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トラップ 地面に設置して動物をほかくする罠 仕掛けてしばらく待つ必要がある 用途 TRAPマークが出る場所で使うと設置できる 何がかかるかは分からない(大抵その周辺で捕獲できる生き物) 複数の獲物が同時にかかる時もある ただし失敗率高し 入手方法 開発 シロップ×1 竹×1 木材×1
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1981年 1970年代後半にTBSラジオなどで放送されていたラジオ番組、スネークマンショーがこの年にリリースしたアルバム 「スネークマンショー」に収録された『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』(小林克也・伊武雅刀) 、及びコメディアンの山田邦子が発表した 『邦子のかわい子ブリっ子~バスガイド編』などが『Walk This Wa y』や『フラッシュ ダンス』以前の、オーバーグラウンドに現れたラップ的な表現の一例と思われる。但しこれら の作品がアメリカにおけるヒップホップシーンを意識して制作されたかどうかは定かではない。また、YMOの1981年 のアルバム『BGM』に『ラップ現象』という曲名で細野晴臣がラップをしている。曲名から明瞭に音楽表現としての ラップを意識しており、これが日本のメジャーレーベルに於ける明瞭なラップ楽曲の第一号と言える。 1981年にソウルダンス(アメリカンブラック)のダンススクール・『ファンキージャム』が開校し、エレクトリック ブギの基礎となるポップロックを教えていた。その中にムーンウォークやウェーブなどがあった。 1982年 小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」が、「うわさのカム・トゥ・ハワイ」で、広島弁ラップという試みを 行なった[1]。 1983年 映画『フラッシュダンス』が日本で公開され、劇中のわずか数分にヒップホップ4大要素の一つとなるブレイクダンス 、ロックスティデイクルー(Rock Steady Crew)がストリートダンスを披露した。ストリートで踊るシーンに使われてい るJimmy Caster Bunchの曲『It s Just BE GUN』は世界的にミュージシャンからリスペクトされる。日本ではこれに影 響された浜松のグループ「アップルパイオールスターズ」の大橋が早々とブレイクダンスを習得し、その後TOKYO B BO YSのCRAZY-A(現在B BOY PARK主催者)が日本におけるアンダーグラウンドのヒップホップを広めるべく活動を行っていた。 新宿ツバキハウスにおいて映画『ワイルド・スタイル』出演のクルーが開催したヒップホップ・ショーでは、DSTによるス クラッチのデモンストレーションやレクチャーが行われたといわれている。そして、Dr.Tommy率いるB-5 Crewが東映映画 ビッグマグナム 黒岩先生のブレイクダンスシーンに登場。 ソウルダンスと関連のあるヒップホップのダンスをダンススクール、ファンキージャムが1981年の開校時から教えていた のが最初といえる。 西武デパートのイベントとして映画「ワイルドスタイル」の支援パフォーマンスとして『ファンキージャム』が原宿でダン スをしていたのを、テレビ番組11PMが紹介した。それをきっかけに『ファンキージャム・ブレーカーズ』を結成する。村山 たかし他数名と黒人ラッパー、スクラッチDJのモンチ田中がメンバーとなる。 1984年 佐野元春が、渡米中に制作したアルバム『VISITORS』において、冒頭の「COMPLICATION SHAKEDOWN」を含む数曲でラップを 取り入れ、当時の音楽業界に大きな衝撃を与えた。これはメジャー系レーベル所属の日本人ミュージシャンとして初のラッ プと言われており、現在の国内ラップミュージシャンからも、大いにリスペクトを受けている。 映画『ブレイクダンス』公開。この映画や『ワイルド・スタイル』により、ブレイクダンスが日本全国に一大ムーブメント として広がる。CRAZY-A、TOKYO B BOYSが原点とする原宿ホコ天(歩行者天国)では当時、B-5 CREW、ナオヤ(TokyoB Boys 、ZOO)、DJ KRUSH、MURO、BEAT、阿部ちゃん、グッチG、ホリエハルキ、ヨウヘイなど、現在著名のDJ、ダンサー、ラッパ ーが活動を行っていた。また新宿や六本木ではオウジ、サム(TRF)、横浜ではFLOOR MASTERS、村山タカシが活動していた。 まさに空前のブレイクダンスブームであり、ラップやDJよりも、「踊れること」が尊ばれた時代であった。 そんな中、モンチ田中がテレビ番組などでDJプレイを紹介するなど、マスメディアにおけるDJ活動を活発化させていた他、 風見しんごが歌った『涙のtake a chance』でブレイクダンスが採用されたことも特筆すべき事項である。 この当時、B-FreshのMCベルとケークKらが自主制作レーベルにて日本のラップシーンの先駆けとなる活動を行っていた。 メンバーの中にはDJ KRUSH、MURO、DJ BEATなど、現在の日本を代表するアーティストが在籍していたことでも知られている。 同様に活躍していたチームにJAP MC S (初代メンバーはCRAZY-A、Keny(ホシナ)、Beat Master AZ(馬場)、KAZU(ZOO)) などがある。 ブレイクダンスは『ファンキージャム・ブレーカーズ』が原宿のスポーツフェアのミズノブースで連日ブレイクダンスショー をやったことで広く知られるようになった。これがきっかけとなり、RATS STARのグラマーガイにモンチ田中のスクラッチや ロバートのラップが入ったことで、音楽界に知られるようになりモンチ田中のFM横浜の仕事につながる。『ファンキージャム ・ブレーカーズ』のショーはナイキ、コカ・コーラ、キリン、タカラ、オンワードなど多数に及ぶ。映画「ブレイクダンス」 では記者会見イベントや映画公開のショー、パンフレットでのHowToDanceなど全面協力する。この映画をきっかけにナイキと 提携し全国ツアーも行った。 1985年 ジョージ・ヒコが米国Tommy Boy Recordsから12インチをリリースしたほか、モンチ田中を中心としたDJグループ「M.I.D.」 が結成されるなど、シーンの基礎的な部分がさらに成長を進めていった年である。 いとうせいこうがアルバム「業界くん物語」にてラップに挑戦。 この年にリリースされた吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」が同年のオリコンチャートで年間21位を記録、史上初めてラップ要素 を含んだ邦楽のヒット曲となった。また 同曲のリミックスシングルが桑原茂一プロデュース、DJ KUDOらのグループ 「ハードコアボーイズ」名義で製作され、日本初のリミックス作品となるが、何らかの理由で発売停止となった。 ビブラトーンズを解散した近田春夫がソロプロジェクトPresident BPMを立ち上げ、12インチ『Masscommunication Breakdown』 をリリース。近田の活動は後にビブラストーンとなって結実する。 ホコ天(原宿歩行者天国)では東京B-BOYSやB-5 CREWに代わり、ミスティックムーバーズ、B-ROCK CREW (チノ、コージ、百) 等が活躍し、アフリカ・バンバータ来日ではステージ下でブレイクダンスバトルが繰り広げられた。 dj honda、DJ KOOらが、リミキサーグループ『The JG s』を結成。このグループは数多くのリミックス作品に関わっただけ でなく、オリジナルアルバムも発表した。 『ファンキージャム』がビデオ「HowToBreak Basic」「HowToBreak Advance」を発表し、当時テレビ東京で放送されていた 「おはようスタジオ」でレギュラー出演するようになる。 1986年 RUN-DMC がエアロスミスと共演した『Walk This Way』が全世界的なヒットを記録し、シーン全体に多大な影響を与えた。 またPoppin Pete、Skeeter Rabbit、Boo Yaa Tribeが大阪に来日、大阪にもヒップホップシーンが形成していくきっかけ を与えた。Popping Styleを伝授された愛弟子はワイルドチェリー、ユキ、シン兄弟、林田、オズ、テツなど。一方で 東京では「HIP:HOP」というクラブが渋谷にオープンし、DJ YUTAKAがレギュラーでプレイした。さらに、ラジオ番組 「MARUI 24CLUB」がFM横浜で始まるなど、多方面でシーンの広がりを垣間見ることが出来た年だと言える。また、 いとうせいこう TINNIE PUNX名義のアルバム『建設的』がリリースされたのもこの年。 JAGATARA、MUTE BEAT、トマトス、S-KENの4バンドで、シリーズ・イベント「東京ソイソース」(インクスティック芝浦 ファクトリー)をスタート。ライブとライブの間にDJが入るという初めての試みをし、いとうせいこう TINNIE PUNX、 ランキンタクシーなどが出演した。 1987年 映画「星くず兄弟の伝説」でのコネクションを背景に高木完、藤原ヒロシがTINNIE PUNXを結成し、President BPMとの スプリット盤12インチをリリース。ECDがベスタクス主催のDJイベントにて優勝する。パブリック・エネミー等の多数の アーティストが来日。 1988年 インディーズレーベルMajor Forceが設立される。高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太などが参加していた。また、設立と同時 にMajor Force主催のイベントDJ Underground Contestが開催される。第一回目の優勝者はレゲエDJのChappie、第二回目の 優勝者はDJ KRUSHで特別賞はスチャダラパー。このイベントにはB-Fresh 3、Dragon BIKKE、DJ SEIJI(SPC)、BEAT KICKS (TWIGYと刃頭)、Hi-TECK GROOVE、GAKU(後にEAST ENDを結成)なども出場していた。 1989年 この頃、日本ではまだニュージャックは知られていなかった。『D.M.A.』、元『ファンキージャム』が恵比寿でダンス スクールをしていたが、MCハマーの日本版が発売されていなかったので知る人は少なかった。D.M.Aが東芝EMIに交渉したが、 ラップの発売が失敗していたので実現したのは数年後になる。D.M.AではWhat s Upを出版するが一般にはニュージャックが 知られていないので販売数は少ない。 ニュージャックスウィングというダンスが大流行する。これまでのブレイクダンスとは違い、ロジャーラビット、ランニングマン 、ロボコップという名前がついたステップのダンスが流行し、この年、ダンス番組『DADA L.M.D』がスタート。初代メンバー はMr.T、タケダ、TACO、KAZU、ハルク、KAN、そして1990年代のニュースクールダンスをロサンゼルスから持ち帰り、毎週テレビ で披露していたKAZU(STRUT)である。 また、KAZUとJJAY Yが日本人として初めて「ソウル・トレイン」に参加、ジェフリー・ ダニエルのバックダンサーを務めた。彼らはZOOの初代メンバーであり、ニュースクールの先駆け的存在であった。 その活動は「彼がいなければ現在のDJ KEN-BO、DJ WATARAIなどはいなかった」と言われるほどの存在感を示した。 一方、いとうせいこうがヤン富田のプロデュースによるアルバム「MESS/AGE」をリリース。日本語によるオリジナルなラップ や音楽スタイルがMCUやスチャダラパー等、後に登場するアーティストに多大な影響を与えた。 Rhymesterが結成される。 ECDによるイベント「CHECK YOUR MIKE」がスタート。BOY-KEN、Hi-TECTH GROOVE、A.K.I PRODUCTIONS、MAZZ PMX、 TUFF NUTS等が参加。 1990年代 1990年に『D.M.A.』、元『ファンキージャム』がWhat s Up vol2が出版する。六本木交差点の書店でも販売されていて、 ニュージャックダンスのハウツウやMCハマーとレクスンエフェクトの来日告知をしていた。『D.M.A.』では横浜ベイサイド・ クラブ、川崎クラブ・チッタなどでニュージャックのハウツウとブレイクダンスやソウルのショーを公演。座間米軍基地にて ニュージャックダンスのダンスコンテストを主催する。この年、MZAミューコムにMCハマー、レクスンエフェクトが初来日する。 これを期に日本でニュージャックが広まる。 1990年代に頭角を表したのはMC仁義、MURO、B-FRESH、RHYMESTER、MELLOW YELLOWなど。ゴールデンや深夜放送枠にあったダンス 番組は「Club DADA」(先述のDADA L.M.D.の後継番組)、「Dance Dance Dace」(TRFのSAMとオウジがメイン)、「ダンス甲子園」 などである。これらが注目され、LL ブラザーズやZOOやトップフラッシュが人気を得る。ZOOの「Choo Choo TRAIN」はJR東日本 とのタイアップもあり全国ヒットとなったが、ファッションをいち早く日本に持ち込んだのも彼らである (ZOOファミリーでもあるBobyがニューヨークの『A LIVE TV』のダンサーからNYファッションを持ち込んだ)。 ティンバーランド、ゲス、トミー・ヒルフィガー、DKNY、Polo Sportsなど、リアルタイムファッションを各雑誌が取り上げた。 ZOO全盛期のメンバーは、Taco、Naoya、Mark、Satsuki、ルーク、Hiro(現在EXILE)、Cap、HIsami、Sae。 アンダーグラウンドのシーンでは、「ブラック・マンデー」のYOU THE ROCK DJ BEN、「FUNKY GRAMMAR UNIT」の RHYMESTER、EAST END、MELLOW YELLOW、その他にも、A.K.I.、キミドリ、DJ KRUSH、ECD、MURO などがいた。 「DA・YO・NE」(EAST END×YURI )、「今夜はブギーバック」(スチャダラパーと小沢健二)、「Bomb A Head!」 (m.c.A・T)の大ヒットが後押しする形で、1990年代半ば頃からJ-POPを聞いていた人たちにもラップミュージックが認知される ようになる。これらの動きはDragon Ashの登場、RIP SLYMEやKICK THE CAN CREW等の新しいスタイルを持ったユニット登場の 端緒となっていった。 1990年 DJ Doc Holiday(須永辰緒)がインディーズレーベルRhythmを設立。このレーベルにはYOU THE ROCK DJ BEN、Gas Boys などが参加していた。 この頃にスチャダラパーがクルーリトル・バード・ネイション(Little Bird Nation)を結成。TOKYO NO.1 SOUL SET、脱線3、 かせきさいだぁ≡、四街道ネイチャー、SHAKKAZOMBIE、A.K.I. Production等のグループを登場させるきっかけを作る。 ニュー・ジャック・スウィングの申し子とも呼ばれたボビー・ブラウンが来日。 スチャダラパーの「スチャダラ大作戦」がリリースされた。また、自主制作コンピレーションアルバム 「Yellow Rap Culture In Your House」がリリースされ、DJ KRUSHやMURO等のKRUSH POSSE、HOME BOYZ等が参加した。 1991年 スチャダラパーが『タワーリングナンセンス』でキューンソニー(現在のキューンレコード)より、高木完が 『フルーツ・オブ・ザ・リズム』でEPICソニー(現在のエピックレコード)よりメジャーデビューを果たす。 メジャー・フォースが一気にメジャーへ進出した。 「ダンス甲子園」(天才・たけしの元気が出るテレビ!!)がスタートし、M.C.ハマーが来日。 KRUSH POSSE、TOKYO No.1 SOUL SET等による「Chain Gang」、LB Nationによる「LBまつり」が下北沢ZOOにてスタート。 ECD主催によるHIPHOPコンテスト「CHECK YOUR MIKE コンテスト」がスタート。第一回目の優勝は後にZINGIとして デビューするレヴォルト・サファレイジ。翌年の第2回大会ではイエロー・モンキー・クルーが優勝。その他、T ONEPAYS(かせきさいだぁ)、キミドリ、3A BROTHERS(T.A.K The Rhymehead、INOVADER)なども輩出。 ZINGI、Rhymester、EAST END、MELLOW YELLOWによるイベントYoung MC s In Town、CRAZY-Aによる「WATCH ME」がスタート。 1992年 小松壮一郎監督の東映Vシネマ『ハートブレイカー 〜弾丸より愛を込めて』が、ダイアモンド・ユカイ他、博多や広島など 西日本のダンスチームが出演し、オール博多ロケを敢行[2][3][4]。本作は当時の様々なストリートダンスをふんだんに散り ばめて、ダンスバトルなどのヒップポップ・カルチャーの生の姿を撮影した[3]。また日本語でヒップポップを踊る"ということ を明確に目標に掲げで制作されており、"ヒップポップの日本化"の先駆けとなった[3]。大ヒットには到らなかったものの" 音楽ダンス映画"というジャンルを築いた[3]。本作は、その後ストリートダンス界でカルト映画化し、日本のダンサーは勿論、 アンダーグランドであるアジアのストリートダンサーたちから熱い支持を受けた[3]。 dj hondaが、DJ Battle World Supremacyにて準優勝を果たす。 MURO、TWIGY、GoなどによりMICROPHONE PAGERが結成、それまで目立っていたオーバーグラウンド進出へのカウンタームーブ としての活動を始める。 ECDがファーストアルバム『ECD』をリリース。 下北沢のライブハウス「ZOO」にて、「スラムダンクディスコ」がスタート。YOU THE ROCK DJ BEN、ECD、RHYMESTER、 MICROPHONE PAGER、キミドリ、POWER RICE CREW、SKIPS、MELLOW YELLOW等が出演した。 1993年 Run DMC、アイス・キューブなどといった大物アーティストが続々来日する一方で、ストリートシーンを中心にシーンが停滞した。 4月、RHYMESTERが『俺に言わせりゃ』でファイルレコードよりデビュー。EAST ENDとMELLOW YELLOWが参加した楽曲がきっかけで FUNKY GRAMMAR UNITの原型が立ち上がり、彼等によるイベント「F.Gナイト」もスタート。後にRIP SLYME、 KICK THE CAN CREW等も輩出。 m.c.A・Tの『Bomb A Head!』がリリースされる。 キミドリの1stアルバム「キミドリ」がリリースされる。 キングギドラやラッパ我リヤが結成される。ラッパ我リヤの当時のメンバーには三善善三も含まれていた。 1994年 イギリスでDJ KRUSHがヒップホップをインストゥルメンタルとして表現する前代未聞のムーブメントを起こす。 この動きは後にトリップ・ホップのブームと結びつき、欧州を中心に高い評価を受ける。 EAST END×YURI の「DA.YO.NE」、スチャダラパーと小沢健二による「今夜はブギーバック」がリリースされる。 テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』にて、ハードコアヒップホップグループ「雷(雷家族の前身グループ)」が結成される。 当時の勢いは凄まく、DABOのように雷の影響を受けたと公言をはばからないアーティストも多い。1997年には『カミナリ c/w 夜ジェット』がアナログで発売され、彼らの代表曲となる。 1995年 BUDDHA BRANDがアメリカ合衆国から帰国。 Lamp Eye、キングギドラ等がデビュー。日本で最も有名なクラシック「証言」がドロップされる。 このころ活躍し始めたのは、Lamp Eye、YOU THE ROCK★、G.K.MARYAN、TWIGY、ZEEBRA、DEV LARGEなど。 名コンピレーション『悪名』が発売。人気を博し、シリーズ化された。RINOはこのコンピで評価され、 UZIなども知られることになる。 NHK『おかあさんといっしょ』1995年11月・12月の歌として、ラップ調の童謡『サラダでラップ』が発表される。 9月17日、TOKYO FMにてYOU THE ROCK★のラジオ番組『HIP HOP NIGHT FLIGHT』が放送開始(1998年5月に終了)。 EASTEND×YURIの「DAYONE」、「MAICCA」が新語・流行語大賞にノミネートされ、第46回紅白歌合戦にも出場。 1996年 4月24日、YOU THE ROCK★の「THE SOUNDTRACK 96」がリリース。ECD、TWIGY、LAMP EYE(RINO,GAMA DJ YAS)、 MUMM-D、DEV-LARGE、HAB I SCREAM、E.G.G.MAN、UZI、MACKA-CHIN、HAC、DJ TSUTCHIE、DJ MASTER KEY、DJ MAKI、 DJ WATARAI、INOVADER、etc...と数多くのプレイヤーが参加したクラシックスの呼び名も高い作品となった。 BUDDHA BRANDの「人間発電所」がリリース。この曲によって 90年代の日本のヒップホップシーンがさらに加速したと 言えるほどの大反響を及ぼした。アナログは現在かなり高額で取引されている。 7月7日、ECD主催のHIP HOPイベント「さんピンCAMP」が日比谷野外音楽堂にて行われる。約4000人の観客のうち80%は男性。 アンダーグラウンドシーン活躍のアーティストたちが大きな舞台を見せつけて成功をおさめ、今では伝説のライブとして 語り継がれている。後にビデオ、DVD化された。 7月14日、スチャダラパーを中心としたイベント「大LBまつり」が日比谷野外音楽堂にて行われる。 1997年 DA PUMPがデビュー。それまでの「男性アイドルグループ=ジャニーズ」という常識を覆した。 後に著名DJらとのコラボレーションやダンス番組のMCなども果たす。 4月5日、J-WAVEにてRIKOのラジオ番組「Hip Hop Journey -Da Cypher-」が放送開始(2002年3月30日に終了)。 代々木公園にてCRAZY-Aが発起人となり、B-BOY PARKが開催される。以降、毎年8月の恒例イベントとして定着。 1998年 日本人プロヒップホップダンサーENGIN#9が、世界のブレイクダンスチームの最高峰New York City Breakersの 正式メンバーとしてメンバー入り。 THA BLUE HERBの『STILLING STILL DREAMING』、Shing02の『緑黄色人種』がリリース。共にアンダーグラウンドの クラシックとして評価され、東京以外の、アンダーグラウンドと呼ばれる層が明確化。 1999年 10月、ZEEBRAとDJ KEN-BOによるTFM系全国27局ネットでのレギュラー番組「BEATS TO THE RHYME」が放送開始。 Dragon Ashが登場し、サードアルバム『Viva La Revolution』をドロップ。Dragon Ashのラップミュージックの要素を 多く取り入れた作品は、賛否はあれどメジャーシーンにおけるラップミュージックの立場をより強固にした 2000年代 2000年以降、名古屋のM.O.S.A.D.、北海道のTHA BLUE HERB、九州の餓鬼レンジャーなど地方勢のリリースが相次いだ。 それぞれが地元愛にあふれた内容となっており、日本語ラップは東京だけのものではないということをアピールした。 ダンス番組は「少年チャンプル」、「スーパーチャンプル」などがある。「ダンス甲子園」も2006年に復活した。 また、「流派-R」や「Suger Hill Street」など、ヒップホップに焦点を当てた番組も多く出ている。 2000年 MCが総勢8名のグループNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが1stアルバムをリリース。各自のMCの力量もさることながら マイクリレーによって力を発揮する人材が集合し、グループ名を冠した曲「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」は 日本のヒップホップ史に残る作品となった。このアルバムを契機に、NITRO人気に火がつき、ソロMCでも次々に メジャーデビューを果たした。彼らはかつてさんピンCAMPでMUROのステージの後ろのいたような、 「日本語でいかにラップをするか」と苦心していた世代を見て育ったいわば第二世代であり、 この頃から次世代のMC達が着々と頭角を示し出す。 DS455が1stアルバム「BAYSIDE RIDAZ」をリリース。同年にメンバーのDJ PMXが手掛けたOZROSAURUSの「AREA AREA」が ヒットしたこともあり、それまでの日本のヒップホップにはあまりみられなかったGファンクやウエスト・コースト・スタイル と呼ばれるような音楽性が注目を受ける。 YOU THE ROCK主催のイベント「HIP HOP ROYAL 2000」が行われ、雷家族、RHYMESTER、K-DUB SHINE、ZEEBRA、スチャダラパー、 SOUL SCREAM、OZROSAURUS、ニトロ、妄走族、WORD SWINGAZ等、メジャー、アンダー、新旧を問わない多数のHIP HOP アーティストが日比谷野外音楽堂へ集結した。 2001年 KICK THE CAN CREW、RIP SLYMEがメジャーデビューを果たし、日本のメジャーシーンにおけるヒップホップの浸透に 更に大きく貢献することになる。 横浜のOZROSAURUSが1stアルバム『ROLLIN 045』を発表。高いスキルを示したこのアルバムは、ウェッサイなど問わず 日本語ラップ史において重要なアルバムの一つとして扱われている。ロングセラーを記録し、売り上げ枚数8万枚を突破した。 前年にインディーズレーベルよりデビューしていた女性ラッパーMiss Mondayがメジャーデビュー。男性ラッパーと肩を並べても 遜色の無いライブパフォーマンスで女性ラッパーの第一人者としての地位を確立する。 2002年 キングギドラが6年ぶりに再始動を宣言。ハードコアラップグループでは異例なヒット(復活後、アルバム「最終兵器」 以外すべてトップテンチャート入り)を記録し、社会現象を巻き起こす。特にアルバム収録曲である「公開処刑 feat. BOY-KEN」 におけるZEEBRAの降谷建志に対するあからさまなディス(貶し)、K DUB SHINEのRIP SLYME、KICK THE CAN CREWに対する暗喩な ディスは話題を呼び、ネット上などで大きな盛り上がりを見せた。この曲は日本のヒップホップ・シーンにおいて 最も有名なディス・ソングの一つとして数えられている。 Def Jam Japanと契約を交わしたS-WORDの『KROSS OVA -斬-』も高い売り上げを見せた。同レーベルのDABOの『D.A.B.O.』 もヒットを記録。DABOやS-WORDら、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDと深いかかわりのあるラップ・グループTHINK TANKが ファースト・フル・アルバム『BLACK SMOKER』を発表。ダブやレゲエを散りこんだ音楽性、K-BOMBらの独特の ヴォーカル・ワークにより、その異能集団ぶりを示した。 DJ KENTAROがアジア人初のDMC世界チャンピオンに輝いた。 2003年 EAST ENDが再始動。アルバム『Beginning of the Endless』はFG全参加によるマスターピースとなった (その他CRAZY-A、童子-Tらが参加)。 K DUB SHINEのATOMIC BOMB PRODUCTIONSが本格的に活動。 この頃、アンダーグラウンドが活発化。雑誌「blast」のコーナー「HOMEBREWER S」から東京のみならず、大阪、福岡などの 各地方の多くの優れたアーティストが紹介された。特に、後にKREVA、RHYMESTERとも共演する韻踏合組合、また妄走族やMSCが アルバムをリリースしている。 テレビ東京系バスケアニメDEAR BOYSエンディングテーマ"Ballerの章号"でCHRISがデビュー アンダーグラウンド・ヒップホップムーブメントの一角を担う降神がアルバムをリリース。新人で自主でのCDが異例の1000枚 を売り上げ、評判となる。特にメンバーの志人はTHA BLUE HERBのILL-BOSSTINO、Shing02と並ぶ天才MCとして注目された。 2004年 伝説的ラップグループ「雷」が「KAMINARI-KAZOKU.」として、結成後約10年にしてついにアルバムを制作。 ミニ・アルバム(「太巻きシングル」)『大災害』、続いて、メジャー1stアルバム『330 ~more answer no question』をリリース。 同年夏、「黒い集団」とも呼ばれる8MCのビッグユニットNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが再始動を果たし、キングギドラ同様、 異例なヒットを叩き出す。 加藤ミリヤのシングル、「Never let go」の同メインの曲となる「夜空」のリミックスではBUDDHA BRANDの三人が参加した。 K DUB SHINEの3rdアルバム『理由』収録曲「来たぜ」の歌詞をきっかけにインターネット上を通してDEV LARGEとのビーフ (罵倒)騒動が起きた。また、それぞれ配布された3曲(DEV LARGEの「ULTIMATE LOVE SONG」、K DUB SHINEの「1 THREE SOME」、 DEV LARGEのアンサー「前略ケイダブ様」)は後にミックスCDなどでバージョン等を変えて収録されている。 KICK THE CAN CREWが活動休止。その後は各々ソロ活動に入る。 妄走族も活動を休止し各々ソロ活動に入る。 M.O.S.A.D.を率い、名古屋の代表格であったMC、TOKONA-Xが26歳で逝去。死因に関しては様々な憶測が飛んだ。 DJ AKAKABEがDMC世界チャンピオンとなる。 2005年 DEV LARGEがソロで"D.L"名義として本格的に活動を開始。 ZEEBRA、SOSCなどで知られるレーベルFUTURE SHOCKが、都合により停止。 童子-Tが、ATOMIC BOMB PRODUCTIONSから自立という形で円満退社。New York City BreakersのENGIN#9が日本に帰国。 この頃より日本のシーンはメインストリームとアンダーグランドシーンが確実に分けられはじめ、転換期にさしかかっている。 以前、アンダーなシーンで活躍していた人物達がメインストリームへと乗り換えていく動きが活発化し(RIP SLYMEやZEEBRAなど) 、それに並行してアンダーグランドシーンでのムーブメントも活発化をはじめた。実力あるアーティストが増加しシーン全体を 底上げするなど、新たな動きが見られ始めた年でもある。MSC、Temple ats(降神)、Da.Me.Records、SEEDA擁するSCARS勢、 black smoker Records、関西では韻踏合組合、R-RATED RECORDSなどが、今も引き続きその一端を形成している。 B BOY PARK 2002のMCバトルで優勝したMSCの漢a.k.a.GAMIの主催で、全国規模で行われたフリースタイル・バトル大会 ULTIMATE MC BATTLEが開始。優勝はカルデラビスタ。後に大会の模様を収めたDVDが発売される。 この大会をきっかけにアンダーグラウンドレベルでフリースタイルをするMCが急増する程の影響力を見せた。 ※安室奈美恵「Queen of Hip-Pop」発表、メジャー系アーチストのヒップホップアルバムとして注目される。 2006年 KREVAのセカンドアルバム、『愛・自分博』(2006年2月1日発売)がヒップホップソロアーティストとしては初めての オリコンウィークリーチャート1位を記録。 KREVAに続き、SEAMOのセカンドアルバム『Live Goes On』(2006年9月20日発売)もオリコンウィークリーチャート1位を記録した。 SEAMOはこの年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。 SOUL d OUTの初のシングルベスト、『Single Collection』が、ウィーク、デイリー共にオリコン初登場2位という快挙をあげる。 DEV LARGEが待望のラップでのソロアルバム『THE ALBUM (ADMONITIONS)』を発表。シーンにその存在感を示す。 SEEDA、BESなど、USヒップホップを咀嚼した作品を作り出したSCARS勢が躍進。Pヴァインなどから次々にアルバムをリリースし、 大きなプロップスを得た。CONCRETE GREENシリーズというミックスCDという形式での音源発表も話題となる。 2007年 RHYMESTERのベストアルバム、『メイドインジャパン〜THE BEST OF RHYMESTER〜』(2007年1月31日発売)がオリコンウィークリー チャート6位を記録。続いて2月に客演コレクション『ベストバウト 〜16 ROUNDS FEATURING RHYMESTER〜』を発売、 3月に集大成的ライブKING OF STAGE VOL.7 を日本武道館で敢行、大成功のうちに幕を閉じた。実に結成から18年間を 費やした到達で、これまでに客演をしてきたアーティスト達が各年代ごとにバランスよく出演、キングギドラの再結成客演 など既存のHIP HOPファンを大いに沸かせると共に、ゴスペラーズ、横山剣、SUPER BUTTER DOG、Scoobie Do、Wack Wack Rhythm Band等、他フィールドの有名アーティストを招聘した。 国内唯一のHIP HOP専門誌である「blast」が廃刊。メジャーにおいてヒップホップアーティストの作品の売り上げが不振であり、 日本のヒップホップシーンへの逆風が顕著な形になった。 THA BLUE HERBが3rd アルバムを発表。また、アルバム直前にリリースしたシングルはオリコンインディーズシングルチャート1位 を獲得。 D.O、bay4k、D-Ask、SHIZOOらが練マザファッカーとして、TBSのバラエティー番組『リンカーン』内のコーナー 「世界ウルリン滞在記」に出演し、中川家・剛にラップを指南した。D.Oの語尾に「メーン」をつける独特のしゃべり方が 話題を呼んだ。 SEEDAがメジャー初となるアルバム「街風」がオリコンアルバムチャート19位を記録。 2008年 SD JUNKSTAのリーダー、NORIKIYOがメジャーデビューアルバム「OUTLET BLUES」を発表。実話ナックルズでも特集が組まれ、 シーンの内外から注目が集まった。同じくSD JUNKSTAのBRON-Kのアルバムもじわじわと評価を獲得し、SD JUNKSTAは日本を 代表するクルーの一つとなった。 ZEEBRAが音楽活動20周年を記念し、ベストアルバムを発表。11月1日には日本武道館での20周年記念ライブも成功させる。 このライブには多くのゲストが参加。特に、DEV LARGEは参加しなかったもののさんぴんCAMPで参加しなかったTWIGYも含めて 雷家族のメンバーがほぼ揃っての「証言」が披露された。この様子は後に発売されたDVDに収録している。 また同時に自叙伝も発売。「降谷建志に対して今は怒りはない」と心境を告白した。 MIC JACK PRODUCTIONのリーダー、B.I.G. JOEが2009年の服役終了に先がけて2ndアルバムを発表。 2008年を代表するアルバムとなった。 「俺ら東京さ行ぐだ」(前出)が同年ネット上で起こったIKZOブームによって再評価された。 2009年 練マザファッカーのメンバーでCD販売店・BOOT STREETのアルバイトの男が、同店の店舗にて大麻を売ったとされる大麻譲渡事件 に関連し、D.Oが実質的に経営する会社・D.Officeに家宅捜索が入り、練マザファッカーのメンバー・PIT GObが大相撲力士・ 若麒麟真一と共に大麻取締法違反(所持)容疑で逮捕され、後にD.Oも麻薬取締法(コカイン所持・使用)違反容疑で逮捕された。 この事件は、大相撲力士が逮捕されたこともありテレビなどのメディアで大きく取り上げられ、D.OやPIT GObも写真付きで報道さ れた。 彼らが大麻の使用や麻薬の売買などの犯罪行為を歌う、所謂ギャングスタ・ラッパーだった事もあり、メディアからの バッシングを受けた。 SEEDAとGEEKのMC、OKIがTERIYAKI BOYZへのディスソングを発表。その後TERIYAKI BOYZに属するVERBALが自身のポッドキャスト 番組にSEEDAを招き、話し合いが行われた。一連の事件をSEEDAが発表した曲名からTERIYAKI BEEFと呼ばれる。 MSCのMCであるGUNNIESがSEEDAに対するディスソングを発表。これに対しSEEDAもブログでアンサーソングを発表した。 Amebreakはこれを『一連のディス曲に関する是非はともかく、日本語ラップに関するビーフがここまでスピーディに展開するよう になったのは特筆すべき事実』とした。 Da.Me.Recordsに属していた、COMA-CHI、TARO SOUL、KEN THE 390がメジャーデビューする。KEN THE 390は青山テルマとシングル を発表しミュージックステーションに出演。 2010年 KAMINARI-KAZOKU.のYOU THE ROCK★が大麻取締法違反(所持)で逮捕される。 各々がソロ活動に専念していたSOUL d OUTが活動の再開を発表。 KAMINARI-KAZOKU.が不祥事等を受けて音楽活動からの引退を宣言しているメンバーYOU THE ROCK★への思いを込めたシングル 「2U」を発売。 いとうせいこう、BOSE、ZEEBRA、宇多丸、サイプレス上野、般若、COMA-CHI等、様々なラッパー達にリリックの作り方を インタビューした書籍、「ラップの言葉」がP‐Vine BOOKsより発売される。 2011年 キングギドラが9年ぶりに再始動。大阪城野外音楽堂で開催された東北地方太平洋沖地震チャリティーライブ 「KEEP YOUR HEADS UP!」でライブを行い、その後諸般の事情でグループ名を「KGDR」に改名し、 東北地方太平洋沖地震チャリーティーソング「アポカリプス ナウ」を配信。 MACCHOのソロユニットとなっていたOZROSAURUSにDJ SN-Zがメンバーとして正式に加入。 同時にEMIミュージック・ジャパンと契約し、メジャーでの活動を再開。
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Scrapbooking Blog(国内) Ms. Scrap 「Ms.Scrap」は、スクラッパー同士が交流を楽しむコミュニティサイトです。ギャラリーでは作品、フォーラムではイベントや教室情報などが無料で投稿できます。
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【名前】 スクラッシュゼリー 【読み方】 すくらっしゅぜりー 【登場作品】 仮面ライダービルド 【初登場話】 第17話「ライダーウォーズ開戦」 【分類】 変身アイテム 【使用者】 仮面ライダークローズチャージ他 【詳細】 スクラッシュドライバーを持つライダーが使用するパウチ型アイテム。 詳しい説明はドラゴンスクラッシュゼリーやロボットスクラッシュゼリーを参照。 劇中では2種しかでなかった。 成分をゲル状に変化したもので、ビルドドライバーのライダーよりも能力は高くなる。 シールディングキャップにはフルボトルと違い、イニシャルなどは何も描かれてはいない。 キャップを回してマテリアルアブソーバーを開放、これによりライダーとなった後の力などを生み出す。 クラッシュブルパウチの正面部にはゼリーが持つ特性に合わせた絵柄が描かれている。 クラッシュブルパウチ内のトライジェントソリッドを何度か揉み潰し、スクラッシュドライバーにセットすると変身の準備は完了する。 変身後はスナップライドビルダーと異なる特殊フィールドケミカライドビルダーを作り出し、各ライダーへの変身を行う。
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ガード状態が強制的に解除される事。 通称「ガークラ」、またガードクラッシュする事を「割れる」と表現する。 作品によっては「ガードブレイク」などの名前が付いている場合もある(←これについては後述)。 システムとして一般的なのは、打撃や飛び道具をガードさせる事で相手に与える「ガードクラッシュ値」の蓄積が、 ガードする側の「ガード耐久値」の限界を超えると発生するというもの。 クラッシュ値は技によって異なり、ガード耐久値もキャラごとに異なる値が設定されているのが普通。 耐久値は基本的に時間経過で徐々に回復するが、クラッシュすると一定時間無防備になり、その間に追撃を加える事ができる。 クラッシュするとガードが割れるようなエフェクトと共に、キャラが仰け反りモーションを取る事が多い。 守り主体の戦法へのペナルティ的なシステムで、所謂「ガンガード」や「待ち」や「逃げ」を不安定化させるために登場した。 特徴付けとしてガークラを狙いやすい(狙われやすい)性能を持っているキャラも少なくない。 『ワールドヒーローズパーフェクト』で「ガードはじき攻撃」というガードクラッシュの先駆けのような要素が登場し (特定の通常技に付属する属性のようなもので、蓄積という概念は無く一発でクラッシュするが、追撃が確定する訳ではない)、 『THE KING OF FIGHTERS 96』でシステム体系としてのガードクラッシュが成立。 『ストリートファイターZERO3』でガード(クラッシュ)ゲージが登場し、より戦略に大きな影響を及ぼすようになり、 クラッシュする度にガード耐久値の上限が下がるというフィーチャーも採用された。 以降はガードクラッシュがあるゲームには、大抵ガードゲージもセットで存在する。 『北斗の拳』ではキャラの組み合わせ次第でガークラの有無が決まるという特殊なシステムが採用されている。 またこれとは別に、一部の「打撃投げ」のようにガード不能技に近い性質を持つものや、 柳生十兵衛の「柳生双月陣」のように「相手がガードモーションを取っている場合のみ発動する」という特殊な技も存在する。 『ポケットファイター』ではシステムにガード不能技が組み込まれており、そのまんま「ガードクラッシュ」という名前が付いている。 ガードクラッシュの登場により、ガードを続ける事に削りダメージ以外のリスクも生じるようになったため、 「クラッシュを防ぐために攻める、または逃げる」「その攻め・逃げを読んで狩る」といったより動的な駆け引きが生まれた。 一方で、固めの延長として「ガークラ確定連係」と呼ばれる、その名の通り最初の技をガードした時点で ガードキャンセルなどを行わない限り100%クラッシュ(と、そこからの最大追撃)が確定する連係が生まれる場合もある。 これに対抗する手段としては、相手が想定していない(であろう)ポイントであえてガードを解除する事で、 クラッシュから追撃を入れられるよりも被害を少なく抑えようとする「食らい逃げ」や、 ジャストディフェンスのようにガークラ値を無効にする防御システムがあるが、 理不尽な攻めを生む場合も往々にしてあるため、慎重な調整が求められる部分である。 参考動画1:ガークラ連係 参考動画2:食らい逃げ 『ストリートファイターEX』シリーズ(『EX3』除く)では「ガードブレイク」というシステムが存在しており、 ゲージを1本消費してガード不能の攻撃を繰り出し、地上にいる相手に当たれば一定時間よろけ(気絶)させる。 なおガード中云々は一切関係無く一発でよろけさせるため、上記のガードクラッシュとは根本的に異なる。 そのためガードの固い相手の不意を突いてうまく用いる事で、そこからの駆け引きが熱く、 『EX2』では更に必殺技やスーパーコンボにスーパーキャンセルで発動(キャンセルブレイク)可能となっている。 MUGENにおけるガードクラッシュ デフォルトでの共通システムとしては存在しないため、再現するにはキャラ内部で処理する必要がある。 常時ステートでガークラ値を管理し、ガードゲージがある場合はExplodなどで表示させるというのが基本だが、 「自分がクラッシュする」のか「相手をクラッシュさせる」のか、或いは「双方クラッシュさせる」のかで処理方法が異なる。 自分をクラッシュさせる場合はHitOverrideやChangeStateなどで比較的簡単に再現できるが、 相手をクラッシュさせる場合はP2StateNoやTargetStateでステートを奪う必要があるため、少々面倒。 クラッシュした際のモーションは5910~5930番に設定される事が多い(こちらを参照)。 原作にガークラが無いキャラでも、エフェクトを表示させて仰け反りモーションを流用するなどすれば 比較的違和感無く表現させられるので簡単。 ただし、気絶や根性値と同じく、どの方法を使うかで特に統一された決まりが無いため、様々なガークラシステムが混在しており、 ガークラを搭載したキャラ同士が対戦すると、異常にクラッシュが頻発するといった問題が生じやすい。 割合としては「自分がクラッシュする」もしくは「双方クラッシュさせる」ものが多いが、 MUGENの仕様上、相手側の技に細かくガークラ値を設定できない、AIに認識させるのが難しいという問題もある。 設定によっては多段ヒットの超必を1回ガードしたらガークラした、なんて事態もあるので、 「相手のみクラッシュさせる方が安定する」という考え方も一理ある。 尤も、ガークラを搭載しているキャラは、殆どの場合これらの切り替えができるようになっているので、 キャラクターを使う側できちんと設定すればそれらしい挙動にできる事が多い。 Gal129氏やrei氏の『CAPCOM VS. SNK 2』仕様キャラや、GM氏のキャラが実装しているため、 ニコニコMUGENでもそれなりに見かける機会は多いだろう。 オリキャラ界隈では島村鰐氏のキャラ群が(版権キャラも含め)相手側をクラッシュさせるタイプのガードクラッシュを標準装備している。 『ストEX』方式で再現する場合、たとえ一発でも当たりさえすれば即ガードを崩して気絶へ追い込むため、 処理としては比較的簡単であり、こちらの方式を採用しているキャラも意外と多い。 関連項目 特殊システム一覧
https://w.atwiki.jp/tr25331_a/pages/26.html
@tnoshi2 も都市伝説?スクラッチャーですよ - fnf (2022-06-06 18 18 42) ppiaさんがtnoshi2の信者らしいですよ - fnf-bamdom (2022-06-06 18 18 57) @wolddata は完全に荒らし - 659ppia (2022-06-06 18 19 50)
https://w.atwiki.jp/jukousei/pages/28.html
HP 攻撃 防御 特攻 特防 素早 76 65 45 92 42 91 ペラップ♂ 性格:おくびょう 特性:ちどりあし 持ち物:きあいのタスキ 技: ねっぷう アンコール おしゃべり ハイパーボイス
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モンスター / スクラッパー 危険度 HP 移動 DR Perception 装備 近距離武器 遠距離武器 ★★★ 150 等速 0 3 アックスバット素手(DAM 5) レバーアクションライフルハンティングライフルBBガン DLC『Point Lookout』に登場する敵。 名称の意味は「喧嘩っ早い男」。ビール腹にズボンだけを履いた格好をしている。 スワンプフォークの中では最弱だが、DR無視の35ポイント追加ダメージは侮れない。 複数で固まっていることが多く、遠距離からガンガン撃ってくるため油断は死に繋がる。 極めて珍しいBBガン持ちの敵で、BBガン使用時のみDR無視効果が適用されていない場合がある。 リンク The Vault (英wiki)
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フライング・ニー ジャンピング・ニーバット(Jumping knee butt)のこと。 プロレス技のひとつである。 ジャンピング・ニーアタック(Jumping knee attack)、ジャンピング・ニーパッド(Jumping knee pad)とも呼ばれる。 略して単にジャンピング・ニー(Jumping knee)と呼ぶことが多い。 基本形は、自らの膝を突き出した状態でジャンプし、相手の顔面や背中に膝を打ち付ける技。 コーナーにもたれかかる相手へのもの(串刺し式)は、ジャンピング・ニーアタック(Jumping knee attack)と呼ばれる。 日本ではキックボクシングの沢村忠が得意にした「真空飛び膝蹴り」の印象が強いが、プロレスにおける創始者はキラー・カール・クラップ。 その後坂口征二、グレート草津、ジャンボ鶴田が得意技として使い始める。 特に鶴田はこの技の使い手として名を馳せた。 R団武闘大会でFar♪選手が対カシコジマ戦で使用。 顔面にHitさせたが、KOには至らなかった。
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ディスクラッチ DJ型メダロット(MCI) 登場作品 navi ディスクラッチ 機体説明 機体性能メダロット・navi 機体説明 ディスクを沢山持つメダロット。 脚部はそのままターンテーブル、右腕は交換用のディスクをスタンバイ、 左腕のトーンアームとマイクロフォンで音楽を流すぜ! …各行動の成功値は「0」なのでそこんとこ注意すること。 見た目ですぐ判別できるわけでもないのに、具体的なモチーフは公式で明らかにされていなかったが、 クラシックスプラスのアルバムにて、ディスクジョッキー(DJ)型との記載があり ようやくモチーフが確定することとなった。 型式番号「MCI」とは「Mixing Console Instrument」の事だと思われる。 所問わずカブトバージョンのスペロボ団取り巻きメダロットとして登場するものの、 実は「初めてそのブロックに攻め込んだ時」のみ登場する。 2回目以降だとメンバーがエレメントマークに変更され、登場しなくなってしまう。 つまり戦える回数が限られている。パーツを揃えるときは注意。 クワガタバージョンのダンプスターも同様である。 関連機体 ダンプスター クワガタバージョンの方はこちら ボリュームテン 一緒に演奏しようぜ! 機体性能 メダロット・navi 「ディスクラッチ」(男) 頭部 インストルメント MCI-01NF 装甲 成功 威力 回数 属性 行動 特性 射程 対象 75 0 33 3 速度 うつ バキューム 4~5 敵1体 右腕 ディスクチェンジ MCI-02NF 装甲 成功 威力 AP 属性 行動 特性 射程 対象 50 0 3 17 変化 おうえん 補助チャージ 0~4 味方1体 左腕 マイクロフォン MCI-03NF 装甲 成功 威力 AP 属性 行動 特性 射程 対象 50 0 5 17 変化 おうえん 補助チャージ 0~4 味方1体 脚部 ターンテーブル MCI-04NF 装甲 推進 機動 防御 近接 遠隔 属性 タイプ 115 4 6 20 4 20 速度 戦車