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平成21年5月30日 高松 新型インフルエンザの流行も一段落ついた様子なので、伊丹経由で2度目の四国上陸を敢行しました。 いつも旅を手助けしてくれている友人に、毎度自分のわがままばかりでは申し訳ないと思い尋ねたところ、讃岐うどんの食べ歩きがしてみたいとのこと。 うどんの名店を回りながら、巡礼を協力してもらうことにしました。 明石海峡大橋を渡って高松に入った時には、時刻は既に2時近く。 2時で閉店する店も多く、観光ガイドとにらめっこしながら、何件かの店で食べることができました。 空腹が満たされたところで田村神社を参拝。 讃岐国一之宮で、御祭神の田村大神とは、倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、猿田彦大神、天隠山命(高倉下命)、天五田根命(天村雲命)の五柱の神の総称です。 倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女で、大神神社の御祭神である大物主神と結婚しますが、その本体が蛇であることを知った驚きが原因で亡くなり、箸墓古墳に埋葬されたと言われています。 ちょうどこの日、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという有力な手掛かりが、発掘された土器の測定によって明らかになったという研究結果が発表されました。 百襲姫命は託宣によって大物主神を大和に祀ることを天皇に進言したりするなど、祭祀を行う女性として伝えられており、卑弥呼と同一人物ではないかという説が多くの学者に支持されています。 国津神の正体を見て亡くなった皇女の神話と、旧来からあった邪馬台国を滅ぼした天孫族という学者の見方は、完全に食い違っています。 このことが果たして何を意味するのか、そう簡単に結論を出すことは避けるべきだと思います。 御創建は和銅2年と古く、定水大明神とも呼ばれていました。 奥殿の床下には深淵があり、水の守り神として歴代の領主から水乞の祈願などを受けていました。 こんな恐ろしい伝説も伝えられています。 明暦元年、社殿の改築工事にあたり、普請奉行の竹村斉庵はその淵を見せてもらうよう頼み込みました。神官は拒否しますが、断り切れずに見せたところ、水が坂巻き上がり、龍が現れて斉庵をにらんだところ、斉庵は気分が悪くなって死んでしまいました。 工事が中断してしまったため、淵の蓋に穴が開いたままであったため、ある人足が誤って鑿を落としてしまったところ、再び龍が現れて鑿を戻しますが、恐ろしくなった人足が足でそれを取ったところ、たちまち死んでしまったのでした。 境内には相撲場があり、奉納相撲の際は賑わいを見せることが想像できます。 他に、百襲姫命が御手を洗われた花泉や、憩われた休石などがあります。 次に、四国村の近くにあるうどんの名店に向かいました。 駐車場がいっぱいなので、ひとり車を降り、すぐ近くにある屋島神社を参拝しました。 またの名を讃岐東照宮といい、慶安4年に初代高松藩主の松平頼重公が本門寿院境内に徳川家康公をお祀りしたのが始まりで、文化元年になってここ屋島に遷座されました。 屋島は、源氏の軍勢が平家の軍を破った土地で、那須与一がはるか離れた海上に浮かぶ船の扇を射落とした説話でも知られています。 征夷大将軍を仰せつかった徳川家も、源氏の流れから出ているとされていることから、都を追われた平家が戦力の立て直しを図ったものの、その滅亡を決定的にした戦いのあった屋島の地は、祀りを行うに相応しい場所であるとされたのかも知れません。 白村江の戦いに敗れた当時、唐の侵攻を防ぐ目的で、天智天皇の命により八嶋城が築かれるなど、古くから要害の地とされて来ました。 さすがに3軒も回ると、あっさり味のうどんでも相当食べた気になります。 薄暗くなって来たことだし、この日の観光は、高松城跡を見学して終えることにしました。 日本三大水城の一つに数えられる高松城は、豊臣秀吉公の家臣であった生駒正親公によって築城が開始されました。 生駒氏は、織田・豊臣・徳川と巧みに臣従して来ましたが、4代目高俊公の時に生駒騒動が勃発、出羽へ転封となりました。 新しく高松藩の藩主となったのは、水戸藩初代頼房公の子の頼重公でした。 高松城の別名、玉藻城からとって、現在は玉藻公園として市民に親しまれています。 失われてしまった天守閣を復元する計画が進められているようで、その台座となる石垣の修復工事が行われていました。 公園内には、披雲閣という庭園もあります。 ここを見学している時、閉園時間が迫って来た上に雨まで降り始めたため、近道をしようとしたところ、民家の裏庭のような所へ出てしまいました。 公園内で生活している人がいるのでしょうか? 車に乗った瞬間に雨が激しくなり、ここまで耐えてくれた天気に感謝して、旅の一日目を終えました。 平成21年5月31日 坂出 翌日は晴天となりました。 まずは白峯寺に向けて車を走らせます。 途中、有料の高松坂出道路を通り、瀬戸大橋を一望することができました。 有料道路なのに、道沿いには民家が建っており、ここに住んでいる人は毎日通行料を支払っているのかと、余計な心配をしてみたりします。 有料道路を抜け、車が行き交うのも精いっぱいの狭い山道を登ります。 白峯寺は八十八箇所霊場の一つに数えられますが、この急な参道を徒歩で登っている人の姿も見られました。 白峯寺には、崇徳天皇陵があります。 保元の乱によって讃岐へ遷された崇徳上皇は、仏教に深く帰依して、戦死者の供養のために写経したものを朝廷に送りますが、後白河法皇は他意あることを疑ってそれを送り返しました。 恭順の心を認められなかった崇徳上皇の悲しみは、察して余りあるものではないかと思います。 その後崇徳上皇は怨霊になり、「皇を取って民とし民を皇となさん」と書き残して崩御したと伝えられています。 朝廷が官位の授与によって有力者たちを、時に味方につけ、時に賊となし、武力の均衡のためだけに政治を動かした時代は、源頼朝の出現によって終わりを遂げます。 頼朝公が、それまでの天皇に代わって武家を統率する強大な権力を握ったことは、崇徳上皇の言葉が現実のものとなったことを表すと考えることもできます。 山を降り、次に香川県護国神社に参拝しました。 讃岐宮とも呼ばれ、香川県出身の御英霊をお祀りしています。 ちょうど結婚式が行われており、神職の方が奉仕中でした。 パンフレットは切れてしまっており、受付の方に御由緒などを質問しても詳しくは知らない様子で、ちょっとがっかりしました。 摂社なのでしょうか、境内には乃木神社も鎮座しています。 鎮座地の善通寺市は、帝国陸軍第11師団が置かれた土地であり、その初代師団長は乃木大将でした。 明治31年に、第11師団が招魂社を建立したのが、香川県護国神社の始まりです。 乃木大将は、明治天皇の崩御に際して夫人とともに殉死したのですが、戦死ではないため、護国神社や靖国神社には合祀されませんでした。 香川の人たちは、乃木大将の生前の人柄を偲んで、単独でお祀りしたのではないかと推測されます。 乃木神社は、乃木夫妻が殉死した邸宅の隣地(東京赤坂)など、全国に数社あります。 平成21年5月31日 金刀比羅宮 いよいよ今回の旅のクライマックス、こんぴらさんの呼び名で親しまれる金刀比羅宮へ参拝です。 長い階段で知られる金刀比羅宮の社殿は、当然のこと山の上にありますが、そのふもとから参道まで、たくさんの土産物屋が並んでいます。 買い物をすると料金が無料になるという駐車場をみつけ、車を停めました。 さて、本来ならこれから本宮まで785段を登らなければならないのですが、運転に疲れている友人のことを考え、途中の大門まで裏道を登ってくれるタクシーを利用することにしました。 大門までは365段。 約半分を省略できたことになり、友人も少しほっとした表情でしたが、年配の方も階段を登っていることを考えると、少し複雑な気持ちになるのでした。 タクシーを降り細い道を抜けると、大門が見えて来ました。 ここからは自力で階段を登らなければなりません。 しばらく進むと、こんぴら狗の銅像が見えて来ました。 江戸時代、犬による代参が流行しました。 参拝したくてもできない人が、飼い犬の首に結んだ袋に、こんぴら参りの札と路銀を入れて送り出すと、同じ方向へ向かう旅人がそれを見つけては、途中まで連れて行ってくれるという仕組みです。 務めを果たす犬も立派ですが、神を敬う点において一致していた民衆が、不思議な縁でこんぴら参りに協力し合ったという文化は、現代では忘れてしまった心の豊かさを思い出させてくれます。 もちろん、途中で事故に遭い、こんぴらさんにたどり着けなかった犬もいれば、帰り道に遭難した犬もあったことでしょう。 あどけない表情をしたこの像には、それらの犬たちへの供養の気持ちも込められているのではないかと、ひとり推測するのでした。 すれ違った子供から、77、78…と階段を数えている声が聞こえて来ました。 本宮は間もなくなのでしょう。 そこで目の前に現れたのは、そびえるような巨大な社殿です。 重要文化財に指定される旭社は、神仏混合の信仰であった明治までは金堂と呼ばれていました。 金刀比羅の名前の由来は、梵語のクンビーラで、ガンジス川に住む鰐を神格化したものです。 本地垂迹説では、大物主が金毘羅権現の化身であると言われています。 讃岐国一之宮に祀られる倭迹迹日百襲姫命と結婚した、蛇の姿をした神様です。 なるほど、蛇と鰐は姿が似ています。 子供が数えていた77段を登っても、本宮は見えて来ません。 あの子供には、算数を教えなければならないねと友人と話しながら、もうしばらく登り、ようやく本宮に到着しました。 大物主神と崇徳天皇をお祀りしています。 崇徳天皇は、先に書いたとおり悲劇の天皇で、都を追われて讃岐で過ごされた間に、たびたび金刀比羅宮を参拝されたそうです。 本殿に並ぶ形で、三穂津姫社が鎮座しています。 三穂津姫は高皇産霊尊の娘で、大物主の后であると日本書紀に記されています。 国津神である大物主が、同じ国津神の后ではなく天津神を后としたことは、永遠に皇孫をお護りすることを約束する意味があるのです。 ここから更に石段を登れば、崇徳天皇と御母侍賢門院をお祀りする白峰神社や、奥社へと行くことができますが、これから車で帰ることを考えると、あまり無理もできないと思い、今回はあきらめることにしました。 一生に一度はこんぴら参りと言われますが、なにも一度だけに限ることもないので、楽しみを残しておくことにします。 他に、幕末に志士と親交のあった侠客、日柳燕石の住居など、まだまだ訪れたい場所はたくさんあるのですから。 平成21年5月31日 金丸座 金刀比羅宮の参拝を終え、参道沿いに並ぶ土産物屋を覗きながら石段を降り、駐車場に戻りました。 タクシーに乗っている時に見えた旧金毘羅大芝居「金丸座」を、最後に見学することにしました。 国の重要文化財に指定されている金丸座は、現存する日本最古の芝居小屋です。 初めは年3回の興行が仮設小屋で行われていましたが、門前町の整備が進んだことで常小屋の設置を求める庶民の声が高まり、天保7年に完成しました。 「金丸座」の名称は、明治33年以来のものです。 見学料を払って中に入ると、係の方が見学者向けに説明をしていました。 館内はどこでも見学できますが、このような説明を先に聞くことができれば、見学する時に見るポイントなどもしっかりおさえておくことができます。 升席や桟敷の客席は当時のまま残されているそうです。 江戸時代の人々も、ここに座って芝居を楽しんでいたのでしょう。 舞台や花道の地下のことを奈落といいますが、そこも見学することができます。 ひんやりとしてますが、すこし湿気っぽい空気が漂っています。 廻舞台も機械ではなく人の力によって回されます。 足がすべらないようにと、ちょうど歩幅くらいの間隔で石が地面から顔を出していました。 舞台の裏は楽屋です。 それぞれの役割ごとに部屋が決められています。 上階と行き来するための階段はかなり急で、廊下も狭く、百人を超える人々が一つの芝居のために動き回る時には、さながら戦場のような忙しさだったことでしょう。 金丸座が現在の場所に移築されたのは昭和44年。 昭和60年には第1回目の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が公演され、その後毎年春に定期公演が行われています。 次の公演のチケットは、すべて旅行会社などにおさえられているということで、観劇したい人は旅行会社を通して購入してほしいとのことでした。 情緒あふれる芝居小屋での歌舞伎の観劇、いつか実現したいと思います。
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214 :名無しさん:2012/05/08(火) 21 25 30 アンケート ある日の会合にて。 「藤原道長、源頼朝、楠正成、織田信長に徳川家康…、ここら辺りはお馴染みと言えるんでしょうかね」 「明治期以降だと…東郷元帥に乃木大将、やはり軍人は人気がありますね。明治大帝が殆ど得票が無いのは意外でしたが、人ではなく『現人神』であられる、という意識からでしょうか」 「足利尊氏はこの時代の教育だと敵役ですし、我々との意識の違いはあるでしょうね」 「この世界では日○組の成立フラグは叩き折られているし、前世とは教育分野でも改善が期待できるな!」 新聞のあるアンケート結果を見て、和気藹々と語り会う会合参加者たち。 そこに、地獄の底から漏れてきたかのような恨めしさを込めた声が響く。 「皆さん、楽しそうですね…」 皆が振り返った視線の先、そこには普段以上に憔悴しきった日本帝国総理大臣にして帝国海軍元帥伯爵、嶋田繁太郎がいた。 「そりゃ、戦争も終わりましたし」 「災害対策も一段落して国内も落ち着いてきました」 「軍や現政権への支持は安定していて、政権運営に支障もない」 楽しげに返す参加者たち。 「なにより、ねぇ?」 「……………」 「身内から日本史上最高の英雄が出たんですから、喜び祝福しないほど我々は薄情ではありませんよ」 それは新聞の投書欄に寄せられた、一人の少年の質問から始まった。 質問に曰く「にほんのれきしで、いちばんすごいのはだれですか」 新聞社は投稿の掲載と同時にアンケートを実施。結果、当初の予想をはるかに越える回答が寄せられ、他部門からの応援まで投入して集計が行われた結果… 2位以下を圧倒的に引き離して首位に輝いたのは、誰あろう嶋田であったのだ。 「どうしてこうなった…」 頭を抱える嶋田。 「いやぁ、実に素晴らしい!史実の私なんて比較にもなりませんな!」 「東条さん、あなたもこちらでは『常勝将軍』と讃えられているじゃないですか」 「いえいえ、日本史上に輝く偉人にはとてもとても及びませんよ」 「そうだな、今の日本で『嶋田繁太郎』の名を知らぬ者などおるまい」 「ぐむむ…」 「まぁまぁ、戦後もまだ間もありませんし、仕方がありませんよ」 フルボッコとなる嶋田。 そこに割って入り、救い出したかに見えたのは辻だ。 「辻さん…そうですね、人の噂も75日、いずれは落ち着いて…」 そのおかげで気を取り直したかに思われた嶋田、しかし… 「何を言っているんです、嶋田さん。私が言っているのはそういう意味ではありませんよ?」 「ぇ?」 「むしろ逆ですね。今後、あなたの名前は歴史教育においては必須のものになります。古代から教えるなどという謎のカリキュラムなんて導入させませんし、貴方の名前は政治家の、いえ、全ての日本人の模範として語られねばならないんですよ。それを一時の人気などと流されるわけにはいきません!」 「ちょっと、辻さん…?」 もはや涙目の嶋田。だが、さらに追い打ちはかけられる。 「そうだな、伝記や言行録も出版したらどうだろうか」 「時代小説やそれを基にしたTVドラマなんてどうでしょう?」 「いずれ大河ドラマになるのは確定だな!」 こうして嶋田繁太郎の名は高められ、嶋田のSAN値を犠牲としつつも後世へと伝えられてゆくこととなったのだった。
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A i020 5 市川 拓司 弘海 朝日新聞社 2005.02.28 A i020 6 市川 拓司 世界中が雨だったら 新潮社 2005.06.30 A i021 1 五木 寛之 ガウディの夏 角川書店 1987.05.20 A i021 2 五木 寛之 蓮如 中央公論社 1995.04.15 A i021 3 五木 寛之 白夜物語 角川書店 1970.12.15 初 1,500 限定本 A i021 4 五木 寛之 こころの羅針盤 光文社 2002.10.25 A i021 4 五木寛之 井上陽水 青空ふたり旅 ペップ社 1976.02.01 初 700 A i022 1 イッセー尾形 とりあえずの愛 朝日新聞社 2001.07.01 A i022 2 イツセー尾形 消える男 文藝春秋 2006.07.15 A i023 1 伊藤 たかみ ロスト・ストーリー 河出書房新社 1999.02.09 A i023 2 伊藤 たかみ ミカ 理論社 1999.11.01 A i023 3 伊藤 たかみ ミカ×ミカ! 理論社 2003.02.01 A i023 4 伊藤 たかみ 指輪をはめたい 文藝春秋 2003.10.10 A i023 5 伊藤 たかみ ぎぶそん ポプラ社 2005.05.01 A i023 6 伊藤 たかみ 八月の路上に捨てる 文藝春秋 2006.08.30 A i024 1 稲葉 真弓 午後の蜜箱 講談社 2003.07.28 A i024 2 稲葉 真弓 私がそこに還るまで 新潮社 2004.10.30 A i024 3 稲葉 真弓 さよならのポスト 平凡社 2005.08.19 A i024 4 稲葉 真弓 還流 講談社 2005.08.25 A i025 1 乾 くるみ イニシエーション・ラブ 原書房 2004.04.05 A i025 2 乾 くるみ リピート 文藝春秋 2004.10.25 A i026 1 井上 荒野 もう切るわ 恒文社 2001.10.20 A i026 2 井上 荒野 潤一 マガジンハウス 2003.11.20 A i026 3 井上 荒野 森のなかのママ 集英社 2004.03.31 A i026 4 井上 荒野 だりや荘 文藝春秋 2004.07.25 A i026 5 井上 荒野 しかたのない水 新潮社 2005..01.25 A i026 5 井上 荒野 不恰好な朝の馬 講談社 2006.10.30 1刷 A i026 6 井上 荒野 誰よりも美しい妻 マガジンハウス 2005..01.25 A i027 1 井上 ひさし 合牢者 文藝春秋 1975.03.30 A i027 2 井上 ひさし しみじみ日本・乃木大将 新潮社 1979.09.30 初 700 A i027 3 井上 ひさし 喜劇役者たち 講談社 1980.06.30 1刷 600 A i027 4 井上 ひさし 自家製 文章読本 新潮社 1984.04.01 初 600 A i027 5 井上 ひさし 下駄の上の卵 岩波書店 1980.11.20 700 A i027 6 井上 ひさし 国語事件殺人辞典 新潮社 1982.10.30 初 700 A i027 7 井上 ひさし 日本亭主図鑑 新潮社 1975.07.20 初 700 A i027 8 井上 ひさし 本の枕草紙 文藝春秋 1982.11.01 A i027 9 井上 ひさし 珍訳聖書 新潮社 1973.02.20 初 800 A i027 10 井上 ひさし にっぽん博物誌 朝日新聞社 1983.03.05 初 700 A i027 11 井上 ひさし 腹鼓記 新潮社 1985.08.20 A i027 12 井上 ひさし ベストセラーの戦後史 文藝春秋 1995.09.20 初 800 A i027 13 井上 ひさし 太宰治に聞く ネスコ 1998.07.12 1刷 800 帯有 A i027 14 井上 ひさし 対談集 物語と夢 岩波書店 1999.02.25 A i027 15 井上 ひさし 東京セブンローズ 文藝春秋 1999.03.20 A i027 16 井上 ひさし にほん語観察ノート 中央公論新社 1999.03.20 A i027 17 井上 ひさし ジャックの正体 中央公論社 1979.05.25 初 800 A i027 18 井上 ひさし さまざまな自画像 中央公論社 1979.06.20 初 800 A i028 1 井上 光晴 井上光晴詩集 一橋新聞部 1964.01.15 初 5,000 青マジックサイン入 A i028 2 井上 光晴 眼の皮膚/ 勁草書房 1967.01.30 1刷 1,200 A i028 3 井上 光晴 乾草の車 講談社 1967.06.16 1刷 800 A i028 4 井上 光晴 残虐な抱擁 講談社 1968.12.16 1刷 1,000 A i028 5 井上 光晴 気温10度 筑摩書房 1968.12.25 1刷 900
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552. ひゅうが 2011/11/09(水) 14 00 50 ――銀座狂騒曲 〜1938年〜 「銀座にねぇ。行きたいんだ。」 「失礼。陛下。何と仰いました?」 「銀座・に・行きたい。」 「この牧野、年は経ても耳は良うございます。陛下。それで――」 夢幻会メンバーである内大臣 牧野伸顕は頭痛をこらえながら某ウォルターの格好で首を傾げた。 ちなみに彼の趣味である。 「銀座に行きたいんだよ。牧野。」 「それは分かりました。お上。しかし、どのような理由で?」 少し非難がましい目で主を見た牧野に、今上帝、昭和の御代の帝は人懐っこい表情で笑った。 「会議では、世界恐慌の波にも負けず皆、繁栄と発展を続けていると聞いた。だが。」 主上はすっと目を細められた。 「ふと思ったのだ。この目で見たいと。徳川の世のように千代田の城にばかりいてはならぬとな。」 牧野は、深々と頭を下げた。 「それに、一度銀ブラとやらをしてみたかったのだ。」 「本音はそれですか!?」 553. ひゅうが 2011/11/09(水) 14 01 33 「で、どうします?」 「いや、どうしますって言われてもなぁ。臣下としては従うしかないわけで・・・」 「さすがは陛下。そこに痺れる憧れるう!」 「で、牧野さん。行かれるのはご自身だけで?」 ここは夢幻会の秘密の会議場――というかこの時代には珍しいラーメン店。 あの北一輝がプロデュースした店で、夜間は貸し切りも可らしい。味は史実九段の某ラーメン店に似ており、ビジネスマンや参拝客などにもご好評とのこと。 近衛公が混乱し、赤狩りの安部が現実逃避をしている中、やっぱりこんな役目かと嶋田は牧野に切り出した。 ちなみに牧野は「私は執事ですから」といつものウォルタールックのままである。 「それが・・・両陛下に皇太子殿下(当時5歳)まで行かれると・・・」 その時夢幻会に電流が走った。 「あの方のお父君だけに・・・なんというかフリーダムな・・・」 「学習院時代はそれはもう大変でした・・・どうも東郷元帥と乃木大将の豪気な部分といっしょにフリーダムな部分も受け継いだようで・・・」 「で、どうする?警備を兼ねて銀座を貸し切るか?」 「いえ。それは陛下のご趣旨に反します。」 「となると、警備は――」 「今こそさりげなくそこにいる特警(特殊警護=SP)課の出番でしょう。」 牧野は、全力で止めようとしないメンバーに少しほっとした。 この連中は事実上日本を牛耳っている。が、その主の命をないがしろにすることはないと分かったのだから。 ――1938年11月某日、銀座にひと組の親子連れの姿があった。 三菱自動車が作ったそこそこ高級なセダンから降り立った彼らは、まるでおのぼりさんのように時計台や周囲の店に笑顔を見せていた。 が。見る方まで嬉しくなって顔を見た通行人は、一様に絶句した。 彼らは、銀座三越にふらっと入ると、さりげなくそこにいた案内員(ガチガチに緊張している)と一緒に店内を散策。 買い物をしまくろうとする男性の方を女性の方がたしなめ、子供の方に突っ込まれるという微笑ましい光景を見せながら買い物をすませ、立ち去って行った。 その後その家族連れは、喫茶店でコーヒーとアップルパイを堪能した後で「よし、歌舞伎座まで足を伸ばすか」とのたまった。 慌てた警護班(人ごみにまぎれこんでいた)の通報で丸の内の方から急行してきた皇宮警察が署長と一緒に通りに整列し、敬礼しつつ 「お帰りのお時間です。夕餉のお支度をして待っている料理長が拗ねますよ、陛下!」と叫んでしまったのだから大変だった。 結局、この日のご一家は万歳三唱に見送られて皇居への帰途についたのだった。 これが、世にいう「銀ブラ事件」である。 このとき御年5歳だった皇太子は、「(このような)お忍びでの家族サービスが一番嬉しく、予定が決まるとやってくるたくさんの関係者が泊まりこむので賑やかになる宮中で眠れなくなりそうな時もあった」とのちに回想している。 蛇足ではあるが、これが皇室の日本全土巡察という大事業の端緒であり、帝国臣民にただ絶対的な敬意ではなく親近感と人間的な意味での敬意をともに抱かせるきっかけになったことは特筆すべきだろう。
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532 :ライスイン:2014/03/21(金) 14 44 50 ※欧州の扱いが物凄く悪いです。 西暦1944年6月6日 大英帝国 帝都ロンドン この日、ロンドンは紅蓮の炎に包まれていた。 「何故だ、何故こうなったのだ!!」 首相であるエドワード・ハリファックスの絶叫が響き渡る。 周囲の閣僚や軍高官の表情も暗い。 空高く飛ぶ怪鳥の落し物で帝都は燃え、迎撃に飛び立ったRAFの精鋭は護衛の猛禽に撃墜されていく。 そして本土にも侵略者の尖兵が降り立ち、ロンドンへと迫ろうとしている。 「何故なのだぁ!!!!」 再び絶叫するハリファックス。同じような叫びがパリとベルリンでも上がっていた。 「日米露三国同盟~落日の欧州」01 切欠は第1次世界大戦であった。 大陸化、そして夢幻会が主導権を得ていた日本は当時は機能していた日英同盟に基づいてドイツへと宣戦布告。 指揮権問題が解決しない中、陸軍は先遣隊として5個師団を基幹とする部隊を送ることを決定。 海軍は船団護衛とは別に扶桑型戦艦4隻・金剛型巡洋戦艦8隻を中心とした主力の派遣を決定した。 それぞれの司令官も乃木希典、東郷平八郎の2人を送るという力の入れ様だった。 しかし・・・そこからが悪夢の始まりだった。 欧州に到着した陸軍はそれまでの無謀な突撃により消耗していたフランスの指揮下に組み込まれてしまう。 日露の英雄が率いている事で多少の敬意は払われていたがそれでも黄色人種への侮蔑は変ることなく、 早々とヴェルダン要塞へと回されてしまう。そこを悲劇が襲った。 1916年2月21日より始まったドイツ軍のヴェルダン攻撃は凄まじく、フランス軍は早々に士気が崩壊。 兵士の反乱や逃亡も始まり、遂には要塞司令官が逃亡する事態にまで発展。 取り残される形になった帝国陸軍5個師団は要塞の一部を奪われるも兵力差からは考えられないほど奮戦。 派遣軍第2陣3個師団及び早期参戦を果たしたアメリカ陸軍1個師団(ダグラス・マッカーサー准将指揮)が 到着するまで辛うじて持ちこたえるも5個師団の内9割が戦死・行方不明になり、乃木大将も戦死してしまう。 海軍についても悲劇が発生していた。1916年5月31日に勃発したユトランド沖での海戦である。 英国側補給担当の差別的な扱いから燃料の補給が遅れ、グランドフリート本隊や巡洋戦艦部隊に送れる形で出航。 しかし先に出撃したイギリス艦隊にUボートの猛威が襲う。 巡洋戦艦部隊の旗艦ライオンが雷撃によりビューティー中将を乗せたまま沈没。 この知らせを受けたジェリコー大将は急ぎ合流を命令。そして合流した矢先にまたしてもUボートが襲い掛かった。 雷撃によりインディファティガブル、クイーン・メリー、インヴィンシブルを損失。 旗艦アイアンデュークにも雷撃があり、回避には成功したが揺れによりジェリコー大将が頭部を強打し錯乱。 そして恐慌状態に陥った彼はなんと撤退を命令。更に此方に向かっている日本艦隊に対して後に悪名を得た電文、 「主たる我ら白人に奉仕する有色人種の義務を果たせ」 を送り、大きく迂回しながら引き返してしまう。これは後に”ジェリコーターン”と呼ばれ、有史以来最悪の 海戦機動として記録される事となる。 533 :ライスイン:2014/03/21(金) 14 45 26 そしてこの電文が日本艦隊で受信したのは正にドイツ大海艦隊との戦闘直前であった。 通信参謀から渡された文を読んだ東郷大将は怒りを抑えつつ返電をするよう命令。内容は 「イギリス海軍何処にありや、全世界は知らんと欲す」 であった。 海戦自体は新鋭艦、それも36cmという大口径砲を揃えた日本側の奮戦で当初は互角の戦いであった。 しかし数の差に押され損害が出始め、旗艦扶桑も撃沈され東郷大将も脱出できずに艦と運命を共にする。 それでもあまりの損害にドイツ側に撤退を決断させる事に成功したが終了後、日本側で生き残った主力艦は 大破した巡洋戦艦金剛のみという有様だった。 これ等の経緯、そしてフランス高官の陸兵追加派遣要求に加えフランス新聞社の差別的な報道も重なった結果、 同じようにフランス指揮下で損害が続出していたアメリカと共同で独自指揮権を要求。激しい交渉の末、1916年末に 日米とも独自指揮権を得る事に成功。また副産物として日米両軍の交流が始まり、後の友好関係に繋がった。そして・・ 1918年3月21日、ドイツ軍が最後の大攻勢”カイザーシュラハト”を発動する。 ロシア帝国との講和(※1)及びイタリア戦線の膠着(※2)により兵力を転用した大攻勢により連合軍は混乱に陥った。 それでも英米仏の主力がパリを防衛し手薄になっているベルギー方面から日本軍(と米軍の一部)が攻勢をかけることが決まった。 そして日本軍がベルギーを解放しドイツ国境に迫った頃、パリ方面で異変が発生した。 大流行したインフルエンザにより連合軍及びパリの都市機能がマヒ状態に陥っていたのだ。 これがこの戦争を終結させる要因となった”フランス風邪(※3)”であった。 植民地に派遣されていたフランス軍部隊が感染原因となったこの風邪はパリ市内で爆発的に感染。 パリ周辺に展開する連合軍の大半が行動不能になり、時のフランス首相クレマンソーはイギリス首相ロイド・ジョージと極秘で 会談し休戦交渉に入ることを決定。しかしこれは日米に知らされることはなかった。 そして日米政府に休戦交渉の件が伝えられたのは発表の1日前。 この時点で日本軍はケルンを占領していた。 ※1:土壇場でニコライ2世が講和をし、その後に改革を行う事を決断。1918年3月2日にドイツと講和(史実と同じ内容)し、 イギリス型の立憲君主制を柱とした改革を実行。これにより革命運動は沈静化し一部は帰順した。 ※2:この時、駐在武官だった嶋田繁太郎が1個小隊規模の陸戦隊と共に観戦武官として前線を視察中、防衛線を 突破してきたオーストリア軍との戦闘に巻き込まれるも全員無事に生還している。 ※3:当初は自分達の失態を誤魔化す為にアメリカ風邪という名称を使用し盛んに宣伝。後に発覚してアメリカを激怒させた。 次話:「日米露三国同盟~落日の欧州」02
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登録日:2022/07/05 Tue 21 08 55 更新日:2022/08/24 Wed 02 04 21NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 BL コミカライズ 人体改造 孤島 孤島の鬼 密室殺人 小説 探偵 暗号 江戸川乱歩 男色 舞台化 長編 障害者 神と仏がおうたなら 巽の鬼をうちやぶり 弥陀の利益をさぐるべし 六道の辻に迷うなよ 【概要】 孤島の鬼は江戸川乱歩の探偵小説(後半は怪奇冒険小説としての面が強い)。 博文館の雑誌『朝日』の1929年1月号から翌1930年2月号まで連載された長編作品で、森鴎外の随筆に着想を得て執筆された。 探偵小説ではあるが、乱歩作品おなじみの探偵・明智小五郎は登場しない。 また、同性愛の要素を取り入れた男色小説でもあり、美青年の主人公に片想いする美男子がもう一人の主人公的存在として登場する。 乱歩の筆により艶めかしく、生々しく描かれる二人の関係はドキドキもの。そして終盤は地獄絵図と化す。 本作では密室殺人や衆人環視の中で起きる殺人トリックが描かれており、筒井康隆氏など乱歩の最高傑作とする著名人もいる。 猟奇趣味要素も多分に用意されており、現在ではNGとなるだろう差別的表現も頻繁に登場する(「かたわ」「きちがい」など)。 単行本は現在でも様々な出版社から出ているが、アニヲタ的な内容を含むものとしては海王社が発行した宮野真守による朗読CD付文庫本が存在する。 また、長田ノオトによる耽美な絵柄のコミカライズ版(全一巻)や、naked ape作画によるコミカライズ版(全三巻)が出ている他、山口譲司の「江戸川乱歩異人館」(12~13巻)にも収録されている。 変わったところでは大須賀めぐみがゲッサンで連載中の演劇漫画『マチネとソワレ』に舞台の原作として登場する(8巻〜10巻)。 小説作品としては、江戸川乱歩から大きく影響を受けたと語る綾辻行人の中編小説「フリークス~564号室の患者~」には本作へのオマージュが込められており、作中でもその事が語られている。 【物語】 私はまだ齢三十にも満たぬというのに頭髪は老人のように真っ白になっている。人は私に出会うと、必ずその理由を聞きたがる。 私の妻の左腿にあるおそろしく巨大な傷痕も同様だ。それらは我々の経験した恐るべき体験が真実だという証拠である。 いちいち人に説明するのも疲れたので、手間を省くために書物にまとめてみようと思う。 これは二た月ばかり間をあけて起きた二件の変死事件あるいは殺人事件を発端とする、戦慄すべき大規模な邪悪、何人も想像しなかった罪業に関する、私の体験談である。 それは蓑浦金之助(私)が二十五の時だった。同じ会社に入ってきた木崎初代に心を奪われ、交際の後に婚約を申し込んだのだ。 初代は幼い頃、親に捨てられたという身の上を持ち、捨てられた時から持っていた身元のてがかりである系譜図をプロポーズの返事として渡す。 ところが初代に言い寄る男が現れる。 その男・諸戸道雄は簑浦の学生時代からの友人であり、簑浦に片想いする美男子だった。 諸戸が自分と初代の仲を引き裂こうとしていると考えた簑浦だったが、初代が密室の中で胸を刺された遺体となって発見される事件が起きる。 初代を殺した犯人への復讐を誓う簑浦は、友人の探偵・深山木幸吉に初代から貰った系譜図を見せ、調査を依頼する。 ところが、深山木の元に犯人からの脅迫状が届き、簑浦たちが見守る衆人環視の中、深山木も殺害されてしまう。 その場で諸戸の姿を見た簑浦は彼への疑惑を深め、ついに諸戸の家に赴き彼を問い詰めるが、諸戸は「自分は犯人ではない」と言う……。 【登場人物】 ・蓑浦(みのうら)金之助 物語の語り部。当時25歳の美青年で、貿易会社に勤めるクラーク(事務員)。 実業学校(*1)出身。実家は裕福ではなく、給料も薄給。 趣味は小説、絵、芝居、活動写真で、空想好きで内気な性格。同い年の友人はいないが、諸戸や深山木のような年上の一風変わった友人には恵まれている。 同性愛の気はないのだが、自分の容姿がそれなりに魅力的なのは理解していて、時おり諸戸たちに甘えるような態度をとっている。 婚約者の初代を殺害され、彼女の遺灰を食べながら犯人への復讐を誓う。 深山木に相談した後、誰かが家に侵入したことに気付く。 ・諸戸(もろと)道雄 簑浦の6歳年上の友人で、彼に恋焦がれる美男子。本作の探偵役。 女嫌いで女性に憎悪や恐怖すら感じるらしく、ゆえに同性しか愛することが出来ない性的倒錯者。 大学に所属する医学者で、自宅でも動物たちを活体解剖する趣味嗜好を持つ。 簑浦が学生時代、同じ下宿に住んでいた頃からの付き合いで、簑浦に勉強を教えたりしていた。 よく一緒に銭湯に通っては簑浦の身体を丁寧に洗っていたらしいが、上述したように簑浦も気持ちに気付きつつも拒否せずにいた。 一度だけ強引に簑浦を手籠めにしかけたものの関係が切れることはなく、簑浦にラブレターを送ったり帝国劇場へ一緒に出掛けたり(ようはデート)し続けていた。 初代の家に通って求婚を申し入れており、二人の仲を引き裂こうとしたのではないかと疑われており、初代殺害後も数度木崎家に通っていた。 深山木の殺害現場にも居合わせたことから怪しまれるが、自分も事件を独自に調査していたと語る。 ・木崎初代(はつよ) 簑浦の婚約者。当時18歳。 一般的な美人とは言えないが、簑浦にとって絵に描いたような理想の女性。 簑浦と初めて会話した時には、タイプライターの前で俯き気味に「HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI…」と熱心にタイピングしていた。 その様子に興味を惹かれた簑浦が声をかけた事をきっかけに恋仲となり、9か月ほど付き合った末に婚約するが、 大正14年6月25日の早朝、自宅の部屋で遺体となって発見された。死因は心臓を一突きされたことによる即死。 部屋の扉は襖だったが表口も裏口も、もちろん窓も施錠されており、外のぬかるみや天井裏にも足跡のようなものはなかった。 唯一侵入できそうな床下には金網が張ってあり、いずれも侵入は不可能だった。 貰ったばかりの月給が入った手提げ袋と、なぜかチョコレートの缶が盗まれていた。 3歳の頃に大阪の川口という船着場で、一族の系譜図を持たされて捨てられていたところを義両親に拾われた過去を持っており、 その系譜図に「樋口」という名前が書いてあることから、自分の本名は樋口だと考えていた。 なぜかその系譜図を高値で買い取ろうとしていた人物がいたらしいが…。 ・初代の義母 初代の遺体の第一発見者。 少々耳が遠い。初代の寝室とは離れた玄関近くの部屋を寝室にしている。 家の中には彼女しかいなかったため、当然疑われたがそもそも娘を殺害する動機はなく、検察も証拠不十分として釈放している。 ・古道具屋 初代の家の隣家で同じ平屋建ての店。 深山木はこの店で売られていた七宝の花瓶(二尺五寸≒75cmほどの大きさ)に注目していた。 その花瓶は対になっており、その一方が事件の前日に売買が決まり、事件当日に使いの者が持って行ったらしい。 ・深山木(みやまぎ)幸吉 簑浦の友人で探偵。当時40歳過ぎ。 身寄りはなく、結婚もしていないが時おり女性と暮らすも刹那的にとっかえひっかえしていた。 幾らかの貯えがあり仕事はしておらず、様々な事件に首を突っ込んではその知識を活かして有益な助言をすることもある。 意外にも子供好きで、近所の子供たちを集めては一緒に遊ぶガキ大将的なところもある。 簑浦から初代の事件の調査を依頼され、五日間の調査の末に犯人の本拠に辿り着いたらしいが「何か」を見て逃げ出したという。 さらに家に帰ると何者かからの脅迫状が投げ込まれており、ひどく怯えていた。 犯人を上げるだけの証拠を得られておらず、警察の介入を先送りにしていたが、 簑浦と海岸に行き、4人の子供たちに砂に埋められて遊んでいる際中、心臓を抉られて死亡。衆人環視の中、誰も犯行に気付かなかった。 警察の捜査により、傷口の癖や使用した短刀が同じだったことから初代殺しの犯人と同じ人物の犯行であることが判明した。 簑浦が警官と共に彼の家に行くと、嵐が去った後のように荒らされていた。 脅迫状には「ある品物」を渡すよう書かれていたため、犯人がその品を探したものと思われる。 だが、深山木は死ぬ前に簑浦宛にその品物──鼻が欠けた乃木大将の石膏像──を郵送していたため、簑浦の手に渡った。 ・子供たち 深山木と一緒に海岸で遊んでいた4人の子供たち。 4人の内一人は東京から遊びに来ており、残りは地元の子供だった。 夢中になって深山木に砂をかけていたが、いつ深山木が刺殺されたのか目撃した子はいなかった。 ・怪老人 事件前、初代の家の格子窓から中を三度も窺っていた奇妙な老人。 初代の見立てでは80歳以上で腰が二つに折れ曲がっており普通の人の半分程度の背しかないように見えるらしい。 顔もかなり醜悪で、上唇が二つに裂けているのが特徴。 深山木の事件後、簑浦が諸戸の家を訪ねようとした際にそれらしき老人を発見し、諸戸の家に入っていくのを目撃したが消えてしまった。 ※以下、中盤までのネタバレ注意。 ・友之助 曲馬団に所属する軽業師の少年で、初代と深山木を殺害した実行犯。 12歳だが発育不良で10歳くらいにしか見えないほど小柄。その小柄な体躯と柔軟な身体を使い、壺に入る芸を得意としている。 義務教育は受けておらず字も知らない。常識は欠乏しており悪事にかけては知恵が回る。 初代事件の密室は木崎家と平屋で繋がっていた隣の古道具屋の家から、台所の炭や薪を入れておく上げ板から軒下を通り侵入した。 そして犯行が終わると再び軒下を取って古道具屋へ戻り、花瓶の中に入って隠れたのだった。 深山木の事件はもっと簡単で、彼と遊んでいた子供たちの中に混ざって他の子どもが砂をかけるのに夢中になっている隙を突いて犯行に及んだ。 まさか10歳前後の子供が怖ろしい殺人を犯したとは誰も思わず、盲点となっていたのだった。 諸戸は深山木の件から犯人が子供たちの中にいると考え、初代の事件後に花瓶が消えたことから真相に思い至った。 また、初代の寝床からチョコレートの缶がなくなったことも子供が犯人という考えを裏付けていた。 もちろん、彼に犯行を行わせた黒幕は別にいる。 友之助は諸戸に誘導されて事件を洗いざらい暴露するが、突如窓の外からピストルで撃たれて絶命してしまう。 はたして真犯人の正体には辿り着けなくなってしまったかに思えたが……。 ・諸戸道雄 友之助の死後、警察に事情を聞かれた際に推理を披露するも、やはり荒唐無稽すぎて無視されてしまった。 このため神田の神保町近くにあるレストランの2階を秘密の探偵本部として借り、簑浦と共に事件を追う事を決める。 ・蓑浦金之助 諸戸の提案に乗って一緒に事件を追い始めるが、その関係をどこか楽しみ始める。 二人は例の乃木大将の石膏像に隠されていた初代の系譜図に隠れた暗号(ページ冒頭の四行詩)とある人物の書いた手記を発見する。 その手記を読んだ諸戸はひどく動揺し、自分の身の上とある疑惑を語る。 そして二人は運命の「岩屋島」へと向かい、ついに全ての真相が明かされる……。 追記・修正お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 秀ちゃんのアレは漫画だと手術じゃなくて鉄枷になってたな -- 名無しさん (2022-07-05 22 14 37) 乱歩要素満載だけど展開としては綺麗にまとまってて長編の中では一番 -- 名無しさん (2022-07-05 22 25 51) シナリオライターのトノイケダイスケ氏が、人生変わった一冊に挙げていた。そりゃこんなもんを小学生とかその頃に読んだら人生歪むわな。 -- 名無しさん (2022-07-06 01 03 56) 日本のMJは怖いなあ。 -- 名無しさん (2022-07-06 12 33 02) 3巻本のマンガだと、奇形関連は全部マイルドにされてたな -- 名無しさん (2022-07-06 22 35 12) 「片●者は心までも歪んでいる」云々という件があるバージョンと削除されたバージョンがある(旧角川文庫にはあったが創元推理文庫には無い)。 -- 名無しさん (2022-08-24 02 04 21) 名前 コメント
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司馬遼太郎の思い出 M.S(陸士56期) (平成19年6月記) 吉田茂の慨嘆「GHQと歴史教育 GHQ焚書図書開封第4巻 発売開始 GHQ焚書図書開封第1/2/3巻 GHQ焚書を行なった日本人 GHQに没収された著者 されなかった著者 GHQによってどのような本が没収されたのか imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (司馬遼太郎.JPG) 前列中央が栃木県佐野時代の福田定一(司馬遼太郎)/『週刊朝日』増刊号(平成8年11月) 1.戦車第1聯隊と石頭会 終戦時、栃木県佐野に駐屯した戦車第1聯隊(戦1)は懐かしい私の原隊であるが、私は旧満州国寧安県石頭市で戦一を離れた。昭和19年4月に陸軍少年戦車兵学校に赴任し、終戦当時の軍制では珍しい22歳の学校副官として昭和21年4月迄、武装解除に時間を要した。 司馬遼太郎が所属した戦1第4中隊は、戦後直ぐ「石頭会」を創った。司馬さんが『梟の城』を書いたり「直木賞」を貰ったりする以前である。第4中隊長は故西野尭が同期生であったので、誘われて私も石頭会のメンバーになった。東京オリンピックの直前頃、司馬さんは既に大作家になり、私もAIUの日本人第一号役員に成った頃だった。 最初から妙に息が合って年に一度の会合は何時も徹夜になった。 我々の原隊「戦車第1聯隊」が久留米で生まれ、マレー、ビルマを経て旧満州国寧安県石頭市に駐屯していた頃の司馬さんは知らない。 私が昭和19年4月に内地の陸軍少年戦車兵学校の教官に転出した後、同年12月に福田少尉が誕生し、昭和20年3月福田少尉を含む戦1は栃木県佐野に「本土防衛」と言うことで駐屯した。 司馬さんは戦1の第4中隊に属し、戦後直ぐ「石頭会」と言う親睦会が出来た。 昭和38年頃、陸士同期生の西野中隊長に誘われて私も石頭会に参加した。参加後は司馬さんに会うのが楽しみで良く出席した。司馬さん夫妻は平成5年に西野会長が病気で斃れる迄皆勤であった。 2.司馬遼太郎と陸軍 乃木神社の評議員をしていた陸士の先輩から、散々クレーム(下記)が私に有った。経験から要点の見当は付く。 クレームの要点は、 一つが、乃木大将の日露戦争の作戦の拙さの指摘、 二つ目が、乃木さんは学習院の院長で終っておればよかった云々との記述、 三つ目が、終戦の年、栃木県佐野市に駐屯していた時、敵の上陸作戦に対応し戦場に行くため、「大本営少佐参謀」が、「轢き殺してゆく」といったと書いたこと。 私が司馬遼太郎と知り合ったのは戦後である。従って私は「福田少尉」は知らない。 私は司馬さんに、陸軍に対して辛い点数をつけた大きな理由を直接聞いたが、 『坂の上の雲』を書くときに、陸軍のことはある程度見当がつくけども、 海軍が全然わかんないと、当時会った人に話を聞いたら、直ぐに仲間3人を集めてくれた。 大本営参謀だ。陸軍でいえば、服部卓四郎、辻正信、瀬島龍三という作戦参謀だ。2、3人を集めてくれてね、これから司馬さんの『坂の上の雲』をつくる。「家庭教師をしましょう」と3人が言ってくれた訳。そこへきて、一生懸命手伝ってくれた。 服部卓四郎は当時GHQの最高顧問で、 GHQの立場から、日本陸軍の大東亜戦争の戦史をアメリカに都合良く書いていた。 その専門家が服部卓四郎である。「あれは、旧軍人で就職第一号だから、GHQに高給で迎えられた・・・」。 司馬さんは、その服部卓四郎の所へいった訳。「『坂の上の雲』を書きたいのだけど。私も陸軍にいたんだけど、幹部候補生の少尉で。よく分かんないから、よく分からないところを教えて欲しい」と言った。 服部卓四郎曰く、「幹候の少尉風情に、日露戦争が分かってたまるかい」と言われた。 それが陸軍の返事。 海軍は三人が揃って家庭教師をやりましょう、と言って、何でも聞く。全部教えてくれたから、『坂の上の雲』の海軍を書いた。 司馬さんはこういうことを本の後書に書かない。彼は弁解はしない、小説家だから。 そういう裏話は戦後、僕たちが戦車隊の中国寧安県の駐屯地の「石頭」にちなんで付けた「石頭会」の全国中隊会をやった後、司馬さんを入れた話のときに出る。この石頭会は場所によっては百人以上集まったもんだ。 昼の中隊会が終った後、司馬さんと夜二次会をやる。3人とか5人とかでね。そこでいろんな話をして、話が合うもんで、司馬さんは私の所に手紙をくれたりした・・・。 ところで、僕もアメリカに居て、ユダヤ人の金儲け主義に閉口して、会社を辞める決心をした(昭和49年頃)。このことを司馬さんに(手紙を)書いたら、彼がカリカリするなと、返事をくれたりしてね。 それで、あのー『週間朝日』に私と司馬さんに関する記事が出た。この『週間朝日』1999(平成11)年の9・24号と10・1号です。2号続けて出ている。『週間朝日』は普通の週刊誌と違う。司馬さんが亡くなってから、司馬さんがどういうことを書いていたのかを、記事にした記者がいる訳。ここに載っている村井重俊氏、未だ45、6歳だと思うが。 僕は最初「『朝日新聞』が嫌いだから、朝日に会わない」と言った。 司馬さんの奥さん、みどりさんが電話をかけてきたんだけど。 「村井さんは、朝日新聞の記者とは違うから、どうしても会いたいから、会ってくれ」 それであのー、みどりさんが「村井さんと言うひとは悪い人ではない」というので。僕の家に記者が来たんだ。長いこと家で三時間くらい、色々と話をした。それをまとめたのが『週間朝日』に出た。 『週間朝日』の愛読者に僕の後輩が二人いて、二人とも絵描き。後輩は直ぐに電話をよこしてくれ、「『週間朝日』は、よく面倒をみてくれた」と。また「私は『週間朝日』は創刊号からずっともっている。『週間朝日』は朝日新聞とは違って、「扇谷正造」というのがいた。「扇谷正造」の精神を継いでいるのは朝日の中では、『週間朝日』だけだと、『朝日新聞』と混同されては困る、といって・・・。 それは、私の後輩もそう言ったから、間違ってなかったと思っている。そうこうするうちに、方々に『朝日新聞』の記事が宣伝されて、約1ヶ月間電話が入ったりした。 先ほど話のでた服部卓四郎は、最後は「国を売った男」だから。アメリカに有利なように作戦計画を書いちゃった。命令で、高給をもらって。 だから、司馬遼太郎を国賊などという代わりに、あの“太平洋戦史”を書いた服部に言うべきでは・・・。
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「乃木坂って、どこ?」とは、2011年10月2日からテレビ愛知の企画・制作により、テレビ東京系列などで放送されている、乃木坂46の冠バラエティ番組である。 放送回
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忌避から判決まで 判事も検事も警察も一つ穴の狸と思ふてる素人に。予審裁判をした判事は、公判で其事件に関係する事ができない、一審裁判をした判事は、二審で其事件に関係する事ができない、其訳は先入主となる弊害があつて、公平の裁判ができないからだ。と話せば何を?!べら棒な、チヤンチヤラおかしいと笑ふだらうが、玄人はそんな事は当り前の事としてゐる。然るに弁護士判検事の懲戒となると、予審判事のする予審裁判と同じ事を、懲戒開始決定と名を付けて公判々事がやり、其同じ公判々事が又懲戒の裁判をやつてる。刑事々件なら恰ど予審判事と公判々事と、一審判事と二審判事とを一人でやるようなものだ。此不思議の現象はどこかに間違つた処があるにきまつてる。玄人のチヤキチヤキたる判検事弁護士であるから、此事は誰も気が付く筈であるのに、今迄これを問題にした被告のないのは、蓋し被告上黙つていた方が得た利益だと計算したからであらふ。僕としても、大概相場はきまつてる、面倒だバカバカしい、グズグズして居れば暑中休を越す、とも考へたが、裁判長を被告扱ひにして見たいのと、先方の決定書其儘で謹厳痛快の申請書ができるのとにほだされて遂ひテストケースと云ふ気で五月一日に判事全部に対して忌避をした。 西郷判事と遠藤判事とはなぜか評判がよい、僕の友人は皆牧野裁判長一人を忌避して二人を忌避するなと忠告してくれたが、此度こそは乃木大将の敵を取られると評判されてる最中、それでは僕が其を怖れての余り忌避した様に思はれるも厭だから、構はす三人を忌避した。此申請は直ちに予期した通り却下になつた。尾佐竹判事が係りときいたから、太政官の布達でも引きずり出して、裁判に理由でも付けてくれるかと楽んでみたが、それも越中褌に終つた。 バカと狂には逃げるが勝よといふ諺もあるが、裁判は一日も早く片付けたかつた。しかし忌避の裁判は初めより控訴院は眼中になく只大審院が目的でもあり、又調べれば調べる程理由があり、熱心も出てきたから、僕は一方直ちに忌避申請却下に対する即時抗告をすると同時に、他方控訴院に向つて、構はず裁判を進行してくれとの願を出した。当時僕の此挙を以て徹頭徹尾裁判所を曲くり又は之をからかふものとして、僕を非難し、除名又軽きに過くと云ひ触らす者もあつたが、決してさう云ふ訳ではなかつた。僕は忌避申請をした当時より、裁判所は判事を代へて裁判を進め、合法的に忌避の申請を葬るであらふと思ふて居た位だつた。従て上申書や抗告申立書の戦々兢々や大安吉日は、僕としては当然以上の真面目であつた。 大審院で抗告が棄却された時は聊か失望はしたが、もう其時は既に熱が発散し切つていたので憤慨はしなかつた。控訴院の決定も大審院の決定も似たり寄つたりで、兄たり難く弟たり難い理由のないものであつた。僕が忌避申請書や抗告理由書で論ずるように、懲戒裁判の開始決定には懲戒すべき事実だけを書き挙げるだけにして、其理由は説明するな、愈々公判で裁判するときに初めて詳細の理由を書け、だから開始決定の判事も公判の裁判判事も同一人で差支へない。と云ふ事にすれば、法理合理や法律の常識にも、懲戒裁判に忌避を許した精神にも叶ひ、条文の解釈も刑事訴訟法との関係もスラスラスツと皆スムースに行くのに、只それでは、従来のやり方が間違つて居た、気が付かなかつた、ばかだつた低能だつた、と云ふ事になる虞れがあるといふ理由ばかりに、あれは法律が悪いのだ規則の欠点だ、懲戒法の忌避と刑事訴訟法の忌避とは性質が違ふ、この予断は予断でも予断でない、とこじつけようとするのはいつもいつも乍ら悪い癖だ。竪子遂に教ゆべからすの歎、豈独り僕のみならんや。 忌避も愈々確定した、裁判は益々切迫した、今後は既に極まつてる。しかし新聞がまちまちだから友人もいろいろだつた。やれやれと云ふ者によせよせと云ふ者、弁護をと云つてくれた者もあつたし寄附をと云つてくれた者もあつた。 当時僕と同じく弥生会といふ弁護士団体に属してる佐々木藤市郎君が、矢張り僕と同じく岸清一博士と共に懲戒問題を起して居た。一説によれば佐々木君は、僕なんかが年から年中口癖に云ふてる、裁判官はかかしだ石ころだ、との悪口を叩いたが悪いとの事だ、弥生会は佐々木君の為めに屢々会議を開いて其善後策を講じたが、いつも問題になるのは、岸博士のと連合でやれ、いや切離してやれ、岸博士のとは訳が違ふいや同じ事だ、であつたが、どちらにしても皆申訳のない事を仕出かした、困つた、と云ふ点だけは異論がなかつた。佐々木君も亦頗る恐縮して頻りに謹慎していた。其位であつたから況んや僕の事件では皆がこわがつてる風に見え、僕と一所に附いて来る事は到底出来ない相談であつた。そこで僕の事件は僕の自由処分に任かして、其代り僕が出すといふ事件顛末の著書を一人で三十部宛引受けようといふ事になつた。と記憶してる。 自由法曹団でも会議を開いてくれた。僕の既定の方針に対しては、それは遠慮からだらふと心配してくれた者もあつたが、兎に角僕の希望で一審はウツチヤリ置き二審はほんまに弁護して貰ふと云ふ事になつた。尤も一審の判決が軽いからとて控訴しなくてはイケナイ。一人の事でない弁護士全体の事であるからといふ条件付であつた。僕は必らず諸君の顔をつぶす様な事はしないと誓つたが、其時から既に腹の中では、それなら控訴の取下は構はないなと思ふて居た、悪い奴だ。 書記課への抗議 あれ程頼んで置いたのに、当の本人が知らない間に新聞へ発表され、折角の深謀熟慮も悉く画餅に帰し頗る困つた結果、止むなく今日より病気になり色々と新案目論見最中に候。も智嚢も画策も早や尽き果て、甘い考へも出ず大に弱り居り候。条文が無いので書記の忌避も出来ず、マアこんな処で締め置き候。 拝具 六月二日 山崎今朝彌 東京控訴院第三階 深路茂樹 様 控訴状 控訴人 山崎今朝彌 相手人 不明 右当事者間大正十一年(よ)第一号事件に付只今其判決謄本送達ありたるに付控訴す。 控訴理由 判決の罰の量定は高木氏の「小僧判事」に比し決して高からざること、問題の文句は相当不穏当なること、控訴人は為めにする処あり故ら不謹慎の言辞を弄せしことは之を認む。然れ共不穏当不謹慎は必ずしも弁護士の体面を汚すものにあらず、会則に所謂弁護士の体面を汚すとは弁護士会長ともあるものが、公然又は陰険に聞くに堪へざる言辞を以てお互に相手方の人身攻撃を為し合ふが如き事を云ふものにして、弁護士も司法官も味噌も糞も同一と心得殊勝にも幾分遠慮しつつ、円曲に皮肉に、馬鹿を鹿馬と言ひ無能を能無と云ふが如き場合を云ふものにあらず。然るに原判決は全然此点の区別も知らず、遠慮なき言辞を弄せしとの一事を以て直ちに弁護士の体面を汚すものと判断したるものなれば此点大に不服なり。尚控訴人は目下重病中にて詳細の理由書を提出し得ざるを遺憾とするも、其は追て直接之れを控訴裁判所へ提出すべし 大正十一年六月拾三日 山崎今朝彌 口授閲覧 大審院に於ける懲戒裁判所 御中 控訴取下書 東京地方裁判所々属弁護士 山崎今朝彌 右私に係る東京控訴院に於ける懲戒裁判所大正十一年(よ)第一号事件判決に対し大正十一年六月十三日控訴を為したる控訴は病気の都合も有之取下の効力も試験仕度候に付茲に右控訴取下仕候也。 大正十一年六月廿九日 右山崎今朝彌 大審院に於ける懲戒裁判所 御中 日記秘第四五号秘号 東京地方裁判所所属 弁護士 山崎今朝彌 停職四月 右懲戒事件に付東京控訴院に於ける懲戒裁判所に於て頭書の通判決相成大正十一年六月二十九日確定したるに付其期間内職務の執行を停止すべし。 右及通達候也。 大正十一年六月三十日 東京地方裁判所検事正 小原直 <山崎今朝弥著、山崎伯爵創作集に収録>