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慶良間 148 彼氏いない歴774年 sage 2010/06/26(土) 23 12 12 ID oJto5uPF 来週末に沖縄の慶良間行くつもりで予約したのですが、急にテンション下がってきた… 希望した民宿がことごとく満室だったので宿が不安。 誰かはげまして~ 152 彼氏いない歴774年 sage 2010/06/27(日) 00 26 07 ID C+s3MJVH 148 慶良間前に行ったらすんごい海綺麗だった。 私は逆に人気のとこに泊まれたけど、正直ごはんはいまいちだった。 行ってみないとわかんないし楽しんできなよー。
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慶良間 Kerama (KJP) 慶良間空港(IATA:KJP - ICAO:ROKR) 公営、地、海抜47.5㍍、滑走路(800/?) 26.168333,127.293333 国内線 那覇 ――――エアドルフィン(チャーター) 【エアドルフィン】
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週刊朝日1970年8月21日号 集団自決の島――沖縄・慶良間25年目の暑い夏 渡嘉敷島にて本誌 中西記者 撮影 栗原達男 集団自決の島――沖縄・慶良間25年目の暑い夏口絵 記事リード 村の経済課長・富山真順氏の案内で・・・ 復帰への不安を語る基地従業員 死にそこなった赤松隊の悲劇 米兵憎悪から日本兵憎悪へ… 海洋万博に夢託す島 自決命令は果たして下ったのか "戦記"とは異なる小隊長の証言 ヨソ者とシマの者との確執が… 那覇を通じてかいま見る本土 (画像はクリックすると拡大します) 口絵 (見開き左…カミソリで首を切りながらも一命をとりとめた座間味の宮平ウタさん) (見開き右) (キャプション) 渡嘉敷の「玉砕場」 西山に掘った赤松隊の塹壕と、戦没者を祭る白玉之塔 集団自決で右手を失ったS氏 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 記事 p16 リード 村の経済課長・富山真順氏の案内で・・・ p17 復帰への不安を語る基地従業員 p18 死にそこなった赤松隊の悲劇 「慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要」のテキストはコチラ p19 米兵憎悪から日本兵憎悪へ… N氏の話 p20 海洋万博に夢託す島 自決命令は果たして下ったのか 赤松嘉次氏の話といわゆる「陣中日誌」の記述 (引用者注)記事中に引用された「陣中日誌」は、辻中尉が戦闘中に書いたオリジナルのものであるかのように中西記者は書いていますが、それは彼の確認不足だと思います。谷本小次郎氏が1970年にリライトしたものだと思われます。(オリジナルのコピーを確認中)⇒赤松隊「陣中日誌」改竄の一端参照。この件を解明していけば、曽野綾子の「ある神話の背景」を成立させる基礎資料に、大きな疑義が生じるかもしれません。 p21 "戦記"とは異なる小隊長の証言 連下政市氏の回想と連下氏への村民からの手紙、元巡査安里喜順氏の話 p22 ヨソ者とシマの者との確執が… 元村長米田惟好氏の話 p23 那覇を通じてかいま見る本土 村会議員S氏の戦後、村の教職員会の逡巡、今後の村は・・・ 沖縄戦資料index
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沖縄 / 八重山日報社 ● 慶良間諸島〔Wikipedia〕 ● 八重山日報社 ☆ 【Amazon】証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか(岩波新書)新書 – 2008/2/20 謝花 直美 ■ 慶良間で何が起きたのか① ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 「八重山日報社(投稿 · 2012年4月 · 上原正稔)」より / はじめに、2011年1月31日ぼくは琉球新報を憲法の表現の自由違反と著作権侵害で訴えた。その内容は慶良間の〝集団自決〟の真相を伝えようとする一作家を封殺そして弾圧する新聞社の横暴ぶりを告発するものだった。―これだけでも前代未聞の一大事件だが、沖縄の新聞社もテレビも黙殺を続けてきた。そんなわけでぼくの戦いを知る沖縄の人々はほとんどいなかった。そんな中で八重山日報が去る一月と三月に江崎孝さんの〝上原正稔の挑戦〟を掲載し、そのニュースはあっという間にインターネットを通して全国に広がった。琉球新報も沖縄タイムスも自分たちの都合の悪いニュースは一切黙殺を続けている。しかし、今、八重山日報に続いて、五月十日には『うらそえ文藝』が江崎孝さんの八重山日報の「上原正稔の挑戦」論考の縮刷版を発表する運びになった。 読者もよくご存じのように教科書問題では八重山日報は傲り高ぶった沖縄タイムスと琉球新報に対し、敢然と「真実の報道」を続け、見事に勝利したと言ってよい。真実は多数決で決まるものではないことを証明したのだ。 ぼくの数えるほどしかいない友人らはぼくのことを「勇気がある」と評するが、それは勇気ではない。人のために尽くす、自分のために尽くすな、とぼくの尊敬するロジャー・ピノー先生から教えられた。その言葉を守っているだけだ。「集団自殺」の問題は実は「自分自身のために尽くしている」琉球新報と沖縄タイムスに対する「人間の尊厳を懸けた戦い」なのだ。それをこれから伝えよう― 2006年初頭、ぼくは琉球新報の編集長から沖縄戦の長期連載を依頼された。何年でも自由に続けてくれ、ということだった。それだけぼくを信頼してくれていたのだ。第一弾としてその年の四月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」147回を発表し、好評を博したと言ってよい。何の問題も起きなかった。第二弾の「パンドラの箱を開ける時」が2007年5月末から始まり、その冒頭でぼくは次のように予告した。 「第二話 慶良間で何が起きたのかは今、世間の注目を浴びている〝集団自決〟についてアメリカ兵の目撃者や事件の主人公たちの知られざる証言を基に事件の核心を突くものになるだろう。」だが、第二話が発表されることはなかった。ぼくの物語はその後、四ヶ月間中断した。一体何があったのか。ぼくの連載の新担当者となっていたМ記者には多くの原資料と一週間分の原稿を渡していた。その時、Мはこれはおもしろそうだな、と嬉しそうに言った。そして翌日上京することになっていると話した(東京で何があったのか、誰に会ったのか、そのうち明らかになるだろう)。六月十五日(金)のことだった。ところが、六月十八日の月曜日、Мから新報社に来てくれ、と連絡が入った。新報社に着くと、Мはヤケに威張った調子で、ぼくを編集部の上の階の空き部屋へ連行した。そこには顔見知りの編集記者三人が難しい顔をしてぼくを待っていた。Мはいきなり言った。「第2話は載せないことにした。」「何だと!どういうことだ。」ぼくは怒鳴った。記者の一人が「新報の編集方針に反するからだ。」と冷ややかに言った。別の記者は「君は何年か前に同じ記事を書いているじゃないか。重複は許さん。」ぼくは言った。「それは君らの屁理屈だ。僕は第1話の伊江島戦でも日本側とアメリカ側の両方の資料を使っている。その一つは既に新報で発表している「沖縄戦ショウダウン」を使ったぞ。第2話も「沖縄戦ショウダウン」や多くの資料を使って4、50回の長編にして赤松、梅澤の名誉を回復するものにするつもりだったのだ。その資料はМにも渡している。彼は喜んでいたぞ。」だが、四人組はできんものはできんの一点張りで前に進まない。ぼくは言った。「君たちにはぼくの連載にストップをかける権利があるのか。表現の自由の権利を侵しているんだぞ。ぼくは記者会見でこれを発表する。」一人の記者(現編集局長)があわてて「記者会見はやめてくれ」と言った。話は決裂した。 こうして6月19日から始まることになっていた「慶良間で何が起きたのか」が発表されることはなかった。翌日から予告を読んで期待していた読者から新報に抗議や問い合わせが殺到し、新報社内は騒然となった。ブログで毎日のように「パンドラの箱…」を追っていた江崎孝さんもそんな読者の一人だった。一般の読者は気づかなかったが、彼は「言論封殺」が起きていることをいち早く悟っていた。そのことは「上原正稔の挑戦」で詳しく述べられている。産経新聞の小川さんも同様だ。二人とも報道に関わっているから敏感なのだ。 実はこの時期2007年6月は琉球新報と沖縄タイムスが「集団自決には命令があった」とする大キャンペーンの真っ最中にあったことを忘れてはならない。3月31日政府が「教科書から集団自決の軍命削除」の記事が新報、タイムス両新聞で大々的に報道され、大キャンペーンが始まっていたのだ。新報とタイムスはオピニオンリーダーとしてその社説や社会面、文化面で各市町村に働きかけ、8月までには全市町村が「集団自決には軍命あり」の決議が出されているという異様な状況だった。しかもその議決文がほとんど同じ文面を並べている始末だった。 「パンドラの箱…」が中断し、読者からの抗議や問い合わせが殺到しても琉球新報が上原正稔の筆を折っても図々しく構えていた理由もそこにある。中断から四ヵ月後、Мが連載担当から除され、連載を再開することにし、読者には申し訳ないが「慶良間で何が起きたのか」は飛ばすことになった。 (つづく) ーーーーー ■ 慶良間で何が起きたのか② ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 ■ 慶良間で何が起きたのか③ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 ■ 慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 ■ 慶良間で何が起きたのか⑤ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 ■ 慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 . .
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赤松隊「陣中日誌」記述の変遷 比較対照資料 A:1945年辻政弘中尉が戦闘陣中で記した「本部陣中日誌」原本 B:1946年1月 復員前に赤松嘉次大尉が記した「戦史資料」 C:1968年 防衛庁戦史室が赤松ら元将校の聴取に基づいて纏めた「戦史叢書:沖縄方面陸軍作戦(未作成)」における記述 D 1970年 谷本小次郎元特幹兵が赤松隊友会の声を集めて編集した「陣中日誌 海上挺進第三戦隊」 E:1973発行 曽野綾子「ある神話の背景」(未作成)の記述から(ただしここではWAC版 2006による) 批判対照資料 P:渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 比較着眼点 (1)転進命令、泛水命令、自沈命令と大町大佐の関わり (2)渡嘉敷島住民への避難命令に関する記述 (3)米軍上陸に関する現認記述 (4)「集団自決」した住民についての現認記述
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慶良間駐留部隊の戦没将兵数 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』より 海上挺進第一戦隊 座間味島の梅澤裕少佐(52期)指揮下の死没者 第一戦隊 69名(104名中) 元基地第一大隊 約100名(約250名中) 元船舶工兵第26連隊 32名(約50名中) 水上勤務隊 軍人15名 軍夫不詳(不詳中) 海上挺進第二戦隊 阿嘉島・慶留間島の野田義彦少佐(52期)指揮下の死没者 座間味島の梅澤裕少佐(52期)指揮下の死没者 第二戦隊 21名 別に本島21名(104名中) 元基地第二大隊 約65名(234名中) 水上勤務隊 軍人10名 軍夫不詳(将兵21 朝鮮人軍夫 約350中) 海上挺進第三戦隊 渡嘉敷島の赤松嘉次大尉(53期)指揮下の死没者 座間味島の梅澤裕少佐(52期)指揮下の死没者 第三戦隊 21名 (104名中) 元基地第三大隊 約38名(216名中) 水上勤務隊 軍人不詳 軍夫不詳(将兵13 朝鮮人軍夫 約210中) 沖縄戦資料index
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http //ryukyushimpo.jp/news/storyid-142900-storytopic-1.html つくる会教科書 慶良間触れず合格2009年4月10日 【東京】文部科学省は9日、2008年度教科書検定の結果を公表した。「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)が主導し、自由社(東京)が発行する中学歴史教科書など2社2点が合格した。自由社の教科書は516カ所に検定意見が付き、再申請を経て合格したが、ほかの教科書が記述している沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)が起きた慶良間諸島への米軍上陸の事実に触れていないなど、太平洋戦争に関する記述をめぐる問題点が指摘されている。 「集団自決」における軍強制の記述を削除した2006年度の教科書検定に対し、沖縄では「沖縄戦の実相を歪(ゆが)めるもの」と厳しい抗議の声が上がった。 「つくる会」の教科書が「集団自決」に触れず、文科省や教科用図書検定審議会も意見を付さないまま合格としたことに、あらためて批判が集まりそうだ。 自由社の教科書は沖縄戦について「4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、ついに陸上の戦いも日本の国土に及んだ」と記述した。しかし、1945年2月に硫黄島(東京都小笠原諸島)で米軍が激しく戦闘。3月26日には米軍が阿嘉島、座間味島など慶良間諸島に上陸し、「集団自決」の悲劇が起きた。 この記述が認められたことについて、文部科学省は「検定審の検定によるもので、文科省が個別のケースの内容について言及する立場にない」とした上で「中学生に歴史を理解させるために、どこまで詳しく記述するかも考慮される。史実に大きなずれがある場合には検定意見が付いている」と述べ、記述上の問題点はないとの認識を示した。 高嶋伸欣琉球大学名誉教授は「沖縄本島の上陸で地上戦が始まったとされると、慶留間島や座間味村での集団自決(強制集団死)という悲劇が全く無視されることになる。軍の強制があったという歴史的な事実をねじ曲げようとする意図も感じる」と指摘した。 「琉球処分」に関する記述では、日本が軍隊を送り、強制的に琉球藩を廃し、沖縄県とした過程にも触れていない。 今回検定に合格したもう1点は東京書籍(東京)の高校・生物IIで、06、07年度は誤りが多く不合格だったが3回目の検定で合格した。「マングローブ林」に関する写真付きコラムなどが取り上げられた。 今回は新しい学習指導要領に対応した教科書の検定が09年度から順次始まるため、08年度は例年に比べ、申請が少なかった。 ■琉球処分でも問題指摘 専門家「強制の記述なし」 2008年度検定に合格し、来春から使われる「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)の中学歴史教科書は、琉球が廃止され沖縄県となった琉球処分の過程を「日本はそこで1879年(明治12年)、琉球を日本領土とし、沖縄県を設置した」と記述している。現在使用されているつくる会を除くほかの6社の教科書は、日本政府が軍隊を送って強制的に琉球藩を廃止した事実を明記した。沖縄の歴史研究者や社会科教諭からは「事実関係に大変な問題がある」「沖縄の立場を無視している」との指摘が挙がっている。 琉球処分について現在使用されている帝国書院の教科書は「新政府は軍隊や警察の力を背景にして琉球を廃止し、沖縄県を設置」、日本文教出版は「政府は琉球に軍隊と警官を送って、清との結び付きを保とうとする勢力をおさえ、琉球藩を廃して沖縄県とした」といずれも「強制」の視点を盛り込んでいる。 つくる会の記述について、宜野湾高校の新城俊昭教諭(社会科)は「日清戦争のころまで、琉球処分に対する抵抗運動が沖縄にあり、首里王府にいた人たちは清朝へ助けを求めた。しかし、つくる会の記述は琉球処分がスムーズにいったような書き方だ。沖縄の立場を無視している」と批判した。西里喜行沖大教授(歴史学)も「軍隊によって威圧的にやられたという、一般の教科書で書かれていることが脱落している。事実関係に大きな間違いがある」と指摘した。その上で「生徒だけではなく日本国民の歴史認識を誤った方向へ導きかねない」と懸念した。 沖縄戦ニュース
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昨日 - 今日 - 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端 全体の比較資料はこちら→赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端より詳細な検証が必要だが 辻政弘中尉「本部陣中日誌」1945(防衛研究所資料・沖台沖縄209) 谷本小次郎編「陣中日誌」1970(防衛研究所資料・沖台沖縄405) 《違い》 中西記者の引用 大阪地裁判決での評価 大阪高裁判決での評価 陣中日誌改竄に基づく赤松手記 より詳細な検証が必要だが 文献取り扱い専門家である歴史研究者によるより詳細な検証が必要ですが、海上挺進第三戦隊の「陣中日誌」(赤松隊陣中日誌)改竄の一端が明らかになりました。赤松隊陣中日誌とは、1970年に編纂されたものです。編者である元戦隊本部付特別幹部候補生、谷本小次郎氏は次のように記しています。 …… 私、本部付として戦闘詳報、命令会報を記録し甚だ以て僅かの戦闘のみしか参加せず誠に汗顔の至りでは御座居ますが、幸いに基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三中隊陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取り纏め聊の追記誇張・削除をも行わず、正確な史実を世代に残し歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れる事を念願します。 …… (編集のことば 谷本小次郎 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1429.html) (引用者注)戦闘詳報、命令会報は一体どこに? (引用者注)「聊の=いささかの」 しかし、辻政弘中尉が克明に書き綴った本部陣中日誌と、谷本氏が編集したものとは全く違ったものです。追記誇張・削除が随所に見られます。一例として、昭和20年3月28日、集団自決の日の記述を比べてみます。 辻政弘中尉「本部陣中日誌」1945(防衛研究所資料・沖台沖縄209) クリック拡大 三月二十八日 一、陣地構築ヲ終日実施ス 二、第三中隊主力廓陣地ニ到着 三、渡嘉敷、渡嘉志久、留利加波各地ニ上陸セル約一ケ大隊ノ敵ハ廓陣地ニ侵入二三六高地附近に迫撃陣地ヲ構築シ同砲撃ニ艦砲射撃を以テ我ガ陣地ニ攻撃ヲ加フ 四、損害 戦死 勤務隊 二中隊 多田一ト兵 水勤隊 阿部軍曹 軍夫五名 防招 小峯上ト兵以下八名 村民 若干 負傷 辻中尉 山田上ト兵 水勤隊 若干 防招 若干 村民 若干 五、辻中尉負傷ノ為田所中尉副官業務ヲ代行ス 六、独立第三大隊付新海中尉高塚少尉戦死ノ為第三勤務小隊長ニ命ス 七、通信機の状況 破壊三号甲無線機一、五号無線機ニ 谷本小次郎編「陣中日誌」1970(防衛研究所資料・沖台沖縄405) http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1427.html 三月二十八日小雨 晴 夜小雨 昨二十七日留利加波方面に上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し、各隊陣地の構築を行う。第三中隊の主力到着。 昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊道案内の現地防衛招集の一部支給しありたる手榴弾を以て家族と共に自決す。本朝二、三件の模様なり。 1、各隊全員陣地稜線上にタコ壷を掘る。 2、一四〇〇陣地の北の谷に避難していた住民陣地内に崩れ込む、住民の異様なる叫び声阿鼻叫喚の中へ。北方の敵陣地より迫撃砲攻撃を受く、戦隊長防召兵を以て之を鎮めしむ。 二十七日未明「通信隊は軍司令部に対し戦隊長敵情報報告、電報を打ち五号無線一を残して破壌、本隊に合流 三号無線機一 五号無線機二 破壊 3、勤務隊辻中尉防衛招集兵の手榴弾暴発のため負傷田所中尉副官業務を行う。 第三中隊高塚少尉戦死のため独立第三大隊付新海中尉第三勤務小隊長に命ず。 本日の損害 通信隊 里見芳郎上等兵 戦死 勤務隊 多田健一上等兵 林時三一等兵 戦死 水上勤務隊 阿部盛雄軍曹 軍夫五名 戦死 防衛招集兵 小峯上等兵以下八名戦死(自決者含む) 勤務隊 辻政弘中尉 山田上等兵負傷 4、二○○○頃二中隊正面軽機関銃座に敵襲を受く。 5、小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅の如く陣地後方に於いて自決し始めたる模様 注 自決し翌日判明したるものである。 《違い》 原本には天気は無い 文章の構成がガラリと変わっている 原本には米軍上陸日時は無く上陸後の行動も違う記述。後に判明した米軍記録に合わせた後付けだろう 原本には「自決」に関する記載は一切無い 原本には一四〇〇の記述は一切無い 原本には軍司令部への敵情報告もない 原本にはニ○〇〇の記述も一切無い 原本にあった損害・戦死「村民 若干」が抹消されていながら、「注 自決し翌日判明したるものである。」の加筆 中西記者の引用 中西記者が週刊朝日1970年8月21日号で引用した文章は、辻中尉が書いたオリジナルの「陣中日誌」ではなくて、谷本氏が1970年に編んだものでした。 大阪地裁判決での評価 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1203.html#id_b10b3500 大阪高裁判決での評価 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1748.html#id_b10b3500 陣中日誌改竄に基づく赤松手記 《私記》私は自決を命令していない 沖縄戦資料index
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「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載9回目 任務放棄に失望 赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。 この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。 沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博道大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る」云々の言葉がある(同書144ページ)。現地からの無線連絡で攻撃失敗がわかると、八原参謀は「意志が弱く、不屈不撓あくまで自己の任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない」と慶良間の海上特攻隊に失望の色をみせている。 無電内容も疑問 たとえ大町大佐が出撃中止を命じたとしても、その場合、無電で、首里の軍司令部にその真相をたしかめる方法が赤松大尉には残されていた。慶良間群島に海上特攻を配置させたのは、高級参謀八原大佐だった。また、八原大佐は海上特攻の主任参謀でもあった。特攻の出撃中止が軍司令部の意志を無視しておこなわれたことは同大佐の著書で明らかである。 「出撃不可能」との軍司令部に対する慶良間現地からの無電内容にも疑問がはさまれる。出撃中止の時点で、赤松隊も舟艇も米軍の陸上攻撃をうけていないのである。出撃は、夜間に企画されたもので、米軍による夜間の陸上攻撃は考えられない。渡嘉敷島に対する米軍の攻撃が始まったのは三月二十五日未明、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸したのは翌二十六日の未明、すると二十五日夜から翌日未明にかけての夜間は何をしていたのかということになる。赤松隊長が中止させたと『鉄の暴風』には記録されている。また、事実、わざわざ舟艇を自爆させるだけの余裕があったことがすべてを物語っている。ちなみに、沖縄本島周辺の他の海域では、随所で舟艇による果敢な海上特攻が実行されて戦果をあげている事実がある。慶良間の特攻隊の任務放棄はまったくの例外であった。 住民処刑の例 とにかく、赤松戦隊は、海上特攻という最重要の任務を放棄したからには、軍司令部から見れば、戦略的にも戦術的にも無意味な存在となったのである。その後、この戦隊には、陸上戦闘による戦果がほとんどなく、米軍はなんの損害もうけなかった。赤松隊は無力な島の住民との間にいろいろなトラブルをひき起こしているだけである。 じつは、赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である。集団自決下命問題は、赤松が下命しなかったといえば、それで不確定性をもつ性格のものだが、住民処刑は否定できない事実である。曽野氏は、不確定性をもつ集団自決を前面に出して、一種の煙幕を張り、そのあとで、否定できない事実である住民処刑については、軍の綱領や軍法などを持ち出して各種の弁護を試みているが、その弁護は別の事実によって支離滅裂となるのである。その事実とは、住民処刑と矛盾する兵隊に対する赤松の処置である。 住民処刑について、二、三の例をあげる。 伊江島出身の若い女性たちが米軍にたのまれて赤松の陣地に行き、降伏勧告文を取りついだために斬首の刑をうけている。また、終戦の日の八月十五日、米軍の投稿勧告分を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の二人が捕えられて殺された。しかし、おなじ降伏勧告でも相手が日本の軍人であった場合は、赤松大尉はちがった態度をとっている。『ある神話の背景』の121ページ、122ページをみればわかる。 目次へ | 次へ
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防衛研究所資料<沖台 沖縄> 慶良間諸島・久米島・伊江島住民の沖縄戦記<沖台 沖縄235> 防衛庁 戦時資料 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-4-02 収蔵文書名: 簿冊名: 慶良間諸島・久米島・伊江島住民の沖縄戦記 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄235 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0304002 全72葉で内容は 1、慶良間列島 座間味村及び渡嘉敷村戦況報告書 (1)座間味戦記 (2)渡嘉敷島における戦争の様相 2、元逓信員沖縄戦記 久米島郵便局支部 3、伊江島の戦記(一部分) なお、1の「慶良間列島 座間味村及び渡嘉敷村戦況報告書」は琉球大学の図書館に保存されている「ガリ版刷り」が原本です。その(2)の「渡嘉敷島における戦争の様相」については、「、」「。」誤字まで考察した、伊敷清太郎さんによる写本の方が正確だとおもわれます。伊敷論文については、http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html そこから、曽野綾子が問題にした2つの文書「様相」と「概要」の内容(電子Text)にもリンクしています。「鉄の暴風」を踏襲した文章はそのごく一部分で、その他の記述は実に貴重なものです。「ある神話の背景」はそうした部分を覆い隠すのに成功しています。 ※座間味戦記の電子Textは、宮里芳和さんのサイトにあります。 防衛研究所資料<沖台 沖縄>