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字書(じしよ) 『言語学大辞典術語』 中国では,古くから言語の単位として,語よりも字を考えてきた.漢字は,アルファベットや仮名とは違い,一字一字がそれぞれ語を表わす文字であるから,字はすなわち語である(→表語文字).そして,字を実体とみて,字形・字音・字義をその属性とみる考え方が今日まで及んでいる. 中国の辞書も,古いところでは,この字の「形・音・義」の3つの属性に従って,それぞれ別種のものがつくられた.そのうち,字形を主としたものを字書,字音を主としたものを韻書といい,字義すなわち字の意味によるものが別にあった.この最後のものは,特に名前はつけられていないが,中国の古典的な図書分類(四庫分類)では「訓詁」という項目に入れられている(→義書). [『説文解字』とその流れ] 字書は,字の形,その構造を考えて分類された辞書である.われわれの漢和辞典もこの系統を引くもので,いわゆる「画引き字典」である.この字書の元祖は,後漢の許慎の『説文解字』(略して『説文』)である.これは,当時知られた漢字の一つ一つについて,その字形の構造を説いたもので,いわば字源を示すものである.この字書の系統は,六朝に入って梁の顧野王の『玉篇』にうけ継がれ,以後,各代にさまざまなものがつくられた.たとえば,宋では『類篇』,明では『字彙』,そして,清朝に至ってその集大成ともいうべき『康煕字典』が編纂された. 字書編纂の歴史の中で,各字の字義の注記がだんだん詳細になっていった.『説文』では概して各字の本義が簡単に記されるのみであったが,『玉篇』では各字の字義が多く加えられ,ことにその原本では経典からの引用なども試みられていた.やがて,字書は漸次辞書に近づいてくる.『康煕字典』に至っては字義の分類も細かくなり,古典を典拠とする注記も詳しくなっている. [字書と韻書] 字書の歴史の流れの中でもっとも注目すべきことは,韻書との関係である.六朝の字書である『玉篇』と,隋に成った韻書の『切韻』は,ともに当時としてはできばえの優れたものであったため,唐代においては字書では『玉篇』,韻書では『切韻』と,2つながら愛用されて大いに流行した.この字書と韻書のペアとしての流行は,宋に入ると字書の『類篇』,韻書の『集韻』が意識的に,しかも欽定版として編纂刊行された.このペアは,続く金代でも字書の『四声篇海』,韻書の『五音集韻』の刊行をみるようになった.この字書と韻書の2つの系統の流れは,やがて合流して字書の『康煕字典』を生むに至った.『康煕字典』は,形は字書であるが,従来の韻書の成果を十分にとり入れていて,もっとも優れたところは字義の分化と字音の種別に細心の注意を払っているところである.『康煕字典』は,「中国における辞書記述(Chinese lexicography)」の歴史の頂点であるといってよい.ただし,その編修が人海作戦で行なわれたため,きわめて杜撰なものになってしまったのは残念である. この『康煕字典』にしても,字書はあくまでも一字一字についての解説に終始していて,真の意味の語の辞書ではない.中国語の語は,多くの場合,字によって代表されるけれども,語のレベルと字のレベルとは,常に若干の違いがある.字はむしろ形態素の位置にあるもので,語は1形態素のものもあるが,普通は2形態素のものが多い.この観点からすると,古典中国語の本当の辞典はいまだつくられていないといってよい.
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まずは字書史表を見たほうがわかりやすい。 《爾雅》 内容別字書:義書 「釋詁」「釋言」「釋訓」など十九編 あちこちにある訓詁を機械的に集めてできた 六書:象形・象事・象意・象声・転注・仮借 説文以前 《蒼頡篇》《凡将篇》《急就篇》 《漢書藝文志》に前漢までの小学書が十家四十五編ある。 それらは総合されて《説文》ができる材料となった。 《方言》 輶軒使者絶代語釈別国方言 前漢末:楊雄 漢字表記による方言資料 方言区の分裂状態の手がかり 《説文解字》 後漢:許慎 文字の形の違いによって分類:形書 540の部首・約1万の親字 親字:小篆 説解:隷書→後に楷書に 六書:象形・指事・会意・形声・転注・仮借 《釋名》 漢:劉熙 語源を説いた。 音韻資料でもある。cf.)経書の声訓 《字林》 晋:呂忱 七巻 《玉篇》 字形別字書:形書 類書的順序による部首 542部 《原本玉篇》 六朝梁:顧野王 詳細な義注 《大広益会玉篇》 宋代 切韻系韻書 小韻:発音の同じグループ 大韻:中に小韻を持つ。ex.)「一東」「二冬」 《切韻》 隋:陸法言 193韻 《刊謬補缼切韻》 《大宋重修広韻》 宋:陳彭年 206韻 韻図 守温三十字母□※守温:南梁の僧 守温三十六字母:《韻鏡》《七音》《切韻指掌図》 四十一字母 →等韻学 《類篇》 宋代:形書:《大広益会玉篇》のあとをうけた。 《集韻》 宋代:韻書 206韻 小韻が声母順に並ぶ。 《広雅》 三国魏 爾雅の系統をひく義書 以後は類書が発達する。 《太平御覧》 宋代の類書 《五音集韻》 金:韓道昭:韻書 《集韻》の一種で、韻の中を完全に三十六字母の順に並び替えてある。 《平水韻》 南宋:韻書 ×107韻→○106韻 漢和辞典に、何の韻に属するかが書いてあるが、それはこれに基づく。 《中原音韻》 元代:周徳清 曲のための韻書。 まず19韻に分けて、それから平声陰・平声陽・上声・去声に分ける。 《洪武正韻》 明代の韻書 《韻略易通》 明代の韻書 早梅詩で声母を示す。 《西儒耳目資》 明代 ニコラス・トリゴー:金尼閣 ローマ字表記の中国語辞書
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文字学(もじがく) 英graphology, 仏graphologie, 独Graphologie 『言語学大辞典術語』 文字を研究する学問には2つある,というより2つあり得る.一つは,いまだ十分に体系化されていないが,文字の言語的機能を探るもので,文字論(grammatology)ともいうべきものである.これに対して,普通行なわれているように,それぞれの具体的な文字について,それも特にその文字の形について研究する学問があり,これを文字学という. 古代のエジプトでも,オリエントでも,そしてまた中国でも,文字を使用した国では,文字は特権階級の手中にあり,王侯貴族の子弟のみが文字の教育を受けた.そして,その文字の教育から文字の学問が起こった.たとえば,中国では,先秦時代にいくつかの教科書が行なわれていたが,特に後漢の許慎が『説文解字』(略して『説文』)を著してから本格的な文字学が誕生した.許慎は,5千字以上の漢字についてその構造を考えて,義符(→六書)による分類を試みた.これが,それ以後,字書の原型となった.『説文』に関する後世の研究文献はおびただしいもので,優に説文学と称するに足りるものである.そして,漢字の一字一字は,原則として一語一語を表わすので,漢字の知識は中国の文献学である経学の基礎をなしていた.古代の中国の貴族の子弟が,学校に入って文字の手ほどきを受けたところから,文字の学を,経学の中で小学とよんだ. 許慎の時代,すなわち後漢の時代は,すでに隷書を用いていたので,隷書の形では各漢字の原始形態は分からない.しかし,許慎の『説文』は,古文(篆書より古い字体)や籀文を若干参照しつつも,小篆の形に基づいて漢字の構成を考えていたので,幾分,原始形態に近い形で考察できた.もちろん,小篆の形も原始的な形からはすでに遠く離れていたので,許慎の説明もしばしば誤りを含んでいた.しかし,小篆の形を足がかりとして周代の青銅器の銘文(金文)を解読する可能性が得られ,さらに遡って殷代の甲骨文へと進むこともできたのである.甲骨文は,現在知られている漢字のもっとも古い状態を示しているが,それでもすでにかなり慣習化されていて,漢字の原始的状態をそのまま表わしているものではない.おそらく,より古い絵文字の時期があったと考えられ,中国での今後の発掘に期待したい. このように,ある文字の原始的形態からその変遷の跡を追うのが文字学の大きな目的であるが,その文字が発生した国から他の国に伝えられ,それがまたさらにその他の国々に及ぶとき,その文字の伝播を追究することも文字学の範囲の中にある.その結果として,文字の系統(genealogy of writing)が問題にされる.言語自体は一つの大きな文化的事象であるが,文字はさらにその言語の上に築き上げられた文化的所産であって,したがって,文字の系統や伝播は文化の交流に基づくものである.とりわけ,宗教の伝播と文字の伝播とが密接に関連しているのが注目される.一例をあげれば,アラビア文字とイスラム教の関係は,そのもっとも典型的なものである. 文字学の畑でもっとも華々しいのは,文字の解読(decipherment)である.有名なのは,フランスのシャンポリオン(F. Champollion)のエジプト聖刻文字の解読や,ドイツのグローテフェント(G. F. Grotefend)およびイギリスのローリンソン(H. C. Rawlinson)の楔形文字の解読である.この2つの古代文字の解読の意義は,単に文字が読めただけでなく,残された膨大な記念碑の文字の解読から,エジプトおよびオリエントの古代の歴史を明るみに出したという大きな文化的貢献をなしたことにある. 文字の解読は,もとより解読者の天才的洞察によるものであるが,それは文字の字形の背後に言語を見いだそうとするものであるから,当然,文字論的考察も要求されるはずである.また,各解読者もおのずと文字論的考慮を払っていた.なぜなら,解読されるべき文字がいかなる言語を表わしていたかを考えないでは,解読は不可能であるからである.
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セツブンオウ(説文王) 古朝鮮の箕子朝鮮の王。
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六書(りくしょ) 『言語学大辞典術語』 六書とは,「6つの文字(6種の文字)」の意味で,中国における漢字(Chinese character)の伝統的な分類法である.この分類は非常に古いもので,上古の周王朝時代に,貴族の子弟が学校に入って文字を習った時に,すでにこの分類を習っていたといわれる.この分類は,少なくとも漢字の分類としては非常によくできていて,今日にも依然として用いられているくらいである.また,古代のエジプトやオリエントの文字の分類にもしばしば援用される. 中国の文字学の元祖である後漢の許慎の『設文解字』(略して『説文』)によれば,六書は,指事,象形,形声,会意,転注,仮借の6つであり,それぞれに簡単な定義と,例が2字あげられている. [象形,指事] 説明の便宜上,象形から始めると,象形とは,「日,月」の原形(小篆の形,→書体) ■■のように,具体的な物を意味する語を表わす文字としかたとして,その物の形に象ったものをいう.具体的な物なら,その全体の像なり,その一部分の形なり,それを図形化することはできる.しかし,語は具体的な物だけを表わすのではない.たとえば,物と物との関係などは,具象的に図形化できない.そこで,象徴的に示すほかはない.それが指事である.例に,「上,下」の2字があげられているが,その古文(古代中国の書体の一つ)の形は二■,長い棒が基準の線で,それに対して,その上,その下を短い棒で示している.この指事と象形の文字は,「独体(simplex)」である.鳥とか馬のような象形の文字は,画は複雑であっても単一な文字で,2つあるいはそれ以上の字の合成ではない.この両者に対して,会意と形声と称される文字は,合成の文字である.いわゆる「合体(complex)」の文字である. [会意] まず,会意は,「2つの字の意を合わせたもの」の意で,例として,「武,信」の2字があげられている.武は戈と止の2字の合体で,武は,本来,干戈すなわち戦争を止めるの意であると解かれてきた.また,信は人と言の合体で,人の言には信がなければならないといわれている.もっとも,この2つの例は,会意の例としては理屈に走りすぎている.ただ,武の字は,本当は干戈を止める平和主義的な理想を示すものではなく,元来は戈をもつ踊り(すなわち,舞と同語)を表わしたものであった.止は,足跡の象形で,人の運動を示した.ちなみに,歩は,止とその逆字■の組み合わせで,両足を表わし,行進を示した.いずれも,まさしく会意の字である.一方,信はもとは「伝言の使者」の意であるといわれる. [形声] 2字の合成からなるもう一つの種類は,形声である.形声は,また譜声ともいわれた.形声とは,漢字のもっとも生産的な造字法である.いわゆるへんかんむりつくり偏(あるいは冠,脚など)と労からなる文字で,漢字の大部分はこの方法で造られている.いわゆる偏は,その文字の表わす語の意味の範畷を示す限定符奪である.中国流にいえば,義符あるいは意符である.一方,労の方は,その語の音形を示すものである.これは,中国風にいえば,声符あるいは音符である.『説文」では,例として,「江,河」の2字をあげている.江(揚子江)も河(黄河)も,その表わす語の意味は水に関係する.そこで,いずれも氵(=水)の義符をつける.そして,江はもと*kŭngといわれたので,工(kung)をその声符としてその音形を努潔させ,河は心ɣâといったので,可(k’â)をその声符としてその音形を暗示した.この形声文字が造られるようになったのには,2つの経路があった.一つは,姿の字のような場合である.菱は「皮衣」を意味する語を表わす字であるが,もとは求の字だけでよかった.それは,求の字は,もともと皮衣の象形文字であったからである.ところが,求の字が,下述の仮借によってモトメルという語を表わすようになり,さらにこの語専用の文字になったため,「皮衣」を表わす語のために,求に義符の衣を加えて新たに姿の字を作り出したのである.これに対して,声符を加える場合もあった.「網」を意味する語は,はじめ剛という象形文字で表わされたが,この語の音形を示す二ために,声符亡を加えて岡(間)という字を作った.網という字は,さらに義符「糸」を添えた文字である.このいずれの場合も,結果は,義符と声符の結合の形になった.そこで,いったんこういうパターンができると,任意の義符と任意の声符の結合によって,いくらでも文字を作り出すことができる.こうして,この造字法がもっとも生産的なものになり,大部分の漢字はこの方式によって作られるようになった.おそらく,象形とか指事とか,あるいは会意のような頓智のいる方法では,大量の文字の創造は不可能であったであろう.その点,漢字が体系化されたのは,形声文字の発明によってなされたともいえる. [仮借] 漢字の形成の分類としては,以上の象形,指事,会意,形声の四書で尽きている.どの字も,この4つのいずれかに属する.六書の,あと2種類の転注と仮借は,字の形成の分類ではなく,でき上がった文字の使い方に関するものである.中国流にいうと,象形,指事,会意,形声の4つは字の体の分類であり,転注と仮借は字の用の分類である.まず,仮借の方からいうと,その名の示すごとく,既製の文字を借用して別の語を表わす方法である.上に掲げた例でいうと,モトメルはもともと字を持たなかったが,それを表わすにカワゴロモを表わした求を借りた.『説文』の定義では「本無其字,依声託事」とあり,その表わすべき語にその語専用の文字がない場合,声の類似によって既製のある文字を借りてその語を表わすといっており,つまりある文字を,それが表わす語の意味を抜きにして,その語の音形を示すものとして,他のそれと似た音形をもつ語を表わすのである.簡単にいえば,「当て字」である.漢字は,1字1語を原則とするほぼ完全な表語文字(logogram)であるから,すべての字はそれぞれ特定の語を表わすことを原則とするが,すべての語がそれぞれ固有の文字をもつことはなかなか容易ではない.そこで,いまだ自分の文字をもたない語を文字化する必要が起こったとき,一番手っとり早い方法は,すでにある文字を借りて表わすことである.それも,その語と類似の音形をもつ語を表わす文字を借用するのがもっとも容易な方法である.したがって,古い時代には,この仮借による表語が多かった.もっとも,仮借は常に可能な方法であるから,新しい時代にも新しい表語にしばしばみられる.白話文でよくみられる甚麼(ṣəm-mə)「何」の甚などもその一例である. [転注] 仮借は,その字義からいっても,また『説文』の定義からいっても,音の類似による文字の借用であることがはっきりしている.これに対して,転注というのは,古来その正体が不明であった.第一,転注という字義が仮借ほど自明でないし,『説文』の定義も「建類一首,同意相受」とあって,ちょっとつかみにくい.さらに,例として,「考,老」の2字があげられていて,いっそう分からなくなる.そのために,転注についていろいろな解釈が提案されてきたが,納得するに足りる説はあまりなかった.ただ,考は形声の字であり,老は会意の字であるところから,転注というのは,上述の四書とは異なり,仮借とともに字の用の分類であることは分かっていた.ところが,どうやら転注というのも,既製の文字の転用であり,それも仮借が音形の類似による借用であるのに対し,『説文』の定義の「同意相受」から推察されるように,意味の類似による転用であるらしい.古い時代には,同じあるいは類似の意味の別々の語を,同じ文字で表わすことがあった.たとえば,車の字は,同じく「車」を意味したtś’iaとkīoの2つの語を同時に表わした.『説文』の例の考の字は(ただし,この考は「カンガエル」の意ではなく,「亡くなった父」の意である),金文では老とも書かれている実例があり,同じ老の字が後の考と老を表わしていたが,のちその区別の必要から,考の方に丂という声符をつけて形声字としたものである.なお,このような転注の字の存在は,識別上不便であるから,声符や義符の添加によって区別するようになり,したがって,後世では転注という現象があまりみられなくなったため,その解釈も不明になってしまったのである. [参考文献] 河野六郎(1953), 「譜声文字論」『東京教育大学漢文学会報』14(『文字論』三省堂, 1994に再録) (1978), 「転注考」『東洋学報』59(3, 4) (同上) (1980), 「仮借論」『池田末利博士古稀記念 東洋学論集(同上)
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音 形 義 他 秦漢 説文解字 爾雅 方言 ↓ 釋名 六朝 字林 広雅 原本玉篇 隋 切韻 ↓ ↓ ↓ 唐 刊謬補欠切韻 ↓ ↓ ↓ 宋 大宋重修広韻 集韻 大広益会玉篇 太平御覧 平水韻 ↓ ↓ ↓ 類篇 金 五音集韻 元 中原音韻 明 洪武音韻 西儒耳目資 韻略易通 字書史へ
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中国における辞書記述(ちゅうごくにおけるじしょきじゅつ) 英Chinese lexicography 『言語学大辞典術語』 中国は文字の国である.したがって古くから文字の教育や培養が行なわれ,のちには文字の芸術を創りあげた.中国の文字,すなわち漢字は優れて表語文字(logograph)であったため,一字一語の原則が夙に定着し,独特の文字観を誕生させた.中国的な考え方によれば,字が実体であり,その形,その音,そしてその意味(義)が字の属性である.これを字の形音義という.この考え方から中国の辞書記述は字を中心に行なわれ,語の記述である辞書は近代になって初めて編纂されるようになった.なお,ここでは近代以前の中国の辞書記述について略述することにする. 字の記述は,字の形・音・義の3つの属性に応じて3つの流れに沿って行なわれた.そして字の形によるものを字書,字の音によるものを韻書とよび,そして字の義によるものは特に名称がないので仮に「義書」とよんでおくことにする. [字書] 中国では,かなり古い時代から文字の学習が行なわれた.漢字はなにしろ一字一語の原則で貫かれた表語文字であるから,アルファベットや仮名のような表音文字(phonograph)と違って,単位の字が多数になり,その学習にはかなりの時間と能力を要した.初めは貴族の子弟が,それから文字の知識が普及するにつれ,貴族以外の者も文字を学び,ことに役人になろうとする者には文字の知識が不可欠であった.そのため,学校や塾のような所で幼いうちから文字の学習に励んだが,その際,教科書となる本も作られるようになった.後世の「千字文」のような内容のもので,記憶の便にたいがい韻文の形をとっていた.漢代には「倉頡篇」とか「急就篇」といったものがいくつか用いられていたことは知られている.文字の学習は単に児童の教育にとどまらず,学問の進展に伴い,学問の基礎として文字の知識が要請され,やがて文字そのものの研究へと発展していった.字書はそのような研究の成果である. 字書の元祖は,後漢の許慎著わすところの『説文解字』である.これは略して『説文』という.許慎は生没年が不明で,およそ西暦100年前後に活動していた人で,『説文』が完成したのは100年だといわれる.『説文』はその標題の示すごとく,「文を説き,字を解い」た書物で,この場合,文は言うまでもなく文字の意味である.この本は,だいたい小篆という書体について一々の漢字の構成を説き,その漢字の本義を解いたものである.小篆はすでに漢字の原型から程遠い段階の書体であって,漢字の原始的形態や栂造をそのまま写しだすものではなかったから,今日からみれば許慎の解説にはしばしば適当でないところがあるのもやむをえない.それでもいわゆる「古を去ることいまだ遠からざる」時代に生きていたため,隷書(→書体)やその後の措書よりは字源の考察にははるかに恵まれていた.今日,漢字の古い字体,金文や甲骨文が何とか読めるのはまったくこの『説文』のお蔭である. 『説文』は,9千余字を540部に分けて構成されている.当時としてはかなり多くの文字を収録していると言えるが,その収録している文字の中には戦国時代の秦の文字といわれる籀文や東の方で経書などに使われていた古文も若干混じっている.部は,同じ義符(または意符)をもつ文字をまとめたもので,たとえば,木に関する意味をもつ語を表わす文字は木をその義符とし木部の中にまとめ,木の字をその部首とする.一より始まって(十二支の)亥に終わる部の配列は,どのような原理に従っているか必ずしも明らかではないが,それぞれの部と部との関連は,形の近似や意味の類似によっているらしい.部というものが意味的範疇によって同じ義符のもとに構成されている点からすると,ある意味的分類がなされていると言ってよい. 『説文』では,各字の意味については,その字の原始的形態ないし構造から各字の本義を簡単に述べるにすぎない.この字の本義はその字の発生に関する意味で,その字の表わす語の語源とは必ずしも一致しない.そして,それぞれの文字の形態ないし構造は,いわゆる六書(このうち,転注と仮借は文字の運用に関するものであるから,実際には象形・指事・会意・形声の4種)によって一定の形式の簡単な説明がなされている. 『説文』は以上のごとく漢字の本義を簡単に述べたものであるから,漢字各字の解説を求めようとしても無理である.各字の解説を求めようとする辞書的要求は,『説文』を基礎とする字書の発展の中に漸次満たされるようになった. 『説文』に次ぐ現存の字書は,六朝時代の梁の顧野王撰するところの『玉篇』(543)である.この字書は隷書の見出しを立て,だいたい『説文』の構想に準拠して作られている.といっても『説文』そのままではなく,巻数も30巻,部首も542,また収録した文字の数も約1万7千に及んでいる.そして『玉篇』の『説文』と異なる点の一つは,この時代には,『説文』の時代にはまだなかった反切室という中国独特の表音法が発明されていて,それを各字の解説の中に利用していることである.音の表示はその字の語の形を定めるのに重要である. 『説文』とは違うもう一つの特徴は,各字の解説が詳細になっている点である.この特徴はことに原本の『玉篇』に見られるところであって,しばしば経典などの用例を引用しており,編者の意見を明示していることもある.しかしこの原本の特色は,『玉篇』の利用が一般に進むにつれ失われていったのは残念なことであった.『玉篇』は唐代に入ってから愛用され,したがって増補され,長い間字書といえば『玉篇』というくらいに流行した.ちなみに,古い時代からわが国に将来され重用されていたので,中国にはもう見られない原本に近い写本が若干残されている.中国ではむしろその流行のために漸次その字の解説が簡略化され,宋の時代は『大広益会玉篇』とよばれるほど補強されたが,それはまだしも,元の版本となると,原形をほとんどとどめず,同義の字をいくつか並べて字義を説明するだけのつまらない字書になってしまった. 字書といえば『玉篇」ということから,字書の名に篇の字を用いるものができてきた.北宋の『類篇』(1067)がまずそれである.これは『玉篇』に続く字書として作られたもので,編纂者は丁度その他の人々が企画・編集し,名相司馬光(温公)の手によって完成したといわれる.だいたいの栂成は『玉篇』と同じく『説文』のそれによっているが,収録字数は3万を超え,それに応じて,『説文』の15巻を3倍した45巻に収めている.部首も544部.見出しの字形も,もう楷書に変わっている. 金に入って韓孝彦・韓道昭父子の『五音篇海』(または『四声篇海』)(1602)とよばれる字書が現われた.この書は15巻からなっているが,部の数を444に縮小している.この字書の特徴は,従来の部の配列を改め,部首の字を中国音韻学事の頭子音の分類である三十六字母事の体系によってその字を配列したところにある.これは,いわば表音的な順序をとったものである. この『五音篇海』以降,明代に「篇海」の名を含んだいろいろの字書が出ている.たとえば,その一つに明の欽定韻書『洪武正韻』の編纂に参加した宋漉という人の作と称せられる『篇海類篇』(20巻)(明萬暦年間)などがある.これには,部の配列を三十六字母の体系に従うのは検索に不便であるとして,部を天文・地理・人事等々の意味的分類によって配列してある. 『五音篇海』のもう一つの特徴は,部分的にではあるが,画引きの検索法をはじめて考案したことである.それは,所属字の多い部の中で画数の小さいものから大きいものへ配列しているところに見られる.この画引きの検索法を徹底的に採り上げたのが,明の梅腐詐の『字彙』12巻(1615)である.この字書では,部首も画数の小なるものから大なるものへと配列した.そして楷書体について考えるところから,部首の数も240に縮小している.収録文字は3万有余.字の検索に実用的な利便を取り入れたこの字書は,各字の解説にも配慮がみられ,一世を風靡した.わが国でも重用され,和刻本も出ている.この字書の各字の表音はだいたい『洪武正韻』の反切によっている. 字書は,清の『康煕字典』15巻(1716)においてその極致に達する.その名の示すごとく,この字書は康煕帝の命に従って編集され,刊行されたものである.これは上述の『字彙』とそれに続いて『字彙』の増訂を図った明の張自烈の『正字通』をその基礎において,さらに質量ともに拡大した最大の字書である.字数も4万7千に及び,部首は244.その配列は『字彙』の画引き法を踏襲している. この字書の特色の一つは,従来の字書と比べて表音が詳細になっている点である.その表音には,かつての著名な韻書(『広劉『集韻』『韻会』『(洪武)正韻』など)の反切を引き,その字音の典拠を示している.特に注目すべきは,字音と字義の関係を明確にしていることであって,その際,経書その他の古典の個所を引いて出典を明らかにしている.漢字は多くの場合,一字多義であり,また一字多音であるので,音と意味の関係がしばしば暖昧にされるため,その関係の確立は文字の標準を示す字書としては当然のことであるが,『康煕字典』はその点を明らかにしている.この点,『康煕字典』は形は字書であるが,一面,字音の標準をめざす韻書の役割をも兼ねていると言ってもよく,後にも述べるように,字書と韻書という中国の辞書記述の二大潮流がここに合流して,ピークを作っていると言っても過言ではない.その後の字書はおおむねこの字典に則っており,わが国の漢和字典もこの字典を模範としている. ただ,はなはだ残念なことに,この字書は皇帝の命により人海作戦によって編まれたものであるから,出来栄えがはなはだ杜撰である.多くの訂正の試みがなされているが,その杜撰のために真の価値を損ねているのは惜しい. [韻書] 字形の標準を示すのが字書の目的の一つであるのに対し,字音の標準を立てようとするのが韻書である.一つ一つの文字をどのように読むかということは,表音性の乏しい漢字としては絶えず問題になることである.経書などの古典の学問が進むにつれ,字音への関心が高まり,後漢の時代には古典の文字の解釈に音の類似する他の文字を用いる「声訓」(または音訓)といわれる語釈が行なわれたが,これは字の音に対する関心が高まってきたことを示す.やがて,六朝の初めの頃から,反切という表音法が考案された.この方法によれば,一応どのような字音も表わすことができることになった.一方,作詩の技術が発展すると,平仄や押韻を意識的に考えるようになって,ここに作詩の参考書としての辞書が必要になってきた.それが韻書である.韻書は作詩の参考書であるとともに,字音の辞書でもあって,次第に字音の標準を示すものになっていった. 六朝時代の間に多くの韻書が作られたが,晴初(A.D.601)になった陸法言の『切韻』が六朝時代の韻書の集大成として,内容も整備されていたため,大いに重用され,ために六朝時代の古い韻書はほとんど影を潜めてしまった. 『切韻』の原本はすでに見られないが,唐代の写本から推して考えると,『切韻』5巻はまず四声率(平・上・去・入)の別で巻立てを行ない(巻一・二が平声,巻三が上声,巻四が去声,巻五が入声),平声には54韻,上声には51韻,去声には56韻,入声には32韻,計193韻に分けて,約1万2千の文字を収めた.この場合,韻とは各字音の韻の部分(すなわち,字音の中核母音と末音)の同じものをまとめた分類をいう.もともと作詩の押韻のための参考書であるから,この韻の分類が必要なのであって,字音の頭子音の分類についてはまだ考慮は払われていなかった.各声の中での韻の配列は,だいたい韻と韻との音韻的関係が配慮されてはいるが,それも徹底的には行なわれていない.ただ注目すべきは,各声の間に韻の配列に対応関係がかなり明瞭に意識されていることである.各韻の内部は,同じ頭子音をもつ同じ字音の字が一括して並べられる.これを小韻という.韻内の小韻の配列順序の原理は不明である.各小韻の第一に位置する文字の注に,その字音を示す反切寧が,「某々反」(のちに「某々切」)という形で書かれる.たとえば,巻一(上平声)の最初の韻は一東の韻で,この韻の最初に東と同音のいくつかの字をまとめた小韻があり,この小韻を代表する東の字が真っ先におかれ,その注に「徳紅反」という反切でその音(tung)を示している.『切韻』の原形では各字の注は反切以外,その字義を示す注釈はきわめて簡単なもので,しばしば字義の注を省略していたらしい.というのは,韻書は字音や韻を知るためのもので,字書のように字義の解説を必要としなかったからである. 『切韻」は,晴の初め顔之推など当時の録々たる8人の学者が音韻について討論したものに基づいて陸法言が編纂したもので,その字音体系は六朝末の河南の字音を基礎としていたようである.河南は後漢以来,洛陽を初めとして政治の中心でもあり,文化の中心でもあった.この韻書は上にも瞥見したようによく整備され,また細かすぎるほど厳密な区分がされていたため,晴代はもちろん,唐代を通じて大いに重用された.たとえば,敦煙のような辺鄙なところからも,大小の写本の残巻が出ているし,日本でも多くの影響を残している.そして時間の経過に従って補正がたびたび行なわれ,字義の解説もだんだん加えられるようになった.唐代の間に作られ,現在完本で伝えられている『切韻』がある.これは王仁昫によるもので,正式には『刊謬補映切韻』(706)という.北宋に入って『切韻』は政府によって取り上げられ,『広韻』(広切韻の意)5巻(1008)の名によって公刊されたが,『広韻』では『切韻』の193韻が206韻に増加している.もっともこれは音韻の変化によって韻が増加したのではなく,『切韻』で1韻にまとめられたものをある音韻の特徴によって2韻に分けたにすぎない.たとえば,切韻では-ânと-uânは1つの韻で扱っていたが,『広韻』に至るまでに-ânと-uânを別々の韻に分けるようになっていたのである.このように唐代の間に試みられた補正の結果が『広韻』の中に盛りこまれているが,体系としては『広韻』は『切韻』の原体系を比較的忠実に保存している. 宋朝は『広韻』の公刊後いくばくもなく,それを倍増した『集韻』10巻(1039)を公にした.この韻番は採録の字を大々的に増補したほか,『広韻』の反切に多少の改定を加えているが,206韻の体系は変わっていない.この206韻の体系は現実の字音の体系ではない.すでに唐代において現実の字音はかなりの変化を遂げていた証跡がある(たとえば,慧琳の『一切経音義』の反切には現実の字音がよく反映されている).にもかかわらず,宋代に及んでなお206韻の体系を保持したのは古い中国における伝統尊重の現われである. 『切韻』系統の韻書はこのように韻書の伝統を担うものとして,その後長く伝えられた.というより,韻書といえば『切韻』系の韻書のことであると言ってもよいくらいである.そしてこの系統の韻書は,科挙(公務員試験)に作詩が課せられるところから,やがてその受験準備の参考書となった.その場合,『広韻』や『集韻』のような大部なものは不便であるから,その簡略化されたものが用いられ,それを「韻略」と言った.そして科挙は礼部という役所が司っていたので,「礼部韻略」とよばれた.その簡略化は字義の解説などにもみられるが,もっとも著しいことは韻目の併合である.『広韻』の206韻の体系は韻目のたて方が細かすぎ,詩を作る上に不便であったので,早くから韻の同用・独用が認められていた.すなわち,ある韻と他のある韻は押韻に区別しないで使ってよろしいというのが同用で,ある韻はその韻の字だけで使わなければいけないというのが独用の規定である.そしてこの同用の韻がだんだん併合していくのであるが,この併合の裏には音韻変化が進んだことがあったそこで206韻はやがて160韻となり,107韻となり,ついには106識となって,この106韻の体系が作詩の基準となり,今でも漢詩を作るときはこの体系によることになっている. 206韻を160韻に縮めたのは金の韓道昭の『五音集韻』(1212)という韻書であるこの韻書のもう一つの特徴は,従来,韻書では韻の内部での小韻の配列順位はよく分からない順序に従っていたのを,宋代にすでに確立していた頭子音(声母)の体系,すなわち「三- 一六字母」の体系によって小韻を配列しなおしたことである. 一方,206韻を107韻に削減したのも金の時代であった.南宋ではさらに106韻に縮めたが,この106額の韻略に,今度は単なる受験参考書としてでなく,字義の解説を詳細にした韻書が現われた.毛晃の『増修互註礼部韻略』5巻(1162)がそれである.これは略して『増韻』とよばれる. 元の時代に入ると,伝統的な韻略の体系と現実の音の体系との乖離はますます激しくなった.この状況を反映して面白い韻書が登場する.それは熊忠の『古今韻会挙要』(略して『韻会』という)(1297)である.この韻書は表面は107韻の韻略の体系をとっているが,各字の注に裏の体系を「字母韻」の名によって示すという表裏二重の体系からなっている「字母韻」の体系は言うまでもなく現実の体系である.また,各韻の小韻の配列は呉棫の『韻補』に従って『五音集韻』と同様,頭子音の三十六字母の体系に従っている.そして,その字義の解説が『増韻』よりさらに詳細になり,出典も豊富である.なお,この韻書は元の国字パスパ文字による韻書『蒙古字韻』と密接な関係がある. やがて,現実の韻の体系が公然と表面に現われるようになった.元の周徳清の『中原音韻』(1324)がそれであるしかし,それは伝統的な韻書の系統の中からではなく,元の時代に盛んになった民間の戯曲の押韻のために生まれたまったく独特の韻書である構造も従来の韻書と異なり,19の韻部からなり,各韻部に陰平・陽平・上声・去声の四声と消滅した入声の配分が属している.また反切による表音もないし,字義の注もない.このように伝統の重圧から解放された革命的な韻書であって,その性質上,当時の北方の口語音に近い体系を反映していると考えられている. 明に入ると,太祖は建国早々『洪武正韻』という韻書の編纂を命じ,楽詔鳳・宋漉等々の人々がその業に当たり,これを公刊した(1375).この韻書は官韻として韻略の系統を引くものではあるが,すでに前代の元朝の間に,伝統的な韻略の体系と現実の体系のずれが表だってきており,『中原音韻』のような民間の韻書の出現をみているため,従来の体系はもはや保つことができず,それに思いきった変革を加え,76韻の体系に改めた.それには従来の韻の合併以外に,1韻のものを2韻に分けることも敢えてしており,それは現実の音になるべく応じようとした結果である.もっとも,この韻書の体系の正体はいまだ不明な点が多いが,首都南京の字音を字音の標準と定めたものと思われる.当時の南京音は現在の南京音とは異なり,揚子江南地方のいわゆる「呉語」の色彩がいまだ濃厚であったと推測される. 清朝に入ると,康煕帝の命により『音韻闘微』という韻書が編纂された(1726).この韻書は不思議な韻書である.明の『洪武正韻』が現実の字音に近い標準を定めようとしたのに対し,この韻書では,再び106韻の韻略の体系に逆戻りしている.しかし,ここでは宋の時代に確立した等韻学の体系が明白な形で取り入れられた.等韻学というのは,韻の分類を横の座標にとり,頭子音(声母)の分類を縦の座標にとった韻図によって音韻を考えようとする中国独特の審音法(音韻分析)である.『音韻聞微』はこの等韻学の体系に従って各韻の小韻が三十六字母と四等呼の組み合わせで配列されている.韻の分類が伝統的な韻略に依存しているが,これも単に伝統に固執しているのではなく,一種の理想的な体系として表面にうち出しているのである.それが現実の字音とずれていることは十分意識しており,その違いが往々各小韻の反切の中に示されている.この韻書のもう一つの特徴はその反切にある.反切そのものも時代を追って少しずつ変化してきているが,この韻書では,反切の上下字を見ればその字音が分かるようにするのが原則となって,たとえば堅の字音は,「基(ki)煙(ien)切」という反切によってkienであることが知られるというふうである.このような,きわめて合理的な表音法は,清朝の国字の満州文字がアルファベットの流れを汲むモンゴル文字の改造からでき上がった表音文字であり,その影響で反切のより合理的な表音化を図った結果である. [字書と韻書の交渉] 中国の辞書記述の歴史の中でもっとも興味深いのは,字書と韻書の相互関係である.上にみたように,唐に入ると,字書は『玉篇』,韻書は『切韻』と,両者ともに大いに愛用された.『切韻』はもともと字音が分かればよいということで字義の解説はほとんどなかったか,あってもごく簡単なものであったらしいが,『玉篇』からの影響で唐代の写本には漸次『玉篇』から字義の解説を取り入れるようになってきた.それは,字形の構成から検索する字書にしろ,字音の体系から検索する『切韻』にしろ,検索の方法は異なっても両者とも次第に辞書的性格を帯びるようになったからである.なお,『切韻』の補正版である『広韻』の字義の注に,人名・地名に言及しているものが多いのは注目すべきことである.これらの固有名詞をどう読むかは,字音としてゆるがせにできないことである. 『玉篇』と『切韻』の平行的使用はやがて両者を一括して「篤韻」と称せられるようになり,さらに宋に入るとこの篇韻の対を意識的に編纂するほどになった.韻書の『集韻』と字書の『類篇』の編成がその初めである.続いて金の時代には韻書の『五音集韻』に対する字書の『五音篇海』が作られ,韓道昭がその両者の編著に参加し,そのいずれにも字の配列を三十六字母の順序に従って行なおうとした.元になると,字書と韻書のペアはできなかったが,韻書の『韻会』は,韻書としても表裏の二重体系を内包するきわめて特異なものであるとともに,字義の解説の面では,これに先行する『増韻』の後を受けてかなり詳細になり,経典や古書の引用も豊富で,辞書的性格を濃厚にもつものであった.つまり『韻会』は,字書の機能をふんだんに取り込んだ韻書ということができる. 明代では,まず欽定の韻書『洪武正鵠』が編まれた.この韻書に対応するものとして,金の『五音篇海』の亜流をなすいくつかの篇海類の字書ができたが,『洪武正韻』に対する字書としてはやはり『字彙』がもっとも優れていた.これは字書と韻書のペアを同時に作るのではなく,韻書を追って字書が作られた例といえるであろう. このような字雷と韻書の相互作用は,ある意味では元の『韻会』に総合されて韻書の形で現われてはいるが,さらに大規模な形で字書の形でその総合を実現したのが清の『康煕字典』である.ここでは字書の構成で字が並べられているが,従来の字書と韻書の集大成がみごとに結実しているのであって,まことに中国の辞書記述の極致といっても過言ではない.なお,この字典に対する韻書として『音韻闡微』があるが,これは『康煕字典』の音韻の面の参考文献の機能を果たしているにすぎない. [義書] 字形の字雷と字音の韻書に対して,字義を対象とする一連のものがある.これには特別な名称がなく,中国の伝統的な書誌分類では「訓詰」(典籍の語釈の意)という類に入っている.そこで仮に「義書」とよぶことにする. 義書の元祖は禰粗という本である.この成立状況は不明であるが,その核心の部分はすでに周代にできていたようである.その製作に周公や孔子の名をあげる伝説すらあるように,かなり古い時代からだんだんでき上がっていったらしい.この本は経典の解釈に重要であるという点からか,のちには経書の一つとして尊崇されるようになった. 『爾雅』3巻は,釈詰・釈言・釈訓・釈親・釈宮・釈器・釈楽・釈天・釈地・釈丘・釈山・釈水・釈草・釈木・釈虫・釈魚・釈烏・釈獣・釈畜の19部に分かれ,それぞれの区分に属する字に簡単な説明が加えられている.釈親以下はそれぞれの字の示す字義の意味的分類であるが,これらの具体的な事物以外の語は最初の3つの中に収められている.釈詰の詰はその字の示す通り「古語」の意で,これに対して通用の語は釈言に入る.釈訓は主として2字からなる連語(擬態語)を扱っている.この3つでは,字義の解説というよりも,類義語(synonym)を並べているにすぎない.もともと『爾雅』は経典の語釈(訓姑)を集めたものから発生したらしい.経学は一種の文献学であるから,字(語)の解釈はその重要な任務であった.また,語釈にはその語の定義に類義語を宛てて悟らせる方法しかないので,類義語の意識は古くからあったに違いない. この『爾雅』の補篇ともいうべきものがいろいろできていったが,漢末に作者不詳の『小爾雅』というものが作られた.これは『爾雅』に欠けているものを少し補った程度のものであったが,爾雅の本当の意味の続篇が魏の張揖によって作られた(230年頃).これは『広雅』(または『博雅』)とよばれるもので,体裁や叙述形式はまったく『爾雅』に則っている.宋代に入って,陸佃の『埤雅』(1125)や羅願の『爾雅翼』(1174)が現われたが,これらは『爾雅』の釈親以下の事物の説明が詳細になり,だんだん百科事典的な方向をとるようになった.その後「~雅」という名をもつものがいくつか作られた.明の朱謀璋の『駢雅』,同じく明の方以智の『通雅』,清の呉玉搢の『別雅』,同じく清の洪亮吉の『比雅』等々がそれである.なお,この義書においても注釈がだんだん詳しくなってくるのが注目される. この『爾雅』のスタイルをもつものに,2つの注目すべき著作がある.それは『方言』と『釈名』である.『方言』は前漢末の揚雄が著わしたもので,その名の示すように当時の方言を記した本であるが.どうやら未定稿らしい.前漢末という,かなり古い時代の方言とその分布状況が知られる点で貴重な作品である. 『釈名』は後漢の劉煕の作.この本も『爾雅』の体裁をとって,語を類別して説明しているものであるが,この本の特徴は各字の説明がいわゆる声訓(また音訓ともいう)によっている点である.声訓とは,ある字の意味を説明するのに,その字と類似の音をもつ字で説明する方法である(たとえば,「日実也」のように). [その他の辞書] 以上,字の形音義による3種類の辞書について略述したが,中国にはこれらのほかにも辞書らしきものが若干ある.上にみたように,韻書は作詩の参考書として発生してきたが,それは押韻のためのものであった.作詩の参考書としては,詩語や詩句を探し出すということも大切なことであるから,そのためのものも当然できてきた.清の『佩文韻府』(1711)などがそれである.この詩語辞典は,元の陰時夫の『韻府群玉』や明の凌稚隆の『五車韻瑞』に基づいてそれらを補正したもので,これも康煕帝の命によって編まれたものである.なにしろ詩語をなるべく洩れなく収録しようとすると,どうしても大部のものとなる.『佩文韻府』は444巻に分けられ,字の検索には106韻の韻略の体系をその枠組みに使っている.なお,この詩語辞典の大本は,すでに散佚して今日見ることはできないが,唐の顔真卿の『韻海鏡源』360巻(772頃)であったといわれる. 中国の文献学である経学は経書の学であるから,当然,経書の語釈(訓詰)が重要となる.経学は清朝に入ると,考証学として大いに発展したが,この気運の中で経書やその他の古典の語注を集めたものが現われた.院元の『経籍饗詰』106巻(1798)がそれである.古い中国では書物の読解には辞書を引いて語義を知るのではなく,それぞれの書物の注釈によって読むというのが本筋であった.したがって『経籍饗詰』のような,ただ古い注釈が漫然と並べてあるものでも大いに役立つのである.この本も,字の検索には106韻式の体系によっている.漢字の検索にはアルファベットのようにabc…といった機械的な配列はとれないので,どうしても画引きか,韻引きか,そのどちらかによらざるをえなかった. おそらく『経籍饗詰』を利用したと思われる古語辞典が消の時代に現われた.それは朱駿声の『説文通訓定声』(1848)である.この本の構成は,まず朱氏の上古音体系によって18部に分けられ,その各部はその韻部に属する形声声符によって,同じ声符の『説文』の文字を集めてグループ化している.つまり上古音による韻引きの辞典である.その書名にあるように,各字は『説文』を基礎としており,筆体の文字を掲げて,まず『説文』の解説をその字の本義とする.そして,その文字の転用の場合について『経籍饗詰』の注釈などを朱氏一流の考えで整理して述べている.それには2つの場合があって,その字の本義から派生した意味の場合を転注とよび,その字の仮借の場合を假借として分類する.この転用の場合が「通訓」であって,終わりにその字の声訓例や押韻例を述べているが,それが「定声」である.この辞典は,経典やその他の古典を読むにはきわめて便利な古語辞典である.‐辞書記述
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『説文』に、「易、蜥易蝘蜓守宮なり」とある。 「易は蜥易からきたものでトカゲを指し、蝘蜓守宮のヤモリと同類」の意味であるという。 宋の陸佃『埤雅』、明の李時珍『本草綱目』などに、 蜥蜴は日に十二時色を変じ、守宮は五色に変ずるので それをもって易を交易(宇宙の一切の現象を流転変化の相において認識すること)にとる、とあるとか。 (『日本陰陽道史総説』村山修一) 日本陰陽道史総説
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詛 新選漢和辞典 第7版(小林信明 編、小学館 刊) 意味 ①<のろ・う(――・ふ)>人にわざわいを下すように祈る。「詛祝ソシュウ」 ②<のろい(のろひ)> ③<ちか・う(――・ふ)>神にちかう。 ④<ちかい(ちかひ)> ⑤そしる。 説文解字 言部:詛:詶也。从言且聲。 (部首:言 詛は詶である。言からなり、且が音である) Wiktionary 発音 音読み:ショ、ソ 訓読み:のろ・う 異体字:诅(簡体字) 参考:說文解字 - 詛 - 中國哲學書電子化計劃 名前 コメント すべてのコメントを見る
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疽 新選漢和辞典 第7版(小林信明 編、小学館 刊) 意味 皮下の組織まで深くできるできもの。癰ヨウの一種。 「疽腫ソショウ」「疽癰ソヨウ」 炭疽タンソ・骨疽コツソ・脱疽ダッソ・壊疽エソ・瘭疽ヒョウソ 説文解字 疒部:疽:癰也。从疒且聲。 (部首:疒 疽は癰である。疒からなり、且が音である) 癰(よう)とは、細菌感染症の一種である。(よう - Wikipedia) 参考:說文解字 卷八 疒部 - 疽 - 中國哲學書電子化計劃 名前 コメント すべてのコメントを見る