約 2,138,159 件
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/229.html
道元
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/2628.html
名稱:酈道元 伺服器及顏色:5服綠類型:文 性別:男 生命值:492 武力:32 智力:20 防禦:11 敏捷:35 運勢:82 敘述:酈道元(466年或472年—527年),北魏地理學家,散文家。字善長,範陽(今河北涿州)人。他曾在平城(北魏都城,今山西大同)和洛陽擔任中 央官員,並且多次出任地方官。他為官“執法情刻”、“素有嚴猛之稱”,得罪不少皇族、豪強。北魏孝昌三年(527年),北魏汝南王元悅乘雍州刺史蕭寶夤企 圖反叛之機,慫恿朝廷派酈道元去作關右大使。蕭寶夤怕反叛的陰謀被發現,在途中派人把酈道元和弟弟酈道峻及兩個兒子一同殺害。
https://w.atwiki.jp/drrr/pages/217.html
登場人物 粟楠 道元(あわくす どうげん) 声:飯塚昭三 粟楠会会長。 粟楠幹彌の父、粟楠茜の祖父。 長男と娘はかたぎ。 娘に似ているため聖辺ルリのファン。 登場 小説 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 外 ー ー ー ー ー ー 〇 ー ー ー ー ー ー ー アニメ承 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 × ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ◎メイン、〇登場、×出番なし、ー確認中 - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/mangaka/pages/1974.html
道元宗紀をお気に入りに追加 道元宗紀のリンク #blogsearch2 Amazon.co.jp ウィジェット 道元宗紀のキャッシュ 使い方 サイト名 URL 道元宗紀の報道 地位が落ちても実直に勤めた藤原北家傍流の官人・藤原嗣宗の一生(JBpress) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 道元宗紀とは 道元宗紀の26%は鉄の意志で出来ています。道元宗紀の20%は蛇の抜け殻で出来ています。道元宗紀の18%はカテキンで出来ています。道元宗紀の13%はむなしさで出来ています。道元宗紀の10%は情報で出来ています。道元宗紀の6%は根性で出来ています。道元宗紀の3%は回路で出来ています。道元宗紀の3%は心の壁で出来ています。道元宗紀の1%は玉露で出来ています。 道元宗紀@ウィキペディア 道元宗紀 楽天売れ筋ランキング レディースファッション・靴 メンズファッション・靴 バッグ・小物・ブランド雑貨 インナー・下着・ナイトウエア ジュエリー・腕時計 食品 スイーツ 水・ソフトドリンク ビール・洋酒 日本酒・焼酎 パソコン・周辺機器 家電・AV・カメラ インテリア・寝具・収納 キッチン・日用品雑貨・文具 ダイエット・健康 医薬品・コンタクト・介護 美容・コスメ・香水 スポーツ・アウトドア 花・ガーデン・DIY おもちゃ・ホビー・ゲーム CD・DVD・楽器 車用品・バイク用品 ペット・ペットグッズ キッズ・ベビー・マタニティ 本・雑誌・コミック ゴルフ総合 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 道元宗紀 このページについて このページは道元宗紀のインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される道元宗紀に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/kt108stars/pages/2411.html
486 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/12/02(日) 01 18 40 ID ??? S=FV3で後ろからリーブレイで敵ごと困ったちゃんに殺された。 相手はコンベンションで初めて会った他人。あり得ないだろ普通。 GMに新PC作らせてもらってかなり不自然にフォートレス探索を再開するも 皆困ったちゃんのPCのヘクスから出るのを嫌がって、結局それが原因で全滅した。 困ったちゃんはボス戦とかでも戦士に前行けとか行ってたけど、 ボスごとリーブレイくらうのわかっていて行くわけがない。 全滅で終わった後も戦士がちゃんと前に行けば勝てたとかグチグチ言うから、 リーブレイうたれるのわかってて行くわけないじゃんて言ったら、 役割分担がどうだとか言い出す。自分以外のPCは弾除けとでも思っているのだろうか? 497 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/12/02(日) 01 45 45 ID ??? 468 じゃあ「お前がリーブレイ撃たないんなら前行くよ」とか 意思疎通すればいいじゃない。 連携とれよ連携。 498 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/12/02(日) 01 47 10 ID ??? 497 確認しておきながら撃つんじゃないか、そういうタイプは? で、開き直る。 まあ、俺が食らった経験あるわけだが。 504 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/12/02(日) 02 10 22 ID ??? 501 スレイヤーズ好きな奴にギャグで殺された事があるので。 理性の無い馬鹿とは遊ばないと誓ったものさ。 スレ143.3
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/399.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 6.他力の教えは、死の苦痛を和(やわ)らげる一時的な麻酔薬 道元 それに比べて、たとえば禅をやったりしてね、「自力門」で地獄へ堕ちている人もおります。ただ彼らは、もちろん自分のやり方が悪かったために十分悟っていなかったのですが、私たちが行ってですね、「いや、お前はね、ここのところを十分反省していないぞ。ここのところをもっと徹底的に考えなさい」と、こういうことを言うと、比較的早い時期にね、もう反省を終えて、天国へ還って来ます。彼らは知っていますから。自分自身やらなければ、だれもその借金を返してくれないということを、知っているんです。だから、悟りが早いんです、あの世へ行ってもね。 だから、私はね、"大衆救済"という美名はいいんですが、やはり大衆に受けるものというのは、どこかですね、どこか愚(おろ)かしいものがある。どこかやはりね、心を迷わす麻薬のようなところがある、と思うんです。 ですから、あなた方もね、今の時代であなた方に言うなら、たとえばですよ、『道元禅師霊示集』でも何でもいいから、この本を読めば救われる、と。この本一冊、たとえば、この本を五回読めば、極楽往生間違いなし。あなた、必ず天国へ行けます、と。たとえばですよ、あなたが本の扉に書いたとします。この『道元禅師霊示集』を五回読めば、必ず極楽浄土へ行けます。これは道元禅師が保証していることですから間違いありません、と。あなたがそう書いたとする。それが正しいかどうかです。 どうですか――。私はできるだけ真理を語りますが、しかし、その本が真理の書であるということと、それを各人が、たとえばですよ、五回読めば極楽往生できるということと、これは別のことです。それはその内容をどう受けとめるかという各人の問題があるからです。そうではありませんか。 ですから、他力の教えというのは、まあ一時的なですね、苦痛、死の苦痛をですね、和らげるための麻酔剤にしかすぎないのです。これは、徹底的な治療にならないです。ですから、他力から自力への道はいいんですよ。まだね、途中から心を入れかえて。しかし、それだけしかないと思えば、これはもう救う道がなくなってきます。 阿弥陀様が救って下さると思っていると、道元禅師が言ってもね、「いや、そんな人は救ってくれない」と、突っぱねるのです。「阿弥陀様のお使いですか、あなたは」と。そう聞かれるわけですね。「いや私は、阿弥陀様のお使いではありません」と。 「じゃあ、あなたは、私たちを救ってくれる人ではありません。私たちは阿弥陀如来様のお使いを待っているんです」と、こう言い張ってね、念仏行者が百人も、千人も固まってね、ナンマイダ、ナンマイダとやっているのです。未だにね。岩陰に隠れて、地獄の岩陰(いわかげ)で――ナンマイダ、ナンマイダーとやっているのです。 こんな人たちを他力行者たちは、一体どうやって救おうとしているのか、私はそれを聴いてみたいものです。 ―― それでどうなんですか、そこであくまでも、"弥陀"の救いを待っているということですが、にもかかわらず、一向にお救いがないということに対して、その人たちはイライラと、じりじりとして、反対に、その懐(おも)いを反感の方向へ持っていくような危険性はないのでしょうか。 道元 ですからね、そこがむずかしいのです。五十年、百年やると、まだ南無阿弥陀仏と言っているのに、だれも迎えに来てくれない、と。これはね、やはりこの信仰は間違っているのか、これを捨てて、やはりちょくちょく来る自力の人の言う意見に従おうとする人が、たとえば五百人の集団がおったらね、そういう人が五人、六人とパラパラと出て来るのです。 そうすると、仲間割れがはじまりましてね。地獄でね。そして、あいつらは邪宗にまどわされた異教徒だと。あいつらは破門だと。ののしるわけですね。行こうとすると、破門だと、破門だ、仲間にしてやらないぞと言う。そうすると、行きかけていた人も気になって、やっぱりそうかな、やはりそうだな、念仏で救われるということを私は信じたのだが、やっぱり数の上からいうと多いのだから、皆んなの流れに従って行ったほうがいいかなと、七人抜けようとしたのが四人ぐらい帰って来るのですね、念仏のほうに。で、三人だけが出て行く、そして、皆んな、ののしっているのですね。「あいつら、バカだ。あれは、もっと深い地獄に堕とされるのを知らないのだ。わしらは、まだこんな浅い地獄におるのは、これは念仏のおかげなんだ。それがわかっていないんだ」と。 まあ、こういう仲間割れをずいぶんやっております。まあ、やがてそういうふうに、三人、四人と、パラパラ出て行くんですが、その後、彼らがどうなったかは、残った彼ら念仏行者らは知らないんです。念仏地獄から出て行った人が、その後、どうなったか、知らないですからね。出て行った者たちは、おそらくもっと深い地獄に堕ちて行っていると思われているのでしょう。 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 道元 もちろん私は、他力というものを否定するものではありません。宗教のなかには、他力というのはあります。祈れば確かに、高級霊が応(こた)えてくれることはあります。それは、あるんですよ――。それは、自カとの相関関係なんですよ。実を言うと、自力によって悟りが高まれば高まるほど、他力の協力がまた、大きくなってくるのです。それは、あなた方にとってもそうです。 あなた方が自分として悟れば悟るほど、私たちの言葉をキャッチしやすくなるはずです。さらに上級の霊たちと話せるようになります。それは、上級の霊たちは、全然悟っていない人のところで、むずかしい説を説くわけにいかないからです。ですから、自力と他力というのは、切り離したものじゃないんです。自他力ですね。やはり自力の程度に応じた他力が与えられる。こういう相関関係があるんです。 まあ、もちろんね、今のは、自力だけをよくして、他力だけを悪く言いましたけれども、私もそういうことでは片手落ちですので、自分のことを反省しておきます。もちろん、自力で地獄へ堕ちた人もおります。先程、言いました。そうした人でも、正しく反省の仕方を教えると、天国へ来るのは早いと言いました。 ただ、自力でもね、また深い地獄に堕ちている人がおります。これは、自分の力を過信した人たちで、これは他力が秀れているところなんです。自分を過信しない。他力の人たちは、それは確かなんですよ。ところが、自力の場合には、自分を過信したと思う人がおるんですね。そして、悟りというのは、非常に個人的なもので、絶対的なもので、相対的にね、あれは悟ったというような状態というのは、なかなかわからないものなんです。 しかし、「正師」ですね。正しい師がおれば、お前は悟ったということを教えてくれるけれども、そういう人というのにはなかなか出会えませんから、実際上は分からないんですね。で、山のなかに篭って五年、十年と修行したら、もう俺は、悟ったんだと、天狗になっちゃう人がおるんですね。実際には、まったく悟っていない。が、悟っちゃった考えを持っておるんですね。自惚(うぬぼれ)ですね。自惚の世界で生きている。こういう人がおるんです。 こういう人というのは、生きていたときにすでに天狗になって、有頂天になっておる。そのまま死んで地獄に行ってしまったら、今度は、また逆に、慣性の法則というのがありまして、そうした修行で悟ったと思ったから、今度はもう、逆の方向へ動くのが大変なんですね。何でまた、自力で悟ったはずなのに、これが間違ったのか、これがわからなくなってくるんですね。正しいモノサシがないと。 ですから、自力門でも、道を間違うと地獄のどん底に行くことがあります。過信してね、天狗になって、間違っているのに、悟ったと思っている人びとに嘘を教えたりしているとそういうことになります。そういう意味で、自力の危険性も、もちろんあります。 おもしろいことに、他力信仰で地獄に堕ちた人たちは、私たち自力で悟った人たちが、高級霊が行って、救っているのですね。そして、自力門で地獄の底へ堕ちている人は、他力門の人が行って、救っているのですね。これもまあ、おかしなことだなと、私は思っているのですが、そういう自力門で地獄に堕ちたという人は、要するに、そうした謙虚さがないのですね。神仏の前に謙虚さがないんで、他力門の人が行ってね、それこそ、「阿弥陀如来」の救いの大切さを一生懸命説いています。神仏の前に掌を合わせなさいと、頭を低くして、その慈悲に期待しなさいなどと、他力門の人が行って、救っている姿があります。 たとえば、自力門の人のところに、私、道元が行ってね、「お前は、こういうふうにしろ」と言っても、「いや、派が違う」と、言い返す人がおるんです。「お前のやり方ではない」とね。同じ自力でも、俺は違うんだ、と。とくに密教をやった人などは、まあ、あなたもご関係があるかもしれないけれど、密教をやった人などは、どうもいけないですね。密教をやった人などは、どうもね、悟りというのは、超能力を持つような方向にとられる傾向があるのです。 そして、自分は超能力を受けたのに地獄におるのはどうもおかしいと言い張っているのですね。私は、「いや、そんなんじゃないんですよ、心静かにね、自分の心を鎮(しず)めて、自分のやってきたことを静かに振り顧(かえ)ることが大事ですよ」と訓えるんです。しかし、そういう人は、「それは道徳論じゃありませんか。あなた、そんなこと悟りじゃありません。悟りというのはね、こういう"即身成仏"です。こういうふうな構えをして、こういうふうに念力を込めていると、偉大な奇蹟が起きるんです。それが悟りなんです」と。こう言っている人がおるんです。 こういうのは、密教の行者にとくに多いです。法力ってやつですね。実際、彼らは法力を持っているんです。それは、密教でね。修行すると、法力がついている人がおるんです。法力というものがあって、これは、ある意味では、念の大きさですね。念が強く、大きくなることがあるのです。 ですから、地獄へ行っても力を持っているんですね。自分らは、まだ悟っていると思っているんです。そして、地獄で力を持っているもんだから、けっこう大きい顔しているんです。地獄というのは力の世界なんです。力の強いものが勝つんですね。弱い者は、言うことを聞かざるを得ない。そうするとね、そうした密教の行者などで地獄へ行っている人は、法力があるもんですから、地獄でいばっているんですね。 地獄で何人もの人がね、五人、十人の人が襲いかかっても、「エイッ」とね、手で九字を切るとね、皆んな、ボーンと遠くへ飛ばされてしまう。どうだ。俺様の力はと言っているのですね。そうすると、皆んな、ヘェヘーと平伏しているわけですね。最初来たときにはね、自分は地獄におるんじゃないかと、暗くて、うす暗くて、どうも変だなと思っていたんでしょう。そういう人が、だんだん眼が慣れてきて、棲(す)むのに慣れてきて、そして、自分の法力を過信してやりはじめると、今度は、周囲(まわり)の人を従えていくのに快感を覚えていくようになります。だんだんね、――俺の言うことをきかないと、お前を動けなくしてしまうぞとかね、金縛(かなしば)りですね。こんなことをやっているわけです。あるいは、岩を持ち上げたり、砕いたり、こんなことがだんだんできるようになるわけです。 日本の山岳信仰の行者にも、滝行やっていた人たち、皆んな、念力が強くなっていますから、地獄でいばっているわけです。で、こういう人たちが、千年ぐらい経つと、地獄の悪魔になってくるんです。最初は元の行者として、あるいは、密教行者として、仏の道を修行していたという気持ちがあったのが、だんだんそれもなくなって、力だけを過信して、要するに、他人が自分に従うのが楽しいものだから、子分をどれだけつくるかと、そういうことに奔走しはじめるのです。言うことをきかすのにね。まあ、人間そういうところありますわね。自分の力に、人が従うのがおもしろいですからね。ただ、こういうのをいけないと思うか、思わないかという一線があるわけですね。こういう世界なのです。 大体悪魔とかいうのは、東洋で言うと、そういう自力論者の法力だけを求めた人たちだけが悪魔になっているし、西洋でももちろんあります。そういう人たちは、これはまた、始末におえないのですね。念仏行者では、まだ、なかなか悪魔になりにくいのですけどね、お題目唱えているだけでは。そういう意味では、他力信仰の方がたというのは、地獄に堕ちても、まあ低いところの地獄におるということは、確かに言えるかもしれない。そう深い地獄までは、なかなか行かないかもしれない。ところが、自力の人で、間違って地獄へ行った場合には、かなり深いところまで行ってしまうこともあります。方向が間違えばね。 その代わり、天上界でも同じことが言えるのですね。念仏唱えていて天上界へ入った人も、そう高い悟りではないですね、はっきり言って、念仏というのは。念仏だけ唱えて、如来菩薩にはなれませんよ。それで、菩薩に還った人は、もともとの心性の高い人ですからね。宗教として、はじめて念仏に出会って、天国に来たという人は、それだけじゃあ無理です。 念仏には、たとえば、人を愛する「愛」がありません。あるいは、自分をつくっていこうとする「努力」がありません。たとえば、六次元神界というのは、自分をつくっていこうとしている人ばっかりが集まっています。努力してね、勉強して自分をつくっていこうとしている人が六次元に集まっていますが、そういう念仏行者では、六次元へさえ入って行けません。それはそのはずです。自分をつくっていこうとしないからです。救いばっかりを求めているんですからね。ましてや、人に愛を与えて生きていくような生き方、七次元の菩薩界の生き方というのは、もっとむずかしいです。そういう意味で、「念仏」による悟りというのは、非常に浅い悟りでしかありません。悟った人もね。 ところが、自力の場合は、体当たりで悟った場合には、やはり菩薩、如来の境地まで行く可能性というのが非常に強いわけです。それは、自分で高めていく、自分で自分を高めていく道というのは、限りがないからです。限りがないのです。そういう自力の修行というのは。 それに比べると念仏には限りがあるのです。限りがないとすれば、何百万回唱えるかということに限りがないぐらいあってね、そんなもので偉くなれるわけがないぐらいは当然のことです。ですから、自分の境地を高めて行くという「段階の法」があるという意味において、自力というのは秀れているのですね。ところが、他力門には、段階の法がないんです。底辺を救おうとしたのかもしれませんが、いわゆる段階の法がない。その意味においては、他力門では、その後、傑出(けっしゅつ)した人物が出ていないはずなのです。出ないのです。 ですから、自力門というのは、そういう師ですね、ちゃんとした指導者さえおれば、皆んな、正しい方向へ行けるのです。ただしかし、その正しい指導者を出すということがむずかしい。そのために、素晴らしい光の指導霊たちが出て、しっかりした教えを残しておかねばいけないということですね。きちんとした"テキスト"を残しておくべきです。そのテキストが間違うと、皆んな、狂ってしまうから。 そういう意味では、あなた方が出している「霊言集」もね、これもひとつのテキストだと思うのです。これを読んでね、心を修正して、間違いのない方向で修行せよということでいいと思うのです。やはりなかを読んでね、書物の中味を読んで、自分の血や肉にして、悟っていただかないといけないんです。 『道元禅師霊示集』の本を置いてね、カバーを枕元に置いてね、――道元さん、救って下さい。道元さん、救って下さい――と言っても、私は返事はしません。私たちは、あの世で修行しているんです。ですから、――道元さん、どうか救って下さい。極楽往生、お願いします――と言っても、私は聴きません。そんなことではないからです。まあ、自力、他力のことをお話ししてきたわけですが、これについて、何かご質問がございますか。 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない ―― 「自力門」「他力門」のそれぞれの欠陥、長所というもの、あるいは、この教えを信ずる者たちの悟りの浅さ深さによって、その行く霊域というもの、とくにその認識の過った場合の地獄での各人の様態というものを、くわしくお説きになり、お教え下さったと思います。 さて、今ひとつ、第三の境地と申しますか、自力、他力という単一の教えではなく、自、他が合一された「絶対力」の教えというものが、現在日本神道系の方によって称えられているわけでありますが、このような教えに対するお考えというものは、如何なものでしょうか。 道元 まあ、絶対力と言葉で言うのは簡単ですが、その教義の内容について、少し教えていただけますか――。 ―― それは――、神は光一元である。愛一元、善一元である。従って、本来、闇なし、病なし、悪なしである。この高度な光一元の教えを信ずることによって、人びとは、精神だけではなく、この世的にも、物質、家庭、環境にも恵まれ、幸せな人生が送れるということであります。 道元 それじゃあ、「他力」と違わないじゃないですか、どこが違うというんですか――。 ―― いや、それは、先程の他力論とはまた違うのであって、何もしないで、"阿弥陀仏"の名号だけを唱えておりさえすれば、それだけで、「弥陀」は救って下さるんだというのではなくて、あなたもご存知の"観法"によって、それもただ漠然と坐って、無心になろう、無心になろうと念っているのではなく、まず、神の愛を信じ、天地いっさいのものと和解し、すべての人、すべてのものに感謝の念を捧げる。 そして、神は光一元、愛一元、善一元であると信じ、その光と愛と、善なる神の無限の恵みを全身に浴びて、自分が心身ともに神の子として、清浄に浄化されていくと念ずる"観法"を日々行ずる。そうすることによって、自分も、また自分の環境もともに、円満具足(ぐそく)の世界を現出することができるのだという説であります。 道元 私は、その「絶対力」という考えはまやかしだと思います。どうもそれはね、自力と他力のいいところだけを合わせたようなつもりでいるけれども、実際上の問題として、他力のもっと極右ですね、極端な他力だと思いますよ。いわゆる他力以上の、極端な他力だと私は思います。それは、自力と他力のいいところだけを採ったようなつもりで、そして、自分はそれを総合したようなつもりでいるけれども、それは違うと思います、私は。ほんとうの意味で、自力が分かっていません。たとえばですよ、今の考えのなかでは……。 ―― まあ、ご承知かもしれませんが、最近我が国で、"万教帰一"という教えが神道系に出ておりまして、そこでは、先程も申しましたように、三千世界は神の光一元、善一元の世界であるということを認識することであり、その認識の方法としては、その宗派から出ている「法典」を修得することである、と。あるいは、独特の「観法」によって、日々心の浄化をはかることであるというお説であります。 道元 やはり、それは他力です。自力ではありません。なぜなら、その教えには、"反省"というのがない。反省がありますか。 ―― その反省というのが、今ひとつ足りないようにも思いますが――。 道元 ないはずです。少しないではないのです。ないんです、もともと。ただ、そういう仏教を学んでいるから、それらしきことも多少は言うかもしれないけれど、教えのなかに反省がないんです。 仏教の基礎は反省なんです。自分の心の曇りは自分自身が晴らさないでは、晴らしてくれないです。だれもが。これが仏教の基礎です。その考えで言えばですね、反省がないはずです。なぜないかと言えば、曇りが本来ないということなので、曇りがないというから、反省がいらないのです。だから、他力です。自力じゃありません。 ―― 自分は神の子であり、本来善のみ、悪なし、病なしである。それが、曇りが、病があるように見えるのは心の迷いである。この迷える心に神の光を当てれば、それらの現象上の迷妄(めいもう)は消えていくのだと強く信じることであると説かれるわけです。 道元 もちろん、その方向は、素晴らしい人は、ますます素晴らしい人が出て来ます。ただ、間違えば、やはり傲慢(ごうまん)な人、あるいは、狂信者たちが出て来るはずです。あるいは、自分を非常に合理化する、自分の立場を合理化する、非常につごうがいいですね。こういう教えというのは、政治と結びつくと、非常に危険なところがあります。たとえば、政治と結びつけばですよ、闇なし、迷いなし、反省なし、で、好きなようにやればいいんです。そして、それは神の教えだと突っ走ってしまえば、大変な方向へ行ってしまいます。 非常に危険です。なぜなら、ブレーキがないからです。アクセルだけがあって、ブレーキがない教えというのは、非常に危険であります。その教え、あなた、よく見てみなさい。絶対力と言いながら、アクセルはあるけれど、ブレーキはないはずです。アクセルのみあって、ブレーキがない車というのは、非常に危険だということです。それは、道がまっすぐで、他の車がなければ事故は起きません。アクセルだけでいいです。皆んな、まっすぐ走っとればいいけれども、皆んな、同じ方向へ走っとればいいけど、ときどき横から出てきたり、向かいから対向車がくる場合、ブレーキがなくて、どうしますか。 自分は神の子でいいですよ。他の人は、神の子だと思っている人ばかりならいいですよ。皆んな、同じ方向へ走る車だから、アクセルだけあればいいですよ。アクセルはずせば、自然に車は止まっていくでしょう。ところが、対向車というのがあります。人生においては。対向車というのは、これは神の子であると信じていない人たちなのです。ね、対向車がくるのです。そのときに、危ない! やはりブレーキは踏まないといけないではないですか。 ですから、確かにその教えは素晴らしいところがあります。天国においては、そのとおりです。神の子ばっかりが集まっているところでは、それは反省もありませんよ。ね、皆んな、素晴らしく活(い)かしあっていますから、大調和の世界です。それはそのとおりです。 ただ、地上においては、必ずしも正しくない。それは、"神理"の半面しか見ていないということです。地上においては、車でありながら、左側通行ではなくて、右側、走ってくる車もあるんです。地上ではね。そういう混乱した車、あるいは、酒酔い運転ですか、酒を飲んで車を運転することがあるんです。こういう車を避けるためには、やはりブレーキがなければいけないんです。 その教えではね、そういうブレーキというのは、酒を飲んで運転しているとか、右側を走ってくるような車を想定していないんだと、そんなものは、本来、ないんだと、神の子というのはまず間違いがないんだ。神の子というのは、皆んな、左側を通って、車間距離を守って走るんだと、神の子というのは、だからブレーキがいらない。本来、ブレーキいらずだ、と。アクセルのみあればいいと、神の子は、皆んな、左側を一列に並んで、車間距離をとって走るんだと言っているんです。 実際、そうじゃありません。いろんな人がおります。あの世では、そのとおりですよ、しかし、この世では違います。いろいろと乱暴に運転するのがおります。ブレーキがないと困るんです。他の人を信頼して、ブレーキはいらんと言っているけれど、ブレーキはいるんです。 この人生のブレーキというのは何かと言うと、これは反省であります。心の曇りはないと言い切ってもいいけど、やはり出てきます。これを三次元的に見れば、それは真理です。七次元、八次元の人に心の曇りがあるかと言えば、それはないでしょう。おそらく。それはそのとおりですよ。本来、ないです。神様に曇りがあるわけは、ありません。もっと高次元へ行けばです。ただ、三次元という立場に立つなら、それは間違っています。 ですから、その教えを、つまり、「絶対力」というような非常にいい教えだと思っているようだけれど、ブレーキがないところが、私には非常に危険が感じられます。とくに政治権力などと結びついたときには、大変なことになってしまいます。ひとつの権力者を出してしまうことになるでしょう。私は、その教えを知らないわけではありません。その教えを説いた人も、もちろん、光の指導霊であることを私は知っています。 ただね、そういう指導霊がおるときには、その教えは正しい方向におそらく導かれるでしょう。しかし、やがてね、それが時代を下ってきて、凡愚な指導者たちが出て来たときに、大変な間違いを犯すおそれがあるということです。先程も言ったように、その教えは、要するに、自分がやりたいことを合理化する、説得する材料になりやすいからです。反省というブレーキがありませんから、ときの権力と結びついて、神の国を実現するんだなどと、もうやりたい放題やれば、かつてのヒトラーみたいな人間が出ないとは限りません。 ブレーキがないということは、怖いことです。ブレーキをつけることによって、車の構造が変わって、スピードは出ないかもしれないけれど、やはりアクセルとブレーキとがあってはじめて、車というのは進むのです。人生というものも、やはり車によってね、道を運転するようなものです。ですから、アクセルとブレーキと、両方、いるんです。人生においては。まあ、反省のない教えというのは、非常に危険だということ、これだけを私は言っておきます。以上が、自力と他力の大体の話でございますが、それ以外にどうですか、何か質問がございますか。
https://w.atwiki.jp/happy_physics/pages/74.html
→主観以外
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/181.html
〈メモ〉 道元・親鸞や儒学者等の体系的思想・頂点的思想家のみが日本思想史として記述されがちだが、思想に対するこの見方は根本的に倒錯している(亀山2003)。なぜなら、思想とは生活過程の諸事象・諸問題の観念的表現として第一義的には生活思想であり(正確には、「生活思想からの制約を受けており」)、その抽象化・理論化が体系的思想(さらには哲学)である。確かに体系的思想は一旦確立するとその“普遍性”故に生活過程の意味づけを規定する面がある。だが、それも生活過程にリアリテイをもつ故に可能であり、体系的思想の“真理”性によって必然的に生じるものではない。それ故思想の発展は第一義的には、生活過程の問題解決を軸として生活思想の次元でなされ,そのような生活思想は民衆自身の主体性の自己表現でもあった。体系的思想の発展はその理論的表出ないし問題解決の鏡(参照点)として生じ、それ故に意義をもつのである。 →亀山 和辻は、処女作から『倫理学』まで、デカルト以降の西洋近代哲学が「我」の確立とその完全な中心化によって発展したことに対して、一貫して対蹠的な態度をとる。その一方で徹底的な緻密さと理論を求めていた彼が注目したのが、道元の『正法眼蔵』である。前節で扱った「感受」において現れる「存在するものの法(=範疇・形式)」の原型となる思想が、道元の禅の議論に基づいていることを指摘し、環境プラグマティズムと生活環境主義に残されていた課題の克服の方法として位置づける。 →太田修論 本覚思想の自然観が現代環境思想に示唆する点の一つが、人間とコミュニケーション関係の内にある自然を示唆する点である。そのことは、先の引用からうかがえるように個別の自然現象の内に法(真理)を観ずるという関係に典型的である。それは逆に、13世紀の道元が先鋭的に言うように、今目の前にある山水がそのまま(真の)自己そのものであるという関係でもある(木村清孝、日本仏教学会編『仏教における共生の思想』平楽寺書店、2000年)。このような関係は人間と自然が静的に対時するのでなく相互に響感しあうあり方であり、法ないし自己はこの響感の内に現出する。このようなコミュニケーション関係は和歌の技法としても展開するが、この面を言うだけでは、欧米の神秘主義的自然観と同様に、観照的-情緒的関係や宇宙・真理との抽象的一体関係に還元されやすい。 1.道元における自然の問題 現代のエコフィロソフィーや環境思想論において西洋近代思想批判と一体となって東洋思想に学び日本の伝統思想を再評価すべきことがなお強調される。だがこの強調は、ともすれば情緒的な伝統思想賛美論や文化ナショナリズム論に傾斜する危険性ももつ。この危険を回避して東洋思想や伝統思想がどう積極的に寄与しうるかを、人間自然関係論と仏教思想を例にあらためて考える。 伝統的自然観を現代に生かすことを検討する場合、あらかじめ留意が必要である。東洋的自然観や日本的自然観はしばしば、人間と自然を融和・合一させる思想として、現代の環境問題を招いた西洋や近代の、人間と自然を対立させる思想を克服する普遍的思想だと称揚される。老壮思想や儒教哲学、仏教哲学、あるいは空海の密教哲学、親鴬の自然法爾思想、道元の自然観など、東洋のいろんな頂点的思想の普遍的意義が取りざたされてきた。なぜ鎌倉仏教はフィーチャーされているのか? 末木文美士「日本仏教史」(新潮社、一九九二年)は、研究者や一般の関心が鎌倉新仏教のみに注目し、平安仏教の研究や理解が「遅れて」いる理由を二点に整理してこう言っている。「第一は実践面で、易行化、すなわち誰にでも可能な容易な実践法をたて、それによって初めて仏教が民衆のものになった。これに対し平安仏教の修行は一般庶民とは縁遠く、所詮、貴族の仏教であり、鎮護国家の仏教であったと考えられた。第二は理論的で、親驚や道元の思想を宗教哲学として今日でも第一線で問題にされるような高度な内容をもっており、またそこに日本の社会に適応した仏教の日本化がみられる。これに対して平安仏教は、所詮、祈祷仏教であって、思想内容に乏しいと考えられた。」(新潮文庫版、86-87頁)。 人間とコミュニケーション関係の内にある自然を示唆する点は、個別の自然現象の内に法(真理)を観ずるという関係に典型的である。それは逆に、一三世紀の道元が先鋭的に言うように、今目の前にある山水がそのまま(真の)自己そのものであるという関係でもある(木村、前掲書)。このような関係は人間と自然が静的に対時するのでなく相互に響感しあうあり方であり、法ないし自己はこの響感の内に現出する。このようなコミュニケーション関係は和歌の技法としても展開するが、この面を言うだけでは、欧米の神秘主義的自然観と同様に、観照的情緒的関係や宇宙(真理との抽象的一体関係に還元されやすい。 2.仏教における自然の問題 3.如法的自然と科学的自然 4.万法と自己 5.渓声山色 6.山河をみるは仏性をみるなり
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/401.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 14."道元禅"の限界について 道元 まあこれはね、ある程度の自慢になりますが、ただ逆にね、私の限界もそこにあったということです。つまり、真剣に生きるということは、「道徳」をつきつめた生き方でありますわね。まあ、その段階にしかすぎないということ。悟りそのものではないということなんです、これは。要するに、私は、先程、二段階の悟りということを申しましたが、三次元的地上の悟りではあるのです。もう他人(ひと)は是、我れには非ず、と。我が修行して今に生きるんだと――。これは三次元の悟りです。 しかし、四次元以降、多次元世界の悟りにおいては、これは語っていないんです。はっきり言って、これではいけないですね。だから、宗教家というのは、この三次元とあの世ですね、多次元世界との間に、いわば黄金の懸け橋を掛ける役割なんです。ただ、懸け橋というのは、片側だけでは掛からないです。両側に掛けねばいけないですね。ですから、私のは、片方だけあって、もう一方の片側がなかったということですね。橋を掛けてなかった。では、あの世的な悟りとは何か。やはり肉体として、肉を持って生きていた私は、そこがわからなかったということですね。 まあ、現にこれはね、他にね、あなた、禅宗の方がたとも話をするんでしょうが、これはね、禅の限界でもあるんです。『無門関』とか、いろいろあるでしょうが、禅のほうでの悟りというのは、結局、ある意味において、私は悟っていないと思う。悟っていないというのは、その禅における悟りというのは、感触でしかないのですね。そういう雰囲気ですね。何かそういう違った自分ね、今までとは違った自分、「はっ」と思う、これを悟りと言うとるんですね。禅では。しかし、ほんとうは、はっと思うだけではすまないんです。「はっ」と思うのは、これはきっかけなんです。悟りの契機であり、きっかけであるけれども、悟りそのものの内容ではないのです。 たとえば、私の書いた本のなかにね、私は一度北陸のほう、北陸というか越前の「永平寺」ですね。ここへ行ったときのことなんですが、雷がずいぶん降っていましてね、雪がずんずん、ずんずん降っていましてね。私はその大自然というかね、北陸の大自然に心打たれたことがあります。そこで、「大地雪満満雪満満」そういうことを私、書いたことがありますが、その白い雷がね、神秘的に空から降ってきて、この地上をうずめつくしている相(すがた)。それは、この世のものであって、もうこの世のものではないような、そうした永遠の神秘を感じさせられるものであった――。 そういうものを見たときに、人間は、この世の世俗から離れて、どこか遠い世界へ、どこか遙かなる悟りの世界へ導かれるような気になるのです。「大地雪満満」だけどもね、その満満と雪が降っていても、それは日常生活から離れて、心があの世へ旅立つきっかけとはなっても、それ自体は悟りではないのです。 あるいは、昔のある僧侶は、禅僧というのは、まあ春ですね、春に丘を登っておって、「はっ」と振り返ると、そこに桃の花が咲いていた、と。その桃の花が一面に咲いて、下界に、素晴らしい霞(かすみ)たなびくような桃の花が咲き広がっていた。その桃の花の一面に咲いている風情(ふぜい)に心打たれて、「はっ」と悟ったということになっている人がいます。たとえばね、禅のなかに。しかし、それは悟っていないんです。悟ったのは、この世の世界のなかに、この世ならざるものを感じた。そういう永遠の世界を観じたということなんですね。 これは、ギリシャの哲学で言えば、プラトンという人が言っている「イデア」の世界ですね。このイデアの世界というのは、実は、そういう意味での悟りなんでしょうけどもね。「はっ」と思う、この世ならざる国ですね。これを感じたということ。ですから、私は禅の悟りというのは、ある意味において、三次元において三次元ならざるものを感じると、感知し得たということをもって悟りと言っているようなものですね。 あるいは、『無門関』第五則に出てくる香厳和尚(きょうげんおしょう)が、大燈国師の遺跡のある武当山で自らも庵(いおり)を結んで、竹を植え、住んでいた。あるとき、香厳が道路を清掃していると、箒(ほうき)で撥(は)ねた瓦(かわら)の一片が、竹林の竹に当たって、カーンと澄んだ音を立てた。彼は、それで悟った。と言っておりますが、あなた、それで悟ったと思いますか。 あなた、現在仕入れた知識、あの世のこと、この世のこと、いろんなこと考えた高級霊たちの話を聴いていた。どうですか。いくら修行していてもね、それで、瓦のかけらが竹にカーンと当たる音を聞いて、それで悟ったと彼は言っているが、あなた、それで悟ったとほんとうに思いますか。 それは、錯覚と言うんです。それは錯覚じゃないが、永遠なるものを感じたという意味でね、日常性を越えた何かを感じたのです。もちろん。あの世の世界の実在を感じたということですね。それ以上のものでは残念ながらないですね。その瓦のかけらが竹に当たって鳴る音を聞いて、如来や菩薩の悟りが聞けるかと言えば、聞けません。そうしたもんじゃありません。それは、あの世があるんだという、この世とあの世との一体化したような感じですね。そのようなものを感じ得たということですね。 ですからどうも、禅の流れを見てみると、その箒で掃いていて、瓦のかけらがね、竹に当たって、カーンと鳴るその音で悟ったというたぐいが、どうも多いようです、その後もね。悟りは思想じゃないんだと、そうした一瞬うちにとらえる感性なんだ、と。これもひとつなんですよ。これは悟りへのひとつのきっかけなんです。あくまできっかけであって、悟りそのものではないと思うのです。 ところが今もね、営々として、そうした議論が続いておって、坐禅を組んでいる人たちは皆んな、何か、「はっ」と思うものばかりを探しておるんです。はっと思う。はっと思うぐらいであればね、道を歩いておれば、綺麗(きれい)な女の子が通りかかって、「はっ」と思うことなど、いくらでもあるんです。しかし、それは悟りじゃないんです。綺麗なものが通って、「あっ、きれいだな」とは思う。これが悟りだと言っているんですね、要するに。たとえば、渋谷か、どこかの坂道を歩いている。と、綺麗な女子大生が来た。すれちがった。そこで、「はっ」と思った。振り返って、好みのタイプだなと思った。 これをもって、悟りとするか。否(いな)であります。これは、つまり、美しいものを見ただけであります。こういうように、「禅」の悟りというものを、自分か求めていた美しいものを見たということをもって、悟りとしているということが多いのです。これは誤りであります。これを超えていかねばなりません。 私も「道元禅」をつくったけれどもね、私自身が真に悟っていなかったために、後世の者たちがまた、それを真似(まね)る。ですから、悟りとは、何か分からない、もやっとしたものだと、ベールに隠されていて、文字によって説明できないものだと、こういうことになっています。何だか分からない、何とも言えないのがいいんだ、と。そういう不立文字もいいけれどね、どうもそういう神秘めかしたものに悟りがなってしまったようです。 ところが、悟りというのは、かなり明瞭なものです。結局ね、悟りとは、まあいろいろな言い方があるでしょうが、人生の使命を知るということですね。三次元の立場に立てばですよ。人間がどこから来て、なぜ人生修行して、そして、どこへ行くのか。なぜ人間が永遠の転生輪廻していくのか。神仏はどういう意図でもってね、人間に地上生活を送らしているのか。で、地上生活を送っていくうちにね、どうした生き方をするのが神仏の心に適(かな)っているのか。はたして、あの世の高級霊たちの導きを受けることができるんだろうか、まあ、こういうことを知るのが悟りですな、はっきり言えば。 だから、悟りというのは、言葉で説明できるんです。言葉で説明できないものとするのは、単にできなかったから、そう言っただけであって、できれば、そうすべきなんです。言葉で言えないようなものは悟りじゃない。しかし、そういう雰囲気に酔っている人が、非常に多い。とくに現代を見ていると。こんなもんじゃない。これは、あなた方に、言っておかねばなりません。 どうもね、禅をやる人というのは、そういう傾向が多い。人に分からないようなことを言うと、要するに、悟ったような気になる。人と議論して、要するに、煙に巻けば、それで自分のほうが上のような気になる。外人に説明して、外人などには分かるわけはない、と。この不立文字の世界はね、青い目をした外人などには分からない。こう言っているわけですね。この分かったようで分からないとこがいいんだ、と言っている。これは、言っている本人が分かっていない。 禅、というのは、パズルじゃないんだから、これはちがうんです。悟っていない人たちが、そういうことを言ってきたから悟れないんです。そういうことです。これが禅、の限界であります。ですから、そうした眼に見えない、分からないものを感じるのは、悟りのきっかけであって、この世的なものじゃないものを感じるのは、悟りのきっかけであって、坐禅をしていながら、そういうことを感じることがあるでしょう。永遠の今をね、感じることがあるのでしょう。これは悟りじゃない。悟りへのきっかけ、契機である、と。そういうものを感じたら、皆さん、どうかそれを大切にしなさい。ただその一歩奥を、一歩奥を踏み込んでいかなければいけないのです。 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 道元 まあ、私もできなかったことですけどね。そういうことで、地上にいたとき、私は、神界の悟りしかなかった。そしてまあ、あの世に還りました。あの世でもね、まだまだね、自分が修行しなければいけない、と。一生懸命修行に励んでおりましたけどね。 まあ、偉い方がたがね、如来や菩薩が来て、おっしゃるには、「道元よ!」と、「お前は、何をあくせくしとるのか。お前は、何か努力しなければ悟れないと思ってるようだが、そうじゃないんだぞ。お前自身は、もう神仏の子供そのものなんだぞ。お前は、努力してあくせくすれば悟れると思っているけど、そうじゃないんだ。もっとおおらかな気持ちを持って、自分の使命を悟れよ――」と、こう私は聴かされました。 私は、「いや、でも努力しなければ悟れないんじゃないですか」とうかがった。するとまた、こう言われた。「道元よ、それが神界の悟りなんだ。自分が勉強して悟れると思っているのは、まだ六次元神界の人間なんだ。菩薩の世界では、自分が勉強して、人以上に勉強してね、やらなければ悟れないなどとは、菩薩の世界の人は思っていないんだ。菩薩の世界の人は忙しく、人助けに忙しくて、自分を人より高めるなどということは言っていないんだ。自分を捨てて、人を救うために、ただ邁進しているんだ。それが、お前、菩薩の境地だぞ。だから、お前は、そういう自分という執われを捨てなければいかんぞ。自分が、自分が、と思っているうちは、人は救えない――」 こういうことを、私は如来や菩薩の人にずいぶん言われました。そしてまあ、そういうことを言われて、自分なりの修行、自分の形というものにね、どうも執われていた自分というものを反省しました。そしてまあ、何百年かしてね、しばらくして、まあ、菩薩界に上って行ったわけです。今、菩薩界で私が勉強しているのは何かと言うと、――恥ずかしながら、これは「愛」です。 「愛」とは何か、ということを今、私は勉強しています。「禅」にはね、まあ、どうしても、愛がないんです。自分が悟ろうとしても、どうも愛がないんです。自分が悟ろうという、ある意味では、自分を高くしたいという気持ちになってしまうんですね。純粋な気持ちもあるでしょうが、どうしても、人を活(い)かす、という気持ちが、禅のなかにはない。それどころじゃないんだと、自分で手いっぱいだというのが禅、なんですね、どうしても。 お釈迦様のほんとうの気持ちはというと、禅定して悟りを開いた後に、人びとを救う。そういうことがほんとうだったのですね。釈尊の本意は。ところが、釈尊の悟りを開くまでを延延(えんえん)とやっているのが、今の坐禅なんですね。これで止まってはいけないんです。悟りを開いて実践をしなけりゃいけない。ところが、開く前で止まっている。それは悟りを開けないからね、開いたらもちろん説きたいんだろうけど、開けないから、開く前で止まっている。釈尊が本領を発揮する以前のところで止まってしまっているんですね。これが私の教えの限界でもありましたし、私の修行の限界でありました。 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 道元 皆さん、悟るためだけの修行で一生送ってはいけないんです。悟りの段階はいろいろあるんです。一生かかっても悟れません。ただ、自分の得た悟りの段階で、やはり他の人びとを救っていくことが大事なんです。 先程言ったアフリカの話ではありませんが、アフリカを知るまでは、アフリカの話はできない、と。こんなこと言っていたんでは、地理の先生は務まらないんです。歴史の先生は務まらないんです。自分はアフリカや、アメリカや、あるいは、イギリスヘ行ったことないから、これらの国の政治、経済、歴史のことは話せないと言っていたら、地理の先生は務まりません。高校の社会の先生は務まりません。行かなくとも、務まるんです。それはやはりね、仕事ですから、自分の全力をつくして、知れる限りを言えばいいんです。 英語にしてもそうです。英米人と同じように話せるようになったら、英語を教えられるかと言えば、そういうわけではない。自分がマスターしただけの知識でもって、子供たちに英語を教えるんでしょう。そうしたもんです。ですから、皆さん、小さな悟りに執われずに、要するに、人びとを導いていく、愛していくという気持ちを忘れちゃいけない。悟らなけりゃ教えられないという考えもありましょう。けど、悟りには限りがありません。そして、悟りというほんとうの感激はなくとも、知識として悟り得ることはできます。 自分たちが知り得た霊的知識があります。それを他の人たちに伝えていくこと自体はできるはずなんです。ですから、道元自体が、つまり、「道元禅」をはじめた道元自体が、そこでゆき当たって、今、「愛」の問題を研究しているということを、どうか地上の皆さんに知っていただきたい。 やはり最後はね、宗教というのは、最後は、神仏の道というものは、多くの人たちと手を相携えて、生きていくということなんです。ひとりひとりの小っちゃな殼(から)に入ってはいけない。釈尊が妻子を捨てて山に入り、坐禅を組んだのは、結局、多くの人たちを生かすための、あれは大いなる修行であっただけであります。修行そのものが目的であったのではないのです。修行を捨てたときに、彼は大いなる悟りを開いたのであります。 そういう菩薩行というのを、どうか皆さん、大切にして下さい。禅、をやっている人は、キリスト教の人たちが奉仕をしているのを見ると、馬鹿みたいに見えるかもしれない。何も知らないのに奉仕ばかりしている、と思うかも知れない。けれども、やはりあれは、教えの一面なのです。だからあれを捨てちゃあいけません。 まあ、人生の悩みを解くためにね、坐禅に行っている人たちがいっぱいいるけれども、坐禅ばっかりでは悟れません。私は悟れなかったんだから。 ましてや、後世の人たち、私の教えを受けた僧侶に指導を受けても、悟ることはできないです。もっとも、何かをつかむことはいいです。自分の悩みを解決するために、何かをつかむことはいいですが、あまり悟り、悟りということに追われずに、あなた方の環境において、できるだけのことを、多くの人たちに対してやっていくということ、それは大事です。どうかそういう観点を忘れないでいただきたいと思います。まあ、"道元の限界"ということですが、これについて何かありますか。 ―― いや、大変有意義なお教えをいろいろと賜って、感謝しております。他力、自力、絶対力論の問題から、時間論、悟りの段階論、あるいは、道元禅の起こりとその基礎、さらには、道元禅の限界について、また、悟りの飛躍と、菩薩行としての愛行の理解について、このような幅広い論点を明快に、説得力ある論調でお説き下さって、ありがとうございました。他力、自力行者を問わず、おそらく現代人は、並べて警策(きょうさく)をちょうだいしたことと存じます。「愛」の問題は、これはまた段階があり、幅広い視点があろうかと思いますが、最後に、現代の若者に対し、何か助言、指導のお言葉をいただければ幸いと存じますが。 道元 まあ、「愛」の問題は、私に聴くより、多分他の方にお聴きしたほうがいいでしょう。それとまあ、現代の若者たちに対する助言ということですが、若者たちにはね、今、私の言った言葉、「坐禅」というのは、必ずしもお寺へ行ってやるもんじゃありません、と。夜、自宅に帰ってから、一時間ぐらい心を静めて、自分自身の心と、守護、指導霊と対話すればいいですから、そういう自分自身を見つめられる時間というのは大事です。 ただ、もちろん、そればかりではいけません。自分自身を見つめたら、それをね、それで得たものを人に返していく。そういう努力は、大事です。親、兄弟、友だちと不調和のままで、坐禅ばかりしても、決して悟れません。やはり周りの人たちを活かしていく努力、自分が悟ったらその分だけ返していく努力、これをしていかねばいけません。不調和をつくるための坐禅であってはなりません。つまり、調和ということを、その大切さを、どうか噛締(かみし)めていただきたいと思います。 ―― それでは、道元先生、長時間にわたって、朝来のご説法、まことにありがとうございました。 道元 ――還ります――。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/400.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 9.道元禅の「時間論」について ―― では、道元さん。あなたの「道元禅」というのは、現代知識人に大変受け入れられて、勉強の材料になっているわけですが、あなたの道元禅のなかで、とくに「時間論」というのが非常に有名なようなので、あなたの時間に関するものの考え方、そういうことについて、お話いただければと思うのですが、如何でしょうか。 道元 まあ人間というのは、先程来(らい)、何回も言っておりますが、永遠の転生輪廻を繰り返しているものであります。そして、転生輪廻のなかにおいて、一番大切なのはやはり、"時間"ということですね。先程、私は、他力の思想というのは、その時間が関係ないではないか――、ということを言いました。百万年前でもね、現在でも、「南無阿弥陀仏」で救われるのなら一緒でないか、人間の悟りにね、何の進歩もないではないか。――ということを言いました。 私たちはこの時代を選んで、この環境を選んで生まれ来たということはね、今という時間において、何らかの修行の意味があるから生まれて来たに違いないと、そういうことを私は言いました。 人生を魂の修行の場として、正しく観るならば、そのなかにおいて一番大切な考え方は、「時間」ということです。時間というものを無視した修行というものはあり得ないということです。ですから、"即身成仏"とかね、その時点で修行が終わってしまうような、そういう修行はあり得ないということですし、「南無阿弥陀仏」を唱えたら、そのとたんに救われて、あの世に成仏間違いなし――と、こういう教えも、私の考えからいえばおかしいということです。やはり人間というのは、どんどん変転していく環境のなかで、そういう時間を生きている存在であるということです。 ですから、修行に際しては、その時間という考え方、これは非常に大事です。で、その時間とは、一体何でありますか。人間は、過去に還って修行することはできないのです。また、未来に飛んで修行することもできないんです。人間が修行できるのは、現在、ただ今であります。 現在ただ今しかないんです。それを、たとえばですよ、何十年か先に死ねば、極楽浄土へ行けるというような、こんな不確かな約束をするような教え、これは間違っております。やはり、現在ただ今の自分を、少しでも高めていく、そういう修行というのが、私はほんとうの修行だと思うのです。 あなた方が、十年後、二十年後にどんな悟りを開いているか分かりません。それは、ある日突然に、光が射して、あなた方が、百八十度の転回をして、にわかに悟ることがあるかもしれません。しかし、そういうことは不確かなことであります。先のことであります。あるのは、現在ただ今であります。 あなたにとっては、道元と話す機会は何度かあるかもしれませんが、今、あなたの魂修行という点をとってみれば、道元と今話しているあなたは、この今を逃しては話しをするタイミングはないということです。現在のあなたの心境は、もう二度とないであろうし、現在の道元の心境もまた、二度とないのです。一期一会(いちごいちえ)という言葉もありますけれど、現在ただ今というのは、もう二度とこない時間なのです。こういう時間を、あなた方は生きているんです。 ですから、地上の皆さんも、その一期一会ですね、毎日毎日の積み重ね、毎日毎日に起きることは、もう二度と起きないんです。同じ人と二度、三度会うことがあっても、その人と同じ会話をもう一度することもなければ、同じ場所で、もう一回、同じ心境で話しをすることもないということです。人生の要点は何か、奥義は一体何であるかというと、結局、その一日一日、永遠の今を生きていくということであります。このことに関して、何かご質問があればお話しいたします。 ―― ただ、道元さん、おうかがいいたしますが、あなたは今、過去はない、と。未来は、まだきていない、まあ、現在だけしか時間というのはないんだというふうな考えについて言われました。しかし、仏教の教典のなかでは、その現在すらないというようなことを言っている経文もあるし、また、現在というのも、たとえば、砂がね、指の間をこぼれ落ちるようなもので、現在というものをつかまえようとすれば、サラサラと下へ流れて行っている、と。――過去なし、未未なし、現在なしと、まあ、こういうようなことを説いているところもあるようですが、これについて、あなたはどう思われますか。 道元 まあ、そういうふうな考え方をすれば、現在というのは、一瞬一瞬がすぐ過去になっていくもんですから、ま、現在もない、と。過去というものは、もう過ぎ去ってしまった。未来というのは、まだこない。では、現在だけがあるかと思えば、その現在をつかまえてみようとすれば、その現在というのは、今言ったようにね、砂が指の間をかいくぐっていくようにこぼれ落ちていく。従って、現在さえない。と。まあ、こういうことを言う人も、もちろんおります。 ただ、これはあくまでも理屈であります。指の間を、現在、つかまえようとしたら、現在というのは、指の間をすり抜けていく、だから、現在もない。だから、過去、現在、未来も全部ない。では、何があるのか、何もない。そうすると、どうするのですか――。やはりこれはね、何かが間違っているわけです。この考え方というのは――。 まあ、よく言うでしょう。線というのは、点が連続していると言いますね。点が連続して線ができる、と。で、線というのが連続していって面ができる。そういうことを、よく言いますね。面には面積があります。線には長さがあります。それじゃあ、点はどうか。理屈の上では、点というのは、位置だけがあって、面積も、長さも、何もないものである。ということになっていますね。 しかし、それは、ひとつの比喩(ひゆ)なんです。点というのは、位置だけあって、面積も、長さも、何もないというけれども、では、面積も、長さも、何もないものが、これが連続していって、じゃ、線分になるかというと、なるわけないのです。線分には長さがあります。長さがないものが連続して、長さがあるものができる。こういうことはないんです。 だから、これは考え方の綾(あや)であって、そういうことで、現在なし、と言い切ったところで、それは、人間の心性にとって、一向に何らの進歩にもならない。ということを、私は思うんです。ですから、過去なし、来来なし、まあそれはいいですが、現在なしと言い切ったところで、それによって、何ら人間が進歩するわけじゃありません。 ね、現在というのはないんだ、と。で、その後、どうなるんですか――。鎌倉の大仏さんか、奈良の大仏さんみたいに、じゃあ、坐っとればいいんですか、と。あれは過去、現在、未来はないでしょう。ああいう大仏みたいな人は、ないでしょうが、そういう考えというのは、生ま身の人間が修行していく途中においては、あまり意味のない考えだと私は思います。 ―― また質問ばかりで申し訳ありませんが、日蓮さんという方から教わったことなんですが、まあ、反省のモノサシですね、これについて教わったのですが、反省というのは、現在の立場に立って過去を振り返るということが反省だということですが、日蓮さんから最初教わった訓(おし)えによれば、たとえば、二千年後の立場に立って現在を反省せよ、ということを訓えられたのですが。 たとえば、私たちがこれから説こうとしている「神理」というものは、千年、二千年後まで残るものである。それならば、現時点でいろいろ反省するのではなくて、二千年後、これがどういうふうに伝わるのかということまで考えて、その二千年後の立場に立って現在を反省せよ、ということを私は日蓮さんから教わりました。 また、イエス・キリストという方からは、こんなことを言われたこともあります。まあ、現在反省するということもいいけれども、あなた方の反省というものは、生まれて来てから現在までのことを反省すれば、それで十分なのではない。あなた方は、皆んな、使命を持って生まれて来ているのだから、生まれる前の計画というのがある。皆んな。ですから、生まれる前につくってきた計画というものに対比して、現在の自分はどうか、こういうことを考える必要があります、と。 つまり、たとえば、「神理」を伝道しようとしているものが、単に善人での一生を送っただけではいけない。現在の立場に立って、過去を、生まれてからのことを反省すれば、まあ、善人の生涯を送ればそれでいいではないか――、という気持ちもあるのですが、生まれて来る前の立場から反省をすれば、それではいけない。もっと大きなことをやらねばいけないということもあるはずだ、と。そういうことで、反省の立脚点というのを、単に現在にではなくて、未来に、あるいは、過去に持ってくると、こういうようなことも、高級霊から指導を受けたことがあるんですが、それについてのあなたの見解を聴きたいと思います。 道元 そういうのは、まあ、特殊な事例でありまして、確かにあなた方の法が、遣(のこ)されようとする法が、五百年、千年、二千年遣るのであれば、もちろん、後世への影響というものを考えて、二千年後の立場に立った現時点の法ですね、これを考えるということは大事です。 たとえば、あなたと道元とが話していることが、これが二千年後に遣るとするならば、あなたは、現時点のあなたの気持ちで私と対話するだけではなくて、二千年後の人たちの気持ちになって、今私と話をせよ、というようなものの考え方もできるでしょう。あるいは、あなたの生まれて来る前の立場に立つなら、地上に生まれて来る前に、あなたが、今回地上でどういう神理を伝道しようかとの計画があったはずですが、その計画に照らして、現在のあなた、あなたが、たとえば、「道元」と話しているということがね、どういう位置づけがあるかと、こういうふうな反省の仕方というのはもちろんあるはずです。 ただ、この反省の問題点は、こういう特殊なですね、高級霊たちと話しができるような人たちの場合は、その二千年後の立場、あるいは、その生まれて来る前の立場ということも考え得るのですが、一般の人たちは、自分がどこから来て、どこへ行くのか、これさえも知りません。ましてや、自分の生き方が、二千年後の立場に立って、あるいは、もっと短くてもいいですが、百年後の視点から見て、現在の自分の生き方がどうかと、反省すること、これはむずかしいことです。百年後の立場に立って、今の自分を見たら、さあどうなるかと言われても、これ、ちょっと分かりかねます。 百年後、どうなっているか、分からない。そういうことでね、百年後、たとえば、二千年後の立場に立っても、素晴らしいあなた方であるということは、これは非常にいいことですけどね、ただ、二千年後ということは流動的です。どうなるか、分かりません。だから、百年後も分かりません。百年後の立場で、あなた方の教えが、今高いか低いか、全力をつくしたかどうか、これは分かりません。 そういうことは分かりません。ですから、一般の人にとっては、現在ただ今のなかにおいて、やはり最高のものを積み重ねていくということが、百年後の立場に立っても、二千年後の立場に立っても、素晴らしいあなた方であろうし、あるいは、生まれて来る前の立場に立っても、現在、ベストをつくしているなら、それは素晴らしいあなた方であろうと思います。 ですから、私は一般の人に対しては、やはり、現在ただ今にれいて最高をつくす、ベストをつくすということでいいのであって、やはりあるべき時間は現在のみということで考えていっていいのじゃないか、と。――そう思います。 ただ、反省の視点ということで、先程、言われたように、ときおり、いろんな視点から考えてみるということも大事です。生まれて来てから、このかただけが大事じゃないんだ、ということもあるでしょう。ただ、一般の人にとっては、現在ただ今しかありません。これを、最高に生きるということです。キリスト数的に言えば、一日一生ですか、一日の枠(わく)を一生だと思って、明日のことは思いわずらわず、昨日のことはすんでしまったと、今日を一生懸命生きる、と。今日を神の日として、神の国を生きるということがね、やはり最高の悟りじゃないかと思うのです。 ―― いや、わかりました。どうもありがとうございました。 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 (1)三次元世界の悟り ―― では、次に、悟りとは何か、ということについて、おうかがいしたいと思います。まあ、"悟り"とひとくちに申しましても、悟りとは一体何であろうか、どういうことをもって"悟り"、あるいは"悟りを得た"と申すのであろうかということを、人びとにわかるようなお話でお願いできましょうか。 道元 まあ、これはね、宗教家にとっては、はっきり言って、面接試験そのものであります。たとえば、あなたがどういう人物で、どういう人生を送って来てですね、そうして、その成果がどうであったかということを知ろうとすれば、あなたがあの世に還って来たら、私たちは出迎えてですね、「ここに坐りなさい。前に坐りなさい。まあ、座蒲団(ざぶとん)ぐらいはあげましょう。そこへ、坐りなさい。さあ、お前の得た悟りとは何か、しゃべりなさい」と。そして、あなたがしゃべり終えたら、あなたがどこへ行くかについては、私たち、もう採点ずみです。 ですから、この"悟りとは何か"というのは、まあ、厳しい質問でありまして、まあ、面接試験そのものです。これは、高級霊全員にぶつけても、それぞれ答えが違うでしょう。そして、なぜかそれに点数がつくでありましょう。ですから、宗教家としては、これはある意味においては、非常に比較される問題であるし、道元の程度が知れてしまうということでもあるんです。しかし、逆に言うならば、私たちが日々求めているものは、この悟りそのものです。ですからこれは、宗教家としては、あるいは、道を求める人としては、避けて通れない関門だということです。 まあ、悟りもね、二段階に分けるという方向もあります。たとえば、三次元における悟り、あるいは、他界後の悟り、こういうふうに分ける考えもあります。そして、まあ、分りやすく言えばですよ、こうした二段階の悟りに分けるならば、三次元の悟りとは何か。これは、普通ですね、ま、この世の人間として、最高に自分を発揮するということで、おそらくありましょう。 神仏が期待するような方向に、如何にして自分自身を最高度に発揮するか、ということを常々考えている。それに対する回答を得たとき、正しくこう生きるのが、神仏の心に、期待にあった最高の自分だということを知ったとき、これが三次元的な悟りだと私は思います。 人には、もちろん、人それぞれの人生航路、環境、いろんなものが与えられています。それぞれの人の悟りは違います。たとえば、不遇な環境に育った人がおります。あなた方の時代であれば、有名な方で言うと、たとえば、松下幸之助というような人がおります。この方も、私が見ていますと、大変貧しい環境に生まれて、幼くして父母に死に別れ、そして、丁稚(でっち)奉公してですね、大変苦労されたようです。で、苦労している時点では、この人、悟っていないんです。しかし、苦労を通して、いろんな事業を興す。ま、失敗もしたりする。そうしたなかで、だんだん、人に雇われる身じゃない、どうやら自分でやっていかねばいかん、と道を究(きわ)めていく。 そして、あるとき、電気器具の便利さというものに気がつく。ああ、これからの時代は、こういう電気器具があふれる時代なんだな、今までは精神だけを言っていたけれども、これからは、世の中を便利にしていかなければいけない時代なんだな、と。自分というのは、あの水道のようにあらねばならない。水道というのは、だれが水を飲んだって、盗んだと言われない。それほど、ありあふれているもんだ、と。水道の水というのは、無限に供給されるから、だれでも飲めるようなもんだ、と。そういうあふれたもんだ、と。こういうふうに、世の中を便利にするために、これからの新時代のための電化製品というのを、この世に供給しよう。無限に供給しよう。できるだけ安く、無限に供給しよう。そして、彼は、彼なりの自分の人生の悟りを開いたわけです。 松下幸之助は、事業家として、要するに、世の人たちにできるだけ安く、できるだけいい品を、できるだけ多くの人びとに分け与えるという悟りをまず開いたわけです。第一段階に。そして、事業家として生きていました。そうしているうちに、彼はそれだけではもの足りなくなってきました。やはり、これだけではいけない、と。ものを豊かにするだけでは、人はほんとうに豊かにはならない、と。 敗戦後の人たちの心を明るく、正しく照らしていくために、電気製品だけではなくて、心を照らしていくことも大事だということを考えて、新たな精神的な啓蒙運動というのを興していきました。これがPHPというような運動でありましょう。 彼の教え自体は、まだ宗教にはなっていませんが、宗教的な要素を多分に含んだ教えを説いてきているはずです。 これが、彼の第二段階の悟りであったでありましょう。こういうことで、彼にとっては、三次元的には、たとえば、自分が事業家として、事業家としてどういう使命を持っているのかをまず知った。そして、二番目に、自分の運命が、どうやらもっと大きな立場で、いろんな人びとに心の糧(かて)を与えることだなと、こういうことを悟りました。これが二段階目の悟りですね。この二つの悟りを、彼はやりました。これが三次元的悟りです。 (2)あの世、多次元世界での悟り 道元 三次元では、まあこれで十分でありましょう。おそらくはね。ところが、あの世、多次元世界に来たら、それですむかといえばすまないです。まだ、あの世の仕組みのことは、十分知っていません。あの世、たとえば、高級霊たち、天使たちの働きということは、十分知っていません。まあ、神仏の力でね、自分たちが生かされている。運命というものがあるというようなことは、彼は知っていますが、あの世へ来れば、あの世での悟りがあります。それは、あの世では心の段階があって、そういう心の修行をしていかねばなりません。こういうことがあります。 これは、まだ十分わかっていない。これはまた、あの世の悟りになります。ですから、私は、分かりやすく言えば、悟りというのは二段階に分けて、まあ、三次元的悟りと、あの世的な悟りとがある、と。だから、あの世的な悟りというのは、まあ、こちらへ来てね、いろんな高級霊の指導を受けて、神仏のほんとうの意(こころ)はどこにあるのかということを知って、それを目指して、日々修行するということですね。これに気づくということです。 まあ、あの世の悟りにも段階があります。たとえば、地獄界には地獄界の悟りがある。要するに、――ああこれで、私は地獄におったんだな――ということに気がついて、反省して、天国へ上がって行く。これもひとつの悟りでありましょう。また、幽界におる人がね、ああ、自分たちは肉体がないんだ、と。どうも人間はね、霊であって永遠な生命なんだということに気がついて、要するに、精神的な自分というのに気がついた場合に、つまり、精神的な悟りですね、人間とは精神的なものであると、肉体に執われてはいけないと、こういうことを知ったときに、四次元幽界から五次元霊界に上がっていきます。幽界の世界というのは、まだ肉体的意識がありますからね、だから、こういう四次元的悟りというのがあります。 また、五次元の人間というのは、霊性に目覚めてね、精神的ではあるんだけれど、まだ神仏というものがはっきりと解(わか)っていない。五次元の人はね。まあ善人ですね、信仰心のある善人が五次元にはおります。ただ、まだね、それに留まっているんですね。信仰心のある善人ということで留まっている。 ところが、こういう人たちがね、もっと心の修行して、どうやら私たちは、自分というのは、単に自分がいい人であるだけでなくて、もっといろんな世の中の人びとの役に立ってみたいな、できたら何か自分の専門を生かして、多くの人たちを教えるようなことをやってみたいな、と。それにはやはり神の道か、仏の道をもっと徹底的に勉強してみたいな――と思います。五次元の人は、こういう念(おも)い、発心(ほっしん)をしますと、やがて六次元に入っていきます。 これが神界ですね。だから、ここに入るときに、五次元的悟りがあるわけです。で、神界ではまた、それぞれの専門を究めます。詩人は詩人としての、芸術家は芸術家としての、あるいは、宗教家も自分の専攻領域としての勉強をどんどん重ねていきます。で、勉強としては、ゆき着くところまでいくんですね。専門家として。たとえば、キリスト教系の人だったら、キリスト教系の教学としてはゆき着くところまではいって、専門家としては、第一人者になります。 そして、霊界や幽界の人を指導するだけじゃなくて、地上界の人も指導できる。そういう経験をします。専門家としては、まあ十分になるんですが、でも、これだけではいけないな、と。゛もっと自分は神近い、神仏に近い存在になりたい、と。全身愛と慈悲の塊(かたまり)になって、人びとを救う。指導するんじゃなくて、教えるんじゃなくて、今度は、救う、そういう道に入っていきたい。そういうふうに、神界の人というのは、まだ自分というのが十分あるんですね。 自分を鍛えて高めるという気持ちが、まだずいぶんあるんですが、自分、己れというものを今度は捨てて、要するに、つくそうと、人のために身も心も投げ出そうという気持ちになってきたときに、こういう神界の人は、菩薩界に上がって来ます。これは神界としては、おそらく最高の悟りでありましょう。 まあ、菩薩から如来界への悟りもあるんでしょうが、まあ、これについては私にはまだ分(ぶん)かすぎているようですので、今は語りません。 こういうふうに、あの世の悟りというのを見てみると、どうやら、結局、自分の置かれている立場を知って、最高度に自分を発揮する、と。それぞれの段階において、最高度に自分を発揮するということで、どうやらあるようですね。結局、四次元界におるときに、七次元の悟りを求めても無理なのです。結局のところ、四次元幽界におる人は、四次元幽界人として最高の自分を発揮して、そして五次元的悟りを得る。五次元へ入っていくということは、すべてなんですね。 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 道元 そこで、五次元人間は、五次元人間として最高に生きて、ベストをつくしてはじめて、六次元神界へ入って行く。やはりね、段階というものがあるのです。ですから、あの世の悟りにおいても、現在において、最高度に生きる。これが大事なんですね。一直線に飛躍して、絶対力やら、他力やら知りませんが、一挙にね、あなた、幽界、地獄とかね、幽界から一挙に、あなた、如来や菩薩にはなれないんです。 教えのなかには、そういう教えがあってもいいけれども、実際はそうではありません。自分の置かれた環境、立場において、最高度に自分を発揮する。やはり悟りはね、そうしたものでしかありません。一挙にね、一躍跳入というのは嘘です。それはありません。それは、そこにおる人がそう言っているだけであって、実際、そこにいない世界の人たちは、"一躍跳入如来地"ということはありません。絶対にありません。 如来が、如来界へ還って来るのは、一躍跳入でしょう。しかし、普通の人は、それはあり得ません。そういうことはできないです。そういう意味では間違っています。それでは、ほんとうの最高度の努力はできません。努力というのは、やはり置かれた時間と環境のなかで、最高度に自分を発揮していくということでしかないんです。 まあ、今簡単に言いましたが、「悟り」をね、わかりやすく言えば、三次元的悟りと、あの世での悟りがあるでしょう。そして、この三次元と、あの世を貫(つらぬ)いた悟りを体得するためにやっているのが、ほんとうは宗教家の役目だということです。あなた方は、それを貫かなければいけない。この世の悟り即(そく)、あの世の悟りであるような、そういうあなた方でなければいけない。 これがプロの宗教家ですね。あなた方は、その手本ですね。この世におりながら、あの世の悟りも教えなければいけない。――この世の悟りも教えなければいけない。両方です。これを貫くのが、一本で貫くのが、真の意味での宗教家です。ですから、あの世の悟りを知りながら、この世を生きていくと、この世の悟りを生きていく、そういう努力ですね。これが大事です。 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか ―― 悟りの本義につきましては、お教えのとおりだと思います。ところで、私たちは、三次元界にあって、このような仕事をしております。そして、この三次元界にあって、四次元以降の高次元界の構造、悟りの境地まで説こうとしています。しかし、人間は本来、自分の悟り以上の悟りというものを説いてはならない、また、説き得るものではないとよく言われていますが、このことに関して、先程の、この世で一貫した悟りの教えを説くということは、如何なものでしょうか。これは、我らのあの世の次元段階の眺望として語ることを許されるのでしょうか。 道元 たとえばね、まあ、謙虚な言葉としては、自分の悟り以上のことは説けない、と。そのとおりです。しかしね、あなたは、アフリカという国に行ったことはない、と。アフリカに住んだことがなければ、アフリカのことは言えない、と。あるいは、アメリカでも、イギリスでも同じことですが、こういう考え方、これはプロの言い方ですね。アフリカに移住して、アフリカを旅行したことがなけりゃ、アフリカを語る資格はないと、プロとしては言えるでしょう。 ただ、実際どうですか、あなた、アフリカに行ったことがなくても、アフリカのことを言うこと、できるでしょう。そうでしょう。そういうことなんですよ。で、アフリカに行かなくても、アフリカの知識を得ようとすれば、得られますでしょう。そうでしょう。そういう実感はないかもしれないけれども、語ることはできるということです。そしてね、アフリカヘ行っていないあなたが言ってるアフリカ論がね、間違っているかと言えば、間違っていないんです。 たとえば、あなただって、ヒマラヤの話をすることができます。ところが、登山家から言わせれば、ヒマラヤに登ったことがない人間は、ヒマラヤのあの山は分からないと、おそらく言うでしょう。それは、その感激がわからないということですね。悟りには、段階も、もちろんあります。ですから、自分が悟っていないことは言えないというのは、自分が悟ってなければ、その悟りを得るについての感激を伝えることはできないということです。つまり、感激は伝えられません。悟りのね、ただ、悟りの内容は、知識として伝えることができるのです。そういうことです。 ですから、その体験ね、ヒマラヤ登頂した人でなければ、もちろん、ヒマラヤ登山の醍醐味(だいごみ)は、分からないでしょう。感激なり、醍醐味は分からない。体得した悟りということの幸せは分からないかもしれない。ただ、悟りということを知識として伝えることはできます。ヒマラヤの山はこういう形で、雪がいっぱい降っている、と。雪の深さはこのくらいである。気温はこのくらいである。山道は、こちら側から行くのは危険です。こちら側から行くのがいいです、と。こういうことは、いくらでも言うことができるんです。知ればね。だから、あなたが登山家から聴いて、ヒマラヤの話を他の人にすることはできるんです。登山家というのは、ちょうどあの世におる私たちであります。だから、限定はしてしまう必要はありません。 ただ、その感激はわからない。たとえあなたが生きていたときに、生きているあなたとして、大菩薩(ボサター)としての悟りを持っていたとしても、その悟り自体は、こちらにおる大菩薩の悟りとは何か違うところがあります。それは、そうした感激、そうした感触、そうした醍醐味、それがないからです。まだね、分からない。つまり、間接的に感じているにすぎないからです。 でも、実際にアフリカに行ったこともない人が、アフリカに住んでいた人よりもアフリカのことをよく知っている、こんなことはいくらでもあることです。もちろん、あるんです。それは、その人の勉強、興味、関心の幅です。あり得るんです。ね、アフリカの西海岸に住んだだけの人が、アフリカのことを語るのと、あなたが語るとではどうですか。アフリカの東も東海岸も、中西部も、西海岸全域も、すべて、あなたが勉強すればいいんです。あなたのほうが、だれよりもよく知っている、と。そういうことはあるんです。だから、悟り以上のことは説けないというのはもちろん一面の真理ではありますが、それを放棄しろという意味ではありません。 13."道元禅"の起こりとその基礎 ―― 現在、禅師は天上界におられまして、長年のご研究の成果により栄光に浴されていると存じます。さて、現代の人びとは、禅師の書き遺(のこ)されている書物によって、その教えの真髄に触れようとしております。そこで、今このような機会を得ましたことを幸いに、禅師におかれて、かつての教えに加えて、さらに何かを語り伝えておきたいというお考えがございましたら、よろしくお願いいたしたいと思います。 道元 わかりました。まあ、今までね、主として私のいいところを話してきたわけですが、人間は、自分のいいところだけを話すのがすべてではありません。やはり自分というものを知ってもらうためには、私の長所も短所も、美点も、欠点も、知っていただくということがいいと思うのです。 とくに現代人たちは、「禅」というものに大変興味を持って、「禅」ブームというのがありますね。で、禅がすべてであるような気持ちにもなっていて、まあ、知識人にも受けているし、今、欧米でも、禅というのは流行(はや)っています。で、禅というのは、日本的な宗教でもあるかのように言われています。そこで、私としては、いささか面映(おもは)ゆい気持ちもするんですが、やはり、"禅"の限界についても、私は言っておかねばいけないと思います。 まあ、自分の口から言うのは残念ではありますが、私はそれを言っておかねばなりません。やはり、道元の限界が、「道元禅」の限界であるからです。道元としての私の限界でありましょう。そこで、ま、いささか恥ずかしい反省も込めてお話をしますと、鎌倉時代の道元として生きていたときの悟りというのは、どの程度の悟りであったかというと、残念ながら面目(めんもく)ないことに、六次元神界の悟りしか得ていませんでした。 生きていくときには、やはり私は、禅による悟りはどうしても哲学的に、どうしても抽象的に感じていました。私が人間として生きていたときに感じていた悟りというのは、結局、人間というのは、"今"というのを全力で闘ってつかみとっていかねばいかんのだというような考え方が"今"であったし、修行するのは他人じゃないのだ、と。他人じゃなくて、自分かやらなくてどうするか、と。修行というのは、自分がやらねばいかんのだ、と。こういうことは、すでにつかみとっていました。 また、悟りというものを、これはまあ、不立文字(ふりゅうもんじ)ですけどもね、悟りについて不立文字だけでは、説明ができるもんではありませんが、やはり何らかの感覚、こうしたものとしてとらえておりました。それをあえて言葉で表わすとすれば、「永遠なる今」というようなものを感じる瞬間、これが悟りのときだという感じを、私は持っておりました。それぞれの考え自体は、私は間違っていないし、それなりの優れたものだと、今でも思っています。しかし、それをいいものだと思っていたところに、道元の限界がまたありました。 私は若い頃に、中国に留学をしていました。五年ぐらい留学しておりました。そのときに、"天童山"というところでずいぶん修行をさせていただいたのですが、中国の優れた僧侶たちとたくさん出会いました。そして、彼らが、真剣に、ほんとうに自分の修行に打ち込んでいる姿に感動しました。で、やはり修行というのはこういうものなんだなと、真に打ち込んでいる姿というのは、美しくもあるなということで、真剣に打ち込んでいる先輩僧たちの後姿を見て、はっと思うことが多かったんです。 また、"天童山(てんどうさん)"におったときに、食事係をしていた六十すぎのね、老僧侶がおりました。その人が、暑いのに汗をしたたらせながら、暑い夏の日盛りに、あれは椎茸(しいたけ)でしたかね、椎茸のようなものを庭に乾していたんですね。真夏の暑いときに、私が行って間もない頃ですけど、その老僧侶が椎茸を乾していたんですよ。 そこで、そのとき、私は聞いたんですよ。「お坊さん、あなた、ずいぶんお年寄りではないか。見れば、六十歳にもなって、この暑い盛りにそんな椎茸干しなど、何でやるんだ。滝のような汗を流しているじゃないか、小父(おじ)さん。そんなことをあなた、若い者にまかせるか、もう少し涼しくなってからやればいいじゃないか。年寄りの冷や水だよ――」とね。山に行ったばかりの私は、そう言ったのですよ。まだ青年僧でね。まあ、鼻柱が強くって、私はどちらかと言えば、今様に言えば、ニヒルで、人の欠点とかにずいぶん気を回したものなんです。 それでまあ、悪いところと言えば、そういう冷笑するようなところが、冷たく笑うようなところが、私にはありました。だから、いい爺(じい)さんがね、もう六十すぎにもなって、何をやっているんだ、と。こんなことやっていないで、その年になれば、もっと悟っているはずだからね、もっといいことしなさい、と。若い者を教育するとか、お経を誦(よ)むとか、もっと高尚な仕事があるでしょう、と。 爺さんに教えてやるつもりでいたんですね。爺さん、あなたはわかっていないぞ、と。そんなの若いもんがする仕事だぞ。年寄りの冷や水などやめて、あんたは、もっと高度な修行しなさい。年相応な仕事があるでしょう、と。私は教えたつもりで言ったんですね。冷やかして。 そうしたら、その老僧侶が言ったことにはね、――「他人は是(これ)、我に非(あら)ず」と。まずひとこと。私は、これに度胆(どぎも)を抜かれました。――人は是、我れに非ず――。我れが非ずしてだれがあるか。要するに、まあ、修行というのは自分がやるんだ、と。他人に代わってやってもらってもね、そんなの何の意味もない。人は是れ、我れに非ず。こういうことを言われて、私は、これで、「はっ」と思いました。 そして、その次にね、「今でなくて、いずれのときか」と。今やらなく、いつやるんだ、というわけですね。涼しくなってから――、そのときがあると思っているのか。修行というのは、今しかないのだ。今やろうと思えば、今やらないでどうするんだ。涼しくなってやろうとか、そんなことではいけないんだ。人間というのは、先がないんだ、と。修行というのは、秋になったら、あるいは、夜になって涼しくなってからやろうとか、そういうもんじゃないんだ。修行とは、とき、ところを選ばない。今しかないんだ。こういうことを、その老僧侶は、私に言いました。私は、ここで二つ教わりました。 要するに、人は是、我れに非ず、他人は自分に代わって修行はできない――。自分の修行は自分でやるんだ。そして、その、機会は、今しかないんだ――と。結局、私が中国で学んだ教えは、この二点につきるかもしれません。 結局ね、自分がやらないで、他にやってくれる人はいないんです。そして、修行というのは、"今"しかないということです。私はこの二点をつかんで中国から帰ったのです。これが、「道元禅」のある意味では基礎でありましょう。それでね、その真剣に生きる、今に生きるという姿勢が、おそらく現代人にもね、私は受けているんだと思います。