約 1,855,976 件
https://w.atwiki.jp/nandemosenkyo/pages/13.html
現在、テレビで自民党や民主党やいろいろな政党の話題が取り上げられています。その中で、みなさんはどの政党を支持し応援しますか?下記投票フォームから投票してください。 昔の党や現在活動していない党は投票しないでください。 この中に支持する政党がなければその他から追加してください。 順位 選択肢 得票数 得票率 投票 1 自由民主党 4 (22%) 2 みんなの党 2 (11%) 3 公明党 1 (6%) 4 共産党 1 (6%) 5 国民新党 1 (6%) 6 幸福実現党 1 (6%) 7 改革クラブ 1 (6%) 8 新党日本 1 (6%) 9 日本共産党 1 (6%) 10 民主党 1 (6%) 11 沖縄社会大衆党 1 (6%) 12 社会民主党 1 (6%) 13 社民党 1 (6%) 14 自民党 1 (6%) その他 投票総数 18 締め切りまであと、日です。
https://w.atwiki.jp/yj_ame/pages/325.html
KY【けーわい】 ご存知 「空気読めない」(他・読め、読んで等)のローマ字略称。 使いすぎると雰囲気が荒れることがあるので注意。 「知念くんとチビ亮どっちが可愛い?」スレにて発生した、「侑李可愛い」のローマ字略。 RUSS-Kでの小山の表記でもある
https://w.atwiki.jp/sennkyo11/pages/15.html
◆◇ 社民党岩手県連合 http //www15.ocn.ne.jp/~sdpiwate/index.html ◆◇社民党 道府県議会議員選挙・政令市議会議員選挙立候補者一覧 http //bit.ly/hUmMyg 市区議会議員選挙 町村議会議員選挙立候補者一覧 http //bit.ly/h4IwMC ◆◇ 日本共産党岩手県委員会 http //jcp-iwate.jp/ 日本共産党/いっせい地方選挙候補者紹介 http //www.jcp.or.jp/giin/senkyo/2011_issei/ ◆◇ 【みどり岩手】
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/8680.html
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14日の毎日の記事で内田樹が総選挙を総括する意見を上げている。「まず感じたのは小選挙区制という制度の不備である」と書き、小選挙区制に対する不満をぶちまけている。この主張は、投票結果が出た直後に中野晃一が言っていた。どうやら、安倍晋三が圧勝した結果に苛立っている文化人たちの間で、小選挙区制に対する批判が共通の問題意識になっているようだ。昨年、トランプが勝利した米大統領選の報道を受けて、文化人たちの間で、没落した中間層に夢を抱かせないよう上から説教を垂れようとした思想運動が起こったことを思い出す。ユニクロを着て鍋をつついて我慢せえと清貧の心構えを垂れていた。年末から正月にかけて、上野千鶴子、小熊英二、長谷部恭男、杉田敦などが、この線に沿って同じ言説をマスコミで披露した。アカデミーの世界は狭い。どこかで身内で顔を合わせて世間話をしているうちに、こういう安易で傲慢な認識と結論になったのだろう。トランプ的なポピュリズムとファシズムを阻止するためには、大衆に幻想を抱かせてはならず、中産層に復活の夢を諦めさせなくてはいけない、われわれ岩波文化人が愚かな大衆を教導して自覚を促そうと、そういう「使命感」で一致したのに違いない。今回は、安倍圧勝の総選挙を受けて小選挙区制の見直しが主題になり、年末から年始の大手紙のメインの論調になるのだろうか。 内田樹や中野晃一の言い分に対しては、何を今頃言っているんだという苛立ちと脱力の気分しか覚えない。この文化人たちは、2年前から「野党共闘」を推進して支持を訴えてきた面々だ。そもそも「野党共闘」なる政治戦略は、小選挙区制のスキームを前提にしたもので、小選挙区制で安倍自民党の現職に勝つために既成野党を合従させるところに主眼がある。基本政策の異なる民進党と共産党に手を組ませ、共産党の下駄票を民進党に与えるというのが鍵だった。もし、今回、小池百合子の希望の党の出現という2年前は想定外だった動きがなく、したがって民進党の分裂という事態がなく、彼らの2年前の戦略どおりに事が運び、北海道や東北や信越の小選挙区を取り、自民党の議席数を40ほど減らしていれば、彼らは小選挙区制に対する文句などは言わず、逆に、小選挙区制のおかげで成果を得られたと喜び、小沢一郎の持論をあらためて賛美したことだろう。結果が悪かったから選挙制度のせいにするというのは、八つ当たりもいいところで、自分の失敗を棚に上げた責任転嫁そのものだ。負け犬の遠吠えにしか聞こえない。「野党共闘」の戦略には、小選挙区制の化身とも言える山口二郎と小沢一郎が中核に入っていて、小選挙区制を肯定する論理で組み立てられたものだった。その「野党共闘」のイデオローグたちが、今頃になって小選挙区制を否定するのは筋が合わない。 内田樹は、これまで小選挙区制を批判したことがあっただろうか。小選挙区制を本気で批判するのなら、なぜ25年前の「政治改革」のそもそもの出発点に遡って検討を加え、その発起人であり扇動者である山口二郎を糾弾しようとしないのだろう。不思議なことに、中野晃一にせよ、内田樹にせよ、小選挙区制を批判しながら山口二郎には指一本触れようとしない。目の前に「政治改革」の首魁の山口二郎がいるのに、目を背けて批判の対象から外している。いったい誰が小選挙区制を導入したのだ。小選挙区制にしてしまうと、対立するはずの二大政党の政策が近似すること、有権者の選択肢が狭められること、政党の幹部に権力が集中して弊害が出ること、等々の民主主義の機能不全の懸念は、「政治改革」の論議の際に反対論者からさんざん挙げられた指摘だった。そもそも、そもそも、そもそも、戦後日本で小選挙区制に反対する者がそれを拒絶してきた理由は何だったのか。小選挙区制を導入しようとしてきた保守側の意図と目的は何だったのか。ハトマンダーとカクマンダーは何のためのものだったのか。改憲のための選挙制度改変の策動だったではないか。3分の2を取るためだったではないか。だから護憲側が抵抗したのではなかったのか。今、小選挙区制が問われるとすれば、糾明しないといけないのは、なぜあのときに、岩波書店と朝日新聞が「政治改革」の旗を振る錯誤を犯したのかということだ。 +後半記事 内田樹は記事の中で、小選挙区制が有効に機能しないのは低投票率のせいであると言っている。何を言っているのか意味が分からない。内田樹の政治センスの鈍さを感じるし、論理構成の支離滅裂を感じざるを得ない。本末転倒な議論だ。低投票率になるのは、この国の小選挙区制の本来性であって、低投票率は何かの原因として先行する要素ではない。過去の総選挙の投票率の推移を見れば簡単に分かることだ。中選挙区制から小選挙区制に変わり、死票が増え、二つの政党の政策が近似して差異と対立がなくなり、選択肢の幅がなくなり、有権者は選挙に関心を持てなくなった。小選挙区制というシステムそのものが、この国では投票率を低く抑える機能と属性を持つ。自民党Aと自民党Bでは選びようがない。中選挙区制では、自民党と対決し対抗する野党を応援し、自民党を牽制する野党を増やすための一票という投票(参政権の行使)が機能した。だが、小選挙区制では政権選択の投票になるため、野党を応援する一票という投票ができない。その投票は死票になる。したがって、小選挙区で票を稼ごうとする野党は、与党である自民党と同じ政策に寄せて差を埋める動きに出る。小選挙区制に移行して以降、この国では日米安保反対は決定的に異端となった。日米安保反対の立場が異端となると同時に、平行して護憲の立場も異端となって行った。今では日中友好も異端だ。日米安保礼賛で自衛隊礼賛しか政治の立場がない。 政策の対立軸を選挙制度で消したのが「政治改革」だった。日米安保を絶対化する政治制度改革だったと言っていい。中選挙区制の時代の投票率は70%を超えるのが普通だった。投票率を上げれば小選挙区制がワークするという内田樹の議論は、内田樹らしい屁理屈の小細工であって、そもそも制度の内実と因果関係の認識が間違っている。また、どれほど小選挙区制を批判しても、小選挙区制で勝ち続けて権力を握っている自民党が選挙制度を変えるはずがないし、小選挙区制というシステムとともに誕生し生息してきた民進党やその派生政党が小選挙区制を否定して改変を主張するわけがない。既成野党の中で小選挙区制に反対を言うのは、唯一共産党だけなのだから、野党全体に向かって小選挙区制反対で一致せよというのも愚かな話だ。政治の初歩が分かっているのだろうかと怪しんでしまう。小選挙区制を本当に変えようとすれば、二つのことが必要になる。一つは「政治改革」の首謀者である山口二郎が自己批判し、国民の前で土下座して懺悔することである。もう一つは、中選挙区制に戻そうとする意思を持った政党が選挙で自民党に勝つことである。現行の小選挙区の下で勝って過半数を制することだ。「意思を持った政党」は、既成野党の中では共産党しかないから、共産党が小選挙区で自民党に勝たないといけないということになる。後者は事実上困難なことだが、前者は簡単にできることである。内田樹と中野晃一は、山口二郎の懺悔と謝罪を実現させるべく努力すべきだろう。 内田樹に反論するなら、投票率を上げようとするのなら、既成野党を数合わせさせる「野党共闘」で安倍政権打倒を考えるのではなくて、永田町の外からのリベラル新党の戦略を考案した方がいいということだ。その方がずっと可能性があるし、自民党から小選挙区の議席を奪う力になる。有権者が新しい政党を求め、新しい政治家と言葉を求めているのは歴然で、有権者は政治の変革を強く求めている。今の政治に満足していない。だからこそ、7月には都民ファの怒濤の勝利劇があったわけだし、10月の総選挙でも枝野新党の小さなブームが起きた。昨年の参院選を振り返ったとき、32の1人区で「野党共闘」は単独候補を立てて8勝の成績を収めたけれど、特に大きなブームと呼べる現象は起きず、選挙区の投票率も上がらなかった。投票率が上がらなかったから、8勝した選挙区では共産党の組織票がよく貢献し機能したのだという見方もある。有権者は「野党共闘」に醒めていた。それは数合わせの所産だったと評価するしかない。いつも投票する人が投票し、共産党候補の案山子票が死票にならなかっただけだ。全国ベースで小選挙区で自民党に勝つ「革命」を起こすためには、いつもは選挙に行かない有権者をその気にさせないといけない。マスコミがブームに乗って風を吹かせる現実を作らないといけない。それは、既成野党の合従連衡の形では絶対に無理なことだ。最後に共産党についてだが、私は、今は、党名を変えなくてもよいという立場にある。党名よりも重要なのは人物と言葉である。 小選挙区で共産党が自民党に単独で勝つことは難しいけれど、サンダース的なブームを起こして比例の得票と議席で野党第一党(1200万票:40議席)を制することはできる。その図は十分に想定できる。人々の期待を集められる新しいキャラクターとメッセージが準備され、ブーム的現象を起こせば、共産党の名前でも支持を集めることは可能だ。共産党が古くて魅力がないのは、党の名前や綱領のせいではない。社会主義と護憲と反日米同盟のイメージと政策を、サンダースのように有意味に訴求し説得する能力と努力がないためだ。 ■ 思考停止の左翼系知識人 「真田清秋のブログ(2017.3.11)」より / 「月刊日本」3月号、哲学者・適菜収氏と山崎行太郎氏の対談記事より "言葉を破戒する安倍政権” 山崎 そういう意味では、安部さんの言葉だけでなく、「保守」という言葉自体も混乱していますね。最近では、憲法改正を主張したり、中国や韓国を批判すれば、自称保守の人たちから仲間だと見なされますよね。彼らは「中国や韓国を批判するのが保守である」といった考えにとりつかれています。これは保守がイデオロギー化、左翼化しているということです。 実際、彼らは自分たちとちょっとでも違うことを言えば、「お前は左翼だ」などと批判するわけです。これは昔の左翼にそっくりですよね。だけど、中国や韓国を批判するだけで保守になれるなら、誰だって保守になれますよ。 適菜 三島由紀夫は、朝から晩まで反共に明け暮れていると、段々相手と似通ってくると言っています。教条的なイデオロギーに絡めとられてしまうのですね。今の自称保守も同じで、愚かな左翼を批判しているうちに、自分たちも同じようなものになってしまった。 福田恒存は「私の保守主義観」で「人間は相手の甲羅に似せて穴を掘る」と言います。「日本の革新派は保守派の水準の低さを嘲笑うがその水準は革新派の水準によって定まったもので、軽々しくそれを笑うことは出来ない」。そしてそれは逆にも言える。「保守派の水準が低いために、革新派の水準が低くなったのだとも言えよう」と。だから安倍に対して頓珍漢な批判を投げつけるバカ左翼と、安倍を頓珍漢な理由で支持しているバカ保守が、同じレベルでわいわいやっているだけです。 山崎: そうですね。その結果、今や櫻井よしこや百田尚樹が保守の代表とされるまでになってしまったわけです。安倍さんが作家と言われて思い浮かべるのも、彼らの顔だと思いますよ。安倍さんは櫻井よしこの本の解説まで書いて、櫻井を絶賛していますからね。安倍さんの頭に三島由紀夫や小林秀雄のことがちらつくことはないでしょう。 適菜: たぶん読んでいないでしょうね。 山崎 読んでいなくとも、せめて名前くらいは知ってほしいけれどね。尊敬する作家が櫻井よしこや百田尚樹では、いくら何でも恥ずかしいですよ。 適菜: 安倍の愛読書は百田の『永遠のゼロ』ですからね。一昔前は、政治家が愛読書に司馬遼太郎の本を挙げていると、「政治家は劣化した」なんて批判されましたけど、いまや『永遠のゼロ』ですよ。 ついでに言うと、橋下徹の愛読者は『いま、会いにゆきます』です。もう何がなんだかわからない。 山崎: 安倍さんは百田や櫻井を一流の作家だと思い込み、彼らの言っていることを真に受けているフシがありますよね。これは知的土壌が根本的におかしいということです。昔の総理大臣は、佐藤栄作あたりまでは、江藤淳や小林秀雄のことは頭に入れていたと思います。 適菜: 安倍は百田と『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』という対談本を出していますけど、まさにタイトル通り、お花畑で咲き誇っているんですよ。 山崎: これは保守派だけではなく、佐翼にも問題があると思います。かつては左派系の知識人が力を持っていて、権力に対してそれなりにしっかりした批判を行っていました。だから、今は左派からまっとうな批判が出てこないから、権力側も彼らに対抗するために、知的訓練を積む必要があった。だけど、今は左派からまっとうな批判が出てこないから、権力も安心しきっちゃっているんですよ。 適菜: 左派も冷戦時代で思考停止していて、現状認識できていない。だから彼らの安倍批判は力を持たないんです。 例えば、慶應義塾大学に金子勝という佐翼の学者がいますよね。彼は「トランプは排外主義者であり。安倍首相も似たようなもの」と言っていたのですが、大間違いです。不法移民を追い出そうとしているトランプと、「外国人材」などと誤魔化して大量の移民を国内に入れようとしている安倍が「似たようなもの」であるはずがない。安倍はグローバリストですよ。ナショナリストが「国籍や国境にこだわる時代は終わった」などと言うはずがないでしょう。 山崎: それから、佐翼の人たちは「安倍は民主主義を壊そうとしている。民主主義を守れ」などと言っていますが、先ほど適菜さんが指摘したように、民主主義は権力の一元化を招くから無条件に善とは言えない。だから「民主主義を守れ」というスローガンだけでは、安倍政権に対抗できないのだと思います。 適菜: そうですね。正確に言えば、安倍が壊そうとしているのは民主主義ではなく、議会主義(間接民主主義)です。多くの人たちは民主主義と議会主義を混同しているから、議論が噛み合わなくなる。 清秋記: 真の保守の哲学者であるお二人の共通するのは、品性ある思想、言い換えれば卑怯でないむしろ武士道的な知的見識に殉じることで、全体観から現在位置を確認し、その上で迫力ある行動が可能な知的見解とも言えるでしょう。 やはり、人は議論を重ね、知的レベルを常に磨く必要が天意に適っていると思います★ そのことが、時代を見据え、その本質を掴み、万人のために行動する気概が大事だと痛感します★ ■ 左翼キャスター・コメンテーター 進歩的文化人の後裔は限りなく軽い 「iRONNA(月刊正論2015年8月号)」より / 竹内洋(社会学者、関西大学東京センター長) 「進歩的文化人さまが到着しました」 進歩的文化人といま言っても、「ああ、あれね」とリアルに思いだせるのは、60歳代以上の人々であろう。それよりも若い世代にとっては、いまでは具体的イメージが湧きにくいかもしれない。だから、年長世代にはいくらか復習めいたことになるが、進歩的文化人とはどのような存在だったかの説明からはじめたい。 進歩的文化人は進歩主義的文化人をつづめて言った言葉。進歩主義とは歴史を進歩するものとみ、それを推し進める思想の謂である。進歩の先にソ連や中国の社会主義国を想定していた。したがって進歩的文化人は、敗戦後の社会党・共産党応援団として前身の自由党をふくめた反自民党の立ち位置をとり、護憲平和、非武装中立、戦後民主主義の擁護などを唱えた学者や作家、芸術家などを指した呼称である。進歩的文化人を英語に訳せば、socialist intellectuals(社会主義的な知識人)となる。 ところで進歩的文化人のドンだった丸山眞男は、1970年代後半から80年あたりまでに書かれた「近代日本の知識人」という論稿(『後衛の位置から』所収)の中で進歩的文化人という呼称についてこう書いている。 「進歩的文化人」はもっぱら他称であり、しかも必ず罵倒や嘲笑の調子と結びついております。そこで対象とされているのは、主として護憲運動・反戦平和運動・アメリカ軍の基地問題・被差別部落問題、そうして最近は企業公害問題などで活発に発言し、歴代の保守党政府を批判する論調を展開している知識人たちです。けれどもそれほどはっきりした特定グループを指示する言葉ではなくて、むしろヨリ大きく、彼等を攻撃する側のイメージの問題のように思われます(下線引用者)。 70年代後半から80年代あたりは、進歩的文化人への批判が高まり、丸山は自身が進歩的文化人のドンとして攻撃の矢面に立たされることが多かった。それ故の被害者意識からの言明であることを斟酌しても、進歩的文化人をもっぱら「他称」であり「侮蔑や嘲笑の調子とむつびついている」というのは、この論文が書かれた時代についてはともかく、言葉の発生としては首肯できない。進歩的文化人はもともとは尊称用語であり、ひそかな自称用語でさえあったからである。 というのは戦後初期には、左翼知識人が自称や決意表明として「進歩的知識人」や「進歩的インテリゲンチャ」を使用していた。そのことは、戦後初期の左翼臭が強い総合雑誌『世界評論』や『潮流』などにこれらの用語が頻出することでわかる。このようななかで、「進歩的文化人」は、戦後増産された軽薄な「文化人」のなかの「進歩的」分子という尊称用語として登場したからである。 蔑称ではなかったという事例をあげよう。評論家青地震(1909~84)は、砂川闘争(1955年にはじまる米軍基地反対闘争)で、丸山とならんで進歩的文化人の代表格だった社会学者清水幾太郎と砂川町にかけつけたとき、地元農民からこういわれたというのである。「ただいま進歩的文化人さまが到着されました」(「戦後史のなかの岩波文化人」『週刊読売』1974年8月17日)。基地反対派の地元農民が応援でかけつけた青地や清水に皮肉をいうわけはないから、「進歩的文化人」は蔑称ではなく、その反対の尊称として存在したことの証拠となる。知識人という名称がそうであるように、自分のことを進歩的文化人などと名乗り出るようなことは憚られたが、他者からそういう括りにいれられないと、学者としての誇りを傷つけられるという類の用語だった。進歩的文化人は歴史の針を前にすすめる良心的知識人であり、かつ一流の学者文化人であるという意味が込められていたからである。 《保守反動文化人》を蹴散らす 進歩的文化人陣営は命名闘争のために、対抗知識人を命名し括り出した。進歩的文化人の反対用語は、「退歩的野蛮人」だが、それでは漫画的すぎて負のレッテルとしての訴求力を欠く。それに対抗集団を野蛮人とすれば、進歩的文化人が自らの格を下げることにもなる。そこで進歩的文化人陣営から文化人という名称だけはのこして、「(保守)反動文化人」という命名がくりだされた。反動的文化人は歴史の針を過去に戻す復古主義者であり、権力と結託する寄生的知識人という意味がこめられていた。かててくわえて一流の学者文化人でもないという意味も込められていた。「(保守)反動文化人」の名称には、三重にも否定的意味をこめられていたのである。 進歩的文化人を蔑称とする動きは、進歩的文化人陣営がタグをつけくくりだしたことに対する「反動文化人」側からの反撥による攻勢の結果だった。進歩的文化人陣営が投げた飛び道具が投げた者自身に戻ってくるブーメラン効果だった。そういう意味では、呼称をめぐるせめぎあいだったが、圧倒的に優勢だったのは、進歩的文化人のほうだった。 進歩的文化人は論壇での発表の媒体は『世界』をはじめ、『現代の眼』や『朝日ジャーナル』などいくつもあった。それに対し、保守系の論壇誌には、『自由』(1959年末創刊)があったが、岩波書店から刊行された『世界』からくらべて「よく読む雑誌」などの調査でランクインすることのないマイナーな雑誌だった。『胎動』『新論』『論争ジャーナル』など保守系論壇誌の試みはいくつかあったが、購読数は数千単位で、そのほとんどは短期間で休刊にいたった。メジャーな保守系雑誌として『諸君』(1970年1月号からは誌名は『諸君!』)が登場したのは、戦後も四半世紀たった1969年(7月号)だったが、70年代の『諸君!』の毎月の実売数は、まだ二万~三万台で低迷していた。本誌『正論』が登場したのはそれから四年たった一九七三年十一月号である。その四年あとに『Voice』が1977年十二月号に登場した。購読者数で保守論壇誌が革新論壇誌と肩を並べるにいたったのは、八〇年代からである。それまでは論壇は進歩的文化人の独壇場だった。 つまり、進歩的文化人は、戦後のある時期まで、声高に物を言う大学生やインテリ、労働組合員という小文字のオピニオン・リーダーに絶大な影響を及ぼした、大文字のオピニオン・リーダーだった。当時の保守(自民党)に対する社会党・共産党を代表とした革新陣営のイデオロギーを浸透させる役割を果たした。代表的進歩的文化人の具体名をあげれば、さきほどふれた丸山眞男東大教授や清水幾太郎学習院大学教授、久野収学習院大学教授のほかに教科書裁判で有名な家永三郎東京教育大学教授、作家野間宏、阿部知二、大江健三郎などである。60年安保反対闘争は、かれらが世論に大きな影響を与え、もっとも輝いたときであった。そして、進歩的文化人は、1967年の美濃部亮吉の東京都知事当選に代表されるように、反公害・護憲・福祉を旗印に社会党・共産党によってかつぎ出され、知事・市長に当選した。70年末までは進歩的文化人の影響力は大きかった。 大衆インテリの急増が権威を後押し ここまでの説明を読んだ若い世代の人は、進歩的文化人という言葉でいまテレビに出ているちょっと左の立ち位置のキャスターやコメンテーター文化人などを想起するかもしれない。たしかにどんな問題にもいっぱしの嘴をはさみ、政府のやることに文句をつけ、自由や競争より平等を掲げる言論は、進歩的文化人の後裔とはいえる。しかし、いまのテレビのちょっと左のキャスターやコメンテーターはかつての進歩的文化人をかぎりなく軽量にしたものである。キャスターはそもそも学者でも文化人でもない。コメンテーターには芸能人やスポーツ選手がいるし、学者といっても必ずしも一流かどうかは疑わしい人もいる。ところがかつて猛威をふるった進歩的文化人は大物大学教授や一流作家などの文化人がそろっていた。 いまや学者文化人もただの大学教員にしかすぎないが、進歩的文化人の時代は、学者や芸術家・作家などの文化人の威信は絶大なものがあった。以下に示す1964年におこなわれた職業威信調査(東京都の男性)をみると隔世の感があるだろう。 第一位が総理大臣(94―スコア、以下同)。それについで東京大学総長(92)が挙がっている。東大総長の威信は、最高裁判所長官(90)、衆議院議長(89)、大臣(89)よりも高かった。いまでも卒業式のシーズンには、東京大学総長の言葉はメディアで報道されているが、スピーチの内容はかなりはしょられている。季語のような儀礼的報道である。進歩的文化人が闊歩していた時代には、「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」(1964年3月の大河内一男東大総長の卒業式式辞。ただしこの言は、原稿にはあったが式場では省かれた)のように、東大総長の式辞は時代の指針の言葉のように詳しく報道され、社会的話題にもなった。大河内総長自身が押しも押されぬ進歩的文化人だった。 そんな時代だから唯の大学教授でもスコアは83で医師(77)をはるかに離し、大会社の社長(82)よりも高い評価だったのである。であれば、芸術家や作家の威信も高かったはずである。もちろんこの時代の大学教員数と今の大学教員数を比べれば、5万人(1960年)から18万人と3倍以上も膨張した。大学教授のインフレは威信の低下――95年調査では、医師90、大会社の社長87、裁判官87、大学教授84――に影響しているが数の膨張だけが原因ではない。かつての大学教授の威信の高さは、戦後の無い無いづくしの中で生まれた文化国家という目標と人々の学歴志向とが連動しながら、大衆インテリが増産されるなかで学者文化人への畏敬の念が強まったことが大きな要因だった。 中でも進歩的文化人は、大学教授の中の大物であるから、その威光は格別である。だからかつての進歩的文化人はいまのキャスターやコメンテーターの発言などとは比べ物にならない影響力を行使したのである。当時は、ネットはないし、テレビは萌芽期で普及したときでも娯楽を主とした二流メディアにすぎなかった。活字の印刷媒体こそが権威メディアであったから、進歩的文化人は論壇誌や著書、そして講演、声明活動などで啓蒙活動にいそしんだのである。そう、進歩的文化人の時代というものがあったのである。戦後70年を考えるときに、敗戦後四半世紀以上にもわたって大きな影響力をふるった進歩的文化人群は忘れてはならない社会集団である。 進歩的文化人の巣だった『世界』 +続き この進歩的文化人の誕生地となり、原型となったものは何か。岩波書店世界編集部の吉野源三郎が音頭取りとなって、共産党員ではない文化人を糾合した平和問題懇談会である。平和問題談話会は1948年12月に平和問題討議会として発足し、「多数講和」(とりあえず米英をはじめとする西側諸国と講和条約を結ぶ)に反対し、米ソを含むすべての連合国と同時に講和条約を結ぶべきとする全面講和、中立不可侵、軍事基地反対を唱える声明を『世界』に発表した。談話会は年長世代の安部能成や大内兵衛などをかつぎながらも、実質的には清水幾太郎・丸山眞男・久野収などが仕切った。かくて『世界』と岩波は、進歩的文化人の本拠地となった。こうしたことから岩波と言うと、進歩的文化人の牙城とおもわれてきたが、それは、1946年1月の『世界』創刊号からはじまったわけではないことに注意したい。岩波書店創始者である岩波茂雄存命のときの『世界』は進歩的文化人の雑誌ではなかった。『世界』は、津田左右吉の皇室を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」論文(1946年4月号)を掲載したように、オールドリベラリスト(安倍能成や小泉信三など戦前からの自由主義者)系の穏健な雑誌として出発した。そのころは、『前衛』(日本共産党中央機関誌)はもとより、『人民評論』『民主評論』『社会評論』『世界評論』『潮流』など左翼系雑誌が目白押しだった。『改造』は「ブルジョア左翼雑誌」とみなされ、『中央公論』は「微温的」といわれた時代である。したがって岩波茂雄存命時代の『世界』は、左派からは、ブルジョア左翼にも達しない「金ボタンの秀才の雑誌」といわれていた。日本共産党機関誌『前衛』の雑誌評では、『世界』は「保守的なくさみが強い」とされてさえいた。 あまつさえ、『アカハタ』(1948年3月5日)で岩波書店が叩かれるこんな事件もあった。岩波書店が、割り当てられたインディアン・ペーパー(辞典用紙)を煙草巻紙用に横流ししたという記事(「摘発した物を再割当」)である。経済安定本部顧問会議に岩波書店の吉野源三郎が出席していて、長官の和田博雄(農政官僚、のちに社会党副委員長)と示し合せての仕業という記事である。のちにこの記事について事実無根の訂正がなされたが、日本共産党が『世界』を含めた岩波書店を同伴者ともおもっていなかったからこそ、ウラを取った気配の感じられない、醜聞記事を載せたといえる。 『世界』や岩波の刊行物が左旋回したのは、岩波茂雄没(1946年4月25日)後数年たち、平和問題談話会ができたあたりからである。『世界』は平和問題談話会の声明発表場所となり、かれらの論稿を掲載する場となった。『思想』や「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする岩波書店の刊行物は相互に同種の傾向(進歩的文化)をもつものが多くなった。1949年4月には、岩波新書が表紙デザインは戦前と同じだったが色を赤色から青色に変え(青版)、『解放思想史の人々』(大塚金之助)などで再出発させた。このときに付された「岩波新書の再出発に際して」には、「平和にして自立的な民主主義日本の建設」「世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせ」る、と言明されている。『世界』の平和問題談話会路線とその軌を一にした言明である。刊行物ミックス(併読)効果によって、岩波文化を進歩的文化人と進歩的文化の牙城にしたのである。 進歩派を活気づけるに終わった福田恆存の批判論文 『世界』を舞台に平和問題談話会に蝟集した岩波進歩的文化人を完膚なきまで批判したのが、今では戦後の名論文とされる福田恆存の『「平和論の進め方についての疑問」(『中央公論』1954年12月号)である。 福田のつけた題名は、「平和論に対する疑問」だったのが、編集部が配慮して、つまりトーンダウンさせて「平和論の進め方についての疑問」にした。さらに、福田論文掲載号の編集後記は、「ただこういう論旨が現状肯定派に歪曲され悪用されることは警戒しなければならぬと思います」と、腰がひけたというより、ひけすぎたものである。しかし、こういう編集後記を添えざるを得なかった当時の論壇の空気を思い浮かべるべきであろう。飛ぶ鳥を落とす勢いの平和問題談話会を代表とする進歩的文化人を論難することがいかにむずかしかったかがわかるものである。 「平和論の進め方についての疑問」は、一時代を画する論文で、よく知られているが、その内容をかいつまんで紹介しておこう。福田は、平和論者の平和論よりもまずは、そうした論をとなえる「文化人」の思惟様式や行為様式の批判からはじめている。文化人とは事件や問題がおき、ジャーナリズムに意見を聞かれれば、どこかに適当な原因をみいだしてなにごとにも一家言を提供する人種で、「運がなかつた」からだとか「自分にはよくわからない」などとはいわない人々であるとし、「自分にとつてもつとも切実なことにだけ口をだすといふ習慣を身につけたらどうでせうか」という。いまのコメンテーターにもそのまま送りたい揶揄であるが、福田はこのように文化人批判をしてから、平和論をめぐる岩波進歩的文化人の思惟様式批判に入る。 日本の平和論は正月などに使う「屠蘇の杯」だという。屠蘇の杯は「小さな杯は順次により大きな杯の上にのつかつてゐる」。平和問題論者は、基地における教育問題(風儀の乱れと猥雑さ)を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらない。統一戦線とか民主戦線とかいうのは、こうした拡大主義から生まれてくる。現地解決主義ではなく、無制限な拡大をなす。そのことで本末転倒がなされ、基地における教育問題などのもとの問題を忘れさせてしまう。最後に、福田はこういう。平和論者は、二つの世界の共存をどういう根拠で信じているのか、日本のような小国は強大な国家と協力しなければやってはいけないはず、と。 「平和論の進め方についての疑問」は、『中央公論』の巻頭論文ということもあって、蜂の巣をつついたような騒ぎをもたらした。絶賛した記事もあったが、九牛の一毛。しかも匿名記事にすぎない。ほとんどは猛反発だった。「平和論の進め方についての疑問」が発表された『中央公論』の翌月号(1955年1月号)には、平野義太郎「福田恆在氏の疑問に答える」が掲載される。「ダレスという猿まわしに曳きまわされながら、小ざかしくも踊つているのではないか、という疑いをもちました」という激しい論調になっている。福田は平野論文への応答「ふたたび平和論者に送る」を『中央公論』(同年2月号)に発表する。 ここで福田論文と反撥論文をめぐる読者の反響の大きさを掲載号の『中央公論』の購読数でみよう。たしかに、福田論文が掲載された12月号の実売数が7万6000で前月より4千部ほど多かった。それなりの反響がうかがえる。しかし反響の大きさは平野の反論のほうである。1月号は前年の福田論文の12月号よりもさらに、1万部も増え8万7000となる。福田の反論がでた2月号は平野の1月号ほどではなく、8万2000。3月号には向坂逸郎(経済学者、1897~1985)や中島健三などのあらたな福田への反論が掲載される。この3月号は福田が反論した2月号よりも1000部強多い。福田論文がむしろ進歩的文化人側を活気づける塩梅になったことに、当時のインテリ界の空気がいかなるものかが表されている。 朝日新聞を「権威」づけたもたれ合い 進歩的文化人は、その誕生地と活躍舞台を「岩波書店」にしたが、もうひとつ「朝日新聞」という舞台がくわわった。「朝日新聞」の論壇時評が『世界』掲載論文や進歩的文化人の論文をいかに多くとりあげたかについては、社会学者辻村明による労作「朝日新聞の仮面」(『諸君!』1982年1月号)がくわしい。それによると、1951年10月から80年12月までに朝日新聞論壇時評で言及された論者の頻度数では、1位中野好夫、2位小田実、3位清水幾太郎、4位加藤周一、5位坂本義和である。上位26人のほとんどを、『世界』の常連執筆者である岩波文化人が占める。『中央公論』は取り上げても、『諸君!』や『正論』などの保守系論壇誌掲載論文をとりあげることは少なく、とりあげても否定的言及が多かった。 こうして進歩的教授(文化人)・岩波書店・朝日新聞はもたれあいの鉄の三角形を形成した。もたれあいと言うのは、そもそも進歩的教授にしてもジャーナリズムにしても、みずからの権威(正統性)を自前で生み出すことはできない。他者の認証あっての権威である。したがって、権威を貸与しあったり、借用しあったりのキャッチボールによって権威が確立する。進歩的教授・文化人は自らの権威の正統化のために岩波書店や朝日新聞によりかかった。岩波のほうは進歩的教授・文化人の著作を出版することで、権威をもつことができた。一方、朝日は著名な岩波文化人=進歩的教授・文化人を紙面に登場させることで、クオリティ紙やインテリの新聞のブランドを得、岩波文化人=進歩的教授・文化人を読者=大衆へ橋渡しすることで、その権威を浸透させ、大衆の支持を獲得する役目をになった。岩波文化も進歩的教授・文化人も朝日の紙面によって大衆的正統化を獲得することができた。 「朝日新聞」はこうした大衆的正統化を後ろ盾にしていただけに、岩波文化人・進歩的教授(文化人)の論説を薄めた朝日的なるものは戦後日本のたてまえとなった。護憲、非武装平和主義などがこれである。そうであればこそ、自民党の政治家や財界人の中にこのたてまえを考慮するハト派がうまれた。この鉄の三角形から進歩的文化人と朝日文化人と岩波文化人はイコールになった。岩波族や朝日族である読者たちは桟敷席にいる観衆であるが、岩波文化・朝日新聞・進歩的教授(文化人)を言祝ぐことで進歩的インテリとして聖別化される功徳を得るという構造(図参照)ができたのである。 覇権的地位からの転落 かくて大学キャンパスやメディア産業従事者の間では、進歩的文化人のイデオロギーこそが支配思想であり、進歩的文化人が支配階級となった。その時代、進歩的文化人の言説と真逆の物言いをする学者がどんな反応を呼び込んだか…。60年安保の翌年大学に入学したわたしには、ありありと思いだされる。当時、京都大学法学部に大石義雄教授がいた。法学部だけでなく、教養課程の日本国憲法も教えていた。日本国憲法は教職免状を取得するための必須科目であるから、大石教授は法学部以外の学生の間にもよく知られていた。大石教授は、日本国憲法を占領軍による押し付け憲法論として、憲法改正論を展開し、自衛隊については現行憲法でも合憲として、そのことを授業でも開陳していた。だから、典型的な「保守反動教授」とみなされていたが、それだけでおわらなかった。なにかの話で「大石さん」が出てくると、その途端に笑いがおこる、変人・バカ教授扱いだった。誰も反動的文化人になりたくないから、人気を気にする教授連は、反動的文化人とだけはいわれないような立ち位置をとった。左翼に媚びているとおもわれる教授もいた。 いや他人事ではない。私自身が嘲笑されたことがある。私が大学院生の1968年の冬ごろだった。さすがにこのころは、全共闘の時代で進歩的文化人の株価は猛烈に下がり、丸山眞男(進歩的文化人)の時代から吉本隆明(進歩的文化人批判の左派知識人)の時代になっていたが、それでも保守反動知識人は論外だった。 当時、福田恆存が面白いなどと仲間の学生に語りかける雰囲気ではないことはわかっていた。だから友人たちにしゃべることはなかった。ところが…あるとき数人の仲間が友人の下宿に集まって談話することがあった。吉本隆明のなんとかがどうしたこうしたというような当時のありふれた会話がつづいた。わたしは、「吉本もいいけど、福田恆存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、二人は似ているんだな」といった。 恥ずかしいことだが、そのとき二人の女子学生がいたので、彼女たちにいいところをみせたいという邪心が働いたのであろう。しかし、「似ているんだな」といいだしたあたりから、呆れた物言いだということがありありとわかる表情を全員から投げ返された。そのあとをつづける勇気はなく、「うんまあ…いいけど」で終わってしまった。「いいなら、いうなよ」と追い討ちまでかけられた。いいところをみせるどころか、すっかり面目を失ってしまった。 このことがあってから、その場に居合わせた吉本隆明の女子学生は、わたしを誰かに紹介するときはかならず「この人ウヨクよ」と添えたものである。福田恆存をよいというだけで「ウヨク」扱いを受けた時代なのである。このときのウヨクは「右翼」ではなく「バカ」に近い意味だった。 大学や文化産業においてでは、左派は、中国における共産党のようなもの、つまり体制だった。にもかかわらず、自分たちは反体制だとのみ思っているところや、自分たちこそ正義や知性やヒューマン価値の担い手の「意識高い」系であるとする臆面のなさがなんとも鼻についた。進歩的文化人やそのシンパの進歩的大衆インテリがいやだったのは、かれらのイデオロギーもさることながら、鈍感な自己意識から繰り出される啓蒙という名の特権的で抑圧・排除型の支配だった。 しかし、進歩的文化人の覇権は、全共闘によって打ち砕かれる。進歩的文化人の鬼子による親殺しがおこなわれたのである。糾弾の論理は、東大全共闘会議議長山本義隆によってかかれた論文(「東京大学 その無責任の底に流れるもの」『現代の眼』1969年6月号)に要約されている。山本義隆は、この論文で、教授会の無責任構造を非難し、丸山の『日本の思想』をとりあげ、引用しながら、丸山が剔抉した日本社会の病理は大河内一男総長体制下の東大評議会・教授会そのものである、何故丸山は東京大学の体制そのものを批判しないのか、と激しく非難した。進歩的教授は、日本社会論のような総論では忌憚のない見立てを展開するが、各論それも大学や知識人集団の仲間集団のこととなると、口をつぐむか打って変わって仲間擁護の甘い見立てになる、と講壇安全左翼の不徹底性が糾弾されたのである。山本義隆は、日大全共闘との対談では、進歩的教授についてつぎのように批判をしている。 一体進歩的文化人といわれる教授たちは何をやってきたか。彼らはいまやきわめて反動的な役割を果たしているか、困ってしまって無言を重ねているか、そのいずれかではないか。進歩的文化人といわれ、平和と民主主義を説いて、高度成長の経済社会では欺瞞的に教授という位置を与えられ、その範囲内で毒にも薬にもならぬ平和・民主主義論を説くことを許容されていた、それ以外の何ものでもなかったことを示している(「権威と腐敗に抗して」『中央公論』1969年1月号)。 当時の大学自治で守られた大学という安全地帯のなかでのかれらの反体制的言説をウソくさいと全共闘が糾弾したのである。いざとなったら、職場を守り、文部官僚や政府権力と結託し、全共闘学生を機動隊に渡す大学教育官僚にすぎない、と。こうして進歩的教授や進歩的文化人という呼称から発した光輪が消え、呼称そのものが消滅した。進歩的文化人・岩波文化・朝日新聞の鉄の三角形の一角が瓦解した。権威の借用・貸与によって存立した鉄の三角形が形骸化しはじめた。 大衆化した後裔たちの茶番劇 ところが、小型化し軽量化された大衆的進歩的文化人がキャスターやコメンテーターの姿であらわれた。それは、「堅気(保守)的大衆」よりも、権利と自己主張に急な「(疑似)進歩的大衆」がせり出したことと相関している。どっこい進歩的文化人は生きているという思いをもった。だとすれば、全共闘的なるものがあらわれるはず、と思わぬでもなかった。 案の定、といっても思いもかけない形でそれはあらわれた。今年3月27日のテレ朝「報道ステーション」の冒頭のあの事件である。新聞や雑誌でも報道されたから、よく知られているが、かいつまんでふれておこう。古舘キャスターがコメンテーターの古賀茂明氏に中東情勢についてのコメントを求めると、古賀氏はこう言い始めた。「テレビ朝日の早河会長と古舘プロジェクトの佐藤会長のご意向で今日が最後ということなんです」。つづいて古賀氏は、菅官房長官の名前も出して、官邸から「ものすごいバッシングを受けました」と言った。古舘氏が慌てて、今の話は「私としては承服できません」と言うと、それを受けて、古賀氏は爆弾発言をした。テレビ局幹部と官邸の意向による「更迭」について、古舘さんは「自分は何もできなかった。本当に申し訳ないと言いましたね」。古舘さんとの「やりとり」は録音しているから「全部出させてもらう」、とまで言い放った。 古賀氏の自爆テロとも言われたが、私は、これはどこかで見た光景の再現に見えた。機動隊が全共闘学生をけちらかすことに進歩的教授は手を貸したと糾弾する全共闘学生に古賀氏が、そのように糾弾される進歩的教授に古舘氏が、二重写しで見えてきたのである。酷な言い方にはなるが、いざとなると、大学の秩序ならぬテレ朝と古舘プロ、そして自己の延命にまわるあたりも、その昔の進歩的教授と相似である。 歴史上の事件については、一度目は悲劇で、二度目は茶番としてあらわれるといわれるが、たしかに古賀事件は茶番劇だった。そうなったのも、二度目の軽量進歩的文化人の存在そのものが茶番であるからだ。いまや、ヤンチャ系であるはずの芸能人もスポーツ選手もテレビカメラが向けられると、かつての進歩的文化人のような物言いをするが、そうした化身事が猿芝居であるからだ。 ーーーーーー たけうち・よう 昭和17(1942)年、新潟県生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究科教授、関西大学人間健康学部長を経て現職。『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)で2012年度読売・吉野作造賞。著書に『教養主義の没落』(中公新書)、『知識人とファシズム』(共訳、柏書房)など多数。近著は『大衆の幻像』(中央公論新社)。 ,
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店名 CLiC kyodo 電話番号 03-5426-0270 店舗住所 東京都世田谷区経堂1-12-2 1F 店舗までのアクセス 小田急線 経堂駅徒歩3分 営業時間のご案内 平日/10 00~19 30(パーマ・カラー最終受付18 30) 日祝/10 00~19 00(パーマ・カラー最終受付18 00) ※予約優先制。 定休日 年中無休!(正月のみ) 取り扱いクレジットカード 使用可。 ※ T-POINTも貯められます カット価格 5,000円~ スタイリスト数 4人(+非常勤1人) 席数 10席 備考 夜19時以降も受付OK/ドライカット/デジタルパーマ/パーティーメイク・セット/年中無休/朝10時前でも受付OK/最寄り駅から徒歩3分以内にある/ドリンクサービスあり/カード支払いOK/お子さま同伴可 ▼成城学園のその他の美容院 ma am Zee 豪徳寺店 Pika-bia Hair Works MIST千歳船橋店 FACE。 BLESS hair make PASSAGE 経堂店 ANGELS STYLE 成城学園前 ma am Zee 経堂店
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創立前史 1921年 11月、大川隆法(本名:中川 隆)の父・善川三朗(本名:中川忠義)、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・吉野川市鴨島町)に生まれる。 地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていたが、その生活は村でも最底辺であったという。その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活はいっかな好転せず、昭和9年、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。 麻布台のボロ家に身を寄せた一家は思い思いの働きで、貧しい家計を支えた。忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった生長の家の門をたたき、谷口雅春からじきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 1948年 忠義、日本共産党徳島委員会に顔を出し、『徳島新報』の編集兼発行人になる。 戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙『徳島新報』の編集兼発行人をつとめていたという。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 「中川さんが徳島市内にあった共産党の県委員会に顔を見せたのは、1948年ごろでした。入党したい、と言ってきたのです。たしか社会党籍があったんですが、片山内閣が右よりになってきたので飽きたらないと言っていたと思います。宗教の話など、何もしていなかったですよ」こう証言するのは、49年から共産党の徳島県委員長となった高橋道夫だ。 「この顛末を暴露しようということで、新聞を発行しようということになりました。このとき、中川さんが事務所にきていたんで、責任者になってもらった。発刊の辞、記事、それに割付も中川さんの仕事でしたね。(略)」当時、「忠義」を「只芳」というペンネームに変えて使っていたので「ロハさん」とみんなから呼ばれていた。高橋は中川が温厚な性格だったことや妻となる君子との出会いなど当時を振り返る。「(略)奥さんと知り合ったのも当の事務所に出入りしているころのこと。君子さんはお兄さんがやっていた理髪店で働いていた。私たちはそのお兄さんと税金闘争で知り合ったんです。私も中川さんも髪が伸びるとそこへ行ってタダで切ってもらっていました。そんな縁から中川さんは君子さんと知り合ったのです」(有田芳生『幸福の科学を科学する』) 1950年 忠義、共産党の内部分裂で『徳島新報』から手を引く。 1950年の党中央の分裂は、県党にも深刻な影響を与えた。(中略)中川只芳、富永圭一郎など、県内の古い活動家を党活動から排除するように仕向けるなど県党に大きな損害を与えた。(「わが地方の日本共産党史(徳島県)」・『前衛』1984年11月号掲載) 1956年 6月、大川隆法(本名:中川 隆)、父・忠義と母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町(現・吉野川市川島町)に生まれる。 7月 7日、大川隆法、出生届。 1962年 9月、共産党中央委員会の評論誌『文化評論』10月号に短編小説「奴犬」が著者・中川只芳名義で掲載。 「中川只芳さんは大正11年生まれ、40歳、徳島県在住。前党地区委員。現在は製針工場労働者。応募作品『奴犬』は処女作」(『文化評論』誌に掲載された中川の経歴) 朝鮮戦争当時、警察が中川とも読み取れる共産党員の家宅捜査をする場面を描いた作品で、『アカハタ日曜版』に応募したものだった。小説の最後はこう結ばれている。「―――まるで、奴犬よ―――その母の、奴犬という言葉には、ひときわ力が籠っていた。 ―――あらゆる機会をとらえて味方の力を最大にし、大衆の力で敵を孤立させる―――等のこの基本的戦術に私は忠実であったか。直ちに追打ちをかけるべきだった」(有田芳生『幸福の科学を科学する』) 1964年 4月、忠義、社団法人・徳島県畜産会に就職 共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。 この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教、GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 1965年 8月22日、木村恭子(後の大川きょう子)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)に生まれる。 1972年 徳島市の城南高等学校に入学 1975年 城南高等学校を卒業するも受験に失敗、京都大学に進学していた兄・力の許に転がり込み駿台高等予備学校に通学 1976年 4月、東京大学に入学 やはり城南高校から東大文Ⅰに進んだある同期生は、『学者になるには最低三か国語をマスターしなければいけない。ぼくはリンガフォンを買って勉強しているんだ』という隆のキャンパスでの言葉を妙に生々しく覚えている。だが、法学部政治コースに進み、篠原一教授のゼミに入ったものの成績は上がらず、東大に助手として残るとの夢は砕かれた。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 篠原東大教授が語る「学生時代の大川隆法」秘話と幸福実現党 守護霊インタビュー(The Libery.com 2013年6月26日) ヨーロッパ政治を専門とする篠原教授は70年代に、各国の政治状況を研究し、連立政権のシステムが優れているという立場を明らかにした。主張の違う各党が互いに政権内で議論をすることで、政策議論が深まるという意見である。篠原教授は公明党が「ピボタル・パーティー」として役割を担うことを期待していたが、その主張は90年代に現実のものとなる。93年に細川政権の発足で自民党の単独支配に終止符が打たれると、そこから日本の政治は連立時代に突入。99年には公明党が自民党政権に連立相手として加わった。 しかし、連立政権は決して日本政治の安定を意味しなかった。連立政権内の少数党は政権内の政策議論を深めるどころか、逆に「我が党が連立から離脱すれば、国会の多数派形成は困難になる」という立場をカードにして、自党の政策を呑ませる事態もたびたび発生した。鳩山由紀夫政権に参加した社民党が、沖縄の米軍普天間基地の県外移設に固執し、国防政策を振り回したのは記憶に新しい。 複数党が政権に参加する政治を提唱した篠原教授の政治学は、多くの一般市民が政治に参加することを理想とした。コーポラティズムと呼ばれるこの思想の落とし子と言えるのが、市民運動家から首相にまで登りつめた民主党の菅直人氏だった。70年代にがんを患った篠原教授は、「丸山ワクチン」と呼ばれる療法で治癒に成功。このワクチンを広げる運動を行ったが、そこで親しくなったのが菅氏だった。 篠原教授に教えを受けた菅氏は、厚相時代に薬害エイズ問題の追及で脚光を浴び、2010年には首相に就任する。しかし市民運動家上がりの首相は、統治能力の不備を露呈する。同年秋には中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に体当たりする事件が起きたが、菅政権は中国の圧力に負けて船長を解放してしまう。首相になって2カ月後に、「改めて法律を調べてみたら、(首相は)自衛隊に対する最高の指揮監督権を有すると規定されている」とビックリ発言をした菅氏は、国防はおろか憲法の基本的知識すら欠いていた。11年の東日本大震災では、30個近くの会議を次々と立ち上げるなど対応が迷走。さらには、辞任表明をしながら首相に居座るなど、政治家としての誠実さにも大きな疑問符が付いた。 菅政権の崩壊に加え、「討議型デモクラシー」と篠原教授が呼ぶ市民参加の政治がどこまで有効なのかは、民主党政権のダッチロールでクエスチョンが付いたことになるだろう。確かに多くの意見について議論を尽くすことは民主主義にとって大切だが、一般市民の意見をその都度聞いて政治を行うのなら、マスコミが作る「世論」に政策が大きく左右され、衆愚政に陥りかねない。例えば、菅政権の後を受けた野田政権は、原発政策について市民に討論をさせ、討論前と討論後の意見の変化を見る「タウン・ミーティング」を行った。しかし、マスコミが反原発の議論を常に流していれば、タウン・ミーティングの結果が原発反対に偏ることは目に見えていた。 また篠原氏は、外国人にも住民として政治に意見を反映させる権利があるという立場に立っていた。実際に民主党政権下では、外国人に地方参政権を認めるという議論が活発に行われていたことは記憶に新しい。しかし、国籍を問わず住民が誰でも政治に参加できるシステムは、国防上の重大な問題をはらんだものである。 このように、篠原教授は日本の政治に長らく影響を与えてきた、日本の政治学の権威と言える。小党の意見に振り回される連立政治、無能をさらけ出して瓦解した菅政権など、自身の思想が反映された政治の行き詰りについて、篠原教授はどのように考えるのか。公開霊言で篠原教授の守護霊は、コーポラティズムの思想を擁護しつつも、公明党や菅氏に対して苦言を呈している。市民の政治学の「その後」を、篠原教授はどう見通すのか。 こうした教え子の「今」を、元担当教授である篠原教授はどのように見ているのだろうか。大川総裁の立ち上げた幸福実現党は、神仏の心を心とした徳治政治を実現することを目指しているが、政治学者の目に、この動きはどのように映っているのか。政治思想的には対立する立場にあったかつての教え子を、元担当教授はどのように見ているのか。 本霊言で篠原教授の守護霊は、幸福実現党の思想が、もはや東大政治学でも分析できないほど大きなものであることを語り、日本の政治に新しいうねりを起こしつつある幸福実現党にエールを送っている。篠原教授はまた、「教え子が活躍しているってことは、教師としてはうれしいことではある」と述べるなど、巣立っていった教え子のその後を温かく見守る姿を垣間見せた。 294 :名無しさん@九周年:2009/05/29(金) 19 46 42 ID rvDFhTGP0中川隆君(今は寺の坊主とかと一緒で宗教的事由によって法的にも大川隆法に改名したんだったっけ)はですね、東大法学部の篠原ゼミ(ヨーロッパ政治思想)に出てたんですよ。研究者志望の人がそれなりにいるゼミ(その後東大法学部教授になったのもいる)。でまあ、彼は口数の少ないおとなしい人ったわけ。残念ながら(?)地頭のいいタイプじゃなくて(というかむしろかなりガッカリ系)、地方県立高校出身者にありがちなガリ勉&コンプレックス型の子でした。で、この手の子にありがちな、自意識過剰&ストーカー気質というかなりアレな感じ。いっちゃ悪いんだけどこの手合いは教養も殆どない。一次文献を読まずに二次文献や入門書で済ませて古典を読んだ気になるようなタイプの筋の悪さ(まさに中川君がそうだったわけだけど)。で、地方の子は親の監視から逃れられたという気分がそうさせるのか(まあ年頃も年頃だしね)性欲むきだしで中川君は学割○○○へと通いつめてましたね(渋谷には駒場に通う東大生狙いのそういうところがいまでもあるんだよ)。で、結局のところ成績悪いから学士助手には残れないし、院試すら落ちるしで(語学が苦手だったからね)、二流商社マンになって不適応を起こしたっていうところまでは知ってる。絵に描いたような東大法学部落ちこぼれコースです。で、今になってから、あの時に自分よりも優秀だった奴を見返したいとか思ってるわけでしょうね。まあ上のような経歴からずっと政治には興味があったわけだけど、ついに政党作っちゃったぜ、というわけです。脳内では大勝利図が描かれていて、与党の黒幕である私ってば偉い凄いということになるわけ(私がなれなかった政治学者よりも政治家が偉くてそれを支配している私の方が更にずっと偉いということね)。中川君の実物知ってれば政党旗揚げに関する彼の動機とか手に取るようにわかるわけ。彼のコンプレックス解消に付き合わされる人たちはたまらんだろうな、と思います。というか、しょぼくれておどおどした実物を知ってるとなんで彼を教祖にした宗教が成立しうるのかもさっぱり理解できないんですけどね。 6月25日、GLA教祖の高橋信次が死去 高橋信次先生がある時、関西から若者が出てくると言われました。わたしとS氏が呼ばれたとき、すでにその話は伺っていましたので、すぐにピンときました。わたしとS氏が伺ったときはもっと詳しく、関西方面というのは四国出身で、その方の父親はSという宗教団体に入っていて、そこの講師である…、その若者とあなたたちは一緒にやるようになるだろう…と言われました。・・・・しかしその後(2~3年後?)、事務所が八起ビルの地下に移って間もない頃、「見ていなさい、その人間は真っ赤な偽物である…。金襴緞子(きんらんどんす)の格好をして皆の前に現れるよ。菩薩だ、如来だといわれるような方は決してそんなこけおどしの格好などはしないよ…」と言われました。(高橋信次先生の予言(?)とオバマ大統領の誕生・・・・人類が背負っている宗教のカルマ ① - 人と自然と宇宙の調和) 1981年 東京大学を卒業し、総合商社・トーメンに入社 昭和55年、隆は国家公務員試験と司法試験を受けたが、いずれも失敗。翌年、東大を留年して再チャレンジしたものの、やはり不合格に終わった。エリートコースへの道をことごとく閉ざされた隆は、結局、昭和56年、総合商社・トーメンに就職する道を選びとる。同年の東大法学部卒業生によれば、東大生にとってトーメンは三流商社でしかなく、もし望んで就職したとすれば、きわめて異例のことという」(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 3月23日、大悟人類救済の大いなる使命を持つエル・カンターレであることを妄想 「・・・・・内から何とも言えない暖かい感じが込みあげてきて、何かを何者かが自分に伝えようとしている感覚に打たれたのです。・・・・・この時に私の直観どおり、私の手が他人のように動きはじめました。そしてカードのなかに『イイシラセ イイシラセ』とカタカナでいくつかのことを書いていったのです」(「平凡からの出発」) 「三月二十三日、日曜日だったと思います。突然、だれかが自分に話しかけようとしているという気持ちに打たれ、いそいで、カードと鉛筆を用意しました。鉛筆をもつ私の手が、まるで生きもののように動きはじめ、『イイシラセ、イイシラセ』と、カードに何枚も書きはじめたのです」(「太陽の法」土屋書店版) 1992年『大川隆法の霊言 1992.1.10第一刷 1992.2.20第二刷』 「三月二十三日は日曜日ではないのだ!一九八一年の三月二十三日は日曜日ではなく、月曜日なのだよ(電子手帳のキーを叩いて見せる)・・・・・月曜日と火曜日を間違えるなら、まだわかるけど、平日と日曜日の違いは記憶としてははっきりしているはず。それにすべての出発点になるような重要な日のことだ。鮮烈にその日のできごとはあなたの心に焼きついているはず。・・・・・この間違いが何を意味するか。要するに「イイシラセ」など実はなかったのだ」 「では、なぜ三月二十三日(日曜日)という日を霊界通信の出発点としたか。そこにはなんらかの真実が含まれているはずだ。推理してみるに、大川が三月二十三日を日曜日と錯覚したのは、『太陽の法』を執筆していた一九八六年のことではないか。三月二十三日まで書き進んで、ふと八六年のカレンダーを見たら、三月二十三日は日曜日になっていた。それでつい日曜日としてしまったのではないか」(米本和広「大川隆法の霊言」) だが、トーメン時代、そうした『神がかり」的な姿を目撃した者はほとんどいない。かつての同僚たちの間に、「本を読むのがモーレツに速かった。赤ペンで線を引いていくという読み方で、一日に四冊読むこともあるといっていたし、給料の半分は本代でとぶ、ともいっていた」 「仕事熱心で、三菱商事を必ず抜く、というのが口ぐせだった」という声はあっても、宗教的片鱗を見たという証言はなかった。ただ、やはり東大からトーメンに入社した大川の後輩は、上司からこんな話を聞いたことはあるという。「あるとき大川さんが、同僚に向かって『おまえの背中には狐が憑いている!』といってお祓いを始めたことがあるそうで、それ以来、彼のことを誰も相手にしなくなったとのことでした」(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 1984年 忠義、徳島県畜産会を退職。 「霊の話を聞いたのは畜産会を辞める少し前のことです。息子さんが会社の休みに帰られたとき、テープにとったのを聞かせてくれたことがありました。日蓮だったか孔子だったか、はっきりとは覚えていませんが、声色が全然違っていて、何かついているっていう感じでした。忠義さんがいろいろと尋ねる形式で話をしていました。『そこいらにいる予言者よりも高い霊感がある』と言っていました」(畜産会での同僚の証言・有田芳生『幸福の科学を科学する』) 1985年 忠義、心霊研究家の近藤一雄に「霊言」を吹き込んだテープを送付。 差出人は善川三朗で、私の息子にはたいへんな霊能力がある、ついてはその問答を録音したテープを送るので聞いてほしいとの内容だった。送られてきた2本の120分テープを聞いて、近藤はまるで話にならないと思った。だがそのことには直接ふれず、善川には、「息子さんはまだお若い。もう少し修行なさってからでも遅くないでしょう」という旨だけを記した手紙を出した。それから数カ月後、そのテープをもとにした『日蓮聖人の霊言』が出版されたことを知った近藤は驚くと同時に、善川の突然の手紙の真意が初めてわかったような気がした。心霊関係の出版社に顔のきく近藤に口をきいてもらいたかったのではないかと感じたのである。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載) 8月15日、潮文社より『日蓮聖人の霊言』を出版。著者の名義は善川三朗(=忠義)で、霊媒役が大川隆法(=隆)・審神役が富山誠(=力)。 1986年 隆、元GLA信者でヨガ教室主宰の小笠原久子(=原久子)と知己になる。 中原は、高橋の存命中からのGLA信者だった。幹部のような特別の立場ではないが、一会員としてずいぶん可愛がってもらったらしい。高橋信次という人は、信者と気軽に接することを好んだようだ。このあたりは、一般会員の前にめったに現れず、常に本部の奥にいて神秘のベールにくるまっていたい大川とはずいぶん違った。自分の霊的能力、信仰の深さに対する確信の差だろうと言ったら、主宰先生にはこっぴどく叱られそうである。講演会か何かの後、幹部との面談待ちをしているところへ、思いがけず高橋がひょっこりやってきて、「次の人は誰?」と声をかけた。たまたま″次の人″が自分であったおかげで信次先生の知遇を得た、というようなことを彼女は語っていた。 大川の霊言集を読み、中原はそこに亡き高橋信次の思想と通い合うものを感じたらしい。これは決して不思議ではない。父親の善川三朗が高橋の影響を受けていたし、本人も最初の霊的経験は『心の発見』を読んでいる最中だったと書いている。霊言集の中に、GLAの元信者が、今は亡き教祖と似たものを感じたとしても少しもおかしくない。 亡き高橋の面影を求めて、中原は霊言集の版元である潮文社を訪ねていく。何度目かに訪ねたとき、ちょうど『孔子の霊言』の出版のため大川が上京してきていた。『信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで真に心の師となる人を見つけた』〈幸福の科学〉の発足前後に、中原はよくそう言っていた。(関谷晧元「虚業教団」) 4月下旬、隆(=大川隆法)・原久子と自動車販売業を経営していた関谷尚良(=関谷晧元)が、新宿七丁目の割烹料理店「作古」で会う。 青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、善川三朗編の『日蓮聖人の霊言』『空海の霊言』に登場する″霊能力者″でもある。しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。 エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。 じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えてきた。 やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。「大川先生には500人もの高級霊が降りてくるんですよ」と中原は言った。「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、つくっていきましょうよ!」 座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。私が支払いを済ませ店を出ると、四月下旬というのに夜気は思いのはか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体!この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。大川隆法、30歳。中原幸枝、年齢不詳。私が51歳。三人ともまだ若かった。この夜から、何かが動きだしたのである。(関谷晧元「虚業教団」) 6月1日、大賀昭司が有限会社倉敷きのしんを設立(大黒天物産の前身)。 6月、高級霊界からの「いまこそ立つべき時だ」との妄想により、トーメン退職を決意する。 大川の本を読み返してみると、八六年六月に諸霊から「会社を辞めよ」と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。四月下旬の『作古』での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」彼女の声は弾んでいた。「大川先生の案で、〈幸福の科学〉とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう? 」 コウフクノカガクという言葉に少し戸惑ったが、即座にOKした。幸福の科学、なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。「今度、入会申込書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は18番ですよ」「エッ、18番? もう、そんなに大勢入ったのですか」正直に言うと、たった一目で10人も20人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えてみれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たちが大勢いたのである。ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち100人にも膨れあがった。 今あらためて〈幸福の科学〉の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求めるまっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。ただ中原は、「大川先生、大川先生」と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。『中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう』初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。ここに陥穽があった。(関谷晧元「虚業教団」) 7月15日、トーメン退職。これより狂団「幸福の科学」の具体的設立計画に着手。 名前 コメント このページを編集
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【実は、わたしは今三つのことを行なっている。その一つは何かというと、細菌とウィルスの中間体であるリケッチアとの 対決と。これはわたしもサマナも、大変強い細菌とウィルスの中間体であるリケッチアに冒され、ま、もちろんもう原因は わかっているから、それに対する対処というものは、処置さえ間違えなければ必ず治るものと確信しているが、この特別 な治療と。そして、今日の冒頭にも述べた、果たして二〇〇〇年、この二〇〇〇年という時代を一億二千万人の日本人 が越えることができるかどうか。これに対する瞑想、つまり日本の近未来の予言、および世界の予言。そしてもう一つは、 人間のカルマを物理的に解放するための、太陽圏、太陽系重力場からの脱出の奇門遁甲の実験、この三つを行なって いる。ところで、話をまた元に戻すが、このリケッチアはだれによって噴霧されたのか。それは米軍によって噴霧されたも のである。彼らは日本人を豚としてしか見ていないのである。この豚は以前テレビでも放映されたとおり、原爆の実験台 になった動物でもある。では、豚としてしか見ていない彼らは、なぜ日本に対して第三次世界大戦の対決といったかたち をとらなければならないのだろうか。それは日本人がある意味で貪りが強く、つまりお金を貯め込み、そして外資を蓄える という性質があるからである。】 576 :神も仏も名無しさん:2016/07/06(水) 00 27 40.46 ID IYTKNtbf 【・・例えば一九九五年の終わりから、つまり九六年は、完全なるアメリカの経済破綻の年である。そしてアメリカ の方策として一九九七年にドルを新札、ドルを新しいドルに変えると。そのときに、多くの外国に存在しているドル の切り捨てが行なわれると。これによってアメリカは一時的に経済が回復したかのように見えるが、逆にアメリカ のやり方に対する世界の不信が高まり、アメリカは世界の、世界の支配国から落下するのである。この落下こそ まさに世界大戦の引き金となる要因となる。】 【では、第三次世界大戦【+で】、本質的に使われる最終兵器・・原爆・水爆に加え、超磁力兵器というものが使わ れる。このわたしの講話を聴いている者の中で、何人が生き残るかわからないが、生き残る者は必ずやその兵器 を見るはずである。そしてその威力を見るはずである。】 577 :神も仏も名無しさん:2016/07/06(水) 00 38 40.18 ID IYTKNtbf 【では、この一億二千万人の民は、つまり日本は生き残る可能性はないのか、ということについては、そうではないと 言える。なぜならば、今君たちが声を聴いている君たちのグルは、まさに二十世紀最大の予言者といわざるを得ない。 一般的に、自分のことを自分でこのように表現することを、日本の教育においては悪と、あるいは道徳に反すると表現 するが、仏教ではこれを獅子吼と呼んでいる。つまり、真実は真実として堂々と述べる。真実は真実として堂々と語る ということは、仏教の本義なのである。】 【この予言者が何を考えているのか。力対力との対決は必ず双方の力を費やし、そして滅びうる結果となる。しかし力の ない者が、力をもし蓄えなければ、それは結果的には何の役にも立たない無用の長物ということになる。】 蓄えるべきは瞑想力であり、結果としての神通力、光、エネルギーでしょう 麻原の、サリンを蓄えることによって発言力や交渉力をを得ようというのは 北の将軍様と同レベルの発想で、法を盗用、誤用、悪用するレベルとは 所詮この程度の結果しか出せないということだろう 578 :神も仏も名無しさん:2016/07/06(水) 00 41 17.91 ID IYTKNtbf 【つまり今、このわたしの話を聴いているオウム真理教の信徒諸君の一人一人が、この瞬間から 二〇〇〇年を生き残るために、そして日本を殺さないために、今自分のできる布施・奉仕、そして 導き、それだけではなく教学・瞑想といった今できることに奮闘努力し、そして三宝に対する帰依を しっかりと培い、悪魔の手先であるマスコミを完全に捨断し、清らかな意識状態を形成するとする ならば、そこには活路が見いだせる、とわたしは確信している。】 しっかりと帰依した結果、死刑囚になってしまったんだが・・あんたの高弟らは 579 :神も仏も名無しさん:2016/07/06(水) 00 44 04.62 ID IYTKNtbf 【なぜ、活路が見いだせるのだろうか。わたしは以前、このような話をロシアの大物の政治家と話したことがある。今まで ロシアにはドイツの侵攻、あるいはフランスの侵攻等がありましたと。しかし、その中でも真に修行している僧たちは―― つまりここではロシア正教を指すが――無傷で残っていますと。これは何を意味しているのか。つまり真に真理の実践を なすならば、わたしたちに活路があることを意味しているのである。そしてその輪を広げることこそ、この日本が生き残る ただ一つの道なのである。第二次世界大戦中、右翼の台頭により、右翼に加味しない者は虐げられた。しかし第二次世 界大戦の終了と同時に米軍が入り、しばらくの間、逆に右翼が虐げられた。そののち右翼よりももっと怖い共産党、この 共産党の存在に気づいた米軍は、次は共産党を叩くこととなった。これがレッドパージ【purge 粛正】である。今日本の趨勢 【すうせい】は何か。それはまさに金、あるいは今の単なる国家に仕えることこそが栄誉ある国民のように評価される。ある いはマスコミの情報をたくさん知っていること、マスコミの情報に従うことこそが、コモンセンスの持ち主であるかのように 表現される。しかし、例えば第三次世界大戦で、もしこの日本が滅び、その一部が生き残ったとするならば、それはまさに 完全なる逆転が起き、真理を実践している者の方が本当に価値があったんだということが証明されるはずである。】 580 :神も仏も名無しさん:2016/07/06(水) 00 48 17.18 ID IYTKNtbf 【わたしはなぜ、近未来の予言をするのか。それは曖昧な予言は、信徒諸君に役に立たないからである。わたしはなぜ、 はっきりと予言をするのか。それはわたしの受けているデータあるいはヴィジョンというものは、はっきりとした形で現わ れるからである。わたしはなぜ、一般的な事柄に対して無頓着に何の反応もしないのか。もしわたしがそれを行なうなら ば、わたしの予言の力は必ず落ち、そしてそれによって、この日本の一億二千万人の民の、二〇〇〇年を越えるという、 二〇〇〇年を越えて生き残るという大きな大きな課題が、その課題を解決し達成するという発願が成しえないからなの である。】 【神通力を現わす場合、そこには当然精神集中というものが必要となる。一般の現世のいろいろな問題というものは、 成就した者にとって雑念にすぎないのである。この雑念に、もしわたしがとらわれるならば、わたしは君たちを安全で、 かつ至福に満ちた二十一世紀へといざなうことはできないはずである。】 581 :神も仏も名無しさん:2016/07/06(水) 00 59 14.88 ID IYTKNtbf 【わたしのエネルギーは少しずつ回復に向かっている。しかしそれは本当に十リッターの缶に水がポタッ、ポタと、つまり 一滴一滴と加えられるぐらいのエネルギーの回復の状態である。まだわたしは君たちと直接会って法則を説くだけの エネルギーを回復していない。それはわたしにとって非常に残念なことである。しかし君たちが、先程述べた二十世紀 最大の救世主であるわたしの法則を学び、実践し、そしてこの日本を少しでも浄化するならば、わたしと君たちの対面 した説法、および君たち個人個人の問題に対する解決、つまりポワ、これが近い将来において実現するはずである。】
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日程 告示日:2012年(平成24年)10月04日 投票日:2012年(平成24年)10月21日 候補者 氏名 年齢 得票率 当落 泉田 裕彦 49 90.7% 当選 樋渡 士自夫 59 7.1% マック赤坂 64 2.1% 選挙結果 投票率43.95% 結果(公式) 関連サイト 公式 候補者個別情報 泉田 裕彦(いずみだ ひろひこ) 候補者情報 現職 現職時代の実績 新潟県立野球場建設(建設費83億円) →プロ野球球団誘致に尽力したが結果は出ていない。 マニフェスト 公式マニフェスト(pdf) アンケート 柏崎刈羽原発の方針福島第1原発の事故原因検証実施 再生可能エネルギー地域資源を活用しながら新潟版グリーンニューディール政策の取り組みを加速 新潟州構想二重行政や地域を分断した業務執行など、行政の効率性や総合的な行政サービスの提供等の点で改善の余地がある 雇用拡大農業の6次産業化、観光振興、企業誘致、中小企業支援 医師不足対策労働環境整備、都市部から医師を呼び込む 詳細は以下 1 2 支持 公明党県本部(ソース) 民主党県連(ソース) 市民団体県平和運動センター(ソース) 社民 国民の生活が第一 コメント 名前 コメント 樋渡 士自夫(ひわたし しじお) 候補者情報 共産党新潟県委員長 マニフェスト 柏崎刈羽原発をただちに廃炉の決断をする 消費税増税・TPP参加・オスプレイ配備の阻止 企業誘致・外需依存の県経済から地域に金が回る地域循環型経済をつくる 医療・福祉・教育の充実 アンケート 柏崎刈羽原発の方針廃炉 再生可能エネルギー間伐材をいかし、重油に代わるボイラー開発と活用を進める 新潟州構想二重行政は大きな問題ではない 雇用拡大労働者派遣法の抜本改正による正社員化、福祉・環境・防災等の分野での雇用を職業訓練と結びつけ確保 医師不足対策医師勤務環境の改善、医学部への進学促進、奨学金制度や臨床研修制度の充実 支持 共産党 コメント 名前 コメント マック赤坂(まっく あかさか) 候補者情報 日本スマイル党総裁 マニフェスト 県立大への医学部新設 支持 コメント 名前 コメント
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▽登場作品 人間 偶像少女M 名前【北上 かなめ(きたがみ かなめ)】 性別【女】 身長と体重【159cm49kg】 国籍【日本】 種族【人間】 通称【??】 ICV【浅倉杏美】 「救ってくれるとでも言うのかしらぁ?天使様は慈悲深いわね」 間宮柩と冬月真白の一学年下の後輩。 色素の薄い髪をハーフアップにしている、口元のホクロが印象的な女子高生。 冬月真白曰く、清楚な印象の美人。 大人しそうな外見とは裏腹に、ヒステリックで気に入らないことがあると暴力に訴える癖がある。 支離滅裂な自分語りが大好きで、口が軽い。 やや自意識過剰で被害妄想が激しく、自分より柩の方が美人だと思っている節があり、間宮柩に容姿を褒められても嫌味としか思っていない。 得意科目は数学で、数検準一級を持っているらしい。 長門兄妹とはかつて隣に住んでいたこともあり、長門零士とは面識がある(その際に、「君じゃない」と言われていた)。 「なに?不快」 「わたしからすれば、あいつは正しく不幸なオンナなの」
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坂上 紀が訪れたロシアの歴史、ソビエト連邦編 第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアと開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日にはボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェビキを改称したロシア共産党を率いて内戦に勝利し、1922年の年の瀬にソ連共産党の一党独裁によるソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。 1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンの独裁的な主導の下で高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的の収奪にもとづく閉鎖的な工業化であった。農村弾圧の結果、特にウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みが政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖にもとづく支配をもたらす結果となった。 ソビエト体制でのロシア連邦共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシア(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 第二次世界大戦では一時ナチス・ドイツと同盟を結び、バルト三国を併合してソビエト連邦の一部とし、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、フィンランドにも圧迫を加えたが、やがて同盟を破ったヒトラーに攻め込まれて西部の広大な地域をドイツに占領され、不利な状況に陥った。しかし最終的には大戦に勝利し、更にポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。アジアでは、終戦直前の1945年8月に日本との不可侵条約(日ソ中立条約)を一方的に破棄して参戦。満州やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ナチスドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに割譲され、ロシア連邦共和国の領土は現在のロシア連邦にあたる領域になった。 戦後、ソ連は、強大なソ連軍の軍事力を背景に、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として勢力範囲に収めて、自国と同様の一党独裁を強要し、世界の二大超大国の一つとしてアメリカ合衆国と冷戦を繰り広げたが、計画経済の破綻等から次第に共産主義の矛盾が露呈していった。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。 党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国は、そろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は崩壊した。 日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地となっている[17]。なお、ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。