約 44 件
https://w.atwiki.jp/nolnol/pages/8919.html
#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/otassya2/pages/7947.html
#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/aoari/pages/2955.html
#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shinsen/pages/8210.html
#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/195.html
トップページ>歴史>歴史学報 『歴史学報』99・100、1983.12 論文 金元龍「いわゆる「瓦質土器」について:原三国考古学上の新問題」 李鍾旭「新羅中古期の骨品制」 李乃沃「淵蓋蘇文の執権と道教」 李基白「新羅浄土信仰のふたつの類型」 金寿泰「統一新羅期専制王権の崩壊と金邕」 E.J. Shultz「韓安仁派の登場とその役割:12世紀高麗政治史の展開に現れるいくつかの特徴」 許富文「蜀漢の南夷経営」 全海宗「『魏略』と『典略』:その内容と年代に関する比較検討」 崔文衡「国際関係を通じて見た清日開戦の動因と経緯」 羅弦洙「北伐初期国民政府の対外関係の展開:2.5%暫定付加関税徴収を中心に」 趙承来「デイヴィッド・ヒュームの政治思想」 百輯紀念説林 李基白「歴史学会の昨日と今日」 李普珩「学会の草創期を回想して」 書評 金杜珍「李鍾旭『新羅国家形成史研究』一潮閣、1982年」 鄭杜煕「Edward Willett Wagner『The Literati Purges Political Conflict in Early Yi Korea』Harvard East Asian Monographs 58, East Asian Research Center, Harvard University Press, 1974」 黄元九「尹南漢『朝鮮時代의 陽明學研究』集文堂、1982年」 趙東杰「慎鏞廈『朝鮮土地調査事業研究』知識産業社、1982年」 劉仁善「Thomas Hodgkin『Vietnam The Revolutionary Path』New York St. Martin"s Press, 1981年」 林煕完「金栄漢『르네상스의 유토피아思想』探求堂、1983年」 盧明植「Emmanuel Le Roy Ladurie『Le territoire de l"historien』Paris Gallimard, 1973; 『The Territory of the Historian Eng. tr. Ben and Sian Reynolds』Hassocks, Sussex, England The Harvester Press, 1979」 『歴史学報』98、1983.6 論文 鄭璟喜「東明型説話と古代社会:宗教・社会的観点からの接近」 崔在錫「新羅王室の王位継承」 申虎澈「高麗時代の土地相続についての再検討」 池培善「吐谷渾と北朝との交渉について:北魏を中心に」 書評 李煕徳、朴漢済「洪承基『高麗時代奴婢制度』韓国研究院、1981年」 『歴史学報』97、1983.3 論文 李俊九「朝鮮後期両班身分移動に関する研究(下):丹城帳籍を中心に」 呉相勲「「太平経」と後漢道教運動の展開:道教成立史序説」 李永石「イギリス産業革命期の工場立法に関する一考」 李宗勲「ドイツ新保守主義理念の形勢と展開:1853-1933(下)」 書評 金相鉉「金杜珍『均如華嚴思想研究:性相融会思想』韓国研究院、1981年」 崔茂蔵「金秉模 編『亞細亞의 巨石文化』漢陽大学校出版部、1982年」 李宰「John Higham and Paul K. Conkin, eds., 『New Directions in American Intellectual History』Baltimore and London The Johns Hopkins University Press, 1979」 『歴史学報』96、1982.12 論文 徐栄株「広開土王陵碑文の征服記事再検討(上)」 尹炳喜「新羅下代均貞系の王位継承と金陽」 李英淑「朝鮮初期内命婦について」 李俊九「朝鮮後期両班身分移動に関する研究(上):丹城帳籍を中心に」 李培鎔「旧韓末イギリスの金鉱利権獲得についての諸問題」 陳慕徳「パロスのアルキロコス考」 李宗勲「ドイツ新保守主義理念の形成と展開:1853-1933(上)」 書評 金相洙「Lee, Yur-Bok『American Policy Toward Korea During the Sino-Japanese War of 1894-1895』Journal of Social Sciences and Humanities No. 43, The Korean Research Center, June 1976」 『歴史学報』94・95、1982.9 論文 金元龍「韓国先史時代の神像について」 金貞培「国家起源の諸理論とその適用問題」 趙仁成「崔致遠の歴史叙述」 李鍾旭「高句麗初期の地方統治制度」 李基東「新羅骨品制度と日本の氏姓制度」 李煕徳「高麗初期の自然観と儒教政治思想」 崔在錫「高麗時代の親族組織」 秦星圭「圓鑑録を通じてみた圓鑑国師冲止の国家観」 崔甲洵「明清時代宗教結社の「三陽」説」 金鎮京「ソポクレスとアテナイの政治」 洪致模「バーコンの「新アトランティス」:科学的ユートピア」 羅鍾一「17世紀危機論と韓国史」 安允模「ニューディール救済政策、1933-39:貧困退治政策を中心に」 李普珩「1960年代のアメリカ小考」 『歴史学報』93、1982.3 論文 吉煕星「知訥の心性論」 尹煕勉「韓百謙の「東国地理誌」」 許勝一「レピドゥスとアントニウスの提携」 李敏鎬「組織資本主義論:比較社会史研究のためのモデル」 李相信「歴史学と社会学の相互補完の可能性と限界」 書評 金貞培「申瀅植『三国史記研究』一潮閣、1980年」 千寬宇「朴永錫『韓民族獨立運動史硏究 -滿洲地域을 中心으로-』一潮閣、1982年」 林煕完「Paul K. Conkin and R.N. Strom-berg『The Heritage and Challenge of History』New York Harper Row, Publisher 1975」 『歴史学報』92、1981.12 論文 李賢惠「馬韓小国の形成について」 崔起栄「光武新聞紙法に関する研究」 崔文衡「列強の対韓政策についての一研究:壬午軍乱と甲申政変を中心に」 金栄漢「ベーコンの方法:その意義と限界」 説林 崔夢龍「都市・文明・国家:アメリカ考古学研究の一動向」 書評 金杜珍、曺永禄「李基白 編『高麗光宗研究』一潮閣、1981年」 『歴史学報』91、1981.9 論文 高惠玲「李仁任政権についての一考察」 申虎澈「朝鮮後期火田の拡大について」 朴容玉「東学の男女平等思想」 慎鏞廈「朴殷植の歴史観(下)」 書評 金源模「Robert R. Swartout, Jr., 『Mandarins, Gunboats and Power Politics Owen Nickerson Denny and the International Rivalries in Korea』Hawaii, The University Press of Hawaii, 1980」 尹世哲「Lin Yü-sheng(林毓生)『The Crisis of Chinese Consciousness -Radical Antitraditionalism in the May Fourth Era-』The University of Wisconsin Press, 1979」 『歴史学報』90、1981.6 論文 金杜珍「均如の「性相融会」思想」 南都泳「旧韓末の明進学校:最初の近代式仏教学校」 慎鏞廈「朴殷植の歴史観(上)」 崔文衡「ロシアの太平洋進出企図と英日の対応:1860年~1900年の不凍港獲得活動を中心に」 書評 李萬烈「韓永愚『朝鮮前期史学史研究』ソウル大学校出版部、1881年」 金栄漢「R. S. Sylvester and G. P. Marc" hadour, eds., 『Essential Articles for the Study of Thomas More』Hamden, Connecticut, 1977」 『歴史学報』89、1981.3 論文 盧爀真「石溝石斧についての一考察」 金龍徳「部曲の規模と部曲人の身分について(下)」 李貞一「元均論」 朴永錫「石洲李相龍研究:臨政国務領選任背景を中心に」 林煕完「ゲラード・ウィスタンリー(Gerrard Winstanley)の思想論争」 李光周「ヘルダー(Herder)と文化的民族主義」 書評 李往郢「盧明植『프랑스 혁명에서 빠리 꼼뮨까지(1789~1871)』까치글방、1981年」 申澄植「李墓東『新羅骨品制社會와 花郎徒』韓国研究院、1980年」 権重達「杜維運『史学方法論』臺北, 華世出版社、1979年」 『歴史学報』88、1980.12 論文 姜仁求「扶餘堂山の石棺墓」 金龍徳「部曲の規模と部曲人の身分について(上)」 閔成基「李朝犁についての一考察(下)」 資料 桂勲模「司馬榜目総録:附司馬試設科年次」 書評 金萬圭「金漢植『實學의 政治思想』一志社、1979年」 李基白「金海宗『東夷傳의 文獻的 硏究』一潮閣、1980年」 呉麟錫「李仁浩『러시아 知性史 硏究』知識産業社、1980年」 『歴史学報』87、1980.9 論文 白弘基「江原道東海岸の櫛文土器文化:その伝播問題を中心に」 金龍善「高句麗瑠璃王考」 崔在錫「朝鮮時代の養子制と親族組織(下)」 宋俊浩「韓国における家系記録の歴史とその解釈」 閔成基「李朝犁についての一考察(上)」 説林 趙仁成「慕本人杜魯:高句麗の殉葬と守墓制に関する一検討」 書評 文明大「安輝濬『韓国絵画史』一志社、1980年」 洪致模「羅鍾一『英国近代史研究』ソウル大学校出版部、1979年」 『歴史学報』86、1980.6 論文 李鍾旭「新羅帳籍を通じてみた統一新羅の村落支配体制」 金甲周「朝鮮後期の養戸(下)」 崔在錫「朝鮮時代の養子制と親族組織」 説林 金鎮京「ヘロドトス論添補:池東植教授に答える」 討論 金光洙、李泰鎮、崔弘基、兼若逸之、李鍾旭「正倉院発見新羅村落文書について」 『歴史学報』85、1980.3 論文 李基東「新羅下代の王位継承と政治過程」 金甲周「朝鮮後期の養戸(上)」 朴容和「ロビンソン(J. H. Robinson)の知性史の理論とその実際」 李仁浩「ソ連の政治と歴史学の関係(下)」 説林 Edward W. Wagner「政治史的立場からみた李朝士禍の性格」 書評 黄元九「『金海宗博士華甲紀念史學論叢』一潮閣、1979年」 『歴史学報』84、1979.12 1976-1978年度韓国史学界の回顧と展望 梁秉祐「歴史理論」 1976-1978年度韓国史学界の回顧と展望:韓国史 李基白「総説」 崔柄憲「古代」 李煕徳「高麗」 李範稷「朝鮮前期」 韓栄国「朝鮮後期」 金敬泰「近代」 1976-1978年度韓国史学界の回顧と展望:東洋史 李能範「総説」 李成珪「先秦・秦漢時代」 金稔子「魏晋隋唐」 申採湜「遼宋金元」 呉金成「明清」 李炳柱「近代以後」 1976-1978年度韓国史学界の回顧と展望:西洋史 盧明植「総説」 池東植「古代」 朴成寿「中世」 洪致模「近世:イギリス史」 李柱郢「近世:アメリカ史」 李敏鎬「ドイツ史・其他」 元哲「最近世」 1976-1978年度韓国史学界の回顧と展望:考古・美術 金元龍「総説」 黄龍渾「旧石器時代」 金秉模「新石器・青銅器時代」 姜仁求「歴史時代」 鄭永鎬「美術史:三国・統一新羅」 崔完秀「美術史:高麗・朝鮮」 『歴史学報』83、1979.9 論文 金塘澤「李義旼政権の性格」 金炅賢「キケロのローマ共和政守護政策:Concordia Ordinumを中心に」 李仁浩「ソ連の政治と歴史学の関係(上)」 討論:新発見史阿木景徳王代華厳経写経 黄寿永「[主題発表1]新羅景徳王代の白紙墨書華厳経」 李基白「[主題発表2]新羅景徳王代華厳経写経関与者についての考察」 李基東、閔泳珪、黄寿永、李基白、安啓賢、崔完秀、崔柄憲「討論速記録」 資料 全海宗「三国志・後漢書東夷伝記事対照」 『歴史学報』82、1979.6 論文 李基東「新羅花郎徒の社会学的考察」 金鎮京「アイスキュロスとアテナイの政治」 羅鍾一「イギリス革命における宗教と政治:長期議会の長老派と独立派を中心に」 李宰「バード(Charles A. Beard)の「アメリカ憲法の経済的解釈」に関する再検討」 吉玄謨「歴史学と社会科学」 説林 鄭杜煕「広開土王陵碑文辛卯年記事の再検討」 書評 中採湜「梅原郁 編『続資治通鑑長編人名索引』同朋舍、1978年」 洪致模「David Stevenson Newton Abbot『The Scottish Revolution 1637-1644 The Triumph of the Covenanters』David Charles 1973」 『歴史学報』81、1979.3 論文 金龍善「蔚州川前里書石銘文の研究」 崔在錫「朝鮮時代の族譜と同族組織」 韓栄国「朝鮮後期の雇工:18・19世紀大邱府戸籍からみたその実態と性格」 朴恩駒「ハリントン(J. Harrington)のオーシャナ(Oceana)考」 説林 金元龍「高句麗壁画古墳の新資料」 書評 李基東「李基白『新羅時代의 國家佛敎와 儒敎』韓国研究院 韓国研究叢書 35、1978年」 全海宗「『韓中日関係資料集 Ⅰ, 二十五史抄』檀国大学校附設東洋学研究所、1977年」 呉麟錫「Eugin N. Anderson Pauline R. Anderson『Political Institution and Social Change in Continental Europe in the Nineteenth Century』Berkeley-Los-Angeles, University of California Press, 1967」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120 121-140 141-160 161-180 181-190 191-200 201-210 211-220 221-230
https://w.atwiki.jp/yugio/pages/10940.html
アンドレ(アニメ) ●一角獣のモンスターを中心に構成された「除外シンクロデッキ」 ●獣族を中心とした速効パワーデッキ 使用カード サンダー・ユニコーン(アニメ) ナチュル・ガオドレイク(OCG) 百獣王 ベヒーモス(OCG) 虚栄の大猿(OCG) 森の番人グリーン・バブーン(OCG) 異次元の一角戦士(OCG) 一角獣の使い魔(OCG) おとぼけオポッサム(OCG) 素早いモモンガ(OCG) モノケロース(OCG) ユニバード(アニメ) 異次元のバリア-ロスト・フォース(アニメ) 次元均衡(アニメ) 神事の獣葬(アニメ) ディメンション・トラップ(アニメ) 闘争本能(OCG) パラレル・セレクト(アニメ) 魔法の筒(OCG) マジック・マイン(アニメ) 野生の咆哮(アニメ)
https://w.atwiki.jp/1548908-tf6/pages/494.html
アンドレ:クロー・オブ・サンダー 攻略 ※チェック待ち。 合計40枚+15枚 上級04枚 虚栄の大猿×2 森の狩人イエロー・バブーン×2 下級16枚 異次元の一角戦士 一角獣の使い魔×3 エレファン×2 巨大ネズミ×3 ダーク砂バク 魂を喰らう者 バズー×3 モノケロース×2 ユニバード 魔法12枚 異次元隔離マシーン サイクロン×2 死者蘇生(D) スケープ・ゴート(D) 魂の解放 月の書 ハリケーン ビーストレイジ ブラック・ホール ユニコーンの導き×2 罠08枚 次元均衡×2 聖なるバリア-ミラーフォース-(D) 闘争本能 パラレル・セレクト ビーストライザー 野生の咆哮 リビングデッドの呼び声 エクストラ15枚 サンダー・ユニコーン×3 Cドラゴン×3 ナチュル・ガオドレイク×3 ボルテック・バイコーン×3 ライトニング・トライコーン×3
https://w.atwiki.jp/1548908-tf6/pages/421.html
アンドレ:スピアー・オブ・サンダー(パートナーデッキ) 攻略 ※チェック待ち。 合計40枚+15枚 上級02枚 虚栄の大猿×2(お気に入り) 下級19枚 X-セイバー エアベルン×3 エレファン×2 キーマウス×2 素早いビッグハムスター×3 素早いモモンガ×3(お気に入り) チェーンドッグ×2 マイン・モール×2 ロックキャット×2 魔法07枚 サイクロン×2 死者蘇生(D) スケープ・ゴート(D) 月の書 ハリケーン ブラック・ホール 罠12枚 神の警告×2 幻獣の角×2 次元均衡×2 聖なるバリア-ミラーフォース-(D) 奈落の落とし穴×2 リビングデッドの呼び声 リミット・リバース×2 エクストラ15枚 サンダー・ユニコーン×3(お気に入り) Cドラゴン×2 ナチュル・ガオドレイク ナチュル・パルキオン×2 ナチュル・ビースト×2 ナチュル・ランドオルス×2 ライトニング・トライコーン×3
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/128.html
トップページ>韓国>韓国文化 『韓国文化』40、2007.12 論文 이경하「亡室行状類研究」 박광현「高橋亨と京城帝大「朝鮮文学」講座:「朝鮮文学」研究者としての自己同一化過程を中心に」 노연숙「開化啓蒙期国語国文運動の展開と様相:言文一致をめぐる論争を中心に」 곽명숙「1920年代初期時の美的超越性と象徴主義」 김주리「植民地時代小説の中の温泉休養地の空間表象」 조은수「宗教的信仰心と魔術的霊験:『三国遺事』の仏教的読解」 尹京鎮「高麗末朝鮮初僑郡の設置と再編:慶尚道地域を中心に」 金暻緑「中宗反正以後承襲外交と朝明関係」 김남윤「丙子胡乱直後(1637-1644)朝清関係における「清訳」の存在」 朴性俊「甲午改革~大韓帝国初期(1894-1900)海税査検と徴収体系」 李潤相「日帝下「朝鮮王室」の地位と李王職の機能」 『韓国文化』39、2007.6 論文 한길연「「劉氏三代録」の死の形象化方式と意味」 임수만「金永郎論:「審美的なもの」の構造と意味」 장지연「太祖代景福宮殿閣名に含まれた意味と思想的志向」 姜文植「趙翼の学問傾向と『朱書要類』編纂の意味」 禹景燮「朴世采の朱子学研究と『朱子大全拾遺』」 特集:植民地時期検閲研究 이준희「日帝時代音盤検閲研究」 鄭馨民「1920-30年代総督府の美術検閲」 한만수「1930年代文人達の検閲迂回類型」 小林聡明(김인수 訳)「米軍政期通信検閲体制の成立と展開」 『韓国文化』38、2006.12 論文 김현식「「瑪川別曲」研究」 徐信惠「「貨殖伝」受容の様態と傾向」 이지하「「潘氏伝」の二重的性格とその意味」 황재문「雲養金允植散文研究:文論との関係を中心に」 서재길「「空気」と「演劇」:初期のラジオ芸術論に関する小考」 장성규「李泰俊文学に現れた理想的共同体主義:大杉栄、内村鑑三と『聖書朝鮮』グループ、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの影響を中心に」 羅喜羅「古代韓国のあの世観と地獄観念の理解」 金暻緑「朝鮮時代使行と使行記録」 최이돈「朝鮮初期工商の身分」 金景淑「17世紀後半儒生李必益の流配生活」 尹晶「英祖の『聖学輯要』進講と政策的活用:蕩平・均役・濬川との相関性」 韓明基「朝鮮時代韓中知識人の高句麗認識」 特集:朝鮮後期黄海道関防体制 강석화「朝鮮後期黄海道沿岸防衛体系」 高丞嬉「朝鮮後期黄海道内地防御体系」 李仙喜「朝鮮後期黄海道水営の運営」 盧永九「朝鮮後期開城府一帯関防体制の整備と財政の推移」 学術発表会中継:韓流フォーラム 染谷智幸「「冬のソナタ」で開かれた世界と閉じられた世界」 Sidney C. H. Cheung「韓流を超えて:香港における韓国学の市場価値」 장소원、안경화「韓流熱風と韓国語普及の展望」 『韓国文化』37、2006.6 論文 成昊慶「高麗後期詩歌の系統と形成過程考察」 정길수「「天機論」の問題」 서진영「素月の「魂」とその共同体的意味考察:詩論「詩魂」を中心に」 禹景燮「宋時烈の道統論と文廟釐正論議」 문중양「19世紀の湖南実学者李田青の『井観編』叙述と西洋天文学理解」 김용태「錦溟宝鼎の浮休系正当論と曹渓宗斉唱」 최병택「日帝下林野調査事業の使行目的と性格」 문만용「韓国の「ブレイン流出」変化と韓国科学技術研究所(KIST)の役割」 『韓国文化』36、2005.12 宋晟旭「筆写本『林花鄭延』72冊本テキスト研究:旧活字本との比較を中心に」 한길연「『玩月会盟宴』の叙事文法と読書歴学」 尹京鎮「高麗界首官の制度的淵源と成立過程:9州・12牧との連結性を中心に」 金景淑「朝鮮後期女性の呈訴活動」 呉洙彰「19世紀初平安道社会問題に対する地方民と中央官吏の認識と政策」 류미나「植民地権力への「協力」と挫折:経学院と郷校及び文廟との関係を中心に」 지수걸「日帝時期忠南扶余・論山郡の維持集団と革新青年集団」 김경일 「1920-1930年代韓国の新女性と社会主義」 강석화「朝鮮後期咸鏡道六鎮地域の防御体系」 고승희「朝鮮後期咸鏡道内地鎮堡の変化」 盧永九「朝鮮後期咸鏡南道幹線防御体系」 『韓国文化』35、2005.6 이영경「「싶다」構文の史的変遷についての一考察」 정병설「18・19世紀日本人の朝鮮小説学習と朝鮮観:『崔忠伝』と『林慶業伝』を中心に」 류준경「達板坊刻本研究」 장유정「20世紀前半期妓生素材大衆歌謡の歌詞分析」 남기혁「韓国戦後時に現れた「家族」動因(motive)研究」 조연정「宋秀権詩論における「恨」の意味:「怨恨」から「昇化」へ」 金暻緑「朝鮮後期事大文書の種類と性格」 尹晶「世祖代端宗事蹟整備と「君臣分義」の確立」 유연석「李珥の人性論:『中庸』に立脚した『孟子』の再定立」 李泰鎮「[特別講演]東アジアの未来、歴史紛争を超えて」 高橋哲哉「[特別講演]「精神の自由」と日本の民主主義:韓日知識人と市民の対話のために」 『韓国文化』34、2004.12 양정호「形態素概念と国語史記述」 정인호「「子音ㅎ」連鎖における音変化」 이지하「人物形象化方式を通じて見た『昌蘭好縁録』の通俗性」 김주리「境界性(borderlines)の観点から見た「12月12日」の意味」 南希叔「16~18世紀仏教儀式集の刊行と仏教大衆化」 강석화「朝鮮後期平安道地域鴨緑江辺の防御体系」 고승희「朝鮮後期平安道地域道路防御体系の整備」 盧永九「朝鮮後期平安道地域内治拠点防御体系」 李勇「[動向報告]点吐口訣研究の現況」 『韓国文化』33、2004.6 송철의「韓国近代初期の語文運動と語文政策」 慎重珍「開化期新聞・雑誌に用いられた高頻度同音異義語考察」 민찬「薯童謠解読及び解釈の観点」 문혜원「戦後主知主義詩論研究:金奎東・文徳守・宋稶の詩論を中心に」 류순태「戦後モダニズム詩論に及ぼした新批評の影響研究」 禹景燮「潜谷金堉(1580~1658)の学風と時勢」認識」 이현진「朝鮮後期永寧殿の運営と増修論」 裵祐晟「『択里志』に対する歴史学的読法:筆写本比較研究を中心に」 三ツ井崇「「日鮮同祖論」の学問的基盤に関する試論:韓国併合前後を中心に」 서현주「日帝の地方行政区画改編の内容と性格:1914年ソウルの町洞改編を中心に」 송현호「[動向報告]中国における韓国学研究動向」 李泰鎮「[史料紹介]朝鮮・大韓帝国条約文原本と主要近代化事業契約文書の行方」 『韓国文化』32、2003.12 李秉根「近代国語学の形成に関連した国語観:大韓帝国時期を中心に」 정승철「語頭子音群の硬音化と激音化」 成昊慶「韓国古典詩歌に及ぼした中国詩歌の影響についての研究:ジャンルの形成及び発達に及ぼした影響を中心に」 임주탁「韓国近代詩の形成過程研究」 류양선「1910年代後半期小説に現れた啓蒙的な声」 김명렬「Edgar Allan Poeの「The Raven」と李泰駿の「烏」」 盧大煥「粛宗・英祖代対民義理論の政治・社会的機能」 金澔「英祖の大報壇増修と明三皇の享社」 廉定燮「18世紀後半正祖代農政策の展開」 金穎「満州事変前在満韓人の水田開発に対する中国東北地方当局の施策」 『韓国文化』31、2003.6 金鍾圭「ヒアートゥス(Hiatus)と音節」 정인호「平安北道方言における「ㅈ、ㅅ」の音変化」 한영균「語彙計量的分析と分かち書き問題」 류준경「「益夫伝」の叙事的特徴とその意味」 이미경「韓国近代詩文学におけるロマン主義文学談論の美的近代性研究:1920~1930年代ロマン主義詩文学」 서재길「1930年代後半世代論争と金東里の文学観」 盧永九「壬辰倭乱初期様相についての既存の認識の再検討:和歌山県立博物館所蔵「壬辰倭乱図屏風」についての新しい理解を基に」 정혜린「金正喜の清代漢宋折衷論受容研究」 松田利彦「日本陸軍の中国大陸侵略政策と朝鮮:1910-1915年」 趙宰坤「日帝強占初期商業機構の植民地的再編過程:1910年代商業会議所の朝鮮人資本家」 鄭然泰「朝鮮末日帝下資産家型地方有志の成長追求と利害関係の中層性:浦口商業都市江景地域事例」 『韓国文化』30、2002.12 李丞宰「口訣資料の「-ㄱ-」弱化・脱落を探して」 이지영「近代国語季語反事実的仮定表現の発達:「-더면」「-던들」を中心に」 고정희「元服属期新興士大夫の階級意識と安軸の景畿體歌」 조광국「『玉樹記』の閥閲的性向:作品世界・享有層を中心に」 조영복「韓国現代詩におけるモダニティの発現と自己アイデンティティ確立過程研究」 김민정「1950年代小説における父の不在とモダニティ」 朴宰佑「高麗前期国政の決定と会議」 이경구「朝鮮後期安東金門の義理実現と政治活動」 李相燦「1896年還宮義兵運動の展開様相」 盧官汎「大韓帝国期朴殷植著作目録の再検討」 김정인「1910年代『天道教会月報』を通じて見た民衆の暮らし」 신동원「1910年代日帝の保健医療政策:韓医学政策を中心に」 『韓国文化』29、2002.6 黄文煥「現代国語冠形詞の語彙史的考察」 慎重珍「単音節自立漢字語について」 유필재「「뵙다」類動詞の形態音韻論」 金南基「「首尾吟」の受容と雑詠類連作詩の創作様相:宋時烈と金昌翕を中心に」 柳順泰「1960年代韓国モダニズム詩の創作方法研究」 金一権「高麗時代の多元的至高神観念とその儀礼思想史的背景」 이민웅「丁酉再乱期漆川梁海戦の背景と元均艦隊の敗戦経緯」 廉定燮「18世紀後半正祖代勤農策と水利振興策」 李潤相「甲午改革期近代的租税制度樹立の試みと地方社会の対応」 王賢鍾「大韓帝国期立憲議論と近代国家論:皇帝権と権力構造の変化を中心に」 『韓国文化』28、2001.12 송양섭「17世紀末~18世紀前半屯田釐正策の議論と展開」 裵沆燮「甲午改革前後軍事制度の変化:海防制度と近代的海軍創設計画を中心に」 柳芳蘭「開化期キリスト教系学校の発達:小学校を中心に」 김종서「開化期社会文化変動と宗教認識」 조광국「古典小説における史的モデリング、叙述認識及び叙事構造の関連様相:『玉壺冰心』『双烈玉簫三逢』『聖賢公淑烈記』『双釧奇逢』を中心に」 이정복「「夫婦」と「内外」の社会言語学的分布」 李秉根「西洋人編纂の開化期韓国語対訳辞典と近代化:韓国近代社会と文化の形成過程に関連して」 権ボドゥレ「新小説の近代と前近代:『鬼の声』を中心に」 権泰檍「自強運動期文明開化論の日本認識」 『韓国文化』27、2001.6 鄭演植「17・18世紀平安道良役制の変遷」 都冕会「甲午改革以後近代的法令制定過程:刑事法を中心に」 盧大煥「開港期知識人金炳昱(1808-1885)の時勢認識と富強論」 韓哲昊「開化期(1887-1894)駐日朝鮮公使の派遣と外交活動」 尹京鎮「高麗成宗14年の郡県制改編についての研究」 장윤희「近代語資料としての『増修無冤録諺解』」 최귀묵「東アジア漢文文明圏の詩僧文学比較研究:禅僧の詩禅関係論の検討」 裵城浚「日帝末期統制経済法と企業統制」 盧永九「壬辰倭乱以後戦法の推移と武芸書の刊行」 정병설「朝鮮後期東アジア語文交流の一断面:東京大所蔵ハングル翻訳本『玉嬌梨』を中心に」 이영학「朝鮮後期魚物の流通」 구재진「崔仁勲の『灰色人』研究」 『韓国文化』26、2000.12 曺永福「『薔薇村』の非専門文人達の正確と詩思想」 金鳳国「江陵・三陟地域語の滑音化」 李善雄「国語の漢字語「冠形名詞」について」 琴章泰「茶山心性論の体系と争点」 최현재「連作歌詞『僧歌』の原型と構造的特徴」 申範淳「隠者の庭園に現れた象徴と夢の意味:『安憑夢遊録』を中心に」 金英心、鄭在薫「朝鮮後期正統論の受容とその変化:修山李種徽の『東史』を中心に」 蔡玉子「中国延辺地域語のウムラウト(Umlaut)現象」 『韓国文化』25、2000.6 太田秀春「『朝鮮城址実測図』と倭城:朝鮮総督府の植民地支配と関連して」 金成煥「高麗時代墓誌銘新例:元瓘墓誌銘」 尹京鎮「古文書資料を通じて見た高麗の地方行政体系」 한홍구「民生団事件の比較史的研究」 曺南鉉「朴勝極の実践・批評・小説」 宋基豪「史実と前提:渤海古墳研究の場合」 鄭承喆「済州本『訓蒙字会』の漢字音」 崔明玉「中国延辺地域の韓国語研究」 『韓国文化』24、1999.12 정병설「『玉鴛再合奇縁』:脱家門小説的視角、或いは視点の萌芽」 李泰鎮「1894年6月清軍朝鮮出兵決定過程の真相:朝鮮政府自身要請説批判」 宋基中「古代国語研究の新しい方法」 남기혁「金春洙の無意味詩論研究」 張承姫「茶山丁若鏞天人関係論の倫理的意義」 李昶憲「安城地域の小説坊刻活動研究」 金一権「魏晋隋唐代古墳壁画の天文星宿図考察」 李南淳「「이다」論」 정인호「全羅南道方言色彩語の形成過程」 宋讃燮「正祖代壮勇営穀の設置と運営」 한계전「八峯金基鎮の大衆化論と詩形式の問題」 『韓国文化』23、1999.6 김종욱「「血の雨」研究」 鄭萬祚「17世紀中盤漢党の政治活動と国政運営論」 김명호「1861年熱河問安使行と朴珪寿」 元載淵「19世紀朝鮮のロシア認識と門戸開放論」 장수익「羅稲香小説とロマン的愛の問題」 李相燦「大韓帝国時期褓負商の政治的進出背景」 金炫栄「朝鮮時期「士族支配体制論」の新しい展望:16世紀慶尚道星州地方を素材にして」 이진호「中世国語漢字学習書の来母初声表記様相」 李成市「黒板勝美を通じて見た植民地と歴史学」 『韓国文化』22、1998.12 朴光用「18~19世紀朝鮮社会の封建制と郡県制議論」 鄭在永「大韓帝国時期西洋人の吏読研究」 鄭崇教「大韓帝国期地方学校の設立主体と財政」 李泰鎮「大韓帝国の皇帝政と「民国」政治理念:国旗の製作・普及を中心に」 白承哲「磻渓柳馨遠の商業観と商業政策論」 朴煕秉「林和の移植文学論批判」 崔承煕「朝鮮後期原従功臣録勲と身分制の動揺」 구본관「「푸르다」と「파랗다」」 유필재「形態素構造制約と形態論的構成:「파개」を例にして」 『韓国文化』21、1998.6 金澔「16世紀後半17世紀初医官許浚の生涯再考」 南東信「新羅中代仏教の成立に関する研究:『金剛三昧経』と『金剛三昧経論』の分析を中心に」 정병설「『玉鴛再合奇縁』の女性小説的性格」 洪順敏「朝鮮後期法典編纂の推移と政治運営の変動」 고석규「朝鮮後期場市変動の様相:全羅南道の場市を中心に」 황선엽「中世国語「살갑다」についての考察」 李秉根「統監府時期の語彙整理とその展開:池錫永の『言文』を中心に」 李昶憲「翰南書林刊行京板坊刻小説研究」 1-20 21-40 41-60 61-80
https://w.atwiki.jp/tfsp/pages/55.html
おジャマは獣族だから闇属性ドラゴン族入れとけば融合無しでもビーストアイズ呼べて良いよ。バーン威力は低いけど。バニラ軸で行くならセイバーザウルスかなんか入れて兎ラギアっぽくしてもいい。獣軸にしてトライコーン関連にしてみたりFTオリの次元均衡入れてブバーン使ったりとかも面白くはある。 -- (名無しさん) 2015-02-10 13 51 15 オッドアイズ良いっすね とりあえず初心者が最近クリアした勢いで作っただけなんで編集も自由してしまってくださいw -- (名無しさん) 2015-02-10 13 58 41 ビーストアイズに関しちゃ素材がオッP指定されてないからアックスドラゴニュートかなんかの下級刺しといて蘇生とかでおじゃまと並べりゃ呼べるからホント楽。融合入れとけば手札からも呼べるし。バーンのことも考えるなら攻撃力のある下級獣族かブバーンあたり入れといて素材にするのも良い。おジャマは獣族サポート使えるからエアーズロックサンライズなんかも使えたりとかね。 -- (名無しさん) 2015-02-10 15 53 20 ・・・ひょっとしなくてもドラゴラドと相性良い? -- (名無しさん) 2015-02-10 18 52 59 普通におじゃまトリオとか利用して自業自得とか仕込みマシンガンとかをがん積みしてパートナーと同じようなデッキにすればチョー楽よw -- (さすらいのハゲ) 2015-02-10 19 59 26 最後の展開←アーッ! -- (名無しさん) 2015-02-10 23 14 16 こっちもおジャマで組むと楽だけど、「ワイアーム召喚→カントリー発動」みたいなことをしたり、ブルーの効果でサーチするのは通常おジャマ優先、カントリーで捨てるカードは適当な面が見られます。 ユニフォリアは基本的に初手で裏守備するくらいしか使ってくれないのでシンクロやエクシーズを使わなくても抜くことを推奨します。 -- (名無しさん) 2015-02-15 14 57 21 ドラゴラド1枚でビーストアイズ。カントリー環境下なら簡易融合なんかでさっさと正規融合して使いまわすのもいい。古狸三太夫はカントリー下のナイトやキングがいれば2500、3000の、環境外でもビーストアイズがいるなら3000のトークンを生む。 -- (名無しさん) 2015-04-01 05 25 40 たった今クリアした。シナリオ良いな~ -- (名無しさん) 2017-03-28 20 25 53 GXが全体的に地雷デッキ少ないことでフルバーンでのポイント稼ぎに最適 -- (名無しさん) 2020-04-23 18 18 10 お気に入りモンスター出す時にセリフはないの? -- (名無しさん) 2020-07-21 18 05 16