約 56,959 件
https://w.atwiki.jp/vipnagatoeva/pages/47.html
こつこつとこなたの足音が響く 金属の板が張ってあるタップダンスもこなせそうなその軍靴の音 こなたは書類を持ち足元の巨大なモニターを靴のかかとで画面を切り替えながら 淡々とした調子で言葉を続ける…が、 「素手で受け止める~!?」 作戦指令を受け取る無意味に広く外界を見渡せる部屋 チルドレンである俺達四人と作戦指揮官であり 現時点の本部で最高権限を持つ少女の合わせて五人が一同に会す中 こなたが提案しそして実行される作戦概要を聞いた柊が絶叫した 「これが現れたのは約六時間前」 それを意に介した様子も無く、詳細をさらに続ける モニターに映るのは橙を基調とした気味の悪い化け物 「衛星軌道上に唐突に現れたと同時に、これ」 合図とともにモニターが切り替わり別の衛星写真が現れる 丸く削り取られた朝鮮半島、大きく揺らぐ日本海 「神人の全長は大よそ3㎞に及ぶと推測されてる、その体の一端を切り離して投下してるようだね」 さらに数発、試し撃ちなのかなんなのか 一発ごとに誤差を修正しながら最後の投下は15分前 ここジオフロント直上から大して離れていない位置に落下 「全身爆弾の超巨大神人か…」 そして次に落ちてくる本体を俺達が受け止めろ…と 「そういうこと、ここを中心にして神人が落ちた際に本部が壊滅すると予測された 半径50kmの円形に四機のエヴァを四方に配置、本部のコンピュータの予想落下地点と 肉眼での確認を合わせて先んじて落下地点に到達、A.T.フィールドで目標を捕捉、撃破します」 「しますって…、実際に行動するのは私達よ? 成功率は?」 「…奇跡は待つものじゃなく起こすものよ」 「っさいあくよ」 一人悪態を吐く柊であったが、黙っている俺達も概ね同じ意見である これが初の実戦となるあやのなど、言わないのでなく言えないだけで 見ていて、正直いた堪れなくなる様である 「そう、これは作戦といえない。だから一応遺書を書くこともできるわよ」 遺書…ね、残酷じゃあないか そんなものを宛てる人間すら居ないのは皆々承知であろうて そもそも、結局失敗したらなにもかも終わりなのだろう? 「そんなくだらないもの書くつもりは無いわ」 まるで唾棄するようにかがみがそっぽを向いて言う 次に爽冷な声で平坦な調子で長門、そして俺と続く ただ、あやのだその遺書という言葉に戸惑いを隠せないようだったが 俺達が逡巡する間もなくたたき切ったのを見て 「…私もいいです」 そういった 頭を掻いて俺達の言葉を受け止めるこなた 今回の作戦、つまるところ爆弾を抱いて敵と心中しろという 昔の特攻さながらの内容なのである そんなものを俺達に命令し、実行させるこなたの心中は察するにはあまりある まぁそれはお互い様なのだろう、かがみを見れば こちらはこちらであからさまなその態度が余計に指し計れない 「帰ってきたら、ビーフシチュー作っといて!」 「へ?」 顔はそっぽ向けたまま、片腕だけをこなたに向けて 人差し指をピンと伸ばして、自分の好物の名をあげる こなたはポカンとそれを見ていたがそれに自分の指を絡ませて 「わかった、指きりね。みんな帰ってくるまでに美味しいビーフシチューを作ってあげよう」 だからお腹を減らしとくように、と反対の指を自分の頬にあて 柔らかい笑みを浮かべるこなた 「作戦開始時刻まであまり無いから、プラグスーツに着替えてエヴァに搭乗 各機指定箇所にエヴァを移動させ、別命あるまで待機」 かがみに「いつまでそうやってんの!」と言われて指を払われた後 急に真面目顔を繕ってそういい、かかとを鳴らす 同時に会議室の扉が開く 「じゃ、後で」 かがみがそう言って一番に部屋をでていき あやのが会釈をして小走りで続き、長門は俺とこなたとの間をしばらく行ったり来たりと見ていたが 二人が見えなくなると長門も行ってしまった 「…悪いね」 「なにがだ?」 誰もいなくなってから、こなたが呟く その台詞がなにに対するものなにか、だがいまいちわからなくて俺は返す こんな命令を出さなくてはいけないことか そもそもこんなやり方しかできないことか 「正直、キツイんだ。色々…さ」 圧縮空気が音を立て閉まる会議室の扉 誰も俺に早く来いと声をかけないあたり、俺の行動パターンはどうにもわかりやすいらしい 俺は俯き加減のこなたにさてはてなんと声をかけようとしたのか覚えていない 口を開いたその直後に胸に飛び込んできた長く青い髪が特徴的な少女の所為で どうにも思考がぶっ飛んでしまったからだろうと推理するが しかし真偽のほどはわからない 「ごめん…」 そう言った様に思ったが、残念なことに自信を持ってそういったとは言えない とりあえず俺はなにを思ったか、頭一つ小さいこなたの頭に手を置いて しばらくの間黙って、こなたの長い髪を手で撫でてやっていた 幾許程そうしていたかわからんが 五分を切る程度の時間に過ぎないとは思う まぁとにかく数分間そうしていた後、こなたは俺の服にごしごしと顔を押し付けて 俺をトンと突き飛ばして照れくさそうに笑う 「えっへへ…」 「…大丈夫か?」 「うん、ごめんね。ありがとう」 そしてお互い黙る 俺だって照れないわけじゃない 「ほら、そろそろ行かないと…」 俺に早く着替えろと急き立てる台詞をいい終えるかどうか ぽろぽろとまた雫を溢れさせる 「…ごめん、こんな不甲斐無い姿見せて。ごめんね、家族とか言って縛って 逃げられないようにしてるね私」 止め処なく溢れる涙、俺はそれに後退して ピーッとスピーカーから流れる時間切れの音とともに 俺は部屋から逃げるように走った 扉が開き、そしてまた閉ざされる その時、何か殴音と紙が舞うような音がした気がした―― 「遅かったわね」 更衣室前、すでに着替えを終えた三人がベンチに退屈そうに座っていた うち一名、かがみが先の言葉を言いつつスチール缶を投げつけてきた 咄嗟にそれを受け取ると中身入り、カフェオレと書かれたベージュの色合いの缶 「さんきゅ」 「まっ、ご苦労様ってことで。早く着替えてよね、一時間無いんだから」 「わかってる」 缶を掲げて、その場で開け、一気に飲んでから更衣室に入る 男のチルドレンが俺オンリーのため俺の貸切である更衣室 基本的にどこを使ってもかまわないのだが、それでもずっと使い続けてる一箇所のロッカー 俺はそこからずいぶんと見慣れ、着慣れてしまった初号機カラーのプラグスーツを取り出す 裸になり背中のジッパーをあけ、そこから足を入れていく 毎度ながらべろべろして余った部分が張り付いて着るのに時間がかかる それを我慢して腰まで上げると今度は手を片方ずつ入れて最後にジッパーをあげる ぶかぶかのこの状態、右手首のボタンを押して空気を排出させる すると自分の身体のラインが思いっきりわかるくらいぴったりになる ――――― 「行くか…」 「全員所定の位置についた?」 本部から離れた位置に電源車両に繋がれたケーブル 電波状況が悪く、神人のだすジャミングの所為で こなたが発する指令の声が荒れて聞こえる 「…問題ない」 「大丈夫だ」 「おっけーおっけー」 「大丈夫です!」 三者三様でなく四者四様 本部を中心としてスクエアに広がる各機 クラウティングスタートの形をとり合図の声を待つ 「あやの、大丈夫か?」 今回が初陣、しかも成功率が当初のエヴァの起動率よりも低い作戦で 俺はあやのに一応再度声をかける 「平気だよ、私だってこの二週間ずっと練習してきたんだもの」 「……ならいいが」 『神人の高度、12,000を切りました!』 会話に入ってくる切羽詰った国木田の声 あげた視界に入ってくるのは、雲を散らして摩擦で紅く発光する巨大な神人の姿だった 『エヴァ各機発進準備!』 こなたの掛け声にあわせて初号機を動かす、クラウチングスタートの体制へ 両腕を肩幅よりさらに広く地面につけ、足を抱え込むように曲げつま先で強く踏みしめる 全身の体重を両手の指先に乗せ、地面がわずかに撓む 目的は地に落ち、全てを焦土に変えんとする神人の下 『用意』 腰をあげ、さらに両腕に体重を、前に前にと重心を移動させる 前方に転ぶギリギリまで前に持っていった身体を 「スタート!」 自分の掛声と共にバネとして地面から跳ねる 四機全てがギリギリまで引き伸ばされた弓の弦のように、そしてそこから放たれる矢のように 鋭く空を切り大地を揺らし木々を倒し、街を駆けて敵を捕まえんとする 『神人落下予想ポイント修正 D-4地区からE-7地区』 正しくは本部の三賢者とやらの名を冠したスーパーコンピュータの声 (正確には機械の合成音)が神人が落下するにつれて追時予想ポイントを修正する 「ちっ、通り過ぎた!」 AからHまでのy軸八段階に1から12までのx軸12段階の計96ブロック そのどこに落ちても敵は本部を丸ごと持っていくことができるが 俺たちはその落ちてくるブロック、その一箇所に集まらなくてはいけない 初号機の足を止め、コンクリートやアスファルトの道路をかかとで削り慣性を押しとどめ 再度反対側へ踵を返すように走り抜ける、一番に目的地につく筈だったのがこれで一番遠くなってしまった つまりそれは他の三人を危険にさらすこと そして一番危険な一人で他の三人が来るまで持ちこたえるという任務を誰かにやらせること 「くそっ!」 怒鳴る、形だけの操縦桿を握る手が汗ばむ それに呼応して初号機はさらに加速し隣接する建物を薙ぎ払いながら音速を超えて走る 『キャッ!』 声が聞こえた 視界の端で、躓き這いつくばる黒い機体…あやの 『初号機シンクロ率上昇…120%、160%、まだあがります!』 さらに初号機が加速した、視界が歪むほど 木々を薙ぎ、建物を払い、地面を砕いてひた走る 『ポイント修正 E-7地区からF-8地区 高度5000を切りました』 「神人肉眼で確認」 初号機の目越しではなく自身の目でみるその奇抜な造形の敵 落下地点までの距離がさらに伸びたことと併せて焦りが強くなる 向かいから青い零号機、右側遠方からはギリギリ紅い弐号機も見える ……二人とも遠いい、俺もまだ距離はある このままじゃ失敗する 『シンクロ率200%を超えます!』 『不味い…キョン君、それ以上は危険よ!?』 喜緑さんの制止の声が聞こえない 見えるのは敵と自分 空気が、初号機越しに感じる空気が重く、壁のように硬かった 時速200kmを超えると現れる空気抵抗による壁 それは初号機と神経接続のバイパスを通じて俺の身体に、脳にダイレクトに伝わってきた 頭を強制的に持ち上げられ、前傾に倒した上体がゆっくりと起こされていく そしてそれに比例して強くなる抵抗、細い足にかかることの少ないその抵抗が余計に上体とのバランスを崩す 慣性で足が進み空気抵抗で上体が後ろに下がる 気がついたら俺は不様に仰向けに地面にぶっ倒れて後頭部を叩きつけ、一瞬の間意識を失うという情けない有様であった 「っつうぅ…」 起き上がろうとするもののすでに遅し、間に合わなかったと思った だがそこはすでに神人の真下で仰向けになった俺に刻一刻と近づく巨大な敵 他の三機はまだ追いつかない… 「A.T.フィールド全開!」 咄嗟に俺はその状態でフィールドを展開、起き上がり片膝をついて迫る衝撃に備える 2秒、それが俺が意識を戻してから体勢を立て直しフィールドを張り、神人とぶつかり合うまでの時間だった 「くっ…」 関節部分が衝撃に沈む、手首、肘、肩、膝、足首、すべてが軋み音を立て痛みを感じる 両腕から発せられるA.T.フィールドに自由落下で宇宙から飛来する巨体が乗っている エヴァの視点のすぐまえ、気味の悪い緑色の目玉、出来の悪いピカソとも見紛う 「がぁっ!」 二の腕の、過負荷に耐え切れなかった筋肉が破裂した パシュッと音を立ててエヴァの右腕、その腕から体液が流れ出る 足場はエヴァと神人の重量に耐え切れずどんどん崩れていき、バランスを崩しつぶされるのも時間の問題と言える 圧力の所為で破けた眼球の血管が視界を紅く染めていく 『零号機フィールド全開!』 『3号機A.T.フィールド全開!』 声がした、追いついた3号機と向かいにいた零号機が到着したらしく その掛声の後、初号機にかかっていた重量が分散されて沈んだ関節が少し楽になる 『大丈夫キョン君!?』 「あぁ…一応」 視界はまだ紅い 零号機と3号機、あやのと長門が着てくれたおかげで なんとか俺は立ち上がりながら敵を空中で抑える…が 『このままじゃ出力が足りない』 抑えるだけじゃダメだ、あいつは上に乗っかって俺たちがつぶれるのを待てばいい 一々踏みつける必要は無い、ただ、乗ってるだけ しかし俺たちはこいつを倒さなくてはならない、完膚なきまでに この目玉の中にある紅球を破壊しなくてはならない しかしそれには長門の言うように出力が足りない 一人が中和し、一人が紅球を壊す…その間耐える力が片腕を失った俺には無い そして当然、乗れるようになったばかりのあやのにも A.T.フィールドに関しては同じくらい浅い長門にも無理だ… 「だぁ! 早く来い柊!」 『今行くわよ!』 俺が肘と手首の間で不自然に曲がった腕を再度動かそうとした時 紅い、全て紅く見える中でもさらに紅い機体がやっとこ現れる 『フィールド全開!』 丘状になってる現場、そこに怒鳴りながら滑り込むように入ってくる弐号機 『零号機中和開始します』 それを見て取って長門がプログナイフを構えA.T.フィールドの中和作業に移る A.T.フィールドに超速で振動し発光するナイフをつきたてフィールドに一箇所穴を開けるようとする が、長門が突き立てたナイフはフィールドにぶつかり甲高い音を立て、根元から折れた 『A.T.フィールドの密度が圧縮されて高まってるみたいね…』 「なにを暢気に!」 平坦な口調で解説する喜緑さんについ噛み付く 持ちこたえるにしても四機であと数分と持たないであろうことは右腕に走る激痛からも明らか 残った左手も軋み撓み歪んでいる 『このままじゃ…』 誰かの呟きが聞こえた このままじゃ…その先はなにも言わなかった 言わずもがな、という奴だ 俺が考えていたのと同じこと、この耐久戦は圧倒的に俺達の不利だ 数字的有利なんて物くその役にも立ちやしない 乗ってる側と支える側、考えるまでも無い 「長門、ナイフはまだあるだろ? 再度トライだ」 『了解』 長門の生真面目な返事に気を落ち着かせつつ俺は思考する 多分、九分九厘の確立で失敗するだろう。一度あることは二度ある二度あることは三度ある そんな単純思想じゃなく、実際的な問題としての不可能 だから俺は次を考える、別のパターンを考えてみる 多種の武器はいまさら用意できやしない、受け止めるという前提を考えると武器なんてものは持っていられない ならば現状、四機の内三機は常に支える側に回らなくてはならないため自由に動けるのは常に一機 武器はナイフのみだが、これはA.T.フィールドを貫通せしめない これもまた当然、俺達四機のA.T.フィールドを同座標に展開しているのだ さらにこれの向こうには敵だって当然フィールドを無展開って訳じゃないだろう キィンと、金属音がして再びナイフが無残に砕け散る 金属片が勢いよく弾ける 『…』 不穏な空気を感じる、それは発令所からの空気 諦観交じり、諦めの空気が混ざった嫌な空気 わかっていたこととはいえ二度の失敗は十分にモチベーションを下げさせたか… ミスったな、他の三人も空気に感化されないといいが そう思い通信を開こうとしたとき 『次はどうすればいい?』 『早くしなさいよ』 『えと…、わ、私はどうすれば?』 平然と向こうからそう言われた それは俺を露ほども疑ってなく、先ほどの行為も そしてこれからやることも見透かしたような、明るい表情で まったくどうにも困った性分でしてね はぁ、頼られるとどうにかしたくなる 「お前達は、もうしばらく支えてくれるだけでいい」 いいながら右腕の調子を確かめる、ダメって訳じゃない 高く上がったシンクロ率のフィードバックか、自分の右腕 その手首と肘の中間位置から血が滲んでいるのが確認できたが、その程度 これからの行動になんの支障もきたしはしない 「成功率は多分五分ってところだな、失敗すればさようなら」 『失敗? そんなこと気にしてる暇あったらさっさと行動しなさいよ、正直重いのよ、辛いのよ』 「ははっ、わかったよ」 正直五分なんてもんじゃない、もっと低い だが…、まぁお見通しなんだろうな 「ふぅ…」 嘆息、そして集中 大きく広がるフィールドの中の、自身が干渉してる部分を探す そして練る、練り上げ形作る、一からそれを 煌々と光を放っていたフィールドがほんのり明度を下げる そして一閃、操っている自分だけがわかる 「…ふぅ」 成功した、俺が練り上げ形を変えて槍と化したA.T.フィールドは無事に敵の中心の紅球を貫いた 多分、あやのに長門、柊には俺がなにをしたのかわかってないだろう …発令所は観測できたみたいだな、さっきまでとはべつの意味でてんやわんやしている しかしA.T.フィールドの攻撃的運用がこうも上手く決まるとは思ってなかった 想像しだいで形を変える、それならば最強の盾は矛になりうるのではないかと だが、こうも型に上手く嵌ったかのように成功するなんて… いや、発言が被ってるな、どうにも興奮冷めやらぬ的な心境らしい俺は今(この辺の文法からも動揺が見て取れる) 『キョン、色々言いたいことはあるけど…、とりあえずお疲れ様。上がっていいよ』 こなたからの通信俺達はそれを確認して、ひとまず本部に戻ることにした あとに残ったのは、巨大すぎる奇抜なデザインの不発弾だった ―――――
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1434.html
index 目次 (10)二十五周忌慰霊祭弔辞 赤松嘉次 弔辞 謹んで渡嘉敷島及び此の周辺に於いて戦没されました村民の方々並びに将兵の御霊に申し上げます。 顧みまするに二十六年前恰も大東亜戦争風雲急を告げる昭和十九年九月、私達海上挺進第三戦隊及び支援配属部隊は特攻任務を持って、此の渡嘉敷島に配備されたのであります。 その十月沖縄空襲、那覇全焼、台湾沖航空戦等此の島にも緊迫の度が加わる中、御当地皆様方の御協力により軍民一体必死の作業が実を結び、特攻準備は略完成し三月二十三日連合軍の来襲を迎えました。 熾烈な敵機の空襲艦砲射撃の下に陰忍満を持しつつ、遂に同二十六日未明出撃準備を下令、敵弾下勇躍涯水作業を強行致しましたが、天吾に味方せず泛水に長時間を要し、白昼強行せんか他戦隊の戦略企図秘匿の為涙を呑んで自沈するの止むなきに至り、皆様方及び吾々の苦労も一瞬にして水泡となったのであります。 翌二十七日海岸にて上陸する連合軍と軽戦の後島の北部二三四、三高地付近に撤退爾後、此の天瞼を利用し持久を策して斬り込、防御戦闘の傍ら数少ない兵器弾薬糧秣を以て皆様方と恐れ鞏固な団結の下、連合軍を此の渡嘉敷に拘束し八月十五日終戦を迎え任務を終わったのであります。 二十五年前の今日三月二十八日敵の包囲する処となり皆様方は刻々と迫る危機に皇国の必勝を祈りながら自らの生命を絶ち、護国の鬼となる悲惨事を生じ亦敵を迎え撃ち自ら斬り込み敵弾に斃れ、或は地雷に触れ病に飢餓に斃れる者続出し、数多く尊い犠牲者を出したのは戦いの常とは申せ誠に遺憾に堪えません。 然しながら戦争終結以来実に二十五年皆様方の御霊の加護により我が祖国日本は戦後の廃墟と飢えの中から立直り、国運は今や世界の注目するする処となりこの沖縄の復帰も翌々年と決定致しました。 偲ぶに皆様方の尊きいけにえも決して無でなく平和な日本建設の礎として史上高く讃えらるべく皆様の御霊を以て冥すべきでありましょう。 皆様方とあわただしい別離をしてより二十五年、御当地村長様、校長様方始め御有志皆様方の御好意と並々ならぬ御援助により、我々戦没者隊員の御遺族共々遥々、海碧き南海の此の渡嘉敷島に来る今、此の白玉の塔の前で皆様方の御霊を弔らわんとするに既に幽明境を異にすると謂も、島の一木一草に在りし日の御姿を偲び、波の音にも其の雄叫びを感じ、萬感胸に迫りて唯感無量云はんとして言葉にならず、語らんとして涙にむせび、ひたすらに皆様方の御冥福を御祈り申上げるのみで御座居ます。 願くば在天の御霊安らかに冥し来りて吾等の弔を御享け下さい。 昭和四十五年三月二十八日 元海上挺進第三戦隊長 赤松嘉次 index 目次
https://w.atwiki.jp/3edk07nt/pages/68.html
~第二十五章~ 眼帯を外しさえすれば、全てが判る。 この娘が、幼い頃に生き別れになった姉なのか、どうか。 薔薇水晶は幾度も唾を呑み込みながら、震える指を雪華綺晶の眼帯に伸ばした。 けれど、巧く掴めない。 ここまで来て、何をやっているんだろう。ああ、もどかしい。 つい、乱雑に剥ぎ取ろうとして、思わず雪華綺晶の額を引っ掻いてしまった。 途端、カッ! と、雪華綺晶の左眼が見開かれる。 彼女は鋭い眼差しで、薔薇水晶をジロリと睨みつけた。 「ひゃぁっ!」 あまりの気迫に圧されて、薔薇水晶は尻餅を付いて、後ずさった。 何の騒ぎだという風に、みんなの視線が彼女に注がれる。 そして、彼女の隣で目を覚ましている雪華綺晶を目の当たりにして、全員に戦慄が走った。 「これは、なんの真似ですの? 捕虜にしたつもりなのでしょうか?」 手足を縛られた雪華綺晶は、直立姿勢のまま、 見えない糸に吊り上げられる様に起き上がった。 得物を手に立ち上がった犬士たちを眺め回し、最後に薔薇水晶で視線を止める。 当の薔薇水晶は、さながら蛇に睨まれた蛙のごとく、身を強張らせていた。 「貴女…………薔薇水晶……ですね?」 「あぅ……う……うん」 「皮肉な運命ですわ。貴女が犬士になっていたなんて」 溜息混じりに呟いた雪華綺晶の表情は、しかし、妖しい笑みを湛えていた。 金色の左眼が、狂気の輝きを増していく。 「でも、モノは考え様ですわね。どんな形であれ、再会できたのですから、 私の手で穢れを植えつけてあげましょう。 そうすれば、また……仲良く暮らせますわ。昔みたいに」 雪華綺晶の髪が、すきま風が吹いた訳でもないのに、ざわざわと逆立った。 彼女の背後から、真っ黒な双頭の魔犬が姿を現す。 と同時に、雪華綺晶の縛めが、ぶちぶちと千切れ飛んだ。 「どうせですから、全員まとめて、相手して差し上げましょうか」 「随分と自信たっぷりだね。独りで、ボクたちに勝てると思っているのかい?」 「召還精霊だけで、私たちに勝負を挑むなんて、考え甘いわよぉ」 召還精霊は、剣同体型精霊や防御装甲精霊と異なり、本人と同体化している。 故に、雪華綺晶が気絶していたにも拘わらず、奪っておけなかったのだ。 それに、もし召還されても水銀燈、蒼星石、翠星石、金糸雀の攻撃系精霊を駆使すれば、 楽に撃退できると安易に考えていた節もあった。 流石に、分の悪いことは、雪華綺晶とて承知している。 獄狗に古刹の壁をブチ破らせると、ひらりと外に躍り出て、右手を天に翳した。 彼女の右手に、黒い靄が何処からか集まってきて、棒状に凝結し始める。 全員が注目する中で、それは鬼気迫る気配を宿した槍として具現化した。 「狭い室内ならともかく、機動力を活かせる森の中に出てしまえば、 私の方が有利ですわよ」 言って、雪華綺晶は、身軽な動作で獄狗の背に跨った。 彼女を追って古刹から出てきた犬士たちに、槍の切っ先を向け、嘲笑する。 「この鬼槍『天骸』は、邪鬼の骸を元に鍛え上げられた、穢れの塊。 独り残らず、穢れた骸にしてあげましょう」 「それは勇ましいわね。けれど、貴女の場合は蛮勇に過ぎないわ」 「蛮勇かどうかは、実際に手合わせすれば判ること」 俊敏な獄狗を駆った雪華綺晶の突撃は、かつて体験した事が無いほど強烈で、 破壊の衝動に満ち溢れていた。 雪華綺晶の槍を、辛うじて弾き返した水銀燈に、獄狗の牙が襲いかかる。 「くっ! 間に合わ……」 重い突きを跳ね返す為に両脚を踏ん張っていたので、咄嗟には躱しきれない。 だが、牙が彼女に届く寸前、蒼星石の斬撃と金糸雀の氷鹿蹟が、妨害に入った。 氷鹿蹟の角は、思いの外、効果が見られる。 それに比べて、蒼星石の煉飛火は威力不足だった。相性が悪い様だ。 「た、助かったわ。ありがとぉ、二人とも」 「お礼には及ばないかしら。それより、煉飛火が――」 「うん。あの精霊には……煉獄の炎は効果が薄いみたいだね」 忌々しそうに、小さく舌打ちする蒼星石。 真紅は、そんな彼女に変わって、前衛に出た。 「ならば、私の神剣で、斬り捨てるのみよ」 「何にしても、あいつの動きを止めないとダメねぇ」 「将を射んとせば、まず馬を射よ。兵法の基本かしら」 「それじゃあ、ボクと水銀燈が右の頚。金糸雀は左を頼んだよ」 「私と薔薇水晶は、正面から仕掛けるのだわ」 手短に打ち合わせて、素早く陣形を整える。 今まで一緒に戦ってきただけに、流石に息が合ったものだ。 雪華綺晶を乗せた獄狗が、猛然と突撃してくる。 水銀燈と蒼星石、金糸雀が、絶妙の呼吸で両側から挟撃した。 けれど、雪華綺晶とて伊達や酔狂で四天王の看板を背負っている訳ではない。 獄狗を跳躍させて、両翼からの挟撃を、易々と回避した。 更に、正面に陣取った薔薇水晶たちの頭上を飛び越し、真紅の背後に着地する。 ――狙いは最初から、真紅ただ一人。 「貴女もしぶとい娘ですわね、真紅。ムカデの毒で、死ねば良かったのに」 「お生憎さま。そう簡単には殺されてあげないわ」 「……ならば、試してみましょうか」 雪華綺晶の槍が、無防備に晒された真紅の背中を狙って突き出された。 予測を遙かに上回る速さ。法理衣の起動が間に合わない。 「ダメだよ、お姉ちゃんっ!!」 穂先が真紅を貫くより僅かに早く、薔薇水晶は二人の間に割り込んでいた。 圧鎧を起動していたお陰で、槍は彼女の脇腹を痛打しただけで済んだ。 しかし、それだって並大抵の衝撃ではない。 薔薇水晶は息を詰まらせ、脇腹を手で押さえながら、吐き気を堪えていた。 反撃に移る気力を、どれだけ振り絞ろうとも、身体が言う事を聞いてくれない。 「よくも邪魔してくれましたわねっ! このっ!」 「あうっ!」 槍の柄で力任せに左頬を殴り飛ばされ、薔薇水晶はもんどり打って倒れた。 その拍子に外れたのだろう。彼女の洒落た眼帯が、宙に舞った。 苦痛に呻きながら、薔薇水晶は顔を上げ、雪華綺晶を睨めつけた。 今まで眼帯で隠し続けてきた彼女の左眼は、真っ赤な色をしていた。 けれど、翠星石や蒼星石みたいな、美しく澄んだ緋色ではない。 血液を彷彿させる、濁った赤。しかも、結膜炎なんて生易しいものではない。 まるで、ウサギの瞳の様な……赤色だった。 「薔薇水晶! 貴女、その眼は狗神の――」 真紅の声に、薔薇水晶は答えようとしない。 ただ黙って眼帯を掴むと、素早く左眼を覆い隠して小太刀を引き抜いた。 彼女の右眼に宿るのは、僅かな悲しみと、静かな怒りの炎。 この人は、自分の知っている姉ではない。 きっと、心まで穢れきってしまったのだ。 ならば、もう迷わない。 みんなを護るため、そして姉の魂を救うために……私が、この手で斬る! 「……本気で行くよ」 突進する薔薇水晶を目がけて、獄狗の牙と、前足が襲う。 牙は言うに及ばず、前足の鉤爪も、強烈な殺傷能力を秘めている。 装甲精霊に護られているとはいえ、油断は禁物だった。 他の犬士も加勢して、雪華綺晶の攻撃を分散させる。 これだけの混戦になると、冥鳴や氷鹿蹟のような攻撃精霊は、使いにくい。 同士討ちの危険が有るからだ。 けれど、そうなると今度は、決定力が足りなかった。 こうなれば、不意を衝いて獄狗の脚を止めるしかない。 それには、彼女の協力が必要不可欠となる。 翠星石は隙を見て古刹に駆け込み、部屋の片隅で怯えている雛苺の肩を掴んだ。 「しっかりするです、雛苺っ!」 「で、でもっ……ヒナ、こ、怖いのぉっ!」 「誰だって、怖いですっ! 私だって、今すぐにでも逃げ出してぇですよ! でも、みんな恐怖に堪えて、必死に戦っているですっ」 「…………」 「蒼星石や真紅、銀ちゃんは、敵と肉迫して斬り合っているですよ。 斬られたら痛いのに……死ぬかも知れないのにです。なぜか解るですか?」 「うゅ……そ、それは?」 「みんなを護るためですっ! 結菱のおじじや、雛苺を護るためですっ! お前は、護られているだけで良いですか? 自分の力で、みんなを護りたいとは思わねぇですかっ?」 翠星石は、そこまで言うと、口を閉ざして雛苺の目を見つめた。 いつになく真剣な彼女の眼差しに、雛苺は震える唇を引き結んで、頷く。 そして、決然と言い放った。 「……思うの。ヒナも、みんなを……護りたいのっ!」 力を宿した瞳を見て、翠星石は口元を僅かに綻ばせ、雛苺の頭をポンと叩いた。 「それでこそ、私の妹です。感心感心、ですぅ」 「うぃ? でもでも、ヒナがお姉さんかも知れないのー」 「そ・れ・は・絶対に、ねぇですっ!」 「うゅぅ~」 「くだらねぇ話は、これくらいにするです。いいですか、雛苺。 これから教える作戦を、確実に、そのカラッポ頭に叩き込んどけです!」 さりげなく酷いことを言いつつ、翠星石は雛苺に攻撃の手順を教え始めた。 古刹の外では、相変わらず、真紅たちが苦戦を強いられている。 ただでさえ俊敏な獄狗に、木々の間を跳梁跋扈されては捕捉しきれない。 なんとか黒い旋風に打撃を加えようとするも、水銀燈や蒼星石の剣撃ですら、 すんなりと躱されてしまう。 しかし、森の中という状況で有利になるのは、雪華綺晶だけではなかった。 「始めるですよ、雛苺」 「うぃ。準備は出来てるのっ」 「じゃあ、行くですっ!」 翠星石が、黒い旋風めがけて走り出す。 その背後で、雛苺は発動型浄化精霊を起動した。 「お願いなの…………縁辺流ぅ!」 雛苺も精霊の制御に慣れてきたらしく、縁辺流は迅速に目的の場所に移動した。 周囲一帯に、清浄なる白い光が振り撒かれる。 遮る物の無い空中で、光の直撃を浴びて、雪華綺晶と獄狗は苦しげに呻いた。 目が眩んだのか、地面に降り立ち、束の間、動きを止める。 その瞬間を狙い澄まし、翠星石が特殊攻撃精霊を起動した。 「睡鳥夢っ! さあ、真紅っ! 今の内に、ヤツを斬るですっ!」 「っ! く……小賢しい真似を――」 睡鳥夢によって成長を促進された木々の枝が、雪華綺晶と獄狗を拘束した。 蜘蛛の巣状に伸びた木々の枝を潜り、または飛び越えて、真紅は突き進んだ。 雪華綺晶と、その精霊が身動き取れなくなっているのは、僅かの間だけだろう。 雛苺と翠星石が作り出してくれた、この好機。みすみす見逃すつもりは無い。 この一撃で終わらせるつもりで、真紅は斬りかかった。 「穢れに染まりきった哀れな存在よ。滅びなさいっ!」 「こんな……ところで……」 頭上に振りかぶった神剣を、真紅は、躊躇なく振り下ろす。 雪華綺晶は、両腕を絡め取った樹木の枝を、渾身の力で引き千切った。 そして、繰り出された真紅の斬撃を、鬼槍『天骸』の柄で受け止める。 「負けませんわっ!」 「往生際が悪いわねっ!」 力と力が、ぶつかり合い、鬩ぎ合う。 鬼槍『天骸』の柄が、嫌な音を立てた。今にも砕けそうに軋んでいる。 このままでは折れそうだが、と言って、退く事も出来ない。 雪華綺晶の額に、じわり……と、脂汗が滲み始めた。 めきっ! ついに、天骸の柄が爆ぜた。拙い、折れる! 雪華綺晶は咄嗟に、両腕で槍を押し戻した。 火事場の馬鹿力、というヤツだろうか。 力任せに圧されて、真紅は足場にしていた睡鳥夢の枝から、放り出された。 けれど、その一押しで鬼槍『天骸』の耐久力も限界を超えてしまった。 槍の柄が砕けただけだと言うのに、雷鳴の如き凄まじい轟音が鳴り響いた。 耳をつんざく爆音に、誰もが行動不能に陥る。 その影響は、当然の帰結ながら、槍を手にしていた雪華綺晶が最も強く受ける事となった。 最初に動いたのは、真紅と、薔薇水晶。 防御精霊に護られていた分、他の者より衝撃が軽かったのだろう。 「……退いて、真紅」 薔薇水晶は、併走する真紅に声をかけて、彼女を脇へ突き飛ばした。 突然の事に不意を衝かれ、真紅は足を縺れさせて、小さな悲鳴と共に転倒した。 そのまま走り去る薔薇水晶の背中を、真紅の声が追いかける。 「薔薇水晶、何のつもりっ!」 「決着は……私の手でつける。誰にも…………邪魔は、させない!」 獄狗の前で跳躍する薔薇水晶。 右手に握り締めた小太刀『焔』を、躊躇なく振り下ろした。 狙いは、雪華綺晶の首筋―― けれど、薔薇水晶の刃は、眼前の敵に届かなかった。 雪華綺晶が、真っ二つに折れた槍の片方で、小太刀を受け止めていたのだ。 「うふふっ……その程度の実力で、私の頸を狙うなど、笑止千万ですわ」 薔薇水晶は即座に左手の『樹』を振ったが、それも易々と止められてしまう。 得物を折られたことが勿怪の幸いになるとは、なんという皮肉だろうか。 雪華綺晶は、薔薇水晶に向けて、小馬鹿にするような薄ら笑いを浮かべた。 実際、侮辱しているのだろう。 その態度にカチン! ときた薔薇水晶は―― 「……まだ、だよ」 左足を振り抜き、雪華綺晶の横っ面を思いっ切り蹴り飛ばした。 薔薇水晶の爪先が、彼女の右頬に食い込む。 その拍子に――意図していなかったが――雪華綺晶の眼帯をもぎ取っていた。 「さっきのお返し。……ざまみろ」 「くっ! 小癪な真似をっ!」 雪華綺晶は、即座に向き直って、薔薇水晶を睨みつけた。 その右眼は……。 「なっ!? なんなの、それ?!」 薔薇水晶は愕然としつつも、慌てて飛び退き、着地した。 その周りに、先程の衝撃から回復した犬士たちと、結菱老人が集う。 そして、雪華綺晶の右眼を見た誰もが、驚愕と当惑の声を上げた。 「あれは…………穢れの……」 「間違いない。あれは怨嗟の血が染み込み、穢れた地に咲く寄生植物だ」 雪華綺晶の右眼からは、鮮血の様に赤い、一本の薔薇が伸びていた。 花の中央に在るのは、雄しべや雌しべではなく、鋭い牙の生え揃った小さな口。 それは蛇の様に細い茎をうねらせ、歯を鳴らして、真紅たちを威嚇していた。 =第二十六章につづく=
https://w.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/84.html
『葉黄記』宝治元年二月二十五日 廿五日己酉、晴、出有馬、着吹田、 後聞、佐渡院宮(順徳天皇皇子忠成王)〈御年廿六〉、密々被加首服、手自有此時云々、民部卿(平経高)計申子細云々、希代事也、是非如何々々、万人驚多、
https://w.atwiki.jp/hakomin/pages/75.html
――今から丁度2年前、鏡星高校が甲子園優勝する夏の大会前の事。 俺と山塚は二・三年を差し置いてどちらがエースとなるかで注目された時期があった。 そして監督が大会のオーダーを発表し終えると山塚が大きな声で監督に話す。 「待ってください!監督 ――奴は左投げのアンダースローですよ!? 中学時代の実績も得体が知れない彼なんかより……」 「これは私が決めたことだ、今の段階では山塚よりも弾の方が実力があるのは明白だ、そうであろう?」 当初、俺には一つの不安要素が挙げられていた、 それは左投げのアンダーから放たれるフォームだと右打者に球の出所が分かりやすく対応されやすい事である。 しかし球の出所が分かろうがそう易々と俺の球は打たれる事は無い。 その点を考えようが俺に比べ山塚はまだまだ実力不足であった。 「しかし……俺はエースになる為にここに来た!頑張ってきた! でも彼は入部してからまともな練習をしてないじゃないですか!」 「練習せずとも強くなっているじゃないか? 努力など誰でも出来るのだ、 私が欲しいのは“インパクト”なのだ、奴は存在だけでも話題になる逸材だぞ?貴様とは違ってな」 「……」 山塚は何も語らなかった、そして俺の方をキッと睨むとその場を走り去って行く―― 「やれやれ……、右のエースとして箱壬と2枚看板として活躍してもらいたかったが……あやつはまだ精神面がしっかりしておらん様だな」 「そうですか……、まあ監督の期待に沿えるよう!毎試合完封勝ちで行くんで起用お願いしますね!」 監督の心配をよそに当時の俺の目にはもう自分が甲子園で優勝する姿しか見ていなかった。 思えば、俺もこの頃はかなり調子に乗っていたのかもしれない。 周りから見れば俺は突如現れた英雄、プレーで皆を惹きつけるスーパースター。 自分で言うと小物っぽく見られてしまうが、俺は天才だった、誰にも負けなかったし負ける気もしなかった。 トップであり続けた俺は山塚の様に抗う事はしなかった、俺も奴も才能以外では然程変わらないというのにだ。 その後、大会前に何度か俺は山塚と会話する、 しかし山塚は俺を責めたりはしなかった、ただ口にするのはいつも通り“お前を越す”だの“練習をきっちりしろ”だのばかり、 山塚はそういう男だ、一見は自分がエースになるためにはどんな手段でも使うような男だが、実力を認める潔さはしっかりと持っていた。 そして一人一人に口うるさく話しかけることでチーム全体の向上心を上げる役割を果たしていたのだ。 他人には嫌われつつも山塚はチームを纏める素質があった、 しかし――そんな彼が一体何故…… ――グラウンドに戻り試合時間が刻一刻と迫ってきた、 会場には人が集まり始める、恐らく俺と山塚の対決を見たいが為にやってきた生徒達だろう。 観客から見れば新旧エース対決程度、しかし俺らにしてみれば命が掛かった知られない戦いなのだ、 とても観客の声に耳を貸す余裕など無かった。 そして、ついに奴らは来た―- 「よぉ……ちゃあんと集めてこれたんだなぁ……」 「山塚……」 鏡星のユニフォームを来た選手達が現れると観客の声が揚がる、 俺は山塚を睨みつけ左拳に力を入れる、一方の山塚はこの状況下の中、笑みを浮かべていた―― 一言俺が犯罪の事をほのめかすような事を言えばこの笑みはどうなるかも知らないで…… (待ってろよ……試合に勝ってその口から居場所吐かせてやる!) 俺がそう心の中で思う中、他の鏡星の選手は俺の姿を見て戸惑いを感じているかのようだった。 様子の違い、雰囲気の違い――いろいろあるだろうが俺が昔のような余裕のある人間ではなくなったからだろうか。 選手達は俺の方を不思議そうな目で見つめていた―― しかし、俺の球を良く知る厄介者となるであろう正捕手、今丘だけは別だった、 別な意味で見つめている……何か俺に期待するように。 それが一体何なのか、俺はまだ知るよしも無かった―― 第二十四話 母校 <戻 次> 第二十六話 侵食
https://w.atwiki.jp/honsure/pages/83.html
HONSURE IR #25 ID HEEYBHRK 1. FLUTE MAN 2. radius 3. Pollinosis 4. PSYCHE PLANET-GT 2009-09-16 10 00 00 START → 2009-09-23 23 00 00 END SP NORMAL 1. RIS. 3554 AAA SP HYPER 1. MAY. 5632 AAA 2. RIS. 5599 AAA 3. POMA4U 5580 AAA 4. OKEJOB 5210 AA SP ANOTHER 1. LIMEMP 7524 AAA 2. RIS. 7241 AA 3. SHO. 7241 AA 4. OKEJOB 6826 AA DP NORMAL 1. OKEJOB 3346 AA 2. MAKOTO 3031 AA 3. BLACK 2724 A DP HYPER 1. RIS. 4885 AA 2. OKEJOB 4700 AA 3. MAKOTO 4054 A DP ANOTHER 1. DICE 7093 AAA 2. POLXA 5957 A 3. OKEJOB 5834 A 4. JOSEPH 5209 A 5. MAKOTO 4401 B
https://w.atwiki.jp/kakakakanta/pages/53.html
「親機は、どれだ?」 とスーが言った。 一体だけ、偉そうに座っているやつがいる。 「……あれか?」 と、一行が向かおうとした所を、何かが阻んだ。 一匹の犬のようなアームヘッドである。 「ヘル、頼んだ。」 と、スーが言うと、ヘルは犬のような物と、にらみ合った。 一行がその偉そうな奴に近づいた瞬間、周りをファントムが囲んだ。 「……」 凄い数だ。 「わたしが、残る。その隙に行くんだ。」 スーが、きっぱりと言った。 「さあ、行け。」 レーザーのライフルを背中になおし、トンファーを取り出した。 「いけ!」 ただならぬものを感じて、宝生はそこから離脱した。 ずっと進んだところに、一体の巨大なアームヘッドがあり、その後に一体の黒いアームヘッドがあった。 「……菊田?」 そんな気がした。何故だ? 巨大なアームヘッドはオーディンを睨んだ。 「ここは通らせる物か、赤き賢者よ」 その瞬間、何かが光り、赤い光が飛んできたところで、オーディンはそれを避ける。 「……行くしかない。母体を……」 「母体?母体はここにはおらん。残念だったな」 宝生がまた探しに行こうとすると、 「しかし、折角来た客は、もてなさねばならん。そうだろう?」 巨大な手が動いた。 またぎりぎりのところで避けると、目の前に赤いアームヘッドがあった。 「……リアルメシア……」 宝生はそれを睨んだ。 「……旬香、後の黒いアームヘッドは、あなたがとめなさい。」 「……なんだって?」 「わたしがこのデカ物をくい止めるから、早く、あなたはユミルの元に。」 宝生は、言われたまま、奥にいる黒いアームヘッドを見つめた。 「やあ、宝生」 その黒いアームヘッドは言った。 「……」 「久しぶりだな、菊田だよ」 「……」 さっき感じた感覚は、間違いではなかった。これは、間違いなく菊田だったのだ。 「お前は、だれだ!」 宝生は、そう、叫んだ。 「俺は、きくだ・ごんざえもんだよ、忘れたのか?全く、薄情な奴だよ……」 「お前は、誰だ、と言っているんだ」 また、自分の名前を答えるアームヘッドは、本当に菊田のように見えた。 「お前は、薄汚れたただのアームヘッドだ。」 オーディンは、グングニルを構えた。 「……そうか、いいだろう。裏切るのなら、しょうがない。そういえば、俺はお前のせいで死んだんだもんな……復讐だ……」 「くそ!犬やろう!」 木戸は叫ぶが、攻撃はびくともしない。 「ちくしょぉおおお!」 叫んでも叫んでも、虚しさだけが響いていくようだった。 その瞬間、一つの黒い粒が、フェンリルに当たっていった。 「やっぱり、普通のレーヴァテインじゃ、装甲がとけるだけか。」 その声の主は、青年のようだった。 「だいじょうぶかね、我が旗の下に集まった、同志Cよ。わたしは菊田。一旦、ここはわたしに任せろ」 菊田は、手に灼熱の赤い剣を持ち、さらにもう一本、赤い剣を取りだした。これもまた、赤い灼熱の剣だ。 その2本の剣で攻撃するが、ダメージは与えられそうもない。 「ち、これでダメなら……」 菊田は2本の剣をフェンリルに投げつけた。これは流石に効いたらしく、フェンリルがギロリと菊田を見つめた。 「こいよ、犬ちゃん」 菊田のアームヘッドの腰にある鞘が割れ、白い気体を噴出させた。それは、巨大な刀だった。 フェンリルが飛び込み、菊田が刀を振るうと、フェンリルの頭に斬激が走った
https://w.atwiki.jp/wktkwktk/pages/97.html
タケシさんの部屋に行くと、ピカチュウはついさっき出て行ったと言われた。 もしピカチュウがあたしの部屋に戻ったのだとしたら、途中ですれ違っているはず。 「どこに行ったのよ、もう」 爪を噛む。苛立ちと不安で、小さい頃に直った癖が復活しそうになる。 あたしが何気なく庭園に視線を移すと、誰かが正門の方へ歩いているところだった。 常夜灯がその人の顔を淡く照らし出す。 「あっ……」 夕方に見たのと同じ人だった。 既視感がさらに強まる。なのに、それが誰だか思い出せない。 今追いかけてなければ、あの人にもう二度と会えないような直感がした。 靴を取りに行って戻ってきたとき、既に人影は消えていた。 それでもあたしは庭に降りて、常夜灯と青白い月明かりを頼りに人影を見た辺りまで歩いていった。 「探したぜ。何やってんだよ、こんなところで」 振り返ると、そこにはタイチがいた。 きっと、あの人にはもう会えない。 脱力感にも似た諦めで、心がいっぱいになる。 「タイチには関係ない」 「冷てぇな」 タイチは気にした風もなく頭をかいた。 「どうしてあたしを追いかけてきたのよ」 「決まってんだろ。話がまだ終わってないからだ」 しつこい男は嫌われるのよ、という台詞が浮かんだけど、言えなかった。 あたしの心のどこかには、タイチが追いかけてくれたことを嬉しく感じている自分がいた。 それなのに、口からついて出るのは辛辣な言葉ばかりで――。 「無駄よ。タイチにはあたしの気持ちなんて、わかりっこないもの」 「ああ、分からねえよ」 「……開きなおるのね」 「違う。確かに俺は、ヒナタが今どんな気持ちか分からない。 俺には親父もお袋もいて、勘当されたこともねえからな」 「幸せ自慢するつもり?」 タイチはあたしの横槍を無視して言った。 「だから、教えて欲しいんだ。 ヒナタは何でも自分の内に溜め込んで、自分の力だけで何とかしようとするところがあるだろ。 どうして俺やカエデにもっと色々話してくれないんだよ。 俺たちはそんなに信用されてねえのかよ」 「そ、そんなこと……」 「ないって言うなら、話してくれ。 じゃないと俺はヒナタがマサラタウンに帰ることに納得できない」 ――タイチに納得してもらう必要なんかない。 そうやって突っぱねる選択肢もあった。けど、頭で考えるよりも先に口が動いていた。 「あたしとお母さんのことは、あの夜、あたしがあの人の前に顔を出すまでずっと忘れられていたの。 あの人にとって、あたしは邪魔者以外の何者でもないのよ。 だからシゲルおじさまがあたしを同行させたところで、シゲルおじさまの期待通りにはならないの」 「なあ、一旦ヒナタの親父さんが失踪以来何をしてたかとか、ヒナタのことをどう思ってるとか、そういうの全部忘れろよ。 大切なのは、ヒナタが親父さんに対して、どう思ってるか、だろ」 それ以上突き詰められたら、あたしはきっと全てさらけ出してしまう。 分かっていながら、続くタイチの言葉を待った。 「一分でも会いたい気持ちが残ってるのか?」 俯く。 「完全に縁を切っちまいたいと思ってるのか?」 首を横に振る。 動作を終えてから自分の回答に気付いた。 「ま、待って、今のは無意識で……」 「無意識のうちの行動ほど、深層心理を反映してるって言うぜ」 「で、でも、やっぱりダメなの。 あの人には新しい女の人がいて、その人との間にはアヤがいて、」 「だーかーら、そんなもん全部関係ねえって言ってんだろ。 いい加減怒るぞ。 ヒナタの親父さんがカスミさんと別の女と結婚してようが、その女との間に子供作ってようが、 ヒナタが親父さんの娘であることにはなんの関係もねえんだよ」 タイチが一歩こっちに詰め寄る。あたしが一歩後ずさる。 そんなことを繰り返して、あたしの背中は、エリカさんのお父さんが大切に育てている柳の幹に押し当てられた。 「あの日からずっと、ヒナタは親父さんのこと、あの人って言ってるよな」 「だって、あの人はあたしのことを、」 ――『馴れ馴れしく話しかけるな。お前とお前の母親など、私にとっては過去の遺物だ』―― 「娘だって、認めてくれなかったのよ」 目頭が熱くなる。滲んだ涙を見られたくなくて、顔を背けた。 次の瞬間、冬の冷たさを一時忘れてしまうほど、心地よい温もりに包まれた。 「もう、いいだろ」 タイチの声は優しかった。 「ヒナタが父親と思ってる人を『お父さん』って呼ぶのに、資格なんて要らねえ。 伝わらなくったっていい。一方通行でもいい。 ヒナタが呼びたいように呼べばいいんだ。思いたいように思えばいいんだよ」 心に重くのし掛かっていた冷たい何かが、一時に溶けていくような気がした。 あたしはいったい、何を思い詰めていたんだろう。 どうしてこんな単純な理屈に気付けなかったんだろう。 お父さんに認められなくったっていい。 見苦しくったっていい。 「ひくっ……あたし、……えぐっ……お父さんに、会いたい……っ……あれで終わりなんて……やだっ……」 涙でぐちゃぐちゃの顔をタイチの胸に押しつける。 低い鼓動の音を聞いていると、妙な安心感に包まれた。 「俺はヒナタの親父さんのことを信じてる。 あの人が本心からあんなことを言えるわけがないんだ。 ヒナタがキャタピーに襲われた時、ヒナタを助けてくれたのも、 俺が大人を呼びにいってる間、ヒナタのことを見守ってくれてたのも、ヒナタの親父さんなんだぜ」 「……うん」 「だから、ヒナタも親父さんを信じろ」 「……うんっ」 幽かな風に靡く柳の葉音が聞こえるほどに心が落ち着いた頃、 あたしは自分とタイチの距離が零になっていることに気が付いた。 普段なら迷い無く突き飛ばしているところだけれど、何故か腕に力が籠もらない。 ――きっと今なら、もしタイチが変なことをしたとしても、許してしまう。 そんなことを考えて、顔が熱くなる。 あたしは念入りに涙と鼻水をタイチの服で拭ってから顔を上げた。 こんな時に限ってタイチは混じりけのない優しい表情をしていた。 「反則よ」 「何がだ?」 「な、なんでもないわ。 ねえ、タイチはどうしてここまでしてくれるの」 「このままヒナタがマサラタウンに帰っちまったら、ヒナタはこの先ずっと、あの夜のことを引きずると思ったから。 ピカチュウが戻ってきて、ヒナタは笑うようになったけど、なんつーか、見てると脆くてさ。 お前が心から笑えるには、どうすりゃいいのかって、俺なりに考えて、その答えがこれだ」 「………よ、よくそんな恥ずかしいこと言えるわね」 タイチは頬を紅潮させながら言った。 「でも、理由はそれだけじゃないんだ」 「他にも、あるの?」 「あるけど、言っても逃げないか?」 「逃げないから、教えて」 「俺、ヒナタが一緒じゃなきゃ嫌なんだ。 お前と一緒に旅をして、お前と一緒にポケモンリーグ目指したいんだ。 だからお前がマサラタウンに帰るって言ったとき、どんなことしてでも引き留めようと思った」 「タイチ……」 「好きだ、ヒナタ」 飾り気のない淡泊な告白。 「くすっ」 「わ、笑うとこじゃねえだろ」 「タイチらしいなあと思って」 「なんだよ。俺は真面目に……」 「分かってる」 もう一度タイチの胸に顔を埋める。 今なら、自分に素直になれる。 抑えつけていた言葉を解き放つのに、特別な勇気は必要なかった。 「あたしも、タイチのことが好き」 心が温かい幸せで満たされている。 タイチもあたしと同じ気持ちを味わっているのかしら。 夢心地で顔を上げたその時、サク、という軽やかな音が響き、 タイチは安らかな表情を保ちながら地面に崩れ落ちた。 「ピカチュウは、あたしが襲われてると思ったのね……」 ヒナタの声は僕を誉めているようで虚ろだった。 僕は現在後ろ足をたたみ、両手を前に付きながら丸まっている状態である。 これは人間でいうところの正座にあたる。つまり僕は猛省しているのである。 マサキの庵から庭に降り立った僕が見たもの、 それは抵抗するヒナタの四肢を押さえつけ無理矢理に唇を重ねんとしているタイチの姿だった。 そこからの行動は無我の境地だった。 "電光石火"。跳躍。無防備に晒された延髄を目掛けて繰り出した"アイアンテール"はクリーンヒット。 暴漢タイチは沈黙。僕は安堵の表情を期待して主を見上げた。 全てが僕の誤解によるものと判明したのは、ヒナタが今にも泣きそうな顔でタイチに駆け寄ったのを見てからだ。 「一晩眠れば目を醒ますでしょう。 さあ、君は自分の部屋に戻りなさい」 とエリカの侍医は言った。 「夜遅くにすみませんでした」 ヒナタは最後に複雑な感情の入り交じった視線をタイチに送って、部屋を後にした。 項垂れながらその後に続く。 「ピカチュウ」 ヒナタは僕の行動を咎めるわけでもなく、僕を肩に乗せてくれた。 エリカの侍医がタイチを診ているあいだ、ヒナタはずっとタイチの手を握っていた。 そこにはかつて僕がサトシとカスミの間に感じたものと同じ情緒があった。 若い男女がそれなりの時間を共有していたのだ。 この展開を予想していなかったと言えば嘘になる。 が、しかし――僕の心境は入り乱れていた。 人の気持ちは刹那的で移ろいやすい。 ヒナタが将来傷つけられるかもしれないことを考慮すれば、やはり僕はあのとき、命を賭してでも"雷"を落としておくべきだったのではないだろうか? 「あたし、マサラタウンには帰らないことにしたの。 どんなに拒絶されてもいい。もう一度だけお父さんに会って、話したい。 タイチがそれに気付かせてくれたの」 ……………愚問だな。 僕は自分の浅はかな邪推を恥じた。 ヒナタを変えたのはタイチだ。タイチなら、ヒナタの心の穴を埋めることができるだろう。 僕が死んだときも、ヒナタの傍にいて慰めてくれるだろう。 嬉しさと切なさが混在した心は、不思議なほどに穏やかだった。 「ねえ、ピカチュウ」 「ピィ?」 ヒナタはふと足を止め、視線を彷徨わせてから言った。 「ピカチュウはもう一度お父さんに会いたい? それとも、もう二度とお父さんに会いたくない?」 僕があえて反応しないでいると、 「あたしはさっき、もう一度お父さんに会いたいって言ったけど……、 ピカチュウが嫌なら、ピカチュウにはここで、あたしが帰るのを待ってて欲しいの」 ヒナタは僕がサトシから捨てられたことを知っているから、 自分が抱いていた心の痛みと同じものを、僕も抱えているのではないかと気遣ってくれている。 僕はヒナタの豊かな髪に身を寄せて、意思表示した。 「ピィカァ、チュッ」 僕は君に着いていく。 「うん、分かった。ありがとう、ピカチュウ」 綻ぶヒナタの顔から目をそらす。 自分とヒナタに嘘を吐いたことは自覚していた。 カスミにはヒナタを護るように言われている。 そしてヒナタを護るために、僕は自分を犠牲にする覚悟がある。 彼女が父親に会いに行くと言うのなら、僕は何も言わず彼女に追従するまでだ。 しかし、サトシにもう一度会いたいか、と問われれば、僕は首を横に振らざるをえない。 シルフカンパニーの屋上で彼と再会するまでは、サトシに再会したい気持ちでいっぱいだった。 カスミとヒナタを捨てた理由を知りたかったから、という理由付けでは不純だ。 僕は少なからず、何故サトシが僕をマサラタウンに置いていったのか、知りたかった。 その疑問に対して一つの憶測が生まれた今、その憶測の正否を確かめるのが怖かった。 「ピカピ……」 僕は目を瞑って、サトシの娘から伝わる熱を少しでも多く感じとろうとした。 途中で中断されたけど、タイチとは気持ちを通わせることが出来た。 お父さんにもう一度会いに行くことに対して、完全に不安がなくなったと言えば嘘になる。 でも、あたしにはピカチュウがいる。ピカチュウが一緒なら、あたしは真正面からお父さんに向き合える。 あの夜からずっと重かった心が、今は軽い。 カエデはもう部屋に戻っているのかしら? あたしは細く明かりが漏れる襖をそっと開けた。 「………!」 反射的に襖を閉めて、深呼吸して気を落ち着かせる。 あたしが一瞬垣間見たもの、それは浴衣がはだけるのもお構いなしに、 抱き枕もといパウワウに腕と足を絡ませ、部屋の隅に転がっているカエデの姿だった。 「ど、どうしよう」 「ピ、ピカチュ」 ピカチュウが左右に激しく首を振る。 小さな頃から喧嘩ばかりしてきたあたしとカエデ。 負けるのはいつもあたしだったけど、極稀にカエデを負かしたことがあった。 そんな時、あたしがすぐに謝れば、カエデは調子よく復活した。 でも謝る機会を逸してしまうと、カエデはパウワウを抱き枕にして三日ほどあたしと口を聞いてくれなくなった。 思い当たる節は、ある。 あたしが部屋を飛び出した後、タイチはカエデと二手に分かれてあたしを探した。 もしカエデが、中庭にいるあたしとタイチの姿を目撃していたとしたら? 裏切られた、って思うわよね、普通。 カエデは散々あたしにタイチが好きと話していたんだから。 でも、言い逃れしたって仕方ない。 正直に自分の気持ちを打ち明けて、謝ろう。 意を決する。あたしは勢いよく襖を開けて、 「あのね、カエデ――」 「もうキスはしたの?」 完全な不意打ちに、頭が真っ白になった。 「えっと、あの、その」 「まだなんだ。ふーん。初心だもんね、ヒナタは。 ……いつまでそこに突っ立ってんのよ。 暖気が逃げるからさっさと入りなさいよね」 言葉通りに襖を閉めて、仲居さんの敷いてくれた布団の上に正座する。 あたしはカエデの背中に恐る恐る尋ねた。 「怒ってる?」 それから長い間、カエデは何も言わなかった。 「ぱうぅ、ぱうぅ」という、きつく抱きしめられているパウワウの苦しげな鳴き声が静寂を乱すのみだった。 ピカチュウはカエデが転がっている角の対角で、小さく丸まっている。 あたしとカエデがまだ幼かった頃、こんな状態になったカエデに、 耳が取れそうになるほどきつく掴まれて振り回された可哀想な記憶が蘇っているのかもしれない。 あたしが部屋の暖かさに眠気を感じ始めた頃、カエデが呟いた。 「……怒ってないわよ」 「ぱ、ぱうぅっ」 パウワウの悲鳴で、カエデの抱擁に一段と力が入ったことが分かる。 「ずっと前から気付いてたもん。 あんたが本当はタイチくんのこと好きで、タイチくんがヒナタのことしか見てないことだって分かってたもん」 「えっ」 タイチがあたししか見ていなかったという言葉に驚くと、 カエデはパウワウを抱きしめたままこちらを向いて、少し潤んだ目であたしを睨み付けた。 「なんでそこで驚くのよ! 誰が見ても気付くわよあんなの。 あーもー、ほんとうんざり。見てて苛々したわ」 そんな風に言われても、腑に落ちなかった。 あたしはつい数時間前まで、気を置かずに話すタイチとカエデを見て嫉妬を感じていたりしたのに。 「どうせ最初からあたしに勝ち目なんか無かったのよ。 あんな昔から布石打ってたなんて……ほんっとに卑怯よね、ヒナタは」 「昔からの布石……?」 「ピカチュウが帰ってくる前、タイチくんがお父さんと模擬戦した日があったでしょ。 あの日の夜にタイチくんから聞いたわ。 子供の頃にヒナタがキャタピーに襲われて、それをタイチくんが助けられなかったこと」 「布石も何も……ただの思い出じゃない」 「その"ただの"思い出が、あたしにとってはどんなに頑張っても手に入れられない物なのっ! その思い出があったから、タイチくんはヒナタしか眼中に無くなっちゃったのっ!」 「ぱうぅっ、ぱうぱうぅっ」 いよいよパウワウがつぶらな黒い瞳に涙を浮かべ始める。 カエデは声のトーンを落として言った。 「あの日の夜だって、ほんとは告白するつもりだった。 でも、二人きりになったのにタイチくんがヒナタの話ばっかりするから、あたし、我慢できなくなって訊いちゃったの」 ――タイチくんはそんなにヒナタが大切なの?―― 「そしたらなんて答えたと思う?」 「わ、分からないわ」 「タイチくんはね、ヒナタが傷つくのが何よりも我慢ならないんだって。 ヒナタが悲しんでいたら、何をしてでもその原因を取り除いてあげたいんだって」 純愛すぎて笑っちゃうわよね、とカエデがパウワウに同意を求める。 パウワウはこれ以上抱擁が強くなることを怖れたのか「ぱうぱう!」と即答した。 「それ聞いて、諦めがついたの。こりゃダメだな、って。 タイチくんの心には、あたしが住めるような余地はないってことに気付かされたわけ」 あたしは誤解していた。 あの日の夜を境に、タイチに対するカエデの態度に遠慮が無くなったように見えたのは、 二人の距離が縮まったからではなく、カエデがタイチを友達として意識すると決めたからだった。 「はぁーあ。なんかもうどうでもよくなっちゃった」 ふときつく絡まっていた腕と足が緩み、パウワウが畳の上を転がる。 それと同時に、それまでパウワウが隠していた、際どいカエデの肢体が露わにになった。 「カエデ、浴衣……」 「ここにはあたしとヒナタしかいないんだから別に気にすることもないでしょ」 そう言ってカエデは、雪のように真っ白な内ももから膝までつと指を滑らせて、 「色気で誘惑したほうが良かったのかな。タイチくんそういうのに弱そうだし」 とんでもないことを呟いた。 「だ、だめよ。それは絶対にだめ!」 「ぷぷっ、冗談に決まってるじゃない。必死になっちゃって、バカみたい」 カエデの表情に笑顔が戻る。あたしも笑った。 ふと部屋の角を見ると、パウワウが丸まったままのピカチュウに近寄って、 主の機嫌がひとまず直ったことを教えてあげているようだった。 「ぱうー」「チュ?」 パウワウが鰭でぽんぽんとふくよかなお腹を叩いて、ピカチュウをパウワウソファーへ誘う。 ピカチュウはパウワウにもたれて目を瞑ると、あっという間に寝息を立て始めた。 「決心、固まったの?」 あたしは座った状態で、浴衣に腕を通しながら答えた。 「もう一度お父さんに会うことにしたわ」 「素直になるのに随分時間かかったわねー」 「……うん。本当に、そう。タイチが気付かせてくれなかったら、 あたし、マサラタウンでずっと後悔することになったかもしれない」 ふと、カエデが小さな声で言った。 「ごめんね」 「な、なんでカエデが謝るの?」 「あたし、タイチくんみたいに、もっとヒナタに深く突っ込んであげるべきだったかなーって。 エリカさんのお屋敷に来て、しばらくしたらヒナタの気持ちが落ち着いて、 自然といろいろ相談してくれるかも、なんて甘いこと考えてた。 あんなことがあったんだもんね。たとえ従姉妹でも話しにくいこと、あるわよね」 「カエデ……」 「ヒナタがマサラタウンに帰るって言い出した時だって、 反対したらヒナタをもっと傷つけることになるかもって、怖くなって、 無難に同意することしかできなかったし。あはは、あたし、ヒナタの従姉失格かも」 あたしは、ううん、と首を振って言った。 「そんなことない。 内に溜め込んでたあたしが悪かったの。 周りにはあたしを気遣ってくれてる人がたくさんいたのに……。 あたし、これからはもっとカエデに相談する」 「一切隠し事はなしよ? ……あ、でもでも、タイチくんとの惚気話は報告しないでね。 嫉妬でヒナタのこと殺しちゃうかもしれないから」 そう言うとカエデは、その夜初めて心からの笑顔を見せてくれた。
https://w.atwiki.jp/wktkwktk/pages/99.html
翌朝。 僕は久方ぶりに、ヒナタやカエデのポケモンたちと共に穏やかな時間を過ごすことができた。 淡雪が降り出しそうな寒天の下、マフラーを首に巻かれたワニノコとピッピが追いかけっこしている。 庭に設えられた人工池では、ヒトデマンから進化したスターミーとパウワウが半身を浸している。 そして僕の隣では、それなりに立派な体躯のハクリュウが、時折僕をチラ見しながらトレーニングに勤しんでいる。 僕たちは初対面のはずなのに、なぜ意識されているのか解せなかった。 「ピィ」 吐いた息は白く凍り、立ち上っては消えていく。 「ぴぃっぴぃ~」 ピッピが僕の背中に駆け込んでくる。 すぐにワニノコがやってきて、僕の顔色を窺いながら、 「がうがう!」 卑怯だぞ、と言いたいのだろう。 なるほど、背後のピッピは可愛らしい舌をちろちろと見せてワニノコをからかっている。 ハナダシティのショッピングモールにいた時とは、形勢が少々逆転しているようだ。 「ピィカー」 ほら、遊んでおいで。 背中を押し出してやると、ピッピは元気よく駆けだした。 「がうっ!」 ワニノコがすぐさまそのあとを追う。 逃げて、追いかけて、捕まえて――その終わりのない反復に飽きは来ないようだ。 微笑ましい光景に目を細めていると、 「ぱうぱうー」 パウワウが僕を呼んだ。 隣のスターミーも僕に向けてコアを点滅させている。 お誘いはありがたいが、水、氷タイプ以外のポケモンがこの時期に水浴びするのは自殺行為に等しい。 「チュウ」 遠慮させてもらうよ。 そう伝えると、パウワウは残念そうに「ぱうー……」と鳴いて、尾ひれでぱしゃぱしゃと水面を撫でた。 ぴり、と近くの空気が震えた。 わずかに身を逸らす。間髪いれず、僕の体左半分があったところに、群青色の尻尾が打ち下ろされた。 見上げれば、爛々と目を光らせたハクリューが、鼻息荒く僕を睨み付けていた。 「ピィカ、ピィカチュ」 危ないな。 トレーニングをするのは君の勝手だが、 他のポケモンを巻き込んだり、エリカの綺麗な庭を荒らしたりしてはいけないよ。 僕の意図が伝わらなかったのだろうか、二撃、三撃と、ハクリューは攻撃をやめない。 「チュ」 僕は窘めるのを諦めた。 何が気にいらなくて暴れているのか知らないが、若気の至り、というやつだろう。 雰囲気を察知したらしいワニノコがこちらに駆け寄ってきて、ハクリューの尾にしがみつく。 「がうっ、がうがうっ!」 ハクリューは「邪魔だ」と言わんばかりにワニノコを打ち払った。転がったワニノコに、ピッピが駆け寄る。 まったく、どうして若いドラゴンタイプのポケモンはこうも驕慢なんだろうね。 君はドラゴンタイプのポケモン以外は全て矮小で貧弱だと思っているんだろうが、 いい機会だ、必ずしもそれが正しくないということを教えてあげるよ。 「ウォフッ」 物理攻撃が当たらないことに痺れを切らしたハクリューが、口の端に青い炎をちらつかせる。 "龍の怒り"、か。 僕が躱すべく軸足に力を込めた、その時だった。 「ピカチュウー? どこにいるのー?」 縁側から近づくヒナタとカエデの姿を見て、急遽、予定を変更する。 荒療治になるが仕方がない。 僕はハクリュウの顔面の真正面に飛び込み、上顎に肘と、下顎に膝を叩き込んだ。 強制的に閉じられた口の中で、ぼん、と"龍の怒り"が爆発する。 小さな爆風に煽られ、宙で一回転して着地、波打った毛並みを整えてから、僕は主に駆け寄った。 二人の位置からは、ちょうど茂みが邪魔をして、ぷすぷすと黒煙を吐いて目を回すハクリューを見ることができない。 「ここでみんなと一緒に遊んでたのね」 ヒナタの微笑からは、昨日まで失われていた瑞々しい活力を感じることができた。 昨夜は久方ぶりに、ぐっすりと眠ることができたのだろう。 カエデが胸を張って言った。 「ほら、あたしの言った通り、庭にいたじゃない」 「勝ち誇ることじゃないでしょ。あのね、ピカチュウ。 今からちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?」 ヒナタの表情に、うっすらと不安の影が落ちる。 僕は訝しみながらも、 「ピッカァ」 ヒナタの肩に飛び移った。 いつか、ピッピを虐めていたワニノコの監督を任せたように、 「チュー」 目を醒ましてからも暴れるようなら再教育してあげて欲しい、とスターミーに依頼しておく。 人工池の片隅で、彼女は眠そうにぴこぴことコアを点滅させた。 部屋に着くと、片目に傷を負った白猫がヒナタの浴衣にくるまって眠っていた。 「あの、ペルシアンさん?」 ヒナタが怖々尋ねる。ニャースは細く目を開けると、偉そうに首を擡げて言った。 「待ちくたびれたニャ。 大事な要件があると言って呼び出した割には予定時刻を大幅にオーバーしてるのニャ」 「ごめんなさい」 しゅん、と項垂れるヒナタ。 僕は過保護であると自覚しつつも、 「ピィカ、チュウ」 責めるならヒナタに見つかりにくい庭にいた僕を責めるんだな。 あと彼女に敬語を使わせるのはやめろ。 彼女はポケモンに対する礼儀を忘れたりはしない。 「わ、分かったニャ。ヒナタちゃん、ミャーのことは呼び捨てでいいニャ。あと敬語もやめるニャ」 「あ、えっと、はい……じゃなくて……分かったわ」 「でも、ひとつだけお願いがあるんだニャ」 「?」 「ヒナタちゃんには、これから何があっても、ミャーのことを"ペルシアン"と呼んでほしいんだニャ。 間違っても"ニャース"とは呼ばないでほしいのニャ」 ヒナタは困惑した表情で言った。 「え、だってペルシアンはペルシアンでしょ?」 「ヒナタちゃんはいい子なのニャ~」 ニャースは感涙した。 その様子から察するに、ニャースを昔から知っている人間のほとんどは、 彼がペルシアンに進化した今になっても変わらずに「ニャース」という呼称を使っているのだろう。エリカが良い例だ。 ニャースの嗚咽が収まるのを待ってからヒナタが言った。 「ペルシアンは、どんなポケモンの言葉も分かるのよね?」 「愚問だニャ。ミャーに分からない言語は古今東西存在しないニャ。 ミャーにかかれば新種ポケモンの言語も三日とかからずに自分のものにできるのニャ」 「ピカチュウの言葉も?」 「無論だニャ」 ヒナタは腰のベルトからボールを外して、僕をちらと一瞥してから尋ねた。 「……ゲンガーの言葉も?」 「余裕だニャ」 ヒナタが新たに手に入れたハイパーボールと、その中のポケモンについて、 僕はこれまで存在を知りつつも、特別に意識を払わないようにしてきた。 ヒナタは意図的に、僕の視界からハイパーボールを(あるいはハイパーボールの中のポケモンの視界から僕を)遠ざけようとしていた。 今朝にしても、ヒナタとカエデがポケモンを庭に解放したとき、あのハイパーボールだけは展開されなかった。 ヒナタは僕のもとに屈み込んで語り出した。 「あたしね、ピカチュウと離れ離れになった後、シオンタウンに行ったの。 それでね………」 僕は彼女が辛そうに紡ぎ出す一言一句に耳を傾けた。 要約すると以下の通りになる。 ヒナタはシオンタウンのポケモンタワーで、一匹のゲンガーに襲われた。 それを助けてくれたのは元四天王であるキクコだった。 キクコはゲンガーがヒナタを襲った理由について、 ヒナタと近しい人、或いはポケモンに、ゲンガーの核となる霊魂が強い恨みを持っているからだと言い、ゲンガーの記憶を読み取った。 果たしてそこに刻まれていたのは、ピカチュウに殺されたギャラドスの断末魔だった。 「最初はピカチュウがギャラドスを殺すなんて、有り得ないと思ったわ。 でも、お父さんのポケモンで、ポケモンリーグにも出場したことがあるピカチュウなら……」 言葉が掠れて、聞き取れなくなる。 「ピィ」 ニャース、翻訳を任せてもいいかな。 彼の首肯を確認してから、僕は言った。 「チュウ、ピカチュウ」 結論から言おうか。それは事実だ。 僕はゲンガーの前身となるギャラドスを殺した。 僕が殺めたギャラドスは一匹だけだから、彼のことはよく記憶している。 サトシと共に初めて挑んだポケモンリーグの最終戦で、当代チャンピオンの切り札が彼だった。 「………」 ヒナタは悲痛な面持ちでペルシアンの翻訳を聞いていた。 僕は追憶を続けた。 ――『"雷"だ。止めを刺せ、ピカチュウ』―― 酷薄な命令。瀕死のギャラドス。 己のポケモンを口汚く罵る当代チャンピオン。 躊躇は無かった。僕はサトシを信じていた。 轟音と閃光のあとで、ギャラドスは黒煙を燻らせながら崩れ落ちた。 その記憶をそのままヒナタに伝えれば、 僕がギャラドスを殺めた原因は、必然的に命令を下したサトシということになる。 僕はハイパーボールの中にあるポケモンに語りかけた。 ヒナタに真実を話すにあたって、少し、脚色することを許して欲しい。 「ピィ、ピィカチュ」 僕は、僕の一存で"雷"を落としたんだ。 本来なら攻撃をやめておくべき状況で、僕は緊張と興奮のあまり、無抵抗のギャラドスを嬲った。 「っ」 ヒナタが唇を噛む。 これで良かったのだ、と僕は自分を納得させた。 再びヒナタの心に芽生えた父親を信じる気持ちを、彼女自身の手で摘ませてはいけない。 「ピィ……?」 失望したかい? 不意にヒナタは僕の両手を取って、激しく横に首を振った。 「違うわ。そうじゃないの。 キクコおばあさんの話が本当だったことはショックだけど、 それでピカチュウのことを嫌いになったりなんかしない!」 ヒナタ……。 その言葉で僕がどれだけ救われるか、君は気付いていないんだろうね。 「あたし、キクコおばあさんと約束したの。 もしピカチュウに再会したら、その時に、ゲンガーをピカチュウと会わせること。 ゲンガーの中にいるギャラドスの霊を成仏させるには、それしかないって言われたの」 ヒナタが開閉スイッチに触れる。 指はかすかに震えていた。 「だいじょうぶ、ピカチュウ?」 「ピィカ」 僕は頷いて見せた。 閃光。果たして召喚されたゲンガーは、実に温厚そうな、柔らかい鳴き声を響かせた。 「うー!」 当惑を禁じ得ない。 ゲンガーからは、僕への恨みや、憎しみといった感情が、一片も感じ取ることができなかった。 彼の瞳に映っているのはむしろ、初対面のポケモンに対する緊張と、久方ぶりに外に出ることを許された喜びの色だった。 ヒナタがゲンガーの耳と耳の間を撫でながら言った。 「ゲンガー、もう一人のあなたを呼び出してくれる?」 「うー……」 瞑目。瞬間、この部屋に満ちていた暖気が冷気に変わった。 再び開いた瞼の奥から、ルビーの原石のような暗い赤色の瞳が僕を鋭く睨み付ける。 ……主格をスイッチしたのか。 僕はニャースに、これからの会話をしばらく翻訳しないよう釘を刺してから、赤い瞳を見つめ返した。 「ピィカ、チュウ」 久しぶりだね。ギャラドス、いや、今はゲンガーと呼んだ方がいいのかな。 冷たいゲンガーの思念が頭の中に流れ込んでくる。 ――そんなことはどうでもいい―― だろうね。 さて、君の魂が安らかなものとなるように僕たちはこうして対峙しているわけだが、 どうすれば君の魂を鎮めることができるんだろう? ――そうだな―― ゲンガーは口を三日月の形に裂いて笑った。 ――死んでもらおうか。お前は俺を殺した。俺がお前を殺せば、それで命の遣り取りは等価になる―― いいだろう。 僕がそう答えると、ゲンガーは訝しむように片目を眇めた。 「ピィカ、ピィカチュー」 僕の死でかつて君を殺した罪を贖えるなら、僕は抵抗せずに命を差しだそう。 ただ、ひとつ、いや、ふたつ条件がある。 ひとつめは、数日の猶予。 君も知ってのとおり、ヒナタはもう一度、父親に会いに行こうとしている。 そして僕は彼女に同行することになっている。僕を殺すのは、全てが終わってからにして欲しい。 ふたつめは、ヒナタへの助力。 彼女の周りには危険が多い。タイチやカエデ、彼らのポケモンが心許ないとは言わないが、 それでも数多の戦闘経験を引き継いでいる君は、ヒナタの大きな戦力となる。 僕が死んで君の魂が鎮まったあとで、もし君に少しでもヒナタへの忠心が生まれているなら、 彼女が十分に強くなったと思うまで、この世に留まり、彼女を支えてあげてはくれないだろうか。 ――くだらねえ―― 僕は首を傾げた。 ――初めっから、お前に復讐する気なんかねえよ。そんな気はとうの昔に失せてやがる―― 何故だい、と尋ねると、ゲンガーは不愉快さを隠そうともせずに答えた。 ――俺がお前に殺された時、当時の主は俺の遺骸を淡々とポケモンタワーに埋めて、ただの一度も参りにこなかった。 だが、俺がお前を殺せば、お前の主は一生、お前が死んだ時の悲しみを忘れないだろうからな―― 僕の主、じゃない。僕たちの主だよ。 ――黙れ―― ゲンガーは顔を背けて、 ――俺がまだこの体の支配権を握っていたとき、俺は生前強いられていた戦い方を披露して、この子を何度も苦しませた。 この子がギャラドスの頃に俺を服従させていたクズとは正反対のトレーナーだってことを理解してからは、 ……その、なんだ、少しは俺の力を貸してやってもいいと思うようになった―― それじゃあ、君はこれからもヒナタのポケモンでいてくれるんだね。 ――消えたくなったら勝手に消えるさ。 もっとも、今じゃあのヘタレがこの体の支配格だ、消える時にはそいつの許可がいるがな―― ヘタレというと、ボールから出たばかりの、温厚そうな鳴き声の持ち主の方かい? ――俺が"うーうー"なんて無様な声を上げると思うか?―― いいや。 そうか、君が消えるには彼の許可が要るのか。 いいことを聞いたよ。後で彼に君がずっとヒナタに忠誠を誓うよう頼んでおこう。 ――てめぇ、やっぱりぶっ殺す!―― 僕はペルシアンに「和解した」とヒナタに伝えるように頼んだ。 「話し合いは終わったみたいだニャ」 今にも僕に飛びかからんとしていたゲンガーの肩に、ヒナタがそっと手をかける。 話し合いの雲行きにずっと胸を痛めていたのだろう。 「ピカチュウのこと、許してくれたの?」 元レベル91にして凶悪ポケモンの名を欲しいままにしたギャラドスの霊は、 ぷるぷる震えながら強張った笑顔を作り、愛らしさの欠片もない声で「うー」と鳴いた。 「……ありがとう」 ヒナタがゲンガーを背後から包み込む。 それがスイッチになったのか、ゲンガーの瞳から、赤い光が徐々に失われていった。 「チュー」 最後に、君を殺した時からずっと言いそびれていたことを言うよ。 彼の命令だったとはいえ、君に"雷"を落として本当にすまなかった。 君が僕を許してくれても、僕は自分が犯した罪を忘れない。 数秒の静寂のあと、 「うっうー」 瞬きしたゲンガーの瞳に、既にギャラドスの面影は無かった。 ゲンガーの鳴き声が聞こえたのだろうか、それまで部屋の外で待機していたカエデが入ってくる。 みんなの様子を見にいかない?という彼女の提案で、僕たちは庭に戻ることになった。 午前中、他のポケモンが思い思いに憩うのを眺めながら、僕はずっと、 彼が支配格と主格を交代する直前に残した思念について考えていた。 ――生きろ―― 死ぬな、ではない。彼は僕に、生きろ、と言った。 彼は恐らく、僕の余命が残り少ないことに気付いていた。 その日の夜。大広間での話し合いの末、セキエイ高原の探索が可決された。 出立時刻や動員に関する細々としたことが決まったあとで、 シゲルおじさまは、それまで蚊帳の外にいたあたしに語りかけた。 『ヒナタ、酷なことを強いてるのを承知で頼む。 セキエイ高原の探索に、同行してくれないか』 『はい』 あたしのきっぱりとした返事に、シゲルおじさまを含めた一同はとても驚いていた。 ただ一人、マサキ博士だけを除いて。 「ピカチュウに聞いてたんじゃないか。 あの人、ポケモンと話せるんだろ?」 バクフーンの背中の炎に手を翳して暖を取りながらタイチが言った。 「そういやピカチュウはどこにいるんだ?」 「ついさっき、部屋を出て行ったきり見てないわ。 多分、マサキ博士がいる庵にいるんじゃないかしら」 同じくカエデも炎に手をかざしつつ、 「どうしてそんなことが分かるのよ?」 「だって、昨日の夜もそこに行ってたみたいだから」 「何のために行ってるかヒナタは知ってるわけ?」 「そこまでは……」 世間話程度だと思いつつも、ほんの幽かな胸騒ぎを覚える。 「ところで、俺たちの件、ちゃんと親父たちに進言しといてくれたんだろうな?」 「ちゃんと言ったわ」 「反対、されなかった?」 あたしがセキエイ高原にタイチとカエデの同行も認めるように頼んだとき、最初、大人たちは断固としてそれを反対した。 『動員数は最小限に絞ってある。あいつらを連れていくことはできない』 『足手まといになるのは見えているのでござる』 『心配しなくても、ヒナちゃんのことはあたしたちが守るわ』 あたしは我を通すために、卑怯な手を使った。 「二人を連れていかないなら、あたしも行きません、って言ったら渋々折れてくれたわ」 けど、本当にこれで良かったのかしら、と思う自分がいることも確かだった。 もし本当にポケモンリーグがシステムの本拠地だった場合、配備されているのは精鋭中の精鋭で、 ランカークラスのトレーナーとも対等に渡り合えるレベルだろう、とシゲルおじさまは言っていた。 そして何よりも懸念すべきは、システム側に属している可能性がある現四天王の連中だ、とも。 システムのトレーナーは、ポケモンを殺すことを厭わない。 一度ポケモンバトルが始まれば、確実にどちらかのポケモンが重傷を負うか、息絶える。 そんな危険極まりないところに、カエデとタイチを連れて行ってもいいのかしら。 「まーた一人で考え込んでる」 「悪い癖だよな、まったく」 タイチとカエデが顔を見合わせて笑う。 そしてあたしの思考を何もかも見透かしていたかのように、 「俺も、カエデも、ヒナタの力になりたいから同行するんだ。 確かにセキエイ高原やポケモンリーグなんてところは、 ランカーでもなければ、パーフェクトホルダーでさえない俺たちが行くようなところじゃない。 危険だってことも重々承知してる。でも、俺たちが一緒にいかなけりゃ、その分、ヒナタの危険が増すことになるんだぜ」 「タイチ……」 「はいはい、あたしの前では甘い空気禁止。 ヒナタはこう考えればいいのよ。 あたしはママが心配だから同行する。タイチくんは、お父さんが心配だから同行する。 これだとあんたが変な罪悪感感じる必要ないでしょ? ま、実際はバカヒナタのことが心配だから着いていってあげるんだけどねー」 本当にありがとう、と言おうとした矢先に、 「次にヒナタは大袈裟にお礼を言う」 なんてタイチが言ったものだから、あたしは咄嗟に言葉を呑込んで咽せた。 「おいおい、何咽せてんだよ」 「図星だったんじゃない? 今のヒナタ超受けるわ」 カエデは一頻りあたしを笑ってから、お風呂に入ってくる、と言って立ち上がった。 ちなみにあたしは大広間の会議が長引く可能性を考えて、早めにお風呂を済ませていた。 結局は昨日よりも早く終わって、意味は無かったんだけど……。 「お風呂から出た後は、そのまま部屋に戻ってるから。 ヒナタもあたしがいないのをいいことに、いつまでもタイチくんの部屋でイチャイチャしたらダメよ?」 「カ、カエデ……!」 流石に怒ろうとした時、既にカエデは鼻歌を響かせて部屋から遠ざかっていた。 「もうっ」 「やれやれだな」 タイチは全然困った風に聞こえない調子でそんなことを言う。 あたしはバクフーンの揺らめく炎越しにタイチを見つめた。タイチもあたしを見つめていた。 気恥ずかしさに耐えて、視線を交錯させつづける。 「夢じゃないんだよな」 「何が?」 「昨日の夜のこと」 あたしの中に、小さな悪戯心が生まれた。 「夢かもしれないわよ」 するとタイチはちっとも動じずに、 「夢なら、もう一度現実にしてやるまでさ。俺はヒナタのことが、」 「ゆ、夢じゃないわ。昨日の夜のことは、現実よ」 「良かった。なんか俺、お前の返事聞いてから直後の記憶が曖昧でさ。ちょっと不安だったんだ」 「ふうん、そうだったの……」 記憶が曖昧な原因がピカチュウであることを、あたしは秘密にしておこうと決めていた。 あの子だって、何も悪気があってタイチを失神させたわけじゃない。 「なあ、今からそっち行ってもいいか」 「えっ」 タイチは返事も聞かずにバクフーンをまわりこむと、あたしのすぐ傍に腰を下ろした。 「……カエデが言ってたこと、もう忘れたの?」 「今は二人きりなんだぜ」 「昨日の今日ですぐに調子に乗るんだから」 でも、あたしがすぐに調子に乗るタイチを好きになったのも事実だった。 今、ここにはあたしとタイチの二人きり。 カエデはお風呂、ピカチュウはマサキ博士のところにいて、昨日のような邪魔は入らない。 エリカさんのお屋敷は広くて、誰がどこで、何をしているか把握している人は誰一人としていない。 「ヒナタ、ほんの少し、目を瞑っててくれないか」 「……うん」 未知の感覚に、体が震えた。 瞼を閉じる。暗闇の中で、あたしはタイチを待った。 時間の流れがいつもより遅くなる。 けど、いつまでたってもあたしの望む感触はやってこなくて、 「いつまで目を瞑ってたらいいのよっ」 耐えきれずに、瞼を開いた。 するとタイチは身を引いて、「悪い、また今度な」と言った。 「……どうして?」 不可解なタイチの行動に、得体の知れない不安が胸に押し寄せる。 あたしが緊張しすぎていたから? それとも、今更になってあたしに魅力を感じなくなったから? 想像は悪い方に膨らむばかりで、自信を喪失しそうになったその時、 「こういうのはやっぱ、ヒナタの親父さんの一件が片付いてからにしよう」 ああ、片付いて、は言い方が悪いな。一段落ついてから、だな」 「だから、どうして?」 「今こういうことをするのは、なんつーか、卑怯な気がするんだ。 ヒナタは昨日、俺に好きって言ってくれたけど、 あれは、流された感じもちょっとはあるだろ? この一件が終わって、ヒナタが本当に落ち着いた時に、改めてヒナタの気持ちを聞かせて欲しい」 心からあたしを大切にしようとししてくれているタイチの優しさが嬉しいのと、 タイチに好きと言ったのは、その場の勢いに流されたからじゃないと説明したいけどできないもどかしさで、 「……ばか」 あたしは常套句を口にしていた。 「な、なんでバカって言われなくちゃならねえんだよ」 「……ばか」 「お前な」 呆れるタイチを置いて、部屋の外に出る。 後ろ手に障子を閉める直前に、 「おやすみなさい」 「あ、ああ。おやすみ」 暗く冷たい廊下を歩くにつれて火照っていた体が冷めていく。 部屋には、誰もいなかった。 ひんやりとした布団に潜り込む。 眠気はなかなか襲ってこなかった。 明日セキエイ高原に発つことや、お父さんにもう一度会うことを意識しはじめると、目は冴えるばかりだった。 ピカチュウの温もりを探しても、手に触れるのは冷たい布団の感触だけ。 その時に感じた寂しさが、隙になったのかもしれない。 その夜、やっと眠れたあたしが見たのは、これまでにもう何度もあたしを苦しめてきた悪夢だった。
https://w.atwiki.jp/wktkwktk/pages/98.html
翌朝。 僕は久方ぶりに、ヒナタやカエデのポケモンたちと共に穏やかな時間を過ごすことができた。 淡雪が降り出しそうな寒天の下、マフラーを首に巻かれたワニノコとピッピが追いかけっこしている。 庭に設えられた人工池では、ヒトデマンから進化したスターミーとパウワウが半身を浸している。 そして僕の隣では、それなりに立派な体躯のハクリュウが、時折僕をチラ見しながらトレーニングに勤しんでいる。 僕たちは初対面のはずなのに、なぜ意識されているのか解せなかった。 「ピィ」 吐いた息は白く凍り、立ち上っては消えていく。 「ぴぃっぴぃ~」 ピッピが僕の背中に駆け込んでくる。 すぐにワニノコがやってきて、僕の顔色を窺いながら、 「がうがう!」 卑怯だぞ、と言いたいのだろう。 なるほど、背後のピッピは可愛らしい舌をちろちろと見せてワニノコをからかっている。 ハナダシティのショッピングモールにいた時とは、形勢が少々逆転しているようだ。 「ピィカー」 ほら、遊んでおいで。 背中を押し出してやると、ピッピは元気よく駆けだした。 「がうっ!」 ワニノコがすぐさまそのあとを追う。 逃げて、追いかけて、捕まえて――その終わりのない反復に飽きは来ないようだ。 微笑ましい光景に目を細めていると、 「ぱうぱうー」 パウワウが僕を呼んだ。 隣のスターミーも僕に向けてコアを点滅させている。 お誘いはありがたいが、水、氷タイプ以外のポケモンがこの時期に水浴びするのは自殺行為に等しい。 「チュウ」 遠慮させてもらうよ。 そう伝えると、パウワウは残念そうに「ぱうー……」と鳴いて、尾ひれでぱしゃぱしゃと水面を撫でた。 ぴり、と近くの空気が震えた。 わずかに身を逸らす。間髪いれず、僕の体左半分があったところに、群青色の尻尾が打ち下ろされた。 見上げれば、爛々と目を光らせたハクリューが、鼻息荒く僕を睨み付けていた。 「ピィカ、ピィカチュ」 危ないな。 トレーニングをするのは君の勝手だが、 他のポケモンを巻き込んだり、エリカの綺麗な庭を荒らしたりしてはいけないよ。 僕の意図が伝わらなかったのだろうか、二撃、三撃と、ハクリューは攻撃をやめない。 「チュ」 僕は窘めるのを諦めた。 何が気にいらなくて暴れているのか知らないが、若気の至り、というやつだろう。 雰囲気を察知したらしいワニノコがこちらに駆け寄ってきて、ハクリューの尾にしがみつく。 「がうっ、がうがうっ!」 ハクリューは「邪魔だ」と言わんばかりにワニノコを打ち払った。転がったワニノコに、ピッピが駆け寄る。 まったく、どうして若いドラゴンタイプのポケモンはこうも驕慢なんだろうね。 君はドラゴンタイプのポケモン以外は全て矮小で貧弱だと思っているんだろうが、 いい機会だ、必ずしもそれが正しくないということを教えてあげるよ。 「ウォフッ」 物理攻撃が当たらないことに痺れを切らしたハクリューが、口の端に青い炎をちらつかせる。 "龍の怒り"、か。 僕が躱すべく軸足に力を込めた、その時だった。 「ピカチュウー? どこにいるのー?」 縁側から近づくヒナタとカエデの姿を見て、急遽、予定を変更する。 荒療治になるが仕方がない。 僕はハクリュウの顔面の真正面に飛び込み、上顎に肘と、下顎に膝を叩き込んだ。 強制的に閉じられた口の中で、ぼん、と"龍の怒り"が爆発する。 小さな爆風に煽られ、宙で一回転して着地、波打った毛並みを整えてから、僕は主に駆け寄った。 二人の位置からは、ちょうど茂みが邪魔をして、ぷすぷすと黒煙を吐いて目を回すハクリューを見ることができない。 「ここでみんなと一緒に遊んでたのね」 ヒナタの微笑からは、昨日まで失われていた瑞々しい活力を感じることができた。 昨夜は久方ぶりに、ぐっすりと眠ることができたのだろう。 カエデが胸を張って言った。 「ほら、あたしの言った通り、庭にいたじゃない」 「勝ち誇ることじゃないでしょ。あのね、ピカチュウ。 今からちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?」 ヒナタの表情に、うっすらと不安の影が落ちる。 僕は訝しみながらも、 「ピッカァ」 ヒナタの肩に飛び移った。 いつか、ピッピを虐めていたワニノコの監督を任せたように、 「チュー」 目を醒ましてからも暴れるようなら再教育してあげて欲しい、とスターミーに依頼しておく。 人工池の片隅で、彼女は眠そうにぴこぴことコアを点滅させた。 部屋に着くと、片目に傷を負った白猫がヒナタの浴衣にくるまって眠っていた。 「あの、ペルシアンさん?」 ヒナタが怖々尋ねる。ニャースは細く目を開けると、偉そうに首を擡げて言った。 「待ちくたびれたニャ。 大事な要件があると言って呼び出した割には予定時刻を大幅にオーバーしてるのニャ」 「ごめんなさい」 しゅん、と項垂れるヒナタ。 僕は過保護であると自覚しつつも、 「ピィカ、チュウ」 責めるならヒナタに見つかりにくい庭にいた僕を責めるんだな。 あと彼女に敬語を使わせるのはやめろ。 彼女はポケモンに対する礼儀を忘れたりはしない。 「わ、分かったニャ。ヒナタちゃん、ミャーのことは呼び捨てでいいニャ。あと敬語もやめるニャ」 「あ、えっと、はい……じゃなくて……分かったわ」 「でも、ひとつだけお願いがあるんだニャ」 「?」 「ヒナタちゃんには、これから何があっても、ミャーのことを"ペルシアン"と呼んでほしいんだニャ。 間違っても"ニャース"とは呼ばないでほしいのニャ」 ヒナタは困惑した表情で言った。 「え、だってペルシアンはペルシアンでしょ?」 「ヒナタちゃんはいい子なのニャ~」 ニャースは感涙した。 その様子から察するに、ニャースを昔から知っている人間のほとんどは、 彼がペルシアンに進化した今になっても変わらずに「ニャース」という呼称を使っているのだろう。エリカが良い例だ。 ニャースの嗚咽が収まるのを待ってからヒナタが言った。 「ペルシアンは、どんなポケモンの言葉も分かるのよね?」 「愚問だニャ。ミャーに分からない言語は古今東西存在しないニャ。 ミャーにかかれば新種ポケモンの言語も三日とかからずに自分のものにできるのニャ」 「ピカチュウの言葉も?」 「無論だニャ」 ヒナタは腰のベルトからボールを外して、僕をちらと一瞥してから尋ねた。 「……ゲンガーの言葉も?」 「余裕だニャ」 ヒナタが新たに手に入れたハイパーボールと、その中のポケモンについて、 僕はこれまで存在を知りつつも、特別に意識を払わないようにしてきた。 ヒナタは意図的に、僕の視界からハイパーボールを(あるいはハイパーボールの中のポケモンの視界から僕を)遠ざけようとしていた。 今朝にしても、ヒナタとカエデがポケモンを庭に解放したとき、あのハイパーボールだけは展開されなかった。 ヒナタは僕のもとに屈み込んで語り出した。 「あたしね、ピカチュウと離れ離れになった後、シオンタウンに行ったの。 それでね………」 僕は彼女が辛そうに紡ぎ出す一言一句に耳を傾けた。 要約すると以下の通りになる。 ヒナタはシオンタウンのポケモンタワーで、一匹のゲンガーに襲われた。 それを助けてくれたのは元四天王であるキクコだった。 キクコはゲンガーがヒナタを襲った理由について、 ヒナタと近しい人、或いはポケモンに、ゲンガーの核となる霊魂が強い恨みを持っているからだと言い、ゲンガーの記憶を読み取った。 果たしてそこに刻まれていたのは、ピカチュウに殺されたギャラドスの断末魔だった。 「最初はピカチュウがギャラドスを[ピーーー]なんて、有り得ないと思ったわ。 でも、お父さんのポケモンで、ポケモンリーグにも出場したことがあるピカチュウなら……」 言葉が掠れて、聞き取れなくなる。 「ピィ」 ニャース、翻訳を任せてもいいかな。 彼の首肯を確認してから、僕は言った。 「チュウ、ピカチュウ」 結論から言おうか。それは事実だ。 僕はゲンガーの前身となるギャラドスを殺した。 僕が殺めたギャラドスは一匹だけだから、彼のことはよく記憶している。 サトシと共に初めて挑んだポケモンリーグの最終戦で、当代チャンピオンの切り札が彼だった。 「………」 ヒナタは悲痛な面持ちでペルシアンの翻訳を聞いていた。 僕は追憶を続けた。 ――『"雷"だ。止めを刺せ、ピカチュウ』―― 酷薄な命令。瀕死のギャラドス。 己のポケモンを口汚く罵る当代チャンピオン。 躊躇は無かった。僕はサトシを信じていた。 轟音と閃光のあとで、ギャラドスは黒煙を燻らせながら崩れ落ちた。 その記憶をそのままヒナタに伝えれば、 僕がギャラドスを殺めた原因は、必然的に命令を下したサトシということになる。 僕はハイパーボールの中にあるポケモンに語りかけた。 ヒナタに真実を話すにあたって、少し、脚色することを許して欲しい。 「ピィ、ピィカチュ」 僕は、僕の一存で"雷"を落としたんだ。 本来なら攻撃をやめておくべき状況で、僕は緊張と興奮のあまり、無抵抗のギャラドスを嬲った。 「っ」 ヒナタが唇を噛む。 これで良かったのだ、と僕は自分を納得させた。 再びヒナタの心に芽生えた父親を信じる気持ちを、彼女自身の手で摘ませてはいけない。 「ピィ……?」 失望したかい? 不意にヒナタは僕の両手を取って、激しく横に首を振った。 「違うわ。そうじゃないの。 キクコおばあさんの話が本当だったことはショックだけど、 それでピカチュウのことを嫌いになったりなんかしない!」 ヒナタ……。 その言葉で僕がどれだけ救われるか、君は気付いていないんだろうね。 「あたし、キクコおばあさんと約束したの。 もしピカチュウに再会したら、その時に、ゲンガーをピカチュウと会わせること。 ゲンガーの中にいるギャラドスの霊を成仏させるには、それしかないって言われたの」 ヒナタが開閉スイッチに触れる。 指はかすかに震えていた。 「だいじょうぶ、ピカチュウ?」 「ピィカ」 僕は頷いて見せた。 閃光。果たして召喚されたゲンガーは、実に温厚そうな、柔らかい鳴き声を響かせた。 「うー!」 当惑を禁じ得ない。 ゲンガーからは、僕への恨みや、憎しみといった感情が、一片も感じ取ることができなかった。 彼の瞳に映っているのはむしろ、初対面のポケモンに対する緊張と、久方ぶりに外に出ることを許された喜びの色だった。 ヒナタがゲンガーの耳と耳の間を撫でながら言った。 「ゲンガー、もう一人のあなたを呼び出してくれる?」 「うー……」 瞑目。瞬間、この部屋に満ちていた暖気が冷気に変わった。 再び開いた瞼の奥から、ルビーの原石のような暗い赤色の瞳が僕を鋭く睨み付ける。 ……主格をスイッチしたのか。 僕はニャースに、これからの会話をしばらく翻訳しないよう釘を刺してから、赤い瞳を見つめ返した。 「ピィカ、チュウ」 久しぶりだね。ギャラドス、いや、今はゲンガーと呼んだ方がいいのかな。 冷たいゲンガーの思念が頭の中に流れ込んでくる。 ――そんなことはどうでもいい―― だろうね。 さて、君の魂が安らかなものとなるように僕たちはこうして対峙しているわけだが、 どうすれば君の魂を鎮めることができるんだろう? ――そうだな―― ゲンガーは口を三日月の形に裂いて笑った。 ――死んでもらおうか。お前は俺を殺した。俺がお前を殺せば、それで命の遣り取りは等価になる―― いいだろう。 僕がそう答えると、ゲンガーは訝しむように片目を眇めた。 「ピィカ、ピィカチュー」 僕の死でかつて君を殺した罪を贖えるなら、僕は抵抗せずに命を差しだそう。 ただ、ひとつ、いや、ふたつ条件がある。 ひとつめは、数日の猶予。 君も知ってのとおり、ヒナタはもう一度、父親に会いに行こうとしている。 そして僕は彼女に同行することになっている。僕を殺すのは、全てが終わってからにして欲しい。 ふたつめは、ヒナタへの助力。 彼女の周りには危険が多い。タイチやカエデ、彼らのポケモンが心許ないとは言わないが、 それでも数多の戦闘経験を引き継いでいる君は、ヒナタの大きな戦力となる。 僕が死んで君の魂が鎮まったあとで、もし君に少しでもヒナタへの忠心が生まれているなら、 彼女が十分に強くなったと思うまで、この世に留まり、彼女を支えてあげてはくれないだろうか。 ――くだらねえ―― 僕は首を傾げた。 ――初めっから、お前に復讐する気なんかねえよ。そんな気はとうの昔に失せてやがる―― 何故だい、と尋ねると、ゲンガーは不愉快さを隠そうともせずに答えた。 ――俺がお前に殺された時、当時の主は俺の遺骸を淡々とポケモンタワーに埋めて、ただの一度も参りにこなかった。 だが、俺がお前を殺せば、お前の主は一生、お前が死んだ時の悲しみを忘れないだろうからな―― 僕の主、じゃない。僕たちの主だよ。 ――黙れ―― ゲンガーは顔を背けて、 ――俺がまだこの体の支配権を握っていたとき、俺は生前強いられていた戦い方を披露して、この子を何度も苦しませた。 この子がギャラドスの頃に俺を服従させていたクズとは正反対のトレーナーだってことを理解してからは、 ……その、なんだ、少しは俺の力を貸してやってもいいと思うようになった―― それじゃあ、君はこれからもヒナタのポケモンでいてくれるんだね。 ――消えたくなったら勝手に消えるさ。 もっとも、今じゃあのヘタレがこの体の支配格だ、消える時にはそいつの許可がいるがな―― ヘタレというと、ボールから出たばかりの、温厚そうな鳴き声の持ち主の方かい? ――俺が"うーうー"なんて無様な声を上げると思うか?―― いいや。 そうか、君が消えるには彼の許可が要るのか。 いいことを聞いたよ。後で彼に君がずっとヒナタに忠誠を誓うよう頼んでおこう。 ――てめぇ、やっぱりぶっ殺す!―― 僕はペルシアンに「和解した」とヒナタに伝えるように頼んだ。 「話し合いは終わったみたいだニャ」 今にも僕に飛びかからんとしていたゲンガーの肩に、ヒナタがそっと手をかける。 話し合いの雲行きにずっと胸を痛めていたのだろう。 「ピカチュウのこと、許してくれたの?」 元レベル91にして凶悪ポケモンの名を欲しいままにしたギャラドスの霊は、 ぷるぷる震えながら強張った笑顔を作り、愛らしさの欠片もない声で「うー」と鳴いた。 「……ありがとう」 ヒナタがゲンガーを背後から包み込む。 それがスイッチになったのか、ゲンガーの瞳から、赤い光が徐々に失われていった。 「チュー」 最後に、君を殺した時からずっと言いそびれていたことを言うよ。 彼の命令だったとはいえ、君に"雷"を落として本当にすまなかった。 君が僕を許してくれても、僕は自分が犯した罪を忘れない。 数秒の静寂のあと、 「うっうー」 瞬きしたゲンガーの瞳に、既にギャラドスの面影は無かった。 ゲンガーの鳴き声が聞こえたのだろうか、それまで部屋の外で待機していたカエデが入ってくる。 みんなの様子を見にいかない?という彼女の提案で、僕たちは庭に戻ることになった。 午前中、他のポケモンが思い思いに憩うのを眺めながら、僕はずっと、 彼が支配格と主格を交代する直前に残した思念について考えていた。 ――生きろ―― 死ぬな、ではない。彼は僕に、生きろ、と言った。 彼は恐らく、僕の余命が残り少ないことに気付いていた。 その日の夜。大広間での話し合いの末、セキエイ高原の探索が可決された。 出立時刻や動員に関する細々としたことが決まったあとで、 シゲルおじさまは、それまで蚊帳の外にいたあたしに語りかけた。 『ヒナタ、酷なことを強いてるのを承知で頼む。 セキエイ高原の探索に、同行してくれないか』 『はい』 あたしのきっぱりとした返事に、シゲルおじさまを含めた一同はとても驚いていた。 ただ一人、マサキ博士だけを除いて。 「ピカチュウに聞いてたんじゃないか。 あの人、ポケモンと話せるんだろ?」 バクフーンの背中の炎に手を翳して暖を取りながらタイチが言った。 「そういやピカチュウはどこにいるんだ?」 「ついさっき、部屋を出て行ったきり見てないわ。 多分、マサキ博士がいる庵にいるんじゃないかしら」 同じくカエデも炎に手をかざしつつ、 「どうしてそんなことが分かるのよ?」 「だって、昨日の夜もそこに行ってたみたいだから」 「何のために行ってるかヒナタは知ってるわけ?」 「そこまでは……」 世間話程度だと思いつつも、ほんの幽かな胸騒ぎを覚える。 「ところで、俺たちの件、ちゃんと親父たちに進言しといてくれたんだろうな?」 「ちゃんと言ったわ」 「反対、されなかった?」 あたしがセキエイ高原にタイチとカエデの同行も認めるように頼んだとき、最初、大人たちは断固としてそれを反対した。 『動員数は最小限に絞ってある。あいつらを連れていくことはできない』 『足手まといになるのは見えているのでござる』 『心配しなくても、ヒナちゃんのことはあたしたちが守るわ』 あたしは我を通すために、卑怯な手を使った。 「二人を連れていかないなら、あたしも行きません、って言ったら渋々折れてくれたわ」 けど、本当にこれで良かったのかしら、と思う自分がいることも確かだった。 もし本当にポケモンリーグがシステムの本拠地だった場合、配備されているのは精鋭中の精鋭で、 ランカークラスのトレーナーとも対等に渡り合えるレベルだろう、とシゲルおじさまは言っていた。 そして何よりも懸念すべきは、システム側に属している可能性がある現四天王の連中だ、とも。 システムのトレーナーは、ポケモンを[ピーーー]ことを厭わない。 一度ポケモンバトルが始まれば、確実にどちらかのポケモンが重傷を負うか、息絶える。 そんな危険極まりないところに、カエデとタイチを連れて行ってもいいのかしら。 「まーた一人で考え込んでる」 「悪い癖だよな、まったく」 タイチとカエデが顔を見合わせて笑う。 そしてあたしの思考を何もかも見透かしていたかのように、 「俺も、カエデも、ヒナタの力になりたいから同行するんだ。 確かにセキエイ高原やポケモンリーグなんてところは、 ランカーでもなければ、パーフェクトホルダーでさえない俺たちが行くようなところじゃない。 危険だってことも重々承知してる。でも、俺たちが一緒にいかなけりゃ、その分、ヒナタの危険が増すことになるんだぜ」 「タイチ……」 「はいはい、あたしの前では甘い空気禁止。 ヒナタはこう考えればいいのよ。 あたしはママが心配だから同行する。タイチくんは、お父さんが心配だから同行する。 これだとあんたが変な罪悪感感じる必要ないでしょ? ま、実際はバカヒナタのことが心配だから着いていってあげるんだけどねー」 本当にありがとう、と言おうとした矢先に、 「次にヒナタは大袈裟にお礼を言う」 なんてタイチが言ったものだから、あたしは咄嗟に言葉を呑込んで咽せた。 「おいおい、何咽せてんだよ」 「図星だったんじゃない? 今のヒナタ超受けるわ」 カエデは一頻りあたしを笑ってから、お風呂に入ってくる、と言って立ち上がった。 ちなみにあたしは大広間の会議が長引く可能性を考えて、早めにお風呂を済ませていた。 結局は昨日よりも早く終わって、意味は無かったんだけど……。 「お風呂から出た後は、そのまま部屋に戻ってるから。 ヒナタもあたしがいないのをいいことに、いつまでもタイチくんの部屋でイチャイチャしたらダメよ?」 「カ、カエデ……!」 流石に怒ろうとした時、既にカエデは鼻歌を響かせて部屋から遠ざかっていた。 「もうっ」 「やれやれだな」 タイチは全然困った風に聞こえない調子でそんなことを言う。 あたしはバクフーンの揺らめく炎越しにタイチを見つめた。タイチもあたしを見つめていた。 気恥ずかしさに耐えて、視線を交錯させつづける。 「夢じゃないんだよな」 「何が?」 「昨日の夜のこと」 あたしの中に、小さな悪戯心が生まれた。 「夢かもしれないわよ」 するとタイチはちっとも動じずに、 「夢なら、もう一度現実にしてやるまでさ。俺はヒナタのことが、」 「ゆ、夢じゃないわ。昨日の夜のことは、現実よ」 「良かった。なんか俺、お前の返事聞いてから直後の記憶が曖昧でさ。ちょっと不安だったんだ」 「ふうん、そうだったの……」 記憶が曖昧な原因がピカチュウであることを、あたしは秘密にしておこうと決めていた。 あの子だって、何も悪気があってタイチを失神させたわけじゃない。 「なあ、今からそっち行ってもいいか」 「えっ」 タイチは返事も聞かずにバクフーンをまわりこむと、あたしのすぐ傍に腰を下ろした。 「……カエデが言ってたこと、もう忘れたの?」 「今は二人きりなんだぜ」 「昨日の今日ですぐに調子に乗るんだから」 でも、あたしがすぐに調子に乗るタイチを好きになったのも事実だった。 今、ここにはあたしとタイチの二人きり。 カエデはお風呂、ピカチュウはマサキ博士のところにいて、昨日のような邪魔は入らない。 エリカさんのお屋敷は広くて、誰がどこで、何をしているか把握している人は誰一人としていない。 「ヒナタ、ほんの少し、目を瞑っててくれないか」 「……うん」 未知の感覚に、体が震えた。 瞼を閉じる。暗闇の中で、あたしはタイチを待った。 時間の流れがいつもより遅くなる。 けど、いつまでたってもあたしの望む感触はやってこなくて、 「いつまで目を瞑ってたらいいのよっ」 耐えきれずに、瞼を開いた。 するとタイチは身を引いて、「悪い、また今度な」と言った。 「……どうして?」 不可解なタイチの行動に、得体の知れない不安が胸に押し寄せる。 あたしが緊張しすぎていたから? それとも、今更になってあたしに魅力を感じなくなったから? 想像は悪い方に膨らむばかりで、自信を喪失しそうになったその時、 「こういうのはやっぱ、ヒナタの親父さんの一件が片付いてからにしよう」 ああ、片付いて、は言い方が悪いな。一段落ついてから、だな」 「だから、どうして?」 「今こういうことをするのは、なんつーか、卑怯な気がするんだ。 ヒナタは昨日、俺に好きって言ってくれたけど、 あれは、流された感じもちょっとはあるだろ? この一件が終わって、ヒナタが本当に落ち着いた時に、改めてヒナタの気持ちを聞かせて欲しい」 心からあたしを大切にしようとししてくれているタイチの優しさが嬉しいのと、 タイチに好きと言ったのは、その場の勢いに流されたからじゃないと説明したいけどできないもどかしさで、 「……ばか」 あたしは常套句を口にしていた。 「な、なんでバカって言われなくちゃならねえんだよ」 「……ばか」 「お前な」 呆れるタイチを置いて、部屋の外に出る。 後ろ手に障子を閉める直前に、 「おやすみなさい」 「あ、ああ。おやすみ」 暗く冷たい廊下を歩くにつれて火照っていた体が冷めていく。 部屋には、誰もいなかった。 ひんやりとした布団に潜り込む。 眠気はなかなか襲ってこなかった。 明日セキエイ高原に発つことや、お父さんにもう一度会うことを意識しはじめると、目は冴えるばかりだった。 ピカチュウの温もりを探しても、手に触れるのは冷たい布団の感触だけ。 その時に感じた寂しさが、隙になったのかもしれない。 その夜、やっと眠れたあたしが見たのは、これまでにもう何度もあたしを苦しめてきた悪夢だった。