約 3,555,642 件
https://w.atwiki.jp/kbhyakka/pages/372.html
Classical Terry Riley
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/11042.html
音楽 / Ambient Music / Chill Out ーーー Eydís Evensen / Hania Rani ■ Post Classical / Avant-garde music SomeDude#1 ■ Ólafur Arnalds ♥♥♥ Ólafur Arnalds ■l Post-Classical Music #postclassicalmusic 3 Hour blanklink( Laura Sullivan){https //www.youtube.com/channel/UC4pkSDEQsuHxQhDx5aTPI8A } .
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/11598.html
音楽 ■ 50の最も美しいクラシック曲 HALIDONMUSIC + 曲目 0 00 00 Schubert - Schwanengesang, D. 957 Ständchen (Serenade) 0 04 09 Brahms - 5 Lieder, Op. 49 No. 4, Wiegenlied (Brahms' Lullaby) 0 06 17 Schubert - Ave Maria, D. 839 * Satie - Trois gymnopédies 0 11 17 No. 1, Lent et douloureux 0 14 50 No. 2, Lent et triste 0 17 48 No. 3, Lent et grave 0 20 32 Tchaikovsky - The Seasons, Op. 37a No. 6, June. Barcarolle 0 24 55 Fauré - Sicilienne, Op. 78 0 28 35 Fauré - Pavane, Op. 50 0 34 26 Tchaikovsky - Swan Lake, Op. 20 Scene by a Lake 0 36 59 Grieg - Holberg Suite, Op. 40 IV. Air (Live) 0 42 24 Barber - Adagio for Strings 0 48 02 Rachmaninoff - 14 Romances, Op. 34 No. 14, Vocalise ** Metamorphose String Orchestra, Pavel Lyubomudrov Violin Yulia Stefanovich Cello Nike Hutchisson 0 53 05 Puccini - Tosca "Vissi d'arte" (Instr.) Ukrainian Philharmonic Orchestra, Silvano Frontalini 0 55 42 Puccini - Gianni Schicchi, SC 88 “O Mio Babbino Caro” 0 58 29 Grieg - Peer Gynt Suite No. 1, Op. 46 Morning Mood 1 01 50 Bach - Cantata, BWV 147 Jesu, Joy of Man's Desiring 1 06 07 Bach - Orchestral Suite No. 3 in D Major, BWV 1068 II. Air on the G String 1 11 56 Massenet - Thaïs, DO 24, Act II "Méditation" (Live) * 1 17 57 Saint-Saëns - The Carnival of the Animals XIII, The Swan ** 1 21 20 Brahms - Piano Concerto No. 1, Op. 15 II. Adagio *** Metamorphose String Orchestra, Pavel Lyubomudrov Cello Nike Hutchisson Cello Mikael Samsonov Piano Denis Linnik 1 34 20 Gluck - Orfeo ed Euridice, Wq. 30, Act 2 Dance of the Blessed Spirits Orchestra da Camera Fiorentina, Giuseppe Lanzetta 1 41 46 Mozart - Flute and Harp Concerto in C Major, K. 299 II. Andantino * 1 49 57 Mulè - Largo per archi, armonium, arpa e pianoforte Opole Philharmonic Orchestra, Silvano Frontalini Harp Ursula Mazurek 1 54 10 Saint-Saëns - Samson and Delilah "My Heart at Thy Sweet Voice" 2 00 09 Offenbach - Les Contes d'Hoffmann, IV "Barcarolle Belle nuit, ô nuit d'amour" Klodiana Koci, Davide Scarabottolo Chopin - Nocturnes, Op. 9 (Transcr. for Violin and Piano by A. Schulz) 2 03 12 No. 2 in E Major, Andante 2 07 53 No. 1 in B Minor, Larghetto 2 14 00 Debussy - Beau Soir (Transcr. for Violin and Piano by J. Heifetz) 2 16 21 Debussy - Préludes, Premier Livre No. 8, La Fille aux Cheveux de Lin (Transcr. for Violin and Piano by A. Hartmann) 2 19 23 Debussy - Suite Bergamasque, L. 75 III. Clair de Lune (Transcr. for Violin and Piano by A. Roelens) Alessandro Clerici, Elena Brunello 2 24 01 Part - Spiegel im Spiegel (Arr. for Violin and Piano) * 2 32 31 Bach - Goldberg Variations, BWV 988 No. 1, Aria Luke Faulkner Violin Nadia Vasileva 2 37 35 Beethoven - Piano Sonata No. 8 in C Minor, Op. 13 "Sonata Pathétique" II. Adagio cantabile Vadim Chaimovich 2 43 25 Elgar - Salut d'amour, Op. 12 2 47 13 Liszt - Consolations, S. 172 No. 3, Lento placido 2 51 14 Chopin - Andante spianato, Op. 22 2 55 43 Respighi - 6 Pieces for Piano No. 3, Notturno 3 00 22 Rachmaninoff - Rhapsody on a Theme by Paganini Var. XVIII 3 03 21 Tchaikovsky (arr. Pletnev) - The Nutcracker, Op. 71 Pas de deux Luke Faulkner 3 08 53 Debussy - Deux arabesques, L. 66 No. 1 in E Major, Andantino con moto 3 13 45 Chopin - Douze études, Op. 25 No. 1 in A-Flat Major "Aeolian Harp" Giovanni Umberto Battel 3 16 13 Schubert - Four Impromptus, Op. 90, D. 899 No. 3 in G-Flat Major, Andante Vadim Chaimovich 3 23 13 Liszt - Liebesträume, S. 541 No. 3 in A-Flat Major Giovanni Umberto Battel 3 28 59 Liszt - 3 Études de concert, S. 144 No. 3, Un Sospiro Luke Faulkner 3 34 45 Beethoven - Piano Sonata No. 14 in C-Sharp Minor, Op. 27 No. 2 "Moonlight Sonata" I. Adagio sostenuto Vadim Chaimovich 3 40 50 Chopin - Nocturne in C-Sharp Minor, Op. Posth., B. 49 3 44 46 Chopin - Nocturne in C Minor, Op. Posth., B. 108 Luke Faulkner 3 48 06 Bach/Siloti - The Well-Tempered Clavier, Book I Prelude in E Minor Vadim Chaimovich 3 52 30 Debussy - Rêverie, L. 68 Luke Faulkner /
https://w.atwiki.jp/jpops/pages/2730.html
MJ-Classicalをお気に入りに追加 MJ-Classicalのリンク #bf Amazon.co.jp ウィジェット MJ-Classicalの報道 gnewプラグインエラー「MJ-Classical」は見つからないか、接続エラーです。 MJ-Classicalとは MJ-Classicalの52%は愛で出来ています。MJ-Classicalの22%は黒インクで出来ています。MJ-Classicalの21%は犠牲で出来ています。MJ-Classicalの2%は理論で出来ています。MJ-Classicalの2%は宇宙の意思で出来ています。MJ-Classicalの1%は不思議で出来ています。 MJ-Classical@ウィキペディア MJ-Classical Amazon.co.jp ウィジェット 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ MJ-Classical このページについて このページはMJ-Classicalのインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新されるMJ-Classicalに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/satoschi/pages/7445.html
Newari, Classical【nwc】 古典ネワール語 00 Sino-Tibetan 01 Tibeto-Burman 02 Western Tibeto-Burman 03 Himalayan 04 Central Himalayan 05 Newar Bhujimol script【Zzzz】 Brahmi script【Brah】 Devanagari script【Deva】 Golmol script【Zzzz】 Gupta script【Zzzz】 Hinmol script【Zzzz】 Kunmol script【Zzzz】 Kutakshari script【Zzzz】 Kwenmol script【Zzzz】 Litumol script【Zzzz】 Pachumol script【Zzzz】 Prachalit script【Zzzz】 Ranjana script【Zzzz】 《歴》historical language インド【IN】 ネパール【NP】 言語名別称 alternate names Classical Nepal Bhasa 古典ネパール・バサ語 Old Nepal Bhasa 古ネパール・バサ語 Old Newari 古ネワール語 方言名 dialect names 表記法 writing Bhujimol script【Zzzz?】 Brahmi script【Brah?】 Devanagari script【Deva】 Golmol script【Zzzz?】 Gupta script【Zzzz?】 Hinmol script【Zzzz?】 Kunmol script【Zzzz?】 Kutakshari script【Zzzz?】 Kwenmol script【Zzzz?】 Litumol script【Zzzz?】 Pachumol script【Zzzz?】 Prachalit script【Zzzz?】 Ranjana script【Zzzz?】 参考文献 references WEB ISO 639-3 Registration Authority - SIL International Wikipedia
https://w.atwiki.jp/nyabecch/pages/10.html
44 メロディの王様・ドヴォルザーク ε=ε=ε=(ノ≧▽≦)ノ 音楽の三大要素は メロディ リズム ハーモニー と言われます。 一流と言われる作曲家ともなれば、当然このバランスを巧みに操ってくるのはお手の物ですが、それぞれの嗜好や得意分野といったものもあります。 かの偉大なモーツァルトさんは 「メロディこそ、音楽の真髄です」 と言われたそうですが、僭越ながらこれにはワタクシも諸手を挙げて同感いたすところです。 音楽史に残る偉大なメロディメーカーといえば、このアマデウス様を筆頭にチャイコフスキー、メンデルスゾーン、シューベルトなど数え上げていけばそれこそキリがありませんが、その中でも「メロディ(創り)の王様」と称されるのが、チェコの産んだ偉大なドヴォルザークさんです。 一流の作曲家にも、美しく魅力溢れるメロディを生み出すのが得意な「右脳派」の人や、メロディよりも論理的な楽章構成に力を発揮する「左脳派」と様々なタイプ分けが出来ますが、ドヴォルザークさんの場合は典型的な「右脳派」の人で、構成は苦手と言われながらも、メロディ創りに関しては魔法使いのように、次々と斬新かつ素敵なメロディを編み出してきた人です。 まだ殆んど名が売れていなかった頃の、ドヴォルザークさんの才能に逸早く着目したのはブラームスで、ハンガリー民謡にテーマを採った自らの『ハンガリー舞曲集』の成功を踏まえ、スラブ系民族であるドヴォルザークさんにインスピレーションを与えるや、忽ちにして稀代のメロディメーカーは『スラブ舞曲集』という、素晴らしい連作曲集を編んでしまいました。 こうしてブラームスによって、一流作曲家として道を拓かれたのを切っ掛けとして二人の親友関係が始まりますが、ドヴォルザークさんの仕事場を訪ねる機会が多くなったブラームスは、或る時何気なくゴミ箱に山と詰まれた失敗作を漁り、クシャクシャになった五線譜を伸ばして目を落として、ビックリ仰天してしまったそうです。 そこには、メロディ創りの不得手なブラームスには涎が出そうな美しいメロディの数々が、いとも惜しげもなくゴミとして捨ててあったからでした。 「ああ・・・私ならばドヴォルザークのゴミ箱から、幾つもの名曲が創れるのに・・・」 構成には大いに自信のあるブラームスがここを訪れる度に嘆いて見せた、というエピソードは良く知られています。 要するに、美しく魅力的なメロディなら幾らでも造作なく産み出せるものの、それを元に音楽として構成していくのはあまり得意ではなかったドヴォルザークさんに対し、楽想創りに散々苦心しつつ得意の構成力にモノを言わせて、つまらないメロディを全体でカバーしながら魅力的に見せるのが得意だったブラームスという、まったく対照的な二人が互いに自分に欠けた才能を認め合ったからこそ、良い関係が長続きしたものだともいえるでしょう (*゚ー゚)(*。_。) 名前 コメント すべてのコメントを見る 43 disc選びの難しさ(後編) (´-ω-`)うーん ところがえてして初心者に限って、知識が少ない分だけ「ネームバリュー」とか「値段」に拘るようなところがあって、とにもかくにも名の通った指揮者や演奏者のものや、「値段が高いからいいものに違いないだろう・・・」とばかり無理をして高いものを買う傾向があるようですが、ワタクシの経験上ではそういった事は、殆んど関係がないように思えます。 ショップに並んでいる1000円程度の廉価版にも案外の掘り出し物や、充分鑑賞に耐えうるマトモなものは沢山ありますし、逆に3000円以上もするような高価な部類にカテゴライズされそうなものであってもロクデモないものもあるわけで、こうした事から考えても高価なものやネームバリューをありがたがって選ぶのは、あまり感心したものではないでしょう。 ワタクシの持論では、ビギナーのうちから(経済的に、かなりの余裕がある人は別として)無理をして高いものに手を出す必要などは毛頭なく、廉価版でともかく数をこなして知識と勘所を積み上げていくに尽きる、と言えるでしょう。 そして理想を言うなら、例えばベートーヴェンの『第9』を聴く場合には同じ『第9』のディスクを指揮者や演奏者を違えて最低2~3種類を購入して聴き比べてみると、3種類購入すれば三通りの『第9』があり、それぞれが随分と印象が違ったものである事が身をもって実感できるとともに (この指揮者のこの部分は、もっとこうした方がいいと思うんだがなー) というように自分の好みを演奏家に求めるような、いわば音楽に対する自分なりの「解釈」にまで一歩踏み込んだ聴き方が、生まれて来る事になるわけです。 そこで、次には三枚の中で特に気に入ったのがあれば、さらにその指揮者の別の『第9』を2枚ほど買って来て聴き比べてみると、同じ指揮者でも収録年代によって随分と曲に対する解釈が変わっていたり、演奏者との相性の良し悪しなどが見えてくるケースもあって一段と面白くなったりしますし、或いは最初の三枚がどれもイマイチだと思ったら、さらに別の指揮者や演奏者のものを更に聴き比べてみると、同じ演奏者が指揮者によって見違えるような演奏をしていたり、といった事にも行き当たるはずです。 このようにいつも言っている事ですが、Classic音楽を究めるというのはマコトに奥の深いもので、こうして駄作を幾つも買わされるのはその時は随分と無駄に思えて腹立たしいものですが、実は誰しもこうした経験の繰り返しがいい授業料になって、先々においてこれらの経験の積み重ねが勘を働かせるという事もあるように、CD選びにおいてはそんなに効率の良い道はないと思うのがワタクシの結論です ☆ヾ( ̄ー ̄ ) 名前 コメント すべてのコメントを見る 42 disc選びの難しさ(前編) (´-ω-`)うーん Classicに限らずどんな音楽の演奏にせよ、或いは芝居にせよナマに勝るものはないのでしょうが、なにせナマで触れるにはタイミングや資金など、様々な要素が必要となって来るだけに、そうそうチャンスに恵まれる訳ではないのが一般的な日常といえるでしょう。 (所詮CDやDVDでは、ナマの臨場感は味わえないよ) などといった意見も良く耳にしますが、CDの場合は好きな時に自分のペースで聴けるとか、周囲の雑音に気を取られることなく、一人で静かに鑑賞出来るなどの利点もあります。 ところが、実はClassic音楽の楽しみにおいて、最もやっかいなのがこの「CD選び」であり、真にもってこれほど難しいものはない、と言い切っても過言ではないでしょう。 ご存じの通り他の音楽ジャンルとは違い、指揮者や演奏者によって同じ曲とは思えないくらいに、とてつもなく違ったものになってしまう事すら珍しくないのがClassic音楽の特徴であり、実際に名曲と言われる曲やお気に入りのハズの曲でも拙い演奏や好みに合わないような演奏を聴いてしまったりすると、それが長い間(甚だしい場合は、一生にも渡ってという可能性も充分に考えられる)トラウマとして残ってしまい、その曲の真価を正しく評価する事が出来ずに終わってしまったり、忘れてしまうくらいにずっと後になってから蒙を啓かれ、後悔に地団駄を踏むというケースは誰しも、何度となく経験しているものと思われます。 それだけに、この「CD選び」には、一層の慎重さを要するところです。 いかに有名指揮者やお気に入りの指揮者とはいえ、あくまで演奏は「生モノ」であるからには、たとえ同じ指揮者と同じオーケストラとのコンビの演奏にもせよ、その時々の指揮者のテンションや演奏者の調子などといった、当事者以外には窺い知れぬ諸々のファクターによって、大きく様変わりします。 その結果が単純に「当たり」、「外れ」という次元から、癖や特徴などの嗜好から見て天地ほどの違いが感じられたりもする事は、過去に沢山のCDを聴きこなして来たリスナーならば、充分にご承知の事でしょう。 実際、CDだけは買ってきて聴いてみるまではわからない宝クジのようなもので、書物などのように立ち読みをして吟味するというわけにもいかないから、まずはCDにクレジットされている指揮者や演奏者の名前を見て、判断するくらいのところから入るしかありません。 そのため、過去に何百枚と買って来ているようなベテランでも、いつまで経っても「外れ」のディスクを何枚も買うハメになったりするくらいで、ましてや聴き始めて一年や二年という初心者が、最初から「当たりディスク」を選ぼうという方がドダイ無理無体な要求であるといえます。 ワタクシ自身を例に挙げて言えば、聴き始めたまだ若い頃に「外れディスク」を続けざまに買ってしまい、貴重な金をドブに捨てたような苦い経験を積みながら少しずつ指揮者や演奏家、或いはオーケストラの傾向をアタマに染み込ませて行き、その中から勘と経験を頼りに、自分好みのものを地道に見つけ出して行く方法に収斂してきていますが、これ以外には未だに効果的な方法というものに行き着いてはいません。 ところが、得てして初心者に限って・・・ 名前 コメント すべてのコメントを見る 41 『アルルの女』は素敵です (*゚ー゚*)ポッ 前回に続き、今回もビゼーさんです。 前回は『カルメン』について触れましたが、ビゼーさんと言えば『カルメン』とともによく知られているのが『アルルの女』組曲で、オペラ『カルメン』はともかく組曲版としては『カルメン』以上に良く知られている、非常に有名な曲です。 この曲も元々は組曲ではなく、ドーデ作の有名な劇の付随音楽として作曲されたものですが、珍しく初演から大変評判が良かった事も手伝って演奏会用のプログラムとして、ビゼーさん自身によってチョイスされた4曲で組曲版が編まれました。 これが第一組曲で、ビゼーさんの没後に友人のギロー氏によって元々の劇音楽ばかりでなく、他の作品からも良いものを寄せ集めた4曲を第二組曲として、付け加えました。 これが、今日の『アルルの女』第一・第二組曲(全8曲)です。 8曲総てが粒揃いで甲乙の付け難い名作ばかりですが、圧倒的に有名なのが第二組曲・第3曲の「メヌエット」です。 この曲は『美しきパースの娘』という別のオペラから転用した作品ながら、この一曲だけが演奏会で採り上げられる事も多いくらいに、群を抜いて有名になっています。 ビゼーさん自身の選んだ第一組曲の影が薄く、友人ギローの選んだ第二組曲の方が遥かに有名なのも、実のところこれ一曲に負うところが大きいと言っても、過言ではないでしょう。 ワタクシも、このメヌエットは初めて聴いた時から忽ち虜になったくらいで、その素晴らしさを認める気持ちは充分に人後に落ちないつもりですが、実はワタクシ自身は世評とは反対に第一組曲の方に、より魅力を感じます。 あの、なんともドラマティックなオープニングを告げる、厳かな感じの前奏曲に始まる4曲ですが、特に好きなのは「アダージェット」と「鐘(カリヨン)」の2曲で、天国とはこういう感じかと思わず想像してしまうくらいに、この世のものとは思えないくらいに美しい第3曲と、カリヨンの厳かな鐘の音色と中間部のメロディが、これまた胸を締め付けられるような第4曲は、何度聴いても心を揺さぶられるものがあります。 一方、より人気の高い第二組曲の方では「メヌエット」は散々に聴き過ぎたせいか個人的にはやや新鮮味に欠けますが、寧ろややもすればメヌエットの陰に隠れがちになり易い第1曲、第2曲などはそれぞれに魅力的な渋い味わいを持った佳作と言えます。 第二組曲で最も好きなのは、フィナーレとなる第4曲「ファランドール」で、先に触れた第3曲「メヌエット」の美しいフルートの旋律から一転して、南仏・プロバンス地方の舞曲もかくやと目を見張るようなダイナミズムと、零れるような情熱がはちきれんばかりの音楽が展開され、目くるめくような狂騒に包まれて迎えるフィナーレは『カルメン』も真っ青といった、野性的な魅力を湛えたものです。 このように、全編を通してビゼーさんお得意の野性味溢れる情熱と、また随所に美しいメロディが散りばめられた組曲の傑作というには並ぶものがないくらいの、素敵な構成が充二分に堪能できます (^ー^) 名前 コメント すべてのコメントを見る 40 オペラといえば『カルメン』 ( ̄ー ̄)ニヤリッ ジョルジュ・ビゼーというフランスの音楽家の名は知らなくとも『カルメン』を知らない人は、まずいないでしょう。 そして『カルメン』といえば、メリメ作のストーリーそのものも勿論有名ですが、それに匹敵するくらいか或いはそれ以上といっても良いくらいに広く知られているのが、ビゼーさん作曲の音楽『カルメン』です。 ビゼーさんの『カルメン』には有名なオペラと、オペラから有名どころを中心に編集した組曲版とがあります。 Classic音楽の世界では、今でこそ名曲といわれる曲でも最初から大衆に歓迎されるとは必ずしも限らず、それどころか寧ろ初演ではその真価がまったく評価されず、不当に冷遇をされたりするようなケースは案外多いものですが、今でこそ数あるオペラの名作の中でも有数の傑作として、指折り数えられるこの『カルメン』の初演での評価もまた、信じられないくらいに酷い物だったと言われます。 外国の聴衆は日本人のように大人しくはありませんから、気に入らなかったり期待外れの演奏を聴かされた時には躊躇うことなく口笛を吹いたり、床を足で踏み鳴らしたりしてブーイングの表現を顕わにして見せるそうですが、この時には殆んどの聴衆が一斉にこれを行ったから、会場はたちまちにして未曾有の大混乱に包まれたという事です。 才能がありながらも、ここまで運に恵まれずに来たビゼーさんですが『カルメン』の出来栄えには、それまでにない大変な自信を持って望んだ初演だっただけに、この思わぬ酷い反応に大ショックを受けてしまい、パリでの初演の3ヵ月後に心臓障害で不幸にも、僅か36歳という若さのうちに亡くなってしまわれたのも、いってみれば「ショック死」という見方も出来るくらいです。 ちなみに、この皆が狂ったように騒ぎ立てる客席の中で、一人 「なんて素晴らしい音楽であろう・・・」 と興奮に身を震わせながら、感動の涙を流したと言われるのがチャイコフスキーで、逸早くこの曲の真価を見抜いたばかりでなく直ぐにこの作品から啓発を受け、自らもオペラ創りに取り組んでいったところあたりは、さすがと言えましょう。 『カルメン』は、オペラの方は3時間を超える大作だけに、より深く理解するにはストーリーの知識はやはり欠かせませんが、組曲版(第一・第二組曲)の方は全部で30分程度に圧縮されているため、ストーリーを知らない人でも純粋に音楽だけで充分に楽しめる気楽さがあります。 物語のヒロインである、セビリアのタバコ工場に務める女工・『カルメン』が真紅のバラを口に咥えて、颯爽と登場する有名な「ハバネラ」や、闘牛士たちの入場に使われる「アラゴネーズ」、「闘牛士の歌」などなど、どれもこれもがどこかで聴いた事のあるような、全編が有名曲のデパートと言えます ゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!!! 名前 コメント すべてのコメントを見る 39 おフランスの異端派(後編) (_ー_) 子供の頃から海が大好きで飽かずに眺めていたばかりか、若い頃は船員になる憧れを持っていたくらいに海への執着は深く、こうした傑作の出来上がる余地は充分にあったドビュッシーさんですが、この曲の初演のプログラムの表紙には葛飾北斎の有名な版画「神奈川沖浪裏」が使われていた事からもわかる通り、日本の絵画や芸術にも並々ならぬ興味を示していたらしい事からも、いかにドビュッシーさんという人が芸術的に凝り性だったかを伺い知る事が出来ます。 ところでClassic音楽の場合は、演奏家または演奏者によって同じ曲でもガラリと様相が変わってしまうのは、どんな名曲にも共通して言える事ですが、この曲にもそれぞれの解釈に基づいた『海』があります。 ワタクシ的には『海』というからには、あまりこじんまりと纏まった「美しい湖」のようなスマートな演奏よりは、やはり美しさの裏に荒々しい自然のダイナミズムを秘めたものが好まれ、それだけにディスク選びには一層の慎重さを要するところです。 ところでドビュッシーさんの「印象主義音楽」の真髄を楽しむなら、この『海』以上にうってつけの作品があります。 『管弦楽のための《映像》』という作品で、ピアノの原曲と聴き比べてみれば、ドビュッシーさんの印象主義の技巧が晩年に至って、いかに究められたが手にとるようにわかるでしょう。 ただしドビュッシーさんのビギナーが、いきなりこれを聴いてしまうと、恐らくは 「なんじゃ、こりゃ? さっぱりわけわかんねー・・・」 ってな事になろうかと思われますが ニヒヒヒ ( ̄∀ ̄*) 名前 コメント すべてのコメントを見る 38 おフランスの異端派(前編) (_ー_) ドビュッシーの時代は、フランスの画壇でもルノワールやマネ、モネ、セザンヌといった新しい勢力が勃興してきた時で、彼ら「印象派」と呼ばれた人たちは、当時の評論家たちからは「異端者」として扱われて来ました。 ところがここに、そんな風潮の中にあってそれらの先鋭な絵画に対していたく感銘を受け、飽かずに眺め続けているうちにこの手法を自らの得意とする音楽に活かしてみたら面白いのではないか、とインスピレーションを受けたのがドビュッシーさんであり、故に「音楽の印象主義」と称される所以です。 今日「印象主義音楽の旗手」として知られるドビュッシーさんですが、実はその後の研究によってそれ以前にロシアのムソルグスキーが、逸早くその手法を採り入れていた事が明らかとなり、またドビュッシーさん自身も自らの音楽世界の原点として、ムソルグスキーのピアノ組曲「展覧会の絵」(後にラヴェルの手により、オーケストラ曲として編曲されたものが有名)を挙げています。 しかしながら、そうしたパイオニア論争は別としても、志半ばにして早逝してしまったムソルグスキーの遺志を受継ぐような形で「印象主義音楽」を音楽史の中で大きく展開していったのがドビュッシーさんであることは、間違いのない事実として衆目の一致するところです。 そのドビュッシーさんの作品で、最も良く知られているのは『牧神の午後への前奏曲』と『海』の2曲でしょう。 『牧神』の方は、ドビュッシーさんが試行錯誤を繰り返した挙句に確立した印象主義へのエポック・メーキングとして広く知られる曲であり、幻想味溢れるフルートの美しい音色が楽しめる曲です。 ワタクシ的には(表面的には)あまり盛り上がりどころのない『牧神』よりは、印象主義の手法を定着させた晩年の作で、そのタイトルの通り目まぐるしく変化していく海の表情を巧みに描写した、交響詩『海』の方を推したいところです。 名前 コメント すべてのコメントを見る 37 マーラー青春の金字塔(後編) ☆ヾ( ̄ー ̄ ) マーラーさんの音楽は、ほぼ交響曲と歌曲という二つのジャンルに収斂されますが、一般的には全10曲の交響曲(別の作曲家=D・クック決定稿=の補筆による遺作『第10番』を含めると11曲)が圧倒的に有名です。 冒頭にも記述した通りマーラーさんの音楽には、その総てにおいて「死」をテーマにした底流が流れているために、他の作曲家のように一作毎にテーマが異なる作品というよりは、同じテーマを様々なアプローチからアレンジしながらじっくりと掘り下げていった、いわば全体で一つの壮大な作品と捉える事も出来ます。 勿論、若い頃から人一倍「死」を意識していたとはいえ、やはり晩年に近くなってくるほどにその「死」の影はより色濃くなって来る事から、音楽に深刻さと深みが増していくため、実際には後年の作品に行くほどよりその真骨頂を垣間見る事が出来ますが、マーラーさんを聴き慣れていない耳にいきなりそれらの重い作品を理解するのは、至難の業と思われます。 加えて、マーラーさんの交響曲は一作一作の演奏時間の長さは、ブルックナーと双璧をなすくらいの桁違いのものばかりで、いずれもが1時間を優に超えるような大作揃いであり、かつまたオーケストラの規模もオリジナルの楽器編成を試みていくなど、後年になるにつれ次第に常識外れなまでに巨大化していきますが、ここにこそヒタヒタと忍び寄ってくる死神の影に怯えながら、なお未練を断ちがたい現世に必死でしがみつこうと、七転八倒の悪戦苦闘を繰り広げてきたマーラーさんが死神に挑んだ、壮絶果敢な闘いの軌跡を見て取る事が出来ます。 全10曲(11曲)の中でも第1番《巨人》は唯一、20代に作曲された作だけにマーラーさんとしては例外的に「暗い死の影」という面がまだ幾分背後に隠れ、スケール的にも1時間弱と(第4番とともに)例外的に短く(といっても平均的なな交響曲に比べれば、遥かに長いですが)、マーラーさんの作品の中では比較的こじんまりと纏まったものとして、よく親しまれています。 ワタクシも含めて、マーラー・ファンの耳には規模的にも内容的にも、少し物足りなさを感じてしまうのが正直なところですが、それでもフィナーレの清々しいまでの爽やかさなどは、これ以降の作品ではまずにお目にかかることの出来ない「マーラーの青春」の群像として、若い頃に初めて聴いた時は大いに胸を打たれたものでした。 「やがて、私の時代がやって来る・・・」 と自ら予言した通り、その死(1911年)後、およそ半世紀以上の経過の後に世界的な「マーラー・ブーム」が巻き起こりましたが、マーラー・ビギナーや若い感性をもつ人ならば、この『第1番』から聴き始める事によって必ずやマーラーさんの魅力に目覚める事でありましょう ☆ヽ(▽⌒*) 名前 コメント すべてのコメントを見る -
https://w.atwiki.jp/nyabecch/pages/55.html
36 マーラー青春の金字塔(前編) ☆ヾ( ̄ー ̄ ) マーラーさんの音楽に一貫しているテーマは「死」であり、「死に対する病的なまでの恐怖心」と、それと合わせ鏡の関係となる「生に対する憧れや執着」といった、まさに人間の根源的なところにかかわる大テーマに、生涯に渡って取り組んできた一人の大芸術家の歴史といえます。 マーラーさんがそれほどまでに死を恐れた原因は、幼い頃に相次いで亡くした両親のうちの、特に心臓病で亡くなった母親の血を引き継いで自らも心臓の病を宿痾として抱えた事が原因していますが、長じて結婚後に初めて生まれた愛娘を幼くして同じ遺伝の心臓病で亡くした辺りからは、作品は益々死の影に色濃く縁取られていくとともに、皮肉にもその分だけ音楽にも深みが増してくるという結果となって行きます。 元々がユダヤ人として、ボヘミアに生まれたマーラーさんですが 《生まれながらの孤児》 として世界中のどこへいっても疎外感を痛感させられるなど、その苛酷な運命は人一倍デリケートな若者の心に、大きな影響を齎した事は容易に見て取れます。 元々、音楽活動のスタートは指揮者であり、その才能を認められて招かれたウィーンへ行っても、また次いで新大陸アメリカへ渡っても「ボヘミアン」として差別される上に、ドイツ人の間では「オーストリア人」として、挙句は生まれ故郷のボヘミアにおいてさえも「ユダヤ人」として差別され、世界中のどこへ行っても邪魔者扱いをされ続ける事を余儀なくされるうちに、半ばは人生に対する絶望や諦観を悟り始める一方で、逆に自身とは無縁なそうした眩しい世間に対する憧憬や執着、またはそれに相反する憤りや焦燥などといった、複雑かつ多様な要素が綯交ぜになって産み落とされたのが、あの独自の世界観といえるでしょう。 また性格的にも、芸術家にありがちの非常に神経質な完璧主義者であったため、常に病的なまでに完璧を追求する課程において演奏家達とのトラブルが絶えず、世界の一流オーケストラを渡り歩いて指揮者としての名声を高めていく一方では、それぞれの現場においてトラブルメーカーとしてかなりの鼻摘み者であった事も、また一面の真実だったようです。 ともあれ、そうして弱冠20代にして世間的には世界有数の大指揮者としての名声を確立しながらも、常に現状に満足をしないストイックなマーラーさんは休日を利用して作曲活動にも手を広げ始め、28歳の時に完成した交響曲第1番《巨人》を皮切りに、いよいよ、本格的な作曲家活動へとシフトしていきます。 名前 コメント すべてのコメントを見る 35 最も偉大なのはヘンデルである(後編) ムフフフ ( ̄ー ̄ しかも後継者として、なんとドイツから輸入する形で件のハノーファー選帝侯がやってきたから「裏切り者」ヘンデルさんにとっては、まさに悪夢を絵に描いたような最悪の展開になってしまいました。 ところがここからが世渡り上手のヘンデルさんで、この新しくイギリス王となった元の主人がテムズ河で舟遊びを催すと訊き付けるや乾坤一擲の精魂を傾け、遂に生涯の代表作となる組曲『水上の音楽』を創り上げ舟遊びでこの会心の作をお披露目するや、たちまちこの曲の虜となってしまったハノーファー選帝侯に罪を許されたばかりか、前にも増して王室から手厚く迎えられた、というなんとも出来すぎのような痛快なエピソードは有名です(いくらかは、脚色されているらしいですが・・・) さて、そのヘンデルさんのポリシーは 「誰にでもわかり易い、単純明快さ」 と言われますが、確かに最初はややとっつき難い感じを受けるバッハなどに比べれば、遥かに親しみのある聴きやすい音楽が特徴と言えましょう。 その長い生涯にわたって宮廷音楽家を務めてきた影響からか、一種独特の浮世離れのしたような曲調から 「天上の音楽」 とも評されるのが、ヘンデルさんの音楽です。 学校の音楽教科書に載っている肖像画などを見ると、ヘンデルさんにしろバッハにしろバロック時代の音楽家は当時流行っていたカールをした長髪の鬘と、今日の感覚ではやたらとゴテゴテした装飾の衣裳を纏っているせいか、誰も彼もがどことはなしに厳しげな感じに見えてしまい、そのためかなんとなく敬遠されているような気がしますが、実際の音楽を聴いてみると意外に親しみのある曲が多いのがわかるでしょう。 この『水上の音楽』は、一部から三部までを合わせてちょうど1時間くらいのボリュームがありますが、ヘンデルさんの入門編としては地味な第三部はともかくとして、第一部・第二部までは是非とも聴いておきたいところです。 名前 コメント すべてのコメントを見る 34 最も偉大なのはヘンデルである(前編) ムフフフ ( ̄ー ̄ 「最も偉大なのはヘンデルである」 と曰もうてヘンデルさんのお墓の前に額ずいたのは、誰あろう楽聖ベートーヴェンでした。 このエピソードからだけでも、ヘンデルさんがいかに凄いお方かがわかろうというものですが、何故か日本においてはイマイチ地味な存在でもあります。 ヘンデルさんは、あの大バッハと同じ1685年のドイツの生まれで、少し先輩に当たるヴィヴァルディやコレルリ、或いはスカルラッティといった、イタリアの作曲家の影響を受けたところからスタートし、その後徐々に独自の世界を確立していく事になります。 大作曲家と言われるような人の多くは得てして波瀾万丈の生涯を送ったり、生まれながらに極貧だったり不遇のままに一生を終えたり、或いは先輩のヴィヴァルディのように晩年に才能が枯れてしまい、野垂れ死にしてしまったりといったケースはよく見られますが、ヘンデルさんは20代半ばの頃に早くも当時のハノーファー選帝侯から宮廷作曲家及び指揮者として招かれて以来、殆んど不遇な時代を経験せぬままに70年余の生涯を独身で通したという、非常に珍しいタイプの人でもあります。 さて、ハノーファー選帝侯に遣えていたヘンデルさんは、根っからの旅行好きで休暇の度にイタリアやイギリスへ旅していましたが、そのうちにイギリスがすっかり気に入ってしまうと、勝手に休暇を延長してそのまま居座ってしまいます。 そうこうするうちに滞在先のイギリスでも、幸か不幸か当時のアン女王にすっかり気に入られてしまう事になり、王室からの手厚い庇護の下でこれ幸いとばかり、ハノーファー侯からの帰国命令を無視しつづけていましたが、しばらくすると 「アン女王の突然死」 という、思いもよらぬ青天の霹靂が訪れます ( ゜ ▽ ゜ ;)エッ!! 名前 コメント すべてのコメントを見る 33 ピアノ詩人の挑戦(後編) (=´ω`=)y─┛~~ 殊にロマン派以降、大規模かつ複雑になっていった各種の『ピアノ協奏曲』に比べると、あたかも「ピアノ・ソナタ」に無理矢理伴奏をくっ付けたような、どうにもサマになりきっていない感じを受けてしまいます。 若い頃(といっても、僅か39年の生涯)は、かなりのハンサムで女性に騒がれたショパンさんですが案外にシャイな性格だったようで、心密かに胸に仕舞い込んでいた初恋の女性への燃えるような情熱を得意のピアノに託して表現したの、がこの2曲のピアノ協奏曲(特に『第2番』)と言われています。 いわば、良くありがちな「音によるラブレター」ですが、そんな思春期の若者の甘い感傷が随所に窺えるのは最初に作曲した『第2番』の方で、それなりにメロディックな聴きどころはあるものの、全体として見た完成度では次に作曲した『第1番』の方が遥かに高く評価できる事は、ショパンさん自身がわざわざ作曲順序を逆にしてまでも、後から作曲した『第1番』を先に出版させた経緯からも明らかです。 さて先にも触れましたが、なにせ2曲ともにピアノのパートが素晴らしい分だけ、逆にオーケストラの稚拙さが目立ってしまうのはなんとも惜しく、ワタクシのような素人でさえ (いっその事、中途半端なオーケストラは取っ払ってしまって、得意の『ピアノ・ソナタ』の形式にしてしまった方が、遥かに傑作になると思うのだが・・) などと、聴く度に思うくらいですからプロの指揮者が手を拱いている訳はなく、指揮者によって独自のアレンジを加えたりオーケストラを充実させてみたりと様々な試みがあるため、CDを聴き比べるというもう一つの楽しみもあります。 もっとも某有名指揮者のような、ブラームスばりにオーケストラを重厚にし過ぎてしまったせいで、肝心のピアノがすっかり霞んでしまっているようなのは、明らかな本末転倒というものでしょうが (* - -)ノ 名前 コメント すべてのコメントを見る 32 ピアノ詩人の挑戦(前編) (=´ω`=)y─┛~~ Classic音楽には、様々なジャンルがあります。 楽器編成から言えば、大はオーケストラものから小は器楽ソロまであり、当然の事ながら神ならぬ作曲家にとっては得意や苦手のジャンルが、それぞれにあります。 オーケストラものが得意の作曲家として有名なのが、ムソルグスキーのピアノ組曲『展覧会の絵』を煌びやかな大曲に作り変えたラヴェル、同じくムソルグスキーのピアノ曲『禿山の一夜』を色彩感溢れるオーケストラ曲にしてみせたリムスキー=コルサコフ、そして色彩的オーケストラの達人としてはリヒャルト・シュトラウスも忘れてはなりません。 一方、以前にここで採りあげたシューベルトやシューマンなどは、オーケストラ曲にも有名なものが幾つもあるにはありますが、どちらかといえばピアノや歌曲などの小品に持ち味を発揮する人で、それをもっと極端にしたのが「ピアノの詩人」として有名な、ショパンさんです。 ショパンさんの場合は、ピアノが大得意だったのもさることながら、オーケストレーションがまったく苦手だったらしく、そのためオーケストラで聴かせる曲といえば、2曲のピアノ協奏曲に限定されてしまいます。 ご存じのように『ピアノ協奏曲』といえば、数ある器楽協奏曲の中では最もメジャーなジャンルだけに、作曲家の有名どころは殆んど例外なくこの分野に傑作・力作を遺していますが、それらの曲を聴き親しんだ耳にはショパンさんのはなんとも風変わりというか、物足りない思いがします。 『ピアノ協奏曲』と言うからには、当然の事ながらまず主役として魅力的なピアノソロがあり、それを引き立てるオーケストラとのバランスが車の両輪のように噛み合ってこそ傑作や名作が生まれるわけですが、ショパンさんのそれは主役のピアノのパートは確かに「ピアノの詩人」らしい、情緒に溢れている素晴らしい傑作であるのに対し、オーケストラの方は正直(他の一流どころの作曲家との比較においては)素人に毛の生えた程度である、と言わざるを得ません。 名前 コメント すべてのコメントを見る 31 最も尊敬すべきはClassic音楽作曲家(後編) (*゚ー゚)(*。_。)ウンウン 芸術家も画家や作家など様々ですが、ワタクシが最も尊敬してやまないのが、Classis音楽の作曲家です。 それは何故かといえば実に単純な論理で、絵や文学はその巧拙を別にするなら、取り敢えずは小学生はおろか幼稚園児にも創作自体は出来てしまうものですが、こと作曲となると知識のないものには、まず手も足も出ません。 作曲とはいっても、ピアノの鍵盤をデタラメに叩いているうちに偶然音楽らしきものが出来てしまう可能性もありますが、それも精々がポピュラー音楽のレベルまでであって、Classicのオーケストレーションとなっては素人には、まず無理な世界です。 そもそも、楽器の演奏という事では何の心得もないワタクシとしては、ことオーケストレーションに対しては、畏敬の念さえ憶えるのみです。 どんな楽器にせよその道を極めるのはおろか、楽器の特性を知るだけでも容易ではないと思われますが、ありとあらゆる楽器を自在に、頭の中で(或いは実際に)操るほどに深い知識を備えた一流作曲家の皆さんは、ワタクシの目には魔法使いのような神がかり的な存在に見えますし、やはり生まれ持った脳の構造が優れて特殊であるとしか思えないところです。 絵画や文学、或いは彫刻などもそうですが、下手は下手なりに描いたり創ったりが出来るのはただ目に見えるものを対象にすればよいからでもあり、それに引き換え音楽というものはそもそも無から「音」という形のないものを創り上げていく世界だけに、知識のない素人にはまったく手が出ないものと考えますが、いかがなものでしょうか (=´ω`=)y─┛~~ 名前 コメント すべてのコメントを見る 30 最も尊敬すべきはClassic音楽作曲家(前編) (*゚ー゚)(*。_。)ウンウン 「職に貴賎なし」 とは昔からよく言われますが、優劣はともかくとして特定の職業に対する憧れや尊敬の念は、誰しも持つところでしょう。 一般的に、尊敬される職業としては 医師(医学者) 弁護士(司法官) 大学教授(研究者) 大企業のトップ エンジニア サイエンティスト 代議士 スポーツ選手 芸術家 などなどが挙げられる事でしょう。 まず、これらを大まかに分類するなら「頭脳系」、「スポーツ系」、「芸術系」に分類されるでしょうが、ワタクシ的には「頭脳系」よりは「スポーツ系」や「芸術系」を評価したいところです。 その根拠として「頭脳系」の方は、ワタクシもエンジニアの端くれとして必ずしもセンスの必要性なしとまでは言い切りませんが、一方では余程のバカではない限り努力次第で、かなりのところまでは達成可能な分野であるといえます。 無論、一口に「頭脳系」とはいっても、医師国家試験や司法試験といったところになれば、あの物凄い競争率を見ても努力の限界はあるでしょうが、それでも努力次第である程度はどうにかなりそうな分野ではあります。 対してスポーツを考えるなら、100mを走るのに15秒もかかる人は、いかに毎日数百本のダッシュを死に物狂いで繰り返したところで精々が14秒台に縮められるのが関の山で、世界トップレベルの10秒台となるとこれはもう限られた才能というより他はない。 芸術もまた同様に、気合いだけではいかんともしがたい分野である事は、たかだか学生時代の小さな経験に照らしてみるだけでも、歴然としたものでしょう。 ではスポーツと芸術の比較となるとこれは非常に難しいですが、スポーツ選手の寿命は短くゴルフなどのソフトなスポーツを例外とするなら人生80年のうちの精々20年が良いところで、これに対して順調に行けば遥かに寿命の長い芸術家の方にやはり軍配を挙げたいところです。 名前 コメント すべてのコメントを見る 29 我がClassicとの邂逅part3 (=´ω`=)y─┛~~ こうして考えてみると、一見意識なく眠っているようですが、実は意識の深層では覚醒して音楽を聴いている神経があり、つまらない(と感じる・・・実際には殆どの場合が、まだ理解できていないに過ぎない)部分の時は「寝てなさい!」という指令を出していて、いよいよ聴きどころ(と認識されたところ)に来ると「起きろ!」という指令を出す、というような不思議な多重構造が認められます。 「Classicを聴いていると、必ず眠くなる」 という話はよく耳にしますが、ワタクシ自身は自らの体験に照らして 「眠くなったら無理に目を擦って聴こうなどとせず、寝てしまえばいい」 と言います。 そうすれば、その人の感性に訴える部分が来た時には自ずと覚醒する事でしょうし、逆にいうなら何度やってみても絶対に目が覚めないという人は、恐らくは最早Classisとは無縁の人であろうと結論付けられます(勿論、これはあくまでワタクシ流の方法なので、開眼に至るパターンは十人十色でしょうが・・・) ワタクシが思うに音楽の利点は、特に意識的に理解に務めようとせずとも自然な形で耳を通じて脳に働きかけてくる点で、例えば文学などは文字だけを漫然と追っていると読んだつもりでもまったく頭の中に残っていませんし、絵画なども観賞心もなくボンヤリ眺めていれば頭にも心にも残らないものですが、音楽だけはBGMが不思議と耳に付いてしまったりする日常の経験からも明らかなように、嗜好が合うと案外に心に残りやすいものです。 目を瞑れば絵も文字も見えなくなりますが、日常において耳を塞ぐという行為は滅多にあるものではないので、意識に入り易い事もあるでしょう。 それはClassicといえど、他の音楽同様に形のない「音」という特殊性などから鑑みても、明らかではないでしょうか。 ともあれワタクシ的には「Classic」と聴いただけで、何故か必要以上に身構えてしまう人たちの感覚の方がどうにも理解に苦しむのですが (=´ω`=)y─┛~~ 名前 コメント すべてのコメントを見る 28 我がClassicとの邂逅part2 (=´ω`=)y─┛~~ 当時は、フリーランサーをしていた関係で夜間に原稿を書くような生活スタイルが定着し、その反動で日中の空いた時間に昼寝をする習慣がありました。 この昼寝の時に、Classic音楽を流します。 正確にいえば、Classicを聴きながら昼寝をするつもりではなく、Classicを聴くつもりが知らぬ間に昼寝時間と化してしまっていた訳ですが、確かにClassicを聴いていると眠くなるものです。 そうして聴いているうちに、どの曲にしろその良さが自ずと理解できてくるものだと、実感する事になります。 曲によってはそれが2、3回であったり、或いは20回~30回と1ヶ月くらい繰り返し聴き続けるうちにようやく「ピン」と来るものもありましたが、この「ピン」と来る感覚が程度の差こそあれ、どの曲も繰り返し聴いているうちに例外なく訪れるため、あとはそれが自然と感性に訴えかけてくるのを待てば良いわけです。 すると不思議な事に、音楽が流れている間にいつも知らぬ間に寝てしまっているのですが、その曲がいつもある部分に差し掛かるやパッと目が覚めるようになるのです。 そうして目覚めとともに耳に流れ込んでくる旋律は、決って素晴らしいものとして耳から心にジンワリと浸透してきます。 要するにワタクシ的なレベルにおいては、その時点でその曲に「開眼」をした事になり、一旦この現象が起きると次からは必ずと言っていいほど同じ曲の同じ部分に差し掛かると目覚めが訪れ、そこからはじっくりと鑑賞を楽しむわけです。 一方、まだ「開眼」に至っていない時は、当然の事ながら最後まで目覚めが訪れる事はなく熟睡状態が続きますが、曲が終わるとともに不思議に目が覚める事となります。 名前 コメント すべてのコメントを見る 27 我がClassicとの邂逅part1 (=´ω`=)y─┛~~ 今年第一回目の4chという事で、今回はワタクシのClassicとの出逢いを語る事にしましょう。 初めてClassic音楽に目覚めたのは高校2年時代、17歳の時でした。 某TV番組のオープニングで効果的に使われた曲を聴いた瞬間に、その雄大なスケールの虜になります。 曲名も誰の曲かもわからないままに貸レコード店へ行き、デタラメの見当をつけて何度も借りているうちにようやくお目当ての曲に行き当たり、それが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』という、ワーグナーの楽劇の『第一幕への前奏曲』であると知りました。 実家には幸いにして、母が所有する名曲アルバム全集を始めとしたレコードが山と積んであり、YAMAHAの高級ステレオにショボいカセットデッキを繋いで録音した、それらの曲を聞きかじり始めました。 『運命』、『未完成』、『悲愴』、『新世界より』、『田園』といった交響曲の有名どころから、母の最もお気に入りだったJ.シュトラウスのウィンナ・ワルツ、そして『軽騎兵』、『詩人と農夫』、『天国と地獄』、『こうもり』などオペレッタ序曲に至るまでを、手当たり次第に聴きまくったものです。 そうして、高3の学園祭で行われた「クラス対抗ブラスバンド大会」では、すでにイッパシのClassicマニアを気取っていたワタクシは、投票で決りかけた流行のポピュラーを強引に引っ繰り返し、エルガーの『威風堂々』第5曲を無理矢理に押し付けて、デタラメの指揮を振ってクラスを優勝に導いた事も思い出深い出来事です。 大学生時代は下宿していて、いつもお金にはピーピーしていたので当初は殆んど聴くチャンスもなかったものの、そんな中でR.シュトラウスの『ツァラトストラはかく語りき』のオープニングに圧倒されたのが、二度目の開眼となります。 社会人となってからは再びロックに戻り、しばらくはClassicから遠ざかったいましたが、20代の半ばくらいからClassicに戻ったり離れたりを繰り返した挙句、ようやく体系的に究めてみようではないかと一念発起したのが、20代も後半に差し掛かった頃でした。 名前 コメント すべてのコメントを見る 26 楽壇のトンデモさん登場~(後編) ヾ(∇^〃) そうした性格から、どの音楽にも完全性を追求していくがゆえか一作毎にスケールを増していき、遂には晩年の『ニーベルングの指環』に至ってはナント、15-16時間にも及ぶという常識外れの4部作が出来上がり、上演は4夜連続で行われるという前代未聞の試みがなされました。 全曲盤CDとなると 「十×枚組3万円」 とかで店頭に出ていて、興味のない人から見ると 「こんなの3万円も出して、買う人がいるのか?」 と思われるでしょうが、ボーナス時期などは店頭で買っている人の姿を見かける事も、決して珍しくはありません。 そんなワーグナーさんの音楽の特徴はといえば、何といってもあの桁外れなまでに雄大なスケールに尽きるでしょう。 一般的に、美しいメロディラインに乗せて歌を聴かせるイタリアオペラに対し、ドイツものはオペラにせよガッチリとした構成のものが多いと言われますが、殊にワーグナーさんの場合は勿論歌の美しさはさることながら、やはりあの圧倒的な音の流れを堪能出来るところろに、最大の魅力があります。 聴き慣れないうちは、あまりに恰幅が良過ぎて一見取っ付き難い印象は否めませんが「ワーグナーの毒」とも言われるように、一度ハマってしまうと最早ワーグナーなしでは昼夜も明けぬといった禁断症状を呈するようになり、世界中にはそうした「ワグネリアン(ワーグナー中毒患者)」がゴマンとどころではなく、ワンサカと存在していると言われます。 そのように傑作揃いのワーグナーさんの作品ですが、最も完成度の高いのは言うまでもなく先に触れた『指環』となるのでしょうが、これから初めてワーグナーを聴こうという人にいきなり、この並外れた大作はかなりキツイだろうと思われるため、まずは序曲・間奏曲などの名場面集辺りから入るのが無難でしょう。 有名どころとしては『タンホイザー序曲』、『ワルキューレの騎行』、『さまよえるオランダ人序曲』、『ジークフリート牧歌』、『ローエングリン序曲&婚礼の合唱』辺りですが、かくいうワタクシ自身が最初にクラシックに触れたのは偶然耳にした『ニュルンベルクのマイスタージンガー・第一幕への前奏曲』のあのカッコ良さに、一発で参ってしまったのが始まりでした ゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!!! 幸か不幸か、今のところ「ワーグナーの毒」に当てられるまでの重症には至っていませんが、今日に至るまで一番の趣味であるクラシック音楽の世界へと誘う、きっかけを与えてくださったワーグナーさんは今でも非常に好きな作曲家の一人ですし、そういったワタクシの個人的な感情は別にしても、これまでの音楽に対する世界観を変える意味合いからも、是非一度は聴いていただきたいものです ☆ヽ(▽⌒*) 名前 コメント すべてのコメントを見る 25 楽壇のトンデモさん登場~(前編) ヾ(∇^〃) 『天才と狂人は紙一重』 などと良く言われるように、天才的な芸術家には常人のモノサシで計る常軌を遥かに飛び越えるような生き様を演じて見せてくれる方々が少なくないようです。 Classic界も、ご多分に漏れず超の字の付くような個性派揃いですが、さしずめワーグナーさんなどは有名どころの中ではその代表格といえるでしょう。 無名時代の若い頃から「飲む・打つ・買う」の三拍子揃った遊び人だったワーグナーさんは、借金を重ねては債権者から逃れるために夜逃げを繰り返しますが、夜逃げと言っても国外逃亡ですから普通のそれとは、遥かにスケールが違います。 荒れた生活は既に大学生の頃から始まっていたようで、最初に創作した交響曲がまったく認められなかった事に大いに失望し 「この曲の真価がわからないドイツ人は、レベルが低い田舎者揃いだ!」 とウィーンへ移りながら、その後は10年以上も各地を転々とし続けた末に、パリへと流れていきます。 パリでは、革命に巻き込まれ(参加して?)当局者から追われる身となり、今度はスイスへ亡命する事になります。 その間、繰り返し恋愛を重ねたながらヴェネツィアへ駆け落ちなどもし、再びスイスに戻って各地を流離っているうちに当時「音楽の帝王」として楽壇に絶大な影響力を持っていたリストの力添えがあって、ようやく世間から認められる事になります。 リストには随分な世話になりながらも、そのリストの腹心とも言うべき大物指揮者であり、またワーグナー自身も初演を成功に導いてもらった恩もあるハンス・フォン・ビューローに嫁いでいた、リストの愛娘・コジマを強奪して自らの嫁にしてしまうなどの芸当は朝飯前で、遂には狂的なまでにワーグナーに心酔していた19歳のバイエルン国王・ルードウィッヒ2世を誑し込み、国家予算を莫大に費消してまで自らの劇世界に登場する城(ノイヴァンシュタイン城)などをそっくりそのまま現実に創らせてしまうという、まことに底知れぬ破天荒ぶりでした。 自ら、稀に見る天才を大いに自認していたワーグナーさんは、それまでの「音楽が中心のオペラ」に満足せず、ストーリーに半分くらいウェイトを置いた「楽劇」(ムジークドラマ)という、新しいジャンルを創造して行きます。 若い頃は作家を目指していた事もあったほど、文才にも自負(実際の文才は別として)するものがあっただけに、他の作曲家のようにシェイクスピアなどの既製の物語には飽き足らず、神話に題材を採った大河を自ら創作するなど徹底した完全主義を貫きます。 名前 コメント すべてのコメントを見る 24 粋人・シューマンの美学(後編) (= ̄∇ ̄=)ニィ 「江戸っ子の羽織」(表は地味だが、裏地=見えないところに金を掛けているところが粋とされる)に通じるような、何となく聴き逃してしまうような細かいところで、実に凝った職人らしい仕事をしている点が挙げられます。 そうしたシューマンさんの特徴が良く出ているのが『ピアノ協奏曲イ短調』で、一流のピアニストの作るピアノ協奏曲ともなれば当然のようにピアノソロが派手な技巧をアピールするような曲調になるのが普通ですが、この曲に限っては主役であるピアノがオーケストラの中に埋没したかのような、一見(聴)ピンボケのような変り種の印象があるのも 『ピアニストが、己の技巧をひけらかすような音楽は上品でない・・・云々』 という、洒落モノ独特の哲学に基づくものでした。 もっとも、この曲に関しては誕生の経緯をしれば納得がいくのですが、当初は『ピアノとオーケストラのための幻想曲』として創られたものが第1楽章で、その後に先にも触れた経緯で結婚した一流ピアニストでもあった新妻クララの晴れ舞台として用意するために、後の2楽章をくっつけたものがこの『ピアノ協奏曲イ短調』となったわけです。 確かに、ピアノとオーケストラのどちらが主役ともいえないような幻想味溢れる、それまでのピアノばかりが派手な主張を展開するものとは一味も二味も違ったユニークな作品であり、今では《四大ピアノ協奏曲》の一つに数え上げられるほど、有名になっています。 そうしてこの曲の初演はシューマン自身の指揮、そして勿論妻クララのソロという豪華キャストで実現し 「オーケストラを従えて、まるで女王様になったような素晴らしい最高の気分でした」 と美しくも才能豊かな若妻も、すっかりご満悦だった事は言うまでもないでしょう (*^ー°v 名前 コメント すべてのコメントを見る 23 粋人・シューマンの美学(前編) (= ̄∇ ̄=)ニィ 子供の頃からピアニストを夢見て熱心な練習に励んでいたシューマンさんは、若い頃にヴィークという人に弟子入りをしました。 師のヴィークは、一目でその才能を見抜き 「自分のところで修業を積めば、3年で一流のピアニストになれる」 と太鼓判を押しましたが、功を焦ったシューマンさんはあまりに無理で激しい練習をしたために指に障害を来たしてしまい、ピアニストとしての将来を断念せざるを得なくなります(原因に関しては、他にも様々な説があります) その間、ピアノの師であったヴィークの元へ足繁く通ううち、娘のクララと恋仲となりプロポーズをしますが、重度の躁鬱症の齎す持病を宿痾として抱えるシューマンさんには、音楽家としての才能は認めていた父ヴィークからも娘の亭主としては失格という烙印を押され、ついに駆け落ちをする事になります。 シューマンさんは、自ら作曲やピアノの練習をするには止まらず大変な勉強家でもあり、ピアニストとしての道を断念した後は以前に紹介した尊敬するシューベルトの大作の発掘を始め、バッハやハイドン、或いはベートーヴェンといったバロックから古典派、そしてロマン派にかけての音楽をも熱心に研究するだけでは飽き足らず、当時としては珍しい音楽雑誌を創刊して同世代の埋もれた才能の発掘にも努めていました。 当時若干20歳で、まだまったく無名だったブラームスを始め 『帽子を取りたまえ諸君! 天才だ!』 という有名なフレーズとともに世に送り出したショパン、他にもメンデルゾーンやベルリオーズといった、後の大作曲家たちを世に送り出すのに果たした功績は、実に多大なるものがあります。 さて、そんなシューマンさんの音楽の特徴といえば「沈潜」と「隠し味」といったところでしょうか。 大男の外見に似合わず、オーケストレーションが苦手でピアノなどの小曲に持ち味を発揮したシューマンさんは元々重度の躁鬱症であり、しかも非常に慎重な性格の持ち主だけあってオペラなどの華美なものを嫌っていた事は、地味でどちらかというと暗めの曲調が多い事からも明らかでしょう。 名前 コメント すべてのコメントを見る 22 交響曲の父・ハイドンの真価(前編) ☆ヾ( ̄ー ̄ ) つまり前期6曲(第93番~第98番)及び後期6曲(第99番~第104番)の全12曲です。 まずはどれを聴いても円熟した技巧が冴え渡る名作・傑作揃いですが、親しみやすさと言う点ではなんといってもそれぞれユニークな標題の付けられた有名な『驚愕』(第94番)、『軍隊』(第99番)、『時計』(第101番)のいわゆる「三大標題交響曲」が、真っ先に挙げられます。 ウィーンで既に、大作曲家としての確固たる地位を築いていたハイドン先生のもとに、イギリスの有名な興行師兼ヴァイオリニストのザロモンからのお誘いが舞い込み、ドーヴァー海峡を渡る決意をします。 18世紀の当時は今とは違い、ドーヴァー海峡を渡るには命の保証もない大冒険でもあったので 「(60歳近い)ご老体が今更、生命の危険を冒してまで酔狂な真似をするのはお止めなさい。 年寄りの冷や水と言うものですよ。 第一、言葉も話せないのに・・・」 と、親子ほども年の違う後輩・モーツァルトの諌めるも訊かず 「大丈夫だ・・・私には《音楽》という国際語がある・・・」 という有名な言葉を残し夢を追い求めていった第二の新天地は、結果的にはハイドン先生にとっては「第二の人生」どころか 「これぞ、ハイドンの真骨頂!」 と、後世皆が認めるような新境地を拓く結果となっていくのでした (= ̄∇ ̄=)ニィ ちなみに、ロンドンで大いに名声を上げたハイドン先生が意気揚揚としてウィーンへ凱旋帰国を果たした時には、片やあれほどまでに高齢なハイドン先生のロンドン行きを案じて猛反対をした24歳年下のモーツァルトさんは、僅か35歳の若さで既にこの世を去った後でした。 さて先に挙げたこの三大交響曲は、いずれもテーマのわかり易い標題がついている事もあって、104の交響曲の中でも特に有名なものばかりです。 ユーモリスト・ハイドンのウィットが効いた第2楽章が有名な『驚愕』、オーケストラに軍楽太鼓を採り入れるという当時としては画期的な発想がユニークな『軍隊』、そして親しみやすいメロディで知られる『時計』と、いずれ劣らぬ粒揃いの傑作です。 この3つを並べて聴いてみると、個人的には『時計』がやや落ちるかな? という気はしますが (´ー`)y━~ 名前 コメント すべてのコメントを見る 21 交響曲の父・ハイドンの真価(前編) ☆ヾ( ̄ー ̄ ) 交響曲の始まりは、バロック時代のイタリア・オペラなどの序曲として扱われていた「シンフォニア」が原型と言われます。 その後、シュターミッツ親子に代表される「マンハイム楽派」らによって、オペラから独立した独自のジャンルとしての進化を遂げていきます。 ナポリ派のサンマルティーニやシュターミッツ親子、或いは大バッハの息子らに先んじられたとはいえ、あの膨大なオーダーのみにとどまらず今日的な交響曲の概念にまで昇華していった功績からしても、やはりハイドン先生こそは《交響曲の父》と呼ばれるには最も相応しい方でありましょう。 ところで物事にはどんな事にも裏と表があるように、ハイドン先生の《交響曲の父》という評価も大きく二分されるようです。 表の評価は言うまでもなく、天才モーツァルトの41曲を遥かにに引き離す「104曲」(協奏交響曲を除く)という気の遠くなるような膨大な交響曲を遺したというその多作な才能に注目し、一方で裏の評価は 「数は多いが、どれも面白みに欠ける」 「単純な曲調が多いため、飽き易い」 といったようなものです。 確かに初期の頃の『朝』(第6番)、『昼』(第7番)、『晩』(第8番)辺りを聴くと、素人目(耳)には交響曲と言うよりは、今日的感覚では弦楽四重奏曲に毛の生えた程度の規模で、ロマン派以降のゴテゴテとした交響曲を聴きなれた耳には、単純で物足りないような思いは否めないのも無理からぬ事かも知れません(ちなみにハイドンは、弦楽四重奏曲も80曲を超すという天文学的な数を遺していますが、このジャンルに関しては回を改めて触れていく予定です) さて、これらのハイドン先生の交響曲が「飽き易い」というのは勿論の事皮相な見方に過ぎず、実際には規模は小さいながらもどれもが一筋縄ではいかないような凝った構成で練りに練られ、地味ながらスルメのように聴けば聴くほどにジワジワと深い味わいが滲み出してくるのが、その特徴と言えましょう。 例えば、モーツァルトなどには遥かに顕著に見られますが、一旦はハイドンに弟子入りしながら直ぐに 「アナタは古臭い!」 と老いたるハイドン先生にはさっさと見切りをつけ、後に独自の世界を確立していった楽聖ベートーーヴェンの作品群からさえも、やはりハイドンの影響は免れ得なかった事の見て取れるところからも、その偉大さは計り知れようというものです。 では、この100を超える膨大なオーダーの中で 「一体、どこから手を付けたら良いのか・・・?」 と立ち往生の方にお奨めするとなれば、晩年の最も脂の乗り切った時期に作曲された『ロンドン・セット(ザロモン・セット)』でしょう。 名前 コメント すべてのコメントを見る 20 ああ無情(後編) (TT▽TT)ダァー ロマン派以降は大作流行りの交響曲も、この当時では1時間を優に越えるベートーヴェンの『第9』を例外とすれば、50分という大作は初演でその長さだけで悪評となった『第3番(エロイカ)』くらいなものですが、この曲こそはまさにあのベートーヴェンばりの骨太でガッシリとした構築美に溢れ、それでいてまた美しいメロディラインをも兼ね備えた新境地が、あからさまに伺えます。 思えば、楽聖・ベートーヴェンにして「傑作の森」(ロマン・ロラン)と言われた充実期は30を廻ってからであったように、モーツァルトのような神童上がりの天才は別とするなら、大作曲家と言われる人の多くも20代の習作時代に修業を積んだ後の30前後あたりから、いよいよ脂が乗って傑作を産み始める傾向が顕著にあります。 シューベルトさんの『第9番(グレート)』が書かれたのも、やはりちょうどそんな脱皮の時期に当たったと見てよく、この曲がそれまでの作品からはちょっと想像もつかなかったような大飛躍を遂げんという雰囲気があるのは、シューベルトさん自身がそろそろベートーヴェンを意識した、大作の創作に本腰を入れ始めていた時期とも一致します。 ところが惜しむらくは、前回も触れたようにシューベルトさんの場合は、皆が大飛躍を遂げる脱皮を始めようかという矢先に、誰よりも大きく羽ばたき始めた直後に逝ってしまった事で、これが人並みに順調に50ー60らいまで生きていれば、或いはベートーヴェンにも匹敵しうる2代目・楽聖の地位を築いていたのではないか? とまで惜しまれるような大変化の兆しを秘めているのが、この『グレート』でしょう。 最後の交響曲に至っていつもの悲哀観はすっかり影を顰め、全編に漲る確信に満ちたかのようなポジティブな力強さは芸術家として自信に満ち溢れ、その真価をいよいよ発揮し『さあこれからだ!』とでも言っているような矢先だっただけに、尚更惜しまれてなりません (TT▽TT)ダァー 奇しくもこの大作も、前回紹介した『第8番(未完成)』同様に生前は埋もれたままシューマンにより発見され、メンデルスゾーンによって初演が行われるまでには、作曲後10年以上を待たねばなりませんでした。 名前 コメント すべてのコメントを見る 19 ああ無情(前編) (TT▽TT)ダァー 「シューベルトの交響曲」といえば、誰の口からもまず真っ先に出てくるのが『第8番(未完成)』という事になりますが、ワタクシ的には最後の『第9番(ザ・グレート)』の方が遥かに好きであり、また傑作だと思っています。 前回も触れたように元来が歌曲王であり、また小曲の人とも言われるシューベルトさんですが、尊敬するベートーヴェンさんに肖って、交響曲にも手を伸ばしていきます。 初期から中期にかけては、モーツァルトやベートーヴェンの亜流というような域を出ていなかったシューベルトさんの交響曲にグっと「らしさ」が出てくるのは、やはり『第5番』辺りからでしょう。 そうして『第8番(未完成)』によって、あたかも頂点を極めたかのように言われがちですが前にも申した通り、ワタクシ的にはベートーヴェンの『第5』とカップリングされたものなどは、やはり何度聴いても見劣り(聴き劣り)がする感は否めません。 勿論、これは比較する相手が偉大すぎる事もありますが、それよりもなによりこの『第9番(グレート)』であれば、充分ベートーヴェンにも匹敵しうる大作であり、この曲を最初に耳にした時は 「え? これが本当に、シューベルトの交響曲なのか?」 と、何度もクレジットを見直したものです。 なにせ元々が「歌の人」であり「ピアノ(特に小品)の人」であるシューベルトさんだから、オーケストレーションはあまり得意とするところではありません。 したがって、交響曲のような大作には向かない人であると一旦は結論付けられた人なのですが、この『グレート』に限っては確かに突然変異のように、まさに人が違ったような威風堂々たる貫禄が感じられ、あたかもモーツァルトの流麗なメロディラインと、ベートーヴェンの雄大なスケールをミックスしたようです。 またシューベルトさんの音楽で、よく欠点として指摘される 「繰り返しの冗長さ」 はこの曲についても免れてはおらず、50分という長丁場に渡って何度も同じフレーズの繰り返しが顔を出してきますが、批評家としても超一流として認められていたシューマンに 「天界の悠長さ(天国的な長さ)」 と言わしめたほどに 「心地よい冗長さ」にまで消化されてしまいました。 名前 コメント すべてのコメントを見る -
https://w.atwiki.jp/satoschi/pages/1293.html
Mandaic, Classical【myz】 古典マンダ語 00 Afro-Asiatic 01 Semitic 02 Central 03 Aramaic 04 Eastern 05 Mandaic Mandaic script【Mand】 《歴》historical language アメリカ合衆国【US】 イラク【IQ】 イラン【IR】 オーストラリア【AU】 言語名別称 alternate names Classical Mandaean 古典マンダ語◆三省堂「言語学大辞典」全文データベース Mandaic マンダ語 方言名 dialect names 表記法 writing Mandaic script【Mand?】 参考文献 references WEB ISO 639-3 Registration Authority - SIL International LINGUIST List Ethnologue Wikipedia
https://w.atwiki.jp/jpops/pages/16471.html
White Classical Bandをお気に入りに追加 White Classical Bandのリンク #bf Amazon.co.jp ウィジェット White Classical Bandの報道 gnewプラグインエラー「White Classical Band」は見つからないか、接続エラーです。 White Classical Bandとは White Classical Bandの33%は知識で出来ています。White Classical Bandの31%は不思議で出来ています。White Classical Bandの24%は玉露で出来ています。White Classical Bandの10%は怨念で出来ています。White Classical Bandの1%はハッタリで出来ています。White Classical Bandの1%は毒電波で出来ています。 White Classical Band@ウィキペディア White Classical Band Amazon.co.jp ウィジェット 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ White Classical Band このページについて このページはWhite Classical Bandのインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新されるWhite Classical Bandに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/nyabecch/pages/35.html
18 『未完成』という名の完成品(後編) いずれが正しいかは別として、シューベルトはこの2楽章分を友人に送りつけたものの、シューべルトよりは遥かに愚鈍な相手の方は 「半分しか出来てない、未完成な物を送りつけてきやがって・・・」 とでも考えたのか机の引き出しに放り込んだまま、すっかり忘れてしまったらしい形跡があります。 そうしてすっかり世間の目に晒される事なく、ひっそりと埃を被って眠っていたこの曲が、大のシューベルトファンであり熱心な研究を続けていたシューマンにより発見され、ようやくその真価を天下に知らしむに至ったのはシューベルトさんの死後、40年以上が経過してからでした。 さて、ご存じの通りこの曲は今やベートーヴェンの『第5番(運命)』やドヴォルザークの『第9番(新世界より)』らと並ぶ、交響曲の古典として真っ先に採り上げられる曲だけに、店頭に並ぶディスクでは『第5(運命)』とカップリングをされているケースがやけに目に付きますが、実のところワタクシ的には (それほどの傑作かいな?) と、ずっと思って来ました。 カップリングの多くはこの曲が第5の後にくるわけですが、それがために折角最高潮にまで『第5』で高められたテンションが、あの『未完成』の地の底から響いてくるような冒頭のなんとも地味な音色によって、フニャーっと萎えてしまうような気がしてどうにも不合理に感じるとともに、どうしても見劣り(聴き劣り?)を感じてしまうのは、果たしてワタクシだけの嗜好の問題というところに収斂されるのでしょうか? 確かにいい曲である事は認めますが、果たしてあの『第5』に比肩しうる傑作かとなると、どうしても疑問符をつけたくなってしまいます。 ちなみに、あの辛口で鳴らしたブラームスは 《この曲は、交響曲の形式としては2楽章と一見未完成に見えるが、作品そのものは2楽章ながらも完璧なまでに完結されており、誰がこの完全なる2楽章の後に無用の音符を付け加えることが出来ようか・・・云々》 と絶賛していたようですが、天才ブラームスと違い凡庸かつ欲張りな素人のワタクシなどは、やはり同じシューベルトでも「大交響曲」と言われる『第9番(ザ・グレート)』に比べ遥かに物足りない感は否めず、折角のこの美しい2楽章の後に「第3楽章」、「第4楽章」と続く『完成版』(他の誰でもない、シューベルトさん自身の手による)が聴きたかった、と声を大にして言いたいのですが・・・(≧Д≦)ノ 名前 コメント すべてのコメントを見る 17 『未完成』という名の完成品(前編) シューベルトさんといえば《歌曲王》と称される事からもわかる通りその本領は歌にあり、また歌を支えているピアノにあります。 最も一般的な知名度からすれば、シューベルトさんと訊いてまず真っ先に挙がって来そうなのが、交響曲第8番ロ短調『未完成』D.759でしょう。 ドヴォルザーク、シベリウスと並ぶ 《Classic界の三大ブ男》 とも称される事もある(?)シューベルトさんは「ビア樽」と渾名された小太りの小男(160?a弱)、牛乳ビンの底のような分厚いメガネをかけたド近眼であり、おまけに若い頃から髪が薄く額が禿げ上がっているという容姿から、典型的なコンプの塊だったようです。 加えて粗末な居住環境で育った事なども影響してか、極度に引っ込み思案な性格で人付き合いの苦手なシューベルトさんの唯一の息抜きの時間は《シューベルティアード》という、芸術家仲間同士の同好会のような集まりでした。 《シューベルティアード》(シューベルトの集い)というくらいですから、その集まりの主役は勿論シューベルトさんであり、ここでシューベルトさんは自作の曲を自演し仲間内で賞賛を浴びるという、まるでコップの中の出来事のような小さな幸せで充分に満足していたくらい、驚くほどに欲のない人でした。 そうして小さな幸福に包まれたまま(?)に、弱冠31歳という若さで殆んど世に知られる事なく、不幸な夭折に見舞われてしまったのです。 ワタクシはこの、大和撫子ばりにあまりに奥床しいシューベルトさんの生き様に接するにつけ、(特に若い頃など)何とも苛立たしくもやりきれないような、切ない気持ちにさせられてしまいました (ノ_-;)ハア そうして《シューベルティアード》が盛り上がった日の帰りだったかに、珍しく気分良く泥酔した勢いを借りて友人らと歓楽街に繰り出す事になり、不幸にもそこで生涯ただ一度の経験となった遊女との交渉から、当時「死の病」といわれた梅毒を貰い受ける不幸に見舞われてしまうところなどは、まるで死神に付け狙われていたかのような、薄ら寒さすら感じてしまうほどです。 元来、このシューベルトさんという人は非常に飽きっぽい性質だったようで、途中まで創作した曲を何故かほっぽり出したままに次の新しい創作に手を染めたり、それが行き詰るとまた新しい作品に着手してみたり、或いはそこで中途創りの作品に戻ったりとかなり変則的な仕事ぶりだったようですが、そうして途中で放り出されたまま未完成で終わってしまった曲が幾つもあります。 ただしこの『未完成』に関しては、途中で放り出したまま亡くなってしまったのではなく、第3楽章の途中のところまでで意図的に筆を置いてしまったようで、その理由としては 「あの忌まわしい(梅毒治療の)水銀療法の記憶を呼び覚まされるために、敢えて投げ出したのだ」 という説や 「第2楽章までがあまりに完璧に出来すぎてしまったため、これに続くインスピレーションがどうしても出てこなかった」 或いは 「内容的に、この2楽章で完成してしまったので、敢えて筆を置いた」 といった諸説があります。 名前 コメント すべてのコメントを見る 16 『ベートーヴェンの第11番』ではありません・・・(後編) さて、そうして20年以上の歳月を費やしながら、改訂に改訂を重ねてようやく出来上がった『第1番』ですが、先にも触れたように第4楽章の第1主題がベートーヴェンの『第9(合唱付き)』で有名な、あの「歓喜のテーマ」とそっくりのために、一部では「盗作疑惑」も囁かれ、専門家の見解でも「似ている」、「似ていない」の論争がありました。 しかしながら、あれだけ若かりし頃からベートーヴェンを意識していたブラームスさんですから、盗作のつもりはなくとも知らぬ間に似てしまうのも無理からぬ事でしょうし、ワタクシ自身も最初に聴いたときはてっきり 「真似したか?」 と思ったくらいに確かにそっくりに聴こえたものですが、何度も聴いているうちに似ているのは最初の部分だけで、その後の展開部からはブラームスらしさが充分に滲み出ている、独自の世界であることを認めざるを得ませんでした。 それにしても、ベートーヴェンの『第5』もそうですが、よくもまあこれだけ緊密(というか無愛想?)に目の詰まった曲を書いたものだ、というのが正直な感想です。 さすがに20年以上もの歳月をかけて、じっくり熟成させ吟味してきたというだけの価値は確かにあります。 あたかも一級の建築家が一本一本、柱を打ち立てていくように構築された大建築の風格は充分でしょう。 「精神が私に語りかける」 と言ったミューズ(ベートーヴェン)に対し 「一番難しいのは、余計な音符を払い落としていく事だ」 と言うブラームスは、やはり職人気質の人といえるでしょう。 この『第1』こそは、良くも悪くも、まことに「ブラームスらしい曲」という気がします。 という事は、当然の事ながら聴き終った後はドッとくたびれますが、勿論それは心地よい疲れではあります。 ところで、ブラームスの交響曲が4つしかないのはいかにも少なくて残念なような気がしますが、よく考えたら2曲の『ピアノ協奏曲』に『ヴァイオリン協奏曲』、そして『ドイツ・レクイエム』のいずれもが、それぞれ『交響曲』と言い換えても良いくらいに、得意の重厚なオーケストラが大建築よろしく分厚く聳え立っている曲ばかりで、まさにベートーヴェンにも匹敵するバリエーションが全部で8曲もあるではないか、という見方も出来ます。 ブラームスの音楽といえば、どの曲も大建築を思わせるに充分な恐ろしく目の詰まったガチガチのあの分厚い構成から、楽しめる要素にはやや欠けるイメージが強いだけに、専門家には評価が高い反面で一般的には 「重い・・・」 「暗い・・・」 とやや敬遠されがちのきらいがありますが、あの肩の凝りそうなブラームスさんのクソ真面目に真面目すぎるところこそは、ワタクシ的にはなんともいえず大好きなのであります (= ̄∇ ̄=)ニィ 名前 コメント すべてのコメントを見る 15 『ベートーヴェンの第10番』ではありません・・・(前編) 『交響曲第1番』といえば、古今の名作が実に沢山あります。 古典派までの交響曲多作時代は、いわゆる若書きの習作的なものも多いのですが、ロマン派以降は交響曲の規模が大きくなるにつれ、相対的に寡作となった関係からか『第1番』から、いきなり満を持したかのような力作・大作が目に付きます。 思いつくままにざっと挙げていくだけでも ●エルガー 変イ長調 ●マーラー ニ長調(巨人) ●ショスタコーヴィチ ヘ短調 ●カリンニコフ ト短調 ●シューマン 変ロ長調「春」 などなど傑作・秀作揃いですが、やはり『第1』と訊いて誰の頭にも真っ先に思い浮かぶのが、この『ブラームスのハ短調』 ではないでしょうか (= ̄∇ ̄=)ニィ この曲は、第4楽章のテーマの相似から 「ベートーヴェンの第10番」 とも言われますが「ハ短調」の調性からもわかる通り、寧ろ『第5(運命)』を意識した創りといえるのかもしれません。 若い頃から、自他ともに認める才能を意識していたブラームスは (我こそは、ベートーヴェンの後継者である・・・) と密かに辞任していた節がありますが、病的なまでに極度な慎重居士の性格から、20歳そこそこから密かに着手し始めたこの交響曲が完成したのはナント、20年以上の歳月を費やした40代になってからという、マコトに気の遠くなるような壮大壮大な仕事であります。 最もハイドン、モーツァルトらの古典派交響曲から、後のロマン派へと繋がる大きな変革を齎したベートーヴェン以来、誰もが交響曲の創作には及び腰というような状況が続いていた背景もあり、それだからこそ他のジャンルでは傑作を次々と産み出していったブラームスも 「何故、アナタほどの人が交響曲を創らないのですか?」 と訊かれる度に 「ベートーヴェンが9つの交響曲で総てを言い尽くしたのに、このうえワガハイ如きが何を付け加える必要がありましょうか?」 などと空トボケていたそうですが、その実 「ベートーヴェンという、巨人の足音を聞きながら」 密かにベートーヴェンの交響曲に勝るとも劣らぬような、世間をアッといわせる独自の交響曲の創作に勤しんでいた・・・というのが本当のところだったようです。 名前 コメント すべてのコメントを見る 14 ヴィヴァルディの『四季』という幻(後編) 口八丁の世渡り上手で一世を風靡したヴィヴァルディはまた大変な遊び人でもあり、世界各国を旅しては豪遊を繰り返していたそうですが晩年になって一気に人気が衰えると、自作品を叩き売り同然に売り払ってしまったためだともいわれています。 そのため実際にヴィヴァルディによって、これらの曲が書かれたのは1700年代初期でありながら、200年もの時を隔てた20世紀になってようやくその作品が日の目を見るなど、まだまだ未知の作品群がどことも知れず眠っているのではなかろうか。 そしてそれらが明るみに出揃った時には、あの大バッハも真っ青になるくらいの傑作の森が出来上がるかも、などといった夢を掻き立ててくれる作曲家でもあります。 ヴィヴァルディの特徴は、一見(一聴?)したところ似たような感じの曲が多い事で、そのため同じイタリア人で20世紀のオペラ作曲家であるダラピッコラなどは 「ヴィヴァルディは600もの協奏曲を創ったのではなく、一つの協奏曲を600回作り直したに過ぎぬ・・・云々」 などと批判していたようですが、こうした一面に頼った極論はまったくの的外れであり、実際に聴き比べてみれば似たような中にも、それぞれの特徴が浮かび上がってくるのは一目瞭然としています。 さてそうした訳で、何はともあれ 「これから、ヴィヴァルディを聴いてみようかなぁ・・・」 という人には、やはり何と言っても『四季』がお奨めでしょう。 オールドファンには 「『四季』といえば、イ・ムジチ!」 というのが定番なくらいに、このイタリアの合奏団が有名でしたが今では様々なディスクが出廻っているので、それぞれによる曲の解釈を聴き比べてみるのも一興でしょう。 派手なオーケストラ好みのワタクシなどは、イ・ムジチの小編成だけではどうにも物足りずにオーケストラの充実したモノを好んで聴いてますが、元々ヴィヴァルディのバロック時代はオケといっても室内アンサンブルに毛の生えたような程度の編成だけに、今風の大オーケストラであまりにガンガン鳴らし過ぎるのは、さすがにいただけませんが ┐(´ー`)┌ 名前 コメント すべてのコメントを見る 13 ヴィヴァルディの『四季』という幻(前編) かつてイギリスで行った 「世界一好きな曲」 とかいう人気投票で、ワタクシを含め恐らくは誰もが当然の如くにトップを飾ると予想した、ビートルズの数々のヒットナンバーを押し退け堂々トップに選出されたのが、ヴィヴァルディの『四季』でした。 それほどに有名であり、また人気も高い曲でありながら、実は正式には 『ヴィヴァルディの四季』 という曲は、音楽史には存在しません。 ご存じの人は多いでしょうが、念の為付け加えるなら今日 『ヴィヴァルディの四季』 と言われている曲は 『協奏曲集 《和声と創意への試み》op.8』 の中の第1曲《春》から第4曲《冬》までの4曲を抜粋して1曲の纏めたもので、これが今日では 『ヴァイオリン協奏曲集・四季』 として、飛び抜けて有名になっています。 ヴィヴァルディといえば、あの《音楽の父》と言われるJ.S.バッハ(以降バッハと記述)や、バッハと同年生まれのヘンデルの先輩に当たる人でもあり、バッハやヘンデルの作品(特に初期の物)には、このヴィヴァルディの影響が顕著に表れています。 また、コレルリの編み出した「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲形式)」を、今日のような一般向けの「協奏曲」の形式にまで昇華させた功績は大で、このために《協奏曲王》とも評されてもいます。 このヴィヴァルディという人は典型的な天才肌の人で、信じ難いがたいほどの驚異的なペースで作品を書き散らしていったのは有名で(3日で10曲を書き上げたというエピソードも)、得意の協奏曲などはその生涯に何曲創ったのかさえハッキリしないほど(現在、確認されているだけで400―500曲とも)と言われていますが、まことに残念な事にそのうちの多くの曲があちこちに散逸してしまった・・・とも言われています。 名前 コメント すべてのコメントを見る 12 「安物のウォッカ臭」などはいたしませんが・・・ 世に言う「四大ヴァイオリン協奏曲」とは ●ベートーヴェン『ニ長調』 = 王様 ●メンデルスゾーン『ホ短調』 = 女王 ●ブラームス『ニ長調』 ●チャイコフスキー『ニ長調』 (ドイツでは、チャイコフスキーの代わりにブルッフの『第1番・ト短調』が入り、全員ドイツ人で占めるそうです) です。 ちなみに、前回触れた「四大ピアノ協奏曲」はといえば ●ベートーヴェン『第5番・変ホ長調(皇帝)』 ●チャイコフスキー『第1番・変ロ短調』 ●グリーグ『イ短調』 ●シューマン『イ短調』 で、場合によってはベートーヴェンの『第5番(皇帝)』を別格官幣大社として棚上げし、ラフマニノフ『第2番・変ロ短調』が入る事もあります。 この2つをご覧の通り、両方にエントリーされているのはどちらも「王様」として扱われているベートーヴェンさんを別格とすると、実はこのチャイコフスキーさんのみなんですね。 モーツァルトもブラームスも達成していない、この「快挙」を達成しているところなどはさすがにエンターテイナー、チャイコさんの面目躍如といったところです。 ところでこうして並んだ曲を見てみると、さすがに古くから「四大協奏曲」と奉られ、長きに渡ってその地位は微動だにしないだけに、どれを思い浮かべても納得できそうな名作・傑作揃いですが、実はワタクシ的にはこの中で唯一 (そんなに良いかだろーか?) と若干の違和感が残ってしまうのが、このチャイコさんのヴァイオリン協奏曲なのです。 勿論、素晴らしい曲であるのは認めるに吝かではありませんが、果たしてあれだけ傑作群犇くオーダーの中から「四大」に入れるほどの傑作かとなると、もっと他に入れたくなりそうな曲が幾つか浮かんでしまうのですが。 とはいえ、やはり名作である事に異存はありません。 そして不思議な事に、この曲も前回紹介した『ピアノ協奏曲』と同様の、珍奇な運命を辿る事になります。 どうも、チャイコフスキーさんというお方は初演に運のない方なのか、この協奏曲も初演を依頼した教え子であるコチェークには早々に逃げられ、続いて友人の名ヴァイオリニスト・アウアーからも 「演奏不可能!」 とニベもなく断られた挙句、ようやくこの曲の真価を見抜いた名ヴァイオリニストのブロドスキーによって初演にこぎつけるも、何故か酷い悪評で迎えられる事になってしまいました。 中でも毒舌で有名だった、批評家の大御所ハンスリックからは 「安物のウォッカの臭みがプンプン漂ってくるような音楽であり、聴いているだけで気分が悪くなる・・・云々」 などと、ボロカスに酷評される始末でした。 この辺りは、やはり常に時代の遥かに先を行く天才ゆえの悲劇という感じも否めませんが、当時の感覚はともかくとしてワタクシ的には、それほど濃厚なロシア臭さは感じないんですがねー ヾ(* ー`)ノ 名前 コメント すべてのコメントを見る 11 世界一有名な(?)オープニングの曲といえば・・・ (後編) 「演奏不可能だね・・・全面的に書き直さなきゃとても使えないくらいにメチャクチャだな」 とかなんとかボロカスに扱き下ろされ、さすが温厚で鳴るチャイコさんもこの時ばかりは激怒し、部屋を飛び出していったと言われています。 もっとも、これは (先生をアっと言わせてやれ) というチャイコさんのお茶目な稚気に反し、蔑ろにされたと勘違いしたルービンシテインさんの狭量こそは残念ですが、あながちそうとばかりも攻められない点もあります。 実際に初稿の時のスコアは、現在世に出ているものとはかなり違っていてピアノの専門家の目から見れば、技術的にかなり演奏が困難な常識離れのした構成であったのは事実だったようです。 そうして先生の毒舌に激怒しながらも、その後冷静に改定を試みたところこそはチャイコさんの偉いところで、チャイコ様から依頼されハンス・フォン・ビューローの初演が評判を取るや、己の狭量を省みて世界中にこの曲を広めて歩く事に専念したルービンシテインさんの態度もまた「過ちを改めるに憚る事なかれ」で、遅まきながらもご立派といえましょう。 チャイコフスキーさんの音楽は、Classic界では「通俗的過ぎる」とか「芸術性がイマイチ」とかよく言われますが、ワタクシ的にはそういう戯言を並べてる人たちこそ聴き方がまだまだ浅いと言わざるを得ません。 表面的な通俗性にばかりに拘泥し、実はその音楽性の本質までじっくり掘り下げていないのではないか、と勘繰りたくもなります。 ワタクシの独断では構成などにはあまり捕われぬ、出来るだけ若い感性を持つうちに是非とも聴いて欲しい曲であり、またあのゴージャスな貴婦人のような音の世界には、Classic初心者でもすぐに魅入られるハズであろうと自信を持ってお奨めできます (*^0^*)ノ 名前 コメント すべてのコメントを見る 10 世界一有名な(?)オープニングの曲といえば・・・ (前編) 物事何かにつけて「第一印象」が大事である事は総てに共通する事でしょうが、音楽とて例外ではありません。 殊に30分を超えるような大作ともなれば、まずはオープニングからリスナーをしっかりと惹き付けてしまわない限り、その後にどんなドラマティックな展開が待っていようとも、そこまで聴かせる事は至難の技でしょう。 無論、そんな事は偉大なアーティストの皆様方は百も二百も承知の事ですから、印象的なオープニングの曲だけを数え上げていってもそれこそ枚挙に暇のないところですが、それらキラ星のような傑作群の中にあってもなお、ひときわ煌びやかな輝きを放ちつづけているのが、この曲ではないでしょうか。 クラシックに興味のない方でも、この曲のオープニングを聴いたことがないという人はまずいないでしょうし、これぞオープニングといわんばかりのあの華やかさは、ワタクシ的には古今東西のオープニングの中でも一、二を争う傑作に挙げたいところです。 かといって勿論、この曲の魅力は単にオープニングだけに止まるものではありません。 世に言われる 【四大ピアノ協奏曲】 に数えられるように、全編を通じてこのお方お得意の蕩けるような美しいメロディと、ウクライナ民謡の薫りをふんだんに盛り込んだ、まさに稀代のエンターテイナーの面目躍如を絵に描いたような感があります。 ところでこれだけの素晴らしい曲ですから、普段は臆病かつ病的なまでの小心者と言われたチャイコフスキーさんにしては珍しくも相当な自信を持っていたようですが、何故か案に相違してピアノの師匠でありまたチャイコさんの理解者でもあった、ルービンシテイン先生からは・・・ 名前 コメント すべてのコメントを見る 9 大バッハのオルガン(後編) ムフフフ ( ̄ー ̄ バッハさんといえば、多くのジャンルに渡ってそのジャンルの「聖書」と仰ぎ見られるような傑作を数多く遺していますが、代表作である『マタイ受難曲』を始めとした宗教音楽とともに、質・量ともに最も充実しているのがやはり専門分野であるオルガン作品で、その数はなんと400ー500曲にものぼるといわれています。 その中で他を圧して有名なのは、いうまでもなく『トッカータとフーガ 二短調 BWV565』で、クラシックを聴かない人にも「ディズニーのファンタジア」として良く知られています。 バッハさんのオルガンの代表作のように言われるこの作品に関して、実は 「ブクステフーデの、ある曲をそっくり真似たものである」 といったものから 「実はバッハの作品であることすら疑わしい」 などという見解(ライナーノーツなど)も出ていますが、敢えてこの曲にばかり拘る必要はないというのがワタクシの見解です。 なぜならば、キラ星の如きバッハのオルガン作品は知名度に捕われずとも、どれを聴いても『トッカータとフーガ 二短調 BWV565』にまったくヒケを取らぬ、名作揃いだからです。 さてバッハ弾きのオルガニストとなると、それこそ世界中に星の数ほどもいますが最も有名なのは、やはりドイツのヘルムート・ヴァルヒャでしょう。 なんと盲目でありながら難曲中の難曲揃いと言われるバッハの、あの450曲からのオーダーを総て暗譜してしまい最初にバッハのオルガン全集を完成させてしまった偉人として、その世界では知らぬものなき存在です。 ちなみに、ワタクシが最初に耳にしたのはフランスの女流・マリ=クレール・アランで、あのオルガン独特の音の拡がりを聴いた時には器楽ソロだけで演奏効果においてはオケにも対抗しうる、荘厳な響きを醸し出すオルガンの魅力の虜になった瞬間でもありました (ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・ォ・・ォ・・・・ 名前 コメント すべてのコメントを見る 8 大バッハのオルガン(前編) ムフフフ ( ̄ー ̄ クラシック界の2大巨頭といえば、ワタクシの頭には真っ先にモーツァルトとベートーヴェンが思い浮かびますが、実はこの2人に大きな影響を与えたJ.S.バッハさんこそは、後世の音楽家たちに最も大きな影響を齎した存在でもあり、故に『音楽の父』と呼ばれています(実は、このバッハさんの大先輩に当たるパレストリーナこそが『真の音楽の父』とする説もありますが、それに関しては別の機会に触れたいと思います) 今でこその「大バッハ」ですが、元々はオルガニストであり、主に教会でオルガンを弾いていたため作曲家=芸術家としては認知されず、ほぼ同時代に生きたヴィヴァルディやヘンデル、テレマン、或いは息子であるC.P.EバッハやJ.C.バッハといった作曲家に比べれば、殆んど無名といってもいい存在に過ぎませんでした。 若い頃から大変な勉強家であり、旅行好きのヴィヴァルディが各地で買いとってきた楽譜の払い下げを受けたり、兄秘蔵の楽譜を密かに拝借し夜中の月明かりを頼りに、総て暗記してしまったとか(これが後年の失明へと繋がります)、また尊敬するオルガニスト・ブクステフーデの演奏を聴くために往復100km)もの道程をものともせずに歩いていったという、まことに桁外れな健脚と情熱を垣間見せるエピソードを挙げていけば、それこそ枚挙に暇がありません。 多くの方がそうであるように、ワタクシもクラシックを聴き始めた10代の頃は「バッハ」と訊いただけでなんとなく難しそうなイメージが強く、どちらかといえば聴く前から敬遠しがちでした。 元々、オーケストラものを好む傾向のあったワタクシが最初に聴いたのは、ご多分に漏れず『ブランデンブルク協奏曲』であり、それぞれ異なる楽器が主役となるこの6つの協奏曲にすっかり魅せられたワタクシは、遅まきながら次第に他のジャンルにも目を向けるようになっていきます。 名前 コメント すべてのコメントを見る 7 モーツァルトで音を楽しむ(= ̄∇ ̄=)ニィ 「音楽はいかなる場合でも、楽しくなければなりません」 これは天才モーツァルト様の遺したお言葉ですが、まさに読んで字の如しでこれほど簡潔にして的確な表現はないでしょう。 「music」を「音楽」と訳した人のセンスはマコトにお見事としかいいようがありませんねぇ。 そう 「音を楽しむ」 これこそが音楽の真髄であり、クラシックといえど「音学」ではなく「音楽」である事が第一義であるのは、変わりはないハズなのです。 そしてモーツァルトさんの偉大なところは、そうした概念だけでは終わらず実際に 「音楽とは、こんなにも楽しいものである」 と、形ある作品として遺してくれた点です。 あの膨大なオーダーのどの曲を聴いても、殆んど例外なく楽しめてしまうところが、モーツァルトさんの音楽の最大の特徴であるといっても過言ではないと思われます。 とりわけ「楽しめる音」という点では、代表格の一つに挙げられそうなのがセレナード第9番ニ長調 k.320『ポストホルン』です。 《ポストホルン》とは、15世紀にフランス、ヴェネツィアなどで郵便制度が始まった時に、郵便配達人がその到着と出発を知らせるのに使っていた小型の曲型もしくは環状のホルンの事で、神童時代に父に連れられ演奏旅行をしていたモーツァルトさんが、天才の直感でこの時に耳にしたものを後に巧みに作品に採り入れました。 モーツァルトさんの多くの曲がそうであるように、プロローグ(アダージョ・マエストーソ)から圧倒的な音の魅力に惹き込まれてしまいますが、全編を通して目一杯の明るさの中にもそこはかとない哀愁漂うモーツァルトの作品群にあって、春の陽光のように聴いていて心がウキウキしてくるような楽しさ。 殊に、第六楽章(メヌエット・トリオ・第二トリオ)でのポストホルンの音色は、美女の微笑みを連想させる美の極致と言えましょう。 美女の微笑みは儚い、されどモーツァルトさんの微笑みは永遠なのです (*^m^*) ムフッ 名前 コメント すべてのコメントを見る 6 音楽の神様・モーツァルト (*^ー°v モーツァルトの『セレナード第13番ト長調k.525』 こう訊いて直ぐにピンと来る人は、かなりのクラシックファンかモーツァルトファンくらいのものでしょう。 しかし『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』と言い方を換えれば、知っていると答える人はかなり増えるのではないでしょうか。 それでもまだまだこう訊いても、クラシックファンでない人は「知らない」と答える人が大部分でしょうが、実際にこの曲のオープニングを聴いてみれば、普段はクラシックに縁のない人でもおそらく一度も耳にした事のない人は、まずいないだろうと思われます。 クラシック界随一の有名曲のデパート・モーツァルトさんの、各ジャンルにキラ星の如く犇く名作傑作群の中でも、知名度では一、二を争う曲と言って過言ではないでしょう。 《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》とは、ドイツ語で「小さな夜の曲(小夜曲)」といったような意味らしいですが、あの一度聴いただけで忘れ難い印象深いオープニングから、あっという間にモーツァルトさん独特の世界に惹き込まれてしまいます。 全4楽章の構成ながら、第一楽章「アレグロ」があまりにも有名すぎるために、逆に第一楽章しか知らないという人も結構いるようですが、続く第二楽章の「ロマンスーアンダンテ」も独特の甘いメロディで、ファンが多いようです。 ここまで聴いただけでも、すっかり頬が綻んでしまいそうな素適な旋律の展開に圧倒されてしまいがちですが、第三楽章「メヌエットーアレグレット」を挟んでフィナーレの「ロンドーアレグロ」なども、いかにもモーツァルトらしい煌びやかな輝きを放っていて、全曲を通して聴いてこそこの曲の本当の魅力がわかるというものでしょう。 言うまでもないことですが、この曲に限らずクラシックというのは単なるフィーリングだけではなく、音楽的な構成も重要な要素であるため、ワタクシ自身は特定の楽章だけを切り取った「摘み食い」はしたことがありません。 どんな曲でも全曲を通して聴いてこそ、その真価が判断できるという見解を取ります。 若干35歳という惜しまれる夭逝ながら、天才的な筆の速さで殆どありとあらゆるジャンルに数々の傑作を遺したモーツァルトさんですが、セレナードはオペラと並んで最も得意分野だったと言われます。 そういった点からも、この曲などはモーツァルト入門にはピッタリの曲と言えるでしょう ☆ヾ( ̄ー ̄ ) 名前 コメント すべてのコメントを見る 5 田園を満喫する (^ー^) 交響曲第6番《田園》といえば、専門家の間ではベートーヴェンの交響曲中(いわゆる「傑作の森」に入る前に書かれた『第1番』と『第2番』を除き)では 「芸術性において一段低い」 と評価されています。 素人のワタクシには専門的なことはわかりませんが、ほぼ同時進行で書かれた《運命》などと比べても、形式的にはかなり型破りなところはあるものの (はたして、どこがどう一段低いの?) とクレームを付けたくなってくるほど、愛すべき名曲であります。 殊にこの時期は、宿痾となっていた耳疾がいよいよ進行し、人知れず苦悩していたというバックボーンを考え併せるのなら、あるいは自らに降りかかる運命との戦いを直截的に表現した『第5番』以上に、この《田園》にこそベートーヴェンの真骨頂である精神性の深さを見出す事が出来るのかもしれません。 とりわけ、既に殆んど聴こえかったのであろう耳をそれでも真摯に傾け、或いは心の内なる耳に記録し見事なまでに忠実に再現された小鳥の囀りや木々の囁き、小川のせせらぎなどは、日課になっていた田園散歩が興が乗れば朝から夜中にまで及ぶという「自然人・ベートーヴェン」の面目躍如たるものがあり、心を打たれずにはおきませんね (^-^) それゆえに大衆性ゆえの有難味のなさ、といった安易な図式に捕われず、野性のミューズが紡ぎだしたやすらぎの前に素直に跪き、酔いしれてみたいものです (*゜‐゜)ぼぉー・・ 名前 コメント すべてのコメントを見る 4 ベートーヴェンの『第5』を棚卸しする ( ̄(エ) ̄)ノ ベートーヴェンの『第5』といえば、有名に過ぎる「運命」というニックネームであまりにもメジャーになりすぎて、不当にもすっかりミーハー扱いされてしまっていますね。 その上に、素材があまりにもギチギチに凝縮されすぎて1分の隙もないので息が詰まると敬遠されがちのきらいもあるようです。 かくいうこのワタクシ自身もクラシックを聴きかじり始めた17くらいの時に初めてこの曲を聴いた時は、やはりプロローグの「運命の動機」といわれるあの有名な部分ばかりが印象強く、到底この曲の真髄に迫ると言うには程遠いミーハーなリスナー群の末席を汚していたロクデナシの一人でしたが、次いで本格的にこの道にのめり込んでいく事になった20台後半にして、多少なりとも(←あくまで多少なりともと自認してます)ようやくこの深遠なる芸術の真髄に迫る事が出来たのではないかと思えたものです (^。^;) あの張り詰めたような緊迫感の漂う第一楽章。王道を行くが如しの格調高い風格漂う第二楽章。フィナーレへ向けて徐々に高揚して行く第3楽章から「天才的な橋渡し」といわれる第四楽章への、あのなんともいえぬ美しい音の流れ。そして『第9』の歓喜の大爆発へのストーリーを予見しているかのような最終第四楽章まで、一音符たりとも無駄のないようなあの完璧さは、やはり何度聴き直しても指折りの傑作と言い切って間違いないでしょう。 何故に人は『第5』をこれほどまでに意識するのでしょうかね? 「大好きな『第5』!」 と、照れずに胸張って堂々と言えば良いのになぁ (^-^)♪ 名前 コメント すべてのコメントを見る 3 4chの趣旨(後編) Ψ(ーωー)Ψ かつて濫読したあちこちの書物からの記憶を頼りにある程度創作で補っている部分もあり、またプロの評論家でもないワタクシが何でたかが息抜きのお遊びに過ぎない掲示板に意見を書き込むのに、一々専門的な文献に出典を求めながら検証していかなければいけないのか、とトコトン愛想が尽きたものです。 が、考えてみればこの4chに毎回書いている程度の知識というのは、いわゆるオタクと言われるようなマニアならば凡そ誰でもが知っている程度のものだから、或いは専門知識を有する掲示板辺りのユーザーには退屈な内容に思えたかもしれず、ワタクシ自身も対象を間違えたかといった反省はあります(そんなに気に入らなければ、無視して来なければいいのにという疑問は、依然として拭いきれませんが・・・) かねがね不特定多数のユーザーを対象にしたCaféのこのHPに、何故マニアックなclassicが出てくるのかという疑問を抱いている方はいるでしょうが、実はこの趣旨はこうした経緯があってのもので、なんとなくClassicに対する興味だけは漠然と持ちながらも、今ひとつ踏み切れないような人にこそ読んで貰いたいというのがワタクシの狙いどころといえます。 とはいえワタクシも趣味人の端くれとして、興味のない人にまで無理矢理に趣味を押し付けるのは最も愚かしい行為だという自覚はありますので、基本的には作曲家の生き様に多くのボリュームを割くなど、Classicに対して余り知識のない人が読んでも「読み物」として面白く感じられるよう心掛けており、まったくのデタラメでは決してありませんが、あくまで一ファンの創作文であるため検証に重きを置いている訳ではなく、部分的に多少は事実に反するようなところがあろうかと思われます。 したがって、マニアと言われるような人のカタルシスを満足させるような内容では決してない事を、予めご了承いただきたいと思います。 名前 コメント すべてのコメントを見る 2 4chの趣旨(中編) (`Д´)y-~~ちっ 嫌いな作曲家の殆んどないワタクシにも、ごく稀に良くわからない作曲家が存在します。 ある有名作曲家の代表作と言われる2つの作品を聴いてサッパリその良さがわからなかった時に、その時の気分を率直に 「××××がわからない」 という板を立て 「一体、これのどこがよいのやら・・・」 といった趣旨の事を書いた時は、その作曲家の熱心なファン(というか信者と言った方が正確か)と思える連中から轟々たる非難のレスが続きました。 無論どんな意見にせよ反論は自由であるし、そうした議論を通して互いが知識を高めあっていくのは悪い事ではないでしょうが、この時のは殆んどが反論というよりは誹謗中傷ばかりだった。 最初のうちは全体の2割くらいは 「実は自分も、あれだけはよくわからん」 などと同意する人や、その作曲家のファンでありながらワタクシの趣旨にも部分的に共感を持ってくれるという人も居たのですが、次第に2ちゃんねる(実は2ちゃんねるには、物凄い知識を持った人が少なくありませんが)並みの公衆便所の落書きも同然といった、冷静さを書いたヒステリックな誹謗中傷の類が増えていくにつれ、残念ながら賛同派の方は櫛の歯が欠けるように退いて行ってしまいます。 例によって 「オマエのIPを特定出来るんだぞ~!」 などという脅しもありましたが、当時からそんな事は出来っこない愚かなゴマメの歯軋りに過ぎない事は百も二百も承知していたワタクシが、そんな幼稚な脅しに爪の先ほども驚く訳もないですが、時折出てくるマトモな反論に対しては真面目にレスを還すと論理的な反論の出来ない無関係な輩が何人も出てきては苦し紛れに 「削除依頼出すぞー!」 とワーッと押し寄せてくると言う始末で、あまりの程度の酷さに心底ウンザリさせられたものでした。 知識のある者も性質が悪く、ワタクシの書いたものに対してテーマの本質ではないところに重箱の隅を穿り回すように 「指摘されているような事実は正しく検証されていない・・・デタラメを書くな・・・」 といった調子で、自分の知らない知識が出てくると 「出典を明らかにしろ」 などと、しつこく迫ってくる始末です。 名前 コメント すべてのコメントを見る 1 4chの趣旨(前編) (´ー`)y━~ 実生活においても交友範囲が極端に狭いワタクシの事で、周囲にClassic音楽(以下Classicと略)のファンは殆んどいません。 元々がポップスやジャズなどに比べ、Classicファンの人口はかなり限定されてくるのでしょうから無理からぬところでしょうが、ワタクシ自身がカタルシスを得られるくらいの同等の知識を持った友人となると、まったく皆無というのが現実です。 インターネットを始めた初期の頃は、やはり全国で同じワタクシと同様の飢餓状態に置かれているような、Classicファンとの遣り取りに期待しました。 まず有名サイトに無料HPを創り、自分自身のClassicに対する見解を書いていたものの、まったくと言ってもよいくらいに反響がありませんでした。 そこで、有名サイトの掲示板に進出を試みます。 ご存じの通り「YAHOO!」など有名サイトにはカテゴリ別に膨大な板があり、Classicにおいてもそれは例外ではありません。 無精者のワタクシは、これらの乱立しているトピックに目を通すのを面倒に感じたため、自ら立て続けに新規の板を立てていく事にしました。 最初に立てようとした「YAHOO!」の掲示板が件数制限で立てられず、「infoseek」に立ててみたものの期待したほどの反響がなく、しばらく待ってからようやく空きの出来た「YAHOO!」に何本かを纏めて立ててみると、さすがにかなりのレスが還って来ました。 しかもその多くが相当のマニアで、中にはワタクシなどは舌を巻かざるを得ないくらいの評論家バダシやマニアックな御仁も少なくなく、やはり全国には同じような同好の士を求めている人が居るものだと感心させられたものです。 数多くのトピックの中には、かなり当たったものから殆んどレスのないままに消滅してしまったものまで色々ありましたが、どんな愛着のあるトピックにしろ一定期間レスがつかず落ちそうになると無意味な投稿をしてトピックの延命を図る「無駄アゲ」は一切しない主義を貫きました。 名前 コメント すべてのコメントを見る -