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親鸞
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目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた 15.仏法者の肉食妻帯(にくじきさいたい)是非論について ―― 非常に深遠なるお教えを、現代の世相、世情にまで敷衍(ふえん)してお説きいただきまして、ありがとうございました。現代の信仰者、あるいは、宗教者としても、また、真宗の僧侶学者の方たちであっても、今日の親鸞聖人がこのような人間の「善悪」論にもとづく信仰の真髄をお説きくださるとは、おそらく夢にも思っていなかったことだろうと思います。大いなる啓発であったとぞんじます。 ほかにおたずねしたいことも一、二ございます。これは、今では法の根幹に触れる問題ではありませんが……、当時においては、僧侶の肉食妻帯(にくじきさいたい)ということは、異形(いぎょう)なことであっただろうと思われますが、聖人様以来、真宗はもとより、他宗の憎まで、この"肉食妻帯"を否定はしなくなり、現今にいたっております。しかし、この肉食妻帯を「是」となさった当時の聖人様のお心のうちは、如何なるものがあったのでしょうか。その辺のご事情について、おうかがいいたします。 親鸞 この「肉食妻帯」に関しては、さまざまな議論がありました。こちらの世界、あの世においてもまた、議論が多かったのであります。 私もこちらに還って来てから、さまざまな宗教家たちから、ずいぶんとつめよられました。「親鸞よ、お前がために日本の仏法は滅びた」と。私は、ずいぶんたくさんの方から、このように言われました。私の時代以降、人間はほしいままにしても、仏のみうちに仕えることができるのだという、そういう考えを持つ人が、宗派を越えて増えてきました。肉食妻帯しているのは、決して真宗だけではございません。親鸞以降、他の宗派の方がたも、そうなったのです。そういうことにおいて、他宗を興した方がたからは、私は、ずいぶん批判を受けました。「お前の教えを信ずる者だけが肉食妻帯するのは、けっこうである。けれども、われらが教えを信ずる者までが、お前の真似をし、肉食妻帯をしておるではないか。そのおかげで、われらの教えが、だんだんと衰えてきたではないか」と。こうしたことを、私はずいぶんこちらで言われました。確かに、当たっていることもたくさんございますでしょう。 親鸞は、自らが重病人であり、重罪人でありましたから、自らがどうすれば救われるのかを、一生懸命考えており、また自らの罪のなかを生きておりました。世においては、要するに私は失敗者であったわけです。大失敗者であった。ですから、私は大失敗者の道を説いたのであります。大失敗者においても、逆転をする道、逆境を跳ね返す道があるということを説いたのが、私の教えでありました。それを間違えて、世に成功すべき人たちが失敗者の真似をし始めたら、これは世の中、困ってしまいます。こういうことを、ずいぶん言われました。 私は失敗者です。私は成功者だとは思っていません。失敗者である私が、神仏に近づく道を説いたのです。それを、成功しようとしている人が間違えてしまっているわけです。私は肉食をしました。妻帯をしました。ですから、私は人一倍罪深い人間だと思って、神仏への、「阿弥陀」への信仰をいっそう深めたのであります。これは、私にとって、一つの契機でありました。 しかし、単に肉食をし、妻帯をしただけで終わっていたならば、私はどっちへ行っているかわかりません。私はそれを契機として、神仏の信仰を深めたのです。世の中に、現われたさまざまなこと、さまざまな現象、さまざまな事件があります。ただ、それをどう咀嚼(そしゃく)し、どう自分の血肉にして、よき方向へ伸ばしていくかであります。修行者が単に肉欲に耽(ふけ)り、食道楽に耽っていくだけであれば、これらのものが行くのは地獄そのものであります。 親鸞は、堕落せよと言っているのではないのです。たとえ堕落した自分であっても、神仏を信じて立ち直りなさいと教えているのです。堕落せよとは言っていません。堕落を奨(すす)めているのではありません。そういう方がたは、自ら救いにくい急流に身を投じて、「では、救ってみろ」と言っている人と同じであります。これは何かと言うと、結局は、神仏を試しているのと同じです。悪魔の声と同じです。 悪魔がイエス・キリストの前に現われて、「汝、もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」「汝もし神の子であるならば、聖書にあるように、この丘の頂より飛び下りるとも死すことあるまじき」――このようなことを、悪魔はイエスに囁(ささや)きました。イエスはこのときに言いました。「汝の主なる神を試すなかれと、また聖書には書いてある」とイエスはそう答えたはずです。 同じであります。悪人だからといって悪を犯す人、堕落しても救われる道があるからといって、自ら堕落の道を選ぶ人、こうした人びとは、「石をパンに変えよ」と言った悪魔と同じであります。また、「神を試すなかれ」という訓(おし)えも忘れてはなりません。 ですから、今、宗教家のなかで堕落している者がいたならば、親鸞が教えを間違って理解して、堕落の奨めのように思っているかどうかを反省していただきたい。堕落、すなわち成仏と、私は言っているのではないのです。それはまた、神仏を試しているということになってしまいます。そのような騙(だま)しにのってはいけない。神仏は石をパンに変える力を持っているか――持っております。それだけの力は持っております。ならば、神仏はすべての石をパンにするか――これはしません。神仏は、必要のないことはしないからです。また、人間心で試してはいけないのです。それもまた、"バベルの塔"であります。神を侵さんとする考えであります。 一般的なことを申しましょう。肉食を断てば、地獄に堕ちるわけではありません。妻帯をしたとて、地獄に堕ちるわけではありません。それは確かなことです。ただ、欲をどうとらえるかということです。釈迦の時代にも、肉食はなるべく避けました。また、妻帯が、やはり妨げになるということは、釈迦も知っておりました。しかし、釈迦がやったことをそのまま真似てはいけないのです。そこには、やむを得ずしたことと、好んでしたこととの違いがあるのです。 釈尊たちが肉食をしなかった理由は、肉食をしていると煩悩(ぼんのう)がつのるからであります。肉食をすると、煩悩の働きが強くなる。しかし、なるべくこれを遠避けて、菜食にしたならば、体の活動がそう活発にならずに、瞑想に適した生活が送れる。このような一つの知恵として、肉食を断ったのです。ですから、肉食をすれば地獄に堕ちるとか、肉食をすれば悟れないとかいうことではないのです。それは一つの方法論であったわけです。肉食をしても、悟れる人はいくらでもいるのです。肉食をしても、けっこうです。それだけ厳しい修行をすればよろしいのです。 また、妻帯にしても同じです。夫婦相和して、信仰心があって、同じ神の道を求めるならば、妻帯することはいっそう信仰を強めることになります。今の世の中を見ていても、夫婦ともに同じ信仰を持って道に励んでいる人たちは、私たちの眼から見ていても、これは微笑(ほほえ)ましいものです。夫婦相和して神社で掌を合わしている姿、夫婦相和して一つの宗教を信じて一緒に努力している姿、夫婦相和して土曜日、日曜日にさまざまな人を導いている姿。こういう姿を見ていると、私たちは、非常に微笑ましく思います。雄の鳩と、雌の鳩が一緒に空を翔んだほうが美しく見えます。神様、仏様というのは、決してそういうことを否定はしていないのです。 ただ、これは一般的な手段であり、警告でもあったのです。肉を食べると煩悩がつのるので、なるべく避けたほうがいい、避けたほうがよいであろうということなのです。あるいは、妻を持つとなかなか修行がしにくいから、なるべく持たないほうがいいだろうということです。修行のなかには、"瞑想"があります。あるいは一人だけで、"坐禅"に耽ることもありましょう。神と対話するということは、やはり一人になるという必要があります。ところが、家庭を持つと、どうしても世俗のなかに紛れるという機会がある。しかも、理解のない人を妻とすると、それはまた、その道の非常な妨げとなります。しかし、理解をする人が妻であるならば、それはけっこうです。 妻帯のもう一つの問題点は、経済的な問題であります。男はいつの時代でも、やはり経済的な柱になるように期待をされております。そのときに、経済的な柱になる人が、神仏の道に走ると、神仏の道にはなかなか金銭的余裕というものがありませんから、その部分がむずかしくなる。結局、家庭不和になり、両方ともがどっちつかずになることが多いということもあるからです。 神仏の道を求めても、金銭的、経済的に苦労されない方は、恵まれた方でありますが、実際上は、むずかしい。このように、一般的に理解のない人が多く、理解のない妻が多いであろうということです。あるいは、夫がそれに走ると経済生活がうまくいかないであろうということです。こうぃうことを考えて、まあ、妻帯をしないほうが悟りはしやすいし、修行はしやすい。自由に働ける、と。こういうことがあったわけです。ただこれも、協力をしあっていけば、さらに素晴らしいものができることは当然です。肉食と同様です。 逆に、今の時代に菜食ばかりしていたら、全国各地を、巡錫(じゅんしゃく)して廻るのはむずかしいぐらいです。エネルギーがいるのです。豆腐と胡麻の油ばっかりを食べていたのでは、人間は活力がでてきません。それはあくまでも現象なのですから、それにとらわれてはいけないのです。そのほうが、ときには、悟りやすかったということにすぎません。現実にも、僧侶で悪妻を貰って、堕落した人はいます。あるいは、食べたいものをいっぱい食べて、全然努力をしない人もいます。 けれどもね、そういうことは、別に仏教の世界でなくても、仏の世界でなくても、普通のところにもあるはずです。普通の事務所でも、事業家でも、他の道を行く人でもそうです。結婚したために苦しいというのはね、音楽家だってそうです。音楽家とか画家とか、こういう道を求めている人たちは、結婚することによって、さまざまな問題がでてきます。しかし、それは何でも同じです。学問をする人もそうです。学者でもそうですね。独身時代には、貧乏であっても、本だけ買っていればよかった。ところが、結婚したばっかりに、さまざまな費用がいるようになって、そのため、本が十分に買えなくなる。だから、独身でいたほうがいい、と。こう考える学者もいます。まあ、そうしたものです。 ただ、これは、あまり一般的なことではありません。ですから、現代の人びとに言うならば、まあ、こういう時代ですから、結婚したほうがいいと私は思います。しかし、そうしなくてもいける方であるならば、神仏の道一筋でいったほうがいい。とはいえ、現実には誘惑も多い。実際、男と女が三十にも四十にもなって、いつまでも独身でいれば、誘惑も多いし、逆に、それが堕落の契機になるでしょう。また、世間のいろんな声が聞こえてきて、修行の妨げになることもあるでしょう。ですから、好ましい方法は、同じ道を求める者同士が結婚して、一緒に生活するということです。 そのためには、あなた方がしっかり努力することが大切です。「信仰を持つということは、普通の人間がすることなんですよ」「まっとうな人間が神や仏を信じていいのですよ」――ということを、あなた方がしっかり言うべきなのです。神仏の道を信ずるのは特殊な人間ばかりのような印象を与えているから、苦しいのです。これは普通の人、だれでもあたりまえのことなのです。そういうことを、あなた方が、しっかりと説いていただきたい。そうすれば、同じ道に入っていく人びとが多くなるでしょう。こういう宗教というものを、神や仏のことを悟るのが常識だとするような、そうぃう世の中を、頑張って早くつくってあげてください。馬鹿な科学主義ばかりが蔓延(まんえん)して、人びとを狂わしておるのです。そのような狂った人が多いから、本当の道を行く人が、間違った方向へ行ってしまうのです。 16.「他力本願(たりきほんがん)」の本当の意味 ―― 現代でも、「真宗」の方たちは、親鸞聖人のお教えの根幹にあるものは、"他力本願"の教えであるとしております。この"他力本願"ということについては、如何でしょうか。私は、この他力とは、自力に対する相対的な認識であるのか、それとも、この「他力」とは、自力、他力を超えた根源なるものの「絶対力」に帰依(きえ)するということを「本願」とみたてまつることが本来ではなかろうかと思うのでありますが……。 親鸞 これはね、時代によるものです。たとえば、私たちの鎌倉時代には、この世的には、あなた方が、今計画しているような「仏国土」をつくれるような状態ではなかった。ですから、この世に生きている人びとにあの世があるのだということをまず悟らして、そのことを悟った上で生きていく心がまえを説いたのです。この世に仏国土をつくるのはもうむずかしい、そういう末法の時代だった。したがって、せめてあの世で成仏してもらえるようにと、その心がまえを説いたわけです。 そこで、この世的なことを否定して、あの世的なものへと、他力へとなったわけです。ところが、現代のような時代では、あなた方の使命は、この地上に仏国土をつくることです。そうであるならば、この世を一途に否定して、あの世のことばかり言っているだけではいけません。この世も、あの世も、両方ともによくなっていかなければならないのです。ですから、この世をよくしていくためには、もちろん、各人の努力もいるでありましょう。 ―― つまり、時代背景、環境というものを考えなければいけないということですね。 親鸞 他力といっても、自力を排斥するものではありません。さきほども、私は言ったはずです。自ら泳いで岸まで渡っていける人は、それはそれで素晴らしい方です。それを批判するつもりはございません。自ら泳いでいける人と、救ってもらう人とがいて、みな岸辺に上がってくることができるのです。 岸辺に上がる、すなわち救われるとは、昔においては、あの世に成仏するということでした。浄土に入るということであったのですが、今の時代では、この世もまた、よくしていくという時代であるということです。 ―― 川の深みの急流へ、だれでもかれでもが入っても、"弥陀(みだ)"が救ってくださるのだから大丈夫だというふうに他力の教えを誤解してはならないというお諭(さと)しであったと思います。 また、これは、"神"を試そうとすることになるのと同じだと、イエス様のお訓(おし)えを通してお説きになられました。このように、ただ単に言葉だけにとらわれてはならないのだということでございましたね。 親鸞 そうです。キリスト教でたとえれば、アーメンと言えば救われるというわけではありません。ただ、アーメンのなかには、深いものがあるということです。神に帰依(きえ)するという深い気持ちがあります。他力なしの宗教はないのです。 すなわち、宗教とは、結局、死後の世界のことを教える学問だからです。死後のことを言わない宗教がありますか。死後のことを言わないのだったら、それは宗教ではないはずです。 それは、宗教ではなくて、そういう"道学"ですね、道学になってしまいます。 "処生訓"です。私たちが言っているのは、処生訓ではないのです。「宗教」でないものとの違いは、あの世の話があるか、ないかです。 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた ―― いろいろのお教えをありがとうございました。これは、親鸞聖人のお教えの本義を、現代人が現代的に解釈できる貴重なお説であったと、このように思います。 現代において、浄土真宗の方がた、あるいはまた、親鸞聖人をお慕いしている方がたが、親鸞聖人の"真宗"の教えというものを本当に理解できるということをわからせていただいたということは、おそらく今回のご霊訓をもって最初となったであろうとぞんじます。 親鸞 ですから、私は、現代の人に『南無阿弥陀仏』を唱えなさいとは言いません。ただ神仏の大いなる慈悲、力というものを忘れるなということです。科学万能に陥ってはいけない。神仏の力、大いなる慈悲というものを忘れてはいけないよ。それほど自分を過信してはいけないよ、と。私は、そう言いたいのです。 親鸞より前に、過去世において、私は、イエスの弟子のパウロとして生まれたことがございます。そのときにも、私はそれを説きました。「人びとよ、増長慢(ぞうちょうまん)になるな。自分の力でこの世的なことをやっていけると思うな。神の力は偉大なものなのだ。もっと信仰しなさい」と。 私は、いつの時代に生まれても、信仰の大切さ、信じるということの大切さを教えているのです。信じるということなくしては、あの世のことはわからないのです。私は、「阿弥陀如来」がだれであるとか、そうしたことを言うつもりはありません。ただ、神仏はあり、神仏の側近き高級霊はあるのだということ、これを信じなさいと言いたいのです。 科学的に解明できるまでは、信じないとかいうのは、間違っています。これは証明できることではないのです。学問ではないのです。あの世のことは、手に取るようにはわかりません。だからこそ、信じること、信仰ということが大事なのです。私たちが言っていることを、どうか信じていただきたい。 パウロとして生まれたときに、私は、「贖罪説(しょくざいせつ)」を言いました。すなわち、イエスの死によって人びとの罪は贖(あがなわ)れたのだと、そう言いました。しかし、これも、私の「悪人正機説」と同じように、のちの世にいろいろと誤解をされておるようです。私がパウロとして生まれていたときに言った贖罪説もやはり同じです。つまり、イエスという偉大な方がでて、神の力というものをお示しになったのである。こういうお示しになったということを、信じることによって、人間は救われていくんだ。信仰が大事です、と。結局、親鸞は、同じことを言っておるわけです。 私の言ったのは、要するに釈尊の慈悲の意味を、また、当時の鎌倉的なるものを、現代的に説明したということなのです。今の時代でいうならばどうなるか。それを、あなた方は、今、担(にな)っているのです。 あなた方は、釈尊が説いた慈悲を、今説くとするならば、あの世の世界の神秘、その仕組みがあるために、この世がこのようになっているのだということを、しっかりと人びとに説く必要がありましょう。 ―― 本日は長時間にわたり、ご高説を賜り、ありがとうございました。――合掌
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しんらん 自作 「浄土宗」の開祖は法然ですが、悪人正機説を唱えた「浄土真宗」の開祖は誰でしょう? (2011年4月16日 漢字二文字クイズ ) タグ:社会 Quizwiki 索引 さ~と 法然 浄土真宗
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目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた (1986年8月6日の霊示) 1.なぜ「悪人正機(あくにんしょうき)」を信じたか 親鸞 親鸞でございます。 ―― 過般はおでましを願って、いろいろとお話をうけたまわったのでございますが、あれからもう四、五年にもなりましょうか。その当時は、私どもの「正法」伝道に対する心がまえと申しましょうか、取り組み方において、いまだ定かなものを持ちねし、大変失礼をいたしました。 さて、すでにご承知かともぞんじますが、この霊天上界よりの霊言集も何巻もの発行をみるに至りました。そういうわけで、諸聖賢よりの神理のお言葉を聴こうとする読者の数が日本国中に大きく拡がりまして、この際、親鸞聖人のお教えをぜひうけたまわりたいという声が多々でてまいりました。 そこで今回は、私どもといたしましても、親鸞様から、人の生きるべき道について、とりわけ、親鸞様の時代から七百年たった現代における今日的凡愚(ぼんぐ)への救いについて、さらには、その悟りの境地について、往時のお考えをも交えてお教え願えれば幸いとぞんじております。この辺を、お願いできましょうか。 親鸞 親鸞は、一向に進歩はしておりません。親鸞は親鸞、あなた方が思っているように、著しい進歩をしている人間ではありません。七百年前も親鸞は親鸞、その前も、その後も、親鸞は親鸞でござる。わが心性は変わっておりません。 したがって、世の人びとが、親鸞らしき言葉をほしがるというのももっともであります。私は、進歩がない人間です。私は私として、ただ一筋に、自分の念(おも)いのままに、想(おも)うがままの道を生きるまででござる。親鸞はあくまでも親鸞、にわかに、親鸞以上の親鸞にはなりません。親鸞はあくまでも愚禿(ぐとく)親鸞でござる。賢くなってもおりません。悟ってもおりません。 このような親鸞の考えでよいのであるならば、いくらでもご披露(ひろう)いたしましょう。ただ、それがあなた方の満足のいくものかどうか、地上の世の人びとの満足のいくものであるかどうかは、私にはわかりかねます。しかし、世の人びとが、今、親鸞を懐(おも)う気持ちがあるならば、親鸞の思想どこにありやと思う気持ちがあるならば、それに応えることを惜しむような私ではござらぬ。 私は生きていたうちにも、それほど熱心に布教したわけではござらんし、それほど弟子の養成をしたわけでもござらぬ。親鸞は親鸞としての信念のうちにただ生きたのみ。それを他の人びとが、世の人びとが如何に見たかは、彼らの側の問題でござる。ただ、その親鸞のものの考え方が、現代のあなた方から見て不可解であるならば、私は私のわかる範囲で語りつくそうと思います。すべてを語ろうと思います。 ―― 私自身も、親鸞聖人様の真宗のご教義そのものの真髄というものは、いまだ把握いたしかねているものであります。まったく不勉強の至りと申さねばなりません。しかるにもかかわりませず、世の人びとが、私どもを介して、親鸞聖人様が本当の教えをお説きくださることを直(じか)にお聴かせ願いたいとの声が強くありますために、不肖にもかかわりませず、現代の世に道を探(たず)ねて生きる方たちになり代わりましてあえてお尋ね申し上げたいとぞんずる次第です。 そこで、これからお話中、このことについて、すなわち、この問題についてどのようにお考えでしょうかということをお尋ね申し上げることがあるかとも思いますが、これはご法についての私個人の質問ではありませず、ご法論をうけたまわり、その理を解しようとする人びとのお願いであるということをご賢察(けんさつ)賜わりたいのです。お訓(おし)えのほど、よろしくお願い申し上げます。 親鸞 わかり申した。まず、何からお話しいたしましょうか。 ―― 親鸞様のご書には、「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」などがございますが、なかでも多くの人びとに読み親しまれている、お弟子様の唯円上人が書かれている、「歎異抄(たんにしょう)」のなかから、いささかおうかがいいたしたいとぞんじます。 親鸞 けっこうでござる。 ―― あの「歎異抄」のなかにはいろいろ書かれております。聖人様ご他界後において、同信の方がたにおいても、聖人様のご意思に離れた信心を称(とな)えるものがでたとのことで、これが歎かわしく、唯円上人が直々に、聖人様とのお物語りなどのなかから、信心の本当の姿を説きあかしたものでございますね。 この「歎異抄」は、七百年の歳月を経ました今日におきましても、高校、大学生を始めとする多くの人びとに愛読されております。これが人生の教えとして受けとめられる以前に、ともすれば教養の書、知識の書として受け入れられているということもまた、事実であります。 すなわち、今日におきましては、人の生き態(ざま)の導きの書とはなりかねているように思いますので、この際、今一度、「人の生き態とは何たるか」を聖人様のお言葉を通してお示し願えればありかたいとぞんじますので、よろしくお願いいたします。 親鸞 まず話の糸口としては……。 ―― こと、それとその教えのもととなるものは、いわゆる「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」でございます。『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』の一節でありますが、キリスト教にもこれに似たイエス様のお教えがあります。『富める者の神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔(あな)を通るかた、かえって易し』と。これらのお教えには、相通じるものがありましょうか。 親鸞 ある意味においては、同じくするものであります。とかく仏法を求めている人というのは、偉くなりたい、悟りたいと希(ねが)うものであります。そして、仏の教えを理解すればするだけ、自らが偉くなったがごとく、宗教天狗となっていくのです。 そこで、私は警告を発したのです。鎌倉時代においては、もはや仏教は形骸化(けいがいか)し、当初の釈迦の教えは、末法の世となり、正しく伝わってはおらず、諸宗派相競って釈迦の何経が正しいとか、こういうことばかりをやっておったのです。この教えこそ真の教え、こちらは違うと、こうしたことばかりをやって、学者が議論をしておったのです。 しかし、考えてもみなさい。仏の教えというものは、いわば総合的な人間学でござる。すべての学びの本でござる。今の世でいうならば、学問にもいろいろござろう。英語であるとか、国語であるとか、社会であるとか、理科であるとか、さまざまな学問がある。そのうちの英語だけをすれば、人間は完成しますか。数学だけを学べば、人間はそれでいいのですか。国語だけをやっておれば、世の中のことがわかりますか。理科の実験だけをやっていて、世界の仕組みがわかりますか。そうしたものではないはずです。人間が学ぶべきこととは、学びの根本の精神を酌(く)みとって、さまざまな角度から考えていくことです。 ところが、当時の教学は、仏説の真理を判断し、これこそは真説、経文のこの意味はこういうこと、こうしたことが悟りであるかのごとく誤解されていたのであります。しかし、今から二千五百有余年前に、釈尊(しゃくそん)が説いた教えは、そのような学者相手に説いたのではござらぬ。 釈尊の時代は、インドもまた、戦乱の世でありました。戦乱の世であったからこそ、人びとは真なるものを求め、本当の「ブッダ」(悟れる者)の教えを求めておったのであります。そうした世が乱れ、仏法が衰えた、本当の神理、神の教えが衰えたときであったのです。したがってまた、釈尊の時代も当時としてみれば、末法の世であったわけです。末法の世だからこそ、末法の世を建て直すがために、釈尊がでられ、人びとを導かれたのではないでしょうか。 また、われらが時代、鎌倉時代においても、仏の教えの真髄は失われ、世は戦乱の時代となり、人びとは慟哭(どうこく)し、動乱の時代であったのでありますが、そうしたときに、かつての仏教が、かつての仏典が、釈尊の時代のバラモンの教典のようには知識化し、学問の対象となっていなかったのです。 ですから、あなた方から見れば、私がやったことは、あまりにも簡単すぎる。どんな人間でも救われる、弥陀の本願を信じて疑うなというような教えは、現代のあなた方から見れば、ずいぶん幼稚な理論だと思えるでありましょう。しかしこれは、一つの悟りに至るための精神棒であったということであります。 はたして、釈尊は二千五百有余年前にインドの衆生(しゅじょう)に対し、そんなむずかしいことを説かれましたか。そんなむずかしい、専門的なことを説かれたでしょうか。鎌倉時代には、もはや仏教は、専門の学問と堕(だ)しておりました。むずかしい漢文を読めなければ、人びとは救われないのですか。釈尊の時代には、そんなむずかしい古語を読めたような人を相手に教えておりましたか。 釈尊が教えていた相手は、当時のインドの民衆でありました。そうした方がた、戦乱のなかで救いを求めていた方がたでありました。そうした方がたに説いた教えであるならば、なぜそんなむずかしいことがありましょうか。釈尊は、そんな知識を得なければ、救われないというようなことを言ったのでしょうか。 当時のバラモン階級、貴族階級は、余裕があったために、さまざまの学問を学び、古(いにしえ)の教えに接したでありましょう。しかし、下層階級の人たちはどうですか。奴隷階級の人たちはどうですか。商工人たちはどうですか。彼らには、古のむずかしい教典を学ぶような、そういう余裕がありましたか。そういう時間がありましたか。そういう機会がありましたか。ありはしないです。 ですから、釈尊は、そういうバラモンの僧を相手に法を説いたのではありません。釈尊が説いたのは、一般民衆に対してであります。であるならば、釈尊の本意はどこにあったか。貧しい人びと、迷える一般の大衆たちをも救えるような教えにあったはずです。ところが、それが漢訳され、中国に伝わり、またその漢籍(かんせき)が、日本に伝わるにあたって、そのようなむずかしいものとなり、何経が正しいとか、そのようなことを言っておったのであります。 日蓮聖人から見れば、念仏で救われるなどということは、堕地獄(だじごく)の業(わざ)かもしれない。教学をやった人間から見れば、確かにそうであろう。釈迦の本説を読みもしないで、なぜ救われるかと、そう思う人もいるであろう。しかしそれは、当時のインドでいえば、バラモンの悟りなのです。仏説を知力で学んで、そして悟るというのは、バラモン階級、貴族階級の悟りなのであります。しかし、釈迦の本意はそこにはなく、釈迦にとっては、庶民を悟らしめることが、本当の気持ちであった。真のお気持ちであられたはずです。 では、釈尊は如何にして、人びとを導かれたのであろうか。釈尊は、おおいなる慈悲を説かれた方であります。慈悲とは何でありましょうか。慈悲というのは、父母が幼児(おさなご)を見守るような眼で人びとを見る、それが慈悲ではないのですか。幼い者を護(まも)る、幼い者を愛する。幼いものを導くということが慈悲ではないのですか。 釈尊の教えは、百万言費(ついや)そうとしてもわかりません。その仏門にはさまざまな道があります。何百何千の入口があります。それを究(きわ)めつくすことはできません。ただしかし、釈尊の教えを一言で言い切るとするならば、「慈悲」であります。つまり、釈尊は、慈悲を説かれたのであります。慈悲は、何人(なんぴと)に向けられたのですか。迷える衆生であります。迷える人びとであります。悟ろうとしても悟れない、そういう人びとに対して慈悲が向けられたのではないですか。釈尊は、その慈悲を説いたのではないですか。 では、鎌倉時代に、慈悲を説いた方がおりますか。日蓮聖人は慈悲を説きましたか。日蓮は、知力による悟り、その悟りにもとづいた生き方、これを主張しました。道元禅師は、どうですか。道元は、坐禅を説きました。そして、むずかしい哲学を説きました。その道で満足できる方もいらしたでありましょう。しかし、それは慈悲ではないはずです。 他の方がたはどうですか。天台の教学をやった方がたはどうですか。彼らは、本当に慈悲を知っていましたか。天台智覬(てんだいちぎ)は偉い方でありましたでしょう。しかし、天台智覬のいうむずかしい学問的仏教を、一般の人たちは理解できたでしょうか。そうしたものを学んだ比叡山の延暦寺ですね、彼らの教えをどうして民衆がわかりましょうか。釈尊はただ"慈悲"を説かれたのです。しかし、だれもその慈悲を説こうとはしないのです。私は、これは一つの問題点であろうと思いました。 慈悲さえ説けば、釈尊の本意は伝わるのであります。そうであるならば、私はその慈悲を説こうと考えた。では、鎌倉時代において、慈悲とは一体何でありましょうか。世は乱れ戦乱であります。宗教は末法であります。人びとは、何がどうなっているのかわかりません。人びとはいつも、死後の恐怖に戦(おのの)いていたのであります。当時は、今の人たちよりは、死後の存在というものを信じておったのです。 今の世の人びとは、死後の世界はないのだ、魂の世界はないのだ、と。とくに知識人といわれる人は、そんな愚かなことを、したり顔をして言っておるのです。しかし、当時の民衆は、死後の世界を信じておりました。現在のように唯物的なものの見方をする人などおりませんでした。みんな、死後を知っておりました。そして、死後の世界には、天国と地獄があるということも知っておりました。これは、当時の民間信仰においては、常識であったのです。 2.弥陀(みだ)の誓願(せいがん)の意味 親鸞 天台の教学を学ばなければ天国へ行けないのであるならば、下層の庶民は、地獄へ堕ちることはもう決まっているはずです。彼らはそれで、戦々競々(せんせんきょうきょう)とした毎日を送っておったのです。善行をすれば救われるといっても、このように世が乱れた時代に、如何ほどの善行ができましょうや。善行をするどころか、悪行を犯そうと思わずしても、犯してしまうような世であったのであります。罪を犯そうと思わなくとも、犯すような世であったのです。 では、そうしたときに、庶民大衆を救う教えとは何でしょうか。何百万もの人が、それを聴いてわかるようなやさしい教えでなければいけないのです。今のように、学問が進み、大学をでている人が多い世の中ではないのです。学問などないのです。読み書きができれば、よいほうであります。大部分の人たちは、つまり、人口の七割、八割の人は、読み書きすらできなかったのです。自分の名前さえ書けない人も多かったのです。 こういう人びとを導くには、ただ一転語をもって、その人を悟らしめる以外にはないではないですか。そうでしょう。釈尊が慈悲を説かれたのであるならば、鎌倉の時代に慈悲を説けばどうなのか。私は日夜学びました。釈尊が鎌倉の時代にでておられて、この衆生の迷いを見たら、一体何を説かれるだろうか。釈尊は、仏の救いということをやはりお教えになるに違いない。あなた方はみんな救われるとお教えになるに違いない、と。なぜならば、慈悲とは、父や母が幼児(おさなご)を見るようなやさしい眼で見守ることをいうからです。あなた方は、自分の子供が、たとえば二つ三つの幼児が、悪いことをしたからといって、それを罰しようと思いますか。幼児は、まだ善悪がわからない。ものごとの判断がわからないのです。言葉を発することも困難なのです。ただひとこと、乳がほしいとか、ご飯がほしいとか、喉(のど)が乾いたとか、そうしたことを言えるだけの幼児であります。そのような幼児に、これを学ばなければお前は一人前ではないと、あなた方は鞭(むち)打てますか。父母の心をもってすれば、鞭打てないはずであります。これが神仏のお心であります。 私の時代には阿弥陀信仰というものがありました。すなわち、「阿弥陀経(あみだきょう)」というものがあって、阿弥陀仏が人びとを救うために、四十八の"発願(ほつがん)"をされたのであります。阿弥陀仏は、人びとを、衆生(しゅじょう)を救うために、修行に修行を重ねて、「この四十八願がかなわないならば、わが命を奪い給え」と、そこまで覚悟されて修行に打ち込まれた。それだけの願いがありました。そのなかにおいて、阿弥陀如来は「衆生を救う」ということをはっきりと言っておられます。「どんな人であろうとも救う」と言っておられる。あなた方人間であるならば、よい人を救い、よくない人を救わないのは簡単です。しかし、神仏のおおいなる眼から見たら、人間は平等であります。神仏というものは、ある意味では、泳ぎの達人であります。 もしあなたが泳ぎの達人だとして、川で人が溺(おぼ)れているときに、あなたはその人が善人だから、悪人だからといって、救うか救わないかを決めますか。あなたは泳ぎの達人なのです。あなたは、よいですか、日本一の泳ぎの達人であります。日本一の泳ぎの達人がいて、そこに子供が溺れておるのです、川に。 川に流れはあるでしょう。普通の人であるならば、自分が溺れることもありましょう。しかし、あなたは日本を代表するような泳ぎの達人であります。そして、その眼の前で、子供が溺れておるのです。助けられないわけはないではありませんか。 あなたは、その子が品行方正な子供か、それともおいたをしている子供かによって、救うか、救わないかを決めますか。決めないはずです。その子の通信簿を見て、オール「5」だから救うのですか、オール「1」だから救わないのですか。そうではないはずです。 神と人間とは、それだけの差があるのです。神が、私たち人間のような差別知でもってものごとを見ているならば、神は好き嫌いでもって人間を救う、救わないを決められるでしょう。しかし、そうではないのです。泳ぎの達人で、神仏が現われるならば、必ず救ってくださるはずです。 親鸞は川のなかにあって、溺れる者たちのなかにあって、私もまた、川に流されていた一人の人間でありました。私は川のなかで流されておりました。自らを救うこともできずに、流れておった人間であります。そのとき、同じく浮きつ沈みつ流れていた多くの人びとがおったのです。しかし、親鸞には救うことはできません。 けれども、よいですか、「神は、神仏は、阿弥陀如来は、必ずあなた方を救ってくださるよ」と、親鸞は、泳ぎつつ人びとを励ましたのです。この教えに、何の誤りがありましょう。必ず救ってくださるはずです。人びとよ、その教えを信じなさい。私は、こう説いたのです。 私もまた、むずかしい教学を学びました。むずかしいことを言って、それで人びとが救われるものであるならば、私はそれも言いましょう。しかし、慈悲はそうではないのです。人びとは、何百万、何千万という人びとは、川のなかを、浮きつ沈みつして流れておったのです。今にも溺れかからんとして、息も絶えだえに、流れておったのです。そこで、親鸞は声をだし、「皆様、私はお助けはできませんが、きっと神、神仏は、阿弥陀如来は、皆様をお助けくださると思います。なぜなら、阿弥陀如来は、泳ぎの達人でいらっしゃるからです。ですから、そのお力も並はずれたものであります。きっと救ってくださるに違いありません」と説いたのです。 現に、阿弥陀如来は、人びとをお救いになられるからです。これが釈迦の慈悲でなくて、何でありましょう。もし釈迦が鎌倉の時代に生まれたならば、きっと私と同じ教えを説かれたでありましょう。浮きつ沈みつしている子供に、「お前が善人なら救ってやろう」と釈迦が言われたでしょうか。お前の通信簿がオール「5」であったら、救ってやろうと言ったでしょうか。日頃の学びにおいて、オール「5」を目指しなさい、品行方正な子供になりなさい、と教えるのは簡単です。それは、そのとおりです。学校でも、そう教えます。しかし、事態を見極めなさい。激流のなかで浮きつ沈みつしているときに、そんな道徳論を言っておれますか。まず、救うことです。それが先決です。 3.イエス様の救いの喩(たと)え話 親鸞 イエス様の教えにも、同じようなものがあります。これから話すのは、イエス様の教えのなかの喩(たと)え話です。 ある愚かな人が、道に倒れておりました。そこに、ある人が通りかかって、その者に語りかけました。そうするとその者は、「私は脇腹に傷があって、血がでています。歩けません」と、そう言いました。すると、そのある人は、「ああ、私の手には負えないな。そのうち向こうから医者がくるだろうから、その医者が救ってくれるであろう」と、見て見ぬふりをして、先へ行きました。 そこへまた、次の人が来ました。愚か者は、まだ血を流して苦しんでいます。次の人は、病んでいる者から、「助けてください」と言われたのですが、「いや、君は病院へ行けば治るよ」と言って、そのまま通り過ぎてしまいました。 三番目の人が来ました。三番目の人も、その病んでいる人を見ました。この人は、宗教家でありました。その人は尋ねました。 「あなたは、怪我をしているのですか」 「しています。血が流れています」 「あなたは、何教を勉強されていますか」 「私は異教徒です」 「あなたは、キリスト教に改宗しなければ教われません。まず教会に行って、キリスト教徒になりなさい。そうしたらお助けいたしましょう」 その宗教家は、そう言って、通り過ぎて行きました。異教徒は救ってはいけないと思っていたからです。そこに、たとえばイエス様が通りかかったとしましょう。イエス様はどうされるでありましょう。イエス様は、まず何も言わないで、すぐに傷の手当をされるはずです。その病の人を救おうとして、その病の者を担いで、次の宿まで、宿場まで運んで行かれるはずです。 そのような重病人に対しては、まず何を言うではなくて、命を救うことが先決なのです。血を流して苦しんでいる人に対しては、まずその傷の血を止めることが大事なのであります。そうではなくて、その人を救う専門家がいるだろうとか、あるいは、その人の教えが、考えが間違っているとか、そんなことを言ってはいけないのです。それは神の御意(みこころ)ではないのです。 よいですか、私の今の喩(たと)え話を、これはキリスト教で言われている喩え話でありますが、よく覚えてほしいのです。 4.釈尊(しゃくそん)の「毒矢の喩え」の教え 親鸞 鎌倉時代において、何教でなければ救われないと言っている人は、お前はクリスチャンでなければ、教会に登録しなければ救ってあげられないと言っている宗教家と同じなのです。そのようになってはいけません。どのようなものであっても、救われねばいけません。それが神の御意です。神様がでられたら、必ずお救いになります。その人の品行方正、そんなことは何も言いません。きっとそのはずです。 釈尊にもまた、同じ考えがあります。釈尊には、「毒矢の喩(たと)え」という教えがあります。 ある理論好きの人がおりました。その人が、釈迦に、問いかけました。「ここに毒矢に射たれた人がいる。そして、毒がまわって死にそうです。このとき、あなたはどうされますか」と。そこで、釈迦は、「まず、命をとり止めることが先決である」とそういうことを言いました。ところが、その理論家は、嘲笑(あざわら)って、こう言ったのです。 「あなたは間違っている。まず、その矢がどこから飛んできたのか、そして、何の毒が塗ってあるかがわからなければ治療はできないではありませんか。ですから、どこから飛んできて、何の毒が塗ってあるかを知ることが先決で、それからでなければ、救うことはできないはずです」 釈尊は、そのときに、言葉に窮したかのように黙しておられた。黙っておられたとのことです。 しかし、釈尊の真意は、そんなところにあったのではないのです。まず、生命をとり止めねばいけない。矢がどこから飛んできたか、毒が何であるか、そんなことはあとのことだ。まず、傷口をふさいで、包帯をして、命をとり止めることが大事だ。釈尊はそういうことを言ったのです。 これから、あなた方に対しても、いろいろな人がいろいろのことを言うでしょう。この矢の喩えのごとく、あなた方に「悟りとは何か」と言って、あなた方が高邁(こうまい)な理論で答えないのを嘲笑(あざわら)う人がいるでしょう。あるいは、あなた方が親鸞の説教を説いているならば、「浄土真宗のこういう本を読んでいるか」「こういう教義の本質を理解しているのか」と、こういうことを言う人がいるでしょう。 「親鸞は慈悲こそすべてだと言っています」と、あなた方が答えます。すると、理論家は嘲笑うでしょう。この彼は、仏教大学で、"浄土真宗"を専攻している人なのです。 「そんなものではない。親鸞の教えとは、そんなもんじゃない。親鸞は、こんなことを言っている。あんなことを言っている。歎異抄で唯円が書いているが、ここは親鸞の考えを理解していない」 このようなことを、彼は、ああでもない、こうでもないと言うでしょう。ただ、よいですか、本当は、人が救われればそれでよいのです。学問的に、その理論の正否ではないのです。毒矢のごとく、まず、毒矢に当たっている人を救わなければならないのです。その人が何の階層に属しているか、矢がどこから飛んできたか、どんな毒か、こんなことは、関係ないのです。 釈尊は、当時において、ある人から、「悟りとは何か」、あるいは、「宇宙とは何か」というような質問をされたことがあります。しかし、釈尊は、答えなかった。そこで、それを、後世の人たちは、釈尊は宇宙は何かがわからなかった、悟りとは何かが一言で言えなかった。だから、まだまだ勉強が未熟だったのだと、評したりしました。 しかし、それは、違っているのです。毒矢です。まず、命をとり止める必要があったのです。私たちの時代においても、毒矢に当たって苦しんでいる人がいっぱいいたのです。ところが、そのときに、矢がどこから飛んできたかがわからなければ人は救えないとか、毒の種類がわからなければ救えないとか言っている人がいっぱいいました。他の宗教家たちです。 矢がどこから飛んできたかがわからなければ救えないとは、どういうことか。これは、ある人が悩んでいても、その原因がどこにあるのかわからなければ、その人は救えない。あるいは、毒の種類がわからなければ救えない。まず、それを知ってから手当をしたらいいだろう、とこういうことを言っているのと同じです。矢が当たって、血が流れているなら、まず、止血(しけつ)をしなければいけない。血を止めるのです。腕に矢が当たったなら、矢が当たった腕の心臓に近いところの上を縛りあげて、止血し、そして、矢を抜かなければなりません。それが第一であります。 親鸞が教えとは、かくのごときものです。私は、矢がどこから飛んできたかは知りません。敵の矢か、味方の矢かどうかもぞんじません。その毒が何の毒か、ハブの毒か、あるいは、他の鉛の毒か、私は、そのようなことは知りません。ただ、矢に当たった人がそこにいるのであるならば、一秒でも早く止血し、手当をせねばならぬ。ただそれだけです。 親鸞が教え、親鸞が弥陀の本願、念仏と申したのも、ただ、矢が当たったら、まず応急処置をしなさいということです。その教えは、すべてではありません。まず応急処置をして、命をくい止める。それが先決です。そして、そのあとにおいて、さまざまな研究をすればよろしいでしょう。毒の性質を研究すればよいでしょう。そうした人もいるでしょう。それはそれでよろしい。 ですから、私が今から数百年前に説いた教えというのは、人びとに本当の信仰とは何かということを教えることでした。阿弥陀如来という神仏の偉大なる化身がおられて、日夜あなた方を救うために努力しておられるのですよ、と。そういうことを私は言いたかったのです。そのことを知りなさい。そのことを悟りなさい。それだけであなた方は、一命をとり止めることができるのです。 これは専門的な治療ではないかもしれません。しかし、あなた方は毒矢に当たって苦しんでいるのですから、まず命、これを救わねばなりません。それは、仏のおおいなる慈悲を知ることです。あなた方にとっても、そうです。現代人にとって、悩みの種はつきません。しかも、自分だけで解決しようとして、迷路に入っていってしまうのです。 5.自力論者は泳ぎの達人 親鸞 なぜあなた方は、この世界が、神仏のつくられた世界だということを理解しようとしないのですか。この三次元、すなわち、現象世界だけがすべての世界ではないのです。神仏はあなた方のすべてをしっかりと見ておられる。そうであるならば、なぜ彼らにおまかせしようとしないのですか。なぜ人間心で、いろいろとああでもない、こうでもないと出口を求めて狼狽(ろうばい)するのですか。なぜ神仏のご慈悲というものにおまかせしないのですか。 もちろん、自力で救われる人はおります。しかし、自力で救われるということは、もう信仰は必要ないのです。自力信仰であるならば、これは自分を信じるということであり、自己確信と同しであります。どんな難局があっても、自分で切り拓いていける人であるならば、そういう人はよろしい。そういう人は泳ぎの達人です。 泳ぎの達人は、いくら水泳の名選手が岸辺にいたとしても、その人に救われようとはしません。彼は自分で泳いで岸に上がって来れるのです。そうではありませんか。水泳の選手が、水泳の選手を助けはしないのです。泳げない人だからこそ助ける必要があるのです。自力論者は、すなわち、優れた人びとにとっては、まさにそのとおりでありましょう。優れた人びとは、神仏が手を下すまでもなく、自らを救っていくのです。そうした方がいることを親鸞は知っております。 彼らが自分自身で救えるならば、弥陀は力を発揮する必要はありません。自分自身のなかなる仏性を信じて、立ち直っていける方は、強い方であります。そうした方は、自分で救っていきなさい。弥陀もそれを喜ばれるでありましょう。けれども、自らが溺れている人には、それは無理であります。 あなたは、水を飲んで流されている子供に、自力で自らを救いなさいと言えますか。自力で泳いで岸まで来いと言えますか。それは一見正論であります。しかし、自力で岸まで泳げる人であるならば、助けなどいりません。そうでないからこそ、助けが必要なのです。 私が救おうと思った人びととは、庶民の方がた、迷える人びとです。迷える人びとだからこそ、救いの手を差しのべる必要があるのです。だからこそ神仏のお心を教える必要があったのです。神仏は溺れている子供に、沈めとは言っていないのです。助けようと思っておられるのです。ただ、間にあわなくて、助けられないままに沈んでしまう方もいます。 けれども、そのお心を疑ってはいけない。神仏は溺れているあなた方を救おうとしておられた。そのことだけは忘れてはいけない。順番に溺れる者を拾っていかれる間に、沈んでしまう人もいます。すなわち、これが地獄に堕ちる人です。だから、とりあえず地獄に堕ちた人もいます。弥陀のお力が及ばなかったとはいいかねますが、地獄に堕ちる人もいるでしょう。 しかし、そうした人たちを、必ず救ってくださるのです。水に沈んだ子を神仏は助け起こして、岸辺まで拾い上げて、水を吐かせ、人工呼吸をしてでも救おうとされるのです。沈む前に救いたいのはやまやまです。しかし、沈む前に救えないこともあります。そのようなときには、沈んで、顔が土色になっている子供であっても、神仏というものは、水を吐かせ、人工呼吸をし、心臓のマッサージをして、お救いになろうとしておられるのです。 このおおいなる慈悲に気がつきなさいと、私は、これを教えたのです。私は、この教えに間違いはないと思います。自力の人は自分で救っていきなさい。それはそれでけっこうです。 私たちのような煩悩多き迷える衆生(しゅじょう)は、水を飲みながら泳いでいる衆生は、それで救えないからこそ、神仏にすがっておるのです。ですからあなたも、あなたの足にまとわりついてくる幼児を足蹴にはできないはずです。親もまた、同じです。 私が衆生に教えたのは、神仏は父であり、母であるということです。ですから、その足に縋(すが)りつきなさい。ひとえに縋りつきなさい。そう訓(おし)えたのです。あなたは、あなたの可愛い子が足に縋りついたとして、それを蹴飛ばせますか。両手で抱き起こすでしょう。人間は、神仏がつくられた子供なのです。神仏の分けみ魂(たま)なのです。なぜそのようにつれなく突き放しましょうや。 その子のお行儀がいいから、その子の這(は)い方がいいから、その顔つきがいいから、抱き上げる。あるいは、その子の顔つきが悪ければ、蹴飛ばす。そのようなことを神仏がなされるはずがありません。平等の"愛"というものを信ずること、これが信仰の根本なのです。 これを邪説という人もおりましょう。それならば邪説といっていただいてけっこうです。その方は、信仰の何たるかを知らない人であります。また、神の御意(みこころ)を知らない方です。その御意がどれだけ大きいか。それは、大人と子供以上の差があるのです。この世界をおつくりになり、この世界に生きとし生けるものをすべて送り込んだ方なのです。そのような偉大な方であるならば、助けを求めれば救ってくださるのは当然であります。それを単純だと言い、それを仏説を知らないというのならば、それでもけっこうです。 しかし、それを知らないで、知識をいくら学んでも意味がありません。信仰とは、弱き者を救うことです。強き人は、自ら救っていきなさい。自ら自分を救っていける人は、自らが教祖のような人です。自分教で自分を救えるのですから、そういう人は、自分を救っていきなさい。それでけっこうです。私の教えに何か疑問があれば、質問を続けてください。
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にくしょくさいたい 自作 戒律によって禁じられていたが浄土真宗では最初から許されており、明治5年に他の宗派でも解禁となった、 僧侶が動物性の食材を食べ、妻をめとることを漢字四文字で何という? (2017年12月9日 ひとみしりーず ) タグ:社会・その他 Quizwiki 索引 な~ほ
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二次元妻帯者の夜 Hz @ wikiへようこそ ポッドキャスト「二次元妻帯者の夜 Hz」の内容をまとめたページです。 絶賛作成中のため、コンテンツは不十分です 「二次元妻帯者の夜 Hz」について 「二次元妻帯者の夜 Hz」は二次元キャラクターを嫁に迎えた芸人3人による、 キャラ萌え中心アニメトークポッドキャストラジオです 【公式サイト】二次元妻帯者の夜 Hz http //2jigensaitaisya.seesaa.net/ 【出演】 アニメ会/西口プロレス:三平×2(@sanpeimihira) ゴールドラッシュ:どいちゅー(@doichu_goldrush) やさしい雨:松崎克俊(@yasacame)
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目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた 6.罪と罰について ―― 当時の社会情勢は、察するに余りあるものであったと思います。したがいまして、今、お話いただきましたような、真の悟りには達しないというようなことをお説きになられた方たちもおられましたでしょう。 確かに、現在の時代から考えましても、聖道門(しょうどうもん)をくぐられた方たちは、それだけの教義を理解するだけの知力があり、また、その知力、学問を身につけるだけの家柄でもあり、さらには、財力にも恵まれた商人、あるいは、武士階級、貴族など、いわゆる上流社会の方たちであったと思います。 しかし、当時のあの世で、さきほど聖人様もおっしゃいましたように、社会の大半の人は、文盲の農奴のような貧民であって、にべもなしに飢え、ゆえもなく殺されていきました。この多くの無力な人びとが、どうしてあの高度な学問、聖道門の教学を理解し得たでしょうか。そして、それを自己の悟りとし、成仏できたであろうか。と考えるときに、親鸞聖人様のあの『南無阿弥陀仏』の念仏唱名によって救われるというお教えに、庶民はおそらく随喜(ずいき)の涙を流して死んでいったであろうと思うのです。 翻(ひるがえ)りまして、現世にこれを考えますと、まあ社会情勢もいろいろ変わってはおりますけれども、ここで一つ考えられることがあります。つまり、現在のいろんな社会悪のなかで、自らの意思に反し、その社会悪に染まらざるを得なくなって染まってしまう。極度な悪となっては、人殺しまでもしてしまわなければならないような苦境に堕ちて、ついには、罪を犯してしまう。したがいまして、こういう人は、司直の裁きに遇(あ)って、現在、牢獄に繋(つな)がれているのであります。こういう人のなかには、やがて死刑の宣告が下される人もおるでしょう。 しかし、救いというものについては、現在、仏教の僧侶、あるいは、キリスト教の牧師が受け持っている教誨師(きょうかいし)という方がおりますが、こういう方たちが、死刑の刑期を前にした人たちのために、神仏の助け、救いというものを説いておられるようでございます。 それによって、その死刑囚の人が、活然と悟りを拓いて、今までの自分の犯した罪に対する懺悔(ざんげ)と、これから先の救いというものを神仏の慈悲にすがり、あるいは、天国浄土への往生を信じ、しかるのち、従容(しょうよう)として絞首台へ登っていくことができたというような、いろいろな事例を聴いております。そこに、魂の救い、神仏のおおいなる慈悲というものを感じるわけでございます。こういう人たちにあっては、もはやこの世の法、つまり、法律的にはどうにも救いようのないものでありますけれども、それでも仏の救いの掌(て)というものが残されているということをありがたいと思うのであります。 とはいえ、これは臨終にあたっての、この時点での、この人たちへの救いの掌であろうと思います。ただ思われることは、この事態に至るまでに、つまり、日常においてこれまでに至る間の、いろんな悩み苦しみというものに対する訓え、救いというものはないものかということであります。 これが言うなれば、宗教者の課題であろうと思うのですが、この人間生活の複雑化した現代社会においては、親鸞様がご存世になられたときはまた違う、いわゆるいろんな現代病というのがここにあるわけですが、どのようにお考えでございましょうか。聖人様は現代の衆生の悩みに対する救いというものは、当時のお教えによることがもっとも適切なお教えだとお思いになりましょうか。 親鸞 まず、言っておかなければいけないことがあります。それはすなわち、あなた方生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは、わからないということなのです。もし親鸞が、何が善であり、何が悪であるかということを言い切れる人間であったなら、親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて、「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。しかし、何が善で何が悪かは、人間ではわからないのでござる。これは、神仏のみが知っておられることなのです。 ですから、この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したといって死刑を宣告される者がいる。そのような者は、悪を犯す前において、決して幸せであったはずがありません。人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。そこで、その者は、その事実そのものにおいて、すでに罰せられているのです。人を殺そうという気持ちを起こすということ自体が、すでに罪なのです。そういう気持ちが起きたということは、その者はどれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものであります。 あなた方は、幸いにして、人を殺したいとまでは、思ったことがないでしょう。人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。ただし、人を殺したいとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。 しかし、人を殺そうと思って殺してしまった人は、その事実、もう消しがたい事実によって、すでに罰せられているのです。その人がそこに至るまでにおいて、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでありましょう。その人がそこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴がありましたでしょうか。その人のご両親、その人の兄妹、その人の親類、その人の先生、その人の友だち、あるいは、道行く人びと、そうした人びとは、その者に対し、慈悲深い行為をしてきたでありましょうか。情深く接したでありましょうか。そうではなかったはずであります。 その者は、すでに罰せられておるのです。死刑にされる前に、すでにもう罰せられているのです。ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。これは悪を重ねているようなものであります。すでに結果です。人を殺すということは、これはもう、死刑と同じです。生きている人間としては、仏性(ぶっしょう)の最悪のところまできているのです。仏性が最悪のところまできているのです。仏性が最悪に曇っておるのです。これだけでも罪です。 殺したいとまでは思わない人は、恵まれた人たちであります。そう思うということだけでも、もう罰せられています。その人は、人を殺す前において、その罪は、もう贖(あがな)われているのです。それだけ苦しんだ魂です。よくぞそこまで、苦しんだ。それを赦(ゆる)さないで、責め続けるのは間違っています。魂が苦しんでいるのです。 あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。人を殺したいと思うところまで、不幸ではないのです。実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。むしろあなた方は、同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。 また、人を裁く人がおります。善人だと思っておるのでしょうか。私は、職業が悪いとは言いません。ただ、警察官であるとか、検事であるとか、裁判官であるとか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。この人たちのなかに、悪はないのでしょうか。彼らのなかに、悪はないのでしょうか。彼らは、少なくとも人を殺す、殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。しかし、情心(なさけごころ)をもって接したでありましょうか。 人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。人間、人を裁くことはできないのです。すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。 外見を善人ぶることは、だれでもできます。いや、だれでもではないでしょう。しかし、できる人もいます。外見を、偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない、虫一匹殺さない人のように、とり繕うことは可能です。しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。 「汝らのうちで罪なき者のみ、悪を犯したことがない者のみ、この女に石もて罰せよ」とキリスト、イエス・キリストは言いました。キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、では、もう一歩進めて、「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、裁ける人は一人でもおりますか。あなたでも、裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 親鸞 私の悪人正概説は、一見奇異に聞こえるでしょう。悪人こそが救われるなどと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。善人が救われるのに、悪人が救われないわけはない。悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。しかし、このようなことを言って、普通の頭の人が理解できるとは、私は思いません。 それは逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。しかし悪人は、よいですか、悪人というのは、悪人であるということ自体で、すでにもう罰せられているのです。すでに魂は苦しんでいるのです。あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないのです。ないはずです。いくらあなたがつらい人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。彼らの魂は、そこまで苦しんだ、これが悪人です。 ところが、世の善人たちはどうでしょうか。自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。裁判官がそうです。彼らは法律をよく勉強して、刑法とかさまざまなものを知って、こういうことをしたらこの罰に相当することがわかっている。ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いておるのです。 それを知っている人は、自らの心のなかに悪がなかったかどうか、反省していただきたい。悪は、きっとあるはずです。心のなかに悪がある者が、他人の悪を責めるということは、私たちの世界、心の世界においては、一体どれだけつらいことであるかを知っていましょうか。わからないからこそ、責めるのです、人を。 よいですか、もし人の心と心が開けっぴろげにわかるならば、罪にうちふるえている人でさえ、それを裁かんとする人びとの心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。そこで、「あんたの心のなかにも、悪はあるじゃないか」と言えるはずです。そのときに、裁きができるでしょうか。善悪は、人間では決められないのです。決められないのにもかかわらず、現代の人間において、やむを得ず裁きをする人もいましょう。しかし、これからの人もまた、救うべき立場ではなくて、救われる人です。これは、何も、法の裁きをする人だけではありません。あなた方の大部分が勤めている会社というところにもあります。人間は、会社という組織のなかで偉くなっていきます。しかし、出世をしていく途次(とじ)において、そのなかには、それだけの悪を含んでいるはずであります。栄達した人のかげには数多くの泣いてきた人がいるのです。たとえば、重役となり、社長となれば、彼らは、すなわち偉い人だとみなされます。本人も偉い人だと思っています。 しかし、世に偉い人と思っている人は、その奥にどれだけ悪を含んでいるでしょうか。一体何人の人を苦しめてきたか、一体何人の人を人事で左遷(させん)してきたことでしょうか。平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かもしれません。金銭的にも不自由かもしれません。しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切ったり、人を左遷したりしたことはないはずです。つまり、そういうことは、立場上しなくてもすんだからであります。ところが、社長と仰(あお)がれるような人は、幾度人の首を切り、幾度人を左遷し、幾度いろいろな家庭に不幸を起こしたことか。しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っておるのです。そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由(わけ) 親鸞 親鸞が善人、悪人は、今の世で言えば、成功者と、そうでない者であります。こう言えば、あなた方にもわかるでありましょう。 神は失敗した人と成功した人とでは、どちらを救ってくださるでしょうか。自分の人生は失敗をしたと思っている人、一生平社員で終わった人、会社を首になって職を転々とする人、能力を持ちながらもその芽を伸ばせずして苦しんでいる人、あるいは、能力を持ちながらも家庭環境、病、事故など、さまざまな問題が起きて、その才能を発揮できなかった人。あるいはまた、若い人たちが今、野球というものにうち興じているが、才能を持った子供が、たまたま晴舞台で怪我をしたがために、プロの選手として活躍する機会を失う。こうしたこともあるのです。 神は一体どちらをいとおしいと思われるでしょうか。仏はどちらを救いたいと思われるでしょうか。答えはわかっています。すなわち、世の失敗者こそ、神仏が、両手にとって抱きしめたいと思っている人びとなのです。 悪人もまた、悩んでいる人です。悩んでいる人とは、失敗した人です。成功した人ではありません。成功した人びとは、自叙伝を書いたり、自分の成功談を人に話します。「俺はこうして社長になった」と。しかし、社長になったときに、どれだけの悪を含んでいるかです。その人は、それをおそらく生涯反省することはないでありましょう。そして、失敗者たち、成功しなかった人たちは、自分の人生は何とつまらない人生であったことかと思う。一方、成功者たちは、何と素晴らしい人生であったかと、そう思ってその人生を閉じるのです。 しかし、その後の世界においてはどうでしょうか。イエスが言ったとおりです。すなわち、イエスは、「己れを低くするものは、高くされ、己れを高くするものは、低くされる――」と言いました。そのとおりなのです。自らの悪を見つめ、自らの弱さを見つめ、自らの悩みを見つめ続けた人こそが、本当に神の愛を受けるにたる人間になるのです。自らを成功者だと思い、この世的に偉いと思っている人、自分を秀れた人、立派な人、善人だと思っているような人。こうした人たちこそ、この世を去ったときに、反省すべきことが多いはずです。 失敗者は、この世において、すでに反省をしておるのです。この世において、なぜ自分は失敗をしたのかということを、日夜考えているのです。しかし、成功者は、この世においては、なぜ俺は成功したのかという点だけを、日夜考えている。そして、あの世に還って初めて、反省を始めるのです。 世に総理大臣とかいわれる人びとも、そうです。歴代の総理大臣のなかには、今、地獄で呻吟(しんぎん)している者もおります。しかし、彼らには、その理由がわかりません。俺は、世のなかで登りつめた人間だ。日本で一番偉かった、一番の成功者だ。その俺が、なぜ地獄にいるのかと考える。すなわち、自らの成功のみを考え、自らの失敗を知ることが少なかったからです。しかし、この世で自らの失敗を見つめた人は、あの世で自らの失敗を見つめ続ける必要はないのです。一方、この世で自らの成功を追い求めた者は、あの世で自らの失敗を、心の世界における失敗を知る必要があるのです。それがわかるまでは、反省を続けねばならんのです。 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 親鸞 ですから、善人悪人とは、現代でいえば、成功者と失敗者です。私がもし、現代に生まれたら言うでしょう。失敗した方がたよ、人生に失敗した方がたよ、あなた方のために、神仏の慈悲はあるのです、と。成功した方がたよ、驕(おご)るなかれ、あなた方は、本当の成功者かどうかはいまだわかりませぬぞ。あの世に還ってみないとわかりませぬぞ。あなた方の成功のかげに、一体どれだけの悪があったか、一体どれだけの人が涙を流したか。それを知っていますか。私は、そう言いたいのです。 人間心で、どう生きることが神の御意(みこころ)に適(かな)うかをわかる人は立派です。その方は神の心に適った生き方をしてください。ただ、この世の人間には、何か神の意に適ったかはわからないのです。わからないのであるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。自らを成功者とするのではなくて、神仏の前に、謙虚な自分であろうではありませんか。 人を裁くような人間にならないようにしようではありませんか。人を裁くような人間とは、何でしょうか、それは、善人です。善人が、人を裁くのです。悪人は、人を裁けません。裁かれる立場です。善人が、人を裁きます。 言葉を換えましょう。成功者が失敗者を裁くのです。人生の成功者が、人生の敗残者を裁くのです。登りつめた人が、落零(おちこぼ)れた人を裁くのです。合格した人が、不合格の人を裁くのです。そうではありませんか。 しかし、私たちは、裁くような人間にはなりたくないものです。裁きには驕(おご)りがあります。神仏の心を分からない人間であるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。失敗者であってもよいではありませんか。成功者であることを祈るよりも、願うよりも、失敗者として自らの罪、自らの失敗、自らの弱さを徹底的にみつめて、どうしようもない自分であるならば、「神仏」のおおいなる慈悲に、任そうではありませんか。お願いしようではありませんか。 生きているうちに、このことに気がついた人は、死んでから気づく人よりも、私は素晴らしいと思います。その意味においては、"悪人"こそ救われるのです。善人ではなくて、"失敗者"こそ救われるのです。よいですか、成功者ではなくて、失敗者こそ救われるのです。イエスが、「金持ちが、金持ちの天国に入るは、駱駝(らくだ)が針の孔(あな)を通るよりもむずかしい」と言ったのは、このことです。そして、私が言った。「善人が救われるよりも、悪人のほうが救われる」とは、イエスが言ったことを別の言葉で表したものです。 成功者が救われるのは、駱駝が針の孔を通るよりもむずかしいのです。成功者であって、しかも、その成功が神の御意(みこころ)にあった成功であるならば、それは素晴らしいものです。神仏の意を体現して、この世に地上天国をつくって、そして、成功された方は、素晴らしいです。おそらくは、悪人たちよりも素晴らしい方でしょう。ですから、あの世へ行っても、偉くなられるでしょう。 しかし、神仏の御意に適った成功が少ないのであるならば、失敗者であることを恥じないで、堂々と胸を張りましょう。そして、そのぶんだけ、神仏をより多く信じましょう。神と人間では、比較にならないのです。相撲(すもう)する相手ではないのです。神は、人間よりも、はるかに偉大なる力を持っておられるのです。そのおおいなる力の前に謙虚に平伏(ひれふ)すことです。これが大事なことです。私の話で、わからないところがあれば、ご質問ください。 ―― 今まで聖人様が諄々(じゅんじゅん)とお説きくださったことは、あなた様のご法のなかで根幹となるもの、すなわち、「悪人正機説」についてであったと思います。しかも、"悪人"とは何か、また、"善人"とは何かということについて、往時の社会においての理解の仕方、あるいは、釈迦、イエス様の説かれた喩えなども加えての本義をしてくださいました。さらに、現代社会における認識、理解の仕方については、"失敗者"と"成功者"、"弱者"と"強者"の立場、"理"についてお諭(さと)しくださり、ありがとうございました。 "悪人"、今日的な悪人である"弱者"には、救いはないのかといえば、実は、反省という言葉のなかに、弱者にこそ神仏の救い、慈悲があるのだというお教えでございまして、私自身も、常に迷いと、悩みを持つ弱者の一人でもありますもので、わが身にもあてはめて、身につまされる思いでございました。そこで、私が、今一つ考えますのは、昔の衆生、今の大衆庶民が、この世の生を終えるまで、"悪人"、つまり、"弱者"であっていいものか、人間は常に"弱者"で"罪人"であるという意識を持ち続ける、これが、「神仏」の御本意にかなったものなのかということです。また、さきほどの例にもでました死刑囚が、死期が近づくにつれて教誨師(きょうかいし)より神仏の救いの、慈悲の話を聴いて悟り、死んで行くという場合に、この罪人は、はたして地獄に堕ちるのか、極楽浄土に迎えられるのか。これらのことが、まださだかにわかりかねていますが、これは如何なるものでしょうか。 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 親鸞 わかりました。お話ししましょう。私は最初に、「毒矢の喩え」をお話ししました。親鸞が教えは、毒矢に当たったら、まず、命をとりとめるために応急処置をしなさい、と。それからあとのむずかしいことは、専門家がおるでしょう。こういうことを、私は申し上げました。私の教えは、まさに応急処置であります。 私は善人や悪人ということを言いました。悪人は自ら悪人であるということを知っているからこそ、神仏に近い距離にあるのです。おわかりになりますか。生きているときに、自らの悪を見つめて、反省する機会があるからこそ、神仏に近いところにいるのです。善人は、自らの善に驕(おご)って、神仏を考えないからこそ、神仏から遠いところにあるのです。成功者というものは、ある意味では、唯物的なのです。"自力"というのはね、素晴らしいのですが、自力は、ある意味においては、神仏を否定することになっているのです。 しかし、神仏のお力によって自らが成功したと言っている経営者は、立派な方です。松下幸之助氏のように、「私が成功したのは、九〇パーセントまでが運でありました」と言っている方は、本当のことを知っている方です。自分自身の力で成功したのではない。神仏や、高級霊たちの力によって、今日の彼の成功はあった。それを彼は知っていて、自らの成功は、九〇パーセントが運であったと言っております。彼こそは、名経営者です。こういう人は、地獄へ行くわけはありません。 ところが、たいていの成功者は、そうは思わないのです。自らが成功したのは、自分が努力をしたからだ。言葉を換えて言うならば、自分が秀れていたから、成功したのだ。世の他の人びとが成功しなかったのは、要するに、努力がたりなかったか、秀れていなかったからだ。人間として劣っていたからなのだ。こう思うのであります。しかし、こういう人たちは、「天国」には遠いのであります。天国の心から遠いのです。自らを高しとするもの、自らをしてこの三次元において巨人だと思っている人は、あの世では一番小さな人となるのです。 11.マイナスの人間は零(ぜろ)になっただけで幸せだ 親鸞 ところが、世の失敗者たちは、自らの失敗というものをしっかりと考え、受け止めています。弱さを知っています。自分の弱さを、無力さを知っています。この点において、反省、要するに反省への"契機"があるということです。また、神仏を知る契機があるということです。この契機があるということにおいて、神仏に近いところにいるのです。世の失敗者たち、世に失敗を続ける人であるからこそ、神仏への道というのがあるのではないですか。 病気というものを、たとえば"悪"としましょう。そして、いつも健康でいる人を"善"としましょうか。健康でいる人は、自分が生かされているということがなかなかわからないのです。体が強いだけでね、体が強いということで、感謝を忘れています。当然だと思っています。体が健康なのは、当然だと思うからこそ、感謝の気持ちがありません。ご両親のおかげ、あるいは、あの世の人たちのおかげで健康なのです。それを忘れています。 ところが、病人というものは、そうではありません。病人というのは、健康の大切さというのをよく知っています。健康がどれだけありがたいか、それが幸せの基礎であるかということを知っています。それだけ、こういう人たちは魂の修行をしているのです。感謝をするチャンスがあるのです。ですから、健康になっただけで、こういう人たちは幸せなのです。いわば、マイナスからの出発です。 世にプラスの人間とマイナスの人間がいるかもしれません。プラスの人間は、自分を驕(おご)っているでしょう。けれども、マイナスの人間は思うでしょう。零になっただけで、幸せなんですよ、と。実際、マイナスの人間は、零になっただけでも幸せなのです。そして、そう感じている。 そこで、これで幸せを感じる人と、プラスをいくらかでも積まないと幸せを感じない人と、どちらが本当に幸せに近いかです。ですから、私が「毒矢の喩え」で言ったように、まず、命をとり止めることです。つまり、そういう止血(しけつ)という行為、これは一つの手当の最初であり、きっかけとなるからです。 12.悪人が救われな理由(わけ) 親鸞 あなたは、「悪人が本当に成仏しているか」とおっしゃいました。成仏している場合も、していない場合もあります。それは当然です。ただ悪人であるということにおいて、神仏の心を知る契機を持っています。そのきっかけを持っています。きっかけを持つとは、すなわち、神仏に近いということです。自分を驕(おご)っている善人よりは、そのきっかけがあるだけ、神仏に近い。 病気の人よりも、神仏を知る近道があるのです。だれもが、病気をして、神や仏のことを考えるのではありません。健康で、何もかもうまくいっているときには、何も考えないはずです。ところが、病を得て初めて、宗教というものを知ることができるのではないですか。医者に見放されて初めて、宗教というものを勉強し始めるのではないですか。 つまり、悪のなかに、神仏への近道、契機があるということです。ただ、この契機、きっかけを生かし得る人と、そうでない人がいるでしょう。ですから、結局、その後の人生、あるいは死後の人生は、そのきっかけを十分に生かし得たかどうかです。それによって、変わってきます。 "毒矢"が当たっても、止血することはできます。ただし、止血のままで放っておいたのではよくありません。手当が必要です。看護が大事です。あとのことが大事なのです。ですから、腕を縛っておくだけではいけないのです。さらに先のことが大事なのです。 すなわち、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」とは、正しく救われるきっかけであるということです。きっかけだということ、すなわち、きっかけを授(さずか)っているだけ悪人は、天国に近いのだということです。死後、あの世できっかけが与えられるよりも、生きているこの世において、きっかけが与えられている。この世に失敗することにおいて、初めて、神仏を知るチャンスがある。これは、"失敗礼讃"ではありません。"病気礼讃"ではありません。そういうことと間違っていただいては困ります。 ただ、矢敗者のなかには、神仏に目覚めるチャンスがあるということです。一部の優れた人たちを、私は否定はしません。神仏の御意(みこころ)に適(かな)って成功している人、自力で成功を収める人、そういう人たちもいることを、私は知っております。しかし、そういう方は、そういう方です。 泳ぎの達人は、救う必要がありません。私が言っているのは、溺れそうな人です。泳ぎの達人に、私は説いているのではないのです。ですから、現代の方がたに言うなら、失敗しているから救われるわけではありません、と。失敗しているから、救われる契機がそれだけ多く与えられているのです。病気をしているから、それだけ本当の心の世界で救われるチャンスが与えられているのです。つまり、健康な人以上に、それを忘れるなということです。むしろ、あなた方は、恵まれた方なのです。神仏の慈悲を受けるきっかけを持っている。ない人よりも、自分の力だけで、健康保険だけで生きている人よりは、神の保険にかかっている人のほうが素晴らしい。そういうことです。 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ ―― そこのところが、とかく現代人の間違いやすいところだと思います。この「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」については……。 親鸞 悪を犯せば救われるというわけではありません。 ―― それをですね、"罪人礼讃""受難礼讃"というふうに解釈し、そのように誤解されると、これは大変な間違いになるということですね。 親鸞 そうです。止血の方法を知っているからといって、毒矢をいくらでも受けていいわけではありません。そうでしょう。毒を消す薬があるからといって、毒薬をいくらでも飲む人は馬鹿です。そうではありませんか。よく効く注射があるからといって、病に自ら罹(かか)る人がいますか。よく効く風邪薬があるからといって、裸でですよ、酷寒の川のなかで坐っている人は馬鹿です。そうではありませんか。風邪薬があるから、風邪をひいても癒(なお)せる。よく効く薬があるから、裸で水のなかに入っても平気だ。こういう人は馬鹿です。風邪をひかないように注意をするのが当然です。 同じように、悪人でも救われるからといって、悪を犯そうという人は馬鹿であります。もっと悪を犯せば犯すほど、きっかけがあるのではないかと、それで悪を犯すような人は、これは間違っています。それは、たとえ溺れかけていても救ってくれるからといって、わざわざ溺れる危険性のある急流のなかに身を投げ込む人と同じです。どうせ救ってくださるのだから、死にそうなら死にそうなほど、一番に救ってくださるなら、一番救いにくそうなところで溺れてみよう、と。こんなことをする人は馬鹿です。そうではありませんか。そこを間違ってはいけないのです。そこを間違う者は愚かです。知恵がたりないのです。 ―― 親鸞様がおっしゃることが、よくわかりました。 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 親鸞 ですから、あなた方の時代において、他力信仰ということをどうとらえるかは、むずかしいです。現代では、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』を称(とな)えて救われるとは、だれも思わないでしょう。「阿弥陀仏」という方がどういう人かわからないでありましょう。しかしね、私は思うのです。今のあなた方は、昔にくらべて進歩をしているように思っているかもしれません。けれども、鎌倉の時代には、少なくとも、『南無阿弥陀仏』と称えられたらという素朴な宗教心を持った人びとがいたということです。 今の世の中で、神仏の力、神仏の加護(かご)というものを信じている人はどれだけいますか。世はもっと哀れな状態になっているのです。こうしたときに、本当の意味での神仏の加護を、神仏の力というものを知るきっかけとは何でしょう。 あなたは、すでに想像が働いてきたはずです。災害が起こり、天変地異が起こり、人知を越えた異常が起きたときになって初めて、人間は、「これは私たちの努力では、私たちの知識では、私たちの力では、どうにも救われない」と思い始めます。しかし、成功繁栄をしているときには、そうは考えないのです。 これからそういう時代がきます。今後十年、二十年のうちに、世界的な大混乱が起きてきます。さまざまな不幸や、災害が起きるでありましょう。不幸や災害は、それ自体としては、悪いことであります。ただそのなかで、人びとは神仏の力というものを信じることを始めるでありましょう。 現代の人びとは、ある意味において、「バベルの塔」を築こうとしているのです。人間が、自らの力を過信して、神に近づくとどうなるか。神が雲の上にいたとしたら、バベルの塔を築いて、もう神様と対等になった、と。「よし、神様と対等に話をしよう」と思っていると、一夜にして、雷が落ちて、バベルの塔は崩れていったのです。そして、人びとはお互いに異なった言葉を話し始めて、お互いの意志疎通(いしそつう)ができなくなっていったのです。これがバベルの塔の話であります。 これは旧約聖書にある話ですが、同じであります。現代においてもまた、人びとはバベルの塔を築こうとしています。現代のバベルの塔とは何か。すなわち、この世の中に不思議など何もないのだ、すべて科学で解明できるのだという思い、これが現代のバベルの塔なのです。 たとえば、子供というのは簡単だ、と。精子と卵子を試験管のなかで交配すれば子供ができるのだ。神秘でも何でもない。生まれてくる前に、男女の区別はすでにつく。産みわけもできる。神様を信じる時代ではなくなった。神様、男の子をください、女の子をくださいと祈る時代ではない。遺伝子の組替えでいろんな生物ができるようになったのだ、と。一方では、心霊現象などまったく否定して、そんなものはない、科学の領野の外にあるものは何もないのだと言う人もいるでしょう。四次元以上の世界といっても、そんなものはわからない。それは物理学だけが解明できるのだ。そう思っている人もいるでしょう。 こういう人びとは、日々にバベルの塔を築いているのです。魂の本質を知らず、霊を知らず、あの世のことも知らないで、自分らこそを最高だと思っておるのです。原始人たちは、素朴なシャーマニズムを信じる。だから、霊魂信仰があったと、これを嘲笑っておるのです。しかし、現代人たちは、ある意味において、南方未開の住民にも劣るのです。 これもまた、善人と悪人で話ができます。すなわち、現代人、文明人は善人、南方住民は悪人だ、と。そうとらえることもできるでしょう。南方住民たちは救われないと思っているのかもしれません。しかし、物質文明に恵まれている人だけが、救われるのでしょうか。幸せなのでしょうか。素朴なアフリカの原住民もおります。彼らは信仰を持っています。死後の世界があることを知っています。はっきりと知っているのです。つまり、現代のバベルの塔を築いている人は、それにも劣るのです。大学で五年、十年と学問をやって、教授とかいうものをやっている人が、霊魂も知らないのです。「あの世などあるはずがない」と言っている。インテリと称する人たちは、素朴な原住民にも敵(かな)わないような、そういうみじめな精神生活をしておるのです。 これもまた、親鸞が、"善人""悪人"であります。自らを善人だと思っている、あるいは、自らを知識人だと思っている人が、自分たちより無知だと見下し、同じ人間だと思えない、彼らが類人猿に近いと思っているような人よりも、真実は劣っているのです。素朴な彼らが天国へ行って、"大知識"だと自らを思っているような人が、地獄で苦しんでいるのです。 私は、日本を代表するような学者が、数多く地獄にいるのを知っています。彼らは、唯物思想に染まって、生きているときには、「霊なんてないのだ。神仏などあり得ない。科学が万能だ。技術こそが万能だ。すべては、人間の脳味噌で考えるのだ。脳細胞が考えるのだ」と、そんなことを信じていた。そして、そうしたことを、多くの人に教えてきました。科学者で唯物思想を一生懸命に学生に教え込んでいる人たち、こういう人たちは、ある意味において、かつての宗教家が邪宗を説いたのと同じなのです。すなわち、間違った説教において、人びとの魂を腐らしているのです。そういう意味において、間違った宗教家が地獄に堕ちているのと、間違った唯物思想を持って人びとを教導(きょうどう)している人たちが地獄に行くのとは、同じであります。行く先は同じく、無間(むけん)地獄であります。 霊的なものを知らない、神仏を知らないのは最大の罪なのだということがわかっていない。神仏を知らない人が、人を裁いている。最大の悪人が、ちっちゃな悪人を裁いているのです。「悪人正機説」は、ここにもまた、あるのです。未開だと思う人のほうが救われて、文明人だと思う人が救われていないのです。その素朴さを嘲笑う人たちこそが悟りに一番遠く、神仏に一番遠いのです。やがて、現代人がつくった"バベルの塔"は滅びていくでありましょう。現代文明の粋(すい)を集めたものが、崩壊していくでありましょう。 本書の読者の皆さんは、親鸞が今だに日本の仏教の枠のなかにあると思いきや。私は、現代のことを知っているのです。過日は、ソ連で、原子力発電所が事故を起こしました。これを偶然だと思っているのでしょうか。これもまた、"バベルの塔"が滅びていく前兆なのです。現代の科学の粋を集めている原子力発電の威信、これが一挙に崩れていきました。あるいは、アメリカで打ち上げた宇宙船が、一瞬ののちに、バラバラとなって天空で飛散してしまいました。これとて、前兆なのです。これから起きる大きな事件の前兆なのです。 人びとは、まずそれに気づかなくてはいけません。そうした大きな不幸が起きる前に、過去においても、さまざまな前兆があったのです。現代人たちは、その警鐘に気がつかねばなりません。自らが過信しているものが、どれだけ脆弱(ぜいじゃく)な基盤に立っておるのかということを知らねばならないときがきているのです。 かつて、バベルの塔のときに、異端の信仰がありました。これは唯物的な神でありました。このときの神は、"バールの神"という名の神でありました。邪神であります。このバールの神を人びとは信じました。バールの神を拝めば、何でもかんでも手に入る、と。こういう信仰が、昔、あったのです。唯物信仰です。形を換えた唯物信仰が、バールなのです。バールの神であったわけです。真実の神は、バールの神を雷でもって、退治をされました。現代もまた、バールの神がでているのです。唯物主義という、科学万能という名のバールの神です。 これが一つの信仰であることを、これが異端の信仰であることを、人びとは気がついていないのです。教科書に唯物論を採って、進化論を採って、霊魂などは、昔の人の笑い話だと書いておるような人は、やがて自分がどのような運命を辿(たど)るかということを、気づかねばならないと思います。現代でも、自分が優れた善人だと思っている人こそ、神に遠いということを忘れてはなりません。まだ何か質問があったら、続けてください。
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じょうどしんしゅう 自作 阿弥陀仏の他力本願を信じることによって成仏することを宗旨とする、親鸞が開祖した仏教の一派は何? (2016年8月28日 #短文 ≪習作≫① ) タグ:宗教 社会 雑学・その他 Quizwiki 索引 さ~と お東騒動 悪人正機説 耕三寺 肉食妻帯 親鸞
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ポッドキャスト(第0話~第50話)まとめ 配信回数 コメント 配信日 第0回 二次元妻帯者の夜とは何か? / これまでの“にじさい”の歴史振り返り/ 2015年年間3+1 2015年12月24日 第1回 本放送開始 / コミケに向けたよもやま話 / 三「眠りたくないためのシャブ」/ ファンによる松崎BL同人誌 2016年01月03日 第2回 松崎おもしろ荘出演 / 松「一番好きなのが二次元女子、次が二次元男子、次が三次元男子、一番嫌いなのが三次元女子」/ コミケ戦果報告 / どいちゅーおそ松さんコスプレ / 松崎BL同人誌無事ゲット / Bパート:今季アニメ期待作を語ろう! 2016年01月03日
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浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 076号~090号 001号~015号 016号~030号 031号~045号 046号~060号 061号~075号 076号~090号 091号~105号 106号~120号 121号~135号 136号~150号 151号~165号 166号~180号 181号~195号 196号~210号 211号~225号 226号~240号 241号~255号 256号~266号 号 数 1面 2面 3面 4面 第076号 S43/09/15 (1968) 一言説法 特集 こんなことがきヽたい 親鸞会 と 世間一般 他力信仰に対する 根本的相違点はどこか 青 年 の 自 殺 一度は死を覚悟 青年部110上隊 H 親鸞会の真実の教に甦つた私 淋しい孤独感からの解放 今こそ人生の目的を知る 野世芳水特集号の 気狂いじみた傲慢な 態度を遺憾に思う!! 何かにすがらずにおれない弱い人間像 親鸞聖人の御教に対する誤解 親 鸞 聖 人 の きびしさ はげしさ 破天荒の破邪顕正の数々 これが真の大慈悲 聖人の言動を正しく理解しよう 傘が命とり T・F (3コマ漫画) 随行録 H・Y T・A 法友通信 岐阜 H 今月の金言 編集雑記 (S・N) 第077号 S43/10/15 (1968) 一言説法 社説 「いたづらに過ぐる 月日は多けれど法を 求むる時ぞ少なき」 仏法の重さが知らされる まで苦労して求めよ こんなことがききたい 生死の一大事とは どういうことか 平生の一念にすべてが解決す 無理やり仏教を聞かされて 103上隊K(20)高岡市 ”人生の実相”にめざめる 人は何のために 仏敎を求めるのか 〔O氏の問に答う〕 仏法の究極は 後生の一大事の解決 今月の金言 邪教は亡びる 欲目 (1コマ漫画) 破邪 神式罷り通る 法友通信 滋賀 US生 随行録 H・Y 教学試験成績 石川 M 大喝 エセ坊主 聴聞心得一題 T・A 大導師合格者 社告 報 恩 講 案 内 コラム あわれなのは誰か? 導師合格者 編集雑記 (S・N) 第078号 S43/11/15 (1968) 一言説法 他 力 信 心 の す が た 助かったとは三忍を獲たことだ 【喜 忍】 【悟 忍】 【信 忍】 社説 阿弥陀如来の最も お喜びになることは何か 随行録 初 心 貫 徹 Y・T 真実の他力信心を得る とはどういうことか 〔問3〕 豊 橋 市 O 火にさわったよりも明らか 苦悩渦巻く人生が 光 明 輝 く 生 活 に 転 ず る 善知識はかく叫ぶ H・N コラム (三頁よりつづく) 命 を 懸 け て も 懸 け 過 ぎ る こ と の な い 教 高岡市一〇九上隊 T 法友通信 福井 M 今月の金言 親鸞会報恩講青年部演劇 滋賀会館 11月16日・17日 ・ 本部会館 11月23日・24日 続・中興 蓮如上人物語 ”腹ごもりの聖教” 問 親鸞会が破邪顕正を目的とする理由は何か、もっと建設的な目的をもてないものか 大喝 破邪 -英国の意地悪寄席の忠告- コラム バ カ な 奴 内 外 野 席 (S・N) 向 通 整 理 第079号 S43/12/15 (1968) 一言説法 社説 警 告 続 中興 蓮如上人物語 第十三回 親 鸞 会 優 勝 弁論大会 海がかれ石がたゞれようとも 一〇一上隊 Y 浄土真宗 親鸞会 第14回弁論大会 優 勝 青年部長 K 一老夫婦のあの覚悟 悲しきかな、これが現在の坊主の説教 T・K (1コマ漫画) 仏 法 聞 か ず し て は 無 意 義 な 人 生 小矢部市 T (25) 法友通信 高岡市 Y 今月の金言 岐阜、T 親鸞会第13回弁論大会成績 親鸞会大報恩講開かる 弁論大会 山崎春枝さん輝く三度目の優勝 滋賀 O 親鸞会第14回弁論大会成績 社告 第六回 かるた大会案内 大導師試験合格者 編集雑記 (S・N) 号 数 1面 2面 3面 号 数 4面 5面 6面 第080号 S44/01/15 (1968) 一言説法 社説 一味平等に 遊べる世界 昭和44年 謹賀新年 元旦 第080号 S44/01/15 (1968) 人 心 刷 新 本部長 F こんなことがききたい ひと事でなかったおじいちゃんの死 若き時仏法は求めるもの 富山県青年部 Y (26) 信心をとりて礼にせよ 蓮如上人の真面目 一年の計は千名達成 青年部長 F 破邪 全力主義へ邁進しよう 親 の 恩 第13回弁論大会敢闘賞 滋賀県 S 年頭所感 新 年 に 憶 う 岐阜副支部長 T 随行録 Y・T 今月の金言 H・N (一休) (1コマ漫画) 人 事 移 動 法友通信 富山 Y 第四回講師試験 新講師 に T、A両君合格 顕正位でH、K、Oさん合格 私は母親 子供に人生の目的を話そう 富山婦人部長 O 昭和44年度 本部会館法話日程 高山 H 大喝 教 学 試 験 成 績 東京 K 導師合格者 編集雑記 (S・N) 第081号 S44/02/15 (1968) 一言説法 社説 離婚ブーム こんなことが ききたい 親鸞聖人はきびしい方 世間一般の考えは間違っているのか 母に捨てられた私 以来、求道心燃えたぎる 金 沢 市 K (28) 非僧非俗の宣言 オレは坊主じゃない 高 森 顕 徹 ”本朝高僧伝”に見えぬ 親鸞聖人の御名 生 き た 人 に 生 き た 仏 法 叫 ぶ の み 第六回かるた大会 浅井上隊が団体、個人戦とも制す 青年部 まず一千名顕正達成 青年部「整列式」の決意 法友通信 滋賀 T 城端 T 中津川 T 福井 K 高岡 T 今月の金言 コラム サカサマ三題 (1コマ漫画) 金沢 K 破邪 落 城 大喝 自分の魂の責任は自分でもて 随行録 K 米原 Y I 編集雑記 (S・N) 第082号 S44/03/15 (1968) 一言説法 社説 ある落城とわれらの課題 こんなことがききたい 宗教は毒酒でなかった 小矢部市 K(23) 仏教=共産主義をはるかに 越 え た 絶 対 の 教 わ が 祖 師 親 鸞 聖 人 の 流 刑 の 真 の 原 因 は 何 か 肉食妻帯だけなら他にも 真の理由 一向専念無量寿仏の強調 幸福のハカリ (1コマ漫画) 真剣な聴聞 からだにかけず 心 に か け よ 教 学 試 験 成 績 導師合格者 社 告 親 睦 旅 行 案 内 今月の金言 大導師合格者 法友通信 金沢 N 破邪 真の筋金入り コラム 随行録 自己に真面目で ありたい I 高岡 I 大喝 編集雑記 (S・N) 第083号 S44/04/15 (1968) 一言説法 社説 他力の信心―― 現世利益の一端 現代医学は語る この世の利益きわもなし 他力の信心の妙有 こんなことがききたい 読経は死人の為になるのか お経は生きた人間に説かれたもの 今は親不孝しても 岐阜 I (21) ”絶対の幸福”こそ 人生究極の目的 親鸞聖人と柴田勝家 ま こ と の き び し さ 私 情 の お そ ろ し さ 真実の為には吾子をも勘当 ――親 鸞 聖 人 盲愛がもたらした落し穴 ――柴 田 勝 家 我ら如何に聖人の洪恩に報ずべきや 尊 き 親 鸞 会 青 年 部 の 皆 様 へ (2コマ漫画) ついに放たる真実の巨弾!! この一冊が あなたの道をひらく 法友通信 富山 Y 今月の金言 福井 M 破邪 ねこもしやくしも 歎異抄というが コラム 何処へ行ったら真実から 逃げられましようか (K・T) こんなことがききたい 三頁よりつづく 第二回討論大会成績 大喝 イノチには キリがある 人事移動お知らせ 編集雑記 (S・N) 第084号 S44/05/15 (1968) 一言説法 社説 物質文明 花ざかりなれど 開けて、びっくり玉手箱 こんなことがききたい 「天上天下、唯我独尊」とは 遂に遇えた真の善知識 岐阜支部 S(28) ”人生の目的”と 僧侶として成すべき道を 今 こ こ に 知 る 浦島太郎の話と真実の仏法 善人、浦島太郎の肩にはつり竿が…… オトギ話そのままが 人 生 の 実 相 神社はからっぽ T・F (2コマ漫画) 親睦旅行 山代温泉、東尋坊に遊ぶ 今月の金言 コラム ○看板の裏に本心 随行録 S 法友通信 豊橋 F 破邪 慢・過慢・慢過慢……etc ○釈迦往来八千遍 K 愛知 Y ○忙 し く と も 教 学 試 験 成 績 岐阜 T (東条英機の辞世3首) 大喝 編集雑記 (S・N) 第085号 S44/06/15 (1968) 一言説法 社説 ――どこまで堕ちる三ズ天国 いつまで続く天国―― 天 国 二 題 こんなことがききたい まず心の臨終を 父の死を無にしない為に 富山青年部 K(21) 無常とはかくもきびし くはかないものか 家族四人が真実一路驀進 斗うわが祖師親鸞聖人 死後の救いか 現在救われるのか 体失不体失往 生の諍論に聞く 大胆不敵、一点の妥協も許されず 随行録 K 信 ず る と い う こ と 知 る と い う こ と S 本部会館 降 誕 会 の 案 内 (3コマ漫画) 教 学 試 験 成 績 今月の金言 コラム (T・F) お 知 ら せ 法友通信 長浜市 N 破邪 「ホンモノ」 ダ ラ 三 題 (S・N) 大導師試験合格者 高山市 H 大喝 導 師 合 格 者 編集雑記 (S・N) 第086号 S44/07/15 (1968) 一言説法 社説 正 し き 宗 教 と は こんなことがききたい 三大諍論について問う 信心同異の諍論 本部会館降誕会盛大に行わる 智慧と慈悲の権化、親鸞聖人に 熱と意気をもってこたえる 浄土真宗 親鸞会第十五回弁論大会 優勝 福井青年部 N 上 隊 N 天 下 無 敵 滋賀会館 降 誕 会 の 案 内 配所の聖人 弁円物語 あゝわが祖師親鸞聖人 教 学 試 験 成 績 あなたの知りたい問題にズバリ答えた快著 増 刷 出 来 !! 好 評 発 売 中 親鸞会第十五回弁論大会成績 導師合格者 今月の金言 編集雑記 (S・N) 第087号 S44/08/15 (1968) 一言説法 めざすは”信心決定”ただ一つ 滋賀会館降誕会の記録 こんなことがききたい 三大諍論 信行両座の諍論とは 親鸞会第十六回弁論大会 敢斗賞 顕 正 に い ど む 滋賀青年部 A上隊 A 私はなぜ 専任講師になるのか 仏法嫌いだった私 暗い心に一条の光 滋賀青年部 A (昭和四十二年四月~六月随行) 社説 腹立て筋、欲深筋、愚痴筋、 老人筋、死筋をどうする わ れ わ れ の 血 統 今月の金言 親鸞会第十六回弁論大会成績 科学は進歩したけれど・・・ (1コマ漫画) 教 学 試 験 成 績 法友通信 城端町 N 大喝 コラム 全智全能の神? 導師合格者 編集雑記 (S・N) 第088号 S44/09/15 (1968) 一言説法 社説 ==人生の停年を何とする== 奥さま今日は 「停 年 と 夢」 こんなことがききたい なぜ大経だけが真実の御経なのか 随 行 文 千載に一隅のチャンスを与えられて 福井青年部 D(27) 今 度 だ け は 仏法のために死なせてくれ モーレツ、求法太子の求道 我々の全生命を か け る も の 教学試験成績 科学は 進歩したけれど・・・・ (1コマ漫画) 導師合格者 大導師合格者 法友通信 東京都 I 文 明 の 利 器 = 走 る 凶 器 交 通 地 獄 恐 る べ し コラム クソがお好き? 石川 N 死 ん だ ら お 助 け で ど う し て 喜 べ る か! (3コマ漫画) 元気なオラさえ お参りするに 滋賀 S 誘 拐 三 話 今月の金言 大喝 本部会館日程 編集雑記 (S・N) 第089号 S44/10/15 (1968) 一言説法 社説 他力の大信心は母乳の味 平 等 一 味 の 世 界 こんなことがききたい 聞即信とはどういうことか 今生は後生の一大事の解決に一命を捧ぐ 滋賀青年部 Y(22) 二転、三転 畢竟は仏教以外に生きるすべなく 噴火山上に安住を求めるか 愚 か 者 汝 の 名 は 人 間 な り 活 眼 を 開 け 今のままでは総てが崩壊 大 菩 薩 行 青 年 部 の 諸 君 へ 福井青年部 T 猛烈聴聞? T.F (1コマ漫画) 今月の金言 教学試験成績表 仏教史を飾る輝かしき一頁 遂に成就!青年部一千名の悲願 是非開こう青年部全国大会! コラム 無 駄 ご と 随行録 素 晴 ら し い 人 D 法友通信 和倉、Y 大喝 事 実 を 知 る 事 と 幸 福 O 福井 D Y 編集雑記 (S・N) 第090号 S44/11/15 (1968) 一言説法 青年部一千名達成記念 ”黒 四”遊 行 記 こんなことがききたい 「雑行雑修自力の心」とは この心が曠劫流転 迷 い の 親 玉 随行文 失望と無気力 大学が私に与えたもの 愛知青年部 中 根 繁(22) 人生の根本問題と断絶した大学 ここに私の苦悩がはじまる 会長先生のあの情熱 あの実践力にひかれて 躍進する親鸞会 真実の使命を担って、大行事続々登場 滋賀会館 本部会館 大報恩講迫る! 親鸞会青年部 全国大会プログラム 社説 百獣の王、 ライオンの教訓 叱る者の座 父の座、母の座 叱る者の座、 放棄すること勿れ ―教育を忘れた先生― 東.西本願寺の現状 T・F (1コマ漫画) 今月の金言 青年部が一致団結、浄土真宗再建の礎を築くか!! 第一回 青年部全国大会 十二月七日(日) 滋 賀 会 館 近江の空にこだまそう 青年部諸君よ!!全員来れ 我ら 佐藤上隊 かくて顕正戦を 戦 い 抜 く!! 法友通信 福井 S 随行録 中根 繁 編集雑記 (S・N) 号 数 1面 2面 3面 4面 061号~075号へもどる 076号~090号 091号~105号へすすむ