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B-11:鎌倉幕府・歴代執権一覧 ■初代 ◇北条時政(ほうじょう・ときまさ) ○官職:遠江守 ○生没年:1138~1215 ○在職期間:1203~1205 ○北条氏出身:北条氏 ■第2代 ◇北条義時(ほうじょう・よしとき) ○官職:相模守・右京権大夫陸奥守 ○生没年:1163~1224 ○在職期間:1205~1224 ○北条氏出身:得宗家 ■第3代 ◇北条泰時(ほうじょう・やすとき) ○官職:武蔵守・左京権大夫 ○生没年:1183~1242 ○在職期間:1224~1242 ○北条氏出身:得宗家 ■第4代 ◇北条経時(ほうじょう・つねとき) ○官職:左近将監・武蔵守 ○生没年:1224~1246 ○在職期間:1242~1246 ○北条氏出身:得宗家 ■第5代 ◇北条時頼(ほうじょう・ときより) ○官職:左近将監・相模守 ○生没年:1227~1263 ○在職期間:1246~1256 ○北条氏出身:得宗家 ○メモ:最明寺 ■第6代 ◇北条長時(ほうじょう・ながとき) ○官職:武蔵守 ○生没年:1229~1264 ○在職期間:1256~1264 ○北条氏出身:極楽寺流 ■第7代 ◇北条政村(ほうじょう・まさむら) ○官職:相模守・左京権大夫 ○生没年:1205~1273 ○在職期間:1264~1268 ○北条氏出身:政村流 ○メモ:第2代執権・北条義時の子 ■第8代 ◇北条時宗(ほうじょう・ときむね) ○官職:相模守 ○生没年:1251~1284 ○在職期間:1268~1284 ○北条氏出身:得宗家 ■第9代 ◇北条貞時(ほうじょう・さだとき) ○官職:左馬権頭・相模守 ○生没年:1271~1311 ○在職期間:1284~1301 ○北条氏出身:得宗家 ■第10代 ◇北条師時(ほうじょう・もろとき) ○官職:右馬権頭・相模守 ○生没年:1275~1311 ○在職期間:1301~1311 ○北条氏出身:宗政流 ○メモ:得宗家亜流 ■第11代 ◇北条宗宣(ほうじょう・むねのぶ) ○別名:大仏宗宣(おさらぎ・むねのぶ) ○官職:陸奥守 ○生没年:1259~1312 ○在職期間:1311~1312 ○北条氏出身:大仏流 ■第12代 ◇北条煕時(ほうじょう・ひろとき) ○官職:相模守 ○生没年:1279~1315 ○在職期間:1312~1315 ○北条氏出身:政村流 ■第13代 ◇北条基時(ほうじょう・もととき) ○官職:相模守 ○生没年:1286~1333 ○在職期間:1315~1316 ○北条氏出身:極楽寺流 ○メモ:重時流 ■第14代 ◇北条高時(ほうじょう・たかとき) ○官職:左馬権頭・相模守 ○生没年:1303~1333 ○在職期間:1316~1326 ○北条氏出身:得宗家 ■第15代 ◇北条貞顕(ほうじょう・さだあき) ○別名:金沢貞顕(かなざわ・さだゆき) ○官職:武蔵守 ○生没年:1278~1333 ○在職期間:1326~1326 ○北条氏出身:金沢流 ■第16代 ◇北条守時(ほうじょう・もりとき) ○別名:赤橋守時(あかはし・もりとき) ○官職:相模守 ○生没年:1295~1333 ○在職期間:1327~1333 ○北条氏出身:赤橋流 ○メモ:極楽寺
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B-11:鎌倉幕府・歴代連署一覧 ※連署とは、執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」。幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの名がある。 ※日付は旧暦。 ■初代 ◇北条時房(ほうじょう・ときふさ) ○就任:元応3年(1224年)6月28日 ○退任:仁治元年(1240年)1月24日 ○出身:得宗 ○メモ:初代執権・北条時政の子 ■第2代 ◇北条重時(ほうじょう・しげとき) ○就任:宝治元年(1247年)7月27日 ○退任:康元元年(1256年)3月11日 ○出身:得宗、極楽寺流祖 ○メモ:第2代執権・北条義時の三男 ■第3代 ◇北条政村(ほうじょう・まさむら) ○就任:康元元年(1256年)3月30日 ○退任:文永元年(1264年)8月11日 ○出身:得宗、政村流祖 ○メモ:第7代執権。第2代執権北条義時の五男 ■第4代 ◇北条時宗(ほうじょう・ときむね) ○就任:文永元年(1264年)8月11日 ○退任:文永5年(1268年)3月5日 ○出身:得宗 ○メモ:鎌倉幕府第8代執権 ■第5代 ◇北条政村(ほうじょう・まさむら) ○就任:文永5年(1268年)3月5日 ○退任:文永10年(1273年)5月27日 ○出身:得宗、政村流祖 ○メモ:再任 ■第6代 ◇北条義政(ほうじょう・よしまさ) ○就任:文永10年(1273年)6月17日 ○退任:建治3年(1277年)4月4日 ○出身:極楽寺流、塩田流祖 ○メモ:第2代連署・北条重時の五男 ■第7代 ◇北条業時(ほうじょう・なりとき) ○就任:弘安6年(1283年)4月16日 ○退任:弘安10年(1287年)6月18日 ○出身:極楽寺流、普恩寺流祖 ○メモ:第2代連署・北条重時の四男 ■第8代 ◇北条宣時(ほうじょう・のぶとき) ○就任:弘安10年(1287年)8月19日 ○退任:正安3年(1301年)8月23日 ○出身:大仏流 ○メモ:大仏宣時(おさらぎ・のぶとき)とも。 ■第9代 ◇北条時村(ほうじょう・ときむら) ○就任:正安3年(1301年)8月23日 ○退任:嘉元3年(1305年)4月23日 ○出身:政村流 ○メモ:第7代執権・北条政村の嫡男 ■第10代 ◇北条宗宣(ほうじょう・むねのぶ) ○就任:嘉元3年(1305年)7月22日 ○退任:応長元年(1311年)10月3日 ○出身:大仏流 ○メモ:大仏宗宣(おさらぎ・むねのぶ)とも。 ■第11代 ◇北条煕時(ほうじょう・ひろとき) ○就任:応長元年(1311年)10月3日 ○退任:正和元年(1312年)6月2日 ○出身:政村流 ○メモ:第15代執権。第7代執権・北条政村の曾孫 ■第12代 ◇北条貞顕(ほうじょう・さだあき) ○就任:正和4年(1315年)7月12日 ○退任:嘉暦元年(1326年)3月16日 ○出身:金沢流 ○メモ:鎌倉幕府第15代執権。金沢貞顕(かねさわ・さだあき)とも。 ■第13代 ◇北条維貞(ほうじょう・これさだ) ○就任:嘉暦元年(1326年)4月24日 ○退任:嘉暦2年(1327年)9月7日 ○出身:大仏流 ○メモ:第10代連署・北条宗宣の子 ■第14代 ◇北条茂時(ほうじょう・しげとき) ○就任:元徳2年(1330年)7月9日 ○退任:元弘3年(1333年)5月22日 ○出身:政村流 ○メモ:第12代執権・北条煕時の子
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武将名 やえひめ 掌中の珠 八重姫 統一名称:八重姫 生没年:不明「もう離れたくありません、 一緒に行きましょ♪」伊東祐親の娘。源頼朝の最初の妻。頼朝の監視役の父が在京中に、頼朝との間に男子をもうける。しかし平家の追及を恐れた祐親の命で、男子は川に沈められた。その後は頼朝に招かれ鎌倉で御家人と結ばれたとも、川に身を投げたとも伝わる。 勢力 蒼 時代 平安 レアリティ SR コスト 1.5 兵種 槍兵 武力 5 知力 5 特技 昂揚 計略 不離一体(ふりいったい) 自身と、自身を除く最も武力の高い味方の武力が上がる。この効果は自身と対象の味方の距離が近いほど大きい。ただし対象のいずれかの味方が撤退すると、対象の味方全てが撤退する 必要士気 4 効果時間 知力時間 Illust. toi8 声優 前川涼子 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 強化 4 +2~7 - - - 10.0c(知力依存0.4c) 自身と、自身を除く最も武力の高い味方のみ効果片方城内で+2、自身と対象部隊が重なると武力+7一方が撤退するともう一方も撤退する (最新Ver.2.0.0F) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.1.6.0C 効果時間 7.5c → 8.3c ↑ - Ver.1.6.0E 効果時間 8.3c → 9.2c ↑ - Ver.2.0.0F 効果時間 9.2c → 10c 距離に応じた武力上昇値~1部隊分 +7 → ~1部隊分 +7 1部隊分~1.5部隊分 +6 → 1部隊分~2部隊分 +6 1.5部隊分~2部隊分 +5 → 2部隊分~3部隊分 +5 2部隊分~2.5部隊分 +4 → 3部隊分~4部隊分 +4 2.5部隊分~4部隊分 +3 → 4部隊分~5部隊分 +3 4部隊分~ +2 → 5部隊分~ +2 ↑ - 所感 蒼の1.5コスト槍。 武力5・知力5のバランス型の数値に特技「昂揚」を持つ。 計略「不離一体」は自身及び最も武力の高い味方の武力を上げる号令。 自身と対象の味方の距離が近いほど武力上昇値が上がるが、一方が撤退するともう一方も撤退する。 発動時の距離ではなく効果時間中の距離で武力上昇値が変動し、両部隊が重なるほど接近すると最大値となり、片方が城内にいる場合は最小値となる。 勢力に限定はなく、士気4と軽いため混色編成でも計略を使いやすいのは利点。 最大効果時の武力上昇値は士気4の計略としては非常に高いのだが、常に接触するほど近くにいなければ効果が薄い点が運用面における最大のネック。 本人の素武力がそこまで高くないため、そこを狙われて両方撤退することもあり得る。 2部隊固まる関係上、妨害やダメージ計略をまとめて受ける可能性も非常に高い。 弓兵を対象とし、高武力弓で兵力を削りつつ自身は騎兵の突撃をけん制する役割に徹すると操作が簡単なためオススメ。 一方で相方が速度差のある騎兵だと、足並みを揃えつつ突撃をするのは難しい。 解説 一説には、北条時政の最初の正室は伊東祐親の娘(妹とも)で、政子の生母を曾我兄弟の伯母(祐親の娘)ともいわれており、 正室の子であるならば八重姫と政子は叔母と姪(もしくは従姉妹)の関係であった可能性がある。 頼朝が祐親の縁戚である北条時政の娘(政子)とも関係したことに激怒したことが襲撃につながったという見方も存在する。 大戦シリーズにおいて 台詞 \ 台詞 開幕 もう何も出来なかった昔の私ではありません。行きます! 計略 もう離れません!一緒に行きましょう! └絆武将 愛する人と離れるなんて嫌です!ずっとそばにいて下さい! 兵種アクション るんるん♪ 撤退 ひっ、ひどい~ 復活 ただいまです 伏兵 じゃん!びっくりしましたか? 攻城 思い切って突撃します! 落城 全部奪われたんです……居場所だけは、私の自由にさせていただきますね 贈り物① 色々私の好みを調べてくださってありがとうございます♪ 贈り物② 素敵な贈り物、ありがとうございます♪大切に使いますね! 贈り物(お正月) あけましておめでとうございます!桜の季節が待ち遠しいです。 贈り物(バレンタインデー) ……思い切って、お手紙を書いてきました!迷惑だったら、ごめんなさい! 贈り物(ホワイトデー) ふふっ♪ いえ、なんでもないです!またいつでも誘ってくださいね! 贈り物(ハロウィン) た~くさん、お菓子を用意しました!日ノ本中の子供たちが来ても大丈夫ですよ! 友好度上昇 ただいまです 寵臣 伊東祐親の娘、八重です!夢はお嫁さんになることです! └特殊 - 贈り物の特殊演出 会話武将 台詞 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 伏兵「じゃーん!びっくりしました?」だったかな - 名無しさん (2023-10-24 17 03 56) 贈り物①「色々私の好みを調べてくださってありがとうございます♪」②「素敵な贈り物、ありがとうございます♪大切に使いますね!」 - 名無しさん (2023-07-07 23 52 40)
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武将名 ほうじょうまさこ 若き御台所 北条政子 統一名称:北条政子 生没年:1157~1225「御曹司! 飛び立つ時が来ましたよ!」北条時政の長女。源頼朝が伊豆の流人だった頃、監視役の父が在京中に密かに頼朝と結ばれ、父の反対を押し切り婚姻した。頼朝の挙兵後も伊豆に留まるが、頼朝が東国に勢力を伸ばし鎌倉に拠点を置くと、政子も鎌倉に移り御台所と呼ばれた。 勢力 蒼 時代 平安 レアリティ SR コスト 1.0 兵種 騎兵 武力 1 知力 5 特技 復活 昂揚 計略 乙女の献陣(おとめのけんじん) 【陣形】(発動すると陣形が出現し、その中にいる間のみ効果が発生する。陣形は同時に複数発動できない)最も武将コストの高い味方の武力と知力が上がる 必要士気 3 効果時間 知力時間 Illust. 晩杯あきら 声優 井上喜久子 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 陣形 3 +3 +3 - - 50.0c(知力依存0.4c) 回転可能 (最新Ver.2.0.0G) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.2.0.0D 効果時間 40c → 50c ↑ - Ver.2.0.0G 武力上昇値 +2 → +3 ↑ - 所感 若き日の北条政子。 武力1騎兵と戦力としては期待しづらいが、復活と昂揚の2特技を備えるのが救いではある。 計略「乙女の献陣」は範囲内1部隊のみを対象とする強化陣形。 強化値自体は士気3相応ながら、効果時間が非常に長いのが特徴。 戦況に応じて対象を随時切り替えていけるほか、蒼勢力に多数存在する奉武計略との相性も抜群。 対象に制限がないため混色でも使っていける点も見逃せない。 一方で難しいのが、フル活用するためには武力1の自身を生存させ続けなければならない点。 機動力に富む騎兵とはいえ戦闘に参加させると消耗が激しく、範囲の狭さと相まって敵に狙われると相応に撤退しやすい。 範囲が回転可能なのも良し悪しで、対象を随時切り替えるとなるとどうしても操作負担が増えることになる。 解説 「第26回大戦スタンプキャンペーン」(2023/10/4~2023/10/31)のスタンプ60個報酬。 大戦シリーズにおいて 2枚目となる北条政子。 台詞回りを踏まえるとこちらは頼朝存命時のものだろうが、ERの自身と同じく長時間陣形のため、互いの相性はかなり悪い。 統一名称共通武将 統一名称 共通武将 登場Ver. 北条政子 蒼080_北条政子 Ver.1.6.0A EX054_北条政子 Ver.1.6.0F 台詞 \ 台詞 開幕 もう待ちきれない! 私、行ってくる! └自軍に蒼082_北条義時 おい弟!しっかり働いてこーい! 計略 この中で誰が天下を取るか、私にはわかるわ! └絆武将 選ばれしお方、私と一緒に行こう! └対象に玄087_源頼朝 御曹司!飛び立つ時が来ましたよ! 兵種アクション えいっ! 撤退 うぐっ… 復活 私がなんとかしなきゃ! 伏兵 えへっ、来ちゃった♪ 攻城 この建物は、壊してちょうだい! 落城 あずま女をナメるんじゃないわよ! 贈り物① いつもありがとね!頼りにしてるわよっ! 贈り物② 刀を持たずともあなたと一緒に戦う覚悟はあるわ! 贈り物(お正月) 今年こそ、北条が目立ちますように! 贈り物(バレンタインデー) 今日でなければ意味がないからねっ!今日は私からも気持ちを贈るんだ! 贈り物(ホワイトデー) うん、よろしい。一夫多妻は認めないからねっ!! 贈り物(ハロウィン) 遊んでる暇があったら戦いなさいよ、まったく…… 友好度上昇 私がなんとかしなきゃ! 寵臣 勝ったか負けたか気を揉んでるのが一番体に悪い!私も戦場に行く! 贈り物の特殊演出 会話武将 台詞 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前
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ヨーグ・ルトーソス Yorgue Rtosauce #ref(ここに画像のURL) 名前 ヨーグ・ルトーソス Yorgue Rtosauce 危険度 中 人間友好度 低 活動場所 幻想郷の人里 種族 妖怪 能力 あらゆる隙間を埋める程度の能力 二つ名 嗤うセールスレディ 性格・特徴 見る者を苛立たせるような微笑みをいつも浮かべている。 職業 自称セールスレディ 所在 不明 年齢 不詳 趣味 テトリス、ジグソーパズル 登場作品、SS なし 身長 普通 体重 普通 外見・服装 プラチナブロンドの長髪、マゼンタ色の瞳、青白い肌。オレンジ色のナイトキャップを被り、ブルーペリー色とキウイ色のツートンカラーのドレスを纏っており、マーブル模様の羽うちわをいつも持っている。 3サイズ 普通 人里で怪しげな行商をしている正体不明の妖怪。 カモを見つけては、いつも相手の心の隙に付け込んで、良く分からないものを 売りつけたり、サービスを行っている。 彼女のカモになった客本人はそれで満足してしまうため、一度も文句を言われた ことは無いが、カモの周囲の人間から見ると明らかに何かがおかしいので、 妖しげな人物として怪訝な目で見られることもしばしばある。 果たして慈善行為としてそれを行っているのか、それとも人の弱みに付け込み、 金を騙し取ってるだけなのか、彼女の真意は本人以外誰にも分からない。 スペルカード 彼女は隙間を埋めたい性分なので、どの弾幕もボム無しで突破するのはまず不可能と考えて良い。ただし、ボムで必ず切り抜けられるのであまり強くは無い。 問題A「牛肉+玉ねぎ+□□□+紅生姜+タレ=牛丼」(Easy)問題A「納豆+醤油+ネギ+□□□+タマゴ+ゴハン=納豆ゴハン」(Normal)問題A「麺+ツユ+カマボコ+□□□□+ネギ+唐辛子=たぬきうどん」(Hard)難題A「鰻+タレ+ゴハン+□□□□□」(Lunatic) 問題B「豚肉+玉ねぎ+ピーマン+□□□+タレ=酢豚」(Easy)問題B「挽肉+生姜+塩+エビ+皮+□□□□□□=シュウマイ」(Normal)問題B「味噌+麺+スープ+焼豚+□□□+唐辛子=味噌ラーメン」(Hard)難題B「イカ+エビ+豚+椎茸+白菜+青梗菜+筍+ウズラ卵+□□□□□□」(Lunatic) 難題C「牛肉+玉ねぎ+ポテト+人参+ルー+□□□+□□□□」(Easy)難題C「牛肉+豚肉+玉ねぎ+タマゴ+□□□+塩+コショウ+ナツメグ」(Normal)難題C「パン+ハンバーグ+キャベツ+トマト+玉ねぎ+□□□□+チーズ」(Hard)難題C「生地+オイル+ニンニク+ピーマン+トマト+チーズ+バジル+□□□」(Lunatic) 難題D「国会+内閣府+□□□□□」(Easy)難題D「北海道+東北+中部+関東+近畿+中国+□□+九州+沖縄」(Normal)難題D「藤原不比等+平正盛+源頼朝+北条時政+□□□□□+足利尊氏」(Hard)難題D「ヤタノカガミ+ヤサカニノマガタマ+□□□□□□□□□□□」(Lunatic) 最終難題「水+金+地+火+□+木+土+天+海」(Easy)最終難題「水+ヘ+リ+ベ+硼+炭+□+酸+弗+ネ」(Normal)最終難題「羊+牛+双+蟹+獅+乙+天+蠍+□+射+山+水+魚」(Hard)最終難題「肝+心+脾+肺+腎+□+大+胃+小+胆+膀+三」(Lunatic) 解説 元ネタ ヨグ・ソトース(クトゥルー) スペルカード解答(反転させると表示できます) 問題A「牛肉+玉ねぎ+ゴハン+紅生姜+タレ=牛丼」(Easy) 問題A「納豆+醤油+ネギ+カラシ+タマゴ+ゴハン=納豆ゴハン」(Normal) 問題A「麺+ツユ+カマボコ+テンカス+ネギ+唐辛子=たぬきうどん」(Hard) 難題A「鰻+タレ+ゴハン+サンショウ」(Lunatic)(=うな重、うな丼) 問題B「豚肉+玉ねぎ+ピーマン+パイン+タレ=酢豚」(Easy) 問題B「挽肉+生姜+塩+エビ+皮+グリンピース=シュウマイ」(Normal) 問題B「味噌+麺+スープ+焼豚+モヤシ+唐辛子=味噌ラーメン」(Hard) 難題B「イカ+エビ+豚+椎茸+白菜+青梗菜+筍+ウズラ卵+ヤングコーン」(Lunatic)(=八宝菜) 難題C「牛肉+玉ねぎ+ポテト+人参+ルー+リンゴ+ハチミツ」(Easy)(=カレー) 難題C「牛肉+豚肉+玉ねぎ+タマゴ+パンコ+塩+コショウ+ナツメグ」(Normal)(=ハンバーグ) 難題C「パン+ハンバーグ+キャベツ+トマト+玉ねぎ+ピクルス+チーズ」(Hard)(=ハンバーガー) 難題C「生地+オイル+ニンニク+ピーマン+トマト+チーズ+バジル+サラミ」(Lunatic)(=ピザ) 難題D「国会+内閣府+最高裁判所」(Easy)(=三権分立) 難題D「北海道+東北+中部+関東+近畿+中国+四国+九州+沖縄」(Normal)(=日本列島) 難題D「藤原不比等+平正盛+源頼朝+北条時政+後醍醐天皇+足利尊氏」(Hard)(=時代別の初代権力者) 難題D「ヤタノカガミ+ヤサカニノマガタマ+アメノムラクモノツルギ」(Lunatic)(=三種の神器) 最終難題「水(星)+金(星)+地(球)+火(星)+小(惑星)+木(星)+土(星)+天(王星)+海(王星)」(Easy)(=太陽系) 最終難題「水(素)+ヘ(リウム)+リ(チウム)+ベ(リリウム)+硼(素)+炭(素)+窒(素)+酸(素)+弗(素)+ネ(オン)」(Normal)(=元素表) 最終難題「(牡)羊(座)+(牡)牛(座)+双(子座)+蟹(座)+獅(子座)+乙(女座)+天(秤座)+蠍(座)+蛇(使い座)+射(手座)+山(羊座)+水(瓶座)+魚(座)」(Hard)(=十三星座) 最終難題「肝(臓)+心(臓)+脾(臓)+肺+腎(臓)+心(包)+大(腸)+胃+小(腸)+胆(嚢)+膀(胱)+三(焦)」(Lunatic)(=五臓六腑)
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武将名 ほうじょうむねとき 北条宗時 統一名称:北条宗時 生没年:不明~1180「北条の魂はこの身にあり! 俺が坂東武者を導いてやるさ!」時政の子。義時、政子らの兄。伊豆で以仁王の令旨を受け挙兵した頼朝に従い、伊豆目代を襲撃した際は先導役を務めた。石橋山の戦いで敗北すると、時や義時と別れて伊豆方面に逃げたが、平家方の伊東祐親の軍勢に包囲され、戦死した。 勢力 蒼 時代 平安 レアリティ N コスト 1.0 兵種 騎兵 武力 3 知力 5 特技 忍 計略 活路を求めて(かつろをもとめて) 移動速度が上がる。ただし武力が下がり、武力によるダメージが増加する。この効果は城に戻ると終了する 必要士気 1 効果時間 知力時間 Illust. AKIRA 声優 小野大輔 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 強化 1 -9以上 - +300% - 6.7c(知力依存0.8c) 計略中の被武力ダメージ10倍 (最新Ver.1.6.0A) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 所感 1コスト3/5と高めの数値に特技忍を持つ騎兵。 計略「活路を求めて」は本作初となる士気1計略。 速度上昇こそ非常に大きいがデメリットも莫大で、接触するだけで瀕死は免れないどころか即死することもしばしば。 このため通常の速度上昇計略と異なり、突撃を軸とした運用は不可能となっている。 ダメージが増えるのは武力ダメージだけのため、知力ダメージや敵城の攻城エリアでのダメージは通常通り。 これを活用し、端をすり抜けての攻城や兵種流派・壱により敵城に突撃し続けるといった事は可能。 ただし武力の下がった1コストの騎兵ということで攻城ダメージは最低値。 基本はスペック要員として扱い、計略は一風変わった帰城用として扱うのが無難。 静御前と同時に採用する際は、士気1で任意に終了する事ができる計略という点で活躍できる。 ただし回復以外で戦闘に貢献することはできず、連続で使用するためには城への出し入れが必須となることに注意。 解説 北条時政の長男にして嫡男。 義時の兄であることはほぼ間違いないものの、政子と宗時のどちらが長子かについては諸説がある。 本来の嫡子であった宗時の死の結果、次弟義時が嫡男となったとされるのが一般的な説。 異説として宗時の死後は一時嫡男不在(義時は分家の当主)となった後、末弟の政範が新たな嫡男に立てられたとも言われている。 何にしても、本来の嫡男であった宗時の戦死は北条氏に禍根を残し、後の親子対立と時政追放の遠因となったと言えるだろう。 大戦シリーズにおいて シリーズにおける初の士気1計略は三国志大戦(新)における閻宇の「未来への憂い」。 ただしこちらはエラッタにより必要士気が減少した結果であり、実装当初から士気1計略であったのは宗時が初となる。 台詞 \ 台詞 開幕 北条が坂東武者を束ねる未来のために、俺が先頭を務める! └自軍に蒼082_北条義時 小四郎!ぼさっとしてるんじゃないぞ!俺に付いて来い! 計略 活路を切り開く! └絆武将 - 兵種アクション おらぁ! 撤退 引かぬが……! 復活 坂東武者を舐めるなよ! 伏兵 - 攻城 一度は失った右腕だ、ぶっ壊れるまで使ってやる! 落城 親父に小四郎、それに妹たちも強い。北条は安泰だな! 贈り物① ほう、魚か! それも二匹!縁起がいいからありがたくいただこう! 贈り物② いつ戦いが起こるか分からない。剣はもちろん、軍も用意しておかなきゃな。 贈り物(お正月) - 贈り物(バレンタインデー) なんだあ!? お前、俺に惚れてるのかあ?なーに照れてんだ! こっちも恥ずかしくなる! 贈り物(ホワイトデー) ほーらよ、仏を彫ってみたんだ。くれてやる。ああ、俺は大丈夫。この腕でなんとかするさ。 贈り物(ハロウィン) 俺も半分そっちに足をつっこんでるからな。今更、怪物に仮装なんて出来ないって。 友好度上昇 坂東武者を舐めるなよ! 寵臣 - └特殊 - 贈り物の特殊演出 会話武将 台詞 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 伏兵「こんな所で(見つかった…?)」攻城「一度は失った右腕だ、ぶっ壊れるまで使ってやる!」 - 名無しさん (2023-12-03 15 29 48)
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登録日:2022/10/30 Sun 23 23 23 更新日:2024/04/12 Fri 19 22 26NEW! 所要時間:約 40 分で読めます ▽タグ一覧 中世 北条氏 北条義時 吾妻鏡 執権 大河ドラマ主人公項目 宰相 所要時間30分以上の項目 承久の乱 日本史 朝廷 武士 江間小四郎 稀代の朝敵 鎌倉幕府 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 非道の逆臣 今ハ義時思フ事ナシ。 義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。 義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル。 ~『承久記』より~ 北条(ほうじょう)義時(よしとき)(1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の豪族・北条氏の一門(*1)。 1185年(所説あり)に創設された、史上初の完全独立の武家政権「鎌倉幕府」、その黎明期において中心的な位置に立った人物。 ――そして、後にも先にも唯一と言っていい「ある偉業」を成し遂げた事で、日本史上最大最強の「朝敵」として歴史に名を残す人物である。 ◆前提 義時、そして彼が生きた時代を語る上で欠かせない史料として挙げられるのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』。 鎌倉幕府草創期から中期までの各種経緯や歴史を記す書物である。 同時代を検証する上で非常に重要な一線級の史料……なのだが、一部怪しい点もあったりする。 というのも、この『吾妻鏡』、義時の子孫にして鎌倉幕府の最高権力者たる北条一族寄りの記述が多い。 つまりは、過去の出来事を記す上で、北条一族にとって都合のいい形で脚色・修正を行っている感ありありなのだ。 さらに、記述が中途半端な時期で終わっている点や、成立してからかなり早くに散逸してしまい、現在に至っても欠損箇所が多いという点から、 重要な史料であることは疑いようがないのだが、その記述の正確さ・適切さについては議論の余地を残すものとなっている。 かといって、『吾妻鏡』を「北条家(一族)を称賛するためのプロパガンダ」と断ずるのも間違いと言える。 というのも、北条家に滅ぼされた武家を絶賛したり、北条家の陰謀をわざわざ記述したり、挙句義時自身を陰謀の黒幕とほのめかすなど、 「筆者はどっちについてんだ」とツッコミたくなる程、北条家への厳しい記述も散見されるからである(*2)。 他に同時代を検証する上で使われるのは、藤原摂関家出身で天台座主(*3)も務めた僧、慈円が記した『愚管抄(ぐかんしょう)』がある。 こちらは初代天皇から鎌倉時代初期の順徳天皇までに関する歴史について記されおり、どちらかと言うと朝廷における各種事情が中心となって記されている。 こっちもこっちで同時代の重要情報は多数記述されているが、何せ京に身を置いた人物の記録なので遠く鎌倉の事情は精度が粗くなりがちで、ほかの日記等との食い違いもままある。 その他にも、項目冒頭の文の元である軍記物語『承久記(じょうきゅうき)』(*4)など、この時代を読み解く文献はいくつかあるが、本項目では原則『吾妻鏡』に準拠しつつ、必要に応じて出典の補足を加えていく。 ◆来歴 〇青年期~伊豆の倅から将軍の側近へ~ 1163年、義時は伊豆国に在する豪族・北条(ほうじょう)時政(ときまさ)の次男として生まれる。 後に娘婿の源頼朝と、彼による源氏復権・鎌倉幕府成立を大いに助け、初代執権の立場に付いたとされる父の時政だが、 義時が産まれた時点ではこれといった官位も持たず、北条一族もまた、交通の便の良い場所に拠点を持ってはいたものの、 取り立てて高い権力や地位があったわけではなかった(一応、有力領主伊東祐親と縁戚関係にあった)。 ……というか、この時期の北条一族に関する文献が碌に残っていないので「よくわからない」と言うのが実情。 逆に言えば「当時の文献に書かれない程度の存在だった」とも言える。 あくまで一介の地方在住の豪族に過ぎなかったのだ。 加えて言えば、時政の後を継ぐのは長男で嫡子の北条(ほうじょう)宗時(むねとき)であり、今でこそ義時は「北条義時」の名で知られているが、 『吾妻鏡』でも、江間に移住してから任官するまで「江間義時」と記されており、おそらく当人も自分が北条家を継ぐとは思っていなかったと思われる。 一介の地方の豪族の子、さらにその嫡子でもないとなれば、当然義時にそこまで権力や地位があるわけでもなし。 「このまま何もなければ、一介の地方の豪族として終わっていた」とも考えられる程度の存在だった。 そんな彼――ひいては北条一族の転機は、義時が15、6歳の頃。 1159年に起きた「平治の乱」に敗れ、伊豆に流刑となった若武者・源(みなもとの)頼朝(よりとも)と縁を結ぶ事から始まる。 流人として伊豆に来た頼朝は、先の乱で没した父祖を弔いながら同地で過ごす内、ある女性と出会い、婚姻関係を結ぶ。 その女性こそ、時政の娘であり義時の姉にあたる政子(まさこ)(*5)であった。 図らずも北条時政とその一族は、源氏の嫡流たる頼朝と姻戚関係を結ぶ事になった。 が、当時は平清盛率いる平家一門の全盛期。 「平家にあらずんば人にあらず」とまで称された時代において、反逆者たる源氏の嫡流・頼朝と繋がりを持つというのは、ある種の自殺行為に等しいとも言えた(*6)。 ところが、頼朝と政子が結ばれて少し経った頃の1180年。 時の最高権力者・後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が、平家追討の命令を全国の源氏へ発し、自らも挙兵を画策した事で事態は急転する(*7)。 以仁王自身は挙兵に失敗し程なく追討されたが、この事態が自身への危機につながると判断した頼朝は呼応する形で挙兵を決定。 伊豆国を含めた坂東(ばんとう)(現在で言う関東一帯を指す)の豪族に協力を呼びかけ、勢力を集め始めた。 その豪族――坂東武者たちの中には、頼朝の舅である時政も含まれていた。 如何なる判断があったかは定かではないが、時政は頼朝の挙兵という大博打に、一族を挙げて乗っかる事を決めたのだ。 そして義時も、父に従う格好で義兄の打つ大博打に乗るハメになった。 当然その行動は、平家及び平家側の豪族にとっては討伐の対象であり、挙兵後程なくして両者が激突した「石橋山の戦い」において、手勢に劣る頼朝側は完膚なきまでにボロ負けした(*8)。 義時も兄・宗時を失った上での逃走を余儀なくされ、源氏再興は夢と消え……たりさせなかったのが、頼朝の豪運のなせる業か。 かろうじて逃げた頼朝一行は安房国(現在の房総半島南部)で再度勢力を結集させ、先の敗戦時からは比べ物にならない軍勢を確保(*9)。 一方義時は父・時政と共に甲斐国(現在の山梨県)へ向かい、同地で頼朝と同じく挙兵した甲斐源氏の武田信義(*10)と合流。 双方が合流し大軍勢をとなった源氏の一軍は、「富士川の合戦」において平氏の軍勢を戦わずして撤退に追い込む(*11)など、情勢は完全に頼朝ら源氏側へと逆転していた。 時期を同じくして、頼朝は父・源義朝が住んでいた地「鎌倉」へと入り、以後同地を拠点とした勢力――のちの「鎌倉幕府」の基礎を築いていく事になる。 ……なお、石橋山の敗戦からここまでの間、ものの一ヶ月ちょい。 とんでもない復権ペースである。 義時もそんな義兄にして主君・頼朝に随行する形で鎌倉に入り、側近として活動していく。 頼朝の寝所の護衛に選ばれたり、壇ノ浦で平家を滅亡させた追討軍、奥州藤原氏の征伐軍に従軍して武功を立てるなど、着実に功績を立てていた。 また、姉の政子が引き起こした「後妻打ち」の一件(亀の前事件)で父・時政が激怒し、一族を引き連れて一時期伊豆国に戻った時には、 義時は父に従わずに鎌倉に留まり、これによって頼朝から称賛されてますます側近として重用されることとなった。 余談:ブチ切れ政子の後妻打ち 「後妻(うわなり)打(う)ち」とは、簡単に言うと「離婚した元夫の再婚相手に対して、元妻が突撃をかけて家を破壊する行為」。 おっかないにも程がある話だが、平安時代から江戸時代前期頃までは、わりと珍しくもない風習だったりする。 より時代が下った江戸時代頃においてはルールめいた事まで定まってたらしく、 条件は「離婚から再婚までの期間が一ヶ月以内の場合」 事前に「何月何日の何時に突撃する」と告知する 単身でなく徒党を組んで向かうも良し。相対する後妻側も同様に応戦して良し ……などなど、やってる事は物騒極まりないが、妙に律儀な面もある慣わしだったりする。 もっとも、古い時代においてはそんな律儀な事を毎度やっていたわけではないらしく、加えて離婚していなくても夫の妾や愛人の家へ妻が襲撃をかます、というのもあったりしたという。 ……とまぁ、「後妻打ち」についての説明はこの辺で止め、政子の後妻打ちに話を戻すと、 そもそもの話として、彼女の夫である頼朝は、鎌倉幕府の創始者であり稀代の大英雄であるのは間違いないのだが、同時にかなりの女好きでも有名だった。 ただ、「英雄色を好む」のは洋の東西を問わずよくある話な上、当時は子供が成人前に亡くなることは珍しくなく、 従って、「確実に後世に血を残す」という意味でも、正妻の他に愛妾などを持つことは、自分の“跡”を考えるなら(頼朝の視点では)当然と言えた。 問題は、政子が(当時の価値観に於いてはかなり際立って)その手の話に敏感だった事にある。 ……早い話、政子はかなり嫉妬深かったのだ。 もっともこれは、正室と言えど政子の出自が「一介の地方豪族の娘」という、かなり貧弱な物だった事も考慮すべき話ではある。 夫・頼朝は河内源氏という確固たる名家の嫡男にして、武家の棟梁。 それこそ嫁の来手など数知れずである。 頼朝の父の義朝も正妻に尾張の名門神社、熱田神宮の大宮司の娘を迎え、他にも三浦や波多野といった関東で名の通った豪族の娘を側室としている。 万が一側室に名家の女性が入り、しかも後継者たる男児を産もうモノなら、正室であってもその威厳や立場はあっという間に崩れ去る。 そうした危機感と、政子本人も結構気性が荒いというか豪胆というか、性格面でのアレコレが相まって、この一件に繋がった。 事が起きたのは、1182年。 当時頼朝は「亀の前」と呼ばれる女性と懇意になっており、足繁く通い詰めていた。 当然、政子にバレない様にこっそりと、しかもわざわざ自宅から少し離れた部下の邸宅に亀の前を預けたうえで、である(ヲイ)。 が、程なくしてこの話は義母を通じて政子の耳に入ってしまう。 しかも政子、この直前に(鎌倉関係者待望の)長男を出産したばかりという、「火に油」どころか「山盛りのダイナマイトにガソリンかけて火をつける」が如き状況。 (つまり頼朝、まさかの「身重の妻がいる中で別の女と浮気」という、現代におけるクズ男ムーブメント全開の所業をやらかしていた。) かくして政子の怒りは怒髪天。 「後妻打ち」の決行を決意する。 だが自身が直接カチコミかけるわけにはいかず(出産して間もないのだから当然だが)、政子は義母の兄である牧宗親(まきむねちか)に「後妻打ち」を命じた。 鎌倉の最高権力者の妻、所謂「御台所」の指示とあっては逆らう理由もなし。 かくして、牧宗親とその郎党により(政子の意向が適切に反映されたのか加減を間違えたのかは図りかねるが)亀の前が住む邸宅は盛大に破壊されたのだった。 (注:邸宅は前述の通り、頼朝の家臣の所有物です) なお、亀の前並びに邸宅所有者は命からがら逃げおおせたという(容赦ねえ)。 後日それを知った頼朝はというと、こっちもこっちで大激怒。 宗親本人を呼びつけ大叱責をかました。 「いや、全面的にお前が悪いだろ」とか言ってはいけない。いや言いたくもなるが。 ただ、理由はどうあれ、自身の膝元たる鎌倉の地での打ち壊しという狼藉を行った上に、 妻=御台所の指示とはいえ、主君たる自分に事前に報告など一切しなかったという所業を頼朝は看過できなかった。 そこで頼朝は、牧親宗への罰として「宗親の髻(もとどり)(*12)を切り落とす」という行為に及んだ。 そもそも「髻」に馴染みがない現代人目線では「罰が髪を切るだけ?軽くない?」と思うだろうが、 当時において髻は人目には晒さない(通常「冠」と呼ばれる被り物を頭に乗せて隠す)ものであり、 他者のコレを無理矢理人目に晒すどころか切り落とすというのは、現代風に言えば「公衆の面前でズボンどころかパンツも下ろして晒す」に等しい。 つまり、身体や財産に明確なダメージこそ負わないが、メンタル面においてはかなりヒドい処罰を下したのだった。 が、この処遇に怒ったのが北条時政。 時政にとって宗親は妻の兄、つまり義兄に当たる人物であった。 娘の指示を受けて行動しただけの義兄が娘婿にとんでもない恥辱を与えられたばかりか、 その理由も元を辿ればその娘婿の女癖の悪さにあったとあれば、流石に時政も黙ってはおられず、 その抗議の意志を込め、自分のみならず一族揃って伊豆国へ立ち退くという行動に出たのであった。 その後の顛末についてだが、現存する『吾妻鏡』において、翌1183年に関する記述が欠落しているため、詳細は不明となっている(*13)。 現状分かっているのは、1182年末時点で 亀の前は別の御家人の屋敷に移った(以後の消息は不明)。 頼朝は相変わらず亀の前を寵愛した(懲りねえのかヲイ) 更にキレた政子の命で、打ち壊された家の所有者である御家人が流罪になった(ヒデェ) といった事である。 え? 大体頼朝が悪いって? ご も っ と も まさに全部大泉頼朝のせい また私生活においても、長男・泰時(やすとき)を授かり、幕府の女官だった比企家の令嬢(姫の前)と猛アプローチの末結婚するなど、順風満帆であった(*14)。 そして1192年、頼朝が朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、ここに頼朝こと「鎌倉殿(かまくらどの)」と、その部下となる武将たち「御(ご)家(け)人(にん)」による新たな統治機構が確立された。 ……もっとも、この時点での義時は、数多くいる御家人の一人、という立ち位置に過ぎなかった。 先にも触れたが、各種文献においてこの時期の義時は「北条義時」ではなく「江間(えま)義時(よしとき)」ないし「江間(えま)小四(こし)郎(ろう)」と書かれていた事が多かった。 「江間」は義時が拝領した土地の名前(現在の静岡県東部の一部)で、「小四郎」は通称。 この時代、親の姓を堂々と名乗れるのはもっぱら嫡男、ないし本家筋と認められた人間に限られており、 義時もこの時点では、「江間」という北条分家の筆頭に過ぎなかったとされている(*15)。 が、無論ここで終わるのが彼の人生ではない。 今日において彼が「江間小四郎」ではなく「北条義時」として歴史上で語られる所以は、ここからが本番である。 〇壮年期~はじまりの十三人、そして頂へ~ 1199年。初代鎌倉殿である頼朝は、年明けから突如体調を崩し、程なく急死。 頼朝と政子の長男・頼家(よりいえ)がその跡を継ぐ事になる。 当時の鎌倉幕府の政治機構は、最高権力者である鎌倉殿が直接的に政治上の判断・決定を下す「親裁」であった。 だが頼家就任からわずか数か月後、この直接裁断は事実上停止。 政治上の各種判断については、御家人の中から選抜された「宿老」十三人による合議を踏まえて決定する事とされた(*16)。 そしてその「十三人の合議制」のメンバーには、時政と共に義時もその名を連ねており、事実上この父子が鎌倉における最高意思決定機関の一翼を担う事になった。 かくして統治機構が次なる形へと変わりだす一方、新たに沸き起こりつつある問題があった。 鎌倉の創始者にして絶対的な権威として君臨していた頼朝は、御家人たちにとって尊敬と共に畏れも抱く存在――謂わば御家人に対する「行動の抑制役」も担っていた。 それが突然喪失し、跡に就いたのは、生前頼朝が後継に定めていたが、年若く場数も踏んでいない頼家。 保身にしろ野心にしろ、元来自身の領土確保を絶対としていた御家人たちにとって、揺れ動く情勢は必然的に様々な行動を起こさせる。 結果、それは互いと、ないし大勢と干渉し、せめぎ合い、 そして、ぶつかり合う。 平家が壇ノ浦の海に消えてから、およそ15年。 外に敵が居なくなった組織で生じる必然的問題――内側での権力闘争が、鎌倉の御家人同士ではじまりを告げたのだ。 必然、義時も御家人の一人、そして十三人の宿老の一員として、幕府中枢での権力闘争を生き抜く事を余儀なくされる。 手始めは、頼家が鎌倉殿に就任した年、1199年の末(早っ)。 通称「梶原景時(かじわらかげとき)の変」から始まった。 まず、事件の名前にあがった「梶原景時」という人物について説明しよう。 梶原景時は、頼朝の配下になった時期こそ少々遅い(*17)が、教養の深さや事務・実務能力の高さから頼朝の信頼厚く「一の郎党(一番の家臣)」と称された人物であった。 このため、頼朝の没後も引き続き頼家の側近として重用される事になったのだが、そんな彼の鎌倉における仕事は、御家人たちの勤務審査や取り締まりといった、現代でいう監査部門であった。 が、組織においてこの手の内部監査業務、悪い言い方をすれば「人の仕事にケチをつける事が仕事」の人間が好まれないのは、古今東西同じ。 加えて景時は、ちょっとでも言動が怪しかったりすると「アイツは謀反でも企んでるのでは」と勘ぐったり、 他人の仕事のダメっぷりをオブラートゼロ(むしろ若干誇張込み)でまとめ上げ、しかもそれらを忖度無しのドストレートに頼朝へ進言する事が度々あった(*18)。(*19) 無論、彼の立場からすれば、疑惑の芽を潰したり問題行動のある者について報告するというのは至極当然なのだが、当人の言動も相まって御家人からは心よく思われない状態。 結果「仕事自体は有能だが、同僚からの印象はすこぶる悪い」という立ち位置にあった。まあようするにこいつみたいなもの ――そんな人物が、急激に動き始める情勢下で真っ先にターゲッティングされたのは、必然と言えた。 事件の発端は御家人の一人、結城(ゆうき)朝光(ともみつ)のボヤきにあった。 彼もまた頼朝に従い挙兵した一人であったが、頼朝の死後、始まった鎌倉幕府の不穏さ加減に、 「『忠臣二君に仕えず』というが、自分もそれに倣いあの時(頼朝の死後)出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」 と口にした。 現代風に言えば「経営者が変わった結果会社の空気が険悪化した事に辟易してる古参サラリーマンの愚痴」レベルの一言なのだが、これがよりによって梶原景時の耳に入ってしまう。 先のボヤきを景時フィルターに通すと、 「忠臣二君に仕えず=仕えるべきなのは先代であって当代の頼家様ではない」 「今の世はなにやら薄氷を踏むような思い=頼家様の治世に不満がある」 という感じで変換された結果、景時はこれを「鎌倉殿(頼家様)への誹謗である」と断じ、朝光の処罰を求めたのだ。 ところが、この景時の対応は、ある女官を通して朝光本人に伝わり、困った朝光が他の御家人に相談。 話は更に御家人の間へ伝播していき、同時にその理不尽さ加減と、これまで積もり積もった景時への不平不満が相まって大・爆・発。 結果、御家人66名による「景時への糾弾・排斥」を記した連判状が作成され、鎌倉殿の手元へ挙げられる事になった。 頼家からこの連判状を見せられ説明を求められた景時だが、特に抗弁をすることも無く、自所領に一族を連れて退去する自主謹慎的な対応を取った。 一方頼家にとって景時は、父の代から仕え自分も重用していた側近であったが、多数の御家人がこうも反発している現状で彼を庇いきる事は出来ず、結果鎌倉からの追放という処分を下すのだった。 そして、年が明けて1200年。 景時は突如一族を率い出立。 一路京を目指して進み始める。 『吾妻鏡』では「京に上洛し九州の勢力を集め、別の人物を将軍に立てて反乱を企てた」とされるが、その道中、駿河国(現在の静岡県静岡市付近)にて在地の武将らに発見され、交戦。 最終的に景時以下、梶原一族は同地にて命を落とし、滅亡する事になった。 さて、ここまで読んで「本件と義時関係なくね?」と思われたかもしれない。 確かに景時排斥の理由となった「66名による連判状」に義時及び北条一族の名前は無く、深く関与したと思しき記述も無いのだが、 一方で本件の背後では北条一族が暗躍していたのでは、という推測もある。 何しろ、本事件のきっかけとなった「景時が朝光を処罰しようとしている話」を朝光本人に告げたとされる女官は、北条時政の娘であり、義時の異母姉妹に当たる「阿波(あわ)局(のつぼね)」だったのだ。 更に梶原一族が滅んだ駿河国の守護(*20)を当時務めていたのは、北条時政。 そもそも梶原景時自身、時政・義時と共に「十三人の合議制」の一人に加わっており、 同じ立場に居た北条親子が本件に全く感知していないというのは考えにくく、時政ないし義時が暗躍していた可能性もぬぐい切れないのが実情である。 さてはともかく、(設立からたった一年で合議制のメンバーが一人抜けたが)事件は決着し、ひとまず鎌倉は平穏に…… ならなかった(知ってた)。 梶原一族の滅亡から3年後(だから早くね?)、次なる騒乱「比企(ひき)能員(よしかず)の変」の幕が上がる。 二代目鎌倉殿となった頼家には、後見の立場として北条と並ぶ豪族の一つ・比企(ひき)家がついていた。 その当主が「比企能員」。 彼もまた「十三人の合議制」の一人である。 彼の母は先代将軍・頼朝の乳母であり、自身は頼家の乳母父、そして娘は頼家の妻と、北条家と同様に将軍外戚としての地位を固めつつあった。 加えて1198年に娘が頼家との間に嫡男・一幡(いちまん)を産んだことで、その権勢は否が応でも増していった。 この状況は、頼朝の外戚であった北条家当主・時政にとっては非常に危機感を抱くものであり、 実際鎌倉殿が代替わりして以降、北条一族は「先代鎌倉殿の外戚」というなんとも微妙な状況に陥っていた(*21)。 さらに、北条氏に近かった阿野全成法師(生前の頼朝による粛清を免れた唯一の弟)(*22)が頼家の命令で処刑されるなど立場は悪化の一途をたどった。 が、頼家就任から4年後の1203年、転機が起こる。 かねてから体調不良が続いていた頼家の病状が悪化、8月には危篤状態に陥ったのである。 これを受けて御家人たちは急ぎ今後に関する協議を始めるのだが、ここで「誰を後任の『鎌倉殿』にするか」で、比企と北条が対立する。 比企側は頼家の嫡男である一幡を後継と考えた一方で、北条側は頼家の弟(頼朝と政子の次男)である千幡(せんまん)を後継に据えようと画策。 ……双方ともに「自分が外戚として振る舞える人物を後釜に」という(わかりやすすぎる)思惑がモロに出た後継者選出議論は当然紛糾。 譲歩案として北条から「西と東それぞれを分割して相続する」という案も出されたが、比企はこれに反発。 事態に決着が見えない中、9月になって北条時政とその一族が取った手段、それは、 仏事を理由に自宅に呼び寄せた比企能員を、 完全武装した状態で待ち構え、 その場で誅殺したのである。 ……道理もへったくれもない超絶強硬手段であるが、『吾妻鏡』においては、 分割相続に反発した比企能員が、病床に伏した頼家に北条時政追討の許諾を求める これをたまたま政子が障子の影から立ち聞き(家政婦政子は見た)し、時政に連絡(*23) 時政はこれを理由に比企能員討伐を決め、自宅に呼び寄せた上で誅殺 と、「やられそうになったからやりかえした」的な理由を上げている(*24)。 (にしてもその対処はないだろ、と突っ込みたくなる所業だが) が、ここで話が終わらないのが鎌倉のサツバツ御家人。 能員に随行していた従者が逃げおおせた事で、比企一族は事態を把握。 前後策の協議か、はたまた応戦のためかは不明瞭だが、一幡が住む屋敷に一族で集結し立て籠もったのだ。 それを知った時政はその対応を「謀反」と断じ、討伐を決定。 義時を筆頭に配下の御家人に出動を命じ、戦力差も相まって比企の一族は悉く討ち取られた。 ――比企能員が時政邸に赴いてから、ここまでわずか一日足らず。 将軍外戚として権勢を誇った比企一族は、あまりにも呆気なく滅亡するに至った(またかい)。 ……が、この話、まだここでは終わらない。 それは、頼家と一幡の事である。 先の通り、比企一族は一幡の屋敷に集結し、討伐軍と応戦の末討ち死にした。 では、屋敷に住んでいた一幡(当時6歳)はどうなったかというと、 比企一族討伐の過程で命を落としている。 しかもその顛末も複数の話があり、 『吾妻鏡』では、 「義時を大将とする軍勢に攻められ、もはやこれまでと判じた比企側が屋敷に火を放ち自決」「一幡も炎の中に消え、着ていた服の一部が焼け跡から発見され死亡が確定した」 と書かれる一方、 『愚管抄』においては更に酷い話で、 「そもそも時政らは一幡を殺す目的で軍勢を送り込み、比企一族がそれに応戦した」 「一幡は母が屋敷から連れ出して逃走するも、数ヶ月後に義時の配下に発見され殺された」 という、最早救いもへったくれもない有り様。 ついでに言うと、しれっと義時が「直接的に介入している」事も留意すべき点である。 流石にこんなことをしては比企家の人間と夫婦関係を続ける訳にもいかず、戦後に姫の前と離婚。失意のうちに彼女は4年後、この世を去った。 ……だが、輪をかけて残酷な事態になったのは、頼家であった。 事の発端は8月に頼家が危篤に陥った事であるが、実はその後、奇跡的に回復を遂げている。 ただし、比企一族が滅亡した数日後に、であるが。 しかも、それに前後する形で鎌倉側は「頼家が病死したので次の将軍に千幡を据えたいのでよろしくお願いします」という通知を朝廷へ送っている。 この時点で頼家は危篤ではあったが生きていたのに、である(*25)。 オマケと言うかとどめと言うか、この「頼家病死につき将軍交代を願う」通知、なんと比企家討伐の前日、遅くとも当日早々に発送されていたと言う記録もある。 コレが正しいのなら、比企家の討伐と頼家の死亡届提出は、最初から既定路線だった事になる。 (死体蹴りにも程がある。いや頼家死んでないけど) 頼家からすれば、一時期意識不明で臥せっていた病床から目を覚ましてみれば、 「いいですか、あなたが眠っている間にあなたの舅とその一族は皆殺しになりました。そして妻とお子さんも巻き添えで命を落とし、将軍職は弟さんが継ぐ事が決定しました」 と、起き抜けに言われたようなもんである(*26)。 その後、一連の事態を知った頼家は当然大激怒。首謀者である時政の討伐を御家人達に命じる。 ……が、その命令に応じる御家人はロクに居なかった(*27)。 後見たる比企一族は既に亡く、将軍職も弟に移譲される事が決まってしまった現状では、もはや頼家に勝ちの目が無い事は、御家人の誰もが理解するところであった。 結局頼家は、有無を言わさぬ形で出家させられた上で、身柄を鎌倉から伊豆の修禅寺に移送される。 事実上の追放、そして幽閉という憂き目にあった頼家は、その翌年、失意の内に同地で没する事になる。 その死の顛末も、『吾妻鏡』では「死の報が届いた」、『保暦間記(*28)』では「入浴中に殺された」と簡潔に記すのみだが、 『愚管抄』においては「義時が送った配下によって暗殺された」と記されている(*29)。 とまあ、あんまりにもあんまりな展開ではあるが、騒動は決着し(また一人合議制のメンバーが減ったが)、鎌倉殿には千幡改め源(みなもとの)実朝(さねとも)が着任。 ようやく鎌倉も安定期に突入…… しなかった(やっぱり。) 比企の族滅以後、北条一族はその権勢を否が応でも増していく。 特に将軍外戚にして当主たる時政の勢いはめざましく、実朝がまだ若すぎる(就任時点でまだ11歳)事も手伝って、 将軍実朝の補佐という名目の下、鎌倉の政治を差配する立場になった。 この「鎌倉殿の補佐を直接的に行う」立場は、後年「執権(しっけん)」と呼ばれる事になり、鎌倉幕府の事実上のNo.2、御家人の中でも最高の地位を指すものとなった。 が、権力が強まれば強まるほど、周囲と軋轢が生じるのはどこも同じ事。 それは仲間や同僚のみならず、親族間ですら起こりうる。 比企能員の変から2年後の、1205年(相変わらず年代が近い)。 勃発した「畠山(はたけやま)重忠(しげただ)の乱」が、時政と義時親子の大いなる分岐点となる。 題に上った人物(つまり今回の犠牲者)、「畠山重忠」。 武蔵国(現在の東京・埼玉及び神奈川の一部)を治める御家人の一人であり、武勇の高さと人望などから「坂東武者の鑑」と称された傑物であった(*30)。 彼とその一族も梶原景時と同様、少し遅れる形で頼朝に臣従したが、鎌倉方の先陣として戦場に立つ武勇から頼朝からも信頼厚く、 「自分亡き後はその子孫を守護せよ」との遺言まで残されるほどだった。 頼朝の没後は北条氏と同調する立場を取り、先の二つの変においてもそれは同様だった(*31)。 が、比企一族滅亡後から、両者の関係は急激に悪化する。 背景には、重忠の勢力圏である武蔵国へ、時政が支配権を伸ばしてきた事にあった。 元々武蔵国は、朝廷から「国司」に任命された人物が支配する地域であった。 国司は同地に常任・常駐という訳ではなく、不在や空席の場合は在地の武将が管理を代行するのだが、 重忠はその代行職の内、武蔵国の武士団を統括する仕事を請け負ってきた。 一方、武蔵国の国司に当時任ぜられていたのが「平賀(ひらが)朝雅(ともまさ)」。 彼も重忠同様、時政の娘婿に当たるのだが、比企の一件の直後に京都守護の任も与えられ上洛。 その朝雅の職務代行を名目として、時政が武蔵国の行政権を掌握し始めたのだ。 とはいえこれは取っ掛かりに過ぎず、乱の契機は1204年。 将軍・実朝の妻をお迎えするべく、京へ鎌倉御家人の一団が到着した際の事。 その一団には重忠の息子・畠山重保(しげやす)が加わっていたのだが、到着後に開かれた酒宴において、臨席していた平賀朝雅と口論になった。 その場は取りなされたものの、後日朝雅はこの一件を時政とその妻・牧の方へ「重保から悪し様に言われた」と伝えたのだ。 加えて、京へ向かった一団には、時政と牧の方の嫡男・政範(まさのり)も加わっていたのだが、なんと在京中に急死してしまう。 愛息の死と、娘婿への誹謗の話。 この二つを同時に聴かされた時政と牧の方は「重忠ら畠山一族は謀反を企てているのでは」との疑心を抱き、加えて前述の武蔵国管理に関する対立も相まって、例の如く討伐を画策する(またかい)。 だが、父の判断に義時は反発。 弟の時房(ときふさ)(*32)と共に「重忠は謀反を起こす男ではない」と反対するも、父と義母に逆らいきれず最終的に同意。 更に時政の娘婿・稲毛(いなげ)重成(しげなり)が重忠の謀反を訴え出た(無論入れ知恵元は時政)事で、大義名分は成立。 畠山重忠とその一族を謀反人として討伐すべく、御家人が集結した。 まず、鎌倉にいた重保が「謀反人討伐の指令が下りたので集まるように」との命で呼び出されたところを誅殺される。 一方の重忠は、当時自領の武蔵国に居たが「鎌倉で騒ぎがあるのですぐ集まれ」との知らせを受け、130余りの手勢を引き連れ出発した。 だが二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区付近)に来た彼が見たのは、義時を総大将とした総勢1万近く(諸説あり)の軍勢。 事ここに至って全てを悟った重忠は、しかし逃げる事無く正面から戦う事を決意し、数時間にわたる攻防の末、重忠は討死。 (※なお、『鎌倉殿の13人』では、演じる中川大志の熱演や義時役の小栗旬の提案もあって、重忠最期の戦いは大河史に残る名場面となっている。詳しくは当該記事へ) 従った者も悉く斃れ、畠山一族は滅亡となった(何度目だよ)。 だが、この一件は義時にとっては甚だ不本意であったという。 義時は「重忠の手勢が少数であり、謀反を画策する程の人員を集めていない=重忠は無実である」という事を見抜いており、 実際多くの御家人は、重忠の謀反について疑惑が噴出し始めた当初から半信半疑だった。 にもかかわらず、半ば強引に事を進めた父に対して義時は対立を深め、一方の時政もこの一件で御家人達からの信頼を急速に失っていく事になった。 おまけにこの乱の直後、重忠の謀反を訴えた稲毛重成が「讒言によって畠山重忠を陥れ、死なせるに至った」との罪科を受けで誅殺されている。 お手本のようなスケープゴート、しかも暗に「畠山一族の討伐は間違いだった」と示すこの始末は、余計に時政への不信を周囲に抱かせる事になった(*33)。 そして、同年閏7月。 その後の義時の立場を決定づける「牧氏(まきし)の変」が起こる。 先述の通り、時政には後妻として迎えた女性がおり、この女性の出身が「牧」という家だった事からこの名がついた。 その名の通り彼女が犠牲になった……のではなく、犠牲となったのは、先ほども名前が出た時政の娘婿、平賀朝雅。 この人物、元を辿れば頼朝と同様源氏の主家の血を引く家系であり、源氏将軍家の一門を指す「門葉」に居並ぶ人物であった。 そんな彼を、なんと牧の方及び時政は、実朝の次の将軍に据えようと画策したのだ。 それも、実朝が就任してからわずか数年後のこの時期に。 ……要するに、「当代の鎌倉殿である実朝をその地位から追い出して、自分たちに都合のいい人材を後釜に据えようとした」のである。 「またかよ」と思いたくなる事態だが、輪をかけて問題なのは、 頼家の方はあくまで「将軍が病気になり、将軍を続けられるか分からなくなった」という大義名分があったのに対し、 こちらは現役バリバリで健康な実朝を、特に理由も無く地位から追い出すという、大義名分もへったくれもない身勝手なものだったのだ。 そんな謀反同然の行為に、他の御家人たちが従う訳も無し。 どころか息子の義時、そして娘の政子までも反旗を翻し、時政の邸宅に居た実朝の身柄を保護する措置に出る。 結果、完全に権威と信用を失った時政は、出家の後に故郷・伊豆国へ流罪。 妻も同様に伊豆国へ送られた。時政は以後鎌倉に戻ることはなく、生涯を閉じた。 そして、もっぱら京において朝廷との対応についていた平賀朝雅は、鎌倉からの達しを受けた西国の御家人により、謀反人として討ち取られた。 本人ほとんど直接何もしてないのに、哀れ。 父を事実上追放した義時は、その跡を継ぐ形で鎌倉殿の補佐役となり、将軍に次ぐ権力を持つ役職「執権」――すなわち、数多いる御家人の中でも、事実上最高の地位に就く事になった(*34)。 ――頼朝の挙兵から、およそ25年。 伊豆の豪族の若者は、ついに御家人の頂へと至った。 〇晩年期~三度の危機、そして最強の「朝敵」へ~ こうして、「執権」という事実上鎌倉幕府・坂東御家人の頂点に就くことになった義時であるが、 以降の彼が執権として強権を振るったり、権力をほしいままにしたり……といった行動を取ったことはそんなに無かったとされる。 例えば「自身の部下を御家人扱いにしてもらえないか」と実朝に求めるも、「道理に合わない」と論破されて却下されたり、 各地の守護を終身制ではなく交代制にしようとするも、有力御家人の大反発を喰らって断念するなど、 後世の「悪人」イメージの権力者が行いそうな、強権全開の政治を行ってはいなかったと見られている。 もっとも何も騒動が無かったかと言えば、そんな訳はない。 むしろ、鎌倉後期の仏教説話集「雑談集」にて「生涯、三度の難」と称されたほどの、人生最大級の騒乱の連発が義時には待ち構えていた。 (もう充分すぎる程あっただろ、とか言うのは禁句) 一度目の難の発端は、1213年。 「二代将軍頼家の遺児を担ぎ上げ、それを利用して義時を排除・打倒しよう」という御家人の企みが露見する。 主導者及び賛同者は悉くが捕縛されたのだが、その中には幕府草創期からの重鎮「和田(わだ)義盛(よしもり)」の子と甥も含まれていた。 補足:和田義盛とは 和田氏は元々相模国(現在の神奈川県付近)の豪族・三浦氏の分家筋に当たり、義盛は初代当主であった。 彼もまた頼朝の挙兵に呼応した者の一人であり、最前線で戦った有力御家人でもあった。 ちなみに、一次資料には登場しないために実在が疑われているが、世間一般では木曾(きそ)義仲(よしなか)の愛妾の女傑として有名な巴御前(ともえごぜん)に関して、 義仲没後に落ち延び、頼朝によって鎌倉に召された彼女を義盛が妻として迎えたという記述が『源平盛衰記』に存在する。 鎌倉幕府設立後は「侍所別当」と呼ばれる、各種警護や軍事面における最高指揮官としての地位に就き、 以後自身が没するまで(途中で梶原景時と交代する事もあったが)その地位に就き続けた。 また頼朝没後発足した「十三人の合議制」にもその名を並べ、 以後頻発した御家人間での騒乱においては、一貫して北条側としての立ち位置にあり続けた。 結果、多くの有力御家人が(主に)北条家によって族滅される中、義盛とその一族はその勢力を維持し続ける事が出来たのだが、 皮肉にもこうして「生き残ってしまった」が故に、北条一強体制となりつつある鎌倉においては数少ない「北条に抗しうる存在」として目立つようになった。 この事態に義盛は親族の赦免を将軍・実朝に懇願。 彼の長年の功績に免じて子供は赦免されたが、甥の和田胤長(たねなが)に限ってはそうはいかず、義時は彼を事件の張本人であるとして赦免を許可しなかったばかりか、 一族を引き連れ再度の嘆願のために御所に参じた義盛の前に、胤長を縛り上げた姿で引き立てるという行為に出る。 更には胤長が所有していた屋敷についても、義盛がその管理を任されたのだが、後になって義時はこれを却下して別の人間をあてがった(*35)。 義盛にしてみればこの一連の事態は「自身の面子丸つぶしの上に、一族を公衆の面前で侮辱された」という、義時からの明確な挑発行為に他ならず、 ついに一族を上げての挙兵を決心するに至る。世に言う「和田合戦」の勃発である。 和田一族のみならず、近縁や本家筋の三浦一族まで集めた義盛は、夕刻に義時及び大江広元(幕府中枢の御家人)の邸宅、並びに大倉御所(将軍の邸宅)を相次いで襲撃。 先の畠山重忠の乱とは異なる、鎌倉の中心地で市街地戦が展開されるという大騒乱が巻き起こった。 なお義時というと、和田一族蹶起の報が届くと、慌てず騒がず悠然と支度を整え御所に向かい、関係者の安全確保や護衛といった対処を指示したという(謀反慣れし過ぎじゃね?)。 一方の和田勢力はというと、御所に火を放ち警護の武士と交戦するなど攻勢を続けたが、 蹶起の直前に本家筋である三浦家当主・三浦(みうら)義村(よしむら)が翻意した事による兵力不足や、幕府側から続々と来る援軍も手伝って劣勢に陥る。 日暮れに合わせて後退した後、翌朝には再度の攻撃を仕掛けるも、他の御家人が幕府側についたことも手伝い敗北。 義盛らは討ち取られ、和田一族は滅亡。 騒乱は終結するに至った。 (はいそこ、またかよとか言わない) なお、発端である義時が義盛とその一族に向けた一連の挑発的対応の理由は判然としていないが、 もともと義盛が就いていた「侍所別当」の地位を合戦後に義時が自分のモノとしている事から、 自身の権力強化を図る義時が義盛ないし和田一族を暴走させるためにあえて仕掛けたのでは、とする意見もある。 またも御家人同士での激突、しかも今度は鎌倉中心地での武力衝突という大事件であったが、 この一件の決着は、同時に北条に対立し得る御家人が軒並み居なくなった事を意味した。 逆に言えば、これ以上の騒乱が起きる懸念材料もひとまずは無くなったという意味でもあり、 このまま鎌倉の情勢が落ち着き、安定した統治の末に次の代へ受け継がれていく……かと思われた。 しかし、二度目の難は、あまりにも突然に、そして想定外の方向から訪れた。 1219年、雪が降り積もる日。 三代将軍・実朝が、鶴岡八幡宮に参拝し帰途につこうとした、その時。 同地に身を置いていた先代将軍頼家の実子・公暁(こうぎょう)の襲撃を受け、実朝が殺害される事件が起こる(*36)。 現役将軍の暗殺、しかも実行犯はその甥である先代将軍の子(*37)、というだけで前代未聞を通り越した大事件だが、問題はもう一つあった。 というのも実朝、この時点で正室(当代の上皇との血縁者)と結婚してから十数年経っていたのだが、子供が一人も居なかった。 加えて側室も一人として迎えておらず、直系の子が誰一人として存在しない状態だった。 さらに、実朝以外に頼朝、あるいはその兄弟の血を継ぐ者が、過去の権力闘争と内紛によってほぼ死に絶えた状態になっていたため、 実朝が凶刃に斃れ、その下手人である公暁と関連を疑われた彼の兄弟(=頼家の子)も殺されてしまった時点で、 それは、初代将軍頼朝から受け継がれてきた源氏の棟梁直系の血筋が文字通り断絶した事を意味していた。 補足:頼朝の血脈 頼朝は正室・政子を含め、女性との間に何人かの子供をもうけていた。 また二代将軍・頼家にも同様に子供がいた上、そもそも頼朝本人にも異母弟がいた……のだが、各員の顛末を列挙すると、 ●頼朝の弟(鎌倉幕府成立時点で存命組) 源範頼:頼朝から反逆の嫌疑をかけられ追放。以後の消息は不明だが、誅殺説が濃厚 阿野全成:頼家の就任後に謀反の嫌疑を受け捕縛・誅殺 源義経:ご存知九郎判官。頼朝と対立した末に奥州で自刃 ●頼朝の子(実朝以外) 頼家:二代将軍。病床の間に起きた政変の結果、職を追われて憤死 大姫:木曾義仲の嫡男・義高と婚姻関係を結ぶも、頼朝の命令で義高が処刑されたことに悲観し、20歳で早逝(子は無し) 貞暁:政子以外の女性との間に生まれたが、それを知った政子の逆鱗に触れ、人目から隠すように育てられた果てに7歳で仏門入り。以後世俗からは断絶状態(勿論子は無し) 乙姫:頼朝の死から半年後、14歳で病没(独身) ●頼家の子 一幡:比企能員の変において、巻き添えを食う形で6歳にして死亡 善哉:父の失脚と死の後、出家し公暁と称する。そして実朝の暗殺を実行し、直後に討伐される 栄実:泉親衡に大将軍として擁立され、義時暗殺に加担させられるがこれがバレ、京都で幕府勢に襲われ自害 禅暁:公暁と同様に出家していたが、実朝の暗殺に加担したと嫌疑を受け、翌年に誅殺 鞠子:存命だが当時は独身。その後第4代将軍・藤原頼経の妻となり男児を妊娠するも死産に終わり、彼女自身も難産死してしまう ……うん、こ れ は ヒ ド イ しかも大半が鎌倉における権力闘争や騒乱が原因というあたり、因果は巡るにしてもアレすぎる話である。 無論、政子や義時を始め、実朝の周囲がその後継者問題に無頓着だったなどということはなく、 暗殺事件の前年頃から、朝廷と「上皇の皇子を将軍の後継として迎えられないか」と調整を始めていた。 その矢先の実朝の死を受け、鎌倉は急ぎ朝廷に先の要望を伝えるも、時の最高権力者・後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう)はこれに難色を示す(*38)。 それでもと再三要請すると、今度はその引き換えに自身の寵姫の領地における地頭廃止という、幕府にとっては到底了承できない要求を出したため、 義時は弟の時房に1000の騎兵を預けて京への交渉に向かわせるという強硬策に出る。 それでも話が進展することはなく、結局上皇から「皇子でなく摂関家(*39)からであれば後釜に据えても構わない」という妥協案が示され、義時らもこれを承諾。 摂関家の内、初代将軍頼朝との血縁関係がある「九条(くじょう)頼経(よりつね)」(*40)が新たな鎌倉殿に据えられることになった。 が、この時点で頼経は、2歳になるかという幼児。 当然政務なぞできるわけなく、そもそも将軍職を任ぜられる年齢でもないため、政子がその職務を代行し、義時が執権として補佐をする政治形態を取る事でひとまず決着。 これは結果的に「将軍は事実上のお飾りで、政治の実務は執権にて執り行なう」体制――「執権(しっけん)政治(せいじ)」と呼称される政治体制の始まりでもあった(*41)。 だが、この一件を契機に、元々微妙なバランスで成り立っていた朝廷と幕府の関係は急激に悪化する形となり、 実朝の死から2年後、それは義時の人生最後にして最強の刃――第三の難として振るわれる事になる 1221年5月。 後鳥羽上皇は催事を口実に京都近隣の武将・兵を招集すると、京に居る親鎌倉派を軒並み粛清。 続けて全国の御家人・守護・地頭に対して院宣を下した。 内容は「謀反人・北条義時を討て」。 かの有名な「承久の乱」の始まりである。 下した直後の京方では楽観視する者が多く、「義時に味方する者は千人も居まい」と言う者までいたという。 それほどまでに、当時の朝廷、そして上皇の下す命令は「絶対」であった。 加えて、確実に義時を打倒すべく、有力な御家人には個別で院宣を送るなどの手を打っていたため、その余裕もある種必然ではあった。 が、在京の親鎌倉派の生き残りが、辛うじて事態を鎌倉へ伝達する事に成功。 これを受けて警戒を強めた結果、朝廷から東国各地の御家人達へと送られた使者の捕縛にも成功した。 また、個別に院宣及び密書を受け取った有力御家人の一人・三浦義村(*42)は、これをそのまま義時ら鎌倉の首脳陣へ開示。 一連の事態は思いのほか早く鎌倉方に伝わる事になった。 とはいえ、事態は最悪に近い状況。 義時はかつての平家一門と同様の「討伐対象」となっており、下手な対応は義時どころか鎌倉全体が壊滅しかねない。 御家人たちは色めき立ち、一説では義時本人は自分が討たれる事も受け入れていたという。 が、そうはさせじと動いたのが、姉であり当時「尼将軍」の異名で呼ばれた政子。 動揺する御家人たちに対し、初代将軍頼朝の功績とその恩を訴え、上皇の軍を討つ事でそれに報いるようにと一喝。 鎌倉を守るために結集するよう呼びかけたのである(*43) ……追討対象は「義時個人」なのに、さりげなく追討の矛先が「鎌倉全体である」と誤認するよう誘導しているのは内緒。 とはいっても、ここで義時まで討たれてしまえば鎌倉が空中崩壊しかねないのでやむ無しともいえるが。 この説得により、鎌倉旗下の御家人は上皇との対決姿勢を鮮明にして結束する事になり、 更に首脳陣の会議の結果「京方の軍勢が此方に攻めてくるを迎え撃つ」のではなく、「御家人を総動員して京へと出撃する」という積極策を選択。 義時本人は鎌倉に留まり、息子である泰時や朝時、弟の時房といった側近らを大将とした軍勢を、東海道・東山道・北陸道の三方向から出陣させた。 この積極策は功を奏し、各地の武将・御家人達も鎌倉側に同調・合流する事で軍は膨れ上がり、最終的には総勢19万の大軍勢となっていた。 ちなみに義時、出陣に合わせて、先述の「京都から自身追討の宣旨を持ってくるも捕らえられた」人物に、返答の文を持たせて京都に返しているのだが、その内容は、 「私は今日まで上皇に忠義を尽くしてきたのに、今や罪人として扱われています」 「なので、弟の時房や長男の泰時を始めとした、19万の軍をそちらにお送りします」 「それでも考えが変わらないのであれば、私自ら20万の軍を率いてそちらに向かうので、そのつもりで」 といった感じ。この義時、煽りおる。 また、進軍に際しては「一人残らず、 山狩りしてでも敵を討ち取れ。功を急いで討ち漏らしたまま京に入る事の無いように」と、積極的かつ慎重な進軍を指示している。 もっとも義時自身、強気一辺倒というわけではなかったらしく、軍勢が鎌倉を発した直後、自宅に落雷が落ちて死者が出た際は「これは朝廷に逆らった自分と幕府が滅びる前兆か」と不安がったり、 泰時から「もし上皇自ら兵を率いてきたらどうすべきか」と問われて「その時はすぐさま武装解除し、下馬して降伏しろ」と返すなど、 承久の乱では積極策を採った義時であったが、彼個人としては当時禁忌とされていた「朝廷に弓を引く」行為に思う所はあった模様。 一方、先の返答文や各所の報告により、義時が討たれるどころか自分たち目掛けて軍勢が大挙して来ることを知った京側は大慌て。 急いで迎撃態勢を取ろうとするも、幕府の想定外の進軍速度から後手に回る形となり、集められた数は1万数千程と圧倒的に不利。 オマケに戦略ミス(*44)も手伝ってロクな迎撃が出来ない始末。 結果、幕府側はその悉くを撃破し進撃。 京側が最終防衛ラインとしていた京都・宇治川をも突破。 その日の夜には京へ鎌倉軍がなだれ込み、勝敗は決する事になった。 敗北が決定的となった後鳥羽上皇は、ここに来て義時追討の院宣を撤回し、全ては家臣らの謀議であると弁明する。 ……が、鎌倉で血で血を洗う権力闘争を繰り広げてきた義時に、そんな言い逃れが通用する訳も無し。 後鳥羽上皇は隠岐島へ、協力した順徳(じゅんとく)上皇は佐渡島へそれぞれ流罪、追討に反対していた土御門(つちみかど)上皇も自ら望む形で土佐国へ配流された。 後鳥羽上皇の皇子らも同様に配流され、さらに順徳上皇の息子たる当代の天皇は廃位され(*45)、 後鳥羽上皇の甥が新帝として建てられるなど、後鳥羽上皇とその一党は軒並み京から追われる格好となった。 もっともこれでもまだ「ゆるい」方で、上皇側に就いた公家や御家人たちへの処断は更に容赦がなかった。 武士たちは大半が斬首され、貴族も処刑や流罪、失職のオンパレード。 合わせて、彼らが持っていた所領もそのすべてが幕府に没収された上、鎌倉側の武士たちに恩賞として与えられる事になった。 更に京都及び西国の監視として「六(ろく)波羅(はら)探題(たんだい)」が設置されるなど、鎌倉幕府の影響力は京を含めた日本全域へ広がり、 同時に幕府と御家人――引いては「武士」という階級の有り様も大きく変動する事になった。 ……それは、絶大な影響力を持つ鎌倉の中心に居る義時が、文字通り日の本の中心的存在になっていることも示していた。 ――上皇が義時追討の宣旨を出してから、鎌倉の軍勢が京に辿り着くまで、その間わずか一ヶ月。 一介の豪族に過ぎなかった男は、ついに日の本の頂点に座する存在を墜とすまでに至った。 項目冒頭の一文は、『承久記』において、まさにこの勝利の報を聴いた際に義時が述べたという科白(*46)。 「自分が現世において受ける幸運は、上皇のそれに勝っていたのだ」という、彼なりの勝利宣言であった。 だが、乱からわずか3年後の1224年、義時は62歳でこの世を去る。 脚気と暑気あたりによるものとされるが、急死であったらしく、一部では毒殺説まで語られる事もあったという。 義時の没後、北条家の家督と政治的地位は長男の泰時が継承。 また、五男の北条政村は晩年、後の8代執権北条時宗(泰時の曾孫)の後見として7代執権を務める事になる。 以後、義時を祖とする「北条得宗(とくそう)」一門による鎌倉幕府の統治が進められていき、 その体制と栄華は1333年に鎌倉幕府が崩壊するまで、約100年以上に渡って続いていく。 ◆家族・子孫 両親・夫人 父は前述のとおり北条時政。母の名前は不明だが、伊豆の有力武士であった伊藤祐親の娘と伝わっている。 夫人のうち名前が残されているのは泰時の母である阿波局、比企朝宗の娘で朝時・重時らの母である正室の姫の前、 そして伊賀朝光の娘で政村らの母である継室の伊賀の方の三人。 姫の前は大変な美人であり、義時は恋文を1年以上送り続けるというストーカーじみた熱烈なアピールを行ったものの案の定一向になびかず、 見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁しない」という起請文を書かせて間を取り持ったという。 しかし、比企氏の乱の後に結局離縁することになってしまい、その後は京都で公家の源具親と再婚したことが記録に残っている。 一方、継室の伊賀の方は義時の死後、伊賀氏の変という事件を起こしたとされる。 彼女は兄の伊賀光宗、有力御家人の三浦義村と手を結び、息子の政村を執権、娘婿の一条実雅を将軍にしようとしたが、 不穏な動きを察知した政子に先手を打たれ、義村も不支持に回ったため頓挫。 政村は許されたものの、彼女を始めとする関係者は流罪となった……というのが事件のあらまし。 ただ、光宗らを始めとする伊賀氏が謀反に及んだという明言は『吾妻鏡』内に全くなく、関係者も比較的寛大な処分がされたため、 「自らの影響力の低下を恐れた政子が牧氏の変と同様の構図で伊賀の方らの勢力を削るために陰謀をでっち上げたのでは?」という説も有力である。 また、歌人・藤原定家の日記内に『承久の乱の首謀者の一人である僧侶、尊長が捕らえられて尋問を受けたとき、 彼は『早く首を切れ、さもなくば義時の妻が義時に飲ませた薬を使って自分を殺せ』と叫んで周囲を驚かせた』という記述があり、 上述の毒殺説の犯人ではないかという疑いもある。ただこちらも確たる証拠はなく、真相は闇の中である。 なお、義時の後を継いで第三代執権となった泰時の母、阿波局に関しては出自はおろか、生没年すら不詳と完全に謎。 義時の正室は前述の姫の前と伝わっているため、おそらくは側室であり、泰時は庶長子の立場であったと思われる。 彼女の詳細について、歴史学者で義時を主役としたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証も務めた坂井孝一氏は、 「証拠などは全くない、あくまで推論」として「源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないか」という仮説を唱えており、 これを受けてか、『鎌倉殿の13人』では八重(姫)が義時の最初の妻(=阿波局)になっている。 ちなみに、同じ時代を扱った1979年の大河ドラマ『草燃える』では、オリジナルキャラクターの『茜』が事実上阿波局の立場にあり、 「元々義時の妻だったが、頼朝に夜這いされた上に、その直後に泰時を妊娠してしまう」設定になっていて、泰時の実の父親が頼朝なのか義時なのかはぼかされている。 『鎌倉殿の13人』でも、金剛(泰時)を褒める際に頼朝が「ワシに似てないか?」と笑えないボケをかますシーンがあったが、『草燃える』の方はもっと笑えない設定であった。 子息 義時には多くの子息がいたが、ここでは子孫が鎌倉幕府の要職を歴任していくことになっていく人物5人を挙げておくことにする。 北条泰時 鎌倉幕府第三代執権で、義時の後継者。 戦国時代に至るまで武士の基本法として運用された『御成敗式目』を制定。寛大かつ質実剛健なその人柄は武士の鏡として後世まで評された。 ただし、『吾妻鏡』内の彼の供述には露骨な曲筆や顕彰も多いのは注意が必要。 もっとも同時代の公家などからも高く評価されており、優れた人物であったことは確かだと思われる。 北条家の主流となった得宗家は彼の子孫にあたる。 北条朝時 姫の前の子で、名越流北条氏の祖。 女性問題でやらかして実朝・義時の怒りを買い勘当されるという憂き目を見たが、 和田合戦で呼び戻され、そこで活躍したことで許される。承久の乱では北陸道の部隊を指揮して活躍した。 庶子である兄泰時に対し、正室の生まれである朝時は主流意識が強かったとされ、泰時が設置した評定衆を即座に辞任するなど対立的な関係だったとされる。 泰時の死の前後にもいくつかの暗闘があったという。 彼の子孫である名越流も得宗家とたびたび対立し、宮騒動、二月騒動などを引き起こす。そのため、執権や六波羅探題といった要職に就くものはいなかった。 娘の一人が足利氏に嫁ぎ、男子を出産。その子孫が室町幕府の管領家の一つ斯波家を興す。 北条重時 姫の前の子で、極楽寺流北条氏の祖。 六波羅探題を17年勤め、後に執権北条時頼の要望によって補佐役である連署に就任した。 民衆をいたわる「撫民」を政治の基礎とし、その姿勢は「御家人の政権」から「全国政権」へと変化した幕府の政治姿勢に大きく影響したとされる。 名越流と違って極楽寺流は得宗家と大きく対立することはなく、執権も北条長時をはじめ、極楽寺流から3人輩出している。余談だが、足利尊氏の高祖父である。 北条政村 伊賀の方の子で、政村流北条氏の祖。 伊賀氏の変でまつり上げられたものの、泰時の計らいにより許される。泰時でなければ即死だった その泰時の死後、後に第八代執権となる北条時宗が得宗家を若くして継いだ際には、中継ぎとして第七代執権に就任。 時宗が成長すると彼に執権の座を渡し、以降は連署として彼を支えた。 和歌や典礼に通じる教養人であり、京都の公家からも敬愛されたという。 北条実泰 こちらも伊賀の方の子で、金沢流北条氏の祖。 同母兄の政村と同様、伊賀氏の変では泰時の計らいにより許された…が、実泰はそれがかえって重荷になってしまったのか、 若くして病にかかってしまい、引退してしまうことになってしまった。 実泰の後を継いだ彼の子・実時は鎌倉北条氏を代表する文人として知られ、 所領としていた武蔵国金沢(現・横浜市金沢区)に収集した書物を所蔵した。これが金沢文庫の始まりである。 ◆功績と後年の評価 鎌倉幕府における支配体制、所謂「執権政治」の基礎を築いたのは紛れもない事実である。 義時以降、北条家は鎌倉幕府における中心的地位を独占し続ける事となり、その先駆けたる義時は北条家の始祖として顕彰される事になる(*47)。 人物面においても、近い時代においては高く評価されており、承久の乱の直後に生まれた日蓮僧侶(日蓮宗の開祖)は「嘘をつかない人」と文献に記した。 また業績面においても、鎌倉幕府滅亡後に室町幕府を築いた足利尊氏は、泰時と共に「その行いは近代の師であった」と評している。 加えて、各種文献において、彼が積極的に権力確保・収奪に動いたという記述はそこまで多くない。 主君たる源氏・将軍から実権を奪い取り、以降彼とその末裔が執権として鎌倉幕府を動かしたことから、野心的で冷酷な策謀家と認識されがちな北条義時だが、 実際のところ、彼にそこまで明確な野心や権力欲があったのかは定かではない。 少なくとも、晩年の少しでも野心を見せれば兄弟でも粛清した頼朝の近くに居ながら生き残った時点で、 頼朝が亡くなるまでは野心をさほど持っていないか、持っていても猜疑心に苛まれる主に見抜かれないほどに上手く隠していたのだろうと推測できる。 むしろ、なまじ頼朝に近い立場にいたばかりに、源氏や北条家、御家人や朝廷といった周囲の野望・行動に巻き込まれる形で関わってしまい、 それらから自分や家族、仲間と組織を守るために奔走し、時に武力と謀略を持って立ち向かっていった結果、 いつの間にか最高権力者の座に上り詰めてしまった、と言った方が正確ではないか……とする説もある。 だが一方で、「主君や同僚を次々と罠にはめて滅ぼしていき、最後には天皇家にまで弓引いた不忠者・策謀家」とする評価もまた古くから存在した。 そうした「義時の裏切り」を、最も早く最も体系立てて論述したのは、他ならぬ『吾妻鏡』である。 何しろ三代将軍・実朝の暗殺について、『吾妻鏡』は義時こそが暗殺の黒幕だとほのめかしているのだ。 実朝暗殺に関する『吾妻鏡』の記述について 『吾妻鏡』によれば、 「実朝が鶴岡八幡宮にいざ参詣するという際に、義時は急に腹が痛くなり、実朝と同行するはずだった自分の役職を別の実朝側近である源仲章に代わってもらった。その結果、実朝は仲章共々殺された」 としている。 しかし『愚管抄』では、「義時は実朝の命令もあって、最初から参詣しない役だった」とあり、「仲章は義時と間違えられて斬られた」としている。 さらに『吾妻鏡』には、この他にも「実朝が『自らが暗殺されること』を予期・確信し、遺言のような詩を残した」などと記されている。 これはいずれも、実朝暗殺を「歴史上の事実」として知る後世の人物があえて曲筆したと推測されるのだが、 問題はその曲筆が「急に腹が痛くなったなどと、子供騙しのような策略を義時が仕掛けた」と記述されている点である。 おまけに先述の遺言じみた詩も、「学問の神様にして怨霊」と謳われたかの菅原道真が、冤罪で左遷される際の詩のもじりである辺り、相当な意志もうかがえる。 少なくとも『吾妻鏡』の作者は、実朝暗殺の黒幕は北条義時、と見なしていたことになる。 実際の義時がどうであったかは別として、そういう記述がはびこるほどには、当時既にそういう見方が広まっていた事が読み解けるのだ。 その実朝が三代将軍となるきっかけになった、二代将軍・頼家が急病で倒れ、一時は危篤状態と見なされた時にも、 まだ頼家はもちろん、その後ろ盾の比企能員もまだ存命にも関わらず「頼家死亡につき弟に交代させる許可を」という公式嘆願書を出す辺り、 北条家が積極的に頼家から実朝への将軍交代を策謀していたのは間違いない。 そしてこれら北条家の策略に、その中核的メンバーである義時が全く関与していなかったというのは考えにくい(*48)。 畠山重忠についてその粛清には反対しながらも、死後にはその遺族に対して便宜を図ろうとはしなかったこと、 和田義盛を反乱に追い込むべくあからさまな挑発をしかけていることからも、義時は周囲に巻き込まれる形で状況に対処していただけでなく、 それが北条家のためか、鎌倉幕府存続のためかは分からないまでも、明確かつ作為的な何かを腹の内に抱いて行動していた証左と言える。 そうした明暗分かれる義時の評価は、時代が下るとますます暗い方へ傾いていく。 江戸時代においては、将軍家を筆頭とした「主君・目上に対する忠誠」を重んずる儒学思想が根づいたこともあり、 執権として政治を主導した行為が「主君たる将軍から実権を奪い取った」とみなされ、不忠の臣下として見做されるようになった。 さらに進んで時代が明治に移ると、承久の乱における「三上皇の配流と現天皇の皇位廃止」という処断が当時の尊王・皇国史観とモロにぶつかる形となった。 結果、江戸時代以前の好意的評価は消え去り、「非道の逆臣」「稀代の朝敵」として批判的に扱われるようになった。 この印象は太平洋戦争後も根強く残り続け、「冷酷無比な策謀家」のイメージが大衆に定着していった。 オマケに歴史教育において「鎌倉時代の北条氏の代表」と言えば姉・政子の名前が教科書に載る一方、 実際に政治を取り仕切った義時について記される事はほとんどない事も手伝い、その有り様や立ち位置、功罪が見直されるのは21世紀以降になってからであった。 だが、日本の歴史的に見れば彼の行い、特に承久の乱に勝利した事の影響は絶大の一言に尽きる。 それまでの「朝廷・公家>武士」という絶対的な上下関係・社会通念を、義時は乱の勝利によって完全にひっくり返す事に成功した。 この結果、日本における武家政権、ひいてはその頂点に立つ「武家の棟梁」は事実上の「日本の統治者」としての意味を獲得。 その構成員たる「武士」という存在が、以後の日本の歴史を作っていく契機となったのだ。 この状態は鎌倉幕府が滅んでも尚変わる事は無く、以後の室町時代から江戸時代に至るまで継続。 明治維新によって天皇を頂点とした新たな政治体制が形成されるまでの、実に約600年もの長きに渡って続いた。 しかもその明治においても、初期において政治に参与した者の多くが過去に武士階級であった以上、 義時の勝利は、今の日本を形作る上で決して欠かすことのできないターニングポイントであったと言える。 伊豆出身の豪族の次男坊から始まり、降りかかる火の粉を払い続け、あるいは振り巻き、いつしか日本の武家の頂きにまで辿り着いた男・北条義時。 彼が数多の犠牲と策謀、はたまた苦悩と選択の果てに築き上げた北条一族の栄華は、鎌倉幕府の終焉と共に歴史上から消え去った。 だが、彼が選び、歩み、そして踏み固めた道は、現代の日本を形作る上で決して欠かすことのできない礎となって、今日に至るまで存在し続けている。 ◆大河ドラマで北条義時を演じた主な俳優 西田敏行(新・平家物語) 松平健(草燃える) 小栗旬(鎌倉殿の13人)※主役 追記・修正は鎌倉の御家人の方々がお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 乙 -- 名無しさん (2022-10-31 00 03 47) 時政が義時を晩年失脚したとはいえ育て上げて義時自身も御成敗式目を作り上げた泰時を育てていたの見ると、主君というか幕府というみこしに乗っかっていたことで権威示してた頼朝って何だったんだろうと思う(頼家実朝の末路は言わずもがな、自身の血脈はあっさり断絶、全成の子孫の阿野氏は残っているとはいえ細々、最終的に河内源氏の嫡流というか本家は足利に持っていかれる) -- 名無しさん (2022-10-31 01 03 45) やたらカラフルですね -- 名無しさん (2022-10-31 01 07 23) 北条義時が好きなら永井路子の小説「炎環」は必読。大河ドラマ「草燃える」の原作なんだっけ? -- 名無しさん (2022-10-31 01 09 56) 鎌倉の将軍家は、朝廷と交渉役をやってたお飾りだったと思っている。頼朝はそれでも顔が利いたからよかったが、代がかわれば顔も聞きにくいだろうし、逆に朝廷に懐柔されかかったから、消されたのだと踏んでいる。「消したのが誰か」はともかくね。 -- 名無しさん (2022-10-31 01 29 36) 生きていたら嫡子頼家の政敵になる可能性もゼロとは言い切れなかった異母兄弟たちを朝廷に -- 名無しさん (2022-10-31 07 42 44) ↑続き圧力かけて始末した頼朝が北条一族の踏み台に自身や自身の子供諸共踏み台にされて、今度はその北条一族も同じ源氏の先祖を持つ足利氏の踏み台にされたという真の勝者というか鎌倉中心の関東での争いに限れば最終的な勝者は北条一族ではなく実は足利氏だったのではという -- 名無しさん (2022-10-31 07 46 41) 最初の上下2色になってるのちょいちょい見かけるが、読みづらいだけなんだよなマジで -- 名無しさん (2022-10-31 07 57 09) 誰でもいいからマーキングは統一してほしい。色のせいで台無しだ -- 名無しさん (2022-10-31 15 29 18) すごくよくわかりやすく書けていてとてもありがたいんだが目ェ痛い… -- 名無しさん (2022-10-31 15 44 46) 歴史苦手な自分が一息に読んでしまった。建て主に感謝。 -- 名無しさん (2022-10-31 19 59 39) 嫡子泰時は鎌倉幕府の祖廟として頼朝、政子、義時を事あるごとに参詣していたが、一方で祖父時政に関しては仏事すら行わず完全に黒歴史扱いしていたという -- 名無しさん (2022-10-31 20 02 51) 乙 改めて見ると地獄以外の何物でもねぇな? -- 名無しさん (2022-10-31 22 56 33) フィクションでの出番…ってなるとだいたい北条政子の出番が多くてあんま見ないかな? -- 名無しさん (2022-10-31 23 38 28) 意外と知られていないけど、足利尊氏の妻は北条氏(最後の執権の妹)。京の幕府、鎌倉府ともにその子孫が代々トップに就いたから、北条の血はそういう意味では長く続いていたりする。 -- (2022-11-01 18 53 26) これはあんまりにもアレだから教科書に載せれなかったのかな?それにしても最初のやつすごく怖い -- 名無しさん (2022-11-01 22 41 02) 朝敵になった中で真っ向叩き伏せて勝ったのはこの人くらい?後の尊氏(義満まで)はこっちが本当の天皇(北朝)と矛先反らすトリック使ってるし -- 名無しさん (2022-11-02 11 31 39) いやぁ読み応えあった。しかしまあ北条義時にこれまでライトが当てられなかったのも頷けるというか……エグいなぁ北条家 -- 名無しさん (2022-11-02 16 01 33) 鎌倉殿の13人以前の創作物だと、そもそも歴史ものでも戦国や幕末などに比べて鎌倉時代を扱ったものは少ない感じだし、あっても源平合戦や元寇なんかの方にスポット当たること多いからどうしても影薄くなるわなぁ。自分が知ってる奴だとコーエーの蒼き狼シリーズで日本の史実将軍として登場していることくらいか。 -- 名無しさん (2022-11-03 00 54 44) 色々と過少評価されがちだけど、頼朝すら越える大政治家じゃないかと思えるほどスーパードロドロ勝ち残って、朝廷も屈服するガチ天下人になったのは厳然たる実績だと思う -- 名無しさん (2022-11-07 02 07 16) ↑戦の総大将でバリバリ戦果上げたとかじゃないから地味になっちゃいがちなんだよね。知れば知るほど面白い人だと思う。 -- 名無しさん (2022-12-19 00 40 12) 実際大河以前だと泰時の父親程度の扱い多かったな -- 名無しさん (2022-12-20 16 37 59) 実質的な鎌倉幕府の二代目将軍 -- 名無しさん (2023-01-01 06 09 51) 間接的にとはいえ甥(姉の子)の頼家をタヒに追いやった感じとはいえ、その頼家が仮に有能な人物だったとしてもどの道末路変わらなかった言われてるし、寧ろ北条時政義時親子を念には念を入れて排斥しなかった頼朝のせいでもありそうな頼家の末路 -- 名無しさん (2023-04-16 21 03 19) 死に際して盛大な加持祈祷は行われたが「医者が派遣された記録」は無い。…怖いね -- 名無しさん (2023-05-22 17 19 17) 名前 コメント
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鬼丸(おにまる)は、天下五剣の一つに数えられる日本刀(太刀)。鬼丸国綱(おにまるくにつな)とも呼ばれる。 概要 鎌倉時代初期、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。刃長二尺五寸八分(約78.2cm)、反り一寸一分(約3.2cm)。鎌倉時代に入り、太刀の刀身の反りが大きくなり、またそれまでの太刀に顕著であった「腰反り」から刀身全体が均等に反っている「輪反り」(「鳥居反り」とも)へと移行した時期の太刀で、先代、また後代の「太刀」と比べても大きな反りを持つ。 作風は、地鉄(じがね)がよく約(つ)み、地沸(じにえ)付き、地斑映り(じふうつり)が立つ。刃文は沸出来(にえでき)の小丁子乱れで、腰刃を焼く。目釘孔は1つ。目釘孔上の棟寄りに「国綱」の二字銘がある。 鞘と柄(つか)の全体を茶色皺革(しぼかわ)で包んだ上に金茶色の平糸巻きを施し、鍔を黒漆塗の革袋で覆った「革包太刀」様式の拵(こしらえ)が付属しており、室町時代初期の製作と推定される。この拵の様式を特に「鬼丸拵(おにまるこしらえ)」と呼び、「革包太刀拵」の代名詞となっている。 伝来 「鬼丸」という号の由来は太平記に記載がある。それによると、北条時政が毎夜毎夜、夢の中に現れる小鬼に苦しめられていた。ある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は太刀国綱である。ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せない、早く妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言った。早速国綱を手入れし部屋に立てかけておいたところ、国綱が倒れかかって、火鉢の台に施された細工の首を切り落としたという。時政の部屋にあった火鉢の足は銀で作られた鬼の形であった。それ以来時政の夢に小鬼は現れなくなった。この事件によりこの太刀を「鬼丸」と命名したといわれている。 以来北条家の重宝であったが、北条高時自刃の後に新田義貞の手に渡り、新田義貞が討ち取られた際に鬼丸も鹵獲され、足利尊氏の下へ義貞の首級と併せて送られた。以後足利家の重宝として伝来し、その後は足利義昭より織田信長を経て豊臣秀吉へ伝わったという説と、直接秀吉へ贈られたという二説があるが、ともあれ秀吉の所有となり、後に本阿弥光徳に預けられた。さらに大坂の役の後に徳川家のものとなったが、徳川家康・徳川秀忠共にそのまま本阿弥家に預けたという。その後、後水尾天皇に皇太子が御誕生した節に御所に献上されたが、皇太子が崩御したので「不吉な太刀である」とのことで再び本阿弥家に戻されたという。 以後は京都の本阿弥家によって保管されていたが、第8代将軍徳川吉宗は本阿弥家に命じて江戸城に持参させたという記録がある。そして明治に至り、徳川家からも皇室からも所有権について明示がなされないことに困惑した本阿弥家が新政府に届け出、明治14年(1881年)に「後水尾天皇に献上されたものを徳川幕府を通じて本阿弥家に預けていたものである」として明治天皇の元に取り寄せられた。現在は御物として皇室の所蔵となっている。 なお、「天下五剣」のうち鬼丸国綱だけは御物であるために国宝及び重要文化財としての文化財指定を受けていない。御物としての性格上一般公開されることも少なく、書籍等に掲載される写真も数少ない機会に撮影されたものに限られている。 過去には以下の機会に一般公開されている。 「日本美術名宝展」(東京国立博物館・京都国立博物館、1986年) 特別展「日本のかたな」(東京国立博物館、1997)
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武将名 あわのつぼね 北条の妹 阿波局 統一名称:阿波局 生没年:不明~1227「ちょっと耳に入れて欲しい話が あるんだけどいいかしら?」北条時政の娘。源頼朝の異母弟である阿野全成に嫁ぎ、のち実朝の乳母となった。頼家の失脚後、実朝の将軍就任が確実になると、時政の妻・牧の方を危険視し、姉の政子に進言して時政邸から実朝を引き取らせるなど、警戒心が強かった。 勢力 蒼 時代 平安 レアリティ N コスト 1.0 兵種 弓兵 武力 2 知力 6 特技 伏兵 計略 守城の祈り(しゅじょうのいのり) 最も武力の高い味方の武力が上がり、敵にダメージを与えるたびに攻城ゲージを下げる 必要士気 3 効果時間 知力時間 Illust. ゆーれー 声優 村川梨衣 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 強化 3 +2 - - - 30.4c(知力依存0.4c) 対象がダメージを与える度に攻城ゲージを-0.5秒攻城ゲージ減少効果は重ね掛け可 (最新Ver.1.6.0A) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 所感 1コスト伏兵弓。 武力2のため伏兵解除後も戦力として期待できる。 計略は守城を意識した単体投げ強化。 乱戦や兵種アクションが敵攻城ゲージを下げるようになる。 武力上昇は低く、この1枚で城を守りきれるわけではないので主力計略は別途必要。 敵の知力次第ではあるが、攻城ゲージを巻き戻すことで守城部隊の城内回復の余裕が増え、ローテが幾分楽になるだろう。 なお、効果時間がかなり長いため蒼デッキでの士気あふれ対策にもなる。 解説 大戦シリーズにおいて 台詞 \ 台詞 開幕 私が出なきゃいけないわけ?しっかりしなさいよね、まったく… └自軍に蒼080_北条政子 お姉ちゃん、本当にやるの?危ないんじゃない? 計略 私の一族も、ちゃんと守ってよね └絆武将 私にはもう、あなたしかいないんだから 兵種アクション 撃ちなさーい! 撤退 いや~な予感 復活 危険は去ったようね 伏兵 あなた、やられちゃうわよ? 攻城 ここまでやれとは言ってないじゃない 落城 身から出た錆。いい気味よ 贈り物① ありがとっ。ちょっと面白い話があるんだけど、聞いてく? 贈り物② ありがと。でも今日は特に耳寄りな情報はないわよー 贈り物(お正月) 初凪なんて言うけど、今日は風が強いわね。……私はこっちの方が好きだな。 贈り物(バレンタインデー) はい、チョコレート。義理よ、義理!物騒な世だし、あなたに守って欲しくて…… 贈り物(ホワイトデー) ずいぶん律儀じゃない。あ、ありがと…… 贈り物(ハロウィン) ちょっとーぶらぶらしてないで飾りつけ手伝ってよねー 友好度上昇 危険は去ったようね 寵臣 - └特殊 - 」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら 贈り物の特殊演出 ① 対象武将:蒼080北条政子 会話武将 台詞 蒼080北条政子 最近の夢見はどうだ。登山、天変地異、変わった夢は見ないか? 蒼070阿波局 絶対教えない。お姉ちゃん、また私の吉夢を買って、自分だけ良い目見る気でしょう。 蒼080北条政子 そうか、残念だ。先日駿州で突風が吹いた時風神の姿を見たとの噂を耳に挟んだのだが…… 蒼070阿波局 うっ……分かったわよ、好きな夢でも何でも売ってあげるから、早くそれ教えなさいよ! 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 バレンタインデー台詞を追記 - 久我山八重 (2024-02-10 14 20 45) 正月贈り物台詞を追記 - 久我山八重 (2024-01-01 10 37 18) 撤退 つまらないわ。 復活 私が必要なんでしょ? - 楢崎お龍 (2023-09-26 21 51 15) 計略台詞(絆武将)、城門・落城台詞を追記 - 本渡楓 (2023-09-13 18 12 56)
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【名前】武藤刻定(むとう ときさだ) 【性別】男 【所属】魔術 【能力】『鬼切術式』 【霊装】『童子切安綱の贋作』 天下五剣の一振りである『童子切安綱』を精巧に模した刀 【能力説明】 『鬼切術式』 『童子切安綱』の持つ鬼を斬ったという伝承をシンプルに「魔を殺した」と解釈することで、斬撃に魔術やそれに類するものを斬って滅する効果を付加することが出来る。また他にも人が鬼を斬った伝承に由来する魔術を扱う。 『鬼切安綱』 渡辺綱が茨木童子という鬼の右腕を切り落とした伝承を基にした魔術。 「片腕を切り落した」とは「相手の戦力を半分にした」ことだとする解釈から、この魔術は刻定が斬った対象の持つ力を一時的に半減させる効果を持つ。効果は刀が相手にカスっただけでも発動し、また2回斬れば更に半分(1/4)、3回斬ればまた更に半分(1/8)と効果は重複していく。そして相手の持っている力とは単純な身体能力や魔力だけでなく耐久力や五感等かなり細かく設定する事ができ、また生物以外の物質や魔術等を斬った場合でも効果を発揮する。そして、半減させる力をより細かく絞れば絞る程この魔術の持続時間は伸びる(逆に言えば大雑把な設定だと、数秒~数分程度しか持続しない)。 ただし、この魔術自体には攻撃力は無く、また、この魔術を発動している間は刻定の持つ刀は切れ味が無くなるため(物体をすり抜けるようになる)、斬撃自体でも相手にダメージを与えられなくなる。そして、そもそも相手に斬撃を当てられるなら、この魔術を使わずに普通に相手を斬れば良い場合の方が多いため、総じて使いどころが難しい魔術だと言える。 『鬼丸国綱』 病に伏せていた北条時政が、病の元凶であった鬼が斬られた事によって快復したという伝承を基にした魔術。 ここで斬られる鬼とは人に病や災いをもたらす存在のことであり、それを基にしたこの魔術は斬る(というよりも刀に触れさせる)という行為によって対象の罹っている毒や病、呪詛、洗脳、幻術といった様な所謂「状態異常」全般を解除する効果を持つ。ただし癌の様に本人の体の一部を切除しなければならない病気には一時的な鎮痛程度の効果しかない。 また、この魔術も『鬼切安綱』と同じく発動中は刀の切れ味が無くなるが、こちらは鬼という病の元凶を斬って病を快復させたという伝承を反映させ、状態異常を斬って解除すると同時にその状態異常の元凶に斬撃のダメージを与える効果を持っている。例えば呪いを罹けられていた人間を斬って解呪した場合、その人間にダメージは無いが呪いをかけていた魔術師はまるで刀で斬られたかの様な傷を負う。峰打ちのように衝撃だけを与えることも可能。ただし、このダメージは元凶の者がある程度近くに居ないと発動しない(状態異常の解除自体は問題なく出来る)。 そして北条時政の鬼切伝説は刀がひとりでに動いて鬼を斬ったという物であるため、この魔術も刻定本人が状態異常に罹かった場合、彼が刀に触れているとき限定だが自動発動する。 『童子切安綱』 源頼光が酒呑童子という鬼の頭領の首を刎ねた伝承を基にした魔術。 源頼光ら討伐隊が酒呑童子を油断させるために、鬼と共に血の酒と人肉を食らった伝承を反映させ、この魔術は刻定が血の滴る人肉を口にすることによって発動する。この際、彼は自分の腕の肉をほんの少し齧って飲み込むことで魔術を発動している。 そして、この魔術は人肉を鬼達と共に食らったという伝承を「本来人間では絶対に勝てない筈の酒呑童子を打倒出来たのは、鬼の様に人肉を食らう事によって、源頼光自身も奴らと同じ鬼に成っていたからである」と解釈し、刻定の肉体を鬼に変化させる効果を生み出している。そのため、この魔術の発動中、刻定の皮膚は赤銅色に代わり、額からは一対の角が生える。また身体能力や五感、魔力が大幅に強化され、筋肉や骨格は鋼鉄を遥かに超える強度と、欠損した手足がすぐに再生する程の異常な治癒能力を持つようになる。また、この魔術の発動中は刻定の持つ刀は切れ味が大幅に上昇し、『鬼切術式』の出力も強化される。そしてこの魔術の発動中に対象の首を刎ねるという行為に成功した場合、対象の持つ能力や特性を全て無視して対象を殺す事が出来る。 しかし、強力な魔術である反面、その代償として消耗も大きく、また術者の精神までも鬼へと変化させてしまう危険性を持っている。そのため常人がこの魔術を使用すると、すぐに理性を失い、鬼に成り果ててしまうだろう。現在、刻定が曲がりなりにもこの魔術を安定して使えているのは彼の類まれなる血統と才覚、そして十年以上に渡る過酷な鍛錬によって培った彼の強靭な肉体と精神力あっての事なのである。 【概要】 魔術結社『陰陽局』に所属する魔術師。平安時代より時の権力者に仕え、魔を討伐してきたとある武家の末裔であり、彼自身も一族が長きに渡って研鑽してきた武術を高いレベルで習得している。性格は豪快で義理人情に篤い。また弱きを助け強きを尊ぶ高潔な武人であり、同時によく食べ、よく戦い、よく嗤う、まるで荒々しい鬼神の様な人間でもある。 そして、そうした二面性は彼の宗教観にも表れてり「善性も悪性も共に人間の性であり、故に人間は因縁(理由)さえあれば善行でも悪行でも行ってしまうものだ」という日本仏教的な思想を持っている。つまりは善人にも悪人にも、そうなるに至った様々な理由があるのだとする考えである。しかし、だからと言って彼自身は別に悪人を野放しにする様な人間ではない、むしろ人間の悪性に理解があるからこそ、自分がクソ野郎にブチ切れてソイツを一方的にぶちのめすこともまた人間の当たり前の性(その是非は別として)であるとする、ある意味清々しいほど便利な思考をしている。 戦闘では武術と魔術を織り交ぜて戦う典型的な前衛タイプ、その強さは肉体を魔術で強化せずとも羆を相撲で投げ飛ばし、強化有なら怪物じみた身体能力を発揮する。また決して脳筋というわけでもなく一般的な陰陽術であれば一通り習得しており、小技や絡め手を用いても戦況を動かせる狡猾さも持っている。 陰陽局の局員としては既に勤務10年を超えるベテランの一人であり局の若手からは良い兄貴分として頼られているが、言動がイケイケGOGO過ぎて周りの人間をしょっちゅう置いてきぼりにするため黒獅子雅からは朝倉俊介や寄城魅憑に並ぶ胃薬要員に数えられている。また一時期休職して数年ほど武者修行で世界中を回っていた経験からか良くも悪くも色んなところに友人や敵を作っているらしい。 【特徴】 28歳、身長:200センチ以上、体重:120キロ以上 見上げる程の長身と鋼のように鍛え上げられた肉体を持つ。容姿は無骨だが不思議と愛嬌があり、笑うと子供っぽい。また、なにげに名家生まれで育ちが良いせいか豪快な性格とは裏腹に、言動の節々に学と気品の様なものが表れている。 朝倉俊介に付けられたコードネームは「鬼切(オーガ・セイバー)」、何かそのまんま過ぎね? とツッコミを入れたら次の日から「絶・鬼神刀(エスパーダ・デル・オグロ・フォルティシモ)」と呼ばれるようになった。そんで、覚えづらいので速攻で「鬼切(オーガ・セイバー)」に戻させた・・・コードネームで呼ばれること自体は全然ウェルカムらしい。 【台詞】 「鬼とは魔であり神であり、そして己自身である・・・難しいだろ? まあ善悪の二元論じゃ中々表せねーもんなんだよ」 「もう少し体を鍛えたらどうだ? どんな大層な魔術だって術者が落とされたら意味ねーぞ」 「お互いに譲れねえもんがあるんだ、なら対話も説得も無粋だろ? どっちが我を通せるか、コイツ(刀)で語り合おうや」 【SS使用条件】 特になし