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ビシ 列伝 劉備の第二夫人(第一夫人は甘氏)。糜竺の妹。 【演義】 劉備と呂布の争いの中、甘氏と共にたびたび呂布に捕らえられた。徐州で自立した劉備が曹操に敗れると、関羽に付き添われて曹操に降伏。その後、関羽に護衛されながら曹操の五関を突破し、劉備との再会を果たす。208年、長坂坡で曹操軍に襲撃され、負傷しながらも幼い劉禅を連れて逃走。救援に来た趙雲に劉禅を託し、自身は井戸に身を投じた。後に追尊されて皇后となる。 【正史】 長坂坡の戦いで趙雲が救ったのは甘氏。蜀の妃子伝に記述はなく、皇后に追尊されたという記述はない。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 12 6 66 70 79 233 18 84 順位 640 645 310 238 87 539 649 637 偏差値 29.5 30.1 53.5 56.1 60.3 41.8 28.8 31.5 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 長い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C C C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 4 9 4 10 4 8 5 8 4 7 4 8 順位 645 640 645 635 645 640 646 641 645 643 645 640 偏差値 31.9 32.1 32.0 31.9 30.8 31.2 32.5 31.5 30.5 31.2 31.1 31.2 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 内助 結婚すると配偶者双方の全能力プラス1 マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 75 青徐 実績 地方統一 無頓着 5/5 1/5 3/3 176 194 208(33歳) 不自然死 冷静 冷静 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 糜氏が親愛する武将 なし 糜氏が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● 1 糜竺 糜芳 糜氏 イベント イベント名 内容 徐州禅譲 劉備勢力が陶謙勢力を吸収 糜氏と劉備(結婚) 劉備と糜氏が夫婦となる シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 9歳 未登場 下邳 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 15歳 未登場 下邳 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 19歳 未発見 下邳 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 25歳 一般 下邳 劉備 150 - 2000 劉備 - S5 207年 9月 三顧の礼 32歳 一般 新野 劉備 150 - 3000 劉備 - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 江陵 劉備 150 - 0 劉備 - S9 198年 1月 呂布討伐戦 23歳 一般 汝南 劉備 150 - 1000 劉備 - S10 203年 1月 袁家の戦い 28歳 一般 新野 劉備 150 - 2500 劉備 - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 12歳 未登場 下邳 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 16歳 未登場 下邳 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い - 君主 下邳 糜氏 - - 16000 劉備 - 劉備殿の最初の奥方。特技の内助は、旦那様との相性良好(焼け石に水の感もあるが)。 劉備の嫁に孫尚香を挙げる方も多いだろうが、本来の正室は彼女。 正史でも演義でも余り恵まれた方ではないので、せめてゲームでは大切にしてやりたいところ。 -- (名無しさん) 2010-05-22 11 59 15 列伝にも書いてあるけど、彼女は側室だよ。 一応正室扱いされてるのは甘氏(ゲーム未登場)。 -- (名無しさん) 2010-05-23 01 07 11 ↑訂正、有難うございます。 -- (名無しさん) 2010-05-23 13 47 42 そもそも孫氏(孫尚香)が劉備のもとに来たのは甘氏・糜氏の死後なんだから、本来とかいうのもおかしな話かも。 それはそうと、甘氏もそろそろ出して欲しいね。 三国志大戦のおかげで以前よりは知名度あるだろうし。 嫁2人を同時に連れてるってのが都合悪いのかもしれないけど、そこは大らかにさ。 -- (名無しさん) 2011-04-11 04 25 24 曹操における丁氏もそうだけど、まずは重婚も可能なシステムが必要ですねw 政治が70あるので、内政面では人材不足な初期にかなり活躍してくれる また、結婚していなくても寝返る危険はほとんど無いだろう -- (名無しさん) 2011-04-11 08 35 27 側室システムが無くても、シナリオ開始時に劉備配下に甘氏&糜氏がいるって形にすればいいと思うんだよね。 どちらとも配偶関係に無い状態でシナリオスタート。 後はプレイヤーに委ねればいい。 COMがどちらを選ぶか眺めるのも、それはそれで楽しいかもしれないし。 -- (名無しさん) 2011-04-14 03 30 29 原作どおり不自然死なので、生存してるシナリオなら実は220年前後まで生きる。これが結構曲者で、劉備軍では彼女が生きてる場合孫尚香との婚姻イベントが発生しなくなってしまう。 一発合併が可能な政治70、ピンで廟を探せる魅力と糜氏も決して性能が低いわけではないのだが、どこの軍だろうがド主力を張れる孫尚香と比べると流石に存在感に差がある。 しかしわざわざ戦死・焼死してもらうほど糜氏の使い勝手は悪くないし、孫尚香は捕獲できれば劉備で一発で引き抜けるし・・・と結構悩ましいところ。 -- (名無しさん) 2014-08-13 06 39 32 この微妙な能力値のおかげで、長距離輸送要員にしたり、ZOC確保のために兵1で敵の前に立たせて捕虜になったり、 およそ夫人とは思えない扱いにw -- (名無しさん) 2015-11-20 00 02 25 名前 コメント すべてのコメントを見る
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追尊 追尊 韓国語 추존チュジョン 漢字表記 追尊 分類 儀式 追尊(チュジョン)とは、生前に帝位に付くことが出来なかった王子に、死後皇帝の号を贈ること。 朝鮮時代の王では、第7代国王世祖(セジョ)の息子懿敬世子(ウィギョンセジャ)が、その長男である成宗(ソンジョン)によって追尊され、徳宗(トクジョン)となったのを始め、何人か例がある。 太子が親を追尊することが多い。 また、追尊された王の家族もそれに伴って、位が上がる。 劇中では、昔からの法度によれば、孝烈皇太子の追尊によって、恵政宮は皇太后になり内命婦の最高責任者に、義誠君は皇位継承順が第一位になる。 しかし、政治的な問題によりそれが難しいため、ファヨンは自分が皇太后の特権を放棄するからユルを恭親王(コンチンワン)としてシンと同等の継承順にして欲しいと願い出た。 でもユルの申し出によって、義誠君は継承第二位のまま義誠大君になり、恵政宮は皇太后の権利を得ることになった。 登場 第12話 孝烈皇太子の追尊が行われた。
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皇后(こうごう)は天皇や皇帝の妻のこと。一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうちの正妃(正妻)を指す。 日本の皇后位 Template see also? thumb|180px|[[明仁親王を抱く香淳皇后]] 180px|thumb|2005年(平成17年)12月、[[天皇誕生日の一般参賀にて今上天皇と共に国民から祝福を受ける皇后美智子]] 日本では、古くは天皇の妻妾を「キサキ」(后)と称し、そのうちで最高位にあるものを「オホキサキ」と呼び、単なる「キサキ」である他の妻妾と区別した。これに『古事記』では「大后」、『日本書紀』では「皇后」の漢字を当てている。なお、「キサキ」とは元は“君幸”という意味があったとする説などがあるがハッキリとした語源は分かっていない。 後世「きさき」が皇后の意味を表すようになり、皇后を「きさいの宮」とも呼んだ。これにちなみ、皇后を母とする皇子女を后腹(きさいばら)という。別称(唐名)として、後漢書になぞらえて「長秋宮」、あるいは漢代の例をもって「椒房」「椒庭」と称し、和名では八雲御抄や後拾遺和歌集にみえる「紫の雲」などがある。「おうごう」とも読んだ。 皇室典範のもとでの敬称は「陛下」であるが、大宝律令のもとでの敬称は「殿下」であった。また、正式には「太皇太后宮」「皇太后宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して三宮(さんぐう)という。「准三宮」という待遇・称号の語源はここにある。 「皇后」という称号が明文により規定されたのは、大宝律令の制定以後であるから、厳密に言えば、日本最初の皇后は、天平元年(729年)に聖武天皇の皇后となった光明皇后(藤原安宿媛)であるが、『日本書紀』が神武天皇以来の歴代天皇の「オホキサキ」に対して「皇后」の漢字を当てていることから、彼女以前の天皇の正妃についても「皇后」の称で呼ぶ慣行となっている。 大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻である妃の資格が「四品以上の内親王」と規定されていることから、皇后も当然内親王でなければなれないものと観念されていたとする考え方がある。『日本書紀』においても、仁徳天皇の「皇后」磐之媛を唯一の例外として「皇后」の父はすべて神または天皇・皇族である(もっとも、『日本書紀』の記事には後世における天皇の生母に対する顕彰によって贈られた「皇后」号も存在するとの考えがある)。しかし、光明皇后が磐之媛の例を先例として皇后に冊立されてから、このような制約はなくなり、むしろ皇族よりも藤原氏のほうが皇后の出身氏族として尊重されるようになった。 本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇が藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇の皇后として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに長保2年(1000年)、藤原彰子が皇后とされるに及んで1人の天皇が2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。 その後、皇后のあり方は次第に多様化した。天皇の母がすでに死去している場合、または生母の身分が低すぎる場合などに、母に擬して准母を定めることが行われた。その初例は、寛治5年(1091年)に堀河天皇の准母となった媞子内親王であるが、彼女が同時に皇后とされたことから、天皇の妻ではない女性が皇后に立てられる例が開かれた。このような皇后を、学術的には「非妻后の皇后」と呼び、あわせて11例ある。宮内庁の行政用語では「尊称皇后」と呼んでいる。媞子は「中宮」であったが、その後の非妻后の皇后はすべて「皇后宮」であった。のちには、准母の経歴がなくても、単に未婚の内親王を優遇する目的で「皇后宮」の称号が与えられた例も生じた。また、長承3年(1134年)には、鳥羽天皇が譲位して上皇となったあとに入内させた妻である藤原泰子を、治天の正妻であることを明示する目的で皇后(皇后宮)に立てた。さらに鳥羽は、永治元年(1141年)、同年に即位した自分の末子近衛天皇の生母藤原得子を、天皇の生母であることを根拠に皇后(皇后宮)に立てている。そのほか、死後に皇后を追贈された者が3名いる。 南北朝時代以降、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇后(中宮)に立てられた珣子内親王を最後として、皇后の冊立は途絶えた。再興されるのは、寛永元年(1624年)冊立の後水尾天皇の皇后(中宮)源和子のときである。以後、皇后が同時に2人立てられることはなくなり、また皇后はすべて「中宮」とされた。 明治元年(1868年)に皇后(中宮)となった明治天皇の皇后藤原美子が翌年に「皇后宮」とされて以来、「中宮」の称号は絶え、1889年(明治22年)の皇室典範の制定で、皇后の定員が1名となるとともに、正式に「中宮」の称号は廃止され、皇后に統一された。准母の制度も廃止された。また、皇族の父親を持たない皇后が、皇族身分を認められたのもこの時以来のものである。 中国の皇后位 中国においては、歴代王朝において皇帝の正妃としての皇后が存在した。陰陽五行説では男は陽、女は陰とされ、それぞれの頂点に皇帝、皇后がいるということになった。そのため、皇帝が三公九卿以下の官僚組織を擁するのと同様、後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキーを擁していた。 日本の皇室には、そもそも姓がなく、名字も当然ないが、中国の歴代王朝の君主は姓を持ち、皇后には原則として異姓の者がなった。中国の皇后は従って、皇后が出身した一族の姓で呼ばれ、唐朝第3代の皇帝である高宗の皇后は「武」の姓を持つ一族出身であったので、「武皇后」が正式名であった。しかし後に、皇帝位を簒奪してみずから皇帝を名乗り、新王朝を開くと共に王朝名を周とした(武周と称する)。武照は皇帝としては武則天と呼ばれる。中国歴代王朝のなかで唯一の女帝である。 日本・中国以外の皇后位 「皇后」の称号はもともと、中国の歴代王朝が掲げた政治的世界観の下での世界全体の支配者天子(皇帝)の正妃の呼称であった。従って、漢字文化圏の国家においては、最高位の君主の称号が皇帝あるいはそれと同等なものである場合、皇后も存在することになる。「王」(国王・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。 漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる王の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。 皇帝の訳語 ローマ帝国の君主の称号のひとつである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国・ドイツ帝国・オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国のツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアやパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国の「スルタン」あるいは「パーディシャー」、北アフリカのエチオピアの「諸王の王(ネグサ・ナガスト)」、インドのムガル帝国の「パーディシャー」、南アメリカのインカ帝国の「サパ・インカ」なども「皇帝」と訳される。これらの君主が一夫一婦制の婚姻形態を採っていれば、妻の称号は「皇后」となるはずであるが、実際には、世間に通用している通称や研究者による慣用などが優先し、一様ではない。 西欧キリスト教社会などの一夫一婦制度を採る世界では、皇帝の妻は正式には一人しか存在せず「皇后」または「皇妃」と訳されることが一般的である。一例として東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世の妻テオドラがある。彼女の地位は「皇后」または「皇妃」と訳される。 皇后と女帝 ヨーロッパ諸国の言語では、日本語の「皇后」に当たる称号は「皇帝」と訳される称号の女性形なのが一般的である(というより、ほとんどの君主称号・爵位がそうである)。この場合、称号だけでは、単に皇帝の妻であるのか、自らが帝位にある女性の皇帝であるのかは、区別できない。日本語に訳す場合は、前者は「皇后」、後者は「女帝」と訳し分ける必要がある。上記のテオドラはあくまでも「皇后」である。 ロシア帝国のエカチェリーナ2世は、もとは皇帝ピョートル3世の妻であり、その後クーデタにより自ら帝位についたものであるから、同一人物であり、ロシア語での称号は同じ単語でありながら、即位以前と以後とで「皇后」と「女帝」の使い分けが行われている。また神聖ローマ皇帝フランツ1世の妃マリア・テレジアは本来「皇后」であるが、彼女自身がハンガリー・ボヘミア女王を兼ねる実質的な君主であり、日本語でも「女帝」と表されることが多い。 関連項目 Template Wiktionary? 皇帝 女帝 女王 日本の皇后一覧 中宮 准后 外部リンク 北海道大学「皇后のビスケット」 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月16日 (日) 08 25。
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編集 王斌は、後漢後期の人物。献帝の生母王美人の兄。献帝の求めに応じて長安へ詣り、奉車都尉を拜して、王美人の改葬に洛陽へ遣わされた。 情報 王斌 姓氏 王 諱 斌 字 (不詳) 本貫地 趙国 家柄 趙国王氏 祖父 王苞 官歴 奉車都尉 執金吾 爵位 都亭侯、食邑五百戸。 死去 病卒 追贈 前将軍印綬 子 王端 事跡 初平年間、献帝の求めに応じて妻子をひきいて長安へ詣る。第宅(邸宅)と田業を賜り、奉車都尉を拜す。 興平元年(195年)、王美人が霊懐皇后と追尊され、霊帝の文昭陵へ改葬されることになると,持節光禄大夫と共に洛陽へ遣わされて葬に立ち会い、河南尹の駱業と共に陵墓を復土した。 長安へ還ると執金吾に遷り都亭侯に封じられ、食邑は五百戸であった。 病卒し、前将軍の印綬を贈られ、謁者が喪事を監護した。長子の王端が爵を世襲した。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 趙国 官歴 執金吾 官歴 奉車都尉 爵歴 都亭侯 趙国王氏 関連項目・人物 「王斌」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
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Template 基礎情報 君主? 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、日本の皇族。大正天皇の皇后。旧名、九条 節子(くじょう さだこ)。お印は藤。 生涯 少女時代 明治17年(1884年)6月25日、旧摂家、公爵 九条道孝の四女として誕生。母は野間幾子。 学齢まで農家の家に里子に出され、“九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な大正天皇の后となる大きな決め手にもなったようである。 皇太子妃時代 明治33年(1900年)2月11日 、15歳で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、神前で挙式。御成婚祝の新居として赤坂離宮(現・迎賓館)が建造される。 成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝していた。 大正天皇との夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見たという。また、皇子4人がすべて皇后の子であったのは稀有というべきであり、一夫一妻制の確立に大いに貢献した。また皇子4人を産んだことで、宮中での地位は絶大なものがあった。 皇后時代 180px|thumb|大正11年([[1922年)、英国のエドワード王太子の訪日時、摂政裕仁親王とともに]] 1912年7月30日、明治天皇が崩御。大正天皇の即位に伴い皇后となる。3年後の大正4年(1915年)11月10日に京都御所にて即位の礼が行なわれたが、貞明皇后は第四子を懐妊中のため欠席した。 昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。また、救癩(ハンセン病)事業に尽くし、灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。 また、大正天皇が病に陥った後は、天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渡り合った。 1926年12月25日、貞明皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が崩御。摂政の皇太子・裕仁親王の即位により皇太后となる。 皇太后時代 thumb|180px|昭和24年(1949年)、[[明仁|明仁親王(当時16歳)とともに]] 天皇の死後、貞明皇后は日課の如く、午前中の大部分を大正天皇の遺影を安置した部屋で過ごし、「生ける人に仕えるよう」な有様だったという。また、孫にあたる昭和天皇の皇子女・三笠宮の子女を可愛がったと言う。 昭和6年(1931年)、貞明皇后の下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。彼女の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のための強制隔離が正当化された面も否めない。また、このような活動が彼女の真意には関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後政治利用されてしまった側面もある。 昭和26年(1951年)5月17日、狭心症のため崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行なう予定で、その準備をしている時に発作が起こり、急死したのだった。 同年6月8日、貞明皇后と追号された。追号の「貞明」は、『易経』にある「日月の道は貞(ただ)しくして明らかなり」の一文を出典とする。 御陵は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の内で、初めて関東に陵が営まれた。また、日本国憲法下の皇室典範に基づいて葬られた最初の皇族である。 家系 孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母にあたる。その為明治天皇とは義理のいとこにあたる。姉・範子は山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。 異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。 皇子 大正天皇との間には4男をもうけた。 迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年-1989年) - 第124代・昭和天皇 淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年-1953年) - 秩父宮 光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年-1987年) - 高松宮 澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年-) - 三笠宮 逸話・文献 生涯に渡って数多くの和歌を残す一方、夫・大正天皇の影響からか漢詩にも取り組んだ。 西川泰彦 『貞明皇后その御歌と御詩の世界―貞明皇后御集―拝読』 錦正社 2007年 を参照 220px|thumb|[[関東大震災の被災者を慰問 (1923年)]] 工藤美代子『国母の気品 貞明皇后の生涯 』 清流出版 2008年 三笠宮崇仁・三笠宮百合子述/工藤美代子編著『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』 中央公論新社、2007年 筧素彦『今上陛下〔昭和天皇〕と母宮貞明皇后』日本教文社、1987年 序文徳川義寛 『貞明皇后』 主婦の友社編 1971年 伝記と歌集 出雲井晶 『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』 展転社 1992年 救らい活動が中心 皇子及びその妃達との関係 姑として香淳皇后には厳しかった。それは皇族久邇宮家の嫡出の王女(身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と周囲の人間から考えられていた。 しかし、香淳皇后は皇族出身のいわばお姫様で、性格がかなりおっとりしており、逞しく育った貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。また香淳皇后の実家久邇宮家は外戚であることをかさに身勝手な振る舞いが多く、それが貞明皇后の不興を買う一因にもなったようである。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、互いに言いにくかったと回想している。 また、彼女たちに仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、療養先である葉山御用邸に昭和天皇と香淳皇后がお見舞いに行った際、香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、『相変わらず、不細工なことだね』と言われ何も言い返せずただ黙っているしかなかったそうである。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいってないと知らしめる結果になってしまった。 一方で弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の妃たちとは御所での食事や茶会を度々招いて、かわいがったそうである。特に次男・秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句の折には勢津子が実家から輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子はそのことを『お子様4人全員が親王様であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう』と語っている。(自身の著書『銀のボンボニエール』より) 女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長子の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して天皇との関係は悪くなく、皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをしたというほほえましいエピソードもある。また第二次大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母を気遣ったことが、天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。 しかし皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであったと囁かれる。彼女と宮の誕生日は同じであり、そのことから皇后は強い縁を感じていたとも言われる。上記の秩父宮の婚姻に関しても、妃に朝敵・松平容保の孫でなおかつ平民である勢津子を強く推したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であったと言われる(河原敏明)。 関連項目 Template Commonscat? 園祥子 - 明治天皇の側室で、貞明皇后の女官長 ハンセン病 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月10日 (月) 05 27。
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216.ひとりの皇帝に数人の皇后 ひとりの皇帝にひとりの皇后というのが、礼である。荒れ乱れた王朝では放漫で法や紀律がなく、同時に数人の皇后を立てる者がいた。孫皓の夫人の滕氏は寵愛がなく、長秋宮の官僚は定足数を備えているだけであった。しかし宮中の諸姫で皇后の璽綬を佩びる者がはなはだ多かった(『三国志』呉書妃嬪伝)。劉聡が皇帝を僭称すると、その妻の呼延氏を立てて皇后とした。呼延皇后が死去すると、劉殷の娘を納れて皇后とした。劉皇后が死去すると、さらに靳準の娘を納れて皇后とした。ほどなく靳皇后を進めて上皇后としたが、貴妃の劉氏を立てて左皇后とし、貴嬪の劉氏を立てて右皇后とし、さらに樊氏を立てて上皇后とした。四皇后のほかに、皇后の璽綬を佩びる者がさらに七人いた。後に宦官の王沈の養女を左皇后とし、宣懐の養女を中皇后とした(『晋書』劉聡載記)。北周の宣帝が初めて即位すると、妃の楊氏を立てて皇后とした。その後、天元皇帝を自称すると、さらに妃の朱氏を立てて天元帝后とし、妃の元氏を立てて天右皇后とし、陳氏を立てて天左皇后とした。まもなく楊氏を進めて天元大皇后とし、朱氏を天大皇后とし、元氏を天后大皇后とし、陳氏を天左大皇后とした。陳氏をさらに天中大皇后と改めたが、妃の尉遅氏を天左大皇后とした(『周書』宣帝紀)。 216.一帝數后 一帝一后,禮也。至荒亂之朝則漫無法紀,有同時立數后者。孫皓之夫人滕氏無寵,長秋宮僚備員而已。而内諸姫佩皇后璽綬者甚多。(三國志)劉聰僭位,立其妻呼延氏爲皇后。后死,納劉殷女爲皇后。后死,又納靳準女爲皇后,未幾,進爲上皇后,而立貴妃劉氏爲左皇后,貴嬪劉氏爲右皇后,又立樊氏爲上皇后。四后之外,佩皇后璽綬者又七人。後以宦者王沈養女爲左皇后,宣懷養女爲中皇后。(晉書載記)後周宣帝初即位,立妃楊氏爲皇后,其後自稱天元皇帝,又立妃朱氏爲天元帝后,妃元氏爲天右皇后,陳氏爲天左皇后。尋進楊氏爲天元大皇后,朱氏爲天大皇后,元氏爲天后大皇后,陳氏爲天左大皇后,陳氏又改爲天中大皇后,而以妃尉遲氏爲天左大皇后。(後周書本紀) 前頁 『廿二史箚記』巻十五 次頁 隋書志 216.一帝數后 隋文帝殺宇文氏子孫
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辛皇后 ?-761 大燕の皇后。史思明の夫人。大豪族の娘で、卑賎の身であった史思明に惚れ込んで、一族の反対をおしきって嫁ぎ、史朝清を産んだ。安史の乱の指導的地位にあった史思明が皇帝となると、皇后となった。史思明が庶長子史朝義を軽んじて史朝清を後嗣にしようして史朝義に殺害されると、史朝清とともに殺害された。 列伝 『新唐書』巻二百二十五上 列伝第一百五十上 逆臣上 史思明 朝義 外部リンク 维基百科,自由的百科全书 辛皇后(中文) https //zh.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E7%9A%87%E5%90%8E
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編集 霊懐王皇后は、後漢後期の霊帝の妃妾。生前の位によって史書では王美人と呼ばれる。献帝となる皇子劉協を産んだ。 何皇后の嫉妬を買い、間もなく毒殺される。 献帝の即位後に「懐」と諡され、皇后として霊帝と合葬された。 情報 霊懐王皇后 姓氏 王 諱 (不詳) 字 (不詳) 本貫地 趙国 家柄 趙国王氏 祖父 王苞 幼年評 姿色豊かで、聡敏にして才明有り。書・会計を能くす。 位歴 美人 死去 何皇后によって酖毒殺 諡号 霊懐王皇后 子 劉協(漢孝献帝) 事跡 姿色豊かで、聡敏にして才明有り。書・会計を能くした。良家の子であり、法に応じた相貌であるということで選ばれて掖庭に入った。 光和三年(180年)、霊帝の子を妊娠するが、何皇后の嫉妬を畏れ、服薬して堕胎しようとした。しかし胎児は安んじて動かず、またしばしば太陽を背負って行く夢を見た。 翌光和四年(181年)、皇子劉協を産む。しかし王美人は遂に鴆によって毒殺される。 興平元年(195年)、献帝が元服を加えると、有司が長秋宮(皇后)を立てるようにと奏した。しかし献帝は詔して、「朕は稟受(天の定め)が弘(ひろ)からず、禍乱に遭い値しており、未だ先帝を紹(つ)いで故典を光(かがやか)すことができていない。皇母は前に薨じ、未だ宅兆も卜せず(墓所も選べない)。礼章に闕(欠)が有って心中に結ばれているが如くだ。三歲の慼(うれい。服喪)には蓋吉を言わず(だから皇后を決めることなどできない)。しばらくその後を須(ま)つように」。このため有司は王美人を追尊して霊懐皇后とし、文昭陵(霊帝の陵墓)に改葬するように奏した。儀は敬陵、恭陵の先例に比し、光禄大夫を持節して使わし、司空の事を行わせ、皇后の璽綬を奉じさせて葬を取り仕切らせた。王美人の兄の王斌と河南尹の駱業が陵墓を復土した。 敬陵は章帝の、恭陵は安帝の陵墓である。それぞれ、章徳竇皇后と安思閻皇后の他に、和帝の生母梁貴人、少帝劉懿の生母李氏が合葬されている。献帝もその例に倣った儀礼で生母を葬ったのだろう。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 位 美人 出身 趙国 諡 懐 趙国王氏 関連項目・人物 「霊懐王皇后」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
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皇后 ミン 皇后 閔氏(名前不明) キャスト ユン・ユソン 称号 皇后 性別 ♀ 年齢 不明 現皇帝の妻で、シンやヘミョンの母親。 良家の令嬢で、政略結婚によりイ・ヒョンと結婚した。 継承第2位の皇子の嫁として嫁いだが、時の皇太子の死により、皇后となった。 内助の功で皇帝を支えるしっかりした人で、人にも自分にも厳しい性格。 息子シンも皇太孫となった時から、いずれ皇位を継ぐ人間として厳しく育てた。 最初から庶民出身の嫁を受け入れることには抵抗を示し、品位に欠けたチェギョンの起こす問題に頭を抱えている。 結婚後、夫の心に別の女性が居ると知る。 それでもいつか愛を得られると献身的に尽くしていたが、夫に愛される妻の座を諦め、息子を皇帝にすることに全てを捧げるようになる。 そのため恵政宮とは長年に渡る確執があり、彼女の14年ぶりの帰国に誰よりも早く警戒を示し、その陰謀に対抗している。 人間関係 家族 夫:皇帝 イ・ヒョン 長女:ヘミョン姫 長男:皇太子 イ・シン 嫁:皇太子妃 シン・チェギョン 姑:皇太后 パク 姑:聖祖皇帝(故人) 義兄:孝烈皇太子 イ・ス(故人) 兄嫁:恵政宮 ソ・ファヨン 甥:義誠君 イ・ユル 皇后に仕える人達 パク尚宮 チェ尚宮 ニックネーム(呼称) 皇后(ファグン)※皇后に付く敬称は「陛下(マーマー)」 母上(オマママ) お母さん(オンマ/オモニ)
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韋后 ?-710 中宗の皇后。「唐の女禍」の一人。京兆・万年(陝西省西安)の人。祖父韋弘表は太宗のとき曹王府典軍となり、父韋弘貞は予州刺史。中宗が皇太子のとき妃に選ばれ、684(嗣聖元)年皇后となったその翌月中宗が生母武后に廃されて、房州(湖北省房県)に流されると、懿徳太子および永徽、永寿公主・長寧公主・安楽公主の四公主をかかえ、不安におののく中宗と苦労をともにした。韋后は政権欲が強く、705(神竜元)年手に中宗が復位すると、高宗時代の武后をまねて政治を乱し、武三思らを寵愛して素行がおさまらなかった。710(景竜4)年6月安楽公主らと共謀し、政権をにぎろうとして夫の中宗を毒殺し、温王李重茂(中宗の第四子、殤帝)を即位させたが、臨淄王李隆基(玄宗)が挙兵したため殺され、庶人の地位におとされた。韋后の事件を武后の事件と合わせて武韋の禍という。 列伝 『旧唐書』巻五十一 列伝第一 『新唐書』巻七十六 列伝第一 参考文献 『アジア歴史事典1』(平凡社,1959年) 外部リンク Wikipedia日本語版 Wikipedia中文版 唐代人物知識ベース