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ノストラダムス2世(Michel de Nostradamus le jeune, 1574年歿?)は、ノストラダムスに便乗した同時代の占星術師の一人である。本名や生年は不明で、ノストラダムス本人との血縁関係は一切裏付けられていない。また、「ノストラダムスの弟子」と自称していたが、この点も裏付けが取れない。 なお、Nostradamus le jeune は「若者(の方の)ノストラダムス」の意味である。普通「2世」は姓でなくファースト・ネームにつくものなので、むしろ「小ピット」「小デュマ」などにならって「小ノストラダムス」とでもした方が良いのかもしれないが、先行する文献に倣って「ノストラダムス2世」としておく。 【画像】ノストラダムス2世の肖像画(『20年間の予言』扉の木版画)(*1) 活動 記録上この名前を初めて確認することができるのは1568年のことである。しかし、現在では、これに先行して登場していた「ミシェル・ド・ノストラダムス」(Michel de Nostradamus, Mi. de Nostradamus)と名乗る偽者も同一人物であろうと考えられている。当時、本物のノストラダムスの著者名表示は「ミシェル・ド・ノートルダム」(Michel de Nostredame)ないし「ミシェル・ノストラダムス」(Michel Nostradamus)となるのが基本で、 「ノストラダムス」の前に de が入ったケースは全くなかったし、 Michel を Mi. と略記することもなかったからである。 1563年に出版した『占星術論』を皮切りに、矢継ぎ早に著書を出版した。彼はキュプリアヌス・レオウィティウスの『20年間の予言』やフランソワ・グリュデの予言アンソロジー、さらに本家ノストラダムスの『化粧品とジャム論』などを遠慮なく剽窃し、自分名義で出版した。 ノストラダムスが生きていたときは弟子を名乗り、著書の献辞の中では「(私が本家ノストラダムスの)弟子と自認することを何ら恥じるものではありません」と相当に厚顔なことまで言ってのけていた(*2)。 ノストラダムスが死ぬと le Jeune(若い方、2世)をつけて活動するようになった。このため、同時代の大書誌学者ラ・クロワ・デュ・メーヌもノストラダムスの子供として紹介していた(*3)。これを引き継ぐかのように、後代の研究家・書誌学者の中には実子セザール・ド・ノートルダムと混同してしまうケースも見られた。 また、テオフィル・ド・ガランシエール、バルタザール・ギノーなどのように、この人物をノストラダムスの長男と位置づけ、セザールを次男としているものも見られた。こうした位置付けは19世紀のミショーの人名辞典などにも引き継がれた。 この人物の著述活動の特色は、他の偽ノストラダムスに比べ、再版・再編集版が多いことである。このことは、彼の著作が比較的売れていたことを表しているように思われる。 ただし、この人物の素性は本名も含めてほとんど明らかにはなっていない。唯一、最期に関するエピソードがよく知られている。 入手できる範囲で最古の部類に属する資料から引用しておこう。ローラン・ボルドロンの『判断占星術について』(1689年/1710年)である。 オービニー(Aubigny)は次のように語っている。モンパンシエ公の御子息がリヨンとマルセイユの間にあるル・プサン(Le Poussin)を陥落させた。町が略奪されていたとき、ノストラダムス2世(le jeune Nostradamus)が居合わせていた。彼は、ミシェル・ノストラダムスの息子である。父親は有名な予言者にして「曖昧な言い回しで何でもないことしか言わない男」(diseur de rien, en termes obscurs)であり、パリ市民だったエチエンヌ・ジョデルは彼に対して次のような面白い二行詩を作った。 Nostra damus, cum falsa damus, Et cum falsa damus, nil nisi nostradamus. そんな父親にふさわしい息子だったノストラダムス2世は、サン=リュック殿(Monsieur de Saint-Luc)に町が火で滅びると保証し、そのあとで嘘にならないようにと火をつけて回っているところを取り押さえられた。 翌朝、サン=リュック殿はこの詐欺師を罰するために、また同時に予言を馬鹿にするために、お前に今日降りかかる顕著な災いは何かと尋ねた。ノストラダムスは何も見えませんと答えた。すぐさまサン=リュック殿は手にもっていた鞭の先端でからかうように彼に触れたが、それと同時に乗っていた馬が彼の腹に重い一蹴りを入れたので、彼の腹はその場で破裂した(*4)。 ル・プサン(Le Poussin)とあるのはル・プザン(Le Pouzin)のことである。 オービニーという人物からの孫引きである通り、ボルドロン以前にこれに触れていた論者が何人かはいたようである。 ピエール・ド・レトワルの日記にも、この件に関する簡略な記述はあるらしい。ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)はそれを引用しているが、それは1720年版に登場する記述らしく、果たして本当にオリジナルの記述なのかはよく分からない。 少なくとも18世紀初頭の段階では、ノストラダムスの息子がインチキ予言の廉で処刑されたと広く信じられていたらしいことだけは明らかだろう。 ただし、バルタザール・ギノーたちの著書には見られない。ノストラダムス関連書の中で古い部類に属する紹介は、ウジェーヌ・バレスト(1840年)によるものだろう。そこでの紹介を引用しておくが、ボルドロンへの過剰な敵対心は差し引いて考えておくべきだろう。 哲学者ボルドロンは1689年に、予言者たちに対する凡庸な風刺書『判断占星術について』を著し、その中でノストラダムスに奇抜な判断を下した。彼はノストラダムスのことを、何故かは知らないが「曖昧な言い回しで何でもないことしか言わない男」と呼んだのである。我々はもっと後で、「何でもないこと」に何がしかの価値があり、十分に明瞭に表現されていることを見ていくことになる。 さて、この哀れなるボルドロンは、彼が攻撃したかった当の人物についてろくな知識を持ち合わせておらず、予言者であった父ミシェルと歴史家であった息子セザールの区別もついていなかったのである。これほどひどい無知で論じるのは無理というものだ! オービニーによれば、モンパンシエの息子がル・プサン(原注:これは同名のフランス人芸術家ではなくリヨンとマルセイユの間の防衛拠点 place forte である)を攻略したそうだ。ボルドロンが付け加えて言うには、「町が略奪されたとき、ノストラダムス2世はサン=リュック殿に町が火で滅びると保証した後で、嘘にならないようにと火をつけて回っているところを取り押さえられた。(まだ語っているのはボルドロンである。) 翌朝、サン=リュック殿はこの詐欺師を罰しつつ予言を馬鹿にするために、お前に今日降りかかる顕著な災いは何かと尋ねた。彼は何も見えませんと答えた。すぐさまサン=リュック殿は馬鹿にするように鞭の先端で彼に触れたが、それと同時に乗っていた馬が彼の腹に重い一蹴りを入れたので、彼はその場で絶命した」。 これはボルドロンが確言しているが、彼にとっては不幸なことに事実ではない。彼が述べている若いセザールとやらは、その時に74歳くらいになっていたのである。これは時代錯誤と見なされるべきだろう。そこで死んだのは若いミシェルであってセザール・ノストラダムスではない。 ル・プサンの陥落後にミシェルが馬に押しつぶされたのは事実である。しかし、ボルドロン氏も、この不幸が占星術師にもそうでない人々にも及ぶかもしれないことについては、我々と意見が一致するだろう。ここで我々があえて抗弁したいのは、サン=リュック殿の愛馬にはろくな知能がなかっただろうということである(訳注:馬が蹴ったのは偶然であって、インチキ占星術師だから罰したわけではなかったということ)。 いずれにしても、『リシュレの蔵書』でのルクレルク、『王太子の教育に関する言説』でのラモト=ル=ヴァイエ(*5)といったこの逸話を語っている書き手のものを、我々がそうしたように注意深く読んでみれば、ノストラダムスの中傷者の一人であるボルドロン氏は、彼が攻撃するに違いない人々以上に、そういう人々、つまり偽予言者たちにそっくりだということを確信できるのである。(*6) 改めてボルドロンの紹介を読み直していただけば、セザールになど一言も触れていないことは明らかで、バレストの批判は全く筋違いなものである。また、馬の行動に脚色があったとしても、それで偽予言者呼ばわりするのはやりすぎだろう。 しかし、このエピソードが予言に批判的な側から出されたものであるにもかかわらず、事実関係自体はバレストも否定していない点には意味があるだろう。つまり、その程度には信頼性を持っているエピソードと受け止められているのである。 関連項目 ノストラダムス2世の著書一覧 ノストラダムスの弟子 名前 コメント
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『虹とノストラダムス』は、太田忠司の小説。2012年にPHP研究所から発売された。帯の惹句は「あの頃、僕たちは世界の終わりを信じていた」「『あの予言』に触れたすべての人に贈る物語」。 【画像】カバー表紙 コメント 粕谷知世の『終わり続ける世界のなかで』のように、日本のノストラダムス現象を題材にとった小説といえるだろう。 海外の場合、ノストラダムスその人を題材にした小説や演劇は古くからあるが、ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌやパコ・ラバンヌの解釈が惹き起こしたパニックを題材にした創作の話は、当「大事典」では確認していない。ノストラダムスその人よりも、五島勉の『ノストラダムスの大予言』が与えた社会的影響の方が創作の題材になりやすいという点も、日本のノストラダムス現象の特殊な側面を示すものといえるだろう。 文庫版 2016年5月に『明日、世界が終わるとしても』と改題して、PHP文芸文庫から刊行された。 【画像】 カバー表紙 書誌 書名 虹とノストラダムス 著者 太田忠司 版元 PHP研究所 出版日 2012年10月11日 注記 外国人研究者向けの暫定的な仏語訳書誌(Bibliographie provisoire) Titre Niji to Nostradamus (traduction / L’arc-en-ciel et Nostradamus) Auteur ÔTA Tadashi Publication PHP Kenkyûjo Lieu Tokyo, Japon Date le 11 octobre 2012 Note roman. ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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シーチキンにきゅうりのスライスと白菜の千切りを塩でもんだやつを 加えて醤油ちょっとかけて食べる。 (゚д゚)ウマー 1冊目 10さん
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(現在、改組中。現時点で確定している役職のみ公開) 創始者 わさらー 団長 るいくん 四天王 邪心あいぼー さつまりこ たーか 七天候 大空 若葉みどり 嵐 二刀流騎士凱亜 雨 彗星霊路 雲 和仁 晴 赤火 雷 わさこ 霧 hayato 特別役職 【ワサラー団公式Youtuber】 5歳児るきちゃん 【匿名クラブ会長】 かみなん会長 【ワサラー団広報】 桃乃瀬ゆかり 【公認Youtuber】 メロンchan 【秘書】 紫貴れんげ 一般団員 一般団員 退団者 退団者
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ジン=キサラギ(CV:柿原 徹也) プロフィール 性格など 性能 ストーリー(CT) ストーリー(CS) ストーリー(CP) 関連キャラクター プロフィール 身長 : 178cm 体重 : 61kg 血液型 : A 出身地 : イギリス 誕生日 : 2月14日 趣味 : ビンテージ物のバイク集め 大切なもの : 無し 嫌いなもの : 弱いもの、肉料理 性格など 名家"キサラギ"家の出身、統制機構の衛士で階級は少佐。 イカルガ内戦での功績により「イカルガの英雄」と呼ばれ、異例の若さで師団長となる。 冷静沈着で他人には無関心だが、衛士として、また指揮官として非常に優秀である。 しかし、本来の性格は野心家で嫉妬深く、独占欲が非常に強い。 性能 ゲーム中では多彩な剣術と、相手を凍結させる専用の特殊技"零刀(フロストバイト)"を組み合わせて戦う。 ラグナ同様、本作における初心者向けのポジション。飛び道具・対空・突進技と基本的要素が一通り詰まっている。 CPにて必殺技に大幅な変更が入り、CSEXまでとはやや違う要素をもつキャラとなった。 ストーリー(CT) 任務には忠実であったはずの彼は、ある日突然統制機構の命令を無視し、単身第十三階層都市"カグツチ"へ向かってしまう。何かに導かれるように…。 ストーリー(CS) 第四魔道師団の団長を務める統制機構衛士で階級は少佐。 第二次魔道大戦での活躍によって「イカルガの英雄」と呼ばれている。 先の事件後、関連施設で怪我の治療を受けていたが、何かに導かれるように再び統制機構カグツチ支部へと向かう ストーリー(CP) イカルガの英雄と讃えられていたジン=キサラギだが、ある出来事をきっかけに統制機構を離れた。 秩序の力によってユキアネサの呪縛から解放されたジンは、獣兵衛の教えを受け一人イカルガへと向かう。 関連キャラクター ラグナ=ザ=ブラッドエッジ ノエル=ヴァーミリオン レイチェル=アルカード シシガミ=バング ハクメン ツバキ=ヤヨイ ハザマ マコト=ナナヤ
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現在のノストラダムスの墓はサロン=ド=プロヴァンスのサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)にある。 しかし、もともとノストラダムスが遺言していた場所はそれと異なっており、移転されたのは1813年のことであった。 ノストラダムスの遺言 ノストラダムスは口述した遺言書の中で、次のように埋葬場所を指定していた(当「大事典」の区分でいう3節)。 本遺言人ミシェル・ノストラダムス師はその魂が肉体から召し上げられた暁には、その亡骸が前記サロン市の聖フランチェスコの修道院の墓所に丁重に葬られることを望み、また命じる。そして、その〔修道院の〕大扉と聖マルタの祭壇の間の壁に寄り添う墓碑または記念碑が作られることを望む。 「聖フランチェスコの修道院」とはフランシスコ会修道院のことである。 実際に、当初はフランシスコ会修道院附属聖堂でこの遺言の通りに埋葬されていたといい、壁には墓碑が掲げられた。 しかし、この墓碑についての16世紀から18世紀までの証言は、ノストラダムスの存命期間に関する食い違いを含んでいる。 最初の墓碑 最初の証言 墓碑に関するおそらく最初の証言はラ・クロワ・デュ・メーヌのものである。彼はその書誌(1584年)の中で、こう述べている。 彼の死に際して作成された墓碑から私が知ったところによると、彼は1566年7月に62歳6か月17日で亡くなった。 シャヴィニーの証言 次の証言はジャン=エメ・ド・シャヴィニーの『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年)に収録された伝記である。 彼の墓所には墓碑銘が刻まれているが、それは(上で触れた)古代ローマの年代記作者である大ティトゥス=リウィウスの墓碑銘の模倣である。今日、それは彼の亡骸が立派に葬られ安置されているサロンのコルドリエ派の教会で見ることができる。そこに刻まれたものは、以下のような言葉がラテン語で記されたものなので、私はこう訳しておく。 ここにミシェル・ド・ノートルダムの骨が眠る。ほとんど神のような彼の筆は、星辰の影響に従って、地上全ての未来の出来事を人々に描き、伝えたと言うにふさわしいものと判断された。彼はプロヴァンス州サロン・ド・クローで1566年7月2日に、62歳6ヶ月17日で亡くなった。おお、後世の人々よ、彼の遺骸に触れてはならぬ。この者の眠りを一切羨んではならぬ。 このシャヴィニーの著書はフランス語とラテン語の対訳になっており、上記はそのフランス語部分からの翻訳である。ただ、比較のため、墓碑の原文はラテン語部分を引用しておく(*1)。 D. OPT. M. OSSA MICH. NOSTRADAMI VNIVS OMNIVM MOR- TALIVM IVDICIO DIGNI, CVIVS PENE DIVINO CALAMO TOTIVS ORBIS EX ASTRORVM INFLV- XV FVTVRI EVENTVS CONSCRIBERENTVR. VIXIT AN. LXII. MENS. VI. DIES XVII. OBIIT SALONÆ PETRÆÆ [sic.] AN. CHRISTI M. D. LXVI. DIE II. IVLII. QVIETEM POSTERI NE INVIDETOTE. この墓碑は、上でシャヴィニー自身のフランス語訳(の当「大事典」での和訳)を引用したように、ラ・クロワ・デュ・メーヌの簡略な紹介と何も矛盾しないものである。 セザールの証言 ノストラダムスの息子セザール・ド・ノートルダムの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)にも、ノストラダムスの墓碑は引用されている(*2)。 問題となるのは、その文面がシャヴィニーのそれと明らかに異なる点である。 D. M. OSSA CLARISSIMIMICHAELIS NOSTRADAMI VNIVS OMNIVM MOR- TALIVM IVDICIO DIGNI, CVIVS PENE DIVINO CALAMO TOTIVS ORBIS EX ASTRORVM INFLVXV FVTVRI EVENTVS CONSCRIBEREN- TVR. VIXIT ANNOS LXII. MENS. VI. DIES X. OBIIT SALONAE CIƆ IƆ LXVI. QVIETEM POSTERI NE INVIDETE. ANNA PONTIA GEMELLA, CONIVGI OPTIMO. V. F. シャヴィニーと異なる部分には下線を引いた。 この墓碑についてはエドガール・ルロワのフランス語訳や竹下節子の日本語訳がある。ここでは竹下訳を引用させていただく(*3)。 偉大なる神へ。ここに有名なミッシェル・ド・ノートルダムの遺骨が眠る。彼は全ての人間の中で選ばれて、天体と全宇宙の軌跡を追い、ほとんど神のような筆で未来の出来事を書きあらわした。彼は六二年と六カ月と一〇日生き、一五六六年にサロンで死んだ。彼の休息を羨まないように。みんないつかは彼に続く。アンナ・ポンティア・ジェメラより愛する夫へこの墓銘碑を贈る。 細かな表記の違いはさておき、いくつか問題となる違いが存在している。 ノストラダムスの生涯が62年6か月10日なのか17日なのか。 ノストラダムスの命日がシャヴィニーの方に明記され、セザールの方では省かれている。ラ・クロワ・デュ・メーヌの証言は前者と一致する。 妻アンヌの名前がシャヴィニーの転記では省かれている。 以上3点は誰の目にも明らかな点であろう。パトリス・ギナールは上記3つに加え、 シャヴィニーの転記は古代ローマ式の D.M.(「死者の御霊に」。竹下訳では「偉大なる神へ」)がキリスト教式のD.OPTO.M.(至高善なる神に)とされ、単なる「年」がわざわざ AN CHRISTI (キリスト紀元の年)とされるなど、シャヴィニー版の方がキリスト教色が強まっている。 という点も指摘している(*4)。 1716年ごろの偽ピエール・リゴー版 18世紀に刊行された『予言集』の中には、墓碑とそのフランス語訳を転記するものも複数現れた。 その最初のものはおそらく1716年ごろに刊行されたと推測されている偽ピエール・リゴー版である。 D. O. M. CLARISSIMI OSSA MICHAELIS NOS TRADAMI, VNIUS OMNIUM MORTA LIUM JUDICIO DIGNI CUJUS PENE DIVINO CALAMO TOTIUS ORBIS. EX ASTRORUM IN FLUXU FUTURI EUENTUS CONSCRIBERENTUR ;VI XIT ANNOS. LXII. MENSES. VI. DIES XVII. OBIIT SALONE , ANNO M.D LXVI. QUIETEM POSTERI NE INVIDE- TE ANNA PONTIA. GEMELLA SAL LONIA CONJUGI. OPT. V. FELICIT 改行位置は当「大事典」でいう1716PRa に合わせたが、1716PRb などは異なっており、別に本来の墓碑の改行位置を再現したというものではないだろう。なお、最後の部分が 1716PRbでは OPT. V. C.FELICIT となっている。 いちいち訳はつけないが、全体としてはシャヴィニーよりもセザールの転記に近い。しかし、生涯の期間は62年6か月17日となっている。 墓の移転 ノストラダムスの墓は、フランス革命初期に暴かれた。ルイ・ジモンの『サロン市の年代記』(1882年)にはこうある(*5)。 ノストラダムスの遺骨は散らばってしまい、略奪に遭っていた。地元の伝説によれば、あるマルセイユ人が頭蓋骨を盗み、盃に使ったという。 ダヴィド市長は、彼にできた範囲でプロヴァンスの預言者〔引用者注:ノストラダムス〕の遺骨を集め、ノストラダムスとその息子セザールの肖像画(それらはセザールによって金属板に描かれたものである)を救い出した。市長は愛国主義者たちにこの興味深い遺留品の保存への関心を持ってもらうために「市民ミシェル・ノストラダムスは自由を予言していた」と語っていた。 彼は遺骨を、以下のような文面の復古王政期に完成した碑文と共に、サンローラン教会の旧サン・ロック礼拝堂 (l ancienne chapelle de Saint-Roch)の壁の奥に移した。 「自由紀元3年にノストラダムスの墓が暴かれた。彼はその故郷サロンの誉れであり、自由の統治〔引用者注:フランス革命〕を予言したために愛国的フランス人にとってその思い出はかけがえのないものである。彼の遺骸の保存に熱心だった市民たちはそれらを分け合ってしまった。市当局はかろうじてこの墓に納められた分の遺骨を集めることができたにすぎないが、それらはこの有名な人士と歴史家であったその息子の肖像画――描いたのは息子自身――とともに、後世への贈り物を形成するものである」 この碑文にある「自由紀元3年」は共和暦では計算が合わないので、エドガー・レオニが指摘するようにフランス革命勃発から起算しているのだろう。 すなわち西暦1791年ということである(*6)。 その一方、19世紀初頭には移設を1793年とする文献が複数登場するようになっていた(*7)(ルカベル博士はその一例)。 上の碑文に登場するサン・ロック礼拝堂は現在の聖処女礼拝堂(la chapelle de la Sainte Vierge)であるが、そこに掲げられている墓碑は上のような文面ではなく、ラテン語で簡略な移設の事情を付加しつつ、かつての墓碑をほぼ再現するものとなっている。 その移設事情を見る限りでは、墓碑が再掲されたのは1813年7月のことである。 現在の墓碑 RELIQVIÆ MICHAELIS NOSTRADAMI IN HOC SACEL[LV]M TRANSLATÆ FVERVNT POST ANNVM MDCCLXXXIX EPITAPHIVM RESTITVTVM MENSE IVLIO ANNO MDCCCXIII ~~~ D. O. M. CLARISSIMI OSSA MICHAELIS NOSTRADAMI VNIVS OMNIVM MORTALIVM IVDICIO DIGNI CVIVS PENE DIVINO CALAMO TOTIVS ORBIS EX ASTRORVM INFLVXV FVTVRI EVENTVS CONSCRIBERENTVR VIXIT ANNOS LXII MENSES VI DIES XVII OBIIT SALONE ANNO MDLXVI QVIETEM POSTERI NE INVIDETE ANNA PONTIA GEM[ELLA S]ALONIA CONIVGI OPTAT V. FELIC[IT] 【画像】 現在の墓碑(*8) D.O.M. 以下の文面は、句読点の有無と正書法の変化、最後の方の OPTAT を除けば、1716年ごろの偽ピエール・リゴー版の文面と完全に一致する。 そのため、D.O.M.以下はいちいち訳さず、その上の部分だけ訳しておく。そこには、 ノストラダムスの遺骸は1789年以降にこの礼拝堂に移された。その墓碑は1813年7月に再作成された。 とある(*9)。 移転の予言 ノストラダムスは最初、サン=ローラン教会に葬るように指示した後、フランシスコ会修道院附属聖堂へと変更したという説がある。 実際、遺言書の写本の中にはその変更の痕跡を示すものがあるが、無条件に受容することの出来ない話である。 詳しくはノストラダムスの遺言書・遺言補足書の記事を参照のこと。 なお、移転前の旧フランシスコ会修道院は現存しない。 フランシスコ会士の異称「コルドリエ」の名を冠したコルドリエ通りも、現在は Fr. ジュルダン通りと改称されており、そこに立つノストラダムス像が、旧修道院のおおよその位置を伝える(*10)。 礼拝堂の跡地は「ブロシュリー・デ・コルドリエ」という名のレストランになっており、ノストラダムスがかつて埋葬されていたとされる壁も残っている(*11)。 墓碑の作者 ノストラダムスの墓碑を誰が起草したのかはよく分からない。 墓碑の文面そのものは妻アンヌ・ポンサルドの筆であることを示すが、この墓碑はティトゥス=リウィウスの墓碑を翻案したものであることが明らかになっている。 それゆえ、実際の作者ないしラテン語訳者として、アンヌとは別のラテン語に通じた教養人の存在が想定されているのである(もっとも、アンヌ自身の教育水準を示す史料は全くないので、アンヌが作成・翻訳した可能性を積極的に全否定できる理由はない)。 セザール・ド・ノートルダム説 エドガール・ルロワは息子セザール・ド・ノートルダムと見ていた。その根拠となっているのが、セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』の記述である。ルロワは« »でくくって、こう引用している(引用部分のうち、後半を一部略した) この碑文を作ったのが私だというのなら――と、セザールは述べる――、それは誇示や余計な見栄によるものではなく、私をこの世に生み出してくれて、卓抜にして非凡な栄誉のいくばくかの痕跡を残したこの人物の名をより遠くへ、より先へと投げかけたいという欲求と結びついた正当な義務によるものである。 Si j ai composé cette inscription, déclare César, ce n est ni par ostension, ni superflue vanité, mais par un juste devoir, accompagné d un désir de jetter plus loin et plus avant le nom de celui qui m a mis au monde, laissé quelque trace d honneur excellent et non commun...(*12) 竹下節子もこの見解を踏襲している(*13)。 なるほど、上の引用が正当ならば、この碑文を作成したのはほぼ間違いなくセザールということになるだろう。しかし、ピエール・ブランダムールやパトリス・ギナールが指摘するように、この引用は正しいものではない(*14)。実際の『プロヴァンスの歴史と年代記』にはこうある。 これ(墓碑)を私が記しておきたかったのは誇示や余計な見栄によるものではなく、私をこの世に生み出してくれて、卓抜にして非凡な栄誉のいくばくかの痕跡を残したこの人物の名をより遠くへ、より先へと投げかけたいという欲求と結びついた正当な義務によるものである。 Ce que i ay voulu mettre non par ostentasion ou superfluë vanité, mais par vn iuste deuoir, accompaigné d vn desir de jetter plus loin plus auant le nom de celuy qui m a mis au monde, laissé quelque trace d honneur excellent non commun...(*15) この書き方は曖昧である。碑文そのものを書いたとも読めるのかもしれないが、むしろブランダムールやギナールが指摘するように、『プロヴァンスの歴史と年代記』という主題の本の中に、あえて父親の墓碑を引用した正当性を釈明しているようにも読めるからだ。 そして、もし墓碑がノストラダムスの没後間もなく作成されたのなら、周囲の大人たちがあえてその大役を(長男とはいえ)12歳の少年であったセザールに託すのかどうか、疑問が生じるのも事実である(*16)。 竹下節子はセザールが大人になってから贈ったと述べており(*17)、これが事実なら年齢上の問題は回避される。 ただし、どのような史料上の裏づけに基づいているのかは示されていない。 ジャン=エメ・ド・シャヴィニー説 他方、墓碑の作者としてジャン=エメ・ド・シャヴィニーを想定する説もある。これはエドガー・レオニが可能性を示していたものだが、シャヴィニー自身の証言などによるものではなく、ノストラダムスが歿した時点で親しかったラテン語にも通じた学者として、また墓碑がティトゥス=リウィウスの翻案であることを最初に示した人物として、候補に上がったにすぎない。 中には竹本忠雄のように「凝った文体の起草者は、署名者であるノストラダムス夫人という説もありますが、笑止なことで、篤学のシャヴィニの筆によること疑いありますまい」(*18)とまで断言する論者もいるが、裏付ける史料は何一つ示されていない。 また、シャヴィニーがノストラダムスの遺族から墓碑の起草を依頼されるほどに親密だったのなら、墓碑の引用から妻アンヌの名を削る理由がない。イアン・ウィルソンはシャヴィニー自身にはよく分かっていたから削ったと推測したが(*19)、少々不自然ではないだろうか。 そして、ほかでもなく、シャヴィニー自身が別の作者の名前を明言している。それがノストラダムス自身である。 ノストラダムス説 シャヴィニーは『フランスのヤヌスの第一の顔』に収録した伝記のラテン語版でこう述べている。 Epitaphium sibi tale ipse condidit ad imitationem Liviani maxima ex parte(*20) 彼は自分でこの碑文を作成し、リウィウスを大部分で模倣した。 つまり、ティトゥス=リウィウスを模倣した文面は、生前のノストラダムス自身によって準備されていたというのである。パトリス・ギナールは墓碑の作者の可能性が高いのはノストラダムスとし、その根拠としてこれを挙げている。 シャヴィニーはノストラダムスに関する伝記をラテン語とフランス語で書いているが、上記の一文はラテン語版だけにしか見られない(フランス語版でも墓碑は引用されているが作者には全く触れていない)。ゆえに、どこまで本当なのか、当「大事典」としては判断に迷ってはいるが、少なくともシャヴィニーが作者なら、その手柄をわざわざノストラダムス自身に譲る理由はないだろうし、一定程度は信頼できるのかもしれない。 その他 五島勉の脚色 五島勉の『ノストラダムスの大予言II 』(1979年)では、「町外れの墓地」にノストラダムスの「大理石の白い墓石」が「半ば崩れて立って」おり、「妖しい碑文が、いばらとつたに埋もれて」残っているなどと紹介し、以下のような文面を『引用』していた(*21)。 「ノストラダムス。遠き星よりの使者。正しきペンによって偽りなき未来を告げし者。なんじら人間の狂える運命を見守りつつ、ここに静かに眠る。その大いなる予言、果てるときまで」 しかし、上で見てきたように、ノストラダムスの墓は野外にはないし、その文面も「遠き星よりの使者」云々などという意味不明なものではない。 なお、五島自身は上記の設定など忘れたかのように、『ノストラダムスの大予言・最終解答編』(1998年)では、サロンの「サン・ロレアル教会」(原文ママ)の中にある墓の近くで、ビノ師なる人物と会見したと主張している。 教会の名はこの記事の冒頭でも触れたようにサン=ローランであり、そこで重要な人物と会見したという割には、ずいぶんといい加減な印象を受ける。 化粧品企業のロレアルあたりと混同したのだろうか。 【画像】ロレアル パリ エルセーヴ ヘアオイル エクストラオーディナリー 誕生日についての新説 上で見たように、墓碑についての証言はノストラダムスの生涯を「62年6か月10日」とするものと「62年6か月17日」とするものがあった。 通常はただの誤記や誤認の類として重視されなかったが、パトリス・ギナールは「10日」こそが本来の碑文であり、そこから逆算すれば、ノストラダムスの誕生日は定説化している12月14日ではなく、12月21日であるとした。 この説については、記事「ノストラダムスの誕生日」で一括して扱う。 外部リンク Patrice Guinard, Naissance de Michel de Nostredame le 21 décembre 1503 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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登録日:2018/06/16 (土) 20 56 10 更新日:2024/03/11 Mon 18 22 13NEW! 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 AV男優 つるりんDON まめちくび めちゃイケ テレビ パラシュー太 ビーチマット ムチムチ 不死身 乳首 作詞作曲 共に催す 山本圭壱 極楽とんぼ 油 油谷さん 海パン 真空パック ワールドカップが来るたびに、私がやってきた♪ ワールドカップが来るたびに、私がやってきた♪ ♪ W杯と私 by 油谷さん 「油谷さん」とはかつてフジテレビ系列で放送されていた バラエティ番組「とぶくすり」にて登場する極楽とんぼ・山本圭壱が扮するAV男優である。 同番組が「めちゃ2モテたいッ!」そして「めちゃ2イケてるッ!」へと移行した際にはそのまま輸入されて登場した。 非常にインパクトの強い見た目をしており、 センター分けの髪型に海パン一丁、そして「油谷」の名を表す通り、全身がサラダ油でヌルヌルテカテカになっている。 主なオプションはビーチマットと滑り台。 何故かオネエ言葉で話す為、おそらくゲイ要素も混ざっていると思われる。 お決まりの挨拶は笑顔で「チャオ~♪」 memo ・本業:映像関係 ・副業:お祝い事 ・特技:作詞作曲 コーナーの本筋はドッキリ企画であり、大まかな流れとしては 山本を除くメンバーがターゲットの元に行き、トークを繰り広げる。 ↓ なんらかの事情を無理矢理掘り起こす ↓ 「この方が駆けつけてくれました!」 ↓ 油谷さん登場 ↓ 油谷さんによる油の奉仕を受ける といった感じ。 ターゲットはビーチマットかビニールシートに裸で寝かせられ、 油谷さんによる文字通り全身を使った全身マッサージを体験することが出来る。 とは言うものの、90kg近い油谷さんのビジュアルから 油ヌルヌル、全身ネチャネチャ、尻や股間や脂肪をスリスリされる様はお祝いどころか完全に罰ゲームの類。 元々のとぶくすり時代は「素行の悪いターゲットに対し油谷さんがウキウキで現れ、屈辱を味わせる」 という内容だったのだが、めちゃイケ時代には 「4年に一度、ワールドカップの開催年に登場し、何かめでたい事があると、全身マッサージを行ってお祝いする」 という流れに変わった。 特技に「作詞作曲」とあるように、お祝い中は油谷さんが即興で作った適当な歌詞で唄を歌う。 無駄にレパートリーが多く、その際に表示される編集スタッフが付けたであろう題名のセンスも必見。 AV男優という設定だけでもアレな上に、内容が内容なので、当然苦情の声は滅茶苦茶多いらしい。現に21世紀に入ってからはテロップでも表現されなくなり「お祝いに駆けつけた」と言った説明にとどめられていた。 本人曰く、PTAの声に非常に恐れているという。 主な犠牲者祝いの主役は濱口優。 1994年1月29日(アメリカ大会開催年)、22歳の誕生日に寝起きドッキリで最初のお祝いを受けたのを皮切りに、 その4年後1998年1月29日(フランス大会開催年)、26歳の誕生日にもお祝いされ、更にその4年後の2002年1月29日(日韓同時開催年)にもお祝いされ、 更に更に2006年1月29日(ドイツ大会開催年)には山本が交通事故に遭ったというドッキリでお祝いされた。 上記した「ワールドカップ開催のたびにやってくる」というのは濱口が主役の時を指す。 4回も油谷さんのお祝いを受けた芸能人としては当然最多数。 お~めでとう~♪ め~でたい誕生日に、あ~ぶらたにぃ~♪ ふ~じみ、不死身♪ 私は不死身~♪ その他の犠牲者祝いの主役 ◆加藤浩次 98年の誕生日と、02年の嫁の安産祈願、06年の誕生日として油まみれに。 相方なので当然油谷さんのお祝いを受ける。 油を~手に入れるんだ~♪ ◆有野晋哉 06年の濱口誕生会の直後、嫁が妊娠8ヶ月であると暴露されそのままお祝いの席へ。 ワールドカップが来るたびに、子どもが生まれます♪ ◆光浦靖子 誕生日にて女芸人として初の油谷さんによるお祝いを受ける。 股間擦り付けは寸止めしているので女性も安心。 みっちゃん、道々 う〇こ たれて~♪ ◆岡村隆史 とぶくすり時代にも何度かお祝いを受けていたが、 2006年、フジテレビの夏の大型イベント「お台場冒険王」ではめちゃイケが毎年様々な企画を催しておりこの年は某有名遊園地をパクった「東京めちゃイケランド」という企画を開く事になっていた(日程としては山本が謹慎する直前から開催していた)。その開催前の発表会では加藤のザクの模型など各メンバーの私物を勝手に持ち出したり、無理矢理紗理奈のメイクを落としてスッピンの写真(これは後年までしばしばネタにされた)を撮ったりと散々振り回した挙句、岡村だけ被害が軽い事に憤怒した他メンバーが たまたま誕生日が近かった事もあり、ドッキリで油谷さんを差し向けた。 お祝いすること、油の勲章♪ お祝いすること、油の勲章♪ お祝いすること、油の勲章♪ アブラカタブラ、油谷~♪ この収録の後、山本は例の淫行事件を起こしてしまい、謹慎処分に。 空白の10年以前のめちゃイケでの最後の出番は、油谷さんの姿で床のカーペットにお尻を擦って火傷するというものだった。 2009年、番組の企画「処分していいとも!」内でフジテレビ近くの倉庫の片付けをした際にダンボールからある物が登場した。 それは山済みになった油谷さん人形の山。 (しかし、放送ではモザイクがかかっていた。) 実は「東京めちゃイケランド」の物販ブースで油谷さんの好評を受けてこの人形(厳密にはぬいぐるみ)を発売する予定が決まり、大量生産していた。が、無事に完成し後は販売…という矢先に事件発覚・謹慎となって予定していた販売ができなくなり、大量の人形は倉庫で邪魔になっていたらしい。ちなみにイベント自体も山本がらみの展示は全撤去と大きな影響を及ぼした。 加藤には罰ゲームとして、「いいとも選手権」の要領で自分のBMWにこの人形全て(その数なんと3000個)を投げ込まれ、責任を持って家まで持ち帰るという刑が執行された。 この投げ込む場面、メンバーたちの表情は実に筆舌しがたいものであった……。 ちなみに投げ込んだ人形は小さなサイズだったが、ビッグサイズの人形も存在し、こちらは2016年の復帰企画「ヤマモト少年愚連隊」の完結編で加藤に渡された後、夏に箱根で行われたイベントで展示された。 そして芸能界復帰後の2018年、ナイナイ&中居の日本一周にて満を持して大復活! だったのだが、流石に山本の現状も考えて油谷さんをお茶の間に流すわけにもいかなかったのか、 仕掛け人である筈の中居君が油谷さんの存在を忘れ、唄もお祝いも打たせ油も無しというオチだけの扱いにされてしまった。 まぁ、こればっかりは今のご時世仕方ないよね…… ちなみに、居ない間に南アフリカ(2010年)とブラジル(2014年)で2度大会が行われているし、番組が終わった2ヶ月後にはロシア大会も控えていた。 油谷さんが作詞作曲した主な楽曲 ・まめちくびの唄 ・つるりんDONのテーマ ・つるりんDONのテーマⅡ ・つるりんDONのテーマⅢ ・リッスン・トゥ・ミー! ・はいりまショー歌 ・イガグリカトチャン ・春は鯉のぼり ・コレは豚のぼり ・速いおリズムのテーマ ・とんぼ同士 ・ゲルマン油谷 ・ネットと私 ・正調「有野さん音頭」 ・あなたもバースデー ・あぶLove Somebody ・おっきいメガネちっちゃいメガネ ・正調「岡村さん音頭」 ・乳首の秘密 ♪ 追記修正お願いのテーマ by 油谷さん △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 手持ちの資料に限界があった為、98年以前の情報をお持ちの方は追加修正お願いします。 -- 名無しさん (2018-06-16 20 59 46) アブラタニサーン! -- 名無しさん (2018-06-16 22 21 54) …手持ちの資料ってなんです? -- 名無しさん (2018-06-17 06 46 58) めちゃイケ全話録画済み勢なのかもしれない -- 名無しさん (2018-06-17 11 16 42) 名前 コメント
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■このページを編集 (2人分) ●材料 ゆでダコ 300g きゅうり 1/2本 オリーブの実(グリーン) 5-6個 玉ねぎ1/4個 バジル(または青じそ)5-6枚 マリネ液<オリーブオイル 大4、レモン 1/2個、にんにく(すりおろし)1片、白ワイン 大3、塩 小1/2、こしょう 少々> ローリエ 1枚 赤唐辛子 1本 ●作り方 ①ゆでダコをぶつ切りにする。きゅうり、オリーブの実は薄切り、玉ねぎはみじん切り、バジル(青じそ)は千切り ②ボールにマリネ液の材料を入れて、①を和える ③種を抜いた赤唐辛子、ローリエを加えて、半日漬け込む ●コメント レモンの変わりにワインビネガーや米酢を使う場合は、大1-2くらいで味見をしながら調整する。 隠し味にお醤油を少し入れると、まろやかになって旨味が増すらしい。 出展: ■このページを編集 ■更新日時:2014/01/04 01 34 05 ■登録タグ: 名前 コメント すべてのコメントを見る
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業務連絡 2021/08/02(月曜日) 広報部夏休み企画獲得P 7日目終了時点 7 きゅうたろ 6 しいねサァン 6 サッキィ 5 花太朗 5 るびあ 4 邪神あいぼー 4 さつまりこ 3 まっつー 3 じぇのさいあ 2 奈々 2 G(グレート) 1 梅香 1 Mier Gregorius 1 でことらくん 1 麗佳 1 SOーSUKE 1 Yuto 1 やきさば 1 恋緖REO 1 流星シャトル 1 hayato8503 1 urbelt 速報! 広報部夏企画開催中 TWC/格付諮問委員会が発足しました。 「我々TWCはTwitter団体、サークルに所属を迷う方々に、より健全で、より活動的に楽しむ為のマッチング情報を提供する準備があります。Twitter新時代到来に向けて共に活動して参りましょう」 とのコメントがTWC首席ブックメーカー桃乃瀬ゆかり氏より出されました。 2月度最も活躍したワサラー団員に贈られる、今月のMVWの発表←アースさんと梅香さんの活躍が顕著であるとして2月度の、もっとも活躍したワサラー団員大賞を広報部より贈ります 広報さんの呟き 「この所、残業続きでお疲れ気味です。深夜にも関わらずお疲れ様を言ってくれる皆さんに感謝です」 ウマ娘 チームワサラー計画 アプリゲームウマ娘プリティダービー内のコミュニティでワサラー団のグループを作る計画があります。 プレイしているトレーナーさん、ワサラー団メンバー同士でフレンド登録しませんか?←ワサラー団ウマ娘部グループが出来ました! わさらーさんもウマ娘をはじめました! 広報部メンバー募集 創業者わさらーさんを中心にしたアットホームな職場でみんな仲良し、休日はみんなでBBQをしたり、ホームパーティーをします♪ わさらーさん主催のわさらーセミナー、わさらーゼミ、わさらー研修会、わさらーキャス、ワサラー団オフ会に優先的に参加可能です 広報部に参加すると運気上昇、金運アップ、美肌ダイエット効果が期待でき、モテモテになる可能性があります。 ※あくまでも個人の感想です 広報部便り 広報部長専属秘書として梅香ちゃんと契約 個性が強すぎる広報部面々の暴走とアホ広報部長の気まぐれ無責任発言に日々頭を悩ませながらも孤軍奮闘する梅香ちゃんこそまさにヒロイン 専属モデル兼専属ライターとして月ヶ瀬千紗さんと契約 際どいグラビアにも挑戦したいとメッセージをいただいています 専属コラムニストとしてめるちゃさんと契約 ラーメンの画像やレビューなどを公開予定です 専属記者として黒井涙さんと契約 ワサラー団内のホットな情報を団員の皆様にお届け予定です 専属SEとしてスターチスさんと契約 スタっち、早くこのページをテキトーに格好良くして、あとチェリオとドクターペッパー買ってきて10秒以内! 広報部機関誌(タイトル未定)の編集長にサッキィ氏が就任、にゃふ氏が副編集長に就任しました 機関誌運営執行部としてさとぬこ氏、恋緒氏を常任理事に選任致しました 広報部に届いた質問 【まふまふ】広報部って、大変なの? 【謎の広報】初心者でも出来る軽作業です。優しい先輩(主にスターチスさん)が丁寧に、教えてくれますよ 【サッキィ】こらっ、広報部。このページ謎すぎるだろ! ブラック企業かよ 【謎の広報】アフターケアも万全です。優秀な成果を上げたワサラー団員にはわさらーさんからありがたい感謝の言葉がいただけます。水道水も飲み放題です 【わさらー】広報部、ちゃんと働いて下さいよ 【謎の広報】千紗さんとスターチスさんがウィキの内容を充実させてくれています。多大なる感謝の思いをテレパシーで送っておきました ワサラー団広報部とは メンバー構成から活動内容まで、色々と謎、全てが謎 そんな広報部はワサラー団のNERVともSOS団とも言われているとか、いないとか。 信じるも信じないも、あなた次第! ★さあ、君もワサラー団に入って、広報さんに質問を送ろう♪ 広報部記録 GWウマ娘ばっかで さぼりすぎだろw by さっきぃ⁉︎ 10周年記念イベントが終わったからといって気を抜くなよw by さっきぃ⁉︎
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概要 海鈴都のツイートの「ワサラー団お絵描きグルあったらいいな!?!?!?!?!?!!!!!!!!」という趣旨に反応した梅香。がつくったDMグループ。 梅香。が見つけたワサラー団内のお絵描き好きそうな人を集めている。描く側と見る専といる。 カラー、モノクロ、デジタル、アナログ、得手不得手関係なくお絵描き好きが自由に遊べる空間(にしたい) 当初は「ワサラー団お絵描き帳。」というゆるい名前だったが、恋緒によってワサラー団【絵師會】というかっこいい名前になった。