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百詩篇第5巻 56番 原文 Par le trespas du1 tresvieillart2 pontife3, Sera esleu Romain4 de5 bon aage6 Qu’il7 sera dict que le siege8 debiffe9, Et song10 tiendra11 de picquant ouuraige12. 異文 (1) du d’vn 1665 (2) tresvieillart 1557U 1557B 1568A 1568B 1568I 1772Ri ttesuieillart 1568C, tres vieillart 1589PV 1590SJ, tresvieillard 1588Rf 1589M, tres-vieillard 1590Ro 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611B 1630Ma 1644 1649Xa 1649Ca 1650Ri 1650Le 1668 1672 1712Guy 1716, tres vieillard 1589Rg 1611A 1628 1653 1665 1981EB, tres viellard 1627 (3) pontife Pontife 1588-89 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1630Ma 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1672 1712Guy 1716 1840 1981EB, P ontife [2 mots] 1665 (4) Romain vn Romain 1611B, vn romain 1981EB (5) de de 1588-89 (6) aage aâge 1590SJ, âage 1772Ri (7) Qu’il Qui 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1630Ma 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1672 1712Guy 1716 1840 1981EB (8) siege Siege 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668 1712Guy (9) debiffe de biffe 1590Ro, de Biffe 1712Guy (10) song 1557U 1716 1840 long T.A.Eds. (sauf l’on 1589Rg) (11) tiendra tiendaa 1590Ro (12) ouuraige 1557U 1557B 1590SJ 1600 1668 ouurage T.A.Eds.(sauf ouraige 1568A 1590Ro, outrage 1588-89, courage 1672) 校訂 2行目 Romain をブリューノ・プテ=ジラールは le Romain としている。 4行目 song は long の誤りだろう。ただし、ピーター・ラメジャラーが原文自体を long にしているのは不適切。ラメジャラー以外の多くの論者は1557Uを底本にしていないため、当然 long を採用しており、異文の存在を認識していない。 日本語訳 非常に高齢の教皇の逝去により、 適齢のローマ人が選ばれるだろう。 彼はその座を弱体化させたと言われるだろうが、 長く(その地位を)保つだろう、辛辣な企てによって。 訳について 1行目 tres vieillart の vieillart (vieillard)は現代では名詞としてのみ使われるが、中期フランス語では形容詞としても使われた(*1)。 4行目直訳は「そして(=それなのに)長く保つだろう、そして辛辣な企てによって」となる(ouvrage は意味する幅が広いので「企て」以外にも色々な訳語がありうる)。4行目冒頭の et は順接ではなく対立を導く用法だろうから、3行目に逆接として付けたが、後半の et は処理が難しい。長く保てる根拠としての補足説明とも取れるし、ここで話を区切って「長く保つことになるだろう。(その後)辛辣な企てによって(退位に追い込まれる)」という意味にも取れる。 既存の訳についてコメントしておく。 大乗訳について。 3行目までは問題ない。1行目 「たいへん老いた高位聖職者の死で」(*2)も、直訳としてはむしろ正しい。当「大事典」では、これを Pontife romain (ローマの司教・高位聖職者)すなわち教皇の意味に理解しているピーター・ラメジャラー、リチャード・シーバースらの読み方を踏襲して、「教皇」と訳出している。 4行目「そして長く生き ものすごい勇気をだすだろう」は不適切。前半は単に長生きするということではなく、地位を保つ(tiendra tenir)ということを述べている。後半は ouvrage が courage になっている底本に基づいたためだろうから誤訳とは言えないが、現在ではこの異文を支持すべき理由はないだろう。 山根訳について。 1行目 「大変に高齢の法王が歿し 健全な年齢のカトリック教徒が選出されよう」(*3)は、なぜか原文の1、2行目がまとめて1行目として訳されている。なお、原文2行目の Romain には「ローマ・カトリックの」という意味もあるので、「カトリック教徒」は可能な訳。 3・4行目「しかし彼は粒粒辛苦/長期にわたってその座を保持するだろう」は、原文4行目が2分割されたもの。原文の1・2行目を1行にまとめた辻褄あわせだろうが、なぜこのような訳し方になったのかは不明。 信奉者側の見解 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は「意味も単語も平易」としか述べていなかった(*4)。 バルタザール・ギノー(1712年)は、将来、高齢の教皇の後に適齢の教皇が即位する予言という、そのまま敷衍したような解釈をつけていた(*5)。 その後、20世紀以前にはこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャン、D.D.、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォードの著書には載っていない。 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は20世紀のうちに現れる偉大な教皇についての予言と解釈していた(*6)。 アンドレ・ラモン(1943年)は第二次世界大戦後の教皇選挙についてと解釈した(*7)。なお、M・ド・フォンブリュヌ、ラモンの両名は1行目の trespas を décès と書き換えている。意味はどちらも同じだが、上の「異文」欄から明らかなように、そのような異文は古版本には見当たらない。 エリカ・チータム(1973年)は個人名を挙げずに新教皇の選出の予言としていただけだったが、後の著書ではヨハネス23世(在位1958年 - 1963年。81歳で歿)の跡を継いだパウルス6世(1897年生。在位1963年 - 1978年)と解釈した(*8)。 セルジュ・ユタン(1978年)は、むしろ適齢の教皇をヨハネス23世と解釈した(*9)。 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)はピウス11世(在位1922年 - 1939年。81歳で歿)の跡を継いだピウス12世(1876年生。在位1939年 - 1958年)と解釈した(*10)。 同時代的な視点 最後の行に若干の曖昧さはあるとはいえ、全体としては文意がかなり明瞭な詩であろう。しかし、「適齢」が何歳を指すのか、「長く保つ」とは何年くらいの在位期間を指すのかなどは曖昧であり、結果として候補が数多く挙がっても不思議ではない。もっとも、「ローマ人」が字義通りにローマ出身者を指すなら、かなり絞られることになる。ノストラダムスの同時代人ユリウス3世(在位1550年 - 1555年)は、ホノリウス4世(在位1285年 - 1287年)以来、久々のローマ生まれの教皇だったからである。 実際、ルイ・シュロッセ(未作成)は81歳で歿したパウルス3世(在位1534年 - 1549年)の跡を継いだユリウス3世がモデルと判断した(*11)。同様の見解はピーター・ラメジャラー、リチャード・シーバースらも示している。 ラメジャラーも認めるように、ノストラダムスがこの詩を書いた時期(おそらくは1555年から1557年の間)からするならば、ユリウス3世の在位が短いことを知っていたはずであり、その点は詩にそぐわない。 しかし、ユリウス3世は確かにローマ出身であり、トレント公会議の再召集と継続などの手腕は、(戦争によって中断されてしまったとはいえ)3か月近いコンクラーベの末の妥協の産物にすぎなかったはずの教皇にしては、十分に評価を高めるものといえただろう(*12)。 仮にユリウス3世がモデルなのだとしたら、song を long と理解する従来の読みが間違っていた可能性もあるのではないだろうか。song が songe の誤記ないし省略形なのだとすれば、「長く保つだろう」ではなく「夢を保つだろう」となる。彼の在位期間中には結局中断してしまったとはいえ、教会改革という「夢」を実現するためにトレント公会議を再開したユリウス3世には十分に当てはまるのではないだろうか。 なお、ジャン=ポール・クレベールはむしろユリウス3世の先代、パウルス3世の方との類似性を指摘している(ただし、パウルス3世がローマ出身でないことは認めている)。 コメントらん 以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 名前 コメント
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原文 Montauban1, Nismes, Auignon, Besier2, Peste, tonnerre gresle3 à fin de Mars4 De Paris pont5, Lyon6 mur7, Montpellier8, Depuis six cent sept XXIII.9 pars. 異文 (1) Montauban Mont-auban 1588Rf 1589Rg, Mont-aubam 1589Me, Montaubant 1600 1867LP (2) Besier Besiers 1590Ro 1649Ca 1650Le 1660 1665 1668 1772Ri (3) tonnerre gresle Tonnerre Gresle 1672 (4) Mars mars 1716 (5) pont Pont 1588-89 1600 1610 1672 1716, pour 1589PV (6) Lyon de Lion 1672 (7) mur murs 1557B, Mur 1588-89 1672 (8) Montpellier Mont-pellier 1588-89, Monpelier 1672 (9) sept XXIII. 1555 1627 1644 1650Ri 1653 1665 sept xxiij. 1557U 1589PV, sept. xxiij. 1557B, sept xxiii 1588-89, sept vingt trois 1568A 1590Ro 1605, sept vingts trois 1568B 1568C 1568I 1597 1600 1610 1716 1772Ri, sept-vingt trois 1611 1628 1649Xa 1660, sept xxiii. 1649Ca 1650Le 1668, sept vingt, trois 1672, sept XXIII 1840 日本語訳 モントーバン、ニーム、アヴィニョン、ベジエで、 三月の終わりに悪疫、雷鳴、雹が。 パリの橋、リヨンの壁、モンペリエ。 六百と七に二十三の部分。 訳について ピエール・ブランダムールは、3行目と4行目の動詞は省略されているとし、3行目は「パリの橋、リヨンの壁、モンペリエの壁は崩壊するだろう」、4行目は「六百と七に二十三の部分が足される」という意味だとした(*1)。特に3行目は十分に説得的な読みといえるが、とりあえずここでは直訳した。 ブランダムールはかつて4行目を「六百と七の二十三分以降に」といった形で読んでいた(詳しくは後述)。本人はこの読み方を放棄したが、ジャン=ポール・クレベールは評価をしている。 大乗訳については固有名詞の読み方をとりあえず棚上げにする。3行目「パリの橋 リヨンの壁 モンテペリエーは落ち」(*2)は、上述の通り「落ち」が原文にないが、一つの可能性として許容されうる読み方だろう。 しかし、4行目「六〇〇と七から多くを三つの部分に」は誤訳。元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳は From six hundred and seven score three parts.(*3)となっているが、この場合の score は言うまでもなく「20」の意味で用いられている。実際、ロバーツの解釈には12143という数字が出ており、607 x 20 + 3 と読んだことが明らかである。 山根訳も4行目「六百と二十の七倍と三の二倍とを経て」(*4)が微妙。エリカ・チータムの英訳が since six hundred and seven score three pairs.(*5)なので、その訳としては正しい。parsを pairs と訳すことはエドガー・レオニなども積極的に行ってはいたものの、ピエール・ブランダムール、ロジェ・プレヴォなどの20世紀後半以降の実証的論者たちからは支持されていない。 信奉者側の見解 テオフィル・ド・ガランシエールは3月末に挙げられている都市が落雷の被害を受けることとした(*6)。 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、バルタザール・ギノー、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォード、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)、アンドレ・ラモン、ロルフ・ボズウェルの著書には載っておらず、基本的には全訳本の類以外で触れられることはほとんどなかったようである。 ヘンリー・C・ロバーツはフランスで破壊が広がり12143箇所に及ぶと解釈した(*7)。 エリカ・チータムはエドガー・レオニの読み方(後述)を踏襲していくつかの年代を挙げつつ、1行目と3行目のつながりなどが分からないとした(*8)。 セルジュ・ユタンはここに示されている気象上の記述は象徴的なもので、フロンドの乱を予言したものではないかとした(*9)。 ジョン・ホーグは4行目の示す年の可能性として1653年や1746年を挙げたが、前者の時期にあったフロンドの乱は挙げられた都市のほとんどと関係がなく、後者の時期のネーデルラントとの戦争はいわずもがなであったことから、未成就の予言か外れた予言だろうとした(*10)。 同時代的な視点 エドガー・レオニは曖昧な詩とした上で、4行目の指し示す年代について、1653年(607 + 23 x 2 = 653とした上で千の位を補う)、1746年(600 + 7 x 20 + 3 x 2 = 746 とした上で千の位を補う)、2208年(この詩が出版された1555年に前出の653を足す)、2301年(出版年に前出の746を足す)などの可能性を挙げていた(*11)。エヴリット・ブライラーは1600年7月23日と読む可能性を示していた(*12)。 ピエール・ブランダムールは4行目について、当初1607年5月20日ごろと推測していた。占星術では1年も60分割することがあり、「二十三分」は60分の23を指しているのだろうとしたことが根拠だった。365日 ÷ 60 × 23 は約140日となり、年初から140日目の5月20日を指すというわけである。ブランダムールは、ノストラダムスが1607年の災厄を暦書の中で何度か述べていたことから、この詩もその一環と解釈していた(*13)。 ジャン=ポール・クレベールはそうした読み方に好意的だが、ブランダムール自身は後にこの解釈を撤回し、3月の終わりに起こる天災は、1547年3月のフランソワ1世の死の前後に起きた凶兆がモデルとする解釈に差し替えた。同じ年の12月にはパリのサン・ミシェル橋が洪水で壊されたという。この解釈では4行目の数字は謎とされた(*14)。 ピーター・ラメジャラーはフランソワ1世の死とする解釈を支持した上で、4行目については、当時次々と勃興していた新宗派が1607年以降に23に増えることを言ったものという可能性を挙げていた(*15)。 ロジェ・プレヴォは1561年の出来事がモデルになっていると推測した。 その年の4月にはパリのサン=ミシェル橋近くのプレ=オ=クレールで暴動が起き、リヨンでも聖体祭の日に宗教上の衝突が起き、さらにモンペリエではノートル=ダム=デ=ターブル大聖堂がプロテスタントに占拠される事件が起こったことに対応するという。 プレヴォは百詩篇に記載された年代に切りの良い数字を除算(加算)することでモデルの年が出てくるという仮説を提唱しており、4行目については、600 + 7 x 23 = 761 に切りの良い数字800を足してやるとモデルの年1561を導けるとした(*16)。 しかし、この詩の初出は1555年のことなので、1561年をモデルとするのは無理があるだろう。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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原文 En l an1 cinq cens octante plus moins2, On attendra3 le siecle bien estrange En l an sept cens, trois4 cieulx en tesmoings5, Que plusieurs regnes6 vn à cinq feront change. 異文 (1) l an la 1672 (2) plus moins plus ou moins 1590Ro (3) attendra attend 1557B 1589PV 1649Ca, entendra 1665 (4) trois tois 1668A (5) cieulx en tesmoings (cieux en tesmoins) 1594JFpp.238 240 1628 1649Ca 1650Le 1668 1672 1840, (cieux en tesmoings, 1605 1649Xa (6) Que plusieurs regnes Regnes plusieurs 1594JF 1605 1628 1649Xa 1672 (注意)1772Riの3、4行目は以下の通り。En l an sept cens et neuf cieux seront tesmoings,/Que pour de l or en bled non sans peine il change. 日本語訳 五百八十より多いか少ないかの年に とても奇妙な時代が待ち望まれるだろう。 七百と三の年には、-諸天がそれを証言している- 多くの王国が一から五に変わるだろう。 訳について 1行目 plus et moins は1590Ro の異文にもあるように、plus ou moins と読みかえるのが一般的なので、それに従った。 3行目 en tesmoings (en témoins) はラメジャラーの英訳やクレベールの現代仏語訳では動詞的に訳されているので、それに従った。 4行目 vn à cinq の扱いが分かりづらい。plusieursは現代では主に「いくつかの」を意味する。クレベールが指摘するように、vn à cinq は単にplusieurs の幅を示したものか(*1)。その場合、「最少で1つ、最大で5つの王国が変わるだろう」とでも訳すことになる。 1772Ri の原文にしたがった場合の後半の訳は、「七百と九の年に諸天が証人となるだろう、苦痛を伴わずに黄金を小麦に換えられないということの」となる。 信奉者側の見解 1580年代は宗教戦争が過熱していた時期であり、1703年はスペイン継承戦争(1701年-1714年)序盤にあたる。後者はスペイン1国の問題がスペイン・フランス対イギリス・オーストリア・オランダの5カ国間の戦争に発展したもので、4行目はそれを言っているとされる。論者によって細部は異なるが、エリカ・チータム、ジョン・ホーグらが採用している。 ほかの解釈としては、大まかな時代区分を指しているとする中村惠一の説がある(*2)。中村はこれらの時期が大きな時代の変わり目にあたっていたとし、美術史上も1580年代はバロック時代の始まりにあたっているとする。バロックは「いびつな」などの意味があるので、2行目の「奇妙な」はそれを指しているとしている。 同時代的な視点 1585年と1703年は、ともノストラダムスは強い関心を寄せていた合が起こる年だった(*3)。 1585年については アンリ2世への手紙でも言及されている。 「しかしながら、現在すなわち1557年3月14日から始まって、1585年や1606年のことさえも含むかたちで、大部分(の出来事)が起こるであろう年や、都市、町、地方を書きとめておきたいのです。」(第10節(*4)) ここでは具体的な説明はないが、暦書の方では非常に具体的である。 「木星と火星、太陽と土星の矩のために、1567年3月20日に土星と火星が悪い星位(引用者注:「衝」のこと)になってしまうのである。1585年に最も近い世界の破局があり、その百倍悪いものが1588年にある。」(『1565年向けの暦』) 1703年の白羊宮での木星と土星の合については、百詩篇第1巻49番、百詩篇第1巻51番などでも予言されているようである。 いうまでもなく、客観的に見た場合、これらの時期に起こった合は、歴史上特筆されるような出来事には結びつかなかった。 なお、3行目で「天」が複数形になっているのは奇異なようだが、当時は地球の周りを複数の天球が覆っているとする認識が一般的だったことに基づいているのだろう。百詩篇第4巻29番には「第二天」という表現も出ている。 各天球には各惑星が位置しているとされていたので、要するに「諸天がそれを証言している」というのは、「各惑星の配列がそれを予言している」というような意味だろう。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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