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両国共通の敵とたたかう 東 恭一郎: こんにちは。昨日のオフラインセッションはありがとうございました。 小笠原ゲームの延長枠で16:00から予約させていただいたゲームをお願いに参りました 芝村: 記事どうぞ。。 芝村: &イベントを 東 恭一郎: 【予約者の名前】3400675:東 恭一郎:リワマヒ国 【実施予定日時】2008/3/10/16:00~17:00 【ゲームの種別】小笠原ゲーム 【イベントの種別(時間):消費マイル】 ・ミニイベント(1時間):10 【召喚ACE】(※小笠原のみ) ・ジョージ・タフト:藩国非滞在:10 ・砂漠の騎士サウド:藩国滞在:0 【合計消費マイル】計20マイル 【参加者:負担するマイル】 3400675:東 恭一郎:リワマヒ国:入学済:20 3400678:室賀兼一:リワマヒ国:仮入学(既):0 東 恭一郎: こちらになります。 ニンジャ が会話に参加しました。 芝村: イベントは? ニンジャ: こんにちは。呼ばれました。よろしくお願いします。 東 恭一郎: 不況が起きているという話なので、 それの対策のようなものを出来ればと思っています ニンジャ: 具体的には建設会社を設立できないか、という話でしたね。>東さん 芝村: なるほど。 東 恭一郎: ゼロから作ると大変かと思うので、暴落してるところを買い取る方が 芝村: 2分ほどお待ちください。 東 恭一郎: 安くあがるか、な、と 東 恭一郎: はい。よろしくお願いします ニンジャ: 着用アイドレスは以下のとおりです。 3400678:室賀兼一:高位南国人+医師+医師+名医+補給士官 3400675:東 恭一郎:高位南国人+学生+歩兵+法官 ニンジャ: ○陸軍兵站システム ○栄光の野戦炊飯具1号 1台 を使用しています。 ニンジャ: (食糧・燃料消費が入るかもなので一応エントリー) 芝村: /*/ 芝村: サウドは街の中を見て廻っている 東 恭一郎: 「こんにちは、サウドさん」 室賀兼一: 「こんにちは。リワマヒ国の街並みはいかがですか?」 芝村: サウド:「帝國ほど不況ではないようじゃな」 東 恭一郎: 「初めまして、リワマヒ国の東と申します」 東 恭一郎: 「帝國はそんなに酷い状況ですか?」 室賀兼一: 「藩王の室賀兼一です。 ええ、逆にいえば、友好国でありたい身としては帝國へも支援が可能ではないかと思っています」 芝村: サウド:「戦争がない間に経済格差は一段と広がっておるね」 芝村: サウド:「宰相府が巻き返しを図っているが、中々、逆転どころか追いつくのも容易ではないね」 室賀兼一: 「乳幼児を抱えた家庭などはさぞや大変でしょうね……」 東 恭一郎: 「愛鳴藩王がなんとかしたいと、言ってましたが…」 芝村: サウド:「食料は余ってるから、飢えないんだがね」 東 恭一郎: 「やることが無い、と」 芝村: タフト:「競争などを考えなければ、それはそれでいい話の気がするね」 室賀兼一: 「なるほど。 飢えが心配が無いのはまずは安心ですね」 室賀兼一: 「今後はそれ以外の部分、たとえば教育費などを稼ぎ出す手段が必要になるのかな」 室賀兼一: 「と思いますが、東さん、どう思います?」 芝村: サウド:「教育費・・・」 芝村: タフト:「国の補助金、施設などは?」 東 恭一郎: 「学校などの施設は今後用意される、かな」 室賀兼一: 「幼稚園や寮は今も施設としてあるようですが、人口増に対応しているかというと、どうなんでしょう」 室賀兼一: (人は増えるが知識に補正がかかるわけではないので) 東 恭一郎: 「奨学金制度のようなものを作れれば良いんですが、際限なく金がかかるのでまずは稼ぎ口を考えないと思ってます」 芝村: タフト:「なるほど」 東 恭一郎: 「それで、復興やプレイヤー向け住宅などの建設特需が控えていそう、 ということで、建設会社を起こして資金源にしようかと思って居るんです」 東 恭一郎: 「難民相手の雇用対策にもなるし、コロッケチェーン店を建てて回るのにも便利ですしね」 芝村: タフト:「なるほど。しかし、どうせならファンドのほうがいいのう」 芝村: サウド:「ファンド・・・」(サウドはにがーいかお) 東 恭一郎: 「ファンド、ですか?」 芝村: サウド:「あまり、ファンドは好かんな」 室賀兼一: 「おお。といいますと。。。?」 東 恭一郎: 「資金運用失敗すると、痛手が出るから?」 芝村: サウド:「ファンドは、お金を儲ける機械だ。時々暴走する」 芝村: タフト:「一社を買う金を元手にして借り入れて一気にやったほうがいい」 東 恭一郎: 「人間の欲は火が付くと危ない、からなぁ」 芝村: タフト:「サウド氏は宗教上の理由から嫌っているのもあるだろう。私も、いささか茶化してすまなかった」 室賀兼一: 「……ファンドビジネスの結果、企業価値がらんこうかして結局市場が混乱する、というのは、耳にします」 室賀兼一: 「資金獲得の手段として有効ですが、藩国は公器でもあります。市場に混乱を招くのは避けましょう。。。」 芝村: タフト:「一社では弱い」 東 恭一郎: 「ふむ。数社か。予算足りるかな。」 室賀兼一: 「建設会社一社では、難しい?」 芝村: サウド:「財団はどうじゃろう」 室賀兼一: 「財団、ですか。 東 恭一郎: 「そうするのがいいかな」 芝村: サウド:「税制上のメリットもあるし、政府系ファンドよりは確実じゃ」 室賀兼一: 「なるほど。「帝國・共和国の建設業に支援を行う目的をもった財団……」 東 恭一郎: 「教育支援の為の財団、ですよ。建設業は出資母体」 室賀兼一: 「おおっと。これは失礼しました」 室賀兼一: 「建設業各社に出資をつのり、教育支援の財団を組むわけですね」 芝村: サウド:「100億(3000マイル)位の規模があれば、十分じゃろう。出資をつのればすぐじゃろう」 室賀兼一: 「目的がはっきりしているので、支援者も帝國・共和国両国から期待できそうです」 芝村: タフト:「マイル立てよりも現金立てでやったほうがいいだろうね」 室賀兼一: 「リンクゲートを開いたように、ですね」 室賀兼一: 告知文章を用意して各藩国に出資を募ることにしましょう。 芝村: サウド:「マイルはまだまだ、金には勝てん」 東 恭一郎: プレイヤー間でやる方が良いですか?<出資 芝村: サウド:「半分くらいはわしが出せそうじゃな」 芝村: タフトは微笑んでいる 東 恭一郎: 「リワマヒでも50億はいけますね」 室賀兼一: 市場判定が行われれば、最後の資源売りでその半分ぐらいの収入はあるでしょうから問題ないでしょう。 室賀兼一: 「サウドさん、ありがとうございます」 芝村: タフト:「リワマヒ単独より、1億でもいいので多くから集めた方がいい」 芝村: タフト:「活動領域が増える」 東 恭一郎: 「なるほど。それなら一口1億で募集しますか」 芝村: サウド:「帝國での登記もされる」 室賀兼一: 「そうですね。それに、出資したいという国はたくさん出てくるでしょう」 芝村: サウド:「はじめての二重登記団体になるじゃろうな」 東 恭一郎: 「ははは。初めてというのは良い物です」 室賀兼一: 「両国の友好を願う意味でも、かけはしとなるでしょう。 なにより教育支援というのがすばらしい」 芝村: タフト:「昔、ソ連とアメリカが協力して麻薬犯罪を追った事がある」 芝村: タフト:「共通の敵はどんなときにもいるのさ」 東 恭一郎: 「今回は不況で教育を受けられない不幸が敵、ということですね」 芝村: タフトはうなずいた。 芝村: 笑った。 室賀兼一: 「さっそく準備に取り掛かりましょう。。。 ああ、そうだ」 室賀兼一: 「東さん、サウドさん、タフトさん。 この財団の名前を付けたいんですが、どんななまえがいいでしょうね?」 東 恭一郎: 「名前かぁ・・・犬、猫は避けたいし、ひまわり関連はひねりがなくていまいちだし。」 室賀兼一: あはははっ。そうですね。 芝村: サウド:「ジョージ・タフト・ヒマワリ記念財団でいいんじゃないかのう」 芝村: タフト:「ホッケ・教育支援財団」 東 恭一郎: 「ははは。ほっけはさすがに耳を疑われそうです」 東 恭一郎: 「呑み好きを育成するの? とか」 芝村: タフト:「犬も猫も食べれるでしょう」 室賀兼一: 「なるほど」(笑いながら) 東 恭一郎: 「食べて身につく、かー」 芝村: タフト:「いつかは楽しく、友人が増えるように」 芝村: サウド:「なんでホッケなんじゃ?」 東 恭一郎: 「私たちの友情の食べ物の一つなんですよ。(ウインク」 芝村: サウド:「なるほど・・・」 芝村: サウドは笑った。 東 恭一郎: 「とりあえず、出資が集まるまで」 東 恭一郎: 「「ほっけ財団」って呼ぶ事にしておきましょうか。登記するときに考えよう」(笑 室賀兼一: 「よかったらサウドさんも、いかがですか。 このあと食事でも」 室賀兼一: 「もちろん、アルコール抜きで」 芝村: サウド:「まあ、聖別されておるのを望むよ」 芝村: /*/ 芝村: はい。お疲れ様でした。 室賀兼一: お疲れ様でした。ありがとうございました! 東 恭一郎: ありがとうございましたー 芝村: サウドからは+1+1でした。 東 恭一郎: なんだか面白い方向に転げてますね 東 恭一郎: ありがとうございます<+1+1 室賀兼一: ありがとうございます。 芝村: まあ、宰相府も出すだろうから 芝村: (格好上) 東 恭一郎: 宰相府のお墨付きが出てるならわんわんでの信用度も上がりますね 室賀兼一: それはよかった。 hoke財団は大支援の元に動くことが出来そうです。 芝村: ええ 室賀兼一: 帝國の資金で共和国の学生が就学できれば(逆も同じ)、両国間の融和も進みそうです。 数十年先になるでしょうけども。 室賀兼一: いい話だなあ。 芝村: そうですね 東 恭一郎: 将来的に面白い団体に育ってくれるのを楽しみにしてみます 芝村: ははは。ではー 東 恭一郎: ありがとうございました 室賀兼一: はい。ありがとうございました。 芝村 が会話から退席しました。
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りょうごくにんじゃP【登録タグ 作り 作り手】 【ニコニコ動画】%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%AD%E8%87%AA%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88 特徴 使用VOCALOIDは初音ミク、鏡音リン・レン、巡音ルカ、GUMI、IA。 リンク Piapro 曲 同人カルチャー 忍者になりたいんだ 春な人のブギウギ CD まだCDが登録されていません 動画 コメント 名前 コメント
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【初音ミク】ミクオリジナル曲「両国エレジー」 http //www.nicovideo.jp/watch/sm1403953 http //www.nicovideo.jp/watch/sm1403953 Vocaloid2のオリジナル曲 使用Vocaloidは初音ミク 製作者は両国忍者P 一つ前のページにもどる
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カリヨン公国とゴロネコ藩国両国の医療技術の交流政策 広報官の派遣 本政策について人材派遣会社MCSより広報官を派遣して頂いており。 両国を含む各国の国民に誤解のなく意図、意義を広く正確に広報いたします。 根拠 備考:広報官派遣に伴い食糧1万トンを消費いたします。 この政策の目的 医療技術の交流によりカリヨン公国とゴロネコ藩国両国の医療技術を高め、両国の民を含む人々を病傷から救う事を目的とする。 カリヨン公国とゴロネコ藩国両国間の人的交流を通じて両国間の友好関係をより一層強化する事を目的とする。 政策の前提条件 両国の同意があった交流内容のみ実行される。 両国政府には本政策に則って自国に入国した留学生、医療従事者(以下、入国者)の安全と権利を可能な限り保護する事が求められる。 入国者は本政策の目的に沿った行動が求められる。 交流内容 医学生の交換留学を積極的に行う。 医療関連教育者、医療従事者を相手国の医療教育施設の教員として派遣する。 医療従事者の相手国医療施設への派遣。 医療施設にて相手国の医療実習生の受け入れを行う。 交流対象 カリヨン公国医科大学 同学生 同教員 共和国環状線ゴロネコ藩国駅付属学院 総合医療学科 同学生 同教員 ゴロネコ藩国市民病院 同医療従事者 ゴロネコ藩国白魔法学校 同学生 同教員 並びに上記以外の両国の医療関連の施設、従事者、教員、学生全般 ゴロネコ藩国摂政 YOT
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この駅近辺のcafe電源情報の情報を集めております。 皆様の情報をお待ちしております。 編集できない人用↓店舗名・電源ありなし等記入してください 名前 コメント
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《公開済》SCP002741 シナリオガイド 公式掲示板 シャンバラとエリュシオン――思惑蠢く、交流試合の行方は如何に 担当マスター 逆凪 まこと 主たる舞台 ヒラニプラ 主たる舞台 エリュシオン>オケアノス地方 ジャンル 冒険 募集スケジュール 参加者募集開始日 参加者募集締切日 アクション締切日 2014-08-03 2014-08-05 2014-08-09 リアクション公開予定日 募集時公開予定日 アクション締切後 リアクション公開日 2014-08-20 2014-08-26 2014-08-26 サンプルアクション (シナリオ参加者の方にお願い、サンプルアクションの具体的な内容を補完していただけないでしょうか)(サンプルアクション名の下の四角をクリックするとでてくる「部分編集」をクリックすると登録できます)(もしくはサンプルアクション登録用掲示板へお願いします。) 【ヒラニプラ◆交流戦出場】 +... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 【ヒラニプラ◆交流戦出場】 ▼キャラクターの目的 【ヒラニプラ◆交流戦出場】 ▼キャラクターの動機 やるからには全力で倒すよ! ▼キャラクターの手段 交流戦と聞いて! やるからには全力で挑ませてもらうよ! エリュシオンの留学生といったら騎士候補生もいるんだろ? 力試しにはもってこいだ……何? 何か変な奴らが紛れてる? 関係ないね! まとめて吹っ飛ばしてやる! とにかく、大将とるためには押せ押せってことで 俺は前衛をぶっ飛ばす! 【ヒラニプラ◆警備】 +... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 【ヒラニプラ◆警備】 ▼キャラクターの目的 【ヒラニプラ◆警備】 ▼キャラクターの動機 なんだかキナ臭いのよね…… ▼キャラクターの手段 ちょっとあからさまだけど…… これって「両国に不和を」って考えてる奴らにとっても絶好の機会よね? 場所をわざわざ指定したってのも気になるし 何かあっちゃいけないから、警備体制をしっかり整えておかないとね 表沙汰にはなってないけど、イルミンでも事件があったばっかりだし 同じ犯人がまたしでかしに来ないとも限らないものね…… 私は観客達の中にきな臭そうな感じの人がいないか確認して回っておくわ 【エリュシオン帝国◆オケアノス】 +... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 【エリュシオン帝国◆オケアノス】 ▼キャラクターの目的 【エリュシオン帝国◆オケアノス】 ▼キャラクターの動機 誘拐された留学生を助けに行く! ▼キャラクターの手段 なんの目的で誘拐されたのかわからないけど ろくなことじゃないのは間違いない! 救助班に参加して助けに向かおう 当然、妨害者は来るはず ぼくは後方から大柄の男を狙うよ まともにぶつかったら危ないだろうしね その他補足等 [部分編集] 【タグ:SCP オケアノス地方 ヒラニプラ 冒険 正常公開済 逆凪 まこと】
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[日中歴史共同研究]] 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 <近現代史> 第一部 近代日中関係の発端と変遷 第二章 対立と協力 それぞれの道を歩む日中両国 対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その1> 川島真: 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授(外部執筆委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その1>1.朝鮮半島をめぐる対立と日清戦争■朝鮮半島をめぐる日中対立 ■日清戦争の勃発から講和へ ■日清戦争の位置づけをめぐる日中の議論 2.義和団事変と中国をめぐる国際政治の変容■日清戦争後の中国をめぐる国際政治 ■戊戌変法と日本 ■義和団事件と北京議定書(辛丑和約) 3.「近代」をめぐる日中の交錯■光緒新政と中国人留学生の来日 ■日中の「文化」交流の進展 ■日中双方の「近代」とナショナリズム 対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その2>4.日露戦争と満洲問題■日露戦争と日中関係 ■日露戦争の勃発と中国の中立 ■ポーツマス条約の締結と「日露戦争の世界史的意義」 ■「満洲」問題の発生 5.日露戦後の日中関係と辛亥革命■中国利権をめぐる協商関係の形成 ■立憲君主制の試みと日中関係 ■辛亥革命 おわりに 日清戦争と下関条約、三国干渉による遼東半島の返還、日本留学熱および近代日本文化の中国への影響、義和団運動と8 カ国連合軍、日露戦争、辛亥革命 日清戦争から辛亥革命にかけての時期は、日中関係がきわめて緊密化し、共通体験を有する時代でもあり、また同時に転機でもあった。だが、その転機は直ちに1930 年代の戦争に結びつく変容ではなく、依然として多様な可能性を秘めた時期であった。 まず、この時期に日中が政治的、経済的、文化的にきわめて緊密な関係を築いたことについて説明を加えたい。この時期には、直接的な人的交流が急増し、また王族や高級官僚や留学生が日本を多く訪れ、そして東京が中国でおこなうことのできない革命運動や立憲運動などの政治活動の場ともなった。また、中国が近代国家建設を本格的に開始し、明治維新を意識した国家諸制度の改革をおこなうなど、日中双方が近代国家建設を体験し、ともにハーグ平和会議に参加するなど、主権国家を基礎とする国際社会の一員として対外関係を築くようになった。日中は、「近代」をつうじて結び付けられ、西洋文明の受容、国家建設、そしてナショナリズム、アイデンティティ形成などの面で共通経験を有し、またさまざまな相互関係を育むことになったのである。 次に、近代日中関係の転機としての面についてである。第一に、両国が国家間戦争を体験し、その結果、二国間関係が日清修好条規に基づく平等な関係から、下関条約に基づく日本に有利な不平等条約体制の下に位置づけられるようになった。第二に、日本が中国をめぐる国際政治に列強のひとつになった。日本は、中国をめぐる国際政治に、遅れて参加した列強となった。中国をめぐる国際政治をめぐる基本的な枠組みには、1858 年の天津条約、1901 年の北京議定書、1921 年の九カ国条約があるが、日本は1901 年の北京議定書から加わることになった。第三に、日清戦争の結果、中国が台湾を日本に割譲し、中国が朝鮮の独立を承認し、その後1910 年に日韓併合がなされるなどして、日本は植民地を有する帝国となった。その結果、台湾と中国、朝鮮と中国といった関係とともに、関東軍の置かれた旅順・大連という日本の租借地や各地の日本租界と中国との関わりが生まれ、日中関係が単に東京と北京の関係ではない、多元的な関係となったことは重要だろう。本章で検討する日清戦争から辛亥革命に至る時期は、日中両国の関係が多元化、緊密化していく時期でありながら、同時に政治外交的な関係が多様化しつつも、ある意味で敵対的な局面が見られ始めた時期であった。だが、その敵対的関係は決して決定的なものではなく、両国それぞれの将来、また日中関係にもさまざまな選択肢が残されていた時期だということを看過してはならない 1。 1.朝鮮半島をめぐる対立と日清戦争 1 拙稿「関係緊密化と対立の原型-日清戦争後から二十一カ条要求まで」(劉傑・三谷博・楊大慶編著『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年所収) 2 ■朝鮮半島をめぐる日中対立 19 世紀後半、日中両国がそれぞれ近代国家へと変容する中で、両国は国境を画定していった。日本は、旧来の幕藩体制下での国家よりも拡大するかたちで国境線を引こうとし、沖縄や北海道を都道府県に組み込んだ。それに対して、中国は必ずしも拡大型ではなく、既存の省設置地域に加えて新疆などの藩部や台湾などの辺縁に省を置くなどして国土を確定していった 2。日中関係は、琉球を介在した関係、および長崎貿易で結びつく互市関係から、日清修好条規で結びつく国家間の外交関係となった。東アジアがこのような主権国家間の関係へと変容する中で、琉球の外交権は日本によって否定され、琉球と中国の関係は日中関係の一部に位置づけられた。 このような状況の中で、中国はそれまで有していた冊封や進貢に基づく周辺諸国との関係を基本的に維持しつつも、西洋諸国や日本との諸関係の中で、調整、変化を加えていった。琉球をはじめとして、冊封、進貢に基づく関係を有していた周辺諸国が中国とのこうした関係を途絶させる中で、朝鮮とはその関係を維持した。その朝鮮が東アジアの国際政治、日中関係の最大の焦点になった。1876 年、日本は不平等条約である日朝修好条規によって朝鮮を開国させたが、これが朝鮮と中国の関係を直ちに変えるものではなかった。また、1880 年に駐日公使館参賛官であった黄遵憲による『朝鮮策略』に「中国に親しみ、日本と結び、アメリカと聯なる」と表現されていることに見られるように、中国は朝鮮が「開国」することを忌避していたわけではない 3。中国の朝鮮に対する基本姿勢は、「属国でもあり(あるが)、また自主でもある」というダブルスタンダードであった。中国と朝鮮の間の宗属関係は維持されるが、他方で朝鮮は自主の国として諸外国と対外関係を築きうるとしたのである 4。このような中国と朝鮮の宗属関係は、イギリスなどから常に否定的に捉えられていたわけではないが、日本はそれを批判し、朝鮮の「独立」を求めるとともに、朝鮮内部で親日派の養成に努めた。 国王高宗の外戚の閔妃の一族が日本に接近し、それに反発した大院君を支持する勢力が、1882 年に反乱を起こした(壬午事変)。この反乱は失敗に帰したが、閔妃の勢力は中国との連携を推進した。この年、中朝水陸貿易章程が締結され中朝貿易が制度化され、以後、朝鮮半島に中国租界も開設された。1884 年、金玉均らの独立党が日本を恃みにクーデタを起こしたが、袁世凱率いる中国兵の来援により鎮圧された(甲申事変)。1885 年、日中両国は天津条約を締結し、軍を撤兵させ、以後出兵する場合には相互通告することとなった。朝鮮をめぐっては、中国が優勢となり、幽閉されていた大院君を連れ返った袁世凱は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜として、朝鮮の内外政に以前以上に大きな影響力をもつにいたった 5。 2 茂木敏夫『変容する近代東アジアの国際秩序』(山川出版社、1997 年) 3 『朝鮮策略』の言論については、ロシアを脅威として認識する対外観とともに、駐日公使であった何如璋の琉球問題をめぐる対日強硬論と関係を有する。『朝鮮策略』の内容については、平野健一郎「黄遵憲「朝鮮策略」異本校合」(『国際政治』129 号、〈国際政治と文化研究〉、2002 年)を参照。 4 岡本隆司『属国と自主のあいだ-近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会、2004 年) 5 田保橋潔『近代日支鮮關係の研究-天津条約より日支開戰に至る』(京城帝国大学、1930年)、林明徳『袁世凱与朝鮮』(中央研究院近代史研究所、1970 年) 3 後世、日本の対アジア侵略というコンテキストを説明する上で有名になる脱亜論は、朝鮮政策について比較的強行であった『時事新報』に1885 年に掲載された。しかし、同時代において福沢の言論がそれほど注目されたものではないことが最近明らかにされている 6。 なお、日中韓関係においては軍事的に中国が優勢となり、1886 年に長崎清国水兵事件が起きるなど、日本では中国の軍備増強が脅威として認識されたが、それが両国の対立を直ちに惹起するものではなく、日中間で海軍の艦船交流がおこなわれるなど、直接的な衝突は回避された 7。 ■日清戦争の勃発から講和へ 1894 年、朝鮮半島で農民を中心とする東学の乱がおきると、朝鮮の要請を受けた中国が出兵、天津条約に基づいて日本にも通知したので、日本側も出兵した。両国の出兵にともない、朝鮮政府と反乱者側は和解し、両軍は乱の鎮圧の必要が無くなり、朝鮮から両国に対して撤兵要請がなされた。しかし、日本側が朝鮮の内政改革案を提示し、それに対して朝鮮と中国が反発し、日本政府が親日政権を朝鮮に成立させるなどしたため、日清両国は対立を深め、7 月25 日に豊島沖の海戦がおこなわれるなど、7 月末から交戦状態となり、8 月1 日に両国が宣戦布告した。この間、日本は1894 年7 月16 日に日英通商航海条約を締結して領事裁判権撤廃に成功し(1899 年発効)、イギリスから日本の朝鮮派兵についても実質的な支持を得た 8。 開戦以後、日本国内では議会も戦争関連予算や法案を承認し、国家の歳入の二倍強にあたる経費を戦争に投入した。戦局は日本に有利に進行し、日本は朝鮮半島から中国軍を駆逐するとともに、遼東半島や北洋海軍の拠点であった威海衛も占領した。また、台湾方面への派兵は、戦争当初から企図されていたというよりも、戦局が有利に展開する中で採用され、講和交渉がはじまってから進展した。1895 年3 月26 日、日本軍が澎湖島を占領し、台湾および澎湖島の割譲を講和の条件とした。 1895 年4 月、日中両国の全権代表、伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章が下関条約を締結した。その結果、中国は、朝鮮の独立自主を認め、遼東半島、台湾および澎湖諸島を割譲し、賠償金2億両を支払い、さらに蘇州、杭州など四港の開港を約した。また、第六条第二条によって開港場、開市場で、それまですでにおこなわれていた外国企業が条約港において工場経営をおこなうことを認めた。その結果、外国企業は対中投資を積極的におこなうようになった(当初は、イギリスの綿紡績が中心)。なお、日本は中国において列強が有してい 6 遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」(『福沢研究』6 号、1951 年11 月)、平山洋『福沢諭吉の真実』(文芸春秋社、2004 年)、酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、2007 年11 月) 7 1891 年の艦船交流に際しては、船員を上陸させないなど、日中双方で騒擾を防ぐ努力がなされた。「在京清国全権公使李経方丁憂帰国ニ付汪鳳藻臨時代理公使任命并清国北洋水師ニ於テ我国艦隊ヲ優待セントスル挙アル件」、『公文類纂』明治二十四年第九巻)。 8 アメリカの駐華公使であったデンビーは回想の中で、「日清間の戦争は、最初に敵意を抱いた日本側においてでさえ、決して確たる判断に基づいて起こされたものではなかった。無論、清は日本との戦争など想像さえしていなかった。清は自惚れの中に自らを位置づけ、まさか“倭人”たちが大胆にも攻撃してくるなど考えていなかった」と述べるなど、戦争の必然性について疑義を呈している。Denby, Charles, China and her People Being the Observations, Reminiscences, and Conclusions of an American Diplomat. Vol.I; pp.122-126, L.C. Page Co.,1906. 4 るのと同じ特権を獲得することになり、日中関係は不平等条約に基づく関係となった。 戦勝国となった日本ではあったが、そのまま戦果を享受できたわけではなかった。特に遼東半島については、駐華ドイツ公使経験者であるフォン・ブラントから干渉の可能性があるとの情報を得てから、李鴻章は条約に調印した 9。中国の地方大官にも、「遼東半島を棄ててはならない。遼東半島が無ければ東三省はなく、東三省がなければ我が王朝は無い」というように、遼東還付を求める論調があった。また、駐ロシア公使の許景澄がロシア側に対して積極的に働きかけていた 10。実際、三国干渉は1895 年4 月23 日にロシア、ドイツ、フランスの三国によっておこなわれ、日本が5 月8 日に受けいれ、中国側が日本に三千万両の報償金を支払った。日本が得た金額は賠償金を含めて二億三千万両(日本円で三億五千六百万円)となり、それは賠償金特別会計として軍備拡張費などに利用され、また金本位制や産業発展の基礎となった。三国干渉のほか、蘇州や杭州などの開港にともない設置することとなった日本租界についても、中国側の黄遵憲らとの交渉の末、僻地に設定されるなどしたため、実際には日本の商業拠点とはならなかった 11。 他方、中国は主要朝貢国である朝鮮を喪失し、「属国と自主」というダブルスタンダードのうちの、対外関係のひとつのスタンダードを失うことになった。また、中国が戦費調達や賠償支払いのために列強からおこなった多くの借款は、その後の財政を圧迫した。朝鮮半島では、中国の影響力が限定的になり、1897 年には大韓帝国が成立した。そして、1899年に(原則)平等な清韓修好通商条約を締結したので、朝鮮とも不平等条約を締結した日本が優位な国際関係が形成された(朝鮮における中国租界などは維持された)。 ■日清戦争の位置づけをめぐる日中の議論 日本の朝鮮への関与やその後の日清戦争へと至る道程をいかに捉えるのかという点について、日本の学界でも見解が分かれている 12。通説は、日清戦争までの日本には帝国主義国となるか、植民地となるかの二者択一しかなく、結果的に帝国主義にならざるを得なかったとする見解だろう。これは、日本が朝鮮侵略、対清戦争を一貫して目指していたということでもある。最近ではその通説を補強する斎藤聖二『日清戦争への軍事戦略』(芙蓉書房出版、2003 年)もある。他方で、高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995 年)は、松方デフレ期から初期議会期にかけての明治政府には「小さな政府」的な路線であり、むしろ確固とした朝鮮政策は欠如していたとしている。これは日本に第三の道があった可能性を示す議論で、このような志向性が日本の対朝鮮政策を抑制的にしていた(財政面、軍事的未整備)とされている 13。また、大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』(成文堂、 9 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年、414 頁) 10 「江督劉坤一奏請飭密商俄国促日還遼予以新疆数城為謝片」(光緒二十一年閏五月十六日、『清季外交史料』一一五巻、二一)、許公使の動向は、許同.『許文肅公(景澄)遺集』(民国七年鉛印版)参照。 11 大里浩秋・孫安石編著『中国における日本租界 重慶・漢口・杭州・上海』(御茶ノ水書房、2006 年) 12 佐々木揚「最近10 年間の中国における日清戦争史研究」(『東アジア近代史』第11 号、2008 年3 月)参照。 13 この高橋の見解には反論もある。たとえば神山恒雄は財政史の観点から、その松方デフレ期に決して小さな政府という議論があったわけではないとする(神山恒雄『明治経済政策史の研究』塙書房、1995 年)。だが、政策という面では、朝鮮政策を積極的に推し進める傾向が連続していたわけではない。 5 2001 年)も、通説には批判的である。 中国では、明治以来の日本の対外侵略をすべて国際公法違反だとし、陸奥宗光の言動を批判的に検討する論考が少なくない。また、開戦時期については、1894 年7 月25 日の豊島沖海戦とともに、中塚明の7 月23 日の日本の朝鮮王宮占領に求める説も肯定的な評価が与えられることが多い。中塚の使用した福島県立図書館の佐藤文庫にある参謀本部編『日清戦争史』草案は、中国でも翻訳され、それに依拠した文献や、それを日本が明治以来対中侵略の意図を有していた証拠とする論稿も見ら見られ始めている。また、賠償について場、賠償金二億両、遼東半島還付報償金三千万両、威海衛占領費百五十万両だけでなく、日本の奪った艦船、機器などを合わせると三億四千万両に達したとする見解も見られる。 日清戦争へと至る時期の中国と朝鮮の関係について、日本では岡本隆司『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、2006 年)があるが、中国においても中朝関係に注目する王如絵『近代中日関係与朝鮮問題』(人民出版社、1999 年)、同『甲午戦争与朝鮮』(天津古籍出版社、2004 年)などが、中朝関係の問題点、朝鮮から見た中国側の問題点などを扱い、中国における新たな日清戦争研究の流れを示している。ただし、日清開戦については1894 年7 月23 日説を採用してはいない。 他方、日本が何時清との戦争を想定して本格的な準備を開始したかという問題もまた一つの焦点である。日本の議論では、陸海軍それぞれの動向、議会との関係などの論調が複合的に参考にされるのに対して、中国の論調では明治初年以来の日本に一貫した「大陸政策」が存在したとされることがあり、また日清戦争については、山県有朋に注目し、比較的早い時期から日本が対中戦争を準備し、軍拡路線を歩んでいたとする見解が目立つ。日 本でも、吉川朗『軍備拡張の近代史─日本軍の膨張と崩壊─』(吉川弘文館、1997 年)のように、天皇の軍隊の創設や1888 年の陸軍における師団制の採用に注目する見解もあるが、1889 年の第一回帝国議会での山県総理の「主権線・利益線」演説などに示された路線が、1891 年からの軍拡路線として実行に移されたことに注目すべきであろう。この軍拡は、議会において問題となったものの、同年の大津事件やロシア艦隊の長崎来航などによって海軍拡張が正当化され、1893 年2 月10 日の建艦詔勅により海軍軍拡がいっそう進められることになった。1893 年には山県の「軍備意見書」もあり、財政的に可能なときに陸海軍の拡張をすべきだという機運が高まり、軍拡路線が高まっていたと考えられる。 2.義和団事変と中国をめぐる国際政治の変容 ■日清戦争後の中国をめぐる国際政治 日清戦争後、中国をめぐる国際政治にはいくつかの大きな変化が見られた。第一に、日清戦争後、李鴻章はじめ中国首脳部はロシアに接近した。1896 年3 月、ロシア皇帝にニコラス二世の戴冠式に慶賀使としてペテルスブルグに派遣された李鴻章は、露清秘密同盟条約を締結した 14。この条約は、中国東北部の鉄道敷設権 14 矢野仁一『日清役後支那外交史』(東方文化学院京都研究所、1937 年)、佐々木揚「日清戦争後の清国の対露政策-一八九六年の露清同盟条約の成立をめぐって-」(『東洋学報』59 巻1・2 号、1997 年10 月) 6 および経営権を露清銀行に与えることなどが定められたが、第一条には、「日本国がもしロシアのアジアの東方における領土、あるいは中国の領土、そして朝鮮の領土を侵略占領した場合には、この条約に基づいて事態に対処する。両国は、すべての陸海軍の中で派遣可能な軍をすべて派遣し相互に助けあう。兵器や糧食についても、相互に援助しあうように尽力する」という文言があり、日本を仮想敵とした軍事同盟条約であった 15。しかし、日本側には日清戦後ただちに中国を侵略する意図があったわけではない16。 第二に、外国資金主導の鉄道建設が活発化し、それに鉱山開発利権などが絡み、それが勢力範囲設定にまで進展していった。このような動きは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツなどが主導し、対中投資をおこなう十分な余裕の無かった日本の関与は限定的であった。だが、勢力範囲設定については、日本も1898 年4 月に福建省不割譲に関する交換公文を中国と締結し、台湾の対岸の福建省を勢力範囲とした。 第三に、租界と異なり、主権そのものを貸し出すかたちになる租借地が中国沿岸部の各地に、主に軍事目的で設定された。1898 年3 月にドイツにより膠州湾租借地にはじまり、旅順・大連(ロシア)、威海衛(イギリス)などが租借地となった。日本はこの租借地獲得競争に加わることはなかったが、やがて日露戦争で旅順・大連租借地をロシアから獲得し、第一次世界大戦ではドイツの膠州湾租借地を攻撃、占領することになる。 第四に、アメリカが対中政策を積極的に展開し始めたことがあろう。1898 年の米西戦争に勝利したアメリカは、フィリピン・グアムを領有し、多く華人を受け入れてきたハワイを併合し、フィリピン・ハワイにも、中国人移民を抑制する「排華法」を適用していった。1899 年9 月、アメリカの国務長官ジョン・ヘイは門戸開放宣言を英仏露独伊日の各国に発した。これは、各国が設定した勢力範囲や租借地において、中国の関税率が有効であり、また各国それぞれの経済活動が妨げられないようにするためのものであった。これは遅れてきた帝国としてのアメリカに有利な内容であったばかりでなく、ロシアの大連租借を警戒するイギリスにとっても受け入れ可能な内容であり、各国は原則的にアメリカの宣言に応じた17。ただ、アメリカが租借地や勢力範囲をもたぬ帝国として出現したことは、中国にとって、当時においても、歴史的にも大きな意味を持った(実はアメリカは福建省に租界の開設を模索していたが、断念している)。以後、原則的にであれ、アメリカは中国の主権や統一の保持を唱え、文化交流などを通じて、中国の知識人の世界や官界に強い影響力をもつようになった。そして、日清戦争、日露戦争ともにアメリカが斡旋して講和に至っていることにも留意すべきである。 ■戊戌変法と日本 下関条約の交渉過程において、康有為らの第二上書の見られるような講 15 「専使李鴻章與俄外部大臣羅抜戸部大臣微徳訂中俄密約」(光緒二十二年四月二十二日[1896 年5 月22 日]、『清季外交史料』巻122、1-2) 16 蒋廷黻『中国近代史』(初版、長沙、商務印書館、1938 年/香港版、立生書店、1954 年、96 頁)は、この密約締結を中国の失策とし、日露戦争、二十一箇条要求、満洲事変なども、この密約に由来するものとしている。 17 A.W.Griswold, The Far Eastern Policy of the United States, New York, Harcourt,Brace Co.,1938, pp.36-86. 7 和拒否とともに、変法(政治・制度改革)を求める意見書が多く呈された18。康有為や梁啓超らの主導した戊戌政変は、「一統垂裳之勢」を否定して、「列国並立之勢」を主唱するなど、対外関係の面でも先のダブルスタンダードとは異なる新たな観点を提示した。内政面では、国家制度の改革、富国政策、人材の養成などを主唱した。だが、イギリスや日本なども、必ずしもこの新しい政治に同調していたわけではなかった。イギリス公使マクドナルドも、1898 年6 月11 の国是の詔について、根本的改革を認めたものとして評価しつつも、「皇帝の訓戒が中国之完了の心を深く動かすと期待できる理由は殆どない」とし、さらに「上諭が一つでも実際上の効果を生じている徴候はほとんど見えない」としている19。戊戌変法は、日本の明治維新をモデルとしているとされる。だが、日本を含めて列強からの支持を得ていたわけではなかった。結局、この新政は三ヶ月で頓挫した20。 康有為や梁啓超は、日英両国公使館の保護によって日本に亡命し、1899 年6 月13 日に横浜にて保皇会を組織し、梁啓超は以後、『清議報』、『新民叢報』などを日本で刊行した。日本は中国の反政府派の避難所(アジ-ル)としての役割を果たしたのである。日本政府は、清朝政府の要請にしたがって、彼らを監視したり、活動を取り締まったりした。だが、日本国内でも彼らの活動に対する支持者、支援者も多く見られ、彼らとの「個人的」交流が、政治軍事面での対立と対照的に、民間における「友好の物語」として後の日中関係史研究において強調されることになっていく21。 ■義和団事件と北京議定書(辛丑和約) 戊戌変法の後、中国が極端に保守化したとする見解もあるが、この点は定かではない。中国は、1899 年には第一回ハーグ平和会議に参加した22。以後、ベルヌ条約、万国郵政会議などの国際会議や国際組織における日中関係が、東アジアの二国間関係とは異なるかたちで形成されていく。 だが、その1899 年から排外的な宗教結社である義和団が山東省を中心に活動を開始し、当初はそれを鎮圧していた清朝中央も、山東省から北京周辺に移動してきた義和団を認め、1900 年6 月21 日に宣戦の上諭を発して列強全体と戦闘状態に入り、東交民巷の公使館区域は危険にさらされ、日本公使館員も戦闘をおこなった23。6 月20 日にはドイツ公使であるフォン・ケラーが射殺されるなど外国側にも犠牲者が出ていた。8 月14 日、日本を含む八カ国連合軍が北京に侵入した。連合軍の総数はおよそ二万人であり、ほぼ半数が日本軍 18 「康南海自編年譜」(中国史学会主編『戊戌変法』上海人民出版社、1957 年、第四冊所収) 19 坂野正高『近代中国外交史研究』(岩波書店、1970 年、306-307 頁)、林権助『わが七十年を語る』(第一書房、1935 年、78-103 頁)、王樹槐『外人与戊戌変法』(中央研究院近代史研究所、1965 年) 20 戊戌変法の経緯については、茅海建『戊戌変法史事考』(生活・読書・新知三聯書店,2005年)を参照。 21 従来、日本における立憲派や革命派の活動については、馮自由『中華民国開国前革命史』(世界書局、1954 年)に依拠した面が強かったが、昨今、孔祥吉、村田雄二郎らにより、日本外務省記録などとの比較検討に基づく史料批判が進められ、その信憑性に疑義が呈されている。 22 唐啓華「清末民初中国対『海牙保和会』之参与(1919-1928)」(『政大歴史学報』23 期、2005 年5 月)、拙稿「中国外交における象徴としての国際的地位」 (『国際政治』〈特集・天安門事件後の中国〉145 号、2006 年夏) 23 服部宇之吉『北京籠城他』(平凡社、東洋文庫、1965 年) 8 であったとされる24。この義和団事件に際して、山東巡撫の袁世凱、両広総督の李鴻章、湖広総督の張之洞、両江総督の劉坤一らは、宣戦の上諭に従わず、義和団を反乱軍と看做し、列強との協調に努めた(東南互保)25。なお、義和団事件に際して「文明国の軍隊」であることを目指して規律を重視していた日本軍が総理衙門档案を守ったということが知られている。外務部司員王履咸は、「前年の京師の変の際、他の各衙門の档冊(档案を綴じたもの)が焼かれてしまい本来の姿を失ってしまったのだが、幸いにして本部(=総理衙門)の档案は日本兵によって封守されたので、遺失しなかった」としている26。他方で、日本陸軍は戸部などから馬蹄銀や釣鐘などを鹵獲品として日本に持ち帰り、銀は国庫に繰り入れられ、釣鐘は靖国神社に寄贈された27。 1901 年9 月7 日に結ばれた辛丑和約(北京議定書)およびそれに続く中英マッケイ条約などは、1858 年の天津条約に次ぐ、中国をとりまく国際政治の基本条約となった。日本はそこに列強の一員として加わり、以後、この辛丑和約の枠組みの中で日本は列強と協調しながら中国に関与することになる(21 カ条要求に至って、この枠組みから突出し、ワシントン体制下で再度対列強協調が模索される)。この枠組みでは、いわゆる「中国分割」に歯止めがかけられ、列強は北京政府を支持しながらその近代化を推進し、財政面でも借款の返済が順調におこなわれるように関与していくことになった。中国は辛丑和約によって4億5 千万両という、日清戦争の二倍以上の賠償金の支払いを命じられた。賠償金は公債形式で、40 年年賦で返済することとされ、金貨に対する相場で計算されることにいなっていた。賠償金の配分額は、ロシアがもっとも多く(29%)、次いでドイツ(20%)、日本はアメリカと同じで(7%)であった。また、公使館区域が設定されるとともに、各国の駐兵権が認められた。 日清戦争から義和団事件にかけて、日本では中国の統一性、統治能力そのものを問うような言論とともに、日中提携論や中国保全論も見られたが、日本が主導して中国を救うべきだといったような言論が大勢であった28。 3.「近代」をめぐる日中の交錯 ■光緒新政と中国人留学生の来日 義和団事件を経て、変法の路線が再び採用され、北京議定書締結前の1901 年1 月29 日、中国は変法預約の詔書(「新政の詔書」)を宣布し、立憲君主制を模索することとなった29。戊戌政変と異なるのは、その国内基盤だけでなく、国際的にも支持を受けていたことであった。7 月には総理衙門にかわって、中国で最初の本格的 24 佐藤公彦『義和団の起源とその運動 中国民衆ナショナリズムの誕生』(研文出版、1999年)、斎藤聖二『北清事変と日本軍』(芙蓉書房出版、2006 年) 25 李国祁『張之洞的外交政策』(中央研究院近代史研究所、1970 年) 26 光緒二十八年(1902 年)三月二十八日、外務部司員王履咸呈文(中央研究院近代史研究所所蔵外務部.案、02-14、14-2、「各項条陳」)。 27 明治37 年5 月「経理局 北清事変の際獲得したる戦利品処分の件」(陸軍省大日記、防衛省防衛研究所所蔵、アジア歴史資料センター:レファレンスコードC08010342000) 28 たとえば、大隈重信「支那保全論」(早稲田大学編輯部編『大隈伯演説集』早稲田大学出版部、1907 年所収) 29 李剣農『最近三十年中国政治史』(太平洋書店、1930 年) 9 な外交機関である外務部が設けられた。義和団事件の講和交渉の過程で、北京公使会議と清側の全権代表がやりとりしていた際に、外務部の見取り図を描いたのは、日本の小村寿太郎とアメリカのロックヒルであった30。また、人材養成面でも、科挙制度が改革され、各省から留学生を海外に派遣して、学業を修めたものには挙人や進士の資格が与えられることになった。そして、1905 年に科挙試験が廃止されることが決まると、海外留学にいっそう拍車がかかった31。 このような海外留学熱は、日中関係に新たな展開をもたらした。それは多くの留学生が日本に来日したことである32。日本から中国へは明治初年から語学留学生が外務省によって派遣され(小田切萬寿之助、瀬川浅之進らがその出身)33、中国からも公使館付留学生が来日していた。だが、光緒新政における法政重視の風潮、また科挙試験の廃止と外国留学の官途への資格化という状況に直面し、もっとも簡便に、かつ廉価に留学でき、そして漢字を利用できるという点で日本が留学先として選ばれることになった。この段階では、中国人留学生は日中の経済力の関係から、個人差はあるにしても、総じて比較的豊かな生活を日本で送ることができた34。そして、1903 年から1906-1907 年まで、日本に多くの法律や政治を学ぶ学生が訪れた(最大年間 1 万人。留学生数という面では戦時中のほうが多い)。主に法政面での多くの人材が養成されるとともに、東京がアジア各地の青年の政治運動の拠点となった35。彼らは、東京で多くの雑誌を刊行して自らの政治、思想上の心情を披瀝した。このような、近代的な国家観やナショナリズムに接した海外の華人社会の政治運動などが、中国本国にフィードバックされていくことになった。康有為や梁啓超だけでなく、孫文、そして魯迅らもこの時期に日本に留学したし、蒋介石も陸軍の高田連隊に入隊していた。こうした点で、20 世紀前半の中国の各界の要人が日本体験をもつことになった。だが、1905 年12 月に留学生取締規則が強化され36、また中国政府も日本の教育機関が短期間で学位を授与するなどとしていたことを問題とし、次第に欧米留学(内容的には、理系、技術系)を推進するようになると、日本への留学生は減少していった。また、アメリカが、義和団賠償金を人材の養成と自国への留学経費に充当したことも(清華大学堂の設置)、欧 30 拙稿「外務の形成―外務部の成立過程」(岡本隆司・川島真編著『中国近代外交の胎動』東京大学出版会、近刊所収) 31 ダグラス・レイノルズが「黄金の十年」と表現したように、この時期に留学生が多く来日したことや、その留学生たちと日本人との交流は、「友好交流」として肯定的に描かれることが多い。しかし、留学生数の多寡それじたいをメルクマールにしたり、友好・非友好の二分論で日中関係史を描くことには疑義を呈したい。Douglas R. Reynolds, China, 1898-1912 the Xinzheng Revolution and Japan, Cambridge, Mass., Harvard University Press, 1993. 32 黄福慶『清末留日学生』(中央研究院近代史研究所、1975 年) 33「清国ヘ本省留学生派遣雑件」(日本外務省保存記録、6.1.7.1) 34 張玉法「中国留費学生的経歴与見聞(1896-1945 年)以回憶録為主体的探討」(衛藤瀋吉編著『共生から敵対へ-第4回日中関係史国際シンポジウム論文集』(東方書店、2000 年所収) 35 實藤恵秀『中国人日本留学史稿』(日華学会、1939 年)、大里浩秋・孫安石編著『中国人日本留学史研究の現段階』(御茶の水書房、2002 年) 36 文部省令第十九号「清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規程」。これは中国人留学生からの反発を惹起し、1905 年12 月5 日に陳天華は東京の大森海岸でと投身自殺した。 10 米留学が促進される要因となった。 ■日中の「文化」交流の進展 日本の大都市部に数千人の中国人青年が居住するというのは日中関係史上、未曾有のことであった。彼らの多くは日本そのものではなく、日本が西洋から輸入した近代文明に関心を有していた。だが、このような交流は、日本において受容されていた西洋の諸学が中国に伝わる契機となり、社会、経済、社会主義などといった、現代中国で多用される用語が日本から中国に伝わった37。日本が欧米言語から訳した漢字や術語が中国に流入したのである。また、日本における中国論も中国に輸出され、中国における中国論にも影響を与えた38。 そして、19 世紀末から日本で長く保存された漢籍類が中国に逆輸入されるといった現象も見られていた39。このほか、中国で留学生生活を題材にした中国語小説が出版されたり、多くの中国人学生と接した日本社会でも、中国への距離感が急速に縮小し、中国を題材とした小説などが数多く書かれるようになっていく40。 ■日中双方の「近代」とナショナリズム 両国の内政に目を転じれば、この時期の日本は立憲君主制に基づく議会制度を軌道に乗せ、桂太郎と立憲政友会の西園寺公望が交互に首班となる桂園時代を迎えていた。また、日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が締結されたことで治外法権撤廃にめどが立ち、関税自主権は1911 年に回復させ、財政面でも日清戦争の賠償金を基礎として金本位制を確立して、日本銀行が兌換券を発行し始めるなど、ようやく近代主権国家として「自立」していくプロセスにあった。そして、経済面でも日清戦争後に資本主義が本格的に成立し、1900 年に最初の資本主義的な恐慌がおこなった。19世紀末から20 世紀初頭には、綿糸と生糸の生産が増加し、主要な輸出品となった。綿糸は中国や朝鮮への輸出が激増し、1897 年に輸出量が輸入量をうわまわった。生糸は、幕末以来日本の最大の輸出品であったが、器械製糸業が発達し、1909 年には世界最大の生糸輸出国になった。重工業の面でも、1897 年に八幡製鉄所が設立され、日露戦争後には生産が軌道にのった。 中国では、前述のように財政困難の下で近代国家建設を進めようとし、その法律や制度を構想する上で、同じ立憲君主政体を採る日本の諸制度が参考とされることが多く、また留学生たちが日本の吸収した西洋の知識を中国に伝えた。外交面でも、1903 年に締結された中英通商条約(マッケイ条約)によって、釐金をはじめとする内地課税の全廃など通商にあらたなルールが形成されるとともに、近代的法制整備を促し、それが実現すれば領事 裁判権を撤廃することが約された。日本、アメリカも、この中英条約に準じた通商条約を中国と締結した。1903 年10 月8 日に締結された追加日清通商航海条約の第十一条では、「清国政府ハ其ノ司法制度ヲ改正シテ日本及西洋各国ノ制度ニ適合セシムルコトヲ熱望スルコトヲ以テ日本国ハ右改正ニ対シ一切ノ援助ヲ与フヘキコトヲ約シ且清国法律ノ状態其ノ施 37 呉玉章『呉玉章回憶録』(中国青年出版社、1978 年)には、呉が日本留学中、幸徳秋水らの著作を通じて社会主義思想に接したさまが描かれている。 38 劉建輝「日本で作られた中国人の「自画像」」(『中国21』22 号、2005 年6 月) 39 王宝平『清代中日学術交流の研究』(汲古書院、2005 年)、王宝平編『日本文化研究叢書中国館蔵和刻本漢籍書目』(杭州大学出版社、1997 年) 40 厳安生『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』(岩波書店、1991 年) 11 行ノ設備及其ノ他ノ要件ニシテ日本国ガ満足ヲ表スルトキハ其ノ治外法権ヲ撤去スルニ躊躇セサルヘシ」としたのであった41。この点で、外交の面でも、日本は中国に対して条約改正の道筋を示したことになり、光緒新政や宣統期に新たな法典の編纂や制度設計が急がれたのも、このような条約改正の道筋がつけられていたことと関係していた42。 近代主権国家への性向は、国民世論や政治思想の面で、ナショナリズムの勃興を孕むものでもあった43。20 世紀最初の十年、日本では日露戦争を通じてナショナリズムが強まり、また中国でもロシアの満洲からの撤兵問題に関する拒俄運動、アメリカ移民問題にからむ反米ボイコット運動44、そして日本がかかわる人類館事件や第二辰丸事件を通じて、民族性や国家を強く意識した政治運動が発生した45。人類館事件は大阪での第五回内国勧業博覧会の学術人類館において、漢族のアヘン吸引者やで纏足の女性が「展示」されることを知った中国人留学生らが、同じく展示されるインド、マレー、ジャワ、アフリカの人々と「同列に扱われること」に『浙江潮』などの留日学生メディアが抗議したのであった。反米運動でも、中国系移民に対する人種差別を根拠とする移民制限が問題となり、実際に移民を多く輩出するわけではない地域も巻き込んだ運動となった。また、1890 年代後半に外国に譲渡された鉄道利権や鉱山採掘をめぐる利権を回収したり46、自開商埠が開設されるなどして、中国側主導で開港場を運営したりする動きが強まった。 こうした政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも、「中国」であった。「中国」はこの時期に次第に国名として定着しつつあったのである。梁啓超は、1901 年に「中国史叙論」という一文で、「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華には自尊自大の気味があるとしながらも、これらそれぞれ欠点をもつ三者を比べると、「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べたのだった47。梁は、「中国」という呼称を、王朝交代を超えた呼称として想定したのである。もちろん、「中国」という概念、観念は古くからあり、個々の時代において再解釈されてきた。梁は、それを「主権国家」的なコンテキストの下で再定義しようとしたということだろう48。 41 中英条約は、田濤『清朝条約全集』(第二巻、黒龍江人民出版社、1999 年、P.1193)、日中の条約は同上書(第三巻、黒龍江人民出版社、1999 年、P.1263、P.1270)を参照。なお、中日条約の第六款、中美条約の第十三款には、中国が「国家一律之国幣」(統一貨幣制度)の制定に努力するという条文もある。 42 宣統元年八月初一日「考察憲政大臣李家駒奏考察日本司法制度並編日本司法制度考呈覧摺」(『宣統政紀』十九巻一葉) 43 吉澤誠一郎『愛国主義の創成―ナショナリズムから近代中国をみる』(岩波書店、2003年) 44 張存武『光緒三十一年中美工潮的風潮』(中央研究院近代史研究所、1966 年) 45 坂元ひろ子『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』(岩波書店、2004 年) 46 李恩涵『晩清的収回礦権運動』(中央研究院近代史研究所、1963 年) 47 梁啓超「中国史叙論」(『飲冰室文集』六、中華書局版、1960 年)、訳文は岸本美緒「中国とは何か」(尾形勇・岸本美緒編『中国史』山川出版社、1998 年)に拠る。 48 日本は、この「中国」という呼称を公式に使用することを躊躇した。辛亥革命の後、駐華公使であった伊集院彦吉は、日本外務省に「清国」などではなく、王朝を超えたChinaなどの呼称が日本にも必要だと説き、「支那」を公文書でも用いることを提案し、外務省に受け入れられた。拙稿「『支那』『支那国』『支那共和国』-日本外務省の対中呼称政策」(『中国研究月報』571 号、1995 年9 月)参照。 対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
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ep.332「両国のホテルにて」「異界からの電話」恐怖実話体験談!本当にあった怖い話 朗読怪談 1.「両国のホテルにて」 2.「異界からの電話」 参加メンバー Tomo Kimura K-suke その他 名前 コメント すべてのコメントを見る
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http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100131/plc1001312359018-n1.htm(~n3) 【日中歴史研究】両国の間にはこれだけの相違が… 2010.1.31 23 58 日中双方の見解の相違 日中両国の有識者による歴史共同研究は、いまなお双方の歴史認識の溝が埋めがたいことを浮き彫りにした。特に近現代史において、日本側は日中戦争当時の日本政府の意思決定過程の積み重ねに努めたのに対し、中国側は日本の戦争責任を問いただす内容となった。一方で日本側は加害者の立場を明確にするなどの中国側の配慮もみられた。日中戦争を中心に、両者の主張の相違点を検証する。(長谷川周人) 【「南京事件」】 国民政府の首都・南京への攻略命令を受けた日本軍は1937年(昭和12年)12月、総攻撃を開始した。このときの犠牲者数を中国が「30万人以上」とするのに対し、日本側は「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と断定を避けた。 ただ、日本の報告書も中国同様に、極東国際軍事裁判が「20万人以上」、南京戦犯裁判軍事法廷が「30万人以上」とした判断を紹介、「中国の見解は後者の判決に依拠している」とあえて言及した。 日本側はまた、「捕虜、敗残兵、便衣兵、および一部市民に対する集団的、個別的な虐殺事件が発生した」として、「虐殺事件」と位置づけた。さらに「略奪行動が横行し、軍紀弛(し)緩(かん)をもたらして、不法行為を誘発した」と断じた。 【日中戦争の死傷者】 日中戦争の死傷者数について、日本側が「国民政府軍の死者は約132万人、負傷者180万人」、「中国共産党軍の死傷者(失踪(しつそう)者を含む)は58万人を超える」などとしたのに対し、中国側は「不完全な統計では軍人・民間人の死傷者は3500万人以上」とし、見解にはけた違いの開きが出た。 中国側は日中戦争の総括として、「中国人民に深刻で重大な民族的災難をもたらした」とし、「日本軍国主義による侵略戦争」を糾弾した。日本側は慰安婦問題などにも触れながら、「中国に深い傷跡を残した」と記した。 【張作霖爆殺事件】 日本軍と蒋介石率いる国民革命軍が1928年、山東省済南で衝突した済南事件後、満州を実効支配していた奉天軍閥の張作霖将軍を爆殺する事件(同年6月4日)が起きた。 日本の報告書は、事件について日本による大陸拡張政策の一貫と位置づけ「関東軍の謀略」と記述するなど、事件は中国に対する侵略戦争に結びついたとの基本認識を示した。 これに呼応する形で中国側は、「(関東軍作戦参謀の)石原莞爾が『世界最終戦争(論)』という考えに立ったように、陸軍の一部は世界戦争に向かう構想の強化に中国の利用を提起した」と陸軍の暴走ぶりを詳述。さらに「張作霖謀殺で大乱を引き起こし、秩序維持の名の下で東北に出兵した」と解説した。 【柳条湖事件】 満州事変の発端となった柳条湖事件(31年9月18日)に関して、日本側は「石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略だった」と断じた。 満州における軍事行動は、(1)政府や陸軍指導部の基本方針に反した急進的な軍人の独走(2)ソ連の軍事的脅威への対抗措置(3)日本の国家改造を促すことへの期待-が目的だったとしたが、「(政府説明の)自衛や権益擁護を超え、満州全土を占領する計画だった」と軍部の野心的な狙いにも触れ、中国の主張に同調する記述も盛り込まれた。 中国側は、日本が「満蒙危機」をあおり、「武力による中国東北地区への侵攻、占領を計画した」のに対し、「不抵抗」を決めた中国は国連と米国の関与を求め、国際法に沿った解決の道を探ったと強調した。 【盧溝橋事件】 日中戦争の引き金となった盧溝橋事件(37年7月7日)について、事件は「偶発的」とした日本側に対し、中国側は「偶発的に起きた可能性がある。ただし、事件は日本の中国侵略政策と大きな関係があり、必然性もある」と、日本の戦争責任を追及する姿勢を貫いた。 日本側は近衛文麿内閣が臨時閣議で事件の「不拡大」を決めたものの、直後に派兵への協力を政財界に求めたことについて、「進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものにした」と批判した。 日中歴史共同研究
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2、満州に於ける日支両国間の根本的利害関係の衝突 支那人は満州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに対して憤慨す。従来東三省は常に支那及諸列国が共に支那の一部と認むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の権限に付異議の称えられたることなし。右は多数の日支間諸条約及協定並びに他の諸国際条約により明らかなる所にして又日本を含む諸国の外務省より正式に公表せられたる多数「ステートメント」に繰返えされ居る所なり。 支那人は満州を以て其の「国防の第一線」と考え居れり。支那の領土として満州は之と接壤する日本及ロシアの勢力が之等の地域より支那の他の地方に侵入するを防ぐ為の前哨とせられ居れり。北京を含む長城以南の支那へ満州より侵入することの容易なるは歴史上の経験に依り支那人の熟知する所なるが、右東北よりの外国の侵略を虜るる念は鉄道の発達に依り近年一層増大し且前年の事件中一層激化せられたり。 支那人は又経済的理由によるも満州の彼等の為に重要なるを認むるものにして、数十年来彼等は満州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣諸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と認むるに至れり。 支那は全体として人口過剰なりと謂い得べきやは疑問なるも、或地方又は或省例えば山東省の如きが住民を他地方に移出する要ある程度に人口過剰なることは此の問題に関する権威者の一般に認むる所なり(付属書第3号の特別研究参照)。従って支那人は満州を以て現在及び将来に於ける支那の他地方の人口問題を緩和し得る辺境地方と認め居れり。 支那人は満州の経済的開発が主として日本人の力に依るとの主張を否定し、其論駁の根拠として特に1925年以降に於ける支那人の植民事業、彼等の鉄道建設及其の他の事業を挙げ居れり。 満州における日本の利益は諸外国の夫れと其の性質及程度に於いて全く異なるものあり。1904-5年、奉天及遼陽南満州鉄道沿線、鴨緑江、並びに遼東半島等、満州の野に於いて戦はれたる日本のロシアに対する大戦争の記憶は総ての日本人の脳裏に深く印せらるる所なる。日本人にとりては対露戦争はロシアの侵略の脅威に対する自衛の為生死を賭したる戦として永久に記憶せらるべく此の一戦に十万の将士を失い且二十億円の国費を消費したる事実は日本人をして此の犠牲を決して無益に終らしめざらんことを決心せしめたり。 然れども満州における日本の利益は其の源泉を日露戦役より十年以前に発す。1894-5年の主として朝鮮問題に関する日清戦争は大部分旅順及満州の野に於いて戦われたるか、下関に於いて調印せられたる講和条約に依り遼東半島は完全に日本に割譲せられたり。日本人にとりてはロシア、フランス及ドイツが此の獲得したる領土の放棄を強制したる事実は日本が戦勝の結果満州の此の部分を獲得し之に依りて日本は同地方に対する道徳的権利を得、其権利は今尚存続するものなりとの確信に何等の変更を及ぼすものに非ず。 満州はしばしば日本の「生命線」なりと称せられ、満州は現在日本の領土たる朝鮮に境を接す。支那4億の民衆が一度統一せられ強力となり且日本に敵意を有し満州及東部アジアに幡距するの日を想像することは多数日本人の平静を撹乱するものなり。然れども彼らが国家的生存の脅威及自衛の必要を語る時多くの場合彼等の意中に存するのは寧ろロシアにして支那に非ず。従って満州における日本の利益中根本的なるものは同地方の戦略的重要性なり。 日本人中には日本はソ連邦よりの攻撃の場合に備える為満州に於いて堅き防禦線を築く要ありと考え居るものあり。彼等は朝鮮人の不平分子が隣接せる沿海州のロシア共産主義者と連携して将来北方よりの軍事的侵入を誘致し、又はこれと協力することあるべきを常に惧れ居れり。彼等は満州を以てソ連邦及支那の他の部分に対する緩衝地帯と認め居れり。殊に日本の陸軍軍人はロシア及支那との協定に依り、南満州鉄道沿線に数千の守備兵を駐屯せしむる権利を得たるは日露戦争に於ける日本の莫大なる犠牲に対する代償としては尠(スクナ)きに失し、同方面よりの攻撃の可能性に対する安全保障としては貧弱に過ぐると考え居れり。 日本政府は日露戦争以来随時ロシア、フランス、英国及米国より満州における日本の「特殊地位」、「特殊勢力及利益」又は「最高の利益」の承認を得んことを試みたるが、其の努力は単に部分的に成功したるに止まり斯かる要求が稍々明確に認められたる場合にも右承認を含む国際協定及了解の多くは時の経過と共に正式なる廃棄又は其他の方法に依り消滅するに至れり。旧ロシア帝政政府と結ばれたる1907年、1910年、1912年及1916年の日露秘密協約、日英同盟協約、1917年の石井・ランシング協定は其の例なり。 ワシントン会議に於ける1922年2月6日の九国条約の調印国(米、白(ベルギー)、英、支、仏、伊、日、蘭、葡(ポルトガル)の九ヶ国)は、「支那に於いて一切の国民の商業及工業に対する機会均等」を維持する為、支那の「主権、独立並びに其の領土的及行政的保全を尊重すること」を約定することに依り、支那に於いて「特別の権利又は特権を求むる為」支那に於ける情勢を利用することを差控えることに依り、また「支那自ら有力且安固なる政府を確立維持する為、最も完全にして且最障害なき機会」を之に供与することに依り、満州を含む支那の各地方に於ける調印国の「特殊地位」又は「特別の権利及利益」の要求を広き範囲において非とせり。 然れども九国条約の規定及廃棄其の他の方法に依る前記諸規定の失効は日本人の態度に何等の変更を生ぜしめざりき。石井子爵が其の最近の「メモリアル」(外交余禄)中に左記の如く述べ居るは良く同国人一般の意見を表明し居るものと謂うべし。 「石井・ランシング協定は廃棄せられたりと雖も日本の特殊利益は何等変化を受くることなく存在す。支那に於いて日本の有する特殊利益は国際協定に依り生じたるものに非ず。又廃止の目的物と為り得るものにも非ず」 上記満州に関する日本の要求は支那の主権に抵触し又国民政府の翹望と両立し得ざるものなり。蓋し同政府は支那領土を通じて今尚諸外国の有する特別の権利及特権を減殺し、且将来之等の特別の権利及特権の拡張を阻止せんことを企図するものなるを以てなり。日支両国が夫々満州において行い政策を考察せば此の衝突が益々拡大すべきこと自ら明らかとなるべし。 1931年9月の事件に至る迄1905年以来日本の諸内閣は満州において同一の一般的目的を有したるものの如く為るもその目的は成就する為最も適当なりとする方法に関して見解を異にし、又治安維持に対して日本の取るべき責任の範囲に付稍意見の相違ありたり。 満州における彼等の一般的目的は日本の既存利益を維持発展し、日本の企業の拡張を助成し且日本人の生命財産の充分なる保護を得るに在りたり。以上の目的を実現する為に採られたる諸政策の総てに共通する一つの主要なる特徴は満州及東部内蒙古を支那の他の部分と明瞭に区別せんとする傾向にして、右は満州における日本の「特殊地位」に関する日本人の観念より生ずる自然の結果なり。日本の諸内閣の主張したる各特別なる政策、例えば幣原男爵の所謂「友好政策」と故田中男爵の所謂「積極政策」との間に如何なる相違ありたるとするも前記の特徴は常に共通のものなりき。「友好政策」はワシントン会議の頃より始まり1927年4月迄継続せられ、「積極政策」之に代わり1929年7月に至り更に「友好政策」に戻り1931年9月迄外務省の正式の政策として継続せられたり。右両政策の原動力たる精神には著しき相違あり。「友好政策」は幣原男爵の言を以てせば「好意と善隣の誼を基礎」とし、「積極政策」は武力を基礎とするものなり。然れども満州において採るべき具体的方策に関する両政策の相違は大部分満州における治安維持及日本の利益保護の為為すべき行動の程度の如何に在りたり。 田中内閣の「積極政策」は満州を支那の他の部分より区別することを強調し、其の積極的性質は「若し動乱満州及蒙古に波及しその結果として治安乱れ、同地方に於ける日本の特殊地位及権利利益の脅威を受くる場合、其の脅威の如何なる方面より来るを問わず日本は敢然其の権益を擁護すべき」旨の腹蔵なき宣言に依って明らかにせられたり。田中政策は其以前の諸政策が其の目的を満州における日本の利益の擁護に限定せるに反し満州における治安維持の責を日本国がとるべき旨を明らかにしたり。 日本政府は満州において有する特殊なる権益を維持発展せしむる為満州においては概して支那の他の地方に於けるより一層強硬なる政策を行えり。或内閣は武力に依る威嚇を伴う干渉政策に傾けり。右は1915年支那に対する21ヶ条要求の際に於いて殊に然るものありしが、21ヶ条要求並びに他の干渉及武力政策の得失に関しては日本国内に常に著しき意見の相違ありたり。 ワシントン会議は支那の他の地方の事態に著しき影響を及ぼしたるも満州においては実際殆ど変化の見るべきものなかりき。1922年2月6日の九国条約は支那の領土保全及門戸開放に関する規定あり又同条約の効力は条文上満州にも及ぶべきものなるに拘らず、満州に付いては日本の既存利益の性質及範囲に鑑み単に其制限的適用ありたるのみ。前述の如く日本は1915年の条約に依り許与せられたる借款及顧問に関する特別の権利を正式に放棄したるも、九国条約は満州に於ける既存利益に基づく日本の要求を実質上何等縮小することなりき。(ママ) ワシントン会議より1928年の張作霖将軍の死に至る期間、満州に於ける日本の政策は東三省の事実上の支配者との関係に関するものなりき。日本は彼に或る程度の支持を與えたるか、特に前章記載の郭松齢謀叛の際に於て然りとす。張作霖将軍は日本の要求中の多数に反対したりと雖も、右支持の報償として、日本の希望に対し適度の承認を与えることを必要なりと感じたり。右希望は優越せる兵力に依り何時にても強要せられ得えるものなりを以てなり。張作霖は又時に北方に於けるロシアの敵対に対し、日本よりの支持を得られんことを希望せり。 換言すれば、日本の張作霖将軍との関係は日本の見地よりして相当に満足なるものなりき。 尤も彼の晩年には、彼が日本側主張の約束及協定の一部を履行せざりし結果右関係は次第に不穏を加えるに至れり。1928年6月における彼の敗北及奉天への最後の退却前の数ヶ月前に於いては、日本側の感情が張作霖に反対に激変せむとする徴さえ顕然たるに至れり。 1928年春、支那国民軍が張作霖軍を駆逐せんが為、北京に進軍中なりし時、田中男爵を首相とせる日本国政府は、日本国の満州に於ける「特殊地位」に鑑み右地方に於ける平和及秩序を維持すべき旨の声明を発せり。国民軍が内乱を長城以北に及ぼさんとする惧れあるに至るや日本国政府は5月28日、指導者たる支那将軍に左の通告を送れり。 「満州の治安維持は、日本国政府の最も重視する所にして、苟も同地方の治安を紊し、若しくは之を紊すの原因を為すが如き事態の発生は、日本国政府の極力阻止せむする所なるが、既に戦乱京津地方に進展し其の禍乱、満州に及ぼさんとする場合には日本国は満州治安維持の為適当にして且有効なる措置を執らざるを得ざることあるべし。」 右と同時に、田中男爵は日本政府は「敗退軍又は其の追撃軍」が満州に入るを防止すべしとの一層確然たる「ステートメント」を発せり。 右遠大なる政策の宣明は、北京及南京の両政府よりの抗議を招致したるが、南京政府の「ノート」は日本の提議するが如き措置は、唯に「支那国内事項の干渉たるに止まらず、又領土主権相互尊重の原則の甚だしき侵犯」なりと陳述せり。 日本においても、田中内閣の右「積極政策」は一党より強き支持を受けたる一方、他の一党特に幣原派に依り全満州における治安維持は日本の責任に非ずとの理由を以て、非議せられたり。 1928年、亡父の後を承けたる張学良と日本との関係は、当初より次第に緊張を加える所ありき。日本は、満州が南京に新に樹立せられたる国民政府より分立し居らむことを希望したるが、張学良将軍は南京政府の政権を承認せんことに傾き居たり。日本官憲より張学良に与えられたる中央政府に忠順を誓うべからずとの緊忽の忠言に付いては、既に記述する所ありき。然れども奉天政府が1928年12月、奉天における政府諸官所に国民党旗を掲揚したるとき日本政府は干渉を試むることなかりき。 日本と張学良将軍との関係は、緊張を継続し1931年9月直前の数ヶ月に於いては険悪なる軋轢の進展を見たり。 目次