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艦名 最低レアリティ 特筆事項 高雄 ★★★★ 高雄(レイテ沖海戦) ★★★★★ 高雄(蘭印作戦) ★★★★★ 愛宕 ★★★★★ 愛宕-援護型 ★★★★★ ショップにて入手可能 鳥海 ★★★★★ 鳥海(蘭印作戦) ★★★★★ 摩耶 ★★★★★
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南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。 11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。 作戦計画 南方作戦全体の総称は「あ号作戦」と名づけられた。各方面における具体的作戦であるフィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭印作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と命名された。連動して実施される海軍による真珠湾攻撃は「Z作戦」と命名された。 南方作戦の目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であった。このために開戦初頭まずアメリカ領フィリピンとイギリス領マレーを急襲して足場を築き、迅速に蘭印を攻略し、資源を確保するとともにスンダ列島に防衛線を形成するという構想であった。 作戦計画としては、フィリピンとマレーの両方面に対し同時に作戦を始め、次にボルネオ、セレベス、南部スマトラの要地を逐次攻略し、東西両方向から最終目標であるジャワ島を攻略するとされた。別に、開戦後速やかに香港、イギリス領ボルネオ、グアム、ビスマルク諸島、モルッカ諸島、チモール島を攻略し、また開戦初期タイに進駐し、状況が許せばイギリス領ビルマでの作戦を実施するとされた。これらと連動して、開戦初頭、第1航空艦隊基幹の機動部隊をもってハワイオアフ島の真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊主力を奇襲して戦力を減殺し、一部をもってウェーク島を攻略するとされた。 開戦予定日の12月8日はマレー半島での上陸作戦が可能な気象条件からぎりぎりの期限として定められたものであった。大本営ではジャワ島攻略終了までに要する日数を120日間と予想していたようである『戦史叢書 蘭印攻略作戦』, pp101-102。南方作戦に使用される陸軍の兵力は11個師団36万余にのぼった。海軍は南方作戦と真珠湾攻撃とにその総力をあげてあたることになった。 参加兵力 陸軍 南方軍(総司令官:寺内寿一大将、総参謀長:塚田攻中将) フィリピン方面 第14軍(司令官:本間雅晴中将、参謀長:前田正実中将) - 第16師団、第48師団、戦車連隊2 マレー方面 第25軍(司令官:山下奉文中将、参謀長:鈴木宗作中将) - 近衛師団、第5師団、第18師団、戦車団1(戦車連隊4)、(第56師団 ※作戦には投入されずビルマ方面へ転進) 蘭印方面 第16軍(司令官:今村均中将、参謀長:岡崎清三郎少将) - 第2師団、混成第56歩兵団、戦車連隊3、(第38師団、第48師団 ※開戦時には未配備) タイ・ビルマ方面 第15軍(司令官:飯田祥二郎中将、参謀長:諫山春樹少将) - 第33師団、第55師団(南海支隊欠) グアム方面 南海支隊(混成第55歩兵団、支隊長:堀井富太郎少将) ボルネオ方面 川口支隊(第18師団の一部、支隊長:川口清健少将) 南方軍直属 仏印方面 - 第21師団(師団長:田中久一中将)、独立混成第21旅団 第1挺身団、第3飛行集団、第5飛行集団、第21独立飛行隊 支那派遣軍 第23軍の一部 - 第38師団(香港作戦を担当)、第4師団(上海にあり大本営の直轄) 海軍 連合艦隊は真珠湾攻撃に第1航空艦隊と第6艦隊を使用、南洋方面に第4艦隊、本土東方に第5艦隊、内海に第1艦隊を配置し、その他の大部分をあげて南方部隊を編成した。南方部隊指揮官には第2艦隊司令長官の近藤信竹中将が着任した。 南方部隊(指揮官:近藤信竹中将、参謀長:白石萬隆少将) 南方部隊本隊 - 第2艦隊(戦艦金剛、戦艦榛名基幹) 南シナ海、次いでパラオ方面で作戦全般を支援する。 馬来部隊 - 南遣艦隊(司令長官:小沢治三郎中将、参謀長:澤田虎夫少将) マレー、蘭領ボルネオ、スマトラ方面の作戦を支援する。 比島(蘭印)部隊 - 第3艦隊の大部分(司令長官:高橋伊望中将、参謀長:中村俊久少将) フィリピン作戦を支援する。フィリピン攻略後、蘭印部隊となり作戦を支援する。 航空部隊 - 第11航空艦隊(司令長官:塚原二四三中将、参謀長:大西瀧治郎少将) 基地航空部隊。比島での航空撃滅戦の後、東方から蘭印作戦を支援する。 潜水部隊 - 第5潜水戦隊(司令官:醍醐忠重少将) 南方軍以外の陸軍兵力の状況 太平洋戦争の開戦時、南方軍以外の陸軍兵力の配備状況は以下の通りであった。兵力の大半は満州と中国大陸とに貼り付けとなっており、南方作戦に参加した兵力は総兵力の2割程度であった。 内地 第1飛行集団 東部軍 - 留守近衛師団、留守第2師団、留守第51師団、第52師団 中部軍 - 留守第3師団、留守第4師団、第53師団、第54師団 西部軍 - 留守第5師団、留守第6師団、留守第55師団、留守第56師団 北部軍 - 第7師団、留守第57師団 朝鮮軍 - 第19師団、第20師団 台湾軍 - 留守第48師団 関東軍 - 第10師団、第14師団、第28師団、第29師団、第2飛行集団 第3軍 - 第9師団、第12師団 第4軍 - 第1師団、第57師団 第5軍 - 第11師団、第24師団 第6軍 - 第23師団 第20軍 - 第8師団、第25師団 支那派遣軍 - 第27師団、第一飛行団 北支那方面軍 第1軍 - 第36師団、第37師団、第41師団 第12軍 - 第32師団 駐蒙軍 - 第26師団、第35師団、第110師団、騎兵集団 第11軍 - 第3師団、第6師団、第13師団、第34師団、第39師団、第40師団 第13軍 - 第15師団、第17師団、第22師団、第116師団 第23軍 - 第38師団、第51師団、第104師団 経過 真珠湾攻撃 Template main? 1941年11月26日早朝、南雲忠一中将指揮下の日本海軍第1航空艦隊は択捉島ヒトカップ湾よりハワイへ向けて出撃した。日本時間12月8日午前1時30分、第一波空中攻撃隊が発進し、午前3時25分にフォード島へ、次いで真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力へ奇襲攻撃を開始した。日本軍の作戦は成功し、アメリカ軍は戦艦8隻が撃沈または損傷を受けるという大損害を受け、太平洋艦隊は一時的な戦力低下に追い込まれた。 マレー作戦 Template main? 日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、マレー沖海戦で日本軍は航空攻撃により両戦艦を撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。 シンガポールの戦い Template main? 第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。 フィリピンの戦い Template main? 12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし米比軍(アメリカ軍・フィリピン軍)のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。 香港の戦い Template main? 12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。 グアムの戦い Template main? アメリカ領グアム島へは12月10日未明に南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。 ラバウルの戦い 南海支隊は次いで1942年1月23日にオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルは、トラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。 アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦)。 ウェーク島の戦い Template main? アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。 蘭印作戦 Template main? 開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1ヶ月繰り上げた。1942年1月11日、第16軍坂口支隊はボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベス島メナドに降下し蘭印(オランダ領東インド)作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。 ビルマの戦い Template main? 第15軍は12月8日以降タイ国内に順次進駐し、タイ・ビルマ国境に集結した。1942年1月18日、第15軍は第33師団と第55師団をもって国境を越えイギリス領ビルマへ進攻し、3月8日にラングーンへ入城した。さらに第18師団と第56師団の増援を加えて4月上旬から北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させて5月下旬までにビルマ全土を制圧した。 セイロン沖海戦 Template main? マレー沖海戦で主力艦艇を失ったイギリス東洋艦隊はセイロン島へ退避していた。日本海軍空母機動部隊は1942年4月にベンガル湾へ進出し、コロンボ基地とトリンコマリー軍港を空襲した。イギリス東洋艦隊は反撃を試みたが空母1隻、重巡洋艦2隻他を失った。 結果 南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は南方の油田地帯を手に入れたことで当初の作戦目標を完全に達成した。16万人以上の捕虜を獲得し、日本軍の戦死者は1万人に満たなかった。この太平洋戦争緒戦の南方作戦は日本軍の快進撃のうちに終わった。 だがアメリカもイギリスも植民地を攻略されはしたものの、アメリカは真珠湾攻撃のすぐ後に反攻作戦を開始した。1930年代からアメリカは近いうちに日本と太平洋で戦争が起こることを予測し、その為の準備を整えていたのである。『Dirty Little Secrets of World War II』James F. Dunnigan著 1942年初頭には日本軍はビルマからソロモン諸島まで東西7,000キロ、南北5,000キロという広大な戦域に手を広げることになった。(ソロモン諸島の戦い)。激戦の中の42年6月にミッドウェー海戦において空母機動部隊が壊滅し、やがてガダルカナル、ニューギニア、インパールなど各地で兵力不足と補給不足のまま長期戦に引きずり込まれ、国力を消耗してゆくことになる。 参考文献 服部卓四郎(著), 『大東亜戦争全史』, 1953年 防衛庁防衛研修所戦史室(編), 『戦史叢書 マレー進攻作戦』, 1966年, 『比島攻略作戦』, 1966年, 『蘭印攻略作戦』, 1967年, 『ハワイ作戦』, 1967年, 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』, 1969年, 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』, 1969年 関連項目 太平洋戦争の年表 南方占領地と南方軍政 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月7日 (水) 16 07。
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928 :SARU ◆CXfJNqat7g:2016/02/04(木) 06 32 24 この支援SSは基本的にスタンドアローンであり、公式がこうなるとは限りませんしこうならないとも限りません 全てはearth様の胸先三寸という事でよろ アメリカ瓦解に伴う諸々の結果、サンタモニカ体制という世界新秩序()に於ける最大の列強として環太平洋諸国 家・地域にコミットせざるを得なくなった大日本帝國──というか夢幻会。その数多在る分科会の中でもより実 践的な部門を担当する某集団では蘭印、つまり史実ではインドネシア共和国となったオランダ領東インドの再編 案を討議していた。 議長が蘭印全図の西端にある大島の北部を示した。 「アチェーは分離。但し、マラヤとの合邦については別途討議する」 「まあ無理かな。あちら側には華僑も多いし」 「「「異議無ーし」」」 次いで地図の中部に連なる列島の南東にややずれた島を指した。 「旧ポルトガル分科会から葡領ティモールをマカオとのハブに残すという提案があったが……どうする?」 「それこそ無理だろ。統治がわやくちゃだったから」 「主邑のディリ周辺だけ自治都市にしてキリスト教徒はそこに集めよう」 「ダンツィヒみたいな? 残りはインドネシア併合という事で」 「「「異議無ーし」」」 「ではこの件に対する逆提案を向こうへ伝えます」 指示棒の先が列島を挟んで北側に位置する二つの大島、その大きい方へ移る。 「ボルネオ──あーカリマンタン島については従来の境界をそのまま国境とする」 「ブルック王国とブルネイのスルタンは向こうの担当に任せるとして」 「サバだな。パラワンやパネー、ミンダナオ西部でスールー王国再建とか寝言ぬかす奴がおるが、変な対立軸作られても困るんだよ」 「それでフィリピン解体して米帝残滓を払拭するとか本末転倒だろJK」 「サバの件は保留という事で」 「「「異議無ーし」」」 「で、最後に」 菱餅を転がし真ん中で左右に分割線を入れた様な形の最東端の大島をトントンと叩く。 「蘭印でも別扱いだから同じ民族でシンメトリカル合身して終了じゃね?」 「イリアンは蘭語圏でパプアは英語圏だ。揉めるぞ」 「提案、ギアナやアンチルの再建に移民を募って蘭語人口を減らす。どうせロクに教育もしていないんだし、残った原住民を一体化すれば軟着陸可能だ」 「濠洲の抑えとしてもう一カ国欲しいからな。各方面とこの線で調整しよう」 「「「異議無ーし」」」 「では解散」 「「「お疲れ様でしたー」」」 激動の世界で日本の生存と安泰を目指す夢幻会の奮闘努力は続く…… 終
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各国概略史(番外の2)・オランダ 歴史的背景としては、天保年間に蘭・仏・英と通商条約が締結されて、 さまざまな形で日本人の海外への進出が始まりました。蘭印はちょうど ジャワ戦争がおわったばかりで、その後もアチェ戦争などオランダによる 征服戦争が続き、過酷な植民地政策がとられていくのを目の当たりに していたわけです。中国のアヘン戦争、フランスの仏印侵略なども 同じように進行形で目にした日本は、欧州列強の脅威を実感して、天保の改革で 「富国強兵」を国是としたわけです。 植民地化された諸国は、宗主国に資源を供給し、同時に商品市場ともなった わけですが、19世紀の半ばから貿易の構造がしだいに変化して行きました。 近代化を急ぐ日本は欧州から工作機械や製造技術など工業基盤の確立に必要な 物資を大量に輸入するようになりました。欧州各国は相対的に利益の高い対日 輸出に移行し、それにかわって日本は亜細亜各国に生活物資を中心とする軽工業 製品を輸出するようになります。その結果、各植民地において、日本は宗主国に 次ぐ貿易相手国となり、存在感を高めて行きました。 昭和15年4月、ドイツが低地諸国やフランスに侵攻した際、第一次大戦で英国に ウィルヘルミナ女王が亡命した前例を警戒したドイツ軍は、オランダやベルギーの 王室関係者の身柄を迅速に確保しました。これによりオランダは正統政権が降伏。 6月の戦後処理で、フランスは休戦協定により縮小しながらも一応独立国の座を 維持してたので、仏印進駐は「今は手が回らないから日本に預けるけど、戦後は 返してくれるよね?」という仏の意思がある程度あったのに比べ、蘭印は 「対英米戦上、フィリピンやシンガポールに対峙する日本の拠点がなくちゃ」と いやおうなしに日本の支配下におかれることになりました。このときオランダ旧 政府に対して「まあ悪いようにはしないから」とささやきつつスカルノらに接触 した日本の外交は見事というほかありません。オランダ人の支配層は短期間に 公職や民間資本トップから追放され、日本人による暫定統治が始まりました。 もちろん英米は猛反発しましたが「関係各国が了解してるのに文句あるか、 だいたい在満米軍の暴虐を何とかするのが先決だろう」と日本側は主張。 英米両国は昭和の始めには日本の貿易の45%を占めていましたが、満州の 経済成長や汪兆銘政権との関係強化に伴い、この頃には30%程度にまで比率が 低下していました。このため昭和16年半ばに英米が対日禁輸、資産凍結などを 打ち出したのも、日本にとって予想の範囲であり対応可能な範囲であると認識 されていました。 対英米戦が始まる頃には、人的資源供給のため現地人の教育や軍事訓練が進め られ、他の亜細亜諸国と同様に義勇軍を構成することになりました。これは当初 日本人が占めていた公職への現地人登用と並行して進められたため、義勇軍の 士気は大変高いものでした。戦後の日独冷戦まで見越していたのかどうかは明らか ではありませんが、これらの経緯から、仏印も蘭印も宗主国に返還することなく、 日本の強い影響下で独立を果たすことになったわけです。
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沢木耕太郎『深夜特急』 辺見庸『もの食う人びと』 星野道夫アラスカ『風のような物語』 前川健一『いくたびかアジアの街を通り過ぎ』 金子光晴『マレー蘭印紀行』 素樹文生『上海の西、デリーの東』 チェ・ゲバラ『モーターサイクル・ダイアリーズ』
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インドネシア ハラ・ナ・ゴダン(Hala Na Godang) インドネシアの伝説に登場する巨竜。 参考文献 海部宣男/柹田紀子/川本光子『アジアの星物語 東アジア・太平洋地域の星と宇宙の神話・伝説』207頁 出雲晶子『【増補新版】星の文化史事典』138頁 木下仙/下谷徳之助『蘭印のお話』93頁
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各国概略史その4・インドネシア連邦 大東亜戦争中、日本が占領した蘭印を独立させた。 このとき民族自決の精神に基づき、多数の独立国をゆるやかにまとめる形式を取ったのが成功し、 民意は極めて安定、日本の有力な同盟国に成長する。 ただし所属各国間に対立がないわけではなく、特に宗教上の問題は軽視できない程度には深刻である。 またこの対立につけこむ形で欧州連合の介入もあり(特にかつての宗主国オランダの影響力は無視できない)、 親日という立場は同じであるものの、その度合いにはかなりの差がある。
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ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。ABCDの部分は制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain)、オランダ (Dutch)と、対戦国であった中華民国 (China)の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣とも呼ばれる。 またこれに関しては、中華民国を外しオーストラリア(Australia)を加えたABDA包囲網Template 要出典?としているものもある。 経過 1941年、第二次世界大戦中の西太平洋地域における戦争、太平洋戦争と呼ばれる戦争の開戦以前、日本は1937年から中華民国と日中戦争を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件等の日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に関心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。そして近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明にアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカはくず鉄、航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主にオクタン価の高いガソリン)やくず鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫は地下資源に乏しい日本を追い詰めた。 1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への侵出など日本の拡大政策を牽制するために、アメリカはくず鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った。 1941年7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁のため、アメリカは対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。 1941年9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月から妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカなどと交渉を続けたが、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、満州を含む中国大陸からの日本軍の全面撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。日本政府はこれにより、交渉の継続を断念し、対米開戦を決意した。 包囲網の実際 この包囲網は、「欧米各国の日本に対する経済封鎖」といった認識が広まっているが、包囲網とはあくまで日本側からの呼び名であり、連合国側にはそのような意識は無かったとされ、これらの国が何らかの条約を結んだ記録も公表されていない。例えばオランダは、インドシナ進駐後に行われた日本との交渉でも、日本側の要求を受け入れる用意があり、それとは別に石油購入の契約も成立している。つまり、ABCD包囲網は実態としては存在せず、日本の被害妄想と言うこともできる。 また、この言葉自体、マスコミから派生した語呂合わせ的な俗語であり、必ずしも当時置かれた日本の状況を的確に表現しているとは言えないため、この言葉を公の場で使うことを半ばタブー視する声もある。 関連項目 真珠湾攻撃 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2006年9月16日 (土) 21 08。
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インドネシア クラクラ(Kura-Kura) インドネシア語で亀のこと。 インドネシアの民話『猿亀合戦』に登場する亀。 参考文献 百瀬侑子『インドネシア民話の世界 民話をとおして知るインドネシア』217頁 百瀬侑子/渡辺政憲『インドネシア民話の旅 小学生からおとなまで』93頁 小出正吾『クスモの花 東印度童話集』127頁 朝里樹/えいとえふ『世界怪異伝説事典』17頁 稲田浩二『世界昔話ハンドブック』72頁 稲田浩二『日本の昔話〈下〉』48頁 原真由子『ニューエクスプレス インドネシア語単語集』75, 194頁 東京日日新聞社社会部『南の伝説』61頁 木下仙/下谷徳之助『蘭印のお話』98頁
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インドネシア マレーシア サン・カンチル(Sang Kancil) インドネシアやマレーシアの民話に登場する豆鹿。 参考文献 朝倉純孝/大山聡/平方久直『インド・南方アジアの民話』11, 16, 20, 27, 34, 39, 42, 49, 52, 58, 63, 66, 70頁 松井由紀子/安井寿磨子『インドネシアの昔話 まめじかカンチルの冒険』2, 14, 22, 28頁 百瀬侑子『インドネシア民話の世界 民話をとおして知るインドネシア』27, 259頁 百瀬侑子/渡辺政憲『インドネシア民話の旅 小学生からおとなまで』52頁 小出正吾『クスモの花 東印度童話集』155, 161頁 内田莉莎子/君島久子/山内清子/鈴木裕子『こども世界の民話(上)』60頁 矢崎源九郎『子どもに聞かせる世界の民話』276頁 篠田知和基『世界動物神話』99, 203, 233頁 渡辺三郎『南方童話の旅』65頁 宮武正道『南洋の言語と文学』125, 183頁 木下仙/下谷徳之助『蘭印のお話』107頁