約 306,487 件
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/7417.html
音楽 ● 鈴木メソード〔Wikipedia〕 ● 鈴木鎮一〔Wikipedia〕 ■ スズキ・メソード〔Youtube検索〕 ■ スズキ・メソード世界大会 3月28日 グループレッスンとシンポジウム ★ 世界が賞賛の音楽教育指導法『スズキ・メソード』とは? “真のクールジャパン”と米紙指摘 「ニュースフィア(2014.10.28)」より / 『スズキ・メソード』をご存知だろうか。1898年(明治31年)生まれの鈴木鎮一氏が戦前から始めた音楽指導法である。赤ちゃんが耳から自然と母語を覚えるように、音楽も主に「聴く」ことから育てるという独自のシステムで、特に海外で高く評価され、広く活用されている。 ◆海外で広まった経緯 鈴木氏は20代を主にベルリンで過ごし30歳で帰国した後、日本で演奏活動とともに音楽指導を始めた。しかし戦争が始まると、鈴木氏の生徒達は「国民が闘っている間に音楽の演奏など非国民の行いだ」との誹りを受けたという。そのため、鈴木氏が音楽教育と同時に志していた「教育者を再教育し、教育そのものを改革する」という目標もうまくはいかなかった、とニューヨーク・タイムズ紙は伝えている。 鈴木氏の活動は、終戦10年後の1955年、東京体育館で開いた第1回全国大会(グランドコンサート)を機に一気に開花した。1200名の生徒によるヴァイオリンの大合奏を記録した映像は、海を渡りアメリカで上映され、指導者達に衝撃を与えた。これだけの大人数をこれだけ高い水準に導いたその脅威の秘訣を探るべく、多くの指導者達が何度も松本を訪れては研究し、自国へと伝えたという。 その効果の高さから、スズキ・メソードはその後各国へと瞬く間に広まった。1963年、鈴木氏は生徒達を連れた演奏旅行を始め、アメリカツアーを皮切りに30年間世界中をまわった。同氏は1998年に亡くなったが、スズキ・メソードは今や46ヶ国に普及し、海外では非常にメジャーな指導法となっている。 ◆「耳」から育てる指導法とは 鈴木氏が帰国後指導を始めた当初、その生徒たちが低年齢にも関わらずあまりにも高い技術を持っていたため、当時日本のメディアは彼らについて「特別な才能を持つ子供たち」と報じたそうだ(ニューヨーク・タイムズ紙は)。 しかし「教え方次第で誰でも成長できる」という信念を持っていた鈴木氏は、「天才」「神童」といった言葉を特に嫌ったという。スズキ・メソードの目的はプロの音楽家を大量生産することではなく、あくまでも思慮深い人間性と高潔な心を育むこと。ゆえに音楽の喜びはどんな環境のどんな子供にも手が届くものでなくてはならない、というのが同氏の考えであった。 スズキ・メソードの出身であるジャズ・ヴァイオリニストのレジーナ・カーター氏は、米ハーバード大学の学生新聞『ザ・ハーバード・クリムゾン』でこう語っている。「ジャズは、もともと経済的に恵まれなかった層の音楽。その昔、楽譜やレコードを買うお金がなかった人々は、ラジオやショーで聴ける音楽から音楽を学んだの。スズキ・メソードは、その感じに近いと思う。だから耳から学ぶというのは、私にとって最も自然な方法だった。いろいろなスタイルの演奏法を聴いて自身のスタイルの参考にする、という点でもとても役に立つわ」 ◆本当のクールジャパンとは ニューヨーク・タイムズ紙はスズキ・メソードについて「最も過小評価され見過ごされている日本のコンテンツ」と表しており、「日本はクールジャパンと称し自国の文化を世界に売り込もうとしているが、日本自身何が本当のクールジャパンなのか気づいていないのではないか」と指摘している。 スズキ・メソードは、ヨーヨー・マなど世界レベルの著名な音楽家を輩出している。しかしながら、なぜか国内では認知度が低く、世界40万人の生徒のうち、日本人はたったの2万人だ。読売新聞によると、鈴木氏の教え子達が指導者養成のために長野県松本市に設立した『専門学校国際スズキ・メソード音楽院』は、生徒数の減少などで今年度末に廃止となり、以後は専門学校ではなく私塾として指導者養成を続けるという。 ベネズエラには、音楽を通じ人間性を育み、困難な環境にいる子供達の人生を変える、という目的で創設された「エル・システマ」というプログラムがある。これは、鈴木氏の教え子であった小林武史氏が1970年代にスズキ・メソードをベネズエラへ伝えたことがベースとなっているのだが、日本との最大の違いは、経済的な公的支援があるという点だ。 この「エル・システマ」が、今や日本へと逆輸入されている。『相馬子どもオーケストラ』は、震災被害で心身ともに影響を受けている子供たちに、音楽を通して生きる力を育むことを目的に創設された。このような状況についてニューヨーク・タイムズ紙は、「彼らはその恩恵と効果を認識しつつも、実は元々自分たちが持っていた文化であることに気づいていないのでは」と述べている。 .
https://w.atwiki.jp/wiki5_eroparo/pages/47.html
【板名】 音大・音高板又は音楽教育板(メニューには音楽系教育板で) 【理由】 いまはほとんどがクラシック板にあるけど、美大みたいに専門板が欲しい。 【内容】 音大・音大大学院・音高・音楽専攻コースなどの学校スレできればお稽古関連も収容してほしい。 受験関連相談スレもほんとうは引き取って欲しいです。 クラシック板は700のスレがあってもパンクしそうです。 【需要】 クラシック板でみるかぎりかなりある。 【鯖】school 【フォルダ】 musicology 【カテゴリ】 受験・学校 【名無し】 Op.774 とでも 【ID】 強制ID必須 FOX ★氏の発言 新板をねだるスレ@運用情報◆19・536 536 名前: 動け動けウゴウゴ2ちゃんねる 投稿日: 2005/05/09(月) 00 45 16 ID 2G5175ZR0 BE 51948836-### musicology 音大・音高板又は音楽教育板(school鯖) は今日は作りません、 school系の再編があった時 or 管理人から指示が出たときにでも
https://w.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/3843.html
基礎データ ブランド名 西賀茂音楽教室 会社名 西賀茂音楽教室 電話番号 Fax番号 メール 企業分類 教育関連サービス 現在の問合せ結果 × 現在のコメント メール返信なし 最終更新日 2009/06/17 特記事項 基礎データ特記事項 西賀茂音楽教室2009年5月30日の毎日朝刊に広告あり 06/17 ×(メール返信なし) 関連ページ 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 西賀茂音楽教室 2009年5月30日の毎日朝刊に広告あり 06/17 ×(メール返信なし) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事164 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1243342458/704 704 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/06/17(水) 00 06 16 ID 3G46DUz4P メールのお返事ですv 西賀茂音楽教室 ttp //www.sh-music.jp/ →メール返信なし 関連ページ 検索 2009年5月30日の毎日朝刊 広告一覧 問合せ結果分野別一覧その7 問合せ結果別一覧 ×対応の企業(漢字で始まる企業名・な行~は行)
https://w.atwiki.jp/acorde/pages/118.html
音楽教棟(おんがくきょうとう) 音教参照。
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/54.html
諸井三郎Saburo Moroi(1903-1977) <参考文献> 神良聰夫「楽曲に見る音楽理論--諸井三郎」『洗足論叢 (31)』,pp.25-49,2002年度(ISSN 02877368) (洗足論叢編集委員会 編/洗足学園大学〔ほか〕) 菅道子「戦後の「日本音楽教育学会」設立の試みとその歴史的位置づけ」『関西楽理研究 (通号 21)』,pp.23-41,2004(ISSN 13468588) (関西楽理研究会 編/関西楽理研究会) 菅道子「諸井三郎の音楽教育思想--「昭和22年度学習指導要領・音楽編(試案)」の思想的基盤」『音楽教育学 24(4)』,pp.3-18,1995(ISSN 02896907) (日本音楽教育学会 編/日本音楽教育学会) 鈴木匡 編「諸井三郎の足跡--年譜と作品表」『音楽芸術 35(6)』,pp.42-49,1977/06(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 団伊玖磨「構造の大切さを教えた重要な先生--師・諸井三郎を語る (戦後50年シリ-ズ-6-創作の戦後50年-上- 特集 )」『音楽芸術 53(10)』,pp.33-35,1995/10(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 津田奈保子「諸井三郎の音楽教育--人間性を求めて」『大阪芸術大学短期大学部紀要 (27)』,pp.167-174,2003(ISSN 13469916) (大阪芸術大学短期大学部学術研究委員会 編/大阪芸術大学短期大学部) 津田奈保子「諸井三郎の音楽教育観をめぐって」『関西教育学会紀要 (通号 26)』,pp.111-115,2002(ISSN 13419021) (関西教育学会 編/関西教育学会) 中島健蔵; 鼎談 入野義朗; 鼎談 柴田南雄「諸井三郎氏を悼む」『音楽芸術 35(5)』,pp.24-33,1977/05(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 中島健蔵「音楽と私-3-「スルヤ」前後」『季刊芸術 5(4)』p,156~170,1971/10/00(ISSN 05187524) (季刊芸術出版株式会社 〔編〕/季刊芸術出版) 中島健蔵「音楽と私-1-諸井三郎との出合い」『季刊芸術 5(2)』,pp.136-149,1971/04/00(ISSN 05187524) (季刊芸術出版株式会社 〔編〕/季刊芸術出版) 向坂正久 他「多難な都響の立役者・諸井三郎氏--音芸談話室(対談)-4- 」『音楽芸術 23(10)』,????,1965/09(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 諸井三郎「青少年と音楽教育--音楽の本質と芸術的特質」『青少年問題 22(1)』,pp.6-11,1975/01(ISSN 09124632) (青少年問題研究会) 諸井三郎; 神良聡夫; 野畑百合[他]「音楽総合基礎教育の体系的研究」『洗足論叢 1971』,pp.1-79,19710000(ISSN 02877368) (洗足学園音楽大学) 諸井三郎「子どもの生活を豊かにする芸術教育」『児童心理 21(8)』,pp.1-13,1967/08/00(ISSN 0385826X) (児童研究会 編/金子書房) 諸井三郎「今後の教育に期待するもの」『文部時報 (通号 1074)』,pp.18-21,1967/02(ISSN 09169830) (文部省 編/ぎょうせい) 諸井三郎「第5回国際音楽教育会議について」『ユネスコ資料 (通号 14)』,pp.12-21,1966/05(ISSN 04484444) (日本ユネスコ国内委員会) 諸井三郎「山田耕筰と日本の作曲」『中央公論 80(9)』,????,1965/09(ISSN 05296838) (中央公論新社) 諸井三郎「スルヤの頃」『音楽芸術 14(8)』,????,1956/07(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 諸井三郎「私の楽歴」『音楽芸術 15(6)』,????,1957/04(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 諸井三郎「私の楽歴-2-」『音楽芸術 15(9)』,????,1957/09(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 諸井三郎「私の楽歴-3-」『音楽芸術 16(1)』,????,1958/01(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) 諸井三郎「私の楽歴-完-」『音楽芸術 16(2)』,????,1958/01(ISSN 00302600) (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社)
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/12.html
管理者プロフィール 某大学のヘボ院生だったが最近ようやく職に就く。血液型はA型。 モンゴルを「愛している」のかはなはだ怪しい(まあ「愛は盲目」と言いますし)けどモンゴル音楽に関してダラダラ研究まがいのことを続けています。 一応、日本最初のエヴェル・ブレー(モンゴルの角笛)奏者でもあります。 頭の弱い子なのでどこまでできるか分かりませんが、生暖かく見守ってやってください。 管理者の書いたもの 青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99) 青木隆紘(2008)「面白管楽器発見!エヴェル・ブレー」(『PIPERS 11月号(327)』杉原書店、pp.18-21) 青木隆紘(2008)「モンゴルの中心で角笛を吹く」(『日本とモンゴル 117』、日本モンゴル協会、pp.41-53) Такахиро, Аоки. ”Япон дахь монгол дуу хөгжмийн судлалын товч тойм”. Аман зохиол судлал БотьⅩⅩⅨ. Улаанбаатар Шинжлэх Ухааны Академи.,х.99-110, 2008.[青木隆紘(2008)「日本におけるモンゴル音楽研究の研究」(『口承文芸研究 ⅩⅩⅨ』、モンゴル国科学アカデミー、pp.99-110)]注:この論文はモンゴル語(キリル文字)です。 青木隆紘(2008)「モンゴル音楽用語小辞典」(『モンゴル研究 25』、モンゴル研究会、pp.54-74) 青木隆紘(2009)「オペラ座の牧民―ウランバートル演奏会鑑賞記その1」(『日本とモンゴル (43,2)118』、日本モンゴル協会、pp.95-111) 青木隆紘(2009)「眠れる草原の美女―ウランバートル演奏会鑑賞記その2」(『日本とモンゴル 119』、日本モンゴル協会、pp.73-88) 青木隆紘(2010)「モンゴル音楽教育事情(1)―歴史と伝統」(『隔月誌オルティンドー創刊第1号』、等豆社、pp.67-74) 青木隆紘(2010)「モンゴル音楽教育事情(2)―クラブとアマチュア芸能」(『隔月誌オルティンドー第2号』、等豆社、pp.118-125) 青木隆紘(2010)「モンゴル音楽教育事情(3)―音楽学校」(『隔月誌オルティンドー第3号』、等豆社、pp.110-116) 青木隆紘(2010)「モンゴル音楽教育事情(4)―留学・音楽家の完成」(『隔月誌オルティンドー第4号』、等豆社、pp.117-123) 青木隆紘(2011)「モンゴル音楽教育事情(5)―伝統継承の難しさその1」(『隔月誌オルティンドー第5号』、等豆社、pp.132-138) 青木隆紘(2012)「馬頭琴とは何か(特集:遊牧民の音楽)」(『もこもこ通信vol.3』、東京外国語大学モンゴル研究サークル「モコモコモンゴル」、pp.8-9) 青木隆紘(2012)「モンゴル音楽教育事情(6)―伝統継承の難しさその2」(『隔月誌オルティンドー第6号』、等豆社、pp.97-107) 管理者の行った口頭発表 青木隆紘「20世紀モンゴルにおける音楽の政治的利用への一考察」(『2007年 春期日本モンゴル文学会研究発表会』東京外国語大学本郷サテライト2007年5月20日)日本語 青木隆紘「日本におけるモンゴル音楽研究の概略」(『2008年若手モンゴル学者夏期講習会』@ウランバートル、国立教育大学2008年7月)モンゴル語 青木隆紘「モンゴルと日本の関係―音楽文化行政の面から」(『韓・蒙・中・露・日 第32次国際学術学会 North-East Asia - The point at issue』@ウランバートル、チンギスハーンホテル2008年7月)日本語 青木隆紘「モンゴル角笛「エヴェル・ブレー」から見るモンゴル音楽」(『2008年度秋季日本モンゴル文学会研究発表会』2008年11月29日)日本語 青木隆紘「モンゴル国の民族楽器オーケストラの今日」("The 25th International Conference on Mongolian Studies"February 18~22, 2009 Sangji University, Korea)モンゴル語、原稿は紀要に掲載されるも諸事情で不参加 青木隆紘「作曲家による自文化の音楽原理の発見―モンゴルの事例から」(『2009年度春季日本モンゴル文学会研究発表会』東京外国語大学 本郷サテライト2009年6月27日)日本語 青木隆紘「モンゴル音楽研究事始―『追分節≒オルティン・ドー』言説の起源」(『2009年度秋季日本モンゴル文学会研究発表会』大阪大学外国語学部 学術交流室 2009年11月29日)日本語 青木隆紘「民族の響きを創る」(『第2回滋賀県立大学モンゴル・チベット研究会』滋賀県立大学人間文化学部、2011年1月8日)日本語 管理人の本棚 このホームページ内のモンゴル関係のデータはここには書ききれないほど多くの方々に頂いたものです。特にモンゴル国の音楽家、研究者の皆様には何度お礼を申し上げても足りないくらいです。ありがとうございます!!
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/192.html
さて先天性について検討してきたが、これは教育にとってどういう意味があるのだろうか。先天的に障害がある人たちは、歴史的には教育から排除されてきた。義務教育制度においても、障害がある場合に免除されている。以前は障害者の教育は二重の義務免除があった。ひとつは障害者自身の義務が免除され、また国家も障害者への教育保障義務を免除されていた。現在では、後者の義務免除は廃止され、国家及び自治体は障害者に対して教育を保障する義務がある。しかし、障害者自身は義務を免除されることがある。これは免除であって排除ではないから問題ないのだろうか、それとも免除は事実上排除として機能する場合もあるから問題なのだろうか。 また障害のある者は健常者と同じ教育を受ける権利があるのか、あるいは独自の教育を受けざるをえないのだろうか。だれがそれを決定する権利があるのだろうか。こうした問題は日本ではまだまだ未解決の問題として残っている。(詳細は別の講義で扱うので、ここでは問題の指摘のみを行う。講義では議論をする機会があるかも知れない。) 逆に特別に優れた才能を持った人の教育はどうだろうか。日本ではこの側面の教育は行わないという意識が強い。しかし、アメリカには「天才」のための学校があり、天才はかなり若い年齢で大学に入学する場合がある。ブッシュ政権の安全保障問題のライス大統領補佐官は15歳でデンバー大学に入学し19歳で卒業した経歴をもつ。日本ではごくわずかな大学に18歳未満の入学を許可しているが、極めて例外的である。また戦前は存在した飛び級制度はまだ戦後の日本にはない。 しかし、欧米社会と日本で「才能」に関する大きな違いは、芸術教育に対する考え方や制度に現れているように思われる。日本では音楽的才能や美術的な才能が、数学や国語の才能と特別異なっているようには考えられていないし、また入学試験などで別のやり方が行われているわけでもない。一方欧米の「入試」はほとんどの場合、下級学校の成績認定が最も重要な判断材料になっていて、特別の「入学試験」を課すことは例外的である。(たとえばアメリカの難関私立大学など。)しかし、音楽学校などは特別の入学試験を行うことが普通なのである。つまり、それだけ芸術分野は特別な分野だと思われている。 20世紀の代表的なピアニストであるマウリッツィオ・ポリーニは、インタビューでイタリアでは天才的な音楽家が多数生まれているが、音楽学校はどのような教育をしているのですか?という質問に対して、「ただひたすら天才が入学してくるのを待っているだけだ。天才が入学してきたら、天才に教えることは何もないので、ただ自由にさせている」と答えている。半ば冗談であるかも知れないが、少なくとも希有の天才であるポリーニは音楽学校でこのように扱われたのだろう。 このような発想の違いは、「臨界期」のところで述べた「絶対音感」に対する接し方についても現れている。日本では音楽教育を子どもに対して施している親の間で「絶対音感」に対する意識が非常に強い。そして、絶対音感を形成するメソッドがある。しかし、ヨーロッパでは絶対音感はむしろ、才能そのものの現れと見られているようだ。もちろん努力して形成されることがあったとしても、むしろ先天的にせよ環境にせよ、努力もせずについていることが大切で、そういう者が音楽家として育っていくのだという感覚があるように思われる。少なくとも日本の音楽教室のように、絶対音感を身につけさせるための特別なメソッドによる教育活動が行われていることはないようだ。(ソルフェージュは絶対音感の形成に有効であるとされているし、また欧米でもさかんに行われているが、それは絶対音感の形成の目的で行われているわけではなく、広く有効な音楽教育の一環として行われていると考えられる。) もちろんヨーロッパのような才能をもった特別の人と一般の人の芸術教育を、原理的に区別することが適切であるかどうかは大いに議論すべきところであろう。少なくとも日本では学校教育でかなり充実した音楽教育が行われ、それが広く日本の音楽人口を形成し、そこから才能をもった人たちが育っていったことは否定できないだろう。しかし他方で、こうした特別な分野は才能だけではなく、好みが大きく分かれるところであり、広く学校教育で行うのがよいのかは、そうした「好み」というレベルでも考える必要がある。
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/22.html
モンゴルの「近現代音楽」とは何か さて、このサイトに掲げてあるモンゴルの「近現代音楽」とは何か、ここで簡単に考察を試みる。要するに音楽の近代化の話である。 この音楽の近代化とは、考えられるものを挙げていくと、楽器の近代化、作曲技法の近代化、伝達の近代化、演奏・聴取機会の近代化、聴衆意識の近代化などがある。 まず楽器の近代化について。 モンゴルには伝統的に実に様々な楽器がある。民俗音楽研究家J.バドラーの著書「モンゴルの民俗音楽」には、こんなものまで本当にモンゴルの楽器だったのか、と疑問に思えるものまで非常に多数の楽器が掲載されている。それらの楽器は第一に楽器の使われる「場」によって2つに分けられる。仏教音楽と世俗の音楽である。モンゴルではチベット仏教が生活の中心であった。ここでは多種の管楽器、打楽器が用いられる。そして世俗の音楽がある。英雄叙事詩などの弾き語りを、トプショール、馬頭琴など弦楽器を伴い、また昔は、その合間にホーミー(喉歌)が加わったという。これは時の権力者を称えたり、モンゴルの人々の楽しみでもあった。ただしこれは「アルタイ賛歌」などの自然を称えるマグトー弾き語りにおいて、宗教的な側面もあるため、一概に世俗とは言えない(上村明)。また、これらに加え、楽器の近代化とは離れたところにシャーマンの太鼓などがある。 以上のような楽器のうち、近代化、改良された楽器の代表格と言えば馬頭琴である。馬頭琴はもともと胴の部分は革張りであったらしいが、1940年、国立楽器工場でロシア人のアイデアにより板張りとなりf字孔が備えられる(ムンフトゥヴシン)。また2弦の調弦もBとFに定められた。その他細々とした改良は現在でも続けられており、弦がナイロンになったりしているが、目的は演奏のしやすさと音量の増加で、その改良の前衛は内モンゴルである。仏教音楽楽器にはブレーという一種の大きなラッパがある。これも金属のキィが付けられ、速いパッセージも容易に演奏できるようにして、改良民族楽器によるオーケストラでホルンのような役割で使われている。 それまでの楽器を改良するだけでなく、西洋の楽器の導入も20世紀、盛んに行われてきた。20世紀初頭にはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込んだし(オヨンバット)、1911年の独立後、西洋式軍楽隊もロシアから導入された(エネビシ)。またソ連からのの音楽指導員スミルノフはホーチルや馬頭琴などの民族楽器奏者にヴァイオリンやチェロなどを教えることで、手っ取り早く西洋楽器を広めた(オヨンバット)。 これらに加えて、民族楽器でのそれまでにないアンサンブル形態の創出やオーケストラの結成も楽器の近代化に入るだろう。 次に作曲の近代化の問題に移る。音楽の近代化において、特に人民革命時代初期には「作曲の技法」よりも内容の革新性が優先された。モンゴルで近代的な意味で作曲された作品の第一号とされているのは1921年の革命義勇軍の戦いの中で生まれた《キャフタの砦》である。これは民謡《青銅の神殿》の旋律を流用したもので、ガワル・ホールチ(生没年不詳、ホールチとは馬頭琴や二胡などの奏者のこと)の作とされている。この歌詞は、兵士たちの間で自然発生的に生まれたものだが、これは同時にモンゴル近代文学の始まりともされている。詩そのものは伝統的な韻文の形式であるものの、内容において、革命への士気を鼓舞するという点で新しいものだった。ちなみに「キャフタの砦を落とすときには、ガラスのカンテラはいらないぞ やってきた中国軍を、鉄の大砲で打ち倒そう」という歌詞であり、フランス革命における《ラ・マルセイエーズ》といえば雰囲気は伝わるだろうか。この《キャフタの砦》に代表されるように、この1920年代から30年代の時期は、形式においては伝統的、内容において「革命的」というもので、作曲ということにおいては、例えば行進曲調のリズムが導入されるということはあったが(モンゴル文化史・旧版)、ほとんど伝統音楽が踏襲されていたようだ。この傾向は、例えばこの時期の演劇が口承文芸の「掛け合い歌」を踏襲した形で発展していたことや(木村理子)、文学において30年代に入るまで、散文よりも韻文が主流だったことを見ても(岡田和行)、当時の文化全体に当てはまる傾向だったと考えられる。1934年に初演された初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジの戯曲による)も1943年にB.ダムディンスレンとB.F.スミルノフによって新たに作曲されるまでは流行歌の旋律を流用したものだった(木村理子)。 西洋の作曲技法がモンゴルの音楽家たちの間で一般的になったのはM.ドガルジャブが1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を、1930年代にA.エフレーモフから音楽理論を学び(J.エネビシ)、1940年に音楽指導員としてソ連よりB.F.スミルノフが派遣されて(D.バトスレン)以降のことだろう。またこの時期からモスクワ音楽院への留学生も出始める。モンゴル最初のプロフェッショナル作曲家のS.ゴンチグソムラー(1915-1991)もそうだし(ジャンツァンノロブ)、現在のモンゴル音楽界の重鎮たちの中にもチャイコフスキー記念モスクワ音楽院卒業生は多い。なお直接の因果関係があるかどうかは分からないが、B.F.スミルノフが派遣された1940年はソ連でもモンゴルでも大粛清による独裁強化がほぼ完成した時期であり(M.アリウンサイハン)、またソ連が「大ロシア政策」の下、諸共和国に対し文化的影響力を直接行使していった時代でもある(民族問題事典)。その一例はキリル文字の導入である。諸民族の文字政策(無文字文化の民族にも文字を制定し、教育を行った)はそれまでラテン文字を用いていたが、それは結局、以前は封建時代の名残があるとされていたキリル文字が使用されることになり、また新しい専門用語の現地語翻訳が禁じられ、ロシア語をそのまま使用することになった(民族問題事典)。ロシア語優位が決定付けられたのである。モンゴル人民共和国とて例外ではなく、ラテン文字、ウイグル式モンゴル文字、キリル文字の3つが教育現場で用いるために比較検討され、3つとも学習効果に優劣がない、という結論が出されていたにもかかわらず、1941年、「突然」キリル文字の正式採用が決まった(荒井幸康)。ソ連による音楽指導もこうした大ロシア主義の産物だったかもしれない。少なくともスミルノフが教えたのはロシア革命直後に見られたような、前衛的で自由な音楽ではなく、保守的な音楽理論であったようだ。 しかし何はともあれ、これ以降、モンゴルに西洋の作曲技法が広まり、音楽家たちは楽譜を用いて作曲し(近代化以前にも仏教音楽・ツァムのための楽譜が5種あった(D.ナランツァツラル)が)、西洋の理論とモンゴルの音感を融合させることに腐心するようになったのである。 現在のモンゴル音楽家たちの多くは一様に、ソ連から西洋音楽理論を学んだことを肯定的に見ており、これによって「モンゴル音楽は一地域の民俗音楽から世界音楽になった」と述べている。 次に伝達方法の近代化について述べる。先に書いた通り、M.ドガルジャブは1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を学んだ(J.エネビシ)。これを用いて1933年、ロシア人演奏家M.ベルリナ=ペチニコワと共にモンゴル伝統のオルティン・ドー、ボギン・ドー及び新時代の歌(自作も含む)を蒐集して楽譜に起こし、出版している(J.エネビシ)。この仕事においてドガルジャブは編集の一切を取り仕切ったようなのだが、これがモンゴルで出版された楽譜の第一号となっており(J.エネビシ)、ウランバートルの政治粛清記念館にドガルジャブの使っていた楽器と共に展示されている。これ以降、モンゴル国でも西洋式の楽譜が浸透していく。例えば1966年には歌というよりも語り物である、英雄叙事詩「ハーン・ツェツェン・ゾルハイチ」などまでも楽譜に起こされている。また有名なオルティン・ドーの歌い手ノロヴバンザド(1931-2002、国家最高功労賞受賞)らも自らの膨大なレパートリーをハンガリーの民族音楽学者・L.ヴァルギャスとの共同作業により楽譜に起こしている。 楽譜の他に、もう一つ近代的な音楽の伝達方法がモンゴルで採用された。それは学校教育現場で使われた「コダーイ・システム」による手を使って音名を表す方法である。「コダーイ・システム」とはハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターン(1882-1967)の確立した理論に基づく音楽教育のメソッドで、民謡、童歌を用い、体を使って子供に音楽教育を行おうというものである。日本でも一部の私立の音楽教育現場で実践されている。この中に、手の掲げた高さと形で音階を表し、それにあわせて歌う、というものがある。これは両手を使ってポリフォニーも表現できるという非常に高度なものだが、モンゴルの地方部で音楽教育に実際に使われている。私の通う大学の留学生も、特に年長の方はこれをまだ覚えていた。モンゴルでは近代化により、口承であった音楽は、楽譜や「コダーイ・システム」によっても伝えられるようになったのである。そして、このように楽譜になるということは、それだけリズムは西洋風に割り切られたものとなり、テクストも音使いも記譜されることで固定化していった、という側面も指摘できるであろう。
https://w.atwiki.jp/chikakomusica/pages/15.html
chikako musica aula 千香子音楽教室 Piacere Music☆School
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/119.html
新保祐司(2005)『信時潔』構想社 信時潔「東京音楽学校の想い出」『民芸』p32~37,1956/12(ISSN 04626133) (日本民芸協会) 信時潔「明治末期の音楽教育と私」『文部時報』p36~38,1964/01(ISSN 09169830) (文部省 編/ぎょうせい) 信時潔研究ガイド http //home.netyou.jp/ff/nobu/