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農本主義 秋津元輝「多様化する農業者のかたち」『食・農・からだの社会学』(シリーズ環境社会学5) 新曜社、2002 綱澤満昭『農の思想と日本近代』風媒社、2004 網沢満昭『日本の農本主義』紀伊園屋書店、1994年 市田(岩田)知子「〈農〉と出会うための政策」『食・農・からだの社会学』(シリーズ環境社会学5) 新曜社、2002 尾関周二「〈農〉の思想と持続可能社会」『環境思想・教育研究』第3号、2009 亀山純生「〈農〉的共同態の現代的意義と、近代的共同(体)論の問題性」『環境思想・教育研究』第4号、2010 西村俊一『日本エコロジズムの系譜―安藤昌益から江渡狄嶺まで』農文協、1992 農山漁村文化協会編『東洋的環境思想の現代的意義 杭州大学国際シンポジウムの記録』農文協、1999 ロバート・オーウェン[著]、渡辺義晴[訳]『社会変革と教育』明治図書、1963 Uターン青年および新規参入者の実態と意識に関する調査http //www.library.maff.go.jp/GAZO/00147058/00147058_01.pdf 渡辺 京二 問題提起 「農本主義」批判への疑問 (特集 「日本」を捉え返す--多様性と関係性の視点から) -- (『環』創刊一周年記念シンポジウム 朝鮮半島と「日本」の関係を捉え返す--網野善彦著『「日本」とは何か』をめぐって) 環 6 2001.Sum. 修士論文に使用したもの 第一章 安彦一恵 (2008-a) 「「生活環境主義」的発想の批判―「環境プラグマティズム」との関連づけにおいて―」『dialogica』第11号滋賀大学教育学部倫理学・哲学研究室* 安彦一恵 (2008-b)「「人間中心主義vs.非-人間中心主義」再論」『dialogica』第11号 滋賀大学教育学部倫理学・哲学研究室* 上柿祟英 (2008)「近代批判の環境思想」東京農工大学 上山春平[編/訳](1968)『世界の名著48 パース・ジェイムズ・デューイ』中央公論社 魚津郁夫 (2006)『プラグマティズムの思想』筑摩書房 尾関さやか (2008)「ミュージアム・エデュケーターとその実践―「星の語り部」プラネタリウム活動を通じて」『環境思想・教育研究』環境思想・教育研究会 小原秀雄[監修] (1995)『環境思想の系譜 1』東海大学出版会 嘉田由紀子 (1995)『生活世界の環境学』農山漁村文化協会 嘉田由紀子 (2002)『環境社会学』【環境学入門 第9巻】岩波書店 加藤尚武 (2009)「第2回社会倫理研究奨励賞 受賞論文 講評」 亀山純生 (1989)『人間と価値』青木書店 亀山純生 (2005)『環境倫理と風土』大月書店 神崎宣次 (2008)「「問題解決」という問題設定の枠内で非人間中心主義は生き残れるか?」 鬼頭秀一 (1996)『自然保護を問いなおす―環境倫理とネットワーク』筑摩書房 鬼頭秀一 (2006)「環境倫理における風土性の検討」千葉大学『公共研究』第3巻第2号 鬼頭秀一/福永真弓[編](2009)『環境倫理学』東京大学出版 桑子敏雄 (1999)『環境の哲学』講談社 ジョゼフ・デ・ジャルダン, 訳;新田功他 (2005)『環境倫理学―環境哲学入門』出版研 白水士郎 (2000)「環境倫理学はどうすれば使いものになるか―環境プラグマティズムの挑戦」『倫理学サーベイ論文集』京都大学文学研究科倫理学研究室 白水士郎 (2004)「環境プラグマティズムと新たな環境倫理学の使命―「自然の権利」と「里山」の再解釈へ向けて―」越智貢他編『応用倫理学講義 2 環境』岩波書店 谷本光男 (2003)『環境倫理のラディカリズム』世界思想社 鳥越皓之/嘉田由紀子編 (1991)『水と人の環境史 増補版』御茶の水書房 鳥越皓之 (1997)『環境社会学の理論と実践』有斐閣 ロデリック・ナッシュ, 訳;松野弘 (1999)『自然の権利—環境論理の文明史』筑摩書房 デヴィッド・ヒューム (2004)『人間知性研究』法政大学出版 福永真弓 (2006)「現場から環境倫理をたちあげるために―その戦略群について」千葉大学編『公共研究』第3巻第2号 松野弘 (2009)『環境思想とは何か――環境主義からエコロジズムへ』筑摩書房 松田素二 (1989)「必然から便宜へ」『環境問題の社会理論 生活環境主義の立場から』御茶の水書房 村上泰亮 (1992)『反古典の政治経済学(下)21世紀への序説』中央公論社 アンドリュー・ライト, 訳;斉藤健 (2009)「方法論的プラグマティズム・多元主義・環境倫理学」『応用倫理―理論と実践の架橋― vol.1』北海道大学出版 アルド・レオポルド, 訳;新島義昭 (1997)『野生のうたが聞こえる』講談社 エドワード・レルフ, 訳;高野岳彦他 (1991)『場所の現象学』筑摩書房 Andrew Light Eric Katz (eds.).(1996), Environmental Pragmatism, Routledge, Callicott,J.B. (1984), “Non-Anthropocentric Value Theory and Environmental Ethics” American Philosophical Quarterly, Vol. 21, No. 4, Callicott,J.B. (1987), Companion to a Sand County Almanac Interpretive and Critical Essay, Univ.of Wisconsin Pr. Norton,J.B (1991), Towards Unity among Environmentalists,Oxford UP. Norton,J.B (2005), Sustainability. A Philosophy of Adaptive Ecosystem Management, The Univ.of Chicago Pr. O’Neil, John (1993), Ecology, Policy and Politics Human Well-being and the Natural World, Routledge, 第二章 安彦一恵 (2009)「R・ノートン「転成的価値」概念の批判的検討―環境倫理学関連拙稿への補遺―」『dialogica』第12号 恩田さくら「」東京農工大学 亀山純生 (1989)『人間と価値』青木書店 亀山純生 (2005)『環境倫理と風土』大月書店 亀山純生 (2009)「日本的自然観の現代的リアリティ」『風土的環境倫理の可能性と日本的自然観の意義』東京農工大学, Light,A (2002)“A Modest Proposal Methodological Pragmatism for Bioethics” ,Pragmatist Ethics for a technological Culture, Kluwer, Minteer, B.A (2001) “Intrinsic Value for Pragmatists?”, Environmental Ethics, Norton,J.B (1982), “Environmental Ethics and Right of Future Generations” Environmental Ethics.4, Norton,J.B (1984), “Environmental Ethics and Weak Anthropocentrism”Environmental Ethics.6, Norton,J.B (1987), Why Preserve Natural Variety? , Princeton UP. Norton,J.B (2005), Sustainability. A Philosophy of Adaptive Ecosystem Management, The Univ.of Chicago Pr. 第三章 阿部謹也 (1995)『「世間」とは何か』講談社 川本隆史 (2008)『共生から』岩波書店 マルティン・ハイデッガー (1960)『存在と時間〈上〉』岩波書店 133 藤井聡 (2006)「実践的風土論にむけた和辻風土論の超克―近代保守思想に基づく和辻「風土:人間学的考察」の土木工学的批評―」『土木学会論文集D』 宮川敬之 (2008)『和辻哲郎―人格から間柄へ』講談社 和辻哲郎 (1927)『原始仏教の実践哲学』岩波書店 和辻哲郎 (1931)「倫理學」『岩波講座 哲学』第二巻, 岩波書店 和辻哲郎 (1962)『和辻哲郎全集〈第4巻〉日本精神史研究,続日本精神史研究』 和辻哲郎 (1962)『和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教の実践哲学,仏教哲学の最初の展開』岩波書店 和辻哲郎 (1962)『和辻哲郎全集〈第9巻〉人間の学としての倫理学,カント実践理性批判,人格と人類性』岩波書店 和辻哲郎 (1971)『人間の学としての倫理学』岩波書店 和辻哲郎 (1979)『風土―人間学的考察』岩波書店 和辻哲郎 (1992)『和辻哲郎全集〈別巻1〉』岩波書店 和辻哲郎 (2007)『倫理学〈1〉』岩波書店 Callicott,J.B. (1984), “Non-Anthropocentric Value Theory and Environmental Ethics” American Philosophical Quarterly, Vol. 21, No. 4,
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登録日:2010/11/28(日) 01 57 34 更新日:2023/01/25 Wed 23 25 52NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 フィロソフィー レスリング 哲学 学問 哲学とは何か?――それもまた、哲学なのである。 まさしくそのまんま、だがここではその哲学というものの概要を可能な限り言語的に説明することを目的とする。 哲学とは主に、明確に存在しない、もしくは不明瞭なことがらについての考察、思索、論理的推察を行う。 例えば数学は数式や図形、グラフという具体的な存在に表現できるものに対する学問だが、哲学は時間や真理、根源、精神、神といった具体的な存在のない、あるいは表現できない抽象的な存在を対象にとることが多い。 また、このように題材にしても小難しいことをやる、という印象が強く、概念上での論争やそもそも語っていることが一般受けしにくいこともあり、 なにがしらへの説明を求められたときに少し難しい言葉などを使うと「哲学的だね」などと返されることも。 なにをもってして哲学的というのか、考えてみるのも面白いかもしれない。 「哲学」という語の語源や以前の用法からたどってみると、哲学はかつては「自然哲学」と呼ばれ、現代でいう科学と同じような意味で使われていた。いわゆる学問全般を指す語であった。 最も広い意味で言えば、知の探究全般、そして理性でもって諸現象を解き明かす行為そのものが哲学なのである。 西洋哲学、宗教哲学、(人名)の哲学、~派、~主義、……といった文脈では学問と言えるが、各々が"哲学する"行為は必ずしも学問にはあたらない。 哲学は学ぶものではないと言われることがあるのは、主に後者の意味で言っていることである。 (暗に先人の考えを理解・吸収することにとらわれ過ぎて、自分の頭で考えることがおろそかになっているのではないか?という批判的な含みがある。) 現代に至る過程でさまざまな学問の分類の体系化・細分化が進み、「哲学」という語は(消去法的に)その過程で残った(分野名がない)部分のみを限定的に指すようになったと考えれば、さほど大きなズレはないと思われる。 時に曖昧でつかみどころがない分野であるかのように誤解され感じられるのはそのためである。 実際には論理的に厳密であることが求められ、概念の明晰化や問題・命題の明確化など、論理的および概念的思考に特化した分野という認識で概ね相違ない。 哲学は自由と言えば自由な学問でもある。神について、人間について、悪魔について、世界について語ってもすべて哲学である。 過去の人間が「神とはAである」と弁論していて、現代の人間が「神とはBであり、Aこそが諸悪の根源である」と弁論しても、そこに間違いらしい間違いは存在せず、ただ互いに干渉しない真理が存在するだけである。 また、過去の哲学を哲学することもできる。 というのも、「過去に彼は、Aという理論を弁論した。 これはもともとBという理論から派生したものであるといわれるが、実はCという理論から派生したのではないか?」という具合に、とにかく推察するわけである。 このように割りと自由奔放な感じもするが、区分分けをするとものすごいことになる。学派、立場というものがあり、これらが多くに派生している。 学派とはとある事柄についてよく語る、または特徴的な弁論がある、といった具合で区分される。 自然哲学、形而上学、思弁哲学、新カント派、構造主義、といったものがある。聞きなれたものもあるのではなかろうか。 立場とは、その命題を立証するための理論の成り立たせ方、とでもいうものであり、存在論、観念論、相対主義、二元論、一元論、懐疑主義などがある。 また大雑把に、西洋哲学、東洋哲学、あるいは古代ギリシア、カント以前・以後、近代哲学、大陸哲学といった具合に場所や時代で細分化もできるし、 論理学、倫理学、生命倫理学、美学、法哲学、宗教哲学、というふうにもわけることができる。 なんにせよすべてにおいて哲学という学問にくくられるということを考えると、かなり広いことを行えるため、 自分のしたいことがわかりやすいといった利点でもあるが「哲学」そのものを曖昧にしている点でもある。 先人は哲学というもので「思想」を表現してきた。自分がなにを思い、なぜ思い、どうしたか。 哲学らしいといえば哲学らしい、思想という存在するものの他に認知されるという意味では非存在に等しいそれを、 言語によって輪郭戦を浮かび上がらせようという試みである。 この説明からしてわかりにくいように、とにかくわかりにくいものはわかりにくい。 「我思う、ゆえに我あり」 で有名なデカルトは方法序説を記した。読んでみればわかるだろうが、非常にわかりにくい。 言いたいことはわかるが理解しがたい、と思う人もいるのではないだろうか。 ついでにこの言葉は寝ている間は消滅している、という意味ではなく、 確かに物体が存在しているのかと疑いをかけまくって実は神すら存在しないんじゃないかという考えに行き着いたとき、 それを考えついた私は確かに存在していなければならなかった、ということを示している。 が、考えている=存在するが説明不要の真理でなければならない大前提であるため、やや説明不足が否めない。 つまり「ゆえに」で繋ぐのではなく、「私は考えつつ存在する」という結論に至らねばならなかったのではないか?という批判もあったりなかったり。 ついでにどうでもいいことだが、批判という言葉はものごとについて正当な判断を下し、 欠点については改善のために尽くすという意味であり批判=非難ではない。 また、批判=批評でもない。批評とは欠点と美点を客観的に評価し、そのものごとへの正当な価値を定めるだけで改善までは含まれない。 追記・修正は哲学的に。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 人の数だけ哲学もある。 -- 名無しさん (2014-11-16 12 51 50) 使い方によっては最悪の兵器になりうる学問 -- 名無しさん (2015-09-03 12 41 38) 批判ってこんなに良い意味だったんだな -- 名無しさん (2018-07-15 02 14 31) 例えば数学は数字と言う具体的な存在に対する学問だが 数(数学は決して数字を研究する学問ではない)もだいぶ抽象的だし物理学なり化学なり生物学なりにしたほうがいい気が -- 名無しさん (2021-10-15 02 43 37) 名前 コメント
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浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 151号~165号 001号~015号 016号~030号 031号~045号 046号~060号 061号~075号 076号~090号 091号~105号 106号~120号 121号~135号 136号~150号 151号~165号 166号~180号 181号~195号 196号~210号 211号~225号 226号~240号 241号~255号 256号~266号 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 第151号 S49/12/20 (1974) 一言説法 論説 正味ばかりの仏法 こんなことがききたい 日蓮が非難される理由 第151号 S49/12/20 (1974) グラフで追う 遷仏会 親鸞聖人報恩講 親鸞会第35回弁論大会 優勝 十五才の怒り 滋賀県 M 悔いなき道 優勝 親鸞会第36回弁論大会 滋賀県 F 本部会館移転祝賀 報恩講・遷仏会を盛大に挙行 あっぱれ、福井少年部 小遣い銭を、新本部へ財施 もの知り大学 人事異動 親鸞会第三十六回弁論大会成績 会員の皆さまへ 3人の盲(めくら) T・K (1コマ漫画) 大導師合格者 親鸞会第三十五回弁論大会成績 岐阜支部報恩講 今月の金言 大喝 寒林に屍を打つ 教学試験成績 (49.10.21~49.11.20) もの知り大学 解答 法友通信 福井市 S 響流 導師合格者 滋賀県 Y 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 7面 8面 第152号 S50/01/20 (1975) 一言説法 論説 親鸞会の背骨 昭和50年 謹賀新年 元旦 第152号 S50/01/20 (1975) 日本全国に 真実のウネリを!! 青年部長 F こんなことがききたい 南都の奏状文とは ある求道者の体験 私は地獄を見た!! 滋賀県長浜市 M (50) 第152号 S50/01/20 (1975) 第十回講師試験 教学熱高まる 九名の新講師誕生 東西南北 年頭所感 一里塚に立って 憶うこと 会長 高森顕徹 なんとも愉快な忘年会 青年部 年末を遊ぶ 富山県 石川県 五支部対抗のカルタ大会 南砺支部が圧勝 富山県 小矢部に若手副支部長 K・Kの両氏 法友通信 名古屋市 Y 高森会長先生 本部会館法話日程 福井市 S 今月の金言 もの知り大学 竜樹菩薩伝(1) 作・A 富山県 O 人類の危機と宗教 本部長 F 富山教化支部長に Y講師を任命 もの知り大学 解答 ”年の始め”迷信の被害 続出!! T.K (1コマ漫画) 大野市 Y 迎春 高岡市 T 大喝 自力金剛のサザエ 教学試験成績 (49.11.21~49.12.20) 福井市 T 響流 導師合格者 高岡市 Y 第153号 S50/02/20 (1975) 一言説法 論説 大いに儲けて きれいに使おう こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 第153号 S50/02/20 (1975) 本願寺僧侶、実態を暴露!! 東西南北 本願寺はなぜ? 東西に分裂したのか 文書法論 後生の一大事も分からず 断見外道と化す N講師より D住職へ 深まる仏縁 七尾進出・親睦・報恩講 もの知り大学 D住職より N講師へ 法友通信 金沢市 N 大導師 導師 試験 日程決まる もの知り大学 解答 歎異鈔研究会の合宿の案内 滋賀県 Y 大喝 次はお前の番だ 導師合格者 龍樹菩薩伝 (2) 作・A 画・O 卑怯なり、本願寺 会合開いてデマ宣伝 福井県 一女子青年部 投書 企業広告 谷本建設 今月の金言 教学試験成績 (49.12.21~50. 1.20) つかもと呉服店 響流 肉体の病気 心の病気 T.K (1コマ漫画) 訂正 本当の親鸞聖人の教 こんなことが知りたい② 第154号 S50/03/20 (1975) 一言説法 論説 全人類の 苦悩のもとは何か こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 (2) 第154号 S50/03/20 (1975) 聴聞のための健康法……その1 栄養満点の玄米を食べよう 玄米こそ最良の主食 白米は米の粕 公害にも強い! おまけに経済的 ”われら親鸞会会員は 玄米をもってその主食とすべし ” 随行文 今度の親不孝 決して無駄にはすまいぞ!! 刻一刻に迫る後生 死の前に何が残る!! 福井県 Y (28) 東西南北 定例支部長会議開かる 顕正目標は七百名 『こんなことが知りたい』―(2) 支部対抗で頒布 今年度方針 法座日程を検討 支部・青年部の会合 =富山= 第四次白道顕正戦 二月より始まる 阿弥陀仏に初まいり 小矢部支部のKさん =富山= D住職、返答なし 顕正戦の出陣を祝う 繊協ビルで青年部大会 =福井= 次期随行者 Hさん 人事異動 もの知り大学 本部に新事務員 Kさん 企業広告 渡辺仏壇店 僧侶の”金脈” 三千円から五千万円まで 西本願寺 よほど地獄好きなやつらだ T.K (1コマ漫画) 法友通信 石川県 A 大導師合格者 龍樹菩薩伝 (3) 作・A 画・O 豊橋市 T 今月の金言 大喝 仕事をやめて聞け!! 教学試験成績 (50. 1.21~50. 2.20) もの知り大学 解答 企業広告 紺インテリア 響流 導師合格者 編集雑記 第155号 S50/04/20 (1975) 一言説法 論説 封建制度の残骸 檀家制度にメスを こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 (3) 第155号 S50/04/20 (1975) 春の合宿で仏教哲学を研鑽 青年部合宿 全国から集う真実のエリートたち 大学生中心に五日間の講義 本当の仏教を門徒の人たちへ 随行文 福井県 H (20) 御仏飯で育った私の義務 東西南北 万人は平等なり 仏教は差別なき社会をめざす 第一期顕正戦(四月~六月) 富山 決起集会開かれる 住職と門徒を導く三十部 滋賀 顕正新聞を配布するMさん 夫婦となって真実を求める その① M君とO講師 その② F君とHさん 仏教を確信した合宿 島根県 J(19) 顕正戦始まる 第一期は四月から六月まで 法友通信 滋賀県 M 真実の友と知りあえて 埼玉県 S(19) 高岡市 A もの知り大学 随行禄 Y 企業広告 紺インテリア 「親鸞は弟子一人も持たず」 大喝 人目にふれぬ善を積め もの知り大学 解答 龍樹菩薩伝 (4) 作・A 画・O インテリア北川 導師合格者 真宗を再びおこそう現代に 第一期顕正戦 訂正 響流 (2コマ漫画) 教学試験成績 (50. 2.21~50. 3.20) 企業広告 渡辺仏壇店 編集雑記 第156号 S50/05/20 (1975) 一言説法 論説 創価学会を撲滅しよう まっかなニセモノ 大石寺の板本尊 こんなことがききたい 親鸞聖人がみられた「夢」 (4) 第156号 S50/05/20 (1975) 現代によみがえった親鸞聖人のみ教え……………世界最高の深遠な仏教哲学 その一言が私の人生を変えた!! 東西南北 ついに放たれた真実の巨弾 親鸞会と本願寺の相違点八項目のパンフレット 全国の真宗門徒に配布 名づけて”S号作戦” 大成功!!金沢観光会館での御法座 六百名を越える参詣者 バス八十余台への宣伝効果バツグン 自分と家族とどちらを助けるか? 罪悪観を聞かされた私 富山県 F ”ニセモノの幸福ではダメだ” 愛知県 一青年部 新たに三副支部長任命 京都支部にT氏、K氏 新本部会館初の仏前結婚 F青年部長と市原講師 岐阜支部にE氏 第一期顕正戦経過報告 四月末で百四名 もの知り大学 東条英機の話に大感激 滋賀県 U 友人の熱意に負けて・・・ 福井県 H 大喝 あなたは家族を捨てても 仏法を求める気があるか 6.9 6.20は全国統一顕正デー 第一期顕正戦 今月の金言 随行禄 (1) Y 次期随行者 Kさん(22) 京都支部が発足 支部長はD彦根支部長が兼任 (2) H 本部会館降誕会案内 法友通信 金沢市 T 地獄行きと極楽行きのちがい T.K (2コマ漫画) 導師合格者 もの知り大学 解答 お知らせ 響流 教学試験成績 (50. 3.21~50. 4.20) 編集雑記 第157号 S50/06/20 (1975) 一言説法 論説 親鸞聖人が好んで使われた『海』を考える こんなことがききたい 御伝鈔 平太郎の熊野参詣の真相 第157号 S50/06/20 (1975) 白熱する第一期顕正戦 五月末で三百四十余名 5.16統一顕正デーで四十八名の成果 松虫鈴虫と住蓮安楽の 鹿が谷の大事件とは 東西南北 親子二代の悲願 岐阜にも親鸞会館を! I氏、用地300坪を提供 ”白道”島根・広島に燃ゆ ”A号作戦”四講師を派遣 大成功を収めた島根 よこがお 破邪顕正に大活躍 彦根支部の”スイ星” S氏(70) 第1回 幹部研修会 富山 もの知り大学 解答 親鸞聖人降誕会(滋賀) 大喝 顕正一口メモ 忌わしきもの 東京 M 法友通信 京都府 T 岐阜市郊外 交通至便の建設用地 大導師合格者 学生部夏の合宿の案内 大阪府 S もの知り大学 教学試験成績 (50. 4.21~50. 5.20) 私の一言 新入社員と私 埼玉県 一青年部 次期随行者 K君(23) 響流 念仏はみな同じか? T・K (2コマ漫画) 導師合格者 企業宣伝 渡辺仏壇店 編集雑記 第158号 S50/07/20 (1975) 一言説法 全会員に告ぐ!(論説にかえて) 破邪顕正に怒濤の進撃を 会長 高森顕徹 こんなことがききたい 疑い はどのように晴れるのか 第158号 S50/07/20 (1975) 本部教学講師試験 二十四名中十一名が合格 第三十七回 弁論大会 優勝 無知 京都府 Y (23) 東西南北 世界の光 親鸞聖人 この世で救われる浄土真宗 「死なねば助からぬ」は間違い ”顕正大行進”快調にスタート 第一期顕正戦 六百名の仏縁あつき新会員 深松本部長を招いて 南砺支部会合開かる よこがお 一般部の初講師合格 岐阜支部の E氏 (60) 武生支部が発足 新支部長にM氏 顕正一口メモ 幹部研修会 各県で開催 降誕会・劇 承元の法難 富山青年部 顔・顔・顔…………… 鈴なりの「信の座敷」 降誕会分科会 親鸞聖人降誕会 盛大に挙行 本部会館 新副支部長に N氏 彦根 企業広告 渡辺仏壇店 法友通信 金沢市 N 大喝 人間のすがた 第三十七回弁論大会成績 岐阜県 Y 響流 命のかけどころ T・K (2コマ漫画) 教学試験成績 (50. 5.21~50. 6.20) 顕正一口メモ 編集雑記 (S・N) 第159号 S50/08/20 (1975) 一言説法 論説 読経とごちそうだけでは無意味 正しい法事を実践しよう こんなことがききたい 親鸞聖人も神を拝まれたのか 第159号 S50/08/20 (1975) B号作戦 山陽道を駆ける 「白道燃ゆ」片手に六千里 3班6講師―法座150回、本1,500冊 山口 広島 兵庫 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 死の解決 一つをするために 京都青年部 K (23) 優勝 第38回弁論大会 外道はどこに 福井県 H 釈尊の教えられた 親の大恩十種とは (上) 第四次白道顕正戦・第一期顕正戦 表彰式行われる 岐阜会館建設 実行委員会を結成 大喝 ハエと人間 企業広告 渡辺仏壇店 顕正一口メモ 石川、岐阜、富山県 幹部研修会 随行録 K 天親菩薩伝 (1) 作・A 画・A 第38回弁論大会 滋賀会館降誕会 満員の盛況 和訳浄土三部協発行のお知らせ 香川県高松市 M K 8.1~10.31 顕正大行進の主役たれ 第二期顕正戦 法友通信 富山県 T 教学試験成績 (50. 6.21-50. 7.20) 富山県 M 響流 T・K (1コマ漫画) 導師合格 顕正一口メモ 京都市 U 第160号 S50/09/20 (1975) 一言説法 論説 真宗十派の統一は可能か こんなことがききたい 感謝の心でなら神社参拝はよいのか 第160号 S50/09/20 (1975) 8月3日 どこで・なにが 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 肌で感じた仏法の重大さ 暗い心の解決を求めて 富山青年部 K(22) 東西南北 釈尊の教えられた 親の大恩十種とは (下) 意気さかん、高岡南支部 御法座の大宣伝敢行 支部長会議 開かれる 本部長補佐 支部育成委員 A、D両講師を任命 青年部育成にとり組む滋賀県 学習会行われる 三千枚のビラで本願寺が親鸞会に対決 東京御法座 第二期顕正戦 八月で二百六名 次期随行者 K君(25),T君(27) 特別顕正隊 青年部幹部を育成 法友通信 北海道 A 顕正一口メモ 教学試験成績 (50. 7.21-50. 8.20) 天親菩薩伝 (2) 作・A 画・A 企業広告 ステンレス加工 S 大喝 ほら貝の教訓 随行録 K 企業広告 渡辺仏壇店 京都 K 響流 T・K (2コマ漫画) K 顕正一口メモ 編集雑記 第161号 S50/10/20 (1975) 一言説法 論説 ひん死の仏教を よみがえらせるもの こんなことがききたい 誰でもできる無財の七施 第161号 S50/10/20 (1975) 親鸞会は好戦的だから 嫌いだという人に 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 「弥陀の本願まことであった」 助けるぞ、の一声に救われた私 富山青年部 T (27) 東西南北 仏法の原点 生と死 会長 高森顕徹 初回で六百名を結集 鯖江市農協会館の御法座 =福井= 破邪顕正こそ本会の使命 第二期顕正戦を果敢の展開 特別顕正部隊 第一期生八名を選抜 よこがお 律儀な外見、内に秘めた情熱 石川支部 Kさん(43) 名古屋御法座 大喝 死神の来訪 随行録 K 法友通信 広島県 K 99匹の片目猿、1匹の両目の猿を笑う T.K (1コマ漫画) K 天親菩薩伝 (3) 作・A 画・A 親鸞聖人 報恩講 顕正ひと口メモ 教学試験成績 (50. 8.21-50. 9.20) 一人が一人を育成しよう 響流 顕正ひと口メモ 導師合格者 企業広告 渡辺仏壇店 第162号 S50/11/20 (1975) 一言説法 論説 「仏教は死んだか」 こんなことがききたい 二心でも助かるのか 第162号 S50/11/20 (1975) 門徒の教化を忘れ 納骨堂でかせいだ金を 親子で奪い合い 東本願寺 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 釈迦の一代教に従い 一向専念無量寿仏を 福井県青年部 K (25) 東西南北 芥川龍之介と仏教 北海道・九州をまたにかけ 大活躍の白道顕正戦 実感!! 僧侶の堕落は全国的 第二期顕正戦 千余の仏縁 12月1日~15日までに 会費前期分納めて下さい 第五回 大講師試験 九名の大講師誕生 岐阜事務所 住所変更 東京御法座 将来は二回やりたい、と会長先生 大喝 宝の埋まっている土俵 法友通信 新湊市 K 顕正ひと口メモ 随行録 K 天親菩薩伝 (4) 作・A 画・A 福井市 S 真実を体得する者、強し T.K (1コマ漫画) T 訂正 響流 教学試験成績 (50. 9.21-50.10.20) 顕正ひと口メモ 次期随行者 K(26) , J(22) 第163号 S50/12/20 (1975) 一言説法 論説 総括一九七五年 こんなことがききたい 歎異鈔 「ただ念仏して」の真意 第163号 S50/12/20 (1975) 報恩講劇 滋賀青年部 生首の説法 蓮如上人とお初の物語 第39回弁論大会優勝 真実の教えを求めて 島根県邑智郡 T (58) このままで 信心決定できるのか 優勝 第四十回弁論大会 富山県 T (27) 毎日新聞も注目する親鸞会 その報恩講に真宗の明日を見た 若者が実践の主力 人事異動 大喝 まず妻子を勧化せよ 訂正 年賀状の廃止について 企業広告 渡辺仏壇店 よこがお 門徒の教化を忘れた東本願寺 納骨堂でかせいだ金を親子で奪い合い 作・K (1コマ漫画) 教学試験成績 (50.10.21-50.11.20) 天親菩薩伝 (5) 作・A 画・A よこがお 会員の皆様へ 大導師合格者 第三十九回弁論大会成績 第四十回弁論大会成績 響流 導師合格者 随行録 T 法友通信 広島市 T 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 号 数 7面 8面 第164号 S51/01/20 (1976) 一言説法 論説 知識に信順せよ こんなことがききたい 日蓮のたわごと 第164号 S51/01/20 (1976) 昭和51年 謹 賀 新 年 元旦 年頭所感 変成男子の願心(年頭に思う) 本部長 F 第164号 S51/01/20 (1976) 総勢 140余名――親鸞会の中核を結集 幹部整列式行われる 東西南北 仏法興隆の地、吉崎で合宿 仏法年末年始はない 気を吐く親鸞会青年部 同志の皆さん、立つ秋が来た 真宗の危機は 人類の危機だ 会長 高森顕徹 岐阜支部報恩講 顕正大会行われる 富山 法友通信 高岡市 O 教学テキストの改訂について 滋賀県 F 五十年度顕正戦 個人別成果の表彰 高岡市 Y 過去の徒労の挽回を 青年部長 F 島根県 K 顕正ひと口メモ もの知り大学 第3期顕正戦 2月~5月 破邪顕正の精鋭たれ 和歌山県 S 支部長会議開かれる 今年度千五百年名顕正を決議 大喝 人間、一皮むくならば・・・ もの知り大学 解答 第十二回講師試験 九名の新講師誕生! 岐阜市 K 教学試験成績 (50.11.21-50.12.20) 随行録 T 長浜市 N 仏眼 顕正ひと口メモ 導師合格者 いけないずくし K 訂正 第165号 S51/02/20 (1976) 一言説法 論説 一億七千万人が祈る本尊 こんなことがききたい 『邪見、驕慢』とは何か 第165号 S51/02/20 (1976) 蓮如上人御一代記聞書に学ぶ その籠を水につけよ 私はなぜ 浄土真宗布教使になるのか 邪教を語った口で真実の仏教を! 私はキリスト教にだまされていた 福井県青年部 U (22) 東西南北 滋賀会館火災・二階全滅 焼け跡を放置して真実の説法 学生部発足 盛大に決起大会を挙行 全国の学生部員を結集 宣誓 正法宣布に死力を尽くす 岐阜 第三期顕正戦出陣式 谷本ビルで開催 滋賀会館復興委員会を設置 各地からよせられる復興資金 燃えよ!第三期顕正戦 法友通信 名古屋市 K 大喝 大宇宙は有限か、無限か 富山県 T 今月の金言 宗教多しといえども 正しい宗教は唯一ッ (1コマ漫画) 随行録 U もの知り大学 解答 編集局のメンバー 顕正ひと口メモ 導師合格者 浄土真宗親鸞会 図書案内 各県の支局長 仏眼 もの知り大学 教学試験成績 (50.11.21-50.12.20) 顕正ひと口メモ 編集雑記 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 136号~150号へもどる 151号~165号 166号~180号へすすむ
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第2章 現代日本の宗教の特質と歴史的背景 日本の宗教の複合性・二重性、その現代的性格と歴史的背景 1. 現代日本の宗教の多元性と宗教意識 現代日本の宗教の特質;a)多様な宗教の共存ないし複合性 b)宗教意識の二重性ないしあいまいさ 宗教の社会的意義の解明...現代人の欲求に宗教がどう応答していくのかを軸とするのが合理的 *複合性を異常視する近代主義的宗教観 近代的宗教観; 1.近代西欧のキリスト教を宗教の単一な基本モデルとして日本宗教が理解されてきた 「宗教=全人格をかけて超越的存在に帰依服従すべきもの」という理解(虚構) ⇒日本の宗教現象の雑炊性;「不完全」、「不純」 神道儀礼等;形式化した習俗的慣行か原始的な宗教的心性の名残、民族宗教の次元 2.宗教に依存する人間は非合理・非科学的で没主体的だとイメージされる傾向 信仰=心の問題として内面化、 外面的行為としての関わりが否定されるほどより高次な近代的宗教と見なされる ⇒日本の宗教の"ムラ"的性格とその中の個人の"没主体的傾向";日本宗教の前代性とされる *近代主義的宗教観の破綻 西欧近代モデルの宗教観から現代日本の宗教を評価することは理論的な難点および矛盾がある 1. 急激な近代化を経た結果、人々の精神構造やその宗教意識は基本的に変化 →前近代的な意識が継続されているわけではない 2. 近代化に伴い宗教が衰退するという前提は現在の宗教への関わりが広範囲に見られる事と 説明出来ない→むしろ近代社会固有の問題と結びつけて検討する視点が必要 3. 西欧の完成した近代市民社会において宗教は一般的に広く信仰されている →「近代化=宗教衰退」という図式は現実的に成立しない むしろ近代主義が思想的批判の対象となった結果、それまで否定された宗教・非合理的心情への関心が 本来の人間的現象として評価されるようになってきている ⇒ * 現代人の宗教関与と"豊かさ社会"の人間関係 ・森岡清美(1981)による現代人と宗教の関わり方の分析; 1. 一時的関わり2.表面的関わり3.功利的関わり4. 開放的関わり L 近代化がもたらした個人主義的・利己主義的で表層的人間関係の現れ(森岡) 今日の宗教への関心は完成され高度化した近代社会そのものから発生している ・西山茂(1988);《霊=術》系新宗教の特徴は、その構成要素や作用を人が操作する操作主義にある 宗教に全人格的に支配されるのではなく、自らの主体性を確保しながら必要に応じて関与するスタイル ⇒ * 現代人の合理的態度と宗教関与の主体性 ・霊術宗教への主体的関与;信者側も宗教に対し主体的・能動的に関わる傾向 ...科学や社会システムが解決しない欲求の一部を宗教によって実現しようと試みる (全人格的に宗教と関わり主体性を喪失してライフスタイルが転換する場合もある) ・ 民族宗教への関わり;祈願が呪術的信仰であることに無自覚 ...ほとんど合理的生活態度の一部として生活習慣化しているだけで合理性・主体性は担保されている * 現代宗教の多元性と合理性 現代日本人における宗教の複合性や宗教的意識の二重性; [教団のタイプ(従来の分類法)]...世界観型伝統宗教-体系的教義の確立していない宗教(表3-A) L キリスト教をモデルとした進化論的宗教観を背景にしたもの [諸個人の欲求の実現という視点から分類] ...いずれの宗教も多様なニーズに応答するタイプの異なる個別機能の宗教となる(表3-B) ⇒日本の宗教の複合性は宗教的多元性を示している [宗教的欲求への応答と諸個人の関心から分類] ...諸個人が主体性を消失するタイプは少ない(表3-C) 2. 宗教の多元性と宗教意識の歴史的背景 現代日本人における宗教の複合性や宗教的意識の二重性 ←日本宗教の歴史に強く影響を受けている *日本宗教の歴史的多元性 日本の宗教史の最大の特徴=キリスト教のような天蓋的宗教による一元的な宗教支配を経験していない L 諸個人の生活を全面的に支配する宗教の在り方 ⇔ヨーロッパ世界は数世紀に渡り"普遍的"に経験 日本仏教;中世以降、教団化して社会に定着 ・天台宗・真言宗など正統派仏教の思想=王法仏法相互依存論 ...王法(世間の道理)と仏法(超越的道理・真理)は相即の関係 ・ 国家は多様な宗旨・教団を公認※仏教が単一の宗教である、というイメージは根本的な誤解 ・ 親鸞系・日蓮系教団など例外的に排他的な一神教派は解体されたという歴史的経緯 ⇒日本の宗教は歴史的に世俗権力による宗教・宗教統制と宗教的多元性が伝統となり現代に至る * 信仰の雑炊性と倫理の不在 神仏習合;外来宗教の仏教は在来の神々の機能や儀礼を変容する事無く吸収して民衆世界へ浸透 ※ 神仏の単なる融合ではなく習ね合わせであった ⇔キリスト教の先住信仰との融合=機能・儀礼を継承しつつも固有性を否定 現代人のニーズに対応し、「豊かさ社会」の構造と密接に連関した現代的特徴 現代の宗教的複合性のベース ⇒仏教は多神教的性格、内容的多様性を持つ; 近代以前の神仏習合=人々の神仏宗教意識は一体的であった 日本人の伝統的宗教意識として仏教と神道が二重信仰、二重構造や重層性という捉え方は不適切 二つの虚構 神道の神々も土着の神との融合 →日本固有の信仰であると位置づけるのは天皇制国家主義および民族主義の虚構 精神の根底の無意識のレベルに普遍的な思想や意識が実体として永続するという見方は幻想 →仏教を表層的、神道を基層信仰であるとする二分法の虚構 例)民俗信仰が習俗化し明確な教義をもたないからといって「無意識の信仰」とは呼べない *神仏並立的信仰の一体性とその論理 日本の神仏習合;仏教哲学・教義の理論的解釈を通じて展開された日本仏教の"純粋形態" 例)仏の三身論の応身...仏は民衆の生活世界のさまざまの崇拝対象として現れる、という解釈 【伝統的宗教意識の多元性・寛容性・分業の観念】 日本宗教の歴史的特徴が形成した宗教思想・宗教意識の特徴的伝統 1.宗教的多元性の観念と宗教的排他主義への忌避の宗教感覚 信仰や宗教には多面的アプローチがあると考え、特定の宗教が支配的となることを"異常"とみなす 2.各教団内部に他の宗旨と共通する多くの信仰対象が併存するという認識 他宗教の信仰対象にも親近性・類似性を発見し同化させて尊重する同化的宗教的寛容 例)マリア観音 3.宗教的多元性と神仏並列的崇拝から派生する諸神諸仏の 神仏並列的信仰はそれぞれの機能・役割を温存し、分業的崇拝の宗教意識を形成 ⇒現代人の雑炊的宗教感覚やつまみ食い的信仰の歴史的前提となる 4.宗教と倫理は別次元にあるという観念; 悟りは世俗を脱する事で得られるとされたため、宗教の本来の領域は世俗外にあり、 世俗生活の事柄に宗教は本質的に関与せず、世間の流儀に身を委ねるという観念が形成される 5.伝統的宗教意識における原理主義の不在と無責任主義 宗教的原理の尊守からは、世俗や現実の問題に対して宗教的責任から批判的にふるまうような精神が 欠落しがちとされる ------------------------------------------------------------------ 日本の宗教の伝統的特性について、歴史的経緯からその論理の形成過程を解明し、現代人の宗教関与の在り 方が形成されるまでの検証作業は非常に興味深かった。それにしても、何故、当時外来宗教であった仏教は 在来の神々の機能や儀礼を変容する事無く吸収し得たのか、本文中では仏教の宗教的原理が世俗的解決を求 めた結果、既存の在来宗教の原理を融合せざるを得なかったと述べられていたが、この点において、例えば キリスト教原理とのいかなる差異があったのだろうか。そこには、むしろ信仰する諸個人の生活領域に大き く影響を与えざるをえない自然環境が形成した根本的な精神性や、既存のムラ社会の倫理が要因として関連 していたのではないだろうか。 外面的な宗教的寛容主義 内面的な宗教的寛容主義 分業の観念
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遍在転生観 永井均に対する批判 遍在転生観の問題 観念論的アプローチ 他我問題 渡辺恒夫は1946年生まれ。東邦大学理学部教授。専門は心理学。京都大学文学部で哲学を、同大学院文学研究科で心理学を専攻した。 自我体験、独我論的体験、意識の超難問の体験を心理学の立場から統計的に調査研究している。そして意識の超難問の解答として梵我一如思想を背景にした「遍在転生観」を提唱している。 遍在転生観 遍在転生観とは、渡辺恒夫が考える輪廻転生のあり方。全ての個人がそれぞれ所有しているように見える自己・自我というものは、実は唯一存在するだけであり、それが各個人に現れているのだと考える。 「なぜ〈私〉は21世紀の〈今〉というときに、〈ここ〉地球星の日本という島に生きているのか?」という意識の超難問的な問いに対しては、過去・未来・同時代のあらゆる知的生命体は、唯一の私が輪廻転生を繰り返す姿に他ならなず、私は今地球にいる全ての人間だったし、全ての人間になるだろうという考えである。 渡辺の思想は梵我一如の世界観を背景にし、永井均の独在性思想の対極にある。ただし、渡辺は独在性を否定しているのではなく、独在性が真性の問題であることを一旦認め、その解答として遍在転生観を提唱しているのである。 以下の図は渡辺の分類による転生観の種類である。 (太線が〈私〉であり、点線が心を持っていると想像しうる〈他者〉である) (出典 『輪廻転生を考える』p.175) 図の c の遍在転生観のみが、〈私〉がこの人間として生まれたという偶然の「神秘」を「必然」に転化しうると考える。 科学者のエルヴィン・シュレーディンガーもヴェーダーンタ哲学の影響を受け、著書『わが世界観』で遍在転生観と類似の考えを主張している。以下引用。 なぜ君は君の兄ではなく、君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い――君と誰か他の者との違い――をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。(p.99) 通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。(中略)――周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat twam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。(p.100) ※上記の「Tat twam asi」は「Tat Tvam Asi」とも表記される。 また『精神と物質』では、「一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです」と述べている。 永井均に対する批判 無限の昔から、世界は〈私〉なしに存続してきた。わずか数十年(長くてせいぜい百年)の例外期間を過ぎて、世界はまた〈私〉なしに存続していくであろう。(永井均著『私の同一性と〈私〉の同一性』) この永井の文章の「であろう」という部分について渡辺は、〈私〉の出現が一回きりである理由(未来に出現しない可能性)が彼にも思いつけなかったのだろうと指摘する。そして永井の転生観を上記の図の b であり、穴だらけ転生観の特殊ケースに他ならないと指摘する。 遍在転生観の問題 同時代の誰かに転生する――今現在いる多数の他人たちも〈私〉であるというのは合理的に考え難いことを渡辺も認めている。この点について渡辺は、時間を空間の第四次元に扱うアインシュタインを援用し、時間の第二次元(二次元時間)を想定して、問題の解消を試みている。 三浦俊彦は渡辺を批判し、意識の超難問を遍在転生観で絶対に解決できない理由は、なぜ今この瞬間に「私」は三浦俊彦なのか ? という疑問が解決できないからであり、最小瞬間ごとの転生を考えようとも、時間の第二次元を導入しようとも、「他ならぬこの瞬間になぜ……」という疑問が決して解決できないとしている。 渡辺は、人物Aと同時に人物Bであることはできないという問題について、以下のような可能性を考える。 ①刹那転生 輪廻転生の単位を生物学的な一生とするのでなく、一秒よりはるかに微小な時間、一刹那とし、〈私〉は一刹那のうちに次々と異なる人物――光のような速さで全世界のあらゆる人間に転生してまわる可能性である。これは仏教哲学の「刹那生滅説」に近い。自我を含む全世界が、一刹那ごとに消滅して、また新たに生じると考えるものである。 ②遍在転生輪廻 同時代人であるそれぞれの人物も、実は何らかの意味で「時を異にする」と解釈するものである。(この考えでは「時間の第二次元」は否定される) 観念論的アプローチ (以下は管理者の見解) 心の哲学において心身問題が解決困難である理由は、「一つの肉体には一つの心が宿っている」と、肉体と精神の関係を一対一の「所有関係」と考えることにある。実はその考え方は論理的とはいえない。自然科学の知見を前提したとしても、物理的な肉体と異なって精神は空間的にその位置を規定できないのだから、精神と肉体には「対応関係」があるということだけが事実として認められるのである。個人の肉体の中の脳という部分に精神が存在しているという素朴実在論的な見方は根拠が欠けている。(渡辺を批判する三浦も、心身関係を所有関係であることを前提にしている) 人格の同一性や意識の超難問においても、肉体と精神の関係を一対一とする限り解決困難なアポリアが生じることを、私は論じた。 アポリアを生じさせる原因は実在論、特に時間と空間の実在性を前提にしていることだと私は考える。もし時間と空間が実在しないと仮定すれば、遍在転生観の問題や、心の哲学における意識のハードプロブレムは解消されるだろう。従って私は、梵我一如の世界観を背景にした渡辺の思想とは異なり、時間と空間そのものの実在性を否定した古代ギリシャのエレア派の一元論によって独在性の問題を考えている。(この問題についてはエレア派の一元論の合理性として考究しているので参照されたい) 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である――このパルメニデスの指摘は鋭く、シンプルである。理論はシンプルなほど論破するのが困難である。事実このパルメニデスのロジックを論破した者を私は知らない。 クオリアとは、まさに「在るものが無いものになり、無いものが在るものになる」という矛盾したものである。それは〈私〉についても同様である。机やりんごなどの物質は燃えたり砕けたりして無くなった様に見えても、じつは元素や原子に分解されるだけである。しかし、クオリアは先ほどまであったと思えば次には完全になくなったように思われるし、〈私〉もまたいつか死ねば無くなるように思える。しかし、これは不合理である。 渡辺が意識の超難問に関心を抱いて遍在転生観を主張した背景には、おそらく「在る」ものであった〈私〉が「無い」ものになるということに不合理性を感じたからのはずである。ならば、変化――時間の実在性を問わなければならないはずである。しかし渡辺は遍在転生観を、時空の実在を前提とした科学的実在論と調和させようとしている。これは問題の本質が間違った方向にスライドされていると考える。 そもそも私がパルメニデス的な一元論に惹かれたのは、宇宙における物理法則の普遍性(後に自然の斉一性原理という言葉を知ることになる)がきっかけだった。宇宙には電磁力や重力など、さまざまな法則があるが、それらの法則は宇宙のどこでも遍く通用し、変化しないらしい。地球ではE=mc2だけど火星ではE=mc3であってもいいのではないか? なぜ、そうではないのか? 子供の頃、そんな素朴な疑問に悩んだものだった。そんな疑問が解消したのは、ずっと後年のことである。パルメニデスとエレア派の思想に接し、この宇宙が空間によって断絶しておらず存在は「一」であるとしたなら、物理法則が普遍的であることは何の不思議もなくなったのである。そして、これはスピノザの影響であるが、さまざまに存在する物や人々はその唯一の存在の属性として考えるようになった。 私なりの遍在転生観(この思想を抱くようになった時はまだ渡辺恒夫を知らず、遍在転生観という言葉も知らなかったが)を持つようになったのは、そのような世界観が背景にあったためでもあるし、当時心の哲学において流行の言葉であったクオリア問題の解消の試みとして辿り着いた結論でもあった。 他我問題 (以下は管理者の見解) 「他我」の問題は、一元論の立場では存在しない。そもそも他者の定義じたいが「自分と異なる肉体と、その肉体にあるかもしれない精神」なのだから、空間の実在性を否定するエレア派的な一元論の立場では、「異なる肉体」という他者の定義の一つが消去されることになる。もちろん空間が実在しないとしても、精神の在り方は純粋に非空間的なものだから、空間的広がりのない世界に複数の精神・自我が在るということは論理的に可能であると思う。しかし空間の実在性を否定するなら、自我が複数在る必要はないように思われる。多数の知覚が存在していることは事実であろうが、その多数の知覚が唯一の自我に現れているとしても論理的に間違ってはいないだろう。 この場合、自我が唯一であるというのは、他我の存在を否定するものではない。他我も自我であるというのが、遍在転生観の核心なのである。広い世界に多数の人々が存在し、それぞれが〈私〉であるというのは考え難いかもしれないが、空間的広がりのない、たとえば数学的な意味での唯一の「点」の世界に多数の人々(として認識されるなにか)が存在し、そこに唯一の〈私〉がおり、その唯一の〈私〉が様々な視点から、様々な認識をしているとイメージすれば考え易いかもしれない。 他者もおそらく〈私〉であろう。ただ〈この私〉とは見ているものが違うということだ。この場合、「同時に別のものを見ている」ということを意味しない。「同時に」という言葉が意味を持つのは時間が実在していると仮定した場合だけだ。 参考文献 渡辺恒夫『輪廻転生を考える』講談社現代新書 1996年 渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 世界観の心理学で独我を超える』ナカニシヤ出版 2002年 三浦俊彦 「意識の超難問」の論理分析」『科学哲学 35-2』 2002年 西田幾多郎/著 , 竹田篤司/〔ほか〕編『西田幾多郎全集 第一巻』岩波書店 2003年 エルヴィン・シュレーディンガー『わが世界観』 橋本芳契監修 中村量空・早川博信・橋本契訳 ちくま学芸文庫 2002年 参考サイト http //homepage1.nifty.com/t-watanabe/correspondence.htm http //www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site46/religeous8.html http //www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jpssj1968 cdvol=35 noissue=2 startpage=69 chr=ja http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC
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仏教用語 仏教で使われる特殊な用語の解説です。また、過去歴史の重大事件で通称がある場合、これも含まれます。 あ~お か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~よ ら~ろ わ~ん
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創価学会の歴史と確信 時あたかも、わが国は太平洋戦争に直面し、国をあげて、修羅のちまたに突入したのである。牧口会長は、この大戦争の間に、強く大聖人のご精神を奉戴して、国家の悪思想たる天照大神を拝むということに対立したのであった。 時の軍部は、蒙古襲来のとき、神風が天照大神によって吹いたという歴史にだまされていたのであった。国家が謗法の行為をなすことを知らず、大聖人の教えを聞こうとせず、語ろうともせず、かつ、御本仏大聖人の祈りによって神風が吹いたことは、知らなかったのである。米国はデューイの哲学により、日本の軍部は低級な邪義である神道論によって、一国の精神統一を図った。勝敗は物量だけの問題でなく、すでにこのことによって定まっていたのである。かれらが敗戦とともに、狂人的になることは、どうすることもできないことであった。 高級な仏教哲学は、敗戦すべきことを教えていたのであるが、そのたいせつな教理である大聖人の御遺文すら焼き捨てようとかかったのである。軍部の偉大な権力は狂人に刃物で、民衆はおどされるままにふるえあがって、バカのように天照大神の神棚を作って拝んだのである。このとき、牧口会長は、天照大神の神札を拝むことは、正宗の精神に反すると、きびしく会員に命ぜられたのである。 日本の国は、軍部にひきずられて妙な考え方になっていた。国内が思想的に乱れるのを恐れ、宗教の統一を図ろうとくわだてた。天照大神を拝んで神風を吹かしてもらうと言いだしたのである。天照大神を拝まないものは国賊であり、反戦思想であるとしていた。日本始まっていらい、初めて国をあげて天照大神への信心である。 天照大神とて、法華経守護の神である。法華経にいのってこそ天照大神も功力をあらわすのである。しかるに、文底独一の法華経を拝まず、天照大神だけを祈るがゆえに、天照大神の札には魔が住んで、祈りは宿らず、一国を狂人としたのである。 しかも、御開山日興上人の御遺文にいわく、「檀那の社参物詣を禁ず可し」とおおせである。この精神にもとづいて牧口会長は、「国を救うは日蓮大聖人のご真意たる大御本尊の流布以外はない。天照大神を祈って、なんで国を救えるものか」と強く強く言いだされたのである。 当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖人の教義に背けば罰があたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。 昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人の立ち合いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。 御開山上人の御遺文にいわく、 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには 「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにを恐れているのか知らん」と。 まことに大聖人のご金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部21名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。 また、投獄せられた者どもも、あわれであった。事業のつぶれる者、借金取りにせめられる者、収入の道なく食えなくなる者等続出して、あとに残った家族も、悲嘆にくれたのである。このゆえに、まず家族が退転しだした。疑いだした。これは確信なく、教学に暗いゆえであった。投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人を御本仏と知らぬ悲しさである。 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21名のうち19名まで退転したのである。 会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の3人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。会長牧口常三郎先生は、昭和19年11月18日、この名誉の位置を誇りながら栄養失調のため、ついに牢死したのであった。 私は牧口会長の死を知らなかった。昭和18年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。20歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。 毎日、独房のなかで、「私はまだ若い。先生は75歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」と大御本尊に祈ったのである。 牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。昭和20年1月8日、投獄以来一年有半に、「牧口は死んだよ」と、ただ一声を聞いたのであった。独房へ帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。 ちょうど、牧口先生の亡くなったころ、私は200万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった。 その取り調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるようななさけなさ。心のなかからこみあげてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御仏にささげる決意をしたのであった。敗戦末期の様相は牢獄のなかまでひびいてくる。食えないで苦しんでいる妻子のすがたが目にうつる。私は、ただ大御本尊様を拝んで聞こえねど聞こえねばならぬ生命の力を知ったがゆえに、2000べんの唱題のあとには、おのおのに100ぺんの題目を回向しつつ、さけんだのである。 「大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣にたおれるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、また子と名のり、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。かならず厚くおもてなしをうけるであろう」 毎日、唱題と祈念と法悦の日はつづけられるとともに、不思議や、数馬判事の私を憎むこと、山より高く、海よりも深き実情であった。法罰は厳然として、彼は天台の一念三千の法門の取り調べになるや、重大な神経衰弱におちいり、12月18日より3月8日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。 牧口先生をいじめ、軽蔑し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の宣告をうけたのである。その後の消息は知るよしもないが、阿弥陀教の信者の立ち場で私ども同志を裁いた彼は、無間地獄まちがいなしと信ずるものである。不思議は種々つづいたが、結局、7月3日に、私はふたたび娑婆へ解放されたのであった。 【1951.07.10 『大白蓮華』第16号】 ■戸田第二代会長・指導集に戻る
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仏教人物事典 仏教界において重要と思われる人物についてのページです。僧侶、仏教帰依者に限らず、仏教弾圧を行った人物など、仏教へ影響をもたらした人物全てが含まれます。 中国名を優先的に表記します。インドのサンスクリット語での名前がある場合は、明らかな場合は説明文の中で併記します。 あいうえお順で表記します。 鳩摩羅什(くまらじゅう)
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言語の哲学としての言語哲学 古代ギリシャ 言語についての哲学的反省について、 確実に本人の一次資料に基づいてある程度の分量を述べることができるのはプラトーンからである。 彼は、イデア論やアナムネーシス(想起)説を提唱するに際して、 言語的反省と論理的推論に基づいて(対話という表現形式を用いながらも)哲学的諸原理に到達した。 更に、その弟子アリストテレースに到ると、単にその形而上学をはじめとする哲理への到達手段として論理を用いたのみならず、 論理構造と虚偽論それ自体を体系化して学問範疇となす。特にその論理学は基本的に19世紀のフレーゲまで、論理学の基本となるものであった。 古代ローマ〜中世初期ヨーロッパ 上記の流れはローマ帝国において、一方では法廷弁論術として、他方ではストア派や中期プラトン学派の哲学思考法として継承されたものの、東西の分裂を機に、ギリシャ語圏の東ローマ帝国では観想と聖書の霊的解釈学とを重んじたビザンティン・キリスト教思想において次第に弱体化する。他方、早くに西ローマ帝国の滅亡といわゆる「蛮族」の横行をみたラテン語圏の西ヨーロッパでは、ヒッポのアウグスティヌスという古代末期最大の哲学者が生まれ、命題論としては名辞と名辞の連接、意味論としては名辞とその対象物( Fido -Fido theoryという揶揄的名称がある)のように、フレーゲ以前を決定付ける言語哲学が確立した。アウグスティヌスは言葉(verbum)を記号(signum)の一種とみなして考察を行った[2]。また、『嘘について (De mendacio)』、『嘘に反対して (Contra mendacium)』、『エンキリディオン (Enchiridion)』などで、アウグスティヌスは、人間の言語活動における文脈や話し手・聞き手の意図の重要性に着目している[3]。彼は他に、『三位一体論』では、「外的語り(locutio foris)」、「心の語り(locutio cordis)」もしくは「内的語り(locutio interior)」、「音声の似姿において思考されるもの(cognitativium in similitudine soni)」の三者を区別した。音声を伴った言葉である「外的語り」に先行して、ギリシア語やラテン語のような自然言語には属しない「思考(cogitatio)」である「内的語り」が存在している。そして、「外的言葉」を声に出さずに考えている場合をアウグスティヌスは「音声の似姿において思考されるもの」と呼んだが、同様の概念が「内言」と呼ばれて発達心理学や認知言語学の分野で20世紀以降注目されている。 ギリシアの論理・言語の哲学はボエティウスによって西方ラテン世界へ紹介された。彼はアリストテレスの『オルガノン』全編やポルピュリオス『エイサゴーゲー』をラテン語へ翻訳した(ただし『オルガノン』のうち『分析論後書』は散逸し、『分析論前書』や『詭弁論駁論』は中世初期には読まれなかった)。ボエティウスの翻訳に不備があるとして非難する声もあるが、文献学的な研究によれば、むしろボエティウスに先行するガイウス・マリウス・ウィクトリヌスの翻訳などより優れたものであるという[5]。また、ボエティウスは『エイサゴーゲー』および『命題論』にはそれぞれ初歩的なものと高等なものの二つの注釈書を、『範疇論』、『トピカ』、キケロの『トピカ』にはそれぞれ一つの注釈書を著した(アリストテレスの『トピカ』に対する注釈書は散逸した[6])。ボエティウスは『区分について(De divisione)』『様々なトピカについて(De topicis differentiis)』、『仮言的三段論法について(De syllogismo hypothetico)』といった研究論文も書いたが、注釈書共々独創性は低く、ボエティウスは努めて論理や言語の哲学の紹介者であろうとしたのだとされる。 アウグスティヌスが記号(signum)という表現を用いて言葉を考察したのに対して、ボエティウスは表示(significatio)という表現を用いた。ボエティウスの言語哲学は以下のような特徴を持つ (1)話し言葉は第一には心の中の思惟(intellectus)を表示(significare)し、第二に思惟を介して思惟によって捉えられる事物を表示する(24.12-13;33.27-31)。 (2)話し言葉や書き言葉の文があり、文の中で名詞と動詞が区別されるように、心の中にも文(いわゆる「思考文」)があり、名詞と動詞が区別される(30.3-10)。 (3)心の中の名詞と動詞の複合、つまり思惟の複合と、その結果として思惟の内に生じる真理値は、話し言葉の名詞と動詞の複合と真理値に派生する(49.27-32)。 (4)書き言葉と話し言葉は規約によって設定され、多様性を持つのに対し、思惟と思惟によって把握される事物は自然的であって全ての人にとって同じである(24.27-25.5)。 (1)に関して、ボエティウスは思惟が形成されるためには外界の事物が必要だと考えていた。上記の(2)~(4)はジェリー・フォーダーの「思考の言語」説の主張と共通する部分がある。 ボエティウスや文法家のプリスキアヌス以降の西欧では言語の哲学に限らず哲学全体がしばしの停滞期をむかえ、カロリング朝ルネサンスの時代に復興する。これ以降の中世の論理学は、12世紀ルネサンスの時代を境目に旧論理学(logica vetus)と新論理学(logica nova)に二分される。旧論理学の時代には、前述のようにアリストテレスのオルガノンのうち『分析論後書』、『分析論前書』、『詭弁論駁論』などは読まれなかったし、カロリング朝ルネサンスの時代には『範疇論』に関してもボエティウスがラテン語に訳したものではなく、『範疇論について』の梗概・注釈書である偽アウグスティヌス『十の範疇について』が読まれた[10]。したがって言語哲学のテキストとしては、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(ボエティウス訳・註解)、アリストテレス『命題論』(ボエティウス訳・註解)、『範疇論』(ボエティウス訳・註解)または偽アウグスティヌス『十の範疇について』、キケロー『トピカ』(ボエティウス註解)、ボエティウス『様々なトピカについて』『区分論』などがこの時代に読まれた。文法学ではカロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥス『文法学(Ars grammaticae)』が、時代が下るとプリスキアヌス『文法学教程(Institutiones grammatice)』がテキストとして利用された。また、現代の形式論理学が対象としないような哲学的考察をも中世には論理学の領域となっており、中世の論理学は言語哲学と表現されるのが実情に合っているとされる[11](ただし、中世にも論理学の対象を今日の形式論理学と同じような範囲に限定すべきだと考える者もいた。この時期には論理学を神学や形而上学と分けて論じる学者と混同して論じる学者が混在していた[12])。 カロリング朝ルネサンスの中心人物アルクィヌスは『弁証学(Dialectica)』を著した。本書は五つの普遍(類、種、種差、付帯性、固有性)、範疇、三段論法、定義・区分、トポス論、命題論といったものを扱っており、アリストテレスからボエティウスやカッシオドルスに至るまでの流れを扱ったに過ぎなかった[13]。ただ、独自の思想を唱えるには至らなかったものの言語研究史上におけるアルクィヌスの功績は決して小さくない[13]。アルクィヌスの後をついで宮廷学校長となったヨアンネース・スコートゥス・エリウゲナ(主著『自然位階論』)は偽ディオニシォース・ホ・アレオパギテース(主著『神名論』『神秘神学』)の諸文書をラテン語訳・紹介することを通じてネオプラトニズム[14]を再導入した。 11世紀〜13世紀ヨーロッパ ラテン語圏では11世紀になると、アンセルムスに代表されるような形で論理学が再び活発化する。 まず、ヨーロッパ各地での学問的な活性化の中で、細々とした伝承だけであったアリストテレースの論理学著作も、再びボエティウスの註解とともにきちんととした形で読まれるようになる。 ロスケリヌスら音声論者(Vocales)は「普遍は単なる音声にすぎない」とし、後の唯名論 (Nominalismus) へとつながる議論を開始したが、これはアンセルムス『ロゴスの受肉に関する書簡』などで批判された。このころには論理学は事物(res)に関する学問であると考えられていて、それに対して論理学は言葉・音声(vox)に関する学問だという意見は奇抜なものだと受け取られたとされる[15]。12世紀に入り、そうした運動の中でアベラルドゥス(アベラール)は、それまで漠然と使用されてきた「普遍」といった概念自体を問いかけ、大きな議論を引き起こす(普遍論争)。アベラルドゥス以前のヨハネスやロスケリヌスが音声(vox)という用語を使ったのに対してアベラルドゥスも初期はそれに従ったが途中からはsermoやnomenという用語を使い、彼とその弟子たちはnominalesと呼ばれるようになった。この違いは、ロスケリヌスらとその批判者との対立が普遍や範疇を言語哲学の問題として扱うか形而上学の問題として扱うかという点にあったのに対し、アベラルドゥスが存在論的態度表明を持ち込んだことによる[16]。 アベラールは『文法学(Grammatica)』という名の著書を著した。これは現在では失われているが、彼は論理学の議論に文法学の用語・手法を持ち込んだ。このことは音声論者たちに影響を受けてのことだったと推測されている[17]。対して、論敵のシャンポーのギヨームは文法学と論理学を切り離して論じる傾向があり、これが12世紀に支配的な傾向だった[17]。 カロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥスの著書が文法学のテキストとして使用されていたのに対して、この時期にはプリスキアヌス『文法学教程(Institutiones grammatice)』が使われるようになった。しかし13世紀にいたるとダキアのボエティウスのように、プリスキアヌスの規範文法学では満足できないものが現れ、言語的法則や規範の原因を問う思弁文法が興隆することになる[18]。それに伴って、文法学の分野で様態(modus)に着目する様態論者(modistae)が現れた。彼らの言う様態は表示の様態(modus significandi)、理解の様態(modus intelligendi)、存在の様態(modus essendi)の三つに区別され、理解の様態は表示の様態の原因で、存在の様態は理解の様態の原因だとされた。また、今日の哲学者が現実について知るために言語の本性について考察するのに対し、様態論者は言語現象の原因を明らかにするために現実について論じたという[19]。しかし様態論者の主張のうち、表示の様態は後にオッカムの剃刀によって剃り落されてしまう、というのはオッカムは表示の問題を精神-事物間でのみ扱うために言葉の表示の機能は不要となるからである[20]。 そうして、イスラーム圏に保持されたギリシア哲学諸文書の流入・翻訳を機に(実際には、ビザンツ所有の文献の流入の影響もかなり大きかったというが)いわゆる12世紀ルネサンスが起こる。その動きは、イスラーム圏の進んだ科学探求の成果の導入のみならず、それまで論理学者としてのみ知られてきていたアリストテレースの広範な業績の再発見でもあり、これらの新たな思潮の消化・吸収と反発が13世紀を形成することになる。 そして14世紀には独自な発展があり、それは例えばオッカムの論理学等に見ることができる[21]。オッカムの思想の内ではオッカムの剃刀の他に代示理論もよく知られている[20]。代示理論はオッカム一人が唱えたものではなく長い期間研究されたもので、研究が蓄積するとともに理論が精妙ではあるが煩瑣なものとなり、ルネサンス以降批判の的となった。20世紀以降の言語哲学では再評価されている[22]。 これらスコラ哲学における論理学や文法学の発展の中には、当時の流れから言えば傍流ではあるが例えばラモン・リュイ (ラテン語名:Raimundus Lullus ライムンドゥス・ルルス、1235-1316) がおり、語と語を組み合わせる機械によって全世界の全真理を知ろうとする「ルルスの術(普遍的な偉大な術 ars magna generalis)」の発明を得るに到った。 デカルト その後、近世哲学の創始者ルネ・デカルト (Rene Descartes, Renatus Cartesius 1596-1650) らは言語を軽視した(彼のすべてを疑う方法的懐疑において je suis, je existe (「わたしはある、わたしは存在する」)、 je pense, donc je suis [23]といった表現が、彼の直観を正しく表現しているか否かについてさえ全く疑いを持たないところに、その時代の状況が明白に現れている。ただし彼の論理思想はポール・ロワイヤル学派において展開され、当時のフランス・カトリック思想界で基本的教科書として使用された[24]。 同様の言語軽視はイギリス経験論者にも見られる。彼等は、アウグスティヌスの名辞と名辞の連接としての命題観を受け継ぐ。ただその意味対象(指示)として、対象物それ自体にかえて、彼等の認識論に従って観念に置き換えたのみである。このパタンはジョン・スチュアート・ミルを通じて中後期のラッセルまで続く英国言語哲学の欠陥であり続けることになる。 ライプニッツ ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leipniz, 1646-1716, 関連主著『論理学』[25])の普遍数学 (mathesis universalis) の構想はきわめて先駆的なものであった。少数の無定義概念と定義により諸科学の諸概念を、それらからなる少数の無証明公理と論理とのみから全知識命題を導出することを試みた。そして、普遍記号学と推論計算との二分野からなる基本普遍学の構築を企てた。とはいえ、無神論者・異端者としての誹謗をおそれた彼は、一般書『弁神論』の他は、哲学関係の著作を一切発表しなかったため、長らく言語哲学への影響はきわめて限定されたものであった。遺稿からの評価では、可能世界論を存在論と意味論との並行において論じている。その構想は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、クリプキの可能世界意味論・様相論理の先駆であるとともに、コンピュータ言語への大きな貢献を成し遂げているとされている。 フンボルト ここまでは、言語を論理の表現として把握する思考が主であった。それに対し、カントの悟性範疇を言語で置き換え、言語が人間において質料世界からの無定形な原=情報を分節化した認識対象として構成する決定的機能を持つことを指摘したのが、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(karl Wilhelm von Humboldt,1767-1835 主著 "Ueber die Kawaisprache auf der Insel Java"[26])の言語研究だった。 彼によれば、人間は現実の諸言語を創造する能力とこれらの諸言語を規定する言語形式保持の能力とをもつ。後者からの外部表出としての前者が多様に具現化することをもって、人間の諸言語の(ひいては人間の諸文化・思想の)多様性を説明しようとした。ただし、当時の言語学者は主に個別言語にしか興味を有さず、また哲学者たちは人間精神自身の能力しか関心を持たなかったため、フンボルトの言語哲学への影響は限定的なものにとどまった。 この反フンボルトの代表格に、言語学者としては比較言語学・歴史言語学の大家ヤーコプ・グリム (Jakob Grimm 1785-1863)・ヴィルヘルム・グリム (Wilhelm Grimm 1786-1859) のグリム兄弟が、哲学者としてはヘーゲル、シェリング、ショーペンハウアー等のドイツ観念論者の系譜があげられる。19世紀後半になるとヘルマン・パウル(Hermann Paul 1846-1921 主著 "Prinzipen der Sprachaphilosophie" 『言語史原理』) が、言語の歴史の錯綜と変容に満ちた過程の背後に、不変かつ普遍な人間精神の共通性の存在を想定し、ドイツ青年文法学派の指導的役割を果たした。 ソシュール 言語学領域における言語哲学的関心は、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure 1859-1913。主著 "Cours de Linguistique générale" 『一般言語学講義』[27])において頂点に達する。彼は言語学を、言語の歴史的変遷をたどる通時(diachronique 歴史)言語学と、言語構造の同一性に訴える共時(idio-syncholonique)言語学とに峻別したうえで、言語の研究対象を個別の発話(parole)、文法構造を共有する一つの言語(langue)、それらを産出する能力としての言語能力(langage)に分類する。さらに、言語は世界を恣意的に分節化しそれを記号内容(シニフィエ、所記[28])に対して恣意的な対応関係にある記号表現(シニフィアン、能記[28])によって指示するという二重の恣意性を指摘、加えて記号表現自体は時間的に線状性をもつことを指摘した。 彼の思想は、特にその共時言語学と記号の考察と構造主義(言語の共時的・静的モデルを思考の基本におく)およびポスト構造主義(言語の静的モデルのみならず変動システムをも考察の範囲に取り入れる)の理論家たち(ローマン・ヤーコブソン、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァなど)として発展した。ただし、これらは言語哲学(philosophie langagière)よりは記号論(sémiologie, sémiotique)と呼ばれることが多い。 なお、これらの基礎となった『一般言語学講義』においては、編集者(セシュエ&バイイ)の誤解が著しく、ソシュール自身の言語観が大きくゆがめられて伝達されていることが、丸山圭三郎などの一連の仕事によって明らかにされている[29]。 フッサール これら、言語学から記号論へとの流れと並んで、19世紀半ばより哲学領域でも言語への志向があらためて起こった。その一人に現象学の創始者エドムント・フッサール (Edmund Husserl 1859-1938) があげられる。彼は言語を、精神の表出運動それ自体とその意味付与作用としての志向及び意味充足との合力として把握した。この流れは現象学一般へと展開していく。しかし、現象学は第一義的には超越論的な自己の心理能力そのものに関心を抱くものであるため、言語はその中の一つの因子として考察されるにとどまることが多い。 分析哲学としての言語哲学 フレーゲ 言語を存在のあるいは心理能力の一機序と定位してきたこれまでの西洋哲学史に反して、言語こそを哲学の中心課題に定位したのが分析哲学である。分析哲学は、フレーゲ、ラッセルを基礎とし、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインもしくはカルナップを端緒とするが、英米を中心とした哲学の潮流を中心とし、観念等よりも言語の優越を基礎とする。だがその主張は多岐にわたり、かつ、中心テーゼも必ずしも存在しない。またその発展とともに、分析哲学の仕事の範囲は言語の哲学の範囲を超えて存在論、倫理学、美学、心の哲学、行為論、科学の哲学、数学の哲学等、哲学のほぼ全てと言えるほど多岐にわたってきている。 広義での分析哲学の源流は、19世紀中葉ドイツの数学者ゴットロープ・フレーゲ(Gottlobe Frege:主著『概念記法 ("Begriffsschrift, Eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens")』『算術の基礎 ("Die Grundlagen der Arithmetik")』『算術の基本法則 ("Grundgesetz der Arithmetik" I)』[30])に求められる。彼は、それまでの言語哲学が命題間に成立する三段論法(既にアリストテレスによりほぼ完成されていた)を前提に名辞とその対象とを考察することしか主たる課題としていなかったのに対して、一命題(Satz)内の構造と量化(すべての、ある、存在する)とを問題にする量化理論を発見した。さらに、それに基づく意味論を考察した。 彼によれば、言語の基本単位は命題(文 Satz)であり、それより小さい諸単位(日常言語では語句、フレーゲの量化論理では、項 (Argument) と函数 (Funktion))の意味は一つの命題という文脈の中で考えられねばならないという文脈原理を提唱した。また「意義と意味について (Über Sinn und Bedeutung)」において、「明けの明星」と「宵の明星」という2つの語がいずれも指示対象としては同一の金星を指すにもかかわらず言語における機能を異ならせることから、指示対象のことを「Bedeutung」(意味)と呼び、その語の意味の違いを「Sinn」(意義)と呼んで区別する、という画期的業績を残した。とはいえ、フレーゲにおいては、意味は言語を超越した超実在(一種のイデア)であるGedanke(思想)に求められている。この点で、分析哲学化や後述する言語論的転回を経験したものとはいえない。 ラッセルとムーア 20世紀初頭、フレーゲの論理学に基づく数学基礎論に批判を加え、新たな数理哲学を展開したバートランド・ラッセル(Bertrand Russell 英)は、さらに「確定記述 (definite description)」について、それを分析する。確定記述とは、「the present king of France(現在のフランス王)」 のように記述の形をとりながら事実上固有名詞のように唯一の存在を名指す機能をもつ語法のことである。ラッセルは「指示について On Denoting 」[31]において、「現在のフランス王は禿げである」という命題は現時点でフランス王が存在しないので真とも偽ともいえないように思われるので問題であるが、「Xがフランス王であり、かつXが禿げである、そのようなXが存在し、しかもただ一人存在する」という諸命題の連言として解釈することによって、一応の解決をもたらした。 この瞬間、哲学上の問題を言語分析により解消するという分析哲学の基礎が打ち立てられたといえる。また同時期、ラッセルのケンブリッジにおける同僚ジョージ・エドワード・ムーア(George Moore 英)は「倫理学原理 "Principia Etica"」[32]において、「良い (good)」という語の使用法の詳細な分析を行い、当時英国で英国経験論者を中心に信奉されていた考えと違い、「良い」という倫理的価値語は「益がある・好ましい (preferable)」などの自然的記述語には還元できないと論じた(自然主義的誤謬の項参照)。それにより、日常言語の使用法の記述による哲学的問題の解決を行った。 なお、ラッセルが展開した数理哲学については、『プリンキピア・マテマティカ』 (『数学原理』、"Principia Mathematica") を参照。この本は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead 英)との共著。 『論理哲学論考』のウィトゲンシュタイン これらの業績の上になりたったのが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein 墺→英)の処女作『論理哲学論考 ("Tractatus-Logico-Philosophicus / Logische-Philosophische-Abhandlung")』[33]である。短期間ではあったがラッセルが彼の師を務めたものの、ラッセルによる序文は、彼の理論を誤解した部分が多いとされる[要出典]。 しかし難解で様々な解釈があり、その解釈の一つによれば、日常言語は完全であるが複雑であるので、哲学的問題の解決のため簡便なモデルを創出する。それは、日常言語も共有する(ことを分析により明晰化するはずの)形式である、とされる。その形式は、言語はすべてそれ以上命題として分析できない基礎である(ここにフレーゲの文脈原理が忠実に採用されている)原子命題 (atomistiche Satz) とその真理函数 (Wahrheitsfunktion) とからなる(原子論 atomism)。原子命題は、名 (Name) と名との結合である。これらの言語的基礎単位に対応して、世界 (Welt) において原子的命題に事態(Sachverhalt)、名に物 (Ding) が対応する、そして、論理と数学の命題は特殊な命題であるが記述的命題ではなく、加えて、事実命題、論理学の命題、数学の命題以外は無意味な擬似命題であり、価値や倫理や神や世界の意義は語ることができないという主張がなされた、という。『論理哲学論考』の、言語の構造こそが存在論を規定するという発想こそ、言語論的転回の決定的な指標であり、分析哲学の誕生であった。 この『論理哲学論考』を受けて、分析哲学にはラッセル以外にも4つの流れが生じた。論理実証主義、後期ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派である。 論理実証主義と科学哲学 その第一は論理実証主義 (logischer Positivismus) もしくは論理経験主義である。オーストリアのウィーンの哲学者たちによるウィーン学団 (Wiener Kreis) やドイツのベルリンの哲学者や数学者によるベルリン学派グループ(ルドルフ・カルナップ(Rudlf Carnap 墺→米)、モーリッツ・シュリック(Moritz Shclick 墺)、ハンス・ライヘンバッハ(Hans Reichenbach 独→米)ら)では、数学が記述命題ではないことに着眼し[34]、さらに検証可能な命題以外は有意味でないという主張をもとにして、有意味な命題は自然科学に属すると主張する。 そして『論理哲学論考』の主張に従い、従来の哲学における形而上学を追放し、日常言語の曖昧さを廃して完全な人工言語の創案に邁進[35]するという人工言語学派を開いた。それにより、自然科学的諸命題の性質に基づく世界観を構築しようとした。 『論理哲学論考』が命題の意味に関連して事実との一致不一致に基づき、真偽判定可能な命題を有意味命題 (sinnliche Satz) としたのに対し、論理実証主義たちは検証可能/不可能という概念に基づき、「検証可能な命題=自然科学によって判定される命題=有意味な命題、検証不可能な命題=擬似命題=除去されるべき命題」という二分法を導入した[36]。それにより、科学とは検証可能な諸命題の総体である、と主張する言語哲学に基づく科学観を形成した(→科学哲学)。 これらの主張はアルフレッド・エイヤーの『言語、真理、論理』(A.J.Ayer "Language, Truth, and Logic" [37])によって英国にもたらされ英国哲学界を震撼させた。この主張に対しては、カール・ポパー(Karl Popper 墺→米)が一般法則は決して完全に検証できないことから検証可能性条件では科学の法則命題の正当性を保証できないと批判した。加えてポパーは、反証については一つの反証事例でも決定的証拠になるという検証と反証の非対称性に着目し、反証可能性 (falsificationability)に科学の基準を置いた。その他科学哲学を参照のこと。 『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタインとその周辺 第2の流れは『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタイン自身の哲学の変遷である。この展開は漸移的かつ多彩であるので詳細ははぶく[38]が、彼は『哲学的探求 ("Philosophische Untersuchungen")』[39]において、「規則は行為を決定できない」という規則のパラドックス (rule following paradox) の帰結としての根元的規約主義 (radical conventionalism)、言語の使用タイプの多様性[40]、及び言語がその意味を生活上の機能からくみ上げていること、等へ注目する。この観点から哲学の諸問題については、哲学の問題が陥っている言語の日常的使用からの乖離を批判し、それ等の語の日常的使用を注目することにより、解答を与えるのではなく擬似問題であるとして解消することこそ、正しい対処法である、と考えた。その一方で、単なる規約主義ではなく、人間の自然誌(Naturgechichte)的・文化的(生活形式、Lebensform)要素と言語の機能との関係に、注目していった。 この方向性は、言語哲学を越えて、心の哲学(『心理の哲学に就いての考察』"Bemerkungen über die Philosophie der Psychologie")と数学の哲学(『数学の基礎に就いての考察』"Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik")とにウィトゲンシュタイン独自の理解を提示することになる。更に死の直前に残したノート(『確実性について』Über Gewissheit)からは言語の基礎(クワインやラカトシュのいう理論の核・中心部に概ね相当する)についての考察が見出される(いまだ学界でも十分に消化されたとはいえないテクストである)。 ただし、この時期のウィトゲンシュタインは、そのテクストが難解なこと、体系的議論に形式化され得ないので多量の問題形成→解決→更なる問題の発生という学問グループ内の巨大化が困難なこと、彼自身と彼の弟子たち(ノーマン・マルカム(Norman Marcolm 米→英→米。主著 "Dream")、ピーター・ウィンチ(Peter Winch 英→米。主著『倫理と行為("Ethics and Action")』勁草書房)、ラッシュ・リース(Rush Rhees 英。主著"Without Answers")、エリザベス・アンスコム(Gertlud Elizabeth Margaret Anscombe 英。主著『インテンション("Intention")』[41])等が多分に秘教的なサークルを作りその中でのジャーゴンの応酬と彼の著書の訓固に急がせたことなどから、分析哲学の中では孤立的立場にある。 また、この時期のウィトゲンシュタインの業績は、そもそも言語を分析するものではないことから、文法 (Grammatik)、および使用(Gebrauch)の「展望の哲学 (Philosophie der Übersehen)」と呼ばれるべきだ、という主張もある。日常言語に重きをおいたことから、後期ウィトゲンシュタインとオースティンは共に日常言語学派に分類されたこともあるが、オースティンが体系的哲学化を志向したのに対し、後期ウィトゲンシュタインは哲学問題の解消を図ったのであって、その哲学についての態度は大きく異なる。 クワインとその周辺 一方で、カルナップからの言語哲学は、W.V.O.クワイン(Willard van Orman Quine 米)[42]にも引き継がれる。彼は、いかなる言語理論も論理を含めてそのどこでも改訂可能であるとして理論の全体論 (wholism of theories) を提示する(『ことばと対象(" Words and Object")』勁草書房)。また存在が何であるかとは言語の枠組みに何を取り入れるかの問題に過ぎない(「存在するとは何か ("On What There IS")」『論理的観点から』勁草書房所収)とする。さらに語が何を指示しているかは一義的に定まりえない(「存在論的相対性について "Ontological Relativity"」)とする指示の不可測性 (inscrutability of reference)、データからは正しい理論は一義的に定まらないとする理論の決定不全性 (underdetermination of theory)や、正しくかつ相互に諸命題の真理値が一致しない複数の翻訳が存在するという翻訳の不確定性 (indeterminacy of translation) 等の、言語の存在論的優位に基づく諸議論を展開した。これが『論理哲学論考』以降の第3の流れである。 この流れは、基本的には論理学に基づいた単純な、しかし、言語の全体論 (semantic wholism) を採択した言語を考察の中心として、それに基づいて哲学の諸問題を解決しようとするドナルド・デイヴィッドソン(Donald Davidson 米)[43]に引き継がれる。 そして、排中律の否定と意味の分子論 (molecularism) を主張するマイクル・ダメット(Michael Dummett 英。主著『真理という謎 ("Truth and Other Enigmas")』[44]、 What Is a Theory of Meaning I,II )などに受け継がれていく[45]。 日常言語学派 第4の流れは、『論理哲学論考』からもその後のウィトゲンシュタインの哲学的発展からもかなり独立した、英オックスフォード大学の哲学者J.L.オースティン (J.L.Austin) に始まる日常言語学派の流れである。オースティンは、日常言語が記述のほかに命令・嘆願・命名・疑問等さまざまな使用タイプがあることに注目(『言語と行為 "How to Do Things with Words"』[46])し、これらの詳細な分析に基づいて哲学的問題の解決を目指した。特に、言語を使用しながらなにかの行為を行う(たとえば、裁判官が判決文を読み上げることによって〈判決を下す〉という行為がなされる)言語行為 (speech act) に注目した。これらの諸機能は後にサール(John R. Searle 米)によって、より形式的・組織的に分類が行われる(『言語行為 ("Speech Acts")』[47]他)。 また、ウィトゲンシュタインともオースティンとも独自に、日常言語に即して哲学的行動主義を展開し、また範疇間違い (category mistake)という事象(ケンブリッジの各校舎を案内されながら「で、大学はどこですか?」と問う人が犯しているような、抽象的対象の範疇と観察可能な対象の範疇との取り違えなどの範疇の誤りを指す)の問題点を指摘したギルバート・ライル(Gilbert Ryle,主著『心の概念(“The Concept of Mind”)』[48])も、日常言語に依拠したタイプの初期の重要な分析哲学者だった。 ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派以後の英米とヨーロッパ大陸 これら、ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派が広義での分析哲学の主流として、現在も英米において諸学派に対して大きな影響を与える位置にある。特に、言語哲学・言語の哲学としては、英米では他の追従を許していない。これに対して、(ポーランドを除く)ヨーロッパ大陸に於いてはカール=オットー・アーペル (Karl-Otto Apel) 等多少の研究者は見出されるものの概して分析哲学は極めて限られた影響しか有していない。フランスにおいては、構造主義、ポスト=構造主義等の言語論・記号論等の思想家たちが言語についての思想的=哲学的アプローチについて圧倒的な勢力を占めている。ドイツでの言語の哲学的思惟においては、ユルゲン・ハーバーマス (Jürgen Habermas) らフランクフルト学派がマルクス主義を押さえて主要な立場になってきているようである。但し、こと言語の面においては、ハーバーマスはアーペルとともに、後期ウィトゲンシュタインの影響が著しく、その発展的応用者と解釈することも不可能ではない。論理学者のレシネェィスキ、その弟子でドナルド・デイヴィッドソンの意味論に決定的道具立て(T文)を与えたタルスキ、等のポーランド学派は、一種の人工言語学派として強い影響力を保っている。 70年代以降の分析哲学の展開 その後の特記すべき展開は、指示論について長らく定説とされてきたラッセルの記述理論 (description theory of reference)、後期ウィトゲンシュタインの通俗的理解における記述束説 (cluster theory of regerence) を覆そうとしたソール・A・クリプキ(Soul A. Kripke:彼は様相論理の完成者としても著名である)による固定指示詞説 (rigid degignater theory) と指示の因果説 (causal theory of reference)(『名指しと必然性 ("Naming and Necessity")』[49])がある。 後者に近い言語の社会共働説を唱えまた内部実在論を提唱したヒラリー・パトナム (Hilary Putnam) や、同じくクリプキによる分析性 (analysity) と必然性(necessity)の区別の導入(というのも、論理実証主義の台頭以来、長らく必然性とは分析性に他ならないと考えられてきていた)、トーマス・クーン(Thomas Kuhn,『科学革命の構造 "The structure of Scientific Revolution"』[50])、ファイアアーベント以後の自然科学の反=実在論的潮流に反対する自然科学的対象の実在を主張する科学的実在論 (scientific realism) の台頭などである。なお、モンタギュー意味論で知られるモンタギューが分析哲学と言語学の狭間に、それよりやや言語学寄りにノーム・チョムスキーが位置する。 現代 大陸哲学と言語 大陸哲学では分析哲学と違い言語が独立した一分野としては研究されていない。むしろ、言語は思想の他の多くの領域、例えば現象学、記号学、解釈学、ハイデッガー存在論、実存主義、構造主義、脱構築、批判理論などと分かちがたいものとされる。言語の思想は論理学の思想としばしば結びつけて考えられる。ここでいう論理学とはギリシア語のロゴス、談話や対話の意味である。また、言語と概念は歴史と政治によって、さらには歴史的な哲学そのものによって形成されてきたとみなされてもいる。 解釈学の分野は、そして一般的に解釈の理論は、ハイデッガーに始まる存在論と言語の20世紀大陸哲学において重要な役割を演じてきた。ハイデッガーはヴィルヘルム・ディルタイの解釈学を現象学と統合している。言語は「現存在」にとって最も重要な概念の一つだとハイデッガーは信じていた。「言語は存在の家であり、存在が言語を所有し、存在が言語に染み渡っている[51]。」 しかし、重要な言葉の濫用により今日の言語は摩耗しており、存在(「Sein」)の徹底的な探求には堪えないとハイデッガーは考えていた。例えば、「Sein」(「存在」)という言葉自体は複数の意味をもつ。それゆえ、彼は一般的に使われている言葉と区別するために古代ギリシアとドイツの語源学的関係に基づいて新しい語彙・文体を生み出した。彼は意識、エゴ、人間、自然等々の言葉の使用を避けて代わりに「世界内存在」や「現存在」を総体として語った。 「世界内存在」という新しい概念と共に、ハイデッガーは音声による意思疎通に焦点を当てた独自の言語理論を打ち立てた。音声(発話、聴取、沈黙)は言語の最も本質的で純粋な形式だと彼は考えた。読者も読んでいる間人の独自の「発話」を構築するのだから書記は音声の補足にすぎないとハイデッガーは主張した。言語の最も重要な特性はその「射影性」、つまり言語は人間の発話に先立つということである。これはつまり、世界に投げ込まれたものの存在は世界の明らかな事前理解による始まりから特徴づけられるということである。しかし、名づけ、つまり「明瞭な発音」のみが「現存在」や「世界内存在」を一次的に参照できる[52]。 ハンス・ゲオルク・ガダマーはハイデッガーの思想を発展させて完成された解釈学的存在論を提示した。『真理と方法』において、ガーダマーは言語を「本質的な理解と承認が二人の人の間で起こるための媒体[53]」であるとした。また、世界は言語によって構成されており、言語を離れては存在できないとガーダマーは主張した。例えば、言語の助けなしには記念碑や彫像は自身の持つ意味を伝達できない。世界の言語的本性は個々の物を対象的環境から解放するので、全ての言語は一つの世界観を構成するともガーダマーは主張している 「[…]私たちが完全に[言語]に依存した世界を持っていてその中にそれ自体を現前させているという事実。世界としての世界は世界の他の生物のためとしてではなく人のために存在する[53]。」 一方ポール・リクールは解釈学(仏 Herméneutique)をギリシア語における言葉の本来の意味と再連結した形で提示し、日常言語の曖昧な言葉(あるいは「象徴」)の中の隠れた意味を発見することを重視した、この流れに属する哲学者にはほかにルイジ・パレイゾンとジャック・デリダがいる[54]。 記号学は一般的に記号や象徴による情報伝達、反応、意味を研究する。この分野では、(自然にしろ人工にしろ)人間の言語は人間(や他の知的生命体)が情報伝達するのに使える多くの手段のうちの一つにすぎないとされる。この考えをとることにより、自分たちのために意味を作り他者に意味を伝達するために利点を得て外的世界を効率的に操作できるようになる。あらゆる対象、あらゆる人、あらゆる出来事そしてあらゆる力が情報伝達(あるいは「表現」)し続けている。例えば電話が鳴るのは電話「である」。地平線上に煙が立つのを見たらそれは火事をあらわす記号である。煙は表現している。この観点では世の中に存在する物事は人間がそうするのと同様にそれらを解釈することだけを求めている知的存在にとって正確に符号を貼られているように思われる。全ての物は意味である。しかしながら人間の言語の使用を含む真の情報伝達は受け手に対して何らかの信号において「メッセージ」つまり「文書」を送る者(「送り手」)を要求している。言語はこういった情報伝達形式(の中でも最も洗練された形式)の一つである限りで研究される。記号学の歴史の中で重要な人物としてチャールズ・サンダース・パース、ロラン・バルト、ロマーン・ヤーコブソンがいる。近代においてはそのもっともよく知られた人物としてウンベルト・エーコ、アルジルダス・ジュリアン グレマス(英語版)、ルイス・イェルムスレウ、トゥッリオ・デ・マウロがいる[54]。人間以外の情報伝達における記号の研究は生物記号学の主題である。生物記号学は20世紀後半にセボーク・トマスとトゥーレ・フォン・ユフクエルによって創始された。 日本における分析哲学的な言語の哲学の形成と現在 日本では、大森荘蔵が留学から帰国後、ウィトゲンシュタインの過渡期の講義録的書籍といえる通称『青色本 (Blue Book)』を東京大学教養学部でのゼミナールに使用したことで分析哲学が実質的に移入された。大森自身は分析哲学ともやや異なる独自の哲学を展開していったが、その膝下からは、弟弟子にあたる黒崎宏、弟子からは石黒ひで、奥雅博、丹治信春、飯田隆、野家啓一、野矢茂樹などを生んだ。 黒崎宏 主著 『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』勁草書房、『ウィトゲンシュタイン小事典』大修館書店、『科学の誘惑に抗して』勁草書房、『ウィトゲンシュタインから道元へ--私説『正法眼蔵』』哲学書房、他多数 ウィトゲンシュタインの紹介およびその科学哲学・心の哲学への意義について主に論じてきた。次第に後期ウィトゲンシュタイン的立場からの仏教解釈を深めている。 石黒ひで 主著 『ライプニッツの哲学--論理と言語を中心に』岩波書店 奥雅博 主著 『ウィトゲンシュタインの夢』勁草書房 中期ウィトゲンシュタインを論じる。 丹治信治 主著 『言語と認識のダイナミズム』勁草書房 後期ウィトゲンシュタインとクワインの比較及び言語の推移律の不成立を論じる。 飯田隆 主著 『言語哲学大全』全4巻 勁草書房 フレーゲからクリプキまで分析哲学史を詳細に論じる。 野家啓一 主著 『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』勁草書房 分析哲学と現象学に架橋を試みる。 野矢茂樹 主著 『心と他者』勁草書房、『哲学航海日誌』春秋社、『『論理哲学論考』を読む』哲学書房、他多数 他我問題を一人称特権の視点から読み解く、後期ウィトゲンシュタインの規則論とアスペクト論を読み重ねる、『論考』の高い整合性と大胆な読解を提示する。 ほかにも、末木剛博[55]、黒田亘[56]、野本和幸[57]などがいる。 また神崎繁のように、分析哲学の手法を西洋古典学に導入したり、清水哲郎のように聖書やオッカムを分析哲学的に読解したり (『パウロの言語哲学』 パウロは、イエス・キリストが神を信じた信仰を救済根拠とするのであり、信徒たちの神もしくはキリストを信じる信仰は語られていないとする。『オッカムの言語哲学』勁草書房)、門脇俊介のようにフッサール、ハイデッガーを専門としつつ分析哲学的知見をとりこんだり、と、新鮮な越境的試みもなされつつある。 さらには、純粋哲学の枠を超えて、法哲学、社会学、宗教哲学、文学 (文芸) などの諸分野にも遅ればせながら応用が始まっている。 日本では分析哲学は、渡邊二郎ら[58]、特にドイツ哲学研究者及びマルクス主義者からの忌避もあって長らく不遇にあった。しかし、大森「学派」の開花とともに、三浦謙、斉藤浩文、関口浩喜、松坂陽一、大辻正晴、中川大、金杉武司らが業績を生んでいる。 引用:https //ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%93%B2%E5%AD%A6# ~ text=%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%93%B2%E5%AD%A6%EF%BC%88%E3%81%92%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%A6,philosophy%20of%20linguistics)%E3%81%A8%E3%82%82%E5%91%BC%E3%81%B6%E3%80%82
https://w.atwiki.jp/philosopher/pages/14.html
ポストモダンの状況で哲学が存在しないといわれるのはなぜか 哲学をすることとは何か 哲学は愛知である。 哲学史に何の意味があるのか 諸概念を学ぶだけで哲学をしているといえるのか 世界のどこにも哲学というものはあったのか 哲学の流れとは何か 現在の哲学の姿 現在の哲学の問題点 ポストモダンとは 情報化による価値の相対化 ポストモダンの状況で哲学が存在しないといわれるのはなぜか このことを説明することがこの章の目的である。 哲学をすることとは何か 人は日常的に様々な問題に出会う。しかし、そのような問題は実は問題のたて方や解決方法までが時代や文化によって与えられてしまっている。哲学はそうした問題がどこから生じてきたかという思考方法を取り、問題の根本的な解消を図る。 哲学は愛知である。 哲学は学問ではなく「知」に対する愛という情念である。それまで知らなかった事を発見し、それまでとは違った自分になるということである(ソクラテス)。哲学という分野と関係なく、それまでの学説を否定して新たな思考をし、その専門領域を革新するような理論を提示するときには、そこには愛知がある。学問の出発点に立ち戻り、学問になるかどうかなどを気にせずに、自らがはじめて学問するということを試してみることである。 哲学史に何の意味があるのか 哲学者の名前は思考のインデックスに過ぎない。重要なのは諸概念。これを組み合わせたり、相互関係を考えていくことにより現実の無数の具体的な問題への切り口が見つかる。 諸概念を学ぶだけで哲学をしているといえるのか いえない。これらの概念を哲学者は独自の思考体系の中で用い、読者をそこに引っ張り込んでしまう。よってそれに抵抗し自らの思考体系を作りあげるという哲学史の勉強とは逆向きの営みも必要となる。日常の具体的な問題を出発点とし、それが哲学概念のようなものになるまでその言葉を精錬していくという過程が要る。 世界のどこにも哲学というものはあったのか ない。哲学とは古代ギリシャと中世末期以降の西洋にしか出現しなかった特別な思想のことである。「人間はみな考えている、考えているから人間ではないのか」という疑問が浮かぶ。しかし、「人間はいつも考えている」という理性的主体を考えている事自体、西欧近代的な世界像や人間の生き方を前提としている。結局、哲学という西欧における知的伝統が現代世界の成り立ちに絶大な影響を及ぼしてしまっていて、それが世界中にあまねくひろがっているということを示しているに過ぎない。 哲学の流れとは何か それぞれの哲学者の思考は水と油のように異なるが、似たような主題を扱うことを通じて対話可能性を持っている。 現在の哲学の姿 19世紀にヘーゲルやヴィクトール・クーザンが哲学の流れを自覚しそれを「哲学史」として総括した。それ以降、哲学が諸概念を使って自由に思考するのではなく大学で哲学者の諸概念を学び、その系譜を捉えることとなってしまった。 現在の哲学の問題点 哲学が歴史のなかで捉えられることになってしまったことで、愛知としての哲学の実践が不可能になってしまう恐れが出てきた。 ポストモダンとは 近代が終わり、情報化により近代的諸価値が消滅しつつあるという状況を指す。そこはもはや「大きな物語」がなくなっている。(ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』) 情報化による価値の相対化 情報は価値を問わない。価値は相対化し、時間とともに変化するようになった。よって流行が絶えず生まれては消えていくようになった。学問的価値としての真理についても同様な状況であり、真理を知ろうとする知恵への愛は失われた。