約 2,126,927 件
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/201.html
S.A.コンドラーチェフ(Кондратьев, С.А./1896-1970) 彼は作曲もした音楽民俗学者でペテルブルク大学の物理数学学科を卒業している。1923年、ロシア地理学協会のP.K.コズロフの探検隊に加わり、1924年まで調査を行った。モンゴル側の典籍委員会より招待状を得て1926年から再びウランバートルに滞在し、以降1930年までモンゴルで調査を行っている。当時典籍委員会にいたジャムツァラーノの協力を得、ウラディミールツォフとも親交があった。O’.ロブサンやM.ドガルジャブといったウランバートルにいた優れた歌い手をインフォーマントとし、録音も行った。この録音はサンクト・ペテルブルクのロシア科学アカデミー東洋学研究所に保管されている。1923年の滞在中から積極的に成果を発表し、これが評価され早くも1925年にはソ連国立音楽学研究所研究員に選出されている 。彼の死後に科学アカデミーに保管されていたこれらの調査の成果は1970年にまとめて『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』として出版された。 <参考> Кондратьев, С.А. Музыка Монгольского Эпоса и Песни,Москва, 1970.
https://w.atwiki.jp/without_statement/pages/71.html
岡崎乾二郎の認識 ー 抽象の力 ー 現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜 概要 2017.04.22-2017.06.11 豊田市美術館 監修 岡崎乾二郎 参加作家 坂田一男 岸田劉生 恩地孝四郎 吉原治良 斎藤義重 長谷川三郎 瑛九 高松次郎 ヒルマ・アフ・クリント フランシス・ピカビア マルセル・デュシャン テオ・ファン・ドゥースブルフ ゾフィー・トイバー=アルプ ジャン・アルプ エドワード・ワズワース ダヴィッド・ブルリューク 村山知義 ハンス・アルプ コンスタンティン・ブランクーシ 村山知義 フェルナン・レジェ ジョルジュ・モランディ 熊谷守一 田中敦子 展示作品 ダヴィッド・ブルリューク《家族の肖像》1921年 兵庫県立美術館蔵 村山知義《無題(爆発/Fau)》1923年 世田谷美術館蔵 ハンス・アルプ「7アルパーデン」1923年 豊田市美術館蔵 コンスタンティン・ブランクーシ《若い男のトルソ II》1924/1973年鋳造 豊田市美術館蔵 村山知義《コンストルクチオン》1925年 東京国立近代美術館蔵 フェルナン・レジェ《緑の背景のコンポジション(葉のあるコンポジション)》1931年 愛知県美術館蔵 ジョルジュ・モランディ《静物》1954年 個人蔵 熊谷守一《シヂミ蝶》1958年 豊田市美術館蔵 田中敦子《Work 1963 B》1963年 豊田市美術館蔵 ゾフィー・トイバー=アルプ《青いフォルム》 ジャン・アルプ《灰色の上の黒い形態の星座》 岸田劉生《鯰坊主》 リンク 豊田市美術館 特設サイト タグ【2017年4月 2017年5月 2017年6月 お 展示 愛知 豊田市美術館】
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/2197.html
旧名鉄美濃駅 きゅうめいてつみのえき 岐阜県美濃市にある駅の跡。 平成11年3月に、名鉄美濃町線美濃・新関間の路線が廃止され廃駅となった。 国登録有形文化財として保存され、駅舎内は電車に関するパネルが展示されている。 また、美濃町線にゆかりのある「モ512号」「モ601号」「モ593号」の路面電車3両が静態保存されている。 所在地 岐阜県美濃市広岡町2926-4 料金 無料 時間 9:00~17:00(10月から3月は16:30まで) 地図 旧名鉄美濃町線美濃駅本屋 竣工:1923年(大正12年) 構造:木造 屋根形状:切妻 屋根材:鉄板葺 外壁:下見板張 建築面積:136m2 旧名鉄美濃町線美濃駅プラットホーム及び線路 1923年(大正12年):美濃電気軌道株式会社新美濃駅として建てられる。 関連項目 2005年9月全国町並みゼミ美濃 建造物一覧 歴史的建造物一覧 近代建築 タグ 2005年9月18日 国登録有形文化財 大正時代 岐阜県 廃線 歴史 歴史的建造物 美濃市 駅舎建築
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/646.html
震災手形(しんさいてがた)は、関東大震災のため支払いができなくなった手形のこと。往時の報道では震手と略称された。特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形のうち、被災地に関わるもののみが緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引することで補償の対象となり、こう呼ばれる。再割引の際にはスタンプを捺して識別した。但し、混乱に乗じて、折からの不況で不良債権となったものも大量に紛れ込んだ。 起因 1923年9月1日に起こった関東大震災は当時の日本銀行の推計で45.7億円の損害が出た。当時の国家予算が15億円であった事を見ても、甚大な被害であることが判る。このため被害を受けた企業が支払いが出来なくなる事態を想定して、9月7日緊急勅令によるモラトリアムが出され、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限を1か月間猶予した。続いて、割引手形がモラトリアム終了後にも決済不能となって経済活動に悪影響が生じる懸念に対応し、これらの手形に流動性を付与するため、9月29日に震災手形割引損失補償令が出された。被災地の東京・横浜で営業していた企業などが発行したもので、震災以前に割引手形となっていたものを対象として日本銀行が再割引に応じて現金を供給した。支払いに2年間の猶予を与え、日本銀行が損失を蒙った場合は政府が1億円まで補償するという内容であった。 根拠法・法令等 私法上の金銭債務の支払延期及手形の権利保存行為の期間延長に関する件(モラトリアム令) 大正12年勅令第404号 1923年9月7日発布 特定地域において9月1日から30日を支払期限とする債務について、支払い期限を30日延長する。 日本銀行震災手形割引損失補償令 大正12年勅令第424号、1923年9月23日発布 特定地域で振り出された手形で1923年9月1日(関東大震災当日)以前に銀行が割引き、期限が同30日までの物は、日本銀行が再割引に応じる。 再割引した手形の決済期限は1925年9月30日とする。 これらの手形の処理で日本銀行が損失を被った場合は1億円を限りに政府が補償する。 1925年3月30日公布の法律第35号で期限を1926年9月30日まで繰り延べ。 1926年3月27日公布の法律第33号で期限を1927年9月30日まで繰り延べ。 震災手形関係二法 震災手形善後処理法と震災手形損失補償公債法を合わせて言い、1927年1月26日に第52回帝国議会に上程された。この処理を巡る政争から金融不安が高まり昭和金融恐慌が発生した。 震災手形善後処理法 1927年3月30日施行 日本銀行震災手形割引損失補償令で日本銀行が割引いた手形を所有する銀行に2億700万円を限度に国債を貸し付け、10年割賦で返済を行う。 震災手形損失補償公債法 1927年3月30日施行 日本銀行が震災手形の処理で被った損害については1億円を限度に国債の形で政府が補償する。 選別 だが、実際には持ち込まれた手形のうち、震災を原因として真に困窮に陥ったものについては「リスクが大きい」として排除したり、追加の担保の差し入れを求めるなどの選別が行われたとの指摘がある。震災によって一挙に財産や担保となる物件を喪なった場合には直ちに金策を巡らす事が困難で、それゆえにモラトリアムの対象とすべきところが、却って担保が無くリスクの高い案件と見なされて排除された。一方で一応の担保を備え形式を整えた手形が「安全」と見なされ震災手形の扱いを受けた。この中には鈴木商店関連など第一次世界大戦後の投機の失敗で決済不能となった手形が大量に紛れ込み、期限である1924年3月までに日本銀行が行った再割引は補償限度を超える4億3000万円以上になった。 処理 当初は、凡そ2年もあれば手形の決済がほぼ完了するものと予想し、猶予期限を2年とした。しかし、前述の様に、震災を直接の原因として真に危険なものは避けられ、安全・確実と見られる手形が受け容れられると共に、形式上は担保も備えているが実際は投機の失敗で支払いの見込みの無い悪質な手形も含まれた。前者は2年の期限を待たず早々に決済が済んだが、後者は期限が到来しても処理が進まず2億円を超える膨大な不良債権が残された。已む無く1年の期限延長を2回繰り返して1927年9月までに延長したものの、なお処理が進まず、1927年初頭に10年で償還する国債を発行して損失を処理する震災手形関係二法が提出された。この頃には不良債権のかなりの部分が台湾銀行の所有するものであり、その要因が鈴木商店への多額の貸付の焦げ付きであると囁かれていた。法案は台湾銀行の不良債権の実態を調べて根本的に整理するという付帯条件が付けられた。 影響 経済全般をみても第一次世界大戦終結後の在庫の大量滞留によって引き起こされた不況がようやく改善された矢先の震災によって、必要以上の緊急輸入を行ったために再度の在庫の大量滞留が発生して復興景気の効果を相殺し、結果的に震災手形の不良債権化の要因の一つとなった。こうした中で震災手形の処理方法を巡る政争をきっかけにして1927年の昭和金融恐慌が発生する事になった。 参考文献 『日銀の手形再割引 一億円を限り損失補償 緊急勅令愈々公布さる』1923年9月28日付 大阪毎日新聞 - 補償額を1億円とした根拠と、金融膨張の懸念に対する蔵相の見解が見える。 関連項目 昭和金融恐慌 関東大震災 手形割引 モラル・ハザード 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 20 08。
https://w.atwiki.jp/truck8/pages/25.html
青田買い候補一覧 軍事、経済、研究、政治など各分野で必要そうな人材を追加していきましょう。 青田に限らず、コネとして有用であれば構いません。 実業家・企業経営者(日本) 斉藤 知一郎 大日本製紙創業者 1889年生 1914年当時、機械による製茶業を営んでいるが1920年に工場が焼け、製紙の仲買に転向する。 堤 康次郎 西部グループ創業者 1889年生 1915年に土地売買開始、それまでは大隈重信の主催する政治評論雑誌の社長や真珠の養殖などをしていたが、全く上手くいっていなかった模様。 当初は資金が足りず、出資してもらった1万5千円の札束の間に新聞紙を挟んで交渉に臨んだなど わりとろくでもないエピソードが多い人物だが、交友関係の広さと交渉能力の高さは窺える。 西島 廣蔵 共和(輪ゴムの会社)創業者 1889年生 工場設立が1923年。 小倉 康臣 ヤマト運輸創業者 1889年生 1919年頃まで東京で八百屋を経営していたらしい。宅急便を始めたのは息子の方。 山岡 孫吉 ヤンマー創業者 1888年生 中古エンジンの修理販売を行う山岡発動機工作所を経営中。エンジンメーカーになるのは1921年から。 大戦不況になったとき商売を畳もうとするので、その時に取り込むと良さそう。 遠藤斉治朗 貝印創業者 1888年生 岐阜の関市で初代が創業したばかり。会社化するのは1920年から。 今村善次郎 セメダイン創業者 1888年生 創業は1923年から。プラモ業界的にセメダインの存在はとても重要。
https://w.atwiki.jp/yaruoaeiou/pages/42.html
ドイツ内戦(ドイツないせん)は、1918年、当時のエーベルト政権が中央集権体制を支持したことに、南部のカトリック系住民や共産主義者が反発し勃発したドイツの内戦。 ドイツ内戦 時 1918年 - 進行中 場所 ドイツ 結果 失敗国家(進行中) 衝突した勢力 (1918-1919)ヴァイマル共和国 ハノーファー共和国ザクセン共和国 スパルタクス団バイエルン・レーテ共和国 (1919-1921)ヴァイマル共和国 バイエルン王国ヘッセンバーデンヴュルテンベルク ドイツ共産党 (1921-1923)ヴァイマル共和国 ザクセン共和国バイエルン王国ヘッセン南部同盟自由ドイツ ドイツ共産党ナチスデンマークポーランド第二共和国 (1923-1926)自由ドイツ 南部同盟ヴァイマル共和国ナチス ドイツ共産党ポーランド第二共和国 (1926-現在)ドイツ共産党 ナチス デンマークポーランド第二共和国 上三段は、便宜上左から「暫定政府に近い勢力」「地方を支配する勢力」「共産主義勢力・その他」の意。但し、この三派に分かれて争っているという意味ではない。例えばスパルタクス団はバイエルン・レーテ共和国と国境紛争を行っていた。 前史 内戦前夜 ヴィルヘルム2世は独裁体制のもと、ブランデンブルクなどの北部・プロテスタント地域を重視し、バイエルンなどの南部・カトリック地域を軽視した政治運営を行った。 経済的にも、北部と南部の間で所得格差も格段に広がった。 また、第二次世界大戦がドイツの窮乏化を加速させた。終戦後エーベルト政権が発足、エーベルト政権は中央集権体制を継続した。 それに対し南部のカトリック系住民は再独立を求め、共産主義者は共産主義国家の樹立を求めて武装、反政府勢力となった。 戦闘の推移 内戦勃発 1918年から反政府勢力は、諸都市を次々と勢力下に治め、1919年にはヴァイマル共和国の支配域も北部のみとなった。 スパルタクス団は1920年、武装勢力4派とドイツ共産党(KPD)を結成、ヴァイマル共和国もハノーファー共和国を傘下に入れ内戦が激化した。 また、1921年2月にオペルンがポーランド軍の支援を受けた反体制派の自由ドイツの攻勢によって陥落した。 泥沼化 4月には隣国デンマークが停戦協議を持ちかけたが失敗し、南シュレースヴィヒとホルシュタインの奪回を目的として参戦。 また、同時期、バーデンとヴュルテンベルクが南部同盟を結成した。 1921年7月、ザクセン共和国の樹立が宣言される。その頃、内戦の泥沼の中で南部にて大ドイツ主義の「国家社会主義ドイツ労働者党」(以下ナチス)が勢力を急速に伸ばした。 ナチスは治安の悪化した市街地などで、自警団的な役割を果たす集団として国民の支持を拡大、人気と武力を持ってバイエルン南部を制圧した。 ナチスは自主的に学校教育を行うなど、福祉的な一面も持つが、教育は反共産主義を多分に取り入れ、生徒を極右思想に染める事を意図したものであった。 10月にはナチスがミュンヘンを占領、これ以降バイエルン王国は急激に崩壊していった。 自由ドイツの台頭と衰退 1922年1月、自由ドイツはブレスラウを陥落させた。 1922年3月、ナチスがミュンヘンを平定した。同時期に自由ドイツがザクセン共和国を滅ぼし、ドイツ共産党がヘッセンを壊滅させた。 1923年1月、自由ドイツがベルリンを陥落させ、暫定政権を樹立した。しかしヴァイマル共和国は未だ抵抗していた。 1923年2月28日、ハンブルクにてフリードリヒ・エーベルトが亡くなり、ヴァイマル共和国は崩壊し始めた。 1923年5月頃から、自由ドイツは内紛により急激に瓦解、ポーランドは援助先として新たにナチスを選んだ。 1925年6月、南部同盟が消滅。同時期には、デンマークが再び介入した。 共産党政権 1926年3月、ドイツ共産党がベルリンを陥落させ、政権を掌握する。
https://w.atwiki.jp/cthulhu/pages/25.html
8世紀 730年 19世紀 188X年 189x年 1890年 1898年 20世紀 1908年 1909年 1923年 1924年 1926年 1929年 193X年 1937年 1971年 1972年 1988年 21世紀 2006年 タグ 年表 歴史
https://w.atwiki.jp/orikandatabase/pages/117.html
基本データ 艦級:天城型改装空母(起工当初は天城型巡洋戦艦)1番艦(未成) 建造場所:横須賀海軍工廠 起工:1921年?月?日 喪失:1923年9月1日震災により損傷 廃棄決定:1923年11月2日 備考:廃艦後、船体構造の一部を用いて製造された浮桟橋が横須賀海軍工廠、米軍横須賀海軍施設10-11号バースを経て、JMU横浜事業所磯子工場にて現役で使用されている。 実装状況:2015年9月3日現在未実装 史実情報 オリジナル艦娘の状況 巡洋戦艦や正規空母いずれの姿でも描かれているが、基本的には赤城に準じた姿で描かれている。 http //www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium illust_id=42875696 http //www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium illust_id=49585974 また、中にはその後浮き桟橋となった姿を描いている作品も存在する。 http //www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium illust_id=52329261 同型艦 天城型 天城(二代)(未成) - 赤城(二代)(空母として竣工) - 愛宕(二代)(未成) - 高雄(三代) 関連項目 天城(初代)? - 先代。日本海軍スループ。 天城(三代) - 次代。日本海軍雲龍型空母。 長鯨丸?、長鯨(二代) - 本艦も空母への改装が行われていれば長鯨への改称が予定されていた。 外部リンク Wikipediaにおける該当記事 名前
https://w.atwiki.jp/peopleonstamps/pages/50.html
Warren Gamaliel Harding (1865/11/2 - 1923/8/2) 米国第29代大統領 最初の切手/出身国最初の切手(1923年、米国発行) 米国 1923. 9. 1 ハーディング追悼 2c 凹 黒 肖像 米国 1925. . 普通切手 1.5c 凹 黄茶 肖像 米国 1930. . 普通切手 1.5c 凹 茶 肖像 米国 1938. . 普通切手 $2 凹 黄緑、黒 肖像
https://w.atwiki.jp/qtrain/pages/654.html
1292 (国鉄1290形蒸気機関車) 埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47番 鉄道博物館(MAP) 写真提供 刑事長:撮影 2020/12/09 最新の情報提供 刑事長:情報更新 2021/06/10 現在の状況 静態保存 管理者 鉄道博物館 協力募集 博物館独自の会員組織、teppa倶楽部が会員募集をしている 備考:発注は鉄道院が行っており、鉄道院の機番No.25が与えられていた(*1) 日本最初の私鉄・日本鉄道が建設工事用に準備した車両で、1881年マニング・ワードル社(イギリス)製。埼玉県川口町(現川口市)の善光寺裏手で荒川からの陸揚げと組み立てが行われたことから「善光号」と命名(なお陸揚げ直前、輸送に使用したはしけが重みで沈没、善光寺の檀家が総出で河中から引き上げたという余談がある)。機番は鉄道院のものをそのまま使用(*1参照)。1882年の川口~熊谷間の工事起工式に、工事列車をけん引したという記録が残る。1883年開業後しばらくは列車けん引にも充当されていたが、その後東北線建設に従事。1893年に機番を3(M3/3形)に、1898年には甲1(甲:工事用の意 *2)に。1906年に鉄道院に編入された後に、田端区で入換え機となった記録が残っている。1908年には機関車が不足していた青梅鉄道(現青梅線)に貸し出されている。1909年の称号規定改定で1290形1292に。(*3)1921年、千葉県営鉄道(現東武野田線)に貸し出出し。1923年に返却され、廃車。廃車後は東京鉄道教習所や交通博物館で保存され、2007年現在地に。 *1…日本鉄道は半官半民の会社で、建設や路線運営に鉄道院(官有鉄道)が関わっていたために鉄道院の機番が付けられていた *2…本線けん引機の1(後の鉄道院5312)、入換用機の乙1(後の鉄道院10形14)と合わせて「3機の1号機」が在籍 *3…1875年に同型機が2両、鉄道院によって輸入されており、称号規定改定で1290形1290、1291となったことから、「続番となる」形になった