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自然言語(natural language)とは 人間の使う言語のこと。自然な言語という意味ではないので注意。例えば我々が使う下手な外国語やSNSなどでの崩れた日本語もすべて自然言語です。 対義語は形式言語(formal language)で、プログラミング言語など構文が定義されている言語のことを指します。これと対比するため、便宜上自然言語という名称が昔に作られました。 用語 固有表現 記事 2020-06-07 | 自然言語処理勉強結果「日本語の構造」 2020-05-10 | 人工言語ロジバンと自然言語処理(人工言語処理) - Qiita リンク元 自然言語処理 タグ:言語 編集
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人工言語は言語学の対象ではない。これは言語学の常識であるとともに暗黙の了解でもある。美しい国語や正しい日本語について論じることがないのと同じで、人工言語について論じることは通常ない。 ただ、それはあくまで現代の言語学においてである。言語学にも潮流やパラダイムがあるので、別に人工言語を論じてはならないという決まりが立てられているわけではない。強いて言語学の中でこれは論じないようにしようと合意を受けたのは言語の起源である。言語の起源は1866年のパリ言語学会で関連記事を掲載しない措置を受けた。だがこのようなことは稀である。(注:周知のとおり、このとき「普遍言語」も拒絶されているが、この皮肉に対する説明は本論の通時論で展開される) 言語に優劣はないというのは現代言語学の常識であるが、この常識は通時的に見ることができる。かつて西洋が世界の中心だった時代は西洋思想がはびこっていたため、屈折語は最も優れた言語で中国語のような言語は文法を持たないとか、日本語には文法が存在しないとか、日本語は非論理的な言語だといった主張がまことしやかに囁かれていた。現在の言語学に言語の優劣を問うと示し合わせたかのように声を合わせて否定するのは、かつての言語差別への大きな反動が関与している。このように、言語学は潮流があり、パラダイムもある。言語学は確固とした不動の存在ではなく、そのことは言語学者自身が痛感している。したがって人工言語が言語学の対象にならないという常識も確固不動のものではない。 そもそも人工言語と自然言語の違いは人為性であり、殆どの人工言語は自然言語と同じく言語学の分析対象となる音韻・文法・文字などを持つ。自然言語を分析する手法はそのまま人工言語に応用することができる。しかし完全に同じ手法ではない。人工言語と自然言語は同一物ではないので、分析には異なったアプローチが必要である。 本論は人工言語学を提唱する。今までの言語学を自然言語学と位置づける。両者を合わせたものが言語学になる。ただし、自然言語学は無標なので普段はこちらを言語学と呼ぶ。人工言語学は自然言語学と平行関係にあり、言語学の下位概念である。したがって術語や研究アプローチは共通する部分が多い。ゆえに本論では逐一言語学の概説書のような術語の説明はしない。その代わり、人工言語学にあって自然言語学にない概念を打ち立てたり説明したりする。 人工言語学にも音韻論や統語論や類型論がある。基本的に自然言語学と同じだが、分野によってはかなり異なる場合がある。たとえば人工言語は自然言語と違って「なぜ作られたか」という理由がある。それは意図された言語の目的や機能であり、自然言語にはない概念である。したがって人工言語学で類型論を述べる場合は屈折語や膠着語といった文法的な類型だけでなく、人工言語の機能分類や目的分類などに基づいた類型を述べる必要性がある。このように、人工言語学は自然言語学と趣を異にするので、本論は自然言語学との差異について重点的に述べる。 尚、本論は日常言語学に対比される人工言語学を意味しないので注意すること。ヴィトゲンシュタインに代表される人工言語学派は本論とは関係がない。尚、人工言語学派の考えを本論の人工言語学に当てはめると、概ね研究型人工言語に相当する。 いずれにせよ人工言語が言語学の対象にならないのであれば、誰かが対象にしてくれるのを待つしかないが、筆者はそこまで気長ではない。
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●まず架空言語の実例をご覧ください。 人工言語アルカ ウィルキンズのような人文系の百科全書的な人工言語がある一方で、ライプニッツのような理数系のコンピュータ的な人工言語が存在した。いずれにせよ哲学的言語であり、普遍言語である。この区別でも厄介なのにましてもってアダムの言語という神秘主義が加わる。しかも全員がアダムの言語を夢想するというのであれば話は早いのだが、事情は入り組んでいて、人によってはそのような神秘主義を否定していた。人工言語学上の分類としては数学的か百科全書的かといったような言語の構造については注目すべきである。一方アダムの言語が意図されたかどうかは動機にすぎないので、致命的に重要というほどではない。勿論動機を知ることでなぜそのような言語に至ったのかを知ることができ、その意味では重要であることを加えておく。 ところで当時はウィルキンズらのような普及型の人工言語しか存在しなかっただろうか。否。たとえば暗号型は速記文字の開発などの形で行われていた。まして当時は剽窃が多かったため、暗号は必要善であった。他方でこのころの西洋人の世界観の広がりが新たな人工言語を生んだ。演出型である。異邦人の言語に関する興味は古くから存在してたものの、それが爆発的な流行になったのは西洋人の世界観が広がってからのことである。アジア、アフリカ、アメリカなどが発見されるにつれて異邦人の言語や文化が西洋に知られるようになる。旅行者や行商や宣教師から伝え聞いたり、或いは自分自身で見聞したことを基に小説を書く。この中で述べられる異国はしばしば誇張されたり人伝ゆえに空想的なものであった。小説で述べられる言語はしばしば実際のものとは異なっていたし、場合によっては作者はそうと知りつつあえて書いていた節もあった。 この風潮が広まるにつれて、ジャーナルとしての言語ではなく始めから空想世界の言語というものが考案されるようになった。当時まだ発見されていなかったのはオーストラリアであったから、ここはよく舞台に使われた。また、月やその他の惑星もよく舞台に使われた。知的生命体がいると一部に考えられていたためである。これらの架空言語や架空世界は西洋人の期待や夢から生まれたものであるため、通常は理想言語や理想世界であった。トマス=モアに代表されるようなユートピア思想の一環である。これに当時の普遍言語論争が併行していたため、理想言語は概して簡単な文法を持ちすぐに習得できる言語と捉えられていた。 このユートピア思想は19世紀末のブルワー=リットンごろの反ユートピア思想まで優勢であった。 尚、オーストラリアはアリストテレスやプトレマイオスのころに想像された「南の大陸」であった。これは大航海時代1600年台初頭に発見された。したがってたとえばフォワニーの『アウストラル大陸発見』(1676)のときは厳密にいえば未発見ではない。地理上の発見以前から未知の大陸オーストラリアについての想像は多く行われ、実際に発見されてからもすぐに情報が詳しく伝わるわけではないのでやはり摩訶不思議な世界として考えられてた。ちなみにこれは月も同様で、当時は鳥の渡りの原因が知られておらず、鳥は月に渡るものと考えられていた。そういうわけで月はオーストラリアと同じく未知の世界で、架空言語の格好の舞台であった。他の惑星についても概ね同様である。 著書『ユートピア』で有名なトマス=モアは理想化された世界の中に理想的な言語をも置いた。理想の世界の言語、言い換えれば想像や架空の中の言語に足を踏み入れた彼は前衛的な存在であった。ただ、彼の創作した架空言語は後験語ではあるものの、基になった言語はギリシャ語などの西洋語であった点に注意する。 ゴドウィンの『月世界の人』(1638)は小説の中で自言語を展開している。大きな普遍言語論争の渦中であったため、演出型とはいえ、彼もまた哲学言語を構想していた。そのためこれを完全な演出型と述べることはできないが、大まかに分類するのなら演出型であろう。ゴドウィンが中国語から影響を受けていたのは明らかで、実際作中で主人公は中国に赴いている。ここで中国語は音楽的な言語という定義を受けている。そして月世界はというと、ここではたったひとつの普遍言語が使われていた。アダムの言語を彷彿させるユートピアな設定である。月世界の言語は音楽的であり、ここに中国語の影響が見られる。音声においてゴドウィンの言語が中国語を参照言語にしていることは明らかである。しかも主人公は2ヶ月で月の言語を習得している。このことは普遍言語の特徴である「覚えやすさ」を当然のこととして受け入れていることを示唆する。 シラノ=ド=ベルジュラックもまた月世界の言語を小説で展開している。ゴドウィンと異なるのは唯一の共通語があるというのではなく、社会的地位という位相で言語が二分されているという点である。上流階級はやはり中国語を意識した音楽的な言語を話し、下層階級は身振りの多い言語を用いている。 身振り言語をどう見るかというのはこのころ人によって異なっていた。たたとえば『セヴァランブ族物語』(1677) の著者ドニ=ド=ヴェラスは身振り言語について否定的である。そのヴェラスのセヴァランブ語であるが、これは意外にもエスペラントの走りともいえる言語である。というのも、自然言語から論理的であると考えられた要素を寄り集めている後験語だからである。ただ論理的過ぎてしばしば格変化などの文法システムはむしろ自然言語より細分化されている。かといってそれを一々覚える必要はなく、規則に基づいて推測可能である。 エスペラントと異なるのは自然を強く意識し、その性質を言語システムに取り入れている点である。存在を有生・無生ならびにオス・メスに分け、その区別は動詞にまで及んでいる。つまり主語が有生であるか無生であるかによって動詞が異なった屈折をするということである。したがって「石が憎む」というような恐らく考えられない文においても「憎む」は一々無生用の変化をするということである。憎むのように有生しかできなさそうなものであってもこの屈折は及ぶので、動詞の活用形の総数は悪戯に増える。尚、音については母音が10で子音が30である。そこに多重母音が加わる。更に音調などを表す6個の記号が使われた。これらの音素は筆記文字で表された。 身振り言語について肯定的ではないヴェラスとは対照的に、ガブリエル=フォワニィはむしろ言葉は抽象的なことや難解な議論といったものを表すだけのものとされ、他は身振りで代替するとしていた。それは南方大陸すなわち今日のオーストラリアの言語について執筆した際に明らかになっている。フォワニィは普及型の普遍言語の影響を受けており、概念については分析を元に命名をしていた。たとえば母音は火、空、塩などの単純な要素を与えられた。子音は明るい、熱いなどを与えられた。分析に基づいた文字の組み合わせで単語を表現していた。勿論この過程で発音しづらい単語が算出されることはいうまでもなく、フォワニィの言語は実用的とはいえなかった。語彙については完全に先験語である。また彼は文字も作っており、アルファベットと字形の異なった筆記文字を作っている。 ティソ=ド=パトは彼らに後続して『ジャック・マセの冒険旅行』(1710)で自言語を展開した。コンセプトは規則性と簡潔性である。音は母音が7種で子音が13種である。文字はアルファベットを使用する。文法はラテン語よりは簡単だが、複合完了や分詞がある点でやはり西洋語が参照言語になっている。パトで特筆すべき点はヴェラス同様自然言語を参照し、それを易しくしたことにある。動機は異なるものの、この点でやはりエスペラントの着想に近い。 一般的に架空言語の作者は普遍言語の作者ほど厳密ではない。普遍的な完全言語を作るという目的の下では科学的な手法やミスや漏れのない正確さや厳密さが重要視される。記憶術に関連して徹底的な語彙圧縮を行い、習得の容易さを訴える。それに比べて演出型の架空言語や空想言語はそれほど深刻ではないので「簡便なラテン語」などといった着想に至りやすい背景を持っていた。それが原因で、中にはエスペラントに似たものが生まれた。彼らが求めたのは創造性や工夫であり、面白味である。 その結果、普遍言語の手法に比べて奇抜なものが出てくる土壌にあった。その点で人工言語学としては興味深い。
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人工言語の基礎がわかるコーナーです。 1 人工言語とは? 2 レトルト人工言語 3 言語と文化 4 言語の普及 5 人工言語のあゆみ 6 人工言語のこれから .
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獲得とは、ヒトのこどもが自然に言語を話せるようになること。「言語を獲得する」という。自然に、というのがポイントで、大人になってから勉強してできるようになることは獲得とは言わない。学習とか習得とか言う。この獲得と習得は、全然違う。まず私達が勉強して外国語とかを習得する経過を見てみると 発音練習をする 単語を暗記する 文法事項を暗記する 例文を暗記する 練習問題をとく … という、涙ぐましい努力が必要だ。一方、こどもの言語獲得は違う。 一番違うのは「文法事項云々」で、こどもには「これの文法はこうで、こうして、こういうことになる」なんて説明をしない。文法事項一覧表を見せるわけでもない。こどもが耳にする言語には限りがあるし、こどもが何か間違えてもまわりが必ずしも訂正してくれるわけではない。それでも獲得できる。それは、私達ヒトの頭の中に「言語器官」という言語を創り出す器官があるからだ、と考えられている。 発音練習は、やっぱり発音の仕組みを説明したりはされない。しかし生まれてから1歳くらいのこどもが発するバブバブ言うやつ(喃語 なんご)とかその後の過程で発せられる声は、一種の発音練習(あるいは発音の調整?)であるとも考えられている。 単語や例文の「暗記」は、少なくとも私達が受験勉強のためにした「暗記」とは違う。ただ「覚える」ということは行われている。言語獲得を行っている時期のこどもは、スポンジが水を吸うようにいろいろ覚えていく。 しっかり覚えて、慣れるために練習問題をとくということはしない。覚えたものが正しいか確認するために練習問題をとくということもしない。しかしこどもは実際に獲得している最中の言語を使うことで慣らし、修正を加えている可能性もある。 そういうわけで、こどもが母語/第一言語を獲得する過程と、大きくなってから第二言語や外語を勉強するのはだいぶ違う。しかし、だからといって ①こどものうちに色々な言語を聞かせておけば楽にマルチリンガル(多言語話者)になれる ②おとなになってからの勉強も、こどもと同じように勉強するのがいい とは言い切れない点にも注意。 ①マルチリンガルにするためには、継続的にその言語を維持させる努力も必要。フツウの生活の中で「色々な言語を聞く」環境を維持するのは、楽なことではないはず。 ②「こどもが言語を獲得するように、言語を勉強するのがいい」という言語教育方法もあるにはある。でも、やっぱり全く同じようにとはいかない。どうしてもおとななら文法事項の解説を読んで理解したり、せっせと暗記したり、そういう作業が必要。むしろそういう作業をしたほうがスマート。 ちなみに、何歳までに言語が獲得できるか、という問題も微妙。若ければ若いほど言語は容易に獲得できる、というのはある程度確かだけれども、それは本当に「獲得」なのか、楽なのかはよくわかっていない。 こどものほうが早く言語を覚える理由は おとなみたいに忙しくない おとなみたいに遠慮しない (おとなだと恥ずかしがったりして、積極的に言語を使おうと出来ない人もいる) みたいな事情もある。これは頭の中の言語器官がどうのこうのという問題ではない。
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フランシス=ロドウィック。17世紀に人工言語を作成。主な資料は『共通の文字』A Common Writing(1647)など。 ロドウィックで最も取り上げるべきことは語根が名詞からではなく行為から作られるという点である。 to drinkを表す語根記号が根底にあり、その字に付加記号を付けることによって名詞や形容詞などを派生させる。簡単にいえば多くの言語が名詞ありきであるのに対し、ロドウィックは動詞ありきである。たとえば「飲む」をδで表すとし、動作主を¬のような記号で表す。したがってδ=「飲む」であり、δ¬=「飲む人(drinker)」となる。¬以外の記号も存在し、それをδに付けることによって今度は「酔っ払い」や「居酒屋」などを派生することができる。酔っ払いは「δ+性質記号」、居酒屋は「δ+場所記号」で示される。 文字は先験要素も持った後験文字である。飲むという記号がδのような形をしていたり、loveの語根がLのような形をしていることからも明らかである。また付加記号もヘブライ語などを参考にしているようである。 ロドウィックは行為ありきの言語であるが、行為化できないものはどうすればよいのだろうか。たとえば副詞、前置詞、接続詞、感動詞などである。これらについては語根に付加記号を付けて表すという方法で整合性を持たせている。但し固有名詞は自然言語で書くことになっている。 「飲む」はいいとしても他の名詞はどうか。神のような語は行為から作れそうにない。これについてはto exist(to be)から派生しているようである。このおかげで覚えなければならない語根数は非常に圧縮されている。 欠点は少し文字を間違えただけで一瞬にして意味が変わってしまう点。基本的に五線譜の上に文字を書いていくのでかなり書くのに気を使う。ならびに背景となる五線譜が文字を横切って走っていくため、美観を損ね、同時に認識を悪くしている。また、語根が少なかろうと結局漢字を覚えるのと似たような苦労を強いられる点。動詞から名詞を作る際の意味が恣意的で、ロドウィック式の思考を一々覚えねばならない点など。 文法は英語のものである。辞書については英語と普遍文字の対訳辞書を作ろうとしたが、結局実現されなかった。ロドウィックの人工言語は英語を参照言語にした後験語であるといえる。尚、文字はLがloveに近いようなことからアルファベットを基にした字であることは分かる。だが変形が激しく参照元が分かりづらいため、先験性を多少帯びている。 さて、ロドウィックの人工言語を見てまず気付くことは何か。徹底した語彙圧縮を行っている点である。覚えなければならない事項を減らすという姿勢は既にこのころの普及型に見られるものである。ロドウィックがこうしたのは覚えづらいという批判に対してというのも確かにある。だが実際はそれだけではなく彼が言語を考案した背景に記憶術があったことが関与している。普遍文字はその汎用性だけでなく、記憶術の応用としての作例でもあった。 言語を作る場合に、普及型だと特に覚える事項数が気になる。多ければ多いほど学習者の負担が増え、広まりにくいと考えられるからである。そこで作成者はどうにか事項数を減らそうとする。ところがその方法は非常に限られている。たとえば何種類もある花の名を覚える際、それらが系統だった名前をしていれば覚えやすい。だがパンジーやアジサイやバラなどといった何ら規則を見出せないものは覚えにくい。そこで作者は花なら花で分類していく。たとえば花は植物の下位概念で、パンジーの上位概念である。このように分類を用いることによって単語が整理されるため覚えやすくなる。その結果、極端な話をすればアジサイはパンジャーでバラはパンジョーといった風になる。覚える事項は減るかもしれないが、かえって混同して覚えにくく、使い勝手は更に悪い。だがこの時代の作者は基本的にこういった分類に頼っていた。 元々この分類というのはアリストテレスの範疇論に由来している。先験語の走りとなった哲学的言語の思想の源流となるアリストテレスの範疇は普遍言語を作るには頼りないものであった。アリストテレスは実体・量・時間・場所・位置・性質・状態・関係・能動・受動という10のカテゴリーを挙げた。これは認識ではなく存在から見たカテゴリーである。また能動や受動というのは何かの分類とは考えにくく、むしろ文法上の概念であろう。このカテゴリーの非成熟度は哲学ではカントのような批判者を生んだが、人工言語学ではウィルキンズのような批判者を生んだ。ウィルキンズはアリストテレスのカテゴリーと比べると遥かに細かいカテゴリーを唱え、また実際にそのカテゴリーを作成した。 ウィルキンズは自然物や空間を細かに分類し、それらに普遍文字を付与した。 万物を分類し、その概念に音と文字を充てることによって人工言語を作る。この哲学的言語の手法は多くの人工言語作成者に影響を与えた。 17世紀に確立した人工言語作成の手法であるが、その後現代にも引き継がれている。趣味で言語を作るものも普及を目指して作るものも、先験語を作ろうと思い立ったときはまずは万物を分類するという手法に行き着く。 ところが万物の分類を前提とする哲学的言語には欠点があった。ここでは2点挙げよう。1点は万物を分類するのは極めて難しく、またそれを覚えて実用するのも難しいということである。抽象的概念を分類するのは難しいし、まだ科学的に分類がなされていない植物を何類に分類すればいいかわからないという問題がある。更に科学が発達した現在で万物を分類するのはおよそ不可能である。科学の概念や産物は分類が追いつかない速度で作られるし、新発見が新たな分類項を生むことも考えられる。それゆえ、万物を分類すること自体が極めて難しいと考えられる。よしんばできてもその分類は恐ろしいほど細かいだろうから規則を覚えきれない。 よく口上に挙げられる「理性によって一意的に単語を生成できる」のは誤りである。最初はそのように意図して作っても恣意的に作らざるをえなくなる局面に遭遇し、結局学習者はその恣意性をひとつずつ覚えねばならない。また規則付ければ規則を覚える労力が掛かる。実際自然言語を覚えるのと手法が異なるだけで労力は大差ない。実用するには常に重い辞書を持って歩かなければならないことになるし、実際ウィルキンズに当てられた批判も将にこれであった。因みにウィルキンズの分類はアリストテレスのものよりは細かかったものの、万物を表すに十分なだけ細かかったわけではないことを付け加えておく。 もう1点の欠点は簡単にいえば万物の概念の分類の仕方は人類に共通ではないという点である。概念Aは誰にとっても同じ質を持った概念Aではない。概念Aの外延は人によって或いは集団、民族によって異なる。言い換えれば、概念はそれぞれ内包が個別に定義されるものではない。この考えが直接言語に関わる形で現われたのは19世紀、ソシュールの時代である。 以上は哲学的或いは科学的な欠点であるが、人工言語としての実用面ではどうか。同じ分類に組み込まれた同属概念は互いに似た文字になりがちで誤解を受けやすい。また、分類が系統だっているため、それを表した普遍文字もまた系統だちすぎていて、少しでも字形が狂えば意味が取れなくなってしまう危険性を孕んでいる。以下に見ていく人工言語の多くも同様の欠陥を持つ。 ジョージ=ダルガーノ。『記号術』Ars signorum(1661)など。 スコットランド出身だが大半をオックスフォードで過ごす。ウィルキンズとの関連があり、創作物も基本的に類似している。ダルガーノがウィルキンズに剽窃の疑いをかけたことで関係が悪化。多くの識者はウィルキンズ寄りだがライプニッツなどはダルガーノ寄りの考えである。 ダルガーノは話し言葉としても用いられるよう言語を設計しようとした。そこで音声学的な分析を用いて人間の発声に最も適した音を探した。その考えに基づいた結果、発音をしやすくするための母音を挿入している。この母音に分類上の意味はない。したがって分類記号としては認識しづらくなっている。 彼もまた分類に頼って言語を構築した。分類は階層式になっており、そのうち17のカテゴリーを基本的な類と呼んでいる。たとえば「存在物」「実体」「人工物」などが挙がっている。基本的な17個の類は横並びになっていない。存在物が出発点で、その下位に「具体的で合成され完全な」ものと「抽象的で単純で不完全な」ものがくる。このうち前者は基本的な類である。したがって基本的な類同士が階層構造を持っている。これはウィルキンズの類も同様である。 尚、基本的な類には17種の大文字が付いており、たとえば頂点の「存在物」はAである。使われる大文字は A, I, E, H, U, B, D, P, S, K, G, T, Y, O, N, F, M である。 17類の下には更に中間的な類がある。 この類は小文字で表す。たとえばP(感覚のある)の下位にはo(主要な感情)がある。更にその下には種がある。たとえばoの下位には喜びや怒りなどがある。ではこれらの種はどう名付けるのかというと、基本的な類のPと中間的な類のoにそれぞれの種差を表す子音を付けて表す。たとえば喜びはpobで怒りはpodである。この問題点は種差を表す子音が何であるか予測できず、一々覚えねばならないということである。希望というのも同じ種に存在しているのだが、これが「po~」であることは分かっても次の1字が予想できない。因みに希望はpofである。また言語の運用時に同属概念が最小対語になるため、聞き間違いの恐れが常につきまとう。ただこの問題を解決する方法もあり、 pobなどの哲学的記号をラテン語に訳して読めるようにラテン語の対訳を著書に付している。 ダルガーノも記憶術の流れを汲んでいるため、語彙の圧縮を行っている。たとえばRはエスペラントの接頭辞mal-と同じく対義語を作る。このRのような語彙の圧縮に使う字がいくつか用意されてはいるものの、ダルガーノの分類は運用するには覚束ないものであり、覚えるにも恣意的要素が多すぎて覚えづらい。また彼の分類はこのようにCVCで終わるものばかりではない。 CVCから成る音節数はかなりのものだが、分類に基づいているので可能な音節の全てを使うことはできない。分類によって命名をすると下位概念に行くほど分類が細かくなり、命名が長大になりがちである。 abhorrere(<L abhorreo 尻込む、嫌悪する、ぞっとする。英語ではabhorに残る)を見てみるとダルガーノはこのラテン語をprebesu sumpren, trofと訳している。なるほどpから始まるので感覚であることが分かる。eが来るので内感であることも分かる。確かにこれは主要な感情ではないのでoではなかろう。そしてrがeの前に来ているので反意を表すということも分かる。少なくとも始めの3字以内で「感覚に関し、内的なもので、反意」という情報が分かる。しかしその後更に情報が付加されてprebesuとなるため、都合かなりの情報が付加されることになる。単語を発しながらその感覚そのものについて辞書的に説明しているようなものである。これを覚えて同属の単語と区別して使うのは面倒かつ難解である。そもそも効率的に覚えるには彼と同じ命名観を持たねばならない。理性で判断して皆が皆同じ命名に至れば問題ないが、そのようなことは現実にはありえない。 尚、彼の辞書は事実上未完という形で閉じている。彼が命名しなかった概念については使用者側が新たに作らねばならない。しかも音素に法則性はない。 eはPの下では内感を意味するが、N(物理的な)の下にあるk(陸生の)の下では「ひづめの裂けた」という意味になる。同じ音素が何を表すかは相対的に決まり、法則はない。したがって未定の単語を命名すると、人ごとに一致をみない。ダルガーノの分類が覚えにくいことは間違いないが、彼の分類はライプニッツらと比べると人間的で文化を彷彿させる。その点で人工言語としては興味深い。このような命名法だと馬や騾馬は何と命名すればいいのか分からない。あまり細かく種差を分けていくと馬ひとつ表すのに物凄く膨大な記号数になってしまう。そこで恣意的というよりは彼のセンスに基づいた命名がなされている。たとえば馬も騾馬もひづめの完全な動物に属するが、これらの違いは馬が「勇敢」、駱駝が「欠如した性」の違いで表される。馬について「勇敢」という哲学的分類には沿わない主観的な命名をしている。ここに彼の、ひいてはスコットランド或いはイングランドの文化や価値観が見え隠れしている。 ダルガーノの分類は哲学的に未熟であったがゆえにかえって命名に関しては後験性の強いものになっており、今日の人工言語に繋がるところがある。彼のこうした命名方法は長所にも働いている。彼は同じものであっても観点が違えば命名も異なってよいとしているため、馬を「勇敢」以外の種差で表しても良いことになる。このことを応用すればたとえば文化によって異なる「神」の存在も文化に応じて表現しわけることができる。たとえば一神教の神であるとか多神教の神であるといった具合に。尤も当時のキリスト教圏に生きたダルガーノ本人が神についてそのような多解釈を認めたかどうかは疑問であるが。それでもこの異なる解釈で同じものを表現できるというシステムは今日の人ピクトグラム系の人工言語に通じるものがある。 ダルガーノの統語論は語順が重要な孤立語的言語であり、当時の哲学言語の拠り所であったラテン文法の屈折を捨象している。因みにその語順はSVOである。また品詞性についてはロドウィックと丸逆で、ほぼ完全に名詞しか持たない(代名詞が認められる程度)。他の品詞は名詞から派生させ、前置詞も名詞として分類枠の中に収めている。 ジョン=ウィルキンズ。『真正の文字と哲学的言語に向けての試論』 An Essay towards a Real Character, and a Philosophical Language(1668)など。 ロイヤルソサイエティ初代書記長。元々はダルガーノに呼応し、分類表を作ることについて助力を申し出たが、ダルガーノは自分のほうがより簡単なものを作れると言って拒絶している。結局これを契機にウィルキンズは自己の言語を可能にする分類表に着手した。その方法は要するに百科事典的であり、言語を作るというよりは百科事典の項目やシソーラスを作るようなものであった。このような計画においては人手が必要なため、ロイヤルソサイエティでの権限を利用し、同僚や友人に協力を依頼した。たとえば植物の分類表はジョン=レイに任せ、動物の分類表についてはフランシス=ウィラビーに任せるといった様子である。その他、航海術などの分類も委託した。まるで現代において百科項目を分野ごとに作らせるような手法である。 ウィルキンズの人工言語において特筆すべきは彼に味方する学会由来の大きなコミュニティが存在したということである。他の研究者が主に個人で作業をしている間に彼は助力を得て作業をしていた。ロイヤルソサイエティでの地位がそれを実現した。人工言語の普及や研究に関して言語そのものの出来よりも社会や経済の状況のほうが重要だという好例である。 ダルガーノが剽窃を疑ったことからも分かるとおり、基本的に2人の考察は類似している(実際剽窃ではなかろうが)。彼もまた概念を分類した表を作っている。その表はやはり未完のまま閉じている。そして長大で覚えにくく、恣意的であることを逃れられない。また、たとえ科学的な分類を行ったとはいえ当時の科学力なので現代から見れば疑問を感じる分類も存在する。更に当時の文化や社会を反映した分類になっている。たとえば「教会の」という概念は公的な関係に分類されている。キリスト教を反映してか、創造主というカテゴリーが堂々と存在している。ならびに「ヨーロッパの」に対するカテゴリーは「異邦の」であることからも、社会・文化・風土が背景になっていることが分かる。 また金属や石が「植物性」の下位概念の「不完全」に属するのも興味深い。ただ、これを以って金属を植物として見なしているとはいえない。「植物の」は「感覚のある」の対の類になっている。だからむしろ「感覚がないもの」――現代でいう無生物や無機物――のように見なすのが自然であろう。「植物性の」はvegetativeで、「感覚のある」はsensitiveである。 vegetativeは現代医学では「植物人間」などでも使われる単語で、これはalive but showing no sign of brain activity(OALD 7th Edition)の意味も持っている。時代は錯誤するものの、vegetativeには元来日本語の植物と異なる語義イメージがあり、植物のように静的で無生物的なものというニュアンスがある。ウィルキンズのvegetativeも恐らく「活気のない」とか「感覚のない」などといった含意を含んだ上での「植物性の」であろう。したがって石や金属がこの類に属すことはおかしいことではないと考えられる。 「ヨーロッパの」や「創造主」などのカテゴリーを見ても分かることだが、ウィルキンズの分類は非キリスト文化を始めから考慮していない。ウィルキンズは各民族が母語で普遍文字を読めるようにするというスローガンを掲げていたが、分類表を見る限り文化の差異についてまでは考慮していなかったようである。たとえば感情はどの類に属するだろうか。emotionalという類がないため、spiritualの下位であろうと推測される。「精神的な」の類は「神」と「理解・意思・嗜好や興味に関した精神」に分かれる。そして「嗜好や興味」は「愛着や感情と称された行為のことであり、単純と複雑に更に分けられるもの」と定義されている。愛や悲しみなどの感情はこの中の「単純」に含まれている。名詞が基本なのでsadではなくsadnessなどの形で含まれている。結論として感情はspiritualの中に取り込まれている。そして興味深いことに精神活動は感情だけでなく神の所業も含めている。ウィルキンズによれば創造も絶滅もここに加わる。しかも神の所業という超越的な行為は生き物に収束するとある。人間の感情と神の所業を同じ精神活動に振り分けている点と、更に創造や絶滅や生き物が神の所業であるという2点から強くキリスト教思想が伺える。その反面、異教や異文化の神話などは考慮されていない。このようにキリスト教の世界の切り方をしているため、ウィルキンズは異文化の世界の切り方には対応していない。 ウィルキンズはダルガーノと違って大きな助力を得ていたため、分類が非常に細かい。基本的な類だけで40個あり、ここで既にダルガーノの類より多い。シソーラスとしては優れているかもしれないが、言語として実用するにはかなり分厚い辞書を持ち歩いて高速で引く技術を要するので実践的とはいえない。ダルガーノとの基本的な違いはその種類の多さにある。 40個の類から251個の種を作り、更にその種差から2030個の種を作る。 ウィルキンズはダルガーノと違い、完全に先験的な文字を作った。横棒や縦棒に飾りを付けて細かな意味を表していくものである。一見するとアラビア文字のように見えるが、後験性はない。分類の基本的な構造は3段階で、類・種差・種である。類は子音+母音で示される。種差は子音で表される。最下位の種は母音で表される。子音はBDGPTCZSNの9種で、母音は7種に二重母音2種を加えたものである。たとえば「行為」という分類の下にある「肉体的」という分類はウィルキンズの扱いでは「類」として扱われ、 Caの音価が与えられる。またこれを表す文字は水平線の下に小文字のcを付けたようなものである。「肉体的」が類であり、その下の分類には「感覚の」「理性の」などがある。更にその下の分類には飢えや乾きなどがある。ところで「感覚の」はsensuousではなくsensitiveになっている。 sensitiveはふつう「敏感な」の意味である。 1392年にはこの意味で英語に流入しているので一見おかしいが、 15世紀以前にスコラ哲学でanima sensitivaのような例で使われ、「感覚に関係する」という意味で使われていたようである。よって17世紀のウィルキンズは哲学的分類としてあえてsensitiveを使ったと考えられる。 尚、類はCVから成り、種差には子音が付され、種には母音が付される。したがって類・種差・種を通るとCVCVのような音節ができあがる。分類表の同じ階層が必ずしも類になるとは限らないので注意。分類表では「関係」の下位概念は2つに分岐し「私的」と「公的」に分かれている。そして私的は財産などに細分化され、公的は司法的などに細分化される。「関係」「私的」「財産」の間には3段階の区分があるが、これを以って安易に類・種差・種と認定することはできない。「関係」は「私的」「公的」に分岐しているにもかかわらず、この区別は事実上無視され、「財産」も「司法」も同じ区分で扱われる。しかもウィルキンズの分類によればこの段階で初めて類になっている。たとえば「財産」はCyという類であり、「司法」はSeという類であるとされる。 品詞についてであるが、ダルガーノ同様ウィルキンズも分類表を利用したため、どうしても発想がモノに行きがちである。即ち名詞が基本となる。上述のsadnessなどが好例である。そしてダルガーノと同じく関係や行為まで名詞と捉えて分類表に含めてしまう。文法的には繋辞+形容詞で動詞を表す。点・丸・線などの小さな記号で法や時制などを示すとともに代名詞、冠詞、感動詞、前置詞、接続詞を表す。数、格、性、比較級はそういった記号ではなく種差として表す。文法的にいえばダルガーノのものより英語の要素を明白に引きずっているといえる。冠詞、数、格、性、比較級などを見るに、西洋語の性質をそのまま残している。統語についても英語が参照言語である。よって文法的には後験性が強い。 語彙については分類を用いている上、その音価が機械的に付けられているため、先験語である。だがやはり彼にもダルガーノと同じく命名に文化や風土や物の見方が見え隠れしている。たとえば声+狼で「遠吠え」や「叫び」を表す。狼がいない地域のことは考えていない。実際ウィルキンズが挙げている動物は西洋でよく見られるものである。ダチョウなどはありえない。一方、息子をオスの子供、娘をメスの子供というように捉える点では先験的である。これは語彙圧縮や文字の規則化の一例であるが、ウィルキンズ自身は哲学的観点を強調している。 ウィルキンズで最も特筆すべきはその分類の細かさと、それを可能にしたコミュニティ、及びそれを表記する先験文字であろう。記号の組み合わせとはいえ、その文字の種類は莫大な数に及び、我々が漢字を覚えるのと大差ない学習を利用者に強いるものである。普及させるには注文の多い言語であるが、その分類の細かさと文字種の多さは目を見張るべきものである。 ライプニッツ。1678年に一般言語(Lingua Generalis)を作成。 ウィルキンズやダルガーノはデカルトやライプニッツと一線を画す。分類(或いは分析や分解)という手法を用いる点では両陣営とも共通している。しかしウィルキンズらが既に現存しているものを観察して考察して分類しているというトップダウン方式を用いるのに対し、ライプニッツは最終的には演繹的な算出をするというボトムアップ方式を取っている。俗にウィルキンズが分類魔だとするならば、ライプニッツは計算魔であった。算出することの利点は現在は存在しないが将来的には現われるかもしれないものを演繹のシステムに基づいて算出できることである。その意味でライプニッツのシステムはむしろ未来に向いて開いているといえる。一方、ウィルキンズらの分類を開いているという向きがあるがそうではない。ウィルキンズらの分類は未完のまま閉じてしまっているのである。或いはせいぜい学習者が自ら残りの単語を命名しなければならないという意味でしか開いていない。続きはファンが書いてくださいという小説に似ている。これを開いていると但し書きなしで認めることは不自然である。 ライプニッツは自然言語のヴァリエーションを肯定的に捉えており、アダムの言語に対して否定的であったし、ウィルキンズらの普遍言語についても同様であった。ただ彼が後世数学で有名になったことからも推測されるとおり、彼には数学的な性向があった。命題が真であるための条件を割り算で表現したりしていたことからも伺える。また、彼は自らの普遍言語について計算の重要性を確信していった。彼によると計算で算出するのは命題であって数の意味ではない。記号論理学への兆しがこのあたりからも顕著に見え隠れしている。そして彼は記号計算を最終的なアダムの言語と捉えるようになる。 これらの点でライプニッツはウィルキンズらとは相当異なっている。それは未来の歴史を見ても分かることである。ライプニッツの記号論理学や普遍言語はその数学的性質からコンピュータ技術などに応用された。特に『二進法算術の解説』で考案した二進法の表記法はコンピュータに使われる0と1のブール数にほぼ相当する。プログラム言語は広義の人工言語であるが、これが人工言語といわれてエスペラントなどと区別されないのは、実はプログラム言語が歴史を遡っていけばこうしたライプニッツのような思想に辿りつくからである。一方、ウィルキンズらの分類はそのシソーラスとしての価値を認められ、その精神は今日の百科事典に応用されている。大別すればライプニッツが理数系の人工言語への分かれ道を作っていったのに対し、ウィルキンズらは人文系の人工言語を進んでいったともいえる。 さてそのライプニッツの数学的な哲学言語であるが、まずいわゆる分類を行い、項目に数字を当てる。そして数字を子音に置き換えるという方法である。まず概念を数字で表した後に音素を当てるという方法である。ここで使われる数字は10進数で、百の位、万の位などといった位の概念は母音で表す。1から9まで順にb, c, d, f, g, h, l, m, nが当てられる。位については一、十、百、千、万の順でa, e, i, o, uを当てる。したがって12,345はbacedifoguを書き換えられる。位は母音が表しているのでこれをgufodicebaと置換しても構わない。 元々ライプニッツはウィルキンズのように話せて実用できる言葉を目指しており、普遍的な百科事典にも興味を示していた。実際ラテン語を簡単にしたような言語案も練っていた。ところが計算によって自由に命題を算出できる演繹システムを試みてからはもっぱら数学的な言語に没頭していった。
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現代言語論には大別して三つの視点がある。 1.形式主義と機能主義及び語用論 Frege(1849〜1925)に始まる言語論の潮流。 意味論について形式的なアプローチを取る特徴を持つ。 FregeからRussell、Russell(1872〜1970)からWittgenstein(1889〜1951)と続く。 この潮流は論理学に影響を与え、Wittgensteinの着眼は英米哲学に言語論的展開をもたらした。 2.精神分析 Freud(1856〜1939)に始まる精神分析学の潮流。 無意識について言及するのが特徴。 FreudからLacan(1901〜1981)、LacanからKristeva(1941〜)へと続く。 Lacan以降の精神分析においては後述のフランス現代思想とも密接な関わりを持つ。 3.記号学と構造主義言語学 Saussure(1857〜1913)に始まる記号学(構造主義言語学)の潮流。 この潮流はフランス現代思想と呼ばれる様々な思想の思想家や言語学者を内包する。 Hjemslev、Barthes、Tesniereなど。 また、構造主義言語学の潮流にはフランスのものとアメリカのものがあり、 生成文法を提唱したChomskyはアメリカ構造主義言語学の土壌にいた。 これに加え言語論の現代史においてHusserlの創始した現象学も重要な役割を持ち、 例えば語用論的視点から言語行為論を提唱したAustinとSearleに対しHusserlを批判的継承したDerridaが批判を行っている。 またMerleau-Pontyは言語の現象学について考察している。 参照:現代言語論(新曜社) 言語理論一覧(英語) テスト -- yuu (2020-11-28 03 37 55) ぴぽ -- ぴよ (2020-11-28 03 40 24) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/34.html
学問としての人工言語を論じています。非情に専門性の高い表現が出てきます。語調は論文体で統一しています。 人工言語の定義 人工言語と言語学 人工言語の類義語 人為性による人工言語の分類 先験と後験による分類 目的による分類 比較言語学的分類 類型的分類 黎明期(1) 黎明期(2) 黎明期(3) 普遍言語へ至る背景 普遍言語 架空言語・空想言語 普遍言語の成果 国際語・国際補助語 グローバル社会の人工言語 音韻論・音声 形態論・統語論 意味論 文字論 文化論 .
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言語学では人工言語を扱うことがないため、言語学の術語(用語)は必ずしも人工言語用に適していません。 そこで、独自に人工言語事典を作りました。 「副詞」や「時制」などといった基本的な術語は言語学のものを使っています。 コンセプトとしては、「特に問題なければ言語学のものを使い、適宜オリジナルの術語を設ける」というスタンスです。 副詞など、言語学にあるものはここで言語学的な解説しても仕方ないので、人工言語における副詞の記述を施しました。 副詞とはそもそも何かということについては専門書やウィキペディアなどをご参考にされるとよいかと思われます。 また、純粋な術語だけでなく、語形を長くしないで効率をよくする方法というような読み物も項として扱いました。 そのため、辞典ではなく事典としました。人工言語事典の記事は「だ・である体」です。 説明中で用いている言語は主に日英のほか、アルカとエスペラントです。 私はアルカの作者なので、当然最も詳しく知っているこの言語を例に取ることが多いです。 アルカについてはこちらをご参照ください。人工言語アルカ なお、言語哲学に関しては筆者の主観や経験を元にしていることをあらかじめご承知ください。 以下は総目録になります。 画面左上部の検索窓からサイト内検索を行うこともできます。 ●総論 人工言語における成功 ●類型論 普及型 演出型 研究型 ●音声学・音韻論 ●統語論 ●形態論 ●意味論 ●文字論 ●言語制作 学習効率 語形を長くしないで効率をよくする方法 ●言語哲学 語彙爆発 名詞の時代 客観の時代
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言語と文化 言語は文化から影響を受けます。 例えば、日本語は日本の文化や風土から影響を受けています。 日本人は米を主食にするので、「稲」と「米」という単語を区別します。 また、年功序列の厳しい社会なので、年齢によって兄と弟を区別します。 文化や風土はこのように言語に影響を与えます。 「狼」と"wolf"は生物学的には同じものを指しますが、「狼」は一匹狼のイメージから「孤高」な印象があります。 対して、西洋ではたいていwolfは残酷な動物という印象があり、童話などでは悪者として登場します。 こういう違いも人々の価値観や物の見方が言語に反映された結果です。 人工言語も言語ですから、文化と風土から影響を受けます。 たいては作った人の文化を継承します。 小説を書いている方で異世界の言葉を作りたい場合は、文化と風土も作っておくとより異世界の言語らしくなります。 「文法や単語は異世界のものだけど、ところどころ日本の文化や風土から影響を受けている」というのを回避することができます。