約 9,486 件
https://w.atwiki.jp/aizuwakamatsu/pages/14.html
ご意見・ご要望 「市navi」の会津若松版についてご意見・ご要望を投稿できます。 当サイトをより使いやすく充実させるための参考とさせていただきます。誰でも自由に書き込めますが、テーマにマッチしない記事は管理人が削除する場合があります。 ★一度投稿された記事の修正はできません。改行できます。URLは自動的にリンクします。文字のサイズや色を変更することはできません。タグは一切使用できません。 お名前(ニックネーム可) ご意見・ご要望 すべてのコメントを見る 市役所 市民課の窓口時間を週一回位、午後7時位までやってほしい。理由として会社の退社時間が午後5時なので市民課の窓口時間も午後5時で終わりなので、会社を休まないと市民課の窓口へ行けない。急に証明書等が必要な場合、会社の仕事上で休めない時も 有り週一回位、窓口を午後7時位まで延長して貰えれば会社退社後、市民課の窓口へ行って証明書等を貰う事ができる。市民のサービス向上のために市民課の窓口時間延長をご検討願います。宜しくお願い致します。 -- (ナベ) 2013-11-23 07 49 01 新潟県長岡市に子育て支援の施設『てくてく』があります。 広い施設で 子供が安全に遊べる施設で 料金もかからないし 駐車場もあるし 子供を持つ家庭には人気です。 なので 私も若松から友達親子を乗せて長岡までいって 遊んでいます。 そこは 日曜祭日もやっていて 平日に休館日があるので 物凄い人気で いつも 多くの親子が遊びに来ています。 若松も雪は降るので 長岡みたいな 施設をぜひとも作って 欲しいです。 なんなら ぜひ 一度 長岡まで行って 『てくてく』 を視察してきてほしいです。 お願いします。 -- (作ってほしいな) 2011-10-16 00 43 44 今日、児童家庭課へ用事があってきました。若い男性の職員。対応がわくるて気分が悪かったです。今度は名前を憶えておきます。 -- (いらっと) 2011-01-11 15 57 23
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/46.html
小田館(おだだて) 所在地会津若松市花見ヶ丘3 別称 築城年承久四年(1221)か 築城者蘆名光盛か 城主変遷蘆名氏(1221…)… 廃城年不明 現状宝積寺 概要 小田館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の居館の一であったと伝えられている。 歴史 承久四年(1221)蘆名光盛が小田山城を築城し、幕内館(飯寺館か)より居を移した際、その居館となったのが小田館であるとされる。しかしその説も定かでなく、黒川城が築かれるまでの居館の一であったかも知れないが判然としない。 現在は宝積寺の境内地となっており、墓地の一部に土塁、堀の痕跡が見られる。 現状・感想 宝積寺の墓地の一部にははっきりとした高低差が見て取れますが、それが果たして土塁、堀の名残であるかはわたしの節穴では判りません(^-^; 以前訪問した時からだいぶ経過しているので、機会を見て再訪してみたいと考えております。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/24.html
石部館(いしべだて) 所在地会津若松市一箕町八幡 別称 築城年不明 築城者石部氏 城主変遷蘆名氏[石部氏]… 廃城年不明 現状耕作地(石部桜) 概要 石部館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の家臣石部(石塚)氏の居館である。 歴史 黒川城主蘆名氏家臣石部治部大輔某の居館。石部氏は後に石塚氏を称し、「新編会津風土記」に大塚山城主として名が見られる。 遺構は残っていないが、石部氏が館の庭に植えたと伝わる桜が、会津五桜の一石部桜として市の天然記念物に指定されている。 現状・感想 「さくら」ながら桜に疎いわたしも、石部桜は近所でしたので何度か見ています。通勤の時間帯はバスが邪魔でしょうがなかったですが(笑)。ちなみに五桜は、ほかに虎の尾桜(会津美里町(高田)法用寺)、薄墨桜(同伊佐須美神社)、糸桜(会津坂下町杉村薬師堂)、大鹿桜(猪苗代町磐椅神社)があります。これ以上に見応えのある桜はたくさんあるような気がしますが、五桜とされているのはこの五つです。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/post_map/pages/2793.html
会津若松(原)郵便局 郵便番号:〒965-02 集配地域:会津若松(あいづわかまつ)市の旧・北会津(きたあいづ)郡湊(みなと)村域。 1.jpg (福島県)原郵便局局舎 2.jpg (福島県)原郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/68.html
堂島塁(どうじまるい) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)大田原 別称 築城年建久年間(1190-98) 築城者佐瀬清光 城主変遷慧日寺[佐瀬氏]…蘆名氏[佐瀬氏]… 廃城年不明 現状耕作地、河川 概要 堂島塁は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡である。 歴史 建久年間(1190-98)慧日寺寺侍の佐瀬権太郎清光が築城、居住したと『会津古塁記』にある。東西三十一間、南北四十間の規模であったという。 佐瀬氏はその後蘆名氏の麾下に加わり、耶麻、河沼郡内に一族が大きく勢力を拡大、蘆名四天宿老家の一となっている。 現状・感想 「まほろん」文化財データベースの位置情報をもとに訪問、それによると日橋川河岸から南側の耕作地にかけての範囲がその跡だった様です。川と耕作地の間には林があり、その中に何かしら残っているかも…と思いましたが、訪問時は通勤途中でしたので進入は控えました(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/19.html
小館(こだて) 所在地会津若松市本町 別称古館、西館、西黒川館 築城年弘和二年(永徳二・1382) 築城者蘆名直盛 城主変遷蘆名氏(1382…)-伊達氏(1589-90)… 廃城年不明 現状古館山稲荷神社、市街地 概要 小館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏が一時居館したと伝えられている。 歴史 天授五年(康暦元・1379)会津へ下向した蘆名氏7代直盛は、始め飯寺館(幕内館?)に居住したのち、弘和二年(永徳二・1382)この地に館を築いて移り住んだという。そしてさらに2年後の元中元年(至徳元・1384)、新たに築いた東黒川館(小高木館、のちの黒川城)へ移った。そのためこの館を西黒川館ともいう。直盛が東黒川館に移ったのちは、この地は融通寺に与えられた。 天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏を滅ぼした伊達政宗は、米沢城から黒川城へ本拠を移し、母保春院(義姫)を呼び寄せてこの地に住まわせた。政宗はさらに関東進出の野望を持っていたが、西国では豊臣秀吉による天下統一が着々と進んでおり、翌十八年には北條氏の拠る小田原城攻撃に参陣するよう度々催促を受けていた。しかし北條氏との誼もあり、政宗は去就を決めかねていた。家中も二つに割れ、もはや時期を逸したとして、政宗を殺害したのち弟小次郎を擁立、政宗の首を土産に伊達氏の安泰を図るべきとする重臣もあった。そのような状況の中で政宗は母から夕食の招きを受けたが、母は小次郎擁立を図り食事に毒を盛ったのである。しかし死には至らず、九死に一生を得た政宗は、実弟小次郎を自ら刺し殺して後顧の憂いを断ち、小田原への参陣を果たした。母はその後実家である最上領へ去った。 そのような経緯で小田原参陣を果たした政宗だったが、秀吉の惣無事令(死闘禁止令)違反、遅参を理由に会津領は召し上げとなり、蒲生氏郷へ与えられることとなった。氏郷は黒川を若松と改めて城下を整備、この地にあった融通寺を他所に移して新たに城安寺(現在は廃寺)を興した。 現状・感想 融通寺は現在も市内大町にありますが、現在本町となっているこの地の旧町名は融通寺町といいます。本町商店街の呉服屋さんの裏に小館山稲荷神社があり、この神社は古館が築かれた際に東端に造営された由緒ある神社だそうです。市街地化されていて全く面影はないですけどね。しかし政宗の毒殺未遂事件が起こった地と考えると、なかなかの感慨がありますなー。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧 伊達氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/58.html
嶋村館(しまむらだて) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)福島 別称内島館 築城年天授五年(康暦元・1379) 築城者伴野重清 城主変遷蘆名氏[伴野氏](1379-1522) 廃城年大永二年(1522) 現状耕作地、河川 概要 嶋村館は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡であり、子孫は居所を変えて現在も続いている。 歴史 天授五年(康暦元・1379)伴野伯耆守重清が築城したとされる。重清は蘆名直盛に従い会津へ下向、初め耶麻郡宇津野に居住し、その後この地へ移り住んだという。しかし大永二年(1522)火災に見舞われて廃館となり、村中に島村館を築いて以後代々居館とし、現在も子孫が居住している。また北側に面する堂島川(日橋川)の水禍を避けて居館を移した、とする説もある。 現状・感想 島村館と県道69号線を挟んで東側に相対する位置にあり、「まほろん」文化財データベースの位置情報を基にすると日橋川南岸に接する様に所在した様です。日橋川と用排水路の間には林があり、大体その辺りと踏んで水路のフェンスを越えて進入することも容易でしたが、訪問時は出勤前だったのでさすがに控えました(^-^; なお北側は日橋川と並んで県道7号線が走っており、伊達政宗が摺上原合戦後に会津北方地方侵攻の際の本陣を置いた駒形山は直ぐ北東に所在します。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/23.html
飯盛山城(いいもりやまじょう) 所在地会津若松市一箕町八幡 別称 築城年16世紀 築城者横山氏 城主変遷蘆名氏[横山氏]- 廃城年不明 現状飯盛山(白虎隊墳墓の地)、堂ヶ作山古墳 概要 飯盛山城は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 近世、会津藩滝沢組の郷頭であった横山氏の先祖が16世紀頃に築城したと考えられている。 なお国指定史跡、国重要文化財に指定されている旧滝沢本陣及び旧滝沢本陣横山家住宅は近世の横山氏の住居である。 現状・感想 会津若松市で若松城に並ぶ観光スポットである飯盛山は、古代には堂ヶ作山古墳が造られ、中世には城郭として利用されていました。頂部には前方後円墳と円墳があり、段々に築かれた平場や堀跡が確認出来る様ですが、残念ながらそこまで登った事がありません。先日、あわよくば…と思って久しぶりに白虎隊士たちの墓を訪れましたが、どこから登って良いものかさっぱりわかりませんでしたのでホテホテと帰って参りました。後日調べてみるとさざえ堂付近から道がついているとか…。 なお余談ですが、以前飯盛山まで徒歩5分の所に住んでいたので、チャリンコで飯盛山南西の慶山という所からキコキコ宅地の間を登ってみました。すると「飯盛山城城代家老~」と書いてあるご立派な個人宅があったんですが、そちらの方はどういった方なのでしょう…?今では名字も忘れてしまいましたが(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/42.html
中地館(なかじだて) 所在地会津若松市町北町中地 別称 築城年天文十二年(1543) 築城者不明 城主変遷蘆名氏[平塚氏]… 廃城年不明 現状宅地、耕作地 概要 中地館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、平塚氏が居住したという。 歴史 天文十二年(1543)に構築されたとされ、館主として平塚丹波守実恒の名が伝わる。 平塚氏は元は平塚館に居住、元亀、天正年間(1570-93)頃に平沢館へと移り、天正十二年(1584)当地へ居館したという。 現状・感想 まほろん「文化財データベース」で、中地集落内の菅原神社南西一帯が示されていたので訪問も、その位置は一面の田んぼとなっていました。圃場整備で遺構も認められないでしょうが、水田地は明らかに集落より低地ですので、おそらく集落内に館跡があったのでは、と思いますが…? 郷土史家石田明夫氏の著述に拠れば土塁と堀跡が遺るとのことですが、さすがに民家敷地に侵入も出来ません…。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/26.html
北柳原館(きたやなぎはらだて) 所在地会津若松市一箕町大字亀賀字村前 別称柳原館 築城年不明 築城者安倍氏 城主変遷安倍氏… 廃城年不明 現状宅地、耕作地 概要 北柳原館は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 会津若松市の郷土史家石田明夫氏によると、北柳原にあり安倍某が住む、と「新編会津風土記」にあるとし、安倍外記が館主、現在は畑、民家となり面影無しとしている。 現状・感想 まず、まほろん『文化財データベース』で紹介されている場所、国道49号線北柳原交差点の南東部へ行ってみたところ、現在は運送会社敷地となっている様子。国道沿いだし仕方無いよな~と思いつつ、石田さんの著述を見てみると…現在は畑と民家? ウムムと思い『会津若松市埋蔵文化財調査報告書』でさらに位置を調べると…、国道を挟んで反対側の集落に所在していたことが判りました。 現在は宅地、耕作地となっており、館跡北東端に土塁状の若干の高まりが確認出来、その上には屋敷神の小祠が鎮座ましましておりました。道路及びU字溝で囲まれた範囲が館跡と見られ、北側が畑地、南側がお屋敷となっています。さすがに南側へ廻るのは憚られました(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧