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平塚館(ひらつかだて) 所在地会津若松市高野町平塚 別称 築城年不明 築城者平塚氏か 城主変遷平塚氏… 廃城年不明 現状民家 概要 平塚館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、平塚氏が居住したという。 歴史 「新編会津風土記」に平塚氏が居住とあり、館主として平塚五郎左衛門の名が見られる。 現状・感想 以前の職場にいた頃、外出して戻る際に偶然土塁を発見、その後休日に改めて訪問しました。春日部様というお宅なのですが、丁度奥様が出て来られたのでお話を伺ったところやっぱり館跡、所謂「おやかっつぁま」とのことでした。館の由来については詳しくお伺い出来ませんでしたが、埼玉県春日部市からも調査に訪れた、などとおっしゃっていましたので、彼の地に何やら関係があるのでしょうか?(←いいかげん) その後、会津若松市の郷土史家である石田明夫氏と知り合う機会を得、お話を伺うと平塚集落にお住まいとのこと。石田氏は平塚氏の家臣だったそうです。今度機会があったらもうちょっと詳しくお伺いしてみようっと。 関連項目 福島県の城館一覧
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被災地ではインフラの復旧とともに燃料不足がなお課題として残っている。塩釜港など太平洋側の港に石油タンカーが入り始めたほか、首都圏から鉄道で盛岡へ輸送し、同様に新潟から郡山に運ぶルートもできた。ただ量には制限があり、被災地の隅々までは依然行き渡らない状況だ。 宮城県の村井嘉浩知事は28日の記者会見で県内のガソリンの調達状況について「思ったより時間がかかっている」と指摘した。被災前の1日当たりの県内でのガソリン消費量は約3600キロリットル。以前よりも状況は改善しているが、現在の1日あたりの調達規模はガソリンで2000キロリットルほどとみられ需要量には届かない。タンクローリーもまだ不足している。村井知事は「引き続き燃料確保に努める」とした。 価格も上昇気味だ。岩手県による調査によると、価格の平均はガソリンが1リットル155円、灯油(店頭販売分)は18リットル1675円。石油情報センターや県の調査では、震災前の2月の平均価格からガソリンが17円、灯油は160円それぞれ値上がりした。 (日本経済新聞 2011/3/29 0 04)
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横沼館(よこぬまだて) 所在地会津若松市神指町横沼 別称 築城年不明 築城者柴山氏か 城主変遷柴山氏… 廃城年不明 現状宅地 概要 横沼館は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 「会津古塁記」に、柴山民部が居住したとある。会津若松市の郷土史家石田明夫氏によると土塁が遺るという。 現状・感想 まほろん「福島県文化財データベース」の位置情報を参考に訪問も、明確な位置を特定出来ませんでした。集落内に土塁が遺っているのでしょうが、さすがに民家敷地などをジロジロ見て回る訳にも参りません…。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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鈴木屋敷(すずきやしき) 所在地会津若松市町北町上荒久田字鈴木 別称 築城年不明 築城者鈴木氏か 城主変遷鈴木氏… 廃城年不明 現状宅地、耕作地 概要 鈴木屋敷は福島県会津若松市に所在した城館(在家屋敷)跡であり、鈴木氏が居住したという。 歴史 「新編会津風土記」に記載があり、何時の頃か鈴木五郎大信なる人物が居住したことから鈴木屋敷と称されたという。東西二十三間、南北二十一間の規模であったという。 現状・感想 まほろん「文化財データベース」の位置情報を基に訪問。菅原神社の南側がその跡であるとすれば、現在は宅地に挟まれた水田地が該当する筈ですが、「会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」の示す場所とは若干異なります。しかし何れにしても耕作地か宅地、遺構は期待出来ないでしょうorz なお「会津若松市~」には在家屋敷跡とあります。 関連項目 福島県の城館一覧
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小田館(おだだて) 所在地会津若松市花見ヶ丘3 別称 築城年承久四年(1221)か 築城者蘆名光盛か 城主変遷蘆名氏(1221…)… 廃城年不明 現状宝積寺 概要 小田館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の居館の一であったと伝えられている。 歴史 承久四年(1221)蘆名光盛が小田山城を築城し、幕内館(飯寺館か)より居を移した際、その居館となったのが小田館であるとされる。しかしその説も定かでなく、黒川城が築かれるまでの居館の一であったかも知れないが判然としない。 現在は宝積寺の境内地となっており、墓地の一部に土塁、堀の痕跡が見られる。 現状・感想 宝積寺の墓地の一部にははっきりとした高低差が見て取れますが、それが果たして土塁、堀の名残であるかはわたしの節穴では判りません(^-^; 以前訪問した時からだいぶ経過しているので、機会を見て再訪してみたいと考えております。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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飯盛山城(いいもりやまじょう) 所在地会津若松市一箕町八幡 別称 築城年16世紀 築城者横山氏 城主変遷蘆名氏[横山氏]- 廃城年不明 現状飯盛山(白虎隊墳墓の地)、堂ヶ作山古墳 概要 飯盛山城は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 近世、会津藩滝沢組の郷頭であった横山氏の先祖が16世紀頃に築城したと考えられている。 なお国指定史跡、国重要文化財に指定されている旧滝沢本陣及び旧滝沢本陣横山家住宅は近世の横山氏の住居である。 現状・感想 会津若松市で若松城に並ぶ観光スポットである飯盛山は、古代には堂ヶ作山古墳が造られ、中世には城郭として利用されていました。頂部には前方後円墳と円墳があり、段々に築かれた平場や堀跡が確認出来る様ですが、残念ながらそこまで登った事がありません。先日、あわよくば…と思って久しぶりに白虎隊士たちの墓を訪れましたが、どこから登って良いものかさっぱりわかりませんでしたのでホテホテと帰って参りました。後日調べてみるとさざえ堂付近から道がついているとか…。 なお余談ですが、以前飯盛山まで徒歩5分の所に住んでいたので、チャリンコで飯盛山南西の慶山という所からキコキコ宅地の間を登ってみました。すると「飯盛山城城代家老~」と書いてあるご立派な個人宅があったんですが、そちらの方はどういった方なのでしょう…?今では名字も忘れてしまいましたが(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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闇川館(くらがわだて) 所在地会津若松市大戸町高川 別称 築城年不明 築城者長井氏 城主変遷長井氏… 廃城年不明 現状山林 概要 闇川館は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 「会津古塁記」に長井民部勝彦が住したとある。闇川集落入口の舘山がその館跡で、郷土史家の石田明夫氏によると石塁、平場、虎口が遺るという。 現状・感想 闇川集落入口を塞ぐ様に南側に張り出している丘陵が舘山ですが、登り口が一体何処なのか…?途中に林道?がありましたが、出勤前だったことと車両通行止だったことから侵入はしませんでした。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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このページはこちらに移転しました ガソリンよりも 作詞/PK ガソリンよりも高価な水をグビグビ それでもガソリン代は高いとか まあゆったりとボルヴィック風呂に入っとけってこった ガソリンとガリクソンを間違えて入れて動かない車に何の未練があるの 時速140kmで飛べばいいじゃない 放り投げてもらえよ ガリガリガリガリくそー ガリガリガリガリくそー ガリガリガリガリくそー
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中島館(なかじまだて) 所在地会津若松市門田町面川 別称中嶋柵 築城年応仁元年(1467) 築城者中嶋実澄 城主変遷中嶋氏… 廃城年不明 現状民家(会津鉄道門田駅東側) 概要 中島館は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 応仁元年(1467)中嶋越中守実澄が築いたとされる。 現状・感想 会津鉄道門田駅前に所在する館跡です。カワイイ駅舎を出ると、すぐ右側に土塁と水田になっている堀跡を確認出来ますが、個人宅となっており訪問もしていないので詳細はわかりません。 どうせだからと門田駅の写真を撮影していたところ、蝉が架線の柱にとまって啼き出しました。その時初めてツクツクボーシの啼き声を聴いたんですが、「つくつくぼ~し、つくつくぼ~し」では無く「つくつくぼーーーぉし、つくつくぼーーーぉし」だったんですねー。字で書いてもわかんねーや。 関連項目 福島県の城館一覧
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飯寺館(にいでらだて) 所在地会津若松市門田町飯寺 別称幕内館 築城年天授五年(康暦元・1379) 築城者蘆名直盛 城主変遷蘆名氏(1379-82) 廃城年不明 現状稲荷神社、企業敷地 概要 飯寺館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世の会津領主である蘆名氏の初期の居館の一とされる。 歴史 天授五年(康暦元・1379)会津へ下向した蘆名直盛は、初め幕内館を築いて居住したとされるが、一般にその館はこの飯寺館を指していると考えられている。直盛はその後すぐ弘和二年(永徳二・1382)に小館へ、さらに元中元年(至徳元・1384)に東黒川館(小高木館、のち黒川城)へと移ったとされる。そしてその子孫は天正十七年(1589)伊達政宗の侵攻を受けるまで、会津領主として南奥州に大きく勢力を拡大した。 現状・感想 蘆名氏の下向時期、その居城の変遷などは諸説あり、何やらワケが判りませんが、この天授五年に始まる飯寺館(幕内館)→小館→東黒川館の流れが一般的な様です。飯寺館は現在会津オリンパスの工場となっている場所が中心で、稲荷神社がある場所はその南に位置する郭であったと考えられています。東には馬場があったとされていますが、全体的に工場や道路などによって全くその面影は残っていません。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧