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一遍 一遍〈いっぺん〉 (延応元年2月15日(1239年3月21日)~正応2年8月23日(1289年9月9日) 鎌倉時代中期の僧のこと。時宗の開祖。一遍は房号で、法諱は智真。遊行上人、捨聖(すてひじり)とよばれる。近代における私諡号は円照大師、1940年に国家より証誠大師号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。 伊予国の豪族、別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。ただし同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説がある。有力氏族であった本家の河野氏は、承久の乱で京方について祖父通信が奥州に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。 10才のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。この時の法名は智真。 25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。 さらに、各地を行脚するうち、信濃国で踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、51歳で摂津兵庫津の観音堂(のちの真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。
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【流】 【流】は、永続箱庭諸島に存在する自由同盟だった(過去形) 15年9月下旬、盟主がリアル多忙により島放棄。それにより同盟も解散。 +... 目次 メンバー 盟約活動内容 加入方法 歴史 メンバー 名前 島名 生姜(盟主) 絶海の孤島 涙 雀百まで踊り念仏島 Silicon Silicon Trip島 黒無 冷島 Ef EF島 jobs 愛したら愛してくれますか?島 kuroi Phosphorus島 馬 Deep Impac島
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鎌倉幕府の封建制度 中央 将軍、執権、御家人(御恩と奉公) 侍所(警視庁)、政所(財務省)、問注所(裁判所) 地方 守護 地頭(荘園ごとに設置) 鎌倉幕府の成立年は、1180, 1183, 1185, 1192 などの説がある。 鎌倉幕府 武家政治の始め 1180 頼朝挙兵 鎌倉に侍所設置 1183 後白河法皇から東海道・東山道の支配を認められる 1185 守護・地頭の設置 国ごとに設置される守護、荘園・国衙領ごとに置かれる地頭。年貢の徴収、治安維持を行う。 守護・地頭の設置が認められたことにより、完全ではないがほぼ全国に頼朝らの武家政権の支配力がおよぶことになった。 1192 源頼朝 征夷大将軍に就任 1199 頼朝 落馬が原因で死亡 1202 2代目将軍 頼家 御家人からの評判が悪く、追放される 1203 3代目将軍 実朝(さねとも) 1219 鶴岡八幡宮で公卿に暗殺される 北条政子 聴政 武家政権の確立 1221 承久の乱 北条義時 VS 後鳥羽上皇 後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣 幕府側19万、朝廷側3万 後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に島流し 京都に六波羅探題を設置 1232 北条泰時 御成敗式目(貞永式目)の制定 武士による武士のための最初の法律 時宗を襲った元寇 1271 蒙古 国書を呈す 1274 文永の役 1281 弘安の役 1297 永仁の徳政令 1333 鎌倉幕府滅ぶ 鎌倉文化 新古今和歌集 藤原定家編 小倉百人一首 方丈記 鴨長明 徒然草 吉田兼好 平家物語 武家造 東大寺南大門 円覚寺舎利殿 金剛力士像 運慶・快慶 鎌倉新仏教(浄土信仰系) 法然 【浄土宗】 1198 選択本願念仏集 「南無阿弥陀仏」のなを称するという行為(念仏)だけが必須であり、それ以外の修行は一切不要 親鸞 【浄土真宗】 歎異抄 弟子の唯円が親鸞の法語を没後30年以上たってからまとめた 悪人正機説と他力本願 善人なをもちて往生をとぐ。いわんや悪人をや 一遍 【時宗】 踊り念仏 鎌倉新仏教(禅宗) 栄西 【臨済宗】 お茶を宋から日本に持ってきた 道元 【曹洞宗】 本山は永平寺(福井県) 鎌倉新仏教(法華経) 日蓮 【日蓮宗】 「何妙法蓮華経」と題目を唱え、法華経至上主義で他宗派を徹底批判 1260 「立正安国論」を書き、北条時頼に意見する。
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主筆者 CAUTION!この記事はメタ内容です。 愛憎の 連理の枝も 節から折れて 爺と婆が ひと番い 主筆者とは日々W0rld Endを想起し終末の世界を組んでいる変態の事。エロい、もとい偉い。 襲い掛かる怪電波や湧き上がるパラノイアの中か有用な有機情報を 探し出す人脳ゴミ漁り。踊り念仏は止まらない。世間様に迷惑を掛け通 しの日陰者。WORKGROUP「園遊会」不定期開催。愛憎の果てには爺 と婆がひと番い、マスも掻けない片輪者。フィボナッチ数とクラブハウスサ ンドウィッチって似てる。太陽は明日も昇らないか? 兄嫁と 義理事欠いて 閨から落ちて マスも掻けない 片輪者 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人 【募集】図を描ける人/絵を描ける人/話を書ける人/命を懸ける人/人生を賭ける人/狂気を駆ける人
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564 名前:参加するカモさん[] 投稿日:2009/01/06(火) 09 36 16 ID dSgGXmRc 第170回国会 予算委員会 第4号 平成二十年十月十五日(水曜日) ○石井一君 私は、このテープをここで受けてくれとか、それをどうすると思ったけれども、 私自身がそれを聴取して、ここで私の責任と自信を持って問題点を提起したい、そういう ことでありますから、議員の発言は許していただきたいと思います。 その投票日の三日前に、ある県の創価学会会館でどういうことが起こっているか。 ちょっと時間は取りますけれども、皆さん、静かに聞いてください。 選挙プロの集団の実態、選挙情勢の分析、全国情勢、最後の三日どう追い込むか。 集票活動、事前投票、戸別訪問、三人一組の部隊、婦人部隊、この執拗な学会の運動 というのは国民みんな知っていますよ。ある人は迷惑を感じてもおりますよ。 熱心なものですよ、宗教と政治と選挙運動が一体になっておるんですから。 そして、この中には、民主党は仏敵だと言っているんですよ。 仏の敵ですよ。 一遍、学会の最高幹部に聞いて、一遍どうして仏敵なのか聞かしていただきたい。 そして、県長の次に、いろいろ選挙分析があった後、婦人部長は、菅が来ると、 仏敵を追い払えと、同盟唱題というのか、のろいのお経をあげたら突然突風と大風が 吹いてきて、大雨が来て、それでその菅直人と候補者はこわごわ退散したと。 そこでまたごっつう拍手が起こっておるね。 宗教が悪いと言っておるんじゃないんですよ。 しかし、ここまで来たら行き過ぎだというふうに私は思うんですよ。 総理、御感想はいかがですか。 「誰が仏敵じゃ!」 ズガンッ 【一日目・午後22時10分/サマルカンド】 【一遍上人@鎌倉時代】 [状態]健康 [装備]バールのようなもの@現実 [道具]支給品一式 [思考]基本 踊り念仏をひろめる 1、ついカッとなって殺してしまった564を供養する 【564@コピペ 死亡確認】 死因:バールのようなもの(一遍上人)
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福田寺 京都府京都市下京区、福田寺の御朱印です。 令和4年、寅歳にちなんで1年間授与された御朱印「勇猛精進」です。 令和3年、丑歳にちなんで1年間授与された御朱印「牛王身」です。 こちらの寺院では月替わりの御朱印をいただくことができます。 令和4年の月替わりの御朱印「片袖の弥陀」です。毎月異なる印が添えられていました。 令和2年9月にいただけた御朱印「彼岸会」です。 令和2年10月にいただけた御朱印「豊穣」です。 令和2年11月にいただけた御朱印「晩秋」です。 令和2年12月にいただけた御朱印「成道」です。 令和3年1月にいただけた御朱印「精進」です。 令和3年2月にいただけた御朱印「涅槃」です。 令和3年3月にいただけた御朱印「春彼岸」です。 令和3年4月にいただけた御朱印「灌仏会」「花まつり」です。 令和3年5月にいただけた御朱印「端午」「薫風」と書置きの見開き御朱印です。 令和3年6月にいただけた御朱印「法雨」「南無阿弥陀佛」と書置きの見開き御朱印です。 令和3年7月にいただけた御朱印「一朝の夢」、見開きの「一日一生」「七夕」の御朱印です。 令和3年8月にいただけた御朱印「盆会」、見開きの「踊り念仏」、金魚の御朱印です。 令和3年9月にいただけた御朱印「爽秋」、見開きの「二河白道」、蓮の御朱印です。 令和3年10月にいただけた御朱印「菊日和」、見開きの「豊楽」です。 令和3年11月にいただけた御朱印「冬降」、見開きの「錦楓」です。 令和3年12月にいただけた御朱印「雪花」、見開きの「成道会」、除夜の鐘の御朱印です。 令和4年1月にいただけた御朱印「開運招福 笑う門には福来る」です。 令和4年2月にいただけた涅槃会の御朱印です。 令和4年2月にいただけた御朱印「福はうち」です。 令和4年3月にいただけた御朱印「極楽浄福」です。 令和4年4月にいただけた御朱印「降誕祝福」です。 令和4年5月にいただけた御朱印「多福多幸」です。 令和4年6月にいただけた御朱印「天福」です。 令和4年7月にいただけた御朱印「七難即滅・七福即生」です。 令和4年8月にいただけた御朱印「追福作善」です。 令和4年9月にいただけた御朱印「福聚海」です。 令和4年10月にいただけた御朱印「福実る」です。 令和4年11月にいただけた御朱印「平安是福」です。 令和4年12月にいただけた御朱印「福智満」です。 令和5年卯年に授与された「愛敬」です。 通常いただける御朱印「南無阿弥陀佛」です。 「ちぶさ地蔵尊」です。 御詠歌です。 納経御朱印です。こちらの御朱印も、月ごとに捺される印が変わります。 オリジナル御朱印帳の最初の頁に授与される「宗尊親王」の御朱印です。 ★この寺院にはオリジナル御朱印帳があります。 福田寺の御朱印帳です。18cm×12cmです。 令和4年寅年、御朱印帳の最初の頁に「虎」と揮毫していただけました。 ★住所 京都府京都市下京区本塩竈町590 - 名前 コメント
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目次 1.一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ 2.踊り念仏は浄土を地上で表現したもの 3.近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要 4.余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動 5.心の広場、愛の広場をつくろう 6.明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務 7.一遍上人の「時宗」は一瞬、一刻の信仰の教え 8.新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ 9.この世で偉くなりたいと思ってはいけない 10.九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる 11.権威主義はやめるべきである (1986年8月7日の霊示) 1.一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ 一遍 一遍でございます。 ―― お初におめにかかります。一遍様のご高名は、かねがねうかがっております。 一遍 いや、あなたは、私をあまり知っていないのではないですかなあ、あまりごぞんじではないようですな。 ―― いやそれは、一遍様のお教えの本義については深くぞんじておりませんが、ただ、お名前だけは、宗教人としてご高名であられたので、よくぞんじております。 一遍 私もね、まあ、最初からこんな話をしてはなんですが、前世においては、キリスト教系で、あなたとも縁があったものです。 ―― ああ、それはそれは……、やはりイエス様とのご関係で……。 一遍 そうですね、まあ、それほど有名ではございませんが、数ある人のなかの一人であったということです。 ―― 親鸞聖人、蓮如上人とともに、イエス様のお弟子であられたということですね。 一遍 ですからね、仏教世界において、キリスト教的考え方を布教するためにわれらが一団となってでてきたということです。ヤコブという名前があるでしょう。聖書のなかにね、ヤコブというのがでてきておりますでしょう。これが私なのです。 まあ、一遍がでて、ヤコブの話をしておったのでは、皆さんの期待にはずれると思うから……、さあ、何からお話いたしましょう。 ―― 上人様は、伊予の愛媛のお生まれで、浄土宗に学び、自ら「時宗(じしゅう)」という一派を興されて、"踊(おど)り念仏"を行ない、お教えを広められたそうですが……。さて、これからのお話について、読者のなかには、「はたしてこれが一遍なりや」との疑いを持たれる方もあろうかと思いますので、これはどなたにもお願いしていることですが、始めに、何か当時のお考えなどをお話し願えませんでしょうか。 2.踊り念仏は浄土を地上で表現したもの 一遍 まあ、当時は、イエス・キリストのような偉大な教師がいなかったので、私たち小粒の指導霊たちが時代をつくるために、数多くでておったわけであります。親鸞のような教えもありましたが、私の教えは、その他力の教えをもっと徹底して説いたものなのです。それと、私の教えの一番の勘所(かんどころ)は何かというと、はっきり言って大衆布教なのです。 つまり、どれだけわかりやすく教えを説いて、どれだけ多くの人を動員するか、これが眼目だったわけです。お念仏で救われるという言い方もありますが、まあ、それだけじゃなくてね、もう少し動員力を増してやりたいということでした。踊り念仏というように言われておりますが、当時の人は心が暗く、荒(すさ)んでおったわけです。ですから、いかに極楽浄土が明るく楽しいものであるかということを説いた。そして、その極楽浄土の雰囲気を、皆さん、現世において味わってみませんか、と。それは、こういう楽しい気持ちなんですよと、お念仏を唱えながら踊る。 そうすると、いろんな死の恐怖や、とりこし苦労、心配をしておったとしても、一時期ではありますが、ずいぶん気が楽になる。明るくなるのです。宗教というのは、人びとのですなあ、知性、まあ知識ですな、こうしたものが高まって、理解力が増しているときにはむずかしいことを言ってもいいのですが、人びとがですな、考える力が十分でない時代には、まずは、人びとの心を明るくする。これが肝心なわけです。 ところが、今、あなた方は、"心の教え"ということで、さまざまな聖賢の話をうかがって、「教えの書」を刊行しているようですが、その教えの書もですね、まあ、私があの世から垣間見るかぎりは、若干知性と言いますかね、知的なものに流されておるようであります。 3.近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要 一遍 それも一つの生き方ではありますが、これから、近々十年、二十年の間に、世の中がね、一時期暗くなっていきます。まあ、天照大御神様がお隠れになったようなもので、つまり、天の岩戸にお隠れになったような感じでね、地上が暗くなることがあります。これは、陽が翳(かげ)るという意味ではなくてね、世の中が暗い世の中、暗たんたる世の中になる時期が、今後、来るということです。 そうしたときにはですなあ、人びとは動乱、狂乱のなかにあるわけです。だから、むずかしい「霊言集」を読んで、これを知的に理解すれば救われる――ということだけではですね、なかなか人間は救われない。平和時においては、高い教養を持って生きている人びとを教導する意味においては、それで十分なのでありますが、混乱期、暗たんたる時期においては、それでは不十分なのであります。ですから、そういうときにはね、あなた方ももう少し単純で、もう少し明快で、もう少し人びとの心を明るくするような運動というものを考えていただきたいのです。 私は、まあ、これは当時の私の発明でもあろうし、狂った男だなどと言われたこともありますけれども、世が暗いときにはね、せめて一般の人の心だけでも明るくしたいと考えた。楽しくしたい、と。楽しいということが、失われた時代でもあったわけであります。 今はね、楽しいことが多いようですが、苦しいことのみが眼につく時代がもうすぐやってまいります。そのときにね、あなた方に、法の楽しみ、道の楽しみですか、それを伝えて貰いたいのです。道を求めることの楽しみも大事ですが、その道をですな、求めている人が、やはり心明るくなるような、心がうきうきするような、そうした考え方ね、それも、私は大事だと思うのです。 今、世の新興宗教を見ていると、どうもやたら修行ばかりをやっているようですな。道場をつくってね、坐禅をやったり、瞑想をやったり、観法をやったり。いろいろやっておるようですが、ま、今一つ楽しそうではありませんな。ですからね、まあ、「創価学会」などというものがありますわな。見ていると、評判がよくないようですが、まあ、私もね、あれの教え自体がどうかはわかりませんが、いや、いいところもあると思うのですよ。ああいう"学会"という完結した団体のなかでね、相互扶助が行なわれていた。実際に、あの創価学会のようなものが広がったときにはね、まあ学会員になった者は、やはり世の中の貧しい方がたであったでありましょう。そういう人たちが一団となって救っていく、互いに互助していく、そういう内容を持っとったと思うのですな。 同じ時期に、"共産主義"などがあった。共産主義社会とかね、まあ、そういうものがあった。そうした唯物主義にもとづく団結という考え方と、もう一つは信仰を通した団結というものね、こうしたものが近代の日本にはあったわけであります。どちらが優れているかといえば、信仰のもとに団結し、まあ、ある意味でのユートピア社会の縮図なわけですな。 ですからね、あなた方も、本を読んで知的に悟るということも大事ではありますが、やはりね、あなた方が、今後、教えを説いていくなかにおいて、その教えを信じる者同士、その教えをお互いに理解し合う者同士が、"幸せ"に生きていけるように、やはり配慮していく必要があります。 今は、そうした心が孤独な人が多いんですね。そういう心の世界、神仏の世界を信じていてもなお、孤独な人が多いのです。自分一人だけの信仰になっているのが多くて、話し友だちもない。そして、話し友だちを持とうとしても、まあ、既成のね、いろんな怪しげな団体、宗教団体に入らないと仲間ができないということもある。まあ、こういうときですから、あなた方には、できるだけ明快で、明瞭でね、暗さが何もないような、そういう教えを説いていただきたい。そして、そういうものを共有しあうことができるような人びとの交流の場を提供していけるようになりたいものだと思います。 で、宗教のかつての悪いところをなるべく拭(ぬぐ)い去って、あなた方の教えによって、明朗な人びととの出合いの場をつくっていくという考えが大事です。教えを通じた出合い、信仰を通じた出合いですね。こういう出合いの場をつくっていく。そして、人と人との心のふれあいを大切にしていく。こういうことをね、考えていっていただきたいと思います。 あなた方がね、生き神様のようになって、崇奉(あがめたてまつ)られることが、信仰の本義であるわけでは決してないはずなのです。まあ、あなた方のね、教えをともに勉強しあうということを一つのきっかけとして、いろんな人びとが、愛のサークルをつくっていけるような、そういう場を提供していく。これが大事だと思うのです。だから、あなた方の教えを勉強するという機会を利用して、お互いの人たちが、いろんな人たちが、未知の人たちが出合って、話し合って、お互いに交流できるような、そういう明るいものをつくっていきましょう。 あなた方のお教えを信じている者が、他宗を排撃したり、"折伏(しゃくぶく)"したりして、一致団結する必要はないのです。そうではなくてね、あなた方の教えは、だれもが学べるような、開放的なものにして、そして、そのなかで、教えを学ぶなかで、いろんな人が出合って、さまざまな"愛"が生まれ、出合いが生まれて、素晴らしい人生が、いくつも誕生するような、そういうやり方にしていただきたいと思います。 4.余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動 一遍 あなた方には、これから支部ができたり、また、組織ができていくでありましょう。でも締めつけのようなことではなくて、異端邪説を排するとか、そういうことではなくてね、一つの出合いの場であってほしい。あなた方の教えをそのまま信ぜよ、鵜呑みにせよ、というのではありません。自分たちは出合いの場を提供するから、これでみんなが心の交流をしてください、と。そして、本当の教えというのは、書かれたものだけが教えではなくて、一人一人が話し合うなかにきっかけがあり、目覚めがあるんですよ、と。こういうことですね。 ここを私はね、まあ、他の人が今一つどうも言っておられないようなので、言っておきたいと思うのです。レクリエーションという言葉があなた方の時代にあるようですが、まあ、宗教というのがね、今後、余暇の増大する時代においては、人びとの一つの出合いの場、心のゆとりの場になってくると思います。だんだん時間的にもゆとりがでてきます。働きすぎの時代は、やがて終わっていって、一つのゆとりが生まれてきます。文化的な、時代としてのゆとりがでてきます。 そうしたときに、出合いの場をつくる。それが、あなた方の教えであっていただきたい。すなわち、ある意味での"生涯学習"です。今の時代でいえばね、生涯学習ということがすいぶん言われていますね。若いときに、労働ばかりして勉強ができなかった方が、中高年になって、大学にもう一回入り直してみるとかね。卒業してしばらくたって、勉強し直したい人がいて、そういう人のためにやるところとか、あるいは、カルチャー・センターとかありますね。そういうところで、主婦とかが学んでおるようですが、まあ、こういうものも生涯教育の一環でありましょうが、そうではなくて、もっと大切な生涯学習があるはずです。 それが、宗教の世界、心の世界です。ですから、いろんな方がお互いに、一生を学習していけるような、そういう場をつくってあげたいと思うのです。まあ、十分な時間を持っている主婦の皆さんには、昼間に活動していただく。会社勤めがある男性は、夜とかね、休日に活動していただく。そして、お互いに人生経験の幅を広げていただきたいのです。 5.心の広場、愛の広場をつくろう 一遍 それと今、世の中を見ていて問題点と思うのは、こういうことです。つまり交際の幅が狭い。たいていの方がですな、企業に勤めているわけですが、一日八時間、あるいは十時間というものを拘束されている。その職場仲間と、仕事で話をする。そして、夜は飲みに行く。また、土日のゴルフをしたりして遊んでおる。ということで、非常に交際の幅が狭いものになっていると、私は思うのですな。 これは、人間の人生においては、非常にもったいないことです。非常に少ない範囲の人とばかりつきあっていたのでは、新たな人生経験は得られない。大変にもったいないことです。ですから、こうした方がたがね、心の教えを通じて、いろんな世代の人と、いろんな経験を得た人と話ができるような、ま、そんな場をつくることができたらと思うわけです。広場ですな。あなた方は、そうした広場をつくるのですよ。これからね、心の広場、愛の広場、それをつくっていただきたい。団体をつくろうと思わずに、広場を提供する。そのなかでね、だれもが楽しく憩(いこ)っていきなさい、と。私は、これでいいと思うのですよ。 そしたらね、今の世代の隔絶とか、個人主義の時代ですな、こうした時代に対して、一石を投ずることになるだろうと思うのですがね。そうではないと、人と人の交流がね、非常にかぎられたものになって、孤独な人がずいぶんでてくる。"文明病"でね、孤独ですよ。悩みがあっても、だれにもうちあけられない。会社の同僚と交際(つきあ)っていても、悩みを打ちあけたりしたのでは、足を引っ張られるそうだ。いつ、だれそれの耳に入るかわからない。父母とは一緒にいない。だから、悩み一つ言えない。そういうことでね、心の孤独というのは、どんどん増していくのです。 ですから、あなた方には、孤独な人びとを何とか、救っていただきたいのです。"弧独からの解放"すなわち、あの世のことを知らせるのも大事ですが、まあ、現代人の孤独からですね、救ってあげることも大事なことですよ。そうじゃありませんか。狂信、盲信の類は困るけれどもね、そうではなくて、だれが学んでもおかしくないような、立派な教えであるなら一緒に勉強会しましょうと、そのぐらいの気楽な気持ちでね、あなた方の広場に、たくさんの人びとが集まってくるような、そういうものにしてほしいのです。広場ですよ。広場はみんなのものですから、みんなで使っていただければいいのです。そういう心の広場、愛の広場です。 それと、宗教の世界というのは、平等の世界です。「阿弥陀如来」の下(もと)の平等と言ってもいいですからね。まあ、神仏の下の平等ですね。そういうおおいなる力の前には、人間というのは、平等なんです。この世的には、地位の差がありましょう。年齢の差がありましょう。収入の差がありましょう。男女の差がありましょう。けれども、そういう宗教の世界では、おおいなるものの前に平等なのです。 ですから、すべての肩書を取りはずして、世間的な上下を取りはずして、そして、お互いに交流、心の交流ができるような、そういう場をつくってほしいと思います。そういう集まりであれば、相手の人が会社で重役やっているのかどうかもわからないし、気にもならない、学生の意見だからといって無視する気持ちもない。そういうことで、一つの教えに関していろんな人が議論ができるような、そういう活発な場をつくってあげたい。 それだってね、ある意味でのユートピアです。別に会社の建設だけではありません。人びとの出合いの場、憩いの場、広場をつくってあげることが、一つのユートピアなのです。孤独な人たちにとっては、救いになります。今、都会では自殺を考えているような人がいっぱいおります。なぜ自殺を考えているか。つまりは、相談するところがないのです。しかし、そういう「愛の広場」があったならば、そこで、いろんな人の相談を受けられる。普通であれば、自分の父母、きょうだい、友だち以外には相談するところがない。でも、そういう愛の広場に駆け込めばね、いろんな人の相談を受けられる。また、人生経験のある人の話を聴けるんです。 そういう人たちは、みんな、悩んでいる人たちを救いたいと思っていますから、困った人に対して、心から相談にのってくれるでありましょう。自殺したいと思っている人がいたら、まず、そうした広場へ駆け込んでこい、と。そして、いろんな人と話し、「いやあ、若いうちには辛いことも多いよ。私もそんなときがあったけれども、こうやって乗り越えたんだよ」と、そういうことが言えるような場がほしいですね。まあ、あなた方の教えとして、むずかしい教えを遺(のこ)す、後世に遺すことも大事でしょう。しかし、今、あなた方の教えに触れてる人たちが、そういう楽しい場を持てるような、そういうものにしてほしいのです。 地域社会での互助会、町内会のようなものもあります。しかし、そういうものは、非常に形骸化(けいがいか)しています。結局、それぞれの立場が違って、思想が違うから、あまり話をすることもない。顔見せだけに終わっている。それでは、意味がない。ですから、そういうことではなくてね、一つの信仰ということを通して集まっている人たちが、互いに学べるような、そういうものをつくってほしいと思うのです。 私の「踊り念仏」というのはね、時代の流れのなかからみれば、非常に奇異なものだろうし、今のあなた方から見れば、とても信じがたいものでありましょう。しかし、ある意味においては、そういうね、一つの解放感というのを共通項にしてね、人びとの出合いの場、触れ合いの場をつくりたいということだったのです。つまり、"阿弥陀如来"の称号のもとに、いろんな人が集まって、楽しくやっていける。一時期であっても、この世的な辛さを忘れられる。まあ、そういうものを、私は考えたのです。こういう大衆布教の方法があるのです。 ですから、上から下に教えるのではないのです。あなた方が生き神様になるのではない。あなた方は、単に広場を提供しているだけなのです。この教えをきっかけにして、いろんな人生問題を話し合って、心の交流をしていただきたい。そして、あなた方がつくったその"愛の広場" "出合いの広場"で、若いカップルなどが生まれたり、そういうことになっていくのがむしろ望ましいですね。同じ信仰を持って、夫婦生活をできるとは、素晴らしいことですよ。 ところが、今の見合いとか、ああいう結婚センターでは、同じ思想を持った者同士が出合うことがむずかしい。単に容色とか、学歴とかね、親の地位とか、職業とかね、こんなことで相手を探しておる。しかし、本当に男女の出合いにとって大切なことは、そういうことではなくて、お互いに共通する精神的な基盤があるかどうかなのです。ですから、私はそういう出合いの場をつくってね、青年部でも何でもいいが、若い人たちがどんどんカップルになって、素晴らしい家庭をつくっていく、こういう場もつくりたいですな。そういうのはいいですよ、素晴らしいですよ。共通項があれば、素晴らしいものになります。 6.明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務 一遍 たとえば、今でいえば、「天理教」なども、教えとしては、ずいぶん不十分な教えだと、私は思います。あのような"お筆先(ふでさき)"の訓えぐらいでは、現代人の悩みが解消するとは思いません。ただね、いいところもあります。つまり、明るく生きていこうという気持ちがあって、それでお互いに、天理教のなかに入っている人同士が、親睦(しんぼく)を深めて仲よく生きている姿。あれは微笑(ほほえ)ましいものです。あれは立派だと、私は思います。ですから、あなた方のなかにも、そういう微笑ましいものをどうか入れていただきたい。むずかしい教えを説くと、現代のエリートばかりが集まってきたり、知識人ばかりが集まってくるけれども、そういう人ばかり広げるようでは、現代の鎌倉仏教の「禅」みたいになってしまいます。現代の禅になってしまう。それではいけない。幅広いつきあい方を考えなければいけません。 知識欲の旺盛な人には、その知識欲を満足させるようなものを提供することも、もちろん大事です。しかし、一方では、あなた方が何もかも教えなければいけないというような、そういう前提をはずさなければいけないのです。それを機縁として、つまり、その教えを機縁として、人生の出合いがあって、心の交流があるような、そういうものが大切なのです。ですから、だれが師であり、だれが弟子というのをはっきり決めるのではなくて、その場その場で師になったり、弟子になったりするような、そうぃう人間関係。私はそういうのこそ、非常に素晴らしいと思います。「君、そのことに関しては、僕が経験があるから教えてあげるよ」とね、こういう関係が大事なのです。 男性にとっても、そういう男女交際ということを抜きにした異性、女性とのね、精神的な語らいがあるということが必要です。女性にとっても、そういう精神的な語らいがあるということは、大事なことなのです。今、女性で、心の教えを求めている人が多いのですが、そういう人たちも、結局は、はけ口がなくて困っているということです。男性と交際したくても、そういうことを満たしてくれる男性が世の中にはあまりいない。職場にもいない。もし、いたとしても、わからない。外面にださないですからね。ですから、女性もね、いろんな男性と会って、心の教えを交流できるような、そういう場をつくってほしいと思います。 神仏への信仰という一つの基盤がありますから、そういう出合いがあったところで、それほど不倫な恋にはならないはずです。いわゆる社交クラブではないのですから、神仏の前の出合いですから、そういう不純な感情なしに、異性の考え、男性の考えなり、女性の考えというものを十分に理解吸収するチャンスがあると思うのです。私は、これも大事なことだと思います。健全な宗教ですから、別に主婦の方がご主人以外の男性の話を聴いたからといって、それに心奪われて、家庭が乱れるというようなこともないはずです。そういうことは大事なことなのです。つまり、ご主人以外の男性の話を聴いたこともない、というようでは、主婦のほうも、人生経験が非常に狭くなる。そうでしょう。 そういうことで、明るい出合いの場を、あなた方につくっていただきたい。これもね、現代宗教が、今、やるべきことだと私は思います。それ以外には、どう考えてもない。政治に期待するのも無理です。経済に、あるいは、地域社会の活動のなかに期待するにしても、ちょっと無理なところがあります。すなわち、話がないからです。そのなかで、やはり共通項がいるのです。基盤がね。そういうことで、政党などでは無理です。何とかの政治をやっているからといって、党員同士が集まるのとは、ちょっと違うのです。それは、ちょっと違う。そういうのは、単なる政治活動が目的の集団です。ですから、まあ踊り念仏を、現代風にいうなら、そういう出合いの広場ですな。そうした愛の広場をつくるということです。これが一つです。よろしいですか。 ―― 一遍様は、今、「踊り念仏」ということの踊りをとりあげられたのですが、現代では、何か歌、合唱とかね、そういう音楽をとりあげてもいいのではないかと思うのですが……。 一遍 いいですよ。要は、そういう幅広いものにすればいいのです。優れているものだけがいいのではなくてね、みんなでやっていけるものがいいのです。つまりは、ある意味での平等な社会をつくっていただきたいということです。 世の中を見ていると、どうも縦の社会、垂直的な社会、すなわち、上下社会になってきました。で、横割というのは、年齢だけ、同じ年齢者同士平等なんだと、こういう社会になってきた。これではどうもいけません。そこで、もう少し、本当の意味での平等な社会がほしい。いろんな方がたが、趣味でも何でもいいし、そうしたものを通じて交流できるような、そういう場をつくってほしいということです。 私は、そう思います。これはよいでしょう、この考えは。 ―― そうですね。非常に斬新(ざんしん)な素晴らしいお話であると思います。 一遍 この視点も、私は、大事だと思うのです。つまり、あまり知的に道を求める人ばかりが集まっても困る。ですから、何度も申したように、明るい"出合いの広場"をつくっていただきたいということです。 7.一遍上人の「時宗(じしゅう)」は一瞬、一刻の信仰の教え 一遍 一遍としての考えを述べねばいけないということでしたね。踊り念仏については、すでに話しましたが、もう一つ言っておきますと、私は当時、「時宗」というものを称えておったわけです。正確には、時宗を称えておったわけではなくてね、人がそう呼んだわけでありますが……。 その要点は何かと申しますと、結局、『南無阿弥陀仏』を何百万回唱えたから救われるのではない、そういう功徳で救われるのではありません、と。人間というのは、いつ死ぬものかわからない。大波が後からおしよせてきて、いつ足を掬(すく)われるような人生になるかわかりません。不確かな人生でありますからこそ、一瞬、一刻を本当に神仏への信仰のもとに生きねばならぬ、と。そういうことで、南無阿弥陀仏を唱えるにあたりましても、その回数が大事なのではない。息を吐くとき、息を吸うとき、その一瞬、一刻が信仰生活でなければいかん、と。こういうことを、私は言ったわけです。 まあ、これも当時、ずいぶん斬新な考えでございました。息を吸うか、息を吐くか。人間というのは、いつもどっちかをやっているのです。そのどこでね、息が止まるかわかりませんよ、と。今、息を吸っているから安心しているけれども、今度吐くときには、あなたはないかもしれませんよ、と。そういうことでありますから、息を吸うとき、息を吐くとき、それぞれの瞬間において、まあ、現代流にいうなら最高の人生ですな、そういう人生を生きているあなた方であれ、と。 しかし、あの頃の時代ではそうは言えないから、まあ、南無阿弥陀仏と言っていましたがね。そして、息を吸うときと吐くときは、もう臨終のつもりでね、それこそ"時"が終わりなのだということで、真剣に、一息ごとに南無阿弥陀仏と唱えなさい、と。こうしておけば、いつ死があなた方を見舞っても怖れることはないよ、と。こう教えていたのですが、まあ、これも昔の教えなのでね、時間とか"時"のことを言っているから「時宗」と言われたようです。 これも、現代風に言い直すならね、時々刻々にベストをつくせということですね。つまり一瞬、一秒を惜しんでベストをつくす。こういう面が一つあります。もう一つの面はね、信仰生活というのは、別にまとめて、信仰というものはできるものではないということです。現代においても、同じなのです。 ところが、現代では教会などがあって、日曜日だけ、教会へ行く。そして、そのときだけクリスチャンになっている人がおります。日曜日を離れるとまた忘れてしまって、現代人は好き勝手なことしている。そしてまた、日曜になると、クリスチャンになって、「聖書」を読んでいる。しかし、これではいけないのですよ。まあ、日曜だって大事ですが、やっぱり信仰というのは、毎日毎日であるし、毎時間毎時間であるし、毎分毎秒なんです。 ですから、一瞬たりとも信仰心が失われるようではいけない。そういうことです。そういう緊張感も大事なのです。さきほど私は、解放感について言いましたが、逆に今度は緊張感ですね。それも大事なのです。あなた方は日常生活をするなり、仕事をするなかでね、人間と人間の間でさまざまな衝突もあるし、さまざまな軋轢(あつれき)もあるし、さまざまな利害関係があるでありましょう。そういうときに、これはビジネスだと割り切ってやることもけっこうですが、その割り切る背後に、深い宗教的な判断、深い神仏への信仰というのがなければいけません。 仕事の上では、どうしても相手を蹴落さねばいけないこともあるでしょう。商売の相手を、ライバルを、断り倒さねばならぬこともあります。また、同僚をだし抜かねばいかんこともあるでしょう。ま、やむを得ずそうせざるを得ないときもあるでしょう。ただそのときに、神仏の眼から見た自分の行為というものを冷静に、客観的に見えるようなあなた方でなければいけないということなのです。 8.新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ 一遍 私の教えの要点の第一番は、まず開放的な"出会いの場"をつくるということです。二番目には、一瞬、一秒に信仰を深めていく、信仰を持って日々に生きていくと、そういうことですね。最初は"場"を言いましたが、二番目は"時"です。ですから、哲学的にむずかしくいうなら、「空間と時間」ですな。まあ、哲学者みたいになってきて、大変むずかしくなって恐縮ですが、現代においても、私の時代もそうだけれども、現代においても、布教の要点は、「空間」と「時間」なのです。 まず新しき教えは、一定の空間を確保しなければなりません。そして、その空間のなかに、人びとの出合いの場があり、愛の広場がなければならない。これが一点です。第二点は、新しき教えには時間という概念がなければいけない。信仰というものは、特別の日に、特別の時間に集中して、まとめて信仰できるものではない。信仰というものは一時間、一分、一秒これをも離れてはならないものである。吐く息、吸う息、その時々刻々に自分を生かしめている親なる神の生命の息吹を感じなければいけない、と。これが二番目です。 息ができることは、当然ではないのです。あなた方が寝ているときにだって、呼吸はしているのです。呼吸を止めれば、心臓が止まってしまって、あなた方は死んでしまいます。しかし、無意識のうちにも呼吸をしているのです。それは、そうした仕組をつくってくださった神さま、仏さまのおかげなのです。ですから、ありがたいという気持ちで、毎日毎日を生きていかねばならないのです。そこで、そういう時間ですな、この概念が必要です。つまり、新しい宗教は、「空間」と「時間」を制するような哲学でなければならんということなので、あなた方の教えのなかに、"空間"と"時間"という概念を明瞭に打ち込むべきです。 といっても、特別な宗教的時間をとるわけではないのです。毎日毎日のなかに実践化していく、信仰を持っている。自分の発する一つ一つの言葉が、神仏の心に適(かな)っているかどうかへの反省を込めていく――。あるいは、生きている毎日の一つ一つのできごとのなかに、神仏への報恩、すなわち、恩がえしということですね。両親への恩がえし、恩になった方へのお返し、こうしたものを日々心に留めて生きていく。こういう時間概念ですね。まあ、哲学的に言えば私はいくらでも言えるのですが、一遍上人としての世間の判断と離れてくるといけないので、それはそこまでにしておきましょう。どうですか、この時間の考えは。 ―― これは人の生きざまについての基本のことでございまして、そのとおりだと思います。結局この「時間」というものは、一つの念(おも)いの持続であろうと思うのですが、念いの持続ということの強度、振幅によって、そこにそれに比例した「空間」というものが開けてくるということですから、まず念を起こせば時間が生じる。念が一定の時間持続、振動すれば、そこにはそれに比例した空間が現出して、躍動し始めるということになりますね……。 一遍 そうです。あなたもなかなかの哲学者ですな。 ―― いやいや、恐縮でございます。それにしましても、何と申しましても、この本義をまず時間のなかで把握していく、さすれば、そこに創造的ないろんな空間が自ずから展(ひろ)がっていくとこういうふうに思います。 一遍 まあそれはね、今、哲学的にむずかしく感じるかもしれないけども、あの世へ行けば当然のことなのですよ。あの世ではね、一瞬一秒、神仏のことを忘れては生きていないのですよ。だれもが、そういう信仰心を持って生きているのです。もちろん地獄にいるような人たちはそのような気持ちはありませんが、天界、あるいは、高級霊界におられる方がたは、一瞬一秒たりと、神仏に生かされているという感謝の気持ち、信仰の気持ち、これを忘れてはいけないのです。 この生かされているという気持ちのもとに、皆様は、一瞬一秒を努力しておられるのですよ。だから、まあ、この地上的にいうからむずかしいのであって、あの世では当然なのですよ。私は今、「菩薩界」というところにおりますが、菩薩界というところにいて、一日のうちのある部分だけを「神仏」への信仰に打ち込んで、他の時間はね、他のことにかまけておいて菩薩界におられるかというと、おられないのですよ。そういうことをしていると、雲の上から転落して、真っ逆さまに下へ堕ちていくわけです。 だからこそ、信仰というものはしっかりと持っていないといけない。自分のところにある十字架だとか、あるいは曼陀羅(まんだら)、何でもいいけれども、それに向かってお祈りしているときだけ、心が清ければよいかといえば、そうではないのですよ。仲間と出合ってね、それでさんざん悪口を言って罵倒(ばとう)する。あとで、「ああ、しまった」と、それをまとめて精算し、あとでまとめて心の精算をしようと思っているうちに、真っ逆さまに堕ちてしまうのです。 ところが、生きている人間は、けっこうあるわけですな。つまり、反省すればいいと教えれば、一週間まとめて反省すればいいんだから、日頃どんな放恣(ほうし)な、いい加減な生き方をしていても、まあいいだろうと思って、日曜日だけ教会へ行って懺悔(ざんげ)をしている。まあ、それもしないよりはましですよ。ただ、この地上だからね、地上にいるから、まだ地獄へ行かなくてすむだけです。私たちのうちで、世界で、六日間悪いことして、七日目に反省したところで、もうそのときは地獄のどまんなかにおります。そういうことですからね、生きているうちに日々、一日を信仰的な感情を持って生きていく。こういうことが大事なのです。 ―― 非常に斬新なお考えでございますね。 一遍 一遍は、古くて新しい男なんでございますよ。 ―― そうですね、こんなお話はめったに聴けないことですが、大変有意義なお話をうかがって参考になりました。上人様のお説が書籍となって著われたときには、おそらく世の人びとは瞠目(どうもく)するであろうと、このように思います。新しい大衆布教の場とその一つの方向が提起されたように思います。 一遍 まあ、一遍はね、本当絵巻物ぐらいしか残っていないので、私の思想はわかっていないのです。ただ当時はね、ずいぶん粋狂(すいきょう)な人がいたと思われていたのですが、まあ、その粋狂な人一遍の真意はどこにあるかですな。
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いちおう「日本ファンタジーノベル大賞」大賞受賞作ということだから、クォリティはある程度は担保されているだろうと買っては見たものの、SF方面の知人友人のあいだで「京大ダメ学生(オタク)小説」等と大学名を冠されて話されることが多く、何とはなしに敬遠して積んでいたもの。 「読書感想しりとりリレー2006」の課題で「た」が回ってきたのをいい機会と、普段は手を伸ばさない棚にある『太陽の塔』をに読んでみたら、いやびっくり、これが猛烈に面白かった。愉快で、チャーミングで、切なかった。 『太陽の塔』の主人公は、非モテで、いちおう頭は良く、けれど肥大しきった自我を持て余しがちな京大五回生の男子で、これは彼が「終わってしまった恋」を再確認する、というような話だ。 しかし、私が女ッ気のなかった生活を悔やんでいるなどと誤解されては困る。自己嫌悪や後悔の念ほど、私と無縁なものはないのだ。かつて私は自由な思索を女性によって乱されることを恐れたし、自分の周囲に張り巡らされた完全無欠のホモソーシャルな世界で満足していた。類は友を呼ぶというが、私の周囲に集った男たちも女性を必要としない、あるいは女性に必要とされない男たちであって、我々は男だけの妄想と思索によってさらなる高みを目指して日々精進を重ねた。あまりにも高みに上りつめすぎたために今さら下りるわけにもいかない、そもそも恐くて下りることができないと思いながらも口をつぐみ、男だけのフォークダンスを踊り狂った。 ○ しかし、そろそろ社会復帰は無理という色合いが濃くなり、これ以上男だけのダンスを踊ると本当に後戻りできなくなる、一生このまま踊り続けて踊り念仏の開祖にでもなるしかないという危機感が絶望的に漂う三回生の夏ごろ、私はつい抜け駆けをした。今でもその裏切りのことを思うとやや心が痛まないでもない。 恥をしのんで書けば、私はいわゆる「恋人」を作ってしまったのである。 相手は私がグウタラ部員として先輩からも後輩からも軽蔑の視線を一身に浴びていた某体育会系クラブの新入部員であり、今にして思えば先輩として能うかぎりの特権を濫用し、それこそ万策を尽くして彼女を籠絡したのであった。事情を知る一部の友人から、いたいけな一回生を騙くらかしたと非難囂々、それでも正直に言おう、私は嬉しかった。それでいて喜んでいる自分に対して唾を吐きかけてもいたのであった。ただ「恋人」ができたぐらいでそんなに嬉しいのかオマエは、と。 彼女の名前は水尾さんという。 彼女については追々書くことになるだろう。今のところ私にとって彼女が唯一の女性であり、私の生活を描くにあたっては彼女を抜きにしては語れないからだ。だからと言って、読み進むうちに、この手記が嫌悪すべき相思相愛めろめろのラブストーリーに変貌してしまう心配はないから、安心していただきたい。彼女は知的で、可愛く、奇想天外で、支離滅裂で、猫そっくりで、やや眠りをむさぼり過ぎる、じつに魅力ある人間なのだが、残念なことに一つ大きな問題を抱えている。 彼女はあろうことか、この私を袖にしたのである。 (ほとんど)冒頭の部分を引用。物語のはじまりの状況はここに書かれているようなものだ。主人公は理系でオタクで自意識過剰で世人のすなるような恋愛に呪詛を燃やしていたが、ついうっかり恋人なんかを作り、けれど彼女には振られてしまい、また同じ世界同じコミュニティへ舞い戻ってきてしまった。この状況は、しかし、本質的には物語のおわりまで何も変わらない。 物語中で何が起こるか。 友人の、やはり非モテ男子連中とつるんでみたり、水尾さんを「研究」(と本人は主張するが、実際にはストーキング)するうちに同じような境遇の男・遠藤と知り合い、友情じみた奇妙な関係をはぐくんでみたり、はたまた冬の大文字山に登って寒々とした空の下、「大文字焼き」という名のバーベキューをしてみたり。彼は、「水尾さん」の回りをぐるぐると回るが、彼女の所にはついには行き着かない。 彼はずっと、水尾さんに惹かれる心を「これは恋心ではない。知的好奇心の当然の発露だ」とバカみたいに糊塗して、水尾さんと別れるときも、平静に、冷静に話し合い、握手して分かれて、恋愛に耽溺した馬鹿な男のようになど当然自分は泣いたりなどしないと決意し、それでも、それでも降る雪の下に涙をこぼす。 ……そう、私は、ラストシーンの「太陽の塔」を子供のように見あげている様子や、鴨川の河原を歩きながら「ペアルックは厳禁しましょう」という様子や、そのほか、恋人として居た彼女のさまざまに魅力的な仕草や想い出の断片を回想する場面がどうしようもなく切なくて切なくて仕方がなかった。泣くかと思った。そう思ったら泣いていた。こんな奴でも、こんな奴なりにはきっと彼女のことを好きだったんだろうと思って泣いた。 ああ。だから。 私もそのように彼女のことが好きだったし、私もこのように彼女のことを好きでありたいと思うからだ。 だからこんなに読んで、面白くて、つらいのか。 最初に読み終わってから、ひとつきかけて、ようやくまた最後のシーンを読み返して、破れかぶれの感想をどうにか書けた。 (シンクロしすぎだ。ここ一ヶ月あまりの出来事と) 付け加えるのなら、『太陽の塔』のやるせなく切ない感じは、ほとんど映画「トレインスポッティング」で、最後にレントンが呟く"choose your life"からの一連の台詞に似ている。これから選び取っていくだろう、下らなく、おそらく大事になるだろう物事、選び取りはしなかった、きっと下らない、だけどとても大切だった物事。レントンの台詞は選び取る側からの、『太陽の塔』の主人公の台詞は選び取られなかった側からの想いが反映している。選び取り、選び取られる状況に置かれ、足掻き、藻掻く。若者である、ということはそういうことで、だからこれは非モテのダメ男小説であるとともに、とてもただしく青春小説でもある。『トレインスポッティング』が、スコットランドのドラッグ漬けのダメ男映画でありながら、青春映画であったように。 俺にとってはとても大切な一冊です。その気持ちを忘れないでいるために。
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オープニングクイズ ある人物の名前をお当て頂きます。 先頃長女が誕生、出産祝の一部をチャリティーとして寄付した。 正解:デビッド・ベッカム 読み上げ問題 9月12日は、1992年にある日本人宇宙飛行士がスペースシャトルで 宇宙へ飛んだ日を記念した「宇宙の日」ですが、その人は誰でしょう? 正解:毛利衛 唱歌『虫の声』の中で、「ちんちろ ちんちろ ちんちろりん」と 鳴いていると歌われている虫は何でしょう? 正解:松虫 今年で誕生から25周年を迎えた漫画『ちびまる子ちゃん』の主人公、 ちびまる子ちゃんの本名は漫画の作者と同じです。何というでしょう? 正解:さくらももこ 細長い長方形の帯を1回ねじり両端を貼り合わせてできる 表と裏の区別ができない形状のものを、その性質を初めて 指摘したドイツの数学者の名前から何というでしょう? 正解:メビウスの帯(メビウスの輪) アナグラム これから御覧頂く文字を並べ替えると ある「ミュージシャン」の名前になります。誰でしょう? 顔が寿司 かおがすし □□し□□ 正解:スガシカオ(すがしかお) 5ヒントクイズ さて何でしょう?5つのヒントからお答えください。 ヒント①:聖書に多くの記載があります。 ヒント②:スペインの「モラ」では毎年これに関する祭りが行われています。 ヒント③:国際連合の旗のデザインにも使われています。 ヒント④:日本で初めて[?]の栽培に成功した小豆島 ヒント⑤:実から取れる[?]オイル 正解:オリーブ 読み上げ問題 9月23日から公開される映画『モテキ』で、突然モテモテの時期が訪れた 主役のさえない男を演じている、『世界の中心で、愛をさけぶ』などの 映画でも知られる俳優は誰でしょう? 正解:森山未來 英語で「jellyfish」といえばクラゲ、 では「starfish」といえば何という海の生き物のことを指す言葉でしょう? 正解:ヒトデ 9月9日からラグビーのワールドカップが行われていますが、 その開催国は日本代表のヘッドコーチ、ジョン・カーワンの母国です。 その国はどこでしょう? 正解:ニュージーランド まずはこちらをお聴きください。 ♪TIMEシャワーに射たれて… これは今年デビュー25周年を迎えた歌手の曲『TIMEシャワーに射たれて』です。 歌っているのは誰でしょう? 正解:久保田利伸 栄養価が高いローヤルゼリー、このローヤルゼリーを分泌するハチは 働きバチ・女王バチのどちらでしょう? 正解:働きバチ 最初にその職に就いたといわれるのは牧野成貞、 その後柳沢吉保・間部詮房などが権勢をふるって 有名となった、江戸幕府の役職の名前は何でしょう? 正解:側用人 中部山岳国立公園は4県にまたがる国立公園ですが、 その4県とは長野県・富山県・岐阜県と何県でしょう? 正解:新潟県 先頃、全国で初めて日本犬の嘱託警察犬が誕生しました。 「二葉」という名前のその犬の種類は何でしょう? 正解:柴犬 その土地出身の有名人が観光大使になることが多いようですが、 このほど伊予観光大使に就任した松山市出身のお笑い女性芸人は誰でしょう? 正解:友近 例えば販売や製造など、異なる事業の会社の機能を共有することで それぞれ単独で事業を行うよりも経営効率が高まることを、 「相乗作用」と訳される英語を用いて「何効果」というでしょう? 正解:シナジー効果 日本の国立大学で「女子大学」という名前が付いているのは 全国で2つです。奈良女子大学ともう1つは何女子大学でしょう? 正解:お茶の水女子大学 まずはこちらを御覧ください。 四季折々に咲く色とりどりの花は私たちの目を楽しませてくれます。 では次の3つの秋の花のうちよい香りを漂わせるキンモクセイは何番でしょう? 正解:① ※②フジバカマ ③ツワブキ 表面に木目や波状の模様をあらわした光沢のある織物を、 「波紋模様」を意味するフランス語で何というでしょう? 正解:モアレ 『真実一路』『路傍の石』などの作品で知られる小説家は誰でしょう? 正解:山本有三 ギリシャ神話の正義の女神テミスが、 右・左それぞれの手に持っているのは剣と何でしょう? 正解:天秤 日本食品標準成分表2010で、可食部100グラムあたりの絹ごし豆腐と木綿豆腐を 比較した時、エネルギーの値が高いのはどちらでしょう? 正解:木綿豆腐 明治の1つ前の日本の年号は何でしょう? 正解:慶応 慣用句で不精でなかなか動かない人は「重く」、人の失敗の後始末をする時は 「ぬぐい」、いち早く逃げ出す時は「帆をかける」体の一部はどこでしょう? 正解:尻 日本近海の代表的な海流で日本海流は黒潮、では千島海流は何というでしょう? 正解:親潮 アタックチャンス 世界遺産委員会の諮問機関で、文化財の保存・修復・再生などを行う 国際記念物遺跡会議を、アルファベット6文字に略して何というでしょう? 正解:ICOMOS(イコモス) ※International Council on Monuments and Sites 鎌倉時代中期の僧で、踊り念仏でも知られる時宗の開祖は誰でしょう? 正解:一遍 10月から放送される連続テレビドラマの原作である 漫画『俺の空 刑事編』の作者は誰でしょう? 正解:本宮ひろ志 バスケットボールの男女の日本代表チーム共通のニックネームには、 ある鳥の名前が付いています。何ジャパンでしょう? 正解:隼ジャパン 1961年9月11日、ジャイアントパンダをシンボルとした世界野生生物基金、 現在の世界自然保護基金が正式に設立されましたが、 この組織をアルファベット3文字で何というでしょう? 正解:WWF ※World Wide Fund for Nature 寛永20年9月14日、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母で 大奥の統率を任された女性が亡くなっています。誰でしょう? 正解:春日局 日本綱引連盟のルールによると、 綱引は1チーム何人の選手で綱を引き合うでしょう? 正解:8人 日本の県の中で海に面していない県は8つありますが、 その中で一番面積が小さいのは何県でしょう? 正解:奈良県 1213年に成立したとされる、鎌倉幕府第3代将軍・ 源実朝の歌集の名前は何でしょう? 正解:金槐和歌集 映像クイズ ある「人物」 アジサイ 1796年生まれ 出島 ハサミ 鳴滝塾 妻・タキ、娘・イネ 国外追放 アジサイが好きだった[?]は1796年ドイツの生まれ、出島の オランダ商館医として来日、鳴滝塾を開き西洋学問を教えました。 妻・タキとの間に娘をもうけますが国禁を犯して国外追放に、 しかし日本に関する研究を本にまとめその成果が高く評価されました。 正解:シーボルト
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登録日:2010/08/03(火) 15 30 50 更新日:2023/03/26 Sun 22 56 09NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 お床の中のオトコ ダークヒーロー レントゲン 中村主水 主水の相棒 問答無用 寅の会 山崎努 必殺シリーズ 必殺仕置人 念仏の鉄 怪僧 怪力坊主の元祖 新必殺仕置人 棺桶の錠 正八 漢 男の中の男 破戒僧 鋳掛屋の巳代松 念仏の鉄 念仏の鉄は時代劇【必殺シリーズ】の登場人物の一人。 山崎努の演じた架空の人物である。 初登場は第2作【必殺仕置人】で、同作の事実上の主人公。 前作【必殺仕掛人】の藤枝梅安(緒形拳)を換骨奪胎したキャラクターであり(媒体に寄っては二匹目の泥鰌を狙ったとハッキリと書かれている)、表稼業の医術を殺し技にする享楽的な坊主頭の人物と云うのは確かに【仕掛人】に於ける梅安の描写と一致している。 しかし、梅安とは違った怪人的な面を持つ豪放磊落な人物として描かれ、金を手にすれば女郎屋に足を向け、無い時には仲間からも金をくすねる等、 共に登場した中村主水(藤田まこと)とはまた別の形で世のサラリーマンの理想を体現したキャラクターとして幅広い共感と憧れを呼び、その“必殺技”のインパクトもあってか、現在でもシリーズ最高のキャラクターとして中村主水と並び称されるに至っている。 ※念仏の鉄を出せない事が後の必殺シリーズに於ける怪力坊主キャラの増殖に繋がったと云える。 …中村主水同様に代えの効かない無二のキャラクターなのである。 【人物】 江戸“かんのん長屋”にて接骨業を営む破戒僧。 上州、宗慶寺の僧侶だったが、檀家の妻女との不義密通の廉で佐渡へ島送りとなり、当時佐渡で同心見習いをしていた主水とはそこで出会っている。 罪人とそれを取り締まる役人と云う立場ながら、後の関係を見るに佐渡に居た頃からお互いに腕を認めあっていた模様。 【仕置人】の初期では役人である主水に疑念を持っていた錠を諭し、主水の頭脳に信頼を寄せている姿が描かれる一方、おっさん二人でかなりドライな人生観を披露して錠に睨まれる事も度々あった。 表の職業は接骨業だが、仕置きを生業とする以前にも後ろめたい仕事をしていたとも取れる台詞がある。 主水、棺桶の錠らと仕置人として活動した後、その姿を消すが、数年後の【新仕置人】において寅の会の仕置人として主水と再会。 彼を鋳掛屋の巳代松らとのチームに加え再び裏稼業を開始するも同作のラストにて死亡した。 以前よりも享楽主義に磨きがかかり、女郎屋に入り浸ったり、仲間に悪戯を仕掛けたりと俗っぽさが増している。 住んでいるのは矢張り“かんのん長屋”だが、以前と同じ長屋かどうかは不明。 【新仕置人】では、他にも殺人衝動に苦しむ場面が度々登場しており、 外道仕事はやらないとの誓いを守る一方、最早“殺し屋”としての宿業からは逃れられなくなっていた事が窺える。 新仕置人の終話の姿は必殺ファンからは伝説とまで語られており、鉄は仲間を解き放つ為に単身敵地に乗り込むも捕えられ、右手を黒焦げになるまで焼かれてしまう…。 しかし、主水が殴り込みをかけ逆転を開始するのと同時に目覚め、腹部にドスを受けながらも黒焦げの手で最後の仕置を成功させる。 全てが終わった後、主水が鉄の元に駆け付けた時には既にその姿は無かった…。 最強の仕置人は仲間に別れを言う事も無く、女郎屋で床入りをした所で人知れず眠りに就くのだった…。 …この姿を見て、事実上古き良き必殺が終わったと考える必殺ファンは多いと云う。 【殺し技】 強い指の力で相手の骨や関節を外す(或いは砕く)骨外しにはレントゲン映像が使われ、画面にかつて無いインパクトを与えると共に視聴者に【必殺シリーズ】のイメージを焼き付けた。 仕置人の頃は【殺し技】としての頸椎折りの他、背骨をずらして半身不随にしたり、腕を破壊して悪党に同士討ちをせたりと云った活かさず殺さずの技を使う事もあった。 新仕置人ではレントゲンがカラーの大写しになると共に相手の体内に指をぶち込んで肋骨を外す、一撃必殺の背骨折りにマイナーチェンジ。戸板を貫いたり、二人纏めて身体を貫いて指をぶち込んだり、人体二つ折りを見せたりと全体的に豪快さが増している。 この活殺自在の骨接ぎ技は地獄の佐渡で見様見真似で覚えたと云う設定。 自らの関節を外し、狭い隙間から脱出する技を見せた事もある。 ※尚、鉄の技は右手の親指、人差し指、中指を使用する事から「三本指殺法」の呼称があるらしいが、番宣用の名称らしく、劇中でその様に呼ばれる描写は無い。 とにかくやりたい放題で、好き勝手に暴れていた印象の【仕置人】に比べると【新仕置人】では苦戦する事も多くなった為か、ファンからは【新仕置人】の鉄は弱いと言われてしまう事もある。 ……まあ、主水も作品によって強さが変わるので殺陣の方針と言ってしまえばそれまでなのだが。 【余談】 上記の【新必殺仕置人】の最終回の出来が余りに良過ぎた為に【必殺シリーズ】は第15弾【必殺仕事人】まで低迷、打ち切りの危機を迎える事になる。 新仕置人はそれ程に評価の高いシリーズであり、必殺史上最高傑作とも語られる。 全ての仲間を失い、それでも日常に戻って行く主水の姿は非常に印象的である。 尚、この鉄が女郎屋で最期を迎えるという案は演じた山崎努自身が出した物である。 脚本では主水と正八の手で川に沈められると云う形だったがこの方が「鉄らしい」との事から変更された。 …作劇上の効果は、見た人間なら云うまでも無い程である。 また、仕置人でも鉄や錠らとの別れを惜しみ後を追おうとする主水など、この2作品での主水と仲間の距離は他の主水シリーズよりも近く絆を感じさせる。 演じた山崎努は二度と同じ役をやらないことをポリシーにしているが、上記の通り念仏の鉄は二度に渡って演じている。 これはかなり異例の事で、記述される事が多い。 ああ〜ゾクゾクして来やがった、更なる追記、修正を望むのも悪かねぇな! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 旧仕置と新仕置で結構キャラ違うよね。個人的にはコイツ絶対関わり合いになっちゃいけない人種だってオーラを帯びてる旧の方が好き。 -- 名無しさん (2016-05-07 21 12 40) 新仕置age鼻に付きすぎ -- 名無しさん (2016-05-09 15 19 30) 中村主水との関係は相棒と言うよりは腐れ縁か。 -- 名無しさん (2017-04-29 21 04 24) ↑3『新仕置』の鉄は骨外し以外の部分では弱かったりするしね。主水みたいな達人とは別の意味で超人的な位に強かった『仕置人』の鉄と錠の描写は設定通りって感じで好きだ。 -- 名無しさん (2017-12-05 23 52 15) あと数年生き延びていたらせんだの田中様だのをマッサージしてたのかなあ…「おい八丁堀、てめえの上司の家…ありゃ何だ。壁紙が桃色過ぎて気が散っちまったぜ」 -- 名無しさん (2022-08-24 00 51 05) 名前 コメント