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9 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 50 06 ネタSS「憂鬱日本欧州大戦 -勝利への遠い道-」 欧州戦線で日英仏独の艦隊がソ連の軍港に殴り込みをかける算段をしている頃、日本にもソ連に対して攻勢するように英仏独から要請が来ていた。 欧州では、ソ連軍の猛攻によりマンネルハイム線が崩壊。VKT防衛線まで戦線が後退していた。ドイツはソ連との戦争が始まりフィンランドへ戦力を割けなかった。 フランスは内戦状態の上に、パリに大勢の官僚が残されたために政府や群中央の機能が大幅に低下しており、ドイツ同様フィンランドへの本格的な部隊派遣は不可能だった。 イギリスは、乾いた雑巾を絞るかのように国内のなけなしの部隊や航空機をフィンランドへ派遣していたが、その結果予備戦力が底をつきかけていた。 一応、英仏独共に100万単位で動員出来ていたが、肝心の兵器の生産が全く追いついていなかったのだ。特に重火器の生産が消耗に追いついていなかった。ポーランド戦で重火器の多くと装備の優良な部隊を失ったのと、世界恐慌時に日本(主に辻)が毟り取ったのが響いていた。 そのような状況から、欧州側は日本に極東で動くように働きかけていた。 「だからと言って、我が国はアメリカとも対峙する必要があり、ソ連への攻撃に使える部隊が少ない。それを理解していただきたい。」 「解っています。アメリカとは我が国から話を付けています。 それに、現在のアメリカ大統領は連合国側について暴利を貪りたいと考えているようです。そこをついてアメリカを牽制する予定です。 それから、イギリスは満州にビルマやマレーから部隊を派遣します。これらの部隊は軽武装ですが、アメリカへの牽制には十分使えるでしょう。」 「我が国もインドシナから部隊を派遣する。我が国が体制を整えるまでの間、なんとか極東にソ連の意識を向けさせて欲しい。」 近衛はイギリス駐日大使やフランス駐日大使、ドイツ駐日大使と首相官邸で会談をしていた。 英仏独は、極東で日本がソ連に攻勢を仕掛ける事を要請してきた。英仏はフィンランドでの劣勢を挽回するために、ソ連の意識を極東に向けさせたいと思っていた。 この時期のフランスは、パリで戦闘を行いながらフィンランドでも戦うという、厳しい状況であった。その上に、フィンランドへの補給はだんだん細くなり、継戦能力が低下していた。国内の混乱を鎮めるには、まずパリを取り戻した上で、生産計画や兵站や派遣計画、更には鉄道の運行計画なども作り直さなければならず、それにかかる時間は短くても4ヶ月だろうと見積もられていた。 10 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 52 40 「どうかね?」 判断に困った近衛は同席していた永田陸軍大臣に尋ねた。 「規模によっては可能です。陸軍としては10個師団は欲しいところですが。」 可能という言葉を聞いた大使たちは喜んだが、10個師団という言葉が出た途端表情が固まった。 「そ、それはいくらなんでも・・・。」 フランス大使が情けない声をあげた。実は、英仏共に出せる戦力はそれほど多くないのだ。イギリスはビルマとマレーから合計6個師団を、フランスは仏印から1個旅団を出すつもりだった。 イギリスは、世界中の植民地から装備が優良な部隊を根こそぎ欧州に移動させていた。その為植民地には重火器の乏しい軽歩兵師団や警備部隊ばかりしか残っていなかった。 更にそういった部隊も兵器の生産に合わせて欧州へと引き抜かれていき、今や2戦級3戦級の部隊ばかりが少数しか残っていなかったのだ。 そしてフランスはイギリス以上に状況は厳しかった。アフリカやシリアから植民地兵部隊を欧州へ送っているものの、その兵站は厳しかった。その上に自国の兵器生産が低調であり、フィンランドやドイツに戦力を送るのみならず、国境付近に部隊を集結しつつあるイタリアへも対処せねばなら無かったからだ。 そして、仏印ではタイが不穏な動きを見せている上に、ホーチミン率いるベトミンが武装蜂起しており、満州に部隊を派遣する事は難しかった。イギリスに尻を蹴飛ばされてようやく1個旅団を搾り出せたが、その為に蜂起を鎮圧するのに梃子摺る事になった。後に日本の仲介でタイとの緊張は緩和されたために、仏印軍はゲリラ戦で戦うベトミンと熾烈な戦闘が行われる事になるのだが、ここでは割愛する。 「10個師団あればソ連に攻め込めるのですね?間違いありませんか?」 「攻め込んで見せます。そして、我が軍の名誉にかけて結果を出して見せます。」 イギリス大使の言葉に永田は力強く答えた。 「よろしい。では10個師団用意しましょう。」 永田の言葉に納得したのか、イギリス大使は10個師団を用意すると確約した。 こうして、日本は極東で攻勢の準備をする事になった。 11 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 53 48 1941年2月下旬、アメリカのホワイトハウスを駐米イギリス大使が訪問した。訪問目的は、アメリカがしつこく迫ってきている物資や兵器の発注についてだった。 そしてイギリス大使はウィルキー大統領に対して、イギリスは物資や兵器を条件付で発注したい旨を伝えた。その言葉にウォレス大統領は一瞬驚いた後満面の笑みを浮かべた。 「ありがとうございます。それで、条件とは?」 「条件は3つかあります。1つは米ソ不可侵条約の破棄。もう1つはアメリカ内部の共産主義者の排除。最後の1つは対ソ戦に耐えられる十分な性能の兵器を開発することです。」 その条件を聞いたウォレスは難しい顔をした。 「1つ目の条約の破棄は、議会の承認が必要な為時間がかかります。何より条約を結んでから僅か1年での破棄となると・・・。」 「この3つの条件が認められない場合、発注は取り消しとなります。よろしいですかな?」 ウォレスは慌てて「努力しよう。」とだけ述べるに留まった。アメリカ経済はどん底の中にあり、ここでイギリスの発注を失えば、這い上がることすら不可能かも知れないのだ。また、何が何でも発注を取らなければ、ホワイトハウスから彼は叩きだされる可能性もあった。 一方でイギリスはアメリカよりは余裕があった。現状は厳しいが、フランスは最短で6月以降、長くても年内には復帰できるし、極東で日本が動けば欧州の圧力も減る。そして、欧州最大の工業国ドイツは着々と戦力を増強しており、カナダに建設中の大規模な工場群は今年の秋から稼動予定だった。 それ以外にも、オランダやベルギー等が兵器の生産や輸出を開始しており、チェコの工業力も連合国にとって重要な存在となっていた。今年さえ何とか乗り切れば、反攻に移れる算段はついていたのだ。 また、あまり期待はしていなかったが、アメリカがこちらの条件を履行出来れば、イギリスも約束は守るつもりだった。そうすれば、ソ連への反抗は現在の計画よりもよりスムーズに行えるだろうとイギリスは考えていた。 もっとも、アメリカが97jやⅣ号戦車(17ポンド装備も含めて)並みの戦車や、96式戦闘機やスピットファイヤ、Fw190と言った高性能な戦闘機等を開発量産できるのは、どう見積もっても1943年ごろになる見通しだった。 M4の開発さえ遅々として進んでいないアメリカには、これらのハードルはとても大きいものだとイギリスは考えていたのだ。 なお、共産主義者がパリで起こした蛮行の数々が世界中に報道され後に、ソ連と共産主義者への恐怖から、米ソ不可侵条約は破棄される事になる。 「残りの条件は飲めます。前政権はいざ知らず、私達は共産主義者の排除を進めていますから。」 「では、この情報をお役立てください。」 そう言って大使がウォレスに渡したのは、分厚い大き目の封筒だった。断りを入れて中身を見ると、中には書類が多数入っていた。それを取り出して読み進めていくウォレスだったが、読み進めていく内に肩が震えだしていた。 12 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 54 38 「ソ連に潜入した我々の諜報員が送ってきた情報です。前政権では数多くの共産主義者が出入りしていたようです。ソ連でもかなり評価されているようです。」 「ルーズベルトは政策がアカ臭いと思っていたが、これほどとは・・・。それにロングは何ていう事を・・・。」 書類に書かれていたのは、ルーズベルト政権とロング政権の元で働いていた者達の一覧だった。その中にFBIがソ連のスパイとして逮捕した者がいたために、ウォレスはこの一覧表が正しい事をすぐに理解していた。 そして、続いて読んだ書類にはロング政権時代にソ連に売却された工場や生産設備と機械、更には弾薬工場にトラック等がずらっと並んでいた。 「これは・・・本当なのかね?」 「事実です。諜報員から送られてきた写真でも、アメリカ製のトラックや工作機械が大量に使われているのが見て取れます。」 そう言って、大使はもうひとつ封筒を渡した。その中には多数の写真が入っており、確かにアメリカ製トラックがソ連の軍人と一緒に写っていたり、アメリカ製の機械をロシア人らしき男が動かしていたりしていた。 (この情報を使えば、民主党を完膚なきまで叩きのめせる。これで共産主義者は徹底的に排除できるだろう。問題は一覧にあった企業についてだが、ロングの命令で仕方なく従ったとすれば問題は無いだろう。) ウォレスはすぐさまこれらの情報がどれだけ自分達の立場を強化するのに使えるか計算した。 「ありがとうございます。条件については必ず履行して見せます。」 「頼みますよ。」 2人は笑顔で握手を交わした。 そして、ウォレス大統領は議会でイギリスから得たこれらの情報を公表し、ルーズベルトとロングそして民主党を徹底的に糾弾した。公表された情報の威力は絶大で、民主党は大量の離党者を出し、街では反共主義者が元大統領らやスパイ達の処断を求めデモを繰り返した。 一方で、ソ連に生産設備などを輸出した企業などへも批判が出たが、ロングの命令で仕方なくやった、という弁護によって、市民の怒りはロングへと向かう事になった。 更にパリの被害が報道され始めると、共産主義者の排除を求める声は次第に大きくなり、政府は徹底的な捜査を約束した。 だが、共産主義者を逮捕しようとしてFBIが攻撃を受けたり、追い詰められた共産主義者による武装蜂起が相次ぐなどしたために、軍まで投入する自体になり、アメリカ国民にソ連=共産主義者は敵という意識が根付く事になったのであった。 13 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 55 26 アメリカで民主党の権勢ががた落ちになり徹底的なアカ狩りが進んでいる頃、日本はとうとうソ連に対して攻勢に出た。 日本はウラジオストック攻略のために、海軍は戦艦扶桑、山城と空母飛龍、蒼龍を基幹とした艦隊を派遣しており、陸軍と海軍の航空隊と合わせて強力な砲爆撃を加えていった。 「もうウラジオストックにまともな戦力は残っていないんじゃないか?」 「いや解らんぞ?旅順要塞なんて28センチ砲しこたま撃ち込まれても陥落しなかったし、要塞砲は発砲してからようやく解る様な物もあるからな。安心して近づいたらズドンなんてごめんこうむるぜ。」 95式陸攻のコックピットで搭乗員達がウラジオストックの様子を見て、ああでも無いこうでも無いと、勝手な憶測を立てていた。 日本が攻勢に出始めて5日が経ち、ウラジオストックの軍港や軍施設は粗方破壊されていた。艦艇もこれまでの度重なる空襲で殆どが破壊されていた。 日本の攻撃はウラジオストックのみならず、ハバロフスクやナホトカ、ウスリースクに対しても行われており、それらは陽動だった。本命はウラジオストックであり、その他の根拠地から救援が向かわないように牽制していたのだ。 これまでも各都市やシベリア鉄道の駅や線路、橋梁に対して爆撃が行われてきたが、今回の爆撃はこれまでにないほどの大規模なものだった。 ソ連も迎撃機を出したがアメリカとの睨み合いから開放された日本軍機の方が数も技量も上で、日本軍の被害は思ったより少なくて済んだ。 ソ連は、日本軍とアメリカ軍とを睨み合いをさせる事で極東に配備する兵力を最小限に留め、その分を欧州に投入していた。最近はアメリカが連合国側につこうと躍起になっているため、危機感を覚えたソ連は増援を決定していた、だが、その増援が到着するのは4月中旬の予定であり、未だ極東に配備された兵力は少なく、日本は次々と戦果を上げていった。 なお、極東に配備された機体は旧式機が多く、戦車も軽戦車や不要の烙印を押された多砲塔戦車が主力であった。 日本陸軍の将兵は、欧州の激戦を聞かされていた為に、ソ連極東軍を次々と撃破出来た事に首をかしげる事になった。後に旧式兵器ばかりしか存在しなかったことを聞かされた彼らは、「俺の覚悟を返せ。」「97式無双とかこれなんて火葬戦記?」などと愚痴を言う事になるのだが、全く本筋には関係ないので省略する。 「ウラジオストックの軍事施設はほぼ潰しました。沿岸砲台も粗方潰しましたので、次の段階に移れるでしょう。」 「だが、要塞内に退避した兵員は無事だろう。」 「ですが、弾薬庫や重火器は殆どが破壊できたと思われます。士気も低下しているでしょうから、攻略は容易なはずです。」 東条はウラジオストック沖合いの輸送船の中で、参謀たちと最後の作戦会議をしていた。ウラジオストックはソ連の重要な軍港として発展してきたために要塞化され、攻略は慎重に行われていた。 数多くの要塞砲やベトンで防御された機関銃陣地や重砲など、多くの重火器で防御された要塞は徹底的な爆撃で破壊され、更に戦艦による砲撃で崩壊していた。 すでにウラジオストックの防衛力は無くなったように思えたが、巧妙に隠された要塞砲により扶桑が305mm砲弾を2発貰い小破した。だが、要塞砲はすぐさま上空で待機していた航空隊と、戦艦2隻による反撃により破壊されていた。 まだ隠された火砲や機関銃陣地が残されている可能性はあったが、グズグズしていると敵の増援が現れる可能性もあるので、不安はあるものの上陸戦をしかける事を決定した。 「では、明日に上陸を開始する。海軍にはその旨を伝えて支援を要請しろ。」 そして、ウラジオストック攻略作戦は第2ステージに移った。 14 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 56 17 ウラジオストック上陸戦は、やはり隠されていた野砲と重機関銃により、600名ほどの損害を出してしまった。すぐさま97式艦爆によって潰され、それ以降上陸はスムーズに進み、第1波の3個師団がウラジオストック上陸に成功した。 上陸後、日本軍は散発的な攻撃をしてくるソ連軍を撃退しながら、支配地域を拡大していったが、3日目には連隊規模のソ連軍との戦闘に入り、その相手に手間取っている間に周辺からソ連軍が集まってきてしまった。運が悪い事に生き残っていた戦車部隊も合流し、日本軍は苦戦を強いられた。 しかも、一部の部隊は市民を盾に突撃をしてきた為に、思うように反撃が出来なかった。 第2派で上陸してきた戦車師団がようやく到着し、一部が迂回して敵の後背に回りこみ、ソ連軍を包囲して何とか撃破出来たが、日本側は4000近い損害を出してしまった。 また、市民側にも多数の死者がでており、日本は急遽医療部隊を投入して、彼らの治療に当てた。その様子は従軍カメラマンがカメラに収めており、後に写真は世界中に広がる事になる。 「奴ら、自国民を盾にするとは、何て卑劣な連中なんだ!」 「それが共産主義者というものなのだろう。じっさい、パリでも似たような話が伝わってきている。今回は、我が軍のふりをして攻撃してくる者は幸いいなかったが、この先出てこないとも限らん。今後の検討課題だな。」 東条はソ連の非道に怒る参謀に、これからもこういった事は続くだろう事を告げた。 「奴らが非道だからと言って、我々も奴らと同じ事をするわけにはいかん。捕虜への対応はきちんとするように。」 「わかっています。」 「奴らが市民を盾にとって攻撃してくる様子は写真に取ってあったな。おかげで世界中にソ連の非道さを宣伝できる。」 東条は、今回のソ連軍の非道な行いを公表し、世界中に宣伝するよう指示した。 こうして、日本はウラジオストックを占領し、アルチョーム、ナホトカと周辺の都市を次々と攻略していった。しかし、ウスリースクにソ連軍が軍弾規模の部隊を集結させつつあり、これ以上の進撃は困難となった。欧州側から一部の部隊が増援に向かっている、という情報が齎されたのも進撃の中止に影響した。 だが、それでも連合国が殴られてばかりの存在では無い事を証明して見せ、クロンシュタット・レニングラード奇襲も合わせて、連合軍の士気を上げるのに役立った。 また、フランスも6月には体制を建て直し、ドイツ戦線とドイツ戦線でソ連軍に対して押し返しつつあり、反攻も時間の問題だと思われていた。 それと合わせて、共産主義者の非道さ、異常さが世界中に宣伝される事になり、連合国以外でも共産主義者狩りを積極的に行う国も現れ始め、戦局は連合国に優位に傾きそうに思えていた。 15 :Monolith兵:2014/07/22(火) 22 57 04 しかし、それは2つの報告によって覆された。 1つは、ソ連によるイラン侵攻である。イランは第2次世界大戦勃発以後、中立を宣言していた。イギリスは連合国への参加を求めたが、戦場にされる事を恐れて拒否した。ドイツを加えた会談でソ連に侵攻された場合にのみ連合国に入るという、フィンランドやトルコと同等の秘密条約を締結していた。 8月25日に突如、ギーラーン社会主義共和国とクルド人民共和国と名乗る武装勢力がイランからの独立を宣言。イランはそれを認めず鎮圧しようとしたが、ソ連は両国の要請の元にという建前で介入を始め、快進撃を続けた。イランは動員を進め、連合国に助けを求めた。 ソ連と傀儡国は、8月末にはイランを縦断しアーバーダーンまで進撃して油田を占領していしまった。イラン軍は、何とかそれを防ごうと努力したが、戦力差は圧倒的であり、イギリスの応援を何度も要請していた。 だが、イギリスは有力な戦力を欧州へ投入しており、僅かに残っていた軽歩兵師団も満州へ投入しており、インドには編成途上の部隊や警備師団くらいしか残っていなかった。 そのような状況だったので、イギリスが兵器を掻き集めて何とか3個歩兵師団を編成派遣した時には、既にイランは首都を制圧されソ連と講和していた。 イランは講和条約で、ギーラーン社会主義共和国とクルド人民共和国の承認、アーバーダーンの採掘権を求められたが、そのどちらも拒否した。イギリスの応援を期待しての事だったが、残酷にもイギリスにその力は無かった。 イランの返答を知ったソ連側は、アーバーダーンの油田を破壊し、傀儡国は再び戦闘を開始した。これにはイランも先の条件を飲まざる得ず、9月15日にはソ連に対して友好的中立な新国家イラン民主共和国が誕生した。 イギリスは一連の出来事をただ見ているしかできず、編成した3個師団を使ってもイラン国内に駐留するソ連軍15万を相手にする事は出来ず、イランの中立を再確認すると引き下がる他無かった。 そして、ソ連はイギリスの心臓ともいうべきインドへ一撃を加える事が可能となった。イギリスはこれに対抗するために、戦力をインドに割かなくてはならず、欧州への兵力の輸送は低調となった。 フランス植民地兵がその穴を埋める事になったが、重火器が足りずソ連に対抗出来る対戦車兵器も無いために、一時は盛り返していた連合軍は再び押し返されるようになっていた。 もう1つは、ソ連がイタリアと接触していることであった。 イタリアは、フランス内戦の際にボルドー政府軍への支援という名目で国境線に部隊を集結させていた。それを脅威と考えたフランスはすぐさま国境付近の部隊を増強し、最終的に40万もの部隊を展開させていた。 イタリアも対抗上部隊を増強し30万まで膨れ上がっていたが、これ以上の部隊の派遣はイタリアの国力から難しかった。そこに付け込んだのがソ連だった。ソ連はイタリアに支援を約束し、ソ連側での参戦を促した。 イタリアは悪名高い共産主義者からの誘いに何度も拒否したが、その間にも状況はイタリアにとって悪化しており、もはや開戦も時間の問題だった。フランスは火事場泥棒をしようとしたイタリアに心底怒っており、懲罰戦争を求める声も少なくなかった。 もはや、イタリアに選択肢は無いも同然だった。そして、第2次世界大戦は新たな局面へと進む事になるのであった。 おわり
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『ナチス?共産主義者?イラク人? 陰謀の渦中で活躍するスパイの物語。』 対象スキル なし スキル要求値 スキル上昇限界 知性要求値 5 読書時間 18分 意欲増減 +3 レシピ数 0 14/11/18 0.A
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基本説明 過去と未来。軍拡と軍縮。 大阪、京都、兵庫の近畿3大勢力の1つ。この中ではかなり安定した政治を持つ。ロマンを追い求めて朝廷と武士を再興するか、それとも大きな勢力である共産主義との道を歩むか。その選択は君にゆだねられている!] 歴史の概要 いにしえの時代から日本の都(みやこ)は長い戦いの時代によって荒廃した。明治維新によって首都としての役割も失い古都は古ぼけた歴史だけを残す観光地となった。 しかし日本海側最大の都市であることには変わらない。電子産業が発達し大陸を睨む海軍の拠点でもある。多くの人々が京都の隠された力に気が付いていない。 歴史的に特徴的な文化は京都人の深層から府の方針を大きく突き動かすだろう。 基本説明 国力 基本方針NF 政治 経済 生産 軍事対大阪戦 対兵庫戦 対紀伊半島陣営戦 千年の都(中道・ファシスト) AKAHATAルート 海軍について 国力 石油 アルミ ゴム タングステン 鋼鉄 クロム 民需 軍需 造船所 固有NF 初期政体 人口 安定度 戦争協力度 48 53 0 63 141 76 22 12 10 あり 中道 2.78M 66% 22% 勢力 イデオロギー 支持率 政変後の国名()内は漢字化MODでの名称 党首名 元首特性 京都府 民主主義 12% キョウト(京都) 山田 啓二 民意の代表(政治力上昇値+2%) 日本共産党京都委員会 共産主義 43% キョウト独立共産主義人民共和国(京都独立共産主義人民共和国) 金森 亨 京都御所 ファシスト 0% ミズホノクニ(瑞穂の国) 京都御所 街頭右翼(安定度-10%、日毎のファシスト+0.01) 京都府議会 中道 45% キョウト(京都) 山田 啓二 武家ルート(ファシスト) 武家政権(動員速度+10% 計画立案速度+7%) 公家象徴陛下ルート(中道) 象徴(政治力上昇値-10% 安定度+10% 月々の評価の改善+5%) 公家他皇族ルート(中道) 皇族(中核州での師団防御-10%) 公家立憲君主ルート(中道) 民意の代表(政治力上昇値+2%) 国民精神名前 効果 説明 自衛隊艦隊司令部 艦隊協調性+5%海軍指揮統制率+5%直衛艦防御+10% 舞鶴湾 造船所生産量+5% 関西広域連合 毎月の人的資源+5%消費財工場5%工場空襲脆弱度-15%無料の修理100%民需工場建設速度+10%産業研究速度+7%電子工学研究速度+7% 分権型社会への実現へ!!関西全体の広域行政を担う責任主体づくりを!!国の出先機関の事務の受け皿づくり!! 先端技術 電子工学研究速度+8% 京の着倒れ 徴兵可能人口7%同一イデオロギーによる月々の評価-10% 基本方針 対大阪、兵庫戦に備えた戦略を第一に考えるべし。 NF 政治 外向きの政策が多め。ファシストルートでは領土野心をむき出しに。朝廷ルートでは野心こそないものの、武士の力による強力な軍事力を本土で集中運用できる。 共産ルートは軍縮体制にあるが、改善は可能。十分に他の勢力と戦える能力はある。 経済 初期では8個の民需工場が使える。政策で消費財をちょっと減らして15個使えるようにしてしまえばよい。産業ツリーが結構工場が増えるものなので伸びしろはあるものの、意外と土地が少なかったりする。とりあえず軍需工場の建設に重視するのがおすすめ。 全国的に見ても資源がそれなりに出る上にバランスが良い。航空機か戦車を大量生産しない限りは資源には困らないだろう。 生産 工場、造船所がそれなりにあり、重戦車も生産可能だが、重戦車と対空砲は千年の都ルートの摂家師団専用なので共産ルートでは省いても構わない。また、民需工場と資源があるおかげで軍需工場もどんどん増えるので背伸びをしてみて駆逐戦車や自走砲を足すのも簡単にできる。造船所はあまり気にしなくてもよいが、仮に摂津・兵庫を攻略し、瀬戸内海に面した場合は大阪戦での活躍が見込めるため増産を視野に入れても良いだろう。 対大阪戦では戦闘機が必須となるので最初から惜しみなく生産すべし。大体5ライン以上は欲しいところ。要塞を建てたのに略爆で吹き飛んでは意味がない。 軍事 陸軍 編成 呼称 内容(戦闘) 内容(支援) 展開数 陸上自衛隊施設団 歩兵6 20 陸上自衛隊重迫撃砲部隊 砲兵2 自動車化歩兵2 偵察中隊 1 陸上自衛隊砲兵師団 歩兵10 偵察中隊 7 陸上自衛隊トラック師団 自動車化歩兵3 偵察中隊 2 人材 スキル 階級 名前 攻撃 防御 計画立案速度,最大立案 物資消費 特性 4 元帥 門脇 和洋 4 1 2 2 厳しい指揮官 2 元帥 まゆまろ 2 2 2 2 4 将軍 飯島 達也 2 3 2 2 歩兵士官 3 将軍 亀井 律子 2 2 1 3 兵站の魔術師 2 将軍 飯島 達也 1 1 2 1 丘陵の戦士 1 将軍 倉田 一 2 2 1 1 亀井 律子は見ての通りの女性自衛官で現在は1等陸佐、京都地方協力本部長を務めている。顔は林春平という脱税で終身刑に処された現代中国人男性であるが… 海軍 以下自衛隊所属 航空母艦1隻(DDH-182ひゅうが) 軽巡洋艦2隻(DDG-175みょうこう DDG-177あたご) 駆逐艦6隻(DD-118ふゆづき DD-130まつゆき DD-151あさぎり DE-232せんだい PG-325わかたか PG-827くまたか) 以下海上保安庁所属 軽巡洋艦1隻(だいせん) 駆逐艦2隻(みうら わかさ) 人材 スキル 名前 ダメージ 守備 退去中の艦隊速度,ポジション値 艦隊協調性 特性 嘘だろ!?と思うくらい不在、今後を待とう。 空軍 戦間期型戦闘機 99 初期の師団の大半が正面幅の小さい駐屯地部隊の編成なので普通科部隊への更新がおすすめ。物資は不足するが、工業力はあるので補充する時間はそこまで長くない。武士団と摂家師団は正面幅30台なので、減らすなり増やすなりお好きにどうぞ。僧兵は民兵だが師団を更新すれば問題はない。 対大阪戦 京都南部のインフラは意外と貧弱なので、兵力を置きすぎるもしくは要塞を建てると補給が不足するので、大変なことになる。よって、首都から前線への補給ルートの整備が必要だ。大体、首都から前線までインフラを6レベル以上まで確保しておきたい。 大阪の人的資源の制限をついた戦術を構築しよう(しかし時間をかけすぎると大阪の徴兵制限が解消されてしまう)。だが、大阪の初期兵力の大半は練度が最大の師団がおり、当然ながらそれと対峙することになるため、多少兵力が上回っていても抜けないこともある。さらに、京都軍の初期陸軍は戦闘正面幅が小さいものが多いので逆に負けることも十分にあり得る。既存の師団の更新も忘れずに。おすすめとしては摂家師団に自走砲を足すのが良いだろう。 大阪との県境に要塞をある程度建設するのも良いだろう。たまに、大阪が紀伊半島統一に乗り出すのでそれまでの間、持久戦に持ち込むことができる。ただし、戦略爆撃を受けないように制空権は確保すること。 進軍ルートとしては以下の画像の矢印の方向に進み、包囲を形成すると楽になる。大阪がAIだと兵庫にも兵を置くため、一筋縄ではいかないが、その分、包囲した時のダメージは大きい。 対兵庫戦 中央に山岳地帯があるので南部をぶち抜いてVPをとるべし。分裂後も意外と硬いので出し惜しみはしないように。 対紀伊半島陣営戦 大阪と同時に相手するのだけは避けること。戦争をしなければ情勢次第で味方につけることもできる。 紀伊半島は山越えが必要なのであまり油断して突っ込み過ぎないようにしよう。三重が陣営の盟主の場合は相手にしないで三重を降伏させれば終戦になる場合もある。 千年の都(中道・ファシスト) 武士団・僧兵・摂家のNFで師団がスポーンする。武士団は36幅の歩兵と砲兵。摂家は36幅の装甲混成師団となる。 また、武士キャンペーンや防人といった徴兵要員を大幅に増加するものがあるので見た目以上の人的資源を確保できる。 特に強力なのが三種の神器の効果の一つ「非中核州の人的資源+30%」。これとほかのNFを利用し、大阪戦に勝利すると、大規模徴兵でも2M近くの人的資源を確保可能。(下の図参照。)紀伊半島を統一し、兵庫南部を獲得すれば使用可能な総人的資源は5Mを超え、さらに、NF「朝敵宣言」で中部地方を支配下に置くととんでもないことになる。 AKAHATAルート まさかの軍事予算削減。政治ルートでこれを段階的に解除することが必要になる。明らかに大阪や兵庫と戦うのには力不足なので頑張るしかない。(特にAIだと普通に力負けする場面が多い。) 海軍について 空気。 近辺に有力な海軍勢力は存在しないため力を入れる必要性が今のところない。一応、NFでミサイル艇を召喚可能。数合わせにどうぞ。 名前 コメント
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合計: - 今日: - 昨日: - 六四天安門事件によせて 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)とは、 1989年6月4日に、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊が、 「中国人民解放軍」によって武力弾圧(虐殺が行われたとする見方もある)された事件である。 本年2009年6月4日(木)は、この20周年にあたる。 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)の発端は、当時、ソビエト連邦での ソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフが、共産党による一党独裁制が続いた中で言論の弾圧や 思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために 「ペレストロイカ」を表明し、同国の民主化を進める流れが、旧東側諸国の脱共産主義化を後押しした。 1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、 1986年5月に総書記の胡耀邦(当時)が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、 国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。 しかし、胡耀邦は鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派の策謀により失脚し、 その後、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、 2年後の1989年4月8日に出席していた政治局の会議上で心筋梗塞を起こし、そのまま帰らぬ人となった。 同国の民主化に積極的であった胡の死去は、中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる 胡の追悼集会となり、その後のデモ、ストライキ、座り込みなどの解決の糸口さえつかめないまま、 5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、党長老で事実上の最高権力者である 鄧小平を含めた会議が行われた結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定された。 戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が 北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、 人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。 その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、 人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする 学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、 その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した他、 装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[5]。 この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、 最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[6](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、 学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。 なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前後にからくも現場から撤収し、 支援者らの手引を受けて海外へ亡命した。 事件の起因となった胡耀邦は近代の中国民主化の父であるといえる。 事実、胡耀邦は1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、 ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、 共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。 更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、 外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。 今こそ、2009年6月4日(木)の、この20周年に向けて、 この胡耀邦を含めた「平反六四=六四天安門事件を再評価せよ」のメッセージを中華人民共和国に問いただすことは、 今後の中華人民共和国に対して、我々日本人が真の友人として諫言できる重要な節目でもある。 平成21年5月24日 FreeJapan0 ※参考引用以下より http //ja.wikipedia.org/wiki/六四天安門事件 http //ja.wikipedia.org/wiki/胡耀邦
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ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955) スペインの哲学者・思想家 保守主義 大衆の反逆 オルテガの著作 「大衆」の起源、行動、性質を書いた 「大衆」が当時のファシズム政権や共産主義をつくったのだとし、警鐘を鳴らした 大衆 (大衆の起源) 医療の発達等によってヨーロッパの人口は急増し、働き口をもとめて農村から都市へ大量の人口が流入した 農村ではローカルコミュニティに属していた彼らは都市では帰属する場所(トポス)をもたない根無し草となった また、都市での労働は代替可能、労働者は均質化される (大衆の性質) 他人と同じであることにいい気持ちになる 一方、他人と異なる人(小数派)、個性を抑圧する 自分の理性を過信し、他人の意見を取り入れることができない (大衆が生み出すもの) 多数派が正義の超民主主義 リベラル 西欧の30年戦争(カトリックvsプロテスタント)でうまれた「寛容」の原則を起源とする思想 敵や反対者の意見も認めて、話し合おうという姿勢 このような精神をもつ人のことを「貴族」とオルテガは定義している 超民主主義 「大衆」によって生み出された多数派が正義の超民主主義 大衆の欲望をみたしてくれる政党やみんなが支持する政党を大衆が支持することによってうまれる たとえば、ファシズムや共産主義 死者の民主主義 民主主義は現在、生きている人だけでおこなう多数決である 死者(過去生きていた人)がつくった慣習やしきたり、礼儀等をいま不都合だからといって全て壊してしまってはならない 保守主義 私たちの理性は不完全であるという考え方(懐疑主義)に基づく考え方 懐古主義とは異なり、過去を踏まえつつ少しずつ変えていこうとする立場のこと 啓蒙主義 理性によって完成された社会をつくることができるという考え方
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416 :ひゅうが:2013/08/05(月) 20 15 20 お詫びといってはなんですが、裏事情をちょこっと書いてみました。 ネタSS――「愛国者(笑)たち~提督たちの憂鬱×征途~」 ――某日 日本国 首都東京 内閣府 国家戦略総合研究局(総研) 「どうしてこうなった…」 「いやあ、そりゃこうなるでしょう。あの獅子吼には私も感動しましたし。」 「恥ずかしいからリピートやめろ!!」 こいつらは…と嶋田繁太郎――いや川宮哲也は頭を抱えた。 ニヤニヤ笑っているかつて辻正信と呼ばれていた男は、SONY製のブラウン管にあの「演説」の「祖国をひとつに!」の部分を映し出してなぜかうんうん頷いている。 「まぁまぁ嶋田さん。統一の立役者であるのですから注目は当然でしょう。それに、統一を見越して数十年前から準備を行っていた我々の働きがバレてますし過大評価も当然では?」 「よってたかって私に全部押し付けておいてよくそんなセリフがいえますね南雲さん。」 いやぁはっはっはとにこやかに笑うのは、かつて南雲忠一と呼ばれていた男。 彼は今は「統一戦争」と呼ばれることになったあの戦いで思う存分大型艦を指揮できたのがよほどうれしかったらしい。 それを整えるためにどれだけ苦労したのか知っているだろうに――と嶋田はジト目で周囲の「ご同類」たちを睨みつけた。 かつて東条英機だった元人民陸軍第32師団長は口笛を吹いているし、同じくかつて近衛文麿だった前日本社会国民党(北日本共産党から名称変更)総裁ははじめから話を聞いていない。 というか公開されたばかりらしいゴ○ラの最新作を涎をたらしながら見ている。 ほかにも、顔と姿かたちこそ変わっていたがこの都内に設けられた円卓会議場には嶋田と腐れ縁で結ばれた「頼れる仲間(笑)」が集結していたのだった。 北日本成立直後から暗躍していた辻あらため滝川NSD長官を筆頭に、人民軍の陸海空の将帥、香港経由で南北交易を成立させた国営企業群の長、若手改革派の経済官僚、人民大学の教授でもある文化人。 彼らが「青森記念親睦会」という秘密組織を北日本政府の黙認のもとで設立していたことは、今では南日本の多くの国民が知っている。 川宮家の出身地である青森県の『解放』を狙う革命的な会であるというのが設立趣旨だったが、実態は実に皮肉がきいている。 青森といえばリンゴである。 実際、会のシンボルもリンゴの木であった。そしてリンゴは「外側は赤いが内側は白い」のだ。 この事実が知られたのは、統一直後に北日本人民軍総参謀長だったエキセントリックな将軍(元富永恭次)が妙なポーズを決めつつ 「実は我々(北日本)は成立直後から統一目指して暗躍していたんだよ!!」 「な、なんだってー!?」 というやりとりを滝川(辻)の承認のもとやらかしていたからだったりする。 たちの悪いことにそれは事実だった。 ――北日本、日本民主主義人民共和国成立後、北日本では共産主義の夢がかなったことで先鋭化していた戦前からの共産主義者と、シベリアからとりあえず帰還を許された軍人たちや戦後日本において係累を失っていた人々が表に出ないかたちで対立していた。 ソ連軍の占領下にあるために共産主義という看板は下ろせないものの、いきなり条約破りをやって侵攻してきた挙句本土を占領するソ連軍への反感はぬぐいがたく存在していたのだ。 そんな中にあって、戦前からのつながりを有する人々は密かに結集。 特に、NSDこと国家保安省で頭角をあらわしつつあった滝川は旧朝鮮系の革新官僚(満州系は南の日本でのちに岸政権へと結実する)たちを組織化し、スターリン主義者へと変貌を遂げつつあった初代首相有畑角次を排除しようとする川宮勝二へと接近。 結果、北海道戦争以後に「リンゴのような社会主義体制」を構築してしまう。 川宮勝次は権力欲の塊ではあったがいい意味で俗物であった。 自分の権力が安泰であれば、そして社会主義体制という自身の夢が維持されている限りは部下の仕事に口出しはしなかったのだ。 さらに、日本人は本音と建前の使い分けにつけては1000年以上の歴史を誇る。 駐留ソ連軍は熱烈な共産主義者へと変貌を遂げた北日本に半ば満足しつつその戦力を順調に減らし、北日本軍は模範的なワルシャワ条約軍として増強され続けた。 417 :ひゅうが:2013/08/05(月) 20 15 55 自由を求めてデモを起こしてもベルリンやプラハのように鎮圧されるのは分かっている。 であるなら、粛々と来るべき機会を待つべきだ―― 独裁者である前に、スターリンの大粛清に憤る(日本人も多数行方不明になっておりその一人が彼の初恋の人物であったという)民族主義者であった川宮も基本方針には同意し、かくて「体制に文句を言わず順応するなら言論は基本的に自由」かつ「共産主義実現のために尽力はするがその方法について教条主義的でない」という奇妙な国家体制が北日本に成立する。 国民をまとめるのは強固な日本ナショナリズム。唱えるは平和。すべては人民のために。 唱える文句こそ東側諸国とは変わらないものの、口にする言葉の裏に刃を忍ばせているあたり北日本は戦前日本の正当な後継者であったといえるだろう。 そして、ブレジネフ時代が終わりを迎えるころ静かに胎動ははじまった。 辻の仕業であるのだが、この時代に「ソ連の経済破たんは不可避」の結論を導き出した北日本政府とその主流派を構成する人々は密かに準備を開始したのである。 成立したばかりの中曽根政権と接触し、継続的に接触を維持していた「裏口」を「正式な非公式外交ルート」へと格上げし同時に国営企業の統廃合と技術革新を中心にした経済改革を実施。 それと比例するかのように、反体制派への言論統制と政治収容所への収監者数を激増させていった。 「選別」がはじまったのだ。 モスクワはこの擬態にまんまと引っかかった。 改革派であるゴルバチョフ書記長が主導権を握りつつあったこともよい方向に働いた。 この流れを作ったのが滝川であり、実行したのが川宮(嶋田)であったのだ。 もっとも、レーガン政権の軍拡と国後島への米空母基地整備に伴い軍拡を要求する軍の一部を抑え込み、党のお偉方や下部組織あがりの過激派に対処するのに神経をすり減らしたことはまったく彼らの「前世」と変わりはなかったが。 そして、主流派一派は川宮勝次からあの遺言を引き出すことに成功する。 「日本を、再統一せよ。」 この一言ですべてが決まった。 資本主義者たちに技術戦争・経済戦争で敗北したことは残念である。 しかし分かたれた祖国と今の祖国は繁栄しつつあり、着実に未来へ前進している。 このうえは耐えがたきを耐え、子孫のために理想の芽を未来に残すべきだ。 数十年をかけて行われた意思統一の末、北日本政府は動き出す。 かくして、ベルリンの壁の上で人々が合唱する中で統一への胎動ははじまった。 頑なだった人々も、クレムリンから赤旗が下ろされる段におよびこれを容認。 反対する流れは滝川が全力で抑え込んだ。 一方で、無血開城を行ってはある程度舐められ、逆に全面戦争となれば恨まれることを再び国家のトップへたった嶋田(川宮)はよく知っていた。 だからこそ、真に共産主義の過激派である連中をひとまとめにし、あの「統一戦争」を演出してのけたのだ。 ――こうした流れは、南の日本国政府とアメリカ合衆国政府においてすでに大半が知られており、国民も大まかな概略は知られている。 外から見れば、「正確な現状認識に基づいて未来を見据え営々と準備を続けた一派」である。 評価されない方がおかしい。 だからこそ、日本国政府は彼らを放っておかなかった。 手元で動かすには彼らはあまりに劇薬でありすぎたのだ。 しかし放っておくわけにもいかない。さまざまな意味で。 これ幸いとばかりに辻(滝川)たちは動き、政府直轄機関として「会合」をこの東京に成立させてしまった。 (もちろん政府側の監視要員もいるが) 「ま、まぁ…そのうち冷めるだろう。そうなれば、安心して隠居生活を送ることができる――」 今は川宮と呼ばれる嶋田は周囲で自由を謳歌している「お仲間」を見回した。 一部がギャルゲーの元祖をやりつつ伝説の木の下で号泣しており、また一部は夕方のアニメを見ている。 またあるものは特撮映画のスポンサーが誰になるかで激論を交わしていた。 「まさかこいつら、カルチャー全盛期の日本を堪能できないのがいやで統一を推進したんじゃ…」 なぜか、その場の全員が沈黙した。 ――なお、このギャグのような光景は監視をしている側にとっては擬態としか思えないらしく日米両政府関係者の胃に多大な犠牲を強いることになっていることを付け加えておく。
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このまま黙っていては規制されます。 エロゲは嫌いだから。801に興味ないから。残虐ゲームはもうやらないから。 自分にはきっと無関係。 もしかしてそんな風に思ってはいませんか? 『政府がネトゲ、同人を弾圧した時、私は不安に駆られたが、 自分は同人オタではなかったので何の行動も起こさなかった。 その次、政府はガンダム、エヴァ、スパロボを弾圧した。 私はさらに不安を感じたが 自分はアニメを見ないので 何の抗議もしなかった。 それから政府はバイオハザード ドラクエ マリオ と順次弾圧の輪を広げていった。 その度に私の不安は増大したが それでも私は何も行動を起こさなかった。 ある日ついに 政府はワンピースを弾圧してきた・・・。 その日とうとうテレビ番組に規制がかかった。 そして私は一般人だった やっとのことで、行動に立ち上がった。 しかしその時はすべてが あまりにも遅かった』 この元になったマルチン・ニーメラー(1892.1.14~1984.3.6 ナチスドイツに抵抗した牧師)の詩 『ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、 自分は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが 自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった それからナチスは 学生 新聞 ユダヤ人と 次々に弾圧の輪を広げていき その度に私の不安は増したが それでも私は行動しなかった ある日 ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった だから行動に立ち上がったが その時はすべてがあまりにも遅かった』 遠い過去にあった悲劇が、いつの間にか私達の目の前に来ています。 それでも無関係だと言い続けますか? 見出しに戻る
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首都:北京 公用語:中国語(各省なまりあり。その他言語も含む) 世界最大の国民数の共産国家。 中国北方工業公司(ノリンコ)を抱える。ノリンコは世界各地に武器を輸出しており、問題になっている
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合計: - 今日: - 昨日: - 彼ら中国各地からチベット本土に派遣されてきた兵士や警官たちは,下級要員であっても愛国心の強い、人民解放軍や武装警察の中でも精鋭です。 徴用というより、むしろ自発的に任務に就くとみたほうが正解でしょう。 写真を見ても解るように、全員が若く、最新の装備をキッチリと身につけ、一糸乱れぬ行軍の様は、彼らの錬度と指揮の高さを表しています。 中国政府の、チベットでの統治が映像に撮られ、その様子が世界に配信され、チベット統治がゆるぎないものであるということをアピールするためにも、 チベット統治とは、中国の少数民族管理のお手本であらなければなりません。 中国の少数民族管理のその手法は、唯心的統治ではなく、唯物的統治であり、 中国要員にとってZD分子として中国に反抗するチベット人に対する感情は"敵"です。その敵を殴打することにためらう感情はありません。 そこに増派される中国人の要員は、中国共産党への忠誠心が高く、思想教育が徹底された番犬であり、 中国政府に歯向かうチベット人は人ではなく、家畜として扱われています。 例えて言うのならば、"牧羊犬と羊"の関係です。 彼ら中国の若い兵士や警官たちは、体制の側にいることが自己のアイデンティティであり、彼らにそれ以外の選択肢はありません。 かつてのナチスや軍国主義者のようなファシズムや、北朝鮮のような先軍政治が、中国の主流とならないようにするためにも、 チベット問題は、ハードランディングではなく、中国とその周辺諸国のためにもソフトランディングの良き先例とする必要があります。 中国の若い兵士や警官たちは、中国共産党の、心の被害者でもあります。 ダライ・ラマは、こういった中国の若い兵士や警官たちの心の救済も必要であるということを、中道路線で訴えているのであって、 先の欧州会議の演説(http //www32.atwiki.jp/freejapan/pages/22.html)における 『 恐怖と銃口の,統治下での・・・全体主義体制の欠陥』が、こういった目に見える事実なのです。 恐怖と銃口の,統治を実行する最前線の、中国の若い兵士や警官たちも、中国共産党の、心の弾圧を受けている被害者なのです。 ダライ・ラマから我々チベット支援者の中の「反中的なものだと感じる人たち」は誤解しているという指摘が、こういったことなのだと、 私は感じます。「チャンコロこのヤロー」では、 調和社会の実現は不可能だということです。 3月15日 freejapan0 ※ 補足しておきますが、自発的に任務に就くチベット本土に派遣されてきた兵士や警官たちには、 任期あけには、昇級であったり、農民出身であれば、『都市戸籍の取得』などの特典が得やすくなるようです。 ですから、出世欲にかられて任地で同胞でもない中国少数民族への厳しい統治は、 彼らの手柄であり、人間的思いやりとして、中国少数民族への弾圧に対する自らの暴力への自己嫌悪・・・ などの感情を、彼らに求めるのは無理でしょう。 ・・・なぐって「痛かったろうに、かわいそう」ではなく、「逆らえば殴られて当然!」 中国の長い歴史の中で、近世、やっと勝ち得た漢民族主導の政治体制が中国共産党の権力の正体です。 心の奥底に宿るのは、辛亥革命によって打ち立てられた、漢民族主体の大漢民族主義であり、 彼ら中国の兵士や警官たちは、中国共産党漢民族の権力の暴力装置としての機械です。 チベット問題の根底には、この中国の長い歴史の中での漢民族の被支配層としての精神的な鬱積が、 漢民族の増加ととともに周辺民族自治区への民族的浸透圧の強さとなってあふれ出していく・・・ 中国の漢民族統治(コントロール)の失政でもあります。 3月16日 freejapan0
https://w.atwiki.jp/peopleonstamps/pages/3055.html
Marcel Paul (1900/7/12 — 1982/11/11) フランスの労働組合指導者、共産党の政治家 ※Wikipedia日本版に記載なし。英語版による 最初の切手/出身国最初の切手(1992年、フランス発行)