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Pearl Harbor History, Memory, Memorial JOURNAL By Tetsuya KATO July 28 - August 4, 2007 @ East-West Center at UH at Manoa プログラムの概要 アメリカ合衆国ハワイ州;ハワイ州立大学マノア校構内にあるEast-West Centerが真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナ号の記念館を管理するArizona Memorial Museum Associationが共同で行うWorkshopである。アメリカ側からは約40名のアメリカ史を中心とした社会科の教員(主に高校教諭)そしてII期のメンバーとして5名の日本人教師(社会科教諭3名・英語科教諭2名)が参加した。 真珠湾攻撃に関する記念館また歴史遺構、国立戦没者墓地などのツアーそして、各専門家からの講演、そして真珠湾攻撃体験者からの証言などを聞くワークショップそして、それらのツアー・講演・証言をもとにして、今後の教育活動・授業にいかに活かして行くのか等を話し合い、実際にカリキュラムを作り上げるディスカッションなどがプログラムとなっている。 7月28日(土)【日本時間】 UA832便(関空 午後7 00発)にてハワイ・ホノルル空港へ 【ハワイ時間】28日(土)午前 8時着(M先生・I先生・MT先生とも合流) その後、TaxiでLincoln Hallへ。矢口先生と会い、昼食と夕食を皆さんとともに。 29日(日) 記念館等を訪問・見学 Arizona Memorial ツアー 白い曲線の建物が印象的。また、今でも沈没したArizonaから流れ出ているという重油が過去と現在を結びつけつつ、見学者に真珠湾攻撃のMemoryを訴えているようであった。神聖な礼拝堂を思わせる内部には、Arizona号の攻撃で戦死したすべての人々の名前が刻まれた白い壁が迫ってくる。 Bookstoreでの自由時間。販売されているものはほとんど、「戦闘機レプリカ」や「真珠湾攻撃」に関する書籍や子ども向けの絵本が多く見られた。その後、食事をとり、日本が太平洋戦争の降伏調印をしたMissouri号の見学。降伏文書のレプリカ等を見ることが出来る。日本側の文書の装丁とアメリカ側の装丁の違いが興味深い。 続いて、The Pacific Aviation Museum の見学。太平洋戦争に実際に従軍した戦闘機(アメリカ・日本)の実物大のレプリカ(?)が展示されている。床には、太平洋の地図が描かれており、どのような戦闘が行われたのかが、分るよう になっている。ここも、戦争の悲惨さを描くことよりも、いかにしてアメリカが太平洋戦争を戦い抜いたのかが、記念館のテーマになっている。そして、ボートに乗船して、真珠湾内のツアーとなった。湾内の地形について、日本軍の攻撃の様子、また当時、どのようにアメリカ戦艦が配置されていたのか等の詳細な説明があった。 ツアーの後、再びThe Pacific Aviation Museum に戻り、希望者のみの潜水艦Bowfin号の見学。潜水艦の中に入り、内部の詳細な説明を受ける。従軍当時のほぼ、そのままに、艦内は保存されていた。魚雷(torpedoes)の模型もあり、狭い艦内をいかに効率的に使用していたのかが(それでも、とても窮屈で息苦しく、非人間的な感じは否めなかった。)説明されていた。 そして、艦内より地上に戻った時に、日本人教諭のひとりの方から、実は、このBowfin号が戦時中に「対馬丸」を沈没させた潜水艦であることを教えてもらった。沖縄研修旅行の事前学習等で「対馬丸」の名前と「沖縄から疎開児童や一般疎開者等1788名を乗せて九州・長崎への航行」中にアメリカ潜水艦からの魚雷攻撃により沈没し、1400名余りの犠牲者を出したことは知っていたが、まさか、その当事者の潜水艦を見学しているという意識が全くなく、自分の「無知」を恥じた次第であった。しかし、アメリカ人ガイドの方の説明に、そのことに対する言及がまったくなく、また、「対馬丸」に関する資料も展示されていなかった。【日本には、那覇市内に『対馬丸記念館』があり、「学童疎開船の悲劇と平和の尊さ」を訴えている】 最後は、Formal Welcome Dinnerが Bowfin号を背景にしたParkで行われ、各代表者の挨拶の後に、参加者ひとり一人の名前が呼ばれ、ハワイの伝統であるleisでの歓迎を受けた。 ※ 初日の雑感 各メモリアル(記念館)は、戦争の事実・内容を展示しているだけのもので、それだけで完結した感あり。今後の平和への構築についての言及なし。 Arizona号(太平洋戦争の始まり)とMissouri号(終了)が直線に並んでいる。 意図的なものか、、(議論があったとのこと) 太平洋戦争の概略を知っておくべきであった。 Bowfin号と対馬丸のことについても、もっと学ぶ必要を感じた。 アメリカ人にとってのPearl Harbor Attackの意義の理解の端緒となるツアー 30日(月) 午前中は、全体写真撮影やハワイ伝統のBlessing また、今回のWorkshopの簡潔なオリエンテーション。 いくつかのグループに分かれて、それぞれ、どのように、授業の中で、アメリカの教師(社会科;歴史;政治【government】担当)らがPearl Harborを教えているのかの紹介の時間。 Session 1 “ History, Memory, and Memorial “ at Pearl Harbor By Geoffrey White MemoryとMemorialの違い・定義についてのgroup discussion 様々なBackgroundをもった人々( アメリカ人・日本人・日系アメリカ人等)から見たPearl Harbor Attacks ≪加藤からのquestion≫ 昨日、訪れたMemorialは戦争当時に何が起こったのかを伝えているだけ。しかし、日本の3つの特に有名なMuseumsがある。沖縄・長崎・広島である。長崎では、核兵器の現状やこれからどのようにして平和な世界を構築していくか の問い掛けがなされている。今回、訪れたMemorialsにはfuture-orientedな側面がないように思われるのだが。 Session 2 “What happened at Pearl Harbor? An Interpretive Simulation of the Attacks By Daniel Martinez National Park Service(国立公園局)の Daniel氏による真珠湾攻撃の詳細の説明-ジオラマ(フロアに広げられた地図)や戦闘機の模型を使っての説明。(マニアック感がややあり) Session 3 Pearl Harbor From Fishponds to Warship By Jon Kay Hawaiian songsによって、Hawaiiの歴史を語る試み (ヒーリングの時間だったね-との日本人参加者の声) 31日(火) 午前中より Pearl Harbor Attack Site Tour まずは Ford Island(島全体が軍用地として使用されている)のツアーから始まった。真珠湾攻撃の際、多くの戦艦が停泊していた場所である。まず、攻撃を受け、沈没したままの姿で現在も残されているUtah号のMemorialを見学した。 その説明パネルには、その他のパネルには見当たらない-WE WILL DEDICATE MEMORIALS TO THOSE WHO WILL LIVE IN PEACE-という”PEACE”が含まれたフレーズが刻まれていたのが印象的であった。また周囲の地面には、真珠湾攻撃時の弾痕が残っていた。また当時の写真と現在の様子を重ね合わせての説明も行われた。 次に Fort Derussy Army Museum を見学した。ワイキキビーチに隣接している陸軍博物館であった。日本軍の戦車や現在までのアメリカが関係してきた「戦争」についての展示があり、もちろんPearl Harbor Attacksについても詳しく説明されていた。 続いて、Hickam Headquarters Building を訪れた。Pacific Air Forceの司令部が置かれている。建物自体は、真珠湾攻撃の際のものをそのまま使用してあり、外壁には弾痕が多く残っている。また、内部に入ると、実際に今も使用されている木製の階段にも2、3の弾痕を見ることが出来る。中庭は"COURTYARD OF HEROES"と名付けられており、 中心には星条旗と炎が印象的な記念碑が設置されていた。その記念碑にはWorld War II、KOREA, そしてSOUTHEAST ASIA に関するプレートがはめ込まれていた。 興味深かったのは、おそらくSOUTHEAST ASIAとはVietnam Warのことを指しているのだろうが、明瞭にそのように記載されていないことであった。国家としてのアメリカにとってはVietnam Warは未だに特別な意味(敗戦であったという事実)を持っていることが伺えた。 参加しているアメリカ人教諭にその点;「なぜ、ベトナム戦争と書いてないのか?」を尋ねたが、「あの戦いは(まさに)東南アジア全体に関わる戦いであったので、その様に表記されているのでは?」とのことであった。 また、内部には、もちろんPearl Harbor Attacksを始めとして、World War II、Korean War、Southeast Asiaについて説明が写真とともに展示されていた。 そして、Humanitarian Operations として環太平洋地域での空軍の活動が(詳細はわからないが)展示されていた。 昼食はHickam基地内で、Pearl Harbor Survivors の方々と昼食をとった。 私はSurvivorsのひとりの夫人Ms.Isabellaと同じテーブルで、光栄にも隣に座ることとなった。真珠湾攻撃当日や前後のハワイの市井の人々の話はとても興味深かった。 National Memorial Cemetery of the Pacific ( Punchbowl Cemetery ) Hickamを後にして、"パンチボウル"国立墓地へ移動した。 ここはホノルル市内を見渡せる丘陵にある国立記念墓地であり、第二次世界大戦以来の、戦没者が埋葬されている。広大な公園墓地にフラットな墓石が数多く整然と敷きつめられている。もちろん、真珠湾攻撃で亡くなった兵士たちの墓碑も多くある。日系人の名前も多い。また、UNKNOWN(無名兵士)の墓碑も多い。日本人に馴染みの深い人物として、1986年にスペースシャトル・チャレンジャー号の事故で亡くなったオニヅカ大佐もここに埋葬されている。その後、女神像が迎えてくれる慰霊廟(?)までの長い階段を上っていった。慰霊廟内部には礼拝堂があり、また両翼には太平洋全体を示すプレートを中心にして、ベトナム戦争・硫黄島戦・沖縄戦・朝鮮戦争の戦闘内容の詳細を刻んだプレートが設置されていた。ここも、戦争の実態を示してはいるものの、人的な犠牲を示す写真などは一切無くあくまで各戦争で名誉ある戦死をした兵士達を称えるためだけの施設であるという印象が個人的には否めなかった。 そして、最後に1995年9月に日本側とアメリカ側の第2次世界大戦の退役軍人(Veterans)が和解(reconciliation)の為に出会ったことを記念する"Forever Friends"と刻まれたプレート前に、アメリカ人教師と日本人教師が並び、そこで一人一人が全員と握手やハグをして、お互いに"Thank you"などと声を掛け合い、私たちも戦後62年目の「和解」と「新たな未来」を確かめ合った。また、そのプレートの周囲を日本人・アメリカ人教師がペアになりLeisで囲むように捧げていった。 美しいホノルル市内と蒼い太平洋が望める場所に、これほど大きなNational Cemeteryがあることは全く知らなかった。この場所を訪れて、改めてHawaii という島々と沖縄という島々の多くの共通点を見出すことが出来た。 午後6 30-9 30 Optional Tora! Tora! Tora! Pizza Party @ Hale Kuahine (ホール) 史実に最も忠実に描かれているという日米合作の真珠湾攻撃に関する映画「Tora! Tora! Tora!」の自由鑑賞 6ドルでPizza付き アメリカ人らしく自由な雰囲気(ソファーに寝転がったり)での鑑賞会 僕自身は初めて「Tora! Tora! Tora!」を見た。 ※淡々と場面が展開し、極端に感情的な場面もなく、開戦直前の日米のやりとり、また両国の政府の状況などが、落ち着いたトーンで描かれていた。 (ひさしぶりのアメリカ・本場でのピザに、僕自身が嬉しくなってしまい、調子に乗って4ピースを食べそして、Pop、2缶を飲んでしまい、その夜、おなかを壊してしまった。) ※ 3日目の雑感 「戦争」というものをアメリカ政府・アメリカ軍・(アメリカ人というよりも)がどのようにとらえているのかを知ることが出来た。「軍」は生活の一部であり、アメリカは「正義・平和・自由」の為に戦っているのだということをアメリカ国民へ知らしめることを目的にした施設であった。また、退役軍人に対する敬意の表し方など、日本では見られない場面も興味深かった。「軍隊」という組織に対する意識の違いを実感できた。 8月1日(水) Pearl Harbor Attack Site Tour Debriefing By Daniel Martinez 昨日のツアーについての追加説明や質疑応答など 私(加藤)は、「日本人の持つハワイのイメージは、『観光地』。このような国立戦没軍事墓地がハワイにあることを多くの日本人が知らないと思うので、高校生を中心に日本からの修学旅行が増える傾向のなかで、是非、日本人の生徒にもあのような施設をみてもらえる機会があれば」と発言。 Session The Road to Pearl Harbor By Harry Butowsky 日本が戦争へ進むまでの、背景を江戸時代から始めそして、明治維新後、また当時の国際状況から、なぜ、日本が戦争への道を進んでいったのかを説明するセッションであった。 Session War Memories across the Pacific Japanese Images and Perspectives on Pearl Harbor By Yujin Yaguchi 日本とハワイの関わりを・明治時代からの移民政策 ・真珠湾攻撃に関わるアニメ「桃太郎の海鷲」の紹介 ・戦後の日本でのハワイブームの背景 ・Arizona Memorialを訪れた 日本人の感想・反応の分析等を用いてのセッション。 Lunch ~ アメリカ人教師との「Teaching Plan」についてのdiscussionを兼ねて Session A Date Which Will Live Pearl Harbor in American Memory By Emily Rosenberg ~アメリカは忘れない~ の著者 Pearl Harbor Attackが当時そしてその後のアメリカ社会、政治、経済、軍事に与えた影響について「icon」(聖像)というKeywordを用いて、様々な角度から分析したセッションであった。真珠湾攻撃がどのようにRoosevelt大統領をはじめとする政治的リーダーにどのように「利用」されたのにも言及されていた。 また1980年代後半のバブル期日本のアメリカへの経済的進出に対して、また9.11以降、Pearl Harbor Attackがどのような形で、Bush政権下のアメリカ政治また社会の中で用いられたかを客観的に、多くの資料を用いて論じられた。 加藤からの質問 「パールハーバーという言葉がアメリカ社会で何度も用いられた。9 11においても。今後も、Pearl Harborがアメリカ社会において『新たな戦争への口実』になりうるのではないか?」 Mrs.Rosenberg 「パールハーバーよりも、むしろ9.11の方が、メタファーとして今後は多く使われていくのではないか」 “Imprecations for Teaching” Discussion with Specialists アメリカ人教諭とともにいくつかのgroups に分かれて。Teaching Plansを作っていくディスカッション。私は Graig Bjorklund from Utah, Stephanie Player from Wyoming, Tiffany Seybert from Coloradoの3人とグループになった。 8月2日(木) Session Hawaiian Perspectives on Pearl Harbor By John Rosa 地元ハワイの高校で教師をしているMr.Rosa(彼自身は中国系とポルトガル系のアメリカ人)によるセッション。 実際にどのような社会科(歴史、地理、政治の総合的な)授業を展開しているのかを中心に説明があった。まず、 自分の家族・地域の歴史をたどる。-家族からの聞き取り。 ハワイの有人史以降の歴史-キャプテンCook、宣教師の派遣、カメハメハ王朝の終焉、アメリカへの合併等―を学ぶ。 WhiteとLocal間のConflicts 実地体験(Taroいも栽培など) などをテーマとして高校生にあたえ、授業を展開していることが紹介された。 Session Pearl Harbor Memory and Issues Of Reconciliation Survivor Reflections 実際にPearl Harbor Attacks を体験した退役軍人や住民の証言を聞くセッション 5人の方々が証言をしてくれた。 Ed Ichiyama -日系アメリカ人 真珠湾攻撃が日系人Communityに与えた衝撃。兄が日本海軍に入っていたために、父親が「危険人物」として取り扱われた。その後、日系人志願兵によって編成された第442部隊として、ヨーロッパ戦線で戦った。 Everett Hyland - 真珠湾攻撃の際、Pennsylvania号でアンテナの修理をしていた。その際に、負傷したが、その後、復員した。戦後、理科の教師として働き、1995年よりThe USS Arizona Memorial でボランティアとして活躍している。1994年に日本人女性と結婚した。 Sterling Cale - 日本空軍の攻撃を直接、目撃した。「日曜日にそんなことが」と驚いた。魚雷の被害に遭った。その後の人的、軍的の被害を語ってくれた。 Joan Rodby - 真珠湾攻撃の際に10才の少女であった。日本軍の攻撃から身を守るためにガスマスクをつけなくてはならなかったことを証言。教会・日曜学校直後に、家に戻るようにと言われた。祖父母の家から真珠湾が見えたが、炎と煙で悲惨な状況であった。家族がどのように対応したかを話してもらった。 ? (男性) (母親が日系人) 当時の家が攻撃で焼け落ちてしまった。 雑感 日系人として困難な時代であったことの認識と、退役軍人が非常に尊敬されていることへの、多少の「違和感」 日本人として。被害者の立場であるので当然かもしれないが、どのようにその体験を後世に引き継いで「平和」を構築していのかの視点が無かった。 Session Teaching about Pearl Harbor and the Japanese Interment By Gary Mukai Mr.Mukaiの日系人(3世)として、日系人社会がPearl Harbor Attacks前後、どのように経過をたどってきたのかを自身の家族史への言及や豊富な資料を用いて論じるセッション。 ピクチャーブライドのストーリー ・Internment Camps( 収容所 ) 勤務校の近くに収容所跡がある教員からの報告(どのようにその史跡を用いているのか) 短時間、今までの講演内容を振り返って、もし「Internment Camps」に持っていくならば、何を持っていくのかをグループで話し合った。その中で、岩野先生が持って来られていた絵本「かわいそうな象」が紹介された。当時のInternment Camps の様子を写した写真も紹介された。 Japanese Latin Americans( ペルーなどの南アメリカの移民していた日系人もアメリカの収容所へと送還された)の歴史も紹介された。 戦後の日系アメリカ人へのアメリカ政府の対応と KANSHA Project 雑感 ハワイ社会の特殊性-歴史・政治・文化・伝統―またその社会の中で、日系人CommunityがPearl Harbor Attacks前後にどのように受けとめたのかを理解できた。また、Survivorsの証言によって、ハワイの軍事的な重要性をまず認識した。そして当時の攻撃が、軍人にそして一般市民に対してどのような衝撃を与えたのかを知ることができた。 この日の夕方はOptionalとして、 Waikiki Sunset Cruise が行われた。 ハワイ滞在中、初めてWaikikiを訪れ、そしてすばらしい太平洋に沈む美しい夕日そして、このWorkshopで友人となったアメリカ人たちとのおしゃべり、(そしてマイタイ)を満喫した。 8月3日(金)(The Workshop の最終日) Pearl Harbor Resources at the USS Arizona Memorial Brainstorm Session Incorporating Multiple Perspectives of Pearl Harbor in Teaching / Learnig Graig Bjorklund , from Utah Stephanie Player, from Wyoming Tiffany Seybert , from Colorado とKato Tetsuya、from Japan の4人で、「どのような視点で Pearl Harborを教えるのか」をテーマにdiscussionをした。また、他のグループも同じような discussionとその後のpresentationの準備をした。 Group Share Teaching Ideas 私たちのグループは一人ひとりが簡潔にそのTeaching Ideas をshare した。 加藤の発言は下記のNoteをもとに行った。 Pearl Harbor History, Memory, Memorial Teaching Plans KATO Tetsuya Doshisha JHS, KYOTO, JAPAN 3 August 2007 (1) The causes of the Pearl Harbor which led to the Pacific War a) the Japan’s desire to rule China, Korea and other Asian Countries b) economic reasons to grow as the Great Power in the world (2) Comparisons between The Pearl Harbor and Hiroshima and Nagasaki-Atomic Bombs Were the TWO bombs really needed? (3) The current situation of OKINAWA and the past of OKINAWA as insight of the relationship between Japan and USA (4) Japan as a warlike nation after MEIJI restoration in Asia (5) Justification of The Pacific War and the YASUKUNI shrine’s claims “We were NOT WRONG!” (6) What we should learn from the Wars and how we are going to do to progress a peaceful movement. – current situation of Japan. (7) irony - As US wants Japan to be their “better” military partner, Japanese Government is going to take a policy to take Japan back to OLD-style Japan changing the Constitution and rearmament and get Japanese people more patriotic Emperor-centered system leading Japan to the anti-American country? (8) How can we link the two tragedies the Pearl Harbor and the Hiroshima Nagasaki? (10) one more symbolic place – Okinawa – still occupied? A new point of view to see the current relation between US and Japan. Many bases and Memorials in Hawaii similarity to OKINAWA different perspective toward the War and Peace (11) Democracy brought by losing the War and Americans (12) embodiment of the ideal helped by The American The Constitution Of Japan Article9; Article 9 of the Japanese Constitution is a "No War" clause. It went into effect on May 3, 1947, immediately after World War II. ARTICLE 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized. 二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 (13) Allen Nelson as a peace activist a Vietnam veteran http //www.objector.org/articles/nelson.html ≪他のグループのプレゼンテーションの概要≫ 帝国主義の背景を説明する。 アメリカへの移民全体史からのアプローチ 全体の歴史から個人的なものへとスライドしていき、理解を深める。 パールハーバーを機転として、それ以前の様々な歴史的出来事がどのように、収斂されていきどのような結果をもたらしたかを教えていく。(砂時計【hour glass】 の図形)を用いる。当時のプロパガンダポスターや戦時漫画も用いることが出来る。また、地図や戦闘機の模型も用いることが出来る。実際に、地図の上を動いてみること。 ポストカードなどを使用して、生徒に視覚的に訴える。 模型の戦闘機を用いて、真珠湾の様子を生徒に与える。「トラ!トラ!トラ!」の映画を見せる。 日本とアメリカの関係を説明し、パールハーバーに至る経緯を説明する。アメリカ史の中の米西戦争にも言及する。また、日清戦争、第1次世界大戦、様々な軍事・軍縮条約を紹介する。 CDや本を用いて生徒に真珠湾攻撃の様子を伝える。当時の公式文書などを紹介する。収容所の様子を紹介する。スライドショーも効果的である。 9.11と、真珠湾攻撃をどのように関連させていくのかを考えさせる。 アリゾナ号の写真などを見せる。そして、どうしてこの攻撃がこんなにPOWERFULに語られるのかを討論させる。また、歴代大統領がこの出来事をどのようにスピーチの中でどのように語っているのかを教える。 【岩野先生・福岡県】 Ichiyama Familyに焦点を当て、真珠湾攻撃を読み解く。家族史と太平洋戦争との相関関係を説明しながら授業を進める。 記念館がどのようにしたら、真珠湾攻撃を超えた物を伝えていけるのか。真珠湾攻撃の全体像を与え、その後、生徒達に、詳細について考えさせていく。 バーチャルツアーを行う。CDを利用する。 などの意見が出された。 Becoming an East-West Center Associate 最後に、参加者全員に Certificate Of Achievement の証書授与と全体の記念写真をもらえるCeremonyがあり、このWorkshopが終了した。
https://w.atwiki.jp/btd6/pages/99.html
ワークショップ(WORKSHOP) 概要 ブルーンルート ギミック おすすめタワー その他 コメント ワークショップ(WORKSHOP) 概要 ブルーンが順方向ベルトコンベアを通過するマップ ギミックによりブルーンを遅らせたり、迂回させる事ができる MOAB用ルート有り、障害物も多い ブルーンルート 左から右へ通過 ギミック 逆流モーター 中央上の機械にコストを払う事で30秒間ブルーンを遅くする トラック拡張 中央下の機械にコストを払う事で20秒間ブルーンを迂回させる 上記2つの機械は何度も使う事ができるが、使う度に使用コストが上がっていく ベルトコンベア 上を通過する為、ブルーンのスピードが速い(浮いているはずでは? MOABが出現する場面になると水色ルート上の段ボールが流れMOAB用のルートが出現 おすすめタワー エンジニアモンキー0-0-3のダブルガンでのピンはなかなかの通過阻止力がある0-1-4のトラップは範囲内ならば射線が通らなくても設置場所の指定が可能 その他 リバースモードでは遅くなる。とはいかなく、コンベアの流れも逆方向になる コメント 名前 コメント ▲
https://w.atwiki.jp/fairfes2008/pages/17.html
ワークショップ ~もっと知りたい、フェアトレード!!~ 全く知らないというアナタも!聞いたことはあるというアナタも!興味がある、もっと知りたいというアナタも! ワークショップブースで楽しいひと時を過ごしませんか?気軽に足を運んでください。 メニュー ●ゲストトーク:フェアトレード団体からゲストをお招きし、それぞれのテーマでお話していただきます。 ●クイズ王決定戦inフェアトレードフェスタ2008:フェアトレードにまつわるクイズを実施します。 ●【常設】ヤギ皮しおりを作ってみよう:ヤギ皮を自分で染めてオリジナルのしおりをつくってみませんか? ●【常設】ノクシカタ刺繍体験:バングラディシュの刺繍「ノクシカタ」を体験してみませんか? ●【常設】でっかいフェアトレードすごろく:不平等さ・フェアトレードを共に学べるすごろくをご用意! ●【常設】パネル展~フェアトレードって何だろう?:フェアトレードについて紹介するパネルを展示します。 ●【常設】座談会~フェアトレードの入り口:フェアトレードについてざっくばらんに話しませんか?お一人様からお気軽にどうぞ。 座談会はゲストトークとクイズの時間はお休みです しおり作り・刺繍体験は参加費500円が必要です。他は参加費無料です。 日程 14日(土) 11 30~ ゲストトーク「暮らしを浴する手工芸品」 シャプラニール 小松豊明さん 12 00~ クイズ王決定戦inフェアトレードフェスタ2008 15 30~ ゲストトーク 「フェアトレードを日常に」 ぐらするーつ 鈴木隆二さん 17 00~ ゲストトーク「大学生に何ができる?~大学発フェアトレードの可能性」 北星フェアトレードさん 15日(日) 13 00~ ゲストトーク「現地と共に歩む、ヒマラヤンヘンプ~スローファイバーの仕事」 ヒマラヤンマテリアル 遠藤昭一さん 13 30~クイズ王決定戦inフェアトレードフェスタ2008 15 30~ゲストトーク 「移民、先住民族 それぞれの津波復興」 ツナミクラフト東山高志さん
https://w.atwiki.jp/morgen/pages/27.html
ワークショップ シュタイナー治療教育学校での模擬授業を行います。 参加者は、クラスの生徒として、メインレッスンに参加していただきます。 その後、「子どもの魂に入るエクササイズ」を行います。
https://w.atwiki.jp/wiki14_tokihirosato/pages/171.html
ワークショップ カメラを体験してもらうワークショップを延々と続けている。 光が闇の中に差し込む事によって形作られる映像という、普遍の原理、“光の魔術”。今回はその光をダンボールと虫眼鏡を使い、参加者の創意工夫によって、人が入り込んで体験出来るサイズの作品とする。(参加者:29日半田研学生+佐藤研学生 30日 さらに一般の参加者+) 事前の打ち合わせを殆ど行わず、酒田についてから、リサーチし、材料のダンボールを手にして内容を決めた。始めは曖昧だが終わり良しの典型的な例となった。 →1班のチーム名と作品名失念!誰か記入してください。それから、具君、作品の中の写真、私は撮らなかったので、幅520ピクセルで追加願います。よろしく。sato 1班ミーティング 2班ミーティング 3班ミーティング 4班ミーティング 5班ミーティング 1班プレゼン チーム名 作品名 夢のマイホーム(完成後は走るアパートに変わりました) 2班プレゼン チーム名 どまんなか(庄内米の名から) 作品名 おむすび 3班プレゼン チーム名 牛(メンバーが皆丑年だった)作品名 のっぽさん後ろの正面だあれ 4班プレゼン チーム名 ECO(参加者のえいこという名から)作品名 DREAM☆DOME 〜黒ひげ光一発〜 5班プレゼン チーム名 見つけたもの/見つけられないもの 作品名:マイ・ビジョン
https://w.atwiki.jp/kantou_juggling3/pages/18.html
各道具のエキスパートによるワークショップを用意しました! 各ワークショップは30~60分を予定しています。 ①11 00~ ボール 講師:藤本亮さん WS内容:5ボールハーフターン 対象:5ボールで技をやりたい方、ハーフターンしてみたいという方 受講要件:5ボールカスケードが出来て、サイトスワップがなんとなく分かってるといいと思います。 デビルスティック 講師:サイエンティストさん WS内容:スティックストック 対象:ハンドスティックを投げたい方 受講要件:ハーフフリップができる。 コメント:パスインマウスという技があります。これはHSを口に挟んでHSを交換しながらハーフフリップをする技ですが、このHSの交換の方法を変えると多くのパターンが生まれます。(インナー、アウター、ヘッドロール、チンバランス、ビハインドザネック...etc.) 私はこの系統の技をスティックストックと呼んでいます。これらの技について解説・練習をします。(参考動画 http //youtu.be/xvJcZmqqA9c 2 31〜 ) ②13 00~ ディアボロ 講師:野中葵さん WS内容:初めての3ディアボロ 対象:3ディアに挑戦中もしくは挑戦してみたいという方 受講要件:2ディアを片手で回せる シガーボックス 講師:稲葉悠介さん WS内容:ダンシーズデビルメント コメント:基本的に、練習しまくれば誰でもできるようになるダンシーズデビルメント。 最初の一歩の踏み出し方と、次のステップに行き詰まってる人のお尻を叩きます。 ③14 00~ コンタクト 講師:TESSYさん WS内容:コンタクトジャグリング全般(アイソレーション、ボディロール等) 対象:コンタクトジャグリングをやってみたいと思っている方から、上級者まで コメント:具体的にはあまり決めず、参加者のレベルにあわせて内容を決めます。要望があれば答えます。
https://w.atwiki.jp/seriousgame/pages/21.html
ワークショップゲーム一覧 タイトル アイテム 上達したいスキル amazonもしくは紹介されているURL 貿易ゲーム ワークショップゲーム 一般知識 URL 時計のわな ワークショップゲーム 脳トレ URL ボードウォーキング ワークショップゲーム コミュニケーション --------- オールパスまわし ワークショップゲーム コミュニケーション URL アドバイスゲーム ワークショップゲーム コミュニケーション URL 人間知恵の輪 ワークショップゲーム コミュニケーション URL マルマルゲーム ワークショップゲーム コミュニケーション URL スノーフレーク ワークショップゲーム コミュニケーション URL 1円玉 ワークショップゲーム コミュニケーション URL コマーシャル ワークショップゲーム コミュニケーション URL 共通点探し ワークショップゲーム コミュニケーション URL 握手当て ワークショップゲーム コミュニケーション URL イチポン ワークショップゲーム コミュニケーション URL ワン・ワード ワークショップゲーム コミュニケーション ------
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パールハーバー(真珠湾)の現在 北海道本別高等学校 蓑口一哲 ※この記事の写真入りのヴァージョンがワードファイルになっています。パールハーバー(真珠湾)の現在をクリックして、ファイルをダウンロードしてご覧下さい。 ① No drill! 演習にあらず パールハーバー(真珠湾)への空襲は当時の日本の艦載機の8割が集められ、合計350機(765名)で行われた。第一次攻撃隊には、6隻の空母から183機がオアフ島の真北約360キロの沖合から出撃した。空母「飛龍」からの戦闘機が海に突っ込み、空母「加賀」からの水平爆撃機がエンジントラブルでそれぞれ1機ずつ脱落している。 この183機は12月8日夜明け前の午前1時30分(現地時間12月7日午前6時)に発艦を開始し、上空で全機が揃うまで待機した後、僅か15分後の午前1時45分にはパールハーバーに向け進んだ。夜が明けたのは、6時30分(日本時間午前2時)とされている。 この第一次攻撃隊は、高度3000メートルから3500メートルに展開し、最も上空を護衛の零戦戦闘機43機が位置取りし、眼下の味方の爆撃機の安全飛行と敵機が現れるのを常時見張る体制であった。小型自動車並の800キロという重い魚雷を搭載した水平爆撃機の速度は遅く、従って編隊の速度は125ノット(時速約225キロ)程であった。 第一次攻撃隊は午前7時40分にオアフ島の北端カフクポイント上空に到達し、「攻撃セヨ」の信号弾が淵田攻撃隊長のピストルによって放たれた。 しかしカフクポイントの近くにあるオバナ基地のレーダーは、それ以前に日本軍の編隊をとらえていた。午前7時02分には二人の当番兵が映像を見て、7時06分には陸軍司令部のロッカード中尉に報告している。 二人は、7時08分に180キロ先、7時15分には147キロ先に50機以上の編隊がやって来るのを確認した。中尉はこの情報を、当日カリフォルニアからやって来るわずか12機のB17の編隊として、握りつぶしてしまった。 このB17の編隊はヒッカム基地で給油を受けた後、フィリピンに向かう予定であった。到着予定時間が、日本の攻撃時間とほぼ同じであったため途中で日本機に遭遇したが、機銃の弾薬もなく雲の中に逃げ込む以外に方法はなかった。 7時55分日本時間午前3時25分に、攻撃が開始された。 もちろん日本軍が最大の攻撃目標にしていたものは、アメリカの空母であった。当時空母と言える代物を日本は8隻保有し、アメリカは6隻保有していた。この時期太平洋に配備されていたのは「レキシントン」と「エンタープライズ」「サラトガ」の僅か3隻である(大西洋に「レンジャー」「ワスプ 」「ホーネット」)。当時の米艦隊は土曜日に出航し、金曜日に帰港するのを通例としていた。 しかしこの日、「レキシントン」はハワイから700キロ西のミッドウェーに、「エンタープライズ」はオアフ島西360キロで訓練中、「サラトガ」はサンディエゴで整備中であった。 「エンタープライズ」はパールハーバー攻撃の12月7日の午前7時30分に帰港予定であったが、荒天のため帰港が遅れたという。日本の攻撃を事前に知り、パールハーバーから待避していたかどうかは謎である。空母の代わりに生け贄になったのは、旧式の戦艦8隻である。 アメリカ艦隊に対して決定的な破壊力を持つのは、魚雷攻撃である。船の側面に大穴を開けて海水を注ぎ込み、沈没させるわけである。 日本は40機の雷撃機を準備し、その全てを第一次攻撃隊に集中した。この40機は定められた4方面から各機20秒、距離にして2000メートルの間隔を置いて攻撃態勢に入った。 パールハーバーの水深は、僅か14メートル。攻撃機は高度僅か10メートルからトンボが水面に卵を産み付けるように魚雷を投下し、魚雷は時速70キロあまりで一直線に進んで行く。40機のうち5機は対空砲火等で撃墜されたが、他の35機が停泊している艦艇に魚雷を命中させることは困難ではなかった。 実際に訪問して見ると(2008年8月3・5日)、港のその狭さに気がつく。ぎりぎりの海面面積そして水深の条件の中で、攻撃が行われたことになる。 真珠湾パールハーバーの湾内には、フォード島という飛行場にするにはちょうどよい大きさの島がある。島の大半を飛行場が占め、その他に港湾施設などがある。この島の東側には、戦艦が7隻停泊していた。その脇腹に主に空母「赤城」・「加賀」から24機(それぞれ12機)ずつ)の雷撃機が襲いかかった。 北側から戦艦「ネバタ」には1本、戦艦「ウェストバージニア」には6・7本(日本側の発表は9本)、戦艦「オクラホマ」には5本(日本側の発表は12本)、戦艦「カリフォルニア」には3本の魚雷が命中した。このうち戦艦「オクラホマ」「ウェストバージニア」「カリフォルニア」は撃沈され、特に「オクラホマ」は転覆の形になり、多くの乗組員がそのまま艦内に閉じこめられてしまった。 救出のために艦内に酸素を送りながら、船底に穴を開ける作業が続けられたが、結果的に429名もの乗組員が酸素を求めて犠牲となった。その慰霊碑が現在フォード島の東側、展示されている戦艦「ミズーリ」の入り口近くにある。 米戦艦8隻のうち残る1隻の戦艦「ペンシルバニア(旗艦)」は、フォード島の対岸のドッグ内にいたわけである。 そして、フォード島の西側には当時すでに退役した戦艦「ユタ」が訓練用の「標的艦」として停泊していたが、現役の戦艦と誤認した空母「蒼龍」・「飛龍」からの16機の雷撃機が殺到した。途中で用なしの艦艇と気づき島の慌てて東側にまわったようだが、5・6本の魚雷が命中して横倒しとなり撃沈された。 この標的艦ユタも撃沈されたままメモリアルとして保存されている。今回特別な計らいで8月5日に訪問したが、戦艦「アリゾナ」と同じように現在も艦艇からは油が漏れだしており、「生きている」かのようであった。 この日は、日曜日であった。100隻あまり(96隻)の艦艇がパールハーバーに停泊し、75000名の将兵のうち11000名が、前日ホノルルの夜の町に出かけていたという。 日本軍の攻撃を、多くの米兵がいつもの訓練だと当初は感じていた。そして本物の空襲と気がつき、無線を打ちまくった。「Air raid Pearl Harbor(空襲),No drill(演習にあらず)」と。 しかし、攻撃は日本ではなくドイツのものと考えた兵士もいた。「日本人に、そんな能力があるはずかない」と考える米国人も少なくなかったのである。 ② Sneaky Attack だまし討ち もうひとつの強力な兵器は、「水平爆撃」と呼ばれる800キロもの爆弾を上空から投下するものである。これを搭載する飛行機(九七式艦上攻撃機)そのものが4トン程度の重さである。それにこの重量の爆弾を搭載するのであるから、大変な負担である。参加した日本軍 350機のうち103機がこの「水平爆撃機」となり、そのうち第一次攻撃隊に参加した49機全てにこの800キロ徹甲爆弾が搭載された。上空4000メートルから編隊を組み、投下するスタイルをとる。命中度は高くないが、戦艦の40センチ砲弾を改造して作られたこの爆弾は、何枚もの甲板を貫き船底近くで爆発する威力は相当なものであった。命中度が下がっても高い高度をとるのは、この貫通能力をより高めるためであった。 さて現地の代表的なメモリアルになっている戦艦「アリゾナ」は、工作艦ベスタルとフォード島に挟まれた位置関係にあり、雷撃からは免れたもののこの爆撃機の攻撃を受け4本の命中弾を受けたが、そのうちの水平爆撃の800キロ爆弾(空母「蒼龍」の金井昇一飛曹説)が幾重もの装甲板を突き破り、攻撃開始直後の8時10分艦内奥の弾薬庫近くで爆発した。目撃者の話では、大爆発の瞬間艦艇全体が一瞬持ち上がったという。犠牲者の数も最も多く、1177名(乗組員総数1400名)に上っている。つまりこの日の死者2403名の半数が、「アリゾナ」の乗組員ということになる。 現在海底に鎮座したままの「アリゾナ」の船体を、海面上で跨ぐような形で白い建物「アリゾナメモリアル」が建てられている。そこには専用のボートで年間150万人が訪れる。 海面の白亜の建物の中には、1177名の名前が刻まれたメモリアルがある。一人一人の名前を読んでいくと、胸が詰まってくる。 またこの建物から水面を望むと、円筒形の建造物が水面上に出ている事に気がつく。これは戦艦「アリゾナ」の後部にある第三砲塔(35.6cm砲)の、台座部分である。これだけでもかなりの臨場感があるが、その台座の脇からは現在も艦内からの油が少しずつ漏れだしている。私は当初、黒い固まりのようなものを連想していたが、実際にはまるで息をしているかのように液体状の油が、しみ出しては虹状に水面上に出て次々に広がっていくものであった。「この船は、まだ生きている」強烈な印象を与えてくれた。 日本軍の攻撃は、どんな理由をつけても宣戦布告前の「不意打ち」であった。 当時のルーズベルト政権にとっては、どんなことがあっても国民世論結集のために「最初の一撃」は日本にさせたかった。事前に大統領が、日本の攻撃を知っていたかはここでは言及しないが、米国人はこの攻撃を「Sneaky Attack だまし討ち」と呼び始めた。「Remember Pearl Harbor」とは異なり、なんと日本人にとっては悲しい呼び名であろう。 ③ Date of infamy 恥辱の日 第二次攻撃隊167機は第一次攻撃隊が発艦した1時間15分後に発艦を開始した。この攻撃隊の特徴は、急降下爆撃機が78機(第一次攻撃隊は51機)を占めることである。この急降下爆撃機は高度4000メートルから急降下し、狙いを定めて高度400メートルで250キロ徹甲爆弾を投下するわけである。従って命中度が高いことが特徴である。 しかしその日本軍にも不安はあった。米軍機の迎撃を恐れていたのである。米軍機が素早く対応して飛び立てば、多くの日本軍機は餌食となるわけで、それを防ぐために日本軍は、真っ先にオアフ島にある5つの飛行場を攻撃する綿密な計画を立て実行した。 計78機の零戦戦闘機が、爆撃機を護衛すると同時に飛行場を襲っている。また、第一次攻撃隊では51機の急降下爆撃機の全てが飛行場の攻撃を任務とし、第二次攻撃隊では54機の水平爆撃機(火災の煙等を避けるため)の全てが飛行場を攻撃することになった。先に紹介した真珠湾の中島であるフォード島の飛行場には、戦闘機の機上掃射の他に53発の250キロ爆弾(27発という説もある)が投下され、70機ほどの米軍機のうち30機前後が破壊された。 現在のフォード島は、飛行場としては使用されておらず、当時の管制塔が悲しげに建つ荒涼とした島になっていた。そしてコンクリートの地面には、所々に攻撃の跡が残っていた。 フォード島の対岸にある「ヒッカム」飛行場にも、日本は執拗な攻撃を加えている。ヒッカム飛行場にはこの日、60機ほどが待機していた。そこに空襲中に本土から到着したB17が12機加わる。 戦闘機の他に44機(36機という資料もある)が60キロ爆弾を計108 発、250キロ爆弾が53発投下されたことになっている。特に第二次攻撃隊の水平爆撃機27機が、集中的に爆撃している。米軍機は35機ほどが破壊されている。 現在のヒッカム飛行場は、ホノルル国際空港に隣接し一部は共用しているようだ。現在も司令部などの多くの建物が林立し、特別の許可での訪問となった。 ここで驚かされたのは、無数に残る建物の壁の攻撃の傷跡である。機銃掃射の跡だけではなく、爆撃による様々な破片が建物の壁を傷だらけにしていた。 パールハーバーの北30キロほどのところにある「ホィラー」飛行場は、真っ先に攻撃をうけている。 私が「カフクポイント」に向かうために乗った(8月10日)路線バスは、その「ホイラー飛行場」の脇を通過した。現在も米軍基地となっているが、辺りはのんびりとした雰囲気であった。攻撃の日、第一次攻撃隊のうち25機の急降下爆撃機が250キロ爆弾をそれぞれ投下した。ここには約200機の戦闘機がずらりと並び、90機ほどが破壊されたという数字がある。 日本の第一次攻撃隊は空母を発艦した後、現地時間7時30分に、オワフ島北端の「カフクポイント」に到達しているが、そのカフクポイントとはいったいどんなところだろうか。カフクポイントそのものには何もなく、第一道すらないが近くへは行くことが出来る。私は8月9日に一人路線バス(2ドル)に乗った。途中「ホィラー」飛行場を過ぎ、オアフ島の北海岸が見えると「ハレイワ」の村である。 美しいビーチが続き、カフクポイントの近くに「サンセットビーチ」という景勝地で私は、バスを降りた。土曜日ということもあり、白い砂浜は海水浴客でビーチは賑わっている。海岸に動物が横たわっている。近づくと、臨終を間近に迎えたアザラシmonk sealである。「こんな南国の浜辺にアザラシとは」と思いながら空を見上げる。この空を、67年前第一次攻撃隊が通過したことを想像してみた。その後「カフク」の村にも下車してみたが、何もない静かな集落であった。 日本軍が、重油タンクなどの陸上施設やドッグなど艦船の造修施設を攻撃しなかったということは、港の機能そのものには大きな損害がなく、破壊された艦船を取り除きさえすれば、港の機能そのものは短期間に回復することができた。また「アリゾナ」や「オクラホマ」の様に、完全に破壊された艦艇は少数で、多くの艦艇は修復されて現役に復帰した。 逆にアメリカは、参戦する「大儀名文」と国民の戦意高揚を得ることができ、戦略的にはアメリカの敗北とは言えない所以がここにある。 アメリカは承知のように41年3月から日米交渉等の、日本の暗号電報を解読していた。ただ軍事作戦に関わる暗号の解読はまだできなかったと言われている。しかし、当日の攻撃を首脳部が事前に知っていたと考えるのはかなり自然であろう。しかし現地の司令官には、伝えられていなかった。 最後に、この日の犠牲者をまとめておこう。日本側は合計350機(765名)が攻撃に参加し、そのうち29機(第一次攻撃隊9機・第二次攻撃隊20機)がもどらなかった。特殊潜行艇は、参加した5隻全てが破壊され9名が死亡している。(酒巻和男が日本人捕虜一号となった事は有名) アメリカ側は2403名が死亡し、1178名が負傷した。他に一般市民49名が死亡しているが、これはすべて日本軍機に向けられた米軍の対空砲火の流れ弾が市民にもたらした被害であるという。 この日オアフ島にあった約400機の米軍機のうち約40機が飛び立ち、そのうち10機は日本軍に撃墜されたが、12機の日本軍機を撃ち落としたという記録もある。 こうして、アメリカにとっての「Date of infamy 恥辱の日」は終わった。 ④ Pearl Harbor Survivor 今回何人かの、体験者のお話を伺う事ができた。中でも、エブェレット・ハイランドEverett Hylandさんとの出会いは印象深いものになった。彼の体験を簡単にまとめてみる。 私は1923年にコネチカット州で生まれ、40年に海軍に入隊し、12月7日は戦艦「ペンシルバニア」で無線通信技師として勤務していました。この時突然警報がなり、慌てて迎撃態勢をとりました。私は対空砲火の弾薬などを運びました。一回目の攻撃の時には艦も私たちも無傷でしたが、二回目の攻撃の時には大爆発が次々と起こり、当時の制服はTシャツと半ズボンという粗末なものだったので、火傷を含めて大けがをしてしまいました。 それでも私は幸運でした。同じ通信班の仲間はほぼ全員が死亡してしまったのですから。二週間ほど意識がありませんでした。死んでもすぐに身元が分かるように、あらかじめ足の指に名札が吊されていました。意識を失ったのち、目が覚めたのはクリスマスの日でした。九ヶ月後に退院し、別の艦に乗るようになりました。 戦後学校に入り直し、その後ネバタ州で高校の理科の教師をしていました。退職後の1991年ホノルルに来たときに、現在の妻の美代子と会いました。今は毎年妻の実家の群馬を訪問して、温泉に行くことを楽しみにしています。 「日本はずるい」という人がいますが、戦争は国と国との戦いであり、個人の喧嘩ではありません。個人的な恨みなどはありません。 私は今回、そのハイランドご夫妻と食事を同席する機会に恵まれた。私の話を聞きながら彼は、「硫黄島には、行かれましたか?」と私に尋ねた。「日本では、遺族でなければ行くことは出来ません。どうしてですか?」と聞き返すと。ハイランドさんは「私の兄は、硫黄島で戦死しているんです」。私は答えに窮した。 12月7日以降、アメリカ政府は戒厳令をオアフ島全体に終戦まで敷いている。「戒厳令」というのは、行政権を中心に軍が政治をとるということである。「シビリアンコントロール」のもっとも進んだ米国に於いてであるから、米国の相当の焦りがここに見える。 市民には外出時の「ガスマスクの携帯」が義務づけられたことは有名である。 ⑤ Japanese-American Japanese-Americanとは、いわゆる「日系人」を指す。ハワイ州には現在128万人の人口のうち16パーセント(アジア系は42パーセント)の約20万人が日系人である。 当時も16万人の日系人がおり、ハワイの人口がわずか40万人ほどであったから、全体に占める割合は実に40パーセントということになる。しかもそのうち4万人は、米国籍を与えられない日系の1世である。たとえ米国籍を保有していた彼らも「Japanese」 と呼ばれていた。 この日から、彼らの置かれている立場は大きく変わることになる。16万人の日系人全員が「スパイ」視され、「日系人が、水源に毒を流している」「サトウキビ畑で、日本機を港に向かって誘導していた」「上陸してきた日本軍の、先導をしている」のような様々な噂も流れた。すべて作り話にすぎなかったが、まことしやかに流された。 本国の西海岸に住む12万人の日系人の大部分は、10カ所の強制収容所に収容されたことは知られている。 ハワイの人口の四割を占める日系人の存在は、米国にとって大いに厄介であった。しかしこれだけの数の日系人を収容所に入れる事はできず、ハワイでは1500名が本国の収容所に送られたにすぎない。 とはいえ、日系人の立場は難しくなった。彼らの多くは心ない差別化に立ち向かうためにも「米国への忠誠」を示す事が求められた。 当時の「日系人組織」も、「今こそ真のアメリカ市民であることを証明しよう」と大々的なキャンペーンを展開した。 そこで誕生したのが、日系人部隊「100大隊(陸軍第100歩兵大隊)」である。まずは1943年にハワイの日系人兵士1500名が募集され、そこに一万人の応募があったという。 やがて彼らは本国で訓練を受け「第442連隊」に合流していく。結果的に7500名(18000名という説もある)の日系人が大戦に参加し、イタリア戦線を中心に約700名が戦死、約2000名が負傷している。 その兵士のひとりにエド・イチヤマさんがいらっしゃる。にこにこした穏やかな表情からは、辛い体験は感じ取れないが話す内容は苦難に充ちていた。 私の父は山口県から、第一次世界大戦の時にハワイに来ました。父は床屋をして生計をたて、日系二世の母と結婚して七人の子どもを育てました。 1924年以前に生まれた長兄と次兄はアメリカ国籍でしたが、長兄はアメリカ空軍に入り、次兄は一時山口に戻った事もあり日本海軍に入ってしまいました。 そのような事情もあり12月7日は、その日のうちにFBIが家にやってきて、私たちにスパイ容疑がかかりました。私たちは、苦しみました。私は100大隊にはいり、その後442部隊に合流しました。 ミシシッピーの基地で訓練を受けましたが、街に行くと、レストランもバス等も白人用と有色人colored people用に分かれていて、どちらも利用させてもらえず困りました。バスは白人用と黒人用の間に座るようにしました。 次兄がアメリカ市民なのに、なぜ日本軍に従軍できるのか分かりませんでした。その兄は南洋でオランダ人に捕まり、ジャワ島で捕虜になっていました。戦後お互いの胸のうちを語り合って涙したときようやく、本当の兄弟に戻れました。 私の妻コリーンも義母も当時オレゴンに住んでいたので、「敵性外国人」として収容所に送られました。市民権を持つ二世もです。私の父は後に帰化して市民権を得ました。そしてアメリカ人として誇りをもって人生を終えました。私もアメリカは素晴らしい国だと思います。日系人の強制収容に対して、きちんと謝罪したからでする。 二つの祖国を持った彼らの運命は、例外なく過酷であった。
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乗り物ワークショップ 概要 乗り物一覧 概要 「GTAオンライン:銃器密造」で追加されたチューニングショップ。 ロスサントス・カスタムとは異なり、機動作戦センターまたはアベンジャーの乗り物ワークショップにアクセスすることでテクニカルとインサージェント トラックのアップグレードや戦闘用車両の改造ができる。 また、アリーナワークショップで「武器専門家」のオプションを購入することでも(インサージェントトラックとテクニカルのアップグレードを除いた機能が)利用可能になる。 地下基地内の機動作戦センター駐車場や施設のガレージの専用スペースに保管される戦闘用車両は地下基地や施設の乗り物ワークショップまたは格納庫の航空機ワークショップでのみ改造できる。 また、一部の戦闘用車両はロスサントス・カスタムやカスタムオートショップでも改造できるが、ボディーペイントや武器の改造は乗り物ワークショップでしかできない。 乗り物一覧 戦闘用車両 対応する乗り物/航空機ワークショップ 改造カテゴリー(*1) LSC(*2) カラカラ 機動作戦センター/アベンジャー × リボルター 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ ヴィセリス 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ サベストラ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ コメット・サファリ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ アベンジャー 施設 × デラックソ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ スラスター 施設 × TM-02 ハンジャール 施設 × ストロンバーグ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ ライオット水砲バン 施設 × アクーラ 格納庫 × ヴォラトル 格納庫 × バラージ 機動作戦センター/アベンジャー × チェルノボグ 施設 × ヴィジランテ 機動作戦センター/アベンジャー × アーデント 機動作戦センター/アベンジャー ボディーペイント ○ ナイトシャーク 機動作戦センター/アベンジャー ボディーペイント ○ インサージェント トラック・カスタム 機動作戦センター/アベンジャー × テクニカル・カスタム 機動作戦センター/アベンジャー × ファントム・カスタム 地下基地 × ホーラー・カスタム 地下基地 × 機動作戦センター 地下基地 × APC 機動作戦センター/アベンジャー × デューンFAV 機動作戦センター/アベンジャー × ハーフトラック 機動作戦センター/アベンジャー × オプレッサー 機動作戦センター/アベンジャー × 戦闘用タンパ 機動作戦センター/アベンジャー × 対空トレーラー 地下基地 × スクラムジェット 機動作戦センター/アベンジャー × ※アリーナワークショップ+武器専門家オプションは機動作戦センター/アベンジャーと同じ扱いとなる。 ストック車両 対応する乗り物ワークショップ 改造カテゴリー アップグレード後 インサージェント トラック 機動作戦センター、アベンジャー アップグレード インサージェント トラック・カスタム テクニカル 機動作戦センター、アベンジャー アップグレード テクニカル・カスタム
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乗り物ワークショップ 概要 乗り物一覧 概要 「GTAオンライン:銃器密造」で追加されたチューニングショップ。 ロスサントス・カスタムとは異なり、機動作戦センターまたはアベンジャーの乗り物ワークショップにアクセスすることでテクニカルとインサージェント トラックのアップグレードや戦闘用車両の改造ができる。 また、アリーナワークショップで「武器専門家」のオプションを購入することでも(インサージェントトラックとテクニカルのアップグレードを除いた機能が)利用可能になる。 地下基地内の機動作戦センター駐車場や施設のガレージの専用スペースに保管される戦闘用車両は地下基地や施設の乗り物ワークショップまたは格納庫の航空機ワークショップでのみ改造できる。 また、一部の戦闘用車両はロスサントス・カスタムやカスタムオートショップでも改造できるが、ボディーペイントや武器の改造は乗り物ワークショップでしかできない。 乗り物一覧 戦闘用車両 対応する乗り物/航空機ワークショップ 改造カテゴリー(*1) LSC(*2) カラカラ 機動作戦センター/アベンジャー × リボルター 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ ヴィセリス 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ サベストラ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ コメット・サファリ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ アベンジャー 施設 × デラックソ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ スラスター 施設 × TM-02 ハンジャール 施設 × ストロンバーグ 機動作戦センター/アベンジャー 武器 ○ ライオット水砲バン 施設 × アクーラ 格納庫 × ヴォラトル 格納庫 × バラージ 機動作戦センター/アベンジャー × チェルノボグ 施設 × ヴィジランテ 機動作戦センター/アベンジャー × アーデント 機動作戦センター/アベンジャー ボディーペイント ○ ナイトシャーク 機動作戦センター/アベンジャー ボディーペイント ○ インサージェント トラック・カスタム 機動作戦センター/アベンジャー × テクニカル・カスタム 機動作戦センター/アベンジャー × ファントム・カスタム 地下基地 × ホーラー・カスタム 地下基地 × 機動作戦センター 地下基地 × APC 機動作戦センター/アベンジャー × デューンFAV 機動作戦センター/アベンジャー × ハーフトラック 機動作戦センター/アベンジャー × オプレッサー 機動作戦センター/アベンジャー × 戦闘用タンパ 機動作戦センター/アベンジャー × 対空トレーラー 地下基地 × スクラムジェット 機動作戦センター/アベンジャー × ※アリーナワークショップ+武器専門家オプションは機動作戦センター/アベンジャーと同じ扱いとなる。 ストック車両 対応する乗り物ワークショップ 改造カテゴリー アップグレード後 インサージェント トラック 機動作戦センター、アベンジャー アップグレード インサージェント トラック・カスタム テクニカル 機動作戦センター、アベンジャー アップグレード テクニカル・カスタム