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総論 ユ・ヒョヂョン、ボルジギン・ブレンサイン編著(2009)『境界に生きるモンゴル世界 20世紀における民族と国家』、八月書館 中華人民共和国領内のモンゴル系諸族(チャハル、バルガ、ダグール、オルドス、オイラート、青海、ほか) 塚田誠之編(2010)『中国国境地域の移動と交流 近現代中国の南と北』、有志舎 モンゴル帝国期におけるアス人の移動について、「民族分裂主義者」と「中華民族」—「中国人」とされたモンゴル人の現代史、など ブリヤート 池田秀實(1935)『ブリヤート・モンゴル共和國ニ於ケルブリアート族ノ研究』、蒙古事情研究會 宇山智彦編(2008)『地域認識論 多民族空間の構造と表象』、講談社 「カルムイク人とブリヤート人の民族意識—「モンゴル」認識と「独自の道」)」所収 クドリヤフツエフ/蒙古研究所譯(1943)『ブリヤート蒙古民族史』、紀元社 黒田悦子編(2002)『民族の運動と指導者たち 歴史のなかの人びと』、山川出版社 「国家なくして民族は生き残れるか—ブリヤート=モンゴルの知識人たち」所収 島村一平(2012)『増殖するシャーマン―モンゴル・ブリヤートのシャーマニズムとエスニシティ』、春風社 善隣協会調査部編(1935)『ブリャート蒙古の全貌』、日本公論社 南満州鉄道株式会社編(1936)『ブリャート民族の研究(ソ聯研究資料 ; 第20号)』、南満州鉄道経済調査会 渡邊日日(2010)『社会の探究としての民族誌 ポスト・ソヴィエト社会主義期南シベリア, セレンガ・ブリヤート人に於ける集団範疇と民族的知識の記述と解析, 準拠概念に向けての試論』、三元社 オイラート、カルムイク 宇山智彦編(2008)『地域認識論 多民族空間の構造と表象』、講談社 「カルムイク人とブリヤート人の民族意識—「モンゴル」認識と「独自の道」)」所収 臼杵陽監修(2009)『ディアスポラから世界を読む』、明石書店 「「三度目で最後の大陸」にいたるまで―カルムイク・ディアスポラの四〇〇年」所収 トゥバ人(タンヌ・オリアンハイ) 等々力政彦『シベリアをわたる風―トゥバ共和国、喉歌の世界へ』、長征社、1999年 鴨川和子(1990)『トゥワー民族』、晩声社(注:トゥワー=トゥバ) メンヒェン=ヘルフェン/田中克彦訳(1996)『トゥバ紀行』岩波書店 カザフ人 (モンゴル系とは言えないが、モンゴル国内にカザフ人がかなりの数居住していることから、ここではモンゴル国内のカザフ人問題に関わるものを挙げる) 国立民族学博物館友の会(2000)『季刊民族学』91号 「モンゴル国のカザフ人」チョナイ・クランダ・小長谷有紀・ イチンホローギーン・ルハグヴァスレン・田中克彦・大塚知則 その他 梅棹忠夫(1956)『モゴール族探検記』岩波書店 モンゴルのブックリスト
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岡田英弘編(2009)『清朝とは何か』、藤原書店 岡田英弘(2010)『モンゴル帝国から大清帝国へ』、藤原書店 楠木賢道(2010)『清初対モンゴル政策史の研究 (汲古叢書 87)』、汲古書院 佐藤憲行(2009)『清代ハルハ・モンゴルの都市に関する研究―18世紀末から19世紀半ばのフレーを例に』、学術出版会 現在のウランバートルの基盤となった仏教都市フレーは、清朝時代、モンゴル人と漢人からなるハイブリッドな構造を持った都市だったが、そこから清朝の政策の新しい理解まで、モンゴルの国立公文書館の資料を豊富に使って研究した書。 杉山正明(2008)『モンゴル帝国の長いその後』講談社 宮脇淳子(1995)『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』講談社 村上信明(2007)『清朝の蒙古旗人 その実像と帝国統治における役割 (ブックレット〈アジアを学ぼう〉 4) 』、風響社 モンゴルのブックリスト
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モンゴルの「近現代音楽」とは何か さて、このサイトに掲げてあるモンゴルの「近現代音楽」とは何か、ここで簡単に考察を試みる。要するに音楽の近代化の話である。 この音楽の近代化とは、考えられるものを挙げていくと、楽器の近代化、作曲技法の近代化、伝達の近代化、演奏・聴取機会の近代化、聴衆意識の近代化などがある。 まず楽器の近代化について。 モンゴルには伝統的に実に様々な楽器がある。民俗音楽研究家J.バドラーの著書「モンゴルの民俗音楽」には、こんなものまで本当にモンゴルの楽器だったのか、と疑問に思えるものまで非常に多数の楽器が掲載されている。それらの楽器は第一に楽器の使われる「場」によって2つに分けられる。仏教音楽と世俗の音楽である。モンゴルではチベット仏教が生活の中心であった。ここでは多種の管楽器、打楽器が用いられる。そして世俗の音楽がある。英雄叙事詩などの弾き語りを、トプショール、馬頭琴など弦楽器を伴い、また昔は、その合間にホーミー(喉歌)が加わったという。これは時の権力者を称えたり、モンゴルの人々の楽しみでもあった。ただしこれは「アルタイ賛歌」などの自然を称えるマグトー弾き語りにおいて、宗教的な側面もあるため、一概に世俗とは言えない(上村明)。また、これらに加え、楽器の近代化とは離れたところにシャーマンの太鼓などがある。 以上のような楽器のうち、近代化、改良された楽器の代表格と言えば馬頭琴である。馬頭琴はもともと胴の部分は革張りであったらしいが、1940年、国立楽器工場でロシア人のアイデアにより板張りとなりf字孔が備えられる(ムンフトゥヴシン)。また2弦の調弦もBとFに定められた。その他細々とした改良は現在でも続けられており、弦がナイロンになったりしているが、目的は演奏のしやすさと音量の増加で、その改良の前衛は内モンゴルである。仏教音楽楽器にはブレーという一種の大きなラッパがある。これも金属のキィが付けられ、速いパッセージも容易に演奏できるようにして、改良民族楽器によるオーケストラでホルンのような役割で使われている。 それまでの楽器を改良するだけでなく、西洋の楽器の導入も20世紀、盛んに行われてきた。20世紀初頭にはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込んだし(オヨンバット)、1911年の独立後、西洋式軍楽隊もロシアから導入された(エネビシ)。またソ連からのの音楽指導員スミルノフはホーチルや馬頭琴などの民族楽器奏者にヴァイオリンやチェロなどを教えることで、手っ取り早く西洋楽器を広めた(オヨンバット)。 これらに加えて、民族楽器でのそれまでにないアンサンブル形態の創出やオーケストラの結成も楽器の近代化に入るだろう。 次に作曲の近代化の問題に移る。音楽の近代化において、特に人民革命時代初期には「作曲の技法」よりも内容の革新性が優先された。モンゴルで近代的な意味で作曲された作品の第一号とされているのは1921年の革命義勇軍の戦いの中で生まれた《キャフタの砦》である。これは民謡《青銅の神殿》の旋律を流用したもので、ガワル・ホールチ(生没年不詳、ホールチとは馬頭琴や二胡などの奏者のこと)の作とされている。この歌詞は、兵士たちの間で自然発生的に生まれたものだが、これは同時にモンゴル近代文学の始まりともされている。詩そのものは伝統的な韻文の形式であるものの、内容において、革命への士気を鼓舞するという点で新しいものだった。ちなみに「キャフタの砦を落とすときには、ガラスのカンテラはいらないぞ やってきた中国軍を、鉄の大砲で打ち倒そう」という歌詞であり、フランス革命における《ラ・マルセイエーズ》といえば雰囲気は伝わるだろうか。この《キャフタの砦》に代表されるように、この1920年代から30年代の時期は、形式においては伝統的、内容において「革命的」というもので、作曲ということにおいては、例えば行進曲調のリズムが導入されるということはあったが(モンゴル文化史・旧版)、ほとんど伝統音楽が踏襲されていたようだ。この傾向は、例えばこの時期の演劇が口承文芸の「掛け合い歌」を踏襲した形で発展していたことや(木村理子)、文学において30年代に入るまで、散文よりも韻文が主流だったことを見ても(岡田和行)、当時の文化全体に当てはまる傾向だったと考えられる。1934年に初演された初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジの戯曲による)も1943年にB.ダムディンスレンとB.F.スミルノフによって新たに作曲されるまでは流行歌の旋律を流用したものだった(木村理子)。 西洋の作曲技法がモンゴルの音楽家たちの間で一般的になったのはM.ドガルジャブが1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を、1930年代にA.エフレーモフから音楽理論を学び(J.エネビシ)、1940年に音楽指導員としてソ連よりB.F.スミルノフが派遣されて(D.バトスレン)以降のことだろう。またこの時期からモスクワ音楽院への留学生も出始める。モンゴル最初のプロフェッショナル作曲家のS.ゴンチグソムラー(1915-1991)もそうだし(ジャンツァンノロブ)、現在のモンゴル音楽界の重鎮たちの中にもチャイコフスキー記念モスクワ音楽院卒業生は多い。なお直接の因果関係があるかどうかは分からないが、B.F.スミルノフが派遣された1940年はソ連でもモンゴルでも大粛清による独裁強化がほぼ完成した時期であり(M.アリウンサイハン)、またソ連が「大ロシア政策」の下、諸共和国に対し文化的影響力を直接行使していった時代でもある(民族問題事典)。その一例はキリル文字の導入である。諸民族の文字政策(無文字文化の民族にも文字を制定し、教育を行った)はそれまでラテン文字を用いていたが、それは結局、以前は封建時代の名残があるとされていたキリル文字が使用されることになり、また新しい専門用語の現地語翻訳が禁じられ、ロシア語をそのまま使用することになった(民族問題事典)。ロシア語優位が決定付けられたのである。モンゴル人民共和国とて例外ではなく、ラテン文字、ウイグル式モンゴル文字、キリル文字の3つが教育現場で用いるために比較検討され、3つとも学習効果に優劣がない、という結論が出されていたにもかかわらず、1941年、「突然」キリル文字の正式採用が決まった(荒井幸康)。ソ連による音楽指導もこうした大ロシア主義の産物だったかもしれない。少なくともスミルノフが教えたのはロシア革命直後に見られたような、前衛的で自由な音楽ではなく、保守的な音楽理論であったようだ。 しかし何はともあれ、これ以降、モンゴルに西洋の作曲技法が広まり、音楽家たちは楽譜を用いて作曲し(近代化以前にも仏教音楽・ツァムのための楽譜が5種あった(D.ナランツァツラル)が)、西洋の理論とモンゴルの音感を融合させることに腐心するようになったのである。 現在のモンゴル音楽家たちの多くは一様に、ソ連から西洋音楽理論を学んだことを肯定的に見ており、これによって「モンゴル音楽は一地域の民俗音楽から世界音楽になった」と述べている。 次に伝達方法の近代化について述べる。先に書いた通り、M.ドガルジャブは1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を学んだ(J.エネビシ)。これを用いて1933年、ロシア人演奏家M.ベルリナ=ペチニコワと共にモンゴル伝統のオルティン・ドー、ボギン・ドー及び新時代の歌(自作も含む)を蒐集して楽譜に起こし、出版している(J.エネビシ)。この仕事においてドガルジャブは編集の一切を取り仕切ったようなのだが、これがモンゴルで出版された楽譜の第一号となっており(J.エネビシ)、ウランバートルの政治粛清記念館にドガルジャブの使っていた楽器と共に展示されている。これ以降、モンゴル国でも西洋式の楽譜が浸透していく。例えば1966年には歌というよりも語り物である、英雄叙事詩「ハーン・ツェツェン・ゾルハイチ」などまでも楽譜に起こされている。また有名なオルティン・ドーの歌い手ノロヴバンザド(1931-2002、国家最高功労賞受賞)らも自らの膨大なレパートリーをハンガリーの民族音楽学者・L.ヴァルギャスとの共同作業により楽譜に起こしている。 楽譜の他に、もう一つ近代的な音楽の伝達方法がモンゴルで採用された。それは学校教育現場で使われた「コダーイ・システム」による手を使って音名を表す方法である。「コダーイ・システム」とはハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターン(1882-1967)の確立した理論に基づく音楽教育のメソッドで、民謡、童歌を用い、体を使って子供に音楽教育を行おうというものである。日本でも一部の私立の音楽教育現場で実践されている。この中に、手の掲げた高さと形で音階を表し、それにあわせて歌う、というものがある。これは両手を使ってポリフォニーも表現できるという非常に高度なものだが、モンゴルの地方部で音楽教育に実際に使われている。私の通う大学の留学生も、特に年長の方はこれをまだ覚えていた。モンゴルでは近代化により、口承であった音楽は、楽譜や「コダーイ・システム」によっても伝えられるようになったのである。そして、このように楽譜になるということは、それだけリズムは西洋風に割り切られたものとなり、テクストも音使いも記譜されることで固定化していった、という側面も指摘できるであろう。
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モンゴルの音楽家たち モンゴル国の作曲家 モンゴル国の演奏家 モンゴル国の歌手 モンゴル国の指揮者 モンゴル国の音楽学者 モンゴルで活躍したロシア人音楽家 モンゴル音楽史を知るデータベース
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演奏団体、劇場 国立歌劇場(Монгол Улсын Дуурь Бүжгийн Эрдэмийн Театр) 公式HP http //opera-ballet.mn/ 1924年設立のスフバートル記念クラブの芸能サークルが1927年建設の人民娯楽場(“緑ドーム”の愛称で呼ばれた)に移ったのが前身。同じ建物内で1931年国立中央劇場(劇団)が組織され1949年同建物が家事で消失するまでそこで活動。1943年には専属のオーケストラを設立(それまでは伝統楽器で劇の伴奏をしていた)。1951年に開場した現在の国立歌劇場の建物で活動再開。1963年に演劇部が分離、国立ドラマ劇場に本拠地を移し、オペラ、バレエ中心の国立歌劇場として再スタート。名称を変えながら現在に至る。510人収容。現在の正式名称はモンゴル国立オペラ・バレエ・アカデミック劇場。総合芸術監督B.ジャミヤンダグワ(バレエマイスター)、首席指揮者N.トーライフー、常任指揮者J.ブレンベフ、エルデネバートル。 ちなみに「オペラ・バレエ・アカデミック劇場」という名称はいかにも不自然であるが、モンゴル語の"Дуурь Бүжгийн Эрдэмийн Театр"のうち、他の劇場・楽団名にも登場する"Эрдэмийн"の語はロシア語の"Академический"の翻訳語である。このロシア語の意味は「(プロフェッショナルの舞台)芸術」というほどの意味の形容詞であり、日本語には訳しづらい。中国の「ナントカ芸術団」などの名称のうちの「芸術」もおそらくこの"Академический"の翻訳からきていると推測できる。 国立民族歌舞芸術団(Монгол Улсын Үндэсний Дуу Бүжгийн Эрдэмийн Чуулга) 公式HP http //www.mongolianensemble.com/index.php 1945年に設立された国立エストラーダ・コンサート局が前身。当時は楽器6人、歌手5人、ダンサー6人、曲芸2人、朗読1人というメンバーだった。その後1950年に国立人民歌舞アンサンブルに改称して陣容を拡大、1961年には民族楽器の大オーケストラも設立された。2002年に国立民族歌舞団に改称され現在に至る。最初は総合的な大衆娯楽を見せており、歌謡曲やジャズ、人形劇などのステージも行っていて、一時はソヨル・エルデネというロック・バンドも抱えたが、後に伝統芸能的なステージに特化。1980年代には民俗音楽や民俗舞踊に基づいた新しい音楽劇の創出なども盛んに行われる。現在は伝統芸能に基づいてステージ・ショー化された短めの舞踊や音楽の組み合わせで公演を行っている。スフバートル広場南側の国立ドラマ・アカデミック劇場内に居を構える。 国立人形劇場(Монгол Улсын Хүүхэлдэйн Театр) 国立フィルハーモニー(Ц.Намсрайжавын нэрэмжит Монгол Улсын Филармони)所属団体 1972年閣議決定により国立フィルハーモニー協会を設立。交響楽団、ジャズバンドの“バヤン・モンゴル”、老舗ロックバンドの“ソヨル・エルデネ”の3つの運営からスタートした。1992年に長年音楽監督を務めていた功労者Ts.ナムスライジャブの名を冠した。正式名称は「人民芸術家・国家賞受賞Ts.ナムスライジャブ記念モンゴル国立フィルハーモニー」。 公式HP http //philharmonic.mn/ 国立フィルハーモニー交響楽団(Монгол Улсын Филармоний Симфони найрал хөгжим) 1957年、国立放送交響楽団として設立されたものがその前身。1972年に現在の名称・所属に変更。人民芸術家の指揮者・作曲家Ts.ナムスライジャブが長年音楽監督を務めた。1990年より息子のN.ブテンバヤルが芸術監督・首席指揮者。他にB.ルハグワスレン、B.バトバータルが常任指揮者。2003年にアジアオーケストラウィークの一環として来日し、ブテンバヤル、山下一史の指揮により、ワーグナーのオペラの抜粋からB.シャラフの馬頭琴との協奏曲まで幅広いプログラムを披露した。社会主義時代は80数名の陣容を誇り(1980年代)、毎月定期公演を行っていたようだが、現在は不定期にしか公演を行っていない。2008年現在の団員数は51名だが、大統領令の古典芸術発展プログラムにより82名まで再び編成拡大する計画がある。 “バヤン・モンゴル”ジャズ・オーケストラ(Баян Монгол Чуулга) 前身は1969年、ポーランドでの研修を生かし、国立放送局付属として設立された軽音楽楽団。その際国立民俗歌舞団やラジオ局で作編曲、合唱指揮をしていたT.チミッドドルジが中心となった。1972年に現在の名前になり、フィルハーモニー付属のコンサートを専ら行う団体となった。モンゴル国のポピュラー・ミュージックの牽引役となってきた。 国立馬頭琴楽団(Морин хуурын чуулга) モンゴルを代表する馬頭琴奏者G.ジャミヤンが馬頭琴によるオーケストラを提案、1992年に大統領令により設立された。ツェンディーン・バトチョローンが団長、芸術監督、指揮者を兼任する。国内でのコンサート、劇伴音楽の活動のみならず海外へのツアーも積極的に行い、何度も来日もしている。編成は標準の馬頭琴(モリン・ホール)、中音用のチェロ型馬頭琴(ドンド・ホール)、低音用の大型馬頭琴(イフ・ホール)、大小のヤタグ(琴)、ヨーチン(楊琴)、フルート、ピアノ、打楽器。楽器奏者だけでなく人民芸術家Sh.チメッドツェイェーらの歌手も抱える。 モンゴル国軍所属団体 全軍歌舞芸術団(Бүх Цэргийн Дуу, Бүжгийн Эрдэмийн Чуулга) 1932年に軍中央クラブ付属団体として「演劇音楽芸能隊」の名で設立。1934年国軍中央劇団に改組。現在は防衛省の付属団体。設立当初は伝統音楽の歌手や演奏者が所属し、催しでは革命歌や組体操が演じられた。1934年より軍楽隊指揮者V.A.リャリンが指導し、楽譜の習得を開始。1940年にソ連より派遣されたR.I.レシェントニャクの指導によりドンブラのアンサンブルを結成し、その後しばらくこのアンサンブルが劇団の中心となり、1955~56年には中国、北朝鮮、ヨーロッパへ演奏旅行も敢行。1958年には民族楽器と西洋管楽器による混成オーケストラが中心に据えられて以降80年代まではその路線で陣容を拡大していった。しかし1997年に大幅な改組が行われ、現在は舞踊団、合唱団、専属歌手、民族楽器の小アンサンブル、ビッグバンドとストリングスの「シンフォ-ジャズ・オーケストラ」からなる。 国軍参謀本部付属模範軍楽隊(Зэвсэгт Хүчний Жанжин Штабын Үлгэр Жишээ Үлээвэр Найрал Хөгжим) モンゴル国軍の中央軍楽隊(吹奏楽団)。1914年、ボグド・ハーン制モンゴル時代に設立された軍楽隊の指導者A.S.コリツォフを迎え、1922年ごろ結成された人民軍軍楽隊が前身。現在の形で正式に設立されたのは1950年で、作曲家G.ビルワーが音楽監督として中心になった。社会主義時代の正式名称はモンゴル人民軍模範軍楽隊(Монгол Ардын Армийн Үлгэр Жишээ Үлээвэр Найрал Хөгжим)。スフバートル広場での公式儀礼や国賓の来モ時、ナーダムの開会式などには必ず登場。モンゴル帝国時代の鎧を模したユニフォームが特徴。 国境警備隊歌舞団(Хилийн Цэргийн Дуу, Бүжгийн Чуулга) 国境警備庁公式HP内楽団紹介ページ http //bpo.gov.mn/suborgan/1206270001 1942年内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブルとして設立。1953年人民革命軍アンサンブルに統合。1960年代後半からの国境地帯の緊張に伴う国境警備隊の増強の一環として1971年に再度設置され、現在に至る。 警察庁所属団体 モンゴル国警察庁HP http //www.police.gov.mn 警察庁音楽隊「スルデ」(Цагдаагийн "Сүлд" чуулга) 吹奏楽団も所属している。 警察音楽隊「ソヨンボ」(Цагдаагийн "Соёмбо" чуулга) その他私営団体 ウランバートル鉄道公社歌舞団(УБТЗ Дуу бvжгийн чуулга Салбар) モンゴルを南北に縦断する鉄道に所属する。 鉄道公社HP http //www.ubtz.mn/ ツキ・ハウス(月の石アンサンブル) ウランバートル市の国立サーカスの西側にある。主に外国人観光客向けに民族歌舞を演じる小劇場。シルクロード音楽やロックの要素、工夫された照明演出とショーアップされた派手な演出が売り。 トゥメン・エフ民族歌舞団(Түмэн Эх Үндэсний Дуу Бүжгийн Чуулга) 1989年設立。ウランバートル市のナイラムダル公園内に本拠地を置く。2006年3月に独立採算に。モンゴルの伝統楽器のアンサンブル、民族舞踊、仏教舞踊「ツァム」などを演じ、海外からの観光客にも比較的よく知られる。日本にもトゥメン・エフ所属のメンバーはよく訪れる。2006年5月にはデンバー、ニューヨーク、ワシントンなどを周る大規模なアメリカツアーも行った。 (参考:インターネット版「モンゴリン・メデー」紙) 公式HP http //tumenekh.wordpress.com/ その他地方劇場など
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20世紀外モンゴル地域における音楽史研究 私の大学での専攻はモンゴル語とその文化である。モンゴル人の居住する地域は、モンゴル国に加えて中国の内蒙古自治区、ロシア連邦内のブリヤート共和国、カルムイク共和国などがあるが、それぞれ異なった歴史的経緯を持つため、ここではモンゴル人の所有する国家であるモンゴル国に限定して話を進める。さてこの現在のモンゴル国には、もちろん素晴らしい音楽の伝統がある一方、主に社会主義革命以降、ソ連・ロシアを通じての近代化と共に西洋的な音楽を受容してきた。現在でもポップミュージックは盛んであるし、オペラも日常的に興行を続けている。西洋音楽は十分に浸透していて、その状況は非常に興味深い。一方でモンゴルは特異な歴史を持つ。この歴史と先の音楽状況を重ね合わせると、モンゴルの音楽状況においての興味深く、また難しい問題が浮かび上がる。そのうち私は2つの点に注目したい。 一つはモンゴルにおける近代化と西洋音楽受容の問題である。そしてもう一つは全体主義のもとでの音楽の状況である。 以前私はモンゴル音楽のこの二つの問題において、日本における研究、資料の収集不足のため、ソ連や戦前の日本のこの種の問題との比較でそれを補おうとしていた。しかし国内での資料探索を進め、更に今年5月、2週間モンゴルに滞在する機会を得、そこでモンゴル人の幾人かの音楽家、音楽研究者と会って話を聞き、また当地で出版された音楽に関する書籍を入手することができた。これにより、ある程度、モンゴルの音楽状況を通時的にまとめることができよう。 同時に上記二つの問題についても考察を進められる、と考えている。最終的に私の目標は上記二つの問題を軸にし、近現代モンゴルの音楽状況を、現在日本に流布しているような、おぼろげな、草原と遊牧の伝統的世界観に偏ったイメージよらず、より現実に即した形で紹介できれば、と考えている。 ところでモンゴル国のその特異な歴史について少し述べてみよう。1691年以降清朝の支配下に入った外モンゴル地域は1911年にボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト(ボグド・ゲゲーン)というチベット人活仏を国家元首に、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立する。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感からナショナリズムが高揚し、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである。この時モンゴルはそれまでの主に代わって、帝政ロシアに援助を求めた。結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられるということはあったにせよ、実質的な主権は保った。1919年ロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国軍による「外蒙自治取り消し」、ロシア白軍残党の侵入など苦難の後、それに対し1921年、ソ連、コミンテルンの支援を取り付けたモンゴル人民党による義勇軍が首都他外モンゴル各地を解放、近代化に端緒をつけたとはいえ伝統的な遊牧社会を保ち、封建制であったボグド・ハーン制モンゴルに代わって人民政府を発足させる。そしてモンゴル人民党は人民革命党となり1924年第3回党大会で「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定し、同年第1回国民大会議で「モンゴル人民共和国」を宣言する。その後は国家の近代化が進む一方、ソ連の影響力の増大、急激な牧畜集団化に対する暴動や粛清、親ソ派でモンゴルのミニ・スターリンと言われたKh.チョイバルサンによる独裁、引き続きYu.ツェデンバルを中心とする人民革命党の長い一党独裁時代を経て1990年代に複数正当性に移行、民主化されて現在に至る。 つづいて、この歴史状況と重なり合う部分にある、音楽における事象について、現在調査している分だけ述べる。 まず近代化に関してであるが、ボグド・ハーン制国家の下で行われた西洋式近代化への第一歩、その中で音楽に関係する事象には、まず西洋式軍楽隊の設置が挙げられる。これは同政権下で1913年に首相サインノヨン=ハン・ナムナンスレンを中心とする第2次遣露使節が、現在はロシア連邦ブリヤート共和国の首都となっているウラン・ウデを訪れた際、ロシア側から軍楽隊による歓迎を受け、それに感銘を受けたことによる(R.Oyunbat /2005/ “Huree duu hugjmiin uusel, hugjil”)。サンクト・ペテルブルグに着いた一行は早速軍楽隊の楽器を買い求めるが、それに対してロシア側が援助を申し出、ロシア人の指導も入ったようだが、1914年、ボグド・ゲゲーンの宮殿脇に西洋式軍楽隊設置された(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』)。この時期の音楽近代化としてはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込み、広めたことも言及すべきだろう。 革命後は更に国家が積極的に先導して経済、産業など様々な分野の近代化に携わる。音楽も例外ではなかった。国家は劇場(ただし、モンゴルで「劇場」という場合、それは建物のみならず、専属の出演者や演奏家、演出関係全般の人員も含めた全体を指す)、オペラハウス、またアマチュアからプロ養成までの芸術活動の拠点であったクラブの建設というハード面での近代化を進めた。そしてソフト面では1930年代の中央劇場付属スタジオや1950年代以降の専門学校における音楽家の養成、交響楽団、民族歌舞団の設置、演奏会の機会の拡大、地方への巡業(これはしばしば党の集会などとむすびつけられたが)を行った。音楽家養成に関しては1924~28年に文部大臣を務めたエルデネ・バトハーン(1890-1937粛清?)が先駆的な役割も果たしていて(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)、彼についての論文はThe Mongolia Society,Inc.の冊子に掲載されているとのことだが、目下探索中である。これらのみならず、新しい合唱音楽の創造や多分に宗教儀式的な側面もあった英雄叙事詩など伝統芸能を「国民芸能」へ発展させることにも関わっているという(上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」)。また革命記念の作品を委嘱することもこのうちに入るであろう。この例としてはN.ツェグメデ(指揮者、作曲家1927-1987)の革命50周年委嘱作品《草原の祭り》がそうである。 ソ連の影響も見逃してはならない。モンゴル近代音楽の祖とされるM.ドガルジャブが西洋の記譜、作曲法を学んだのはロシア人からであるし、彼はまたソヴィエトでモンゴル人として初の商業用レコード録音もしている。1940~45年、B.F.スミルノフがソヴィエトから音楽技術指導に派遣されている。在任中彼はB.ダムディンスレンとの共作でモンゴル初の本格的創作オペラ《悲しみの三つの丘》を完成させ、またモンゴル音楽の研究にも貢献した(D.バトスレン(1989)「B.スミルノフの遺産、研究の功績に関して」)。彼の派遣された時期はソヴィエトの大ロシア主義の時代、すなわちあらゆる少数民族へロシア的な影響が行使された時期なのであるが、それは後にも述べる。1943年にはF.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行っている。また多くの優秀な音楽家はチャイコフスキー名称モスクワ音楽院を中心にソ連圏へ留学をした。これは特にモンゴルのオペラの分野の発展に関して多大なる影響を及ぼしている。他にも、戦後にモンゴル政府が主催したアマチュア芸能オリンピアードなどはソ連のそれを参考にしたものであろう。1957年設立の作曲家同盟もそうかもしれない。 こうした近代化と発展の一方で、社会主義体制の下で、音楽活動に制限が加えられたり、宣伝に利用されるということはあった。 音楽のイデオロギー的利用に関しては革命初期の段階から、義勇軍には楽器をもった叙事詩の語り手が付いて行き、行く先々で皆を鼓舞する歌や、革命の意義を説く歌を即興で歌ったという(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)。ちなみにそのような中から生まれたのが、モンゴル近代歌曲の先駆け《Shivee hyagt(キャフタの丘)》である。民謡を元にしていながらそのように扱われたのは行進曲調のリズムもさることながら、革命歌であるという思想的な面が大きいのであろう。1930年代からすでに行われていた歌曲コンテストや地方巡業音楽会、戦後の芸能コンテストなどでも革命的、社会主義的な内容が賛美され、これも社会主義宣伝の一翼を担ったのであろう。 音楽の制限の問題に移ろう。例えばモンゴルではソヴィエト初期におけるような、音楽の表現上の自由と社会主義文化の求める音楽像との葛藤のようなものはほとんど見られない。作曲されたものは民族的な雰囲気で、民謡、民俗音楽からの直接的な影響と、西洋の伝統的な作曲技法が平明に組み合わされたものが多い。題材は、自然が多く、他に生活、愛などである。ソ連ではそのような作品は社会主義リアリズムの観点から歓迎されていた。モンゴルではショスタコーヴィチとジダーノフの攻防のようなことは起こらなかったようだ。しかし圧迫はあった。それをいくつか見ていこう。 1923年の党大会決定では、音楽他の芸術文化は「世界の国々をよく知るため」に必要である、と非常に外へ開かれた内容である。しかし1928年には全戯曲を検閲し、「音楽および演劇サークルを再構成しその活動を政治的文化的により向上させること」が決定されている。狭量な社会主義政策にとらわれない開明的政策を打ち出していたダムバドルジ執行部解任前後の決定である。またソ連から正式の音楽の技術指導が入ったのは、スターリン体制の完成期でありソヴィエト政府がロシア的な文化をソヴィエトの各少数民族にまで拡大させた時期である。この時期はモンゴルでも公用文字のキリル文字化がモンゴル政府を飛び越して、ソ連の意向により決定された(荒井幸康(2006)『言語の統合と分離』)時期でもあった。このような出来事の中で最も衝撃的なのは後に人民芸術家として顕彰されるリンベ笛(モンゴルの伝統的横笛)演奏家L.ツェレンドルジと、歌手で作曲もし、官僚だったM.ドガルジャブの逮捕であろう。これは独裁者チョイバルサンの粛清の嵐吹き荒れる頃の出来事であった。L.ツェレンドルジは1938年、中央劇場長の任に就いていた時、罪状は今のところ不明だが、2年間投獄された。M.ドガルジャブは1941年在トヴァ人民共和国大使であったところを急に呼び戻され、そのまま逮捕、1946年に獄中で痴呆性精神病により死亡している(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)。トヴァ人民共和国は元々モンゴルが領有権を主張し、自らもモンゴルへの帰属を望みながら、1921年に7万たらずの国家としていきなりの独立、1944年には「トヴァ人民の切望により」ロシア共和国の一自治州となったいわくつきの土地である。トヴァについて知りすぎた、或いは何か正論を発してしまったがためにの逮捕であり、その死も薬によるものである可能性も否定できない。なんにしろドガルジャブは中央劇場の専属歌手も務めたこともあり、今でも知る人が多い。若くして革命に身を投じ、モンゴル初の楽譜集出版や、西洋の技法を取り入れた革命歌曲の作曲、雑誌論文で音楽家の組織の必要性を説く(Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』)など、まさに八面六臂の活躍をした人気音楽家を、政府は人民から奪ってしまったのである。 最後に、社会主義時代の音楽の制限に関して、合唱、歌や各種付随音楽の分野を中心に活躍する、労働英雄にまでなった作曲家D.ロブサンシャラフ氏(1926-)にインタビューする機会があったのでこれを紹介したい。氏によると、作曲に関する制限はなかったが、歌の歌詞に関する制限は党から出されていたとのことである。封建時代のもの、チンギス・ハーンを称えるもの、生活の苦しみを歌ったものなどは制限され、社会主義の中庸な生活ぶりをうたったものが歓迎されたのだという。これをわざと破ろうとするような反体制的音楽家はいなかったし、もし、密かに旋律や構造に政府批判を込めようとしたところで、党指導部の人間は音楽のことはよく分からず、気づかなかっただろうとのことだった。また海外の音楽はほぼ全てがソ連経由で入ってくるために、ソ連で禁止になったものは自動的に入ってこなかったという。現代的な表現技法についてはそれほど興味はなく、常に聴衆に聴いてもらうことを意識しているとのことだった。そして社会主義時代の社会や音楽全般の発展そのものは非常に肯定的に捉えておられた。この肯定的な意見は他の音楽家や音楽研究家からも聞いた。 こうした時代を乗り越え、今モンゴルの音楽界は民主化後もそれまでに発達した分野に加えヒップホップの隆盛もあり、厳しい経済状況の中、奮闘している。こんな今でもロブサンシャラフ氏のように、特に社会主義時代に嫌悪感を表すことがない音楽家が他にもいるのは、ロシアのように帝政末期からソ連時代初期にかけて、芸術の爆発的な発展をみたのとは違い、O.ラティモアの指摘するように「『社会主義リアリズム』は模倣されはしたが、モンゴルの文芸復興、創造性と知的活力の途方もない爆発に従属させられたように見える。モンゴル人にとっての真の問題は往々にして、あることをブルジョワ的なやり方ですべきか社会主義的なやり方ですべきかではなく、それが一体モンゴル人の手でやれるか否かであった」のであり、モンゴル人にしてみれば、社会的に硬直はしていても、希望に満ち、近代の芸術を貪欲に取り込む時期だったのかもしれない。また自然を歌った、平明な音楽にしてみても、それはすぐ数十年前には伝統的な自然への賛歌や脈々と受け継がれている民謡の中で生活していた人々が急激な近代化を経験し、しかし生活のかなりの部分が農牧業で、首都の周りはすぐ草原であることを考えれば、聴衆にとっても作曲家にとってもそのような創作は当然かもしれないのである。 終わりに 今後の方針と目標 私は近現代モンゴルにおける文化、歴史と音楽の関わりを深く理解したい。具体的には、上記の報告の中でも、党政府と音楽の関わり、つまり党政府がモンゴル音楽の発展にどのように寄与し、どのような制限を加えたか、を中心にもっと深く研究をしたいのである。更に細分化するなら1:国家が音楽に対してどのような思想を持っていたか(社会主義リアリズム、ソ連からの影響)、2:その思想をどのような形で実行したか(ソ連の文化面での指導、モンゴルの音楽政策、音楽家養成、音楽家の統制組織、演奏団体の組織、巡回音楽会の活動内容など)、3:そのような状況下で音楽家たちがどのような活動をしたのか(演奏の内容、演奏レパートリー、作曲された作品、反体制音楽家やそれに近い活動をした音楽家がいなかったか、などの問題)、4:その結果どのような影響が社会にあったか(音楽と民族主義、音楽と思想、他の芸術分野との協力、どのような音楽が歓迎されたか、などの問題)を調べたい。 論文を書いた先には、最終的にモンゴルの近代音楽の歴史を総括し、それを日本語あるいは英語で発信できるようにしたい。それをできるだけ多く人たちに読んでもらい、民族オペラや歌、オーケストラ、軍楽隊、民族音楽を含む近代モンゴル音楽史の紹介を広くできるようになりたいと願っている。 参考文献 J.Badraa/2005/ "IKH DUUCHNII YARIA (Mongol ulsiin aldart gaviyaat duuchin Jigzaviin Dorjdagviin yarianii soronzon bichlegiin tsomog)", Erkhlen niitlesen Natsagiin Jantsannorov,Ulaanbaatar D.Bat-suren/J.Enebish /1971/ “Duunaas duuri hursen zam” J.エネビシ(1989)「M.ドガルジャブの生涯と作品」(N.Jantsannorov /1989/ “Mongoliin hugjmiin sudlal”) D.バトスレン(1989)「B.スミルノフの遺産、研究の功績に関して」(N.Jantsannorov /1989/ “Mongoliin hugjmiin sudlal”) Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所 R.Oyunbat /2005/ “Huree duu hugjmiin uusel, hugjil” U.Zagdsuren /1967/ “MAHN-aas urlag utga zohioliin talaar gargasa togtool shiidveruud(1921-1966)” 青木信治;橋本勝編著(1992)「入門・モンゴル国」より“音楽―国際化する伝統音楽” (平原社) 荒井幸康(2006)『「言語」の統合と分離 1920-1940年代のモンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語政策の相関関係を中心に』(三元社) M.アリウンサイハン(2001)「モンゴルにおける大粛清の真相とその背景 ソ連の対モンゴル政策の変化とチョイバルサン元帥の役割に着目して」(『一橋論叢』第126巻第2号、2001年8月号) 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まだモンゴルの音楽について全然分かっていなかったころに書いたものです。 西洋音楽の受容と全体主義体制化での芸術音楽~モンゴルにおける近代音楽史研究の可能性~ 私は日本のクラシック音楽の歴史、つまり日本におけるシンフォニー・オーケストラ、軍楽隊(吹奏楽)、西洋的な音楽語法の歌曲、オペラ等の歴史に興味を持ち、先行研究を中心に調べている。日本でも音楽の伝統を有しているが、そこにどうやって西洋音楽そのもの、または西洋的な音楽の要素が入ってきたのか、それからもう一つ、日中戦争、太平洋戦争に代表されるようなファシズムが国を覆っていた時代、音楽と音楽家がどのような状況にあったのかに特に興味がある。 モンゴルももちろん素晴らしい音楽の伝統を持っているが、主に社会主義革命後、ソ連を通じて西洋的な音楽を受容してきた。現在でもポップミュージックは盛んであるし、オペラも日常的に興行を続けているという。西洋音楽は十分に浸透しているのであろう。受容史を調べることは無駄ではないように思える。 そして私が最も知りたいのは社会主義時代のモンゴルで、国家がどのように音楽を扱い、社会主義時代、作家達は作家同盟の元で非常な活動の制限を受けたが、音楽の面でも作家同盟と似たようなことが、またソ連や日本のファシズムの下での音楽への制限と近いものがあったのではないか、と私は考えている。加えて日本での研究を見ると、日本の全体主義体制下の西洋音楽の状況は、西洋音楽の受容のあり方とも関係がある。モンゴルでも、西洋音楽が近代になって入ってきた国として、類似性がなかったとは言えないだろう。 そこで、日本やロシア、その他アジアの西洋音楽を受容した国の音楽史の先行研究を、また日本、ソ連、ドイツなど国家権力から音楽家への制限があった事例の先行研究を参考にしながら、モンゴルにおける上に掲げた歴史を調べることを目下自分の目標としている。私のこれからの研究姿勢とどのような論文を書きたいかを、本ノートを通じてより具体的に示したい。 現時点での研究姿勢の大枠を以下に示す。 日本ではモンゴルのこの種の研究に関しては先行研究、資料ともに不足しているし、また私の調べも現時点で不十分であるので、まずロシア、日本、中国における西洋音楽受容史の先行研究にまず触れて、モンゴルでの受容史にも当て嵌まる可能性の高い事柄を挙げていき、似たような研究アプローチができないか、その可能性を提示する。これを将来の論文に備えて第1章とする。 次に、ソ連、ドイツ、日本で全体主義体制下での音楽の先行研究を概観し、共通する事柄を挙げ、モンゴルでも類似した事柄があるかどうかの可能性について考える。そこからこれから自分が行う調査の方向性を明らかにする。これを上と同じく将来書く論文に備えて第2章とする。 もちろん、この形は暫定的なものであって、モンゴルで、西洋音楽受容や音楽政策、社会主義体制下での音楽家の活動について、もっと資料が得られれば変更するかもしれない。 第1章西洋音楽の受容 国家の西洋的近代化が始まると、政治、産業だけではない様々な局面においても西洋的な意味での近代化が始まる。音楽も例外ではない。ヨーロッパで発達した音楽語法、楽器、演奏のあり方、芸術のあり方が輸入される。そしてそれ以前に育ってきた音楽文化と結びつき、新しい発展を見る。現在は西洋的な音楽のあり方は日本でも中国でもモンゴルでもあらゆるところに浸透している。民族音楽と呼ばれるような伝統音楽の分野にさえもその影響は大きい。ではその西洋音楽導入の先駆けとなったものは何であったのか、どのような状況で入ってきたのかをまず確かめたい。できれば将来的に、西洋音楽の受容とそのあり方がその後の歴史にどのような影響を及ぼしたかまで考察を深められたら、と考えている。 第1節 ソヴィエト・ロシアでの受容 ロシアは現在でこそ西洋的な意味での音楽文化の重要な発信国であるが、ロシアもまたアジア諸国とは事情は少々異なるけれども「西洋音楽」を後から受容したのだ。この歴史は伊藤恵子(2002)『革命と音楽』(音楽之友社)によると以下のようである。ロシアは長い間西ヨーロッパとは異なる音楽文化を有していた。ロシアの民族音楽と、ビザンツ帝国からの宗教音楽である。しかしそこにまずカトリック様式の宗教音楽が、そしてロシア皇帝の権威の強大化と西欧化に伴い、貴族のサロン文化の一環として娯楽としての西洋音楽が入ってきたのである。また、移民もこの受容と普及に大きな役割を果たした。そしてロシアにも資本主義が興ってくるにつれ、貴族お抱え以外にも音楽家が活躍の場を広げ、常設の劇場など民衆との接点も増えていった。この時期、文学などその他の芸術と並び、音楽にも、国民楽派と呼ばれる、ロシアの伝統文化、民衆の文化と強く関わりを持つ現在進行形の芸術作品を生み出すようになるまで発展していったのである。その流れは20世紀初頭のロシアン・アヴァンギャルドの下地となる。 第2節 日本、中国などでの受容 日本の国家レベルでの西洋音楽の導入は明治維新(1868年)と共に始まったが、ロシアの貴族サロン文化としての受容とは大きく異なり、国家を統治する為の西洋音楽受容であった。まず塚原康子(2001)「軍楽隊と戦前の大衆音楽」(『ブラスバンドの社会史』青弓社 p.83-124)によると、まず軍隊の近代化に伴い、軍楽隊が創設され、その軍楽隊が西洋式軍制の実用的役割のみならず、公共での演奏活動による西洋音楽の普及媒体としての役割、管楽器奏者を中心とした音楽家の養成機関としての役割も同時に果たした。国家レベルではもう一つ、公教育における学校唱歌が、これも児童への教育の実用的な目的を持っていた(田中耕治他(2005)『新しい時代の教育課程』有斐閣アルマを参照)が結果的に西洋的な意味での音楽普及(つまり伝統音楽以外の外来の音楽という意味で)の一翼を担うことになった。それからもう一つ、キリスト教の音楽が入ってきたこと(ここはロシアと共通である)も、聖歌などに魅了されて音楽家を志す者も多かったことから、重要である。日本以外の国を見てみると、例えば中国でも清朝時代末期に、日本から帰ってきた留学生を通じてというルートもあったものの、主に西洋式軍楽隊、学校唱歌、キリスト教のミッションスクールから西洋音楽が入ってきている(石田一志(2005)『モダニズム変奏曲 東アジアの近現代音楽史』朔北社、p198-206を参照)し、韓国でも同様である(石田一志(2005)『同上』p346-357を参照)。また許常惠(1995)「台湾の音楽」(櫻井哲男編『二〇世紀の音』ドメス出版)によると台湾でも、軍楽隊については述べられていないものの、西洋音楽導入におけるキリスト教と学校教育の役割に言及している。 第3節モンゴルでの受容 ではモンゴルの場合はどうか。上記の日本、中国などの例をみると、宗教(キリスト教)、軍隊、学校教育を中心に西洋音楽が導入されている。モンゴルはというと、1914年にボグド・ハーン宮の側で軍隊の吹奏楽団が結成されており((1999)”Mongoliin soyoliin tu ukh”,p218)、社会主義革命時の有名な歌《Shvee Hyagt》はモンゴルにおける最初の西洋的な技法を用いた作曲と位置づけられている((1981)”BNMAU-iin soyoliin tuukh”1,p276)。教育においても1928年の教育計画を見ると、唱歌が教科に入っているのが分かる(参照:神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版)。ただキリスト教に関しては未確認である。西洋音楽導入のあり方は日本や中国などと似通っていた可能性が高い。それに加えて、西洋音楽の「普及」には、主に国家政策や社会主義思想を宣伝するための、地方への巡業音楽会が大きな役割を果たしたと思われる。モンゴルにおける西洋音楽導入に関して、未確認の宗教が果たした役割があったのかどうかを含めて、誰が、あるいはどの機関が、どのような過程でモンゴルに西洋音楽を導入したのか、それにはどのような目的があったのか、をさらに詳しく調べていきたい。 第2章 音楽政策―国家、政治が音楽をどう扱ったか 第2章では全体主義の国家が音楽、特に西洋音楽をどのように扱ったかを、音楽家の組織化に注目しながら見ていく。全体主義国家がどのような音楽政策を行い、そのことで音楽界と社会にどのような影響を及ぼしたかを考える。ソ連、そして第二次大戦中のドイツと日本の研究が詳しいのでそれぞれ第1から3節でその先行研究について触れる。それらをふまえた上でモンゴルについて第4節で言及する。 第1節 ロシア(ソヴィエト連邦)の音楽政策 ソヴィエトでの音楽は「音楽は大衆を一つにするための手段」というレーニンの言葉どおり扱われた。国家が芸術家を統制し、社会主義リアリズムの思想にそぐわないものは排斥した。ただレーニンはこうも述べていた。「芸術を自由に理解し、作品の形式や内容は自由であれ」、「検閲からの解放は皇帝からの解放だから、民衆もその恩恵を受けるべき」この言葉は革命初期においては真実味を持っていた。現に20世紀初頭ではほかの芸術界全体にロシアン・アヴァンギャルドと呼ぶべき新しい芸術運動が興り、音楽においても今までにない様々な試みがなされた。神秘主義、原始主義、12音技法、微分音、電子音、機械文明と音楽の融合などである。しかしそれもスターリニズムの下では抑圧の対象となった。「プロレタリア音楽家同盟」のもたらした混乱(進歩的な音楽家を攻撃し、極端なプレタリア音楽観を押し付けようとした。)の後、国家による音楽家の統制、管理が行われた(ローレル・フェイ/安原雅之訳(1997)「ソヴィエト連邦:1918-45年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社,p9-30)。反体制的な音楽、実験的で大衆に分かりにくいとされる音楽は、抹殺されるか無視された(具体的には発禁や演奏禁止)。抑圧された音楽は、国内で作られたものはもちろん、海外から入ってくる音楽にも制限がかけられていた。欧米からのジャズや前衛音楽などは資本主義的、ブルジョア的退廃として退けられた。この状況に異を唱える者は亡命するか、作品を通じて密かな抵抗をするしかなかった。ペレストロイカまでこの閉塞状態は続くことになる。ただ、ここで政治における民族主義が抑圧された一方で、民族音楽、民族的な語法による作品が歓迎されたと言う事実は興味深い。とにかく芸術の新しい展開よりも、分かりやすい音楽、社会主義政策に沿う「健康的な」音楽を国家が求めていたのだ。 第2節 ドイツ(第三帝国)の事例 エリック・リーヴィー著/望田幸男監訳(2000)『第三帝国の音楽』(名古屋大学出版会)に沿って話を進めると、ナチス政権下のドイツでは、ナチスがドイツの純粋性を主張し、文化もそれにふさわしいものになるよう制限を加え、あるいはドイツ文化の優秀性の宣伝広報につとめた。このプロセス、方法は共にソ連と似通っている部分が多い。ただここでいう制限の目的はドイツ音楽界の純粋性を守り、ユダヤ人、共産主義者を追放することが目的であった。そのため、ユダヤ人社会の中のみの音楽家組織を作るなど特徴があった。また黒人が劣等人種であるという理由からジャズが攻撃されたり、ユダヤ人攻撃によってロマン派の大作曲家メンデルスゾーンの楽譜が焼かれたりした。ユダヤ文化批判者であったワーグナーの音楽は逆に盛んに持ち上げられた。 もちろんドイツ人の全芸術家を統括する帝国芸術院の下で音楽家も管理された。加えて、ナチスの実力者はきわめて個人的に、自分の権威を示す道具として、特定の劇場を支援することもあった。この点では組織の国家的一元化は、ソ連と違い失敗しているように思える。こうしてナチスが音楽政策に盛んに乗り出したのは、ソ連と同様の20世紀初頭の新しい芸術運動の勃興に、ナチスの主な支持母体であった保守層が伝統的ドイツ文化崩壊の危機感を抱き、攻撃していたからであった。 第3節 戦前、戦時中の日本の音楽政策 日本はドイツを模範として、特に1940年から1945年の敗戦までは国内での音楽家の組織化、統制が行われた。また、1930年代から満州国、中国の占領地での文化工作も音楽を含めて進められていたが、それについては別に機会を設けて述べたい。国内では1934年の「プロレタリア音楽同盟」への弾圧が初期の国家の圧力であろう。その後、愛国精神を高揚させるような歌のコンテストの開催、日中戦争開始に伴う経済統制により楽器などの輸入が制限を受けたこと、同じ時期、演奏活動を警察に届け出なくてはならなくなったことへと、国家の音楽政策は次第に強まる(戸ノ下達也(1993)「戦時体制化の音楽界」参照)。秋山邦晴(2003)『昭和の作曲家たち』(みすず書房)によると、この時期、音楽家たちの多くは自分達の音楽のレベルアップ(演奏技術、公演の質、作曲技法等)に関心が偏っていて、世情への理解が浅かったといってもよく、目だった抵抗運動はなかった。むしろ、紀元2600年記念行事(注)に参加したり、戦時体制下で文化をなおざりにする風潮から音楽家の立場を守るべく、国家により文学者を統制し国策に協力させる団体である会「文学報国会」に近い性格をもつ「音楽文化連盟」を組織したりと、国策に対して疑問を呈するようなことはしなかった。またソ連と違って作品による密かな抵抗というのもほとんどなかった。結果として安易な民族的作品、愛国的な作品が生まれ、またソ連ドイツと同じように、実験的な音楽の流れは断ち切られ、退廃的な音楽とされたジャズなどが禁止された。 (注:伝説上の天皇・神武天皇の即位年を元年とした暦で1940年がその2600年にあたる。当時の皇国主義の下で盛んに使われた。そのため、1940年には記念すべき年としてオリンピックや万博が企画されたが、日中戦争の泥沼化で開催できず、代わりの様々な行事が行われた。) 第4節 モンゴル人民共和国の音楽政策 モンゴルの音楽政策に関しては、まだ私はあまり研究を進められていない。しかし、上のソ連、ドイツ、日本の例をみると、全体主義の下では音楽家の職能別組織化、退廃的と国家が烙印を押した音楽の排除が行われ、作品の問題としては、分かりやすい、愛国的な、特に民族的な作品が歓迎された。モンゴルはソ連に指導、影響を受けている。1933年にはモスクワの音楽コンテストにモンゴルの音楽家が参加している。ソ連でのものと同じような政治的な力がモンゴルの音楽家にも働いた可能性が高い。また日本と同じように、西洋音楽受容と、国家の近代化が同時にしかも短期間に行われた。党に捧げる音楽以外では、民族オペラや民族バレエ、そして草原や馬頭琴など民族楽器を扱った作品が目立つ(モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社)。また革命初期の有名曲《Shvee hyagt》は民謡を基に作られている(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』)。日本と同じように国家の政策と共に音楽も民族的になっていく傾向があったのではないかと推察される。さらに、モンゴルが中国、ロシア白軍の抑圧から独立して間もなかった事も、音楽においても民族主義を高揚させることになったかもしれない。もう一つには、ソ連の手法、つまりより親しみやすく、民衆に社会主義思想を伝えやすくする音楽には民謡など民族的音楽語法を利用した方が、国民に受け入れられやすい、と言う方法がソ連により指導されたかもしれないし、モンゴルが自発的にその手法を取り入れたかもしれない。 音楽家の組織化の問題としては、1930年代、M.Dugarjavが、論文で音楽家の組織の必要性を説いている(Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所,p280)。また劇場、歌舞団の設立や、地方を巡業する社会主義思想普及のための音楽会も数多く開かれているという。社会主義時代には国家が積極的に音楽に関与していったのであろう。そこで、1:国家が音楽に対してどのような思想を持っていたか(社会主義リアリズム、ソ連からの影響)、2:その思想をどのような形で実行したか(ソ連の文化面での指導、モンゴルの音楽政策、音楽家養成、音楽家の統制組織、演奏団体の組織、巡回音楽会の活動内容など)、3:そのような状況下で音楽家たちがどのような活動をしたのか(演奏の内容、演奏レパートリー、作曲された作品、反体制音楽家やそれに近い活動をした音楽家がいなかったか、などの問題)、4:その結果どのような影響が社会にあったか(音楽と民族主義、音楽と思想、他の芸術分野との協力、どのような音楽が歓迎されたか、などの問題)を具体的に調べたい。 終わりに 今後の方針と目標 私は近現代モンゴルにおける文化、歴史と音楽の関わりを深く理解したい。具体的には国家が音楽をどのように利用したか、音楽家たちをどのように扱ったか、そしてその社会の中で音楽家たちがどのような活動を行ったのか、である。これらを可能な限り詳しく論じられるよう調べを進める。上に書いたソ連、ドイツ、日本で行われている様な研究をモンゴルで行いたいのである。 論文を書いた先には、最終的にモンゴルの近代音楽の歴史を総括し、それを日本語あるいは英語で発信できるようにしたい。それをできるだけ多く人たちに読んでもらい、民族オペラや歌、オーケストラ、軍楽隊、民族音楽を含む近代モンゴル音楽史の紹介を広くできるようになりたいと願っている。 参考文献: モンゴル Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所 Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳(2002)『モンゴル現代史』明石書店 生駒雅則(2004)『モンゴル民族の近現代史』(ユーラシア・ブックレットNo.69)東洋書店 小貫雅男(1993)『モンゴル現代史』山川出版社 神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版 上村明(2000)『喉歌フーミーとモンゴル(人民共和)国の芸能政策』国立民族学博物館 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内モンゴル(1) [中国大紀行DVD 第5巻 シルクロードと内モンゴル より] 短いVTRですが、南モンゴルについての紹介映像です 日本初 南モンゴルデモ行進1 日本初、南モンゴルデモ行進2 モンゴル自由連盟党が中国大使館に抗議文書提出 7月5日東京六本木でモンゴル自由連盟党主催のデモ行進が行われました。 映像は三河台公園での集会の様子。殿岡昭朗氏、イリハム氏、永山英樹氏、ダシイ氏、吉 田康一郎氏らが演説を行いました。 以下のページで約30枚の写真もご覧になれます。 http //dadao.kt.fc2.com/ron154.htm 内容 南(内)モンゴルの現状とダイチン君一家難民申請 日本では余り知られていない中国領南モンゴル(内モンゴル)の人権問題ですが、同地は 既に人口比率では80%以上を漢族が占め、モンゴルの伝統文化や言語は消滅の危機に晒 されています。その南モンゴルから日本に留学してきたダイチンさん一家は、このたび日 本においてモンゴルの自由と人権改善を求めるモンゴル自由連盟党に参加、政治難民とし ての難民神聖を行っています、今回の読者の会ではダイチンさんをお迎えし、モンゴル民 族との連帯の可能性、日本のモンゴル支援のあり方などを考えていきたいと思います。是 非多くの方々のご参加をお願いします。 中国民族問題研究東京読者の会 1/4 中国民族問題研究東京読者の会 2/4 中国民族問題研究東京読者の会 3/4 中国民族問題研究東京読者の会 4/4
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