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編集 少は、小なり。小故に少府と称す。(応劭) 少府は、朝廷の職官である。九卿の一つに数えられ、現代の大臣に相当する。前漢においては、天子及び宗室を養う、言わば帝室財政を司り、それによって賄われる諸々の衣、食、医や庶務、側近の官署を置いた。 後漢に到ると、財政機能は失われ、側近の官は天子の直属に近くなり、衣食等を司るのみとなる。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏丞 員吏 属官(職属・両漢)太医(前漢) (後漢) 太官(前漢) (後漢) 守宮 上林宛(前漢) (後漢) 若盧獄 属官(後漢に置かれる)鴻徳苑 属官(後漢・文属)侍中 鉤盾果園 永安宮 鴻池 南園 顯陽苑 濯龍園 直里園 胡熟 中蔵府 御府 内者 尚方 祠祀 尚書 符節 御史中丞 蘭臺令史 中常侍 黄門 永巷 掖庭 属官(前漢のみ)湯官 導官 楽府 考工室 左弋 居室 甘泉居室 左司空 右司空 東織 西織 東園匠 胞人 都水 均官 中書謁者令 宦者 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 故の秦官。漢もそれを継ぐ。 王莽新は改めて共工。 中興して名を少府に復す。天子の私用の財源(禁銭)の管理は大司農に移される。 位 (前漢) 卿、一人。秩中二千石。 (後漢) 九卿、一人。秩中二千石。 職掌 (前漢) 山海池澤の税を掌り、以て天子の奉養銭を給共する。その銭を曰く禁銭。以て私養に給し、別れてより藏を為す。古くはみな小府と作る。少は、小なり、故に少府と称す。大司農は軍国の用を給し、少府は以て天子を養うなり。 (後漢) 光武帝、禁銭を大司農に属す。 中服、御諸物を掌る。衣服・宝貨・珍膳の属。 或いは云う、田租・芻稾は以て經用(常用)に供し、凶年、山澤魚塩市の税、少府以て私用に給すなりと。 属吏 丞 (前漢) 六人、秩千石。 (後漢) 一人、 比千石。 員吏 (後漢) 三十四人。 その一人は四科、一人は二百石、五人は百石、四人は斗食、三人は佐、六人は騎吏、十三人は学事、一人は官医。 属官(職属・両漢) 以下四署は、前漢・後漢の双方で少府に直属する。 太医 (前漢) 太医令 一人。 太医丞 一人。 (後漢) 諸医を掌る。 太医令 六百石。 薬丞 一人。 薬を主る 方丞 一人。 藥方を主る。 員吏 十九人。 員医 二百九十三人。 太官 (前漢) 膳食を主る。 太官令 太官丞 七人。 献丞 貢献物を主る。(張延寿伝) (後漢) 御飲食を掌る。 太官令 一人、六百石。(別説に秩千石とも) 太官左丞 一人、秩四百石。 飲食を主る。 太官甘丞 一人、秩四百石。 膳具を主る。また別説に諸甘肥を掌る。 湯官丞 一人、秩四百石。 酒を主る。前漢の湯官令か。 太官果丞 一人、秩四百石。 果を主る。 また一説に、別に外に在って諸果、菜茹を掌るともいう。 員吏 六十九人。 衛士 三十八人。 守宮 守宮令 一人、六百石。 御紙筆墨、及び尚書財用諸物、及び封泥を主る。 守宮丞 一人。 守宮外官丞 二百石。 公府の吏府である(公府の府吏?)。 員吏 六十九人。 上林宛 (前漢) 池監 十人。 別説に籞所の数五とも言う。詳らかではない。 中興して省く。 (後漢) 苑中の禽獣を主る。民居、頗る有り、皆これを主る。その獣を捕え、太官に送る。 上林苑令 一人、秩六百石。 上林苑丞 一人。 上林苑尉 一人。 員吏 五十八人。 若盧獄 (前漢) 兵器を藏し、弩射を主る。詔獄の一つ。庫兵を治め、将相大臣を鞫(きた)むことを主る。 黄門内に寺があり。蠶室を有す。 若盧獄令 若盧獄丞 一人。 若盧郎中 二十人。 (後漢) 中興後省くも、和帝永初九年、また置く。 一説に黄門北寺獄と同一のものとも言う。竇武伝では両者は都内獄と並んで別のものとされる。 また一説に洛陽に二獄有り、一つは若盧、親戚婦女を受けると主るという。 属官(後漢に置かれる) 鴻徳苑 桓帝が置く。少府の属かは不明だが、職は上林苑と相似か。 鴻徳苑令 属官(後漢・文属) 後漢において、ただ文書上のみ少府に属す。 侍中 前漢に於いては加官であり、皇帝に親近する中朝官で、九卿には属さなかった。 (後漢) 無員、秩比二千石。(別説に秩千石)。 『周礼』の太僕は、漢の侍中のごとく、という。 左右に侍し、衆事を贊導し、顧問応対を掌る。 駕の出に法り、則ち多識者一人が参乗し、余はみな乗輿車の後に騎在す。 もとは僕射が一人有り、中興して転じて祭酒と為し、或いは置かず。 鉤盾 (前漢) 近苑囿を主る。 鉤盾令 一人。 鉤盾丞 一人(五人とも)。 鉤盾尉。 二人。 鉤盾僕射 署長 中黄門 (後漢) 諸近池・苑囿・遊觀の処を典す。 鉤盾令 宦者。一人、六百石。 鉤盾丞 一人、三百石。 吏從官 四十人、 員吏 四十八人。 苑中丞 一人、二百石。 苑中離宮を主る。 有署 一人 果園 果丞 一人、二百石。 果園を主る。 永安宮 北宮東北の別小宮の名。園觀を有す。 永安丞 一人、三百石。 鴻池 鴻池、池名。雒陽東二十里に在。 鴻池丞 一人、二百石。 南園 雒水南に在。 南園丞 一人、二百石。 顯陽苑 桓帝延熹二年、置く。 顯陽苑丞 有り。 濯龍園 園の名、北宮に近し。 濯龍監 一人、秩六百石。 直里園 園の名、雒陽城の西南角に在。 直里監 一人、秩四百石。 胡熟 園名か。不詳。 胡熟監 一人。 中蔵府 中興後置く。 中の幣、帛、金銀、諸貨物を掌る。 中蔵府令 一人、六百石。 中蔵府丞 一人。 員吏 十三人。 吏従官 六人。 御府 (前漢) 天子の衣服を主る。 御府令 一人。 御府丞 一人。 御府僕射 署長 中黄門 (後漢) 官婢の作る中衣服、及び補浣の属を典ず。 御府令 宦者。一人、六百石。 御府丞(右丞?) 宦者。一人。 織室丞 宦者。一人。 員吏 七人 吏從官 三十人。 内者 (前漢) 内者令 一人。 内者丞 一人。 内者僕射 署長 中黄門 (後漢) 宮中の布張、諸衣褻物を掌る。 内者令 一人、六百石。 左丞 一人。 右丞 一人。 録事(禄士?) 一人。 員吏 十九人。 尚方 (前漢) 禁の器物を作るを主る。 尚方令 一人。 尚方丞 一人。 尚方僕射 署長 中黄門 (後漢) 上の手工の御刀剣、諸好器物を作るを掌る。 尚方令 一人、六百石。 尚方丞 一人。 員吏 十三人 吏従官 六人。 祠祀 (後漢) 中の諸小祠祀を典ず。 祠祀令 宦者。一人、六百石。 祠祀丞 一人。 従官吏 八人。 騶僕射 一人。 家巫 八人。 尚書 (後漢) 尚書令 一人、千石。 凡そ選署し、及び尚書、曹文書の衆事を奏下することを掌る。 故は公がこれを為し、朝会で下陛奏事する。増秩二千石、故の銅印墨綬を佩くより。 尚書僕射 一人、六百石。 尚書事を署す。令の不在にして則ち衆事を奏下す。封門を主り、廩仮銭穀を授けることを掌る。 献帝、左、右僕射を分け置く。建安四年、榮邵を以って尚書左僕射に為すとの記事が見える。 尚書 六人、六百石。 武帝は、初め尚書四人を置き、分けて四曹と為す。 成帝、尚書を復して三公曹を加え、五人と為す。別説に、加えたのは僕射一人だとも云う。 世祖光武帝、分けて六曹と為し、令一人、僕射一人と合わせてこれを八座と謂う。 三公曹尚書 (前漢) 成帝が立てる。 断獄を主る。 (後漢) 二人。 三公の文書を典す。吏曹尚書を主る。 天下歳尽きれば、集課の事を典す。 常侍曹尚書 (前漢) 公卿の事を主す。 別説で、丞相、御史の事を主るとも、常侍、黄門、御史の事を主るとも。 吏曹尚書 (後漢) 世祖、常侍曹尚書を更名す。 選挙・齋祀を典じ、三公曹に属す。 霊帝末,梁鵠を選部尚書に為すという記事が有る。 二千石曹尚書 (前漢) 郡国、二千石の事を主る。また刺史を主るとも云う。 (後漢) 中都官の水火、盜賊、辭訟、罪眚を掌る。 民曹尚書(前漢では戶曹尚書?) 凡そ吏の上書の事を主る。 功作を繕い治め、監池、苑、囿、盜賊の事を典す。 客曹尚書(前漢では主客尚書?) (前漢) 外国、四夷狄の事を主る。 後に南主客曹尚書と北主客曹尚書に分ける。 (後漢) 天子が猟、駕にいづれば、、御府曹郎これに属す。 尚書左丞 一人、四百石。 文書の期会を掌録する。 吏民の章報及び騶伯史を主る。 臺中の綱紀を総典し,統べざる所無し。 尚書右丞 一人、四百石。 印綬を仮し署し、及び紙筆墨の諸財を庫蔵に用いる。 右丞と僕射は、廩借銭穀を授けることを対掌する。 尚書侍郎 三十六人、四百石。一曹ごとに六人有り。 文書を作り起草を主る。 尚書郎 故事には、尚書郎は、令史を以って久しくこれの欠を補う。世祖、改めて孝廉を用い郎と為すことを始める。 尚書郎は、初め三署に従い臺試に詣で、初めて上臺し守尚書郎を称す、中に歳満みちて尚書郎を称し、三年、侍郎を称す。 客曹郎 羌胡の事を治めるを主る。(その治績が)劇なれば二千石、或いは刺史に遷り、その公なれば遷って県令と為る。秩満ちれば占県より去る。詔書あれば銭三万と三臺祖銭を賜い、余官は則ち否。治めること厳かにして一月、公卿、陵廟に準謁して発する。 令史 十八人、二百石。 書を主す。 一曹に三人有り。後(恐らくは和帝永元三年七月)に増やして曹に三人、合わせて二十一人となる。 蘭臺、符節の書簡の精練した能吏から選び為す。 功滿ち未だ嘗て禁を犯さぬ者、以て小県,墨綬に補す。 符節 (前漢) 符節令 一人。 符節丞 一人。 (後漢) 符節臺の率を為し、符節の事を主る。凡そ使を遣わし授節を掌る。 符節令 一人、六百石。 尚符璽郎中 四人。 古くは二人が中に在り、璽及び虎符、竹符の半を主る。 法律に明らかな郎を得るに当たる。 『周礼』掌節に「虎節、龍節が有り、みな金なり。漢の銅虎符、則ちその制なり。」 『周礼』又曰く:「英簜を以てこれに輔す。」干寶曰:「英は、刻書也。蕩は、竹箭也。刻而して書、その使する所の事、以て三節の信を助ける、則ち漢の竹使符者、また則た故事に於いて取る也。」 符節令史 二百石。 書を掌る。 御史中丞 (後漢) 一人、千石。 前漢には御史大夫の属。 中興後、少府に属す。 御史を監し、密かに非法を挙げる。 献帝建安、御史大夫を復し、長史一人を置くも、中丞を領さず。 治書侍御史 二人、六百石。 法律に明るき者を選びこれに為す。凡そ天下諸讞(裁判)の疑事、法律を以ってその是非に当たることを掌る。 侍御史 十五人、六百石。 非法を察挙するを掌る。公卿・羣吏の奏事を受け、違失が有ればこれを挙劾す。凡そ郊廟の祠及び大朝会、大封拜にては、則ち二人が威儀を監し、違失有れば則ち劾奏す。 また、二人が更直(当直)する。 省中に執法し皆百官を糾察し、州郡を督す。 公法府の掾属の高第をこれに補す。初め守を称し、満歳で真を拜す。出でては治劇なれば刺史、二千石と為り、平なれば令に遷補す。 尚書、御史臺、皆、官蒼頭を以て吏と為し、賦舎(賊舍?)を主る。凡そその門戸を守るなり。 蘭臺令史 六人、百石。 書、劾、奏、及び印を掌り、文書を主る。 中常侍 (後漢) 無員、秩千石。後に増秩比二千石。 宦者、左右に侍し、内宮に従いて入り、內衆事を贊導して、顧問応対するを掌る。 黄門 (前漢) 黄門令 黄門丞 一人。 黄門僕射 署長 中黄門 (後漢) 黄門令 宦者、一人、六百石。 省中の諸宦者を主る。禁門を曰く黄闥、中人を以てこれを主らせる、故に號して曰く黄門令。 黄門丞 宦者。一人。 黄門従丞 宦者。一人。 出入の従を主る。 員吏 十八人。 給事黄門侍郎 無員。六百石。 左右に侍従し、給事中を掌る。中外を関通す。及び諸王が殿上(中)に朝見すれば、王を引いて座に就かしめる。 日暮に入り対し、青瑣門に拜す、名を曰く夕郎。 青瑣門は南宮に在す。青瑣とは、戸邊が青鏤也。一曰く、天子門内には眉が有り、格再重、裏青画を曰く瑣。 少帝中平六年、宦人の誅を以て侍中侍郎と改める。士人を置き、禁闈に出入したため。機事頗る露わとなる。王允の奏によりその出入を尚書に比し、賓客を通さず。 小黄門 宦者、無員。六百石。 左右に侍し、尚書の事を受け、上が内宮に在れば、中外を関通し、及び中宮已下の衆事を掌る。諸公主及び王太妃らが疾苦有れば、則ち使してこれを問う。 黄門署長 宦者。一人、四百石。黄綬。 画室署長 宦者。一人、四百石。黄綬。 玉堂署長 宦者。一人、四百石。黄綬。 丙署長 宦者。七人。四百石。黄綬。 以上の署長、おのおの中宮の別処を主る。 中黄門冗従僕射 宦者。一人、六百石。 中黄門の冗従を主る。居して則ち宿衛し、門戸を直守す。出れば則ち騎従し乗輿車を夾む。 宂(冗)は、散なり。散従の官である。 中黄門 (前漢) 奄人(宦者)。禁中に居り、黄門の内に在りて給事する者なり。 (後漢) 宦者、無員、比百石。後に増、比三百石。 禁中の給事を掌る。 永巷 (前漢) 武帝太初元年に、更名して掖廷。 永巷令 永巷丞 一人? 永巷僕射 署長 中黄門 (後漢) 掖廷とは別に置く。官婢、侍、吏を典ず。 永巷令 宦舎、六百石。 右丞 一人。 暴室丞 一人。 員吏 六人。 吏従官 三十四人。 掖庭 (前漢) 武帝太初元年、永巷より更名する。 掖庭令 掖庭丞 八人。 掖庭僕射 署長 中黄門 (後漢) 後宮の貴人、采女の事を掌る。 掖庭令 宦者。一人、六百石。 掖庭左丞 一人 掖庭右丞 一人 暴室丞 一人。 中婦人の疾病者がこの室の治に就くことを主る。その皇后、貴人が罪有れば、またこの室に就く。 吏従官 百六十七人。 待詔 五人。 員吏 十人。 属官(前漢のみ) 前漢にて少府に属しながら、後漢に省、または他へ移動となった部署。 湯官 (前漢) 餅餌を主る。 湯官令 一人。 湯官丞 一人。 (後漢) 太官の下に移り、ただ丞のみと為る。 導官 (前漢) 擇米を主る。 導官令 一人。 導官丞 一人。 (後漢) 中興後、少府の属には無し。大司農の属に導官令が置かれる。 楽府 哀帝綏和二年、省く。 後漢には置かれず。 楽府令 楽府丞 三人。 考工室 作器械を作るを主る。「冬官、考工と為す。」 武帝太初元年、更名して考工。 中興して太僕に転ず。 考工室令 一人。 考工室丞 一人。 左弋 弋射を掌る。 左弋は、地名。 武帝太初元年、更名して佽飛と為す。 中興して省く。 左弋令 一人。 左弋丞 九人。 左弋尉 二人。 居室 武帝太初元年、更名して保宮と為す。 後漢には名が見られず。 居室令 一人。 居室丞 一人。 甘泉居室 武帝太初元年、更名して昆臺と為す。 中興して省く。 甘泉居室令 一人。 甘泉居室丞 五人。 左司空 後漢には名が見られず。 左司空令 一人。 左司空丞 一人。 右司空 後漢には名が見られず。 右司空令 一人。 右司空丞 一人。 東織 成帝河平元年、省く。 東織令 一人。 東織丞 一人。 西織 成帝河平元年、東織を省くに伴い、更名して織室と為る。 中興して御府令の下に移り、ただ丞のみとなる。 西織令 一人。 西織丞 一人。 東園匠 陵内の器物を作るを主る。それは凶器である故に、秘器と称す。 将作大匠下の東園より木材を得る。 後漢には官名が見られず、『礼儀志』下の大喪には「守宮令が東園匠を兼ね」とする。 東園匠令 一人。 東園匠丞 一人。 胞人 胞は庖に同じ。 宰割者(犠牲の肉を切る者)を主掌する。 後漢にて省く。 胞人長 一人。 胞人丞 一人。 都水 『三輔黃圖』は云う、「三輔、みな都水を有すなり」と。 都水長 一人。 都水丞 一人 均官 太僕にも同名の官があり。 均官長 一人。 均官丞 一人。 中書謁者令 漢初、中人には中謁者令があり、武帝が中書謁者令と改め、宦人を当てる。 成帝建始四年、中書の事から宦人を罷め、中謁者令に復し、僕射を省く。 丞 一人。 中書謁者僕射 署長 中黄門 (後漢) 中謁者があるが、祭礼と天子の使者としてのみ名が見える。おそらくは少府に属さず。令長は見られず、僕射がある。 宦者 中興して省く。 宦者令 一人。 宦者丞 七人。 宦者僕射 署長 中黄門 所属項目(タグ) 九卿 卿 少府 禁銭 職官 関連項目・人物 耿紀 待詔 少府 詳説 編集 -
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資治通鑑巻第二十六 漢紀十八 中宗孝宣皇帝中 神爵元年(庚申、前六一) 1春,正月,上始行幸城甘泉,郊泰畤,三月,行幸河東,祠后土。上頗修武帝故事,謹齋祀之禮,以方士言增置神祠;聞益州有金馬、碧雞之神,可醮祭而致,於是遣諫大夫蜀郡王褒使持節而求之。 初,上聞褒有俊才,召見,使爲聖主得賢臣頌。其辭日;「夫賢者,國家之器用也。所任賢,則趨捨省而功施普;器用利,則用力少而就效衆。故工人之用鈍器也,勞筋苦骨,終日矻矻;及至巧冶鑄干將,使離婁督繩,公輸削墨,雖崇台五層、延袤百丈而不溷者,工用相得也,庸人之御弩馬,亦傷吻、敝策而不進於行;及至駕嚙膝、驂乘旦,王良執靶,韓哀附輿,周流八極,萬里一息,何其遼哉?人馬相得也,故且絺綌之涼者,不苦盛暑之鬱燠;襲貂狐之暖者,不憂至寒之心妻愴。何則?有其具者易其備。賢人、君子,亦聖王之所以易海内也。昔周公躬吐捉之勞,故有圉空之隆;齊桓設庭燎之禮,故有匡合之功。由此觀之,君人者勤於求賢而逸於得人。人臣亦然。昔賢者之未遭遇也,圖事揆策,則君不用其謀;陳見悃誠,則上不然其信;進仕不得施效,斥逐又非其愆。是故伊尹勤於鼎俎,太公困於鼓刀,百里自鬻,寧子飯牛,離此患也。及其遇明君、遭聖主也,運籌合上意,諫諍即見聽,進退得關其忠,任職得行其術,剖符錫壤而光祖考。故世必有聖知之君,而後有賢明之臣。故虎嘯而風冽,龍興而致雲,蟋蟀俟秋吟,蜉蝤出以陰。易曰:『飛龍在天,利見大人。』詩曰:『思皇多士,生此王國。』故世平主聖,俊艾將自至。明明在朝,穆穆列布,聚精會神,相得益章,雖伯牙操遞鐘,逢門子彎烏號,猶未足以喩其意也。故聖主必待賢臣而弘功業,俊士亦俟明主以顯其德。上下倶欲,歡然交欣,千載壹合,論説無疑,翼乎如鴻毛遇順風,沛乎如巨魚縱大壑。其得意若此,則胡禁不止,曷令不行!行溢四表,橫被無窮。是以聖王不遍窺望而視已明,不殫傾耳而聽已聰,太平之責塞,優遊之望得,休征自至,壽考無疆,何必偃仰屈伸若彭祖,呴嘘呼吸如僑、松,眇眇絶俗離世哉!」是時上頗好神仙,故褒對及之。 京兆尹張敞亦上疏諫曰:「願明主時忘車馬之好,斥遠方士之虚語,游心帝王之術,太平庶幾可興也。」上由是悉罷尚方待詔,初,趙廣漢死後,爲京兆尹者皆不稱職,唯敞能繼其跡;其方略、耳目不及廣漢,然頗以經術儒雅文之。 1. 2上頗脩飾,宮室、車服盛於昭帝時;外戚許、史、王氏貴寵。諫大夫王吉上疏曰:「陛下躬聖質,總萬方,惟思世務,將興太平,詔書毎下,民欣然若更生。臣伏而思之,可謂至恩,未可謂本務也。欲治之主不世出,公卿幸得遭遇其時,言聽諫從,然未有建萬世之長策,舉明主於三代之隆也。其務在於期會、簿書、斷獄、聽訟而已,此非太平之基也。臣聞民者,弱而不可勝,愚而不可欺也。聖主獨行於深宮,得則天下稱誦之,失則天下咸言之,故宜謹選左右,審擇所使。左右所以正身,所使所以宣德,此其本也。孔子曰:『安上治民,莫善於禮,』非空言也。王者未制禮之時,引先王禮宜於今者而用之。臣願陛下承天心,發大業,與公卿大臣延及儒生,述舊禮,明王制,驅一世之民躋之仁壽之域,則俗何以不若成、康,壽何以不若高宗!竊見當世趨務不合於道者,謹條奏,唯陛下財擇焉。」吉意以爲:「世俗聘妻、送女無節,則貧人不及,故不舉子。又,漢家列侯尚公主,諸侯則國人承翁主,使男事女,夫屈於婦,逆陰陽之位,故多女亂。古者衣服、車馬,貴賤有章;今上下僭差,人人自制,是以貪財誅利,不畏死亡。周之所以能致治刑措而不用者,以其禁邪於冥冥,絶惡於未萌也。」又言:「舜、湯不用三公、九卿之世而舉皋陶、伊尹,不仁者遠。今使俗吏得任子弟,率多驕驁,不通古今,無益於民,宜明選求賢,除任子之令;外家及故人,可厚以財,不宜居位。去角抵,減樂府,省尚方,明示天下以儉。古者工不造雕□彖,商不通侈靡,非工、商之獨賢,政教使之然也。」上以其言爲迂闊,不甚寵異也。吉遂謝病歸。 2. 3義渠安國至羌中,召先零諸豪三十餘人,以尤桀黠者皆斬之;縱兵撃其種人,斬首千餘級。於是諸降羌及歸義羌侯楊玉等怨怒,無所信郷,遂劫略小種,背畔犯塞,攻城邑,殺長吏。安國以騎都尉將騎三千屯備羌;至浩亹,爲虜所撃,失亡車重、兵器甚衆。安國引還,至令居,以聞。 時趙充國年七十餘,上老之,使丙吉問誰可將者。充國對曰:「無踰於老臣者矣!」上遣問焉,曰:「將軍度羌虜何如?當用幾人?」充國曰:「百聞不如一見。兵難遙度,臣願馳至金城,圖上方略。羌戎小夷,逆天背畔,滅亡不久,願陛下以屬老臣,勿以爲憂!」上笑曰:「諾。」乃大發兵詣金城。夏,四月,遣充國將之,以撃西羌。 3. 4六月,有星孛于東方。 4. 5趙充國至金城,須兵滿萬騎,欲渡河,恐爲虜所遮,即夜遣三校銜枚先渡,渡,輒營陳;會明畢,遂以次盡渡。虜數十百騎來,出入軍傍,充國曰:「吾士馬新倦,不可馳逐,此皆驍騎難制,又恐其爲誘兵也。撃虜以殄滅爲期,小利不足貪!」令軍勿撃。遣騎候四望峽中無虜,夜,引兵上至落都,召諸校司馬謂曰:「吾知羌虜不能爲兵矣!使虜發數千人守杜四望峽中,兵豈得入哉!」 充國常以遠斥候爲務,行必爲戰備,止必堅營壁,尤能持重,愛士卒,先計而後戰。遂西至西部都尉府,日饗軍士,士皆欲爲用。虜數挑戰,充國堅守。捕得生口,言羌豪相數責曰:「語汝無反,今天子遣趙將軍來,年八九十矣,善爲兵;今請欲壹斗而死,可得邪!」初,罕、幵豪靡當兒使弟雕庫來告都尉曰:「先零欲反。」後數日,果反。雕庫種人頗在先零中,都尉即留雕庫爲質。充國以爲無罪,乃遣歸告種豪:「大兵誅有罪者,明白自別,毋取並滅。天子告諸羌人:犯法者能相捕斬,除罪,仍以功大小賜錢有差;又以其所捕妻子、財物盡與之。」充國計欲以威信招降罕、幵及劫略者,解散虜謀,徼其疲劇,乃撃之。 時上已發内郡兵屯邊者合六萬人矣。酒泉太守辛武賢奏言:「郡兵皆屯備南山,北邊空虚,勢不可久。若至秋冬乃進兵,此虜在境外之冊。今虜朝夕爲寇,土地寒苦,漢馬不耐冬,不如以七月上旬繼三十日糧,分兵出張掖、酒泉,合撃罕、幵在鮮水上者。雖不能盡誅,但奪其畜産,虜其妻子,復引兵還。冬復撃之,大兵仍出,虜必震壞。」 天子下其書充國,令議之。充國以爲:「一馬自負三十日食,爲米二斛四斗,麥八斛,又有衣裝、兵器,難以追逐。虜必商軍進退,稍引去,逐水草,入山林。隨而深入,虜即據前險,守後厄,以絶糧道,必有傷危之憂,爲夷狄笑,千載不可復。而武賢以爲可奪其畜産,虜其妻子,此殆空言,非至計也。先零首爲畔逆,它種劫略,故臣愚冊,欲捐罕、幵闇昧之過,隱而勿章,先行先零之誅以震動之,宜悔過反善,因赦其罪,選擇良吏知其俗者,拊循和輯。此全師保勝安邊之冊。」天子下其書,公卿議者咸以爲「先零兵盛而負罕、幵之助。不先破罕、幵,先零未可圖也。」上乃拜侍中許壽爲強弩將軍,即拜酒泉太守武賢爲破羌將軍,賜璽書嘉納其冊。以書敕讓充國曰:「今轉輸並起,百姓煩擾,將軍將萬餘之衆,不早及秋共水草之利,爭其畜食,欲至冬,虜皆當畜食,多臧匿山中,依險阻,將軍士寒,手足皸瘃,寧有利哉!將軍不念中國之費,欲以歳數而勝敵,將軍誰不樂此者!今詔破羌將軍武賢等將兵,以七月撃罕羌。將軍其引兵並進,勿復有疑!」 充國上書曰:「陛下前幸賜書,欲使人諭罕,以大軍當至,漢不誅罕,以解其謀。臣故遣幵豪雕庫宣天子至德;罕、幵之屬皆聞知明詔。今先零羌楊玉阻石山木,候便爲寇,罕羌未有所犯,乃置先零,先撃罕,釋有罪,誅無辜,起壹難,就兩害,誠非陛下本計也。臣聞兵法:『攻不足者守有餘。』又曰:『善戰者致人,不致於人。』今罕羌欲爲敦煌、酒泉寇,宜飭兵馬,練戰士,以須其至。坐得致敵之術,以逸撃勞,取勝之道也。今恐二郡兵少,不足以守,而發之行攻,釋致虜之術而從爲虜所致之道,臣愚以爲不便。先零羌欲爲背畔,故與罕、幵解仇結約,然其私心不能無恐漢兵而罕、幵背之也。臣愚以爲其計常欲先赴罕、幵之急以堅其約。先撃罕羌,先零必助之。今虜馬肥、糧食方饒,撃之恐不能傷害,適使先零得施德於罕羌,堅其約,合其黨。虜交堅黨,合精兵二萬餘人,迫脅諸小種,附著者稍衆,莫須之屬不輕得離也。如是,虜兵浸多,誅之用力數倍。臣恐國家憂累,由十年數,不二三歳而已。於臣之計,先誅先零已,則罕、幵之屬不煩兵而服矣。先零已誅而罕、幵不服,渉正月撃之,得計之理,又其時也。以今進兵,誠不見其利。」戊申,充國上奏。秋,七月,甲寅,璽書報,從充國計焉。 充國乃引兵至先零在所。虜久屯聚,懈馳,望見大軍,棄車重,欲渡湟水,道厄罕;充國徐行驅之。或曰:「逐利行遲。」充國曰:「此窮寇,不可迫也。緩之則走不顧,急之則還致死。」諸校皆曰:「善。」虜赴水溺死者數百。降及斬首五百餘人。虜馬、牛、羊十萬餘頭,車四千餘兩。兵至罕地,令軍毋燔聚落、芻牧田中。罕羌聞之,喜曰:「漢果不撃我矣!」豪靡忘使人來言:「願得還復故地。」充國以聞,未報。靡忘來自歸,充國賜飲食,遣還諭種人。護軍以下皆爭之曰:「此反虜,不可擅遣!」充國曰:「諸君但欲便文自營,非爲公家忠計也!」語未卒,璽書報,令靡忘以贖論。後罕竟不煩兵而下。 上詔破羌、強弩將軍詣屯所,以十二月與充國合,進撃先零。時羌降者萬餘人矣,充國度其必壞,欲罷騎兵,屯田以待其敝。作奏未上,會得進兵璽書,充國子中郎將卬懼,使客諫充國曰:「誠令兵出,破軍殺將,以傾國家,將軍守之可也。即利與病,又何足爭?一旦不合上意,遣繡衣來責將軍,將軍之身不能自保,何國家之安!」充國漢曰:「是何言之不忠也!本用吾言,羌虜得至是邪!往者舉可先行羌者,吾舉辛武賢;丞相御史復白遣義渠安國,竟沮敗羌。金城、湟中谷斛八錢,吾謂耿中丞:『糴三百萬斛谷,羌人不敢動矣!』耿中丞請糴百萬斛,乃得四十萬斛耳;義渠再使且費其半。失此二冊,羌人致敢爲逆。失之毫釐,差以千里,是既然矣。今兵久不決,四夷卒有動搖,相因而起,雖有知者不能善其後,羌獨足憂邪?吾固以死守之,明主可爲忠言。」 遂上屯田奏曰:「臣所將吏士、馬牛食所用糧谷、茭稿,調度甚廣,難久不解,役不息,恐生它變,爲明主憂,誠非素定廟勝之冊。且羌易以計破,難用兵碎也,故臣愚心以爲撃之不便!計度臨羌東至浩亹,羌虜故田及公田,民所未墾,可二千頃以上,其間郵亭多壞敗者。臣前部士入山,伐林木六萬餘枚,在水次。臣願罷騎兵,留歩兵萬二百八十一人,分屯要害處,冰解漕下,繕郷亭,浚溝渠,治湟峽以西道橋七十所,令可至鮮水左右。田事出,賦人二十畝;至四月草生,發郡騎及屬國胡騎各千,就草爲田者遊兵,以充入金城郡,益積畜,省大費。今大司農所轉谷至者,足支萬人一歳食,謹上田處及器用簿。」 上報曰:「即如將軍之計,虜當何時伏誅?兵當何時得決?孰計其便,復奏。」 充國上状曰:「臣聞帝王之兵,以全取勝,是以貴謀而賤戰。『百戰而百勝,非善之善者也,故先爲不可勝以待敵之可勝。』蠻夷習俗雖殊於禮義之國,然其欲避害就利,愛親戚,畏死亡,一也。今虜亡其美地薦草,愁於寄托,遠遁,骨肉心離,人有畔志。而明主班師罷兵,萬人留田,順天時,因地利,以待可勝之虜,雖未即伏辜,兵決可期月而望,羌虜瓦解,前後降者萬七百餘人,及受言去者凡七十輩,此坐支解羌虜之具也。臣謹條不出兵留田便宜十二事:歩兵九校、吏士萬人留屯,以爲武備,因田致谷,威德並行,一也。又因排折羌虜,令不得歸肥饒之地,貧破其衆,以成羌虜相畔之漸,二也。居民得並田作,不失農業,三也。軍馬一月之食,度支田士一歳,罷騎兵以省大費,四也。至春,省甲士卒,循河、湟漕谷至臨羌,以示羌虜,揚威武,傳世折衝之具,五也。以閒暇時,下先所伐材,繕治郵亭,充入金城,六也。兵出,乘危徼幸,不出,令反畔之虜竄於風寒之地,離霜露、疾疫、瘃墮之患,坐得必勝之道,七也。無經阻、遠追、死傷之害,八也。内不損威武之重,外不令虜得乘間之勢,九也。又亡驚動河南大幵使生它變之憂,十也。治隍峽中道橋,令可至鮮水以制西域,伸威千里,從枕席上過師,十一也。大費既省,繇役豫息,以戒不虞,十二也。留屯田得十二便,出兵失十二利,唯明詔采擇!」 上復賜報曰:「兵決可期月而望者,謂今冬邪,謂何時也?將軍獨不計虜聞兵頗罷,且丁壯相聚,攻擾田者及道上屯兵,復殺略人民,將何以止之?將軍孰計復奏!」 充國復奏曰:「臣聞兵以計爲本,故多算勝少算。先零羌精兵,今餘不過七八千人,失地遠客分散,饑凍畔還者不絶。臣愚以爲虜破壞可日月冀,遠在來春,故曰兵決可期月而望。竊見北邊自敦煌至遼東萬一千五百餘里,乘塞列地有吏卒數千人,虜數以大衆攻之而不能害。今騎兵雖罷,虜見屯田之士精兵萬人,從今盡三月,虜馬羸瘦,必不敢捐其妻子於它種中,遠渉山河而來爲寇;亦不敢將其累重,還歸故地。是臣之愚計所以度虜且必瓦解其處,不戰而自破之冊也。至於虜小寇盜,時殺人民,其原未可卒禁。臣聞戰不必勝,不苟接刃;攻不必取,不苟勞衆。誠令兵出,雖不能滅先零,但能令虜絶不爲小寇,則出兵可也。即今同是,而釋坐勝之道,從乘危之勢,往終不見利,空内自罷敝,貶重以自損,非所以示蠻夷也。又大兵一出,還不可復留,湟中亦未可空,如是,徭役復更發也。臣愚以爲不便。臣竊自惟念:奉詔出塞,引軍遠撃,窮天子之精兵,散車甲於山野,雖亡尺寸之功。偸得避嫌之便,而亡後咎餘責,此人臣不忠之利,非明主社稷之福也!」 充國奏毎上,輒下公卿議臣。初是充國計者什三;中什五;最後什八。有詔詰前言不便者,皆頓首服。魏相曰:「臣愚不習兵事利害。後將軍數畫軍冊,其言常是,臣任其計必可用也。」上於是報充國,嘉納之;亦以破羌、強弩將軍數言當撃,以是兩從其計,詔兩將軍與中郎將卬出撃。強弩出,降四千餘人;破羌斬首二千級;中郎將卬斬首降者亦二千餘級;而充國所降復得五千餘人。詔罷兵,獨充國留屯田。 5. 6大司農朱邑卒。上以其循吏,閔惜之,詔賜其子黄金百斤,以奉其祭祀。 6. 7是歳,前將軍、龍額侯韓增爲大司馬、車騎將軍。 7. 8丁令比三歳鈔盜匈奴,殺略數千人。匈奴遣萬餘騎往撃之,無所得。 8. 二年(辛酉、前六〇) 1春,二月,以鳳皇、甘露降集京師,赦天下。 1. 2夏,五月,趙充國奏言:「羌本可五萬人軍,凡斬首七千六百級,降者三萬一千二百人,溺河湟、飢餓者五六千人,定計遺脱與煎鞏、黄羝倶亡者不過四千人。羌靡忘等自詭必得,請罷屯兵!」奏可。充國振旅而還。 所善浩星賜迎説充國曰:「衆人皆以破羌、強弩出撃,多斬首、生降,虜以破壞。然有識者以爲虜勢窮困,兵雖不出,必自服矣。將軍即見,宜歸功於二將軍出撃,非愚臣所及。如此,將軍計未失也。」充國曰:「吾年老矣,爵位已極,豈嫌伐一時事以欺明主哉!兵勢,國之大事,當爲後法。老臣不以餘命壹爲陛下明言兵之利害,卒死,誰當復言之者!」卒以其意對。上然其計,罷遣辛武賢歸酒泉太守官,充國復爲後將軍。 秋,羌若零、離留、且種、兒庫共斬先零大豪猶非、楊玉首,及諸豪弟澤、陽雕、良兒、靡忘皆帥煎鞏、黄羝之屬四千餘人降。漢封若零、弟澤二人爲帥衆王,餘皆爲侯、爲君。初置金城屬國以處降羌。 詔舉可護羌校尉者。時充國病,四府舉辛武賢小弟湯。充國遽起,奏:「湯使酒,不可典蠻夷。不如湯兄臨衆。」時湯已拜受節,有詔更用臨衆。後臨衆病免,五府復舉湯。湯數醉□句羌人,羌人反畔,卒如充國之言。辛武賢深恨充國,上書告中郎將卬洩省中語,下吏,自殺。 2. 3司隸校尉魏郡蓋寬饒,剛直公清,數干犯上意。時上方用刑法,任中書官,寬饒奏封事曰:「方今聖道浸微,儒術不行,以刑餘爲周、召,以法律爲詩、書。」又引易傳言:「五帝官天下,三王家天下。家以傳子孫,官以傳賢聖。」書奏,上以爲寬饒怨謗,下其書中二千石。時執金吾議,以爲「寬饒旨意欲求禪,大逆不道!」諫大夫鄭昌愍傷寬饒忠直憂國,以言事不當意而爲文吏所詆挫,上書訟寬饒曰:「臣聞山有猛獸,藜藿爲之不採;國有忠臣,姦邪爲之不起。司隸校尉寬饒,居不求安,食不求飽;進有憂國之心,退有死節之義;上無許、史之屬,下無金、張之托;職在司察,直道而行,多仇少與。上書陳國事,有司劾以大辟。臣幸得從大夫之後,官以諫爲名,不敢不言!」上不聽。九月,下寬饒吏。寬饒引佩刀自剄北闕下,衆莫不憐之。 3. 4匈奴虚閭權渠單于將十餘萬騎旁塞獵,欲入邊爲寇。未至,會其民題除渠堂亡降漢言状,漢以爲言兵鹿奚鹿盧侯,而遣後將軍趙充國將兵四萬餘騎,屯縁邊九郡備虜。月餘,單于病歐血,因不敢入,還去,即罷兵。乃使題王都犁胡次等入漢請和親,未報。會單于死。虚閭權渠單于始立,而黜顓渠閼氏。顓渠閼氏即與右賢王屠耆堂私通,右賢王會龍城而去。顓渠閼氏語以單于病甚,且勿遠。後數日,單于死,用事貴人郝宿王刑未央使人號諸王,未至,顓渠閼氏與其弟左大將且渠都隆奇謀,立右賢王爲握衍朐鞮單于。 握衍朐鞮單于者,烏維單于耳孫也。握衍朐鞮單于立,凶惡,殺刑未央等而任用都隆奇,又盡免虚閭權渠子弟近親而自以其子弟代之。虚閭權渠單于子稽侯犬冊既不得立,亡歸妻父烏禪幕。烏禪幕者,本康居、烏孫間小國,數見侵暴,率其衆數千人降匈奴,狐鹿姑單于以其弟子日逐王姊妻之,使長其衆,居右地。日逐王先賢撣,其父左賢王當爲單于,讓狐鹿姑單于,狐鹿姑單于許立之。國人以故頗言日逐王當爲單于。日逐王素與握衍朐鞮單于有隙,即率其衆欲降漢,使人至渠犁,與騎都尉鄭吉相聞。吉發渠犁、龜茲諸國五萬人迎日逐王口萬二千人、小王將十二人,隨吉至河曲,頗有亡者,吉追斬之,遂將詣京師。漢封日逐王爲歸德侯。 吉既破車師,降日逐,威震西域,遂並護車師以西北道,故號都護。都護之置,自吉始焉。上封吉爲安遠侯。吉於是中西域而立莫府,治烏壘城,去陽關二千七百餘里。匈奴益弱,不敢爭西域,僮僕都尉由此罷。都護督察烏孫、康居等三十六國動靜,有變以聞,可安輯,安輯之,不可者誅伐之,漢之號令班西域矣。 握衍朐鞮單于更立其從兄薄胥堂爲日逐王。 4. 5烏孫昆彌翁歸靡因長羅侯常惠上書:「願以漢外孫元貴靡爲嗣,得令復尚漢公主,結婚重親,畔絶匈奴。」詔下公卿議,大鴻臚蕭望之以爲:「烏孫絶域,變故難保,不可許。」上美烏孫新立大功,又重絶故業,乃以烏孫主解憂弟相夫爲公主,盛爲資送而遣之,使常惠送之至敦煌。未出塞,聞翁歸靡死,烏孫貴人共從本約立岑娶子泥靡爲昆彌,號狂王。常惠上書:「願留少主敦煌。」惠馳至烏孫,責讓不立元貴靡爲昆彌,還迎少主。事下公卿,望之復以爲「烏孫持兩端,難約結。今少主以元貴靡不立而還,信無負於夷狄,中國之福也。少主不止,繇役將興。」天子從之,征還少主。 5. 三年(壬戌、前五九) 1春,三月,丙辰,高平憲侯魏相薨。夏,四月,戊辰,丙吉爲丞相。吉上寬大,好禮讓,不親小事,時人以爲知大體。 1. 2秋,七月,甲子,大鴻臚蕭望之爲御史大夫。 2. 3八月,詔曰:「吏不廉平,則治道衰。今小吏皆勤事而俸祿薄,欲無侵漁百姓,難矣!其益吏百石已下俸十五。」 3. 4是歳,東郡太守韓延壽爲左馮翊。始,延壽爲穎川太守,穎川承趙廣漢構會吏民之後,俗多怨讎。延行改更,教以禮讓;召故老,與議定嫁娶、喪祭儀品,略依古禮,不得過法。百姓遵用其教。賣偶車馬、下里偽物者,棄之市道。黄霸代延壽居穎川,霸因其跡而大治。延壽爲吏,上禮義,好古教化,所至必聘其賢士,以禮待用,廣謀議,納諫爭;表孝弟有行,修治學官,春秋郷射,陳鐘鼓、管弦,盛升降、揖讓;及都試講武,設斧鉞、旌旗,習射、御之事;治城郭,收賦租,先明佈告其日;以期會爲大事。吏民敬畏,趨郷之。又置正、五長,相率以孝弟;不得捨姦人,閭里阡陌有非常,吏輒聞知,姦人莫敢入界。其始若煩,後吏無追捕之苦,民無箠楚之憂,皆便安之。接待下吏,恩施甚厚而約誓明。或欺負之者,延壽痛自刻責:「豈其負之,何以至此!」吏聞者自傷悔,其縣尉至自刺死。及門下掾自剄,人救不殊,延壽涕泣,遣吏醫治視,厚復其家。在東郡三歳,令行禁止,斷獄大減,由是入爲馮翊。 延壽出行縣至高陵,民有昆弟相與訟田,自言。延壽大傷之,曰:「幸得備位,爲郡表率,不能宣明教化,至令民有骨肉爭訟,既傷風化,重使賢長吏、嗇夫、三老、孝弟受其恥,咎在馮翊,當先退。」是日,移病不聽事,因入臥傳捨,閉閣思過。一縣莫知所爲,令、丞、嗇夫、三老亦皆自繋待罪。於是訟者宗族傳相責讓;此兩昆弟深自悔,皆自髡,肉袒謝,願以田相移,終死不敢復爭。郡中歙然,莫不傳相敕厲,不敢犯。延壽恩信周遍二十四縣,莫敢以辭訟自言者。推其至誠,吏民不忍欺紿。 4. 5匈奴單于又殺先賢撣兩弟;烏禪幕請之,不聽,心恚。其後左奧鞬,王死,單于自立其小子爲奧鞬王,留庭。奧鞬王貴人共立故奧鞬子爲王,與倶東徙。單于右丞相將萬騎往撃之,失亡數千人,不勝。 5.
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