子。鄖子最終決定讓他女兒嫁給鬥伯比,去雲夢澤把孩子接回來。因為母老虎給這個孩子餵奶,所以給他起了谷於菟這個名字(楚語之谷為“乳”,於 菟為“老虎”之意)。